しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国50州 > ミシガン州

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 暇にまかせて,いつものように,見るでもなく見ないでもなく,NHKBS1で放送されているMLB中継を英語にしてつけていたら,デトロイトからのゲームでした。そこで,デトロイトについて,なぜか懐かしく思い出しました。
 私がデトロイトに行ったのは2002年のことだから,早いもので,もう20年前のことになります。デトロイトに行った目的は,いつものとおり,デトロイト・タイガースのホームでMLBを見ることでした。そのついでに,美術館や歴史博物館,さらにはモータウンなどの観光もしてみましたが,この町は,危険というより寂れた感が一杯でした。
 このときの私は,アメリカ合衆国50州制覇とMLB全30チームのホームゲームを見る目的を達成しようと,セントルイス,インディアナポリス,シンシナチ,ピッツバーグ,クリーブランドといった,およそ日本人が観光するのとは無縁のアメリカの中部をドライブしていました。そこで最後に寄ったのが,帰国便に乗る空港のあるデトロイトでした。

 デトロイトはセントレア・中部国際空港から直行便があるのですが,空港はデトロイトのダウンタウンからは遠く,ダウンタウンを目的にする人もまた,ほとんどいないように思います。
 日本では「デトロイト=車の町」といった印象ですが,実際は工場は郊外にあって,ダウンタウンは相当に危険な都会でした。
 まず,ミシガン州に入った途端にインタ―ステイツの制限速度が70マイルに格上げされ,それと反比例するように道路がガタガタになったのに驚きました。そして,ダウンタウンに近づくにつれて,どんどん雰囲気が「ヤバく」なっていきました。私が見たのはナイトゲームだったのですが,駐車代をケチって遠くに停めたが失敗でした。
 終了後,車を停めた場所まで歩いていったときに,よく命があったものだ,と今では思います。深夜に歩くような町ではありませんでした。

 さて,20年前のデトロイトはそんな感じでした。よくもまあ,こんなになるまで放っておいて何もしなかったものだ,というのが私の正直な印象でした。デトロイトは2013年に財政破綻をしたという報道まではよく耳にしたのですが,その後の様子がわかりません。調べてみても,実際の姿がよくわならないのです。
 私が行った当時は,ナイトゲームのとき,スタンドから見える遠くのビルにはまったく明かりがついていなかったのですが,テレビのMLB中継を見る限り,スタジアムの周りの町の様子は,私が行ったときよりは色とりどりになっていて,明るくなったダウンタウンがうかがわれました。このように,ダウンタウンは再開発で活気をとりもどしたというようなことが書かれているものもあります。
 しかし,治安は? として調べてみると,デトロイトの日本領事館の情報では
  ・・・・・・
 デトロイトは,近年,カムバック・シティとして目覚ましい復興を遂げています。ダウンタウンやミッドタウンを中心に若者たちによるパブリックアートや音楽が盛んとなり,アメリカ国内でも注目度の高い都市となりつつあります。
 その一方で,FBIが発表した2016年中の犯罪統計では人口10万人あたりの凶悪犯罪件数でワーストとなるなど,治安が比較的回復してきた近年でも最も危険な都市のひとつであることに変わりはありません。
  ・・・・・・
とありますが,この情報さえ6年も前のことです。今でも依然として同じ状況なのでしょうか。
 これ以上のことは実際に行ってみないとわかりません。
 なお,私が行ったのは20年も昔のことで,今のようにデジカメもなく,フィルムで写した写真をスキャナーで加工した少しの写真しかないのが残念です。いろいろなところに出かけるには,人生は短かすぎます。

