しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国旅行記 > 旅行記・2014春

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 デトロイトから中部国際空港便は,いつもの通り,午後3時35分の出発なので,待ち時間が4時間あった。
 ちょうど昼食の時間であった。
 私は,今回も,デトロイトの「空」でちらしずしを食べることに決めていたから,躊躇なく「空」に行き,ちらしずしを注文した。ここのちらし寿司は全く日本のものとかわらない。
 お客さんは,日本人以外にもたくさんいるが,日本人で注文をしているものは,ほとんどがラーメンだった。

 後は,特に書くこともない。
 いつものように,空で日本と全く変わらないちらしずしを食べ,残りの時間は,特にすることもないから,広くもないデトロイトの空港で,時間が過ぎるのをだらだらと待った。
 A34は,デトロイト-名古屋便の搭乗ゲートである。この便は,さらに名古屋からマニラまで行く。
 そこで,このゲートの周りは,日本人よりもフィリピン人がたくさんいた。
 そういえば,ここに着いた,つい1週間と少し前には,この空港からの眺めは,一面の銀世界であった。しかし,わずか1週間と少ししか過ぎていないのに,全く雪はなく,窓からの景色は,春そのものであった。
 これも,いつものように,隣のゲートには,成田便が出発するゲートがあって,その待合所には,所在なげに,多くの日本人が座っていた。ここまで来ると,アメリカというよりも,まあ,日本と変わらない。
 もう,旅が終わったなあ,という残念な,でも,無事に終わったなあというある種の満足感が沸き起こることも,いつもと同じである。

 それにしても思うのは,これだけ多くの日本人が,それも毎日,太平洋を横断して,アメリカに来たり帰ったりしているわけなのだが,いったい,その目的は何なのだろうか,ということである。
 私の様に,なんの意味もなく,ただ,遊びに来ている人ってどのくらいいるのだろうか。そんな人は珍しくないのだろうか。
 ただ,観光地を少し離れてしまうと,本当に日本人はいなくなる。
 名古屋便に関していえば,名古屋からさらにマニラまで行くから,フィリピンまで搭乗する人が圧倒的に多いのだけれど,あれほど多くのフィリピン人がアメリカに行く理由は何なのだろうか。確かに,英語に関していえば,日本人よりもずっと優位には違いないが…。
 私は,いつも,そのことを不思議に思う。

 それに,日本人は他のアジアの人たちに比べて,アメリカに渡航する人の数が減少しているように思う。
 こうしてアメリカを旅してみて思うのは-アメリカといっても,場所によってずいぶんと様子は違うのだが-いずれにしても,どこへ行っても,日本国内を旅行することに比べれば,ずっと安価に,広々とした景色やら,MLBのようなダイナミックなスポーツを楽しむことができる。
 だから,本当は,行くのに少し時間はかかるけれども,もっと多くの日本人がアメリカの旅を楽しみたいと思っているはずなのである。
 おそらくは,東京ディズニーランドが人気なのも,ミニアメリカにあこがれているからなのだろう。
 しかし,問題は語学なのである。
 中学校からずっと勉強を強いられている(変な日本語です)のにもかかわらず,まったく,実用の域に達していない。それだけならともかくも,苦手意識だけは世界一なのである。きっと,多くの日本人が国外脱出をしてしまわないように,国を挙げて,学校教育で英語という名を借りて,受験文法を教え込み,苦手であるという意識を植え付けようとしているのに違いがない。近ごろでは,それだけではもの足らず,それをさらに小学校からに拡大しようとしているのだ。こうして,ますます英語嫌いが増産されるというわけだ。
  ・・
 そんなつまらないことを何となく考えていたら,あっという間に13時間が経って,中部国際空港に到着した。バッゲジクレイムでカバンが出てくるのを待っていると,係の女性職員たちが,待っている我々に,おかえりなさいませ,といって一列に並んで礼をしたのにはびっくりした。前回帰国したときはそんなことはなく,もっとラフに会話ができて楽しかった。きっと,上司が代わって,こういうわけのわからない躾を強要したのに違いがない。
 こういうことをおもてなしだと勘違いしている日本人が増えてきた。本当にどうかしている。もうそういうことはいい加減にしてくれ,と思った。

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☆10日目 3月22日(土)
 帰国する朝になった。
 実は,この日,飛行機の出発時間が7時15分とあまりに早く,私はずっと不安であった。ここで乗り遅れてしまうと,どうにもならなくなる。したがって,この日のために空港の近くにホテルを予約したのであり,ホテルの送迎サービスも半ば期待できずに,レンタカーを借りたままにしてあった。
 前日の晩は,目覚ましを三つ設定した。そこまで念入りに次の日に目が覚めるようにしたのに,ああ,なんということであろうか。
  ・・
 日本から海外にツアーで出かけるときなどで,空港には,出発時刻の3時間前に着くようにとか書かれてあったりするが,実際は,1時間くらいあれば十分である。ただし,大きな空港だと,出国時の検査に列ができていることがあって,最も時間のかかるのがこの場所である。
 アメリカでも,大都市の空港は鬼門である。その点,小都市のローカル空港は,日本のそれとほとんど変わらない。しかも,そこで出国できてしまうから,非常に楽である。

 私は,この朝,4時30分に起きることにした。そして,5時30分にチェックアウトをしようと思った。
 それが,朝,午前2時30分に目覚めた。私は,ベットの脇にあったホテルの目覚まし時計を見た。時刻は午前4時20分と表示されてあった。私は迂闊であった。これだけ目覚ましを設定しておきながら,最も信用ならないと思っていたホテルの目覚まし時計についてはなんの設定もしなかった。それどころか,時刻合わせすらしなかったのに,その時間を正確な時間だと思い,起床してしまったのだった。
 起きてしばらくして,まだ,夜中の2時30分すぎだと知った。しかし,ここで再び寝てしまうと,本当に寝過ごしてしまうと思った。私は,寝ることができなくなった。まあ,いいや,あとは帰りの機内で寝るだけだ,と思って,ずっと時間が経つのを何をするでもなく過ごすことになってしまった。

