しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国50州 > カリフォルニア州

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 2018年の旅で,念願だったパロマ天文台を訪れたのですが,私が訪れたちょうどその日,天文台構内の駐車場の工事をしていて,中に入れませんでした。
 今にして思えばそのときの私は何にとりつかれていたのか,その翌年2019年にも再びそこに行くことにしたのがすごいことです。京都や東京だって,そう簡単に何度も行くことができるわけではありませんが,その当時は,ロサンゼルスなんて,私には精神的にそれくらいの距離でしかなかったのです。
 コロナ禍が起きていなければ,今もそんな感じで旅を続けていたのでしょう。しかし,今では遠い遠いところです。

 2019年は,パロマ天文台だけでなく,後に紹介することになるフラグスタッフのローウェル天文台をはじめ,バリンジャー隕石孔,さらには,大谷翔平選手まで見ることができましたが,これらのことは,2018年にパロマ天文台の中に入れなかったことで成し遂げられた奇跡なのです。まさに塞翁が馬でした。
 が,幸運はそれだけではなく,パロマ天文台を訪れたこの日が土曜日で,私が見たかったパロマ天文台の200インチ反射望遠鏡は,通常はガラス越しにしか見ることができないのですが,ドームの中に入って見学できるツアーに参加することができました。これもまた,もし2018年にパロマ天文台に入れたとしたらできなかったことでした。

 ロサンゼルスからパロマ天文台までは120マイル,約200キロメートルあります。
 ロサンゼルスで宿泊したモーテルから国道91を走り,アナハイムを過ぎて,さらに東に進んでいってインターステイツ15に入ります。そして,インターステイツ15を南東に進んでいって,テメクラ(Temecula)という町でインターステイツ15を降り,州道76に入る,という経路で走っていきます。テメクラからは一般道で,わずか36マイル,約60キロメートルの州道76は山道となるので1時間程度もかかり,リンコン(Rincon)という数件の家がある小さな町からさらに山道を走っていくと,やっと,パロマ天文台の口径500センチメートル反射望遠鏡の巨大なドームが見えてきます。

 門を通り過ぎて天文台の構内の道路を入っていくと,その先に広い駐車場があって,車を停めると右手にビジターセンターがあります。このビジターセンターもまた,土曜日と日曜日だけ開いているということでした。
 見学ツアーでは,まず,ドームの入口の前で望遠鏡の歴史のレクチャーがあってから,いよいよドームに入ります。ドームの1階部分では反射鏡の再メッキができる工場があって,それらの装置の説明ののち,端にある階段を上って,ついに,望遠鏡のある2階に登り,巨大望遠鏡と対面となります。 
 ドームはものすごく巨大で,外観もピカピカ,今も現役の口径500センチメートル反射望遠鏡はしっかりと整備されていて,ドーム内もきちんと整理整頓がされていました。


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 私は,星を見ること以上に天文台に興味がありましたが,それは,子供のころに買ってもらった「原色現代科学大事典」の第1巻「天文」に載っていた世界中の天文台を実際にこの目で見てみたいというのが動機でした。
 そうした望遠鏡は,ウィスコンシン州のヤーキス天文台にある口径102センチメートルの屈折望遠鏡,サンノゼ郊外のハミルトン山にあるリック天文台の口径91センチメートル屈折望遠鏡,サンディエゴ郊外のパロマ山にあるパロマ天文台の口径500センチメートル反射望遠鏡と口径122センチメートルシュミット望遠鏡,ロサンゼルス郊外のウィルソン山にあるウィルソン天文台の口径152センチメートルヘール望遠鏡と口径254センチメートルフッカー望遠鏡,アリゾナ州フラグスタッフにあるローウェル天文台の口径33センチメートル屈折写真儀などでした。
 しかし,ウィルソン山,パロマ山という名前だけは知っていても,それがどこなのかは全く認識がありませんでした。

 その後,知識も増して,そうした望遠鏡の多くが今は時代遅れのものとなっていることは知ったのですが,子供のころの夢はそんなこととは関係ありません。
 そこで,私はこのような望遠鏡が現在公開されているのならぜひ見てみたいものだという想いがどんどん強くなってきて,ついに出かけることにしました。
 しかし,一般の観光地とは違って,わざわざ行っても見られるものかどうかわかりません。ホームページを見ても,どんな様子なのか要領を得ません。行かなくてはことが進まないので,とにかく行ってみようと,2018年と2019年に天文台を見るためにカリフォルニア州に旅に出たのですが,今では,本当に行ってきてよかったと,強く思います。
 これもまた,もし,行っていなければ,今ごろはものすごく後悔していたことでしょう。

 実際は,2018年に行ったときは,もっとも期待したパロマ天文台は見ることができず,逆にあまり期待していなかったウィルソン天文台は偶然にも特別公開の日にあたって,そのすべてを見ることができたのは不幸中の幸いでした。
 2018年には行くことができなかったパロマ天文台は,その翌年にまた出かけて,ついに,念願のパロマ天文台にも行くことができて,しかも,見学ツアーに参加することができて,私は,長年の夢をすべて実現したのです。
 ここでもまた,私の強運が発揮されました。

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 1917年11月に完成したウィルソン天文台の口径254センチメートルフッカー望遠鏡でエドウィン・ハッブル(Edwin Hubble)は,星雲が実際には我々の天の川銀河の外にある銀河であると結論,さらに,ハッブルと助手のミルトン・ヒューメイソン(Milton L. Humason)は,宇宙が膨張していることを示す赤方偏移の存在を発見しました。
 この望遠鏡は世界最大のものとして君臨していましたが,1948年にパロマー山に口径500センチメートル反射望遠鏡を完成したことでその座を明け渡すことになりました。1986年に口径254センチメートル反射望遠鏡は一度は運用を終了しましたが,1992年に再び使用が開始されました。フッカー望遠鏡は20世紀を代表する傑出した科学装置なのです。
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 パロマ天文台については次回。


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 NHKBS1でMLB中継が放送されていると,いつも私は英語モードにして見ているというか,つけっぱなしにしています。それは,アメリカの空気に触れたいためです。
 日本語の放送なんて聴きたくない。だからABEMAのMLB中継は見ない。NHKBS1のMLB中継の途中に入るニュースなんて迷惑なだけ。
 そんな私のMLB中継ですが,5月14日は,ロサンゼルス・エンゼルスがオークランドに遠征してきたので,珍しくオークランド・アスレチックス(Oakland Athletics)のホームであるオークランドアラメダカウンティコロシアム(Oakland Alameda County Coliseum)からでした。
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 オークランドアラメダカウンティコロシアムはカリフォルニア州オークランドにあるのですが,オークランドはサンフランシスコの隣町で,バート(BART=Bay Area Rapid Transit)という近距離列車でサンフランシスコから直通で行くことができます。
  ・・
 オークランド・アスレチックスはアメリカンリーグ西地区所属です。アメリカンリーグ創設時から存在し,ワールドシリーズ制覇9回・リーグ優勝15回を有する古豪チームです。
 1893年にペンシルベニア州フィラデルフィアで発足し,1955年にミズーリ州カンザスシティに移転。そして,1968年に現在の本拠地であるカリフォルニア州オークランドに移転しました。
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 アメリカ西海岸にあるMLBのチーム,シアトル・マリナーズ,ロサンゼルス・ドジャース,ロサンゼルス・エンジェルスなどには以前より多くの日本人選手が所属していますが,オークランド・アスレチックスには2005年の藪恵壹選手,2010年の岩村明憲選手,2011年の松井秀喜選手,2013年の岡島秀樹選手が所属したのみであり,しかも,成績が下降したころにトレードされてきたという選手ばかりで,サンフランシスコというとても日本ではなじみのある都会の近郊にあるにもかかわらず,オークランド・アスレチックスはあまり知られていないチームです。
 また,オークランドアラメダカウンティコロシアムは老朽化がはげしく,かつ,2020年までNFLのオークランド・レイダース(Raiders)との兼用で,外野に巨大なスタンドがあったり,ファールグランドが異常に広いといったようにベースボール観戦にはまったく適していないことや,さらに,ボールパークのある周辺の治安が悪いなどの理由で,まったく魅力がありません。
 そこで,2011年にシリコンバレーの東にあるフリーモントに移転し,新しいスタジアムを建設する予定でしたが,地域住民の反対などで中止となるなど,経営面で苦戦をしいられています。
 やっと,2018年になって,2023年にオークランドとサンフランシスコを結ぶベイブリッジ近郊のウォーターフロント地区に建設を予定している新しいボールパークに移転するという発表がありました。とはいえ,またうまくいかないのではという懸念があるのですが,2022年2月の報道によると,計画は1歩ずつ前進しているということなので,順調に進めば,現在のボールパークはこれで見納めです。
 この計画が実現すれば,MLB全体で,新しいボールパークの建設計画がうまくいっていないのはタンパベイ・レイズのみとなります。

 私は,2015年,サンフランシスコに行ったときに,ぜひ行きたかったサンフランシスコ・ジャイアンツのホームである,現在の名前をオラクルパーク(Oracle Park)という,パシフィックベルパーク(Pacific Bell Park)とともに,オークランドアラメダカウンティコロシアムに行ってみました。こちらは特に行きたいところではなかったのですが,MLB30チームのボールパークをすべて制覇しようという目的のために行ってみたわけです。
 確かに,周辺の治安はよさそうになく,しかも,ナイトゲームでは,ゲームが長引くと帰りの列車がなくなるという話だったので,早々に引き上げました。ボールパーク自体も,日本によくあるコンクリートむき出しの古い建物で,最新式のパシフィックベルパークとは天と地の差がありました。
 しかし,というか,だからというか,ファンサービスは抜群で,チケット売り場をはじめとして,チームの職員の親切さはMLBのなかでもとびぬけてよくて,私は感動しました。

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●「キングズキャニオン国立公園」(Kings Canyon National Park)
 キングスキャニオン国立公園とセコイア国立公園は一体となっていて,途中にゲートがあったりはしません。ともにジャイアントセコイアの森ですが,キングスキャニオンの方は,そのまま深い渓谷に続いています。
 この地は,ある者は谷の西端にダムを建設しようとし,ある者は公園として保護しようとしたのですが,1965年に谷全体が「グラントの森国立公園」に編入されたときにやっと国立公園としてその自然が守られるようになりました。
 コロナ禍の時代にこういう話を聞くと,何でもきちんと法律によって保護する国と,何でもなし崩しにして自然を破壊する国の根本的な考え方の違いが明白にわかるような気がします。
  ・・
 キングズキャニオン国立公園は,グラント将軍の森 (General Grant Grove) 地区とキングズ川 (Kings River)の支流サウスフォークとミドルフォーク,サンワーキン川(San Joaquin River)の支流サウス・フォークの源流を形成している渓谷とのふたつの異なる場所から成ります。
 グラント将軍の森にはグラント将軍の木があります。グラント将軍の木は、園内では3番目に大きな木として知られていて,第18代グラント大統領(Ulysses S. Grant)の名をとってつけられたものです。
 地元商工会の人がこの木を訪れたとき,横にいた少女が「この木がクリスマスツリーだったらどんなにすてきだろうに」と言ったのがきっかけで,「国のクリスマス・ツリー」(Nation's Christmas Tree〉となり,現在,クリスマスにイベントが行われているということです。
 そのあとで,車でシーダーグローブ(Cedar Grove)を目指して細い山岳道路を走りました。山岳道路になると,急に景色が変わって山並みの美しい風景になり,すばらしい景観が望めました。
  ・・
 キングスキャニオン国立公園をでてから,前回書いたセコイア国立公園に入りました。
  セコイア国立公園で一番の見ものは「シャーマン将軍の木」です。「シャーマン将軍の木」(General Sherman tree)は,地球上で最も大きな木であると同時に最も大きな生命体であると考えられています。樹齢はおよそ2,200年だそうです。
 この木の名前は南北戦争における北軍の指導者ウィリアム・シャーマン将軍(general William Tecumseh Sherman)に因んでつけられたものです。
 その次の見ものは,クセントミドウ・ロード(Crescent Meadow Road)です。
 ここには博物館があって,その裏手にあったトレイルを歩いて,ラウンドミドウ(Round Meadow)という草原に行くと,突然,目の前に草原が広がります。不思議なところでした。
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 子供のころに覚えたことはいつまでも忘れません。私は,セコイアという木をしって,日本にはそんな木はないなあ,と思ってアメリカに憧れ,さらに,名古屋の植物園にメタセコイアという木があると聞いて行ってみたのですが,がっかりしたことがあります。
 そうした「トラウマ」は,実際にセコイアの木を見て,すべて解消されたのです。
 ちなみに,メタセコイア(Metasequoia glyptostroboides)はセコイアと違って落葉樹です。当初は日本を含む北半球で化石として発見されるのみで絶滅した植物と考えられていました。常緑種のセコイアに似た落葉種の化石が発見され,発見者の三木茂によってセコイアに「変わった」という意味の接頭語である「メタ」をつけて「メタセコイア」と命名されたものです。

