しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国50州 > マサチューセッツ州

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 私がボストンに行ったのは2013年夏のことですが,本当に楽しい旅でした。ただし,もう2,3年遅かったら,もっとアメリカのことを知っていて,さらにいろいろなことができただろうと思うですが,それは仕方がないことです。それよりも,この旅でずいぶん多くのアメリカの歴史や文化に触れることができたのは,新鮮だからこそだったのかもしれません。
 今日はそのときの旅で特に印象に残っているボストンレッドソックスの本拠地フェンウェイパークの話題です。

 ボストンでMLBを見るのは大変で,チケットを入手するのは困難でした。そこで,いち早く日本でチケットを購入していきましたが,失敗だったのは,1ゲームのチケットしか買わなかったことです。実は,私が手に入れたゲームは雨で中止となってしまったのです。この失敗に懲りて,その後は屋根のないところでゲームを見るときには,予備のチケットも購入するようになりました。
 しかし,私は幸運でした。
 実は,その前日,チケットを持っていないかったのにも関わらず,様子見を兼ねて,フェンウェイパークに行ってみたのです。そして,ボールパーク近くに,日本の金券ショップのようなところを見つけて,ダメもとでこの日のチケットがないか聞いてみたら,当日キャンセルになったチケットを合法的に結構安価に購入することができて,とてもいい席でゲームを見ることが実現したのです。
 そんな予定になかった出来事がなかったら,今にしてものすごく後悔していたことでしょう。

 ちょうどこのころ,ボストンレッドソックスでは上原浩二投手と田澤純一投手という抑えの2枚看板が売り出したころでした。私が幸運にも手に入れたゲームは負け試合でした。そこで,抑えの2枚看板を見損ねてしまったのです。しかも,投球練習場へ行けばその姿が見れらたものの,そんなことも知らず,私は,せっかくのチャンスだったのに,彼らの姿を見ることができなかったのです。これだけは今でも後悔しています。そのときは,翌日のゲームで見ればいいや,と思っていたのですが,それがかないませんでした。
 とはいえ,その話を上原浩二投手にLINEしたら本人から返事が来たし,そんな失敗があったからこそ,その教訓を生かして,その後,ダルビッシュ有投手をはじめとして,多くの日本人メジャーリーガーをアメリカで見ることができたんだから,塞翁が馬だったと,言い聞かせています。
 旅というのは罪作りなものです。

 それ以前もその後も含めて,MLBのボールパークはずいぶんと行きましたが,そのほとんどは同じような作りであるのに対して,ボストンのフェンウェイパークとシカゴとシカゴのリグレーフィールドはまさに別格でした。ここまで古いと何物にも代えがたいので,新しいボールパークに立て直すこともなく,今でも,改装を繰り返しながら使われています。
 私は,ミルウォーキーで,現在のものではなく古いほうのボールパークでゲームを見たことがあるのですが,そこは単に古いだけのところでした。今では,新しいボールパークができて,壊されました。ボストンとシカゴはそうではなく,古さというより,伝統の重みというか,まさにレジエンドという言葉がぴったりのところだったのです。こういう感動は,行ってみなければ味わえません。


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NHK「あさイチ」に石田組登場

紅白歌合戦に出場して
石川さゆりさんのバックで演奏したいそうです。
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 私のこれまでのアメリカ旅行の中で強く残っている思い出の地,ボストンの思い出を断片的に書いています。
 今日は,ボストンで宿泊した小さなホテルのお話です。

 「2度目のがっかり,3度目の壁」というのがあって,はじめて旅をした場所の印象があまりによかったとき,またおなじ思いをしようと2度目に行ってかっがりということは少なくありません。また,2度目もまたすばらしい思い出ができたとき,また同じ思いをと3度目に行こうと思っても,それがなかなか実現しない,つまり,満ち足りてしまっている,ということもあります。
 私にとってボストンはまさにそうした都会でした。
 私の1度目のボストンは40年以上も前のことでした。
 はじめてのアメリカ東海岸,それも,ひとり旅でした。
 それから30年以上経って,再びボストンに行ったときは,すでにはじめて行ったときのことは風化してしまっていました。その思い出をたどろうとしても,まったくイメージが異なりましたが,何も知らなかった1度目にはできなかったことの多くが実現できて,それはそれはすばらしい旅でした。
 とはいえ,3度目,となると,このコロナ禍にかかわらず,なかなか実現するものではありません。それは2度目の旅で満ち足りてしまったこと,そして,それ以外にも行きたいところがたくさんできてしまったことが理由です。

 2度目の旅で,私は,まず,ボストンでどこに宿泊しようか迷いました。大都会では治安がよいことも大切な要素です。特にこのときは,MLBのナイトゲームを見ようと思っていただけに,深夜の町あるきもしなければなりません。
 しかし,アメリカの大都会のホテルは便利で治安の心配のない場所はどこもかなり高価なのです。
 そこで見つけたのが小ぎれいな小さなホテルでした。
 アメリカにしては部屋が狭く,駐車場金も高かったのですが,思った以上に快適なところでした。
 フロント係は若い女性でした。
 チェックインのときに,昔ボストンに来たことがあるという話をしました。そして,チェックアウトのときにもその女性がいたので,もうボストンにくることはないだろうから,記念に写真を撮りましょうと言って一緒に写した写真が,今もあります。
 その言葉を聞いた彼女の悲しそうな顔が今も忘れられません。ボストンはいい町です。


◇◇◇
Decoy fetched the first pitch tonight for Shohei Ohtani!
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 ボストン郊外に「タングルウッド」(Tanglewood)という場所があります。
 タングルウッドはマサチューセッツ州バークシャー郡レノックス(Lenox)とストックブリッジ(Stockbridge)およびコネチカット州にまたがる南北158キロメートにわたる丘陵地帯ですが,そこで毎年夏にタングルウッド音楽祭とタングルウッド・ジャズフェスティバルが開かれ,1937年より,ボストン交響楽団の夏季の活動拠点となっています。
 この地もまた,私が行っておいて,本当によかったと思うところのひとつです。
 夢のようなところでした。
 とはいえ,私は,小澤征爾という指揮者を知らなければ,タングルウッドに行くこともなかったことでしょう。

  ・・・・・・
 1850年,作家のナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne)はウィリアム・アスピンウォール・タッパンという人物からこの土地のコテージを借り,1853年にギリシア神話から「テセウスとミノタウロス」(Theseus and the Minotaur),「アンタイオスとピグミー」(Antaeus and the Pygmies),「竜の牙」(Dragon's Teeth),「キルケーの宮殿」(Circe's Palace),「ペルセポネ,セレス,プルートーとザクロの種」(Proserpina, Ceres, Pluto, and the Pomegranate Seed),「イアーソーンと金の羊毛」(Jason and the Golden Fleece)の6話を少年少女向けにまとめた「タングルウッド物語」(Tanglewood Tales)を書きました。タッパンはそれを記念してコテージを「タングルウッド」と名づけ,周辺のタッパン家が所有する土地もタングルウッドとよばれるようになりました。タングルウッドは同名の物語に由来する地名です。
 1934年,ニューヨーク・フィルハーモニックのヘンリー・ヘドリー(Henry Kimball Hadley)はバークシャーでの音楽祭開催を企図し,ニューヨークの資産家であったガートルード・ロビンソン・スミス(Gertrude Robinson Smith)に相談を持ちかけました。会談ののち,スミス女史は音楽祭の企画に熱中し,1935年にストックブリッジのハンナ・ホース・ファームにて1回限りのコンサートが開催され、成功を収めました。
 1936年,スミス女史はこのコンサートの企画にボストン交響楽団をスカウトし,最初の3つのコンサートがテントの下で開かれ,1万5千人の聴衆を集めました。それを聞いたメアリー・アスピンウォール・タッパンがタングルウッドの土地210エーカーをボストン交響楽団に寄贈しました。
 1937年,ボストン交響楽団はタングルウッドでオール・ベートーヴェン・プログラムを演奏,翌1938年には演奏会場として5,100席の扇型のクーセヴィツキー・ミュージック・シェッドが建設されました。
 ボストン交響楽団は第2次世界大戦中の1942年から1945年までを除いて,毎夏クーセヴィツキー・ミュージック・シェッドで演奏会を開きました。
 1959年にクーセヴィツキー・ミュージック・シェッドは改装され,1986年には隣接するハイウッドの土地も買収し,1994年には新たに拡張された土地に小澤征爾ホールが建設されました。 
  ・・・・・・

 私は,そんな歴史も何も知らず,日本からこの音楽祭に憧れやってきて,コンサートをこころゆくまで楽しむことができたのが,いまでも強く残る思い出です。
 アメリカのこうしたすごい企画やら施設を調べて行くと,そのほとんどはある個人の夢から実現したものであって,国が主導でやったものや政治家が名声を得るためにはじめたことでないのを知って,改めて驚きます。
 こうした民衆のエネルギーこそが,この国の歴史だということをもっと強く認識する必要が,何事もあなた任せの日本人には必要だと強く感じます。


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 私は,これまで2度ボストンに行きました。1度目は1981年の夏でこのときは,人生初のアメリカひとり旅でした。そして,2度目が2013年の夏で,もう11年も前のことになります。これまでに国内外さまざまなところに行きましたが,この2度目の旅が一番印象に残るものでした。
 もう,こんな旅はできないなあ,と思うと,寂しくもありますが,また,懐かしくもなります。
 そこで,このときのことを振り返ってみたいと思います。

 これまで多くのホテルに泊まりましたが,その中で,なぜか私が今でも忘れがたいホテルがいくつかあります。そのひとつが,ボストン郊外プリマスで泊まったホテルです。
 私はこの日,夕刻,ホテルを探して走り回っていました。B&B があって,よほどそこにしようかと思ったのですが,そのころは B&B なるモノに泊まったことがなかったので躊躇しました。B&B はその後,アラスカで利用して,デラックスな朝食に驚きました。B&B というところは,朝食でいろんな宿泊客と一緒になるので,言葉ができない人にはまったく楽しくありません。
 これを書いていて思い出したのが,アイスランドで泊まった民宿で,そこもまたすばらしいところでした。そこは日本の民宿のような温かいところだったのですが,もう,再び行くこともありますまい。

 さて,この時のプリマスのホテルで何がすばらしかったかといえば,ホテルに庭から眺めたケープ・コッド湾の夕景です。時間を忘れて,海に沈む夕日を眺めることができるようなホテルは,そうはありません。それはたまたま天候がすばらしかったこともあるのでしょうが,そんな経験はなかなかできるものではなく,私もこのときだけです。
 実際,旅に出ると,そのときを生きるのに精一杯なのですが,後で思い返すと,旅では一瞬一瞬がもっとも大切なものなのです。だから,すこしだけ贅沢をしても,そうした機会はのがしてはいけないのです。時間は待っていてくれまでん。
 そのうちいつかできる,とか,いつか行ける,ということは,2020年に起こったコロナ禍でもわかるように,それを逃ししてしまうと,かなえられなくなることも決して少なくないのです。


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 コンサートが終了した。もう,夜も遅くなって,何度もアンコールをするという感じでもなく,観客は足早に帰宅を急ぐような感じになった。
 午後10時30分過ぎ,外は寒く,満天の星であった。私も,満ちたりたこころで,タングルウッドの敷地を後に,駐車場に急いだ。車は,一番手前の駐車場に停めてあったので,容易に見つかったが,それからが大変だった。
 私は,かなりうかつだった。帰りの経路のことを全く考えていなかった。GPSでホテルの検索もしていなかった。車の洪水の中,別の方向に曲がるなどということもできず,多くの車の進むまま,車を走らせた。外は真っ暗で,どこにいるのかもさっぱりわからなかった。
 手がかりは,GPSの地図の表示と方角だけだった。南の方向に行けば,どう走ってもインターステイツ90に到達するはずであった。そして,インターステイツ90に乗れば,マサチューセッツ州とニューヨーク州の州境にあるきょう泊まるホテルが見つかるのだから,どうにでもなると思っていたのだった。
 何度も書いていることだが,アメリカで車に乗るときは,駐車場のどこに車を停車したか,帰りはどのように帰ればよいかということをしっかりと調べておくのは,鉄則である。私はそれを知っていて,それをしなかった。

 GPSに表示された方角に従って,南に車を走らせた。交差点に差し掛かると,ともかく,南へ曲がった。だんだんと車が少なくなってきて,これで大丈夫かと少し心配になってきたころ,川があった。その川にかかった橋を渡ったら,明るい町の中の通りに出た。その町は,コンコードのような,片側1車線のメインストリートの両側に,さまざまな店のある,アメリカによくある田舎町であった。町の名はリーといった。町の名前から,少しだけ遠回りをしたが,ともかく,このまま南に走って行けば,インターステイツ90に行けるはずであることがこのときわかった。無事にインターステイツ90に乗って,そのまま西に走っていって,マサチューセッツ州を過ぎ,どうにかホテルに戻ることができた。
 あとから思い出すと,この旅では,どこも泊ったホテルのことは記憶に残っていても,夜,ホテルに戻ってからのことが記憶にない。
 この夜も,ホテルに戻ったまでは記憶にあるが,そのあとのことは,思い出せない。
  ・・
 翌朝。ホテルの窓からは,霧に覆われた,幻想的な景色が広がっていた。

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 プレリュードコンサートでは,ボストン交響楽団のふたりのバイオリンとビオラ,チェロ,オーボエ,そして,ふたりのホルンのメンバーが演奏した。曲目は,ストラビンスキーの弦楽四重奏曲,ブリテンの「ファンタジー」,そして,モーツアルトのディベルティメントであった。
 私は,これを聴いただけでも十分に満足であった。客席と一体となった,温かいコンサートだった。 
 セイジ・オザワ・ホールの中は,木のイスであったが,それぞれのイスが独立していた。そこで,少しだけ位置を変えることもできるので,観客は,思い思いの姿勢で演奏に興じていた。1時間ほどして,プレリュードコンサートが終了した。

 私は,だんだんとここでの楽しみ方がわかってきた。タングルウッドのコンサートは,午後5時30分に開場して,まずセイジ・オザワ・ホールへ行って,プレリュードコンサートを聴き,そのあとで,ゆっくりと食事を楽んで,食後に,タングルウッドの広い敷地内をのんびりと散歩する。そして,午後8時30分にメインコンサートを聴く,という段取りなのである。
 食事は,売店で購入してもいいし,お弁当を持参すれば,ピクニック気分で楽しむこともできる。また,レストランや喫茶店もある。
 メインコンサートは,天気がよければ,ホールの外に思い思いイスを並べて,星空の下で楽しむこともできる。ただし,コンサートが終了するのは午後10時過ぎになるから,かなり寒くなるので,防寒具が必要,というわけであった。

 私は,そうとも知らず,あわてて食事をとってしまったので,プレリュードコンサートのあとの時間を持て余すことになった。
 そこで,タングルウッドの敷地内を散策したのだが,タングルウッドは,遠くには山々の緑と湖,そして,木々に囲まれ,散策するだけでも美しく,充実した時間を過ごすことができた。入口を入ったところには,ギフトショップがあって,様々な土産物を売っていた。また,ここではイスやシートクッションをレンタルで借りることも可能であった。
 チェンバー・ミュージックホールという古い建物では,団員が練習をしていた。入口の扉が空いていて,音楽をそっと聴くことができた。
 また,ビジターセンターヒストリールームには,タングルウッドの歴史が展示してあった。若き日の小澤征爾の写真もあった。

