しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国50州 > モンタナ州

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●グレイシャー国立公園(Glacier National Park)
 2015年ごろ,私はアメリカの地図を見てため息をついていました。それは,モンタナ州の最も北にあるグレイシャー国立公園に行きたいのだけれど,その場所があまりに遠く,どうしたら行けるか考え込んでいたからです。レンタカーでは遠いし,なるべく近くの空港まで飛行機で行こうとも思ったのですが,なかかなよい便が見つかりませんでした。
 結局,シアトルから車で8時間かけて行くことにしました。その結果,ずいぶんとすばらしい思い出ができたのですが,行く前は不安で仕方がありませんでした。
 あとで知ったことには,実際は車がなくとも鉄道でも行くことができる唯一の便利な国立公園ということで人気でした。グレイシャー国立公園には西のポートランドから東のシカゴまでを結ぶアムトラックのエンパイアビルダー(Empire Builder)が1日1往復運行されていたのでそれを利用することができたのです。
  ・・
 グレイシャー国立公園はモンタナ州の北のはずれにあって,人工的な国境で分断されていますが,実際は,カナダのウオータートンレイクス国立公園(Waterton Lakes National Park)につながっています。公園の名前である「グレイシャー」というのは「氷河」という意味ですが,実際,非常に標高が高いので,ものすごく寒いところです。
 行ったことがある人から,たいしたことなかったよ,という話を聞いたことがあったので期待していなかったのですが,実際は,何の何の,とてもすばらしいところでした。
 これまでに紹介したゴールデンサークルの国立公園が赤茶けた土ばかりなのに対して,ここは湖あり,森あり,氷河ありというところでした。
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 グレイシャー国立公園は西のゲートであるウェストグレイシャー(West Glacier)から東のゲートであるセントメリー(St.Mary)までゴーイングトゥザサンロード(Going to the Sun Road)を走って抜けることができます。また,列車できた人のために,園内は観光用のバスが走っています。
 ゴーイングトゥザサンロードは分水嶺である海抜2,025メートルのローガンパス(Logan Pass)を越えます。ローガンパスにはビジターセンターがあって,ここが観光の拠点です。ローガンパスの周辺には高山植物の群集が見られ,背後に迫る山は右側が標高2,670メートルのマウントクレメンツ(Mount Clements),左側が標高2,781メートルのマウントレイノルド(Mount Reynolds)です。 ビジターセンターの裏側からトレイルがあって,このトレイルを歩くとヒドゥン湖展望台(Hidden Lake Overlook)へ行くことができます。私も雪道を歩きました。
 ゴーイングトゥーザサンロードの南には,セントメリーレイク(Mt. Mary Lake)が広がっていて,ゴーイングトゥーザサンロードの中ほどのビレッジの近くの船着場からこの湖を1周するクルーズがあります。私はそれにも乗りました。湖の途中には Wild Goose Island という小島があります。クルーズは,途中の対岸で降りて15分ほどトレイルを歩きベアリング滝(Baring Falls) まで行きます。 
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 ゴーイングトゥーザサンロードはローガンパスの西側はヘアピンカーブが頻繁にあり,さらにトンネルもあります。また,いたるところで,滝でもないのに氷河から溶け出した水が道路に降ってきて,まさに滝の下を走るようになります。わざわざこの滝の下を走り,洗車をしている車をみかけました。ローガンパスを越えた東側は直線道路で,ぐんぐんと下って行き,それまでの登り坂の険しさとはすっかり趣がかわって,高原ムード一杯になったころ,公園の東側のゲートに到着します。
 東側のゲートを過ぎ,さらに左折して北に行くとメニーグレイシャー(Many Glacier)へ行くことができます。メニーグレイシャーはグレイシャー国立公園で最も遠く静かで最も美しいところです。氷河を抱いた鋭い岩峰に囲まれた谷筋にいくつもの氷河湖が重なって幻想的な雰囲気です。このスイフトカレントレイク(Swiftcurrent Lake)の周りを一周するトレイルは絶品です。
 スイフトカレントレイクのほとりには,Many Glacier Hotel と Swiftcurrent Moter Inn というふたつのホテルがこの景色に調和していて,おとぎの世界のようなところです。
 メニーグレイシャーからさらに北に進むとカナダ国境に到達します。


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 前回ダイナソア国定公園を書いたので,それに関連して,今日は,国立公園ではないのですが恐竜の展示で有名なので,2015年に行ったモンタナ州ボーズマンにあるロッキー博物館を紹介します。

●ロッキーズ博物館(Museum of the Rockies)
 私のこころの故郷がモンタナ州です。ボーズマンという町は,モンタナ州の中でも,ビュートについで思い出に残っているところです。
 ボーズマンにはモンタナ州立大学があるのですが,この広大な構内にモンタナ州の自然を扱うロッキー博物館があります。もともとはモンタナ州立大学の付属組織でしたが,現在はスミソニアン協会にも所属しています。
 ロッキー博物館は,モンタナ州の大地の生い立ちが標本と解説パネルで展示された大きな博物館です。
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 博物館の目玉は映画「ジェラシックパーク」のスタッフが監修をしている恐竜の展示です。
 これまでに発見された中で最大のティラノサウルスの頭蓋骨,これまでに発見されたふたつしかない完全なもののうちのひとつや軟部組織の遺骨を含むティラノサウルスレックスの大腿骨など,13の標本や,トリケラトプスと赤ちゃんなどを所有するアメリカで最大の恐竜遺物があります。
  ・・ 
 また,恐竜の展示以外には,38億年前のベアトゥース片麻岩の展示コーナーや「北ロッキー山脈地域の歴史」のコーナーもあります。
 さらに,かつてこの地方にすんでいたネイティブアメリカン,毛皮商人,金探求者,フロンティア時代からの入植者などの展示や,屋外には住居跡も再現されています。

 ロッキー博物館だけでなく,アメリカを旅していて驚くのは,どこに行っても,日本にはありえないような巨大な博物館や美術館があることです。こうした施設の建物は美しく,管理が行き届いていて,いるだけで賢くなった気になるようなアカデミックさを備えています。日本では,こうした施設の多くが思いつきのようにつくられて規模も小さく,できたときだけは予算がついても,その運営や維持には最低の予算しかないので,次第に古くなり,展示にも魅力がなくなって,リピーターもなく,閑古鳥がないているのとは大違いです。
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 博物館や美術館には,すごく詳しい説明パネルがあり,専門家がいます。そして,展示のレベルが高く,ホンモノがたくさんあります。また,いつもなにがしかの企画や講演,公開講座があります。そこで,そうした場所には,知的好奇心のある大人が大勢訪れています。こうした博物館や美術館を運営するための予算の多くが寄付でまかなわれているそうです。アメリカに行くと,人々の生涯にわたる学問や文化への関心の高さを感じます。
 私もこうした施設を訪れて,日本では見ることができない多くの貴重な展示に接することをアメリカの旅の楽しみのひとつとしています。


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●すばらしかったグレイシャー国立公園●
 これまで書いてきたように,ずいぶんと遠いところだったが,念願のグレイシャー国立公園に来ることができた。私が来たのは6月だったが,国立公園は夏休みになるとかなり混雑するらしいので,いい時期であった。それでもかなり寒かったけれどおそらくベストシーズンであろう。
 私は,この2016年のあと,2018年,2019年とこの同じ時期にアメリカ旅行をしているが,6月下旬というのは行くたびに一番いい時期であると痛感する。何より,日本からのフライトが空いているのがいい。

 前回書いたように,この後私はノースカスケーズ国立公園を経由してシアトルまで戻ることになるのだが,この日は早朝に出発したのにシカに激突されて,ふたたびカリスベルまで戻ることになってしまった。とここまで書いて,ここで私が昨晩何を食べたかを書き忘れたことに気づいたので,ここに書いておくことにする。実は,まったく記憶にないし記録にも写真にもないのだ。不思議な話である。どうしても思い出せない。
 さて,私はカリスベルで車を交換して,改めて,最終目的地のシアトルに向けて,途中のノースカスケーズ国立公園への道を進むことになるが,グレイシャー国立公園で写した写真がまだたくさん残っているので,今日は一休みして,グレイシャー国立公園で出会ったすばらしい景色をご覧ください。

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●シカに激突されてしまった。●
☆4日目 2016年6月27日(月)
 この旅は5泊7日であった。この日目的地だったグレイシャー国立公園に別れを告げる。最終日の前日6日目の夜はシアトルでMLBを観戦してから1泊することにしていたから,4日目と5日目はシアトルまでもどる途中で1泊して2日かけてシアトルまで戻ることにしていた。
 ホワイトフィッシュ(Whitefish)のロッジはわずか2泊しただけだったし,グレイシャー国立公園から思った以上に遠かったけれど,ここはとても印象に残るロッジであった。このロッジは,私が近ごろ,年に1,2度宿泊する長野県木曽駒高原にあるペンション「ヒルトップ」にロケーションや建物の雰囲気が似ているので,木曽駒高原のペンションに行くたびに今でもこのロッジを思い出す。
 ロッジの食堂には世界地図があって,これまでこのロッジに宿泊したゲストの出身地がピン留めされてあったが,日本には3本のピンしかなかった。そこで私が4本目のピンをたてることになった。

 当初はお昼過ぎまでこの日もグレイシャー国立公園を観光することにしていたが,グレイシャー国立公園はひととおり制覇したので,予定を早めて早朝グレイシャー国立公園を出発して,シアトルまでの途中でノースカスケーズ国立公園に寄ることにした。
 ノースカスケーズ国立公園(North Cascades National Park)はワシントン州とカナダ国境にある国立公園で,ホワイトフィッシュから西に車で約8時間800キロほどであった。手前のウィンスロップ(Winthrop)という小さな町がノースカスケーズ国立公園の玄関口であったから,今日1日かけてウィンスロップまでたどり着くことにした。

 アメリカの最も北を横断するインターステイツ90は,ワシントン州シアトルからスポーカン(Spokane)を通り,アイダホ州を抜け,モンタナ州に入ると,ミズーラ(Missoula),ビュート(Butte),ボーズマン(Bozeman)と,私のなじみの町を経由して,ノースダコタ州を避けるように少し南下してサウスダコタ州に入る。その東のミネソタ州のミネアポリスを過ぎてイリノイ州のシカゴまで行くと,その後は五大湖を巻きながら,やがてオハイオ州クリーブランドを越え,マサチューセッツ州ボストンに達する。
 とこれを書きながら,私はその風景が浮かび懐かしくなってくる。
 この旅では,行きはシアトルからインターステイツ90を走ってきたが,帰りはインターステイツ90のそのさらに北側,つまりカナダとの国境の近くを,はじめは国道2でニューポート(Newport)という町まで行って,そこで国道2のさらに北側を東西に走る州道20に乗り換えてウィンスロップまで走り,ノースカスケーズ国立公園を周遊して,シアトルに戻ろうというのである。
 
 スキーリゾートのホワイトフィッシュの南にある町カリスぺル(Kalispell)から西に,快調に70マイルつまり112キロで片側1車線の国道2を走っていた。左側には湖が広がっていた。
 40分ほど走ったころだったか,突然,道路の左側の木陰から巨大なシカが2匹飛び出してきた。こうした高原の道路は何が飛び出てくるのか予測不能なのである。
 道路の前にいたのならともかく,横から飛び出してきてはどうにもならない。ブレーキを踏む間もなく,そのうちの1匹が私の車の左側に激突した。つまり,私がシカを轢いたのではなく,シカが私を轢いたのである。突然のことでびっくりしたが何のショックもなく,車も何事もなかった…かのように思えた。シカは車を飛び越えたのだった。ただし,確認すると,左側のドアミラーだけがシカにけられて木っ端微塵となっていた。2匹のシカは飛んで逃げて行ったようでその姿は消えていた。
 私は途方に暮れたが,車の走行には何の支障もなかったので,ともかく最寄りのハーツに行って車だけ交換しようと思った。最寄りの営業所を探したらカリスぺルの空港が一番近かった。40分ほど先であったが仕方がないので,そのまま先に通ったカリスぺルの空港にあるハーツまで戻ることになった。

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●途中で断念するのは…●
 セントメリーレイクのクルーズを終えて,ローガンパスまで戻ってきた。
 この時期は日没が遅いので,1日が果てしなく長い。夕方の午後5時前にローガンパスに戻ってきたが,まだ日は高かったし,ローガンパスは昨日と違って晴れ渡っていて,風もなく暖かで,昨日寒さに震えていたのとは大違いであったから,駐車場に車を停めて,ヒドゥンレイク・オーバールック=展望台(Hidden Lake Overlook)へのトレイルを歩くことにした。
 このヒドゥンレイクの展望台まで続くトレイルは往復4.8キロメートルで,ビジターセンターの裏からはじまっていた。ビジターセンターを越えてトレイルの入口に行くと,そこには大雪原が広がっていた。最も昼間の長い暖かい時期であっても,トレイルは雪で覆われていたのだ。
 意気揚々と歩きはじめたが,思った以上に大変であった。あたりには雪をかき分けて高山植物が咲き乱れていた。トレイルはやがて分水嶺を越えてさらに進んでいく。すれ違った人にマウンテンゴートがいたよと言われたので楽しみに歩いていったが,私がマウンテンゴートを見たのははるかかなたの先であった。
 このトレイルは雪の中の坂道,というより溶けかけた雪がシャーベット状にジャリジャリになったスキー場の道なき道,つまり,ゲレンデをずぶずぶになりながら進んでいくようなものであった。私は何度も滑っては転び,その都度周りの人に助けてもらった。