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月齢28.4の月と水星。

11月4日早朝東の空に見えました。 DSC_8003s


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●セコイア国立公園(Sequoia National park)
 以前,次のように書いたことがあります。
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 それは私が小学校のころのことだったが,今となっては学年を思い出せない。ずっと国語の教科書だと思っていたが,帰国後,昔の教科書が閲覧できる,とある図書館に出かけてそのころの教科書を探したのだが,見つけ出すことができななかったから,私の勘違いで,国語の教科書ではなく,何かの学習雑誌か補助教材だったのかもしれない。
 ともあれ,そこに載っていて知ったのが,巨大な木の幹をトンネルのようにくり抜いてその中を車が走っている1枚の写真であった。
 私は,それを見てアメリカというのはエライ国だと思った。そして,子供心に,ぜひセコイア国立公園に行ってみたいものだと思った。しかし,本当にそこに行けるとは思っていなかったから,その幸運が訪れたことに私は感謝した。
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 そして,その後に,このときのブログでは,この木の倒れた姿だと思われた無残な姿のセコイアの倒木を見たことになっています。
 しかし,後日,それがまちがいだということがわかりました。
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 私が子供のころに知った「巨大な木の幹をトンネルのようにくり抜いてその中を車が走っている」セコイアというのは,セコイア国立公園にあったものではなく,ヨセミテ国立公園にあったものだったのです。
 ウィキペディアに次のように書かれています。
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 「ワウォナツリー」(Wawona Tree)は,ヨセミテ国立公園(Yosemite National Park)のマリポサグローブ(Mariposa Grove)に生えていたセコイアデンドロン(ジャイアントセコイア)の巨木である。高さは69メートル,外周は27メートルあった。
 1881年,この木にもともとあった火事による傷を広げるようにしてトンネルが掘られた。木は少し傾いていたが,トンネル完成時には傾きが大きくなっていた。後に有名な観光スポットとなり,多くの旅行客が車で下を通りながら,あるいは木の下に立って写真を撮っていた。
 1969年2月,ワウォナツリーは雪の重みに耐えられずに倒壊した。推定樹齢は2,300年とされている。
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 つまり,私が小学生のときに知ったセコイアにあこがれ,やっと行くことができたセコイア国立公園だったのですが,私が見たかったセコイアというのは,セコイア国立公園ではなく,ヨセミテ国立公園にあった,ということでした。私は,はじめてアメリカに行った今から40年ほど前にヨセミテ国立公園を訪れたのですが,すでにそのときは,この木は倒れてしまっていたわけです。
 セコイア国立公園にも同じように倒れた巨木があるということは,このようにしてトンネルが作られたセコイアが数多くあったということなのでしょう。
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 なお,復習ですが,セコイア(Sequoia)とよばれる巨木には2種類あります。
 本家本元の「セコイア」(Sequoioideae)は,通称「コーストレッドウッド」(coast redwood)とよばれるもので,これはレッドウッド国立公園(Redwood National and State Parks = RNSP)にあります。一般にセコイアと思われているものは,通称「ジャイアントセコイア」(giant sequoia)とよばれる本名は「セコイアデンドロン」(Sequoiadendron giganteum)で,これがセコイア国立公園にあります。
 「セコイアデンドロン」つまり「ジャイアントセコイア」のほうは世界一幹が太い巨木で,「セコイア」つまり「コーストレッドウッド」のほうは世界一背が高い巨木です。

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fallen tree


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 今から3年前,2018年の段階で,アメリカで私がそれまでに行きたくても行くことができていなかったところは,いくつかの国立公園と天文台でした。
 しかし,そのころはすでに関心がハワイと南半球のオーストラリアやニュージーランド,ヨーロッパのオーストリアやフィンランドなどに移ってしまっていて,アメリカ本土に行く機会はずいぶんと減っていて,年に1度のペースになっていました。
 数年かけて,そうしたところに行くことにして,まず,2018年はパロマ天文台に行ってみることにしました。そのついでに,ロサンゼルスの北にあるデスバレー国立公園とセコイア国立公園,そして,パロマ天文台に行くついでにサンディエゴで新しくできたボールパークに寄ってくるという計画で旅立ちました。
 その結果,最も行きたかったパロマ天文台だけ臨時に閉鎖されていて行くことができず,というか,入口まで入ったのに中に入れず,それ以外はすべて実現しました。
 今回と次回は,この2018年に行った国立公園の紹介をします。

●デスバレー国立公園(Death Valley National Park)
 デスバレー国立公園は,ぜひ一度は行ってみたいところでした。しかし,ロサンゼルスから決して近くなく,また,異常に気温が高くなるということで,本当に行くことができるのか心配でした。これだけアメリカに行ってずいぶんの距離を走っているのに,歳をとって次第におっくうになってきたからです。
 ともかく,ロサンゼルスから北に走って,途中でモーテルに泊まり,夜,明日はどうしようかずいぶんと考えた結果,早朝,暑くなる前に行ってみることにしたというのは,これまで何度も書きました。
 デスバレー国立公園についてはすでに多くのことを書いたので,ここでは,そのときに紹介できなかった写真を載せることにします。中でも最後の写真は車の計器に表示された外の気温です。華氏112度というのは摂氏44度です。
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 デスバレー国立公園に行った印象としては,これほどの広大な荒れ地が延々と続いていることに衝撃をうけたこと,そして,はやり,ここは地の果てだということ,さらには,どうしてこんなところに多くの人がやって来て,しかも,住んでいる人までいるのか,ということでした。
 私は,今でも,アメリカという国を測りかねているというのが正直なところです。
 つまり,アメリカという国がよくわからないわけです。
 というのも,このごろは,日ごろ,日本のテレビ番組はめったに見なくなって,もっぱらアメリカのニュース番組やドラマばかりになっているのですが,CNNなどで知るその姿は,アフガニスタンで苦労する姿や新型コロナウィルスでずいぶん多くの感染者がでている姿と,それとはまったく別の世界で,日々を楽しんでいる人たちの姿があるからです。
 日本は,何か問題があれば,すべてがそのこと一色に染まってしまい,明日にも世界が滅ぶみたいな雰囲気になるのですが,それとはまったく違うのです。


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●カールズバッド国立公園(Carlsbad Caverns National park)
 カールズバッド国立公園は洞窟です。
 前回書いたホワイトサンズ国定公園とこのカールズバッド国立公園を巡って1日コースとなります。
 カールズバッド国立公園で最も有名なのはコウモリの飛翔(The Bat Flight)で,夕刻になると,エサを求めて30万匹のコウモリが洞窟の入口から30分以上にわたって飛び立つのが見えるというのですが,これが見えるのは夏の間ということなので,春に行った私は残念ながらそれを見ていません。
 ここの洞窟は,今から2億年ほど前,地底に堆積したサンゴ礁による石灰層が数百年前に隆起し,雨水に浸食されてできたものということで,世界最大級の鍾乳洞であり,長さは180キロメートル,深さはアメリカ最深で地下489メートルもあります。
 トレイルに沿って,延々と地底に潜っていく感じでした。しかし,洞窟の中というのはなかなか距離感がわからず,そのすべてがあまりに雄大であり,かつ,比べるものがないので,その大きさが実感できないというか,実際よりも大きく感じるというか,不思議な気持ちになります。
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 これを書いていて,私は頭が混乱してきました。それは,このカールズバッド以外によく似たアメリカの鍾乳洞に行ったような気がしてきたからです。
 そこで調べてみると,このカールズバッド国立公園に行ったのが2014年の春で,その翌年2015年の春,ミズーリ州のカンザスシティに行った折にアメリカの中東部を巡ったとき,ケンタッキー州のマンモスケイブ国立公園(Mammoth Cave National Park)へ,そして,その翌年2016年の夏には,東海岸をフロリダ州から北上したとき,バージニア州のルーレイ鍾乳洞(Luray Caverns)へ行ったことを思い出しました。
 その中でも,マンモスケイブは長さが579キロメートルと世界最長を誇る鍾乳洞でした。
 いずれにして,この3つの鍾乳洞はどこも途方もなく大きいところで,こんなところに行ってしまうと,日本の鍾乳洞なんて赤子のようなものです。ちなみに,秋芳洞は,全長がわずか約10キロメートル,深さは137メートルでしかありません。


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 1月2日,NHK総合で「ラ・ラ・ランド」(La La Land)が放送されました。
 今や,テレビ番組という時代遅れの放送形態を当てにしなくても,Amazon Prime Video などでいつでも見られるし,私はすでにそれで見たので,もはや「お正月はテレビ」という時代でもないと思うのですが,ちょうどいい機会なので,今日,この映画を取り上げることにしました。
 「ラ・ラ・ランド」は,2016年に公開された,俳優志望とピアニストの恋愛を描いたアメリカ映画です。この年の最高の映画のひとつとして大好評を得て,第74回ゴールデングローブ賞ではノミネートされた7部門すべてを獲得し,第89回アカデミー賞では史上最多14ノミネートを受け,監督賞,主演女優賞,撮影賞,作曲賞,歌曲賞,美術賞の6部門を受賞しました。
 「ラ・ラ・ランド」は映画の舞台であるロサンゼルスのニックネームで,「現実から遊離した精神状態」(being out of touch with reality)を意味するといいます。
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 夢をかなえたい人々が集まる街ロサンゼルス。映画スタジオのカフェで働くミアは女優を目指していたが,何度オーディションを受けても落ちてばかり。ある日,ミアは場末の店で,あるピアニストの演奏に魅せられる。彼の名はセブ(セバスチャン),いつか自分の店をもち大好きなジャズを思う存分演奏したいと願っていた。やがてふたりは恋におち,互いの夢を応援し合う。しかし,セブが店の資金作りのために入ったバンドが成功したことから,ふたりの心はすれ違いはじめる…。
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というのがあらすじです。

 アメリカというのは実に単純明快で,映画も,「ラ・ラ・ランド」のような恋愛ものと,やたらと暴力シーンが出てくるものと,ロードムービーにわけられます。だから,日本人には,こうした趣向が好きな人にはおもしろく,受けつけない人には何がおもしろいのかわからない,ということになります。
 アカデミー賞の受賞のときにずいぶんと話題になったので,いったいどういう映画なのだろうかと気になっていたのですが,特にあらすじに深みや複雑な要素はなくて,「ラ・ラ・ランド」は「マジソン郡の橋」や「ユー・ガット・メール」のような媒体にミュージカルの手法を加えた感じでした。大人のディズニー映画です,これは。でも,とてもいいです。たとえると,ホテルの最上階でジャズをバックに夜景を見ながら好きな人とお酒を飲んでいるといった感じです。
 私は,こうした映画,嫌いでないです。主演の女優エマ・ストーン(Emily Jean "Emma" Stone)さんがきわめて魅力的なこととロサンゼルスの雰囲気がよく出ていて,心地よくて,しかも,映画のラストが気に入って,楽しく見ることができました。

 それにしても,アメリカというのは,こうした純粋なこころときめくおとぎ話ができるのに,その反対に,なんときな臭い暴力的な別の面があるのだろうと,いつも思います。しかし,根底は同じような気がします。悪い表現ですが,幼稚なんです。死ぬまで子供なんです。みんな何らかの1等賞を目指していて生きることに冷めていないのです。
 男女平等といいながらも,実は,女の子はつねにシンデレラストーリーにあこがれているし,男の子は力の強いことにあこがれているし,老人はいつまでも夢を追いかけています。やはりこの国は「担任のいない小学校」なのです。
 それはそうと,私は,この映画を見て,またいつか,ロサンゼルスのフリーウェイやダウンタウンを走ってみたいと思いました。昨年までは毎年当たり前のように走っていたのに…。


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 「2015夏アメリカ旅行記3」をはじめたが,8月18日の朝日新聞に,「デスバレーで最高気温54.4度の新記録」という次のような記事があったので,今日は「2015夏アメリカ旅行記3」を中断して,代わりにデスバレーの思い出を。
  ・・・・・・
 89年ぶりの世界記録か?
 カリフォルニア州の国立公園デスバレーで16日午後,気温54.4度(華氏130度)を記録した。世界気象機関(World Meteorological Organization=WMO)によると,専門家の検証を経て,公式記録として認証されれば,1931年以来の記録的な気温となる。
 アメリカ米西海岸では熱波の影響で記録的な暑さが続いている。
  ・・・・・・

 私がデスバレーに行ったのは2018年6月27日のことだった。
 デスバレーは私がアメリカ旅行をはじめたころから行ってみたかった場所だった。
 今考えるに,私には,ぜひ行きたかったという場所と行ってみたかった場所というのがあったようだ。ぜひ行きたかった場所というは,ニューヨークだったり,ボストンだったりだが,何としてでも行きたいと願い,そして,実際にまず行った場所であった。そして,行ってみたかった場所というのは,興味はあるが,行けるとは思えないからあきらめよう,という場所であった。
 幸い,私は,どちらの場所もそのほとんどすべてに行くことができた。これは奇跡で,自分の幸運に感謝する。もし,今のようなコロナ禍の状況になって海外旅行に行くことが不可能になったのがあと数年早かったら,私はそうした場所の多くに今も行くことできずにいて,後悔だらけであっただろう。
  ・・ 
 すでに「2018夏アメリカ旅行記」に書いたように,デスバレーに行った2018年,私はアメリカ国内の天文台を見てみよう計画の一環としてウィルソン山天文台とパロマ天文台をめざして,ほんとうに久しぶりにロサンゼルス国際空港に降り立った。そして,その旅の「ついで」に,ロサンゼルスからならなんとか行くことができるデスバレー国立公園とセコイア国立公園に寄り道をしようと思ったのだった。
 このふたつの国立公園では,セコイア国立公園のほうが,デスバレー国立公園よりも,より行ってみたかった場所であったが,いずれの国立公園も,ロサンゼルスから決して近くはなく,この旅に出るまでは,できれば行ってみたい,という程度であった。

 このブログには,旅の話題と星見の話題が多いので,私が始終そういう行動をしているように思われるだろうが,実際は,そのどちらも,家を出るまでは,結構気が重いのである。面倒だなあ,と思うのである。特に,星見のほうは,曇ってほしい,そうすれば行かなくて済むからあきらめもつく,などと祈ってしまうのだから,かなりの重症である。これを果たして本当の楽しみといえるのだろうか?
 それに対して,旅のほうは,実際に出かけるときには,やはり,気が重く面倒だなあといった気持ちになっても,旅行に行く計画を立てチケットやホテルの予約をする段階が嫌いでないので,ついつい軽率に予約をしてしまうのだ。そこで,出かけざるをえない状況になっているから,なんとか重い腰をあげることができる。しかし,旅で出かけた先で具体的に何をするのか,ということを事前に調べる気にならないので,到着してから,やっと,何をしよう? と考えるといった無謀なことになる。
 この旅もまた,同様であった。

 ロサンゼルス到着後,ともかく,セコイア国立公園とデスバレー国立公園のある北西の方向に走っていった。今でも覚えているのは,その途中で,行けるかな,でも,遠いしなあ… と思いながら,6月にもかかわらずものすごく暑かったロサンゼルス郊外の田舎町のモーテルで散々迷っていたことである。このときの記憶は鮮明によみがえる。なにせ,ロサンゼルスから400キロメートル以上,5時間もかかるのだ。その間,ほとんどの場所は見渡す限りの荒れ地の中を道路だけが続いているのである。
  ・・
 それでも,セコイア国立公園は到着さえすればいいのだが,デスバレー国立公園に行くのに心配だったのは,その遠さ以上に,気温であった。それも,自分の身体が持つか,ではなく,車が持つか,ということであった。私はメカに興味がないので,実際,車がどのくらいの気温まで異常なく動くのか,どういった設計になっているのか全く知らない。気温が摂氏60度を越すような炎天下でも問題なく動くように車は設計されているのだろうか? 調べてみても,室内の温度がどれだけ高くなるかというようなことは書かれているが,車自体の耐熱性がわからない。
 しかし,ラジエーターがオーバービートするだの,炎天下でパンクしただのといった恐ろしい話はたくさん書いてある。いずれにしても,気温が摂氏50度になるような場所で車が動かなくなったり,パンクでもしたら,命が危険である。結局,私は,水を一杯買って詰め込んで,しかも,早朝に出発して,気温が50度にはならない午前10時までに観光を終えるという条件を決めて,デスバレー国立公園に出かけた。
 幸い,私が行ったときの気温は午前10時で華氏109度であった。華氏109度ということは,摂氏42.7度。これが私が経験した最高気温であった。車も身体も特に何ということもなかった。
 軟弱な私はこれで引き揚げたが,そのあとも,デスバレー国立公園を目指してぞくぞくと車がやって来たのには驚いた。アメリカ人はタフだ。この日の最高気温は,確か,華氏120度,摂氏48.9度程度であったらしい。それでも何の事故も起きていないから,華氏120度は問題ないらしい。

