しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国50州 > ニューメキシコ州

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 こころゆくまでまっすぐな道を走ってみたい。
 そんな夢を実現するのに最高なのは,何といってもニューメキシコ州です。
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 ニューメキシコ州(New Mexico)は南西部にある州で,北はコロラド州,東にはオクラホマ州とテキサス州,西はアリゾナ州,南はテキサス州およびメキシコとの国境に接しています。面積はアメリカで5番目に大きいのですが,人口は36番目と,ほとんど人が住んでいません。その美しい景観から「魅惑の土地」(Land of Enchantment)と称されます。
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 今日の写真はロズウェル(Rosewell)からサンタフェ(SantaFe)に行ったときに走った国道285ですが,あたり一面何もなく,360度地平線が見られました。こんな景色は日本では絶対に見ることができません。
  ニューメキシコ州は年間340日も陽光に恵まれるというところで,自然災害もきわめて少ない州です。雨が少なく乾燥しています。私が走ったときはちょうど満月で,早朝,北に向かって進む私の車の窓から,右手,東の空から太陽が昇り,左手,西の空には満月が沈むという姿を見ることができました。

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国際宇宙ステーション

5月14日午後8時9分。
薄雲でしたが,北西から天頂を通り南東に,
非常に明るい国際宇宙ステーションが通過しました。

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 前回までグランドサークルの国立公園とそれに付随してロッキーマウンテン国立公園について紹介してきました。
 グランドサークルの国立公園で私がまだ行ったことがないのが,キャピトルリーフ国立公園,キャニオン・デ・シェイ国定公園,メサベルデ国立公園なのですが,先に書いたようにキャピトルリーフ国立公園はダート道が続くので断念して,キャニオン・デ・シェイ国定公園とメサベルデ国立公園は2020年の夏に行くつもりだったので,少し心残りです。また,アリゾナ州の南には,サワロ国立公園とチリカワ国定公園があって,ここもまだ行っていません。この辺りはキットピーク天文台などの天文台があるので,それとともに行こうと考えてたのですが,これもまた,夢に終わっています。
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 さて,今日からはさらに南に下って,ニューメキシコ州のホワイトサンズ国定公園とカールズバッド国立公園を紹介することにします。
 私がホワイトサンズ国定公園とカールズバッド国立公園行ったのは2014年の春のことでした。
 ニューメキシコ州やテキサス州は春に行くべきで,夏では暑すぎます。
 もともと私が行きたかったのはUFOで有名なロズウェルだったのですが,このときテキサス州から西にインターステイツ10を走り,ロズウェルからさらにサンタフェまで行くことができました。このふたつの国立公園はその途中で寄ることができました。
 ニューメキシコ州は,行けるものなら行ってみな,というほど,日本から行くのがたいへんなところです。よほどのエネルギーと情熱がないと行くことができません。ニューメキシコ州の大地は,それはそれは現実離れしていておもしろいところでした。どこに宇宙人がいても不思議な気がしません。

●ホワイトサンズ国定公園(White Sands National Monument)
 ホワイトサンズ国定公園はエルパソから2時間ほど北に行ったところにあります。砂が白い砂漠,という感じなのですが,この白い砂は石膏の粉で,砂とは違って歩いていても沈まないし,表面は暑くなりません。
 到着したときは,一見規模が小さそうだったので,何だ予想以下じゃないか,と落胆したのですが,それがそれが,実際はすごいところでした。私がもっとも記憶に残るのは,あわや迷子になりそうだったということです。駐車場に車を停めて,軽い気持ちでトレイルを歩きはじめたのですが,どこを見ても景色が同じで,写真を撮っているうちに方角がわからなくなってしまったのです。一応,行先の目印はあるのですが,反対方向に行ってしまうと,とんでもない時間がかかるのです。これには驚きました。
 幸い,遠くに車が見えたので事なきを得たのですが,アメリカの大自然を甘くみてはいけないのです。また,いい経験をしました。
 私はアメリカの旅では,モンタナ州で交通事故にもあったし,ロサンゼルスのマクドナルドで置き引きに遭ってパスポートも含めて何から何まですべて盗られたことももあったし,ロッキーマウンテン国立公園では山で遭難もしかけたし,アラスカ州では深夜に車を運転していてトナカイとぶつかりそうになったし,ワシントン州では運転している車にシカが激突してきたし,シアトルではパンクもしたし,カンザスシティからデトロイトに行く途中の飛行機が煙を吹いたこともあるし,今回は,ホワイトサンズ国立公園でトレイルを歩いていて進む方向がわからなくなりかけたけれど,そんな数々の災難にもかかわらず,これまで無事に生き延びたことが,今考えると奇跡のような気がします。


◇◇◇
藤井聡太九段,
史上最年少三冠達成。

王位,棋聖に続いて,叡王を獲得しました。
昨日のタイトル戦の「あざとい」(姉弟子の室田伊緒女流二段談)藤井聡太新三冠のおやつは
「コロコロしばちゃん」でした。
次は竜王戦挑戦です。
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 サンセット・ストロールの夕焼けはたいしたことはなかったが,それでも,真っ白い大地の日暮れを楽しむことができた。太陽が沈んで,このツアーも流れ解散になった。
 私は,車に戻って,ホテルを目指して,車を走らせた。
 
 帰りの国道70は,周りは真っ暗で,時折通る車のライトと,遠くにアラモゴードの光が少し見えるだけであった。
 アメリカの大地は,お昼間はその雄大さに見とれながらドライブを楽しむことができるが,日が暮れて暗くなると,本当に真っ暗になってしまって,道路の左側の黄色いラインだけがライトに照らされて,これだけを頼りに走っていくことになる。
 たいした距離でもないのに,ホワイトサンズ国定公園からアラモゴードまでがずいぶんと遠く感じられた。
 夏時間なので,日本の感覚とは1時間違って,日が沈んだばかりなのに,もう,夜の9時近くであった。
 ホテルの場所は調べてあったが,まだ,チェックインをしていなかったので,フロントに行ってチェックインをした。
 チェックインが終わって,夕食をとるために,再び外に出た。近くにデニーズがあったので,そこで食事をした。
 ホテルに帰って,あすのホテルを予約した。

 いよいよ,明日は,テキサス州にもどることになる。
 きょう1日で,カールズバッド洞穴群国立公園とホワイトサンズ国定公園に行くことができた。なんとかニューメキシコ州で行きたかったところはこれで制覇することができたわけだ。
 ここまで来たからには,明日の朝は,エルパソまで行って,そこからインターステイツ10をもどろうと思った。ホテルは,来るときに調べてあったジャンクションという名の町に決めて,一番安価なホテルを予約した。
 すでに書いたことだが,なぜか,この日のアラモゴードのホテルについては,ほどんど記憶がないのである。写真を見ても,なかなか実感がわかない。どうしてだろうか?

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 アラモゴード (Alamogordo) は人口約35,000人。
 ホロマン空軍基地とホワイトサンズ・ミサイル実験場という二つの主要な軍事基地がある。
 この軍事基地では,史上初の原子爆弾が1945年7月16日に起爆された。また,最初の宇宙飛行チンパンジー・ハム (Ham) の生誕地である。彼は1961年1月31日,フロリダ州ケープ・キャナヴェラルから打ち上げられ,大西洋へ無事に着水した。ハムは1983年にに死亡し,遺体はアラモゴードにあるニューメキシコ宇宙歴史博物館前の芝生に埋葬されたという。
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 そうした事も,今回,この旅をするまで,私はよく知らなかった。

◇◇◇
ひそかに期待していたピッツバーグ・パイレーツは,サンフランシスコ・ジャイアンツに完敗して,ポストシーズンから姿を消しました。残念です。
ピッツバーグ・パイレーツは,チームカラーが黒なので,黒い服をきた観客でスタンドが真っ黒に染まって,異常な状態になります。MLBでは,ポストシーズンともなると,どこも客席の雰囲気がすごいことになるので,興味のない方もこれだけでもご覧になるとおもしろいと思います。
ピッツバーグは,ペンシルべニア州にあって,アルゲイニー川とマノンガヘイラ川とオハイオ川に囲まれた美しい都会です。本拠地PNCパークはアルゲイニー川を6番ストリート橋で渡ったところにあって,ホームランを打つと,ボールが海ポチャならぬ川ポチャになります。また,アンディ・ウォーホール美術館もあります。
私は,この街で道に迷った挙句,偶然,カーネギー博物館にたどりついた思い出があります。

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 サンセット・ストロールでは,ボランティアのレインジャーが,ホワイトサンズについていろと説明をするのを聞きながら,白い砂地を歩いた。
 まだ日没には1時間くらいあったのだが,雲が多く,私は,夕日が見られるかどうかとても心配であった。
 どうしてこの地がこのように白い世界になったのかとか,所々に生えている植物の生態とかの詳しい説明があった。ビジターセンターで見たのと同じような内容であったが,やはり,実物を見ながらだから,それなりに説得力があった。
 アメリカのこうしたツアーガイドは,どれも内容が詳しく,しかも,参加者が積極的に質問をしたり,時にはジョークを交えたり,と国民性の違いといってしまえばそれだけのことかもしれないが,いつも,すごいなあ,と思う。しかも,どこも無料である。

 デューンズ・ドライブから離れ,どんどんと奥まで歩いて行くので,自分ひとりだったら迷子になってしまったであろう。そうした意味でも,このツアーは参加した甲斐があった。
 海岸の砂丘だと,スニーカーで歩くと,靴の中まで砂が入ってしまうが,そうした砂丘や砂漠とは違って,ここの白い砂は,その表面だけが砂地なので,歩いても足が砂の中にめり込む,ということはない。底は堅い石膏なのだ。だから,強い風が吹いても,それほど砂が舞い上がることもないのであろう。
 しかし,いくら詳しい説明があっても,それほど説明するようなものもないし,この国定公園は他にはない信じられない風景とはいっても,それだけのところである,というのが私の正直なところであった。
 ツアーの参加者も,はじめのうちはレインジャーの説明を一生懸命に聞いていたが,だんだん飽きてきて,それぞれが勝手に写真を写したり,少し離れて歩いたりしはじめた。
 やがて,日没の時間になった。雲の間から太陽が沈むのが見えたり見えなかったりしたけれど,特に夕焼けになるようなこともなく,少し西の空が赤くなった程度であった。
 一緒に参加していた日本人が,思ったほどきれいじゃなかったね,といっているのが聞こえた。

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 お昼間,波長の長い赤色の光は,大気中を直線的に通過するので,観察者の視野には,光源である太陽の見た目の大きさの範囲に収まってしまうが,波長の短い青色の光は,大気の熱的ゆらぎにより散乱するために空は青く見える。
 夕方になると,光線の入射角が浅くなるので,大気層を通過する距離が伸びるから,青色の光は障害物に衝突する頻度が増すことで吸収されるから,地表に到達しにくくなる。その代わり,赤色の光など波長の長い光線は散乱されて,太陽が沈む方向の空が赤く見えることになる。
 夕焼けがきれいに見える条件は,赤い波長の光線を散乱させる水蒸気などが大気にあること,適当な量の雲がありその雲より低い高度,つまり,雲の下から太陽光線が当たることである。このふたつの条件が達成されるためには,昼と夕の気温差が大きくて,湿度が高く,上空には雲があるが,西の方には雲がないことである。
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 私がホワイトサンズ国定公園に行ったときは,この条件を満たしていなかったというわけだった。

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カンザスシティ・ロイヤルズが劇的なサヨナラ勝ちをして,地区シリーズ優勝決定戦進出を手に入れました。今年もおもしろくなりそうです。

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 まだ,日没には2時間ほどあったのだが,ここまで来たからには,サンセット・ストロールという,夕暮れのホワイトサンズを1時間かけて歩くというレインジャープログラムに参加しようと思った。
 時間がたっぷりあったために,先に歩いたインターデューンボードウォークにもう一度出かけてみたり,ハート・オブ・ザ・サンズに行ってみたりもしたが,確かに,いたるところ真っ白な世界で,日本では決してみることのできない圧倒的な風景ではあるけれど,簡単にいえば,それだけのところなのであった。
 そり遊びをする人や,小高い山に登っていく人など,それほどには多くない観光客は,思い思い楽しんではいたが,あまり遠くまで行ってしまうと,場所を見失ってしまうし,特にすることもなくなってきた。まだ,この公園にいる人たちは,きっと,みんなサンセット・ストロールに参加するために時間をつぶしているのに違いがなかった。

 心配していた風は,この日は止んでいたが,そのかわり,雲が多く,日没が見られるかどうかは微妙なとろこであった。
 なんとなく時間をつぶしていたら,やがて,日没まで1時間くらいになってきて,サンセット・ストロールの出発する時間になってきた。この集合場所の近くの道路際には,だんだんと駐車する車が増えてきた。私も,車を停めて,人がちらほら集まってきたところで,同じように待っていた。
 時間になって,初老の夫婦がやってきた。彼らがこのレインジャープログラムの案内人であった。

