しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ: アメリカ合衆国50州

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 私がボストンに行ったのは2013年夏のことですが,本当に楽しい旅でした。ただし,もう2,3年遅かったら,もっとアメリカのことを知っていて,さらにいろいろなことができただろうと思うですが,それは仕方がないことです。それよりも,この旅でずいぶん多くのアメリカの歴史や文化に触れることができたのは,新鮮だからこそだったのかもしれません。
 今日はそのときの旅で特に印象に残っているボストンレッドソックスの本拠地フェンウェイパークの話題です。

 ボストンでMLBを見るのは大変で,チケットを入手するのは困難でした。そこで,いち早く日本でチケットを購入していきましたが,失敗だったのは,1ゲームのチケットしか買わなかったことです。実は,私が手に入れたゲームは雨で中止となってしまったのです。この失敗に懲りて,その後は屋根のないところでゲームを見るときには,予備のチケットも購入するようになりました。
 しかし,私は幸運でした。
 実は,その前日,チケットを持っていないかったのにも関わらず,様子見を兼ねて,フェンウェイパークに行ってみたのです。そして,ボールパーク近くに,日本の金券ショップのようなところを見つけて,ダメもとでこの日のチケットがないか聞いてみたら,当日キャンセルになったチケットを合法的に結構安価に購入することができて,とてもいい席でゲームを見ることが実現したのです。
 そんな予定になかった出来事がなかったら,今にしてものすごく後悔していたことでしょう。

 ちょうどこのころ,ボストンレッドソックスでは上原浩二投手と田澤純一投手という抑えの2枚看板が売り出したころでした。私が幸運にも手に入れたゲームは負け試合でした。そこで,抑えの2枚看板を見損ねてしまったのです。しかも,投球練習場へ行けばその姿が見れらたものの,そんなことも知らず,私は,せっかくのチャンスだったのに,彼らの姿を見ることができなかったのです。これだけは今でも後悔しています。そのときは,翌日のゲームで見ればいいや,と思っていたのですが,それがかないませんでした。
 とはいえ,その話を上原浩二投手にLINEしたら本人から返事が来たし,そんな失敗があったからこそ,その教訓を生かして,その後,ダルビッシュ有投手をはじめとして,多くの日本人メジャーリーガーをアメリカで見ることができたんだから,塞翁が馬だったと,言い聞かせています。
 旅というのは罪作りなものです。

 それ以前もその後も含めて,MLBのボールパークはずいぶんと行きましたが,そのほとんどは同じような作りであるのに対して,ボストンのフェンウェイパークとシカゴとシカゴのリグレーフィールドはまさに別格でした。ここまで古いと何物にも代えがたいので,新しいボールパークに立て直すこともなく,今でも,改装を繰り返しながら使われています。
 私は,ミルウォーキーで,現在のものではなく古いほうのボールパークでゲームを見たことがあるのですが,そこは単に古いだけのところでした。今では,新しいボールパークができて,壊されました。ボストンとシカゴはそうではなく,古さというより,伝統の重みというか,まさにレジエンドという言葉がぴったりのところだったのです。こういう感動は,行ってみなければ味わえません。


◇◇◇
NHK「あさイチ」に石田組登場

紅白歌合戦に出場して
石川さゆりさんのバックで演奏したいそうです。
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 私のこれまでのアメリカ旅行の中で強く残っている思い出の地,ボストンの思い出を断片的に書いています。
 今日は,ボストンで宿泊した小さなホテルのお話です。

 「2度目のがっかり,3度目の壁」というのがあって,はじめて旅をした場所の印象があまりによかったとき,またおなじ思いをしようと2度目に行ってかっがりということは少なくありません。また,2度目もまたすばらしい思い出ができたとき,また同じ思いをと3度目に行こうと思っても,それがなかなか実現しない,つまり,満ち足りてしまっている,ということもあります。
 私にとってボストンはまさにそうした都会でした。
 私の1度目のボストンは40年以上も前のことでした。
 はじめてのアメリカ東海岸,それも,ひとり旅でした。
 それから30年以上経って,再びボストンに行ったときは,すでにはじめて行ったときのことは風化してしまっていました。その思い出をたどろうとしても,まったくイメージが異なりましたが,何も知らなかった1度目にはできなかったことの多くが実現できて,それはそれはすばらしい旅でした。
 とはいえ,3度目,となると,このコロナ禍にかかわらず,なかなか実現するものではありません。それは2度目の旅で満ち足りてしまったこと,そして,それ以外にも行きたいところがたくさんできてしまったことが理由です。

 2度目の旅で,私は,まず,ボストンでどこに宿泊しようか迷いました。大都会では治安がよいことも大切な要素です。特にこのときは,MLBのナイトゲームを見ようと思っていただけに,深夜の町あるきもしなければなりません。
 しかし,アメリカの大都会のホテルは便利で治安の心配のない場所はどこもかなり高価なのです。
 そこで見つけたのが小ぎれいな小さなホテルでした。
 アメリカにしては部屋が狭く,駐車場金も高かったのですが,思った以上に快適なところでした。
 フロント係は若い女性でした。
 チェックインのときに,昔ボストンに来たことがあるという話をしました。そして,チェックアウトのときにもその女性がいたので,もうボストンにくることはないだろうから,記念に写真を撮りましょうと言って一緒に写した写真が,今もあります。
 その言葉を聞いた彼女の悲しそうな顔が今も忘れられません。ボストンはいい町です。


◇◇◇
Decoy fetched the first pitch tonight for Shohei Ohtani!
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 ボストン郊外に「タングルウッド」(Tanglewood)という場所があります。
 タングルウッドはマサチューセッツ州バークシャー郡レノックス(Lenox)とストックブリッジ(Stockbridge)およびコネチカット州にまたがる南北158キロメートにわたる丘陵地帯ですが,そこで毎年夏にタングルウッド音楽祭とタングルウッド・ジャズフェスティバルが開かれ,1937年より,ボストン交響楽団の夏季の活動拠点となっています。
 この地もまた,私が行っておいて,本当によかったと思うところのひとつです。
 夢のようなところでした。
 とはいえ,私は,小澤征爾という指揮者を知らなければ,タングルウッドに行くこともなかったことでしょう。

  ・・・・・・
 1850年,作家のナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne)はウィリアム・アスピンウォール・タッパンという人物からこの土地のコテージを借り,1853年にギリシア神話から「テセウスとミノタウロス」(Theseus and the Minotaur),「アンタイオスとピグミー」(Antaeus and the Pygmies),「竜の牙」(Dragon's Teeth),「キルケーの宮殿」(Circe's Palace),「ペルセポネ,セレス,プルートーとザクロの種」(Proserpina, Ceres, Pluto, and the Pomegranate Seed),「イアーソーンと金の羊毛」(Jason and the Golden Fleece)の6話を少年少女向けにまとめた「タングルウッド物語」(Tanglewood Tales)を書きました。タッパンはそれを記念してコテージを「タングルウッド」と名づけ,周辺のタッパン家が所有する土地もタングルウッドとよばれるようになりました。タングルウッドは同名の物語に由来する地名です。
 1934年,ニューヨーク・フィルハーモニックのヘンリー・ヘドリー(Henry Kimball Hadley)はバークシャーでの音楽祭開催を企図し,ニューヨークの資産家であったガートルード・ロビンソン・スミス(Gertrude Robinson Smith)に相談を持ちかけました。会談ののち,スミス女史は音楽祭の企画に熱中し,1935年にストックブリッジのハンナ・ホース・ファームにて1回限りのコンサートが開催され、成功を収めました。
 1936年,スミス女史はこのコンサートの企画にボストン交響楽団をスカウトし,最初の3つのコンサートがテントの下で開かれ,1万5千人の聴衆を集めました。それを聞いたメアリー・アスピンウォール・タッパンがタングルウッドの土地210エーカーをボストン交響楽団に寄贈しました。
 1937年,ボストン交響楽団はタングルウッドでオール・ベートーヴェン・プログラムを演奏,翌1938年には演奏会場として5,100席の扇型のクーセヴィツキー・ミュージック・シェッドが建設されました。
 ボストン交響楽団は第2次世界大戦中の1942年から1945年までを除いて,毎夏クーセヴィツキー・ミュージック・シェッドで演奏会を開きました。
 1959年にクーセヴィツキー・ミュージック・シェッドは改装され,1986年には隣接するハイウッドの土地も買収し,1994年には新たに拡張された土地に小澤征爾ホールが建設されました。 
  ・・・・・・

 私は,そんな歴史も何も知らず,日本からこの音楽祭に憧れやってきて,コンサートをこころゆくまで楽しむことができたのが,いまでも強く残る思い出です。
 アメリカのこうしたすごい企画やら施設を調べて行くと,そのほとんどはある個人の夢から実現したものであって,国が主導でやったものや政治家が名声を得るためにはじめたことでないのを知って,改めて驚きます。
 こうした民衆のエネルギーこそが,この国の歴史だということをもっと強く認識する必要が,何事もあなた任せの日本人には必要だと強く感じます。


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 私は,これまで2度ボストンに行きました。1度目は1981年の夏でこのときは,人生初のアメリカひとり旅でした。そして,2度目が2013年の夏で,もう11年も前のことになります。これまでに国内外さまざまなところに行きましたが,この2度目の旅が一番印象に残るものでした。
 もう,こんな旅はできないなあ,と思うと,寂しくもありますが,また,懐かしくもなります。
 そこで,このときのことを振り返ってみたいと思います。

 これまで多くのホテルに泊まりましたが,その中で,なぜか私が今でも忘れがたいホテルがいくつかあります。そのひとつが,ボストン郊外プリマスで泊まったホテルです。
 私はこの日,夕刻,ホテルを探して走り回っていました。B&B があって,よほどそこにしようかと思ったのですが,そのころは B&B なるモノに泊まったことがなかったので躊躇しました。B&B はその後,アラスカで利用して,デラックスな朝食に驚きました。B&B というところは,朝食でいろんな宿泊客と一緒になるので,言葉ができない人にはまったく楽しくありません。
 これを書いていて思い出したのが,アイスランドで泊まった民宿で,そこもまたすばらしいところでした。そこは日本の民宿のような温かいところだったのですが,もう,再び行くこともありますまい。

 さて,この時のプリマスのホテルで何がすばらしかったかといえば,ホテルに庭から眺めたケープ・コッド湾の夕景です。時間を忘れて,海に沈む夕日を眺めることができるようなホテルは,そうはありません。それはたまたま天候がすばらしかったこともあるのでしょうが,そんな経験はなかなかできるものではなく,私もこのときだけです。
 実際,旅に出ると,そのときを生きるのに精一杯なのですが,後で思い返すと,旅では一瞬一瞬がもっとも大切なものなのです。だから,すこしだけ贅沢をしても,そうした機会はのがしてはいけないのです。時間は待っていてくれまでん。
 そのうちいつかできる,とか,いつか行ける,ということは,2020年に起こったコロナ禍でもわかるように,それを逃ししてしまうと,かなえられなくなることも決して少なくないのです。