 これまでも,そして,これからも,私は日本ではこんなトレイルなど歩くことはないであろう。せいぜい歩くとしても,旧東海道や旧中山道などの旧街道の険しいといわれる峠道くらいのもだろうが,海外に出ると,その気もないのに,こういう経験を数多くすることになってしまうのが不思議なことだ。以前行ったロッキーマウンテン国立公園もそうであったし,今年の3月には運よくか運悪くかオーストラリアでエアーズロックにも登ってしまった。
 私は,こうした経験をするたびにいつも途中でめげかける。そしていつも,何かをしはじめたときには,途中で断念することは何かをしようとすることよりもずっと難しいものだと痛感するのだが,こうしたことは,幼児期から,自分の意志で何かをするよりも決められたことをさせられるばかりの日本の子供たちがもっとも経験できないことではないのだろうか。
 そんなわけで,このときもまた,いつもと同じように,めげながらも途中で断念する勇気もなく決断もできず,無理は厳禁といい聞かせることが精いっぱいで,休み休み進んでいくことになった。そのうち大雪原から景色が一変し,ようやく木々が生い茂るオアシスのような場所になってきたころ,マウンテンゴートの姿が見えてきた。

 マウンテンゴートというのはシロイワヤギ(Oreamnos americanus)の別名で,ウシ科シロイワヤギ属に分類される偶蹄類である。体長はオスで140センチから160センチほどなので,人間くらいであろうか。全身が黄白色で角はオス・メスともに細く,基部からわずかに後方へ向かい,先端が後方へ湾曲する。昼行性で,ペアもしくは小規模な群れを形成し,争うことは少ない。また,食性は植物食で,木の枝,葉,草,コケ植物,地衣類などを食べる。ロッキー山脈やアラスカ山脈などの標高2,000メートルから3,000メートルの山地に生息し,岩に登りやすいようにふたつの大きく広がった蹄を持っているので断崖絶壁も余裕で登ることができる。
 非常に人懐っこくて,間近まで近づいてくる。思った以上にたくさんいて,私はここまで歩いてきてよかったと思った。そして,やっとヒドゥンレイクの見える展望台まで,断念することもなく到着することができたのだった。

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●美しいセントメリーレイククルーズ●
 カナダ国境の近くででUターンしてセントメリーまで戻り,昨日と反対に「ゴーイング・トゥー・ザ・サンロード」を西に走った。
 セントメリーを過ぎると「ゴーイング・トゥー・ザ・サンロード」の左手にセントメリーレイク(Mt. Mary Lake)が広がっている。この湖はグレイシャー国立公園でレイクマクドナルドに次いで2番に広い湖だが,標高は4,484フィート (1,367メートル)で,レイクマクドナルドよりも約1,500フィート(460メートル) 高くなっている。
 湖の面積は9.9 マイル(15.9キロメートル)で奥行きは300フィート(91メートル)。表面積は3,923エーカー(15.88平方キロメートル)ある。
 湖水はめったに華氏50度(摂氏10度)より高くならないらしいが,冬の間は最大4フィート(1.2メートル)の厚さの氷で凍結されるという。

 ところで,以前にも書いたことがあるが,日本人に「エーカー」という単位はなじみがない。1エーカーは43,560平方フィートなので4046.872609874平方メートル,つまり約4,047平方メートルとかかれているが,そんなことではよくわからない。
 そこでもう少しわかりやすくすると,1エーカーは1,200坪ほどである。古い日本人ならこのほうがまだピンとくるであろう。さらにもっと若い人にも直観でわかるように書くと,1辺の長さが約64メートルの正方形の面積であろう。野球の内野は1辺90フィート,つまり27.431メートルの正方形,また,サッカー場は縦幅が100メートルから110メートル,横幅が64メートルから75メートルなので,これから広さが想像できるであろう。小学校の校庭くらいのものである。
 エーカー(acre)の語源はギリシャ語の「ager」から来ている。ギリシャ語でエーカーは「くびき」を意味する言葉で,2頭の牛が1日間で耕すことが可能な土地の広さを1エーカーとしたとされているそうだ。

 また,温度の華氏も難しい。華氏から摂氏への換算は,32を引いてから9で割って5を掛ける(つまり0.55倍する)のだが,めんどうなので,簡単には30引いて2で割ればおおよその値は想像ができる。
 華氏は真水の凝固点を華氏32度,沸騰点を華氏212度としてその間を180等分して華氏1度としたことに由来する。「華氏=ファーレンファイト」とは,考案者のガブリエル・ファーレンハイト(Gabriel Daniel Fahrenheit)にちなむ。「華氏」はファーレンハイトの中国音訳「華倫海特」から「華」と人名につける接尾辞「氏」から転じたものである。
 ファーレンハイトは彼が測ることのできた最も低い室外の温度を華氏0度,体温を華氏100度としたと述べている。冬の寒い日の室外温度が摂氏にすると−17.8 度だったというわけだ。また,華氏100度は体温,というのはわかりやすい。
 いずれにしても,こうした単位を単に暗記するのでなくきちんと概念として覚えるのは意味のあることだが,学校では正式の単位は教えても,日常生活で今でも使っている,たとえば「坪」のような単位を正式なものではないとして教えない。日本の学校教育では,どうでもいいことは一生懸命教えても,大人になって必要な知識は教えないわけだ。私は日常生活で今も使われていることを「文化」として教えることは大切だと思うのだが。

 湖畔を走る「ゴーイング・トゥー・ザ・サンロード」の中ほどのビレッジの近くの船着場からこの湖を1周するクルーズがあったので,それに乗ることにした。
 クルーズは夏場には1日5便ある。そのうちの2便にはレンジャーが乗船して対岸で降りて往復2時間トレイルを歩いてセントメリー滝まで連れていってくれるということだ。また,最終便はサンセットクルーズである。
 残念ながら,私の乗船したのは午後4時のものだったが,そのどちらでもなく,料金26ドル,所要時間1時間30分のものであった。湖の途中には Wild Goose Island という小島があったが,これが湖のなかに浮かんでいるように見えて,なかなかいい景観のアクセントになっていた。
 クルーズは,途中の対岸で降りて15分ほどトレイルを歩きベアリング滝(Baring Falls) まで行くことができた。ベアリング滝は高さが30フィート(90メートル)と短い滝である。この滝からはいくつかのトレイルがあって,トレイルによっては滝の頂上まで行くことができるものもあるということだった。
 滝からもどり再び船に乗った。こうして楽しいクルーズの時間を過ごすことができた。

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●カナダ国境に達する。●
 スイフトカンレントレイクを1周するトレイルを歩いたあとで,メリーグレイシャーホテルで昼食をとった。私は旅先の食事は,何も特別なことがなければ質素に済ませるが,こうしたすばらしい場所に行ったときはその気分に合わせて豪華な食事をすることにしている。ここでは気持ちももりあがったので,贅沢をすることにした。
 日本では都会のレストランで昼食をとろうとするとどこも列が出来ていて,だからといって座席はせまく,まったく楽しくないが,そういうものとはまったく違って,広々としてしかも優雅に食事ができる。ここではさらに,窓からも美しい景色を見ることができた。
 食事を終えた。もう少しでカナダ国境である。そこで私はさらに北上してカナダ国境まで行ってみることにした。
 
 メニーグレイシャーから東に進み,Babbという町で左に折れて国道89に入り,4マイルほど北上してY字の交差点を左に曲がり州道17に入った。この道路がチーフマウンテン・インターナショナルハイウェイ(Chief Mountain International Hwy)という,文字どおりアメリカとカナダを結ぶ道路で,ここを14マイル北に走るとカナダとの国境である。
 道路のまわりはのどかな森が続いていた。アスペンやロッジポール松の林のなかを進んでいくのだが,途中,牛の群れが道路の端をのっしのっしと歩いていくので,注意が必要である。
 日本で車を運転するのとアメリカやオーストラリアで車を運転するのとでは,自然や野生の動物に対する注意が何倍も違うから,かなりの慎重さが求められる。日本のような傍若無人でスピード競争をしているような運転はきわめて危険である。
 道路の左側に奇妙な台形の山が迫ってきた。これがチーフマウンテンである。チーフマウンテン(Chief Mountain)は標高9,085 フィート (2,769メートル)。ロッキー山脈で最も目立つ山頂と岩といわれていて,モンタナ州の中心部からカナダのアルバータ州まで伸びるルイス・オーバートラスト(The Lewis Overthrust)として知られる200マイル(320キロメートル)の断層である。
 オーバートラストというのは押しかぶせ断層という意味である。上盤が下盤に対して相対的にずり下がった場合を正断層といい,逆に,ずり上がった場合を逆断層という。逆断層のうち断層面の傾斜が45度以下の緩傾斜の場合を衝上断層といい,さらに緩傾斜の場合を押しかぶせ断層とよぶ
 そして,さらにそのむこうに,グレイシャー国立公園で最高峰である Mt.Cleveland も見え隠れしていた。

 そのうちに国境の建物が見えてきた。思えば私は,これまでにもワシントン州で陸路アメリカ国境を越えてカナダに行き,カナディアンロッキーの観光をし,アイダホ州で再び国境を越えてアメリカに戻ってきたことがあるが,それは今から20年ほど前のことであった。そのときは難なく簡単に国境を越えることができたのだが,今は国境を越えることはけっこう大変らしい。
 インターネットの発達で,海外旅行をするときは便利になったこともある反面,テロなどの増加によって,いろいろセキュリティが厳しくなってしまって,昔ののどかさを失ってしまったことも少なくない。アメリカ旅行は1990年代が最も楽しかったように思う。
 国境を越えると,グレイシャー国立公園はウオータントンレイクス国立公園(Waterton Lakes National Park)と名前を変える。カナダの国立公園はアメリカの国立公園とは異なり,日本と同じで自然保護より観光重視,これはナイヤガラの滝に行ったときに私が感じたことである。
 私は今回は国境を越える予定がなかったので,ここらあたりでUターンをして戻ることにした。

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●絶品メニーグレイシャー●
 メニーグレイシャー(Many Glacier)はグレイシャー国立公園で最も遠く静かで最も美しいところだった。氷河を抱いた鋭い岩峰に囲まれた谷筋にいくつもの氷河湖が重なって幻想的な雰囲気であった。
 スイフトカレントレイク(Swiftcurrent Lake)の周りを一周するトレイルは絶品で,私はこのトレイルをゆっくりと散歩した。湖のほとりには,Many Glacier Hotel と Swiftcurrent Moter Inn というふたつのホテルがこの景色に調和していて,おとぎの世界のようなところであった。日本でこういうものを作るとおそらくは意味のない公園や展望台を作って,めちゃくちゃにしてしまうであろう。白樺リゾート池の平を思い出す。アメリカの国立公園というのは,こうしたことに厳しい規制があるので,全くストレスなく,安心して訪れることができるのだ。
 トレイルを歩いていて見える先の尖った山は標高2,911メートルの Mt.Gould であり,氷河はグリネル氷河(Grinnell Glacier)とよばれるものである。

 トレイルでは,家族連れで楽しむ人がいたり,絵を描いている人がいたりと,思い思いこのすばらしい景色を楽しんでいた。私は行かなかったが,グリネル氷河へは往復4時間のハイキングもできるし,メリーグレイシャーではクルーズもある。このクルーズはスイフトカレントレイクの対岸に到着して船を降り,300メートル歩いて再びボートに乗り込んで今度はジョセフィンレイク(Josephine Lake)を横断するというものだ。
 この風景の美しさはこれ以上は言葉で語りつくせないので,あとはゆっくり写真で味わってください。

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●減少するグレーシャー●
 前日とは反対に,この日はグレイシャー国立公の南端を走る国道2を東方向に,イーストグレイシャーを目指して走っていった。
 グレイシャー国立公園は「氷河の彫刻美術館」といわれるが,この風景は今から200万年前にはじまり,約1万年前に終結したものがもととなっている。
 太平洋プレートと北アメリカ大陸プレートの衝突で地層が隆起し,ロッキー山脈が形成された。その後氷河期がはじまり,川によって浸食された谷は氷河に変わった。こうしてできた巨大氷河の最も厚い場所は900から1,200メートルあった。
 約1万年前には温暖化によって巨大だった氷河は消え,現在のグレイシャー国立公園の姿になった。現在園内に残る約50の小氷河は,今から5,000年前頃にできたものである。
 地球の温暖化でここ100年氷河の規模は縮小していて,そう遠くない将来,グレイシャー国立公園の氷河は消えてしまうといわれている。

 のどかな国道2を走っていくと,イーストグレイシャーの町に到着した。イーストグレイシャーの町にある鉄道駅はグレイシャー国立公園に鉄道で到着する観光客の到着点となっている。
 鉄道駅の建物はグレイシャー国立公園を訪れる観光客のための施設としてダニエル・レイハルによって設計された。1920年のゴーイング・トゥ・ザ・サンロードの完成まで,グレイシャー国立公園は東側と西側は分離されていたので,国立公園の東側に鉄道駅が作られたのである。
 現在,鉄道駅は4月から10月まで運行しているアムトラックのエンパイア・ビルダー・ラインの駅となっている。
 また,イーストグレイシャーの町にはグレイシャーパークホテルがある。この歴史あるホテルは1913年に建設された。ホテルは駅から近く徒歩で行くこともできるが,それでも10分ほどかかるのでホテルの送迎サービスがある。
 私が駅を通りかかったとき,ちょうどアムトラックが到着する時間だったらしく,大勢の観光客が列車を待っていた。
 