 そんなわけで,私は華氏109度について語ることはできるが,この記事にあったおそるべき華氏130度という温度について語る資格はない。
 私の住む近くにある名古屋市科学館に極寒ラボというのがあって,そこではマイナス30度が経験できる。寒いほうは,実際私はフィンランドのロヴァニエミでマイナス30度程度は経験したが,着こめば大したことはないのでなんとかなる。これは断言する。しかし,極暑ラボというのはない。それは,こちらのほうが身の危険があるのからだろうか?
 ともかく,デスバレーは湿度が低いので,日本の夏の猛暑とは暑さの質が違う。私が経験した,たかが華氏109度の経験からいえば,この温度はフライパンの上の目玉焼き状態のようなものであった。しかし,寒さは服を着こめばなんとかなるが,暑さは服を脱いだところで直接体が暑くなるだけだから,どうしようもない。
 いずれにしても,たとえ気温が華氏109度止まりだったとしても,この暑さを味わうことができたのはいい体験であった。一度の人生,暑さも寒さも経験するに限る。
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 なお,私がデスバレー国立公園に出かけたときの顛末はこのブログの「2018夏アメリカ旅行記」をお読みください。

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 「2015夏アメリカ旅行記3」をはじめる前の復習を続ける。
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 2015年6月下旬,2度目のアメリカ旅行ではサンフランシスコに行った。
 私の従姪(じゅうてつ=従妹の子)がアメリカ人と結婚してアイダホ州に住んでいる。子供が3人いて,毎年夏休みに子供たちを連れて帰国するのだが,この年は現地の学校の関係で子供たちのうちのふたりだけを先に帰国させるということで,私が付き添ってその子供たちをアメリカまで送っていくことになった。そのためだけのアメリカ往復だった。
 今はコロナ禍で海外は地の果てほど遠い存在となってしまっているが,そうでなければ,私にとってアメリカへ行くのは東京へ行くのとさほどの違いはないので1泊3日で往復してもどおっていうことはないから,そのまま帰ろうかとも思った。しかし,せっかくなので,帰りにサンフランシスコに寄ることにした。
 アメリカの大都市はほぼすべてに行ったことがあるので,どこの都市もおおよそ雰囲気はわかる。また,ツアーでは行かないので,大都市のダウンタウンにある豪華なホテルには泊まったことがないが,その反対に,路地裏まで知っているし,現地のスーパーマーケットへ出かけて買い物をしたりもするから,どういう人がどのようにして生活しているかも想像がつく。今では,特にどこか行ってみたいと思うようなところもなくなった。しかし,サンフランシスコだけはもう一度行ってみたいと思っていた。私がサンフランシスコに行きたいと思ったのは,サンフランシスコでメジャーリーグが見たかったからだった。

 私が前回サンフランシスコに行ったのはこの年2015年のさらに35年も前のことだった。ずいぶん昔のことだったから,その後サンフランシスコがどうなっているか,想像がつかなっかった。
 結局,わずか数日の滞在だったにもかかわらず,念願かなってサンフランシスコに本拠地をもつメジャーリーグのふたつのチーム,オークランド・アスレチックスもサンフランシスコ・ジャイアンツもともに見ることができた。それだけでなく,ゴールデンゲートブリッジも歩いて渡ることが実現したし,さほど安全でないダウンタウンもチャイナタウンも,危険だ近づくなといわれたテンダーロイン地区もふらふらと散歩した。さらに,私の同級生がプロのバイオリニストになって現地に住んでいて,久しぶりに彼女と再会を果たして一緒にオペラも見た。
 ニューヨークをはじめとして,アメリカの多くの大都市はどこも再開発がすすんで,私がはじめて行ったころの治安の悪さや不気味さは薄れ,街中を気ままに散歩することもできるようになったが,サンフランシスコは,意外にも,40年前の不気味さが未だに残る都会だった。充実した旅であったが,そのことが一番の驚きだった。

 このときの旅で,唯一の誤算,というか,うれしい誤算は,私が訪れたとき,サンフランシスコは偶然,プライドのパレード(San Francisco Pride Parade)真っ盛りえということだった。プライドというのは,毎年6月,ゲイプライド月間に開催されるレズビアン,ゲイ,バイセクシャル,トランスジェンダー(LGBT)の祭典のことである。無知な私は,そんなお祭りがあるとは知らず,6月のサンフランシスコなんててっきりシーズンオフだとばかり思っていたから仰天した。そのため,宿泊できるホテルがなかなか見つからなかったし,やっと見つけても高すぎて泊まれなかった。ふたつ星のホテルが1泊50,000円くらいした。どうにかこうにかサンフランシスコ国際空港から歩いて20分というところに私の財力でも泊まれるホテルを見つけて,毎日,そこから地下鉄でダウンタウンを往復することになってしまった。
 そんなわけだったが,行こうと思っても行く気にならないこの時期に,知らぬが仏とでもいうべきか,私はサンフランシスコにのうのうと行ってきた。そして,プライドの祭典に遭遇した。これが私のこの旅でのサンフランシスコの一番の思い出となった。静かな地方都市だと思って徳島市に出かけたら阿波おどりの真っ最中だった,みたいなものだ。
 旅というのは,観光地なら,いつ行っても堪能できるし,お金さえ出せば,どんなおいしいものでも食べることもできる。しかし,こうした祭典だけは,そのときでなければ経験できないものだ。偶然とはいえ,ほんとうに幸運だった,と今では思う。

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●CAのお仕事●
 離陸してからずっと外を見ていた。眼下に広大なアメリカの大地が見えた。ヨーロッパと違って,アメリカからの帰国便は飛行機が西に向かって飛ぶ。つまり,地球の自転と反対方向なのである。
 地球は半径が6,380キロメートル余りなので,地球の1周は,40,000キロメートルほどである。1日に1回転するから24で割ると,時速1,500キロメートルとなる。これが赤道にいるときの自転速度である。
 ロサンゼルスから東京に帰る飛行経路は円周がもっと短いから,時速はおよそ1,000キロメートルといったところである。飛行機の時速は800キロメートルから1,000キロメートルだから,自転よりほんの少しだけ遅い。ロサンゼルスからの帰国便では,地球の自転と飛行機の進む方向が反対だから,飛行機は飛びながらほんの少しずつうしろに下がっているということになるわけだが,およそほぼ同じ速さと考えることができる。したがって,機内ではずっと同じ時間のままということになる。
 だから,窓から見た太陽はずっと同じ場所にある。窓を閉め切っているからわからないだけで,要するに,乗っている間中ずっと昼間なのである。そして,太平洋の真ん中にある日付変更線を越えるときに,日にちだけが1日進み,行きに得した分を返還する,ということになるわけだ。

 その昔は飛行機に乗ると,客室の中央に大きなスクリーンがあって,乗客はみな同じ映画を見た。そんなのどかな時代だった。それが今はそれぞれの座席にモニターがあって,自分の好きなものを見ることができるようになった。これだけハードウェアが凝っているのに,ソフトウェア,つまり,コンテンツが固定されていたりして,なかなか好きなものがない。
 現在では,家にいても Amazon Prime などで映画が見られ,音楽を聴くことができるが,Amazon Prime の方がマシなプログラムが並んでいる。
 やろうと思えば何でもできる時代になったのに,そして,機内で10時間も時間を過ごすのに,ハードウェアは進化してもソフトウェアのほうは工夫がなさすぎるというわけだ。

 考えてみれば,日本で夜行の高速バスなどを利用して旅行をするときだって,6時間以上の長い時間を狭いバスの中で過ごすのだが,こちらの方は寝ていれば到着してしまうから,退屈する,ということはない。ところが,どうして飛行機の機内で同じようにくつろげないのかと考えると,それは,食事のせいだと思い当たった。機内では,食事が運ばれたり片づけられたりとあわただしく,そのために,ゆっくりと過ごせないのだ。そんなもの,乗るときに弁当とペットボトルでも配ってしまえばそれでいいように感じる。そうすれば,食べたいときに食べて,寝たいときに寝ればいいわけでわずらわしくないのだ。それぞれに,牛肉がいいか鶏肉がいいかなどと聞きながら食事を配っているから,時間もかかるし,煩わしい。
 飛行機に乗ると,非常時以外,客室乗務員の仕事は,食事を配って片づけることだけのような気がしてならない。かつてはスチュワーデスといった,それは憧れの花形職業だったように思うのだが,今日,それが CA とよばれるように変わったけれど,その仕事にさほど魅力があるとは私には思えない。ちなみにCAというのは cabin attendant の略称であるが,これはジャパニーズイングリッシュ。英語では cabin crew,もしくは flight attendant という。

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●航空会社で違うこと●
☆6日目 2019年6月30日(日)
 帰国する日になった。
 昨年はレンタカーを返却するときに場所がわからず苦労したので,今年はそういったことがないようにと,地図を頭にいれてきたのだが,道路標示に従って運転していくと何の苦もなくレンタカーリターンの場所にたどりついた。昨年戸惑ったのはどうしてだったのだろう?
 レンタカーを返すときは車にトラブルもなく旅が無事終わることでいつもほっとする時間である。
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 今回はわずか5泊7日の旅だったが,ロサンゼルスとフェニックスの2か所でレンタカーを借りた。フェニックスではトヨタのカローラ,ロサンゼルスではニッサンのセントラであった。
 私は今後もアメリカに来る機会があることを望んでいるが,こうして旅をしていると,アメリカはストレスがない国だとわかる。というか,アメリカの田舎は誠に旅がしやすいと感じる。しかし,アメリカの都会には興味がなくなったし,アメリカには住みたいとも思わなくなった。
 こうして旅を振り返っていると,いつも頭に浮かぶのがフラグスタッフののどかな町の風景であるのが不思議なことだ。というより,フェニックスに限らず,アメリカのさまざまな地方で泊まったモーテルをチェックアウトをしようと迎えた朝の景色ばかりなのである。
 そうしてモーテルを出発するときは,また,いつでもその場所に来ることができるだろうと思うのだが,再びその地に行くことはほとんどない。
 地球は狭そうで広く,人生は長いようで,かくも短い。

 ロサンゼルスでは事前にチェックインがしてあったし荷物はキャリーオンだったので,セキュリティを通って,そのままデルタ航空のラウンジに向かった。ここで朝食をとって,搭乗時間までゆっくりと過ごす,これもまたいつもと同じであった。こうしたラウンジもまた,日本の空港では味わえないゆったり感である。
 やがて,搭乗時間になったので,ラウンジを出て,ゲートに向かった。
 帰りもまた,行きと同じくプライムエコノミーの先頭席である。ファーストクラスやビジネスクラスのようなフルフラットにはならないが,席が広く,また,食事が豪華で,これなら長時間のフライトも苦にならない。

 飛行機も,以前はデルタ航空ばかり乗っていたのでわからなかったが,航空会社によってさまざまなことがずいぶんと異なる。それぞれ長所もあり短所もあるが,今回,デルタ航空であっても機体がヨーロッパ製のエアバスだったので,イヤホンのジャックの形状が異なっていて2口のものだったのには驚いた。
 USBコネクタは,もう,ずいぶんと前からデルタ航空の飛行機にはついていたが,フィンランド航空の飛行機には最近までなかったし,オーストラリアのカンタス航空だと,離着陸のときイヤホンやUSBのコネクタに接続しているとはずせと言われる。食事もまた,航空会社によってずいぶんと異なるのだ。
 少し前,ひさびさにシドニーからの帰国便でJALの国際線に乗ったが,トイレに歯ブラシが用意されていたのには驚いた。いつも思うのだが,日本人というのは,こうした過剰なサービスには気が回るのに,というか,飛行機のトイレで歯磨きなどされたら,混雑して仕方がないと思うのだが,その反面,街を歩いていてトイレで入っても,手拭きペーパーさえない。立派なコンサートホールのトイレでさえ,なにもない。
 なんか,やっていることがものすごくちぐはぐなのである。

 まあ,それが日本である,ということにしておこう。
 とまれ,広い機内では,いつものように,特にすることもなく,だらだらと時間をつぶすことになった。映画を見るも,本を読むも,何をするのも,歳をとると面倒になってきた。時間を忘れてわくわくできるような何かがないだろうか,といつも思うのだが,妙案がうかばない。将棋の棋士なら詰将棋でも解いていれば時間を忘れるのだろうが,無能な私は歳をとって頭を使う気にもならなくなった。地上の旅なら風景を見ているだけで何時間もすごせるのだが,空の上ではそうもいかない。
 ところで,アメリカからの帰国便は地球の自転の逆らった飛ぶので,太陽から見たらいつも同じところを飛んでいる,というより浮いているから,ずっと太陽は同じところにある。だから,座席は太陽の光が直接入ってこない右側に座るに限るのである。
 やがて,日付変更線を越えて,日にちだけが1日過ぎ,行きに徳をした分を回収されて,そのうちに日本の陸地が見えてくると着陸である。そういえば,行きは着陸前の食事がでてくるのが遅くて,離陸直前にはっちゃかめっちゃかになったことを思い出したが,帰りはそういうこともなく,食事が出てきた。
 これで旅も終わりである。この時は,この旅は旅をしたという高揚感もときめきもなく単に通勤をしているような気持ちになってしまっていたのがとても寂しかった。しかし,今は,そういう旅すらできなくなってしまった。それもまた,寂しい。