 そんな次第で,私は,午前2時30分から2時間も,何をするわけでもなく,でも,眠らないように我慢しながら,出発の荷造りをしたのだった。やがて,なんとか朝が来て,私は,チェックアウトをした。
 昨日予行練習をしたように,レンタカーを近くのハーツの営業所に運転していった。広いハーツの営業所は午前5時間からの営業であったけれども,こうしたレンタカーリターンがたくさんあるらしく,私の到着したのは5時前だったが,空港へ行くシャトルバスにはすでに運転手が待機していて,私が車を停めると,キーを差したままでレンタカーリターンはOKだと言った。
 そこでレンタカーを返却? して,私は,シャトルバスに乗り込んだ。
 シャトルバスの乗客は私ひとりであった。
 私がこれから日本に帰るのだというと,運転手の娘さんが,日本で英語のアシスタントティーチャーをしていたと言った。こちらに住む人で日本に行ったことがあるという人は,大概,こうした英語のアシスタントティーチャーと軍人くらいのものである。

 サンアントニオの空港はそれほど大きくないが,早朝だというのに,ターミナルはすでに多くの人でごった返していた。自動チェックインの機械を操作して,帰りのチケットを印刷し,カウンタに行ってカバンを預けた。
 セキュリティを済ませて,待合所に行った。
 ここで朝食をすまそうと思ってみると,ダンキンドーナッツがあった。このマサチューセッツ州に本社を持つダンキンドーナッツは,昨年の夏に行ったボストンに多くの店舗があったのだが,なんとなく入りそびれていたので,ここで,ダンキンドーナッツを食べることにした。
 結論を言うと,これは,日本のミスタードーナッツと何ら変わるものでなかった。
 そのうちに時間になって,私は機内に入った。 
  ・・
 まあ,そんなわけでいろいろあったけれど,無事にサンアントニオを離陸して,機内で3時間,時差が1時間あるので,午前11時すぎに,私は,デトロイトに到着した。

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 ジョンソン・シティの帰りは,友人の親類を招いて,一族で,モンゴル料理店で会食をすることになった。
 こちらでは,こうしたときに,バイキング形式のレストランが人気で,今回私が連れて行ってもらったモンゴル料理店や,中華料理店などがある。
 場所は,サンアントニオの郊外だったのだが,帰宅の通勤ラッシュで,片側4車線のインターステイツは,あふれんばかりの車の洪水であった。最も渋滞するのは,日本でも同じように,2つの道路が合流するところで,それはすさまじい状態だった。それでも,のろのろと車は進み,やがて,再び,スピードを出して走れるようになった。
 車は,インターステイツを降りて,広い市街道路に入った。周りはレストラン街で,その一角にあったモンゴル料理のレストランの駐車場に車をとめた。

 こちらのレストランは,どこも店舗が大きくて駐車場が広いものだから,外見は小さく見えるのだが,中に入ってみると,日本では想像ができないほど広いものだ。壁には,大きなモンゴルの草原の絵があった。
 全員がそろうのをしばらく待った。最終的に,そこに,10人以上の人が集まった。
 食事は,バイキングで,フルーツやらデザートやらも自由に選べるのだが,メインディッシュとしては,麺類と野菜やお肉を好きなように選んで,それを店員に渡すと,料理してくれるというシステムであった。
 私も,見よう見まねで,好きなものをプレートに乗せて,店員に手渡した。
 店長らしき人は,もちろんモンゴル人であったが,私は,記念に一緒に写真を撮ろうと尋ねてみると,一旦奥に引っ込んで,料理をするときの帽子をかぶって現れた。このときに写した写真は,今,私の手元にある。

 こうして出てきた料理は,日本の焼きそばを想像してもらえばいいと思う。アジア人には,とても食べやすい料理であった。
 日本に帰ってから,モンゴル料理について調べてみた。
  ・・・・・・
 モンゴル料理は伝統的に,「赤い食べ物」(オラーン・イデー улаан идээ)と呼ばれる肉料理と,「白い食べ物」(ツァガーン・イデー цагаан идээ)と呼ばれる乳製品に大別されて,伝統的な遊牧の生活においては前者は冬季に,後者は夏季に食する季節サイクルを有する。主食として小麦や米が食べられるが,量的には肉が主食並みの量を占めることも多い。
  ・・・・・・
とあった。
 さらに,様々なメニューを調べてみると,火悶]面(ムンメン)というものが見つかった。
  ・・・・・・
 ムンメンとは,内モンゴルのバイノール地方(巴盟)の田舎料理で,大きな鍋に野菜や肉を煮込み,その汁の蒸気で蒸しあげ,最後に混ぜ合わせて作るのだそうだ。出来上がったものは,日本の焼きそば,焼きうどんのように見えるが,ムンメンの特徴はその歯ごたえで,蒸した麺のムチムチした食感は日本の麺にはないものだ。
  ・・・・・・
と書かれてあったので,私の食べたものは,これに違いない。
 しかし,今思い出しても,これは,ムンメンというよりも,焼きそばそのものであった。

 多くの人といろんな話をし,食欲も弾み,楽しいひとときであった。やがて,食事が終わり,同時に,この春の私のアメリカ旅行も終わりを告げることとなった。
 この旅でもいろいろなことがあったが,知らなかったことや知らなかったところへ行くことができて,とても有意義であった。
 明日は,早朝に空港に行き,日本に帰国することになるので,友人とも,今日でお別れであった。
 ホテルまで送ってもらって,また,再会を誓い,別れた。
 最後に,お土産として,テキサスワインをもらった。このワインは,日本に持って帰る途中で割れてしまうと困るので,この晩にホテルで飲み干してしまった。おいしいワインであった。