 午後7時15分から,シェッドで「ディス・ウィーク・アット・タングルウッド」というパネルディスカッションがはじまった。マーチンブックスパンという人がモデレーターをやって,ゲストが来て話をしていたが,私には,モデレーターもゲストも,どういう人が今ひとつわからなかった。
 やがて,午後8時30分になって,メインコンサートがはじまった。
 当初の予定では,クリストフ・エッシェンバッハが指揮とピアノを弾き,モーツアルトのピアノ協奏曲第12番と交響曲第41番を演奏するはずであった。しかし,もらった分厚いプログラムに小冊子が挟み込んであったので読んでみると,クリストフ・エッシェンバッハは耳の病気とかでキャンセルになって,ピアノ協奏曲の曲目が変更になり,エド・デ・ワールトが指揮をして,ギャリック・オールソンがピアノを演奏するモーツアルトの協奏曲第27番になった。
 エド・デ・ワールトは,東京のN響定期公演で聴いたことがあった。昨年の12月には,東京で,N響の第九を指揮したので記憶にある人もおられるだろう。タングルウッドでは,8月には,N響の名誉音楽監督シャルル・デュトワの指揮するコンサートもある。
 タングルウッドは,これまでに,「タングルウッドの奇跡」を起こしたヴァイオリニスト五嶋みどりや,先日,ベルリンフィルハーモニーを客演指揮した佐渡裕がデビュー演奏(タングルウッド音楽祭オーディションへの参加)をしたところでもあり,日本人にもなじみがある場所,まさに夢の場所である。

 コンサートは,お年寄りが暇つぶしに楽しんでいる人も多く,曲がはじまるまでは結構騒がしい。曲がはじまっても,となりの老人はこそこそ話をしていて,その前に座った女性がそれをにらんでいたりした。
 私は,曲に専念する,という気持でもなかったので,なんとなくいい雰囲気の中で,夜風に吹かれながら音楽を聴くことはこんなにもすてきなことなのかと感じ入っていた。シェッドの屋根には,大きなスクリーンが四方に取り付けられていて,演奏の様子が放映されていて,屋外でもよくわかるようになっていた。
 クラシックのコンサートといっても,かしこまって,物音ひとつ立てず,禅修行のように聴くものではないのだなあと改めて思った。
 素晴らしい時間であった。まさに,ここはおとぎの国であった。

◇◇◇
ニューヨーク・ヤンキースのデレック・ジーター遊撃手が今年限りで引退することを表明しました。そこで,すでに,今シーズンのヤンキースタジアムの最終戦のチケットがプラチナペーパー化して,ずいぶんと高騰しているのだそうです。
ヤンキースは,アレックス・ロドリゲス三塁手が1年間出場停止だし,非力なイチローは,活躍の場がありそうになく,昨年唯一頼りになったロビンソン・カノー二塁手もシアトル・マリナースへ行ってしまったので,田中,黒田両投手にどれだけ援護があるのか,はなはだ心配なシーズンになりそうです。

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 ゲートをくぐると,そのまま,タングルウッドの広い全面芝生貼りの敷地の中に入った。次から次へと人が入ってきて,それぞれが,イスやらクーラーボックスやらを持参して歩いてきた。
 私は,そうした人たちがどこへ行くのだろうと思ってついていった。しばらく歩くと,「クセビツスキー・ミュージック・シェッド」へ着いた。
 私は屋根のない野外劇場だと思っていたが,着いたのは,屋根があるホールだった。しかし,壁がなく,外からでも音楽を聴くことができるようになっていた。床は土のままだった。今晩のコンサートはここで行われるのだった。チケットに書かれた私の安価な席を探すと,そこは想像以上によい場所でびっくりした。
 すでに席に座っている夫婦がいたので,午後8時30分からのコンサートなのに,どうして,みんなこんなに早くから来るのか,と聞いたら,ここにははじめて来たのですか,と聞き返された。
 彼らが言うには,ここで,コンサートが始まる前に,「ディス・ウィーク・アット・タングルウッド」というパフォーマンスがあるということだった。

 ほとんどの人は,このシェッドではなく,別のところに歩いて行く。私は,まだ,何がなんだかよくわからず,ともかく,せっかく来たのだから「セイジ・オザワ・ホール」を外観だけでも見ておこうと,どんどんと奥に歩いていった。
 タングルウッドの奥まったところに,レンガ色の大きなホールがあった。どうやら,そこが,セイジ・オザワ・ホールのようだった。
 すばらしい建物であった。このホールでは,今から何やらのコンサートがはじまろうとしていた。私は,ここで,私がチケット持っていない別のコンサートがあるのかなと思った。
 
 とりあえず夕食をとろうと思って,売店か食堂がないかを探した。広い屋外の食堂があったのだが,まだ準備中だった。奥まったところに売店があった。そこでは,サンドウィッチを売っていたので,サンドウィッチとコーラを購入した。
 芝生広場には木で作られたイスや机が点在していて,そのいくつは,すでに,場所取りがしてあった。
 私は,まだ,だれも場所取りをしていなかったひとつの長椅子に腰かけて,先に買ったサンドウィッチをほおばりはじめた。すると,なにやら音楽が聞こえてきた。となりの長椅子を陣取っていた老夫婦が,クールボックスだけをそこにおいて,音楽の聞こえるセイジ・オザワ・ホールに,急いで歩いていくのが見えた。
 私も,食事をそこそこに,彼らの真似をして,そちらに歩いて行った。

 セイジ・オザワ・ホールは,その一番後ろの壁が取り払われていて,外からもステージが見られるようになっていた。そこには,すでにパイプイスを並べて,多くの人が陣取っていた。
 ホールの中は木で作られたイスが並んでいて,まだ,若干の空席があった。
 ホールの入り口に年配のスタッフがいたので,このコンサートは自由に聴くことができるのかと聞いたら,プログラムに書いてある通りです,と説明された。プログラムには,プレリュード・コンサート6:00PMからと書かれてあった。どうやら,きょうのコンサートを聴きに来た人たちは,だれもが,このコンサートを自由に聴くことができるようであった。
 私も,ホールの中に入って,適当な場所を見つけて,座席に着いた。
 ステージでは,ボストン交響楽団のメンバーが数人ずつ,交代で,室内楽を演奏していた。
 東北の大地震以来中止になっているが,N響の定期公演でも,NHKホールでは,開演前の室内楽というのがあって,N響のメンバーが交代で演奏会をやっている。それと同じようなものだった。
 これを聴くだけでも,満ち足りた気持ちになった。ここは,なんと贅沢なところだろうと思った。本当におとぎの国であった。

◇◇◇
Happy Valentine's Day.

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 お恥ずかしい話だが,今でこそ,訳知りに書いてはいるが,ここ,タングルウッドに来るまで,タングルウッドというところがどういうところか知らなかったし,調べもしなかった。
 ボストン交響楽団が夏の音楽祭を行う野外コンサートホールがあるということと,セイジ・オザワホールがあるということは知っていたけれど,ここは,私が2012年に行ったノースダコタ州のメドナの野外ミュージカルのようなものかな,と思っていた。インターネットでチケットを購入したときも,値段がやたらと安かったこともあって,どの席でも,聴けるのならそれでいいや,ぐらいに考えていた。

 実際は,タングルウッドという名前の広い敷地が,レノックスという町の西南のはずれにあった。タングルウッドは塀で囲まれていて,入口のゲートがあり,その前に駐車場(無料)が広がっていた。
 とりあえず,入口のゲートに一番近いところに車を駐車した。まだ開場までは時間が早くて,ほとんど車はいなかった。
 車から降りで,チケット売り場を探した。先に書いたように,チケットはインターネットで予約したが,予約してあったチケットをどのように入手するのかわからなかったので,何が何でもチケット売り場で事情を話して,チケットを入手しなければならないと意気込んでいた。
 入口の左隣りにチケット売り場があった。インターネットで予約したときにプリントした用紙を見せると,何の問題もなくチケットが発券された。取り越し苦労であった。

 そんなわけで,チケットは簡単に手に入れることができたのだが,タングルウッドの開場は午後5時30分であるということであった。コンサートは,午後8時30分からである。どうして午後8時30分からのコンサートの開場が午後5時なのかということもよくわからなかった。
 それでもまだ,午後4時過ぎで,開場よりも1時間も早かった。私は,はじめて来た地で珍しかったこともあって,付近を散策していたら,やがて,ほとんど車のいなかった駐車場に次第に車が増えてきた。ここに来るのは,どうやら,比較的歳をとった夫婦連れの人たちが多かった。彼らはみな,座るイスやらテーブルやら,クーラーボックスやら,まるでキャンプにでも行くように結構な荷物を抱え,カーディガンを持参していた。
 夫婦連れやらグループの人たちは,それそれの集団でなにやら話に花が咲いていて,私が話しかけるような余地がなかったので,ここがどういうところかも,よくわからなかった。
 私はあせった。こんなところだとは思わななった。
 私には,イスもなければ,カーディガンもない。クーラーボックスなんて論外であった。
 いったい,ここは,どんなところなのだろうかと思った。クラシックのコンサートなのか,はたまた,ピクニックエリアなのか?
  ・・
 やがて,開場の時間が近づき,ゲートに列ができ始めた。
 時間になって,ゲートに係員が現れて,タングルウッドの敷地に入ることができた。

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 インターステイツ90沿いのニューヨーク州とマサチューセッツ州の州境,南側の小高い丘の上に1件だけあったホテルが「バークシャー・トラベルロッジ」であった。
 ここからタングルウッドには車で高原道路を10分くらい北に行けばよい。
 わかりやすくいえば,軽井沢のリゾートホテルは宿泊料が高いので,上信越自動車道の碓井軽井沢インター近くの安価なビジネスホテル(実際はビジネスホテルなんてないと思うけど,たとえ話です)に泊まって,軽井沢の大賀ホールへ行くといったようなものである。
 日本との決定的な違いは,タングルウッドには広大な敷地があるので,駐車場に困らないことと,避暑地といっても芋を洗うように観光客がいないことである。

 私の宿泊した「バークシャー・トラベルロッジ」は,普通の全国チェーンのモーテルであったが,高台にあったので,非常に景色がよかった。眼下にはインターステイツが見えて,その向こうは,きれいな山並みが続いていた。
 部屋は,ここもバスタブはなくシャワーではあったが,清潔で快適であった。
 車社会のアメリカでは,都会ではなく,郊外のこうしたモーテルに泊まって旅をするのが,安価でありストレスがなく,旅をしている実感もあり,楽しいのである。
 フロントのスタッフはナイスガイであった。
 チェックインをしたときに,ボストンから来たが,昨日からずっと雨だったと言ったら,この地では,天気はボストンとは違って,ずっと快晴で湿度も低く,過ごしやすかったと言っていた。
 私は,朝,雨のボストンを出発してきたので,ここに来るまで,今晩の野外コンサートの天気が心配だったのだ。

 タングルウッドは,ボストンからインターステイツ90で2時間と少しのところである。週末に東京から中央高速道を走って八ヶ岳へ行くようなもので,まさにここは,日本でいえば上高地や八ヶ岳のようなところであった。ただし,渋滞がないということが大きな違いであった。
 週末の,東京から信州へ向かう中央高速道の渋滞は逆の車線(信州から東京)を走っていると滑稽なほどである。
  ・・
 チェックインを終えて,バッグを部屋に運び,再び,フロントへ行って付近の地図をもらい,タングルウッドへ行くことにした。
 何度も書くが,ここは本当にすばらしいところだったので,結果論ではあるが,ここに連泊して,のんびりとすごすのもよかったと思った。今度マサチューセッツ州に来るときは,この地に数日間滞在して,ボストンで野球をみたり,タングルウッドで音楽を聴いたり,満天の星を見ようと思っている。

 フロントでもらった地図というのがくせものだった。イラストで書かれたもので,裏表に地図があって,合計2枚。しかし,その地図の場所がどこなのかさっぱりわからない代物であった。
 日本に帰って,改めて見てみるに,1枚はマサチューセッツ州の西の端が表わされていて,もう1枚はニューヨーク州の西の端が表わされているので,この2枚で,ホテルの付近のおよそ200キロ四方くらいの場所が表示されているようなのであるが,イラストに表示されている場所は,観光地というよりも,その場所にあるホテルの名前ばかりなのだった。
 たとえば,レノックスという地名と,レノックスの道や建物はイラストで描かれているのに,タングルウッドは野外劇場(「シェッド」という)のイラストがあるのみで,タングルウッドという表示すらない。だから,私には,この地図を見ても,ダングルウッドがどこにるのかすらわからないのであった。
 実際は、タングルウッドというのは地名ではなく,レノックスという町の一角にあるボストン交響楽団の夏のコンサートホールのある敷地の名である。私はそれすら知らなかった。

 朝,ボストンからこちらに来るとき,走っていたインターステイツ90から「タングルウッド」という道路標示を見かけたので,このホテルからタングルウッドへ行くことは容易に思えた。
 ホテルを出発するときに,車のGPSでタングルウッドを検索したらすぐに表示されたので,GPSの指示に従って走って行った。ホテルから出てインターステイツの側道を走り,インターステイツをくぐり,高原の道路を左に行ったり右に行ったり,またインターステイツ90の側道を走ったりまたくぐったりと,アメリカらしくなく結構くねくねと,GPSが命じるまま10分から15分くらい走っっただろうか,そうしたらやがて,広大なタングルウッドの敷地が見えてきた。
 そこには,タングルウッドと書かれたゲートがあって,その前には,芝生張りの駐車場がいくつも広がっていた。

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 お待たせしました。いよいよ,おとぎの国タングルウッドです。タングルウッドについては,すでにブログに書いたので,参考にしてください。
  ・・

 私は,今回の旅行で,憧れだったクーバーズタウンの野球殿堂博物館とボストン交響楽団夏の本拠地タングルウッドへ行った。これまで,クーパーズタウンもタングルウッドも,一度は行ってみたいなあ,という漠然としたあこがれを抱いていた。しかし,ボストンとニューヨークの近郊にあるということは知っていたけれど,それがどこにあるのか詳しくは知らなかった。
 今回,せっかくボストンとニューヨークへ行くのだから,クーパーズタウンとタングルウッドへも足をのばそうと思った。実際に調べてみると,この2つは,そんなに離れたところでないのが驚きだった。だから,この旅行のように,1日でこの2か所に行くことができたのだった。
 ずっと行きたかったところだったので,こうして,その夢がかなったのが嬉しかった。

 旅の計画を立てていたとき,タングルウッドのコンサートのチケットがネットで購入できるかを調べてみた。
 かなり充実したホームページがあって,タングルウッドへ行こうと予定していた日のコンサートは,オールモーツアルトプログラムだった。
 日本では,夏に行われるサイトウ・キネン・フェスティバル松本のように,チケットが高価でしかも入手することすら困難だというイメージがあるから,タングルウッドも同様にチケットが入手できないか非常に高価だと思っていたのだが,,非常に安価(2,000円程度)で,しかも,容易にチケットが入手できることが驚きだった。
 現地のことはよくわからなかったが,もし行くことができなくてもこの値段ならと思い,とにかくネットでチケットを予約してきた。

 インターネットでMLBのチケットを購入する場合,年々システムが完成してきて,近ごろは,日にちと座席を指定して,クレジットカードで決済すると,そのままバーコードの入ったチケットを家庭のプリンタで印刷できるか,あるいは,決済をしたクレジットカードを球場のWillCall(チケット売り場)の窓口で渡せばそのまま発券してもらえる(東京のスカイツリーの予約した入場券と同じ方式)ようになった。
 日本の「ぴあ」のように,インターネットで予約したのち,コンビニでチケットを発券するのに手数料が必要などというのは論外で,私は,日本でも,ネットで決済したクレジットカードを入れればそのままチケットが発券できる発券機をコンサート会場に置くか,家庭のプリンタで印刷できればよいと思う。
 このように,特に,文化や娯楽に関しては,日本は発展途上国以下である。
 美術館はせまく,人の頭を見に行くようなものだし,コンサートはチケットを入手することも難しく,しかも高価なので,行く気をなくしてしまう。しかも,会場は狭く,建物を見るだけでも価値があるというものでもなく,コンサート前にゆっくり食事を楽しむといった雰囲気もない。
 一度でもアメリカのボールパークに行けば,日本で野球を見る気が全くなくなるであろう。
 本当に,都合のよいことだけは欧米並みといい,遅れていることはなにもしないこの国は情けない。
 