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●見える景色が違いすぎる。●
 パロマ天文台に至る登りの山道の手前に,レストランとギフトショップがある。昨年(2018年)来たときは早朝だったので,これらの店はまだ開いておらず,しかも,パロマ天文台の公開は中止だったので,早々に引き上げてしまったから,この店が開いている姿を見ることはなかった。
 そして,今年(2019年)もまた,早朝にパロマ天文台に向かったから,行くときは当然,開いていなかった。パロマ天文台の見学を終えた帰り道,私ははじめてこのレストランとギフトショップが開いているのを目撃することができた。そこで,このレストランで昼食をとることにした。

 アメリカに限らずオーストラリアなどでも,観光地には結構こうした気軽なレストランがあって,そこではハンバーガーをはじめとする手軽な食事を楽しむことができる。それはいわば,日本の観光地にあるおそば屋さんのようなものである。
 しかし,日本との違いは,どこも混雑していないので,とても精神的に落ち着く。私はここでサンドイッチセットを注文して,ゆっくりと食事を楽しんだ。時間が過ぎていくのが快適である。
 こうしてこの旅で,私は,来るまえにやりたいと思っていたことのすべてを実現することができた。あとは,ロサンゼルスのモーテルに戻り1泊して,帰国するだけだった。

 来た時とほぼ同じ道のりでロサンゼルスに戻った。ロサンゼルスといっても,私は,ダウンタウンには興味がない。今回もまた,空港に近く,かつ,安価なモーテルに宿泊をしているから,私の滞在している場所は,おそらく,多くの日本人のイメージするロサンゼルスとは異なっている場所だろう。
 3時間近く走ってモーテルに着いた。少し休憩してから,近くを歩いてみることにした。ついでにどこかで夕食を,と思ったが,結局,昨日と同じ店になってしまった。
 私の泊っていたあたりは治安も悪くなさそうな,ロサンゼルスの下町,というか,普通のアメリカ人が生活している場所であった。
  ・・
 若いころの私は,団体ツアーのような観光旅行でなく,アメリカなどの海外に住むことに憧れていた。結局,それはかなわなかったが,それでも,これまで海外に多く出かけ,時には,その地に住む人の家を訪問する機会もあったり,実際数日滞在したりして,そのまねごとを経験することができた。
 その結果,海外に住みたいという憧れはなくなってしまった。というか,結局,どこに住んでいても,それが日常であれば,結局はどこでも同じだということを知ってしまった。

 一言でいえば,それは,日常というのは,何も期待してはいけないということを知ってしまったということだ。とはいえ,電気やガス,水道などのインフラが完備されていて,治安がよいということが大前提であるが,残念ながら世界にはそういった大前提すらなかなかかなえられていないということは承知しているから,これは贅沢な話であろう。
 そうした大前提さえあれば,あとは,どこ国であっても,どんな大豪邸に住もうとワンルームマンションに住もうと,そうは違いがなく,誰しもが同じような日常生活があるだけだ。 
 特に,アメリカは,表面的には自由と平等がもっとも尊ばれる国ということにはなっているが,実際は,場所によって住んでる人も財産も治安も区別されているようなところがある。学校生活もまた,同じ人種のグループが出来上がっているという話を聞く。そんな国で生きるのは,結構大変なことのように私は思う。結局のところ,どこで生きるのも大変なのだ。
 生きるも地獄なら死ぬるも地獄とはよくいったものだ。

 そんなことを思いながら,町を歩いていた。
 バス停があり,ファーストフード店があり,スーパーマーケットがあり,学校がありという,ここにはアメリカの日常があった。住宅街を歩いていると,庭に,アマゾンからの届け物が置かれてあったりした。もし,私がここに住んでいたとしても,所詮は,日本で生きるのと同じように,毎日,通勤し,仕事をし,人間関係に,そして,近所づきあいに悩み,休日は,このあたりでショッピングをしたり,外食したりして,平凡に一生を送るのだろう。
 都会に住むというのは,アメリカでも日本でも,所詮,それだけのことのように思える。
 一方,都会の雑踏を離れ郊外に出れば,アメリカや,オーストラリアなどでは,日本にはない異なる姿を見ることができる。それは,雄大に広がる大地である。
 私は,荒野,というか原野で生きる術をまったくもっていないから,そうした場所で生きることはできないが,もし,そうした場所で生きる術を知っていたとしたら,と考える。それは,アメリカの農村地帯やらオーストラリアの大平原,そして,もっと厳しいフィンランドやアラスカの極寒の地を見てきて,私が感じることである。そうした厳しい自然tと向き合って生きることこそが,本来の人間の姿であるのだろう。
  ・・
 海外を旅するごとに,私はさまざまなことがよりわからなくなってくる。このような現実に直面してから日本に帰国すると,日本での価値観で生きている人との遊離をより一層感じるようになっていくのである。私が海外で見てきたものは,多くの日本人が見えている景色と違いすぎるのである。ああ。

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●夢にまで見た200インチ望遠鏡●
 宇宙の構造,宇宙の物質,星と宇宙の進化のなぞを解くことを目的とした口径200インチの反射望遠鏡を建設するため,1928年,ジョージ・エレリー・ヘールさんは600万ドルの寄付をロックフェラー財団に訴えた。建設場所として選ばれたのがパロマ山であった。
 しかし,直径200インチ反射鏡のガラス材をつくるには多くの困難があった。ニューヨークにあったコーニング・ガラス社で耐熱のパイレックスガラスの巨大な塊が何回もの失敗のあとでやっと鋳型に流し込まれたのが1934年の暮れであった。冷却炉の中で10か月もかかって焼きなましが終わった。
 ガラス材はパサディナのカリフォルニア工科大学の研磨工場に運ばれ,11年の歳月を費やして鏡は100万分の1センチメートル以下の誤差で磨かれた。こうして完成された反射鏡は,厚さが76センチメートルもあり,重さを減らすために裏側がハニカム構造になっていて,重さは約20トンに抑えられた。ガラスの表面は,たった30グラムのアルミニウムでメッキされた。
 望遠鏡の鏡筒は,長さ約18メートル,直径7メートル,重さ125トンで,300トン以上の支柱の中で油の入ったペアリングで鏡が支えられた。
 望遠鏡が完成したのは1948年であったが,ヘールさんは望遠鏡の完成を見ることもなく,1938年に亡くなった。

 この望遠鏡は現在も現役であるが,さすがに設計が古く,その維持が大変そうである。
 現在,1枚鏡の最大口径の望遠鏡は,ハワイ島マウナケア山頂にある日本のすばる望遠鏡であるが,現代の大望遠鏡のほどんとは,1枚の反射鏡ではなく六角形の多くの反射鏡を集めて大口径とし,それぞれの鏡が同じ場所に焦点を結ぶようにコンピュータで調整している。
 パロマ天文台の200インチ望遠鏡の1枚鏡は自重でたわまないように分厚いが,最新型のすばる望遠鏡は1枚鏡ではあるが非常に薄く,たわむことを逆に利用して,それをコンピュータで制御している。
 また,パロマ天文台の駆動装置は赤道儀式で,その欠点である天の北極あたりの視野が見られないという欠点を克服するために馬蹄形をしている。それに対して,スバル望遠鏡をはじめとして,現代の最新式の大望遠鏡は,大げさな赤道儀ではなく径儀台となっていて,コンピュータで制御し追尾を行っている。
 このように,パロマ天文台の200インチ望遠鏡は,コンピュータでの制御ができなかった時代のものなので,現代の大望遠鏡とは根本的に設計が異なっている。パロマ天文台の200インチ望遠鏡は,「1枚鏡の赤道儀」として最後の大望遠鏡である。

 見学ツアーは,まず,ドームの入口の前でこうした望遠鏡の歴史をレクチャーしてから,いよいよドームに入った。ドームの1階部分では反射鏡の再メッキができる工場があった。それらの装置の説明ののち,端にある階段を上って,ついに,望遠鏡のある2階に登ることができた。夢にまで見た望遠鏡との目の前での対面であった。
 ドームはものすごく巨大で,外観もピカピカ,今も現役の200インチ望遠鏡はしっかりと整備されていて,ドーム内もきちんと整理整頓がされていた。
 ツアーは私の期待をはるかに超えるものであった。私のような専門家でなく単に興味本位で見学に来た日本人に対しても質問すると十分に時間をとって丁寧に答えてもらえた。
 こうして私は,昨年のウィルソン山のふたつの歴史的な反射望遠鏡に続いて,この年は,フラグスタッフにあるローウェル天文台のふたつの歴史的な望遠鏡,そして,パロマ天文台の200インチ望遠鏡と,夢に見たアメリカの有名な望遠鏡たちを,それもすべて,ガラス越しでなく目の前で見て,さらには触れることができたのだった。

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 私はこの後日本に帰ってから木曽観測所のシュミット望遠鏡をこれもまたドームに入って目の前で見学する機会があった。そのときのことはすでにブログに書いた。木曽観測所のシュミット望遠鏡もまた設計は古いが,関係者のさまざまな努力で今も現役で使用されている。
 しかし,ドームの外観はさび,望遠鏡もテープで補修がしてあったりして痛々しかった。また,ドーム内はいかにも日本の研究施設然として,きちんと整理整頓がされておらず,使わなくなった機材なども無造作に置かれていた。また,パロマ天文台の200インチ望遠鏡のような再メッキ工場が1階部分にあるわけでもなく,ミラーを外して,外部にもっていかなけらばならないという話であった。
 私はこういうものを比較するたびに,本当に日本は学問や文化に金をかけない国だなあとつくづく情けなくなってくる。さらに,この4月には,日本の天文学に関する予算が減らされて,水沢観測所や野辺山観測所の研究が従来のように行えなくなったという話も聞いた。
  ・・・・・・

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●ついにあこがれの望遠鏡を見た。●
 幸運にも,土曜日に来たことで待望の口径200インチの反射望遠鏡をガラス越しでなく直に見ることができることになった。もし金曜日だった昨年パロマ天文台に来たとき,駐車場が工事中でなければ,私はガラス越しに望遠鏡を見ただけで満足していたことだろう。そして,その翌年に再びロサンゼルスに来ることもなかっただろうから,大谷翔平選手を見ることもなかったであろう。
 不思議なものだ。
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 ツアーがはじまるのが午前10時30分なので,それまでビジターセンターを見学して,それでもまだ時間があったので,ガラス越しでいいからと,ツアーの前に200インチ望遠鏡のドームに行って,ガラス越しに望遠鏡を見ることにした。
 ドームの一般者見学用の入口から中に入ると,そこにあったのは,ヘールさんの銅像であった。
 ジョージ・エレリー・ヘール(George Ellery Hale)さんのことはすでに書いたが,ここで再び紹介する。

  ・・・・・・
 ジョージ・エレリー・ヘールさんは,1868年にシカゴで生まれ,1938年に亡くなった天文学者である。1897年,シカゴの実業家チャールス・ヤーキスの資金を得て口径40インチ(101センチメートル)の屈折望遠鏡を備えるヤーキス天文台を建設した。さらに,1904年にはカーネギー研究所の寄付を得て,その当時世界最大となった口径100インチ(257センチメートル)の反射望遠鏡を備えるウィルソン山天文台を建設し初代台長になった。ヘールさんは,さらに,ロックフェラー財団から寄付を受けて,パロマ天文台の建設に着手するのだが,その完成を見ることなく死去した。
  ・・・・・・

 奇しくも,この日はヘールさんの151回目の誕生日であった。昨年のこの日は生誕150回目の輝ける記念日で,そのためにウィルソン山天文台は特別公開を実施していたのに,パロマ天文台はそんなことは知ったことでない,という感じであったように思えた。今日はヘールさんの誕生日だと,天文台のツアーのときに係の人に話したら,驚いていたので,まったくご存知ないようであった。
 ドームの一般者見学用の階段を上っていくと,他の多くの天文台同様にガラス越しに望遠鏡を見ることができるブースがあった。そのブースから,巨大な望遠鏡の姿をはじめて見ることができた。ヘールさんが生前見ることができなかったまさにその望遠鏡が,私の目の前にあると思うと感動した。
 これこそが,私が子供の頃から憧れた望遠鏡の実物であった。
 こうして,私は,またひとつ夢が実現したのだった。

 ガラス越しに念願の望遠鏡に対面して,それで私はすっかり満足して外に出た。
 やがて,ツアーの開始時間が近づいて,結構多くの人が集まってきた。ツアーの人たちの入口は先ほど私が入っていった一般者見学者用の入口の反対側にあって,その入口の前がツアーの集合場所であった。
 このときのツアーの参加者のなかにはひとりかなり専門的な人もいた。ツアーの説明をしてくれる人は4,5人もいて,どんな質問にも答えてくれるということだった。人が多いのは,そうした配慮の他に,不振者が混じっていたときの対策も兼ねていたのだろう。
 説明スタッフの中に親切そうな女性がいて,私に昨年も来たんですってね,といって,こそっと,私だけ特別に記念切手のお土産をプレゼントしてくれた。昨年入れなかったと受付で話したのが功を奏したようだった。とてもうれしかった。
 さあ,いよいよツアーの開始であった。

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●パロマ天文台のビジターセンター●
 アディソン・ホワイト・グリーンウェイ・ジュニア・ビジターセンター(The Addison White Greenway, Jr. Visitor Center)というのがパロマ天文台のビジターセンターの正式名称である。1947年,天文学愛好家とカリフォルニア工科大学の支援者であるケイト・ブルース・リケッツ(Kate Bruce Ricketts)によって彼の息子の記憶を称えるためにこの名前がつけられたということだ。
 ビジターセンターに入ると,まず,オリオン大星雲(M42)として知られる星形成地域をパロマ望遠鏡を通して見た写真が出迎えてくれた。
  博物館は大きなものではなかったが,パロマ天文台の歴史を初期のものから現在使われているものまでの望遠鏡をはじめとするさまざまな観測機器,そして,それを使用してなし得た科学的発見,天文学の世界の最新の発展についての充実した展示が並んでいた。
 アメリカの博物館の展示はどこもレベルが高い。
 そして,この博物館の中央に位置するのが口径18インチ(0.46メートル)のシュミット望遠鏡であった。18インチシュミット望遠鏡はパロマ天文台に置かれた最初の機器である。