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 ジョンソン大統領が大統領就任後も執務を行ったテキサスのホワイトハウスを見学して,そのあと,ジョンソン大統領の少年時代を過ごした家を見学した。
 小さな家であったが,部屋の中は,落ち着いた感じであった。
 私は,以前,カナダのプリンスエドワード島にある赤毛のアンで有名な,アンの家に行ったことがある。また,アトランタにある風と共に去りぬを書いたマーガレット・ミッチェルの家に行ったこともある。この家は,そういった家と共通する感じであった。 
 そのあとで,この生家とは道を挟んだ反対側にある,ジョンソン大統領とその妻,そして,一族の墓に行った。
 ジョンソン大統領は,この地を愛し,この地で生まれ,この地で生き,そして,この地に眠っているというわけなのである。
 このように,私は,不勉強で,行くまでほとんど知らなかったが,第36代アメリカ大統領とその家族を讃えた公園が,このサンアントニオ郊外の広大な敷地にあったのだった。

 あまり日本ではなじみがないが,もし,サンアントニオに出かける方があれば,ぜひ,訪ねてみられるとよいと思う。
 たとえは悪いかもしれないが,日本で,京都の明治天皇の伏見御陵に行くと,あまりの広大さに,日本で天皇というのがどういった位置づけのものであったのかを身をもって知るであろう。
 それと同じように,アメリカでの大統領という存在の大きさを感じるに違いない。
 場所は,100 E. Lady Bird Ln., Johnson City, 78636 Lyndon B. Johnson National Historical Park である。
 これまで紹介したように,公園に入ったら,まず,ビジターセンターで入場料を払い,展示や映画を見学する。そののち,車で敷地内を周ることになる。
 敷地内では,ジョンソン大統領が5歳から 大学入学まで過ごした少年時代の家や牧場を訪ねたり,「テキサスホワイトハウス」を見学することができる。ここにある牧場は,大統領の祖父が経営していた牧牛を中心とした会社の本社Johnson Settlemenでもある。
 このように,この公園は,ジョンソン大統領の墓地であるとともに,サンアントニオで人気の観光スポットとなっているのである。

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 ジョンソンは,評価の分かれる大統領だろう。
 私には,単に,ドルショックとベトナム戦争を泥沼化しただけの無能な大統領,というイメージしかなかったし,あるいは,ケネディ大統領の暗殺の黒幕ではないか,とも思っていた。私の記憶にあるこの大統領の姿は,ドルショックの大きな見出しの下で苦悩する新聞紙上の写真の顔と,アポロ11号の中継で,ニール・アームストロング船長と電話で話をする姿であった。

 ところが,意外なことに,このジョンソン大統領は,アメリカで人気があるのだった。
 大統領自身は華やかさに欠けたけれども,1960年代のアメリカはアポロ計画に代表されるように「華やかな時代」だったのだ。
 実は,彼の業績は,内政にあったのだった。しかし,我々日本人は,そんなことは知らない。

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 リベラルとして知られたケネディ大統領に対して,南部テキサス州出身のジョンソン大統領は,当時,民主党の中では保守派と評されていたが,大統領就任にあたって掲げた貧困撲滅と公民権の確立を骨子とする「偉大な社会」 (Great Society) 政策は、非常にリベラル色の強いものだった。
 政権初期には,公民権法の早期成立に向けて議会をまとめることに主導的役割を果たし,議会との関係が円滑でなかったケネディ大統領に比べて,巧みな議会工作でそれを可決させた。
 その他にも,内政においては達成した政治課題が多く,ジョンソン政権は同じ民主党のルーズベルト政権と並んで「大きな政府」による社会福祉や教育制度改革,人権擁護を積極的に推進した政権となったのだった。
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 このように,彼は,社会政策の充実に力を注ぎ,偉大なる社会(Great Society)の実現のために,貧困撲滅(War on Poverty)政策,メディケア・メディケイド(高齢者・貧困者のための健康保険),人種・性別等を理由とする差別の禁止へ1964年公民権法(Civil Rights Act of 1964)の制定,黒人による投票権行使の確保,公立学校補助,低所得者への教育費補助など,多くの進歩的な政策を実現したのだった。

 さらに,経済的な成功もあった。特にケネディ政権が始めたケインズ政策を取り入れた「ニュー・エコノミクス」から,それを更に推進させた「経済発展段階説」で有名なロストウを新たに起用したことによって,失業率を1960年の5.8パーセントから,1968年にはなんと3.3パーセントにまで,毎年順調に減少させたのだった。
 経済学的には、膨大な軍事費と福祉支出による財政赤字を生んだことで,1971年には「ドル・ショック」を招いたのだけれども,このことも,国内経済にとっては致命傷とはならなかった。しかし,外交では,ケネディ政権から引き継いだベトナム戦争への軍事介入を拡大させ,国内に激しい反戦運動と世論の分裂をもたらした。つまり,ドミノ理論と封じ込め政策の信奉者として,ベトナム派兵を大幅に増加し,ベトナム戦争をエスカレートさせ,戦争の泥沼に米国を引きずり込んだというのも否定できない事実であった。

 そのようにして,ベトナム戦争が大きく影を落とす中で,ジョンソンは2期目の出馬を途中でとりやめて,引退を決意したのだった。引退後に彼が戻ってきた場所は,彼が愛してやまない牧場(LBJ Ranch)であった。それが,この場所である。
 この牧場は,上院議員のときに,親戚(叔母)から譲り受けたもので,ジョンソンが子供の頃に,夏を過ごした思い出のつまった場所でもあった。引退後,ジョンソンは牧場経営に情熱を注ぎ,2,700エーカー(11平方キロ)の牧場には400頭の牛が飼育されていたという。
 実は,ジョンソン大統領は,ワシントンのホワイトハウスよりも,この地を好み,この牧場にある住居で,大統領在任中も執務も行っていたのだった。そこで,この地は,テキサス・ホワイトハウス(Texas White House)とよばれていた。ジョンソン大統領は,メディアでの自身の取り上げられ方に敏感だったので,自宅にはテレビが3台あって,常に3大ネットワークがフォローされていた。そして,ダイニングテーブルの席からもテレビが見えるように配置されていて,いつでも苦情が言えるように電話が取り付けられていた。
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 この国立歴史公園では,このジョンソン大統領が執務をしたテキサス・ホワイトハウスの内部を案内つきで見学することができた。ただし,写真を撮ることは許されなかった。
 また,庭には,当時使用したエアフォース・ワンが展示されていた。