 さて,ここからはおまけです。
 現在のデトロイト・タイガースのホームグランドはコメリカパーク(Comerica Park)ですが,このボールパークは,2000年にダウンタウンの再開発を目的として作られたものです。私が訪れたのは,ちょうどできて2年目でした。ちょっと安っぽいなあ,というのが,私の印象でした。
 それまでは,タイガースタジアム(Tiger Stadium)で,ダウンタウンから少し西に行ったところにあって,私は,このとき,その横を通りすぎました。使われなくなって2年経っていましたが,当時はまだ健在でした。その4年後の2006年に取り壊され,現在では,当時の遺構が一部残された the Corner Ballpark になったということです。
 実は,私は,このタイガースタジアムで,ぜひ,一度ゲームが見たかったのです。このボールパークは1911年生まれというとても古いもので,古きよき,そして,自動車産業が栄えたころの強かったデトロイト・タイガースの象徴でした。今も使われていれば,ボストンのフェンウェイパーク(Fenway Park),シカゴのリグレーフィールド(Wrigley Field)のように,ここまで古いとむしろトレンディだったのです。タイガースタジアムは,グランドの形はほぼ四角形で,センターまでが異常に遠く,また,スタンドの屋根は柱があって見にくいし,といったように,不便極まりない,私が好きな場末感ただようすてきなボールパークだったようです。

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💛
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●デルタ航空のコンピューがダウン●
 実は,帰国の数日前,アトランタに本社のあるデルタ航空のコンピュータがすべてダウンした。そのためにアメリカ国内のデルタ航空の便が運休になり,大混乱した。このニュースを見ていて,私は帰りの飛行機が無事に飛べるかどうかずっと心配していた。私はこのころ,利用した便が定刻に飛んだことがほとんどなかった。
 結局,翌日もこの影響が残っていたので,私は空港に着くまで心配だったのだが,私の帰国に合わせるかのように,この日は前日までの混乱がうそのように平常運行していた。
 ただし,空港を歩いていると,前日まで運休になって乗ることができなくなった乗客のための救済カウンタが設置されてあったから,これを見て昨日までの混乱を思い起こした。

 生きること自体も旅のようなものであるが,まさに旅をするというのはあらゆるトラブルに巻き込まれる可能性があって,その都度,さまざまことが体験できるのだ。そして,その折々で,何を優先するべきかということを的確に判断することが一番大切なのだ,ということを私は常に学ぶことになる。
 今回の旅では,来るときは機長が病気になって,セントレア・中部国際空港からデトロイトまでの便が,機長が交代するためにシアトルで一旦着陸することになった。そのためにデトロイト到着がかなり遅れて,デトロイトからオーランドまでの便があわやアトランタ乗換えに変更されそうになったり,交渉の末,直接オーランドに行く便にしてもらったがそれでも到着がかなり遅れることとなり,深夜に到着したオーランドではホテルに着くのが大であった。
 それとは打って変わり,帰りは定刻通りデトロイトに着くことができた。しかし,もともと今回は乗り換え時間が1時間半ほどしかなかったので,慣れ親しんだデトロイトの空港で今回はお寿司を食べることもできず、そればかりか,ターミナルの端から端までを走りに走ることとなった。
 セントレアへの便が出発するゲートにやっと着いたときはすでに搭乗終了間際で,やっとのことで機内に乗り込むことができたのだった。今回の旅もこうして帰国の途に着き,2016年の夏の,アメリカの東海岸をキーウェストから国道1に沿って北上しフィラデルフィアに到達した旅を終えて帰国したのだった。

 若いころは旅に対しての思い入れも今より深く,いろんなことを感じたものだが,次第にそうしたことの多くがどうでもよくなってきた。こうして,旅をすることが慣れっこになってくるとこだわりもなくなってきて,それと同時に,旅先でのときめきもまたなくなってくるわけだ。残念なことであるけれど……。
 この旅を終えて,何がしかのむなしさでも味わうのかと思ったが,自分でも驚くほど,新たにやりたいことがいくらでできてきたのもまた不思議なことであった。これからの私の旅は,その年齢,年齢に応じてスマートにできればいいなあ,と思うこのごろである。
 私は,この旅をもって,アメリカ合衆国50州制覇というひとつの目的を達成し,同時にMLB30球団のボールパークもすべて訪れることができたた。そして,この先,また新たな楽しみを見つけたいものだと,このときは思ったのだが,それからの1年,私がどういった旅をしているかは,そこで何を見,何を経験したかは,すでにこのブログに書いたとおりである。