 18インチシュミット望遠鏡の建設は,超新星として知られる爆発する星を探すために空の広い領域を効率的に撮影できる機器を必要としていたカリフォルニア工科大学の天文学者フリッツ・ツヴィッキー(Fritz Zwicky)によって提唱され,ロックフェラー助成金から資金提供を受け, 望遠鏡メーカーのラッセル・W・ポーター(Russell Williams Porter)によって設計された。
 シュミット望遠鏡は焦点面に写真フィルムが置かれるが, ミラーと補正プレートの直径はそれぞれ24インチ(61センチメートル)と18インチ(46センチメートル),焦点距離は36インチ(92センチメートル)で,F2という明るさをもっていた。視野の直径は8.75度,満月17個分もあった。
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 18インチシュミット望遠鏡で写真を撮るには,観測者はまず望遠鏡の暗室でフィルムカッター(「クッキーカッター」とよばれる)で6インチ(15.5センチメートル)の未露光フィルムを切り抜き,それを適切な球面曲率を適用したフィルムホルダーに取り付けて露光中にフィルム全体に焦点を合わせることになる。
 フリッツ・ツヴィッキーは,撮影した写真をカスタムメイドの顕微鏡を使用してスキャンをすることで,小惑星や彗星を探した。こうして,1937年に最初の超新星を発見,1942年第二次世界大戦によって検索プログラムが中断されるまで,合計19個の超新星を発見した。

 18インチシュミットは1936年に完成し,1949年までパロマ天文台唯一の運用可能な望遠鏡であったが,その後は,新しく作られた口径48インチのシュミット望遠鏡(Samuel Oschin Telescope)と口径200インチの反射望遠鏡(Hale Telescope)に役割を譲ることになった。
 しかし, 1970年代から90年代にかけても,この18インチシュミット望遠鏡は現役で,太陽系の小天体の体系的な探索に使わ,数百個の小惑星や数十個の彗星を撮影するなど,多数の小惑星と約50の彗星を含む多くの発見がもたらされた。そのなかでも特に有名なものが,キャロリン・シューメーカー(Carolyn Shoemaker)とデイビッド・レビー(David Levy)が1993年に発見し,のちに木星と衝突したシューメーカー・レビー第9彗星(Comet Shoemaker–Levy 9)である。…と聞くと,特別の感慨を覚える。
 18インチシュミット望遠鏡は,1990年代半ばにその役目を終えた。2013年に再び組み立てられ、現在は博物館に展示されている。

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●50年来の夢の実現●
 早く着きすぎたので,ふもとの,景色がよく見える広い場所でしばらく休憩して,午前9時少し前にパロマ天文台の入口に着いた。
 昨年来たときは9時を過ぎても決して開くことのなかったパロマ天文台の門だった。まだ,午前9時より少し早かったのにも関わらず,その私にとって「開かずの門」はそんな悪夢(=2番目の写真)はなかったかのように,難なく開いていた(=3番目の写真)。
 こうして,私の50年間の夢が実現したのだった。何事も苦労して手に入れたほうがずっと思いが深いものだ。
  ・・
 門を通り過ぎて天文台の構内の道路を入っていくと,その先に広い駐車場があって,すでに,2,3台の先客の車が駐車していた。車を降りると,駐車場の右手にビジターセンターがあった。私は,もっと大きなビジターセンターを想像していたので,正直少しがっかりした。
 ビジターセンターに入ると,そこにはこれまた小さな売店と展示があった。軽食をとることができるレストランなどもあると思っていたが,一般の見学者用にあったのはこの建物だけだった。このビジターセンターは土曜日と日曜日だけ開いているということだった。

 私は昨年,ロサンゼルス近郊のウィルソン山天文台と,サンディエゴ郊外のこのパロマ天文台を見ようとアメリカにやってきた。結局,昨年はパロマ天文台は構内に入ることができなかったが,ウイルソン山では特別公開を見ることができたことは,すでに何度も書いた。ウィルソン山天文台には軽食がとれるレストランや充実した展示室があった。
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 実は,私は無謀に旅をしているわけではなく,ちゃんと昨年(2018年)アメリカに来るまえに,このふたつの天文台の公開情報について調べてきたのだった。そのときの結論は,パロマ天文台は平日でも一般の見学ができ,ウィルソン山天文台は週末のみの公開ということであった。そこで,ウィルソン山天文台には週末に行くことにし,パロマ天文台には,奇しくも,ちょうど今年(2019年)と同じ6月29日(ただし昨年は金曜日だった)に行ってみたのだったが,何度も書くように,駐車場の工事をしていて臨時休館で入ることができなかった。
 そして,その1年後,どうしてもパロマ天文台が見たくて,またやって来た。この日に来たのは,週末だからではなく,単なる日程上の偶然だった。

 私は,口径200インチ(508センチメートル)の反射望遠鏡はガラス越しに見ることができるものだと思っていたのだが,なんと,ドーム内に入って間近に見ることができるツアーが週末のみ実施されているということを到着してから知った。ツアーが実施されるのは週末の午前10時30分からと午後0時30分からと午後2時からの3回であった。
 チケットはビジターセンターの売店で購入できるとあったので,さっそく午前10時30分のツアーを購入して,用紙に名前を書いた。その時に「昨年も来たのですがお休みでした」と告げたのだが,それがこのあとで幸運をもたらすことになる。
 この時点では,午前10時30分のツアーの申し込み者は私ひとりだったから,いったい何人参加するのやら… と思った。ここは別に新しい観光地でもないし,私のような望遠鏡を見たいというオタクがそれほど多いとも思えなかった。しかし,帰国後,ネットを見ていたら,50年来の夢がかなってパロマ天文台に行くことができたといった,まるで私が書いたようなブログを多数発見して驚いたものだった。

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●今年もまたここにやって来た。●
☆5日目 2019年6月29日(土)
 5日目になった。明日は帰国するだけなので実質上最終日である。この旅は5泊7日だが,1日中観光ができるのは途中の4日間,つまり,海外旅行では,旅行する日にちマイナス3日ということになる。だから,最低限6日,つまり4泊6日はないと満足な海外旅行はできないことになる。
 この旅はそれより1日多い7日間だったが,過ぎてしまえばあっという間であった。毎日まったく無駄なく旅を楽しめたのは,慣れているからだろう。
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 昨年(2018年)の旅で,私は,子供の頃からの念願だったパロマ天文台を訪れた。パロマ天文台は年中無休で公開されているということだったのだが,私が訪れたちょうどその日は天文台構内の駐車場の工事をしていて,公開が中止となっていて中に入れなかったということは,これまで何度かこのブログに書いた。
 そこで,今年(2019年),再び来ることになったのだが,パロマ天文台に再訪するためだけにアメリカまで行くのは... ということで,今年は,フラグスタッフやバリンジャー隕石孔などを旅程に加えた。それらの場所は,いつかは行ってみたとと思っていたところばかりであった。しかも,期せずして,大谷翔平選手まで見ることができた。
 昨年パロマ天文台の中に入れなかったから,こうして,それ以外の長年の夢もかなったのだった。もし,この旅をしていなかったら,コロナ禍でしばらく海外旅行ができなくなった今,ものすごく後悔していたことだろう。そう考えると,本当に幸運であった。

 が,幸運はそれだけではなかった。
 パロマ天文台を訪れたこの日が土曜日というのが,まさに奇跡であった。私は,曜日すら考慮しないで,偶然,土曜日にやってきた。私が見たかったパロマ天文台の200インチ反射望遠鏡は,通常はガラス越しにしか見ることができないのだが,ドームの中に入って見学できるツアーというものが,なんと,土曜日と日曜日のみ実施されていたのだった。
 つまり,昨年(2018年)はゲートが閉まっていてせっかく来たのに中に入れなかったが,入れなかったからこそ,今年(2019年)再びパロマ天文台にやって来て,それが偶然土曜日だったから,今年はドームの中まで入れたというわけだった。
 しかし,昨年はパロマ天文台に入ることができなかった代わりに,偶然,ウィルソン山天文台を訪れたその日が特別公開であった。そして,今年もまた,偶然,パロマ天文台のツアーに参加できたのだから,結果的にこれでよかったわけだ。

 昨年は,パロマ天文台へはサンディエゴから往復した。パロマ天文台はサンディエゴからのほうがはるかに近いということに加え,サンディエゴにも行ってみたかったからであった。サンディエコに行きたかったのは,MLBのサンディエゴ・パドレスの新しいボールバークでゲームが見たいというのが理由であった。
 今年は,サンディエコに行く理由がなかったので,ロサンゼルスから往復することになった。そこで,昨年とは経路が異なっていた。
 ロサンゼルスからパロマ天文台までは120マイル(約200キロメートル)あって,片道2時間以上と結構時間がかかるので,アメリカに来るまで気が重かった。しかし,この旅では,この日以前に,フラグスタッフまで行ってみたり,さらに,ホースシューベンドまで遠出したりして,すでにもっと長距離を走ったので,このころには,パロマ天文台への2時間の往復くらいどおってことなくなっていた。要するに気持ちの問題なのだった。
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 パロマ天文台は午前9時に門が開く。早朝6時すぎに,時間が惜しいので朝食抜きでモーテルを出発した。モーテルからは昨日ロサンゼルス・エンジェルスのゲームを見にいったときに通ったのと同じ国道91を走り,アナハイムを過ぎて,さらに東に進んでいってインターステイツ15に入る。そして,インターステイツ15を南東に進んでいって,テメクラ(Temecula)という町でインターステイツ15を降り,州道76に入る,という経路で走っていった。
 テメクラからは一般道である。このあとはわずか36マイル(約60キロメートル)なのだが,州道76は一般道かつ山道なので,まだそれから1時間程度かかる。パロマ天文台を目指して日本の山道のようなところを走っていくと,やがて,リンコン(Rincon)という数件の家がある小さな町に着いた。リンコンにはアメリカにはめずらしいロータリーがあった。このロータリーがこの小さな町のただひとつの交差点というわけであった。このロータリーの角によろずやがあったので,車を停めて中に入って,菓子パンと冷たい飲み物を買ったが,これが結果的に今日の朝食となった。この時点では,パロマ天文台にカフェくらいはあるだろうからそこで朝食を,と思っていた。

 リンコンから先は昨年走ったのと同じ道であった。昨年と今年,たった2度走っただけだが,なんども来たような気がしてすごく懐かしかった。途中でシカの親子が横切った。数年前,ワシントン州で巨大なシカが私の車にぶつかってきた記憶がよみがえったが,今回のシカは小さくおとなしかった。
 さらに山道を走っていくと,やがて,昨年も見たパロマ天文台の口径200インチ反射望遠鏡の巨大なドームが見えてきた。昨年はここで感激したが,今年は,果たして昨年開かずだった門は時間通り開くのだろうかと,少しだけ不安な気持ちになった。

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●ベースボール観戦は楽し。●
 ロサンゼルス・エンゼルスのこの日のゲームの開始は午後7時7分だった。
 どうして午後7時と遅いのか,という質問の答えは夏時間だから,である。また,どうして7分か,というのは,テレビ放送のためである。この細かい開始時間はチームによって異なり,5分というものもあれば11分というものもある。
 アメリカでは,スポーツはテレビ中継のコンテンツなのである。すべてが金なのだ。そこで,オリンピック中継もアメリカの時差に合わせて行われるし,時期が夏なのもまた,秋に行うとアメリカのスポーツシーズンに影響するからである。それにつき合わされるスポーツ選手はたまったものではない。
 未だにスポーツマンシップだとかきれいごとを言う人があるが,そんなものは虚構であって,オリンピックは巨額な金を生む単なる打ち出の小づちなのである。だから,日本の猛暑にオリンピックをするなどというバカげたことになるのだが,そのことを問題視しないマスコミもまた,金儲けのためにすぎない。高校野球もまた同類である。
 アメリカははじめっから,ビジネス,だから金,と割り切っているからそれで問題ないのだが,日本では,そこに,やれスポーツマンシップだとか青春の美談だとか,そういった建前を並べるから,私は嫌いなのだ。日本はいつも「やったふり」なのである。
 アメリカはそういう国なので,ペットボトル1本持ちこめないボールパーク内ではペットボトル1本を3ドル50セントで売っているのだ。そこに遠慮も忖度もない。これは善悪ではなく,アメリカではすべてが金次第の国ということの反映にすぎない。
 その一方で,弱者に対した寄付や慈善などもまた,日本とは違って徹底している。レストランでは金持ちはチップを弾む。これはキリスト教の影響といわれるが,おそらくは,いつもマネーゲームをしている罪悪感から逃れるためであろうと私は今思う。
 それに対して,日本では,建前はおもてなし,本音は金儲けである。これもまた,善悪でなく,これが日本なのだ。世の中は甘くない。見せかけの笑顔のうらには何が潜んでいるのか,これこそが建前と本音が異なる日本なのである。生徒のためと称して,本音は学校の進学実績というのもまた,これが日本なのである。
 
 アメリカのボールパークは開場がその2時間前だから,私は午後4時過ぎにモーテルを出て,ロサンゼルス・エンゼルスの本拠地であるエンゼルスタジアムに向かった。インターステイツ105からインターステイツ710,そして,国道91,国道55と進み,駐車場に着いた。事前に駐車場を予約しチケットを購入してあったので,係員の指示に従って車を停めたが,その近くには球団関係者の高級車がずらりと停まっていた。
 開場にはまだ時間があったので,いつものように,ボールパークの周りを散策していると,ハネムーンやツアー客など多くの日本人がいたので,しばし雑談を楽しんだ。
  ・・
 やがて,ゲームがはじまった。MLBのゲームは40回以上は見ているから,もう,珍しくもなんともない。今回の私の目的は大谷翔平選手の写真を写すことだけだった。歩き回っていい場所を探しておいて,大谷翔平選手の打順になったらそこに行って写真を写せばいいのだから,私の座席なんてあってないようなものだった。そこで,もっとも安価な座席のチケットを買ったのだが,このゲームで,私は,自分の座席に座ったことは一度もなかった。どこなのかもわからなかった。
 幸い,この日,大谷翔平選手は3番指名打者で出場して,ヒットを3本打った。私は大谷選手が出場するときだけゲームに集中して,それ以外の時間は大谷選手をどこで写真に収めるかを探すためにボールパーク中を歩き回っていた。適当な場所でカメラを構えていると係員がやって来て「ここで立ち止まって写真をとっていてはいかん」とか言うので,日本からわざわざミスター・オータニの写真を写しに来たのからちょっとだけごめんね,とか適当なことをいって仲良くなると,快く許してくれるのもまた,アメリカらしいおおらかさである。そこでチップでも出すと,もっといい場所まで連れ行ってくれるのかもしれない。
 ナイトゲームは,終了後,数千台,もしくは数万台の車が一斉に駐車場から出ていくことになるから大渋滞を引き起こす,交通制限もかかるから,道に迷う。そこで,私は毎回,ゲーム終了前に早々ボールパークを後にする。ゲームの勝敗なんてまったく興味がない。
 8回になる前,ボールパークを後にした。こうして,私は今回の旅で,大谷翔平選手も見ることができて,目的をまたひとつ果たした。これで,今後またアメリカにいくことがあっても,心置きなく,MLBのスケジュールにまどわされることもなく,行きたいときに行きたい場所に出かけて観光ができることであろう。…が,その日はまた来るのであろうか?

