しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ: アメリカ合衆国体験記

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 私がボストンに行ったのは2013年夏のことですが,本当に楽しい旅でした。ただし,もう2,3年遅かったら,もっとアメリカのことを知っていて,さらにいろいろなことができただろうと思うですが,それは仕方がないことです。それよりも,この旅でずいぶん多くのアメリカの歴史や文化に触れることができたのは,新鮮だからこそだったのかもしれません。
 今日はそのときの旅で特に印象に残っているボストンレッドソックスの本拠地フェンウェイパークの話題です。

 ボストンでMLBを見るのは大変で,チケットを入手するのは困難でした。そこで,いち早く日本でチケットを購入していきましたが,失敗だったのは,1ゲームのチケットしか買わなかったことです。実は,私が手に入れたゲームは雨で中止となってしまったのです。この失敗に懲りて,その後は屋根のないところでゲームを見るときには,予備のチケットも購入するようになりました。
 しかし,私は幸運でした。
 実は,その前日,チケットを持っていないかったのにも関わらず,様子見を兼ねて,フェンウェイパークに行ってみたのです。そして,ボールパーク近くに,日本の金券ショップのようなところを見つけて,ダメもとでこの日のチケットがないか聞いてみたら,当日キャンセルになったチケットを合法的に結構安価に購入することができて,とてもいい席でゲームを見ることが実現したのです。
 そんな予定になかった出来事がなかったら,今にしてものすごく後悔していたことでしょう。

 ちょうどこのころ,ボストンレッドソックスでは上原浩二投手と田澤純一投手という抑えの2枚看板が売り出したころでした。私が幸運にも手に入れたゲームは負け試合でした。そこで,抑えの2枚看板を見損ねてしまったのです。しかも,投球練習場へ行けばその姿が見れらたものの,そんなことも知らず,私は,せっかくのチャンスだったのに,彼らの姿を見ることができなかったのです。これだけは今でも後悔しています。そのときは,翌日のゲームで見ればいいや,と思っていたのですが,それがかないませんでした。
 とはいえ,その話を上原浩二投手にLINEしたら本人から返事が来たし,そんな失敗があったからこそ,その教訓を生かして,その後,ダルビッシュ有投手をはじめとして,多くの日本人メジャーリーガーをアメリカで見ることができたんだから,塞翁が馬だったと,言い聞かせています。
 旅というのは罪作りなものです。

 それ以前もその後も含めて,MLBのボールパークはずいぶんと行きましたが,そのほとんどは同じような作りであるのに対して,ボストンのフェンウェイパークとシカゴとシカゴのリグレーフィールドはまさに別格でした。ここまで古いと何物にも代えがたいので,新しいボールパークに立て直すこともなく,今でも,改装を繰り返しながら使われています。
 私は,ミルウォーキーで,現在のものではなく古いほうのボールパークでゲームを見たことがあるのですが,そこは単に古いだけのところでした。今では,新しいボールパークができて,壊されました。ボストンとシカゴはそうではなく,古さというより,伝統の重みというか,まさにレジエンドという言葉がぴったりのところだったのです。こういう感動は,行ってみなければ味わえません。


◇◇◇
NHK「あさイチ」に石田組登場

紅白歌合戦に出場して
石川さゆりさんのバックで演奏したいそうです。
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 私のこれまでのアメリカ旅行の中で強く残っている思い出の地,ボストンの思い出を断片的に書いています。
 今日は,ボストンで宿泊した小さなホテルのお話です。

 「2度目のがっかり,3度目の壁」というのがあって,はじめて旅をした場所の印象があまりによかったとき,またおなじ思いをしようと2度目に行ってかっがりということは少なくありません。また,2度目もまたすばらしい思い出ができたとき,また同じ思いをと3度目に行こうと思っても,それがなかなか実現しない,つまり,満ち足りてしまっている,ということもあります。
 私にとってボストンはまさにそうした都会でした。
 私の1度目のボストンは40年以上も前のことでした。
 はじめてのアメリカ東海岸,それも,ひとり旅でした。
 それから30年以上経って,再びボストンに行ったときは,すでにはじめて行ったときのことは風化してしまっていました。その思い出をたどろうとしても,まったくイメージが異なりましたが,何も知らなかった1度目にはできなかったことの多くが実現できて,それはそれはすばらしい旅でした。
 とはいえ,3度目,となると,このコロナ禍にかかわらず,なかなか実現するものではありません。それは2度目の旅で満ち足りてしまったこと,そして,それ以外にも行きたいところがたくさんできてしまったことが理由です。

 2度目の旅で,私は,まず,ボストンでどこに宿泊しようか迷いました。大都会では治安がよいことも大切な要素です。特にこのときは,MLBのナイトゲームを見ようと思っていただけに,深夜の町あるきもしなければなりません。
 しかし,アメリカの大都会のホテルは便利で治安の心配のない場所はどこもかなり高価なのです。
 そこで見つけたのが小ぎれいな小さなホテルでした。
 アメリカにしては部屋が狭く,駐車場金も高かったのですが,思った以上に快適なところでした。
 フロント係は若い女性でした。
 チェックインのときに,昔ボストンに来たことがあるという話をしました。そして,チェックアウトのときにもその女性がいたので,もうボストンにくることはないだろうから,記念に写真を撮りましょうと言って一緒に写した写真が,今もあります。
 その言葉を聞いた彼女の悲しそうな顔が今も忘れられません。ボストンはいい町です。


◇◇◇
Decoy fetched the first pitch tonight for Shohei Ohtani!
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 ボストン郊外に「タングルウッド」(Tanglewood)という場所があります。
 タングルウッドはマサチューセッツ州バークシャー郡レノックス(Lenox)とストックブリッジ(Stockbridge)およびコネチカット州にまたがる南北158キロメートにわたる丘陵地帯ですが,そこで毎年夏にタングルウッド音楽祭とタングルウッド・ジャズフェスティバルが開かれ,1937年より,ボストン交響楽団の夏季の活動拠点となっています。
 この地もまた,私が行っておいて,本当によかったと思うところのひとつです。
 夢のようなところでした。
 とはいえ,私は,小澤征爾という指揮者を知らなければ,タングルウッドに行くこともなかったことでしょう。

  ・・・・・・
 1850年,作家のナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne)はウィリアム・アスピンウォール・タッパンという人物からこの土地のコテージを借り,1853年にギリシア神話から「テセウスとミノタウロス」(Theseus and the Minotaur),「アンタイオスとピグミー」(Antaeus and the Pygmies),「竜の牙」(Dragon's Teeth),「キルケーの宮殿」(Circe's Palace),「ペルセポネ,セレス,プルートーとザクロの種」(Proserpina, Ceres, Pluto, and the Pomegranate Seed),「イアーソーンと金の羊毛」(Jason and the Golden Fleece)の6話を少年少女向けにまとめた「タングルウッド物語」(Tanglewood Tales)を書きました。タッパンはそれを記念してコテージを「タングルウッド」と名づけ,周辺のタッパン家が所有する土地もタングルウッドとよばれるようになりました。タングルウッドは同名の物語に由来する地名です。
 1934年,ニューヨーク・フィルハーモニックのヘンリー・ヘドリー(Henry Kimball Hadley)はバークシャーでの音楽祭開催を企図し,ニューヨークの資産家であったガートルード・ロビンソン・スミス(Gertrude Robinson Smith)に相談を持ちかけました。会談ののち,スミス女史は音楽祭の企画に熱中し,1935年にストックブリッジのハンナ・ホース・ファームにて1回限りのコンサートが開催され、成功を収めました。
 1936年,スミス女史はこのコンサートの企画にボストン交響楽団をスカウトし,最初の3つのコンサートがテントの下で開かれ,1万5千人の聴衆を集めました。それを聞いたメアリー・アスピンウォール・タッパンがタングルウッドの土地210エーカーをボストン交響楽団に寄贈しました。
 1937年,ボストン交響楽団はタングルウッドでオール・ベートーヴェン・プログラムを演奏,翌1938年には演奏会場として5,100席の扇型のクーセヴィツキー・ミュージック・シェッドが建設されました。
 ボストン交響楽団は第2次世界大戦中の1942年から1945年までを除いて,毎夏クーセヴィツキー・ミュージック・シェッドで演奏会を開きました。
 1959年にクーセヴィツキー・ミュージック・シェッドは改装され,1986年には隣接するハイウッドの土地も買収し,1994年には新たに拡張された土地に小澤征爾ホールが建設されました。 
  ・・・・・・

 私は,そんな歴史も何も知らず,日本からこの音楽祭に憧れやってきて,コンサートをこころゆくまで楽しむことができたのが,いまでも強く残る思い出です。
 アメリカのこうしたすごい企画やら施設を調べて行くと,そのほとんどはある個人の夢から実現したものであって,国が主導でやったものや政治家が名声を得るためにはじめたことでないのを知って,改めて驚きます。
 こうした民衆のエネルギーこそが,この国の歴史だということをもっと強く認識する必要が,何事もあなた任せの日本人には必要だと強く感じます。


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 私は,これまで2度ボストンに行きました。1度目は1981年の夏でこのときは,人生初のアメリカひとり旅でした。そして,2度目が2013年の夏で,もう11年も前のことになります。これまでに国内外さまざまなところに行きましたが,この2度目の旅が一番印象に残るものでした。
 もう,こんな旅はできないなあ,と思うと,寂しくもありますが,また,懐かしくもなります。
 そこで,このときのことを振り返ってみたいと思います。

 これまで多くのホテルに泊まりましたが,その中で,なぜか私が今でも忘れがたいホテルがいくつかあります。そのひとつが,ボストン郊外プリマスで泊まったホテルです。
 私はこの日,夕刻,ホテルを探して走り回っていました。B&B があって,よほどそこにしようかと思ったのですが,そのころは B&B なるモノに泊まったことがなかったので躊躇しました。B&B はその後,アラスカで利用して,デラックスな朝食に驚きました。B&B というところは,朝食でいろんな宿泊客と一緒になるので,言葉ができない人にはまったく楽しくありません。
 これを書いていて思い出したのが,アイスランドで泊まった民宿で,そこもまたすばらしいところでした。そこは日本の民宿のような温かいところだったのですが,もう,再び行くこともありますまい。

 さて,この時のプリマスのホテルで何がすばらしかったかといえば,ホテルに庭から眺めたケープ・コッド湾の夕景です。時間を忘れて,海に沈む夕日を眺めることができるようなホテルは,そうはありません。それはたまたま天候がすばらしかったこともあるのでしょうが,そんな経験はなかなかできるものではなく,私もこのときだけです。
 実際,旅に出ると,そのときを生きるのに精一杯なのですが,後で思い返すと,旅では一瞬一瞬がもっとも大切なものなのです。だから,すこしだけ贅沢をしても,そうした機会はのがしてはいけないのです。時間は待っていてくれまでん。
 そのうちいつかできる,とか,いつか行ける,ということは,2020年に起こったコロナ禍でもわかるように,それを逃ししてしまうと,かなえられなくなることも決して少なくないのです。


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 アメリカ野球殿堂博物館(National Baseball Hall of Fame and Museum)がニューヨーク州郊外のクーパーズタウン(Cooperstown)という町にあります。MLBなどで顕著な活躍をした選手や監督・コーチ・審判員,また野球の発展に大きく寄与した人物に対してその功績を称える野球の殿堂で,アメリカを含む世界中の野球の歴史研究や,歴史的・記録的意味を持つ資料の収集・展示を,「歴史を伝え,偉業を称え,世代を繋ぐ」(Preserving History, Honoring Excellence, Connecting Generations)というスローガンのもとに行っています。
 かつてMLBに夢中だった私は,ここに行きたくて仕方がありませんでした。今となっては,この場所もまた本当に行っておいてよかったと思うのですが,よほどのMLB好きか旅慣れていないと,ここに行くのはかなり大変です。
 場所はニューヨークのダウンタウンからははるかに遠く,しかも,アクセスするインターステイツがありません。私は,地方の一般道を延々と走って往復しました。

 そういった不便な場所にあるにもかかわらず,クーパーズタウンもまた,とても美しいところでした。ボストン郊外のタングルウッド,そう,今思い出したのがオーストリアのハルシュタットやニュージーラドのマウントクックなども同じですが,こうした都会から離れた場所は,どこも本当にきれいです。行ったことはないのですが,イギリスの田舎も同様かな,と思います。
 こうした緑美しい景色は日本にはほとんどありません。しいて言えば信州や北海道にその雰囲気を見ることはありますが,道路は狭く,土地もせまく,遠く及びません。
 私が今思い出すのは,野球殿堂ではなく,そこへ往復したときに走った道路から見た風景なのです。
 インターステイツは便利ですが,インターステイツを走ってアメリカ大陸を横断したところで,こうした風景を見ることはできません。実際に走っていた時には,時間もかかり,インターステイツがあればいいのに,と思ったものですが,今考えると,ここはとてもすばらしいところでした。
 こんな町に生まれ育った人は,いったいどういう気持ちで日々生きているのかな,と思うことでした。