 アメリカの常で,まず,彼らの自己紹介があって,次に,ツアー参加者がめいめい,どこから来たかを言うことになった。参加者は10数人程度であった。
 参加していた中に,意外にも中国人やら日本人やらがいたが,私は日本人がいるのに大変驚いた。
 昨年,ボストン近郊のプリモスプランテーションというテーマパークへ行ったときも,日本人はいなかった。さすがに,ニューヨークのヤンキースタジアムには日本人はいたけれど,ボストンのフェンウェイパークにも日本人はいなかった。
 サンアントニオでも見ることはなかった。それが,ここには,日本人の若者のグループが4人と家族連れが3人もいた。私は,もちろん,彼らが仲間内で話している日本語がわかったが,彼らの話していた内容は,案内人の話す英語は,TOEICのリスニングの英語よりむずかしいとか,まあ,そんなようなくだらないものであった。
  ・・
 それにしても,日本の若者はかわいそうだ。
 彼らは,子供のころから,非効率で何を目的としているのかわからぬ日本の学校教育に毒されていて,テストで点数を競うことを勉強と勘違いして育てられてしまっている。そこで,日本から外に出たときに,自分で飛び立つ羽が育っていないのだ。彼らを教育している教師だって,飛び立つ羽がないわけだから,これは,救いようがないのである。だから,こういう会話になるのである。

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 ここを散策し終えて,その先を目指していくと,次第に,植物もなくなって,あたりは全面真っ白い世界になってきた。道路も,また,真っ白な砂に覆われるようになってきた。
 すると,サンセット・ストロール集合場所という標示があった。
 サンセット・ストロールというのは,夕暮れのホワイトサンズを1時間かけて歩くというレインジャープログラムである。
 そのまま走っていくと,ハート・オブ・ザ・サンズという,ピクニックテーブルが並ぶ場所に出た。

 この国定公園の一番奥まったところにあるハート・オブ・ザ・サンズで,デューン・ドライブはぐるりと大きく弧を描き,1周して,戻ることができるように地図には書いてあるのだが,道が二手に分かれていたり,走っていくと1周しないで同じ場所に戻ってしまったりして,なんかよくわからなかった。なにせ,真っ白な世界,道だけ見ても方向すらわからなくなってしまうのだった。
 そんなわけで,私は,ここを何周もする羽目になったが,次第にどういったふうになっているのかがわかってきた。
 ここは,ビジターセンターから最も離れた場所で,植物の生えていない広大な真っ白い平原の風景が延々と続いていた。
 駐車場に車を停めてコースに行くと,1周なんと5時間! 程度のトレイルを歩くことができるようになっていた。

 ここのコースは署名してからでなければ立ち入ることができず,日没までに戻ってきたことがわかるように戻った時刻を記入して公園管理官に無事を知らせる必要があるということが書かれてあった。
 砂丘では似たような景色が続くために,あらかじめ定められたコースを含めて,砂丘に立ち入る場合には背の高いもの,例えば入口にある給水塔や山脈の景色で方角と自分の位置を確認してから立ち入るよう薦められていた。コースを外れる場合には,コンパスも必携であった。
 また,春には強風が吹くために,砂塵で視界が1メートル以下に遮られてしまうこともあり,足跡もすぐに消えてしまうために,簡単に自分の位置を見失ってしまうということだった。このため,目印に立てられているポールが見えなくなったときはすぐに引き返すようにということであった。

 私は,もちろん,このコースを歩くつもりはなかったが,少しだけ様子を見ようと先に進んでいった。しかし,これは,実際はとんでもないことであった。
 わずか数分歩いただけのところに立って周囲を見渡しながら写真を撮っていたら,方角が全くわからなくなってしまったのだ。遠くに目印のポールが見えるのだが,そのポールが,これから進んでいく方向にあるのか,あるいは,来た道にあるのかさえわからなくなった。
 もし方向を間違えると,もどるのに5時間かかるのだ。
 私は,かなり動揺した。注意事項は,そのとおりなのだと実感した。
 幸い,そこからすぐの高台にのぼってみると車の駐車場が見えたので,事なきを得たのだった。
  ・・
 急に怖くなって,私は,すぐに引き返した。
 それにしても,すごい所だった。
 アフリカの砂漠には行ったことはないのだが,まさにこんな感じなのだろうと思った。ただし,石英を主成分とする砂状結晶でできている砂丘とは異なって,最も暑い夏季にさえ,石膏は太陽のエネルギーをすぐには熱に変えないので,素足で問題なく歩くことができるということであった。若者や子供たちが,ここでそり滑べりを楽しんでいたのも,そんなわけだった。
 デューンライフネイチャートレイルが気になっていたので,一度,このハート・オブ・ザ・サンズから入口に引き返して探してみると,確かにインターデューンボードウォークよりもはるか入口よりのところにデューンライフネイチャートレイルがあったが,立ち入り禁止になっていた。

 なお,ホワイトサンズ国定公園はホワイトサンズ・ミサイル実験場の中にあるので,ニューメキシコ州ラスクルーセス及びアラモゴード間の国道70と国定公園は,ミサイル実験場でテストが行われる際に安全理由のために閉鎖されるのだという。この閉鎖は平均して1~2時間の間,だいたい週に2回ほど起こるということだが,私のいたときは,幸い,こうした事態は起きなかった。

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 ホワイトサンズ国定公園は,アラモゴードの南西およそ25キロメートル,標高約1,200メートルに位置する白い大砂丘地帯である。
 これまでに書いたように,アラモゴードから国道70を30分ほど走っていくと,ホワイトサンズ国定公園の入口に着いた。
 ホワイトサンズ国定公園は,ビジター・センターが午前8時から午後6時,ホワイトサンズ国定公園内を車で走ることのできる道路デューンズ・ドライブへの立ち入りは夏季は午前7時から午後9時,冬季は午前7時から日没となっていた。
 まず,入口にビジターセンターがあったので車を停めて中に入ると,案内所や売店があった。また,ここでは,ホワイトサンズ国定公園のできた仕組みなどを解説するビデオが上映されていた。

  ・・・・・・
 ホワイトサンズ国定公園は,石膏の結晶でできた約700平方キロメートルの広大な白い砂丘の南部から成っている。
 石膏は水溶性なので,普通は,雨が石膏を溶かして海へ運んでしまうから,白い砂のままであることはないのだが,ここトゥラロサ盆地には,海に注ぐ川がないために,周囲のサン・アンドレス山脈とサクラメント山脈から石膏を溶かした雨がこの盆地に留まって,地面にしみ込むか浅い池を作り,それが乾燥して,地表に透明石膏と呼ばれる結晶様の石膏を残した。
 また,この地は,氷河期の間はオテロ湖と呼ばれる湖であったが,それが乾燥して,透明石膏の結晶の大きな平地になった。干上がったオテロ湖は,現在は,プラヤという,大雨が降ったときだけに水が溜まる低地で,1年のうちの大部分は乾燥している。
 こうして,ここの地面は,最高3フィートに達する透明石膏の結晶で覆われた。
 石膏の結晶は,風化と浸食が結晶を砂状に砕き,それを南西からの強風が持ち去って白い砂丘を作っていく。石膏の砂は最初は透明なのだが,砂粒同士が擦れ合って傷ができて光を通しにくくなるため,だんだんと白くなっていく。
 ここの砂丘は絶えず形を変えて,1年間に約9メートルずつ風下に向かって南西から北東へゆっくり移動する。
 また,砂丘の行く手で砂が植物を覆ってしまうが,ある種の植物は,砂丘によって埋められることなく十分な速さで成長することができる。
  ・・・・・・
 そんな内容のビデオであった。

 ビジターセンターを出て,再び車に乗って,その横にあるゲートから公園の中に入っていった。この道をデューンズ・ドライブという。
 デューンズ・ドライブは,ホワイトサンズ国定公園の入口にあるビジターセンターから砂丘に向かって12キロメートル,ほぼまっすくに延びる道路であった。ホワイトサンズ国定公園ではデューンズ・ドライブを外れて自転車や自動車で砂丘に乗り入れることは禁じられているが,ところどころに車を停める場所があって,そこからは徒歩で砂丘を探索できるコースが作られていた。また,これらのコースに限らず,ホワイトサンズ国定公園ではどこでも歩くことができる。
 デューン・ドライブを車でしばらく走っていくと,だんだんと,周りの土地が白い砂に覆われてきた。ただし,しばらくは,一面真っ白な世界,というのとはほど遠かったので,やっぱり,ここはたいしたことないんじゃないかなあ,とこのときは思った。

 ここの砂地は,風化とか移動でよくコースが変わるようで,地図によって,コースが違ったりして,自分の居場所がよくわからなかった。
 まず,デューンライフネイチャートレイルというのがあると書かれていたけれど,見つからなかった。私が初めに見つけた散策コースは,その次のインターデューンボードウォークであった。広い駐車場があったので車を停めて,コースに出た。
 ここは,ビジターセンターから7.2キロメートルの距離にあって,コース長585メートルの往復コースであった。このコースは板張りの道が整備されていて,車椅子やベビーカーでも利用できる唯一のコースであった。遊歩道のところどころに情報を記した看板や休憩用のベンチが備えられていて,ここを歩きながら,ホワイトサンズの白い砂やら,この砂地にめげずに育つ植物を見ることができた。
 私は,真っ白い砂以外に何もない世界,というのを想像していたから,こうした植物の生えたところをみて,またしても,それほど大したところでないなあ,と思った。後で知ったことには,このような環境であっても成長する植物というものもそれなりに学問的な価値や意義のあることなのだったのだが…。

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 再び国道285に沿って車を走らせて,アーテーシアをめざした。やがて,国道285はアーテーシアのメインストリートとなって,銀行やらレストランやらが見えるようになってきた。スピードを落として,注意深く国道82の標示をさがした。
 信号のある交差点で,その標示があったので,左折した。あとはひたすら国道82を進んでいけばよい。
  ・・
 国道82を走り始めたら,車の警告灯が灯った。「MAINT REQD」である。この警告灯は,昨年の夏に東海岸を走っていたときにも表示された。そのとき私はパニックになった。車内には説明書もなく,心配になって,レンタカーの営業所に行って,車を交換した。
 日本に帰国した後で調べたら,これは,ほっておいてもいいらしいということがわかった。
 私が,「REQD」を「liquid」と勘違いして,なにか重要な液体が漏れているか足りないかと思ったのが誤解であった。
 これは,メンテナンス・リクワイアード(maintenance requred)である。インターネットで"What does the dash light mean"Maintenance Required?" と入力するといろいろ出てくる。今回借りた車にはちゃんと説明書があったので,そのライトの項目を見ると,どうやらこの警告灯はアメリカ仕様の車についているものらしい。カナダや日本にはない。「Engine oil replacement remainder light」で,ただ単に,5,000マイル毎にエンジンオイルを交換しろといういう警告ランプが点灯するだけなのだ。このランプは,オイル交換をしても自動でリセットされる事はなく,リセットをしなくてはならない。
 そんなわけで,今回は,この警告灯を無視することにした。きっと,アメリカでレンタカーを借りて長距離を走ると,だれもがこのランプの点灯に遭遇することであろう。

 道は広く,周りは,牧草地帯なのか,単なる荒れ地なのかは知らないが,道はどんどんと荒野に向かって続いていった。
 新しい町を過ぎて、道はどんとんと高台になって,「地球の歩き方」に書いてあったように,チョーヤサボテンやらユッカが生える広大な丘になった。遠くには山並みが見えるようになってきた。
 日本にもある高原道路のような感じになってきた。ただし,道路は広く,行き交う車もほとんどなかったが,周りにはリンゴ畑があったり,牧場があったり,池なのか湖なのかわからないが,そんなけっこうきれいな風景が続くようになって,明らかに、気候や景観が異なるようになってきた。やがて山道となって,道路の南側、つまり山の北斜面がスキー場になったところがあった。若干雪が残っていた。
 このあたりは,リゾート地であるらしく,宿泊施設やら,駐車場やらもあって,行き交う車の台数も増えてきた。
 やがて,トンネルをがあった。トンネルを出たところから,遙か西に景色が広がって,すばらしい景観になった。直線道路をずっと下っていくと,やがて,アラモゴードの町に出た。
 奈良の東名阪道を天理インターで降りるような感じなのだが,道が広く,直線であるというのが,決定的な違いであった。