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●エンゼルスの大谷翔平選手●
 2018年大谷翔平選手がロサンゼルス・エンゼルスに入団した。
 私はMLBでこれまで数多くの日本人メジャーリーガーを見る機会があったが,ぜひ見たいと思ったのは,何といってもロサンゼルス・ドジャースに入団した野茂英雄投手であった。本拠地ではなかったが,遠征先のミズーリ州セントルイスでの先発を見る機会があって,何とかその夢を実現した。次に見たかったのはイチロー選手だったが,幸い,イチロー選手の属したすべてのチームで見ることができた。
 新庄剛志選手,城島健司捕手,ダルビッシュ有投手,前田健太投手なども,偶然も手伝って目の前で見ることができた。松井秀樹選手は現役時代に見ることはできなかったが,ニューヨークのヤンキースタジアムに行ったとき,偶然,引退試合を見ることができた。
 そのころの私は,まだMLBにずいぶんと関心があり,しかも情熱があって,思えばよき時であった。

 今の私にはまったくMLBに想い入れもなく,わざわざ見にいきたいとも思わなくなってしまったし,普段,テレビでMLBのゲームを見ることもなくなってしまったが,それでも,なぜか大谷翔平選手(投手?)だけは見てみたいものだと思っていた。
 昨年(2018年),私がロサンゼルスへ行くという計画をしたときには大谷翔平選手の入団は決まっていなくて,ロサンゼルス・エンゼルスに決まったときは,また私は運がいいなあと思ったものだが,このときは,運悪くエンゼルスは遠征中で,見ることができなかった。
 今年(2019年),別にロサンゼルス・エンゼルスの日程は知らなかったが,旅行の日程が決まった後でロサンゼルス・エンゼルスの日程を調べたら,偶然,私がロサンゼルスに滞在するころはホームゲームが続いていた。しかし,昨年のシーズン末に手術をして,復帰できるかとうか,というところであった(らしい)。「(らしい)」と書いたのは,私はMLBにほとんど興味がなくなっていたので,詳しい情報を知らなかったからである。私は,見にいく予定のゲームに大谷翔平選手は果たして出場するのかしらん? とかなり懐疑的であった。まあ,見ることができれば幸運だ,程度に思っていた。

 大谷翔平選手は1994年生まれというから25歳である。私がこの旅のあとで行った奥州市の出身で,投手でありかつ打者,つまり,このふたつを本格的に両立する「二刀流」である。「二刀流」などという居合抜きのようなプレイヤーを私はこれまで知らないから,どうやってやるんだろうと思っていた。 
 高校生時代は,甲子園の通算成績は14回を投げ防御率3.77,16奪三振。野手としては2試合で打率.333,1本塁打ということである。
 日本のプロ野球だけでなくメジャーリーグ球団からも注目され,本人は高等学校卒業後にメジャーリーグへの挑戦を表明したことは知っていた。しかし,北海道日本ハム・ファイターズがドラフト会議で1位指名をすると公表し,私はイランことをするバカな球団だと思った。何を言おうがどんな事情があろうが,北海道日本ハム・ファイターズの自分勝手,金儲けの口実にすぎない。そんなことは,野茂英雄投手が裏切り者同然で日本の野球界を去ったことを思えばわかる。みんな自分勝手なだけだ。北海道日本ハム・ファイターズの会議室で重役やスカウトたちが何を話していたか絵に描いたようにわかる。
 いろんな条件をつけて言いくるめ,その結果,かわいそうに,大谷翔平選手は,2013年から2017年までの5年間を日本のプロ野球でおくることになってしまった。私は日本のプロ野球にはまったく興味がないので,この5年間のことはまったく知らない。

 2017年末,大谷翔平選手は,ポスティングシステムを利用してメジャーリーグに挑戦する事を表明した。そして,ロサンゼルス・エンゼルスと契約合意に至ったと発表され,背番号は「17」と発表,マイナーリーグ契約を結んだ。2018年スプリングトレーニングに招待選手として参加,オープン戦では投手として2試合で先発登板,打者としても指名打者で11試合で起用されたが,防御率27.00,打率.125,本塁打なしと不振だった。それでもメジャー契約を結びアクティブ・ロースター入りし,開幕戦のオークランド・アスレチックス戦で「8番・指名打者」で先発出場し初打席初球初安打を記録。さらに,オークランド・アスレチックス戦で初登板初勝利した。
 この年は打者として104試合(うち代打22試合)に出場し,打率・285,22本塁打,61打点,10盗塁。投手としては10試合に先発登板し4勝2敗,防御率3・31の成績を残し,メジャー史上初の「10登板20本塁打10盗塁」を達成しシーズンを終了した。
 私が見にいったのは,その翌年2019年のことである。

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●リニューアルした古いボールパーク●
 ロサンゼルス・エンゼルス(Los Angeles Angels)はメジャーリーグベースボール(MLB)アメリカンリーグ西地区所属のプロ野球チームである。2015年まではアナハイム・エンジェルスと称していたが,2016年に球団創設時の名称に戻した。
 2010年には全盛期を過ぎた松井秀喜選手が入団,また2018年からは大谷翔平選手が入団して日本での知名度が増した。
 本拠地球場はエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム(Angel Stadium of Anaheim)で,場所はロサンゼルスの東南,ディズニーランドの近くなので,日本人が観光で訪れるには最高の場所であろう。

 1957年,ニューヨークにあったふたつの名門チーム,ナショナルリーグのブルックリン・ドジャースがロサンゼルスに,ニューヨーク・ジャイアンツもサンフランシスコに移転し,西海岸にMLBの球団が誕生し,ロサンゼルス・ドジャースとサンフランシスコ・ジャイアンツは初年度から多くの観客を集め,興行的に大きな成功を収めた。
 そのため,アメリカンリーグでも西海岸に球団を置くことが検討され,1961年のアメリカンリーグの球団拡張計画に基づき,ロサンゼルスにおける新球団の設置が決定した。新球団の名前はロサンゼルスの地名の由来である「天使=angel」から採られた。
 初年度はロサンゼルス・リグレー・フィールドを使用していたが,2年目からはドジャースの本拠地球場であるドジャー・スタジアムを間借りし,1966年にはついにアナハイムにアナハイム・スタジアムが完成した。

 こうして1961年,アメリカンリーグの球団拡張によって誕生したロサンゼルス・エンゼルスは,1979年に初の地区優勝を果たし,1982年と1986年にも地区優勝を遂げた。そして,2002年にはワイルドカードでプレーオフに進出し,初のワールドチャンピオンに輝いた。
 1997年から2003年までウォルト・ディズニー社が経営に携わっていて,2002年のワールドシリーズ初制覇の優勝パレードはディズニーランドで行われた。
 2003年にヒスパニックの実業家であるアルトゥーロ・モレノがオーナーに就任した。モレノはチケット,ビールの値下げ,家族向けの低価格帯グッズの販売などを展開し,ファン層の拡大にも力を注いだ。また,2003年以降は大規模な補強により,2004年以降の6年間に5度の地区優勝を果たしたが,その後は低迷気味である。
 昨年2018年は開幕15試合で12勝3敗という好成績を挙げ,1979年以来39年ぶりの球団タイ記録となる好スタートを切ったが,その後チームは故障者続出もあり地区4位に低迷,ポストシーズン進出を逃した。

 2019年2月25日,ロサンゼルスタイムズ電子版がエンゼルスの本拠地の移転候補としてロングビーチ市が名乗りを上げていると報じた。その一方で,2020年で現在の本拠地とのリース契約が終了した後もアナハイムに残る選択肢も検討しているという。
 私はMLB30チームすべてのボールパークに行ったことがあるが,ロサンゼルスに本拠地をもつ,ナショナルリーグのドジャースとアメリカンリーグのエンゼルスは,ともにボールパークが古い。さすがにリニューアルをしてはいるが,もともとの設計が古いことは変えることができないから,ほかの新しいボールパークに比べたらかなり見劣りするので,本拠地の移転が考えられるのも当然だろう。
 このふたつのチームのボールパークは,ボールパークとしてわざわざ訪れるような魅力もないし,私がここで特質することもない。

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●都会のなかの天文台って?●
 ロサンゼルスでは,レンタカーを借りてレンタカー会社の駐車場から出ると,すぐにジャンクションがあって,インターステイツ105に入ることができる。
 ロサンゼルスの市街地はものすごく広く,はじめて走るとつかみどころがない大都市である。インターステイツを走っているだけだと,まったくこの町の様子が把握できないのだ。
 インターステイツ105はロサンゼルスのダウンタウンよりかなり南にある空港から東に向かって走っていて,やがてはダウンタウンから南東に走るインターステイツ5と合流する。インターステイツ5はアメリカの南北を北はシアトルから南はサンディエゴまで続く主要道路である。また,アメリカのインターステイツの3ケタ番号はわかりやすくつけれていて,下2ケタの主要道路にやがては吸収される。
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 私は,今回の旅では帰国まえの2晩をロサンゼルスで過ごし2泊することになっているが,ロサンゼルスの市内観光をする予定はまったくなかった。この旅の計画では,この日の夜はディズニーランドのあるアナハイムでMLBロサンゼルス・エンジェルスのゲームを見ること,そして,明日は待望のパロマ天文台に行くことであった。そこで,空港とボールパークとパロマ天文台のどこに行くにも便利で,しかも快適で,かつ安価なモーテルを探していて,リンウッドという町に宿泊することにしたのだった。東京でたとえれば,空港が成田でアナハイムが浦安,パロマ天文台が埼玉県の堂平山,そして,宿泊するのが千葉,みたいな感じだろうか。

 インターステイツ105を東に走って,途中でインターステイツ710(この道がインターステイツ10の支線であることは番号からわかる)に乗り換え,少し北にいったところでジャンクションを降りて,一般道を西に数マイル行ったところに私の予約したモーテルがあった。
 昨年来たときはは少し節約しすぎて,散々なモーテルに宿泊することになってしまったので,今年は昨年よりは宿泊代の少し高いモーテルにしたのだが,改めて調べてみると場所は昨年宿泊したところとさほど離れていなかった。しかし,ずいぶんと町の雰囲気は異なっていて,昨年より断然雰よさそうな場所だった。
 予約してあったモーテルは期待通りきれいなところで,インド人のオーナーはとても親切そうな人だった。建物の外観やら,部屋の様子などから,オーナーの性格が几帳面なのがよくわかった。
 駐車場に車を停めてオフィスに行って予約してあることを告げると,チェックインの時間は午後3時からであり,私が到着したのが午後2時で,まだ少し早かったが,空き部屋があったので,幸いチェックインをすることができた。
 部屋で一休みをしてから,近くにあった「カールズジュニア」というバーガー店まで歩いていってそこで昼食をとることにした。
 ハンバーガーチェーンの「カールズジュニア」(Carl's Jr.)は私がおすすめする店である。昨年(2018年)アメリカに来たとき,半分冗談でアメリカのハンバーガーチェーン店巡りをしたことはすでにブログに書いたが,そのなかでも「カールズジュニア」のハンバーガーはおいしかった。日本にもかつて進出したことがあるということだが撤退した。近年,再び進出して関東地方に数店舗店を出しているということだ。

 ロサンゼルスはアメリカ西海岸にあって太平洋に面している。
 空港から北西に州道1を走ると,マリーナデルレイというヨットハーバーがあり,その北西にはサンタモニカがあるというように,有名な地名が続く。サンタモニカからは州道2を北東に行くとビバリーヒルズ,ハリウッド,そして,グリフィス天文台というように,ロサンゼルス観光の入門コースが続いている。また,その南がロサンゼルスのダウンタウンでりあり,ダウンタウンの北側にはチャイナタウンとリトルトウキョウ,そして,ドジャースタジアムがある。
 こうした場所がいわゆる日本人の知るロサンゼルスという場所であるが,ロサンゼルスの観光地は決して治安のいいところでない。私は,ハリウッドのマクドナルドで置き引きにあったこともあり,いい思い出はないので,今は行きたいとも住みたいとも思わない。
 グリフィス天文台というのは,19年前に一度,ロサンゼルスの町が一望できる,夜景の美しい場所ということで,行くでもなく行ったことがあるが,ここは「理由なき反抗」「チャーリーズ・エンジェル」といったハリウッド映画のロケ地として有名である。実際は,天文台というより科学館とでもいうべき一般向けの場所であるから,世界中の天文台巡りを趣味とする私には特に興味がない。そもそも,星空の美しい場所ならともかく,夜景が美しい天文台って,一体なんだろうと思ってしまう。
 グリフィス天文台は,メキシコの銀鉱で財産を作った資産家のグリフィス・ジェンキンス・グリフィス(Griffith Jenkins Griffith )が1896年にクリスマス・プレゼントとしてロサンゼルス市に寄付したもので,広さ3,015エーカー(約12平方キロメートル)ある公園である。グリフィスがヨーロッパを視察した際に、整備された公園に感激しロサンゼルス市民の憩いの場所として贈ったのが発端である。…と,ここまではいいのだが,グリフィスは,のちにウィルソン山天文台を見学して感激したことで,公園に天文台の建造を企画した。グリフィスが殺人未遂を起こしたため一度は保留になったのだが,のち,グリフィスが遺言で天文台と劇場の建設の寄付を書き残し,グリフィスの死後,1935年に完成したものだ。しかし,そもそも大都会に天文台を寄付するって,何かひとつおかしい気がする。

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●不人気車は売れ残る。●
 ロサンゼルスのダウンタウンが眼下に見えてきた。大きな学校があった。おそらく高等学校だろう。それにしても豪華だ。専用のフットボール競技場やベースボールスタジアムがある。
 こういうのを比較すると,常にいわれるのは,日本は狭いから,という言い訳である。しかし,土地があるかどうかというような問題ではないだろう。日本は教育に金をかけなさすぎるのだから,もうどうしようもない。と,こういう景色を見るといつも思い,絶望的になる。
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 やがて,定刻ロサンゼルス国際空港に着陸した。
 ロサンゼルスに戻ってきた。
 この旅では,来たときはロサンゼルスに到着して,そのまま乗り換えてフェニックスに行ったので,ロサンゼルスの町に降りるのはこれが最初だった。しかし,昨年もロサンゼルスには来たので,昨年は少し戸惑ったが,もう,すっかり勝手がわかっていて,空港ビルを出て,レンタカー会社のシャトルバス乗り場に行った。
 そういえば,19年前,知ったかぶりでロサンゼルスに着いた私は,そのときは空港ビル内のターミナルにレンタカー会社のカウンタがあるものと思い込んでいたから,それが見つからず,空港で困り果てた。どうすればレンタカーオフィスに行くことができるかさっぱりわからなかった。仕方なくビルの外に出たが,案内標示もなく,しばらく途方に暮れたのを思い出した。
 忘れていることも多いのに,こうした困ったことだけはずっと覚えているのはどうしてだろう?