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 ずいぶんと走ってから,友人は,iPhoneをいじりはじめたが,郊外で,電波の入りが非常に悪いらしく,どんどんと不機嫌になっていくのがわかった。
 やがて,道を引き返しはじめた。単に,道を間違えた,ということなのであった。
 インターステイツ10を走って,わざわざ北西に行って,また,東に行かなくても,泊まっていたホテルの前の道ををそのまま北に走れば,ジョンソン・シティじゃないのかと私はずっと思っていた。
 私は,数日前にワイナリーに行ったときの道を覚えていたから,いったい今日はどこに行くのだろうとはじめは思ったが,何だ,単に道がわからなかっただけだったのかと落胆した。
 どうやら,この友人の頭の中には,地図というものがないらしい。私は,ふと,日本には「地図の読めない女の人,人の話を聞かない男の人」とかいったベストセラーがある,というような無礼なことを口走ってしまった。車内に冷たい空気が流れたことはいうまでもない。

 そんなこともあって,必要以上に時間をかけたけれど,どうにか,ジョンソン・シティに到着した。

  ・・・・・・ 
 リンドン・ジョンソンの父親はテキサス州の議員として活躍し,リンドンはその影響を受けて育った。
 高校卒業後,カリフォルニアで働いた後,南西テキサス州立教育大学(Southwest Texas State Teachers' College)に働きながら通い,1年休学してメキシコ移民の子供たちを教える経験もした。そして,大学卒業後は,高校教師を務めた後,地元選出のリチャード・クレバーグ(Richard Kleberg)の秘書に採用されて,ワシントンで知られるようになった。
 その後,若者に職業訓練と就業機会を与える全国青年局(National Youth Administration)のテキサス所長として地元に戻り,地元のジェームズ・ブキャナン(James Buchanan)下院議員の死去を受けて出馬し,当選した。2期目には上院選挙に出馬し,一度は敗れるものの,二度目の挑戦で当選。
 第2次大戦中は,海軍に志願し,パプアニューギニアの日本軍空軍基地攻撃に参加した。
 上院総務に選ばれて,黒人に参政権を付与する1958年公民権法(Civil Rights Act of 1957)やNASAの設立などに尽力した。
 1960年の大統領選挙で民主党の副大統領候補に選ばれて,ケネディーの大統領当選により副大統領に就任した。
 そんな中,1963年のケネディー大統領暗殺が、ジョンソンの運命を変えたのだった。
  ・・・・・・

 この,リンドン・B・ジョンソン国立歴史公園は,想像以上に立派なところであった。
 ここは,まず,ビジターハウスがあって,そこで,チェックインをして,車で,広大な敷地を回ることになる。それが,また,想像を絶する広さなのだった。
 私は,不勉強で,ジョンソン大統領が,ここテキサスの出身だということも知らなかったし,この大統領が,というよりも,アメリカでは,大統領という存在が,これほど偉大な位置づけになっているということも認識していなかった。しかも,もう,ずいぶんと前の大統領だというのに,この地を訪れる人が今だにずいぶんと多いことにも驚いた。
 敷地内にある道路に沿って走っていくと,教会があった。新しい教会であった。友人は,この国立歴史公園には来たことがあるが,この教会には入ったことがないと言った。教会の前の駐車場に車を停めると,ちょうど,ここを管理している人がいて,幸いなことに,教会の中に入れてくれた。ステンドグラスが美しい教会であった。
 その次に行ったのが,学校であった。この学校は,ジョンソン大統領が子供の頃に学んだ学校の建物を移築したものだということであった。内部も復元されていて,ガラス張りの観覧室から内部を見ることができた。ちょうど,別の観光客がいて,私が内部の写真を写そうとしていたら,ガラスから離れて写すと反射するから,レンズをガラスにくっつけて写真を写さなければいけないと,技術指導を受けてしまったのであった。

DSCN1876DSCN1882DSCN1899DSCN1902DSCN1905☆9日目 3月21日(金)
 実質最後の1日になった。
 今回の旅行は,夏の東海岸のときより1日少ない。以前書いたように,アメリカを旅行するには,往復の移動時間を考えると,日程マイナス3日になる。だから,11日間の旅行であれば,観光に費やすことのできるのはわずか8日間でなる。
 若いころは,できるだけ長く旅をしたいと思っていたが,今は,長くても20日間くらいが適当かな,と思うようになった。どこへ行っても混み合い,しかも航空運賃の高い真夏は避けて,春と秋に20日間ずつアメリカ旅行を楽しみたいものだと思っている。
 旅行に必要なのは,往復の航空運賃と,日々の経費くらいのものだから,実は,そうした旅行をしたことのない人や団体ツアーでしか行ったことのない人には想像できないくらい安価で旅ができるのだ。

 きょうは,朝の9時に友人がホテルに迎えに来てくれることになっていた。
 連れて行ってくれるのは,ジョンソン・シティというところであった。
 ここは,先日連れて行ってもらった,友人が好きなジャーマンタウン(フレデリックスバーグ)の帰りにワイナリーに寄ったその近くなので,私には場所のおおよその見当はついていた。
 明日の帰国は,早朝の飛行機で,空港には朝の5時過ぎにはつかなければならない。そして,その前にハーツの営業所にレンタカーを返さなくてはならないが,ホテルからハーツの営業所までどのくらいかかるかわからなかった。
 そこで,ホテルで朝食をとった後,友人が来るには時間があったので,明日の朝の下見を兼ねて,ホテルから,ハーツの営業所まで車で行ってみることにした。
 営業所に着いてみると,そこは,ホテルからはほんの数分の場所であることがわかったから,明日の朝の心配はなくなった。そして,私の選択したホテルの場所が正解であったことが実証された。ただし,営業所は朝5時からの営業だったので,それでも私の乗る便にはぎりぎりの時間であった。