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 アメリカ野球殿堂博物館(National Baseball Hall of Fame and Museum)がニューヨーク州郊外のクーパーズタウン(Cooperstown)という町にあります。MLBなどで顕著な活躍をした選手や監督・コーチ・審判員,また野球の発展に大きく寄与した人物に対してその功績を称える野球の殿堂で,アメリカを含む世界中の野球の歴史研究や,歴史的・記録的意味を持つ資料の収集・展示を,「歴史を伝え,偉業を称え,世代を繋ぐ」(Preserving History, Honoring Excellence, Connecting Generations)というスローガンのもとに行っています。
 かつてMLBに夢中だった私は,ここに行きたくて仕方がありませんでした。今となっては,この場所もまた本当に行っておいてよかったと思うのですが,よほどのMLB好きか旅慣れていないと,ここに行くのはかなり大変です。
 場所はニューヨークのダウンタウンからははるかに遠く,しかも,アクセスするインターステイツがありません。私は,地方の一般道を延々と走って往復しました。

 そういった不便な場所にあるにもかかわらず,クーパーズタウンもまた,とても美しいところでした。ボストン郊外のタングルウッド,そう,今思い出したのがオーストリアのハルシュタットやニュージーラドのマウントクックなども同じですが,こうした都会から離れた場所は,どこも本当にきれいです。行ったことはないのですが,イギリスの田舎も同様かな,と思います。
 こうした緑美しい景色は日本にはほとんどありません。しいて言えば信州や北海道にその雰囲気を見ることはありますが,道路は狭く,土地もせまく,遠く及びません。
 私が今思い出すのは,野球殿堂ではなく,そこへ往復したときに走った道路から見た風景なのです。
 インターステイツは便利ですが,インターステイツを走ってアメリカ大陸を横断したところで,こうした風景を見ることはできません。実際に走っていた時には,時間もかかり,インターステイツがあればいいのに,と思ったものですが,今考えると,ここはとてもすばらしいところでした。
 こんな町に生まれ育った人は,いったいどういう気持ちで日々生きているのかな,と思うことでした。


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 ニューヨークに憧れた人のほとんどは,「自由の女神」を見たいと思うでしょう。「自由の女神」の姿なら,ニューヨークに行けば,特に意識しなくても,簡単に見ることができます。
 「自由の女神」は,また,リバティ島というマンハッタンからさほど遠くない島にあって,簡単に上陸することができます。というか,できました。
 私がはじめてニューヨークに行った今から43年ほど前は,市内観光バスのコースに組み込まれていて,対岸のバッテリーパークに観光バスが停まって,さあ,いってらっしゃい! ということで,思い思いフェリーに乗って島に上陸,「自由の女神」の中まで入ることができました。
 その30年後に私が行ったときは,フェリーに乗る前にまるで飛行機に乗るようなセキュリティチェックがあり,また,フェリーもものすごく混雑していて,上陸しても「自由の女神」の内部に入るにはさらに事前の予約が必要になっていました。
 43年前のアメリカの大都会のダウンタウンはどこも荒み治安も悪かったのですが,いまほどテロを心配することもない自由な国でした。戻れるものならその時代のアメリカを旅したいものです。

 「自由の女神」は正式名称を「世界を照らす自由」(Liberty Enlightening the World)といいます。アメリカ合衆国の独立100周年を記念して,独立運動を支援したフランス人の募金によって贈られたもので,1886年に完成しました。
 銅製で,像の頭の部分までの高さは33.86メートル(111.1フィート),台座からトーチまでの高さは46.05メートル(151.1フィート),台座の高さは47メートル(153フィート),台座部分も含めると93メートル(305.1フィート),総重量は225トンです。 右手には純金で形作られた炎を擁するトーチを空高く掲げ,左手にはアメリカ合衆国が独立した「1776年7月4日」とローマ数字で刻印された銘板を持っています。
 足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり,全ての弾圧,抑圧からの解放と,人類は皆自由で平等であることを象徴しています。また,女神がかぶっている冠には7つの大陸と7つの海に自由が広がるという意味の7つの突起があります。
 内部は,エレベータが設置されていて,エレベータの10階にあたる最上階から像の中のらせん階段を上って王冠部分の展望台に登ることができます。私は43年前に登ったことがあります。台座部分の内部はアメリカの移民の歴史について展示する博物館になっていて,エマ・ラザラス(Emma Lazarus)が書いた「新しい巨像」(The New Colossus)という題の14行詩を浮き彫りにしたブロンズ製銘板が設置されています。もともとは灯台として作られたので,ニューヨーク港を向いています。

 「新しい巨像」というのは次のものです。最後の8行を載せます。
  ・・・・・・
"Give me your tired,
your poor,
Your huddled masses yearning to breathe free,
The wretched refuse of your teeming shore.
Send these,
the homeless,
tempest-tossed to me,
I lift my lamp beside the golden door!”
  ・・
疲れ果て貧しさにあえぎ自由の息吹を求める群衆を私に与えたまえ。
人生の高波に揉まれ拒まれ続ける哀れな人々を。
戻る祖国なく動乱に弄ばれた人々を私のもとに送りたまえ。
私は希望の灯を掲げて照らそう自由の国はここなのだと。
  ・・・・・・

 また,台座の記念盤には以下の文言が刻まれています。
  ・・・・・・
 AT THIS SITE ON AUGUST 5TH, 1884, THE CORNERSTONE OF THE PEDESTAL OF THE STATUE OF "LIBERTY ENLIGHTENING THE WORLD" WAS LAID WITH CEREMONY BY WILLIAM A. BRODIE, GRAND MASTER OF MASONS IN THE STATE OF NEW YORK.
 GRAND LODGE MEMBERS, REPRESENTATIVES OF THE UNITED STATES AND FRENCH GOVERNMENTS, ARMY AND NAVY OFFICERS, MEMBERS OF FOREIGN LEGATIONS, AND DISTINGUISHED CITIZENS WERE PRESENT.
 THIS PLAQUE IS DEDICATED BY THE MASONS OF NEW YORK IN COMMEMORATION OF THE 100TH ANNIVERSARY OF THAT HISTORIC EVENT.
  ・・
 1884年8月5日,「世界を照らす自由の女神」の像の台座の礎石はニューヨーク州メイソン団のグランド・マスター,ウィリアム・A・ブロディーによる式典とともに設置された。
 グランド・ロッジの構成員ら,合衆国およびフランスの政府の代表ら,陸軍および海軍の将校ら,諸外国の使節団の構成員ら,ならびに名高い市民らが参列した。
 この銘盤はかの歴史的事件の第100周年を記念してニューヨークのメイソン団により捧げられる。
  ・・・・・・

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 はじめてMLBを見たのは,今から44年ほど前,生まれてはじめてアメリカに行ったときでした。ロサンゼルス・ドジャースのホームゲームで,対戦相手はシンシナチ・レッズ。知っていたプレイヤーはピート・ローズだけでした。このときの印象はものすごいもので,アメリカは本当にすごい国だと思いました。
 当時のドジャースタジアムにはまったく広告もなく,広い駐車場はすべて無料でした。ピーナッツ売りが遠くの客にピーナッツの袋をコントロールよく投げたり,セブンスイニングストレッチ,そして,子気味よいオルガンの応援メロディーなど,すべてがあか抜けていました。今でもその頃のMLBが私にはとても懐かしいものです。今はボールパークはどこも広告だらけで派手だし,駐車場はすごく高いし,その頃の素朴さはありません。また,当時のボールパークは,現在も残っているシカゴ・カブスのリグレーフィールドやボストン・レッドソックスのフェンウェイパークのような古い,そして,ユニークなところも多く,その多くはすさんだアメリカを思い起こすようなすごみがあって,行くのが楽しみでした。

 その次に見たのが,30年ほど前,ニューヨークのヤンキースタジアムでした。今のヤンキースタジアムとは違って,古く,周りの治安も悪く,とても怪しげでした。私が見た年はデレック・ジーターがルーキーだった年で,周りの観客がみな「ジーター,ジーター」と応援していて,そのときはじめてその選手をしったものです。
 こうして書いているだけでも,その時代に戻りたいものです。
 それから,私は,アメリカ各地でずいぶん多くのゲームを見たのですが,今は,どこも同じようなボールパークになってしまい,また,チケットも高く,かつ,駐車場も高く,あまり魅力を感じなくなりました。
 その後,何十年もして,私は,再びニューヨークでMLBを見ました。チケットをダフ屋から買ったこともありますが,何の問題もありませんでした。

 今は,MLBよりも私はマイナーリーグの方にずっと魅力を感じます。アメリカはやはり少しすさんだ感じの方がずっとアメリカらしいです。そして,田舎のぼろいボールパークでのんびりと時間を忘れて楽しみたいものです。


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 はじめてニューヨークにひとり旅をしたのは,今から43年ほど前,2度目のアメリカ旅行のときでした。
 行きの飛行機でとなりに座ったは,東京で幼稚園の先生をしているという,私と同じくらいの歳の女性でした。彼女は,ニューヨークにいる友人に会いに行くということでしたが,ミュージカルが好きで,機内では,私にずっとミュージカルのレクチャーをしてくれました。そして,ニューヨークでミュージカルを見ませんか,と誘われました。
 私はそれまでまったくミュージカルなど知らず,興味もなかったのですが,その誘いに応じました。
 私はニューヨーク到着後は,ワシントンDC,ボストンとまわり,ニューヨークに戻ってきました。
 そして,約束した場所で落ち合って,一緒に夕食を食べ,そして,ミュージカルを見ました。ミュージカルは「コーラスライン」でした。

 今から思えば,旅先で出会って,一緒に食事をしてミュージカルを見たのに,名前も知らず,連絡先もきかず,それっきり,というのは,私の精神年齢が若すぎたからなのでしょうか。当時の私は,この女性はミュージカルオタクの好かない女性だ,程度でしか思わなかったのです。
 そのときの女性のことは忘れましたが,日本に帰国して,私は,すっかりミュージカルのとりこになりました。しかし,日本で上演されるミュージカルは本場ブロードウェイのものに比べて,物足りないものでした。
 そして,それから35年ほどして,私はブロードウェイで再びミュージカルを見ました。見たのは「シカゴ」でした。
 当然ながら,そのときは,行きの機内で女性に誘われることもなく,ひとり,ミュージカルを見ました。そして,忘れていた40年前のことを思い出しました。あのときの彼女はいったい今ごろ何をしているのかな,と思ったことでした。


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 ニューヨークで有名なのは,この夜景です。当時の私は,この景色に最も憧れていました。
 この夜景を見るには,ブルックリンブリッジを渡り,ハドソン川を越え,ブルックリンに行かななくてはなりません。ということで,はじめてニューヨークに行ったときは,ここもまた,私には縁が遠い場所でした。何せ,夜のニューヨーク。ブルックリンもやはり治安があまりよくなかったので,この対岸の夜景は有名であったのですが,行く勇気がありませんでした。