 イーストグレイシャーで国道2と州道49が分岐する。私は昨日の反対に州道49を北上して行くことになった。
 やがてグレイシャー国立公園の東側の入口を過ぎた。この先が昨日行ったトゥメディソンの湖であるが,今日は通過して,セントメリーも過ぎ,さらに北のメニーグレイシャーへ向かった。 
 ロッジを出たときは快晴であったが,国道2を走るうちに霧がでてきた。しかし,天気は東から回復することは織り込み済み。そのうちに天気予報どおりすばらしい青空が空を覆うようになってきた。

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●モンタナののどかな町●
☆3日目 2016年6月26日(日)
 この辺りは北緯47度である。日本でいえば,北海道の最北端よりも北になる。6月の終わりに旅をすることもこれまではほとんどなかったので,私は来るまでそんな認識がなかったが,季節は夏至であり,しかも緯度が高いから,夜は午後9時を過ぎても日が沈まない。
 いつになったら夜になるのだろう,夜が来ないじゃないかと思って,そうか! ここはずいぶんと緯度が高いのだ,とはじめて気づいた。シアトルもまたここと同じくらいの緯度だから,おそらくこの時期にMLBのナイトゲームを見にいくと,ナイトゲームといってもゲームが終わるまで明るいに違いない。
 明るいうちに寝てしまい,翌朝起きたときはすでに空が明るかったから,本当に夜があったのだろうかとさえ思った。
 こんな経験をすると,一度でいいから北極圏で白夜とやらいうものも体験したくなる。

 旅も3日目になった。
 今日は昨日とは反対のコースをたどって,見どころで十分に時間をとって観光してみようと思っていた。
 朝から快晴であった。スキー場のロッジだけに朝食サービスはあった。
 日本のホテルによくあるバイキング形式の朝食は宿泊客が少なく空いていれば別だけれど,人が多いとせわしくてまるで餌をつついているようで,私は好きになれない。しかしそれは私が人混みがきらいなだけなのだろうか? それに加えて,私はご飯に味噌汁という朝食の習慣がないから,日本でそういう朝食を食べている人が多いのにずいぶんと違和感を覚える。

 ロッジを出て,まず山を下りた。昨日はよくわからなかったが,眼下にずいぶんとすばらしい景色が広がっていた。それはホワイトフィッシュ湖とホワイトフィッシュの町並みであった。
 山を下りたところがホワイトフィッシュの町であった。ホワイトフィッシュは人口6,000人ほどの町で,私が泊まっているロッジのあるホワイトフィッシュマウンテンリゾートというスキー場で潤っている。この町の名はホワイトフィッシュ湖の近くに位置していたことから名づけられたものである。
 1904年,グレート・ノーザン鉄道がホワイトフィッシュにひかれたことで町の発展が起きた。この地域は元来,町や鉄道を建設するために伐採する必要のある木材が豊富にあった。町の住民はそれまでは鉄道と伐採産業のために働いていたが,1940年代後半にスキーリゾートの建設が成功したことで観光産業が重要になった。現在はグレート・ノーザン鉄道はアムトラックが走り,スキーリゾートに向かう観光客でにぎわっている。
 ホワイトフィッシュ湖は5.2平方マイル(13平方キロメートル)の自然湖で,全長5.8 マイル(9.3キロメートル),幅1.4 マイル(2.3キロメートル) km),最も深いところは233フィート (71メートル)ある。また,ホワイトフィッシュ川がホワイトフィッシュの町を二分している。

 国道2を東に走っていくと,次にあった小さな町がコロンビア・フォールズ(Columbia Falls)であった。コロンビア・フォールズはグレイシャー国立公園の玄関口で,公園の西の入り口からわずか15分のところにある。この小さな町にはレストランや醸造所,また,夏にはファーマーズマーケットがあり,さらに,ゴルフコースがある。
 そして,その先のさらにちいさな町がハングリーホース(Hungry Horse)であった。この町の「空腹の馬」という名前は,1900年代の初期,シーズン最初の大きな雪の直前にパックストリングから緩んで破った放蕩馬からその名前がついたという。馬たちは厳しい冬の期間を生きぬき,春になって雪の中奥深くに,空腹の状態で発見された。それ以来,コロンビア山の陰にあるフラットヘッド川の中央フォークと南フォークによって囲まれたこの小さな町は「空腹の馬」として知られるようになった。
 現在,ハングリーホースは350万エーカーフィートの水をたたえた貯水池のある場所として知られている。ダムにはビジターセンターもあり,雪をかぶった山頂の美しい景色や厚く森の斜面野生動物が生息する荒野は訪れる人々を楽しませている。

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●夏場のスキー場のロッジに泊まる。●
 私がこの旅で宿泊したのはホワイトフィッシュ(Whitefish)という町の北にあるハイバーネーションハウス(Hibernation House)というロッジであった。
 旅行で苦労するのは,第一に航空券,第二に宿泊するホテルである。いろんな知恵やコツが必要で,何度やっても後悔することが多い。それでも航空券は一応うまく選択するパターンがわかってきたが,ホテルは最終的には行ってみないとわからないので今も苦労する。
 以前は到着後にホテルを探した。そのほうが失敗が少なかったような気がするが,当日泊るホテルを現地で探すのはリスクもある。今でも直接ホテルに行って交渉すればいいのだが,到着が遅くなって探すのが大変なこともあるから事前に予約をしておいたほうが無難なので,私はネットのサイトで予約をしておくのだが,こうしたサイトの口コミというのはずいぶんといい加減な場合も多く,到着してから後悔することが少なくない。
 また,観光地の場合は特に宿泊代がかなり高価になるので,私は少しくらい遠くても安価なところを探すことにしている。この旅では,そうして探したのがこのロッジであった。
 実際に行ってみると,私が予約したロッジはホワイトフィッシュの町からずいぶんと北に行った山の上であった。しかも,冬場はスキー場となる場所であった。
 私は,家から2時間少しで行くことのできる木曽福島の「ヒルトップ」というペンションを近ごろよく利用しているが,そこに行くたびに,この旅で宿泊したハイバーネーションハウスのことを思い出す。山に登って行ったところにあることも,スキー場であることも,建物の雰囲気も似ているからだ。ただし,当然アメリカのほうが大きいけれど…。
 これだけ旅をするといろんなところに宿泊したが,ふと思い出すなつかしい景色もあれば,すっかり忘れてしまったところも多い。ふと思い出す懐かしい景色というのはたわいもない場所のことのほうが多いのが不思議なことである。

 国道2は今日の写真にあるようにのどかな高原道路であった。こういうところが私の好きなモンタナ州なのである。
 アメリカの西側はカナダとうの国境にそって,西からワシントン州,アイダホ州,モンタナ州と続くが,アイダホ州は本当に何もなく,風光明媚な場所はみなモンタナ州なのである。
 やがてホワイトフィッシュの町に入る。ホワイトフィッシュは結構大きな町であった。町の中心にあったモールの一角にマクドナルドがあったので,そこで夕食をとることにした。
 日本と違ってアメリカのマクドナルドのサラダは大きくて鶏肉が入っているから,野菜が必要なときに夕食として安価に食べることができるから便利なのである。

 食事を終えて,ロッジに向かった。
 私は到着するまでうかつにも知らなかったのだが,ここは大きなスキー場であった。おそらく冬はずいぶんと混雑するのであろう。このロッジに季節外れの夏場の空いている時期に安価に泊ったということなのだった。
 ホテルというよりもロッジだから部屋はさほど広くはなかったし,口コミにもそう書いてあるものが多いのだが,それはアメリカのホテルと比べてのことであろう。日本のホテルと比較すればどこだって広々としている。私はここにこれから2泊することになる。

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●幻想的なトゥーメディスン●
 こうして,私はグレイシャー国立公園に到着早々ゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロードを走って,ローガンパスを経由して国立公園を横断した。これだけで,この国立公園の見どころのほとんどは見てしまったと考えてもよいようであった。
 どの旅もそうであるが,ガイドブックを飽きるほど眺めるよりも,ともかくこうしてまずは行動して概要をつかんでしまったあとで改めて行きたい場所の計画を立てるほうが,ずっと効率的なのである。

 私は,この後はセントメリーから国立公園の東端の国道89を南下して国道2まで行き,国道2で国立公園の南端をなめるように半時計周りで国立公園の西側まで戻って,宿泊先であるホワイトフィッシュに行くことにした。そして,明日改めて今日行けなかった場所を訪れることにした。
 国道89は国立公園の東端を南に向かって行き,南東の端にあるキオワ(Kiowa)という町で西ではなく逆の東に向きを変えて一旦公園から遠ざかり,ブローニング(Browning)という町まで行って国立公園の南端を走る国道2に乗り換えて,再び西に向きを変えるのが通常のコースだが,夏の間はキオワで州道49というショートカットをすることができた。その途中にあるのがイーストグレイシャー(East Glacier)である。

 キオワからイーストグレイシャーに至る途中にトゥーメディスン(Two Medicine)という湖がある。トゥーメディスンというのは湖だけでなく,グレイシャー国立公園の南東部に位置する地域の総称である。ここにはLower two Medicine Lake,Two Medicine Lake,Upper Two Medicine Lake の3つの長い湖が連なっている。湖へのアクセス道路はふたつ目の湖で行きどまりとなっているが,その先はトレイルがあって,3つ目の湖まで歩いていくことができるということだった。
 湖畔は静寂に包まれていて,とても落ち着ける場所であった。ここにはキャンプ場もあった。

 1890年代後半から1932年にゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロードが完成するまでの期間,トゥーメディスンはグレイシャー公園の中で最も観光客が訪づれるところだったという。ここには多くのトレイルの出発点がある。また,この場所はブラックフィート(Blackfeet)という種族などいくつかのネイティブアメリカンには神聖な土地とみなされていた。
 現在,トゥーメディスンにはビジターセンターがあるが,このビジターセンターはグレーシャー国立公園の歴史的な建物であった。ビジターセンターは,もともとはグレートノーザン鉄道の子会社であるグレイシャーパークホテル会社によって,1914年に建てられたものである。当時は食堂や宿泊施設を提供する素朴なログスタイルの建物群だったが,宿泊施設としての機能は第二次世界大戦のはじまりのころに終了して,現在ビジターセンターになっている建物以外は1956年に焼かれたという。
 駐車場に車を停めて建物の中に入った。中は土産物屋となっていたが,暖炉に火がくべられていて,外の寒さをしのぐことができホッと一息つくことができた。

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●グレイシャーを横断する●
 ローガンパスを出て,私は再びゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロード(Going-to- the-Sun Road)を東に向かって走っていった。
 ゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロードの最高地点であるローガンパスの標高は6,646フィート(2,026 メートル) で,峠まで片側1車線の道路はカーブが多く,特に,ヘアピンカーブがローガンパスの西側に頻繁にあり,さらにトンネルもあるので,高さが10フィート(3メートル)を超える車両は走ることができない。 
 また,いたるところで,滝でもないのに氷河から溶け出した水が道路に降ってきて,まさに滝の下を走るようになる。特に Weeping Wall という岩壁から水がしみ出て流れ落ちる場所は有名なのだが,ここでは,多くの車がむしろこれを避けることなく,これ幸いにその下を選んでゆっくり走って,というか停止しちゃったりして,洗車を楽しんでいる車があるのがおもしろかった。

 ゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロードの建設は1921年にはじまり,1932年に完成した。道路の全長は約50マイル(80キロメートル)で,国立公園の東の入口から西の入口までつながっている。
 この道路は北アメリカでは除雪をするのに最も難しい道路のひとつだといわれてている。それは最大80フィート(24メートル)の雪がローガンパスの頂上にあって,最も深い雪原が峠のすぐ東に位置しているからである。そのため,1時間に4,000トンの雪を動かすことができる装置を使用しても除雪をするのに約10週間もかかるという。

 周りの山々はそれほど標高は高くないのだが,裾野が広く麓からの標高差が大きいのが特徴で,次々と美しい山々が飛び込んでくるので,走っていてとても気持ちがよかった。
 グレイシャーというように,ここは氷河が美しく,また,氷河からとけた水が湖を潤しているので,思っていたよりもずっとすばらしいところであった。
 ここに似ているのが,ずっと昔に行ったことがあるカナディアンロッキーと,この旅の後で行くことになるニュージーランドのクィーンズタウンからミルフォードサウンドへ至る道路であったが,それらのうちでも,この道路がもっとも険しく,かつ,もっとも美しかった。

 峠を越えると道路は直線にぐんぐん下って行って,それまでの登り坂の険しさとはすっかり趣がかわって,高原ムード一杯になってきた。
 やがて,右手に見えるセント・メアリー・レイクの雄大な風景を眺めなが走っていくと,セントメアリーロッジに到着した。
 ローガンパスまでは天気も悪かったが,ここに到着するころにはすっかり晴れ上がっていた。
 今日の写真にもあるように,ここにもまた,レッドバスとよばれるボンネットバスが停まっていた。
 グレイシャー国立公園は私のように海外から訪れる人にはアクセスが難しいところであるが,アメリカに住んでいる人には,意外と容易にアクセスできて,しかも,多くの国立公園の中でも大自然を堪能することができるところだと来てみてわかった。