 インターネットで,タングルウッドのチケットを購入するとき,私は,MLBのチケットを購入するのと同じだと思っていた。しかし,さすがにクラシックのコンサートというべきか(コンピュータ化が遅れているという意味で),チケットを予約してクレジットカードで決済をしたのに,チケットをどのように入手するのか肝心なことがさっぱりわからないのに困惑した。
 ネットには,チケット購入者には別に電子メールを送ると書いてあったが,電子メールがいつまでたっても送られてこない。しばらく待ったが,なんの連絡もない。心配になって,こちらから電子メールを送ったのだが,返事も来なかった。無邪気に,ダイレクトメールだけは来るようになったが…。
 まあ,アメリカのことだから,当日窓口に行って話せはどうにかなるとは思ったし,ネットには,パスワードを入力すると表示されるマイページには確かにチケットは購入したことになっているので問題はないと思っていたが,どうもすっきりしなかった。結局,当日,タングルウッドの入口にあるチケット売り場で,何の問題もなくチケットは入手できたので,日本のみなさん,安心して,ネットでチケットを購入してください。
 そんなわけで,私は,タングルウッドの詳しい場所も,このコンサートがどんなものかもわからないまま,ともかく,日本でチケットを入手してきたのだった。

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☆7日目 7月26日(金)
 きょうは,ボストンから別れを告げて,マサチューセッツ州を西に,タングルウッドをめざす。
 朝,きのうと同じようにホテルで朝食をとって,ホテルをチェックアウトした。フロントでタクシーを呼ぶかと言われたが,車があるので,と断った。このホテルは,アメリカらしくない狭い部屋であったけれど,とても居心地のよいホテルであった。今度来るときもここに泊まろう,と思った。
 レンタカーを駐車した場所はホテルからほとんど車の通らない道を隔てたところなので,カバンを転がして駐車場のビルにむかった。
 2日ぶりであったが,車はなんの問題もなく駐車してあった。
 取り外してあったGPSとトールパスを再び設置して,車を発進した。駐車料金は機械にクレジットカードを読み込ませるだけであった。結局,駐車料金は6,000円くらいであった。

 いよいよ,この旅行も後半戦である。この後は,前半と打って変わって,スケジュールが目白押しである。
 この後の予定を書いておこう。
 今日7月26日(金)の夜は,タングルウッドでボストン交響楽団のコンサートを聴く。宿泊は,タングルウッドから車で30分くらいのところにある「バークシャー・トラベルロッジ」というホテル。
 7月27日(土)は夕方までにニューヨークに到着して,ブルックリンのホテル「レッドカーペット・イン・ブルックリン」にチェックインしてからケネディ国際空港にあるレンタカーの営業所に車を返却してから,ブロードウェイへ行き,ミュージカル「シカゴ」を見る。
 7月28日(日)がこの旅行のクライマクスで,午前はニューヨークのハーレムでゴスペルに参加して,午後はヤンキースタジアムで野球観戦,そして,夜はマンハッタンの夜景を見る。宿泊先は,前日と同じ。
 そして,最終日7月29日(月)は,マンハッタン市内観光。特に場所は決めていないが,ぜひ行きたいのは,イントレピッド博物館のスペースシャトルの本物であった。
 7月30日(月)早朝の飛行機で帰国するので,29日の宿泊先は空港の近くの「ベストウェスタン・ケネディエアポート」である。
 そして,27日の午前中,ニューヨークに向かう途中で,クーパーズタウンという避暑地にある野球殿堂に行くつもりであった。

 昨晩一度やんだ雨は再び降りはじめたようで,朝からずっと雨天であった。そして,7月28日(日)のニューヨークの天気予報も雨であった。一番雨が降ってほしくない日の天気予報が雨であった。
 ホテルを出てすぐにインターステイツ90に乗ることができた。この道をまっすぐ西に2時間も走ればきょうの目的地に到着する。
 これを書いていて思ったのだが,私は,インターステイツ90によほど縁がある。この道は,西はシアトルから東はボストンまでアメリカ大陸を横断しているわけだ。そして,これまでにその半分以上を走ったことになる。
 モンタナ州で交通事故に会ったこともあるし,昨年ラピッドシティからバッドランド国立公園に行ったのもこの道だった。クリーブランドからナイヤガラの滝までエリー湖畔を走ったのもインターステイツ90だった。こうなったらインターステイツ90を走破してみようか…。夢ばかりが大きくなっていく。

 雨の中,インターステイツ90を快調に走っていく。途中で,ガソリンスタンドがあるサービスエリアで休憩し,ガソリンを入れ,その後は,マサチューセッツ州の森林の中,気持ちのよい道が続いていた。
 マサチューセッツ州の西側はリゾート地域である。
 湖やら森やら,山岳道路やら,すばらしい場所がたくさんある。
 はじめの予定では,これらのいくつかを気の向くままに訪れて,夜にタングルウッドに到着すればよいと考えていた。
 ニューハンプシャー州を通ったときも同じことを考えていたが,結局広すぎで,どこへも行くことができなかったことと,日曜日が雨らしきことで,予定を早めて27日(土)の午前中にニューヨークに行くことにした。そこで,今日は思ったよりも早くタングルウッドに到着できそうだったので,そこを通り過ぎて,まず,クーパーズタウンまで行くことにした。タングルウッドからはさらに2時間くらい西へ行くことになるはずでった。

◇◇◇
この旅行記では,いよいよアメリカの野球殿堂へ向かいますが,日本では,ついに,野茂英雄さんが日本の野球殿堂入りをしました。日本人大リーガーのパイオニアですが,そのいきさつもあって,彼は,殿堂入りを素直には喜べないかもしれません。わたしは,殿堂入りに限らず,もっともっと評価してもいいと思います。

◇◇◇
先日のブログに書いた大西順子トリオ+小澤征爾+サイトウ・キネン・オーケストラの「ラプソディ・イン・ブルー」全曲が,昨日,BS朝日で放送されました。私は,これほどの感動を味わったことはありませんでした。素晴らしい,の一言。それ以外に言葉がでません。
ああ,ニューヨーク!

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 ヨーキー・ウェイでは,足長~~いおじさんが愛嬌を振りまいていた。私は,公認ギフトショップでなにかいいものがないか物色した。上原浩治投手の直筆サインボールが2個あった。1個35ドルであった。他にも,いろんな選手のサインボールがあった。選手によって値段が違って面白かった。
 よほど,このサインボールを買おうかと思ったが,買って帰ってもそのあとどうするのか考えると,写真を撮って我慢することにした。しかし,これは,買うべきだった。今では,決して手に入らない。
 私がこのフェンウェイパークに行ったときは,まだ,上原投手はほとんど無名であった。松坂投手と区別がつかない人もたくさんいた。私は,この年のオールスターのファン投票で上原投手に投票したが,アメリカのファンには見る目がなかったのが非常に残念であった。それにしても,このわずか3か月後にあのような劇的な出来事が起こるとは,私はもちろん,当人も思いもしなかったことであろう。
  ・・
 この年,ボストンはワールドシリーズで優勝し,キャロライン・ケネディさんは駐日大使になった。私にとってもこの2013年は,本当にすごい1年になった。

 球場のコンコースを歩くと,いろいろおもしろいものがあって,時間をつぶすには不自由しなかったが,いっこうに雨は止まず,そうしていても,どんどんと観客は増えてきた。
 やがて,試合開始時刻の午後7時30分になった。突然,この試合は,29日に延期になりました。今日のチケットで入場できます。という放送がかかった。
 放送が終わるやいなや,どんどんと観客は帰りはじめた。なんのわだかまりもないようであった。
 私は,せっかく購入したチケットがどうなるのだろうかと,訳がわからなくなった。29日といったって,旅人である私は来ることができない。次の日から3日間は,レッドソックスは遠征に出るので試合ができず,本来は休養日であった29日に試合が組まれたのであった。
 球場を出ると,チケット買うよというおじさんがいた。一律10ドルだということだった。
 めんどうだったので,その場で10ドルでチケットを売リ払った。
 私はこの時まで知らなかったが,大リーグではチケットの払い戻しはしないということだ。
 結局,昨日のように,事前にチケットを購入しなくても,現地で手に入るのだ。だから,このように雨で中止になる可能性を考えると,日本で事前にチケットを買わなくても,当日,こちらに来てからチケットを買う方がいいというのが,私のこの時の結論である。しかし,昨年最下位であった2013年はともかくも,これを読んだ人が,ワールドシリーズで優勝して人気沸騰の2014年に,同じようにチケットを入手できる保障はないが…。
 ともあれ,昨日,突然,フェンウェイパークで試合を見ることができたのが,本当に幸いであった。もし,昨日試合を見ていなかったら,きっと一生の痛恨になったに違いない。やはり,私はツイている。

 中止となると,みんな帰るのも早い。混雑した地下鉄で,私もホテルに戻ることにした。
 地下鉄の車内では,みんな,お前は延期になった日に来られるか,とか,チケットを都合のよい人に売ろうとか,とか,そういった商談をしていた。ボストンに住んでいる人が本当にうらやましかった。アメリカは,住むならボストンである。ただし,冬の寒さのことは,私は知らない。
 ホテルに着いたときは,雨が上がっていた。その時は,もう30分まてば試合ができたのに… と残念に思った。ホテルのフロントには,きのうチェックインしたときの素敵な女性のスタッフがいた。彼女のシフトは午後から深夜までなのであろう。
 試合が雨で延期になってしまった,と話しかけたら,すごく気の毒そうな顔になって,でも,そういえば,昨晩見ることができて,本当によかったですね,と言ってくれた。
 本当に,「愛しきボストン」である。
 あすはタングルウッドに行くのですよ,と言ったら,彼女はタングルウッドを知らなかった。結局,私が説明することになった。
 一度部屋に戻ったが,思い出に彼女と写真を撮りたいと思ったので,カメラを持って,再びフロントに行った。接客中であったので,終わるまで待って,「もしよければ写真を撮りませんか。一生の思い出に」といったら,もちろん,という返事であった。でも,シャッターを押す人が… と言ったら,大声で,別のスタッフを呼んできた。というわけで,この時に写した写真は,現在は,私のiPadの壁紙となっている。

 部屋に戻って,ツイッターを見ていたら,上原選手が「明日から遠征,やるかやらないか早くきめてー」みたいな書き込みをしていたので,「上原さんを見に日本から来たのに中止になってしまいました。これからもがんばってください」と書きこんだら,すぐに返事がきた。
 上原選手が投げるのを見ることはできなかったけれど,これには感激した。この年,彼は,世界一の投手になった。このツイッターの返事は私の宝物である。


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 フェンウェイパークに着いた。雨はやむ気配もなかったが,だれしも野球は予定通りはじまるかのような雰囲気だった。私は,アメリカのことだがら,何時間遅れてもたとえ雨がやまなくても試合はやるものだと確信していた。
 ともあれ,雨が降っていては,試合前の練習もないし,昨日は入場した時にはすでに試合がはじまっていたので見過ごしてしまった様々な名所を巡ることにした。
 そこで,後から知ってこんなところがあったのかと悔しい思いをしないように,これからここを訪れる人にフェンウェイパークの名所を紹介しよう。

 まず,「ヨーキー・ウェイ」。
 フェンウェイパークの中ではなく,外の通りの名前である。この通りはトム・ヨーキー元オーナーにちなんで命名された。さまざまな飲食店や土産物屋が建ち並んでいて,天気がよければ,まさに,遊歩道になる。
 普通の通りなのだが,この通りは試合の日は車は通行止めで,すでに,通り自体が野球場のテリトリーとなっている。球場が狭いのでこういうことになるのであろう。
 次に,「チームメイト」の銅像。
 フェンウェイパークの外周をあるいていると,ゲートBのわきにこの銅像をみることができる。
 この銅像は,2010年,彫刻家のアントニオ・トービアス・メンデズが製作したもので,テッド・ウィリアムズ,ボビー・ドゥアー,ドム・ディマッジオ,ジョニー・ぺスキー4人が肩を並べてバットを持っている姿の銅像である。これは1946年当時の姿を再現したもので,当時のユニフォーム,スパイク,キャップをまとっている。
 従来からあった「テッド・ウィリアムズとガンと闘う少年の銅像」も有名だが,このチームメイトの銅像が設置されたために,現在はヨーキー・ウェイ寄りに移された。
  ・・・・・・
 テッド・ウィリアムズは「最後の4割打者」として有名である。
 1941年に打率.406を達成,それ以降には4割打者が誕生していない。
 彼は,第2次世界大戦と朝鮮戦争の2度,5年にわたって従軍し,朝鮮戦争では飛行機が不時着するなどの九死に一生を得て帰還した。また人種差別が顕著な時代にあっても,積極的に黒人選手へのサポートを惜しまないなど,たいへんな愛国者かつ人格者である一方で,とてつもない大声と癇癪の持ち主だったという。さらには,ネクタイが大嫌いだったという。
 テッド・ウィリアムズ,ボビー・ドゥアー,ドム・ディマッジオ,ジョニー・ぺスキーの数十年に及ぶ友情は,デイヴィッド・ハルバースタムの「ザ・チームメイト:友情の情景」(The Teammate: A Portrait of a Friendship)に取り上げられ,不朽のものとなった。
  ・・・・・・

 外野席にある「ザ・レッドシート」は,1946年6月9日に,そのデッド・ウィリアムスが放った502フィート(153メートル)の最長距離本塁打の落下地点で,赤いシートになっている。セクション42・37列・21席のチケットを購入すれば座れる。
 この座席はライト側の外野席の結構高いところにある。興味深そうに写真をとっていたら,親子連れが来て,どういうシートだと聞いてきた。私は日本からの旅行者である。君たちのほうが詳しくなくちゃいかんだろう…。
 そのいわれを話すと,そんなことよりも,この席だけ赤色なので,こんな席になってしまったらいやだという思いがけない反応が返ってきた。まさに豚に真珠であった。
 最後に,「べスキー・ポール」というものについて。
 これは,1塁側のファールポールである。本塁からわずか302フィート(92メートル)にある。
 フェンウェイパークでは,レフト側の狭さを補うグリーンモンスターだけでなく,ライト側もスタンド際の狭さは特筆すべきものがある。テレビ中継で球場が出てきたらよく見てみよう。
 1塁側は,ほとんどファールグランドがなく,こんなに距離の短いところにファールポールがあるのだ。だからこの場所にライナーがスーッと飛べばホームランになってしまう。ピッチャーはやっていられない…。
 だからこのポールは,1塁側の内野席から触ることができる。
 ポールには,小兵選手だったジョニー・べスキーにちなんだ名がついている。

 このように,フェンウェイパークは,歴史的遺産であり,球場を見るだけでも,博物館のようなものなので,雨が降っていても時間をもてあますようなことはないのだが,それでもやはり空模様が気になった。
 私は,コンコースにテーブルを確保して,ホットドッグを食べながら時間をつぶしていたが,隣に座った人がおいしそうなものを食べていたので,それはなにかと聞いたら,イタリアンバーガーだと言った。暇だったので,いろいろおしゃべりをしていたが,そのうち,球場が明るくなったので,てっきり雨が上がったのかと思った。隣に座った人たちも雨が上がったなあ,と言っていた。
 実際はナイターのライトが点灯しただけで,雨は降りやむ気配がなかった。
 この時,試合開始が遅れますという放送があった。レッドソックスはまだまだ試合を行う気満々であった。

◇◇◇
アメリカの寒波は一段落したようです。
寒波をニューヨーカーがどう乗り切っているかという番組をやっていたのですが,日本製の下着を着ける,だの,味噌汁で温まる,だの,レモンを絞ったくず湯を飲む,という話でした。ニューヨーカーにも日本文化が根づいているようです。

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 ボストンの市内観光は楽しかったですか?
 ボストンは,地下鉄を使えば,たいていのところへ行くことができるのとても便利な都会です。さらに,事前にアメリカの独立同時のことを勉強して出かけると,より楽しさが増すと思います。
 このブログの旅行記にも紹介していますが,美術館あり,博物館あり,コンサートホールあり,歴史あり,MLBあり,と,この町は,魅力がいっぱいです。
 ぜひ,一度は行ってみてください!