 そんな場所でしたが,その後,私は,この夜景も見たし,ブルックリンブリッジも歩いて渡りました。そんなわけで,今では,ニューヨークでやりたかったことは,このように,そのすべてをやり遂げることができたわけです。
 ニューヨークに限らず,どの場所も,知らないうちは,行ってみたいと思うのものです。だから,勇気を出して,徹底的に行ってみることのほうがよいのです。でないと,いつまでも,そうした願望を抱いたまま歳をとることになります。そしてまた,齢をとった今になってしみじみ思うのは,若いうちにこうしたことはやっておかないと,次第にやる気力が萎えてくるのです。そして,後悔するのです。

 今は,ブルックリンもまた,再開発が進み,高級住宅街となっているようなので,治安も悪くないようです。しかし,ブルックリン全体がそうだとも言い切れないという話を聞いたことがあります。
 この夜景を見たころ,私はブルックリンで道に迷ったことがあるのですが,私が道に迷ったあたりはスペイン語の看板ばかりで,英語も通じず,また,どこを歩いているのかさえ不明になって,そのときは生きたここちがしませんでした。今とは違って,スマホが普及する前のことでした。
 それもまた,今では懐かしい思い出です。


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 コロナ禍以前,あれだけ身近に感じていたアメリカでしたが,今は,精神的には宇宙の果てより遠くなってしまいました。
 物価も非常に高くなってしまい,また,行きたいという気持ちも萎えてしまったので,当分アメリカに行けそうにありません。というか,行く気が起きません。
 そこで,自分を元気づけるために,これまで出かけたアメリカの思い出を書いていきたいと思います。
  
 吉田ルイ子さんの写真集「ハーレム」。ビリージョエルの「ニューヨークの想い」。八神純子さんの「パープルタウン」。これが私のアメリカの原点です。というか,とりわけ,ニューヨークへの憧れでした。
 今とは違って,私が想っていたアメリカという国は,暗くすさんだもの。それは,ニューヨークの薄暗い路地裏でどこからともなく聞こえてくる不気味な靴の音。そんな想像が,ビリージョエルの「ニューヨークの想い」と同化して,憧れに転じていってのです。
 私がはじめてアメリカに行ったのは23歳のときですが,それはサンフランシスコとロサンゼルスへのツアー旅行でした。それが生まれてはじめての海外旅行でした。
 そのときに思ったのは,地球儀や地図帳で見ると,あまりにちっぽけな日本。将来,どんなにお金もちになろうとも,偉くなろうとも,高級車でぶっ飛ばそうと,こんな狭いところでしかチマチマと生きられないというなら,なさけないだけだということでした。しかし,そのころの私は,英語も満足にできなかったし,車も持っていませんでした。お金もちでなく,偉くもなく,高級な車に乗ったことがないのは,今も同じですが…。
 そこで,当時考えたのが,ニューヨークへのひとり旅だったのです。
 23歳のころに行った旅行については,今になってみれば,記憶にあることもないこともあるのですが,きわめて幼稚なものでした。それでも,5番街のカフェでひとり朝食を食べながら,どんなもんだい! と勢に浸っていたのを今も思い出します。

 私がニューヨークで最も行きたかったのはハーレムでした。しかし,治安の悪いというハーレムにひとり行く自信もはじめはなく,2度目に行ったとき,現地ツアーに参加して,なんとかハーレムに到達しました。そして,3度目に行ったとき,そのころは,吉田ルイ子さんが暮らしたころの物騒なハーレムではなく,治安も悪くありませんでしたが,ついに,ハーレムでゴスペルを聴くまでになりました。
 若き日に抱いたアメリカへの想いがすべてかなったのは,それから30年以上経ってから,ということだったのですが,ともかく実現しました。今は,そのころの自分に戻って,また行ってみたいものだなあ,とふと思ったりします。


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 今日は,フラグスタッフにあるローウェル天文台について紹介しましょう。
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 フラグスタッフ(Flagstaff)はアリゾナ州北部に位置する小さな都市で,人口は約5万人です。コロラド高原の南西端に位置し,標高が2,000メートルを超えます。このように,フラッグスタッフは高地に位置し,かつ,乾燥しています。冬を除いては概ね温暖で,青空が広がる日が多いところですが,冬の寒さは厳しいものです。標高が高いために,同じ州の標高330メートルのフェニックスに比べて夏の最高気温は10度以上も低く,摂氏27度ほどです。しかし,乾燥しているため,夜になると夏でも摂氏10度ほどまで下がって冷え込みます。また,冬は日中こそ摂氏4度から摂氏5度ほどであるものの,夜になると氷点下10度を下回ることもあります。
 7月や8月には夕立がよく起きます。年間降雨量は約570ミリメートル,降雪量は270センチメートルほどです。
  ・・・・・・
 1855年,エドワード・フィッツジェラルド・ベール(Edward Fitzgerald Beale)は,ニューメキシコ州リオグランデからカリフォルニア州フォートテホンへの道を調査していましたが,その道中でこの場所の東端にキャンプを張りました。エドワード・フィッツジェラルド・ベールとその部下は,すぐ側に立っていた松の木から枝を折って取り除き,星条旗を掲げるための旗竿としました。
 市の名まえであるフラグスタッフは1876年にアメリカ合衆国独立100周年を記念して立てられた旗竿に由来しますが,フラッグスタッフに最初の移民が住みついたのは1876年のことです。
 1880年代に入ると市は成長をはじめ,鉄道産業が栄えました。こうして,1886年ごろには、フラッグスタッフはアルバカーキと西海岸との間では最も大きな都市になりました。

 ローウェル天文台(Lowell Observatory)は,パーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)によって,1894年に標高の高さと視界のよさからフラグスタッフに設立された天文台です。
 私も見ることができた歴史的記念物に指定されている口径61センチメートル屈折望遠鏡は今も現役で,一般公開されています。61cm屈折望遠鏡は,1896年に20,000ドルの費用をかけて,アルヴァン・クラークによってボストンで製造され,アリゾナまで列車で運ばれたものです。
  ・・
 1900年代のはじめ,ウィリアム・ヘンリー・ピッカリング(William Henry Pickering)とパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)は,天王星の軌道における摂動の分析からその存在が予測され発見された海王星と同じように,海王星の軌道もまた他の未発見の惑星「惑星X」によって乱されていると推測し,そのような惑星が存在する可能性のある天球座標をいくつか提唱しました。
 1905年,ローウェル天文台ではこの「惑星X」を捜索するプロジェクトを開始,プロジェクトはパーシヴァル・ローウェルが1916年に死去するまでの11年間続けられましたが,見つけることはできませんでした。
 ローウェルの死後の1929年,プロジェクトが再開されることになって,当時の天文台長であったヴェスト・スライファー(Vesto Melvin Slipher)がクライド・トンボーにこの仕事を預けました。クライド・トンボーは,ローウェル天文台の口径33センチメートルの天体写真儀で空の同じ区域の写真を数週間の間隔を空けて2枚撮影し,その画像の間で動いている天体を探すという方法で捜索を行いました。そして,撮影した膨大な写真を丹念に精査した結果,ついに,1930年2月18日,同年の1月23日と1月29日に撮影された写真乾板の間で動いていると思われる天体を見つけました。これが冥王星です。

 私はフラグスタッフというところにぜひ行ってみたかったことと,できればローウェル天文台を見てみたいとずっと思っていたのですが,2019年,やっとその念願がかないました。これもまた,今ではかなり幸運なことでした。それは,1年遅れていたら行くことができなかったからです。
 行くまでは,いろいろ調べても,ローウェル天文台がどのように公開されているのか,行けば見学できるものなのか,まったく見当がつかなかったのですが,気軽に中に入って,思う存分見学し,夜は天体観測会にも講演にも参加できるものでした。ここは,市民のための天文台でした。
 私は,冥王星を発見した望遠鏡に,何と,触れることまでできたのが,今では夢のような出来事です。
 星好きにはたまらない素朴な田舎町であるフラグスタッフは,私が住んでみたいアメリカの数少ない町のひとつです。


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 2018年の旅で,念願だったパロマ天文台を訪れたのですが,私が訪れたちょうどその日,天文台構内の駐車場の工事をしていて,中に入れませんでした。
 今にして思えばそのときの私は何にとりつかれていたのか,その翌年2019年にも再びそこに行くことにしたのがすごいことです。京都や東京だって,そう簡単に何度も行くことができるわけではありませんが,その当時は,ロサンゼルスなんて,私には精神的にそれくらいの距離でしかなかったのです。
 コロナ禍が起きていなければ,今もそんな感じで旅を続けていたのでしょう。しかし,今では遠い遠いところです。

 2019年は,パロマ天文台だけでなく,後に紹介することになるフラグスタッフのローウェル天文台をはじめ,バリンジャー隕石孔,さらには,大谷翔平選手まで見ることができましたが,これらのことは,2018年にパロマ天文台の中に入れなかったことで成し遂げられた奇跡なのです。まさに塞翁が馬でした。
 が,幸運はそれだけではなく,パロマ天文台を訪れたこの日が土曜日で,私が見たかったパロマ天文台の200インチ反射望遠鏡は,通常はガラス越しにしか見ることができないのですが,ドームの中に入って見学できるツアーに参加することができました。これもまた,もし2018年にパロマ天文台に入れたとしたらできなかったことでした。

 ロサンゼルスからパロマ天文台までは120マイル,約200キロメートルあります。
 ロサンゼルスで宿泊したモーテルから国道91を走り,アナハイムを過ぎて,さらに東に進んでいってインターステイツ15に入ります。そして,インターステイツ15を南東に進んでいって,テメクラ(Temecula)という町でインターステイツ15を降り,州道76に入る,という経路で走っていきます。テメクラからは一般道で,わずか36マイル,約60キロメートルの州道76は山道となるので1時間程度もかかり,リンコン(Rincon)という数件の家がある小さな町からさらに山道を走っていくと,やっと,パロマ天文台の口径500センチメートル反射望遠鏡の巨大なドームが見えてきます。

 門を通り過ぎて天文台の構内の道路を入っていくと,その先に広い駐車場があって,車を停めると右手にビジターセンターがあります。このビジターセンターもまた,土曜日と日曜日だけ開いているということでした。
 見学ツアーでは,まず,ドームの入口の前で望遠鏡の歴史のレクチャーがあってから,いよいよドームに入ります。ドームの1階部分では反射鏡の再メッキができる工場があって,それらの装置の説明ののち,端にある階段を上って,ついに,望遠鏡のある2階に登り,巨大望遠鏡と対面となります。 
 ドームはものすごく巨大で,外観もピカピカ,今も現役の口径500センチメートル反射望遠鏡はしっかりと整備されていて,ドーム内もきちんと整理整頓がされていました。