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●旅はやはりおもしろい。●
 ローガンパスに到着した。
 ローガンパスにはビジターセンターがあって,人と車でごった返していた。ここは標高が2,025メートルというから,日本では東北地方の蔵王や九州地方の久住ほどの高さである。ローガンパスは大陸分水嶺となっている。
 この日はものすごく寒い日だったので,周りはすっかり雪景色であった。アメリカのこうした国立公園は,日本とは違ってたとえ標高は高くとも立派な自動車道があって,しかも,日本のようにすれ違いすらできないような狭い道路ではないから,簡単にアクセスできるので気を許してしまうのだが,自然は厳しい。しかし,ものすごい車と観光客で,そうしたことも忘れがちになってしまう。
 私は駐車場に車を停めて,とりあえずビジターセンターに向かった。ビジターセンターの中はぽかぽかであった。

 今日の写真にあるように,ここにはアメリカとカナダの国旗がひるがえっているが,これは,この国立公園が人工的な国境とは別に,アメリカのグレイシャー国立公園とカナダのウォータートンレイクス国立公園がつながってひとつのものであることを示している。
 また,駐車場に赤と緑に塗られたバスがたくさん停まっているが,それらはグレイシャー国立公園を走るアンティーク・レッドバスである。公園内を走るこのアンティーク・レッドバスは公園のシンボルで「ジャマー・バス」とよばれ17人乗りでオープンカーになっていて,景色を楽しむにはうってつけなツアーバスなのである。公園内は車両規制があって大型バスでの観光ができないために,個人でレンタカーを借りずに観光をする人たちやグループで観光をしている人たちはこのバスを利用して国立公園をくまなく訪れることができるのである。

 ガイドブックによると,ローガンパスの周辺には高山植物の群集が見られ,背後に迫る山は右側が標高2,670メートルのマウント・クレメンツ(Mount Clements),左側が標高2,781メートルのマウント・レイノルド(Mount Reynolds)ということだ。
 ビジターセンターの裏側からトレイルがあって,このトレイルを歩くとヒドゥンレイク・オーバールック=ヒドゥン湖展望台(Hidden Lake Overlook)へ行くことができるということであったが,このときは天気も悪く,行くことができなかった。
 しかし,私はこの翌日,幸運にもこの日とはうって変わって快晴になったローガンパスに再びやってきて,雪深いヒドゥンレイク・オーバールックをとんでもない目に遭いながらも歩くことになろうは,このときは思いもしなかったことだった。
 ローガンパスを過ぎたらそれまでの悪天候が嘘のように晴れ上がり,ゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロードを走る車窓からすばらしい景色を見ることができるようになった。

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●世界遺産・グレイシャー国立公園●
 モンタナ州北部にあるグレイシャー国立公園(Glacier National Park)は1910年に設立された。園内には湖が130以上あり,手つかずの巨大な生態系は「大陸生態系の頂点(Crown of the Continent Ecosystem)」と称されている。世界遺産(自然遺産)であるが,日本のようにそれを宣伝すらしない。
 「グレイシャー」という名の通り,この国立公園は,氷河が削った険しい山肌を晒す山々とその間に広がる湖が美しく,氷河の作った美術館とも呼ばれている。ただし,19世紀中ごろには園内に150存在したといわれる氷河のうちで近年まで残っているのはわずか25である。また,現在の気候が続けば2030年までにすべての氷河が消えるだろうと推定されている。

 1910年から1914年の間にグレート・ノーザン鉄道は観光客誘致のためアメリカのスイスをイメージして公園内に多数のホテルを建てたが,その頑丈な造りは記念建造物としていまでも訪れる人を楽しませてくれる。
 その後,自動車の発達により,ゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロード(Going to the Sun Road)が1932年に完成した。この道路は分水嶺である海抜2,025メートルのローガンパス(Logan Pass)を越える。
 私は,グレイシャー国立公園のゲートを抜けて,国立公園の真ん中に位置するローガンパスに向けて走り出した。しかし,まさかこの時期にこれほど寒いとは思わなかった。この時期でもこれほど寒いのだから,シーズンオフなんて,気軽に来ることができる場所ではない。アメリカの自然は脅威である。
 この日もまた,西から強い風が吹きすさび,おまけに雨も降ってきた。

 ゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロードは天気がよければすばらしい風景が見られるのだろうが -幸いなことに私は翌日,実際にすばらしい景色をみることができた- こういった日に走るのは大変であった。
 遠くに氷河が見える。また,時には道路にまで氷河が迫ってくる。私はすでにカナディアンロッキーでこうした景色を見たことがあるし,また,この旅のあとのことになるが,アイスランドやニュージーランドでも氷河を見た。しかし,私には,そうした氷河は感動するというよりも,溶けかけた雪だるまのようにしか見えなかった。また,こういう姿をみると,確実に地球は温暖化して氷が溶けだしているということを実感し,悲しくなってくる。
 こういう姿が決して正しいものとは思えない,近い将来,きっと大変なことになるだろう。しかし,そんなことはだれしもがわかっているのだが,ここまでひどくなってしまうと人の手ではどうにもならない。というよりも,さらにそれを早めている。

 道路は岩山をくり抜いたトンネルやら,鉄砲水をさけるような水路やらがいたるところにあって,ときには道路が滝つぼのようになってしまっていることすらある。そこを多くの車がそろりそろりと走るのだ。
 おそらく,日本でこうした道路を作ると,やたらと醜いガードレールをこしらえたり道路にペンキを塗って注意書きを書いたりして,景観を台なしにするのだろう。
 こうした自然が日本になくてよかったと思ったことだった。
 
 国立公園のちょうど真ん中あたりがローガンパスである。パスとは峠という意味である。ローガンパスに着く前にヘヤピンカーブがある。そこでの風景は絶品なのだが,この天気では車を停めて風景に見とれる余裕はなかった。私がこの風景に感動するのもまた,明日のことになる。
 やがて,ローガンパスに到着した。ここまでの道路は標高が高く道幅はせまく,思った以上に大変だった。

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●鉄道でアクセスできる国立公園●
 カリスぺル(Kalispell)で右折して国道2を北北東に走っていくと,次第に高原ムード満載の道路になってきた。次の町がエバーグリーン(Evergreen)という道路際にいくつかのお店があるだけの町,そして,左手にグレイシャー・パーク国際空港があって,それを越えると今日の1番目の写真にあるハングリーホース(Hungry Horse)という町があって,その先がウェストグレイシャー(West Glacier)であった。
 グレイシャー・パーク国際空港は,この旅を計画したとき,シアトルからここまでフライトで来たいと思っていたが断念したその到着空港である。
 アメリカの地方空港はフライトが少なく,私のような海外に住む者が国際線から乗り換えて利用するのはなかなか困難である。アメリカは途方もなく広いから航空機で移動するほうが車よりも時間的には便利であるが,フライトの時間が合わないすることが多い。それでもこの空港は,夏期はシアトルからは1日5便,ソルトレイクシティーからは8便,ミネアポリスからは2便ほどのフライトがある。

 グレイシャー国立公園へ行くにはウェストグレイシャーで国道2を左折することになる。グレイシャー国立公園内にはガソリンスタンドがないので,ウェストグレイシャーで給油を忘れてはならないということだった。
 グレイシャー国立公園は,来るまで私は最果ての地,アクセスするのが大変な国立公園だと思っていたが,実際は車がなくとも鉄道でも来ることができる唯一の国立公園なのだった。というよりも,グレイシャー国立公園は鉄道の駅を拠点に開発された国立公園なのだった。
 このころの私はまだアメリカの鉄道に乗ったことがなかったが,その数か月後,アメリカの東海岸を旅したとき,アメリカの高速鉄道アムトラックに乗る機会があった。今では,シアトルから鉄道でアメリカ北部の雄大な大地を走り,景色を見ながらグレイシャー国立公園に行くのも悪くないと思うようになった。グレイシャー国立公園には西のポートランドから東のシカゴまでを結ぶアムトラックのエンパイアビルダー(Empire Builder)が1日1往復運行されているということである。また,この路線はアムトラックの中でも特に景色がすばらしいのだという。
 私は以前テレビの番組でそれを見たことがある。

 こうしていろいろな場所を旅行をするうちに,行く前には知らなかった先のさまざまなことがわかってきた。それらの多くはガイドブックを見たり地図ではわからないことだ。しかし,わかったとしても,再びそこへ行こうとしてももう行く時間がないという場所が多い。私ほど様々な場所に旅行をしてもそう思うなのだから,おそらく多くの人にとってはもっと知らない場所がたくさんあることがあるだろう。
 たった一度の人生なのに,会社勤めで自由な時間もほとんどなく,長い休みも取れず,歳をとってしまうのは本当にむなしいものだと,歳を重ねた私は思うようになった。人生というのはかくも短いものだ。
 
 ウェストグレイシャーという町のゲートを越えたら,鉄道の駅があって。乗客でごった返していた。ちょうどアムトラックが来るころであるらしかった。また,駅のあたりには多くのホテルもあった。
 ウェストグレーシャーのダウンタウンを過ぎてさらにしばらく走ると,ついにグレイシャー国立公園の西のゲートに到着した。アメリカの国立公園はゲートで入園料を払うのだが,ここのゲートはとても混雑していた。この時期でこれほど混雑しているのだから,夏のハイシーズンはたいへんだろう。
 この日の午後,私はこの西のゲートから入って東のゲートであるセントメリー(St.Mary)まで,グレイシャー国立公園を抜けることにした。この国立公園を横断する道路を「ゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロード」(Going to the Sun Road)という。

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●ここはアメリカの北の果てか?●
 今回だけのことでないが,いくらガイドブックを見ても実際に行ってみないとその場所の様子はよくわからない。さらにまた,その土地の標高は把握しにくいものだ。
 私の目指すグレイシャー国立公園はモンタナ州の北のはずれにある。この国立公園は人工的な国境で分断されているが,実際は,カナダのウオータートンレイクス国立公園につながっている。アメリカ本土最北の地でわざわざ行こうと思わなければなかなか訪れることもできない場所なのである。
 以前,私はモンタナ州のビュートから北のヘレナに向かってインターステイツ15を走ったことがある。グレイシャー国立公園は,そのとき私がアメリカの北の果てだと思ったモンタナ州の州都で美しい町ヘレナ(Helena)よりも,さらに北に位置するのだ。
 この公園の名前である「グレイシャー」というのは「氷河」という意味だからそれだけでも寒いことが想像できるが,実際,非常に標高が高いとこころにある。しかし,地図ではその標高がイメージできない。しかも,国立公園が広大でつかみどころがなく,来るまでどこをどう観光してよいものかさっぱりわからなかったし,行ったことがある人から,期待外れだったよ,という話を聞いたこともあって,私はそんな場所にわざわざ足を運ぶのもどうかなあと思ってあまり気が進まなかったが,ともかく一度は行ってみようと思って,今回わざわざやってきたのだった。しかし,その心配は杞憂に終わる。

 シアトルからインターステイツ90をずっと東に走ってようやくモンタナ州に入った。モンタナ州のマイルマーカー33地点にあるセントレジス(St. Regis)という町で,ようやくインターステイツ90を離れ,州道135に乗り換えた。セントレジスは道路沿いにわずかの商店やガソリンスタンドがあるだけの町だった。アメリカの地方にある多くの町は,そんな駅馬車の道の駅のようなところだ。
 州道135は自然と東から来る州道200と合流して北上していく。そのまましばらく走っていくとプレインズ(Plaons)という町で再び分岐して,州道200は北西に,そこを起点とする州道28は北東に向かうことになる。
 私は州道28のほうに進路をとった。 
 やがて,州道28は,エルモ(Elmo)という,フラットヘッド湖(Flathead Lake)の湖畔にある町で湖の西岸を南北に走る国道93と合流し,さらに北上を続けた。このあたりはすばらしい景観であった。
 フラットヘッド湖はモンタナ州北西部に広がる大きな自然の湖で,ミシシッピ川の水源の西にある表面積最大の天然淡水湖。古代の残骸・氷河によって作られたものである。

 国道93は湖を過ぎてもさらにまっすぐ北に進み,いつ果てるとも思えない道路が地平線まで続いていた。アメリカのドライブというのはこういう景色の中を走るのが一番楽しい。しかし,アメリカにはこんな風景が広がっているということすらほとんどの日本人は知らないから,北海道のほんのわずかな直線道路に感動したりしている。
 いよいよカリスぺル(Kalispell)という大きな町に着いた。カリスペルはモンタナ州北西部にあって人口約2万人の商業の中心地である。ここからグレイシャー国立公園まではわずか13キロメートルなので,国立公園のゲートタウンでもある。
 国道93はこの町の中央で国道2と交差する。そのまま国道93を直進して北上していくと,私が今日と明日2泊する予定のホワイトフィッシュという町のスキーリゾートホテル「Hibernation House Whitefish」に着く。
 こうして,予定通り,私は午前中にここまで走ってくることができた。ホテルへ行ってチェックインをするにはまだ時間が早かったので,国道93を右折して北東に進む国道2に進路を変えて,先にグレイシャー国立公園に行ってみることにした。国道2はグレイシャー国立公園の西のゲートであるウェストグレイシャー(West Glacier)に向かう道路である。
 お昼になったので,このあたりのガソリンスタンドで給油をしてついでに菓子パンを買って軽い昼食とした。運転しているばかりで動いていないからこんな感じの昼食をとることも多い。
 シアトルからの長いドライブだったが,いよいよこの旅の目的地であるグレイシャー国立公園まであとわずかである。