 では,帰国です。
 帰国は,簡単にいえば,まあ,どうにでもなります。帰りのチケットさえあれば,後は,空港へ行くだけのことです。
 セキュリティの検査がありますから,2時間前には空港へ行きましょう。アメリカの空港の航空券の発券は機械でできます。日本語も表示されますから,心配はいりません。パスポートをかざして,予約した時のクレジットカードを通せば搭乗券がプリントされます。そのあとでカバンを預ければ終了です。乗り換えがあっても,最終到着地までピックアップをする必要もありません。
 帰国も,税関申告書を書く必要があります。昔はこんなものなかったと思うのですが,近頃は,日本でも必要になりました。日本語なので,これも,どうにでもなります。
 もし,ここで乗り換えが必要で,はじめに乗るのがアメリカの国内線であれば,まだ,旅行気分一杯ですが,日本への帰国便の出発ゲートであれば,大勢の日本人がいて,あっという間に,現実に引き戻されます。私は,この時間が嫌いです。それでも,ビジネスマンや,個人旅行客ならまだしも,団体客や学生さんがたくさんいると,正直,うんざりします。よって,帰国便は,たいてい,気持ち的にふて寝して過ごします。
 私は,これまでの旅行でためたマイレッジがたくさんあるので,片道はエコノミーをビジネスに変更して旅行ができるのですが,これを書きながら考えてみるに,行きよりも帰りの方をビジネスにしたほうがいいのかなあ,と思うようになりました。
 よく,私は,海外旅行に連れて行ってと言われるのですが,一緒に行ってもいいけれど,かえりは独力でね,と言って人を煙に巻きます。実際は,帰りは,どうにでもなるのです。いざとなれば,市内からタクシーで空港まで行けばよいだけですから。帰国便のカウンタには,たいてい日本語のわかるスタッフがいますし。

 ということで,別段これ以上書くこともないので,ここでは,私の,これまでのさまざまな帰国の思い出を書いてみたいと思います。
  ・・

 2001年の同時多発テロ以前のアメリカは,帰国は,本当に簡単でした。出るもの追わず,みたいな感じで,航空会社のカウンタで,誰かから委託された荷物はありませんか? などと日本語で書かれたプレートを見せられて,ありませんと言えば,そのまま飛行機に乗れました。
 出発便の搭乗時間ぎりぎりに空港に着いて,ビジネスしか空きがありません,と言われて,エコノミーから無償でビジネスに変更になったこともありました。
 現地は問題なく出発できるのですが,日本が台風なので,出発時間を遅らせますと言われて,3時間ほど足止めされたこともありました。
 テロの後は,手荷物検査とかが本当に大変になりました。だから,できれば,地方の小空港から国内便を経由して帰国した方が,搭乗検査が空いているのでストレスがないのです。

 また,帰りは,時差ボケは,ほとんどありません。
 簡単に言えば,地球の半径は約6,400キロメートルなので,周の長さは36,000キロです。日本とアメリカは中心角が約120度なので,周の1/3だから,距離にして,12,000キロメートル,飛行機は時速約1,000キロなので,12時間かかります。地球は1日で1周するので,時速で1,500キロメートル。どういうことかというと,実際は,日本に向かって飛んでいるのですが,地球の自転速度よりも飛行機の速度の方が遅いので,遠くから見れば,飛びながら後ろにさがっていくのです。だから,午後5時に出発しても,到着した時は午後2時くらい,ただし,日付変更線があるので,日にちだけは1日すぎるのですが,そんなわけで,夕方出発して,10時間以上過ぎてもまだ太陽はその日の夕方の同じ位置になります。
 これが,行きは,実際は日本は深夜なのに,アメリカではもうお昼,という感じで,1日夜がなくなってしまうので,どうしても時差ぼけになるわけです。

 それにしても,アメリカ国内を移動するMLBの選手は大変です。1日が27時間あったり,21時間しかなかったり…。
 ちなみに,アメリカを横断旅行するなら,東から西へ行くことをお勧めします。時差があるので,1日が25時間になります。逆に西から東へ向かうと,1日が23時間しかなかったりします。実際に体験するとわかりますが,1日の時間が1時間長いと,本当に1日が長く感じますし,その逆はあわただしいです。
 アメリカに住んでいる人は,夏時間が切り替わるときに,同じような経験をするわけです。

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 ボストン美術館の案内所で,日本庭園はどこにあるのかと聞いたら,外に出て… と説明をしてくれた。
 2時間ほどいたので,このあたりで,ボストン美術館を後にすることにして,その日本庭園を見に行くことにした。
 日本庭園は岡倉天心にちなんで,「天心園」と名付けられている。

 岡倉天心は1863年2月14日生まれの思想家である。東京美術学校の設立に貢献し,1903年,ボストン美術館からの招聘をうけ,渡米した。
 中公新書「英語達人列伝―あっぱれ,日本人の英語」に次の記述がある。
  ・・・・・・
 アメリカでひとりの若者に声をかけられた。
 "What sort of ’nese’ are you people? Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?"
 彼は,流ちょうな英語で言い返した。
 "We are Japanese gentleman. But what kind of ’key’ are you? Are you  a Yankee, or a donkey, or a monkey?"
  ・・・・・・
 この庭園は,アメリカによくあるいいかげんな「日本庭園」とはちがって,落ち着いた正真正銘の日本庭園であった。管理がたいへんだろうと思った。
 この日は雨が降っていたので,また,趣があったが,他に見学をしている人はいなかった。

 ボストン美術館から北に2キロメートルほど行くと,フェンウェイパークへ行くことができる。その途中に,ボストン交響楽団の本拠地「シンフォニーホール」があるので,そこを経由して歩いて行くことにした。
 32年前に来たとき,このシンフォニーホールの前を通った。そのとき,入口に小澤征爾の大きなポスターがあったのに感動したことを覚えている。
 ボストン交響楽団は,夏は,明日訪れるタングルウッドを本拠地にしているので,今は「主のいない家」であるが,建物を見るだけでも価値があるといいうものだ。
  ・・・・・・
 ボストン交響楽団は1881年,ヘンリー・リー・ヒギンスンによって創立された。
 セルゲイ・クーセヴィツキーを首席指揮者に迎えて世界的なオーケストラとなり,その後,シャルル・ミュンシュが世界的名声を不動のものとし,1973年から2002年まで小澤征爾が音楽監督を務めた。
  ・・・・・・

 シンフォニーホールは,1900年10月15日に完成した世界で初めて科学的な根拠に基づいて音響が設計されたホールである。19世紀からの姿をそのまま残すジュークボックス形式のコンサートホールとして貴重な建物となっている。
 建物や周りは32年前とほとんど同じで,ここの場所だけは時間が停まったかのようであった。ものすごく懐かしかった。もちろん,小澤征爾のポスターはなかったが。
 32年というのは,人生を振り返るのには,微妙な年月である。あのころには帰れない。それが辛い。せめて,この後の32年は時間を無駄にしないようにしようと思った。
 ただ,この建物の入口あたりに,何やら怪しげな新興宗教のような一団がいて,しつこくまとわりついてくるのには閉口した。こういうのは,思い出を台なしにしてしまう。
  ・・
 その後,フェンウェイパークに歩いて行ったのだが,道を1ブロック間違えてしまったことと,雨がどんどんと激しく降りはじめたことで,気分は沈んでしまった。
 フェンウェイパークよりも地下鉄の1駅東の交差点にたどりついた。
 私は,結局,そこから地下鉄に乗ってフェンウェイパークに向かった。今日の試合は中止だろうと思ったが,そんなことは全く気にかけない野球見物の多くの乗客で,地下鉄はごった返していた。
 アメリカでは,こんな雨でも野球は中止にならないんだ,と,妙な自信が出てきた。

◇◇◇
残念ながら,われらが野茂英雄投手のアメリカの野球殿堂入りはなりませんでした。わずか6票,得票率1.1パーセントだったそうです。得票率が5パーセントに満たなかったために,来年の候補からも外れました。
結果に問わず,野茂さんが偉大だったことは事実です。

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 特別展「サムライ」を見てから,昨日書いた日本のセクションを探しながら,ほかの様々なセクションを見て歩いた。
 ボストン美術館には,非常に多くの収蔵品があって,展示されている。まず,はじめに見たのは,楽器であった。
 古代から20世紀後半にいたる様々な国の楽器1,100点以上が所蔵されているといういことだ。そして,最近は,17,18世紀のギターが新たに加わったという。
 展示されている中に,以前,日本のクラシック音楽番組で紹介された変わった形のホルンをみることができて,非常に興味深かった。また,ストラディバリウスも展示されていた。楽器を見るだけでも,その展示されている作品の量は,半端なものではなかった。

 次に,古代世界の美術を見た。
 エジプトをはじめとする地中海周辺域に展開した古代文明の作品約7万点が所蔵されていて,そのうちのいくつかが展示されていた。この美術館に展示されている古代美術は,特に,陶器類の質の高さは世界的に有名であるということだが,私には「見る目がない」ので,そのよさがよくわからなかったのが残念なことであった。
 そして,やはり,いちばんなじみがあったのは,ヨーロッパ美術であった。このセクションには,両側の壁に,数多くの名画が展示してあった。
 ボストン美術館は,2万2千点以上の7世紀から20世紀までの広範なコレクションを誇っているということである。エル・グレコ,べレスケス,レンブラントをはじめ,ミレー,そして,モネ,ルノワールなどの印象派のコレクションが充実していた。
 このフロアは,なにかの催しがあるようで,テーブルを並べたりと,準備に余念がなかった。

 もうひとつ下のプロアには,多くのピカソの作品があった。特に,初期と晩年の作品が非常に興味深かった。
 日本人の観光客がガイドを連れて見ていた。きっと,本当は,このように,きちんとした説明を聞きながら,のんびりと1日かけて巡ってみることが大切なのであろう。

 アメリカを旅行したときには,行く先々で時間が許せば美術館へ行くようにしているが,アメリカの大都市のどこの美術館にも,教科書などで見たことがある有名な作品のいくつかが展示されている。
 どうしてかその由来はよくわからないけれども,建国わずか200年余りの新しい国に世界中からこれだけのものが集められたということがすごいことだといつも思う。きっと,大金持ちが世界中から集めてきたのだろうが,このようにして,その多くは死蔵されることもなく,人混みもないところでのんびりとみることができるのは,とても優雅なものであると思う。
 そのほかにも,アメリカ美術やら,写真やら,衣装やら現代美術やらの展示が,広い館内に数多く展示されていた。さらに進むと,アジア・オセアニア・アフリカ美術セクションの一角に,日本美術のコーナーがあった。非常に奥まったところだったが,落ち着いた雰囲気で,日本にもどったかのようであった。日本美術以上の広さで中国美術などの展示があった。 
 広い美術館の階下には図書館もあって,多くの人が,休憩をしたり本を読んだりしていた。このように,図書館やレストランも充実していて,本当にすばらしい美術館であった。ボストンに住んでいる人は,その気になれば,いつでも,これらの美術に接したり,この図書館で,1日を過ごすことができるのである。

◇◇◇
昨日の新聞のスピードランニングの全面広告に「"A happy new year!" という外国人はいません」と書いてありましたが,そんなのはあたりまえで,これは書き言葉です。「「謹賀新年」という日本人はいません」と言い換えてみればわかることでしょう。
カウントダウンのCNN放送で,"Happy new year!" って普通に言っていましたから,現地の普通の番組を見ていれば,あえて話題にするようなことでもありません。
他にも,いろんな表現が取り上げられていて,興味深かったのですが,こんなことを問題にしなくちゃいけない,でも,多くの人はこんなことも知らないというのは,やはり,この国のドリル学習に問題があるのだと思います。
前にも書きましたけれど,通学の電車の中で英単語の練習帳を勉強?している学生さんはたくさんいますけれど,英語の小説や雑誌を楽しんでいる学生さんなんて見たことありません。

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 1870年に設立され,1876年に開館したボストン美術館は世界有数の規模を誇る。
 以前からある建物に2010年に増設された近代的な建物がつながっていて,美術館の内部は古代,ヨーロッパ,アジア・オセアニア・アフリカ,アメリカ,現代,版画・素描・写真,染織・衣装,楽器の6つのセクションからなっている。また,美術館の外には,岡倉天心の名をとった天心園という日本庭園がある。

 まず,入口を入ると左手の新しくできた建物の1階に広いカフェテリアがあって,その角にエレベータがあり,地下1階に降りる。そこでは,特別展「サムライ」をやっていた。
 大きく赤い字で「SAMURAI!」と書かれた入口を入ると,武具やら兜がたくさん展示してあった。
 いままさに動き出さんとする武士やら馬やらのモニュメント,絶対に日本ではこういう展示方法はしない,と思われるような,展示の方法であった。
 私には取り立てて珍しいものでもないが,来ていた人たちは非常に興味深そうに見ていた。また,ミュージアムショップにも,いろいろな日本にちなんだ品物が売られていた。こういうところで売られている日本にちなんだものはいいかげんなまがいものが多かったりするので興味深く見てみたけれど,それらはちゃんとしたもので,この美術館のまじめさがよくわかった。
 アメリカでは日本はメジャーリーガー以外には非常に影が薄いので,久しぶりに日本のものに出会った気がした。

 私の勉強不足で,ここボストン美術館には,日本の芸術が数多く保管されているということは聞いていたが,それがどこに展示されているのか知らなかった。32年前に来た時も同じで,それが原因で,私は完全に見逃した。
 今回も,日本の芸術が展示されているセクションを探したが,なかなか見つからなかった。やっと探し出したのは,アジア・オセアニア・アフリカセクションの中でも2階の奥まったところであった。
 やっと日本のコーナーを見つけた。思ったほど広くなく,むしろ,中国のコーナーのほうが広かった。
 フェノロサなどが明治維新でタダ同然で日本の骨董屋で眠っていたものを発掘してアメリカに送ったものだということだが,こうした芸術の海外流出は,日本人の恥ずべき出来事なのだろう。でも,このときフェノロサがそのよさを知らずにいたら,これらの芸術品は日の目を見ないで破棄されてしまっていたに違いない。
 ただし,ほとんどのものは公開されていなかったのが残念であった。

 アーネスト・フランシスコ・フェノロサは,1846年にマサチューセッツ州セーラム(魔女博物館のあったところ)に生まれ,1908年に死んだ東洋美術史家である。ハーバード大学を卒業後,就職先を求めて日本にやってきた。東京大学の教授,つまり,お雇い外国人として,月収は当時のお金で300円,今の金額で1千万円ほどであったという。
 自分が東洋美術に造詣があることをアメリカ社会で認めてもらうために,日本美術を勉強し,それらを購入したのだという。その功績で,彼は,1890年の帰国後,ボストン美術館の東洋部長となったのだか,女性問題で失脚,晩年は不遇であった。
 なお,墓は,大津市の園城寺(三井寺)塔頭の法明院にある。

 この時まで気づかなかったが,考えてみれば、名古屋にボストン美術館があるではないか。
 一度は行って見ないといけないなあ,と反省した。灯台もと暗しであった。
 ということで,帰国後に行ってみた。
 入場料がこの本場のボストン美術館の約2分の1もするわりに,規模はもっともっともっともっともっと小さかったし,「館内は静かに」といたるところに表示してあるにもかかわらず,行った日も大きな声で品のない会話をし続けていた若者たちがいて,館内の雰囲気は台なしであった。
 おそらく興味もないのに会社か何かで無料の入場券でももらって時間つぶしをしていたのであろう。
 東京の美術展はやたらと混雑し,絵を見るというよりも人の頭を見るようなものであるし,地方都市には,それなりに立派な美術館があったりするが,非常に規模が小さい。文化を軽視する日本には,本当にこうした立派な施設がない。

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 食事をとったあとは,ボストン美術館へいくことにした。
 これも32年前のトラウマになるのだが,ボストン美術館を満足に見ていないことがずっと気になっていた。
 手元に残るアルバムには,ボストン美術館を訪れたときの写真もパンフットも残っているのに,ほとんど見た記憶がない。これも不思議なことである。しかも,すでに書いたことであるが,頭の中に,ボストン美術館のある場所を誤解して記憶しているのだ。
 ボストン美術館はボストンの西にあって,地下鉄グリーンラインに乗って,ミュージーアム・オブ・ファイン・アーツ駅で降りればよい。ところが,私の頭の中には,ボストン美術館はボストンの東側にあって,古びた地下鉄に乗って,どうしてなのか,怖い思いをして行ったような,そんな思い出につながっているのだった。しかも,この美術館は,日本美術がたくさんあることで有名だということであったが,それを見た記憶がない。
 ということで,今回は,時間をたっぷりとって,美術館を見ることにしたわけだった。