 さらにずっと走って行くと,国道82は国道54と名を変えて,アラモゴードのバイパスになって,アラモゴードのダウンタウンの1本西を進んでいった。この町のすごさは,やらたとだだっ広いということであった。
 普通のアメリカの町(といっても日本に比べればこれだってめちゃ広いのだけど)をさらに横に10倍くらい拡大したような感じであった。
 ともかく,道は広く町は遠く,空は高く…。
 アメリカはどこも広いとはいえ,これだけの景観ははじめてのことであった。
 そのままずっと走って行くと,陸橋があって,ダウンタウンから来た国道54のローカル道路と交差して,それを過ぎると,アラモゴードの町は終わってしまった。
 夕方4時頃のことであった。
 陸橋で国道54はパイバスとローカル道路が一緒になって南にすすむ。そのまま陸橋を渡って走れば,国道70というだだっ広い道路になって,その道をさらに進むと,まもなくホワイトサンズ国定公園に着いてしまうのだけれど,せっかくこの時間に到着したので,夕暮れのホワイトサンズを楽しむことにした。となれば,帰りは遅くなるから,とりあえず,ホテルの場所だけ確認しようと思った。
 そこで,陸橋を越えたあたりでUターンをして,再び,アラモゴードを目指した。今度は,国道54のバイパスではなく,それに平行して走る国道54のローカルに入った。陸橋を越えたところから,アラモゴードのダウンタウンになって,道の両側に,どこにもあるアメリカの町のように,レストランやらホテルやら続くようになってきた。
 予約をしたホテル「デイズインアラモゴード」は,すぐに見つかった。
 ここで,チェックインだけ済ませてもよかったのだが,暗くなってもホテルの場所を見つけることは容易なことが確認できたので,わざわざチェックインするのが面倒になって,ホテルの場所だけを確認して,私は,再びUターンをして,そのままホワイトサンズ国定公園に向かった。
  ・・
 片側4車線くらいあって,しかも中央分離帯がないものだから,めちゃめちゃ広い道路をどんどん進むと,やはりこの広い道で油断するせいか,左側には,スピード違反で捕まった車がいたりした。
 さらにさらにこの道を進むと,遠くに,白い小高い山が見えてきた。きっと,そこがホワイトサンズ国定公園であるに違いなかった。はじめの印象は,小さな国定公園だなあ,期待はずれだなあ,ということであった。
 それが,大きな誤解であったことに,私はあとで気づくのであった。

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 カールズバッド洞穴群国立公園を出発して,再び,針路を北に,昨晩泊まったカールズバッドの町をすぎ,さらに北に,アーテーシアまで国道285をもどることになった。アーテーシアで,国道82に左折して,そこから西にアラモゴードという町まで行くのである。
 今晩は,そのアラモゴードにホテルが予約してあるから,早く着けば,きょう,ホワイトサンズ国定公園へ行けるだろうし,遅くなれば,明日の朝,ホワイトサンズ国定公園へ行こうと考えていた。
 そうそう,これを書いていて思い出したのだが,昨日の夕刻,ロズウェルからカールズバッドへ行く途中は,ものすごい風であった。制限時速が112キロメートルの道路を時速約100キロメートルで走っていた私の車は,何度,風にハンドルをとられたかわからない。それを思い出して,きょうも同じような状況だったら,ホワイトサンズ国定公園はとんでもないことになるぞ,と心配した。そういえば,反対側車線を走っていた車の中に,車全体がまるで砂漠からきたかのように砂だらけだったものがあった。

 カールズバッドからホワイトサンズ国定公園へむかう様子は,「地球の歩き方・アメリカの国立公園編」に,次のように書いてある。
  ・・・・・・
 カールズバッドから国道285を北上して,アーテーシアに行く。
 アーテーシアから国道82を西へ,あとはひたすら国道82の標識をたどる。チョーヤサボテンやユッカが生える広大な丘を越え,リンゴ畑を走り抜け,やがて山道となってスキー場を過ぎると,峠のトンネルを出たところでようやくホワイトサンズが見えてくる。坂を下りきったところがアラモゴードだ。
  ・・・・・・
 たったこれだけだが,この表記はとても正しい。これを書いた人は,実際,このルートを走ったに違いないのだ。しかし,これだけを走るのに,4時間かかるのだった。

 まず,昨日来た道,国道285を,北上して行く。アーテーシアまでは,インターステイツと変わらない快適な片側2車線の道路がずっと続いていて,昨日見たように,アーテーシアの手前あたりに,大油田地帯があった。そのあたりに,パーキングエリアがあったのだが,このパーキングエリアが,大油田帯の景観を見るためのものかどうかはわからなかった。
 私は,きのう,この大油田帯に感動したものだから,そして、パーキングエリアがあったことも知っていたから,ここに車を停めて,大油田帯を見ようと思っていた。ところが,あっという間にパーキングエリアを通り越してしまったことに気がついた。
 しかし,そのあとしばらく走っていくと,中央分履帯にUターンゾーンがあったので,そこでUターンをして,念願のパーキングエリアまで戻ることができたのだった。
 この道がインターステイツでないので,Uターンが可能であったことが幸いした。

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 こうして,一旦エレベータに乗ってビジターセンターに戻った。ビジターセンターの奥に展示室があって,この洞窟に関する様々な充実した展示があった。その奥に,別の洞窟へ行くための出口があった。
 実は,そこが,メインコリドーにつながるナショナル・エントランスへ向かう出口であった。

 まず,このビジターセンターの奥の出口を出て,地上を300メートルくらい歩いていった。草の茂るひろい荒れ地に道が作られてあった。この平原を歩いていると,この下に巨大な洞窟が広がっているとは信じがたかった。
 その先に広場があって,そこにレンジャーがいて,チケットの確認と注意事項の説明があった。
 注意事項とは,鍾乳石に触れない,ガムをかまない,など,当たり前のことであった。

 そこを過ぎると,屋外劇場のように石の座席が設けられていて,座って見学出来るようになっている場所があった。そこが,有名なコウモリの飛翔の観覧場所なのであった。
 夏の夕刻になると,ここで,その先のぽっかりと空いた洞穴から飛び出てくるコウモリの大群を見ることができるのだそうだ。
 そのコウモリの大群が出てくる洞穴の天然の入口がナショナル・エントランスだった。
 ここから約2キロメートル下降していくトレイルが走っていた。
 結構広い道がくるりくるりとそこを下っていくと,約230メートルほど先の地底に向かって降りていくことができた。
 他の観光客は,写真をとったり,はしゃぎながら,どんどんと地底に向かって歩いて行く。私も同じように歩いて行った。昔テレビのドラマで見た「タイムトンネル」みたいだった。

 ここのメインコリドーという名の洞窟内も,先に見たビッグルームと同じように,奇妙な形をした鍾乳石があって,そららは,悪魔の泉とか,鯨の口とか,魔女の指先といった名前がついていた。
 洞窟の入り口近くは,先に見たビッグルームがあまりにすばらしかったので,それに比べれば大したことがなかったから,少しがっかりしていたのだが,進むにつれて,気がつけば,ずいぶんと深い所に下りてきていて,やがて神秘の世界に出た。
 先にエレベータで降りたビッグルームと同じ深さにまで歩いて降りたのであった。

 そうやってトレイルを見学しながら歩いていった。
 1時間くらい歩いただろうか,地底部分ではトレイルに上り下りがあって,歩いていると結構暑く,次第に汗をかいてきた。
 そうしてさらに歩いて行くと,その洞穴の先に,なんと,先に見学したビッグルームがあった。つまり,このふたつめの洞穴はつながっていたということだった。だから,私は,もう一度,先ほどと同じようにまたビッグルームを歩いて,また,エレベータに乗って,ビジターセンターに戻ることになった。
 このようなわけで,まずはじめにメインコリドーから見学すれば,私のように2周しなくても,また,下るときはエレベータを利用しなくても,一筆書きで2つの洞窟を見学して,最後の上りだけエレベータを利用することになるのであった。
 このとき,さきほど,汗をかいていた人の理由もわかったのだった。

 アメリカではどこへ行ってもそうなのだが,ここカールズバッド洞穴群国立公園もまた,想像を絶する広さと迫力であった。私は,地上から見てもわからないのに,どうして地底にこんなすごいところがあることが見つけ出されたのか,そして,どのように探検されてきたのか,ということがとても不思議だった。
 アメリカの国立公園は,どこも,とてもしっかりと整備されていて,もちろん,ゴミひとつない。掲示が古びていたり壊れていることがない。手すりがさびていることもない。そして,そこが,どれほど辺鄙なところであっても大勢の観光客が来ている。
 ここ,カールズバッドも,また,例外ではなかった。
  ・・
 今回の私の旅は,予定の変更が多く,事前の予約ができなかったために,キングス・パレス・ツアーには参加することができなかった。しかし,このようにふたつの見学コースをまわるだけで,ゆうに3時間ほどかかったから,もし,もうひとつ見学するとなるとたいへんであった。私は,これで十分に満足できた。
 ビジターセンターには,カフェテリアと売店もあった。私は時間が惜しかったからカフェテリアはスルーして,売店を少しだけ見て,駐車場に戻った。
 もう,時間はお昼過ぎになっていた。
 さあ,次は,ホワイトサンズ国定公園である。
 ここからどれだけ時間がかかるかわからないが,ともかく,そこを目指して出発したのだった。

☆ミミミ
写真は,きょうの早朝4時過ぎに東の空に昇ってきたパンスターズ彗星(C/2012K1 panSTARRS)です。6等星で,双眼鏡でも見ることができます。左下に伸びる薄い尾もみることができます。予報よりも明るくならなかったのが残念でしたが,ちゃんと姿をみることができました。
彗星の尾は,太陽風で吹き飛ばされるイオンテイルと彗星の進路方向の逆に伸びるダストの尾(アンチテイル)があるのですが,左下というのは太陽の方向なので,この尾はアンチテイルです。つまり,この彗星は,8月28日に太陽に接近して,現在は太陽から遠ざかっているわけです。
また,今朝は,彗星は月齢26.5の月の右横にいましたが,これからは月は新月になっていくので,月の明りに邪魔されることなく,しばらくは彗星を見ることができます。
明け方の南東の空には,はやくも堂々とオリオン座が横たわっていて,この季節に冬の星座を見ることもできます。

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 「地球の歩き方」によると,ここの洞穴 -それは,鍾乳洞のことなのだが- の見学コースは2つある。
 ビジターセンターの展示室を抜けて,その先のひろい大地をしばらく歩いたところに大きく開いた入口があって,そこかららせん状にひとつめのメインコリドーという名の洞穴に入っていくのがひとつ。もうひとつは,ビッグルームという巨大な洞窟の周りを1周するものである。

 さらに,キングス・パレス・ツアーに参加しなくては行くことのできないシーニックルームズという特別コースがある。これがもっとも見どころが多いということなのだが,このツアーは予約制で,満員になってしまうと参加できないのだ。
 私は,そのことを前日に知って,ネットで予約をしようとしたが,すでに,満員であった。非常に残念なことであった。

 「地球の歩き方」には,メインコリドーに入っていくコースから見るとよいと書いてあったが,その入口がわからず,私は,他のビジターのように,ビジターセンターにあったエレベータに乗ってしまった。
 降りていくエレベータには,私のほかに数人の観光客と係員の男の人が乗り込んでいたが,ここでも,いつもと同様,彼らは係員を交えて親しくおしゃべりをしていた。
 アメリカではどこでもそんな感じで,一見,彼らは,ずっと昔からの友人で,はじめてここで会った人たちとは思えないように見えるから,顔が広いんだなあと思ってしまうが,彼らは初対面なのである。

 約200メートル,83階のビルと同じ高さのエレベータで遙か下に降りていくと,そこが洞穴の入口,つまり,先に書いた2つめのビッグルームという洞窟であった。
 降りたところは,広場になっていて,トイレや軽食コーナーまであって,その先が見学コースになっていた。なにか,映画のSFに出てくる地底都市のような感じであった。こうした映画のシーンを日本人が見るととても不思議な気がするのだが,アメリカには,そのお手本となる景色が実際に存在するのだ。
 この洞窟内はとても涼しかったのだが、なぜか、汗をかいた人が上りのエレベータに乗り込んできた。
 私は,このとき,こんなに涼しい場所で,どうしてその人が汗をかいているのかわからなかった。

 このビッグルームは薄暗く,一見するとよくわからなかったのだが,よくよく目を凝らして見てみると,ものすごく広いところであった。
 ここはカールズバッドを代表する洞窟内最大の部屋で,床面積はなんとアメリカンフットボール場約14面分もあるのだという。このビッグルームの外周を見学しながらくるっと1周出来るトレイルが約2キロメートル続いていて,歩くと1時間ほどかかった。
 ここも,なにか,地底にいるような,どこかの映画かドラマで見たことがあるようなないような,とてもすごいところであった。大小さまざまな鍾乳石が奇妙な形で存在していて,圧巻であった。それらは,太陽寺院とか,妖精の国とか,トーテムポールとか,人形劇場とか,そんな名前がつけられていた。
 さらに,底なし地獄とか,ロウアーケーイブ・ビューと名づけられた場所からは,さらに奥へと続く洞窟の穴を覗くことができたし,エレベータができる以前に観光客が何時間もかけて降りてきた梯子が残されていた。

 トレイル内には,観光客もほどほどいるはずなのだが,広すぎて,自分ひとりがこの海底世界に迷い込んだような錯覚にさえ襲われた。こうして,のんびりと歩いていたが,どこまで続いているんだろうと思い始めたころ,再び,エレベータ乗り場に出た。
 上りのエレベータに乗り込んで,再びビジターセンターに戻った。

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☆6日目 3月18日(火)
 早朝。気持ちがよかったので,ホテルの周りを少し散歩した。
 すでに書いたように,ホテルの付近は,低所得者の住居が続いていたが,静かなところであった。帰ってからいつも思うことだが,私がよかったなあ,また行きたいなあ,と思い出すのは,こうしたアメリカの風景だったり,雰囲気だったり,体験だったりする。
 その国の人には単調な日常であっても,旅をする私には,それが,非日常。そこには,観光地のように,観光客に媚びた世界はない。