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 私は,星を見ること以上に天文台に興味がありましたが,それは,子供のころに買ってもらった「原色現代科学大事典」の第1巻「天文」に載っていた世界中の天文台を実際にこの目で見てみたいというのが動機でした。
 そうした望遠鏡は,ウィスコンシン州のヤーキス天文台にある口径102センチメートルの屈折望遠鏡,サンノゼ郊外のハミルトン山にあるリック天文台の口径91センチメートル屈折望遠鏡,サンディエゴ郊外のパロマ山にあるパロマ天文台の口径500センチメートル反射望遠鏡と口径122センチメートルシュミット望遠鏡,ロサンゼルス郊外のウィルソン山にあるウィルソン天文台の口径152センチメートルヘール望遠鏡と口径254センチメートルフッカー望遠鏡,アリゾナ州フラグスタッフにあるローウェル天文台の口径33センチメートル屈折写真儀などでした。
 しかし,ウィルソン山,パロマ山という名前だけは知っていても,それがどこなのかは全く認識がありませんでした。

 その後,知識も増して,そうした望遠鏡の多くが今は時代遅れのものとなっていることは知ったのですが,子供のころの夢はそんなこととは関係ありません。
 そこで,私はこのような望遠鏡が現在公開されているのならぜひ見てみたいものだという想いがどんどん強くなってきて,ついに出かけることにしました。
 しかし,一般の観光地とは違って,わざわざ行っても見られるものかどうかわかりません。ホームページを見ても,どんな様子なのか要領を得ません。行かなくてはことが進まないので,とにかく行ってみようと,2018年と2019年に天文台を見るためにカリフォルニア州に旅に出たのですが,今では,本当に行ってきてよかったと,強く思います。
 これもまた,もし,行っていなければ,今ごろはものすごく後悔していたことでしょう。

 実際は,2018年に行ったときは,もっとも期待したパロマ天文台は見ることができず,逆にあまり期待していなかったウィルソン天文台は偶然にも特別公開の日にあたって,そのすべてを見ることができたのは不幸中の幸いでした。
 2018年には行くことができなかったパロマ天文台は,その翌年にまた出かけて,ついに,念願のパロマ天文台にも行くことができて,しかも,見学ツアーに参加することができて,私は,長年の夢をすべて実現したのです。
 ここでもまた,私の強運が発揮されました。

  ・・・・・・
 1917年11月に完成したウィルソン天文台の口径254センチメートルフッカー望遠鏡でエドウィン・ハッブル(Edwin Hubble)は,星雲が実際には我々の天の川銀河の外にある銀河であると結論,さらに,ハッブルと助手のミルトン・ヒューメイソン(Milton L. Humason)は,宇宙が膨張していることを示す赤方偏移の存在を発見しました。
 この望遠鏡は世界最大のものとして君臨していましたが,1948年にパロマー山に口径500センチメートル反射望遠鏡を完成したことでその座を明け渡すことになりました。1986年に口径254センチメートル反射望遠鏡は一度は運用を終了しましたが,1992年に再び使用が開始されました。フッカー望遠鏡は20世紀を代表する傑出した科学装置なのです。
  ・・・・・・
 パロマ天文台については次回。


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☆☆☆☆☆☆
 前回書いたように,マウナケアに憧れてはじめてハワイ島に行ったころは,まだ,南半球の星空は知らなかったので,ハワイが最も星見に適したところだと思っていました。
 ハワイ島もよかったけれど,観光客が星見をするには場所の少なく人も多かったので,もっと星見に適したところがないかと調べていて,マウイ島にハレアカラという夢のような場所を見つけました。そこでハワイ島に行った翌年に行ってみることにしました。
 ハレアカラはマウナケアとは違って,山頂まで舗装されていて,きわめて楽に登ることができました。日が暮れるとほとんどの人は下山するので,人もいなくなります。おそらくハワイの中で,一般人が星見をするのに最も適な場所ですが,何せ,ここは異国,ひとりで深夜の山の上で星見をするにはちょっと二の足を踏みます。ということで,私は,いいところだなあと思っても,1,2時間程度,満天の星を楽しんだだけでした。しかし,その数年後に再び行ったマウイ島でハレアカラのふもとの町クラに泊まったときにゲストハウスのベランダから見た星もすばらしいものでした。つまり,ふもとの町でも,十分に星を見ることができます。

 さて,今回は天文台の話です。
 このハレアカラにも天文台群があります。しかし,ここは完全に一般とは遮断されていて見学はできないので,遠くからドームを眺めるだけなのが残念ですが,いかにも研究施設という感じがします。前回書いたハワイ島のマウナケアより標高が1,000メートルほど低いのが難点ということですが,それでも富士山程度。何の何の,ここは最高のコンディションでしょう。
 ハレアカラにある施設を調べてみました。ウェブページから引用します。
  ・・・・・・
 驚くほどの透明度,乾燥した空気,そして静けさと,限られた光害のため,ハレアカラの頂上は世界で最も有数の天体観測の場所です。ここでは,ハワイ大学,アメリカ空軍などが運営する天体物理学の複合施設である「ハレアカラ天文台」があって,ここで行われている研究に世界中から多くの専門家が参加しています。また,空軍が運用する望遠鏡の中には,天体ではなく人工衛星の研究に携わっているものもあります。
 天文台は一般に公開されていませんが,ハレアカラアマチュア天文学者グループが主催する公開イベントがあります。
 以下,天文台にある望遠鏡についての紹介です。
●ミーズ天文台 (Mees Observatory)
 ひとつの赤道儀に多くの機器が取り付けられている独特なものです。
● アトラス (ATLAS)
 ハワイ大学によって開発され,NASAが資金提供する小惑星衝突早期警報システムです。
 100マイル,160キロメートル離れたふたつの望遠鏡で構成されていて,毎晩空全体を自動的にスキャンして接近天体を探します。
● パンスターズ PS1 and PS2(PAN-STARRS PS1 and PS2)
  単一鏡の試作望遠鏡PS1は2007年の8月に設置されました。さらに,現在はPS2がPS1の隣のドームに建設されています。多くの彗星を発見した望遠鏡として有名です。
●LCOフォークス天文台(LCO Faulkes Observatory)
 フォークス望遠鏡はラスクンブレス天文台グローバル望遠鏡ネットワーク(LCOGTN)の教育用です。
●TLRS-4レーザー測距システム(TLRS-4 Laser Ranging System)
 ハレアカラでの初期世代のレーザー測距実験であるLUREによって生成された衛星レーザー測距(SLR)データの時系列を維持するものです。
●東北 T60 and T40(Tohoku T60 and T40)
 日本の東北大学ハレアカラ天文台は惑星の外気圏・磁気圏からの微弱な放射を継続的に監視することを目的として、2006年3月に設置されたものです。
● 黄道光天文台(Zodiacal Light Observatory)
 黄道光天文台には次のふたつの機器があります。
 0.5メートルのコロナグラフです。この望遠鏡は多くの太陽および冠状実験に使用されます。
 デイ・ナイトシーイングモニター(DNSM)は,差分画像の動きを測定します。
●高度な電気光学システム(Advanced Elwctro-Optical System = AEOS)
 3.67メートルのAEOS望遠鏡は空軍で最大かつ最先端の望遠鏡システムです。
 ハワイ大学では,この望遠鏡で高解像度の可視および赤外線分光器と分光偏光計設備機器を操作しています。
●マウイ宇宙監視サイト(Maui Space Surveillance Site = MSSS)
 マウイ宇宙監視サイトは,アメリカ空軍フィリップス研究所の資産である空軍マウイ光学ステーション(Maui Optical Station = AMOS)の組織です。
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 以前,アメリカの国立公園の紹介をしたので,今回からは天文台をとりあげます。天文台はアメリカに限らず,日本もオーストラリアも見学したところがあるので,順に紹介していくことにします。
 星に興味のない人に天文台を見学に行くというと,星を見にいくと思う人が多く,望遠鏡を見にいくというと,そのどこがおもしろいのかと聞かれるのですが,それも当然です。それは,車に興味のある人がクラシックカーの博物館に行くのと同じようなものでしょうか。
 とはいえ,どんな望遠鏡でも見たいわけではなく,子供のころに図鑑で見たものを中心として,そのころに憧れた,いったいどんな山奥にあるのだろう,とか,どんなに大きいのだろう,とかそういった好奇心からくるものです。
  ・・
 私がそうした興味をもつようになった原点の本が3冊あります。
 1冊目は学研から発行された「原色現代科学大辞典」の第1巻「宇宙」に載っていた世界中の天文台,2冊目はこのブログにもたびたび登場する「月刊天文ガイド別冊・日本の天文台」,そして,3冊目は出口修至さんの書いた「アメリカ天文紀行・ふたたびキットピークへ」です。
 こうした本に書かれてあった天文台に一度でいいから行ってみたいものだとずっと思っていたわけです。

 では,はじめます。
 話は矛盾しますが,上記にあげた本にはかかれていないハワイ島マウナケアの天文台から,まずは紹介します。
 私は,ハワイというのは日本人観光客ばかり,という先入観から,あまり気が進みませんでした。それでも行ったのは,アメリカ合衆国50州制覇の目的を達成するためだったのですが,せっかく行くならということで目指したのがオアフ島ではなくハワイ島でした。それはハワイ島にはすばる望遠鏡をはじめとする多くの天文台がマウナケアの山頂にあるからでした。
  ・・
 ハワイ諸島の中で一般の人が行くことができるのは6島ですが,そのうち最も東側のある大きな島がハワイ島です。
 この島の中央にそびえるのが標高4,200メートルのマウナケア。実際,私は,この場所にお昼間と早朝日の出前の2度行きました。マウナケアの山頂には,世界最大級の天文台が13基あります。この望遠鏡のあるあたりは,ハワイ島のどこからでも見ることができるように思われるのですが,実は,ハワイ島でも地図の①で示したワイメアからと②で示したヒロからだけ山頂の天文台のドームを見ることができるのです。

 マウナケアにある望遠鏡のひとつが,日本の誇る口径8.2メートル,世界最大級のすばる望遠鏡です。しかし,すばる望遠鏡のドームを外から見ることはできても,事前にアポイントを取らないとその内部の望遠鏡自体を見ることは簡単にはかないません。
 私も,すばる望遠鏡の本体を見ることはできなかったのですが,すばる望遠鏡のドームは,見てきました。その代わり,お昼間に行ったとき,そのお隣にあるケック望遠鏡はこの目で見ることができましたし,ビジターセンターにも行くことができました。明け方に行ったときは,マウナケアの山頂にある多くの望遠鏡が,ゴーゴーと音を立てて観測をしている姿に感動しました。また,雲海から昇る朝日の美しかったこと。
  ・・
 すばる望遠鏡の最大の発見は「すばるディープフィールド」といって,くじら座のあたり,何もなさそうな場所を写したときに見つかった銀河団です。この銀河団は距離が100億光年,約90,00,000,000,000,000,000,000キロメートル(900垓キロメートル)の向こうです。宇宙の年齢は138億年といいますから,宇宙ができてわずか38億年経ったときの姿を見ているということになります。