  サンアントニオから北に100キロメートルほど行ったところに,ジョンソン・シティという町がある。
 人口1,600人ほどのジョンソン・シティは,ブランコ郡(Blanco County)に属している。この町は,アメリカ第36代大統領のリンドン・ベインズ・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson)の故郷であり,大統領が引退後に暮らしたところであり,現在は,その場所が,「リンドン・B・ジョンソン国立歴史公園」(Lyndon B. Johnson National Historical Park)として,保存,公開されている。

 ここには,ジョンソンの生家が復元され展示されているほかに,ゆかりの品の展示や,彼のこれまでの功績や歴史を映画などで学ぶ事ができる。
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 リンドン・ジョンソンは,父サミュエル・アーリー・ジョンソン・ジュニア (Samuel Ealy Johnson, Jr.)と母レベカ・ベインズ(Rebekah Baines)の長男として,1908年8月27日にテキサス州ストンウォール(Stonewall)に生まれた。
 1913年に,家族は,父方の祖父の従兄弟の名前をとったジョンソン・シティー(Johnson City)に引っ越した。少年時代を過ごした家や,父方の祖父の牧場跡も,歴史公園の一部となっている,ということであった。
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 友人が,午前9時ごろに到着したので,そのまま,車に乗り込んで出発した。
 また,きょうも,いつものように,インターステイツ10を北西に走って,1時間ほどで,ともかく,ジャーマンタウンであるフレデリックスバーグに到着した。すでに見慣れたフレデリックスバーグのメインストリートを通りすぎた。ここから,進路を東に走れば,ジョンソン・シティである。
 ところが,何がどうなったのか,車はそのまま,フレデリックスバーグから北に進み出した。だから,どんどんと何もない郊外に向かって走って行くことになった。私は,どこか,珍しいところにでも連れて行ってくれるのかなあ,と思って,何も言わずに,車に乗っていた。ところが…?

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 夜も遅くなってきて,スポーツ用品店を出てホテルまで送ってもらうことになった。
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 アメリカのホテルですごす平日の夜の時間は,NBCの「ザ・トゥナイト・ショー」が楽しみである。
 あまりよくアメリカを知らなかったころ,夜のホテルで適当にテレビを見ていて,いつもやっていたのが,ジェイ・レノの「ザ・トゥナイト・ショー」であった。これを見るとアメリカに来たなあ,と思ったことだった。 

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 「ザ・トゥナイト・ショー」(The Tonight Show)は,1954年からアメリカNBCで放送されている深夜のトーク番組である。結構有名なゲストが出て,司会者とおしゃべりを楽しむというもので,放送期間が全米のエンターテイメント番組で最長である。
 「ザ・トゥナイト・ショー」の司会は,これまで,スティーヴ・アレン,ジャック・パール,ジョニー・カーソン,ジェイ・レノ,コナン・オブライエンが務めた。この中では,30年続いたジョニー・カーソンが最長の司会者であった。
 2013年4月3日,NBCは司会にジミー・ファロンを起用することを発表した。そして,ソチオリンピック開催中の2014年2月17日から,「ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジミー・ファロン」として放送が開始されて,これまでロサンゼルスだった収録地がニューヨークとなった。
 ジェーム・トーマス・"ジミー"・ファロン(James Thomas "Jimmy" Fallon)はアメリカ合衆国のテレビ司会者,コメディアン,俳優,歌手,ミュージシャン,プロデューサーである。
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 私が,アメリカ滞在で楽しみにしていたこの番組,この日のはじめのゲストは,なんと,私の大好きなビリー・ジョエルさんであった。
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 ウィリアム・マーティン・"ビリー"・ジョエル(William Martin "Billy" Joel)は、アメリカのニューヨーク州サウス・ブロンクス出身のロック歌手,ピアニスト,作曲家である。
 ポップで親しみやすいメロディ・ラインと,大都会に生活する人々を描いたメッセージ性の強い歌詞で1980年代にヒットを連発した。全世界で1億枚以上のレコード・セールスを記録し,アメリカでのレコード総売上第6位のアーティストとなっている。
 代表曲には,「素顔のままで」「ストレンジャー」「オネスティ」などがある。
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 私は,「ニューヨークの想い」が大好きである。これがこうじてアメリカ旅行をするようになったようなものだ。この日の番組では,ビリー・ジョエルとジミー・ファロンの掛け合いが最高であった。「ザ・トゥナイト・ショー」は,よき司会者をえたと思った。

 次に登場したのは,チェルシー・クリントンさんであった。
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 チェルシー・ヴィクトリア・クリントン(Chelsea Victoria Clinton)は、第42代アメリカ合衆国大統領ビル・クリントンとヒラリー・クリントン夫妻の長女(ひとり娘)である。
 2001年にスタンフォード大学を卒業。2003年にマッキンゼー・アンド・カンパニー入社。オックスフォード大学とコロンビア大学公衆衛生大学院より修士号を取得した。
 2010年,マーク・メズビンスキーと結婚した。
 ニューヨーク州ラインベックでの挙式の折り,ヴェラ・ウォンのデザインした象牙色でシルクのストラップドレスに9段,1.2メートル,230キロメートルの完全菜食主義ウェディングケーキ,大量の移動式トイレなど豪華な式となったが,あまりに度を越した乱痴気騒ぎに地元ラインベックの住民は激怒,後日,新郎新婦でワインボトルを配って謝罪に回ることになったという。
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 のんびりと植物園を歩き,今日はすてきな1日になりそうであった。
 この後は,友人が知り合いと一緒に,私を夕食に招待するということであったが,まだ,時間が早かったこともあり,暑くてのどが渇いたので,ファーストフード店で,のどの渇きを癒やすことになった。