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●時差は複雑である。●
☆2日目 2016年6月25日(土)
 インターステイツ90はアメリカを西から東に横断するインターステイツのうち一番北を走るもので,シアトルからボストンに達する。ちなみに,以前書いたことがあるが,アメリカのインターステイツは東西を走るものは偶数,南北を走るものは奇数の番号が振られていて,なかでも大陸を横断するものは南から北に10,20,……,90,大陸を縦断するものは西から東に5,15,……95となる。
 インターステイツ90は慢性的に渋滞するシアトルを抜けて,カスケード山脈を越えると気候が変わり,極めてアメリカらしい雄大な景色の中を走ることができる。今回の旅ではアイダホ州に入ったところにあるカーダーレーンに1日目の宿泊をしたが,インターステイツ90はアイダホ州に入ると長くくねくねした坂道が続くのである。  
 生まれてはじめてこの道を走った2004年のときの印象では,くねくね道の続くアイダホ州を過ぎモンタナ州に入ると,沼地やら平地,そして森が周期的に変わっていくようなるというものだったが,とても走りやすいインターステイツである。
 今回はモンタナ州に入ってからもさらにしばらく進み,マイルマーカー33地点,つまり,モンタナ州の州境から33マイル走ったところにある町セントレジス(St. Regis)で州道135に降りて,その後,州道200,州道28と経由してどんどん北上していくことになる。

 旅に出かけると時間が惜しくなる。到着まで4時間かかったとしても,朝6時に出発すれば10時に着けるが,朝8時になればお昼になってしまうからだ。そこで,いつもホテルをチェックアウトするのが早くなってしまうのだが,そのために,せっかくホテルに朝食が用意されていても食べられないことがある。この朝は幸い,朝食が6時から用意されていたので食べることができた。
 ホテルを出発したのは朝の6時半であった。グレイシャー国立公園はまだまだ遠く4時間以上かかるが,11時には到着するつもりだった。ところが,途中,給油するために寄ったガソリンスタンドで,太平洋標準時(Pacific Time Zone=PT)から山岳標準時(Mountain Time Zone=MT)に時間帯を越えていることに気づいた。つまり,今日は1日が23時間しかないのだった。アイダホ州は場所によって時間帯が違っていて,州の北半分はPT,南半分はMTとなる。昨日泊まったところはアイダホ州の北部にあるカーダーレーンだったからシアトルと同じ時間帯のPTだったが,モンタナ州に入ったところでMTになったのだった。1日が25時間に増えるのならいいのだが,減るのは困る。1時間の差は大きい。
 アメリカを横断するときは,東から西に走るべきなのである。そうすれば時間帯を越えると1日が25時間になる。反対に西から東に行けば,時間帯を越えると1日が23時間になってしまう。

 アメリカ本土には,太平洋標準時(Pacific Time Zone=PT),山岳標準時(Mountain Time Zone=MT)に加え,中央標準時(Central Time Zone=CT),東部標準時(Eastern Time Zone=ET)の4つの時間帯があって,それぞれ1時間ずつ異なる。さらに,3月の第2日曜日から11月の第1日曜日までは夏時間(Daylights Saving Time)が実施されるのでそれぞれ1時間早くなる。つまり,夏の午前9時は冬の午前8時と同じなので,冬の間午前8時に起床していた人が夏の午前8時に起床するには1時間早く起きなけらばならなくなる。そのかわり,夏の午後9時は冬の午後8時と同じなので,日が沈むのが遅くなり,明るい時間が長くなるということになる。
 これは,アメリカ人にとれば,夏の夜を楽しむ時間が増えるという素晴らしい意味をもつのだが,日が暮れるまで働くことしか能がない日本で夏時間などを採用すれば,午後7時に日が沈んでいたのが午後8時になるわけだから,残業が増えるだけのことになるだろう。一時議論になった,日本でも夏時間を導入したらという意見は,日本人が何たるかをわかっていない人のたわごとにすぎないのである。私はむしろ,日本では夏になったら1時間遅らせるほうが理屈に合っていると思う。
  ・・・・・・
 余談だが,国の面積がアメリカと同じくらいのオーストラリアの時間帯はかなり複雑である。
 時間帯は,西部,中部,東部の3つとアメリカより少ないのだが,西部と中部は1時間30分の差があり,中部と東部は30分の差である。これだけなら大して複雑でないが,時間帯をわからなくしているのが夏時間である。
 10月の最終日曜日から4月の第1日曜日の間,中部時間に属するところのさらに南半分であるサウスオーストラリア州と,東部時間に属するところのさらに南半分であるニューサウスウェールズ州とビクトリア州,キャンベラ,タスマニア州だけ夏時間が実施されて1時間早くなるのだ。
 ここでは,オーストラリアの夏,つまり日本の冬に,日本からブリスベン,ブリスベンからウルル(エアーズロック),ウルル(エアーズロック)からシドニー,シドニーからゴールドコーストでトランジットして日本に帰国する旅行を例に説明してみる。
 まず,日本よりオーストラリア東部時間のブリスベンは1時間早い。中部時間のウルル(エアーズロック)はブリスベンより30分遅いから,日本より30分早い。シドニーも東部時間だが夏時間が実施されているからウルル(エアーズロック)より1時間30分早くなって,日本より2時間早くなる。そこで,同じ東部時間で経度がほとんど同じシドニーからゴールドコーストでトランジットして日本に帰国する場合,シドニーとゴールドコーストで1時間の差があるので,飛行機の出発時間で混乱するということになるわけだ。

夜9時半になっても日が沈みません。夏時間で,かつ,夏至が過ぎたばかりとはいえ,こんなに遅いのでしょうか?
さすがに緯度が高いだけあります。
今回借りたのはGMシボレーですが,街中で目につくのはシボレーばかりです。以前は西海岸は日本車ばかりだったのに…。
ここグレーシャー国立公園は日本から来るにはとても不便なところ,そしてこんな時期に旅行ができる日本人も少ないので,一人として見かけませんでした。この国立公園の歴史は古くそのため随分と快適なところなのですが,日本での知名度はグランドキャニオンには遠く及びません。
昨晩計画を立てたようにして,今日は昨日とは反対に朝は国道2を東に走って,イーストグレーシャーから北上,昨日行ったトゥメディソン,セントメリーを通過して,さらに北のメニーグレーシャーへ行きました。天気が東から回復傾向なのも織り込み済みです。
メニーグレーシャーは最も遠く静かなところ,景色もよく一押しです。スイフトカレンレイクのトレイルを1周して湖のほとりのホテルでぜいたくな昼食をとりました。
その後さらに北上してカナダ国境まで行ってみました。思えばこれまでにも陸路カナダ国境を越えたことがあります。この国立公園は国境を越えるとウオータントンレイクス国立公園と名前を変えるのですが,カナダでは国立公園の定義が日本と同じなので自然保護より観光重視です。これはナイヤガラの滝も同じです。
国境を越えてしまうと時間がかかってホテルへ戻れないので今回は断念しました。
そこで国境でUターンして昨日ゲートを出たセントメリーまで戻り,昨日と反対に「ゴーイング・トゥー・ザ・サンロード」を西に走りました。
途中,セントメリーレイクのクルーズに乗ったり,ローガンパス(標高2,025メートル)のヒドゥンレイク・オーバールックへのトレイルを歩いたりしたらアッという間に1日が過ぎました。
それにしても,ローガンパスのトレイルは大変でした。雪の中の坂道,というよりジャリジャリのゲレンデを幾度も滑っては助けてもらいました。途中で断念しようかとも思いましたがたどり着けて本当によかったです。おかげで,目の前でマウンテンゴートに会えました。
ちなみにグレーシャーとは氷河のことです。この国立公園は多くの氷河と雪解け水でできた湖から成ります。
昨日とは打って変わって一日中素晴らしい天気。風もなく暖かでした。今回も晴れ男パワー炸裂でした。

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以前に書いたかもしれませんが,アメリカ人の特徴は,どんなときも手をとてもしっかりと洗うということとハンカチを持っていないということなのですが,普段忘れているそんなことをアメリカに来るたびに思い出します。
シアトルからインターステイツ90は走ったことがあるのですが,ワシントン州を走っている間は周りの景色を見てもまるで覚えがなくアイダホ州に入って長くくねくねした坂道を走って記憶がよみがえりました。山の中を走るので景色はいいのですが,険しい道です。
今回はモンタナ州のマイルマーカー33で一般道に降りて,グレーシャー国立公園まできました。この辺りはどこまでも一直線の道路ばかりでした。
ホテルを出たのが朝6時半で午前11時には到着するつもりだったのですが,途中のガソリンスタンドで時差を越えていることに気づきました。つまり今日は1日が23時間しかないのです。ショックでした。アイダホ州は場所によって時差が違って昨日泊まったところは太平洋標準時,モンタナ州は山岳標準時だったのです。ということで,午前11時のはずが午前12時過ぎに到着しました。
この国立公園は広く観光する方法もひととおりでないので初めて来た私にはさっぱりわからず,ともかく,西のゲートであるウェストグレーシャーから入って東のゲートであるセントメリーまで走ることにしました。
それにしても西から風が吹いていて,途中のローガンパスまで寒いこと,そして雨。標高が高く道路はせまく思った以上に大変でした。人と車でごった返していた中間点ビジターセンターのあるローガンパスを過ぎたら嘘のように晴れ上がり,素晴らしい景色を見ることができました。
こうして3時間ほどで国立公園の「ゴーイング・トゥー・ザ・サン・ロードを横切りました。
ゲートを出て,東側を南下してトゥメディソンという穴場の湖にも寄って帰りは国立公園の南を走る国道2で半周してウェストグレーシャーに戻りました。
今日はウェストグレーシャーからさらに西に行ったホワイトフィッシュという町のスキーリゾートホテルに泊まっています。
今日で国立公園の様子もわかったので,今晩は明日の作戦を立てようと思います。

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●クレイター・オブ・ザ・ムーンを再訪●
 アメリカ大陸の大自然は,そういう風景を見たことのない日本人は無論のこと,観光でアメリカを訪れる多くの日本人にとっても無縁のものである。
 アメリカを観光で訪れる日本人の多くは,ニューヨークやサンフランシスコやホノルルをアメリカだと思っている。あるいは,ラスベガスでカジノに興じるためにアメリカに来るのだが,ラスベガスまでの行程にある広大な砂漠の景色はバスの中で寝てすごすからである。そうした入門者がそれを卒業して中級者になると,はじめて大自然に触れて,グランドキャニオンに沈む夕日に涙するが,実際は,アメリカにはグランドキャニオンのような雄大な大自然はごろごろころがっている。
 自分で車を運転して,自由にアメリカを走り,住んでいる人と交流するようになると,やっと,本当のアメリカがわかってくるのだが,そこまで行くためにのハードルは高い。
 しかし,旅とはおいしいものを食べ,ショッピングをし,観光バスで名所を巡るものだと思っている人や,こうした風景に感動する感性のない人にとっては,アメリカの広大な大地は退屈なだけであろう。それはブルックナーやマーラーのような冗長なクラシックの名曲に何も感じないのと同じである。
 価値観はひとそれぞれなのである。だが,こうした名曲や大自然に感動できるかどうかというのは,価値観が違うとか感性がないというよりも,それを味わうことができるまでのステップが遠すぎることがその理由であろう。
 私は,これまで,幸い,数多くのアメリカの大自然を見たり,体験することができたことでそうした遠いステップを越えてきたが,それでもいつも不思議に思うのは,あたり一面がすべて真っ白な砂で覆われた大地のホワイトサンズがあるかと思えば,あたり一面が真っ黒の溶岩で覆われたクレイター・オブ・ザ・ムーンがあったりする,人間の力の及ばない大自然の姿である。
 自然はかくも不思議なものである。

 ウエストイエローストーンの町から右折して国道20をアイダホ州に戻ってきた私は,途中にある,クレイター・オブ・ザ・ムーンに,今回も立ち寄ることにした。すでに,昨年も来たところだったが,そのときは時間が十分になかったので短時間滞在しただけであった。そこで,改めてどういうところか,しっかり確かめてみたかったのだった。
 昨年,初めてこの場所のことをを知ったとき,この地の名前が何を意味するのかすらわからなかった。「月のクレイター」という名前から,いったいどうしてアイダホ州に月のクレーターが? という感じであった。隕石抗でもあるのだろうか,と思った。
 
 ここで余談。
 日本語には,ひらがなやカタカナ,漢字と,多くの文字があるが,そのことが日本らしい複雑さを呈するのだ。
 漢字は単なる文字を越えて,その背後に様々な意味を含んでいるから,便利な反面,煩わしいことが数多く存在する。
 たとえば「障がい」という言葉である。そもそも「障碍」だったものが「碍」の字が当用漢字でないことから「害」があてがわれてしまった。そして,「害」という文字の持つ意味がよくないので,現在はひらがなで表記されるようになった。人権を全く考えない発言を繰り返す政治家や男女別姓を認めない最高裁,いじめを「仕込み」と称するこの国なのに,こういう形だけはこだわる(ふりをする)のだ。
 「制服」は,英語の「uniform」と同一のものではなく,「制」という漢字のもつ「きちんとする,そうさせる」という意味が重くのしかかるから,学校では単に統一した服装をしていればそれでいいのではなく,服装指導ということを行うようになる。そして,それが行き過ぎる。
 そもそも,差別というものは日本人が根にもつ本質なのだから,漢字や熟語の創成期からそうした差別が数多く存在する。「姑」は古い女だし,「嫁」は家に嫁ぐ女となる。「うちの嫁」という言葉をなんの疑問も持たず使う男どもは,その言葉の裏に,すでに差別意識が潜んでいることさえ認識していない。
 単語ひとつひとつの意味を考えていけば,日本語という言葉自体が成り立たなくなってしまうほどだ。私は,そういう表面的な言葉以前に,日本人に根ざすそうした意識が変わらないことには意味がないと思うが,それもまた難しい話である。