 レンタカー会社のシャトルバスに乗り込んだ。乗ったときは空いていたが,このシャトルバスは,空港のターミナルを巡回して,それぞれのターミナルで客を乗せていくので,次第に混雑してきた。こういうシステムは,知ってしまえば当たり前なのだが,はじめて行ったときはずいぶんと心細いものだろう。
 隣に乗り合わせた男性が話しかけてきた。日本と違って,見ず知らずの人とも隣り合うと雑談を交わすのがアメリカ流といったところだ。彼はこれまで78か国に仕事で行ったと言っていた。すごいものだ。もちろん日本も行ったことがあるということだった。
 私が行ったことがあるのは…,そう,考えてみると,せいぜい11か国でしかない。

 ロサンゼルス国際空港はめちゃくちゃ混んでいたが,これは,空港のターミナルビルが工事中であることと,ターミナルのアクセス道路が空港の中央部分にすべて集まっていて,これもまた工事中であることが原因であろう。これは,2028年に開催されるオリンピックの準備である。
 シャトルバスは,やっと空港エリアを出て,まもなくレンタカー会社の駐車場に到着した。ロサンゼルスは空港の周りにそれぞれのレンタカー会社の敷地が別々にあるので,自分の借りたレンタカー会社のある場所を覚えておかないと,返すときにパニックになる。これもまた,昨年学んだことだ。
 レンタカー会社のゴールドエリアには多くの車が並んでいて,そのどれを選んでもいいというのもまた,昨年知った。借りるときにインターネットで選んだ車の車種など全く無関係で,車のランクが同じならどれを借りてもいいわけだ。オプションでカーナビを借りたときは,別途出口で受け取ることになる。
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 昨年借りたときは車のほとんどがカローラだったので今回もそれを期待したが,カローラは1台しかなかった。それにしようと思ったが,ほかの車も見てみようと物色しているわずかの間に私が借りようと思ったカローラはとられてしまい,後悔した。仕方がないのでニッサンのアルティナにした。
 レンタカーもこのようなシステムにすると,自分で車を選べるので便利だし,レンタカー会社もまた手間がかからないからウィンウィンである。しかし,このシステムは車の人気投票という事実を呈する。まず売れ行きがいいのは故障のない日本車である。最後まで残ってしまうのは不人気車であるが,それはいつもヒュンダイであった。

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●アメリカの高速道路は美しい。●
 窓際の座席を選んで座ったので,晴れ渡る窓の外にはフェニックスの町がよく見えた。
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 すでに書いたように,19年前,私はロサンゼルスから車でインターステイツ15を北東にラスベガスを経由して,国道93を南東にキングズマンへ出て,そこからインターステイツ40でセリグマン,ウィリアムズと東に向かってに走り,ウィリアムズで北上してグランドキャニオン国立公園のサウスリムにたどり着いた。
 古いことなのでほとんど記憶にないが,ロサンゼルスからグランドキャニオン国立公園がえらく遠かったことと,ウィリアムズから北に向けて走っていたとき,こんな大草原の向こうにグランドキャニオンという大渓谷が本当にあるのだろうかと思ったことだけは覚えている。
 その後,橋のないコロラド川を延々と迂回して対岸のノースリムへ行き,さらに,その先のモニュメントバレーまで行った。そして,南西へ引き返し,フラッグスタッフを経由して,フェニックスへ着いたのだった。
 その時の旅では,フェニックスからロサンゼルスまでも車で帰るつもりだったが,さすがに力尽き飛行機を利用した。
 当時のフェニックスの見どころは,お昼間は動物園くらいのものであったが,夜はMLBダイヤモンドバックスのゲームを見た。先発はあの有名なランディ―・ジョンソン投手であった。私はいつもツイているのだ。
 そのときのフェニックスの印象は,ものすごく暑かったことと,1泊したあと,目覚めたらすでに午後で,こんなに寝てしまったことは人生で後にも先にもなかったということだ。私が当日探して泊った場所は,結構「ヤバい」ところで,周りは古びた家だらけで,昼間から怖そうな男がふらふらしていた…,と当時は思ったが,今考えるとそうでもない普通のアメリカの普通の場所だったかもしれない。
 当時はまだアメリカのことは今ほど知らず,なにもかもが怖かった。であるのに,行動は今よりずっと大胆であった。

 飛行機の窓から見ていると,そんなことを思い出してきた。
 おそらく飛行機はインターステイツ10に沿ってその上空を飛んでいたのだろうが,フェニックスの町を過ぎると,眼下にはオーストラリア大陸の荒涼とした大地のような,砂漠の荒野が広がってきた。どの国でもそうだが,空から見るとそんな景色であっても,地上を走ると結構人が住んでいたりするのが不思議だ。それにしてもいつも思うのだが,地球というのは広いのやら狭いのやら…。新型コロナウィルスのようなたわいもないものが発生するだけで,地球上のすべてがパニックになり,人間の作ってきたシステムはすべて台無しとなり,逃げ場所すらない。
 いずれにしても,未開の地などというものはもはや地球上のどこにも存在せず,人間は地球をぐっちゃぐちゃにしすぎた。地球の代わりになるものはないのだから,やがては破壊しつくして地球をぶっ潰してしまうのだろう。それも近い将来…。人類の滅亡も近いかもしれない。そして,人類に代わる新しい生物がまた登場して,同じ愚を繰り返すのだろう。
 やがて,ロサンゼルスの広大な市街地が見えてきた。大自然をぶっ潰して作ったアメリカの大都市はどこも高速道路がとても美しく見える。ジャンクションの幾何学的な模様には,いつもほれぼれする。

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☆ミミミ
6月21日は,夏至であり,台湾では金環日食,日本では部分日食が見られましたが,残念ながら曇り空でした。雲を通して,なんとか写真を写せました。
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●19年ぶりのフェニックス●
 ロサンゼルス国際空港はあまりに入国者が多いから,ESTAによる入国者の場合ほぼ流れ作業で,キオスクという機械で手続きをして印刷された用紙を手渡してパスポートに滞在期限のスタンプをもらうだけでさばいているので,むしろ暇そうなニュージーランドなどで入国するよりずっと簡単であった。私はこのあと,国内線のターミナルに行って,アリゾナ州フェニックスまで行く国内線に乗り換えることになる。
 国際線ターミナルから国内線ターミナルまではエアポートシャトルバスもあったようだが,次のフライトまでの待ち時間が3時間程度もあったから,私はのんびり歩いて国内線の第2ターミナルまで行った。そして,混雑する第2ターミナルの搭乗ゲート階を避けて,その上の階にあるラウンジ・デルタスカイクラブで時間をつぶした。
 私はこれまでさまざまな空港を利用したが,どこも入国検査場はごった返しているから,入国を終えるとホッとする。
 国内線に乗り換える場合も,乗り換えない場合も,まず到着した空港で入国の手続きをするのは同じだから,到着早々次のフライトへのトランジットはひと手間減るわけでもないが,逆に,帰国するときのトランジットは,はじめに搭乗手続きをする空港でセキュリティを通ればトランジットをする空港で再びセキュリティを通る必要がないからひと手間少なく楽である。
 しかし,オーストラリアでトランジットしてニュージーランドに行く場合はオーストラリアでは入国手続きをしなくても空港の通路を通ってそのままニュージーランド行きの便に乗ることができるからとても楽(=3番目の写真)だ。今ニュースで話題の香港の空港でトランジットしてオーストラリアに行くときは,香港で入国しなくても再びセキュリティを通らなくてはならず,面倒(=4番目の写真)である。香港はトランジットが楽とよく書いてあるが,私はそうは思わない。
 このように,トランジットをするときは空港によっても国によってもシステムが違うのだ。

 ラウンジに着いたのはお昼過ぎだった。前回書いたように,着陸直前の機内であわただしく配られた朝食ではあったが,ともかく食事を終えたので,ラウンジで再び何かを食べる必要もなかったのだが,食べ物がずらりとならんだラウンジでおいしそうなサンドイッチがあったので,思わず手を出してしまった。
 やがてフェニックス便の搭乗時間になったので乗り込んだ。小さな古い機体だった。なかなか離陸できず,機内でずいぶんと待った。しかし,この日の私はフェニックスに着いてからはレンタカーで2時間ほど走ってフラッグスタッフまで行くだけの予定だったから,多少の遅れは特に問題なかった。
 ところで,飛行機が離陸するために飛行場を滑走路まで走ることを英語で「taxi」という(=2番目の写真)のだが,「taxi」にこんな意味があることを日本の学生はほとんど知らない。
 今日の1番目の写真のように,飛行場では離陸する順番待ちの飛行機がまるで人が順番待ちをするように並んでいて壮観なのだが,窓際にでも座らなければ,乗っている人はなかなかそれが見られない。私は窓側の席だったから窓からずっとそれを見ていた。
 やがて,乗っている飛行機の離陸の順番になった。1時間と少しのフライトののち,砂漠のなかに忽然と,以前見たことがあるフェニックスの町が見えてきた。19年ぶりのフェニックスだった。

帰国の日。
モーテルを朝7時にチェックアウトしました。私が2泊したロサンゼルスのモーテルには朝食がついていたのですが,昨日はその用意ができる時間よりはやくモーテルを出発したので,利用できませんでした。この日の朝はちょうど用意ができた時間だったのですが,私はロサンゼルスの空港のラウンジで朝食をとるつもりでした。チェックアウトをするときにオーナーから朝食を進められたので,少しだけいただくことにしました。気持ちのよいモーテルで,昨年とはまったく違いました。
モーテルを出発して,インターステイツ105を西に,ロサンゼルス国際空港に向かって走りました。昨年は,レンタカーリターンの場所がわからず戸惑いましたが,さすがに2年目ともなると難なく見つけてレンタカーを返却しました。そして,レンタカー会社のシャトルバスに乗って,空港まで戻りました。
ロサンゼルス国際空港は現在改装中なので,ぐっちゃぐちゃです。何でも2028年にオリンピックを開催するのに間に合わせてのことで,2023年に完成だそうです。エッ? オリンピックなんて,まだロサンゼルスでやったばかりでないか,と思ったのですが,調べてみるとそれは1984年のことで,もう30年以上も昔なのでした。月日の経つのが早くてびっくりしました。

国際線ターミナルはターミナルBです。昨年,このターミナルBは古いと書きましたが,それは間違いで新しいのだそうです。国内線ターミナルのほうが古く,順に改装されている途中で,デルタ航空の古いターミナル2と3は狭く大混雑しています。ラウンジはターミナル2と3の搭乗ゲートのひとつ上の階にあります。
国際線のターミナルにはラウンジがなく,ターミナル2と3からターミナルBまではエアポートシャトルバスに乗る必要があります。また,レンタカー会社のシャトルバスが到着したターミナル3の地上階から搭乗ゲートとシャトルバスの発着する出発階までエレベータに乗る必要があるのですが,これがぼろく,2台のうち1台しか動いておらず,乗り場がえらく混んでいました。
ともかく,時間に余裕のある私は,まずターミナル3からターミナル2までエアポートシャトルバスに乗っていって,ターミナル2のラウンジに行って朝食をとりました。そして,搭乗時間が近づいたので,今度は国際線ターミナルBにエアポートシャトルバスで向かいました。
帰国便も行きと同じエアバスA350-900,行きと同じ機体 -行きに乗ったとき機内の壁のちょっとした傷を覚えておいたのです- でした。帰りもまたプレミアムエコノミーの最前列で,今度は窓際にしました。最前列は足元が広く,窓際でも通路に出るのに隣の席の人に気をつかう必要が全くないのです。
今回はじめて往復利用したプレミアムエコノミーは広くて快適でした。フルフラットにこそなりませんが,フットレストもあって,これなら特に眠る必要もない帰りは特にファーストクラスなんて利用する必要がありません。日本とアメリカ西海岸は時差が8時間あります。これは,行きは夜が8時間なくなり,帰りは昼が8時間増えるということです。そこで,行きに比べて帰りは楽で,あえて機内で寝なくても帰国後に十分睡眠がとれるのです。逆に,機内で寝てしまうと,帰国後に眠れないということになります。しかし,だからといって特にすることもないので,食事を終えると自然に眠くなってしまいます。

そうこう,いつものようにだらだらと機内で過ごしているうちに,やがて日本が近づき,定刻に羽田空港に着陸しました。帰りは名古屋まで国内線を利用ということで,羽田空港でセントレア・中部国際空港行きのANAに乗りかえて帰宅しました。国内線はいつものように事前にチェックインをしたので私の iPhone の Wallet にチケットが登録されてあるにもかかわらず,搭乗まで2枚も搭乗券とは別の書類をくれました。しかし,搭乗ゲートが変更になっていたにもかかわらず,そこに書かれた搭乗ゲートの記載が変更前のものだったので,こんなものならあえてくれる必要などまったくありません。帰国早々,毎度のばかげた意味のないことに情熱をもやす自称おもてなし,実はブラック日本を体験して,旅の夢から覚めました。
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今回は,やりたかったことをすべてかなえることができた旅になりました。意外なことに,もういいや,と思っていたアメリカ熱が再発して,これから何度でもアメリカに行きたくなってしまいました。
いい旅でした。