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 ニューヨークに憧れた人のほとんどは,「自由の女神」を見たいと思うでしょう。「自由の女神」の姿なら,ニューヨークに行けば,特に意識しなくても,簡単に見ることができます。
 「自由の女神」は,また,リバティ島というマンハッタンからさほど遠くない島にあって,簡単に上陸することができます。というか,できました。
 私がはじめてニューヨークに行った今から43年ほど前は,市内観光バスのコースに組み込まれていて,対岸のバッテリーパークに観光バスが停まって,さあ,いってらっしゃい! ということで,思い思いフェリーに乗って島に上陸,「自由の女神」の中まで入ることができました。
 その30年後に私が行ったときは,フェリーに乗る前にまるで飛行機に乗るようなセキュリティチェックがあり,また,フェリーもものすごく混雑していて,上陸しても「自由の女神」の内部に入るにはさらに事前の予約が必要になっていました。
 43年前のアメリカの大都会のダウンタウンはどこも荒み治安も悪かったのですが,いまほどテロを心配することもない自由な国でした。戻れるものならその時代のアメリカを旅したいものです。

 「自由の女神」は正式名称を「世界を照らす自由」(Liberty Enlightening the World)といいます。アメリカ合衆国の独立100周年を記念して,独立運動を支援したフランス人の募金によって贈られたもので,1886年に完成しました。
 銅製で,像の頭の部分までの高さは33.86メートル(111.1フィート),台座からトーチまでの高さは46.05メートル(151.1フィート),台座の高さは47メートル(153フィート),台座部分も含めると93メートル(305.1フィート),総重量は225トンです。 右手には純金で形作られた炎を擁するトーチを空高く掲げ,左手にはアメリカ合衆国が独立した「1776年7月4日」とローマ数字で刻印された銘板を持っています。
 足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり,全ての弾圧,抑圧からの解放と,人類は皆自由で平等であることを象徴しています。また,女神がかぶっている冠には7つの大陸と7つの海に自由が広がるという意味の7つの突起があります。
 内部は,エレベータが設置されていて,エレベータの10階にあたる最上階から像の中のらせん階段を上って王冠部分の展望台に登ることができます。私は43年前に登ったことがあります。台座部分の内部はアメリカの移民の歴史について展示する博物館になっていて,エマ・ラザラス(Emma Lazarus)が書いた「新しい巨像」(The New Colossus)という題の14行詩を浮き彫りにしたブロンズ製銘板が設置されています。もともとは灯台として作られたので,ニューヨーク港を向いています。

 「新しい巨像」というのは次のものです。最後の8行を載せます。
  ・・・・・・
"Give me your tired,
your poor,
Your huddled masses yearning to breathe free,
The wretched refuse of your teeming shore.
Send these,
the homeless,
tempest-tossed to me,
I lift my lamp beside the golden door!”
  ・・
疲れ果て貧しさにあえぎ自由の息吹を求める群衆を私に与えたまえ。
人生の高波に揉まれ拒まれ続ける哀れな人々を。
戻る祖国なく動乱に弄ばれた人々を私のもとに送りたまえ。
私は希望の灯を掲げて照らそう自由の国はここなのだと。
  ・・・・・・

 また,台座の記念盤には以下の文言が刻まれています。
  ・・・・・・
 AT THIS SITE ON AUGUST 5TH, 1884, THE CORNERSTONE OF THE PEDESTAL OF THE STATUE OF "LIBERTY ENLIGHTENING THE WORLD" WAS LAID WITH CEREMONY BY WILLIAM A. BRODIE, GRAND MASTER OF MASONS IN THE STATE OF NEW YORK.
 GRAND LODGE MEMBERS, REPRESENTATIVES OF THE UNITED STATES AND FRENCH GOVERNMENTS, ARMY AND NAVY OFFICERS, MEMBERS OF FOREIGN LEGATIONS, AND DISTINGUISHED CITIZENS WERE PRESENT.
 THIS PLAQUE IS DEDICATED BY THE MASONS OF NEW YORK IN COMMEMORATION OF THE 100TH ANNIVERSARY OF THAT HISTORIC EVENT.
  ・・
 1884年8月5日,「世界を照らす自由の女神」の像の台座の礎石はニューヨーク州メイソン団のグランド・マスター,ウィリアム・A・ブロディーによる式典とともに設置された。
 グランド・ロッジの構成員ら,合衆国およびフランスの政府の代表ら,陸軍および海軍の将校ら,諸外国の使節団の構成員ら,ならびに名高い市民らが参列した。
 この銘盤はかの歴史的事件の第100周年を記念してニューヨークのメイソン団により捧げられる。
  ・・・・・・

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 はじめてMLBを見たのは,今から44年ほど前,生まれてはじめてアメリカに行ったときでした。ロサンゼルス・ドジャースのホームゲームで,対戦相手はシンシナチ・レッズ。知っていたプレイヤーはピート・ローズだけでした。このときの印象はものすごいもので,アメリカは本当にすごい国だと思いました。
 当時のドジャースタジアムにはまったく広告もなく,広い駐車場はすべて無料でした。ピーナッツ売りが遠くの客にピーナッツの袋をコントロールよく投げたり,セブンスイニングストレッチ,そして,子気味よいオルガンの応援メロディーなど,すべてがあか抜けていました。今でもその頃のMLBが私にはとても懐かしいものです。今はボールパークはどこも広告だらけで派手だし,駐車場はすごく高いし,その頃の素朴さはありません。また,当時のボールパークは,現在も残っているシカゴ・カブスのリグレーフィールドやボストン・レッドソックスのフェンウェイパークのような古い,そして,ユニークなところも多く,その多くはすさんだアメリカを思い起こすようなすごみがあって,行くのが楽しみでした。

 その次に見たのが,30年ほど前,ニューヨークのヤンキースタジアムでした。今のヤンキースタジアムとは違って,古く,周りの治安も悪く,とても怪しげでした。私が見た年はデレック・ジーターがルーキーだった年で,周りの観客がみな「ジーター,ジーター」と応援していて,そのときはじめてその選手をしったものです。
 こうして書いているだけでも,その時代に戻りたいものです。
 それから,私は,アメリカ各地でずいぶん多くのゲームを見たのですが,今は,どこも同じようなボールパークになってしまい,また,チケットも高く,かつ,駐車場も高く,あまり魅力を感じなくなりました。
 その後,何十年もして,私は,再びニューヨークでMLBを見ました。チケットをダフ屋から買ったこともありますが,何の問題もありませんでした。

 今は,MLBよりも私はマイナーリーグの方にずっと魅力を感じます。アメリカはやはり少しすさんだ感じの方がずっとアメリカらしいです。そして,田舎のぼろいボールパークでのんびりと時間を忘れて楽しみたいものです。


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 はじめてニューヨークにひとり旅をしたのは,今から43年ほど前,2度目のアメリカ旅行のときでした。
 行きの飛行機でとなりに座ったは,東京で幼稚園の先生をしているという,私と同じくらいの歳の女性でした。彼女は,ニューヨークにいる友人に会いに行くということでしたが,ミュージカルが好きで,機内では,私にずっとミュージカルのレクチャーをしてくれました。そして,ニューヨークでミュージカルを見ませんか,と誘われました。
 私はそれまでまったくミュージカルなど知らず,興味もなかったのですが,その誘いに応じました。
 私はニューヨーク到着後は,ワシントンDC,ボストンとまわり,ニューヨークに戻ってきました。
 そして,約束した場所で落ち合って,一緒に夕食を食べ,そして,ミュージカルを見ました。ミュージカルは「コーラスライン」でした。

 今から思えば,旅先で出会って,一緒に食事をしてミュージカルを見たのに,名前も知らず,連絡先もきかず,それっきり,というのは,私の精神年齢が若すぎたからなのでしょうか。当時の私は,この女性はミュージカルオタクの好かない女性だ,程度でしか思わなかったのです。
 そのときの女性のことは忘れましたが,日本に帰国して,私は,すっかりミュージカルのとりこになりました。しかし,日本で上演されるミュージカルは本場ブロードウェイのものに比べて,物足りないものでした。
 そして,それから35年ほどして,私はブロードウェイで再びミュージカルを見ました。見たのは「シカゴ」でした。
 当然ながら,そのときは,行きの機内で女性に誘われることもなく,ひとり,ミュージカルを見ました。そして,忘れていた40年前のことを思い出しました。あのときの彼女はいったい今ごろ何をしているのかな,と思ったことでした。


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 ニューヨークで有名なのは,この夜景です。当時の私は,この景色に最も憧れていました。
 この夜景を見るには,ブルックリンブリッジを渡り,ハドソン川を越え,ブルックリンに行かななくてはなりません。ということで,はじめてニューヨークに行ったときは,ここもまた,私には縁が遠い場所でした。何せ,夜のニューヨーク。ブルックリンもやはり治安があまりよくなかったので,この対岸の夜景は有名であったのですが,行く勇気がありませんでした。

 そんな場所でしたが,その後,私は,この夜景も見たし,ブルックリンブリッジも歩いて渡りました。そんなわけで,今では,ニューヨークでやりたかったことは,このように,そのすべてをやり遂げることができたわけです。
 ニューヨークに限らず,どの場所も,知らないうちは,行ってみたいと思うのものです。だから,勇気を出して,徹底的に行ってみることのほうがよいのです。でないと,いつまでも,そうした願望を抱いたまま歳をとることになります。そしてまた,齢をとった今になってしみじみ思うのは,若いうちにこうしたことはやっておかないと,次第にやる気力が萎えてくるのです。そして,後悔するのです。

 今は,ブルックリンもまた,再開発が進み,高級住宅街となっているようなので,治安も悪くないようです。しかし,ブルックリン全体がそうだとも言い切れないという話を聞いたことがあります。
 この夜景を見たころ,私はブルックリンで道に迷ったことがあるのですが,私が道に迷ったあたりはスペイン語の看板ばかりで,英語も通じず,また,どこを歩いているのかさえ不明になって,そのときは生きたここちがしませんでした。今とは違って,スマホが普及する前のことでした。
 それもまた,今では懐かしい思い出です。


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 コロナ禍以前,あれだけ身近に感じていたアメリカでしたが,今は,精神的には宇宙の果てより遠くなってしまいました。
 物価も非常に高くなってしまい,また,行きたいという気持ちも萎えてしまったので,当分アメリカに行けそうにありません。というか,行く気が起きません。
 そこで,自分を元気づけるために,これまで出かけたアメリカの思い出を書いていきたいと思います。
  
 吉田ルイ子さんの写真集「ハーレム」。ビリージョエルの「ニューヨークの想い」。八神純子さんの「パープルタウン」。これが私のアメリカの原点です。というか,とりわけ,ニューヨークへの憧れでした。
 今とは違って,私が想っていたアメリカという国は,暗くすさんだもの。それは,ニューヨークの薄暗い路地裏でどこからともなく聞こえてくる不気味な靴の音。そんな想像が,ビリージョエルの「ニューヨークの想い」と同化して,憧れに転じていってのです。
 私がはじめてアメリカに行ったのは23歳のときですが,それはサンフランシスコとロサンゼルスへのツアー旅行でした。それが生まれてはじめての海外旅行でした。
 そのときに思ったのは,地球儀や地図帳で見ると,あまりにちっぽけな日本。将来,どんなにお金もちになろうとも,偉くなろうとも,高級車でぶっ飛ばそうと,こんな狭いところでしかチマチマと生きられないというなら,なさけないだけだということでした。しかし,そのころの私は,英語も満足にできなかったし,車も持っていませんでした。お金もちでなく,偉くもなく,高級な車に乗ったことがないのは,今も同じですが…。
 そこで,当時考えたのが,ニューヨークへのひとり旅だったのです。
 23歳のころに行った旅行については,今になってみれば,記憶にあることもないこともあるのですが,きわめて幼稚なものでした。それでも,5番街のカフェでひとり朝食を食べながら,どんなもんだい! と勢に浸っていたのを今も思い出します。

 私がニューヨークで最も行きたかったのはハーレムでした。しかし,治安の悪いというハーレムにひとり行く自信もはじめはなく,2度目に行ったとき,現地ツアーに参加して,なんとかハーレムに到達しました。そして,3度目に行ったとき,そのころは,吉田ルイ子さんが暮らしたころの物騒なハーレムではなく,治安も悪くありませんでしたが,ついに,ハーレムでゴスペルを聴くまでになりました。
 若き日に抱いたアメリカへの想いがすべてかなったのは,それから30年以上経ってから,ということだったのですが,ともかく実現しました。今は,そのころの自分に戻って,また行ってみたいものだなあ,とふと思ったりします。