 ボイルストン駅からグリーンラインに乗った。乗りなれたグリーンラインの西方向行きは,昨日降りたケンモア駅からは3つの路線に分かれて,一番北側がボストン大学,真ん中がクリーブランドサークル,そして,南がリバーサイド行きになる。
 美術館はリバーサイド行きに乗る必要があるのだが,来たのはボストン大学行であった。時間がたっぷりあったことと,32年間に宿泊したホテルの方向がボストン大学の方であったことから,好奇心が手伝って,一度それに乗ってみることにした。
 地下鉄は,ケンモア駅を過ぎたあとは地上に出て,市電のようになった。
 32年前に泊まったホテルはチャールズリバーの川畔にあったのだが,この地下鉄は,それほど川沿いを走るものではなく,道路の北側にあるボストン大学のキャンパスを見ながら,コモンウェルスアベニューを走って行った。このまま乗っていても仕方がないので,ボストン大学を過ぎたあたりで降りて,引き返すことにした。
 このあたりは,東京の本郷やら京都の百万遍のような,学生街の風景であった。

 そういえば,ボストン大学といえば,ボストンバッグ発祥の地である。
 ボストンバッグは,ボストン大学が学生のために指定した大きなカバンがその由来である。ボストン大学では,マーチン・ルーサー・キング牧師,南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領もこの大学で学んだということだ。

 降りてはみたけれど,雨が降っていて,のんびりとこのあたりを散策するような気持にもなれなかったので,再び逆方向から来たグリーンラインに乗って,ケンモア駅で乗り換えて,ミュージーアム・オブ・ファイン・アーツ駅で降りて,美術館にむかった。
 こちらの路線も地上を走っていたが,美術館前に駅があるのではなく,美術館を通り過ぎた1ブロック先に駅があった。車窓から美術館が見えているのに,なかなか駅に到着しないのにはがっかりした。美術館前だというのに美術館をはるかすぎてやっと駅があって,そこから降りてから結構歩いて戻らなければならなかった。
 本当に広い国だ。
 
 駅で降りた頃には,傘がなくては歩けないほどの雨が降り出していた。今晩の野球には絶望的な天気になってきた。それでも,私は,これまでの経験で楽観的であった。
 美術館の入口で,コンピュータのディスプレイを操作して,クレジットカードを挿入して,チケットを購入した。
 美術館では,特別展「サムライ」をやっていた。

◇◇◇
新年を迎えたアメリカの東海岸は,寒波の到来で,交通がマヒして,ニューヨークのケネディ国際空港が一時閉鎖されたり,学校が休校になったりと,大変なことになっているそうです。
私がこの旅で行ったケープコッド岬からCNNが中継をしていましたが,前も見えないほどの吹雪,雪はサラサラでまるで粉のようでした。
摂氏マイナス20度とかいう気温に想像がつきませんが,それでも,NFLのグリーンベイ・パッカーズは試合をしていて,チェアリーダーはビキニを着て応援をしています。

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 念願の「ボストン・ティー・パーティ」を見て,32年前のトラウマを克服したら,お腹がへってきた。
 そうそう,ボストンでは,クラムチャウダーを食べなければならない。クラムチャウダーといえば,「リーガル・シーフード」,ということで,宿泊しているホテルの近くに,そのレストランがあることを思い出して,そこへ行くことにした。
 ボストン茶会事件の船と博物館へは,行くときは苦労したが,帰りは,容易く,地下鉄レッドラインのサウスステーションが少し歩いたところにあったので,それに乗ってわずか1駅,ダウンタウンステーションで降りたところがチャイナタウンで,レストラン「リーガル・シーフード」はそこからすぐのところであった。
 残念ながら天気予報通り,このころから,ついに,少しずつ雨が降ってきた。

 ボストンのチャイナタウンは,それほど大きなものではないが,食事時はそれなりにおいしいお店があるようで,さまざまなブログに紹介されている。また,少し治安の悪いところだとも書かれているので,旅行者は夜間は近づかない方が無難であろう。
 私の行く,「リーガル・シーフード」は,チャイナタウンを過ぎたあたりのビルの1階にあった。
 店に入ると,待っている人が少しいたので,入口のカウンタで聞いてみると,少し待てば案内できるというので,名前を言って待つことにした。
 5分ぐらいして名前を呼ばれ,席に案内された。

 こういうレストランでは,変に知ったかぶりをしない方がいいので,席に着くなり,旅行で日本から来たのだが,このお店がクラムチャウダーがおいしいと聞いたので来た,でも,何を頼んだらいいのかわからない,とスタッフに話した。
 女性のスタッフは,クラムチャウダーだけ頼むのですか? みたいなことをいうので,では,お勧めの料理は? などと,難しいことをきいて,あなたなら何を食べますか? とさらにわけのわからないことを付け加えたら,チキンと野菜のコンボみたいなものを薦めたので,別に何でもよかったから,クラムチャウダーとその薦められた料理とコーラを注文した。

 料理が来て,食べていると,その女性のスタッフが心配そうに,気に入ったか? と聞くので,実際おいしかったので,満足そうにおいしいと言ったら,うれしそうに笑った。
 これはいいお土産(話)になると言ったら,うまく伝わらなかったらしく,何かお土産? それならこれをあげるといって,メニューの書かれた紙をくれた。
 やはり,「愛しのボストン」であった。

 チェックの時,料金の5パーセント,10パーセント,15パーセント,20パーセントの数字が書かれた請求書をくれた。それがチップを計算するときに便利なように書かれているということはわかった。しかし,いままで,そんなものをレストランでもらったことはない。
 私が日本からの旅行者なのでチップが必要だということを知らないといけないからそういうことが書かれていたわけではないが(日本人団体旅行者ご用達のロサンゼルスあたりのレストランであると日本語で「チップが必要です」と書かれてあったりする),どうしてこのお店ではこういうものをくれるのかは定かでなかった。その後,ニューヨークのレストランでも同じようにパーセントの一覧が書かれていたので,都会ではそんなものが書いてあるんだと,と思っている。

 思えば,若いころ,アメリカで,普通のアメリカ人の行くレストランで食事をする,という,今考えれば滑稽だけれども,そんなちょっとしたことさえも夢だった。日本の団体旅行客が行くようなレストランとか,大きなホテルであると,日本人相手の商売なので,支払いも日本風だったりした。だから,実際に,普通のアメリカのレストランではどういうマナーなのかなあ,と思ったこともあった。
 昔のガイドブックには,チップは20パーセントくらいをテーブルに置いておく,と書いてあったが,今は,テーブルでチェックを要求して,スタッフがレシートを持ってきたときにクレジットカードを渡し,クレジットカードで精算したときに改めてもってきたレシートに自分でチップの金額を記入して,合計金額を書き入れ,それをテーブルに置いて店を出る,という様にするので,チップ用の小銭がいるわけではない。
 チップがいくらくらいなのかも,知人のアメリカ人に聞いたら,10パーセントくらいだといわれたことがある。日本のガイドブックには20パーセントと書かれていたというと,そんなに払うのか? とビックリされた。
 そのアメリカ人がケチだったのか,それが相場なのかはわからない。いずれにしても,私は,一元さんだし,まあ,いつも適当なので,ひょっとしたら,とんでもなく失礼なことをしているかもしれない。
 ともかく,チップの必要なレストランに入ることもそれほどないし,カバンを部屋にまで運んでくれるようなホテルにも泊まらないし,タクシーにも乗らないので,これだけ旅行をしていても,本当のところ,チップについてはよく知らない。

 食事をしながら,窓から空模様を見ていたが,雨が降っているのか降っていないのかよくわからない感じであった。まあ,どおせ雨は止むだろう,という根拠のない確信もあった。なにせ,私は,自他ともに認める晴れ男である。レストランを出たとき,すでに,雨は本降りになっていた。一番降ってほしくない日の雨。こんなことは生まれてはじめてであった。
 私とボストンに雨は似合わない。ここは長崎ではない。

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 では,ニューヨークを堪能したところで,次の目的地ボストンへ行きます。
 ボストンまでの行き方は,車を除くと,飛行機,電車,バスがあります。
 飛行機は所要時間が約1時間,それに加えて,搭乗までの時間が必要です。費用は,約15,000円です。電車(アムトラック)は,所要時間が約4時間,費用は約10,000円です。バス(グレイハウンド)は,所要時間が約4時間30分,費用は約3,500円です。

 飛行機は,ニューヨークの場合,ジョン・F・ケネディ国際空港やラ・ガーディア国際空港から出発していますが,ジョン・F・ケネディ国際空港の近くのホテルに滞在しているなら,ここからの便を探すほうが,当然,便利でしょう。ボストンでは,ボストン・ローガン国際空港まで行きます。
 なお,国内線に乗るときは,荷物は機内に持ち込むほうがいいです。預けると余分に費用がかかりますし,荷物を受け取るまでに時間がかかるからです。そのために,持っていくカバンは,なるべく機内持ち込みのサイズにした方がいいと思います。そのサイズは,インチで14×9×22,センチでは36×23×56です。
 電車は,ニューヨークは,ペンステーションから出発します。場所はマンハッタンの8番街31スリートです。ボストンはサウス・ステーションまで行きます。
 バスは,ニューヨークは,ポートオーソリティバスターミナルで,場所は8番街41ストリートです。ボストンはこれもサウス・ステーションに到着します。

 どれを選ぶかは,それぞれ長所と短所があるので一概には言えませんが,値段を考えると,バスは魅力的ですね。
 いずれにしても,日本で,東京から京都へ行くようなものだと思えばいいでしょう。チケットは,インターネットで予約ができます。予約なしで当日出かけても,なんとかなりますが,これも,日本と同じことです。
 せっかく旅行をしているので,いろんなことを経験するのも楽しいものですが,いずれにしても,荷物を少なくする,貴重品は身に着けることが旅を楽しむ秘訣です。

 電車の場合,サウスステーションへの列車はビーコンヒル (Beacon Hill) と南のはずれに行くのに便利なバックベイ駅 (Back Bay Station) に停車するので,この駅で地下鉄のオレンジ・ラインに乗り換えが出来ます。 また,バスの場合に到着するサウスステーションは,ボストンの鉄道や地下鉄のハブ(中央)になっています。ここから地下鉄レッド・ラインで,ダウンタウンまでものの15分で行くことができます。治安も問題ありません。
 飛行機の場合は,ボストン・ローガン国際空港に到着します。
 ボストン・ローガン国際空港は,ボストンとニューイングランド地方の主要玄関口となっており,ダウンタウンから数キロのボストンの東部にあります。
 シルバー・ラインは毎日10分から15分間隔で各ターミナルの停留所を回る低床連接バスで,時折渋滞となるテッド・ウィリアムズ・トンネルを通り,その後,バス専用トンネルを使用して,サウスステーションの地下停留所まで運行されています。  
 このように,ボストンの玄関口はサウスステーションなので,非常に便利です。
 さあ,ボストンに到着しました。
 まず,予約したホテルにチェックインをして,市内観光に出かけましょう。

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◇◇◇
  Farewell 2013.
I wish you will be a Happy New Year. 

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  ・・・・・・
 ボストン茶会事件は,1773年ボストンで,民衆が入港したイギリス船に乗り込み東インド会社の茶箱を海に投げ捨てた事件である。
 当時,イギリスの北アメリカ植民地では1770年のタウンゼント諸法の撤廃後も茶税のみが残され,73年には新たにイギリス東インド会社の植民地での茶の販売独占権を与える茶税法が制定された。茶は植民地の人たちにとって,イギリス本国の重商主義的圧制のシンボルであったのだ。
 そして1773年10月から茶税法による東インド会社の茶を積んだ船が植民地に到着しはじめると,民衆は集会を開き,茶を陸揚げせずに本国に送り返すよう要求した。イギリス総督はこれを拒否し,茶を積んだ東インド会社の貿易船はボストン湾での停泊を継続した。
 1773年12月16日,サミュエル・アダムスを中心とする50人ほどのボストン市民がインディアンに変装して,停泊中の船を襲撃,「ボストン湾をティーポットにする」と叫びながら,紅茶がいっぱい詰まった342箱の茶箱をボストン湾に投げこんだ。植民地の人たちは「ボストン茶会を開いた」と冗談を言った。
 この事件を機に,イギリス政府はボストンを軍政下に置き,植民地側はフィラデルフィアでイギリスとの経済的断交を決議,こうした情勢の中で,レキシントン・コンコードの戦いが勃発して,独立戦争の幕が切って落とされたのである。
  ・・・・・・

 私は,水族館から遠回りしてたどりついたが,実は,後から考えると,ファニュエルホール前のコングレスストリートを直接1キロくらい南に行けば,ポートポイント運河に架かるコングレスストリートブリッジにたどり着く。
 いずれにしても,この橋のたもとに,ボストン茶会事件の船と博物館がある。
 ネットで検索すると,このボストン茶会事件の船と博物館は火災のため休館中とかいった情報がたくさん出てくるが,実際は2012年6月から再開している。本当に,調べれば調べるほどネット上の正規の旅行会社の情報サイトには,誤りや「がせねた」が多いと感じる。一度記入してから更新しないままのもの,投稿した原稿の真偽のチェックのないものが多いからである。旅行するときは,必ず,その博物館の公式サイトでチェックする必要がある。

 この博物館に行くときは,少しでも多く,ボストン茶会事件について勉強してから訪れると楽しさが倍増するに違いない。
 たとえば,日本に「赤穂浪士討ち入り博物館」とかいうものがあったとする。まず,観光客が案内されるのは,討ち入り前に浪士の終結した場所である。そこで観光客がそれぞれその事件に関与した歴史上の人物になって,役者さんが大石内蔵助やら堀部安兵衛に扮していて,その演技をみながら,一緒に劇をするのである。そして,そのあとで,一緒に吉良邸に討ち入って,吉良上野介を打ち取り,そのあとで,博物館で展示をみたり,映画を見たりする…。
 まあ,そんな感じだ。だから,観光客も指名されたら一緒に演技をしたり,宣言文を読み上げたりしなければならない。
 この博物館はそのようなところであった。

 入口で入場料を払って,博物館に入った。当時の服装を着て,サミュエル・アダムスに扮したスタッフが,まず,我々を集会場に案内した。
 私の参加したショーは15人程度の人たちであった。それぞれが,ボストン茶会事件に参加したボストン市民のだれかに扮することになった。私は,サミュエル・ピッツという役を与えられた。セリフのない,無名の役である。
 パンフレットから,少し引用してみよう。
  ・・・・・・
 この博物館で、あなたは今まで経験してきたことのない有名は事件の一員となることができます。実際に演技をする俳優さんや,ハイテクを尽くした装置と魅力的な展示,忠実に復元された茶船,そして,多感覚のドキュメンタリーは、あなたが,今まさにそこにいるかの錯覚におちいることでしょう。
 1773年12月16日,その運命の夜に,ポール・リビエラとサミュエル・アダムスとともに当時やったのと同様にボストン市民となって船からお茶を海に投げ捨てましょう。
 さらに,この博物館を見た後で,実際にティールームでくつろぐこともできますし,お土産用のギフトショップもあります。
 この博物館では,すべての年齢の方に,見逃すことのできない貴重な1時間の経験をお約束します。
 では,1773年の歴史的な出来事に俳優さんと一緒に参加しましょう!
  ・・
 入口を入ると,18世紀のボストンの入植者に扮した皆さんは集会所に入って,1773年12月16日の夜の話を聞いてください。そして,グリフィンズワーフへの行進が始まる前に,あなた自身も「モヒカン変装」をすることになるでしょう。
 さあ,次に船に押し入って,あなたもこの歴史的な出来事の一員として愛国者と一緒にお茶を海に捨てる準備をしましょう。復元された船は忠実に再現されています。この船はイギリス船ではなく,実際にはアメリカ人が所有していたのですが,彼らがロンドンからボストンへ運んでいたお茶の貨物は英国東インド会社が所有していました。この「エレノア」と名付けらた船はボストンの商人ジョン・ロウが所有するいくつかの船のひとつでした。
 その次に訪れるのは博物館です。この博物館は,3Dホログラフィックをはじめ,最高の高精細技術を経験することができます。そして,ビデオは信じられないほど現実のように見える壮大なイメージを作成しています。あなたは,実際に1773年のボストン通りにいるかのように感じられるでしょう。あなたが手を差し伸べると,まさにそれらに触れることができるかのようです。
 アメリカの歴史の中で最も重要なイベントのひとつ独立戦争を再現しました。この魅力的な,そして,多感覚映画の中で,あなたはその時代を体験できるでしょう。疾走する馬の感覚を感じ,マスケット銃の発射と兵士たちの田園地帯の行進。爽快で楽しい臨場感。
 きっとあなたは息を殺して,この体験を記憶することになるでしょう。
  ・・・・・・

