しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国50州 > ジョージア州

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●ホテルに到着したのは午後10時半●
 食事をとって車に戻った。
 ホテルはまだ先であった。
 アメリカの夜のインターステイツなんて周りは真っ暗で,走れるものではない。私は以前,ノースダコタ州で野外ミュージカルを見てから深夜のインターステイツ94をホテルに帰るために30分ほど走ったことがあるが,光のひとつも見えずたいへんだったことを思い出した。
 このときもまったく同じ状況であった。
 カーナビがあるからいいようなものの,頼りになるのは道路に引かれたライトで光るイエローラインだけであった。今回もまた生きた心地のないなかをさらに30分以上も走ることになった。
 どうにか午後10時半ごろホテルに到着したが,ロビーにはチェックインをする家族づれの先客がいて,かなり待たされた。ともかく,午後11時過ぎ,やっとのことでホテルの部屋にはいることができたのだった。

 ・・
☆5日目 7月31日(日)
 このサバンナのホテルは,とても過ごしやすいところであった。
 帰国したあと,私がとても残念に思うのは,前回も書いたように,この旅を計画したときの目的が,本来はサウスカロライナ州とノースカロライナ州を旅することだったのに,それがどこかにいってしまって,結局,フロリダ州と,この後で行くことになるワシントンDCやフィラデルフィア,さらに,アーミッシュの住むランカスターに行きたい,という思いのほうがずっと強くなってしまったことだった。

 以前,ノースダコタ州に行ったときは,ノースダコタ州のような,ほとんどの日本人には全く興味のない場所に私はものすごく思い入れがあったので,そこへ行くことが最大の目的であった。
 サウスカロライナ州やノースカロライナ州はそれに比べたら,より多くの日本人が興味を持つ場所だろうに,そして,じっくり観光すればおもしろいところもたくさんあるだろうに,それをほとんど無視してしまった。
 そんなわけで,このサバンナという町だけでも結構見どころがあったのに,ホテルで朝食をすますと,私はさっさとチェックアウトを済ませて,旅立ってしまったのだった。 

 今,地図を見直してみると,サウスカロライナ州,ノースカロライナ州に出かけるのならば,ジョージア州とアラバマ州を加えてた「渋い」旅をするべきだったのである。もう10歳若かったら,私は,そうした旅をしていたかもしれない。
 しかし,私は,マイアミのあるフロリダ州やフィラデルフィアのあるペンシルベニア州に行く機会など,今回の旅を逃したら,再び訪れるかどうかと考えて,「イチロー=マイアミ」と「ロッキー=フィラデルフィア」の方を優先したのだった。
 そういう意味でも,人生はかくも短く,しかも,やりたいことだけは多いのである。

 私はありがたいことに,さっさと50歳を過ぎたあたりで「世を捨てて」しまったから,その後,十分に世界を見たり歩きまわったりする機会に恵まれているが,私の同級生たちは,今年,世にいう「還暦」を迎えて,「定年退職」をする年齢になったのにもかかわらず,定年のほうが逃げていってしまってあと5年ほどは働かされるらしい。しかし,それでは,何もせず人生を終えてしまうことになるのであろう。
 まことにお気の毒な話である。

 さて,私は,サバンナを出発して,再びインターステイツ95に乗った。こうして,あっという間にジョージア州から抜けだしてしまったのである。
 「ジョージア州」といえば,「アトランタ」である。「アトランタ」といえば,MLBの「アトランタ・ブレーブス」である。そのブレーブスは,来年のシーズンから新しいボールパークに移転する。つまり,私がこの地に来たのは1年ほど早すぎたのであった。だから,もし,もう1年遅くこの旅をしていたら,私は,ここでアトランタに寄り道をして,ブレーブスのゲームを観戦していたに違いがないのである。

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●やっと渋滞から抜け出した。●
 私はこの旅でフロリダ州から出発してジョージア州を簡単に通過して,サウスカロライナ州からノースカロライナ州を一気に駆け抜けるつもりであった。いや,もともとはサウスカロライナ州とノースカロライナ州へ行くのが目的であった。
 しかし,旅行の計画を進めていくうちに,これまでずっと行きたかったけれど行く機会のなかったフィラデルフィアやボルチモアにもこの機会に行っておきたくなった。また別の機会にでも,とも思ったが,遠い東海岸へ行く気力が失せてきて,次の機会がいつになるか,はたまたその機会があるかさえ自信がなくなってきた。というより,もっと他の場所に行きたいところがたくさんできてきた。
 そもそも50州目と決めていたハワイ州に先に行ってしまって,その魅力に取りつかれたのが原因なのである。