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 NHKBS1のMLB中継を見ながら,放送している都市の思い出を書いています。今回はミネソタ州ミネアポリス(Minneapolis)です。
 私がミネアポリスに行ったのは2012年のことでした。
 そのころの私は,アメリカ50州制覇をしたいと思いはじめたころで,その手はじめにとノースダコタ州へ行きました。まず,サウスダコタ州に着いて,ノースダコタ州をドライブして,その後,ノースダコタ州の州都であるビスマルクから空路,ミネアポリスに行きました。そして,ミネアポリスを観光して,ミネアポリスから帰国便に乗りました。
  ・・
 私は,すでに書いたように,2004年にモンタナ州ビュート郊外で交通事故にあって左足を骨折してアメリカの病院に入院しました。1週間後,日本の病院に転院するために,看護師同伴で帰国するときに寄ったのがミネアポリスの空港でした。そのため,ミネアポリスは,私には甘酸っぱいところでしたが,今度は自力でミネアポリスの空港にやってきて,懐かしさとともに当時のことをよき思い出として振り返ったわけです。

 さて,ミネアポリスは,その西側に同じくらいのセントポールという都会があって,このふたつの都市をふたごの意味でツインシティーズといいます。そこで,ミネアポリスにホームをもつMLBのチームがミネソタ・ツインズです。
 スタジアムはターゲットフィールド(Target Field)です。
 2009年までは,ヒューバート・H・ハンフリー・メトロドーム(Hubert H. Humphrey Metrodome)をホームとして使用していました。このドームを手本にしてつくられたのが東京ドームです。屋根の開かないドーム,かつ,人工芝という不人気スタジアムでしたが,老朽化,屋根が墜落するという事故まで起きて,新スタジアムを建設することになりました。
 ターゲットフィールドは,天然芝の屋外球場で,これによって,人工芝を使用しているのは,私がすでに酷評したトロント・ブルージェイズのロジャーズ・センターとタンパベイ・レイズのトロピカーナ・フィールドのみとなっています。

  ターゲットフィールドがあるのは,ミネアポリスのダウンタウンから気軽に歩いていくことができる場所にあって,私はびっくりしました。銀座からJRの有楽町駅にいくような感じで,これほどアクセスのよいスタジアムを私は知りません。
 スタジアムの外壁は,ミネソタ州の各地で見ることができる少し黄色掛かった深みのある石灰岩「カスタストーン」(Kasota limestone)が使用されています。また,屋根はミネソタ州の大自然に浮かぶ雲をイメージしています。
  ・・
 ミネアポリスとセントポールは公共交通機関で便利に移動できるし,治安も悪くないし,ミネアポリスの空港はミネアポリスのダウンタウンまで電車で簡単にアクセスできます。また,空港の近くにはモールオブアメリカという商業施設もあり,さらに,東京からミネアポリスには直行便もあるので,日本からとても簡単に行くことができます。そこで,日本から行く学生さんのホームステイ先ともなっているのですが,問題は,冬がとても寒いということだそうです。私は夏にしか行ったことがないので実感がありません。
 また,ミネアポリスにはミシシッピ川で唯一の自然の滝 セント アンソニー滝(Saint Anthony Falls)があり,1800年代後半から1900年代後半までこの滝の水力を動力とした大きなミル工場がいくつもあったので,「ミルシティ」(Mill City)ともよばれます。「ミルディストリクト」は,現在は歴史地区となっていて,製粉工場や倉庫の建物がその姿を保存したままリノベーションされ,ミネアポリスきっての観光スポットとして多くの観光客が足を運ぶ地区となっています。

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 NHKBS1のMLB中継を見ながら,放送している都市の思い出を書いていますが,今回はテキサス州ヒューストンです。
 私がヒューストンに行ったのは2003年だから,もう20年近く昔のことになります。早いものです。ヒューストンといえばアポロ計画で宇宙船と交信を行った基地があることで,我々世代はなじみがある地名です。当然,ここにはNASAがあって,私も見学しました。また,テキサスはステーキのおいしい町。ということで,今最も記憶に残っているのは,ここで巨大なステーキを食べたことです。
 あるレストランの前で,私はこの店に入ろうかどうか考えていました。そこに,今,その店から出てきた男の人が,ここはおいしいぞ,今から紹介してやる,と言って,再び店に入って,私を紹介したのです。こうなれば入るしかないのですが。
 確かに巨大なステーキは美味でした。きっと今ならすごく高いと思うのでしょうが,そのころは日本よりアメリカの方がずっと物価が安く,そんなことは思いませんでした。

 さて,テキサスには,ヒューストン・アストロズとテキサス・レンジャーズというふたつのチームがあります。この旅で,私はそのふたつのチームのスタジアムに足を運び,ともに見ることができました。その中で,今日はヒューストン・アストロズのお話です。
  ・・
 テキサスは暑いことと虫が多いことで,屋外でのゲームには向いていません。私が行ったころは,テキサス・レンジャーズは屋外のスタジアムでゲームをしていましたが,さすがに不評で,現在は屋根つきのスタジアムに移転したようです。
 ヒューストン・アストロズのほうは,当初から屋根つきのスタジアムでした。
 現在は2代目のミニッツメイドパーク(Minute Maid Park)ですが,はじめは,1965年に建設された世界初の屋根つき「アストロドーム」をホームとしていました。
 子供のころ,アメリカでは野球場にも屋根があると聞いて,アメリカはすごい,と思った反面,フライが天井にぶつかるのではないのかな,と心配したことがあります。アストロドームは,当時ヒューストン・アストロズのオーナーだったロイ・ホフハインツ(Roy Hofheinz)は,古代の地中海世界にあった7つの驚異的建造物を指す「世界7不思議」を意識して「世界8番目の不思議」と形容するほど画期的なものでしたが,実際は,球場所有者のハリス郡に支払う高額の使用料が「世界9番目の不思議」と揶揄されたそうです。
 屋根の高さは,ベーブ・ルースが打ったとされる史上もっとも高いフライより高い208フィート,約63.4メートルになったそうです。しかし,天然芝が育たず,人工芝を世界ではじめて使用しました。さすがに老朽化には勝てず,また,天然芝屋外型球場への回帰が進んでいたことで,1999年のシーズンを最後として新しく作られた開閉式屋根を備え天然芝のミニッツメイドパークへ移転しました。

 ミニッツメイドパークは比較的小さくて,しかも屋根が閉まっていると反響が大きくて,その盛り上がりがすごいものでした。
 私が行ったのは,移転後3年目のことで,そのころは,タルの丘(Tal's Hill)といって,センターフェンス手前に傾斜30度の坂がありました。名前の由来は球団社長を務めたタル・スミスからきていました。この丘にはフラッグ・ポールが立っていたのですが,これではまるで草野球。インフィールドにこんなものがあっては危なくて,選手には不評でした。カルロス・ベルトラン(Carlos Ivan Beltrán)がFAになった際に「これを取り除かないとアストロズとは契約しない」と発言したといいます。ついに,2016年のシーズン後に撤去されました。
 また,ボールパークが駅の跡地であることにちなんで,外野左中間上方27.4メートルのところに蒸気機関車があって,ヒューストン・アストロズの選手がホームランを打ったときには汽笛を鳴らしながら約243.8メートルの線路を走ります。私も走るのを見ました。走り終わったらしずしずともとの位置にバックします。さらに,左中間に突き出たバルコニー風の立ち見エリアにはガソリンポンプがあって,ヒューストン・アストロズの選手が開場以来このスタジアムで放ったホームランの合計が表示されています。
 私が見たゲームは終了後も観客が席を立たないのでどうしてかと聞くと花火のショーがあるということでした。花火は日本とは違ってグランドに設置されたコンピュータ制御の無人の打ち上げ機から次々と発射されました。これにも驚きましたが,私が巨大な室内で花火を見たのは,このときだけでした。

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Harvest Moon 2022.

薄い雲が趣を添えました。
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 いつものように,見るでもなく見ないでもなく,テレビで流れるMLB中継。驚くのは,ロサンゼルス・エンゼルスが,前日までフロリダ州セントピーターズバーグでゲームをしていたのに,その翌日はカナダのトロントでゲームをしているということです。MLBの移動はまさに熾烈を極めます。
 フロリダ州セントピーターズバーグとカナダのトロントは距離にして約2,100キロメートル,車で移動するとアメリカを縦断して20時間,飛行機だと2時間44分で,この距離は,札幌市と鹿児島市に相当します。前日のゲームが延長戦だったらどうなっていたことでしょう。
 ということで,前回書いたように,現在,MLBでカナダにある唯一のチーム,トロント・ブルージェイズのズのホームであるロジャーズセンター(Rogers Centre)は,オークランドアラメダカウンティコロシアム,トロピカーナフィールドの次に位置する,メジャーリーグファンの選ぶワースト3のスタジアムだといわれています。
 しかし,テレビ画面を見る限り,かなり豪華なスタジアムであり,観客の入りも悪くなく,また,雰囲気もとてもよいところです。

 私は,1997年にここに行ったことがあります。当時はスカイドーム(Sky Dome)といいました。
 ロジャーズセンターは,世界初の可動式屋根付き多目的スタジアムで,当初は市民からの公募でスカイドームと命名されたのですが,カナダの大手通信企業ロジャーズコミュニケーションズによる買収に伴って2005年からロジャーズセンターに名称が変更されました。
 ロジャーズセンターの特徴は,ホテルが併設されていることで,ホテルの部屋からゲームを観戦することができます。この日のゲームも,部屋から観戦している日本人が写っていました。
 また,隣には高さが553.33メートル(1815.39フィート)の CNタワー(Canadian National Tower)があります。CNタワーは通信と観光用の塔で,開業から2007年までの32年間,世界で最も高い塔でした。
 今考えると夢のような贅沢な旅ですが,私がトロントに行ったときは,まったくMLBのことなどわかっておらず,単に,私と一緒ならこころ強いと,プリンスエドワード島とナイアガラの滝とニューヨークの旅に行こうと誘われて,のこのことついて行っただけのことでした。そして,ナイアガラの滝のツアーの拠点がトロントでした。トロントで1泊したのですが,MLBのゲームを見ることができると聞いて観戦に出かけたわけです。しかし,途中で飽きてしまい,スタジアムを出てCNタワーに登ったのですが,その展望台からスタジアムを一望できたことが最大の思い出です。
 トロントは映画でニューヨークのシーンを撮るときにその代わりにロケ地となる都会であり,ともても落ち着いたところであり,魅力に富んでいて,印象もよいのですが,私は,このときに行ったことですっかり満足していて,再び行ってみたいと思ったことがありませんでした。なぜだろう?

 さて,話をロジャーズセンターに戻します。どうしてロジャーズセンターがワースト3なのでしょうか。その理由は
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 MLBで3番目に大きいボールパークが特長だが,これが見事なまでにアダとなって大き過ぎる!, やたらと広い人工芝が不安な気持ちにさせる!
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 要するに「醜い大きなコンクリートの円盤にニセの芝が植えられている」ということだそうです。
 これが私の調べた情報ですが,まず,私には「3番目に大きい」というのがよくわかりません。1番目と2番目がどこなのかもわかりませんでしたし,大きさというのも,インフィールドのことではないく,それよりも,建物全体がバカに大きいこととファールグランドが広すぎることだと思います。その理由は,外野後方にあるホテルが仇になっているのです。すごい圧迫感です。
 今風のボールパークは,外野後方が広く空いていて,そこから外の美しい街並みを見ることができることと,ファールグランドがぎりぎりまで狭いことが特徴で,このふたつを完全に逸しているのです。このふたつの欠点は,オークランドアラメダカウンティコロシアムにも当てはまることです。また,もうひとつの不人気の原因である人工芝,これは,トロピカーナフィールドにもいえることです。ロジャーズセンターは,天然芝に張り替えるという話を聞いたことがあったので期待したのですが,どうやらそれは誤報で,今もまだ人工芝のままのようです。
 これらの負の要素は,巨人や中日をはじめとする日本の多くの球団の本拠地が当てはまるわけで,それが,私がまったく日本のプロ野球に興味がないという原因のひとつとなっています。

 ただし,やる気の感じられないトロピカーナフィールドとは違い,2022年,トロント・ブルージェイズは,2億3000万ドル(約311億円)を投じてロジャーズセンターを大改築する計画を発表しました。人工芝を天然芝に変える予定はないものの,両翼のブルペンを高くし,外野の壁の幅と高さを調整し,外野席は一部増築するとともにバーやテラスを追加,この改築を機に,クラブハウスやウェイトルーム,トレーニングエリアといった選手用施設の改修と拡張も行うといいます。
 しかし,冬が寒く,天然芝に変えても管理するのがたいへんだといったハンディもあり,ホテルを壊すわけにもいかないから,この大改装で欠点が克服されるわけでないのですが,これが精一杯のところなのでしょう。
 なお,この日のゲームでは,ロサンゼルス・エンジェルスの大谷翔平選手とトロント・ブルージェイズの菊池雄星投手の対決があって,現地のアナウンサーが「日本では大騒ぎでしょうね」という放送をしていました。