 さて,クレーター・オブ・ザ・ムーン国定公園(Craters of the Moon National Monument and Preserve)は一面が火山性の玄武岩で覆われた約1,000平方キロメートルの地域である。
 ここは単に完新世(最終氷期が終わる約1万年前)のころの古い玄武岩の溶岩原なのであるが,19世紀にこの地を見た数少ない白人たちは月の表面のように見えるという伝説を作りあげた。それは,この地域の保護を国立公園局に推薦するために,地質学者ハロルド・T・スターンズ(Harold T. Stearns)が1923年に「クレーター・オブ・ザ・ムーン」という名前を造り出したということである。
 現在は,他の国立公園や国定公園同様に入園料を払って中に入ると,他の国立公園と同様に,ビジターセンターや博物館などがあり,公園内にはトレイルやキャンプ地が整備されている。
 人間を月に送る1970年代のアポロ計画の訓練でもこの地が使われたが,本物の月に到達してみたら,この国定公園は月のクレイターとは似ていないということがわかった。しかし,それにもかかわらず,月に行ってみたらこの地は月とそっくりだったと宇宙飛行士が証言したというようなことが展示室に紹介されたりしているのが,また,アメリカらしいことであった。

 私はクレーター・オブ・ザ・ムーン国定公園を2時間程度,車で周ったり,途中で車を降りてトレイルを散策したりした。そうして,再び,延々と道路だけが続くアイダホ州の大平原を数時間ひたすら走って,マウンテンホームに戻ってきたのだった。
 この旅の3日目が終わった。
  ・・
 私は,こうしてモンタナ州からアイダホ州に帰って来ました。いよいよ4日目からは2泊3日でキャンプに出かけることになります。キャンプの様子も引き続きこの「2015夏アメリカ旅行記2」に書いていきますが,それは少し先に延ばして,この「2015夏アメリカ旅行記2」はしばらく中断します。
そして,明日からは,記憶も新しい,この春に行ったハワイの旅行記を「2016春アメリカ旅行記」として先に割り込んで書くことにします。

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●遠いところでもなくなった。●
 私は,帰国後しばらくしてこのブログを書いているのだが,当時の写真を見たり,写真を見ながらそのときに起きたことや見たことを思い出したりするだけで,今でも胸が熱くなる。
 モンタナ州というこの愛すべき地に,私がそうした想いを抱くことができることに,深く感謝する。
  ・・
 やがて,私は,ウエストイエローストーンに到着した。
 ウエストイエローストーンは,イエローストーン国立公園に隣接した町で,人口は約1,200人である。オレゴンショートライン鉄道(Oregon Short Line Railroad)が完成した1908年に作られた町で,現在はイエローストーン国立公園を観光する人たちの宿泊先となっている。
 北から南に進んできた国道191はこの町で行きどまりとなり,道は左右に分かれる。
 このT字路を左折してそのまま東に進んでいくのが国道191でその道はイエローストーン国立公園のゲートに到着する。右折して西に進んでいくのが国道20で,この道はやがて私の帰路となるアイダホ州に達するのだ。
 聞くところによると,この年のこの時期,イエローストーン国立公園は,まれにみる混雑ということだった。そして,その原因が現地に住む人にもわからない,ということであった。その南に位置するグランドテイトン国立公演が山火事で,そちらへ行く予定だった観光客がイエローストーン国立公園に流れたともいわれていた。

 実は,アメリカの観光地は,確かにどこも雄大ではあるが,そのハイシーズンは,日本人が考える以上に世界中から多くの人が訪れて混雑する。私が前回,このイエローストーン国立公園を観光したのは9月だったからよかったが,この地を訪れたい人は,できれば7月~8月は避けたほうがよいように思われる。
 しかし,9月も中旬を過ぎると急に冬が訪れてしまうのである。
 確かに,ウエストイエローストーンに私が着いたときも噂通り観光客でごった返していて,イエローストーン国立公園方面に進む道路の左折帯は車の洪水であった。

 私は,さして広くないこの町の中央にあった巨大なクマのモニュメントに覚えがあった。
 あのとき宿泊したホテルは,そのクマのモニュメントの近くだったし,夕方,このあたりを散策して,公衆電話から日本に国際電話をしたのもこのあたりだった。もう,あれから10年以上の月日が過ぎて公衆電話も必要がなくなったし,この月日は,私にとって,この場所を決して遠いところでないものにした。ここからアイダホ州のマウンテンホームは目と鼻の先なのである。
 私は,今回,イエローストーン国立公園へ行く予定はなかったので,そのまま混雑していない国道20のほうへ右折するのだが,その前に,この町で昼食をとることにした。
 クマのモニュメントのあるロータリーの南にマクドナルドがあったので,車を停めて中に入った。
 観光客で一杯の店内には,例によって中国人御一行様が店の中央に陣取っていた。一般的に彼らの特徴は,黒いレンズのサングラスをかけ,ブランド品のカバンを持ち,団体で行動し,声が大きく子供の態度が横柄であることだ。

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●あのときの思い出は現実だったのか?●
 あまり現実を知らなかったときの瞬間の淡い記憶ほど懐かしいものはない。若い頃の断片的な記憶はいつまでも心に残っているものだ。
 たとえば,少年の頃に読んだ天文雑誌に載っていた天体望遠鏡。星を見た帰りの夜明けの景色。…。
 しかし,懐かしがってそれを手に入れたり,お昼間にその景色を見ようと出かけると,ほとんど場合,それは幻想にすぎなかたっと実感する。若いころの片思いも,まさにそれと同じなのかもしれない。
 私にとって,ボーズマンという町は,まさに,そういったところだった。
 
 2004年9月13日,モンタナ州ビュートで交通事故にあって1週間入院したその帰国の日。私はリムジンタクシーの窓から,帰国便の出発するボーズマンの空港に至る町の風景を車窓から見た。今考えると,そこにあったのは,広い玄関とガレージには3台の車が停められているというだけのどうってことのないアメリカの住宅街だったのだろうが,私はそのとき,アメリカという国のそのすごさと豪華さに,「なんだこれは! これがアメリカなのか!」と思った。
 そして,その2年後,2年前には行くことができなかったイエローストーン国立公園に行ってみようとボーズマンからイエローストーン国立公園の玄関口ウェストイエローストーンまで送迎をしてもらったときに深夜の車中から見た川沿いの道路の風景。その道路に数多くの十字架の墓標が並んでいるのに別の戦慄を覚えたが,あれは幻想だったのだろうか?
 私は,今回,その両方の姿が真実だったのか,改めて自分の目でしっかり見てみようと思ったのだった。
 あれから10年以上の歳月は,私にとって,アメリカを夢の世界から現実にした。だからきっと,今それを見ても,あのときのような感動や戦慄は全く抱かないだろうと思った。しかし,抱いていた記憶が,本当はどういった現実の姿をもっているのか,私はそれを知りたかった。

 自然史博物館を出た。駐車場からは,遠くに雄大なロッキー山脈を見ることができた。この博物館に来たときは,ボーズマンの市街地を走らず郊外を周ってきたので,帰りはボーズマンのダウンタウンを通ることにした。
 ボーズマン(Bozeman)は人口約3万人,モンタナ州6番目の町である。この都市の名は「ボーズマン・トレイル」をつくったジョン・ボーズマン(John Bozeman)にちなんでつけられた。モンタナ州で最も発展がめざましく,私がこれから走ることになるギャラティン渓谷は景勝地としても知られている。
 ボーズマンは,また,モンタナ州立大学の本拠地であリ,ギャラティンフィールド空港が町の北西にあってここがイエローストーン国立公園の北からのアクセスの玄関口となっている。

 ボーズマンからは,2006年のときと同じように,空港からウェストイエローストーンまでギャラティン渓谷沿いの道路を走って行くことにした。その道路は国道191である。
 2004年。私がビュートで事故にあって,途中でイエローストン国立公園へ行くのを断念したとき,事故に遭わなければ,ボーズマンからイーストイエローストーン国立公園まで,この道路を走るはずであった。そして,2006年,今度は送迎の車の窓からみたこの道路は,思った以上に狭く,いたるところに,交通事故の爪痕として,犠牲者の十字架が墓標として設置されていた奇妙な道路だったのだ。そのときの私は,こんな危険な道路は,たとえ事故に会わなかったとしても走れなかったな,と思ったものだった。
 今回,地図で確認してその道路を走って行くと,あのときに走った道路は確かにこれだった,と思った。しかし,昼間であることと天気がとてもよかったこともあって,あの時とは全くイメージが違っていた。
 そこにあったのは,ロッキー山脈から流れる美しい川沿いの,静かで走りやすい道路であった。
 ボーズマンからウエストイエローストーンまでは,当時走ったときに感じた以上に距離があった。そして,あのときに車窓から見たと思った十字架は,決して夢ではなく,確かに存在していた。
 私は,このようにして,2004年と2006年のときの記憶と幻想を思い起こしながら国道を走って,イエローストーン国立公園のゲートに再びたどり着いたのだった。

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●日本の自然保護は空論に過ぎない。●
 ボーズマンに到着した。私は,ボーズマンにも様々な思い入れがあって,「気になる町」のひとつであった。中でも,ぜひ行ってみたかったのが,ロッキーズ博物館であった。 
 ロッキーズ博物館(Museum of the Rockies)は,ロッキー山系をテーマにした自然史博物館である。このエリアの自然を40億年前(地球の歴史は48億年である)から時代を追って展示してある。この博物館の最大の目玉は8,000万年前のジュラ紀,モンタナ州に生息していた世最大の恐竜の化石のコレクションで,映画「ジェラシックパーク」のスタッフが監修している。

 私の高校生のころは「地学」が必修科目だった。地学は地質学と天文学がその内容だったが,私が習った教師は地質学の専門家? だったので,カリキュラムなど無視して,地質学しか教えなかった。そのころの高等学校なんて,そういういい加減なところで,それがよかった。学校など,学問の興味付けができればいいのであって,そもそも勉強など自分でするべきものだ。しかし,私は天文学には興味があったが,地質学には全く興味がなかった。実際,もったいないことをした。
 アメリカを旅行するようになってから,アメリカの様々な町には必ずといっていいほど美術館とならんで自然史博物館があるのだが,はじめのうちはその理由がよくわからなかった。
 日本には「科学館」というものがあるにはあるが,その展示は,どちらかというと物理・化学系のものが多く,自然に関するものが少ないから,アメリカで自然史というものがどうして重視されているのかが理解ができなかったのだ。
 しかし,今はわかる。そして,天文学とならんで地質学も面白いと感じる。それとともに,日本人がどうして自然を軽視しているのかもよくわかる。

 本来,人間は自然の上に生存していて,自然という巨大な海原に浮かんだはかなき葉っぱにすぎないのだ。しかし,日本人にはそうした認識が全くない。日本にあるのは「土壌」だけなのだ。だから,「自然保護」といいながら,それは人との共存をはかろうとするための里山の保護であり,天災の発生を防止するための護岸工事などをおこなう土台に過ぎないわけだ。そもそも発想が異なるのだ。そして,その本音は,自然保護とは程遠く,いかに道路工事をするか,でしかない。
 考えてみれば,日本には大自然などどこにもないではないか。だから,学校で「理科」という教科があっても,そこでは本当の自然教育など習ったことがない。高校で「地学」という教科が軽視されていった理由も,きっとそこにある。
 そもそも,そういった根本的な認識がないのだから,そりゃあ,自然保護といっても所詮は空論に過ぎないわけだ。

 この博物館は,広大なモンタナ州立大学の構内にあった。
 モンタナ州立大学はボーズマンの南にあったが,私は,まず,この大学の途方もない広さに驚いた。構内をどんどん進んでいくと,やっとのことで博物館の駐車場に到着した。
 第一印象は小さい博物館だ,ということであった。それは実際は誤解で,周りが広すぎるだけであった。
 まだ,開館時間よりも少しだけ早かったが,すでに,一組の家族連れが来ていて,博物館に入っていくのが見えたから,私も彼らについて入っていった。チケットを購入して,展示についての説明をスタッフに尋ね,やがて開館時間になったので展示コーナーに入った。
 恐竜の化石が,まあ,あるわあるわ…。その一角には化石から恐竜を復元する研究室があって,外からその様子を見ることができた。奈良の橿原考古学研究所みたいなものだが,奈良の考古学は2,000年前の人間の作ったものの発掘であって,ここは3,000万年前の生命そのものの発掘である。

 博物館の外には,開拓時代のアメリカの住居の展示もあったが,本館よりも開館時間が遅くてまだ開館されていなかったから,残念ながら,家の中には入ることはできなかった。ただし,家の庭を見ることはできたから,その美しく手入れされた庭を散歩した。庭には,麦畑やニワトリ小屋といったものもあって、当時の生活ぶりをうかがい知ることができた。庭から家の中を覗き見していると,中にいた職員の人と目があって、もう少し中に入るには待っていてね,と言われてしまったのだった。 