 泊まったホテルは,古く,やる気もなく,朝食も,コーヒーと単に菓子パンがいくつか置いてあるだけというものであった。私は,ホテルのフロント付近に準備してあったこの「朝食」の菓子パンをいくつか手に入れて,部屋で食し,すぐにチェックアウトをした。
 ホテルの前の広い通りを左折して,そのままカールズバッド国立公園を目指して走って行った。
 気持ちのよい朝だった。

 ホテルから30分くらいほとんど車の通らない道を走って行くと,数件の、町というよりも観光地の入口のようなところにきた。ここが,カールズバッド国立公園の入口にあたる,「地球の歩き方」に書いてあった小さな町ホワイツシティだった。そこには,道の両側に,数件のホテルと土産物屋があっただけだった。そして,その奥に,国立公園の入口があって,そこから道をずっと上っていくと,やがて,カールズバッド洞穴群国立公園のビジターセンターに到着した。
 まだ,開館時間をわずか過ぎただけであったが,多くの観光客で,すでに,駐車場には車がたくさん停まっていた。
 まず,ビジターセンターに入って入場料を払った。ビジターセンターには,この公園についての様々な展示があった。

 私は,このときは知らなかったのだけれど,この公園は世界遺産である。
 世界遺産に認定された理由は次の通りであった。
  ・・・・・・
 ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。
 地球の歴史上の主要な段階を示す顕著な見本であるもの。これには生物の記録,地形の発達における重要な地学的進行過程,重要な地形的特性,自然地理的特性などが含まれる。
  ・・・・・・
 「カールズバッド洞穴群国立公園」(Carlsbad Caverns National Park)は,ニューメキシコ州エディ郡南西角のグアダルーペ山脈(Guadalupe Mountains)に位置するアメリカ合衆国の国立公園である。
 二畳紀の化石礁のあるカールズバッド洞窟と多数の他の洞窟を保存するために設立された。
 公園には83の洞窟がある。そのひとつ,レチュギア・ケイブ(Lechuguilla Cave)は,全米最深の489メートルで,長さは世界第5位の203キロメートルの石灰岩の洞窟である。

 この国立公園が有名であるのは,巨大な洞窟とともに,もうひとつ,それはコウモリの飛翔なのである。この洞窟は,およそ100万匹といわれるメキシコ・オヒキコウモリの聖域となっていて,約6種類のコウモリが生息している。日中は,洞窟の天然入口に設けられた通路上から天井に群がっているコウモリを見る事が出来るが,夕方になると洞窟の中から外に向かって飛びはじめるコウモリの一群はまさに度肝を抜かされるのだそうだ。
 というのは,私は,それを見なかったからである。
 毎年夏になると,日没と同時に数匹のコウモリが餌を求めて,窟の天然入口付近を飛びはじめる。その直後に,コウモリの一群は密集した旋風となり洞窟から飛び立ちはじめ,時間にして30分程,長い時で2時間近く続くときもあるのだという。
 いったん洞窟から出たコウモリたちは,波上の塊となり近くを流れるペコス川やブラックリバー渓谷の方までえさを求めて飛んでいき一晩中飛び続け,餌を貪った後は夜明けと共にまた洞窟内に戻ってくる。このとき,コウモリたちは入口の上空で位置を決めると羽を体につけて洞窟内の暗闇へ急降下して突入していくというのである。
  ・・
 残念ながら,私が行ったこの季節には,こうしたコウモリの飛翔は見ることができなかった。また,夏に来てみようか…。

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 広いロビーとフロントの向こうに,レストランがあった。思っていたよりも立派なホテルであった。
 私は,食事のついでにWifiにつなごうと思っていたから,レストランの入口で「Wifiはつながるか」と聞いたら,宿宿泊者用のIDとパスワードを教えてくれた。
 席について,ハンバーガーセットを注文した。食事を待っている間,明日のホテルの予約やらブログの更新に余念がなかったので,ここで取った食事の写真もレストランの写真もないことが今となっては惜しまれる。
 なにせ,このときの私には明日のホテルの宿泊が一番の問題であった。

 今日はここカールズバッドに宿泊して,明日の朝,カールズバッド洞穴群国立公園へ行く。公園は午前8時からということだったが,ここからは30分もあれば行けそうだった。
 国立公園でどのくらい時間が必要かわからなかったが,ともかく,その後は,少し遠いが,ホワイトサンズ国定公園まで行こうと思った。
 せっかくここまで来て,ロズウェルにもサンタフェにも行けたのだから,ついでにホワイトサンズも絶対に行きたくなった。
 ということで,あすの午後にホワイトサンズ国定公園に行けるか,それとも翌日になるかはわからないが,どちらにせよ,ホワイトサンズ国立公園の近くにホテルを探すことにした。
 調べてみると、ホワイトサンズ国定公園の最寄りの町は,アラモゴードというところであった。そこで,エクスペディアでこの町に手頃なホテルを見つけようとしていた。

 やがて,ハンバーガーセットが運ばれてきた。 
 私は,レストランで,食事そっちのけでiPod-touchを見つめながら,ホテルの予約をしていたが,他の客もいろいろと慌ただしく雑談をしたり,食事をしていたから,すっかり場になじんでいた。
 やがて,味わう余裕もなく,食事を終え,それと同時にホテルの予約も終えて,私は,レストランを出た。
 このレストランは,確かに,Wifiはつながったが,時々,接続が遮断されたりして,あまり使い勝手がよいものではなかった。きっと,ターミナルの位置が遠いのであろう。
 レストランから出て,ロビーのソファに腰かけて,再び,Wifiにつないでみると,ストレスなくつながったので,ここで,しばらく,ブログの更新をしたりしていた。

 ホテルを出ると,周りはすっかり暗くなっていて,私は,車で自分の宿泊するホテルに戻った。
 部屋に入って,Wifiの接続を試みると,はじめにホテルの到着したときにはあれぼど接続できなかったに,何事もなくつながったのだった。こんなことなら,何も,食事をしながらホテルの予約に精をを出す必要もなかったなあとがっかりした。
 こんな感じで,600キロメートル以上をドライブして,サンタフェとロズウェルを観光した充実した1日も更けていったのだった。


☆ミミミ
ジャック彗星(C/2014E2 Jacques)は,はくちょう座の頭・アルビレオの近くまで移動しました。現在8等星。20日間でずいぶんと暗くなりました。ただ,天の川にいるので,たくさんの星々の中,写真に写すととてもきれいです。
私は12等星くらいまでなら写真に写せるので,もう少し楽しみたいと思います。
昨晩は月が午後10時くらいに昇ってきたので,それまでが勝負でしたが,おもしろいことに,それまで快晴だったのが,天気予報通り,月の出と同時に雲が出てきました。そして,雲が月を隠したので,月が昇ってからもしばらくは楽しめました。

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DSCN0905DSCN0906DSCN0903 やがて,カールズバッドの町並みが見えてきた。広いメインストリート沿いにホテルやらレストランがあった。
 私は,次の日に,カールズバッド洞穴群国立公園へ行くために,その付近にホテルをとろうと前日ネットで探した。「地球の歩き方」には,カールズバッド洞穴群国立公園の入口にホワイツシティという小さな町があって,そこにホテルが2,3軒あると書いてあったのだが,ネットの予約では,ホワイツシティにはホテルが見つからなかったので,その近くのカールズバッドという町にホテルを予約したのだった。

 実際にカールズバッドに来てみると,ネットでの情報以上にたくさんのホテルがあった。この国立公園へ行く人がそれほどいるとも思えなかったから,こんなくらいなら,直接この町に来て,気に入ったホテルで部屋があるかを聞いてもよかったのだった。
 しかし,予約をする時点ではこんなにたくさんのホテルがあるということはわからなかった。それに,この日,何時に到着するかもわからなかったから,ともかく,ネットで表示された中で適当なホテルを予約したというわけであった。
 以前は,その場でホテルを探したものだが,ネットで簡単に予約できるようになると,事前に予約をするようになってしまった。この方が,夜ホテル探しをする手間がなくていい。
 予約したホテル「コンチネンタル・イン&スウィーツ」(Continental Inn&Suites)は,カールズバッドのダウンタウンをこえて,少し町はずれのだだっ広い道路が続くだけになってきたところにあった。
 お世辞にもきれいといえないホテルであったし,部屋は,その2階建ての一番奥の2階であった。
 広い駐車場の真ん中には,宿泊客の石油を積んだコンボが威厳を保って駐車してあった。

 さっそくチェックインをして,wifi のパスワードをもらって,部屋に向かった。部屋のキーも,昔の物理的な大きなキーであった。2階に上がって,廊下から外を見ると,ホテルの隣は,貧しい人たちの住む住宅街であった。いわば,トレーラーハウスの住宅地,とでもいうか,家の前の道は舗装されておらず,古びた家々が並んでいた。
 でも,なにか,懐かしい感じがした。
 特に,治安が悪い,とかいう感じでなかったので,次の日の朝,少しその住宅地の中を散歩した。

 部屋に入ってさっそく wifi をつなごうとしたのだが,全くつなぐことができなくて落胆した。
 夕食もとっていなかったので,どこか近くのマクドナルドにでも行って,食事をとりながらネットにつなごうと,ホテルを出て,先ほど来たカールズバッドのダウンタウンを目指して,北に車を走られた。ずいぶんと走って,さほど広くないダウンタウンをすぎたところで,Uターンをして,途中にあったレストランのうちのどこかに入ることにした。
 中華料理にしようかな,とも思ったが,その隣のホテル「ベストウェスタン・スティーブンスイン」(BEST WESTERN STEVENS INN)にレストランが併設されていたので,そこに入ることにした。

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 私は,こうして,ロズウェルでのやりたいとこがすべて終了したので,いよいよ,ここから200キロメートル南下して,カールズバッドのきょう予約したホテルを目指すことになる。
 しかし,まだ時間が早かったので,その前に,この素敵な町・ロズウェルを少しだけドライブすることにした。
 まず,空港から少し北に行ったところに,昨日の夜に少しの時間だけ行ったロズウェルのハイスクールがあるので,そこへ再び立ち寄った。
 この学校もアメリカのほかのハイスクール同様,スタンドのある広い競技場や野球場があった。平日の午後なので,学校では,クラブ活動をしていて外周を走っている生徒がいたり,アメリカの高校生のようすが眺められて興味深かった。
 私は,アメリカに住んだことがないから,名所旧跡巡りよりも,アメリカの日常に興味がある。こうして見ていると,その違いがとても面白いと思うのだが,もし,この国に生まれて,こうした学生生活を送ることが当たり前だと思っている人にとれば,それは単に自然の姿なのだ。そのことことすら,なにか不思議な気がする。

 それにしても,人は成長するときに,どういったことを学ぶべきなのだろう。そして,それが,大人になった時,どのように役立つのだろう…。歳をとるにつれて,私は,だんだんとそれがわからなくなってきた。特に,いろんな世界を見てしまうと,ますますわからなくなってきた。日本の学校で学ぶ多くのことは意味がないとまではいわないが,もっとやらなければならないことがほかにあるだろう,ということだけは,確信をもつようになった。それに,いろいろと先輩づらをして指導をする大人だって,知らない世界がいっぱいあるだろう,あなたの価値観だけが人生じゃない,と思うようになった。
 私が若いころに言われたことの多くは,正しくなかった。歳をとって,さらにそう思う。

 このあとで,ダウンタウンをまわったり,住宅街をまわったりと,ロズウェルの町を少しだけドライブした。
 その後,進路を南に,一路,カールズバッドの町に向けて,走っていった… とその時は思っていた。
 ところが,毎度のこと,道を間違えたらしく,カールズバッドの町は,ロズウェルから単に国道285を南下して200キロメートルくらい行けばいいのに,アラバマロードというそれよりも南東の道路を進んで行ってしまったようであった。
 その道は,鉄道に沿ってずっと続いていた。そうとは知らずしばらく走っていたが,そのうち,やっと,道が違うことに気づいた。方角を確かめて,道路を変更して,なんとか,国道285に戻ることができたのだが,頼るべき地図がないというのは不便である。当たり前か。

 こうして,いろいろあったけれど,結局,国道285を走っていった。
 途中,100キロメートルくらい行ったとき,アーティージアという町を通った。ここで,道は,東西を通る国道82を横切った。あすはここまで戻って,この道を西にアラモゴードへ行くことになるのだ。きょうは,このままここを通り過ぎて,さらに100キロメートル南下して,カールズバッドへ下っていく。
 国道285をもうしばらく進んだとき,西側に,異様な風景が繰り広げられることになった。
 突然,あたり一面,黒い巨大なツルが首を振っているかのような風景になったが,それは,このあたり一面に油田があって,それを採掘する井戸が,ずっと,あたり一面に広がっていたということであった。
 この景色は圧巻であった。
 これまで,ノースダコタ州では,シェールオイルを採掘するタワーのような巨大な井戸を見た。テキサスでも,シェールオイルを採掘しているタワーも少しはあったけれど,ほとんどは,昔と変わらぬ井戸を見た。しかし,それらは,ところどころにぽつんぽつんと井戸があるものであった。
 しかし,ここでは,至る所にそうした井戸があった。これほどたくさんのものが一面に並んでいるのを見るのは初めてのことであった。
 壮観であった。 