DSCN2975sDSCN2979DSCN2981sDSCN2982s どうしてもボストン・ティー・パーティへ行きたかったので,ファニュエルホールからどのように行けばよいかを,地図を見ながら考えた。
 32年前に,ボストンに来たときに,私は,ボストン・ティー・パーティという言葉さえ知らなかったことに衝撃を受けた。世界史を学校で勉強できなかったことがこれほど恥ずかしかったことはなかった。そのとき,しみじみ,知らないということの恐ろしさを知ったし,当時通学した学校で世界史を学べなかったことを,私は悔いた。その後,世界史の教科書を購入して勉強した。
 だから,ぜひ,このボストン・ティー・パーティに行きたかった。しかし,今回は,そこに行くまで,このボストン・ティー・パーティの事件があった場所がボストン茶会事件船と博物館というアトラクションになっていたことを知らなかった。
 まず,ボストン・ティー・パーティの場所すらわからないのだった。
 海に面してあるはずなので,地図でそれらしきものを探した。フリーダムトレイルとはちがって,地図にも目だって書いてなかったので探すのに苦労したが,やっと,ダウンタウンから東に行ったウォーターフロント地区からポートポイント運河を南に行った2つめの橋のたもとに,ボストン・ティー・パーティ・マーカーという表記を見つけた。

 そこへ行くには,ファニュエルホールから歩くと,かなり距離がありそうであった。
 そこで,まず,地下鉄に乗ろうと考えて周りを見渡すと,歩道に「T」というマークの標識があるのに,地下鉄の入口が見当たらないのだった。実は,地下鉄の駅は,旧州会議事堂の1階にあったのだが,そんな建物の1階にあるとは知らず,私は地下鉄の入口が探し出せなかった。 
 そこで,港に面したウォーターフロント地区自体は,ファニュエルホールから東に200メートルも行けば着くので,とりえずそこまで歩いて,あとは,すこし距離はあるが海沿いに歩いていけばいいと思い,ウォーターフロント地区まで歩いて行くことにした。

 ウォーターフロント地区には,ニューイングランド水族館がある。
 それほど大きな水族館ではないが,1階から4階までを円筒形の巨大水槽が貫いている構造になっているということだ。
 ガイドブックによると,まず,ペンギンのプールをぐるっと回って,その後,水槽の周りのせんじょうの通路を1階から4階まで順番にみて行く,そして,最上部へ行くと、巨大水槽を上から見下ろすことが出来る、という構造になっているとのことである。また,この水族館のすぐ近くからはホエールウォッチングの船も出ている。
 この日は,観光客や夏休みの子供たちで,このウォーターフロント地区はにぎわっていた。
 しかし,私の目指す先は水族館ではなく,ボストン・ティー・パーティである。そこから海岸沿いに,結構な距離を歩いて行くと,やっと,ボストン・ティー・パーティの船が見えてきた。
 そこがボストン茶会事件の船と博物館というものであった。

◇◇◇
2013年もあと5日です。私は,今年はいいことばかりでした。
ボストンでグリーン・モンスターくんとツーショットを撮りましたし,この冬は,なんと,くまモンともツーショットを撮りました。
聞くところによると,この秋,くまモンはボストンに行って,グリーン・モンスターくんとフェンウェイ・パークでキャッチボールをしたということなので,何の因果なのか,おかしく思っています。
このブログには私の写真を載せない方針なので,ツーショットの写真をお見せできないのが残念です。
来年もいいこと続くといいなあ。
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DSCN2969ファヌエルホールとアダムスDSCN2970DSCN2971s ファニュエルホールマーケットプレイスというショッピングモールがあって,あたりは公園や広場にもなっている。ファニュエルホールは,このマーケットプレイスの入口に位置する。そして,ビジターセンターはファニュエルホールの1階にある。
 地図には,ビジターセンター,ファニュエルホール,ファニュエルホールマーケットプレイスと書かれているが,こういった固有名詞は,知っている人にはなんということもないが,知らないとどういうことなのかよくわからないことが多い。実際,ビジターセンターはファニュエルホールの1階にあるということが書かれていないので,非常に分かりづらい。
 
 町の波止場だった所に 裕福な貿易商ピーター・ファニュエルがボストンに寄贈した商業用兼集会場用のホールとしてファニュエルホールが建ったのは1742年のことであった。
 1764年から1774年までここで住民集会が開かれて,植民地にかけられた様々な税にサミュエル・アダムスが抗議の叫びをあげたのはすでに書いた。このホールの正面にはアメリカ建国の父といわれるサミュエル・アダムスの銅像が立っている。
 建物の屋根の上には風見のためのバッタが設置されている。バッタは明るい未来を導く幸福の象徴とされている。独立戦争当時,アメリカ側の兵士たちは「マニュエルホールにはなにがいる」「もちろんバッタだ」と答えることを敵味方を区別する合言葉に使っていた。
 私は,ここのビジターセンターで,やっと,ボストンのわかりやす地図を手に入れることができたのだった。
 また,隣のファニュエルホール・マーケットプレイスは,ショップやレストランがひしめき合って,多くの観光客でにぎわっている。

 私は,32年前にボストンに来た時に十分見学ができなかったボストン茶会事件の船と博物館,そして,ボストン美術館へ行きたかったので,ここでフリーダムトレイルから離れることにした。
 よって,この先のフリーダムトレイルについて,手元にある資料から紹介しておこう。
 ここから先は,少し歩く必要がある。
 まず,ファニュエルホールから北に800メートルくらい行ったボストン最古の住宅街であるノースエンドに,ポール・リビアの家がある。1680年築の屋敷をリビアが買い,1770年から1800年にかけて家族と住んだものが修復され公開されているということだ。
 さらに道なりに3ブロックほど北に行くと,オールドノース教会がある。1723年創設のボストン最古のキリスト教会は今も現役で,建物内部の箱型の座席も当時のままで残っている。また,美しいジョージア風建築の教会には乙女の鐘楼というアメリカ最古の鐘やジョージ・ワシントンの胸像がある。
 ここから北に,チャールズリバーにかかるチャールズタウンブリッジを渡り,さらに800メートルほど北に行くと,バンカーヒル記念碑がある。1843年除幕の方尖塔は,高さが66メートルあって,これは,独立戦争の最初の大きな戦闘バンカーヒルの戦いを記念するものという。ここを見学するには,タワー内にはエレベータがないので294の石段を登ることになる。

 これで,フリーダムトレイルは終わりだ。ここまで見学すると,約4時間かかる。帰りはそのまま4キロの道のりを戻ることになるので,チャールズタウン・ネイビーヤード(チャールズタウンブリッジのたもと)まで戻って,ここに停泊している米国船コンスティテューション号を見学してからインナーハーバーフェリーに乗って,ニューイングランド水族館まで戻るとよいと思われる。
 水族館からは,ボストン茶会事件の船と博物館に行くこともできるし,地下鉄ブルーラインのアクアリウム駅もある。

◇◇◇
楽天イーグルスがニューヨーク・ヤンキースからケビン・ユーキリスを獲得しました。アンドリュー・ジョーンズといい,現役大リーガーとしてテレビで見ていた選手が日本に来るのは,楽しいものです。
ケビン・ユーキリス選手は,ボストン・レッドソックスの中心選手だったのですが,ボビー・バレンタイン監督と折り合いが悪く,ヤンキースに放出されました。個性的なフォームで有名です。
私は,アンドリュー・ジョーンズ選手は日本で活躍できるかなあ,と心配だったのですが,成功しました。はたして,今回はいかに?
ちなみに,ケビン・ユーキリス選手のおじさんはニューヨークでレストランをやっています。お店は
 Edward's Reataurant
 143 West Broadway, NY, NY 10013
です。ニューヨークへ行く機会があったらどうぞ。 

DSCN2960sDSCN2962DSCN2963DSCN2966 ここまでフリーダムトレイルを歩いて,やっと,私が目指していたビジターセンターに到着した。
 このビジターセンターは,ファニュエルホールビジターセンターといい,ボストンのダウンタウンの中心,フリーダムトレイルの中心,ファニュエルホールマーケットプレイスというショッピングモールにある。ボストンコモンから始まるボストンコモンは「」」の形で東に進んでこのあたりに北に方向を変えるのだが,その角にあたる。

 ここからフリーダムトレイルの散策は,ここから始めるのではなく,これまでに書いたように,ボストンコモンの観光館内所で地図を入手してそこから歩き始めることをお勧めしたい。
 私のこの日のもうひとつの誤算は,履いていたスニーカーにあった。来る3か月前に購入して,履きなれてから持ってきたものであったが,すでに中敷きがボロボロであったことに気が付かなかった。
 どうも履き心地がよくないと思ったら,そういう理由であった。

 ともあれ,このビジターセンターから広い通りコングレスストリートを隔てて,西側に近代的な大きなビルが見えるが,これは,ボストン市役所である。その左手(南側)に有名な旧州会議事堂がある。ボストンのガイドブックに出てくるだれでも一度は見たことがある建物である。札幌でいえば時計台とでもいったらよくわかるか。
 旧州会議事堂は,1713年に建てられたもので,独立戦争が勃発するまで,植民地政府が置かれていた。それと同時に,商人たちの取引所でもあった。
 また,東側のバルコニーの下の円形に舗装された場所は1770年のボストン虐殺地の跡である。
 1776年7月18日,このバルコニーから独立宣言が読み上げられた場所としても有名である。1798年に現在の州会議事堂が完成するまで州会議事堂であった。屋根のユニコーンとライオンは、イギリスの紋章に使われているシンボルである。
 現在は,博物館となっていて,1階は,地下鉄の入口(ブルーラインとオレンジラインのステイツ駅)とマリンミュージアム,2階がボスト二アン教会の展示室になっている。
 また,ここは,結婚式場としても人気があるそうで,運が良ければ,バルコニーの新郎新婦を見ることができるそうである。

  ・・・・・・
 WE, therefore, the Representatives of the UNITED STATES OF AMERICA, in GENERAL CONGRESS Assembled, appealing to the Supreme Judge of the World for the Rectitude of our Intentions, do, in the Name, and by Authority of the good People of these Colonies, solemnly Publish and Declare, That these United Colonies are, and of Right ought to be, FREE AND INDEPENDENT STATES.
  ・・
 我らアメリカの連合諸邦(the united States of America)の代表は連合会議に集い,世界の至上なる審判者に対し我らが意図の正当性を訴えて,これら植民地のよき人民の名と権威において,厳粛に公に宣言する。これら連合植民地(United Colonies)は自由にして独立な国家であり,またそうであるべきものである。
  ・・・・・・

DSCN2949sDSCN2954DSCN2955DSCN2958オールドコーナー書店

 オールドサウス集会所は,清教徒の礼拝堂として1729年に建てられた植民地時代のボストン最大の建物である。
 ここは,本来は,清教徒の礼拝堂として建設されたもので,教会のような作りになっているが,独立戦争以前,住民はイギリスの支配に対抗するために,この集会所に集まってボストン虐殺事件や紅茶税に抗議したのだった。

  ・・・・・・
 イギリス本国は,7年戦争(1756年~1763年にプロイセンと支援するイギリス,オーストリア,ロシア,フランスなどヨーロッパ諸国の間で行われた戦争)と並行して,北アメリカでフレンチ・インディアン戦争と呼ばれるイギリスとフランスの植民地戦争を行った(この戦争で勝ったイギリスはフランスから北アメリカの領土を獲得し植民地帝国の基礎がすえられた)。
 イギリスは,戦争による財政赤字を軽減するために,植民地に負担を求め,1764年には砂糖条例,1765年には印紙条例などの法律(タウンゼント諸法)を可決したのだった。
  ・・
 サミュエル・アダムスやジェームズ・オーティスは,ファニュエルホール(私がこのあと訪れるところ)に集まって,イギリス本国の課税に反対した。
 こうした課税に対する反感が高まる中,1770年に旧州会議事堂(ここもこのあと訪れるところ)の前で,ボストン住民がイギリス兵を挑発したことを発端としてイギリス兵が発砲し,ついにボストン虐殺事件が発生した。
 この結果,イギリス本国では,タウンゼント諸法が撤廃されたのだったが,それでもなお,茶税は継続された。
  ・・
 このボストン虐殺事件で,イギリス兵が微罪しか問われなかったことに,ボストン市民の反感は高まり,この集会所には5,000人の人々が集まり,抗議の集会を開いた。
 1773年,イギリスは,茶税を逃れようと植民地側がオランダ商人から茶を密輸入していたことを禁じて,イギリス東インド会社に植民地での茶の販売独占権を与える茶法が成立し,茶への課税が継続された。
 このことがボストン市民の抗議行動を一層過激なものとし,12月16日,サミュエル・アダムスらは,この集会所に集まって,原住民に扮し,ボストン湾に停泊中のイギリス船から積荷のお茶を投げ捨てるという「ボストン茶会事件」を起こしたのだ。
  ・・・・・・

 この建物は1876年の取り壊しを免れて,現在は,言論の自由を守る砦としての博物館となっている。入場料を払って中に入ると,確かに,集会場のような作りとなっていた。周りには,植民地時代の歴史がわかるような様々な展示があって,興味深いものであった。
 このオールドサウス集会場を出て,ワシントンストリートを北に1ブロックあるくと,オールドコーナー書店という道路標示があった。この書店は,1960年代の取り壊しを免れて,1970年ボストン歴史協会が復元したが,今は書店をさがしてもわからない。ここは,ウルトラダイヤモンズという宝石店となってしまっている。
 植民地時代に,このワシントンストリートは,店舗と住宅を兼ねた家が軒を連ねていた。オールドコーナー書店は入母屋屋根をもつ建物で,1718年,薬剤師トーマス・クリ―が薬局として建てたものを,19世紀半ばに文学者のセンターとなり,ラルフ・ワルド・エマーソン,ハリエット・ビーチャー・ストウ(ストウ夫人),ルイザ・メイ・オルコット,ナサニエル・ホーソンなどの著作は,この建物の中にあったテイクナーフィールズ社から出版されたのだった。

 ラルフ・ワルド・エマーソンは,1803年5月25日にボストンで生まれた思想家,哲学者,作家,詩人,エッセイストである。彼は,個人主義を唱え,アメリカの文化の独自性を主張したことで知られている。
  ・・・・・・
 The secret in education lies in respecting the student.
  ・・
 教育の勝利は生徒を尊敬することにある。
  ・・・・・・
 ハリエット・ビーチャー・ストウは,1811年6月14日,コネチカット州リッチフィールドに生まれた作家で,奴隷制度廃止論者である。代表作「アンクルトムの小屋」は,あまりにも有名である。
 ルイザ・メイ・オルコットについてはすでに書いたが,1832年11月29日ペンシルベニア州ジャーマンタウンに生まれた。代表作は「若草物語」である。
 そして,ナサニエル・ホーソンは,1804年7月4日,マサチューセッツ州セーラムに生まれた。
 父方の祖先である初代ウィリアム・ホーソンはクエーカー教徒迫害に関与し,2代目ジョン・ホーソンは,セーラムの魔女裁判の判事を務めた。また,母方の祖先ニコラス・マニングの姉たちが近親相姦の嫌疑をかけられ迫害されたといった過去を持つために,宗教的な作品が多い。
 代表作「緋文字(ひもんじ)」(The Scarlet Letter )は,ゴシックロマン小説で,17世紀のボストン清教徒社会を舞台に姦通の罪を犯した後に出産し,悔恨と尊厳のうちに新たな人生にむかって努力する女性の物語を描いている。
 これまでにも書いたが,旅をするということは,その地の歴史やそこから生まれた文化を知ること,そして,実際に,現在その地に住む人と接すること,そして,そうしたことを体験することで,人が生きていることを実感することだと,改めて思うのである。