 友人が連れて行ってくれたのは,「SONIC」というところであった。「SONIC」は,日本では全くなじみがない。今回,サンアントニオに行って,この「SONIC」がやたらと多いのが気になって,どういうところがと聞いたら,連れて行ってくれたというわけであった。
 コンピュータで「SONIC」と入力して検索してみると,きっと,セガのサイトとか,文具メーカーとか,そういうものが出てくるけれど,ここでお話する「SONIC」はそうしたものではない。
 これだけ,日本語で情報がないというのは,全く日本でなじみがないということであろう。アメリカには,こうした,この国では当たり前なのに,日本人の全く知らないものが目につくことがよくある。
 こうしたとき,アメリカは近いようで,ものすごく遠い国だなあ,と思う。

 「Sonic, America's Drive-In」とでも入力すると,これから書く「SONIC」が表示される。
 「SONIC」とは,現在,店舗拡張展開中,つまり,アメリカで売り出し中のファーストフード店なのである。
 これまでのファーストフード店と何が違うかというと,このお店は,車を停めて店舗に入るとか,ドライブスルーをするというのが主な方法ではなくて,車を停めるブースごとに注文するマイクがあって,そこで注文すると店員がそれぞれの車に品物を持ってきてくることにある。
 つまり,ドライブスルーのように車を動かす必要がなく,お金も品物と引き替えに店員に支払って,あとは,停車した車の中で食事をする,ということなのだった。
 メニューは,いかにもアメリカという感じのカロリーいっぱいのハンバーガーとか,原色をしたソフトドリンクとか,そんなところであった。実際,このシステムは便利であった。なにせ,車から外に出なくてもいい。しかも,ドライブスルーだと,品物を買うことはできても,食べる場所がない。その欠点を補った商法なのである。
 一度,アメリカに行ったらお試しあれ。しかし,この方法は,日本でははやらないと私は思う。これは,ドライブシアターと同じである。

 ファーストフード店について書いたので,もう一つ目についた,「WHATABARGER」について書く。このハンバーガーチェーンは,1950年にテキサスで開店したもので,だから,テキサス州にやたらと店舗があった。メニューは,我々のよく知るマクドナルドとさほど違いはなく,しかし,マクドナルドよりも種類が多い。
 昨年の夏に行ったボストンにダンキンドーナッツがやたらと多かったのは,ダンキンドーナッツがボストン発祥だからであって,ファーストフードといっても,やはり,その土地ごとに,違ったチェーン店があるものだ。
 その中で,マクドナルドが全世界規模で店舗があるのは,すごいことには違いがない。ただし,日本でもそうだが,アメリカでも,近ごろはマクドナルドは業績が悪い。このことは,すでに,このブログにも書いたが,消費者のニーズを読み誤っているからなのであろう。とかく商売は難しいものだ。
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 きょうは,もうひとつおもしろいものを見たので,これについて書く。
 それは,サンアントニオに残る「世界最大のカウボーイブーツ」である。
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 1979年,アーティスト・ボブ ”ダディ-” ウェードは、ニューヨーク市に巨大なイグアナの像を設置して有名になった。これを聞いた首都ワシントンでは,首都にテキサススタイルの何かをシンボルにしようと,空地に巨大な何かを作るようにとボブに依頼した。そこで,ボブは,高さ40フィート,長さ30フィートのブーツを造った。それは,実際は世界最大のものではなかったのだが,現代のように情報がなかった時代のこと「世界最大のカーボーイブーツ」してアピールされたのだった。
 1年後に,このブーツはワシントンからサンアントニオのノーススターモールへ移された。
 しかし,当時、このモールは荒れ果てていた。
 ある日,ボブに電話がかかってきた。「あなたのブーツが燃えてきます」。実際は,ブーツが燃えていたのではなく,ホームレスがそのブーツの片方の中に住んでいて,料理をしていたものであった。面白いことに,そのことがきっかけとなって,このブーツは有名になったのだった。
 その後,このモールは高級店に様変わりしたのだが,驚くべきことに,ブーツはそのまま残されて,現在サックス・フィフス・アべニュー店の外に立っているのである。
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 ジャパニーズ・ティー・ガーデンを出て,友人は次にどこへ行きたいか,と聞いた。植物園か動物園だということだった。
 私は両方行こう,と言ったが,友人は,動物園はめちゃくちゃ広いと言った。どうも,彼女は植物園のほうに行きたいらしかった。そこで,それに同意して,次にわれわれが行ったのは,植物園であった。
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 サンアントニオ植物園は広さが32エーカー(13万平方メートル)あって,非営利の植物園である。
 植物園はジャパニーズガーデンから少し東に行ったとところにある。ちなみに,動物園は北の方向にあるが,どちらもこの広大な公園の中にある。
 この植物園は,ミセス・ジョセフ・マーフィーによって1940年代に発案されて,1960年代後半に行われた市の中心部の再開発計画によって建設されて,1976年7月21日に公開された。
 開園以降も,1988年にはエミリオが設計されたルシールハルセルガーデンが公開されたり,1992年には,サリバンキャリッジハウスが修復されたりと,整備されていった。
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 サリバンキャリッジハウスは,1896年に構築され,1988年にここに移転されたもので,正面玄関としての役割を果たしている。ここには,レストランやギフトショップ,オフィスだけでなく,イベントやミーティングルームもある。
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 ここで入園料を払って中に入ると,まず,おもちゃのひよこがいっぱい泳いでる噴水池があった。その向こうに,ルシールハルセルガーデンがあって,日本では珍しいさまざまな植物があった。
 ルシールハルセルガーデンは,中庭を囲む5つの気候特有の温室で構成されていて,温室の中では,高山植物,水生植物,サボテンや多肉植物,食虫植物,着生植物,シダやサトイモ,熱帯の果物,そしてソテツが育成されていた。
 友人が,自分の生まれ故郷の植物だといっていろいろと説明してくれた。
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 さらに行くと,日本庭園があった。ここの日本庭園は,先に行ったジャパニーズ・ティー・ガーデンとは違って,日本人に全く違和感のない完全な日本庭園であった。
 この日本庭園は,熊本市がサンアントニオの姉妹都市だということで整備されたもので,熊本市の水前寺公園や京都の桂離宮の庭園を模したものであるということだった。
 それにしても,こうした庭園の手入れは大変であろう。何事も作ることよりも維持することの方が大変だということは,歳をとった私にはとてもよくわかる。
 そのほかに,ガーデンズ・エントリー庭園,視覚障害者のための庭,ガーティーガーデン,ハーブガーデン,フォーマルベッド,ファウンテンプラザ,昔風の庭,観賞用グラスガーデン,ローズガーデン,聖なる庭,聖書の庭,日陰の庭,節水装置ガーデンがあった。
 どこも,きれいな花が咲き誇ったり,サボテンがあったりと,日本とは趣を異にした植物が楽しかった。植物園は広く,高台からは,サンアントニオの美しい風景を眺めることができた。さらに,ネイティブエリアや東テキサスのピネー(Piney)の森、テキサスヒルカントリー,サリバンキャリッジハウスもあって,どこかの森にでも迷い込んだかのようであった。