 そうこうするうちに,ついでに行ってみたい場所にフロリダ州が加わり,さらに,すでに行ったことがあるからはじめはまったくその気もなかったワシントンDCも魅力的になってきた。
 この旅の動機であったはじめの目的は次第にどうでもよくなってきて,サウスカロライナ州とノースカロライナ州は駆け抜けるだけでいいやという気持ちに成り下がった。
 「アメリカ50州制覇」といっても,サウスカロライナ州とノースカロライナ州にこれまで行かなかったということは,もともと行きたいという思い入れがなかったわけだから,こうした成り行きもまた当然の結果であろう。

 昨年の春,まだ,今回の旅の計画が煮詰まっていなかったころは,アラバマ州,ジョージア州,サウスカロライナ州,ノースカロライナ州といった周遊の旅をするつもりであったから,そのころから考えると,ずいぶんと計画が変わってしまったわけだ。
 そしてまた,フロリダ州もフィラデルフィアもボルチモアも行くことができて帰国した今となってみると,再び今度はジョージア州,アラバマ州,サウスカロライナ州,ノースカロライナ州の周遊をしてみたいという気持ちが復活してきたのも不思議なことだ。

 渋滞に巻き込まれた私の車はノロノロ運転を続けていたが,そのうちにインターステイツが閉鎖されているジャンクションまで進むことができた。
 そこには,ジャンクションを出るように誘導する係員がいて,迂回して次のジャンクションからふたたびインターステイツに入るように指示をしていた。
 とはいえ,私はその迂回路がよくわからないのだった。
 ジャンクションを出て,一般道に入って,カーナビの地図を頼りに走り出したのだが,知らない国の知らない町でさまようのもかなり心細い状況であった。すでに日は沈み,あたりは暗くなってきた。そして私が紛れ込んだのが,その一般道に降りたところにあった巨大モールの駐車場であった。
 このあたりのことは,動揺していたので写真の1枚も存在しないのが残念である。

 アメリカを旅行するくらいの日本人にはまったくなじみもなく,報道もされない一般のアメリカの姿がそこにはあるのだが,それがまあ,日本ではありえないほどの裕福さなのである。
 私はかなり道に迷った挙句,どうにか次のジャンクションにたどりついて,再びインターステイツ95に入ることができた。
 巨大なコンボイが横転しているのが見えた。
 もう道路はまったく渋滞していなかった。あとはホテルにたどりつくだけだったが,このさき,レストランがあるとは限らないから,その前に夕食をとろうと思った。
 私は「デニーズ」を見つけて,その店に入っていった。時刻はすでに午後9時すぎであった。
 やっと緊張が解けた。

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●大渋滞に巻き込まれた。●
 フロリダ州ケネディ宇宙センターでたっぷり時間をとって念願のスペースシャトルを見た私は,余裕をもってこの日はジョージア州のサバンナという町に泊まることにしていた。いや,正確にいえば,サバンナの手前のリッチモンドヒルという小さな町にある「スーパー8」というホテルであった。
 アメリカでは大都市から少し離れた郊外の新興住宅街は,治安もよく,こういった場所にあるホテルは新しくて安いしインターステイツからも近いから便利なのである。こうした町については日本には全く情報がないのだが,行ってみると1日くらいは楽しく観光できるなにがしかがあったりする。
 いつの日かそういったあてのない旅を楽しんでみたいものだ,といつも思う。