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●キチンと見ておきたいボーズマン●
☆3日目 8月1日(土)
 ヘレナから,私は,ビュートへ引き返した。本当は,モンタナ州の北の果てにあるグレイシャー国立公園へ行きたかったのだが,今回は時間がなかったので,次回のお楽しみということにした。
 今日はインターステイツの写真ばかりである。しかも,車のフロントガラスが汚れていて,しかも逆光なので,汚い写真しかない。
 アメリカの旅ではその半分以上は車での移動,だから,車なしではアメリカはどこへも行くことができないといっても過言でない。ツアーでアメリカへ行くと,人数が多ければ大型バス,少なければバンに乗っての移動となるが,こうした長距離のドライブ中はきっと寝ているだろうから,本当のアメリカの姿を実感することはできないだろう。まして,私がいつも書いているように,道路の左側には必ずイエローラインが引かれていて,これを信じて走ればいいとか,こうしたインターステイツの路肩は段差が設けられていて,非常に安全だとか,そういったアメリカの「知恵」を認識している日本人はまれである。
 このようなシステムの道路は,長時間ドライブしても全く疲れないし,極めて快適なのである。

 前回ビュートからヘレナに行ったときは,全く人家もない山の中のインターステイツ15をずっと北に向かって走って行ったら忽然とヘレナの町並みが見えてきたという印象であったが,今回行ってみて,全く異なるイメージだったことがおかしかった。
 こうした印象は,自分の持つ経験やスケールに照らし合わせて判断し,頭の中にイメージを作り上げているということを改めて認識したのだった。つまり,ここ数年で,ずいぶんとたくさんインターステイツを走って,私のスケールのレートが変わっていたということだ。

 インターステイツ15は,今日の写真のような,美しい景色が広がる道路であった。そして,周りには,のどかな牧場が広がっていた。それは,荒れ果てた大地が広がるテキサスや,2億年前の赤茶けた大地の広がるユタ州などの雄大さとは全く異なる風景であった。
 やがて,私はヘレナからビュートまで戻ってきた。 今日中にマウンテンホームに戻ればいいから,この日はどう遠回りをしてもよかったので,私は,ビュートで左折して,インターステイツ90をボーズマンまで行くことにした。
 このインターステイツは,私にとって特別な意味を持つ道路であるが,このことはすでに幾度も書いたのでそれをお読みいただくとして,これからは,私がどうしても気になっていてキチンと見ておきたかった町・ボーズマンについて紹介していきたい。

◇◇◇
愛しのアメリカ-我が「9・13」 11th Anniversary

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●商業主義の観光地でない。●
 ツアーバスは,再びダウンタウンに戻ってきた。
 すでに書いたように,ヘレナ歴史的地区(HHD)は,1927年アメリカ合衆国の連邦によって指定されたダウンタウンエリアとウェストレジデンスのふたつの地域からなるが,今日はそのうちのダウンタウンを紹介する。

 ダウンタウンの中心は,南西から北東に走るラストチャンスストリート(Last chance Gulch St.)で,通りとモールに沿って多くのバーやレストラン,専門店が並んでる。
 ヘレナのダウンタウンの特色は,時代ごとに無計画に町が形成されたので,観光客が歩きまわることが非常に難しいということである。ゴールドラッシュ時代に道路は採掘権利の境界をたどって作られたので,道が曲がりくねり直線の大通りがこの地域にはない。まるで江戸時代の日本のようである。

 ヘレナはダウンタウンから発展した。1864年というから日本の幕末と同じ時代「4人のジョージア人」が 今日のヘレナのダウンタウンの大通りであるこのラストチャンスストリートで金を発見した。それが発端となって,その後30年続いた文化と建築ブームを誘発し,ヘレナは州都になった。
 都市はラストチャンスストリートに沿って南から北に拡大していった。しかし,1869年,1872年,1874年に起きた火事がこの地域の多くを破壊した。その後に建設された建物の多くは見事なレンガと単純な線をもつ西洋の商業スタイルであったが,なかには古典的装飾様式で作らてたコールウェル・ビルやペンブロック・ブリストル・ホテルもあった。
 また,デンバー・ブロックとサンズ兄弟の生誕地は,1880年代中ごろまでのロマネスク様式の復興であった。
 ヘレナの建築のうちアトラス・ビル,証券ビル,そして裁判所には,シカゴ派といわれる建築様式の影響がみられる。
 このように,ダウンタウンの建築には様々な様式をたどることができるから,建築の専門家にとれば興味深い対象であると思われる,

 2番目の写真は,ダウンタウンで目につく「Power Block」といわれる建物である。
 当時の大物トーマス・C・パワーによって1889年に造られたこの建物は、へレナ中心部にその存在感を示している。この建物は「Power Block」という名で知られているが、6番ストリートに面した入口の上のかなめ石には「Power Building」と刻まれている。
 そして,4番目の写真は「Fire Tower」である。
 火事はヘレナを悩ましたものの最大のものであった。木造の建物は火事とともに燃え尽きたが,一旦火災が起きると,ヘレナの水不足は火事を止めることができなかった。とりわけ1870年代のいくつかの大きな火災はすさまじく,町の中心商業地区と多くの家の多くを破壊した。
 この「Fire Tower」,つまり火災の監視塔は1870年代前半にカトリック・ヒルの西部に建設されたものである。1878年5月には,この塔に電話が取り付けられて,警備員がすぐに消防士に警報を知らせることを可能にした。このシステムは1956年まで使われたが,その時点ではアメリカで最も古いもののひとつとなっていた。
 この塔は修繕を繰り返しながら長年にわたって使用されたが,1935年の地震は塔に損害を与え,1950年には稲妻を受けてしまった。

 私がツアーバスで巡ったヘレナはこのようなところであった。
 何分,日本語のパンフレットもガイドブックも存在しないので,発音がわからず,原語のままになっている箇所はお許しいただきたい。
 ビュートで乗ったことのある市内観光トロリーバスもそうであったが,日本人には無縁の,しかし,浅いとはいえさまざまな歴史の詰まったこうしたアメリカの町は,今でもきちんと保存され,こうしてツアーバスで観光ができるのが,また,素敵なことである。日本では,こうした観光地は歴史の保存というよりも商業主義の観光地となってしまっているが,どうも,アメリカでは根本的にそうではないようだ。
 アメリカに行っていつも思うのは,日本は歴史こそ長く,多くの文化遺産があるにもかかわらず,そして,やたらと細かな歴史教育を受けているにもかかわらず,国民はほとんどその文化的な価値や保存には興味がなく,本音は「金儲け」の手段としての対象でしかないということだ。世界遺産にしてもそうだ。それは,世界遺産という名を利用した観光客の集客と金儲け以外の何物でもない。本当になさけない国だとしみじみ思う。
 ヘレナという町を観光して感じたのは,アメリカという新大陸にやってきて成功した人間の強さと弱さである。私がもしこの時代に生きていたら,彼らの成し得たことのひとつでもできたであろうか。
 学校で学ぶ官製の歴史は,政治家の醜い権力争いだけは学ぶことができるが,そこに生きている庶民の苦労については何も教えてくれない。「歴史から学べ」といわれるし,それは正しいが,そうした「学べる歴史」というは,学校では教えてもらえない。
 ヘレナの観光を終えて,私は,今日宿泊するホテル・スーパー8に着いた。

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●アメリカで成功した才覚のある人●
 現在,ヘレナでは1992年に創設されたヘレナ歴史的地区「Helena Historic District=HHD」によって,ダウンタウンエリアとウェストレジデンスの2か所が登録され保存されている。
 きょうは,その中でウェストレジデンスを紹介しよう。

 1800年代後期のゴールドラッシュに湧いたころ,西部ヘレナにはアメリカ合衆国の他のどの都市よりも多くの大富豪がいた。彼らは贅沢な大邸宅を建設する熾烈な競争を行っていて,Last Change Gulchとよばれる現在のダウンタウンの西のヘレナ山の傾斜に多くの邸宅を建設した。
 それが現在残る歴史的大邸宅地区である。
 かつては240以上の邸宅のあったこのヘレナの歴史的大邸宅地区も,他の地区と同様に都市の再開発とともに破壊されようとしていた。
 1970年代に破壊されてしまった南東の地域は保存対象リストから除かれたが,最初のダウンタウンの地区のおよそ5ブロック地域から北は1990年に保存地域として指定され,聖ピーター大聖堂とFirst Unitarian Church(現在Grandstreet劇場)も,保存地区に含まれた。さらに,1993年には保存地域が拡大され,現在に至るのである。
  ・・
 このように,どの都会も保存と開発の中で葛藤を続けているのだが,それでも,日本のような無計画な破壊,あるいは,極端な保存と観光地化のようなこともなく,調和のある発展をしていると私が思うのはひいき目であろうか。
 私は,テキサス州のフォートワースに行った時も,同じようなことを感じたのだった。

 では,私の写した写真から,この地域に残る邸宅をいくつか紹介することにしよう。
 1番目の邸宅は1881年に建てられたAshby-Power Homeである。
 この頑強な住居は,農機具を扱うビジネスをしていたShirley Carter Ashby という人が当時のお金で28,000ドルの総工費で建て,のちに,モンタナの初めの議員であったThomas H. Carter が住んだ。素晴らしい内装ということだが,邸宅の内部は公開されていない。
 2番目の邸宅は,1891年に建てられたT. C. Power Homeである。
 ロマネスク建築でとてもよく目立つこの建物は,裕福な商人であったThomas C. Power がBenton砦から運んだものである。その後,ヘレナのカトリック管区に寄付されたりしたが,現在は,個人が所有している。
 そして,3番目の邸宅は,1885年に建てられたSamuel T. Hauser Mansionである。
 この29部屋もある邸宅は,起業家であったSaymuel T. Hauser が建てたもので,1913年から1935年にかけて4人のカトリック司教の邸宅になっていた。1969年になると,前の知事Tim Babcock と妻Betty がこの邸宅を修復した。
  ・・
 日本の人は,アメリカで大邸宅といえばビバリーヒルズの大スターの大きな豪邸を思い浮かべるかもしれないが,アメリカの地方都市の豪邸というのは,町の清楚な高台の1ブロック四方に構えられたこじんまりとした邸宅なのである。
 日本は狭く土地がないから,自分の家を精一杯頑張ってつくっても,周りの景観と調和していないからどうしようもない。それに比べて,町全てがそうした景観を保ちながら住宅地を形作っているのがアメリカの大邸宅地区だと思えばいい。
 それにしても,すでに1800年代に,家柄とかではなく,この新大陸アメリカに渡って自分の才覚で成功を収めることができた人間のすござというものに,私は慄きを覚える。

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●アルジェリア神社の本部●
 このツアーバスは「the Last Chance Tour Trains and Trolley」という,いかにもアメリカらしい大仰な名前のものであった。
 パンフレットによると,
  ・・・・・・
 モンタナ州ヘレナの「ラストチャンス・ツアー」電車とトロリーの故郷にようこそ。
 我々は電車形状のトロリーで皆さんをヘレナの歴史的なツアーに招待します。贅沢な大邸宅地区を見て,聖ヘレナ大聖堂に驚嘆し,我々の知事の邸宅をバスの中からご覧ください。ユニークな建築物を楽しんだら,Old Fireタワーを一目ご覧ください。これこそが,美しい歴史的な都市ヘレナを楽しむ一番の方法です! そしてまた,素晴らしいガイドとともにあなたに素晴らしい時間をお約束します。Tシャツなど土産も提供しています。  
 このツアーで使用するトロリーは,最高55人を収容することができます。トロリーは2台用意されています。
  ・・・・・・
と書かれてあった。
 このツアーの「ラスト」というのは,これぞ究極的な,極めつけのといった意味であろうか。

 今日の1番目の写真はYWCAである。ヘレナのYWCAは1911年に設立された。YWCAは,ホームレスの女性とその子供たちに安全で手頃な価格の一時的な住宅や支援を提供する非営利団体である。
 そして,2番目の写真は聖ピーター大聖堂(St. Peter's Cathedral)である。この教会は「The Episcopal Church」と入口に書かれている。
 米国聖公会(Episcopal Church)とは,キリスト教の一派のアングリカン・コミュニオンのひとつで,アメリカ合衆国,バージン諸島,ハイチ,台湾,コロンビア,ドミニカ国,エクアドル,ホンジュラスに主教区を持つほか,プエルトリコおよびベネズエラの主教区と地域を越えた関係にある。18世紀にアメリカ合衆国がイギリスから独立するときに創設された。
 アメリカにおける教会員はおよそ300万人。富裕層や社会上層部に信者が多く,歴代のアメリカ合衆国大統領の4分の1,アメリカ合衆国最高裁判所長官の4分の1は米国聖公会の信者である。またアメリカ合衆国議会と合衆国最高裁判所判事の約半分が信者である。

 ツアーバスはダンタウンを北上していった。
 一番北にあったのが,シビックセンターであった。ヘレナ・シビック・センター(Helena Civic Center) は1920年にアルジェリア神社の本部として建てられた。このムーア風のリバイバルスタイルの建物は、そのそびえ立つ姿が特徴的で、長くヘレナの象徴的な人気ポイントであった。
 建物は1935年の地震で相当な損害を被ったので,ヘレナ市は,その後まもなくそれを神社から購入し,1976年まで市庁として機能させた。警察署は何十年前にシビック・センターから移転したが、消防署は今なおそこに存在する。
 現在,シビックセンターはヘレナ市によって所有・運営されていて,晩餐会,航空機ショー,ダンス,結婚式,試写会,会議,コンサートなどに利用されている。いわば,市民会館といったものである。
 ツアーバスは,シビックセンターからさらに西に向かって進んでいった。
 ダウンタウンから西は歴史的保存地域で,豪華な邸宅が立ち並んでいる場所であった。しかし,私は,その位置関係がよくわからなくなって,先ほど通った住宅街に戻って,同じところを何度もぐるぐる回っている様に混乱してしまった。