DSCN2948DSCN2950パーク通り教会DSCN2937キングスチャペルDSCN2953オールドサウス集会所

 地下鉄のパークストリート駅は,ボストンコモンの北東角にある。この駅はグリーンラインとレッドラインが通っている。この広場には,飲み物を売ったり新聞を売ったりする店があって,いかにも,観光地の入口といった雰囲気になっている。
 この駅を出たら,少し南に戻って,まず,ボストンコモンの中にあるボストンコモン観光案内所に行くのがお薦めである。そうすれば,私のように,わかりやすい地図がないとか,道がわからないということはないはずである。
 私の失敗は,この案内所に寄らず,ボストンコモンの途中にあるビジターセンターで地図をもらおうと思ったことにあったのだ。
 ボストンコモンは,アメリカ最古の公園で,現在はフリーダムトレイルの出発点となっている。
 1634年に清教徒が創設したこの公有地(コモン)は,創設当時は家畜が草を食み,イギリス軍の兵士が野営をしていたこともあったという。

 案内所からボストンコモンを北に歩いていくと,マサチューセッツ州会議事堂の正面に着く。
 マサチューセッツ州会議事堂については,すでに書いたが,設計をしたのはバルフィンチという人で,サミュエル・アダムスとポール・リビアが隅石を敷いたという。また,左手には,ロバート・ゴールドショウと第54師団記念碑があって,その場所から西へ,ブラックヘリテッジトレイルが始まっている。
 私も,迷いながらも,どうにかここに到着した。
 私は,マサチューセッツ州会議事堂の正面から,ボストンコモンの西端を南東にパークストリートに沿って下っていくとトレモントストリートにぶつかった。その三叉路にあるのが,1809年に建てられたパークストリート教会であった。
 このパークストリート教会の優雅な塔と,1日に2度音色を響かせるこの教会の鐘は,この町の目印になっているということだ。
 この教会は,また,1834年7月4日,賛歌「アメリカ」が最初に歌われたことで知られている。そして,ここでは,1829年に奴隷制度廃止論者ウィリアム・ギャリソンが初めての奴隷制度反対演説を行った。
 ちなみに,賛歌「アメリカ」(My Country, 'Tis of Thee)とは,イギリス国歌のメロディに合わせて歌われるアメリカの愛国歌で,現在のアメリカ国歌が1931年に法制化されるまで,事実上の国歌として位置付けられていた。
 歌詞が誕生したのは1831年であった。
  ・・・・・・
 My country, 'tis of thee,
 Sweet land of liberty,
 Of thee I sing;
 Land where my fathers died,
 Land of the pilgrims' pride,
 From every mountainside
 Let freedom ring!
  ・・・・・・

 パークストリート教会の隣にはグラナリー墓地がある。
 この古い共同墓地には,ジョン・ハンコック,ポール・リビア,サミュエル・アダムスをはじめとしてボストンン虐殺事件の犠牲者が埋葬されている。
 また,パークストリート教会と道を隔てて,フランクリンの立像と公共学校跡がある。
 清教徒入植者が1635年に最初の校舎を建てたこの公共学校跡地にはフランクリン,サミュエル・アダムス,ジョン・ヘンコックが通ったという。

 次に,私は,パースストリート教会の前のトレモントストリートを道なり北東に1ブロック歩いて行った。そこには,キングスチャペルがあった。威厳のある建物なので,すぐに目につく。
 キングスチャペルは,1749年にピーターハリソンによって設計されたボストン初の英国組合教会で,英国の植民地時代の最も優雅なジョージア王朝風の内装を今も有している。
 このキングスチャペルには塔がなく,外壁は石で覆われ内部は石と木造がミックスされたものである。そして,チャペルに隣接する墓地には,植民地時代の知事ジョン・ウィンズロップの墓石があった。キングスチャペルを見終えたら,手前(南)のスクールストリートを東に2ブロック歩いていったが,そこには美しい塔が目の前にそびえていた。これがオールドサウス集会所であった。

◇◇◇
12月17日の朝日新聞におもしろい記事がいくつかあったので,紹介しましょう。
●野口悠紀夫さんが書いた「賃金上がらず貧しくなる」
わたしもこのブログで書いたように,アベノミクスは,金融緩和による円安だけのことです。そこには,日本経済の抱える本質的な改革も何もないので,やがて,リーマンショック以前と同じ状況がやってくることでしょう。
この国は老人が多く,年金と貯金に頼った人たちは,インフレになって賃金が上昇しても,苦しくなるだけなので,ますますお金を使いません。この冬のボーナスが少しばかり上がったので,高級品の売れ行きがよいと煽ったニュースが流れていますが,若者よ,騙されてはいけません。
●WEB・RONZAから「大学の『英会話学校化』を憂う」
結局,高い授業料をとって,大学は,TOEICの問題演習をやっているだけなのです。この国の英語教育の最大の欠点は,うまくいった見本がない,ということなのです。すべて思いつきなのです。
何も大学で英会話を教えなくても,中高6年もやれば使えるようになります。それができないのは,6年間入試問題集をやっているだけだからです。きっと小学校から英語を教えても結果は同じでしょう。電車の中で,単語を覚える本を読んでいる学生さんはよく見かけますが,誰一人として,英語の本や雑誌を読んでいる学生さんを見たことがありません。英語の先生が授業の予習で問題集の答えを覚えているような勉強したって,英語はできるようになりません。ばかげています。そんなことするぐらいなら,簡単な英語の新聞でも読みながら英語で討論でもするか,アメリカの中学や高校とラインで結んでテレビ会議でもすればいいのです。
●「米欧で無人機実験」
これは,ヘリコブターのような小型の無人機を使った宅配サービスを行おうというものです。
狭い日本ではピンときませんが,広大なアメリカの大地なら,このサービス,意外とよいかもしれません。でも,こんなのが飛び交ったら空中で衝突事後が起きるかもしれません。果たして,どんな未来が来るか私には興味があります。 

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DSCN2967ダックツアーDSCN2952DSCN3025DSCN3011DSCN2951

 フリーダムトレイルの振り出しにもどったところで,私のいい加減なボストン観光だけでは申し訳ないので,はじめてボストンを訪れた人にも楽しんで市内観光ができるように,旅行体験記に加えて,ボストンの名所案内も,現地で手に入れた資料を基にして書いてみたいと思う。
  ・・
 日本で売っているガイドブックにも詳しく書かれているけれど,実際に旅行をしてみると,それなりに多くの問題があって,うまく歩き回ることができない。
 その理由は,当然のことであるけれど,選択肢を読者にゆだねているので,迷ってしまうことにある。たとえば,はじめて空港に降り立った時にダウンタウンに行く方法ひとつにしても,複数の方法が網羅されているので,どれにするか迷ってしまう。当然,大人の事情から,市販のガイドブックには,この方法のほうが便利ですよ,とは書けない。だから,私は,独断と偏見と経験に基づいてそれを書くことにしたい。

 きょうは,その旅行体験記&観光案内に入る前に,そのプロローグとして,アメリカでよく見かける面白いシーンを写真でお目にかけることにしよう。
 ひとつ目の写真は,ダックツアーである。この写真は,ボストンのダックツアーを写したものだ。
 水陸両用車による市内観光。
 日本人は,こういうことは自分からははじめないし,たとえはじめようとしても,やれ規制がどうのだとか,やっても採算がとれないとか言って新しいことには決裁がおりないくせに,アメリカでやっていると知るとなんでも真似をする。
 たとえば,野球中継。
 もう,かなり昔のことになるので,今では知らない人が多いとおもうけれど,日本では,テレビの野球中継はバックネット裏から写していた。センターから写すとキャッチャーのサインが丸見えになる,というのが理由のひとつだった。
 今は,NHKやCSで毎日大リーグ中継をやっているが,野茂が大リーグへ挑戦するよりもはるかに昔,一度,フジテレビで大リーグ中継をしようと企画したことがあった。当然,まだ,日本人選手なんていない頃のことだ(マッシー村上という偉大な先駆者がいたけれど)。あまり視聴率が取れなくて,すぐにやめになった(当時の日本の野球の巨人戦同様,ニューヨークヤンキースの試合ばかりを放送したのが原因だと私は思った。)。そのとき,アメリカではセンターのカメラから中継をしていたのに驚きを覚えた日本人は,大リーグ中継がやめになっても,その中継方法だけが遺産として残った。
 そうした例にもれず,ダックツアーは,(きっと)それを知った日本人の偉大な先駆者の努力で,今は,大阪でも神戸でも東京でもやっているし,その体験談がブログに載っていたりもする。実際,日本で始まったのは2000年であるらしい。
 日本で始まる前,私が,これをはじめて見たのは,シアトルであった。はじめて見たときは,なんと間抜けな車かなあ,と思った。これに乗ってシアトル市内を観光してはしゃいでる観光客をみて,なんとチープな観光バスだろうかと思った。まさか,それが水陸両用だとは思わなかった。
 さまざまな観光地で導入されていることを考えると,人気があるものなのだろう。
 このダックツアー,ボストンでは,科学博物館前やニューイングランド水族館前から出発しているが,約1時間の観光ができるのだそうだ。夏場は人気があって,なかなか乗ることができないらしい。私は,まだ乗ったことがないけれど,こういった人気があってなかなかチケットが買えませんというものも,経験上,ひとり旅なら,あるいは,人より早く観光をはじめるのからなんとかなる。旅はとにかく少人数か早朝から動き回るのに限る。 
 この車は,ボストンレッドソックスの優勝パレードに登場したので,日本でもなじみになった。

 ふたつ目の写真では,訳の分からない人形をお目にかけよう。
 これは,工事現場にあった。単に,面白いという理由で存在しているのであろうが,こういう遊び心は大好きである。アメリカの工事現場には,こういった遊び心がたくさんある。工事現場でも,立派な観光ができるのである。

 三つ目の写真は,アメリカの大型トラックである。
 アメリカではじめてこれを見たとき,ものすごく感動した。映画と同じだ! って。
 実際は幅と高さは日本とそれほど違いはないのだが,長さが決定的に違う。長さに制限のない州も多く,信じられない長さのものが走っていたりもする。詳しくないので,これ以上書けないが,インターステイツを走っていると,重量計測所というのが,やたらとあるので,重量にはなにかの制限があるのかもしれない。
 ちなみに,こうした大型トレーラーは「18ホイーラー」とか「ビッグ・リグ」とよばれている。運転席だけを注目してみても,まさに,キャンピングカーなみの大きさなのだそうだ(そうそう,アメリカではキャンピングカーもたくさん走っている)。
 見かけによらず,運転はとても紳士的で,インターステイツを走っているとき,とても,我々をいたわってくれるように感じる。まあ,ぶつかったらひとたまりもないので当然だけど。

 そして,四つ目の写真は,ボンネット型スクールバス。
 これも,アメリカで普通に走っているものだけど,はやり,はじめて見たときは感動した。そうそう,これも,映画で見たのと同じだ… なんて。
 大型トラックもそうだか,アメリカでは整備のし易さなどが理由で,ボンネット型に人気がある。
 インターナショナルというメーカーが生産をし,ブルーバード,トーマスという車名である。
 アメリカでは6月から夏休みで,生徒は郊外学習やらキャンプやらに出かけるので,夏休みには,このスクールバスで水族館や博物館に大勢でやってくる子供たちをよく見かける。

 最後の写真は,ボストンで見かけたホームレスのおばさん。 
 こちらのホームレスは元気である。ものすごく声がでかい。それに驚いて道の反対側からさっと撮影した。
 このおばさんも,とんでもなく大きな声を張り上げていた。
 朝,ボストンコモンで見かけたおじさんのホームレスは,大きな声で今日の天気とニュースを正確にを叫んでいた。「きょうは午後から雨だよ~。」
 きょうの夜,野球を見に行く私には,決して聞きたくない予報であった。

◇◇◇
CNN/US(CNNアメリカ版)の早朝東部時間5:00放送の「Early Start」という番組のアンカーを務めていたゾライダ・サンボリン(Zoraida Sambolin)という素敵な女性は,12月13日の放送を最後に,この番組を降板しました。シカゴに住む家族を選んだということです。彼女は,5月に番組の中で乳癌の診断を受けたことを発表し,治療をしていたのですが,11月に番組に復帰したばかりでした。
彼女のジャーナリストとしての勇気を心から尊敬します。
番組の最期に,多くの仲間からお別れのセレモニーを受けて,涙々でした。アメリカ人のこういう姿は,素敵だなあ,と思います。

DSCN2947 DSCN2957フリーダムトレイル DSCN2945 DSCN2946

 何の予定もなくフリーダムトレイルを歩こうと気楽に考えていたのが災いして,自分がどこを歩いているのかさえ定かでなかったが,ともあれ,ビーコンヒルにいたわけだから,やがて,丘の上に,マサチューセッツ州会議事堂が見えてきた。
 ここには,所要時間約40分の見学コースがある。時間がなければ,セルフガイドツアー(見学資料をもらって自分でまわること)もできる。
 議事堂には,ホール・オブ・フラッグという空間があって,南北戦争で戦ったマサチューセッツの兵士をたたえ,未来に伝える場所となっている,また,1961年1月9日就任式の直前にこの議事堂で故ジョン・F・ケネディ元大統領が演説をしたことでも有名である。議事堂の西側にはケネディの銅像が建てられている。

  ・・・・・・
 Courage--judgment--integrity--dedication--these are the historic qualities of the Bay Colony and the Bay State--the qualities which this state has consistently sent to this chamber on Beacon Hill here in Boston and to Capitol Hill back in Washington.
 And these are the qualities which, with God's help, this son of Massachusetts hopes will characterize our government's conduct in the four stormy years that lie ahead.
  ・・
 勇気,審判,誠実,献身
 これらはマサチューセッツ州の植民地時代から受け継がれてきた原点です。これら原点の精神はボストンのビーコンヒルにある州議会とワシントンのキャピタルヒルにある連邦議会において守り続けてきたものです。これらの原点は,神の助けであると共にマサチューセッツの希望でもあります。
 これから先にある嵐のような4年間において我々の政治を遂行していく上で決して忘れてはならないものです。
  ・・・・・・

 この議事堂からフリーダムトレイルが始まっている。
 フリーダムトレイルは,1951年,オールドノース教会のボブ・ウィンがボストン・ヘラルド・トラベラーの記者ビル・スコフィールドに,旅行者がボストンの史跡を見つけやすいようにと巡回路を作ることを提案し,ビルはそのアイデアを新聞記事にしたことから,市長と商工会議所の指示を得て,市が州会議事堂からコップスヒル墓地までの12か所を整備されたもので,写真にあるように,路上に塗った線と帯状に敷かれたレンガ,標識で示されている。
 また,現在は,フリーダムトレイルは拡大・発展して,州会議事堂から西の方向へブラックヘリテッジトレイルも作られている。

 私は,この時は,ビジターセンターで地図をもらってから,フリーダムトレイルを散策するつもりだったので,フリーダムトレイルは州会議事堂を下らなくてはならないのに,近道して一路ビジターセンターを目指すつもりで,間違えて裏手に行ってしまったものだから,フリーダムトレイルの目印が見つけられなくなってしまった。こうして適当に歩いて行った先が,ビーコンヒルの坂道であった。
 このようにして,奇しくも,ビーコンヒルの美しい町並みの中を散策することになってしまったので,それはそれで楽しかったのだが,適当に歩いていたら,もとに戻れなくなってしまった。
 道が碁盤の目のようになっていればいいのだが,自然に曲がっていってしまうので,方角が分からなくなってくるのだ。やはり,ここでも持っていた地図が大まか過ぎたのが災いした。
 やはり,歩く前に観光案内所でフリーダムトレイルに特化したものを手に入れることが必要であった。