 さて,私は,この旅では,この後,ずいぶんと交通渋滞に巻き込まれることになる。
 西海岸を走っているときは,車の町ロサンゼルスは別格としても,シアトルのインターステイツ5も車が多いことで慢性的に渋滞をしているが,それは交通量が多いことによる。しかし,今回の東海岸の旅で遭遇した交通渋滞は交通事故によるものばかりであった。その渋滞のひとつが,この,ケネディ宇宙センターからサバンナに向かうときのインターステイツ95で起きたのだった。
 私はこの日,夜の6時にはホテルに着けるなあ,と思いながら,快調にフロリダ州のインターステイツ95を走っていたのだったが,やがて,ジョージア州に入る手前のジャクソンビルあたりから雲行きがあやしくなった。
 次第に車両が道路にあふれ,動かなくなってきた。
 こうなると,3車線も4車線もあるアメリカのインターステイツのどの車線を走ればいいのやら,この先がどうなっているのやら,そのすべてのことのわけがわからなくなる。
 いったいこれが単なる自然渋滞なのか,この先何かが起きているのか,それを知るすべもないし表示もない。
 それに加えて,このあたりに住んでいてわけのわかっている人はインターステイツの側道を走ってインターステイツから降りてしまおうとしているし,車線ごとに車の量が違うから空いた車線に変更しようとする車はあるし,めっちゃくちゃなのである。また,こちらの大型トラック(コンボイ)はあまりに車長が長いから,コンボイが横の車線にいると,これを追い抜いて車線を変更するのは日本の感覚ではありえないほど大変なことになるのだ。
 もう私はお手上げ状態で,この渋滞をぬけるのに何時間かかるのか皆目見当もつかなくなった。だからといってインターステイツを降りて一般道路に降りたとしたら,今度こそ,何時間かかるのか,その先をどう走るののか皆目見当がつかなくなる。
 このときの心細さといったらない。
 私がここでふと考えてしまったのは,トイレに行きたくなったらどうするのだろう,ということであった。そんなことを考え出すと,次第に本当に不安になってきた。アメリカで車に乗るときは携帯トイレを持参する必要があるなあ,などと,そんなことまで考え始めたのだった。

 このときの渋滞は,コンボイが事故か何かで横転して道をふさいでいたために,その手前のジャンクションからその次のジャンクションまでの一区間で道路が閉鎖されていたことが原因であった。だから,一旦ジャンクションを降りて迂回して次のジャンクションから入りなおすということであったが,この時点ではそんなことはまるでわらなかったし,なんの案内もなかった。
 私はこういうとき,何事も親切すぎる日本でずっと生活してマヒした自分の無力さに気づくのだ。子育ても,親がすべてをやってしまっては子供が成長しないということを,ここで改めて思い知るのだった。

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 シカゴ,アトランタ,マイアミと旅をした時のことです。
 アトランタは公共交通機関が発達しているので車を使う予定はなく,ダウンタウンにホテルを予約したつもりでした。ところが,実際にダウンタウンに着いてみると,予約していたホテルはどこにもありません。警官に聞くと,タクシーに乗れば行くことができると言われたので従うと,タクシーは一路北へ100キロメートル,チャタヌーガという町に向かうではありませんか。
 それにしても,タクシーの運転手さんの上機嫌なこと。ホテルはアトランタのダウンタウンからはるか遠い郊外でした。到着してタクシーを待たせて,同じ系列のダウンタウンのホテルに変更するようにフロントで交渉している間,運転手さんはホテルのロビーで悠々と一服していました。ホテルを変更する交渉が無事成立すると「じゃあ,戻ろうか」。こんな上客に巡り合うのは宝くじが当たったようなものだったのでしょう。
 その車内で,アトランタはいつも渋滞だとぼやいていたのを今でもはっきり覚えているのですが,確かに,この地はあまりにも自動車への依存度が高いため、交通渋滞は全米最悪の水準なのだそうです。日本の交通渋滞を知っている身には,それほどとは思いませんでしたが…。
 さらに,2000年代前半までアトランタは「全米の危険な都市」の常連,特に殺人の発生率が高かったという話です。確かに,マーガレット・ミッチェルの墓があるオークランド墓地へマルタレイルという鉄道で行ったとき,駅は自動改札となっているものの,若者たちは平気で改札を飛び越えるし,お金をせしめようと声をかけられるし,駅周辺のムードは最悪でした。
 都会にはいろいろな面があるもので,それだけ人が生きるというのは大変なことに違いありません。そんなアトランタですが,オリンピックの開催を機に再開発が進み,現在,ダウンタウンは活気と若々しさに満ち溢れています。