 私が行った3月は,こうした屋外の施設を楽しむのに,ちょうどよい季候であった。というか,もう,すでに暑かった。
 聞くところによると,夏は,来られたもんじゃないということであった。気温は華氏100度,つまり摂氏37度を越し,日本の夏以上になってしまうということである。もし,私の今回の旅行記のように,テキサス州を観光したいとお思いの人があれば,春や秋をおすすめします。

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 タコベルを出て,きょうは,サンアントニオの公園に連れて行ってくれることになった。
 サンアントニオの北に,広大なブラッケンリッジ・パーク(Brackenridge Park)という公園がある。20分くらいかけて,ダウンタウンから北に向かい,公園に着いた。公園は,子供用の機関車が走っていたり,広い芝生があったりと,広大な都会のオアシスだった。そして,その公園の一角を占めていたのが,ジャパニーズ・ティー・ガーデンであった。
 このジャパニーズ・ティー・ガーデンは石灰岩採石場のあった場所に作られたという。かつてのセメント会社の煙突は今も立っていた。

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 この公園は,1917年,市の公園長官だったレイ·ランバートが採石場跡にオリエンタル風の庭園を作ることを計画し,市民に寄付を募って計画されたものである。
 庭の入り口にある鳥居はメキシコ生まれのアーティスト・ロドリゲスが作ったものである。
 1919年には,市の招待で,キミナナオという地元の日系アメリカ人アーティストがこの庭に移転してきた。彼らは,ランチやお茶ができる喫茶をここに開設したりしながら,庭を維持していたのだが,第二次世界大戦の勃発とともに反日感情が湧き上がり,退去させられてしまった。
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 それ以後は,何年もの間,庭園は落書きや破壊行為の対象となっていて,放置され荒廃してしまった。しかし,復興する資金もないので,市は庭を閉じようとした。しかし,地域社会や公園支持者は,公園を維持するためにさまざまな働きかけをしたのだった。
 やがて,1984年になると,へンリー・シスネロス市長は,キミナナオの子供たちと日本政府の代表の出席のもとで,元の「日本庭園」の名を回復させ,池や滝を復元するキャンペーンを開始した。
 ついに,2008年3月8日,公園は再開された。現在は,レストランも再開されて,サンアントニオ市民の憩いの場となっている。
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 駐車場には,すでに多くの車が停まっていたが,端の方に駐車できる場所があったので,車を停めて,ジャパニーズ・ティー・ガーデンへ向かった。
 小高い山のようになった入口には,石でできた中国風の鳥居があった。
 私は,上に書いたようなこの公園のいわれを,このときは,まだ知らなかったので,ここもまた,アメリカ人の考えた,ちょっと変な日本の庭園だなあ,と思った。
 なにせ,すべてが石が基調となっていたのだ。
 日本庭園では,石が重要な役割をしているのだが,この公園はそれとは全く異なる石の種類であり使い方であった。
 中国には行ったことがないかわらよくわからないが,中国風というものとともまた違った感じだろう,と思った。それでも,中は広く,丘の上にあった展望台からの景色は美しかった。

 この公園は,再興されてまだ間もないということで,ここまで整備するのにはさまざまな苦労があったことであろう。そして,日本では名前こそ知っていてもそれほどなじみがあると思えないサンアントニオに,こうした日本にちなんだ庭園があるということも,また,私には,驚きであった。
 庭園内の植物も,日本のものとは異なっていて,これを日本庭園と考えれば確かに奇妙であるけれど,和洋折衷のすばらしい芸術だと思えば,それなりに納得できるところであった。
 入口付近にあったレストランも賑わっていた。
 広い庭園をのんびりと散策してから駐車場に戻った。
 駐車場からは,庭園と反対側に芝生が広がっていて,子供用の機関車が走っていた。また,駐車場の端におかしなブタのモニュメントが見えた。