 地球は広いのか狭いのか?
 これだけ多くの旅客機がさまざまな航空会社から毎日地球の上空を飛んで,多くの人が移動しているという当たり前のことがすごく不思議に思える。1機の小さな機体に100人以上もの人たちが乗り込んでいるのに,目的地の空港に到着すると,まるで水を満たしたコップのなかに一滴の青いインクを垂らしたように,すぐに青い色は消え去って,透明な水にもどるように,その国に溶け込んでいく様がとても不思議に思える。しかし.その人その人にとれば,人それぞれ,私がここに書いているような旅の思い出を作っているわけなのである。

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 手配してもらったホテルは「クラリオンイン」というところで,デトロイトの空港からはシャトルバスですぐのところ。ホテルのたくさん立ち並んだ一角にあった。ホテルには,デルタ航空のパイロットや客室乗務員が泊まっていたから,デルタ航空御用達であるようだった。
 私が通常泊まる安いホテルよりも豪華で,この旅で泊まった中で一番デラックスであった。
 さらに,このホテルの中にはレストランもあったので,そこで豪華な夕食をとることもできた。もちろん,食事代は宿泊した部屋代と一緒の清算とさせてもらた。

 以前書いたことがあるが,デトロイトのダウンタウンは治安が悪く,観光で訪れるようなところではない。私は行ったことがあるが,空港はダウンタウンから遠く離れているから,「危険な」デトロイトとは関係がない。
 ちなみに,デトロイト・メトロ国際空港はダウンタウンから南西35キロメートルのところにあって,ダウンタウンに行くには,公共交通機関は路線バスしかないし。空港シャトルバスすらない。それに,ダウンタウンでは路線バスの停まる停留所の治安が悪いから,空港からダウンタウンに行く方法は,レンタカー以外には,実質上タクシーしかない。
 要するに,デトロイトとはいっても,空港は大都市デトロイトとはほとんど無関係であって,乗り換えのためのハブ空港という位置づけでしかない。
  ・・

☆10日目 5月18日(月)
   -延長戦-
 翌日の朝。
 ホテルからは空港へのシャトルバスが30分ごとに出ていた。これもまた豪勢な朝食を済ませて,シャトルバスに乗って,空港に向かった。
 空港で,いつものように,プライオリティセキュリティを済ませて,ミネアポリス便に乗った。
 今回の旅では,国内線はすべてファーストクラスにアップグレードされたので,窓際席を選んで,今回も外を見ることができた。デトロイトからミネポリス間は,眼下に五大湖が広がっていたが,ミシガン湖はことのほか美しかった。

 ミネアポリス/セントポール国際空港に到着した。ここの空港もすでになじみ深かったが,ここに来るときはいつも,何かしらの因縁があるのだった。私にとって,ここは,甘酸っぱいところだ。
 空港は,成田便を待つ客ですでに一杯であった。「帰国を待つ留学生」ということであったから,私は,日本人の留学生を想像していたが,待っていたのはほとんどが中国人と韓国人で,日本人なんて数えるほどしかいなかった。
 私の乗るフライトはオーバーブッキングが出ていて,ボランティアの募集がはじまった。
 放送では,ボランティアに応募すると乗ることができるフライトが明日になるが,その代わりに1泊のホテル代とマイレッジ10,000マイルがもらえるという話であった。
 デトロイトと違って,ミネポリスは公共交通機関が発達していて,空港から30分も電車に乗ればダウンタウンに行くことができるし,ダウンタウンは治安がよく,歩いているだけも楽しい都会だから,これに応じれば1日余分にアメリカ観光ができるということになる。もし,時間があれば,ここでボランティアに応募して,さらにもう1日アメリカ旅行を堪能してもよいと思ったりもした。

 やがて,出発時間になった。当然,機内は満員であった。やっと私は成田に向かって飛び立った。
 私の座席は,国際線なのにめずらしく窓際であったから,隣りに座る人次第で,かなり苦痛な時間になる。幸い,隣は,留学先から帰国する韓国人の素敵な若い女性であった。持っていたスマホに器用にハングルで文字を打っていて興味深かったので,そのシステムを教えてもらったりした。お互いが母国語でない英語で会話をするのは,わかりやすくていい。
 私が今回の旅で一番強く感じたことは,アジア人は本質的に似ているということであった。正直いって,中国人は大声で不作法だけれど,それは,数十年前の日本人観光客と同じであるし,韓国人の自我の強さは,日本人に対する対抗意識の反映であって,それは,きっと,相手から見れば,日本人の,相手を見下したようないやらしさと同質であろう。
 ともあれ,その根本にあるアジア人のきめの細かさやら思いやりやらは共通のもので,それは西洋人とは異質である。
 機内は,ほとんどが韓国人と中国人とそれにタイ人であった。だから,成田に到着したとき,乗客のほとんどがトランジットで,そのまま日本に帰国した乗客はほとんどいなかった。