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 暇にまかせて,いつものように,見るでもなく見ないでもなく,NHKBS1で放送されているMLB中継を英語にしてつけていたら,デトロイトからのゲームでした。そこで,デトロイトについて,なぜか懐かしく思い出しました。
 私がデトロイトに行ったのは2002年のことだから,早いもので,もう20年前のことになります。デトロイトに行った目的は,いつものとおり,デトロイト・タイガースのホームでMLBを見ることでした。そのついでに,美術館や歴史博物館,さらにはモータウンなどの観光もしてみましたが,この町は,危険というより寂れた感が一杯でした。
 このときの私は,アメリカ合衆国50州制覇とMLB全30チームのホームゲームを見る目的を達成しようと,セントルイス,インディアナポリス,シンシナチ,ピッツバーグ,クリーブランドといった,およそ日本人が観光するのとは無縁のアメリカの中部をドライブしていました。そこで最後に寄ったのが,帰国便に乗る空港のあるデトロイトでした。

 デトロイトはセントレア・中部国際空港から直行便があるのですが,空港はデトロイトのダウンタウンからは遠く,ダウンタウンを目的にする人もまた,ほとんどいないように思います。
 日本では「デトロイト=車の町」といった印象ですが,実際は工場は郊外にあって,ダウンタウンは相当に危険な都会でした。
 まず,ミシガン州に入った途端にインタ―ステイツの制限速度が70マイルに格上げされ,それと反比例するように道路がガタガタになったのに驚きました。そして,ダウンタウンに近づくにつれて,どんどん雰囲気が「ヤバく」なっていきました。私が見たのはナイトゲームだったのですが,駐車代をケチって遠くに停めたが失敗でした。
 終了後,車を停めた場所まで歩いていったときに,よく命があったものだ,と今では思います。深夜に歩くような町ではありませんでした。

 さて,20年前のデトロイトはそんな感じでした。よくもまあ,こんなになるまで放っておいて何もしなかったものだ,というのが私の正直な印象でした。デトロイトは2013年に財政破綻をしたという報道まではよく耳にしたのですが,その後の様子がわかりません。調べてみても,実際の姿がよくわならないのです。
 私が行った当時は,ナイトゲームのとき,スタンドから見える遠くのビルにはまったく明かりがついていなかったのですが,テレビのMLB中継を見る限り,スタジアムの周りの町の様子は,私が行ったときよりは色とりどりになっていて,明るくなったダウンタウンがうかがわれました。このように,ダウンタウンは再開発で活気をとりもどしたというようなことが書かれているものもあります。
 しかし,治安は? として調べてみると,デトロイトの日本領事館の情報では
  ・・・・・・
 デトロイトは,近年,カムバック・シティとして目覚ましい復興を遂げています。ダウンタウンやミッドタウンを中心に若者たちによるパブリックアートや音楽が盛んとなり,アメリカ国内でも注目度の高い都市となりつつあります。
 その一方で,FBIが発表した2016年中の犯罪統計では人口10万人あたりの凶悪犯罪件数でワーストとなるなど,治安が比較的回復してきた近年でも最も危険な都市のひとつであることに変わりはありません。
  ・・・・・・
とありますが,この情報さえ6年も前のことです。今でも依然として同じ状況なのでしょうか。
 これ以上のことは実際に行ってみないとわかりません。
 なお,私が行ったのは20年も昔のことで,今のようにデジカメもなく,フィルムで写した写真をスキャナーで加工した少しの写真しかないのが残念です。いろいろなところに出かけるには,人生は短かすぎます。

 さて,ここからはおまけです。
 現在のデトロイト・タイガースのホームグランドはコメリカパーク(Comerica Park)ですが,このボールパークは,2000年にダウンタウンの再開発を目的として作られたものです。私が訪れたのは,ちょうどできて2年目でした。ちょっと安っぽいなあ,というのが,私の印象でした。
 それまでは,タイガースタジアム(Tiger Stadium)で,ダウンタウンから少し西に行ったところにあって,私は,このとき,その横を通りすぎました。使われなくなって2年経っていましたが,当時はまだ健在でした。その4年後の2006年に取り壊され,現在では,当時の遺構が一部残された the Corner Ballpark になったということです。
 実は,私は,このタイガースタジアムで,ぜひ,一度ゲームが見たかったのです。このボールパークは1911年生まれというとても古いもので,古きよき,そして,自動車産業が栄えたころの強かったデトロイト・タイガースの象徴でした。今も使われていれば,ボストンのフェンウェイパーク(Fenway Park),シカゴのリグレーフィールド(Wrigley Field)のように,ここまで古いとむしろトレンディだったのです。タイガースタジアムは,グランドの形はほぼ四角形で,センターまでが異常に遠く,また,スタンドの屋根は柱があって見にくいし,といったように,不便極まりない,私が好きな場末感ただようすてきなボールパークだったようです。

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 以前書いたことがありますが,私がノースダコタ州に憧れたのは,アメリカ50州すべてに行こうと思っていたある人が,最後に残ったがノースダコタ州だったというような文章を書いていたのを読んだことが理由でした。そのころの私はまだアメリカ50州制覇は考えていなかったのですが,そんなに行きにくいところなら,ぜひ行ってみたいと思いました。
 私は,まず,サウスダコタ州に行って,さまざまな場所を観光してから,国道85号線を北に一路,ノースダコタ州を目指しました。サウスダコタ州がすばらしいところだとはその時点では思ってもいませんでしたが,行ってみて本当によかったと今では思います。
 そして,サウスダコタ州のラピッドシティで車を借りて,ノースダコタ州へ向かいました。
 そのときの写真が今日の1番目から3番目のものですが,これは本当にすごいものでした。写真ではわかりませんが,こんな景色が延々とずっと続いていたのです。アメリカでほかにいろいろな道を走りましたが,こんなすごい道はここが一番でした。
 こころゆくまでまっすぐな道を走ってみたい。
 そんな夢を実現するのに最高なのは,何といってもノースダコタ州でした。
 もちろん信号などなく,すれ違う車もほとんどありませんでした。
 そして,ノースダコタ州に達したとき,出迎えてくれたのは,一面に咲くひまわりでした。
 
 ノースダコタ州の中央部を東西にインターステイツ94が横断しています。これが今日の4番目から6番目の写真です。
 アメリカのインタ―ステイツは,都会では最低3車線,多いところでは7車線,8車線とあるのですが,さすがにノースダコタ州はまだ2車線でした。ここを夜にも走ったのですが,周りは真っ暗でした。
 アメリカは東西を貫くインタ―ステイツは,10,20,30,……,というように偶数番号が振られていて,最も北を走るのがインタ―ステイツ90です。インターステイツ90は,西はワシントン州シアトルから東に,アイダホ州,モンタナ州と進むのですが,モンタナ州のビリングスから南東に進路をとって,サウスダコタ州,ミネソタ州と進み,最終的にはニューヨークに達します。
 ということで,インターステイツ90はなぜかノースダコタ州を避けるように走っているのです。そこで,モンタナ州のビリングスでインターステイツ90とわかれてインタ―ステイツ94がノースダコタ州に向かうのです。インターステイツ94は,ノースダコタ州を越えると,やがて,ウィスコンシン州で,再びインターステイツ90と合流します。


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 アメリカの国道の正式名称は 「United States numbered highways=U.S. Routes / U.S. Highways」ですが,ここでは国道とします。国道は,インターステイツと同じように,南北方向に走る道路には東から西へ順に奇数,東西方向に走る道路には北から南へ偶数の番号がふられています。
  ・・
 国道1(U.S. Route1)は,東海岸部の大都市を南北に結ぶ主要な路線で,全長2,390マイル,3,846 キロメートルあって,南北に伸びたアメリカの国道の中でもっとも長大です。
 アメリカ合衆国本土最南端に位置するキーウェストを起点にして,フロリダ州のマイアミ,ジャクソンビル,ノースカロライナ州のローリー,バージニア州のリッチモンド,ワシントンD.C.,メリーランド州のボルチモア,ペンシルベニア州のフィラデルフィア,ニューヨーク州のニューヨーク,コネチカット州のニューヘブン,ロードアイランド州のプロビデンス,マサチューセッツ州のボストン,メイン州のポートランドを経てカナダとの国境沿いのフォート・ケートまで続いています。
 また,マイアミからメイン州ハウルトンまではインターステイツ95が国道1に併走しています。

 数年前まで,私はアメリカ50州制覇を目指していました。その最後の2州であったノースカロライナ州とサウスカロライナ州を訪れたときに,そのついでに,フロリダ州の最南端キーウェストから,北に,フィラデルフィアまで走ったのですが,そのとき,あるところではインターステイツ95を,そして,気が向けば国道1を走りました。
 また,2013年にはボストンから北にメイン州までいったので,国道1およびインターステイツ95の通るところはそのほとんどを走ったことになります。
 また,かつて,1998年,はじめてアメリカをドライブしたとき,マイアミからフロリダ半島を半周したのですが,そのときに国道1を走ってキーウェストまで足をのばしました。

 さて,そんな国道1ですが,その中でも最も印象に残っているのは,今日の写真にあるアメリカ最南端のキーウェストにつながる海上の道セブンマイルブリッジです。
 若いころ,こんなところに行けるとは夢にも思っていなかったのですが,私は,1998年と2016年,なんと2回も行ってしまいました。フロリダ半島の先端を海の中7マイル,11.2キロメートルにわたってセブンマイルブリッジという橋がつながっていて,よくCMにも出てきます。
 キーウェストにはアメリカ最南端のポールがあり,また,国道1の終点であり起点であるので。BIGINとENDの表示があります。また,キーウェスト島には,かつてヘミングウェイが住んでいた家があって,今も公開されています。ここに住むネコの指が6本あるというので有名です。

◇◇◇
Double rainbow.