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 ロズウェルの空港は,町の南はずれにあった。
 私は,今回の旅行に来る前に,3日目から最終日までレンタカーの予約をしてあったのだが,すでに書いた理由によって,レンタカーの予約を4日目から7日目までに変更した。しかし,レンタカーを返却してしまえば,その後,サンアントニオの行動は,不自由になって,最終日の早朝に空港に戻ることすら,容易でないと確信するようになった。そこで,再び,レンタカーの返却を最終日に変更することにしたのだった。
 しかし,この変更の方法がよくわからなかったのだった。
 何も連絡をしないで,最終日に返却をしようとも思ったが,それでは,ペナルティがかかるかもしれないなあ,と思った。電話をしようと考えたが,最寄りの営業所に行って,直接変更をするほうが容易であろうと思った。

 ハーツの営業所をネットで探すと,サンタフェとロズウェルに見つかった。
 しかし,サンタフェでは営業所のある場所が,よくわからなかった。ロズウェルの営業所は空港内にあるようだったので,アクセスが簡単だから,ここで,変更をすることにしたというわけであった。
 私は,UFO博物館を見学したのち,ロズウェルのダウンタウンから南に走り,途中で,国道285とメインロードがY字で分かれるので,道路標示に従って,そのままメインストリートを南下して,ロズウェル・インターナショナル・エアー・センターを目指した。

 ロズウェルの空港も,アメリカのほかの空港同様だだっ広く,だから,駐車場もだだっ広くて,空港の建物がどこにあるのかさえよくわからなかった。ともかく駐車場に車を停めて,近くにあった古ぼけた倉庫のような建物に入っていったら,そこが空港のターミナルビルであった。
 建物の中には,あまり人がいなかったが,そこには,さまざまな地方の小都市にある空港のように,小さな待合室やらレンタカーのカウンターやらがあった。
 私は,ハーツのカウンターに行って,そこにいた女性に,レンタカーの返却日の変更を願い出た。彼女は,契約書に書かれた電話番号の書いてある場所を指示して,ここに自分で電話をすればいい,と言った。自分でやれ。このことだって,とてもアメリカらしいことなんだけれど,私は,この旅のときは携帯電話をもっていなかったから,ここから電話をしてほしいと言った。旅行者にとって,電話ひとつするのも,携帯電話を持っていないと,不便で仕方がない。親切な女性は笑って快く電話をしてくれて,何の問題もなく,すんなりと変更が終了したのだった。

 この小さな(とはいっても,空港の土地自体は,ものすごく広い)空港からは,1日に離着陸合計20本くらいの航空機のサービスがあって,行き先は,ダラス,アルバカーキー,サンタフェ,それに,テキサス州のラボックであった。 
 また,帰国後,アメリカで使うことのできる携帯電話の入手方法について調べた結果,いいものが見つかったので,現在は,私は現地で使える,つまり,日本の携帯電話のローミングではなく,正真正銘のアメリカの携帯電話を持っている。このことは,また,後日書く。

☆ミミミ
9月8日は中秋の名月でした。久しぶりの雲一つない夜空に,美しい月を見ることができました。写真は,9月8日7時39分に写したものです。満月はそれより1日おそく,9月9日です。
この日の月は,地球からの距離が最も近くて,その距離は359,067キロメートル。スーパームーンとよばれています。
  ・・・・・・

 名月や池をめぐりて夜もすがら
     芭蕉
  ・・・・・・

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 私は,このようにして,早朝にロズウェルを出発して,300キロメートルの道のりを北に,サンタフェまで行って,午前中,サンタフェ観光をして,午後の4時前には,再び,ロズウェルに戻ってきた。
 ロズウェルでは,やりたいことがふたつあった。
 そのひとつは,UFO博物館に行くことであった。もうひとつは,ロズウェルのハーツの営業所に行って,レンタカーを返却する日にちを変更することであった。

 やがて,車は,ロズウェルの市街地に入ってきた。
 ちょうど,学校の下校の時間らしく,道路には,おなじみの黄色いボンネット型のスクールバスが走っていた。スクールバスの近くを走るときは気を使う。生徒が乗り降りするときは,追い越してはいけいないとか,日本ではななじみのない規則がある。
 スクールバスは,かなりの車両が列をなして走っていたが,やがて,交差点ごとに1台,また1台と曲がっていって,やがて,私の目の届くところにはスクールバスはいなくなった。
 次に,私が見つけたのは,ガンショップであった。街中に普通にこういう店があるのが,アメリカである。このガンショップは,テキサス州のジャンクションという町でも見かけた。

 ともかく,私の車は,こんなふうにして,ロズウェルのメインストリートまで戻ってきた。メインストリートをしばらく走って,とうとうダウンタウンの中心にあるUFO博物館まで来た。博物館の近くの,道に沿った駐車帯に車を停めて,そこから少し歩いてUFO博物館に行った。
 なんとか閉館前にたどりつくことができた。入口を入り,カウンタで入館料を払った。
 博物館には,結構多くの人が入っていた。それほど広くもなく,というか,アメリカの博物館にしては狭い部類の博物館は,なんというか,高校の文化祭の展示をすこしマシにしたというか,まあ,そんな感じであった。中央には,宇宙人の模型やらが作られていて,周りには,UFOの記事が書かれた新聞記事やら,写真やら,ポスターやら,そんなものが展示してあった。

 ロズウェルのUFO事件に関しては,すでにこのブログに書いたように,実際にはアメリカ軍のなんらかの飛行船とか風船とか,そんなものであるのが真実であるようだ。
 しかし,当時からさまざまな目撃情報が報道されていて,それが,無責任におもしろいものだから,うわさがうわさをよんで,そのために,世界中から,こんなチンケな博物館なのに多くの人がやってくるというわけだった。
 サインボードみたいなものもあったが,日本人のサインも結構な数あったから,ここに来た日本人も多いのだろう。それにしても思うのは,よくもまあこんな不便なところにわざわざやってきたものだ,ということであった。私もそのうちのひとりであるけれど…。

 UFO博物館の展示には,ロズウェルに墜落した未確認飛行物体の残骸,すなわち「ロズウェルの聖杯」と呼ばれるある特殊な物質について書かれた資料があった。
  ・・・・・・
 ロズウェルに墜落した未確認飛行物体の残骸は「空飛ぶ円盤の破片」として知られていて,それは,銀色で質量がない金属片で,手ですくうと水のように流れる物質だったのだという。
 ロズウェル事件のあった1947年7月当時,UFOの墜落した農場から,この「ロズウェルの聖杯」を現場から持ち帰った地元住民が多数いたらしい。しかし,それらの「聖杯」は,後日,軍によって一片残らず回収されてしまったのだそうだ。その際に「口外したら命の補償はない」という脅しをひとり残らず受けたのだという。
 もし,「ロズウェルの聖杯」のたった一片でも見つかれば,この事件は,本物のUFOと宇宙人の飛来であったという決定的な物的証拠となり得るという… らしい。
  ・・・・・・

 私は,天文マニアである。
 UFOマニアと天文マニアは,一般の人には区別がつかないかもしれないが,全く異質なものである。
 天文マニアの多くはUFOなんて信じていない。だから,心の底では,こうした話はオカルトの世界だとかなり軽蔑し,くだらない,と吐き捨てているのだけれども,たとえ,そうではあっても,正直なところ,この博物館に来ることができたのは,なにかとても嬉しかったのだった。ははは。

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 インターステイツ25を走りながら落ち着いて道路標示を見てみると,サンタフェの市街地が北に見られるようになったときに見た道路標示は,やはり「国道285ノース」であった。そして,その道路標示の下に,国道285サウスはこのまま直進とあったのだった。
 ここではじめて、国道285は,しばらくの間,インターステイツ25と共用区間が続くのだということを理解した。
 それでもまだ,若干疑心暗鬼ではあったけれども,私は,そのままインターステイツ25ノースを南東にずっとずっと走っていった。本当に大丈夫かいな? と思うほどしばらく走っていくと,やっと,国道285サウスという標示があったのだった。
  ・・
 こんなふうにして,30分以上は時間のロスをしただろうか,私は,どうにか国道285サウスにたどり着いたのだった。
 それにしても情けないのは,サンタフェに来るときに,この道を通ってきたということで,こうした事情はすでに承知していたはずなのであった。それなのに,まったくそのことを認識していなかったということであった。

 私は,やっとのことで,目的の国道285サウスに出た。この道は,片側2車線の道路である。
 あとは,ほとんど交通量のないこの道をずっと南下するだけなので,ほっとして,しばらくのんびりと運転をしていた。それでも,私の前には,わたしよりも速度の遅い車がのろのろと走っていた。一瞬,追い抜くために追い越し車線に出ようと思ったのだが,周りの景色があまりにきれいだったので,前の車について,私ものんびりと進むことにした。
 ちょうどそのとき,窓の右側を見ると,脇道の角に1台のパトカーが停まっているのを目撃した。しかも,パトカーの窓からは,ポリスがレーダーガンをこちらに向けているではないか。偶然の出来事であった。もし,このとき,スピードを出して追い抜いていたとしたら,私は,スピード違反で捕まっていたかもしれなかったであろう。
 それにしても,アメリカで,スピード違反の取り締まりというものを,私ははじめて見た。日本と違って,ポリスがひとりで,それも,1台のパトカーで取り締まりをしていたのだった。
 レンタカーでドライブするときは,よくよく注意しないといけないなあ,と今更ながらつくづく思ったことであった。

 そんなこんなで,ずいぶん時間のロスをしたけれど,なんとか無事にサンタフェ観光を終えて,国道285に戻ることができたのだった。今晩は,ロズウェルからさらに2時間ほど南に行ったカールズバットにホテルを予約してあった。だから,この後は,国道285サウスをロズウェルまで3時間,そして,さらに2時間,カールズバッドまでひたすら走る予定であった。 
 しかし,ロズウェルを通過して,直接カールズバッドまで行かないで,せっかくなのでロズウェルにあるUFO博物館に,なんとか閉館の時間前に間に合うように到着して,この博物館を見学したいと思った。そして,そのあとで,ついでにロズウェルにあるハーツの営業所に行って,再び,レンタカーの予約の変更をしようと思った。
 国道285のロズウェルまでの帰り道は,来た道を再びもどるだけであったので,特に,なんということもなく,3時間のドライブを楽しんだ。もう,ここまで走れば,日本では東京と大阪間の距離になるけれど,アメリカで500キロメートル走ることなど,なんの苦でもなかった。
 それにしても,何度も書くが,ニューメキシコ州というところは,町を離れると,ほんとうに一面なんにもないところであった。ここにUFOが着陸しても、何の不思議もない,そんな気がした。

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 私は,どうにかサンタフェまで来ることができた。一度は来るのをあきらめていたので,とてもうれしかった。
 これまでにも,このブログに何度も書いたが,ずっと昔から,行けたらいいなあ,と思っていたところに本当に来ることができたとき,その幸運を思う。行きたいと思っているからこそ行けるのだろうが,いつも,夢を見ているような気がする。

 さて,ともかく,サンタフェから,再び,来た道を逆に,ロズウェルに戻らなくてはならない。
 サンタフェの南にはインターステイツ25がなんと「東西に」延びていて(アメリカでは奇数番号は南北に走る道なのだ),このインターステイツ25に乗りさえすれば,そこから南東にしばらく走ると国道285サウスとのジャンクションがあって,そこで国道285サウスに乗り換えて,その後は,ロズウェルまで,南に道なりに進むだけなのだった。
 ところが,私は,まず,サンタフェのダウンタウンからインターステイツ25に行く道すらなかなか見つからなかったのだった。適当な道を南下すれば自然にインターステイツ25に出会ったものを,すこし進路を西に取ってしまったために,なかなかインターステイツ25に入ることができなかった。
 それでも,しばらく南西に向かって走っていくと,その先にどうにかインターステイツ25が見えた。そのインターステイツ25に入るジャンクションの手前にあったガソリンスタンドで,私は,まず,ガソリンを入れた。そして,店員にロズウェルへ行くには,インターステイツ25をノースに行くのかサウスに行くのかと聞いた。