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 2019年2月に,次のようなニュースがありました。
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 アメリカの公式サイト「MLB.com」が「名前は確実に知っているはずたが,ブリュワーズのユニホームを着ていたことは覚えていないだろう」として,ミルウォーキー・ブリュワーズでプレーしたにも関わらずその印象が薄い選手を特集して,日本人からは野茂英雄投手が選ばれました。
 野茂英雄投手は,1999年にブリュワーズに加入すると,シーズン途中の5月にメジャー昇格し,12勝8敗の成績を挙げ,先発ローテーションのひとりとして活躍しました。しかし,翌年にはデトロイト・タイガースに移籍したことでブリュワーズ在籍はわずか1シーズンでした。
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 ミルウォーキー・ブリュワーズに所属したときの野茂英雄投手は,MLBで壁にぶつかって低迷し,それまで所属していたロサンゼルス・ドジャースからニューヨーク・メッツに移籍し,さらに,シカゴ・カブスで契約したもののメジャーに入ることすらできなかったころでした。
 結果として,ミルウォーキー・ブリュワーズで復活を遂げて,再び活躍をはじめたのですが,私がミルウォーキーに行って,ミルウォーキー・ブリュワーズのゲームを見たのは,その1年前,1998年のことでした。
 現在,ミルウォーキー・ブリュワーズは,新しいアメリカンファミリーフィールド(American Family Field)でプレーしていますが,私が見たのは,カウンティスタジアム(Milwaukee County Stadium)という古いスタジアムでした。
 それがまあ,レジェントというにははばかられるほど老朽化したところで,町工場みたいな感じでした。なんだか,とても悲しくなりました。もし,日本からあこがれてメジャーリーグに入ったとしても,これでは都落ちだ,と思いました。そんな印象をもったところに,私が行った翌年,野茂英雄投手が入団したということが私にはとても衝撃的でした。
 華やかで豪華なボールパークばかりだと思われるMLBにも,以前は,こんなスタジアムでプレーしているチームもありました。

 さて,この日もまた,暇にまかせて,いつものように,見るでもなく見ないでもなく,MLB中継を英語にしてつけていたら,フロリダ州のタンパベイからゲームを放送していました。そこで思い出したのが,カウンティスタジアムであり,また,このタンパベイ・レイズのホームであるトロピカーナフィールド(Tropicana Field)です。今日の話題は,先に書いたミルウォーキー・ブリュワーズではなく,タンパベイ・レイズなのですが,このタンパベイ・レイズのホームは,ミルウォーキー・ブリュワーズとは違って,今でも,カウンティスタジアムのような,そんな,さえないスタジアムです。
 まだ,アメリカのことをほとんど知らなかった1998年のアメリカ旅行で,私が行ってゲームを見たのは,ミルウォーキー・ブリュワーズだけでなく,シカゴ・カブス,アトランタ・ブレーブス,そして,タンパベイ・レイズのホームタウンでした。当時,タンパベイ・レイズはできたばかりで,タンパベイ・デビルレイズというチーム名でした。私は,道に迷いながらトロイカーナフィールドに着いて,チケットを買おうと歩いていたら,チケットが余ったからあげるよ,と言われて,タダで見たことがあります。そのころは,スタジアム内にもショップがほとんどなく,まったくやる気が感じられないところという印象だけが残りました。
 2000年のはじめ,多くの新しく豪華なボールパークが建設されましたが,トロピカーナフィールドは,依然として現役のままなのです。
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 トロピカーナフィールドは,1990年,フロリダサンコーストドーム(Florida Suncoast Dome)の名称で開場しました。その後,1998年に Tropicana Products 社のネーミングライツによりトロピカーナフィールドとなり,デビルレイズの誕生に伴い,野球専用球場に生まれ変わりました。その際,選手の負担を考慮して最新式の人工芝を導入し,ダイヤモンドを除く内野部分はアンツーカー(人口土)へと改装されました。
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 ということなのですが,チームが新設されたときに,新しいボールパークを作るのではなく,従来からあったスタジアムを急ごしらえにMLB専用に改装しただけというわけです。先日書いたオークランド・アスレチックスのオークランドアラメダカウンティコロシアム(Oakland Alameda County Coliseum)に続く,メジャーリーグファンの選ぶワースト2のスタジアムですが,その理由は,MLB唯一の密閉式ドーム型スタジアムであり,映えない人工芝であり,悪い照明・酷いフィールドであり,ということで,私も同意します。スタジアムに魅力がないのでお客さんも入らず,ポストシーズンのチケットでさえ売れ残ります。

 トロピカーナフィールドの場所はセントピーターズバーグにあるのですが,その隣のタンパの方がベースボール人気があって,チームはタンパに移転したいのですが,2018年に発表された移転計画では,スタジアムの建設が900億円という巨額に膨れ上がり,予算オーバーでとん挫しました。そこで,翌年,苦肉の策として考え出されたのが,セントピーターズバーグとカナダのモントリオールの2都市フランチャイズ制でした。夏の暑い時期はフロリダを去って,涼しいカナダのモントリオールでゲームをしようというわけです。
 しかし,そもそも,以前モントリオールに存在したモントリオール・エクスポスが,そのホームであったオリンピックスタジアムが古く魅力がないこともあって,あまりに不人気だったためにワシントンに移転して,現在はワシントン・ナショナルズに変わってしまったことから見ても,そんな計画,うまくいくわけがないのです。モントリオールでも,オリンピックスタジアムは老朽化しているから,やはり,新しいスタジアムを作る必要があるのですが,そのお金もないのです。
 このように,このタンパベイ・レイズの最大の問題は,移転計画が決まらない,ということです。ここに書いたように,さまざまな計画が上がっては消えてしまい,当分,結論が出そうにもありません。仕方なく,トロピカーナフィールドを2027年まで使い続けるということです。
 フロリダという地は,金持ちが老後に住み,しかも,ものすごい発展を遂げているところです。チームが強いのに,これではもったいない話です。どうしてこんなことになるのでしょう。不思議な話です。
 今日もまた,NHKBS1では,このトロピカーナフィールドからの中継があるので,スタジアムに注目してご覧ください。また,ロサンゼルス・エンジェルスは,この次は,カナダのトロントに移動して,トロント・ブルージェイズと対戦しますが,実は,トロント・ブルージェイズのホームであるロジャーズセンターも,オークランドアラメダカウンティコロシアム,トロピカーナフィールドの次に位置する,メジャーリーグファンの選ぶワースト3のスタジアムなのです。


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 暇にまかせて,いつものように,見るでもなく見ないでもなく,NHKBS1で放送されているMLB中継を英語にしてつけていたら,デトロイトからのゲームでした。そこで,デトロイトについて,なぜか懐かしく思い出しました。
 私がデトロイトに行ったのは2002年のことだから,早いもので,もう20年前のことになります。デトロイトに行った目的は,いつものとおり,デトロイト・タイガースのホームでMLBを見ることでした。そのついでに,美術館や歴史博物館,さらにはモータウンなどの観光もしてみましたが,この町は,危険というより寂れた感が一杯でした。
 このときの私は,アメリカ合衆国50州制覇とMLB全30チームのホームゲームを見る目的を達成しようと,セントルイス,インディアナポリス,シンシナチ,ピッツバーグ,クリーブランドといった,およそ日本人が観光するのとは無縁のアメリカの中部をドライブしていました。そこで最後に寄ったのが,帰国便に乗る空港のあるデトロイトでした。

 デトロイトはセントレア・中部国際空港から直行便があるのですが,空港はデトロイトのダウンタウンからは遠く,ダウンタウンを目的にする人もまた,ほとんどいないように思います。
 日本では「デトロイト=車の町」といった印象ですが,実際は工場は郊外にあって,ダウンタウンは相当に危険な都会でした。
 まず,ミシガン州に入った途端にインタ―ステイツの制限速度が70マイルに格上げされ,それと反比例するように道路がガタガタになったのに驚きました。そして,ダウンタウンに近づくにつれて,どんどん雰囲気が「ヤバく」なっていきました。私が見たのはナイトゲームだったのですが,駐車代をケチって遠くに停めたが失敗でした。
 終了後,車を停めた場所まで歩いていったときに,よく命があったものだ,と今では思います。深夜に歩くような町ではありませんでした。

 さて,20年前のデトロイトはそんな感じでした。よくもまあ,こんなになるまで放っておいて何もしなかったものだ,というのが私の正直な印象でした。デトロイトは2013年に財政破綻をしたという報道まではよく耳にしたのですが,その後の様子がわかりません。調べてみても,実際の姿がよくわならないのです。
 私が行った当時は,ナイトゲームのとき,スタンドから見える遠くのビルにはまったく明かりがついていなかったのですが,テレビのMLB中継を見る限り,スタジアムの周りの町の様子は,私が行ったときよりは色とりどりになっていて,明るくなったダウンタウンがうかがわれました。このように,ダウンタウンは再開発で活気をとりもどしたというようなことが書かれているものもあります。
 しかし,治安は? として調べてみると,デトロイトの日本領事館の情報では
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 デトロイトは,近年,カムバック・シティとして目覚ましい復興を遂げています。ダウンタウンやミッドタウンを中心に若者たちによるパブリックアートや音楽が盛んとなり,アメリカ国内でも注目度の高い都市となりつつあります。
 その一方で,FBIが発表した2016年中の犯罪統計では人口10万人あたりの凶悪犯罪件数でワーストとなるなど,治安が比較的回復してきた近年でも最も危険な都市のひとつであることに変わりはありません。
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とありますが,この情報さえ6年も前のことです。今でも依然として同じ状況なのでしょうか。
 これ以上のことは実際に行ってみないとわかりません。
 なお,私が行ったのは20年も昔のことで,今のようにデジカメもなく,フィルムで写した写真をスキャナーで加工した少しの写真しかないのが残念です。いろいろなところに出かけるには,人生は短かすぎます。

 さて,ここからはおまけです。
 現在のデトロイト・タイガースのホームグランドはコメリカパーク(Comerica Park)ですが,このボールパークは,2000年にダウンタウンの再開発を目的として作られたものです。私が訪れたのは,ちょうどできて2年目でした。ちょっと安っぽいなあ,というのが,私の印象でした。
 それまでは,タイガースタジアム(Tiger Stadium)で,ダウンタウンから少し西に行ったところにあって,私は,このとき,その横を通りすぎました。使われなくなって2年経っていましたが,当時はまだ健在でした。その4年後の2006年に取り壊され,現在では,当時の遺構が一部残された the Corner Ballpark になったということです。
 実は,私は,このタイガースタジアムで,ぜひ,一度ゲームが見たかったのです。このボールパークは1911年生まれというとても古いもので,古きよき,そして,自動車産業が栄えたころの強かったデトロイト・タイガースの象徴でした。今も使われていれば,ボストンのフェンウェイパーク(Fenway Park),シカゴのリグレーフィールド(Wrigley Field)のように,ここまで古いとむしろトレンディだったのです。タイガースタジアムは,グランドの形はほぼ四角形で,センターまでが異常に遠く,また,スタンドの屋根は柱があって見にくいし,といったように,不便極まりない,私が好きな場末感ただようすてきなボールパークだったようです。

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 On Tuesday, Ohtani accomplished yet another feat on the diamond that puts him in a class previously only occupied by The Bambino.
 Against the Athletics on Tuesday night, Ohtani pitched six scoreless innings, allowing just four hits and three walks. He struck out five batters on 91 pitches in the Angels’ 5–1 win, moving his record as a starter to 10–7 on the season.
 Ohtani also hit a solo home run during the game, his 25th of the year.
 That puts him at double-digits in both homers and pitching wins for the first time, after he won nine games in 2021. The only other player to reach those milestones in a single season: Early in his career, Ruth was a similarly impressive two-way player, posting win totals of 18, 23, 24 and 13 from 1915 to 1918, before slowing down his play on that side.
 In 1918, he hit a then-career-high 11 home runs, making him the first player to hit double-digits in both wins and homers.
 Now Ohtani has matched him and is set to blow Ruth’s numbers as a full-time two-way player out of the water.
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 MLBロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平投手が,オークランド・アスレチックスとのゲームで先発して,6回4安打5三振無失点で今季10勝目を挙げました。また,指名打者としては日本人メジャー通算700号となる25号アーチを打ちました。これは,1918年ボストン・レッドソックスに在籍したベーブ・ルース以来,104年ぶりに「2桁勝利と2桁本塁打」を達成したことになります。
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というビッグニュースがありました。これで晴れて大谷翔平投手は「バンビーノ・クラブ」のメンバーです。