◇◇◇
ルネサンス,遥か。-モータウン・デトロイト①
ルネサンス,遥か。-モータウン・デトロイト②
ルネサンス,遥か。-モータウン・デトロイト③

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 ともかく,無事にデトロイトに到着して,私は飛行機を降りた。デトロイトのターミナルを歩いていると,なんだか,すでに日本に帰ってきたようなホッとした気がした。
 ただし,現実は,この日に私が乗るセントレア行きのフライトはとっくに離陸してしまっていて,私はこの後どこかにホテルを確保して1泊し,明日にならないと日本に帰れないということであった。
 私は,これまで,アメリカ旅行では,ロサンゼルスで置き引きに遭ってパスポートも現金もクレジットカードもなにもかもなくしたことがあったし,モンタナ州では交通事故に遭って病院に運ばれたこともあるけれど,いつもなんとか日本に戻ってくることができた。
 だから,飛行機が遅れるなどということは,そういうことに比べれば些細なことで,大したことでもなかったから,どうしようかな,と途方にくれるわけでもなく,いわば,ポーカーでよい手配が集まったときにどのカードを切ろうかと楽しんでいるような,そんな気分でさえあった。

 とりあえず,デトロイトの空港のターミナルを中央広場のほうに向かって歩いていった。
 どこかにデルタ航空の案内所があるはずだと思った。しかし,案内所に着いても,そこにはだれもいないだろうから(こんな状態が普通である),そこにある電話機で,日本人の職員をよぼうと思った。
 今晩のホテルを探すよりも,とりあえずこういうときにはどういったことをしてもらえるのかを聞くことが先決だ。

 そんなことを考えながら歩いていたら、偶然,ちょうど向こうから,デルタ航空の制服をきた女性が歩いてきたので,彼女に日本語のできるスタッフはいませんか? と英語で聞いた。すると,彼女が,日本の方ですか? と日本語で返してきたのが,幸運のはじまりであった。
 事情を話すと,何番かの搭乗ゲートのコンピュータが操作できるのでそこまで行きましょうというので,一緒についていった。彼女は,とりあえず,一番早く帰国できる便を探しましょうと,コンピュータの操作を始めた。そして,今日出発の成田便の離陸が遅れていたから,あと30分早ければ乗れましたけれど… と言われた。海外旅行慣れしていない人には信じられないような話かもしれないが,飛行機だって電車と同じことで,座席さえあれば,すぐに乗れちゃうのだ。
  ・・
 今日出発する韓国経由とか,シアトル経由とかのいろいろな便をかたっぱしから探してもらったけれど,空席がないか,すでに出発してしまっていて,結局,カンザスシティで私の予約してきた明日のデトロイトからミネアポリス,ミネアポリスから成田という便が最善だったということになった。
 要するに,カンザスシティで,ともかくも、成田までの便を確保して予約変更をしてきたことが正解だったようだ。

 アメリカに来るときのフライトはガラガラだったから,私はこの時期の帰国便のチケットなどいくらでもあると思っていたのだが,聞いてみると,アメリカの大学はすでに夏休みがはじまっていて,アジアから来ている留学生の帰国ラッシュで日本まではどれも満席,チケットが取れないのだという。
 結局,カンザスシティで変更してもらったフライトに従って帰国するしかなかったので,やはり,この日はデトロイトで1泊する必要があったのだが,今日宿泊するホテルと,成田からセントレア便の手配も,デルタ航空の補償でてきぱきとしてもらうことができた。
 さらに,カンザスシティで預けたままになっていたバッグは,カンザスシティの職員はデトロイトで一旦ピックアップする必要があると言ったが,これもそのままセントレアまでピックアップしなくてもよいように,コンピュータで変更してもらうことができたので,重い荷物を受け取ることなく,デトロイトのホテルに行くことができた。きっと私のバッグは一旦デトロイトで降ろされて,職員がふたたび積み込んだものと思われる。帰国後,バッグにはチョークでなにかが記されていた跡が残っていた。
 こういうこともあるから,私がいつもやっているように,1日分の着替えと歯ブラシくらいは手荷物に入れて手元に持っているべきだと痛感した。