夕方,見事な虹が見えました。
もう,梅雨明けかな。

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 NHKBS1でMLB中継が放送されていると,いつも私は英語モードにして見ているというか,つけっぱなしにしています。それは,アメリカの空気に触れたいためです。
 日本語の放送なんて聴きたくない。だからABEMAのMLB中継は見ない。NHKBS1のMLB中継の途中に入るニュースなんて迷惑なだけ。
 そんな私のMLB中継ですが,5月14日は,ロサンゼルス・エンゼルスがオークランドに遠征してきたので,珍しくオークランド・アスレチックス(Oakland Athletics)のホームであるオークランドアラメダカウンティコロシアム(Oakland Alameda County Coliseum)からでした。
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 オークランドアラメダカウンティコロシアムはカリフォルニア州オークランドにあるのですが,オークランドはサンフランシスコの隣町で,バート(BART=Bay Area Rapid Transit)という近距離列車でサンフランシスコから直通で行くことができます。
  ・・
 オークランド・アスレチックスはアメリカンリーグ西地区所属です。アメリカンリーグ創設時から存在し,ワールドシリーズ制覇9回・リーグ優勝15回を有する古豪チームです。
 1893年にペンシルベニア州フィラデルフィアで発足し,1955年にミズーリ州カンザスシティに移転。そして,1968年に現在の本拠地であるカリフォルニア州オークランドに移転しました。
  ・・・・・・

 アメリカ西海岸にあるMLBのチーム,シアトル・マリナーズ,ロサンゼルス・ドジャース,ロサンゼルス・エンジェルスなどには以前より多くの日本人選手が所属していますが,オークランド・アスレチックスには2005年の藪恵壹選手,2010年の岩村明憲選手,2011年の松井秀喜選手,2013年の岡島秀樹選手が所属したのみであり,しかも,成績が下降したころにトレードされてきたという選手ばかりで,サンフランシスコというとても日本ではなじみのある都会の近郊にあるにもかかわらず,オークランド・アスレチックスはあまり知られていないチームです。
 また,オークランドアラメダカウンティコロシアムは老朽化がはげしく,かつ,2020年までNFLのオークランド・レイダース(Raiders)との兼用で,外野に巨大なスタンドがあったり,ファールグランドが異常に広いといったようにベースボール観戦にはまったく適していないことや,さらに,ボールパークのある周辺の治安が悪いなどの理由で,まったく魅力がありません。
 そこで,2011年にシリコンバレーの東にあるフリーモントに移転し,新しいスタジアムを建設する予定でしたが,地域住民の反対などで中止となるなど,経営面で苦戦をしいられています。
 やっと,2018年になって,2023年にオークランドとサンフランシスコを結ぶベイブリッジ近郊のウォーターフロント地区に建設を予定している新しいボールパークに移転するという発表がありました。とはいえ,またうまくいかないのではという懸念があるのですが,2022年2月の報道によると,計画は1歩ずつ前進しているということなので,順調に進めば,現在のボールパークはこれで見納めです。
 この計画が実現すれば,MLB全体で,新しいボールパークの建設計画がうまくいっていないのはタンパベイ・レイズのみとなります。

 私は,2015年,サンフランシスコに行ったときに,ぜひ行きたかったサンフランシスコ・ジャイアンツのホームである,現在の名前をオラクルパーク(Oracle Park)という,パシフィックベルパーク(Pacific Bell Park)とともに,オークランドアラメダカウンティコロシアムに行ってみました。こちらは特に行きたいところではなかったのですが,MLB30チームのボールパークをすべて制覇しようという目的のために行ってみたわけです。
 確かに,周辺の治安はよさそうになく,しかも,ナイトゲームでは,ゲームが長引くと帰りの列車がなくなるという話だったので,早々に引き上げました。ボールパーク自体も,日本によくあるコンクリートむき出しの古い建物で,最新式のパシフィックベルパークとは天と地の差がありました。
 しかし,というか,だからというか,ファンサービスは抜群で,チケット売り場をはじめとして,チームの職員の親切さはMLBのなかでもとびぬけてよくて,私は感動しました。

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 こころゆくまでまっすぐな道を走ってみたい。
 そんな夢を実現するのに最高なのは,何といってもニューメキシコ州です。
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 ニューメキシコ州(New Mexico)は南西部にある州で,北はコロラド州,東にはオクラホマ州とテキサス州,西はアリゾナ州,南はテキサス州およびメキシコとの国境に接しています。面積はアメリカで5番目に大きいのですが,人口は36番目と,ほとんど人が住んでいません。その美しい景観から「魅惑の土地」(Land of Enchantment)と称されます。
  ・・・・・・

 今日の写真はロズウェル(Rosewell)からサンタフェ(SantaFe)に行ったときに走った国道285ですが,あたり一面何もなく,360度地平線が見られました。こんな景色は日本では絶対に見ることができません。
  ニューメキシコ州は年間340日も陽光に恵まれるというところで,自然災害もきわめて少ない州です。雨が少なく乾燥しています。私が走ったときはちょうど満月で,早朝,北に向かって進む私の車の窓から,右手,東の空から太陽が昇り,左手,西の空には満月が沈むという姿を見ることができました。

◇◇◇
国際宇宙ステーション

5月14日午後8時9分。
薄雲でしたが,北西から天頂を通り南東に,
非常に明るい国際宇宙ステーションが通過しました。

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 私が近年ハワイに行ったのは,2020年2月でした。それ以降,海外旅行に行けていません。
 それ以前は,毎年のようにハワイに足を運ぶようになっていましたが,ハワイなんぞ,東京へ行くよりもずっと気楽でした。セントレア・中部国際空港からデルタ航空に乗って8時間ほど。ホノルルからはハワイアン航空に乗り替えて,ハワイ島,マウイ島などの島に渡り,空港でレンタカーを借りれば,常夏の島は私のものでした。ハワイは,国際免許証もいりません。そんなこんなで,気楽に外国を味わうことができたのですが,そんなころが懐かしい日々です。
 私はまだ当分は行く予定もないのですが,巷では,どうやら,今年のゴールデンウィークは,ハワイが人気,らしいです。多くの人は,2年も辛抱していたので,いてもたってもいられないのでしょう。とはいえ,そうした人たちの行くハワイは,砂をカリフォルニアから運んだワイキキビーチと銀座と変わらない日本人御用達のホノルルのダウンタウンでしょう。

 私は,そうした,多くの人の夢見るハワイ,とくにオアフ島とは違って,日本人観光客のほとんど無縁なハワイを堪能していたのですが,そうした旅の思い出から,行っておいてよかったと思うところも少なくありません。
 それは,このブログでこれまでも書いたように,カウワイ島では,ワイメア,ワイルア,ハナレイなどの大自然であり,マウイ島では,標高3,000メートルを越すハレアカラ山や古都ラハイナ,さらには,ハナであり,ハワイ島では,何といっても,標高4,000メートルを越すマウナケア山,カイルアコナからの夕景,そして,昭和の日本のようなヒロの町でした。
 しかし,本当に行ってよかったと今でも思うのは,モロカイ島でした。
 この,日本人の皆無な,何もない,しかも,さびれた島は,特に何をする,というものもなく,島をすべて観光しても,2,3日あれば飽きてしまいます。しかし,私には,その素朴さがたまりませんでした。

 中学生のころ,畑中幸子という人の書いた岩波新書「南太平洋の環礁にて」という本を読んだことがありました。
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 2か月に一度しか機帆船が廻ってこず,椰子からとれるコプラで経済を支えている小さな孤立した珊瑚礁の島プカルア。単身この島に棲み込むこと1年半,自給自足のきびしい自然の中で,島民と生活を共にしながら,彼らの生計のあり方や社会構造をさぐり,外部の近代社会とのつながりがどのようなものであるかをみきわめようと試みる。
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というこの本が書かれたのは,1967年のことでした。
 また,森村桂さんの書いた「天国に一番近い島」。こちらは1966年。
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 1年中花が咲き,マンゴやパパイヤがたわわに実る夢のような島。
 亡き父が幼い頃に話してくれた「天国にいちばん近い島」。思いがけず南洋の島ニューカレドニアへ旅立った「私」は…。
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というものですが,映画化もされました。
 現実はともかく,私は,こうした本が妙に好きで,とはいえ,憧れたのは,単にそんな南太平洋の島の浜辺でボーッと海を見ている姿だけだったのです。
 そうした島とは違いますが,そんな憧れをもっていた私の行きついた,何もない小さな島でボーッと海を眺めることが実現できたのが,このモロカイ島だったのでしょう。
 地球儀を思いうかべ,太平洋の真ん中の小さな島にいる自分を想像するだけでも,こんなしあわせが他にあったのだろか。いまでも,そう思うと,大勢の日本人が押し寄せるワイキキビーチではなく,だれもいないモロカイ島の海岸こそが,もっとも私には贅沢な旅の行先だったように感じます。

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 以前,このブログに書いたことがある星野道夫さんですが,写真展を開催するというので,見てきました。
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 2022年4月14日から2022年4月25日まで,ジェイアール名古屋タカシマヤにおいて,写真展 「星野道夫 悠久の時を旅する 」を開催します。この写真展は,2012年に六本木富士フィルムスクエア,2013年に富士フィルムフォトサロン大阪で開催された同名の写真展に,あらたに代表作を加え再構築するものです。
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ということでした。
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 星野道夫さんは,1952年(昭和27年)に生まれ,1996年(平成8年)に亡くなった写真家であり探検家でした。
 慶應義塾高等学校在学中に北アメリカ大陸へ旅行を計画し,1968年(昭和43年),16歳のときに2か月間の冒険の旅に出ます。
 慶應義塾大学では探検部で活動し,熱気球による琵琶湖横断や最長飛行記録に挑戦。19歳のときに神田の洋書専門店で購入したアラスカの写真集を見て,掲載されていたシシュマレフ村(Shishmaref)を訪問したいと村長に手紙を送って,その返事をもって,渡航,3か月間を過ごします。卒業後,アラスカ大学フェアバンクス校に入学しました。
 その後,TBSのテレビ番組の取材のため滞在していたロシアのカムチャツカ半島南部のクリル湖畔に設営したテントでヒグマに襲われて死亡しました。
  ・・・・・・

 写真展には,多くのアラスカの写真とともに,星野道夫さん自筆の手紙や使っていたカメラなどが展示されていました。
 私は,アラスカはフェアバンクスとアンカレッジしか行ったことがありませんが,フェアバンクスから郊外に出ると,雄大な平原が広がっていました。また,道路にトナカイなどの野生動物が飛び出てきたりもしました。
 オーロラも見ました。
 しかし,私がフェアバンクスに行ったときは夏だったので,冬の過酷さはわかりません。

 今回の写真展では,動物たちの今にも動き出しそうなその瞬間を捉えた多くの写真に感動しました。今とは違って,機材も未熟な時代に,そうした写真を写すことがどれほど大変なことかはよくわかります。今も健在なら,もっと多くの,そして,現代の機材で,より生々しい写真を残したのに,惜しい人を失くしたものだと思いました。
 こうした写真を写すのが難しいのは,写真の技術はもちろんですが,そうした姿をみることができる場所に行くことがずいぶんと大変だということです。そしてまた,現地に行っても,そうした瞬間に立ち会わないとできません。
 貴重な1枚1枚に,どれほどの時間とエネルギーが費やされたのかと思うと,胸が熱くなりました。

 この写真展はデパートの催事場で行われていました。まあ,いわば,客寄せです。
 そこで,単に招待券をもっている人が大勢入っていて,とても混雑していて,ゆっくりと味わうことができなかったので,少しがっかりしました。このごろは,多くの美術展が予約制になったことで,本当にその絵画を見たい人だけが美術展に訪れるので,とても人が少なく,幸せを感じていただけに,このことだけがとても残念でした。
 星野道夫さんの残した多くの写真はウエブ上なら見ることができますが,大きな画角のプリントをいつもゆっくりと鑑賞できる常設会場があればいいなあと思ったことでした。