 このゲームをテレビの中継で見ていたのですが,オークランドというサンフランシスコの近郊で行われていたこともあって,大勢の日本人観光客が観戦していました。ゲームの内容は他に譲って,私が思い出したのが,はじめてMLBを見たときのことです。
 私がはじめてMLBのゲームを見たのは,今から40年以上前のことです。はじめてのアメリカ旅行はサンフランシスコとロサンゼルスを巡るツアー旅行で,当時の金額で298,000円也でした。このときに,オプショナルツアーとして,ロサンゼルスのドジャースタジアムでの観戦があったので,それに参加したのです。
 今では,MLBなんて,ネットでチケットを購入したり,直接窓口で購入したり,現地にある合法的なチケットショップで購入したり,あるいは,ニューヨークでは,地下鉄の改札口で売っていたダフ屋から買ったりと,自由気ままな私ですが,当時は,そんなことは到底無理でした。
 オプショナルツアーはすごく高価で,実際の値段が当時の相場で1,000円程度のチケットが食事と送り迎えつきで10,000円以上もしました。食事といっても,単なるパックの助六寿司でした。海外旅行は,移動手段がない,言葉が通じないという,いわば「2重苦」の人たちは,足元をみられるのです。こうした経験で,世間知らずだった若き日の私は,世の中を知りました。
 テレビでこのゲームを見ていたときに画面に映ったスタンドにずらりと横に並んでいた日本人の観光客は,おそらく,そうした観光ツアーに参加した人たちだったのでしょう。私の若き日がダブりました。しかし,いくらツアーが高かろうと集団で群れようと,こういった歴史的なゲームに遭遇した人はそれでも幸運です。とはいえ,MLB30チーム中でも,ワースト1だか2だかに値するオークランド・アスレチックスのボールパークではじめてのMLB観戦を体験して,これが本場のベースボールか! -それでも日本の球場よりは立派なのですが- と,それでMLBを知ったと思うのか,そして,感動したのかどうか。でも,どうせ見るなら,これぞアメリカ,というような最新式のボールパークを体験しないことには,本当のことはわからないのになあと,私は,複雑な気持ちになりました。

 ところで,今日の2番目と3番目の写真は,メリーランド州ボルチモアにあるべーブ・ルースの生家です。2016年に行ってきました。
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 ベーブ・ルースことジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア(George Herman "Babe" Ruth, Jr.)は,1895年に,メリーランド州ボルチモア市ピッグタウンエモリー通り216番地(216 Emory Street in the Pigtown section of Baltimore, Maryland)に生まれ,1948年に亡くなりました。1914年から1935年まで通算22シーズン活躍しました。 童顔であったことから「バンビーノ 」(The Bambino)「ベーブ」(Babe)とよばれました。
 ドイツ系移民であった両親のジョージ・ハーマン・シニア (George Herman Sr.)とケイト (Kate) は酒場を自営し,その2階で暮らしていました。母は病弱で,ベーブ・ルースが15歳のときに結核で亡くなり,父は酒場の仕事で忙しく,両親から適切な教育を受ける機会のなかったことから,腕白坊主へと成長し,学校をサボっては通りをうろつき,町の不良たちと喧嘩に明け暮れ,商店の品物を万引きしたり酒を飲んだり煙草を吸ったりするなど,様々な非行に手を染めた悪童でした。
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 現在,ボルチモアにホームをもつのが,ボルチモア・オリオールズで,オリオールパークアットカムデンヤーズ(Oriole Park at Camden Yards)がホームグランドです。このボルチモアという都会は,治安がかなり悪いことで知られていて,私もずいぶんと友人のアメリカ人に行くのをとめられましたが,ボールパークから歩いて5分もかからないところにホテルをとって,万全を期して行ってきました。ボールパークはかなり豪華でした。それが今日の4番目と5番目の写真で,若き日のべーブルースの銅像もありました。
 が,一歩外に出ると,別世界。特に,ゲーム終了後がヤバかった…。これぞアメリカでした。しかし,せっかくアメリカに行ってMLBを体験するのなら,こういうところでMLBを堪能するといいのでは…。

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 子供のころは,日本のプロ野球のオールスターゲームが楽しみでした。
 しかし,3ゲームもあったし,せっかくのお祭りだというのに,読売巨人の王貞治選手や長嶋茂雄選手が出ずっぱりで,他のチームの選手が出場しても代打くらいでしか出られず,また,別のチームの投手の球種を盗むだのといったようなレギュラーシーズンの思惑ばかりを解説していたので夢も冷め,すっかり嫌になりました。日本はそういう国です。

 一方,アメリカのオールスターはたった1ゲーム。しかも,開催される都市は,ゲームだけでなく,開催される前日から街全体が開催を名誉としフェスティバルとなります。いいなあ。
 さて,そんな,ミッドサマー・クラシックと称されるアメリカのオールスターゲームですが,もう,私は興味から卒業して,今は特に関心があったわけでもないのですが,いつものようにメジャーリーグベースボールを見ようとテレビをつけたら放送していて,今日が,というか,現地時間では昨日の夜ですが,ミッドサマークラシックなんだと気づきました。2001年にハリウッドのマクドナルドで置き引きに遭って以来,大嫌いになったロサンゼルスだったのに,2018年に再び行って以来,その気持ちが変わり,今ではなつかしいロサンゼルスです。そのロサンゼルスの古ぼけたドジャースタジアムが,なぜか今年のオールスターゲームの開催地でした。
 それにしても,いつもそうですが,現地の放送を英語で聴きながらメジャーリーグベースボールを見るのは何とこころときめくことか。すっかり現地に出かけてスタンドで見ている気持ちになりました。しかし,相変わらず,NHKBS1では時折放送に挟まれるニュースと日本のスタジオからの音声で,私の夢がさまされるので,幻滅して消音にしては,そのたびに勝手にしろ,と思うのです。

 さて,今年は,アルバート・プホルス(José Alberto Pujols Alcántara)選手現役最後の年ということでした。
 ボルチモア・オリオールズに所属したカル・リプケン(Calvin Edwin Ripken Jr.)選手,ニューヨーク・ヤンキースに所属したジーター(Derek Sanderson Jeter)選手など,現役最後の年にオールスターに出場するというのは,何と幸せなことでしょう。
 アメリカ人は,そういう,業績を残した人の最後をみんなで称えお祝いするの大好きなのです。それに対して,日本人は「やっかみ文化」。劣等感とひがみがその根底に存在しているので,一度は成功した人が没落する様を見るのが大好きなのです。
  ・・・・・・
 アルバート・プホルス選手は,2001年のデビューから2010年までの間打率.300・30本塁打・100打点を10年連続で達成したMLBにおける最高の打者のひとりです。
 1999年のドラフトでセントルイス・カージナルスから13巡目(全体402位)で指名されて入団しました。やがて,2011年12月にロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムと10年間の契約に合意し,移籍しました。契約終了後,2021年5月にロサンゼルス・ドジャースと契約し移籍,11月にFAとなった後,セントルイス・カージナルスに復帰しましたが,2022年限りでの現役引退を表明しました。
  ・・・・・・
 私は,2019年,大谷翔平選手とともに,アルバート・プホルス選手を現地で見たことがあります。

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 以前書いたことがありますが,私がノースダコタ州に憧れたのは,アメリカ50州すべてに行こうと思っていたある人が,最後に残ったがノースダコタ州だったというような文章を書いていたのを読んだことが理由でした。そのころの私はまだアメリカ50州制覇は考えていなかったのですが,そんなに行きにくいところなら,ぜひ行ってみたいと思いました。
 私は,まず,サウスダコタ州に行って,さまざまな場所を観光してから,国道85号線を北に一路,ノースダコタ州を目指しました。サウスダコタ州がすばらしいところだとはその時点では思ってもいませんでしたが,行ってみて本当によかったと今では思います。
 そして,サウスダコタ州のラピッドシティで車を借りて,ノースダコタ州へ向かいました。
 そのときの写真が今日の1番目から3番目のものですが,これは本当にすごいものでした。写真ではわかりませんが,こんな景色が延々とずっと続いていたのです。アメリカでほかにいろいろな道を走りましたが,こんなすごい道はここが一番でした。
 こころゆくまでまっすぐな道を走ってみたい。
 そんな夢を実現するのに最高なのは,何といってもノースダコタ州でした。
 もちろん信号などなく,すれ違う車もほとんどありませんでした。
 そして,ノースダコタ州に達したとき,出迎えてくれたのは,一面に咲くひまわりでした。
 
 ノースダコタ州の中央部を東西にインターステイツ94が横断しています。これが今日の4番目から6番目の写真です。
 アメリカのインタ―ステイツは,都会では最低3車線,多いところでは7車線,8車線とあるのですが,さすがにノースダコタ州はまだ2車線でした。ここを夜にも走ったのですが,周りは真っ暗でした。
 アメリカは東西を貫くインタ―ステイツは,10,20,30,……,というように偶数番号が振られていて,最も北を走るのがインタ―ステイツ90です。インターステイツ90は,西はワシントン州シアトルから東に,アイダホ州,モンタナ州と進むのですが,モンタナ州のビリングスから南東に進路をとって,サウスダコタ州,ミネソタ州と進み,最終的にはニューヨークに達します。
 ということで,インターステイツ90はなぜかノースダコタ州を避けるように走っているのです。そこで,モンタナ州のビリングスでインターステイツ90とわかれてインタ―ステイツ94がノースダコタ州に向かうのです。インターステイツ94は,ノースダコタ州を越えると,やがて,ウィスコンシン州で,再びインターステイツ90と合流します。


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 アメリカの国道の正式名称は 「United States numbered highways=U.S. Routes / U.S. Highways」ですが,ここでは国道とします。国道は,インターステイツと同じように,南北方向に走る道路には東から西へ順に奇数,東西方向に走る道路には北から南へ偶数の番号がふられています。
  ・・
 国道1(U.S. Route1)は,東海岸部の大都市を南北に結ぶ主要な路線で,全長2,390マイル,3,846 キロメートルあって,南北に伸びたアメリカの国道の中でもっとも長大です。
 アメリカ合衆国本土最南端に位置するキーウェストを起点にして,フロリダ州のマイアミ,ジャクソンビル,ノースカロライナ州のローリー,バージニア州のリッチモンド,ワシントンD.C.,メリーランド州のボルチモア,ペンシルベニア州のフィラデルフィア,ニューヨーク州のニューヨーク,コネチカット州のニューヘブン,ロードアイランド州のプロビデンス,マサチューセッツ州のボストン,メイン州のポートランドを経てカナダとの国境沿いのフォート・ケートまで続いています。
 また,マイアミからメイン州ハウルトンまではインターステイツ95が国道1に併走しています。

 数年前まで,私はアメリカ50州制覇を目指していました。その最後の2州であったノースカロライナ州とサウスカロライナ州を訪れたときに,そのついでに,フロリダ州の最南端キーウェストから,北に,フィラデルフィアまで走ったのですが,そのとき,あるところではインターステイツ95を,そして,気が向けば国道1を走りました。
 また,2013年にはボストンから北にメイン州までいったので,国道1およびインターステイツ95の通るところはそのほとんどを走ったことになります。
 また,かつて,1998年,はじめてアメリカをドライブしたとき,マイアミからフロリダ半島を半周したのですが,そのときに国道1を走ってキーウェストまで足をのばしました。

 さて,そんな国道1ですが,その中でも最も印象に残っているのは,今日の写真にあるアメリカ最南端のキーウェストにつながる海上の道セブンマイルブリッジです。
 若いころ,こんなところに行けるとは夢にも思っていなかったのですが,私は,1998年と2016年,なんと2回も行ってしまいました。フロリダ半島の先端を海の中7マイル,11.2キロメートルにわたってセブンマイルブリッジという橋がつながっていて,よくCMにも出てきます。
 キーウェストにはアメリカ最南端のポールがあり,また,国道1の終点であり起点であるので。BIGINとENDの表示があります。また,キーウェスト島には,かつてヘミングウェイが住んでいた家があって,今も公開されています。ここに住むネコの指が6本あるというので有名です。

◇◇◇
Double rainbow.