 すでに書いたことだが インターステイツ25は奇数番号だからアメリカ合衆国を南北に走る。しかし,サンタフェの南では,このインターステイツ25は東西方向に走っていたから,ここからロズウェルへ行くには,方角的には東にあたるのだが,その方向に行くのが,インターステイツ25ノースなのかインターステイツ25サウスなのかがよくわからないのであった。
 わかりやすく書くと,インターステイツ25は,ノースに進路を取ると,この先最終的には北東方向に進んで行って,コロラド州のデンバーに到達する。また,サウスに進路を取ると,最終的には南西方向に南下していって,アルバカーキに向かう。
 しかし,サンタフェでは,この道は一度Nの字を描くようになっているので,サンタフェからロズウェルに戻るためには,インターステイツ25を南東方法に進むのにもかかわらず,インターステイツ25ノースに行かなくてはならないというわけだった。
  ・・
 店員はずいぶんと考えて,ノースだと「正しく」教えてくれた。その指示に従って私は,インターステイツ25ノースに乗った。ここまではよかった。
 しかし,その次のジャンクションの手前で,国道285ノース(へはここで降りる)という標示を見て,訳がわからなくなってしまった。
 私が思っていたのは,このジャンクションで,南北に走る国道285と東西に走るインターステイツ25が交差していて,このジャンクションで降りて国道285に乗り換えれば,国道285を北に行くのが国道285ノース,南に行くのが国道285サウスということであった。
 しかし,国道285にはノースという表示しかなかったのだった。国道285サウスはどうしちゃったんだろう…。

 少し迷った挙句,私は,このインターチェンジを降りて,国道285ノースに入ったのだった。しかし,当然,国道285はノース,つまり北方面の道しかないのであった。私は,サウスへ行きたかったわけだから,国道285ノースをしばらく北方向にUターンができるところまで走って,そこでUターンをして,そのままサウス,つまり南に行こうとした。
 ところが,この道は,インターステイツ25と交差するジャンクションを過ぎたところで行き止まりになってしまった。行き止まりの手前に,「国道285サウス」という道路標示があったのを,私は気づいていたのだが,その標示の示す先はインターステイツ25ノースであったから,それは何かの間違いだと思ってしまったのだった。そこで,行き止まりの場所でもう一度Uターンをして国道285ノースに乗ったのだが,逆方向に走っているので,今度は道路わきに「国道285サウス」という標示がない。仕方がないので,先ほどと同じように国道285ノースをしばらく北に進んで,再びUターンをして2度目の南下をした。今度は,「国道285サウス」という標示に従って走っていくと,その先は,やはり,私の思っていたように,国道285サウスではなくて,インターステイツ25ノースであった。
  ・・
 実際は,そのままインターステイツ25ノースをもっともっと「南東に」走っていけば,その先に国道285サウスに降りるジャンクションがあるのだった。つまり,国道285サウスとインターステイツ25ノースはしばらく共用区間,つまり同じ道だったのだ。
 しかし,そのときはそうとは知らず,また道を間違えたと思った。そこで,私は,インターステイツ25ノースを(そのまま走っていけばよいものをそうしないで)次のジャンクションで一旦降りて,Uターンをして,インターステイツ25サウスに乗った。
 当然,こんなことでは国道285サウスには行けないし,国道285サウスという道路標示もない。
 しかし,このときは,私は,ガソリンスタンドの店員が間違いを教えたのだと思いこんでいたのだから,インターステイツ25サウスをひたすら西に進んで行けば,きっと国道285サウスという道路標示があると思っていた。
 やがて,サンタフェのダウンタウンをはるかに通りすぎ,眼下に,雄大なサンタフェ郊外のアドビ建築の街並みが見え,その向こうに雄大なロッキー山脈が見えるようになってきたころ,道路標示があって,この先アルバカーキ方面と書いてあった。
 さすがに,このときに,これは方向が違うと悟った。そこで,再び,次のジャンクションで降りて,Uターンをして,再び,インターステイツ25ノースに乗り換えた。
 
 少しでも早くロズウェルに戻らなくてはならないのに,このようにして,私は,30分以上,インターステイツ25を行ったり来たり,サンタフェからいつまでも抜けられないでいたのだった。ああ。

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 「セント・フランシス教会」を出て,今度こそ開いているのではないかと,私は,再び「オールディスト・ハウス」に行ってみた。
 さすがに,この時間には開館していたので,中に入ることができた。
 館内は,半分が土産物屋で半分が当時の調度品やら写真が展示してある博物館であった。
 外に出て外観の写真を撮ろうと思ったのだが,悪いことに,ちょうど,コリアンの家族づれだかグループだかがいて,いつもの例にもれず,大声で話をしながら,何やら,写真を写したり騒いだりしていて,本当にうんざりした。
 昨年のプリマスプランテーションの時もそうであったが,どうして彼らは,場というものがわからないのであろうか。彼らがやっと立ち去ったので,「オールディスト・ハウス」の前で写真を撮ったりした。

 その後,歩いて再び「ザ・プラザ」まで行ってみた。
 朝早くここに来たときとは違って,おおくの観光客で賑わっていた。このあたりには,美術館やら博物館,そして、土産物店などが並んでいた。気の利いたレストランやホテルもあった。
 サンタフェは,きっと,このブログを読んでいる人がもっているイメージよりも,ずっと都会であった。このように駆け足ではあったが,サンタフェの見どころというのは,だいたい,この程度であった。
 
 先に行った「オールディスト・ハウス」の前の狭い道を東に進むと,キャニオン・ロードに出るという標示があった。
 キャニオン・ロードとは,500件以上のギャラリーが立ち並ぶアメリカ芸術の中心地のことである。1921年に5人の画家がここに移り住んで以来,次第にギャラリーが増え続け,このようになったということだ。
 私は,車を駐車した「セント・フランシス教会」に戻り,車で,キャニオン・ロードを走ることにした。この約1キロメートル程度伸びた細い通りには,道の両側やそこからさらに入った奥の通りにまで,多種多様のギャラリーが続いていた。全米第一とも言われるギャラリー密集地である。
 ほとんどのギャラリーは午後5時で閉店するが,金曜の夜は午後7時まで開いているということだ。また,クリスマスイブの夜は,ロマンチックにクリスマスライトが飾られたこの小道を散策するのが慣わしとなっているという。

 キャニオン・ロードを通り抜けて,私は,サンタフェを後にすることにした。
 ゆっくりとギャラリーを見たり,レストランで食事をするとよかったし,さらに,もっと北のチマヨまで足を延ばせればもっとよかったのだけれど,今日中にニューメキシコ州を南下して,カールズバッドまで行かなくてはならなかったので,お昼までの滞在が限界であったのが,今となっては悔やまれる。
 かつて宮沢りえさんのあまりにも有名な写真集「サンタフェ」が出版されたときにはじめて知ったサンタフェという名の町に,こうしてついに来ることになった。このように,アメリカ旅行をしていると,どこに行っても,ずっと若いころ,今より精神的にずっとアメリカが遠かったころに名前だけを知っていたその場所に,ああ,本当に来たんだなあととても不思議な気持ちがする。

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 しかし,やはり,私の見落としではなかった。サン・ミゲル教会には,それらきしものはどこにもなかった。
 私は,その,奇跡の砂がある教会を探しながら,次に,セントフランシス教会に行った。
 1869年に建てられたこのカトリックの教会は,アメリカ最古のマリア像で知られている。

 サンタフェの市名はスペイン語で「聖なる信仰」という意味である。実は,サンタフェの正式な名称はラ・ビヤ・レアル・デ・ラ・サンタ・フェ・デ・サン・フランシスコ・デ・アシス(La Villa Real de la Santa Fé de San Francisco de Asís)といい、これは日本語では「アッシジのフランチェスコの聖なる信仰に忠実な王都」という意味になる。
 このサンタフェの正式名にもあるアッシジのフランチェスコ教会の末会フランシスカン派はスペイン植民地に入り布教活動を行った宗派のひとつであった。
 現在の教会は、時の大司教(アーチビショップ)であったフランス人ジャン・バプティスト・レイミーにより建てられたものである。ロマネスク様式の建物は,もともとのアドビー建築を利用して改築たもので,教会内には、スペインから持ち込まれたアメリカで最も古い聖母像が祭られている。
 ここは,ステンドグラスがとてもきれいな教会で,このステンドグラスは,フランスから取り寄せられたものだという。
 しかし,「奇跡の砂」のありかは,ここでもなかった。

 実は,この「奇跡の砂」というのは,私の勘違いなのであった。
 サンタフェからさらに国道285を北に110キロメートル行ったところにチマヨという町がある。この町にサントワリオ・デ・チマヨ教会というのがあって,「奇跡の砂」というのはここにあるのだった。
 礼拝室の隣に小さな部屋があって,その中央に小穴がほられ,その中に「奇跡の砂」がある。人々は,この砂を体の悪い所にぬると,たちまち治る。そして,そのしるしとして,松葉杖やらを収めて帰るのだという。
 チマヨからは,さらに国道68を北に64キロメートルほど行くとタオスという町があって,ここまで行くと,かなりディープなニューメキシコ州を体験できる。
 私は,そこまで行きたかったのだが,大体,このサンタフェまでたどり着いたことすら,すごい距離なのに,この先さらに北に行ってしまったら,サンアントニオに帰ることは不可能になってしまうので,残念ながら断念した。
 それにしても,この州を旅することは本当に容易なことではない。インターネットにもあまり情報がないことから考えても,足をのばすことが大変なのがうかがわれるだろう。
 結局,私は,以前見たテレビ番組の中で,サンタフェとチマヨ,そして,タオスを紹介していた記憶がごちゃごちゃになっていたということだった。
 それにしても,ディープなニューメキシコ州のさらにディープな世界。いつか行ってみたいものだ。

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 結局,サンタフェのダウンタウンを1周まわっても教会を見つけることができず,私は,そのホテルに入っていった。
 中でたずねると,確かに,このホテルの北側に教会が付属していた。現在この教会は個人の所有となっていて,ホテルを経営しているということであるらしい。
 教会への入口を聞いて,小さな木製の入口を入った。
 教会は入場料が必要であった。
 私は,入口でクレジットカードを使って入場料を払おうとしたのだが,機械が私のクレジットカードを認めず,うまくいかなかった。今回の旅ではこうしたことがままあった。インターナショナルクレジットカードは,なんらかのセキュリティがひっかかってしまうらしいのだ。こうしたときは,手動で番号を入力すると動作するのだが,年々いろんなことが不便になってきているように感じる。
 この教会は,宗派に関係なくウェディングにも利用されているということであった。なかなか商売上手な教会である。

 無事に入場料を払って,中に入った。1873年から5年の月日をかけて作られたこのロレット・チャペルは落ち着いた美しい教会であった。
 「奇跡の階段」というのが,この教会最大の見どころであるが,聖歌の人たちが上るために必要なこの33段の階段は360度を2回転している美しい螺旋階段で、驚くことに支柱が1本もない。また,すべて木製の釘で作られている。しかも,作られた当時は,手すりがなかったということだ。
 伝説では、修道女達が聖ヨゼフ(聖母マリアの夫で大工の腕を持つ)に祈りを捧げると9日目に白髪の男が現れこの階段を造ったといわれる。しかし,完成するとすぐにその男は身分を明かさず姿を消してしまった。階段の美しさ,巧みな技術に加え,不可解な大工であったことから,その男は聖ヨゼフその人ではなかったのか,という話である。
 現在では,この螺旋階段に上ることができるのは,ウェディングだけであるということであった。
 たしかに支柱が1本もないのは不思議であり,建築学上の奇跡ということだが,螺旋の中心を上手に利用すれば,容易に作ることができるのではないか,と私は冷静に思ったことであった。

 私は,サンタフェに行ってから,ずっと気になっていたことがあった。
 それは,どこの教会であったか忘れたのだが,「奇跡の砂」とかいうのがあって,これを頂いて,病気の箇所に塗ると治るとかいう,日本の寺院とかにもよくあるような,そんな代物であった。
 しかし,それは,先に行ったサン・ミゲル教会でもなければ,このロレット・チャペルでもなかった。
 いったいそこはどこなのであろうか?
 私は,きっとサン・ミゲル教会でこれを見落としたのだと思って,再びその教会に行ってみたのだった。

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 アメリカ合衆国の西南部からメキシコにかけてチワワ砂漠が広がっています。といっても,アフリカのサハラ砂漠のような砂地ではなく,岩山が続き,渓谷が伸び,あるところは真っ白な砂漠が広がり,また,あるところは洞窟群があります。そこには,広大な手つかずの自然が広がっています。
 私は,不勉強で,そんなこととは全く知らず,単なる偶然に,この春にニューメキシコ州のホワイトサンズ国定公園とカールズバッド洞穴群国立公園を訪れました。そして,夏には,ザイオン,ブライスキャニオン,キャニオンライズ,アーチズ国立公園に行きました。
 日本でなじみがあるのは,グランドキャニオンやモニュメントバレーでしょう。私も10年くらい前に行って,グランドキャニオンに沈む夕日を眺め,また,モニュメントバレーで西部劇の主人公になった気分でその原野を車で走りました。
 しかし,その後,こうした多くの国立公園に行ってみると,アメリカにはグランドキャニオンやモニュメントバレーが珍しいわけではなく,ロッキー山脈にはこのような景観がどこにも広がっているんだなあと思うようになりました。