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 オクラホマシティ(Oklahoma City)からアリゾナ州までのテキサス州とニューメキシコ州のルート66はほとんど走ったことがありません。
 唯一,サンタフェ(Santa Fe)あたりだけは,ルート66の標示を見つけて,こんなところを通過するのだと驚いたことがあります。
 その先,アリゾナ州のルート66はなかなかすばらしいところです。私が行ったのはフラグスタッフ(Flagstaff)で,インターステイツ40に並走してルート66が続いています。インターステイツ40を走っているとき,私が借りた車のカーナビの画面にはずっとルート66とかかれた道路が表示されていて,横を見ると,確かに,何度か写真でみたような風景があるのにうれしくなりました。

 フラグスタッフから東には,このブログに何度か書いたバリンジャー隕石孔(Meteor Crater National Landmark)と化石の森国立公園(Petrified Forest National Park)があって,私はインターステイツ40を走ったのですが,ずっとルート66が並走していました。
 また,その逆に,フラグスタックから西へもルート66が一部インタ―ステイツ40と交わりながらも,ほぼ並走し,ウィリアムズ(Williams),セリグマン(Selogman)といった,ルート66通には有名な町を通っています。
 その中心にあるフラグスタッフは,私はその町で1日を過ごすのをずっと夢見ていたのですが,その夢を2019年に実現させることができました。このことも別のブログに書きましたが,私のこころに残る町の中でも,特に大きな意味をもっているところです。

 ウィリアムスは古きよきルート66をほうふつとさせる町。多くの観光客で賑わいを見せています。
 観光地といえば確かに観光地化しすぎているのですが,それなりにおもしろいところ,日本でいえば高山のようなところです。
 その一方で,セリグマンは小さな町で,あっという間に町を過ぎてしまうのですが,ここには有名なお土産屋さんがあるのです。それにしても不思議なのは,こんな小さな町なのに,私は,偶然,そこに2度も訪れたことです。こんな奇跡的なことがあるのでしょうか?
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 そんなわけで,フラグスタッフのあたりのルート66は,ルート66の制覇ができなくとも余りあるすばらしいところでした。

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月,木星,土星,水星,
レナード彗星。

日没後の快晴の西の空。
月齢3.6の月の周りの惑星,そして,レナード彗星。
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 アメリカの南部の中でも,アーカンソー州,ルイジアナ州から東側は特に深南部といい,そこから西側とはずいぶんと雰囲気が異なります。
 それに比べて,ルート66の通るオクラホマ州,テキサス州,ニューメキシコ州などは,日本では考えられない平坦な悠久の大地が延々と続いています。それを走るのを退屈とするか,それとも,何かを思うかは,こうした土地の歴史を知っているかどうかでずいぶんと違います。どんなところにも,その土地を生きた人々の苦悩と喜びが詰まっているのです。
 私はテキサス州もニューメキシコ州も多くの道路を走ったのですが,これまで,ルート66は見事に逃しています。唯一走ったのはサンタフェ近郊だけで,そのころは,こんなところにルート66が走っているんだ,と驚いたことがあります。
 そこで,将来,ルート66を制覇するには,これまで走ったことのないオクラホマ州のオクラホマシティからアリゾナ州までを走らなければならないわけですが,これが並大な距離ではないので,このご時世ではちょっと絶望的です。

 今日の写真は,オクラホマ州の中で私が走ったルート66です。
 オクラホマ州のルート66はとてもきちんと保存されていて,走っていてとても楽しいものです。
 通過する町ごとに,ルート66に対して,リスペクトをもっていることがとてもよく感じられますが,これは,日本で,旧街道を歩くときに感じるものと一致します。
 このブログはルート66の観光案内ではないので,そういった内容他に譲るとして,ここでは,いくつかの私が通過した町について,断片的に書くことにします。
  ・・
 オクラホマ州のルート66を走ると,なだらかな丘とところどころにオイルポンプが点在していて,石油が埋蔵されていることを確認できます。この姿こそ,アメリカ南部であることが実感できます。
 また,そうでないところは,道路の際まで牧場があって,牛がのんびりと草を食べている姿を目撃できます。
 ミズーリ州からオクラホマ州に入ったところにあるのがマイアミという町です。マイアミのランドマークは「コールマンシアター」(Coleman Theatre)です。この劇場でウィル・ロジャース(William Penn Adair "Will" Rogers)のひとり舞台ことを忘れてはならないといいます。マイアミの次の町クレアモア(Claremore)の町の中心から少し外れたところに「ウィル・ロジャース記念博物館」があります。
 また,この劇場には幽霊が出るということで知られているのですが,これらのことは以前ブログに書いたことがあります。 
 ルート66を通る町には,ここだけでなく,幽霊が出るという話が結構あるので,私は興味を惹かれます。どの国でも,こういう話は好きです。

 また,オクラホマ州で生まれたサイラス・アヴェリー(Cyrus Avery)のことを知らずして,ルート66は語れないとさえいわれます。
 サイラス・アヴェリーは石油事業に力を入れ,その採掘のために頑強な道路が必要でした。しかし,その時代,オクラホマ州は道路後進地域だったので,サイラス・アヴェリーは地方行政官に立候補して当選すると,道路を整備することに努力して,1925年,ついにルート66が誕生することになったのです。
 やがて,オクラホマシティに到着するのですが,私は,その先を走っていません。

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 ジョン・スタインベック(John Ernst Steinbeck)の小説「怒りの葡萄」(The Grapes of Wrath)から,ルート66について書かれた部分を紹介しましょう。
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 Highway 66 is the main migrant road. 66 - the long concrete path across the country, waving gently up and down on the map, from Mississippi to Bakersfield - over the red lands and the grey lands, twisting up into the mountains, crossing the Divide and down into the bright and terrible desert, and across the desert to the mountains again, and into the rich California valleys.
 66 is the path of a people in flight, refugees from dust and shrinking land, from the thunder of tractors and shrinking ownership, from the desert's slow northward invasion, from the twisting winds that howl up out of Texas, from the floods that bring no richness to the land and steal what little richness is there. From all of these the people are in flight, and they come into 66 from the tributary side roads, from the wagon tracks and the rutted country roads.
 66 is the mother road, the road of flight.
  ・・
 ルート66は幹線道路である。内陸を横断するこの道は,上下にゆるやかにくねって,ミシシッピ川からベーカーズフィールドへ至るが,赤くまた灰色の大地を越え,山脈を登り分水嶺を横切って砂漠に下り,さらに山脈に入り,やがて豊饒なカリフォルニアに至る。
 ルート66は逃亡する人たちの道である。老廃した土地から,衰微する所有者から砂漠から嵐から洪水から非難する人たちの道だ。彼らはルート66へと集まってくる。
 ルート66はマザーロードだ。逃亡の道だ。
  ・・・・・・

 私は今から25年ほど前にシカゴに行ったことはありますが,そのころは,ルート66のことはほとんど知りませんでした。
 人生とはかくも短いもので,かつ,未来はわからないので,あとでふりかえったとき,もっと計画的に旅をしていればよかったと思うのですが,それは無理なことです。
 ということで,私は,そのときの旅でシカゴから西にアイオワ州をめざしてしまったので,シカゴからセントルイスまでのルート66は走っていません。しかし,アイオワ州に行ったために,偶然,フィールドオブドリームズやマジソン郡の橋に行くことができたのだから,それもまたよし,という感じでしょうか。

 今日の写真は,数年前に行ったセントルイスからスプリングスフィールドまでのミズーリ州のルート66です。
 次回書くことになるこの先のオクラホマ州はルート66を大切にしている雰囲気があって,道路標識などがきちんと設置されていたり,当時通った町に多くの看板などがあるのに対して,ミズーリ州はそういうこともないので,十分に準備をしないと道がわからなくなります。それでも,走っていると,当時の面影を感じるところが多くあって,しかものどかなので,なかなかいい雰囲気です。
 このように,ミズーリ州はなかなかおもしろいところです。


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 「ルート66」はイリノイ州シカゴからカリフォルニア州サンタモニカを結ぶ全長2,347マイル,3,755キロメートルの道路で,1926年「メイン・ストリート・オブ・アメリカ」の愛称のもと完成しました。
 「ルート66」の名前は,①国道番号を偶数とすること②番号を60からはじめることの2点に基づき,さらには「覚えやすい,言いやすい,聞きやすい」の三拍子が揃うという理由から「66」が割り当てられたということです。
  ・・
 1930年代後半,カンザス州,オクラホマ州にかけて大規模な砂嵐が頻発し,難民と化した農家の人々は明るい未来を求めてルート66を通って温暖なロサンゼルスへ向かって脱出を図ったのですが,作家ジョン・スタインベック(John Ernst Steinbeck)はその模様を小説「怒りの葡萄」(The Grapes of Wrath)で描き,小説の中で「ルート66」を「マザーロード」とよんだことでその名が現在主流となりました。
 翌年には映画化されて,「ルート66」の名前は一躍世界に知れ渡ることとなりました。
 また,「怒りの葡萄」とは関係がありませんが,テレビドラマ「ルート66」も放映されました。

 1956年,アメリカ国内に高速道路交通網(インタ―ステイツ)の建設を目的とした法案ができたことで「ルート66」の衰退がはじまり,1984年,アリゾナ州ウィリアムズでインターステイツ40の最終部分が完成したことによって「ルート66」は廃線となりました。
 現在は,往年の「ルート66」がそのまま残っているところや,近くにインターステイツが走っていることで寂れてしまったところ,あるいは,途中でインターステイツに吸収されてしまったところなどがあるのは,日本の旧街道とおなじです。
 そんな「ルート66」ですが,これもまた,日本の旧街道同様,昔を懐かしむ人たちで,再び保存がはじまって,その道を走破しようと夢見ている人が私を含めて大勢いるというわけです。
  ・・
 私は,66歳に「ルート66」を制覇したいという夢があったのですが,このご時世ではできそうにありません。
 しかし,振り返れば,これまでずいぶんと「ルート66」を走ったことに気づきました。
 そこで,これまでに走った「ルート66」を振り返ることによって,走ったつもりになることにしました。

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木星,月,土星,金星とISS。
New1sx2x


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 これまで,2020年の夏に行く予定だったアメリカ旅行の幻の旅行記を書いてきましたが,今日がその締めとなります。
 ここ数年,アメリカに限らず,その他の国も,はたまた国内も,気が向くまま旅をしていただけに,それができないとなると,一抹の寂しさを感じずにはいられません。
 私の救いは,コロナ禍の前までに,子供のころから行ってみたかったところ,やってみたかったことのほぼすべてを成し終えていたことです。しかし,どこに出かけるにも,それなりの最も楽な方法を身につけ,便利な小道具などもすべて手に入れて,いつでも次の旅ができるようになっていただけに,それらを活用することがなくなったのが今は残念なことですし,使い慣れたキャリーバッグも部屋で眠っています。
 