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●ヘレナは思ったよりも奥の深い町●
 このモンタナ州の州都ヘレナは思った以上に奥の深い町であった。
 官庁街の西側にはゴールド・ラッシュ時代の歴史的な建築物が多くあった。また,そのはるか向こうにはロッキー山脈の大自然や原野が広がっていた。当然,ゴールドラッシュで栄えた町だから,大邸宅が並んでいるのだ。治安もよければ,町も美しい。この小さな美しい町に観光客がくるというのは,そうとは知らない私には不思議なことであったが,当然のことなのであった。
 近頃は,日本ではやたらと世界遺産がブームになっている。観光客を増やすのが目的であろう。しかし,アメリカの世界遺産のニューメキシコ州カールズバッド洞窟群ひとつと比べても,そのスケールは日本とは段違いなのである。
 ヘレナという町は世界遺産ではないが,その素晴らしさは,日本の世界遺産の比ではない。
 そんな町なのに「地球の歩き方」には全く情報がないのだ。

 ツアーバスは,まず,州議会議事堂からブロードウェイストリート(Broadway St.)まで1ブロック南下して左折した。
 そこにあったのは,現在の州知事の住む邸宅(Montana Governor's Mansion)=1番目の写真 であった。ちなみに,現在のモンタナ州知事は民主党のSteve Bullockである。
 このツアーでは,このあと,歴代の州知事が住んだという「オリジナル州知事邸宅」へ行くのだが,ツアーのガイドさんは,どちらの邸宅が立派でしょうね,といったユーモアあふれる説明をしていた。
 州知事邸宅を過ぎて,このツアーバスはさらに左折して3ブロックばかり北上して,再び左折,6番ストリートを西に向かって走り出した。
 大きなディーゼル音をたててゆっくりと公道を進んでいくのだから,他の交通手段にとれば迷惑極まりないと思のだが,アメリカのいい意味でけだるい雰囲気はそんなことはみじんもなく,運転手は他の車のドライバーと大声で雑談をかわしながらのんびりと進んでいくのだった。

 州議会議事堂を通り過ぎたところに派手な色彩の家があった。それが2番目の写真である。
 私は,このツアーに参加したときにはヘレナのことなど全く知らなかった。なにせ,日本では全く情報などないのだから。だから,どこをどう走っているのかもさっぱりわからなかった。
 しかし,アメリカ人の合理主義というのは本当に偉大なもので,家々に必ず大きく番地を表示することが義務付けられている。そして,その番地の付け方というのが,規則正しく,道路の向こう側は偶数,手前は奇数と決められている。だから,写真に写った家々に表示された番地を調べるだけで,ツアーバスがどこを走ったのかが今判明できるので,私はこうしてこのブログを書くことができるのだ。

 ツアーバスは西に向かってずっと6番ストリートを進んでいった。
 デービスストリート(Davis St.)という名の通りが北東から南西に横切っていて,そこで東西を平行に走っていた道路はすべて45度斜めに変わる。
 要するに,この先がヨーロッパでいうヘレナの「旧市街」なのである。
 「ブラタモリ」という番組で,日本の町並みがどのようにできたかを話題にしているが,アメリカの町並みも同様で,時代によって町の作りや構成が異なっていて,現在ではそれらがごったに融合している。これこそ街歩きの面白さである。
 旧市街はダウンタウンであり,官庁街とは打って変わって,多くの商業施設や教会などが立ち並ぶようになった。博多から中洲へ向かって行くようなものだ。ダウンタウンとはいえ,アメリカの都会は広いから緑が多く,散策コースも完備されていて,観光客が散策を楽しんでいた。私は,ヘレナにはこんな場所があるんだなあ,と思った。
 それにしても,味のある町であった。
 3番目の写真は,オリジナルモンタナ州知事邸宅(Original Governor's Mansion)である。
 そして,4番目の写真がセントヘレナ大聖堂(Cathedral of St.Helena),5番目の写真がツアーバスの中から見たダウンタウンである。

 オリジナルモンタナ州知事邸宅は1913年から1958年まで歴代9人の州知事が家族とともに暮らした家である。このヘレナの大邸宅のシンボル的存在は,1888年に当時の富豪ウィリアム・チェスマン(William A. Chessman)によって作られた。1900年以後は,鉄道建設家ピーター・ラーソン(Peter Larson)が暮らし,その後,知事が移り住んだ。
 現在は,ヘレナ市によって保存され,内部の見学ツアーが行われている。
 セントヘレナ大聖堂は,ローマ・カトリック教会の司教区の大聖堂である。設計を依頼されたO. VonHerbulisは2つのスタイル,ロマネスク様式とゴシック様式の2つのスタイルを提案した。委員会はその中からゴシック形を選び,デザインは満場一致で決定,1908年に大聖堂の建設が開始され1924年6月に完成した。
 1935年の秋におそった地震でこの大聖堂は損害をうけ南の塔はほとんど完全に破壊されてしまったが,1938年に再建が完了した。

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●子供の話す英語なんてわからない。●
 インターステイツ15のヘレナのジャンクションを降りるとそのまま東西に走るプロスぺクトアベニュー(Prospect Ave.)に出るが,この道路は西向きの一方通行である。その1ブロック南に平行に11番アベニューが走っていて,その道路が東向きの一方通行である。
 プロスぺクトアベニューを走って行くと,左手南側の高台に州議会議事堂が見えた。
 このように,ヘレナの官庁街は,一方通行のメインストリートが東向きと西向きに1本ずつあるだけの町であった。道路も混雑するでもなく,アメリカによくある田舎町と同じで,私は,美しい小さな町なんだなあと思った。

 何度でも書くが,本当にモンタナ州は素晴らしい。
 春に訪れたカンザス州,オクラホマ州,アーカンソー州,ミシシッピ州などなどに私が全く思い入れがなかったことはこのブログを読まれてお分かりになったことであろう。それに比べて,このモンタナ州の素晴らしさは,どう表現すればいいのだろう。
 日本からいかに多くアメリカに行く人がいても,さすがにこのヘレナへ行ったという人はほとんどいない。だから,この町を旅行したブログを探してもほとんど見つからない。だがしかし,こんな素敵な町も知らずしてアメリカに行ったなどということは許されないと私は思う。それに比べて,ロスアンゼルスだのニューヨークだのと,さもアメリカを知ったかのように語る人たちは,お子ちゃまである。そうしたところに行っただけでアメリカを語る日本人には,あなたはヘレナに行ったことがありますか,と問うてみたいものだ。
 この地に行かないで一生を終わるのなら,私にはどんなに学歴や名誉やお金があろうと意味がない。
 
 州議会議事堂の東側,博物館を出たところに,ラスト・チャンス・ツアートレイン(Last Chance Tour Train)というヘレナの見どころを2時間くらいで周るガイド付きツアーバスの乗り場があって,トレイラ―ハウスでチケットと土産物を売っていた。このツアートレインは,一日に何度か出発するので,私は,その次のツアーのチケットを買い求めた。ツアーまでは十分に時間があったので,私は,その出発の時間まで州議会議事堂を見学したのだった。
 ヘレナは州都なのである。州都のガイドツアーが,日本の遊園地にあるような機関車を模したバスだというのもなかなか乙な話ではないか。

 やがて時間になったので,ツアーバスに乗り込んだ。
 一緒に乗り合わせたのは,確かテキサスだったかフロリダだったか忘れたが,そこから観光で来た家族連れであった。その中に小学生くらいの男の子がいた。彼が私に好奇心をもって,いや,私のカメラに好奇心をもって,しきりに話しかけてくるのだが,どうも私には子どもの話す英語というのがよくわからない。
 彼らは,全世界の人類がみな英語を話すと思っているらしい。日本語だって子供の話す言葉がよくわからないのだから,当然英語なんてさっぱり理解できないのだ。
 こういうことひとつ考えても,日本の小学生に,今のようなやり方で英語を教えてもしょ~もないということが実感できるであろう。子供には子供の世界があるのだ。子供には国境などというめんどくさいものはなく,人種の偏見もないから,夏休みの1か月間でもいろんな国の子供をごっちゃ混ぜにしてキャンプでもさせたほうがずっといい。そのうち心で会話をするであろう。言葉の基本は文法ではなく心なのだ。
 英語など,動機づけさえあればそのうち自分で勉強するようになる。
 しかし,この国は,そういう動機をなくさせ,英語は難しい嫌いだというトラウマを生むために「英語」という名をつけた忍耐教育,いや順位競争をするという隠れた国策があるのだ。第一,指導者が英語を心で話せないのだから何をかいわんや,である。
  ・・
 このヘレナに関しては日本語で書かれたガイドブックもないことだし,次回からは,私が写してきた写真と英語で書かれたパンフレットをもとにこの町の紹介をしていきたい。

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●私の愛してやまないモンタナ州●
 このブログのURLは「I love Montana」。私はアメリカ50州の中でモンタナ州が一番好きである。
 モンタナ州(State of Montana)は,アメリカ合衆国41番目の州で, 東西の長さが約1,000キロ,南北が約400の台形で,北側はカナダと国境を接している。
 西側3分の1には高い山脈が走っていて,中央3分の1は小型の孤立型山脈が見られるという,この地形的特徴から,スペイン語のmontaña,つまり英語のmountainに由来して,州の名前が付けられた。また,モンタナ州には大きな「空の国」(Big Sky Country)「宝の州」(The Treasure State)「輝く山の土地」(Land of the Shining Mountains)といった様々なニックネームがある。さらに最近では「最後の最良の地」(The Last Best Place)ともよばれている。そう,この州はまさに「最良の地」なのである。
 陸地面積は全米第4位であるが,人口は少ない方から7番目で人口密度は小さい方から3番目である。
 比較的平坦な東部では牧畜業,小麦農業,石油と石炭の採掘,山の険しい西部では林業,観光業および岩石採掘業が盛んである。
 また,グレイシャー国立公園,リトルビッグホーン戦場跡国定保護区,およびイエローストーン国立公園があって,多くの観光客が訪れている。ワイオミング州にもかかるイエローストーン国立公園にはモンタナ州に3か所の入り口がある。

 モンタナ州は昔から二大政党が競合するところで,選挙で選ばれる役職者も両党から選ばれている。
 20世紀半ばまで「ワシントンにはリベラル派を,ヘレナには保守派を送る」伝統があった。しかし,1980年代からは連邦政府に保守派を選ぶ傾向に変わり,それとともに党の支配状況も変わってきた。
 1970年代は民主党が支配しており,州知事は20年間,連邦議会に送る代表も民主党が多数,州議会の多くの会議も民主党が多数派となっていた。それが1988年の選挙から変化し始め,州知事に共和党員が就任,連邦議会上院議員2人のうち1人は1940年代以来となる共和党員を送った。
 この動きは1994年州議会選挙区の改定でも継続し,この年は共和党が州議会の両院で多数党になり2004年まで続いた。
 大統領選挙でも近年は共和党寄りとなっており,1996年以降は共和党候補が勝利し続けている。
  
 州都ヘレナに上下両院の議場が置かれるモンタナ州議会議事堂(Montana State Capitol)の庁舎は1896年から1902年にかけて建設された。そして,1909年から1912年にかけてウイングが増築された。また,議事堂は国家歴史登録財に指定されている。
 庁舎はギリシア建築様式の要素を取り入れた新古典主義建築様式で,建材には地元モンタナ州産の御影石と砂岩が用いられている。庁舎のドームは銅版で覆われ,上には自由の淑女(Lady Liberty)とよばれる女性の像が立てられている。
 庁舎内部中央のロタンダは金色で塗られ,1902年にチャールズ・A・ペドレッティによって描かれた4枚の絵画で囲まれている。これらの絵画にはモンタナ州史の初期において重要な役割を演じた,ネイティブ・アメリカン,探検家,金鉱夫,カウボーイがそれぞれ描かれている。
 ロタンダの西側のアーチにはアメディー・ジョーリンの手による,連邦下院初の女性議員ジャネット・ランキンの像を描いた半楕円形の絵画が飾られている。また,州下院本会議場の議長席の上には,モンタナ州が生んだウェスタン・アートの画家チャールズ・M・ラッセルの手による,「Lewis and Clark Meeting Indians at Ross' Hole」というタイトルの付された,幅762センチ,高さ365.8センチの絵画が飾られている。この絵画には,ルイス・クラーク探検隊が,山を越えて太平洋に抜けるための最も安全なルートをモンタナのネイティブ・アメリカンのサリッシュ族に尋ねる場面が描かれている。
  ・・
 この州議会議事堂はセキュリティがとても緩く,というか,まったくないのも同然で,何のチェックもなく自由に中に入ることができた。これはアイダホ州も同様であった。要するに,「田舎」なのだ。
 中に入ると,観光客用のカウンタがあって,親切なおじさんがいた。
 私が日本から来たというと,「歴史概略とセルフガイドツアー・モンタナ州庁舎」と書かれた日本語のパンフレットを持ってきてくれたので,私は,そのパンフレットに書かれたように,セルフガイドツアーをした。
 モンタナ州は,本当に,美しく素晴らしい。期待どおり私が愛してやまない州であった。

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