 そこで,帰国してからいろいろ調べてみると,春に行ったニューメキシコ州の不思議な景観と夏に行ったユタ州の景観は,遠く離れているようで,実は連続しているんだということがわかって,その規模に改めて驚くとともに,その景観が作られた地球の神秘に,引き込まれていきました。
 単にアメリカの国立公園を訪れてみたいという動機から行ってみたこれらの場所が,もっと底知れぬ魅力に満ち溢れていたわけです,
 日本にはあえりない風景を図鑑やら映像で見て,別世界だと思っていた自分なのに,実際にその目で確かめてみると,若いころに,なんと時間をムダにしていたのかと後悔しました。ここには,3億年以上前の地球の地層から,約7,000万年前に絶滅した恐竜の化石,そして,満天の星までが存在していて,それを身近に接することができるのです。
 本当に,若き日,つまらない受験勉強で青春をムダにするのではなく,さっさと英語を身につけて,この地に出かけて研究した方がよかったと痛切に感じました。
 そんなわけで,そうした興奮が冷めやらぬ前に,ここでは,チワワ砂漠に広がるホワイトサンズとカーズバッドの洞窟について書いてみましょう。また,後日,ここを訪れたときの旅行記を載せます。

 まず,ホワイトサンズです。
 ニューメキシコ州の南西に700平方キロメートルにわたって,淡路島ほどにもなる広大な真っ白い砂漠が広がっています。
 この真っ白い砂漠はどうやって作られたのでしょうか?
 この地は,2億5,000万年前は海でした。その海が干上がって石膏の地層ができて,再び,再び海になって石膏の上にまた地層ができました。やがて,この地は陥没してレイク・ルセロという湖になったのですが,雨が降ったときに周りの地層から石膏が流れ込みました。レイク・ルセロには流れ出る川がなかったので,そうして流れ込んだ石膏がレイク・ルセロに溜まっていきました。
 この地には北東にむかって風が吹きます。
 レイク・ルセロには,現在,地下にセレナイトという結晶が堆積しているのですが,それは,こうして流れ込んだ石膏が地面の下で結晶化したものなのです。セレナイトは,0.1ミリメートルくらいの薄いもろい板状の集まりで,これが風で飛ばされて擦れあい細かい砂になって,近くの平地に積もったのがホワイトサンズなのです。
 ホワイトサンズの地には怜断層があって地下に水がたまっているので,その水が接着剤役割をはたして,ホワイトサンズに降ってきた白い砂がその場所にとどまっているというわけなのです。
 また,ホワイトサンズにはところどころにスマックという植物が生えています。この植物は根で砂を捕まえて台座を作っていて,砂丘が風で飛ばされると台座がむき出しになっていて,不思議な景観を作り出しています。

 次に,ニューメキシコ州の南東の大地の底に眠るカールズバッドの洞窟です。
 カールズバッドの大地は太古の海で作られた石灰岩の塊です。
 洞窟にはツバメが住み,また,夏になると,コウモリが大挙して洞窟から飛び出します。
 洞窟内の気温摂氏20度以下で,洞窟に入ると,水の粒が洞窟から外に登っていく姿が見られ,それは美しいものです。 洞窟は広いもので33,000平方メートル,フットボールグランド6つ分くらいあります。
 そうしたこの洞窟は,1,500万年前から100万年前にできたといわれています。いまでも,洞窟内に天井からふり落ちる一滴一滴の水の粒がやがて将来の巨大な鍾乳石になっていくのです。
 ふつう,鍾乳洞は石灰岩が水で溶かされてできるものなのですが,ここカールズバッドの鍾乳洞は硫酸が作ったきわめてめずらしいものです。
 昔,小さな空洞を海水が満たしたとき,微生物が活動して硫酸が発生し,その硫酸が石灰岩を溶かし次第に巨大な穴になっていきました。それがやがて大地の隆起などで熱水や硫酸が消えていって,巨大な洞窟が残ったといわれています。だから,洞窟内に残る石膏は,洞窟を大きくした硫酸の副産物なのです。

 ニューメキシコ州に残る広大なホワイトサンズの砂漠とカールズバッドの洞窟は,このようにして,人間のスケールをはるかに超えた時間によってその美しい景観が作られたというわけなのです。

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 アドビ(Adobe)とは,砂,砂質粘土とわら,または,他の有機素材で構成された天然建材のことである。これらの有機素材を木製の型枠を使って日なたで干すことでレンガの形にして使われる。アドビの構築物は非常に耐久性に富み,地球上に現存している最古の建築物によく使われている。アドビ建築物は熱を吸収してから非常にゆっくりと放出するため,建築物の内部は涼しいままに保たれ,暑くて乾いた気候に適している。

 オールディスト・ハウスが開いていなかったので,その道の反対側にあるサン・ミゲル教会に行った。
 ここも,開いたばかりというよりも,これから開ける,という感じで,教会の外にここの人がいて,横の出口にある売店の入口から中に入れてくれた。このサン・ミゲル教会は1626年に建てられたとされるアメリカ最古の教会である。
 スペイン人の入植隊がメキシコから同行させたインディアンが,廃墟となっていたアナルコインディアンのプエブロ跡のこの辺りに住んで,チャペルを建てたものと考えられている。
 この教会は1680年に起こったインディアンの反乱で焼失しまったが,それが全焼失したのか一部焼失なのかは不明だということだ。教会内の梁のひとつには「1710年に再建される」と刻まれているという。そして,このとき,この教会は現在のように要塞の形になった。
 教会内には,1789年に作られた飾り棚やアルタースクリーンなど興味深いものがたくさんあったし,天井の細工は素晴らしかった。ここには,古い鐘が展示してあった。

 サン・ミゲル教会を出て,次に,1ブロック北に行ったところにあるロレット・チャペルへ行こうと思った。このロレット・チャペルは,「奇跡の階段」で有名な教会である。いわば,ここがサンタフェでの最大の見どころであった。
 ところが,その教会の場所がわからないのであった。小さな街で間違えるはずもないのだが,地図に書かれた場所にあったのは,教会ではなく,イン&スパ・アット・ロレットというホテルであった。そして,その横まで歩いて行くと,そこはホテルの広い駐車場であった。
 私は,戸惑って,この教会があると書かれた地図を見ながら,そのブロックのまわりを1周した。
 そこで見つけたのは,なんとルート66の道路標示であった。
 そうか,ここにルート66が通っていたのかと,見つけられない教会のことはどこかへいってしまって,これには感動した。

☆ミミミ
ジャック彗星(C/2014E2 Jacques)がカシオペア座に見えています。かなり明るくて,現在6.5等星。近くのアンドロメダ座の大星雲と同じような感じに,双眼鏡できれいに見ることができます。
尾は地球から見てちょうど彗星の向こう側にあるので,残念ながらほとんど見えないのですが,そのかわり,地球と太陽の距離の半分まで近づいているので,大きくてしかも動きがとても速くて,見ている間に星の間を動いていきます。

実は,7月はもっと明るかったのですが,今年の夏の異常気象で全く晴れず,見る機会がありませんでした。私は,写真が写せずイライラしていました。昨晩も天気予報では曇りだったのですが,ワンチャンスをモノにしようと出かけました。幸い,よい方に予報がはずれて,やっと写すことができました。

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Four_Corners1Four_Corners 2 ここで,今回,こうした旅をするまで,私もよく知らなかったサンタフェの歴史について書いておこう。
  ・・・・・・
 我々にとって,アメリカの歴史は,コロンブスのアメリカ大陸発見からはじまっている。
 その次に,ニューイングランドと東海岸の歴史が続く。学校ではそう習った。それは,清教徒の上陸やマサチューセッツのボストン茶会事件,その結果起こる13州による1776年のイギリスからの独立などである。私は,昨年の夏に行ったボストンで,こうした歴史について,いろんなことを経験した。
 また,コロンブスはスペイン王のもととで大西洋を航海した。だから,その後に南北のアメリカ大陸を席巻したのはスペインであって,実は,イギリスの清教徒がメイフラワー号によってプリマスロックに上陸した1620年より10年も前にサンタフェの街は出来上がっていたのである。
 サンタフェの歴史は、このときから始まる。
  ・・
 しかし,それよりもずっと昔のこと。これとは別のもうひとつの歴史がある。
 ここには,数百部族の数十万人にのぼるネイティブアメリカンたちが広大な全米の全域に生活していたときがあった。だから,現在においても,アメリカ全土には,都市名や場所・河川等々に非常に多くのインディアン語が残っている。
 カリフォルニア州だけでも,1600年代には30万人のネイティブアメリカンが生活していたと推測されているし,ニューメキシコ州も同様で,紀元年前後から13世紀ごろまで4州が直角に交差するフォーコーナー地域(=写真)に先住インディアンの半定住型の生活跡が見られる。また,メサベルテやチャコキャ二オン,そして,バンダリアなどの遺跡などもある。
 ニューメキシコ州は,それらのネイティブアメリカンが過去の歴史となって消滅することなく,脈々と子孫へと引き継がれて現在に至っているという点で興味深いところなのだ。そして,長い歴史の文化や習慣が生きたまま引き継がれているのである。
  ・・・・・・
 このように,私は,昨年の東海岸の旅で,アメリカ史についてたくさんのことを知ったのだが,今年,改めて,このテキサス州とニューメキシコ州の旅で,もうひとつの別のアメリカ史があるということを知ったのだった。

 アメリカは,1846年のアメリカ・メキシコ戦争の結果,現在のコロラド州,ネバダ州,ユタ州,アリゾナ州,ニューメキシコ州を含む広大な土地を手に入れたが,ニューメキシコ州は,その後も,政治的自治が認められていない連邦の「テリトリー」のまま半世紀以上が経過した。
 それは,アメリカ国内の政治的な理由の結果だったが、やっと1912年1月にアメリカ合衆国の47番目の州として連邦に組することになった。

◇◇◇
アメリカでは州境が直線であることが多いのですが,それでも,州境が4つの州の交点になっているところは,1か所だけです。それは,コロラド州・ユタ州・ニューメキシコ州・アリゾナ州の交点で,ここに行くだけでも大変なのですが,アメリカというのはたいしたところで,フォー・コーナーズとして,ここもちゃんとした観光名所になっています。
フォー・コーナーズ(Four Corners)は,北緯37度0分0秒、西経109度3分0秒に位置していて,この地点において,コロラド州域は山岳ユト居留地,その他の3州の領域はナバホ居留地と重なっています。また,ナバホ居留地内部にホピ族居留地もあって,記念碑はナバホ政府により管理されています。
この交点の立てば,一度に4つの州を制覇したことになります。両手と両足で四つん這いになって同時に4つの州を制覇する観光客の姿を見ることができます。

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 せっかく地図を買ったのに全く使わず,踏切の手前のセリリヨス・ロードを東に,その店員に聞いたように車を走らせると,狭い,なんというか,ヨーロッパでいうところの旧市街のような町に入った。
 それでも,そこがダウンタウンだという実感もなく,まだよくわからなかったので,その右手にあったサンタフェ・セイジ・インというホテルの駐車場に車を停めて,フロントで,宿泊客を装ってサンタフェの観光案内図をもらい,道を聞くことにした。

 フロントには先客がいたが,ロビーで少し待っていたら,フロントの係員が親切にも私をよび,詳しく案内してくれた。わかりやすい地図も手に入れることができた。
 要するに,この道を少し走って,パセオ・デ・ベラルタという道にさしかかったところを右に折れると,その道はひらがなの「つ」の形に続いていて,その道の内側がダウンタウンだったのである。
 こうして,やっと,サンタフェのダウンタウンに行くことができて,「つ」の字の一番右側のところにあるセント・フランシス教会という大きな教会の前にあったパーキングメータに2時間ほどのコインを入れて,駐車した。
 サンタフェは,もっと素朴なところを予想していたが,高山のような観光地であった。

 「地球の歩き方」のサンタフェの案内と,こちらに来る前にテレビで見たサンタフェの観光案内番組からメモした場所を,まず,散策することにした。
 サンタフェのダウンタウンは狭く,徒歩でまわることができる。3時間もあれば十分である。
 まず,サンタフェのダウンタウンの中央には,ザ・プラザという公園がある。
 スペインの街のように,ここサンタフェは,プラザ(広場)が旧市街の中心であって,この広場のまわりに街が作られた。サンタフェの建設は1610年ドンペドロペラルタ総督がスペインの植民都市として,この地に総督府を移したときにはじまるという。
 また,プラザは交通の発着点でもあり,植民地時代は植民地最大拠点都市メキシコシティからサンタフェまでの街道カミノリアル(=王家の街道)の北の最終地点であった。また,1821年,スペインから独立を果したメキシコが合衆国と交易をしたときに交易路として利用されたサンタフェトレイルは,ミズーリ州フランクリンとこの広場とを結んだものであった。
 ザ・プラザには旧・総督邸があった。1610年から300年間にわたって,ここに政府が置かれた。現在は,歴史博物館となっているが,その軒下に,ネイティブアメリカンの人たちが店を開いていた。高山でいえば朝市のようなものである。売っていたのは手作りの工芸品やジュエリーである。