 それにしても,地球,というか,この世というか,人類はこんなにも狭いところで生きているのかということを実感しました。コロナ禍のように,何かが起きれば,逃げ場などないのです。それなのに,依然として,権力争いやら覇権やらと,何と人類はバカで醜いのでしょう。ワクチンをわずかな期間で作り上げるだけの英知をもっているというのに,情けない限りです。
 私の親の世代は,最も多感な年代を戦争で無にしたために,それを一生背負って,社会をやっかんで生きていました。私も,早期に退職をせず,やりたいこともせずにここ10年あまり生きていたら同じだったことでしょう。この時期にやっと退職して,さあ,これからはやりたいことを,そしてまた,行きたいところに行こうと思っていた人たちは,その夢がすべて無になってしまったのは,耐え難いことでしょう。
 数年前は当たり前だった旅が再びできるようになる日が果たして訪れるのでしょうか。


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 アリゾナ州には多くの天文台があるので,幻になってしまった2020年のアメリカの旅では,そのなかからいくつか行ってみようと思っていました。しかし,実際に行ってみるとすれば,事前にしっかり調べる必要がありそうですが,調べる前にキャンセルになってしまったわけです。
 今,改めて調べていくと,こりゃ大変だという気がしてきました。前々回,前回に紹介した国立公園同様に,あまりに多くのおもしろそうなところがあるからです。
 今では,もし旅が実現していたとしても,行けなかったのではないか,また,この先も行くことができるのだろうか,複雑な気持ちがしています。
 いずれにしても,ここ数年のアメリカ旅行は,毎年,少しずつ行きたいところに行ってみようというくらいで,さほど想い入れがあったわけでもなく,単なる避暑気分の旅をしていたのでした。それもできなくなってしまいました。
 そんなこんなで,今日は天文台について紹介します。

●キットピーク国立天文台(Kitt Peak National Observatory)
 アリゾナ州ツーソン郊外の赤茶けた風景の中にキットピーク国立天文台は建っています。ここにある研究用望遠鏡群は世界最大級の規模と多様性を誇るといいます。
 日中は,敷地内を自由に見学したり,ガイド付きのプログラムや VIP プログラムに参加することができまるそうです。
 さすが,アメリカです。今は変わりつつありますが,かつては,日本では何か研究者は特権階級のように思っていて,一般の人を格下にみて謝絶する雰囲気がありました。
 キットピーク国立天文台では,夜もまた,一般用の観測プログラムがあって,遠方からも多くの参加者があるそうです。それらの中には,ゆっくりと楽しめるダーク・スカイ・ディスカバリー(Dark Sky Discovery)やナイト・オブ・マーベラス・ムーン(Night of Marvelous Moon)といったプログラム,また,オーバーナイト・テレスコープ・オブザービング・プログラム(Overnight Telescope Observing Program)では,専門家の指導の下で遥か遠い宇宙の天体を観察できるほか,3日間のアストロフォトグラフィーワークショップ(Astrophotography Workshop)で夜空の写真を撮影するための基礎を学ぶことができるそうです。
 さらに,トホノオオダム国立文化センターと博物館(Tohono Oodham National Cultural Center & Museum)が近くにあって,この地のアメリカ先住民の文化を学ぶこともできます。また、アリゾナソノラ砂漠博物館(Arizona-Sonora Desert Museum)の植物園では,アリゾナ州の自然史を学べます。
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●マクドナルド天文台(McDonald's Observatory)
 テキサス州西部のデイビス山脈(Davis Mountains)の奥地にあるマクドナルド天文台からは,アメリカ大陸で最も暗い空を見ることができます。起伏に富み,かつ,美しい風景に囲まれた展望台にはビジターセンターがあり,1年を通して見学できるといいます。また,毎週行われるスターパーティーでは,周囲の山々のシルエットを眺めながら満天の星を堪能できます。
 近くにはデイビスマウンテンズ州立公園(Davis Mountains State Park)があって,そこではハイキングやバックパッキング,乗馬などのアドベンチャーが楽しめるということです。また,フォートデイビス国定史跡(Fort Davis National Historic Site)では,開拓軍の駐屯地をガイドなしで見学できます。
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 そのほかにも,テキサス州には,レモン山スカイセンター天文台(Mt. Lemmon SkyCenter), グラハム山インターナショナル天文台(Graham International Observatory),フレッドローレンスウィップル天文台(Lawrence Whipple Observatory)などがあります。


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 2020年に行こうと思っていた旅では,さらに,これまで私が行っていないキャニオンデシェイ国定公園とメサベルデ国立公園にも行ってみたいと思っていました。
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●キャニオンデシェイ国定公園(Canyon de Chelly national Monument)
 キャニオンデシェイとはスペイン語で「岩の渓谷」を意味します。高さ300メートルの垂直な断崖が42キロメートルの長さにわたって続いていて,グランドキャニオンを小型にしたような感じだといいます。ここはナバホ族の居住地で,国定公園でありながら国有地がまったくないそうです。
 かなり辺鄙な場所にあるのですが,2019年,私が化石の森国立公園などに行ったとき,あと数日あれば行くことができたのに,と今では後悔しています。あのころは,いつでも行けると思っていたのに…。
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●メサベルデ国立公園(Mesa Verde National Park)
 メサベルデ国立公園は,今から1400年ほど前にこの地に住んだ先住民の遺跡です。
 今からおよそ1,400年前「緑のテーブル」とよばれるこの独特な地形であるこの地域に住んでいた人々は,高度な文明をもち繁栄していたのですが,約700年のちの14世紀に忽然と姿を消してしまったそうです。
 アメリカにはこんな歴史もあるのです。

 これらの国立公園を巡りながら,そのついでにフォーコーナーズにも寄ってみるつもりだったというのが幻になってしまった2020年の旅でした。
 今日の写真は,化石の森国立公園で写したものですが,このような遺跡がこの場所にもあるということでしょう。
 アリゾナ州というのは,知らないだけでずいぶんと奥が深い場所のように思われます。しかし,今では簡単に行くことができるところでなくなってしまったのが残念です。


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 2020年に行くはずだったアメリカ旅行でしたが,具体的な予定をたてる前にキャンセルとなってしまったわけです。この旅でなんとなく行きたいと思っていたのが,アリゾナ州の南部にある天文台と国立公園,そして,アリゾナ州の東部からニューメキシコ州にかけての国立公園,そして,フォーコーナーズモニュメントでした。これらの場所は,すべて行くことができるような,または,行けないような,微妙な距離にあります。
 とはいえ,それはいつものことで,もし,この旅が実現できていたとすれば,私は無理やりでもおそらくそのすべてに行っていたことでしょう。アメリカの距離感は日本とはまったく違います。しかし,道路は整備され,交通量も多くないので,かなりの距離が走れるのです。
 では,上記に書いた,行きたかった場所について,順に紹介することにします。

 今日はアリゾナ州の南部にあるサワロ国立公園とチリカワ国定公園です。
 地図を見ると,ともにインターステイツ10に近く,私は,以前,テキサスから西に,エルパソまでインターステイツ10を走ったことがあるので,もう少しだけ西へ走っていたらそのときに行くことができたのにと,今更ながら後悔しています。
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●サワロ国立公園(Saguaro National Park)
 サワロというのはハシラサボテンのことで,アメリカ最大のサボテンです。
 いわゆる,日本人が想像する西部劇にでてくるようなサボテンですが,10メートルを越えるような大きさに成長するのは4000万個のうちの1個ほどだといいます。
 こうしたサボテンは,フェニックスの郊外にも時折みられますが,フェニックスから南に行ったツーソンという町の西側と東側にあるサワロ国立公園に行くと,地平線のかなたまでサボテンだらけなのだそうです。
 そんなサボテンの林を見るだけ,といえばそれだけの国立公園なのでしょうが,しかし,アメリカの他の国立公園同様,行ってみたら期待を裏切ることはないでしょう。
 と書いてたら,ますます行きたくなってきました。
 なお,世界最大のサボテンというのはメキシコのカリフォルニア半島に育つカルドン(Cardon)というサボテンです。根元から腕が伸びるのが特徴で,高さは20メートルに達し,重量は25トンになるといいます。
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●チリカワ国定公園(Chiricahua National Monument)
 ここは,地平線まで広がる砂漠に忽然と緑濃い小さな山並みが見えてくるのだそうです。それは2,700万年前の巨大な火山の噴火の跡で,その際にできた火山岩が浸食されて奇怪な尖塔の群像になったものだといいます。まるで岩の墓場のような不気味な表情は独特なものということですが,訪れる人もほとんどなく,静けさに支配されている… と知れば,これはいつか行くしかないでしょう。 

 以下,次回に続きます。


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 幻となってしまった2020年夏のアメリカ旅行は,その1年前2019年夏のアメリカ旅行同様,フェニックスまで行くことにしていました。フェニックスでレンタカーを借りて自由に旅をするのです。
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 フェニックス(Phoenix)はアリゾナ州にある都市で,砂漠の中心にあります。愛称は「太陽の谷」(Valley of the Sun)。
 1867年に灌漑事業と共に創設され,開拓者が都市を創設しました。 20世紀前半からはニューディール政策によるコロラド川の電源開発,ルーズベルトダム,フーバーダム,クーリッジダムの開発によって無尽蔵の電力を供給,軍事産業に関わる航空機産業や電器機械工業が発展していって,今日では半導体などのエレクトロニクス産業,また,観光都市としても発達しています。
 安価な労働力と広大な土地,安い税金,そして,精密機械製作には好適な温暖で乾燥した気候,大消費地への近さという条件があいまって,急速に発展しました。
  砂漠気候に属し,年間を通して温暖で,夏は摂氏40度を超え、非常に暑いのですが乾燥しています。冬は摂氏20度を超える気温となり,摂氏4度以下に下がることはほとんどないので保養都市となっています。
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 私がフェニックスにはじめて行ったのは2000年のことでした。そのころはまだまだ素朴な町でした。
 2019年に再び行ってその発展に驚きましたが,空からみた町は当時の面影がありました。
 空港はアメリカの多くの空港の中でも乗客が多いと聞きましたが,そんな雰囲気はまったく感じられず,思ったよりも静かでした。
 私は都会には興味がないので,レンタカーを借りて,ともかくフェニックスの市街地から早く脱出したいと思いましたが,インターステイツがきちんと整備されていたので,予想以上に順調に走ることができました。フェニックスから郊外に出ると,あたりにはサボテンをたくさん見ることができました。
 また,近くには西部開拓時代の面影を残すような小さな町がたくさんあって,気に入りました。
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 そこで,2020年の旅もまた,1年前と同様に,フェニックスで車を借りて,とにかく一刻も早く町から出て,あとは,アリゾナ州の大自然をドライブするのを楽しみにしていたのですが,実現することができず,残念に思います。
 これを書きながら,もし,将来再び行くことができるようになったなら,やはり,このコースの旅がしてみたいと強く感じるのです。


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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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