 それにしても,この日本人女性職員の手際よさにはほれぼれした。さすが,日本の女性は優秀だと,私はこのときばかりは日本人を誇らしくなった。彼女は,こういうことは経験しないとわかりませんからね,でも,だれか助けてくれますよ,と言っていた。
 さらに,彼女には,ホテルまで行く空港のシャトルバスの乗り場まで案内してもらった。
 この日本人職員は,アメリカ育ちで,大学だけ日本だということだった。そして,日本では窮屈で生きていけないと言った。
 私は,今回のこうした出来事の印象を思ったまま書いているので,事実誤認があるかもしれないことをお詫びしておくが,その時々の職員の対応やら自分の行動の仕方で,事態はどうにでも変わるということを,改めて知ることとなった。そして,この出来事での感想は,国籍に関わらず人は親切であるということと,この日本人女性職員の対応がすばらしかったということ,そして,いつものように,私は運がいい,ということであった。

◇◇◇
It's been 888 days since I started this blog. 

今日から23日まで9泊11日,アメリカを旅行します。そこで,今回も今日から帰国するまで2014アメリカ旅行記をLIVEで書きます。現地の wifi 状況によっては,更新できないことがあるかもしれませんができる限りその日にあったことを書いていきたいと思っています。
出発するまでいろいろありましたが,いきさつはまた後で書くことにして,ともかく,日本を出国してデトロイトに着きました。これから乗り換えて,テキサス州のサンアントニオに向かいます。
今年の冬,アメリカは異常気象で極端に寒い冬でした。デトロイトの空港から一面の銀世界が見えます。気温は未だマイナス10度だそうです。空港内にいるときは影響ないのですが,飛行機に乗るときに搭乗口から一瞬外気に触れるので,そのときに,この寒さを感じました。
ところで,デトロイトの待合室でもフリーの wifi がつながるようになっていました。

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 これまでに取り上げたほかに,デトロイトには,モータウン博物館と歴史博物館があります。
 翌日の朝,私は,まず,モータウン博物館へ行きました。モータウン博物館は,家が一軒あるだけの小さな博物館でした。あたりは,うらぶれた下町でした。

 モータウン(Motown)とは,デトロイトの通称「モーター・タウン」の略で,デトロイト発祥のレコードレーベルのことです。
 1950年,ベリー・ゴーディ・ジュニアがジャズのレコード店を開いたのが始まりで,自分で書いた曲を売り込んで回るうちに認められ,「黒人向けのR&Bではなく,白人層にも自分たちの音楽の良さを理解して欲しい」という思いから,1959年,借金をして,モータウンレコードを設立しました。
 ゴーディは物件を1959年に購入して,小さな録音スタジオに改装し,2階を住居用としました。この物件はデトロイトウェスト・グランド通り2648に位置し,1968年までモータウンの本社でした。
 モータウンレコードには,スティーヴィー・ワンダー,スプリームス,ダイアナ・ロス,テンプテーションズ,ジャクソン5,マイケル・ジャクソン,プリンス,ライオネル・リッチーなど,有名なアーティストが所属していました。次第にヒット曲を重ねて,大型レーベルへと成長していったのです。
 1970年,モータウン・レコードはロスアンゼルスに移転し,この場所は1985年にモータウン歴史博物館となりました。
 なお,1990年に,ゴーディはロックの殿堂入りを果たし,1994年には,自伝「モータウン,わが愛と夢」(To Be Loved)を出版しました。