 そんな南部の歴史や文化から生まれた名作「風と共に去りぬ」を書いたマーガレット・ミッチェルが住んでいたアパートは,マーガレット・ミッチェルハウスとして保存・公開されています。
 マーガレット・ミッチェルの生涯は「風と共に去りぬ」のスカーレットとそっくりで,実際,物語のエピソードの多くは彼女の人生と重なります。マーガレットとレッドの結婚生活も冷えていって,ついに,レッドは離婚を決意して静かに去っていくのです。
 去っていくレッドの後ろ姿とともに,南北戦争・南軍の敗北によって「風と共に去った」古い価値観を捨て新しい価値観が国家をよみがえさせるのだということを,小説のラストシーンは暗示しているのでしょう。

  ・・・・・・
 Tara. Home.
 I'll go home,
 and I'll think of some way to get him back.
 After all, tomorrow is another day.
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 タラ わたしのふるさと。
 わたしはふるさとに帰るわ。
 そして,彼を連れ戻す方法を考えてみるわ。
 明日は別の日なのだから。
  ・・・・・・

 タラというのは架空の地。近年,タラはジョーンズボロにあったのではないかと言われるようになりました。ジョーンズボロの観光案内所には「タラへの道」という小さな「風と共に去りぬ」博物館が併設されていて,世界中から人々が訪れる名所になっているということです。

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 世界最大のアトランタ国際空港を降り立ち,レッドラインで北へむかうと,やがて,右手に巨大なターナー・フィールド,その向こうに摩天楼が見えてきます。
 ターナー・フィールドは,1996年にこの地で開催されたオリンピックのメイン会場だったところで,オリンピック後に改装されて,アトランタ・ブレーブスの本拠地となりました。
 ニューオリンズがアメリカらしくないアメリカであるとすれば,アトランタは南部らしくないアメリカのようにいわれているらしいのですが,私には,もっとも南部の香りのする,すてきな大好きな都会です。
 アトランタのあるジョージア州は,1776年に独立宣言をした13州のうちのひとつです。

 四半世紀くらい前のことです。
 ラジオNHK第二放送の英会話講座で夏の特集としてジョージア州を取り上げていました。普段と違いテーマソングとして「わが心のジョージア」が流れました。粋な計らいでした。講師の先生が,このまま講座をしないで,ずっとこの曲を聴いていたいですね,と言ったのを今でも覚えています。わたしもそう思いました。こころに染みました。
 オリンピックをきっかけに,あちこちで演奏され歌われたのが,この「わが心のジョージア」でした。この曲はルイ・アームストロングを始め,多くのカバーがありますが,特に,レイ・チャールズの歌でよく知られるようになりました。

 レイ・チャールズはこの歌を,8分の12拍子の,いわゆるリズム&ブルーズ色の濃いもので歌ってヒットしたために,以後このスタイルが定着しました。この歌の「ジョージア,ジョージア,私はあなただけを慕う,懐かしく甘い歌は私にジョージアを思い出させる」という部分を聴いてみると,ジョージアは州ではなく女性の名とも考えられます。
 レイ・チャールズは1930年ジョージア州で生まれました。「私たちの下には地面しかなかった」と語った極貧生活,そして,7歳で失明,15歳で孤児となりましたが,彼の周りには,いつも歌があったそうです。

 1961年,オーガスタのコンサートでのこと。客席が黒人と白人に分けられていることに抗議してキャンセル,このことが原因で州から追放されました。やがて,1963年8月,ワシントンDCに向けての20万人行進で有名なキング牧師の公民権運動があり,1979年にはカータ―大統領がこの歌を選挙の応援歌に採用しました。そうした機運から,1979年にジョージア州は,彼の追放を撤廃,州議事堂にレイ・チャールズを迎えました。その場で彼は,満場の喝采の中ピアノに向かってこの歌を歌いあげました。
 こうして,この曲はジョージア州の州歌となったのです。
 レイ・チャールズの生涯は,映画「Ray/レイ」に詳しく描かれています。
 やはり,この地は,正真正銘のディープサウスです。

  ・・・・・・
 I'll go back to Georgia
 'Cause that's where I belong
 Georgia, Georgia, the whole day through
 Just and old sweet song
  keeps Georgia on my mind
  ・・
 私はジョージアへ帰ろう
 なぜなら,そこは,僕が本当にいるべきところだから
 ジョージア,ジョージア,一日中ずっと
 ただ,懐かしく優しいこの歌がわたしの心に
  ジョージアのことを思い出させるのさ
  ・・・・・・

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