夕方,見事な虹が見えました。
もう,梅雨明けかな。

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 こころゆくまでまっすぐな道を走ってみたい。
 そんな夢を実現するのに最高なのは,何といってもニューメキシコ州です。
  ・・・・・・
 ニューメキシコ州(New Mexico)は南西部にある州で,北はコロラド州,東にはオクラホマ州とテキサス州,西はアリゾナ州,南はテキサス州およびメキシコとの国境に接しています。面積はアメリカで5番目に大きいのですが,人口は36番目と,ほとんど人が住んでいません。その美しい景観から「魅惑の土地」(Land of Enchantment)と称されます。
  ・・・・・・

 今日の写真はロズウェル(Rosewell)からサンタフェ(SantaFe)に行ったときに走った国道285ですが,あたり一面何もなく,360度地平線が見られました。こんな景色は日本では絶対に見ることができません。
  ニューメキシコ州は年間340日も陽光に恵まれるというところで,自然災害もきわめて少ない州です。雨が少なく乾燥しています。私が走ったときはちょうど満月で,早朝,北に向かって進む私の車の窓から,右手,東の空から太陽が昇り,左手,西の空には満月が沈むという姿を見ることができました。

◇◇◇
国際宇宙ステーション

5月14日午後8時9分。
薄雲でしたが,北西から天頂を通り南東に,
非常に明るい国際宇宙ステーションが通過しました。

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 2020年4月29日,NHKBSPで「ワールド・トラックロード 〜俺の助手席に乗らないか〜」という番組が放送されました。アメリカの長距離トラックのドライバーの日常を描いたものです。
 NHKBSPでは「ぐっさんのトラック旅」という番組を何度か放送していましたが,私は,狭い日本の,たった2車線か3車線しかない,また,車で混み合う高速道路を走るようなものより,雄大なアメリカのインターステイツをコンボイで走る番組が見たいと思っていて,そのことをこのブログに書いたこともあります。
 私が思っていたのは少し違うけれど,そんな番組が放送されると知って,楽しみにしていました。

  ・・・・・・
 世界のトラック野郎が見る景色を「主観」で楽しむ新感覚ロードドキュメンタリー。運送の仕事を擬似体験しながら,高さ2.5メートルの車窓に広がる壮大な景色を堪能する。
  ・・・・・・
と紹介されていたので,今回のアメリカだけでなく,この先,他の国のものも紹介されるのでしょう。しかし,何といってもアメリカです。
 この番組でトラックが走ったアイダホ州,オレゴン州,ワシントン州,ユタ州,ネバダ州などは,すべて,私はこれまで何度も走ったことがあるところなので,見慣れた景色でした。そして,とても懐かしくなりました。それとともに,ここ2年以上行くことができないアメリカを思い出しました。
  ・・
 そもそも私が海外旅行をするようになったきっかけは,アメリカのどこまでも続く1本の道を自分で運転したいというのが動機でした。そして,幸運にも,その夢は,これまでにずいぶんと実現しましたが,それが,今はできないのです。
 番組に出てきていたトラックのドライバーはアラスカ州は行ったことがないということでしたが,私は,アラスカ州も含めて,アメリカのすべての州を走りました。

 こうしたアメリカの景色を見たことがない人がこの番組を見たら,どんな感想をもつのでしょう。多くの人には,アメリカといえば,ニューヨークであり,サンフランシスコであり,ロサンゼルスであり,ホノルルでしょう。しかし,そのようなガイドブックにあるアメリカは,日本に来て,東京と京都しか知らないで帰る外国人と同じようなものです。アメリカの本当の姿は,こうした,どこまでも続くインタ―ステイツや大平原の中を走るカントリーロードにあるのです。
 また,走っている時間よりも信号や渋滞で止まっている時間の方が長いような,この狭い日本で,見栄をはって高級車に乗っているのとはまったく違う世界が,アメリカにはあります。
 日本とはスケールの違うアメリカでトラックを運転するという仕事には,私の想像がつかないような苦労があると思いますが,こうした景色を日々体験できる喜びは,日本に限らず,アメリカでも,人のうじゃうじゃいる都会で,日々,人間関係に苦労し,仕事に追われ評価されるような生き方をしていては決して手に入るものではないでしょう。
 見ていて,また,私も,アメリカの大平原を走りたくなってきました。
 この番組で,やっぱり,私はこうした旅がしたかったんだよ,という夢がよみがえりました。

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◇◇◇
5惑星

4月30日早朝4時。
東の空に,5惑星が見えました。
特に,金星と木星が接近して
ひときわ明るく輝いていました。

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 ワシントン・ナショナルズ(Washington Nationals)は,ナショナルリーグ東地区所属のチームです。2004年まではモントリオール・エクスポズ(Montreal Expos)として,カナダのモントリオールを拠点としていました。まったく人気がなく,かなりのお荷物チームでした。
 モントリオール・エクスポズは,1969年の球団拡張によって新設されました。1976年のモントリオール・オリンピックで使用されたオリンピックスタジアムを本拠地としました。1995年のシーズン前に主力選手をほとんど放出してファンの怒りを買い,さらに,オリンピックスタジアムの老朽化で,年間動員がたった64万人と,マイナーリーグ以下となりました。2000年シーズンからは地元メディアの英語によるテレビとラジオ中継が消滅し,フランス語圏のモントリオールでは,フランス語のみになってしまいました。
 私は,こうした場末感が好きで,そもそも陸上競技場でどうやってベースボールをやっているんだろうという興味もありましたし,1980年代の日本のロッテ・オリオンズという球団が使っていた川崎球場のように,ほとんど観客のいないスタンドというのも見てみたいものだと思っていました。そんなわけで,ぜひモントリオールに行ってみたいものだと思っていたのですが,フランス語圏ということも手伝って踏ん切りがつかず,かないませんでした。
  ・・
 当時の写真を見つけました。それが今日の最後から2番目のものですが,観客がまばらなだけで,意外と「まとも」です。それに比べて,最後の写真は川崎球場ですが,こういうのを見比べると,所詮日本はアジアの東の端の貧しい国だと実感します。

 さて,チーム自体は,不人気のモントリオールに見切りをつけて,2005年にアメリカの首都ワシントンDCに移転しました。メジャーリーグサッカー(MLS)のDC ユナイテッドとナショナルズの併用であったロバート・F・ケネディメモリアルスタジアムで当初の3年間ゲームを行ったのち,2008年からは新装なったナショナルズパーク(Nationals Park)を本拠地としました。私は,これまでにアメリカMLB30チームすべてのボールパークに行ったことがあるのですが,2017年,その中で最後に行くことができたのが,このボールパークでした。
 ワシントンDCは政治の中心,アメリカの首都。ボールパークが建設できるような場所があったかな? 一体どこにあるのだろうと疑問に思っていたのですが,それは,ワシントンDCのダウンタウン南部を流れるアナコスティア川(Anacostia River)沿いで,近くにはワシントン記念塔や議会議事堂を望むことができ,地下鉄で簡単にアクセスできるというとても便利な場所でした。
 モントリオール時代とは違って,近年は強豪チームとなり,ワシントン・ナショナルズは人気もあります。ボールパークも美しく,また,非常に親切でファンサービスもよく,すばらしいところでした。30球団すべて見た私の独断と偏見では,チケットが高価でエラそうでファンサービスがいまいちの代表がニューヨーク・ヤンキース,ファンが田舎者で近寄りがたくファンサービスも最悪なのがカンザスシティー・ロイヤルズですが,それとは真逆でした。
 また,治安が悪いといわれるワシントンDCですが,その場所は治安もよさそうで,安心しました。
 しかし,2021年7月17日,ナショナルズパークのすぐ外で銃撃があって,ゲームは6回途中で中断。観客が避難したという痛ましい事件があって,私はショックを受けました。

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 アメリカの古都フィラデルフィアには1度は行ってみたかったのですが,なかなか行く機会がなく,2016年にやっと念願がかないました。ダウンタウンは落ち着いていて,モールに大きなレストランがあったり,巨大市場には大衆食堂があったり,また,公共交通網が整備されていたりと,車も必要なく,なかなか観光のしやすいところでした。
 この町にあるMLBのチームがフィラデルフィア・フィリーズ(Philadelphia Phillies)です。
 フィラデルフィア・フィリーズは,ナショナルリーグ東地区所属のチームです。
 1890年に設立された古参球団で,チーム名のフィリー(Philly)は,フィラデルフィアの略称およびフィラデルフィア市民の通称です。歴史が長いのに弱く, 長い間,次のような「ビリー・ペンの呪い」(Curse of Billy Penn)にかけられていました。
  ・・・・・・
 フィラデルフィア市庁舎タワーの屋上にはアレクサンダー・ミルン・コールダー(Alexander Milne Calder)が建てたウィリアム・ペン(William Penn)の銅像があります。近年までフィラデルフィアには「ウィリアム・ペンの銅像より高く建造物を造ってはいけない」(No gentleman would build taller than the "brim of Billy Penn's hat".)という紳士協定があったそうです。
 やがて,1985年に作られた「リバティ・プレイス」(Liberty Place)によって,その協定が破られ,そしてさらに2008年には,それよりもさらに高いコムキャスト・センター(Comcast Center)が建てられました。
 しかし,紳士協定が破られてからというもの,フィラデルフィアの全てのプロスポーツチームはチャンピオンシップシリーズで勝てなくなり,全て敗北してきたのでした。これが「ビリー・ペンの呪い」(Curse of Billy Penn)といわれたものです。
 2008年,MLBのフィラデルフィア・フィリーズがワールド・チャンピオンとなり,ついにこの呪いが解けました。そして,このとき,ウィリアム・ペンのレプリカの銅像をコムキャスト・センターの屋上に設置したのでした。
  ・・・・・・

 また,フィリーズは長年に渡って黒人選手の受け入れを拒んできました。
 フィラデルフィアの宿舎が黒人選手の宿泊拒否を通告したり,ジャッキー・ロビンソンがメジャーデビューした時,当時のフィリーズの監督や選手が「ロビンソンが出場するなら,フィリーズ選手はフィールドに出ない」と発言し,大きな波紋をよんだこともあります。
  ・・
 チームのマスコットはフィリー・ファナティック (Philly Phanatic)という緑色の架空の生き物で,MLBでは最も有名なマスコットです。1978年,何の予告もなく何気なくスタンドに現れて以降,お茶目でいたずら好きなパフォーマンスが人気をよび,フィリーズのマスコットとして愛され続けています。
 日本人選手が属したこともほとんどなく,これまでに全盛期を過ぎた井口資仁選手と田口壮選手が1,2年加入していた程度なので,日本ではほとんど知られていないチームです。

 以前の本拠地はベテランズスタジアム(Veterans Stadium)でフットボールとの共用のものでしたが,クッキーカッター型のまるで人気のないものだったので,私は見にいく気さえありませんでした。しかし,2004年に新しくシチズンズバンクパーク(Citizens Bank Park)が作られたので,一度は見たいものだと足を運びました。
 あまり期待もしていなかったのですが,場所はフィラデルフィアの南にあって,地下鉄で行くことができて,とても便利なのにまずは驚きました。そして,地下鉄を駅を降りて,さらに驚いたのは,その場所がものすごく広大で,かつ,フィラデルフィアにあるプロスポーツのスタジアムがすべて集められたコンプレックスだったことです。
 シチズンズバンクパークはベテランズスタジアムの東隣に建設されたので,ボールパークまで歩いている途中にかつてここにベテランズスタジアムがあったというプレートがありました。
 シチズンズバンクパークは,レンガと鉄骨を組み合わせた外観や左右非対称のフィールドという特徴をもつ典型的な新古典主義の野球専用球場で,センター最深部があまり長くないうえ,両翼のポールまで一直線になっているので,右中間と左中間がおそろしく狭いという特徴があります。 打者にとって向かい風も少なく,本塁打の出やすいボールパークです。
 お昼間にのんびりとベースボールを楽しむにはいいところです。

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 マイアミ・マーリンズ(Miami Marlins)はナショナルリーグ東地区所属のチームです。球団拡張政策によって1993年に誕生しました。ときどき突然強くなって,これまでワールドシリーズに1997年,2003年に進出,ともに世界一に輝きました。そしてまた,優勝するたびに「ファイヤーセール」を決行してスター選手を切り売りして弱小チームとなるのです。
 マーリンズは,何と,経常利益が30球団のうち1位です。それは選手の年俸が安いからなのです。
 いろんな意味で変なチームで,フットボールならともかく,ベースボールなのに,「マーメイズ」(Mermaids)というチアリーディング・チームがあります。

 本拠地は,現在はローンデポパーク(LoanDepot Park)という名前だそうですが,私が行った2016年当時はマーリンズパーク(Marlins Park)といいました。2012年に開場した新しいボールパークです。
 かつて本拠地だったサンライフスタジアム(Sun Life Stadium)は,左中間奥にフットボール用スタンドが収納されていて,フットボールの開催時はレフトの窪みに増設スタンドを引き出してはめ込むといった仕様でした。また,マイアミの中心部から遠く,雨天の多い土地柄であるものの屋根がなく,観客席がホームベースではなくフィールド中央を向いていたりするなど、まったくもってひどいところでした。
 が,私はそのような場末のものが大好きで,そのボールパークでぜひ観戦してみたかったのですが,ついにその夢は実現しませんでした。
 現在の本拠地はマイアミのダウンタウンにあって,治安がいいのか悪いのか,それもまた,私が行ってみても,どうもよくわかりませんでした。噂では悪いという話だったので,私が泊まっていたコンドミニアムから歩いても10分程度と近かったのですが,途中,公園もあって,歩いて行く気にならず,車で行きました。ところが,大概は大丈夫なのに,このボールパークのオフィシャルパーキングは事前に予約しなければ停められませんでした。仕方がないので,近くの民家がパーキングをやっていて,そこに停めたのですが,こりゃ,まるで日本と同じだと思いました。ということで,今では,見ず知らずのアメリカ人の家の庭に車を停めたのが1番の思い出だったりします。
 新たに建設されたボールパークは野球専用で,3塁方向からライト方向へとスライドして開閉する屋根があって,ボールパーク自体は四角く,レフト方向の外野席は膨らみがほとんどない変な形をしています。いびつな形であるうえに外野中央部のやや左にフェンスが丸くフィールドへと張り出した部分があり,この部分に「ホームラン・フィーチャー」(HR Feature)と名づけられた高さ10メートルほどの巨大なオブジェがあって,マーリンズがホームランを打つと電飾や花火でそれを祝う仕掛けとなっていたり,南国ムード一杯です。また,本塁の右後方バックネットの下には地元フロリダの海を泳ぐ熱帯魚が入れられた大型水槽が備えられています。