 モータウン歴史博物館に着いたとき,まだ,開館には10分ほど時間があったので,路上駐車をして,周りを散策しました。この博物館のとなりが葬儀屋だということがわかりました。
 少しすると,ノースカロライナ州からやってきたというアフリカン・アメリカンの団体客がバスで現れました。その団体の添乗員らしきおばちゃんが,まだ開館していない入口でインターフォンを鳴らしましました。しばらくすると係員が出てきたので,まだちょっと早かったけれど,一緒に中に入れてもらいました。
 お金を払うと,団体客が来るから先に2階を見るようにと言われたので,2階を見ました。
 2階には,モータウンの歴史をはじめ,ゴールドディスクやプラチナディスク,テンプテーションズの衣装,マイケル・ジャクソンの帽子と白い手袋などがありました。本物だよ! そのあとその団体客と一緒に1階でビデオを見て,説明を聞きました。
 結構有名なところで,きっと,大好きな人には,たまらない場所だろうと思われました。
 帰りにお土産にステッカーを買いました。
 
 モータウン博物館を後に,次に向かったのは,デトロイト歴史博物館でした。
 近くの道路は,パーキングメーターのあるところはすでに車が一杯で,やっと見つけて停めたところはパーキングメーターが壊れていて,お金を入れたのだけど動作せず,という感じでした。この町は,パーキングメーターさえ満足に整備されていなかったのです。なんとかメーターの動くところを見つけて車を停めて,博物館へ行きました。
 チケット売り場では,前のお客さんが,予約してあったにもかかわらずコンピュータが作動せず,係のおばちゃんは,何度もおなじことを繰り返すばかりで,後ろに並んでいた私はさんざん待たされたのだけれど,結局,おばちゃんはそのお客さんにチケットを売るのをあきらめ,次の私にチケットを売り始めました。
 この博物館も古ぼけていて,デトロイトの昔を再現した模型などがありましたが,それぼど大したところではありませんでした。
  ・・
 それにしても,デトロイトは想像以上にすごいところでした。たった数日滞在しただけで,この町の抱える問題が実感できました。
 ヘンリー・フォードがT型フォードを量産した町,世界で初めて舗装道路と高速道路ができた町,デトロイト。1967年のアフリカ系アメリカ人のによる大規模な暴動と,1970年代以後の日本車の台頭によるアメリカ自動車産業の深刻な打撃がもたらした荒廃の結果,30年以上も,ここまで荒れ果て退廃するのをほっておけば,復興するのも並大抵なことではないんだなあ,あの町に暮らす人はもっとたいへんだろうなあ,としみじみ感じたことでした。
 ルネサンスタワーをシンボルに都市の再生を目指しているのですが,この手法は周囲の荒廃した地域への波及効果が薄く,ダウンタウンの空洞化は,今なお,改善がみられません。ダウンタウンのビル街は全くテナントがなく,ゴミだらけの空き地や荒れた家屋が数多く見られます。
 2012年現在もデトロイトの人口は減少をたどっていて,約70万人。失業率,貧困率が高く,犯罪都市としても有名です。2013年7月18日,ついに,デトロイト市は財政破綻を表明し,ミシガン州の連邦地方裁判所に連邦倒産法第9章適用を申請しました。負債総額は,180億ドルを超えるとみられています。

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 デトロイトのダウンタウンから南西約35キロメートル行ったところに,デトロイト・メトロポリタン国際空港(DTW)があって,空港とダウンタウンの間に,前回紹介したヘンリーフォード博物館があります。
 それとは直角に北西へはウッドワードアべニューという広い道がまっすぐに延びていて,2キロメートルくらい行くと,右手に,MLBのデトロイト・タイガースの本拠地コメリカ・パークと,その東に,NFLのデトロイト・ライオンズのフォードフィールドがあるのですが,私が行った2002年には,フォードフィールドは,まだ,建設中でした。
 このように,ダウンタウンはスポーツ施設を建設して再開発をしよういう意志はあるのです。

 さらに進むとインターステイツ75に出会い,これを通過して5キロメートルくらい行くと,インターステイツ94に至ります。この手前に,昔はさぞかしにぎわったであろうと思われる古臭い劇場街などがあって,それを過ぎると,アフリカ系アメリカ人歴史博物館,デトロイト美術館,デトロイト歴史博物館があります。
 インターステイツ94を越えて,もう2キロメートル,グランドブルバードへ,左(南西)に折れて3キロメートル行くと,モータウン博物館があります。