 私は,ザ・プラザの横の狭い道を歩いて行って,オールディスト・ハウスというアメリカ最古の家に行った。ここは,13世紀の初頭に,ネイティブアメリカンのアナルコ族によって建てられたアドビ建築で,アメリカで一番古い家なのだそうだ。
 しかし,開館時間になっても,まだ開いていなかった。
 こんなことはアメリカではよくある話である。
 私が行ったときにすでにアメリカ人の夫婦連れが来ていて,やはり,まだあいてませんね,というような会話になった。この夫婦連れの奥さんはとても感じのよい人だった。この夫婦とは,サンタフェを歩いていると,何度も顔を合わせた。それくらい,サンタフェで観光客が行くとことは限られていて,しかも,狭い場所なのであった。

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 ともかく,道に迷ったのは帰りのこと。
 サンタフェに向かって進んでいたときは,まず,サンタフェの地図を手に入れようと,国道285がインターステイツ25と合流したあたりで,私は,観光案内所を探していた。ところが,それらしきものを見つけて車を停めて入ってみても,まだ,開店時間になっていない地元のモールであったりして,結局,案内所は見つからなかった。まわりはすでに町であったが,私の走っていたところは,まだサンタフェのダウンタウンからは10キロメートルくらいは離れていたのだった。
 さらにインターステイツ25・「サウス」を「北」に進む(間違いではありません)と,目の前にやっとサンタフェの町が見えてきた。

 さあ,ここからがたいへんであった。
 一度も行ったことのない町,そこは行ったことがないからこそ行くのだが,そんな町は,その様子やら方角やらがわかるまでは,どうしていいか見当がつかないのである。特に,車を運転しているときはいつもそうである。
 特に,サンタフェなど,小さな町だという先入観があるものだから,余計いけない。
 雰囲気的には,生まれてはじめて東名阪道を天理インターで降りて北上し,奈良公園をめざすような,そんな感じであった。

 ともかく,私は,サンタフェの市街地に入った。しかし,インターステイツを降りて,そのまま北に道路標示にしたがって,セントフランシス・ドライブを北上してはみたものの,サンタフェの中心にあるダウンタウンがどちらになるのか,さっぱりわからなくなった。私は,このサンタフェの観光を3時間くらいで切り上げようとしていたので,こんなことで道に迷っていては,どうにもならないのであった。だんだんとあせってきた。
 電車の踏切を通った。この右手がまさにダウンタウンであったのだが,このときは,まだ,それがよくわからなかった。
 ともかく,その交差点にガソリンスタンドがあったので,車を停めて,店内に入った。地図を探すと,手頃なものがみつかったので,それを買うことにして,お金を払いながら,店員さんの若い女性に,ダウンタウンはどちらですか,と聞いたのだった。
 店員さんは,指をさして,この交差点の向こう側だと親切に教えてくれた。地図を見なくても場所がわかったから,結局,買った地図は無駄になってしまった。先に聞けばよかった。

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 エンシノを過ぎると,また,しばらく,大平原が続くようになった。
 さらに走ると,国道285は東西を横切るインターステイツ40と交差した。実は,このインターステイツ40は,1937年,それまでサンタフェを通っていたルート66が経路を変更した後のルート66なのである。東は,テキサス州アマリロから西はアルバカーキに続いている。
 このジャンクションには町はなかった。
 さらに国道285をインターステイツ40をこえて進んでいくと,あたりの大平原は,次第に低木が表れた荒れ地になって,さらに進むと,次第にサンタフェに近づいてきて,アドビ建築の家が遠くに見えるようになってきた。
 これまでほとんど何もないところを3時間以上も走ってきて,また,多くの人が住む町になったということがとても不思議な気がした。

 道路標示にしたがって,さらに進んでいくと,国道285はインターステイツ25と合流した。このインターステイツ25は,サンタフェから再び戻るときに非常に戸惑うことになる問題のインターステイツであった。それは次のような次第による。
  ・・・・・・
 インターステイツ25は奇数番号だからアメリカ合衆国を南北に走る。この道は,そのまま北上すると,遠くに雪をかぶったロッキー山脈の向こう側コロラド州のデンバーに到達し,デンバーを過ぎると,ワイオミング州でインターステイツ80にぶつかる。また,南西方向に南下すると,アルバカーキをこえ,エルパソに到達する。
 ところが,サンタフェでこの道は一度Nの字を描くように,方角が逆になるのだ。つまり,アルバカーキからサンタフェまで北東方向に北上したインターステイツ25は,サンタフェを過ぎると,一旦南東方法に南下し,国道80と分岐をしたあとで再び方向を変える。
 したがって,サンタフェからロズウェルに戻るためには,インターステイツ25を南東方法に進むのにもかかわらず,道路標示ではインターステイツ25ノースに行かなくてはならないわけだ。さらに,国道285は,サンタフェのずいぶん手前でインターステイツ25と合流して,サンタフェの南の郊外まで行くと,そのまま西方向にすすむインターステイツ25,つまりインターステイツ25サウスと分岐して,今度はサンタフェ方向に再び国道285が登場する,というわけであった。だから,サンタフェの南の郊外からは国道285ノースという道しかなく,しかも,ジャンクションの周辺は,道路を作っているところであったから,道路標示に従って運転しても,サンタフェからロズウェルに戻れなくなってしまったのだった。
  ・・・・・・
 いったい誰がサンタフェから南東方向のロズウェルに国道285を経由してもどるのに,インターステイツ25ノースに道をとるなどと思うであろうか? 私のように,カーナビもなく,車でサンタフェからロズウェルに行こうと考える旅行者には要注意なのである。

◇◇◇
ところで,このインターステイツ25ですが,この夏,つまり,たった1週間前に旅行したとき,私は,デンバーから北にワイオミング州までこのインターステイツ25を走り,ワイオミング州でインターステイツ80に乗リかえて東に進み,ネブラスカ州まで行きました。これを書きながら,そのときその道が,サンタフェで迷ったその道と同じものだと知って,なにか不思議な気がしました。春には,まさか5か月後にその道を走るなどとは夢にも思っていなかったのですから…。

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 国道285は,ロズウェルの北は,ノースメインストリートという名になっているのだが,思った以上に,ほんとに何もないところであった。ともかく,家の1軒もなかった。道路は片側2車線で,行き交う車さえ,皆無であった。
 そんな状態で,2時間近く走ったであろうか,道路は次第に北西に向きを変えていったが,その先もいっこうに町がなかった。
 さらに進むと,道路は東西を走る州道60と交わった。そこはボーンという名の町であった。しかし,町ではあるのだけれど,町と行っても,道路沿いにガソリンスタンドやらモーテルやらがあるだけの,まるで宿場町のようなところであった。
 もし,昨日,ロズウェルをパスしてつぎの町で宿泊しようと思ったとしたら,ここまで来る必要があったわけだ。

 すぐにこの小さな町も終わった。国道285はしばらく州道60との共有区間になって方向を西に向きをかえたのだが,すぐに次のエンシノという町に差しかかり,ここで再び,州道60は西に,国道285は北北西のサンタフェの方向に進むのだった。
 それにしても,エンシノはすごい町であった。町というよりも,ゴーストタウンであった。
 建物はあったが,ほとんどは崩壊していた。道路に名前はついているのだが,それだけであった。モーテルの1件も存在していなかったし,人の気配も全くなかった。そんな有様だったので,逆に好奇心がわいたのだが,この町を観察する時間もなく,そのまま通り過ぎてしまった。
 帰国後調べてみると,ニューメキシコ州のエンシノ(Encio)は,近くの工場に勤めていた住民が全て解雇されてしまったために,職がなくなり住むことができなくなって,町がゴーストタウン化してしまったそうである。
 エンシノは,やはり,ゴーストタウンであった。
 町のはずれには,ほかの町と同様,墓地がある。ここに葬られた人は,この状況をどう思っているのかな,と思うと悲しくなってきた。果たして,現在,この町に人は住んでいるのだろうか。そして,本当に,この先にサンタフェがあるのだろうか。

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☆5日目 3月17日(月)
 5日目の朝が来た。
 今日は,ともかく,ロズウェルから北へ北へ走って,サンタフェまで行って,午前中にサンタフェを観光して,そのまま戻り,夜はカールズバッドに宿泊することにした。少し距離が長いが,昨日走った様子では,なんとかなりそうであった。カールズバッドのホテルは,昨晩,ネットで予約したので,少し遅くなっても大丈夫であろう。
 ロズウェルからサンタフェまで,3時間も走れば到着できるだろう。

 ホテルで朝食を取ろうと食堂に行ってみたが,さすがに早すぎで,まだ,真っ暗であった。しばらくすると,係のおばちゃんが出てきて,もう少し待っててね,と声をかけてくれた。
 朝食の予定の時間よりも少し早く食堂の電気がついて,食事を取ることができるようになった。
 ここの朝食も,昨日同様,けっこうデラックスであった。
 ホテルの無料の朝食は,ほんとうに地域によってまちまちで,今回行ったニューメキシコ州とテキサス州は,どこも良心的であった。
 ともかく,1分でも早くホテルをチェックアウトしてサンタフェに行きたかったので,早々に朝食を切り上げて,部屋に戻り,出発の準備をして,ホテルのチェックアウトをして,車に乗り込んだ。

 まだ,夜明け前であった。
 サンタフェまでは,ほぼ一直線に北に国道を走っていけばいい。
 次第にロズウェルの町外れまで来て,家が少なくなってきた。
 やがて,まったく家がなくなって,ニューメキシコ州の大平原に,ただ単に道路だけがまっすぐに北にのびるようになってきた。
 「なにもない」といわれたノースダコタ州は,それでも,起伏があったり,遠くにビュートと呼ばれる小山があったりしたが,ニューメキシコ州は,それよりも,もっと大平原であった。
 やがて,北に向かってひたすら走る私の車の窓からは,右手に地平線を太陽が昇りはじめ,その正反対の左手の地平線には,偶然,満月が沈んでいく様子だけが見えるようになった。右手の太陽が左手の月を照らしているということが,とても不思議であった。
 今,私が見ることのできる風景は,それだけであった。

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 忙しそうではあったが,すぐに私の食事を作りはじめたようであった。焼きそばを頼んだのに,チャーハンもつけるかというので,そうしてくれと言ったのが間違いであった。
 出てきたのは,およそ私の想像の10倍の量のあるチャーハンの上に焼きそばののった代物であった。しかも,この店はめちゃ安で,これだけの量で600円ほどであった。きっと,5人いてもこれで大丈夫であろう。
 この店が人気がある理由がこれでわかった。1人分を買って家で食べれば,アメリカ人とはいえ,家族全員が満腹になるであろう。私にはとても食べきれる量ではなかった。
 勇んでたべはじめたが,お腹がいっぱいになっても,まだ,はじめと量がほとんど変わらないほどであった。あとは,お持ち帰りにしたが,持って帰っても,それからどうすればよいのであろうか。
 結局,私は,この持って帰った大量の食事をどうすることもできず,手をつける気にもならず,翌朝出発するときに,ホテルにそっと置き去りにした。 

 すでに書いたように,ロズウェルに着いたのは夜の6時だと思っていたのだが,テキサス州とニューメキシコ州には時差があって,実際はまだ,午後5時なのであった。
 この店に客がいなかったのは,そうしたことも原因であったのかもしれない。
 まあ,いずれにしても,全くグルメでない私には,日本であれアメリカであれ,こうしたよくわからない店で夕食をとることは,決して嫌いではない。

 食事を終えても,まだ,夜が長そうであったので,ロズウェルの町を少しドライブした。
 まず,UFO博物館へ行った。メインストリートに面していて,周りにも,UFOのちんけなおもちゃやらを売っている店があった。駐車場はなかったが,この町も,メインストリートの道路に沿って,ちゃんと駐車帯が設けられていた。博物館はすでに閉館していたので,入口あたりで写真を写した。
 翌日,ニューメキシコ州のサンタフェを観光した帰りに再びロズウェルに戻って,この博物館に入ることになったのだが,この時は,そうなるとは思っていなかったので,せっかくロズウェルに来たのに,博物館を見ることもなかったなあ,と思いながら写真を写したのだった。

 そうこうしているうちに,30年近く前に,知人の娘さんが,高校生のときにこのロズウェルに留学していたことを思い出した。きっと,この町には,高校はひとつしかないであろうから,探すのは容易なことに思えた。
 調べてみると,町の南西の住宅街の一角にその高校があることがわかったので,行ってみた。
 そこは,アメリカらしい広い広い高校であった。
 ドラマ「Roswell」に出てきたのも,この高校なのではなかろうか…。
 当然,もう夜だったので,中に入ることはできなかったが,観客席のある野球場とか陸上競技場など,アメリカの高校だなあ,と思った。学校は,広く美しく,日本の比ではなかった。もし自分が高校生だったら,こうした異国の高校に通うというのはどういったものなのだろう,と想像した。言葉の問題,文化の問題など,けっこう大変そうだなあ,と思った。
 私は,日本であれ,アメリカであれ,高校生活など,もう,二度とやりたくないが,それでも,日本の受験勉強に特化したほぼ無意味な高校の勉強に比べれば,アメリの高校の方がはるかにマシに思える。
 高校のまわりは,静かな住宅街であった。
 本当にこんな町に一度住んでみたいと思ったものだった。

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