 私は,このときの旅でアメリカ50州制覇を実現するためにサウスカロライナ州とノースカロライナ州に行こうと計画して,せっかくだからと,フロリダ州の最南端キーウェストからフィラデルフィアまで東海岸に沿って駆け抜けたのですが,今にして思うに,ここもまた,本当に行ってよかったことでした。
 また,このとき,偶然にもイチロー選手がこのフロリア・マーリンズに在籍していて,しかも,3,000本安打まであと3本ということで,とんでもなく盛り上がっていました。
 結局,1本打ったっきりで3,000本目を見ることはできませんでしたが,いい経験をしました。

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 サンディエゴ・パドレス(San Diego Padres)は、MLBナショナルリーグ西地区所属,1969年のリーグ拡張時に創設された新しいチームです。現在の本拠地はカリフォルニア州サンディエゴにあるペトコパーク(PETCO Park)です。
 サンディエゴは軍事都市であり,また,メキシコに隣接しています。
 アメリカ西海岸の都市は,北から順に,シアトル,ポートランド,サンフランシスコ,ロサンゼルス,サンディエゴとありますが,私は,その中で,サンディエコが最も好きです。ただし,日本からは直行便がなく,ロサンゼルスからインターステイツ5を走ることになります。
 サンディエゴのダウンタウンはとても歩きやすい街です。
 八神純子さんが若いとき,このすてきな都会に憧れて「サンディエゴ・サンセット」という歌を歌いました。その歌にぴったりの街です。

 ダウンタウンの南に本拠地のペトコパークがあります。ペトコパークは2004年に開場した新しいものです。
 サンディエゴ・パドレスはチームの創設以来,クアルコムスタジアム(Qualcomm Stadium)を本拠地にしていました。クアルコムスタジアムはNFLサンディエゴ・チャージャーズ(San Diego Chargers)との兼用でしたが,スタジアムの老朽化が進んでいたことから、新しいボールパークを建設したものです。
 私は,以前,クアルコムスタジアムにも行ったことがあります。そのときの対戦相手はニューヨーク・メッツで,偶然,当時,ニューヨーク・メッツで活躍していた,今は北海道日本ハムファイターズの監督である新庄剛士選手を目の前で見たことがあります。それも今ではいい思い出です。

 新しいボールパークができたということで,ずっと行ってみたかったのですが,幸運にも,2018年に足を運ぶことができました。ここもまた,今となっては行ってよかったと思います。
  ・・
 ペトコパークは,他の新しいボールパークのような「赤レンガに黒い鉄骨の梁,深緑の観客席」ではなく,インド産の砂岩に化粧漆喰を施して,白い鋼鉄の梁,ダークブルーの観客席のように,「サンディエゴの砂浜と青い空,海に浮かぶボートの白い帆」をイメージしたものになっています。
 外野が広いうえに複雑な形状となっていて,レフト方向は海風の影響を受け,右中間は深く本塁打が出にくいという欠点があったことから,2012年のシーズンオフに,右中間を狭くして打者不利を是正する改修工事を行いました。
 ウェスタン・メタル・サプライ・カンパニー・ビルディング(Western Metal Supply Company Building)はボールパークが建設される予定地内に建っていた地元金属メーカーの築100年の旧本社社屋で,当初は解体予定だったのですが,なんと,これをボールパークの一部として組み込むことにしたので,ビルの角が左翼ポールになっています。このビルの1階にはチームストア,2階と3階にはスイート席,4階にはレストラン,屋上には800の観客席が設置されています。
 また,バックスクリーン右側に砂浜があって,そこは子供たち専用のプレイ・スポットとなっていますし,左翼スタンド大型スクリーンの背後には,ペトコパークと同じ芝と土が使用された小さな野球場が併設されていて,そこで子供たちが野球を楽しむことができます。

 上記のように,外野後方に広い公園があるのですが,ここもまたボールパーク内なので,チケットを買ってスタジアムに入った人が行くことができる遊び場となっていて,この場所は,スタンドで観戦するよりもずっと楽しそうです。デートスポットとしても最高でしょう。
 また,このボールパークは,食事が他の多くのボールパークのような「高いだけでまずく,かつ,量が少ない」ということはなく,私が食べたハンバーガーはものすごくおいしいものでした。
 ペトコパークは,私が行った多くのボールパークの中で最も美しいところでした。

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 私にとって,アメリカに夢見ていたころ,ロサンゼルス・ドジャースは,もっともなじみのあるチームでした。
 ロサンゼルス・ドジャースは1884に創設された伝統のあるチームです。創設以来,ニューヨークのブルックリンを本拠地としていましたが,1958年にロサンゼルスへ移転しました。
 ドジャースは1947年にアフリカ系アメリカ人初のメジャーリーガーであるジャッキー・ロビンソン(Jack Roosevelt Robinson)がデビューを果たしたチームであり,1995年には野茂英雄投手がメジャーリーグデビューを果たしたチームとして日本人にはなじみがあります。
 以前,日本の読売巨人がドジャースのキャンプ地だったフロリダ州のベロビーチ(Vero Beach, Florida)に参加したことがあります。当時,私は,アメリカのことなど何も知らなかったのですが,アメリカでは野球の球団が特別のキャンプ地を所有しているんだと,何かすごい別世界のお話のように思えました。それからずいぶん経った1998年,フロリダ州をドライブしたことがあって,そのとき,偶然,ベロビーチのドジャータウンにどり着いて,ああ,ここだったのか,と感動しました。
   ・・・・・・
 ドジャータウンは,もともと,第2次世界大戦中に米海兵隊航空基地で訓練を受けた海軍と海兵隊ののための海軍住宅基地として建設されました。1948年,ドジャースが恒久的な春季トレーニングサイトを探していたとき,フロリダ州ベロビーチの広大な土地が最適な場所として紹介されたことで「ドジャータウン」として1953年に完成しました。
 2008年,財政的な理由からロサンゼルス・ドジャースはベロビーチを手放すことになりました。
 その後,歴史的なドジャータウンはもともと、通りの真向かいにある第二次世界大戦中に米海兵隊航空基地で訓練を受けた海軍と海兵隊のすべてのメンバーのための海軍住宅基地として建設されました。ブランチリッキーが1948年に恒久的な春季トレーニングサイトを探し始めたとき、彼は地元のビジネスマンであるバッドホルマンによってフロリダ州ベロビーチの広大な土地に、メジャーリーグの完全に封じ込められたトレーニングキャンプを主催するのに最適な場所として紹介されました。クラブだけでなく、他の26のマイナーリーグチーム。ドジャースとベロビーチ市は、「ドジャータウン」という名前の物件を含む最初の5年間の賃貸借契約を結ぶことになりました。スタジアムは1953年に完成しました。 
 2008年,財政的な理由からドジャータウンは閉鎖されることになりました。
 その後、ロサンゼルス・ドジャースのオーナーだったピーター・オマリー(Peter O'Malley)は,妹のテリー・オマリー・サイドラーとふたりの元ドジャースの朴賛浩投手と野茂英雄投手の助けを借りて,ドジャータウンに再投資し,この歴史的なドジャータウンは,2014年に,フロリダヘリテージランドマークになり,現在に至っています。
  ・・・・・・

 ドジャースは,ロサンゼルスに移転後,当初の4年間はロサンゼルス・メモリアル・コロシアム(Los Angeles Memorial Coliseum)をホームグランドとしました。今日の1番目の写真です,ここはオリンピックが2度行われたところで,現在はカレッジフットボールのUSCトロージャンズ(南カリフォルニア大学)が使用しています。
 卵型の形状で,左翼から左中間が極端に狭くなるなど野球場には適していないところでした。
  ・・
 1962年に現在のドジャースタジアムが完成し,1962年から1965年まではロサンゼルス・エンゼルスも使用していました。かつてのオーナーのピーター・オマリーの「ファンを選手に近づけたい」(Walter O’Malley’s idea of bringing fans closer to the players)と願ってついに完成させた「ドジャース永遠のホーム」(Immortalize Dodger Stadium)でした。
 しかし,今となっては,MLBでは珍しくなった左右対称,外野やファウルグラウンドは広いといった設計が古いものとなりました。また, 晴れた日のデーゲームはロサンゼルスの乾燥した空気と日中の暖かさのために打球が伸び,一方で,ナイトゲームではロサンゼルスの昼夜の寒暖差が大きいためによく霧が立ち込めボールが空気中の湿気を含んで重く成り,球足が遅くなったり,センターからホームへ向かって吹く風が打球を押し戻すことも手伝って,ホームランが出にくいなどの傾向があるといった,決して恵まれたボールパークでもなくなりました。

 私は,1980年,生まれてはじめてMLBを見たドジャースタジアムでしたが,その後は,2000年に一度行ったっきりになっていました。
 2018年,久しぶりにロサンゼルスに行ったとき,前田健太投手が登板することもあり,ドジャースタジアムに行ってみました。
 改修工事が終わって,座席も取り替えられ,ファールグランドは狭くなったとはいえ,やはり,新しくできた多くのボールパークに比べたら見劣りしました。また,このボールパークで販売されているホットドッグ「ドジャー・ドッグ」(The World famous Dodger Dog)は,数多くあるアメリカのボールパークで販売されているホットドッグの中で最も販売数が多く,世界で最も有名なホットドッグとしてドジャースタジアム名物のひとつに数えられているということですが,とくにおいしいわけでもありませんでした。
 ドジャースタジアムは郊外型のボールパークで,ほとんどの観客は自動車で来場するためにものすごく広い駐車場があります。かつては無料でしたが,現在は法外な駐車料金が必要になって,私はがっかりしました。

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 2022年,アメリカ・メジャーリーグはストライクとかで開幕が遅れているようですが,ともかく,今年も球春がやってきました。2015年にこのブログに「アメリカのボールパーク」を書いたときは,まだ行っていなかったところもいくつかあって,そこに行くのが夢だったのですが,その後,それらの場所はすべて行くことができました。
 こうして,私はMLB30チームのボールパークはすべて行くことができたのですが,その後,いくつかのチームが新しいボールパークを作って移転しました。しかし,今は特にそこに行ってみたいということもありません。まあ,私の好奇心がなくなったということは,齢をとったからでしょうか。寂しい話です。
 2020年春にはじまったコロナ禍もまる2年となり,それまで,あれだけ近かった私のアメリカが突然遠いところになってしまいましたが,それまでに,2015年当時に行ってみたかったところにすべて行くことができて,本当によかったと思います。
  ・・
 ということで,2016年から2019年の間に行ってきたボールパークについてまとめてみます。
 今日は,幸運にも,2019年に行って,この目で大谷翔平選手を見てきたロサンゼルス・エンジェルスのエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム(Angel Stadium of Anaheim)です。

 ロサンゼルス・エンゼルス(Los Angeles Angels)はアメリカンリーグ西地区所属です。本拠地はカリフォルニア州アナハイムにありますが,ここはロサンゼルス郊外のディズニーランドの近くです。インターステイツ5を走っていくとすぐです。
  ・・
 MLBのチームは,長い間,東海岸に集中していました。
 1957年に,ナショナルリーグのブルックリン・ドジャースがロサンゼルスに移転し,はじめて西海岸にMLB球団が誕生しました。また,同じ年にナショナルリーグのニューヨーク・ジャイアンツも西海岸に移転しました。
 同じように,アメリカンリーグでも西海岸に球団を置くことが検討され,1961年にロサンゼルスに新しいチームを設置することが決定します。こうしてできたのがロサンゼルス・エンゼルスです。
 はじめは,本拠地がロサンゼルス・ドジャースと共有だったために人気がなく,新しいボールパークを建設する必要がありました。こうして,1966年に作られたのがアナハイム・スタジアムでした。このとき,チーム名を「カリフォルニア・エンゼルス」と改称しましたが,2016年にチーム名をロサンゼルス・エンゼルスに戻しました。