 このように,見どころはたくさんありますが,すでに書いたように,これらをまわるには,車しか方法はありません。
 インターネットに,昔のデトロイトのイメージを描いてあこがれていたのでしょうか,老後にデトロイト観光を計画しているが,という書き込みを見かけるのですが,残念ながら,レンタカーを利用できないのであれば,やめておいた方がいいでしょう。日本語ツアーもないでしょう。
 私は,アメリカを車なしで観光できるのは,ニューヨーク,ボストン,ワシントン,サンフランシスコ,シカゴ,くらいのものだと思います。そうそう,忘れていました。ミネアポリス&セントポールも大丈夫です。だから,車を使ってアメリカを個人旅行している人のアメリカに抱いている印象と,そうでない人とはまるで違います。
 車で観光をしたことのない人の多くがアメリカにあまり良いイメージを持っていないのは残念なことですが,それは,このブログでも書いているような,アメリカの本当の姿を知ることができないからなのだと思います。
 確かに,病んでいるところもたくさんあるのですが,それはどの国でも同じです。
 あの自然の雄大さは,他には体験できません。

 私は,ダウンタウンからウッドワードアべニューを走って,まず,アフリカ系アメリカ人歴史博物館へ行きました。
 ダウンタウンを抜けると,少しはマシな町並みになって,新しい建物が目立つようになりました。
 博物館の前の道路のコインパーキングにコインを入れて,博物館に入りました。
 この博物館は,この種の博物館としては最大規模で,公民権運動の起きた1965年に創立されました。強制的にアフリカから連れてこられて迫害を受けた歴史をたどり,今日の状況までが時系列に解説されていて,キング牧師の偉大さが大変印象的でした。博物館の中は,アフリカ系アメリカ人ばかりでしたが。
 その隣には,デトロイト科学センターがあったのですが,そこはパスして,美術館にいきました。
 ここは,1885年創立の,6万点の作品を誇る全米でも指折りの美術館でした。私の行ったのは金曜日でしたが,金曜日だけは夜10時まで開館していました。
 建物はモダンな新館と旧館に分かれていて,ものすごく広かったのですが,なんとなく活気がないというか,殺風景でした。
 最近の報道では,破産したデトロイトでは,この美術館にある作品を売りに出して予算を捻出する計画があるとか。さもありなんです。

 この町が,なんとかして活気を取り戻して,こうした貴重な文化遺産に一人でも多くの人が接することができるようになるのを祈りたいと思います。

◇◇◇
きょうは,我らが英雄・野茂英雄さんの登場曲をお送ります。「スキヤキ」(上を向いて歩こう)が聞こえますでしょうか? 1995年,野茂さんはロスアンゼルス・ドジャースで劇的なデビューをしました。彼の現役時代のマウンドでの姿を思い出すと泣けてきますね。野茂なくして,イチローなく松井なく上原なしです。彼も,偉大な先駆者です。
私は,そのころから,インターネットで中継を聞いていました。ロスアンゼルスからインターネットの日本での視聴者向けに日本語の中継放送がありました。 懐かしい日々です。

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 デトロイトは,ダウンタウンはけっこう荒れ果ててはいますが,博物館や美術館が数多くあります。場所が散らばっていて,さらに,公共交通が発達していないので,行くことが大変ですが。
 1964年の夏季オリンピックの開催を東京と争ったときには,外国の選手の派遣費用をすべて出すと言ったくらい,昔は,デトロイトはお金持ちだったのです。
 日本から直行便のあるデトロイトですが,ほとんどの人はここで国内線に乗り換えるだけで,そのまま市内観光に行った人も少ないようですから,ここではデトロイトについて書いてみたいと思います。

 デトロイト・メトロポリタン国際空港からは車以外でこの町に行くことを,私は,お勧めしませんが,というより,車以外でこの町にどうやっていくのだろう,と思います。シャトルバスもありません。一応,公共のバスがあるという話ではありますが,ダウンタウンのバス停の治安に保障がありません…。