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ツアーは開始15分前に200インチ反射望遠鏡の入口に集まってほしいと言われていたので,20分くらい前に行ってみました。このツアーの参加者は10人以上いました。中には専門家のような人もいました。ツアーが終わったときに天文台にはずいぶん多くの見学者が来ていたので,おそらく,次のツアーの参加者は相当な人数であっただろうと思われます。
こんな不便なところに,それも,目新しい施設ならともかくも,これほど多くの人が来るというのは,アメリカに行くといつも感心するのですがすごいことです。これはフラグスタッフのローウェル天文台に行ったときも同様ですが,知的好奇心の高さは日本とは大違いです。他人との点数争い,順位争いが目的である日本との教育の違いでしょう。
ツアーではかなり高度な説明をしてくれたので,私には最高でした。インストラクターは何人もいて,わからないことがあれば親切に何でも答えてくれました。また,私が日本から来て,しかも昨年天文台が閉まっていたということを知っていて,特別にお土産をくれました。

200インチ反射望遠鏡のドームの入口に集合したツアーでは,まず外でこの天文台についての概要の説明からはじまって,いよいよ中に入って,1階,つまり舞台裏にある反射望遠鏡の鏡のアルミ蒸着装置やドームの仕組みも含む専門的な説明をしながら,次に階段で2階に登って待望の望遠鏡の見学へと進みました。
それにしても巨大な望遠鏡でした。この望遠鏡を見学したことのあるさほど天文に詳しくない人のブログも多々あるのですが,実際に望遠鏡を目の当たりにすると,そうしたブログに書かれたことではわからない感動がありました。なんでも本物を見ることはとても大切です。
この望遠鏡は今でも現役で,多くの貴重な発見に貢献しています。いくらロサンゼルスから200キロメートル以上も離れているとはいえ,作られたころに比べれは大都会の光の影響で空が明るくなって条件が悪くなっているのは事実ですが,それでも,日本では考えられないほどの山の中に作られているので,まだ十分に活用できるわけです。
残念だったのは,ここで見学できるのはこの望遠鏡だけで,私が関心をもっている,惑星探しをしている広視野の口径48インチ(122センチメートル)サムエルオシンシュミットカメラが公開されていないことでした。

見学を終えて,山を下りました。
パロマ天文台へ行く途中にパロマ山麓のレストランがあることは毎回通っていて知っていたのですが,今回はじめて開いているときにそこを通ったので,帰りに立ち寄って昼食をとりました。
結局,昨年パロマ天文台に行けなかったのが逆に功を奏して,今年,それも偶然週末に行ったことでツアーに参加して,ガラス越しではなくあこがれだった5メートル反射望遠鏡の見学が十分にできたし,さらに,フラグスタッフまで足をのばして,ローウェル天文台にもバリンジャー隕石孔にも行けたので,むしろ昨年パロマ天文台の見学ががお休みだったことがよかったと思いました。
  ・・
今回の旅の予定はすべて終了しました。私はこの旅で,こうして50年間ずっと思い焦がれていた様々な場所にすべていくことができたのでした。

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午前9時少し前,昨年来たときは決して開くことのなかったパロマ天文台の門は難なく開いていました。私はここに来るのが50年間の夢でした。そして,ここへ2年連続で訪れ,2年目にしてやっと門の中に入ることができたのです。
門を通り過ぎると,そこには広い駐車場がありました。そして,その右手にビジターセンターがありました。ビジターセンターに入ると,売店と展示がありました。この天文台にもレストランなどがあると思っていたのですが,一般の見学者用にあったのはこの建物だけでした。
パロマ天文台は平日でも一般の見学ができるとあったので,昨年,ちょうど今年と同じ日の6月29日金曜日に来てみたのですが,何度も書くように,駐車場の工事をしていて入ることができませんでした。そこでまさに1年後に再びやってきたのですが,今年は土曜日でした。わざわざ週末に来るように計画したのか,あるいは偶然そうなったのかは覚えがないのですが,後で書くように,私の見たかった口径200インチ(508センチメートル)の反射望遠鏡をガラス越しでなく間近に見るツアーが実施されるのは週末だけだったのです。私がそれを知ったのがこの日だったので,どうやら私が週末に来たのは偶然のことだったようです。

ツアーは週末の午前10時30分(10:30AM)からと午後0時30分(12:30PM)からと午後2時(2:00PM)からの3回ありました。
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Q.正午は午前12時?それとも、午後12時?
A.正午は「午後0時」か「午前12時」と表すことができます。これは「午前12時」が「午前11時」の1時間後,「午後0時」が「午後1時」の1時間前と考えるとどちらも正午を表すことは自然に理解することができると思います。しかし,例えば「午前12時30分」という言い方をしたときにこれを昼のことと考えるか夜中のことと考えるか,人によって見方が違ってしまう可能性がありますので「午前12時何分」という言い方はせずに、「午後0時」という言い方をしたほうが誤解は少なそうです。(国立天文台のホームページより)
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Q.12AMと12PM,どっちが正午になりますか?
A.12PMが正午(noon),12AMが深夜(midnight)です。(eigopedia のホームページより)
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チケットはビジターセンターの売店で購入できるとあったので,さっそく午前10時30分のツアーを購入しました。
そんなわけで,幸運にも今年は土曜日に来たことで,待望の200インチ反射望遠鏡をガラス越しでなく見ることができたのです。もし昨年パロマ天文台が工事中でなければ,来たのが金曜日だったからツアーは実施されておらず,ガラス越しに望遠鏡を見るだけだったのです。

ツアーまで時間があったので,まず,ビジターセンターの展示を見ました。その後,ツアーまで待つのが我慢できず,ガラス越しでいいからと,200インチ反射望遠鏡のドームに行ってみました。ドームに入ると,まず,ヘールさんの銅像がありました。
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ジョージ・エレリー・ヘール(George Ellery Hale)は1868年6月29日にシカゴで生まれ,1938年2月21日に亡くなった天文学者です。1897年,シカゴの実業家チャールス・ヤーキスの資金を得て口径40インチ(101センチメートル)屈折望遠鏡を備えるヤーキス天文台を建設,1904年にはカーネギー研究所の寄付を得て,その当時世界最大となった口径100インチ(257センチメートル)反射望遠鏡を備えるウィルソン山天文台を建設し初代台長になりました。ヘールさんは,さらに,ロックフェラー財団から寄付を受けて,パロマー天文台の建設に着手するのですが,その完成を見ることなく死去しました。
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奇しくもこの日はヘールさんの151回目の誕生日でした。階段を上っていくと他の多くの天文台同様,ガラス越しに望遠鏡を見ることができるブースがあって,そこから,巨大な望遠鏡の姿をはじめて見ることができました。ヘールさんが生前見ることができなかった望遠鏡が,今まさに私の目の前にありました。

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5日目になりました。明日は帰国するだけなので実質上最終日です。
5泊7日というのは,海外旅行をするうえで極めて楽な日程です。持っていくものも少なく,機内に持ち込むだけの分量ですみます。しかも今回は密度が濃く,これまででやりたかったことのすべてを実行することができました。
さて,今日こそ,昨年来の懸案であったパロマ天文台の見学です。このために来たといっても過言ではありません。
パロマ天文台はロサンゼルスよりサンディエゴのほうがはるかに近く,そのために昨年はサンディエゴに宿泊したのですが,私が行った数日間だけ,パロマ天文台の駐車場が工事で閉鎖されていて,行くことがかないませんでした。このことは昨年のブログに書きました。そこで,昨年,私は何のためにサンディエゴまで行ったのかさえわからなくなってしまいました。結局,サンディエゴでMLBを見て,コアラもパンダもコモドドラゴンもいる大きなサンディエゴ動物園にも行けたので,無駄な旅ではなかったのですが…。

今年はあえてサンディエコまで行かなくても,ということで,ロサンゼルスから直接パロマ天文台を往復することにしましたが,宿泊しているモーテルから120マイル(約200キロメートル)あって,片道2時間以上かかります。パロマ天文台は9時に門が開きます。そこで,早朝6時すぎに,時間が惜しいので朝食抜きでモーテルを出発しました。
モーテルからは昨日ロサンゼルス・エンジェルスのゲームを見に行ったときに通ったのと同じ国道91を走り,アナハイムを過ぎて,さらに東に進んでいってインターステイツ15に入りました。
インターステイツ15を南東に進んでいって,テメクラという町でインターステイツ15を降り,州道76に入りました。このあとはわずか36マイル(約60キロメートル)なのですが,州道76は一般道で山道なので,まだ1時間程度かかります。この日本の道のようなところを走っていくと,リンコンという町でロータリーに出会いました。このロータリーの角によろずやがあったので,車を停めて中に入って,菓子パンと冷たい飲み物を買いました。腹ごしらえと眠気覚ましです。
ここから先はサンディエゴから来た昨年走ったのと同じ道です。途中でシカの親子が横切りました。やがて,パロマ天文台の口径200インチ反射望遠鏡の巨大なドームが見えてきました。

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MLBロサンゼルス・エンジェルスのこの日のゲームの開始は午後7時7分でした。開場はその2時間前なので,私は午後4時過ぎにモーテルを出て,ロサンゼルス・エンジェルスの本拠地であるエンジェルスタジアムに向かいました。インターステイツ105からインターステイツ710,そして,国道91,国道55と進みます。
渋滞するロサンゼルスのハイウェイは昨年も走ったので慣れていたのですが,日本人がはじめてアメリカでレンタカーを借りて走るようなところではありません。やがて,駐車場に着きました。事前に駐車場のチケットは購入してあったので,係員の指示に従って車を停めました。ここに来たのは19年ぶりのことでした。
昨年ロサンゼルスに来たときは残念ながらエンゼルスは本拠地におらず,見ることができませんでした。そこで,ドジャースタジアムで2ゲームを見ました。先発はカーショー投手と前田健太投手でした。

私はこれまでMLBのすべてのチームのホームグランドに行ったことがあります。当時は熱狂的なMLBのファンでした。ところがどういうわけでしょう。私はこのMLBをはじめとして,大相撲を除くおおよそすべてのスポーツというものを見ることに興味がなくなってしまったのです。ロサンゼルスで宿泊するのは,明日,パロマ天文台に行くことが目的で,その前日,私が興味をなくしたMLBを見にここに来たのは,単に大谷翔平選手が見たい,大谷翔平選手の写真がとりたい,ということが目的でした。
開場にはまだ時間があったので,いつものように,ボールパークの周りを散策していると,ハネムーンやツアー客など多くの日本人がいました。ここは近くにディズニーランドもあって,日本人観光客が訪れるのには適したボールパークなのです。
私は,日本のプロ野球というものはまったく関心がないのでわからないのですが,MLBは見慣れているので,MLBのボールパークには目が肥えています。ロサンゼルスにはドジャースとエンジェルスというふたつのチームがあるのですが,どちらも本拠地のボールパークは古く,最新式のものとは差があります。昨年行ったサンディエゴのペトコパークなどに比べたらずいぶん貧弱です。とはいえ,これまでMLBを見たことのない日本人にとっては,貧弱とはいえその豪華さに驚くことでしょう。

幸い,この日,大谷翔平選手は3番指名打者で出場でした。ヒットを3本打ちました。私は大谷選手が出場するときだけゲームに集中して,それ以外の時間はどこで写真を写すといいかを探すためにボールパークを歩き回っていました。
ボールパークによっては銅像があったり博物館があったり名物の食べ物があったりと,見落としてはいけないスポットがあるものですが,このボールパークは特に見どころといってもほとんどありませんでした。エンジェルホットドッグというものを食べてみましたが普通のホットドッグでした。大谷バーガーもありませんでした。
MLBは,デーゲームはいいのですが,ナイトゲームは終了後に帰るのが大変です。なにせ,数千台,もしくは数万台の車が一斉に駐車場から出ていくのですからたまったものではありません。そこで,今回も,いつもの通り,ゲーム終了前に早々ボールパークを後にしました。
今回の旅は,大谷翔平選手を見ることが目的で来たのではなかったのですが,おまけとしてはかなり豪華な賞品となりました。

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はじめて利用したプレミアムエコノミーは快適でした。座席は広いし食事はおいしいし。以前からファーストクラスとエコノミーの中間のレベルがあればと思っていたのが実現した感じです。
着陸1時間前になってやっと朝食が出てきました。朝食が出てくるのがあまりに遅く,配り終えたらすぐ着陸態勢に入り片付けはじめてしまって,ゆっくり食後のコーヒーを飲む間もない状態でした。これもまあアメリカらしいというか。

ロサンゼルスに到着しました。空港はどこもいろいろシステムが違うので緊張します。今回はフェニックスまでのトランジットでしたが,ネットで次のフライトのチェックインが済ませてあったので楽でした。空港のチェックインカウンターにはすごい行列ができていました。
空港が混雑するアメリカでは,事前にチェックインを済ませておくことと荷物はキャリーオンにして預けないのがスムーズに旅行するコツです。デルタ航空は手荷物の重量制限がカンタス航空の7キログラムとかフィンランド航空の9キログラムのように厳しくないので,大きさ(合計115センチメートル)さえクリアできればまず大丈夫です。
ロサンゼルスの空港は広く,デルタ航空の国内線はターミナル3ということでしたが,入国後,国内線ターミナルへ行く方法がわからず,案内所で聞いてなんとか歩いて到着できました。昨年来たときも工事中でしたが1年後もまだ工事をしていて,場所が変わってわかりにくさが倍増していました。
セキュリティチェックはプライオリティだろうとそうでなかろうと同じラインで,何が特権なのかサッパリわかりませんでしたが,それほど混雑してもおらずすんなりと終わりました。

次のフライトまで3時間の待ちです。順調だとこのくらいの待ち時間になるのですが,3月にオーストラリアに行ったときのように1時間しか余裕がないと,到着が遅れたとき乗れないこともあるので,3時間程度の待ち時間は仕方がありません。ごった返すターミナルを抜けてあとはデルタスカイクラブのラウンジで時間つぶしです。
日本との時差が8時間ですが,これは夜9時の次が午前5時になったということで,夜が丸々なくなってしまうのです。これが時差ボケを引き起こすのです。今回は機内で結構眠れたので大丈夫でしたが,それでも,食事に関しては午後6時に夕食を食べた6時間後の深夜0時に朝食を食べたようなものなのです。そこで今日の昼食をどうしようかと思案することになるのです。
調子に乗ってまた,ロサンゼルスのラウンジで食事をしてしまえば食べ過ぎだし,食べなければ食べないで夜まで食事抜きだし,次のフライトで何が出るかもわからないし,困ったものです…。とかいいながら思わずラウンジでサンドイッチに手が出てしまうのでした。

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