 日本人メジャーリーガーとしては,1997年から2001年まで長谷川滋利投手が所属していましたが,2010年には全盛期を過ぎた松井秀喜選手が加入しました。赤色を基調としたユニフォームは松井秀喜選手にはまったく似合わないなあと私は思っていましたが,現在,所属するわれらの大谷翔平選手は赤色のユニフォーム姿がとてもよく似合っています。
 このボールパークにはとても広い駐車場があって,いかにも西海岸の昔のボールパークです。
 ボールパーク自体も新しいものでないのですが,改装につぐ改装で,行ってみて,思っていたよりずっとモダンなところだと驚きました。
 アメリカのボールパークは左右非対称であることが魅力なのですが,エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムは左中間に比べて右中間が狭くなっていて,そのために,以前はライトフェンスが非常に高くなっていました。これでは,左のプルヒッターには不利でした。
 2018年から,ライトフェンスのイエローライン,つまり,ホームランラインが変更されて,これまでの高さ5.5メートルからレフトと同じ2.4メートルとされ,はるかにライトが狭くなりました。
 ということで,大谷翔平選手には有利なボールパークなのです。

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 私はグルメでないので,食べ物にはほとんど関心がありません。しかし,周りにグルメの人が多いことと,いろんなところへ旅したことがあるので,その土地で有名なモノとか,グルメ雑誌にのっているようなお店は行ったことがあるし,おおよそのモノは食べました。なので,あえていいモノを食べたいとも思いませんしこだわりもありません。
 ということですが,そんな私がひとりで外食をするとき,優先順位としては,まず,そのお店が空いていること,その次が提供される時間が早いこと。これでは,ファーストフードしか選択権がありません。
 で,時に食べたくなるのが,朝マックの「ビッグブレックファストデラックス」なのです。

 食事文化が貧困なアメリカでは,食事というモノはエサだと私は思っています。そこで,アメリカを旅するときに,とにかく手っ取り早く食事を済ますのに行くのがマクドナルドです。特に,コンボイのドライバーが利用するような安価で朝食のないモーテルに宿泊したときの朝食としては最も手ごろです。
 そんなときにオーダーするのが,この朝マック「ビッグブレックファストデラックス」(アメリカでは「Big Breakfast with Hotcakes」)となります。内容は,スクランブルエッグ,マフィン2枚,ホットケーキ3枚,ソーセージ,ハッシュポテト,バター,メイプルシロップ,ストロベリージャム,塩胡椒,そしてセットで注文したソフトドリンク。高カロリーなので,こんなものを毎日食べていたら寿命が縮まることでしょうが,そんなことは承知です。「たま」だからいいのです。これをオーダーしたくなるのは,まあ,時折起きる私の発作のようなものでしょう。
 そしてまた,これを食するときの私は,幸せ感一杯なのです。

 コロナ禍で行くことができなくなってしまったアメリカですが,私がアメリカ旅行をする目的は,もともとはディズニーランドに行きたい,MLB,つまり,本場のベースボールが見たい,ニューヨークでミュージカルを見たい,といった誰しもが夢見ることと同じでした。しかし,それを実現したのちは,日本では決して見ることができないどこまでも続く大平原をドライブすることであり,そのときどきに現れる小さな町でゆったりとした時間の流れにまかせることです。そのような小さな町にもたいていは存在するマクドナルドで,住んでいる人の姿を見ながら過ごす時間が最高の贅沢となったわけです。
 日本にいても,そんな贅沢はできません。道路はひどく狭く,景観は悪く,どこに行っても人だらけ,どんな山の中にもわずかな平地があれば小さな家だらけ。そこで,早朝,まだ,夜が明けきらぬ,周りが暗くて醜い町の景観がまだ闇の中にあるころに,マクドナルドに出かけて,ほとんどだれもいない店内で「ビッグブレックファストデラックス」を食べながら,気持ちだけアメリカに飛ぶのです。時間が飛ぶわけではないのですが,私には精神的な空間の移動がまさに「タイムスリップ」となるです。
 これこそが,今の私には至福の時間なのです。

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 オクラホマシティ(Oklahoma City)からアリゾナ州までのテキサス州とニューメキシコ州のルート66はほとんど走ったことがありません。
 唯一,サンタフェ(Santa Fe)あたりだけは,ルート66の標示を見つけて,こんなところを通過するのだと驚いたことがあります。
 その先,アリゾナ州のルート66はなかなかすばらしいところです。私が行ったのはフラグスタッフ(Flagstaff)で,インターステイツ40に並走してルート66が続いています。インターステイツ40を走っているとき,私が借りた車のカーナビの画面にはずっとルート66とかかれた道路が表示されていて,横を見ると,確かに,何度か写真でみたような風景があるのにうれしくなりました。

 フラグスタッフから東には,このブログに何度か書いたバリンジャー隕石孔(Meteor Crater National Landmark)と化石の森国立公園(Petrified Forest National Park)があって,私はインターステイツ40を走ったのですが,ずっとルート66が並走していました。
 また,その逆に,フラグスタックから西へもルート66が一部インタ―ステイツ40と交わりながらも,ほぼ並走し,ウィリアムズ(Williams),セリグマン(Selogman)といった,ルート66通には有名な町を通っています。
 その中心にあるフラグスタッフは,私はその町で1日を過ごすのをずっと夢見ていたのですが,その夢を2019年に実現させることができました。このことも別のブログに書きましたが,私のこころに残る町の中でも,特に大きな意味をもっているところです。

 ウィリアムスは古きよきルート66をほうふつとさせる町。多くの観光客で賑わいを見せています。
 観光地といえば確かに観光地化しすぎているのですが,それなりにおもしろいところ,日本でいえば高山のようなところです。
 その一方で,セリグマンは小さな町で,あっという間に町を過ぎてしまうのですが,ここには有名なお土産屋さんがあるのです。それにしても不思議なのは,こんな小さな町なのに,私は,偶然,そこに2度も訪れたことです。こんな奇跡的なことがあるのでしょうか?
  ・・
 そんなわけで,フラグスタッフのあたりのルート66は,ルート66の制覇ができなくとも余りあるすばらしいところでした。

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月,木星,土星,水星,
レナード彗星。

日没後の快晴の西の空。
月齢3.6の月の周りの惑星,そして,レナード彗星。
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 アメリカの南部の中でも,アーカンソー州,ルイジアナ州から東側は特に深南部といい,そこから西側とはずいぶんと雰囲気が異なります。
 それに比べて,ルート66の通るオクラホマ州,テキサス州,ニューメキシコ州などは,日本では考えられない平坦な悠久の大地が延々と続いています。それを走るのを退屈とするか,それとも,何かを思うかは,こうした土地の歴史を知っているかどうかでずいぶんと違います。どんなところにも,その土地を生きた人々の苦悩と喜びが詰まっているのです。
 私はテキサス州もニューメキシコ州も多くの道路を走ったのですが,これまで,ルート66は見事に逃しています。唯一走ったのはサンタフェ近郊だけで,そのころは,こんなところにルート66が走っているんだ,と驚いたことがあります。
 そこで,将来,ルート66を制覇するには,これまで走ったことのないオクラホマ州のオクラホマシティからアリゾナ州までを走らなければならないわけですが,これが並大な距離ではないので,このご時世ではちょっと絶望的です。

 今日の写真は,オクラホマ州の中で私が走ったルート66です。
 オクラホマ州のルート66はとてもきちんと保存されていて,走っていてとても楽しいものです。
 通過する町ごとに,ルート66に対して,リスペクトをもっていることがとてもよく感じられますが,これは,日本で,旧街道を歩くときに感じるものと一致します。
 このブログはルート66の観光案内ではないので,そういった内容他に譲るとして,ここでは,いくつかの私が通過した町について,断片的に書くことにします。
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 オクラホマ州のルート66を走ると,なだらかな丘とところどころにオイルポンプが点在していて,石油が埋蔵されていることを確認できます。この姿こそ,アメリカ南部であることが実感できます。
 また,そうでないところは,道路の際まで牧場があって,牛がのんびりと草を食べている姿を目撃できます。
 ミズーリ州からオクラホマ州に入ったところにあるのがマイアミという町です。マイアミのランドマークは「コールマンシアター」(Coleman Theatre)です。この劇場でウィル・ロジャース(William Penn Adair "Will" Rogers)のひとり舞台ことを忘れてはならないといいます。マイアミの次の町クレアモア(Claremore)の町の中心から少し外れたところに「ウィル・ロジャース記念博物館」があります。
 また,この劇場には幽霊が出るということで知られているのですが,これらのことは以前ブログに書いたことがあります。 
 ルート66を通る町には,ここだけでなく,幽霊が出るという話が結構あるので,私は興味を惹かれます。どの国でも,こういう話は好きです。

 また,オクラホマ州で生まれたサイラス・アヴェリー(Cyrus Avery)のことを知らずして,ルート66は語れないとさえいわれます。
 サイラス・アヴェリーは石油事業に力を入れ,その採掘のために頑強な道路が必要でした。しかし,その時代,オクラホマ州は道路後進地域だったので,サイラス・アヴェリーは地方行政官に立候補して当選すると,道路を整備することに努力して,1925年,ついにルート66が誕生することになったのです。
 やがて,オクラホマシティに到着するのですが,私は,その先を走っていません。

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 私が中学1年生のとき,つまり,今から50年前,はじめて学校で英語を学びました。ちょうどそのころ,アポロ11号が月に着陸したり,大阪で万国博覧会が開催されたりと,アメリカからいろんなものがやってきて,すごくあこがれました。
 大阪の万国博覧会にオズモンドブラザーズ(Osmonds Brothers)という人気グループが日本にやってきました。
  ・・
 オズモンド家は8男1女で,三男から六男までの4人でコーラスグループを結成,その後,七男のダニーが加わったのがオズモンドブラザーズでした。当時大スターだったアンディ・ウィリアムス(Howard Andrew Williams)のTVショーにレギュラー出演してアメリカのスターとなっていました。 来日したとき,長女マリー(Marie Osmond)と幼稚園児だった八男ジミー(Jimmy Osmond)が加わったカルピスのCMが放送され,ジミーは日本で日本語の歌のレコードも出しました。
 1970年11月,「オズモンズ」(The Osmonds)と改名して,ついに「ワン・バッド・アップル」(One Bad Apple)が全米で大ヒットしました。
  ・・・・・・
 One bad apple don't
 Spoil the whole bunch girl
 Oh, give it one more try
 Before you give up on love
  ・・
 ひとりの悪いコにだまされたとしても,みんなが悪いコじゃないよ。
 もう一度トライしたら…
  ・・・・・・
という歌詞です。
 この曲のヒットで,このグループはアメリカのショービジネスで生き残れたのですね。 私は当時大ファンだったで,「ワン・バッド・アップル」のレコードを買いました。この歌,今も歌えます。
 1970年の大阪万博を中学校の遠足で見にいったときに,偶然,彼らが万国博覧会のホールでやっていたアンディ・ウィルアムスのコンサートに出演していて,ショーの合間の時間に会場を歩いていたのを目撃したことがあります!
  ・・
 その後,七男と長女のダニー&マリー(Donny & Marie Osmond)という兄妹のTVショーが放送されてアメリカで人気を博したという噂を聞きましたが,来日はしませんでした。
 それ以来,日本ではまったく噂を聞かなくなって(実際はラスベガスで活躍していたらしいのですが),気になっていたのですが,なんと,2000年に私がアメリカに行ってロサンゼルスでベースボールを見たときに,始球式でダニー・オズモンドが出てきて驚きました。

 アンディ・ウィリアムスは日本でいえば加山雄三のような歌手で,映画「ティファニーで朝食を」(Breakfast at Tiffany's)のテーマ曲「ムーンリバー」(Moon River)がヒットし,そのころ日本にもたびたび来日しました。紅白歌合戦にも出たことがあります。
 アメリカでは,そうした大スターが晩年,ミズーリ州のブランソンという町で常設の自分のシアターを作って,そこでショーを開いています。ブランソンにはそうしたシアターが一杯あります。アンディ・ウィリアムスもまた,晩年,ブランソンの「ムーンバーシアター」で連日ショーをやっていて,オズモンズも出演していたようです。
  ・・
 私は,何と偶然,2015年にブランソンに行ったのですが,その3年前にアンディ・ウィリアムスは亡くなっていて,ショーを見ることができませんでした。オズモンズはショーを続けていましたが,残念ながら,私の行ったときに限って,ショーがなく,見ることがかないませんでした。
 あとで知ったことには,2009年に歳をとったオズモンズは解散して,それ以降は若い3人だけで続けていたということです。だから,もし私が行ったときショーをやっていたとしても3人だけのオズモンズだったのでしょう。

 オズモンド家はモルモン教徒だったので,2009年のファイナルコンサートはユタ州のソルトレイクシティで行われました。そのときに歌った「ワン・バッド・アップル」の動画と若いときの動画を見比べると私は泣けてきます。これがアメリカンドリームを成し遂げた人生50年のすべてです。同じ年代だし,人生って短いんだよ。何かとても悲しい。
 ファイナルコンサートが行われたというソルトレイクシティの劇場もまた,私は偶然,2016年に行ったことがあるので,これもまた驚きでした。
  ・・
 こうして,私とは,もつれあい,しかし,微妙にすれちがった彼らのグループを思い出すと,切なくも懐かしくもなる,というお話でした。


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