 すでに書いたように,2002年7月に,私は,クリーブランドからエリー湖畔を西に走って,トレドという町へ着きました。トレドはエリー湖が終わる南西の角のところにあります。その町で北向きに走るインターステイツ75に乗ってデトロイトにむかいました。
 正直,このとき,行く前には,デトロイトがこれほど破滅的なところだとは知りませんでした。だから行ったわけですが…。
 トレドからは,インターステイツ75をわずか70キロメートルくらい北上すれば問題なくデトロイトのダウンタウンに到着するのですが,途中で,なぜか,大型車以外は通行禁止という表示があって直進できませんでした。迂回するために道を左に折れ,インターステイツ75の西を並走する州道24へ入ったのですが,そこもいたるところで道路工事をしていて,他の都市とは違った雰囲気が渦巻いていました。
 それでもほかに道がないので,しかたなくそのまま北に向かい,州道12に出たところを右折しました。そして,そのまま東へ進めばダウンタウンに着くはずでした。

 ダウンタウンに着く前に,ヘンリーフォード博物館へ行くことにしました。
 ところが,まず,この博物館ある場所がよくわからなかったのです。
 結局通り過ぎてしまい,フォードの会社のあったところの一角に映画館やら巨大モールがあったので,博物館なのかな,と思ってそこへ入ったのですが,違っていました。それでも,このように,荒れたデトロイトでも,郊外には,最新式のフォードの工場もあるし,新興住宅地があるということはわかりました。
 結局,そこは博物館ではなかったので,仕方なくそこを出て,いろいろと迷いながら走っていたら,いつものように,どうにか,博物館へ行く標識が見つかって,なんとか,博物館の駐車場に着くことができました。

 そこには,ヘンリーフォード博物館とグリーンフィールドビレッジという名のテーマパークがあって,一大レジャーセンターになっていました。チケット売り場が混み合っていてなかなか入れなかったのですが,どうにか,このふたつがセットになったチケットを購入することができました。
 まず,ヘンリーフォード博物館に入りました。
 ヘンリーフォード博物館は,ケネディが暗殺されたときに乗っていたリンカーンやレーガン大統領の乗ったリンカーン,公民権運動のきっかけとなったモントゴメリー・バス・ポイコット事件のバスをはじめ,多くの車や鉄道,大型機械が展示されていました。展示されていたT型フォードの座席に座ることもできました。
 アメリカの博物館らしく,非常に大きく,すべてをしっかり見れば,1日では足りないと思いました。車好きにはたまらないところでしょう。

 私は,午前中をこの博物館で過ごして,昼食をとって,午後は,グリーンフィールドビレッジに行きました。
 ここは,札幌の開拓村のようなところで,非常に面白いところでした。
 外周を蒸気機関車が走り,古き良きアメリカをテーマにした様々な建物がありました。従業員は当時の服装をしていました。
 私は,まず,蒸気機関車に乗り込みました。
 私の後から乗り込んだ女性が巨大すぎて汽車の入口に入れなくて苦労してやっと客席に座りました。また。別の車両では,車いすの人が,車いす用のリフトを使って客席に乗り込んでいました。
 このように,なんやらかやらとアメリカらしいところでもありました。
 蒸気機関車で公園内を1周,そのあとは,中をのんびりと見て回りました。ここも,時間があれば,1日ゆっくり遊べるところでした。そのあとは,同じ敷地内にあった自動車の殿堂へ行きましたが,館内はガイドがいて,親切に案内をしてくれました。
 また,私はヘンリー・フォード邸にも行きましたが,ここは,現在,残念ながら全面改修中で休館をしているそうです。

 このように,デトロイトの郊外にも,他の都会と変わらない多くの見どころがあって,一度は行く価値があります。
 特に,紹介したヘンリーフォード博物館とグリーンフィールドビレッジは,非常に素晴らしい所ですが,先ほど書いたように,レンタカーを借りないと行くことが難しいのが難点です。
 アメリカへ行ったときに,デトロイトでの乗り換え時間がとても長いときや,もし,デトロイト近郊に行く機会があれば,ぜひ,立ち寄ってみてください。

◇◇◇
きょうは,ボストン・レッドソックスで大活躍した田澤純一投手の登場曲をお送ります。
  ・・・・・・
 泣いても笑っても人生は一度きり
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人生の応援歌ですね。何の実績もない男がひとり海を渡って生きるというのは,ものすごいことです。田澤選手の想いが伝わります。田澤選手,本当に本当におめでとうございます。

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