 フリーダムトレイルの地図とパンフレットはこの後で手に入れることができたので,今,これを書きながらそれを見ていると,不思議な気持ちになる。地図を見ているとすごく容易いことが,実際にはなかなかうまくいかないのは,ほんとに奇妙なことである。
  ・・・・・・
 何事もすぐにペーパーテストで力を測るのがこの国のやり方ではあるけれど,私は,「ペーパーテストで順位を競うことイコール学力」という発想は本当に意味がないと,いつも思うのである。英検やらTOEICに意味がないとは言わないが,実際に話したリ聞いたりできなくてはいくら点が高くても仕方がない。まして,大学受験の英語なんて論外である。
 貴重な中高6年間英語の勉強をした大人の多くが「私は英語ができないから」と言うが,それは時間の浪費以外の何物でもない。結果的に,6年かけて,苦手意識を植えつけただけなのである。
  ・・・・・・
 子供をベビーカーに乗せて歩いていた女性がいたので,議事堂に戻る道を聞いた。彼女も同じ方向へ行くようだったので,ついて行ってやっと,議事堂に戻ることができた。
 どうにか,フリーダムトレイルを歩き始めることができた。めざすビジターセンターはフリーダムトレイルを歩いていけば,道なりにある。近道は,えてして一番遠い道になる。

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 やっとホテルに戻ることができた。フロントの女性と目があったので,忘れものをしちゃった,といったら笑っていた。出かける前にボストンマラソンの爆破事件の場所を聞いたときの愛想のよくない顔とは全く違っていた。まったくもって「愛しのボストン」である。
 部屋に戻ると,やはり,別のカバンに入れた地下鉄のチケットが見つかった。

 もう一度ホテルから出た。
 いつもはビルの外周を周って地下鉄のボイルストンストリート駅まで行っていたのだけれど,ビルの中を突き抜けて行くことにした。ビルに入ると,1階は吹き抜けになっていて,大きなフードコートがあった。そのビルを出ると,路地があり,地下鉄のボイルストンストリートの駅は目の前だった。また,ボストンコモンを引き返す元気がなかったので,地下鉄グリーンラインで一つ東の駅パークまで行くことにした。今度は,はじめに間違えて乗った西行きの地下鉄なので,その入口で正解であった。
 このように,昨年のミネアポリスダウンタウンでも同じことであったが,はじめての町では何事もはじめの1回が難しいのだけれど,ほんの数時間その町にいるだけで,ずっと住んでいたかのように過ごすことができる。そして,なんでもないちょっとしたことで,その町が気にいったり,そうでなかったりする。
 税金を使って視察旅行で海外を訪れる偉い人たちも,ガイドなしで数時間その町を歩いて見ることのほうが,ずっといろんな情報が手に入ると思うのだが,まあ,そんな勇気も能力もなさそうだ。

 まず,目指す行先は,テレビドラマ「アリー my Love」で法律事務所という設定だったビルであった。
  ・・・・・・
 「Ally McBeal」は,1997年から2002年まで5シーズンアメリカのFOXで放送されたテレビドラマである。日本では,「アリー my Love」という番組名で,NHKが1998年から放映した。
 ボストンにある法律事務所で働く女性弁護士アリー・マクビールを取り巻く恋愛模様や法廷シーンをコミカルに描いたもので,内容はもちろん,子気味の良いテンポの会話とか法廷の会話とか,英語の勉強にも役立ったドラマであった。
  ・・・・・・
 この放送で,アリーが勤めていた「フィッシュ・アンド・ケイジ法律事務所」という設定のビルがビーコンヒルに実在している。そして,このドラマで,最初にアリーが勤めていてセクハラで辞めた法律事務所という設定のビルがその右隣にある。
 とはいえ,このドラマも,設定はボストンであるけれど,実際はロサンゼルスのスタジオで撮影していたので,あくまで,映像として使われていただけである。
 また,このビルのある「ビーコンヒル」という丘は,ボストンコモンの北東にある高級住宅地で,通りの幅は狭く,レンガ敷きの歩道になっていて,夜になるとガス灯がともる。地名の名は,かつて丘の頂上で航海上の目印としてかがり火が焚かれていたことに由来している。
 よく旅行ガイドブックに写真が載っているのは,このビーコンヒルのエーコンストリート(州回議事堂の東側)であるが,私道なので,一般の観光客は立ち入り禁止になった。
 丘の頂上にマサチューセッツ州会議事堂があるので,東京で「永田町」というと日本政府を指すように,「ビーコンヒル」というと州政府をさす言葉だそうだ。

 地下鉄のパーク駅を降りて地上に出たところが,ちょうどボストンコモンの北東の角で,朝,チケットを忘れたことに気づいた場所であった。朝は,ここを南に行くつもりが西へ歩いて行ってしまったわけだ。チケットを忘れたのだから,地下鉄には乗らず,歩いてホテルまで戻ろうとしたわけだし,思わぬ出会いもあった。
 今回は,ビーコンヒルへ行くので,地図を見ながら歩いて行ったが,駅から1ブロックほど行ったところに,目指すビルはあった。普通のオフィスビルであった。中に入っても何があるということもないので,こんなものか,と思って,次を目指すことにした。

 このあたりは,ボストンのビーコンヒルからダウンタウンと呼ばれる地域である。
 ボストンの町は,ひらがなの「つ」の字のようになっていて,北はチャールズリバーという川が流れ,橋を渡った先は,ケンブリッジで,ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)がある。東はボストン湾で,大西洋につながる。湾を挟んで北東にジェネラル・エドワード・ローレンス・ローガン国際空港があって,インターステイツ90と州道1Aにかかる橋でつながっている。1日目に泊まったのは,州道1Aを空港よりさらに北東に行ったところであった。
 「つ」の字の中心がボストンコモンという公園で,公園を囲んで,東がダウンタウン(ダウンタウンは北側が政治エリア,南が経済エリア),ダウンタウンのさらに北東がノースエンド,南東のボストン湾に面したところがウォーターフロント,南がチャイナタウン,北がビーコンヒル,さらに北がウェストエンド,西がバックベイ,バックベイの南「つ」の左の端のほうがフェンウェイ,もっと西がブルックリンという感じの区分になる。
 ビーコンヒルからダウンタウン,そして,ノースエンドへ「フリーダム・トレイル」と呼ばれる散策コースがあって,ボストンの市内観光の基本は,このトレイルを歩くことなのである。
 私が,「アリー my Love」の舞台となったビルへ行ったのも,フリーダム・トレイルを散策するコースを目指していたからなのであった。

 フリーダム・トレイルは,32年前に来た時に歩いたことがあった。
 今回は,どこへ行くというあてもなく,どこへ行かなくてはならないという気持ちもなかった。だから,下調べもあまりしないで,ともかく,ダウンタウンのビジターセンターあたりから歩き始めようと思っていた。
 「アリー my Love」の舞台となったビルをあとにして,持っていた地図を手掛かりにビジターセンターを目指して歩いて行ったのだが,そのビジターセンターがなかなか見つからない。
 持っていた地図のせいにしてはいけないのだが,わかりにくい地図であった。

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 チケットを買ったときのまま財布に入れておけばよいものを,昨晩,明日の準備をしていたときに荷物の入れ買えをしたのがあだになった。
 忘れたもうひとつの原因は,天気予報にあった。アメリカに着いて以来,7月28日(日)の天気だけがずっと気がかりで,それまでの1週間は,ずっとよい天気という予報であった。こちらの天気予報は,テレビで見る限り,おおよそのことしかわからなくて,困ってしまう。それによれば,今週はずっとよい天気で,週末も涼しくて過ごしやすいというものであった。そして,心配していた28日は,サンダーストームだと言っていた。サンダーストームもどういう状態なのか想像ができなかった。

 ところが急に,きょうは午後から雨だと,朝の天気予報で言い出した。今日は,夜,野球を見にいくので,雨は困る。ずっと晴れだと言っていたではないか。
 そこで,朝,ホテルを出るときに傘がいるとかいらないとか,荷物の入れ替えをしていたのが原因で,地下鉄のチケットを忘れてしまったのであった。気づいた時には,その場所は,すでにボストンコモンの北東端で,ホテルに戻るのも20分くらい必要であった。少し迷ったけれど,きょう一日乗り放題にするために購入したチケットなのだから,取りに戻らなければ意味がない。ボストンコモンをこのまま戻ってもつまらないので,適当な方向を見定めて,街の中を散歩を兼ねてホテルまで戻ることにした。
 ボストンコモンから出て,自分の頭の中の方角では,南に歩いているつもりであった。清楚な高級住宅地の中に入った。しばらく歩いて,自分の気持ちでは,もうすぐ,ホテルが見えてくるはずであった。ところが,まったく知っている景色にならない。そうして,だんだんと,どこにいるのかわからなくなってきた。

 むこうからひとりの若い女性が歩いてきた。「すみません,道に迷ってしまったのですが,今どこにいるか教えてもらえませんか?」と声をかけた。地図を見せると,少し考えて,今ここです。と指をさした場所は,自分の思っていたところとは全く違った場所であった。嘘のような話であった。私が南と思っていた方向は実は西で,その時歩いていたところはボストンコモンの南東端ではなく,北西端あたりであった。
 はじめは,これは嘘だと思った。道を聞いた女性は,間違ったところを教えたのではないかとさえ思った。「どこへ行きたいのですか?」と聞かれたので,ホテルへ忘れものを取りに帰ると言ってホテルの場所を指し示すと,「そのホテルは今から私が行くところの近くだから,一緒に行きませんか?」という思いがけない展開になってきた。

 歳をとってくると,旅をしていて見知らぬ人に話しかけても,相手に警戒されないどころか,親切にされることが多くなってうれしい。ということで,ついていくことにした。そのあとでも,ほんとうに自分があるいているところが彼女の言った場所だとはずっと信じられなかった。私は方向音痴ではない。こんな経験(自分の思ってもいないところにいる)は生まれて初めてのことであった。 
 話をしながらあるいていると,彼女は,夏休みに英語を勉強するためにスペインから来た学生で,これから,チャイナタウンにある語学学校に登校するところだということであった。私の泊まっているホテルは,チャイナタウンのとなりだから,一緒に行きましょう,ということになったわけであった。
 というわけで,歩いて戻ると結構な距離だったけれども,楽しさ100倍,時間の過ぎるのが惜しくなって,ボストンコモンの中を縦断し終えた頃,知った景色が見えてきたときに,はじめて,自分の迷ったところが,本当に彼女の言った場所だったと認識した。申し訳ない。
 それにしても,今だに,どうして,そんな方向間違いをしたのか信じられないのだけれども…。
 やがて,ホテルの近くの交差点まで来た。
 「私はこの先反対方向へ行くので,ここで」ということになって,別れることになった。そうして,せっかくなので,記念に一緒に写真を撮りましょうということになって,通りがかりの人を見つけて写真を写してもらった。
 写した写真はこのブログではお目にかけられないが,私の大切な宝物として,手元にある。
 道に迷ったことが,逆にいい思い出となった。塞翁が馬,まさに「愛しきボストン」である。

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☆6日目 7月25日(木)
 きょうは,1日ボストンを市内観光して,夜,フェンウェイパークで野球を見る予定であった。
 このホテルは朝食つきなので,フロントの横にあった食堂で朝食をとった。
 一度部屋に戻って,バッグにカメラや地図など必要なものだけを詰め込んで出発した。 

 まず,ホテルの近くに,今年の4月15日にボストンマラソンで起きた爆破事件の現場があるようだったので,単なる好奇心でそこへ行ってみることにした。ホテルのフロントでその場所を聞いた。フロントの女性は昨晩の人とは違う人だった。その女性が「すぐそこだよ」と言ったけれど,喜んで教えます,みたいな感じではなかった(もっともだ)。
 ホテルから1ブロック北に行ったボストンコモンの南を通るボイルストンストリートとボストンコモンの西端を南北に走るアーリントンストリートの交差点の北西角にトリニティ教会があって,その場所が現場であった。昨日,1駅歩いて地下鉄に乗ったちょうどその場所であった。ホテルからは2,3分のところであった。教会の塀には,たくさんのリボンが結びつけられていた。

 わかりやすく例えれば,事件現場は,ちょうど日比谷公園の東側をとおる日比谷通りが内幸町に差し掛かった交差点(日比谷公会堂のあるところ)のような場所であった。私の泊まったホテルの位置は第一ホテル東京,といった感じか。
 日本では,アメリカのニュースといえば銃の乱射とか爆破事件とかそういった報道ばかりなので,今だ,危険な国というイメージを抱いている人が多いけれど,実際に観光客として遊びに行って表面的ではあるが町を歩いているときは,非常に平和で安全なところである。だから,こんなところであの事件が起きたのか,という衝撃が実感であった。早くも事件後3か月以上が過ぎて,教会のリボン以外は,何も事件の面影が残っていない通常のボストンの繁華街だった。
 この教会を目のあたりにしたそのあとは,1日中,ボストンの市内観光をのんびりと楽しむことにして,とりあえず,ボストンコモンを散歩した。

 1981年7月26日に成田を出発して8月6日に帰国した,私の32年前の東海岸のひとり旅の思い出は,今になってみれば,断片的なものである。アルバムに残る写真と日程表くらいしか形として残っているものはない。
 その時の旅行で,ボストンに滞在したのは,7月27日から29日のわずか3日間であった。
 今,そのアルバムを眺めてみると,確かに,わずか2泊の滞在とは思えないほど,いろいろなところへ行っている。
 当時泊まったホテルの場所も記録が残っているので,そのホテルがどこなのかは今でもわかる。だが,当時,どのような経路で市内観光をしたのか,まったく記憶が残っていないのである。
 ホテルの場所も決して便利なところとも思えないので,どうやってそのホテルへ行ったのか,ホテルからダウンタウンへ行ったのかも思い出せない。
 思い出すことといえば,ホテルの前の広く静かな通り(「ソールダーズフィールドロード」だと思われる)とか,そのホテルの北側にかかる橋からケンブリッジに向かって歩いた時に,チャールズリバーに浮かんだ大学生のボートとか,夕暮れに大きなカバンを転がしながらホテルまで歩いたこととか,ボストン・ティー・パーティの事件があった港に行ったとき,ボストン・ティー・パーティ事件を知らずショックを受けたこととか,ボストン美術館へ地下鉄で行こうとして,すごく怖かったこととか…。
 そうした断片的な映像だけが,懐かしくよみがえってくる。

 今,地図を見ながら,そして,今回実際に行ってみると,車も使わず,当時,どうすればそういう観光ができたのか,全く分からないのである。本当に不思議な気持ちになる。私は,そのころと何も成長していないだ。
 今回の旅で,その時の思い出をつなげてみようと思ったのだが,歩けば歩くほどわからなくなった。その時に泊まった同じホテルに泊まってみようと思ったが,ホテルは建てなおされて高級ホテルに様変わりしていた。
 そうしているうちに,当時の軌跡をたどることは自分の大切な思い出が崩れていくようで怖くなった。思い出というのは,事実の記憶ではなくて,記憶を頼りに自分で作り上げたフィクションなのかもしれない。今回の旅の思い出も,また,何年もすると,そうした形で残っていくのであろう。
 でも,私は,いつか,歳をとって,今のように旅ができなくなってしまったときに,この大切な思い出だけで生きられるだろう,と信じている。そして,残念ながら,こうした思い出を作ることができる自分に残された時間がどんどん少なくなっていることを実感している。悲しいことだけれど。

 ボストンコモンを南西から北東にのんびりと歩いていった。
 平日なので,仕事に急ぐ人がいたり,のんびりと散歩する老人がいたり,太極拳をする中国人の一団がいたりした。ボストンコモンも広い公園で,銅像があったり,池があったり,遠くにビルがみえたりした。そうこうしているうちに,ボストンコモンの北西端に着いた。
 このとき,昨日購入した地下鉄の7日間乗り放題チケットをホテルに忘れてきたことに気がついた。

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