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 前回会ったときは昼食抜きであったのに,友人は,なぜか今日は,はじめに昼食を取るのだと言った。ファーストフードはあまり好みではないそうだが,タコベルならいいという。
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 タコベル(Taco Bell)は,カリフォルニア州のアーバイン市に本社を置く大手ファストフードのチェーンで,タコス,ブリート,ナチョス,ケサディーヤなど,メキシコ料理風の食品を提供している。アメリカ合衆国やヨーロッパ,アジアに6500を超えるフランチャイズ店舗を経営していて,かつては日本にも店舗があったが、撤退した。
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 私は,アメリカで,どうしても,日本に店舗のないファーストフード店というのは,入るのに抵抗がある。昨年の夏,ダンキンドーナッツに行こうと思いながら,結局入ることができなかった。
 逆に,日本に来た外国人には,マクドナルドが気軽であるのだろうから,多くの外国人が利用している。
 現地のアメリカ人に,サークルKやデニーズが日本にもあるというと驚くが,こんな風に,当たり前そうで,お互い,よく知らないことも多いものだ。
 せっかくなので,誘いにのって,タコベルに行くことにした。到着した店は,半分がタコベル,半分がKFC(ケンタッキー・フライド・チキン)であった。
 私にはタコベルのメニューがよくわからないものだから,いろいろと教えてもらうことにした。

 ここで,にわか知識を披露する。
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 タコス(TACOS)というのはトウモロコシのトルティーア(皮)をバリバリのUの字にしてその中に具を包んだもの,ブリトー(BURRITOS)というのは,フラワートルティーヤで具を巻いたものでもちもち,ゴルディタス(GORDITAS)はフラットブレッドを皮にして中にクリームやチーズ,レタスと肉を具にしたもの,チャルパス(CHALUPAS)はゴルディタスよりもさわやかでバリバリ感がある,そして,ナチェス(NACHES)とは,トルティーヤチップスをベースに溶かしたチーズをかけたものである。
 どれも,チーズたっぷりでスパイシイである。
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 こうしたメキシコ料理がお好きな人には申し訳ないが,多くの日本人の口に合うとは,私には思えない。それはきっと,外見がお好み焼きのような感じなのに,食べてみるとまったく味がちがうからなのではなかろうか。
 どういうことかというと,外見はお好み焼きのようなのであるけれど,ソース味がなくしかも冷たい,そんな感じである。あるいは,春巻きのようなのにチーズ味,しかも,黄色くてスライスしてあるから頭の中は卵焼きモードなのにチーズ味がする,というものである。
 だから,ハンバーガーとは違って,日本に進出してもなかなか成功しないのだろう。
 逆に考えれば,日本人がおいしいと思っていても,外国の人にはそう思えない食べ物もあるわけで,その理由は,食べ慣れていないということもあるだろうが,よく似た外観でまったく味の違うもの,というのが,結構大きな要素を占めているのでは… と私は想像する。
 そんなわけで,タコベル初体験の私であった。
 メキシコ料理とはいっても,ここはファーストフード店だから,正統なメキシコ料理とは違うであろう。しかし,私には,正直言って,タコベルよりはマクドナルド,マクドナルドよりも吉野家のほうが自分には合っていたなあ,というのが実感であった。

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 なんとか来た道を戻って,インターステイツ10にたどりついた。インターステイツに戻る途中で,一般道でサンアントニオに行くことができる道を見つけたが,不安だったので,その道を行くことはやめた。
 この調子で行くと,約束の午前10時はぎりぎりであったが,私は,懲りもせず,アメリカの都会を走ることがいかに大変であるかをすっかり忘れていた。
 次第にサンアントニオの市街地に入ってきて,道路は車線も増えて車があふれていた。
 空港は市街地の北にあって,そこへ行くには,インターステイツ10から環状道路に乗り換えて一旦東に向かい,次の北に行く道とのジャンクションで一般道路に降りることになるのだが,地図で見たようには簡単にいかないのであった。

 まず,インターステイツ10から環状道路インターステイツ410に乗り換えた。これはうまくいった。この道は,通称コナリー・ループという。北東角に空港があるところのジャンクションで北向きに進むと国道281になって,左側にめざすホテル「スーパー8アントニオエアポート」がある。
 しかし,国道281に入ってしまうと出口がなく,ホテルに行くことができないのだった。
 そこで,一般道に下りるのであるが,地図で見れば簡単そうなのだけれど,なにせ,広いアメリカ,一般道に降りてしまったら,空港といっても,どこに空港があるのかさっぱりわからない有様であった。
 しかも約束の午前10時には,あと15分くらいであった。

 一般道に降りると,どこにいるのかわからなくなった。周りには大きなホテルだの倉庫だのが建ち並び,この先どう走ればいいのか見当がつかなくなった。
 そこで私は,慎重に方角だけを頼りに北に進んでいった。
 こういうとき,いつものように私には幸運が訪れる。何と,私の目の前に私の泊るホテルがあった。
 ホテルの前には広い駐車場があって,そこに車を停めることができた。

 思った通り,友人の車はなかった。遅れるのは想定内であった。しばらくホテルのロビーで待っていたが,現れる予兆すらなかった。
 私は,今回は,自分の借りた車があるから,余裕があった。たとえ,友人と会えなくても,なんの問題もなかった。フロントでは,スタッフがなにやらしきりに電話でだれかと話をしていた。
 とりあえず,ホテルのチェックインをしようと思ってフロントで聞いてみたのだが,チェックインの時間にはまだ早いので,今チェックインをすると余分な料金が必要である,ということあった。大概は,チェックインの時間より早くてもチェックインできるのであるが,ここはそういうわけにはいかなかった。そこで,ロビーでWifiがつながるかと聞くと,パスワードは「フォーンナンバー」だと言った。うまく聞き取れなかったのだが,こそっと教えてくれたものを聞き返すのもどうかと思っていると宿泊客が降りてきたので,彼にこそっと聞いてみると,「テレフォーンナンバー」だと言ったので,やっと理解できた。
 そこでロビーのソファに腰掛けてiPod-touchをネットに繋いで,友人と連絡を取ることができたのだった。

 彼女は,まだ,自宅にいるようであった。今から行くからと言ったので,しばらく待っていると,やっと,駐車場に現れた。家を出てからも,カーナビ任せで走ってきたが,道がわからずなかなかホテルに到着できなかった,と言った。
 あとでわかったことには,彼女は,私が昨晩からこのホテルに宿泊していると勘違いをしていた。そして,私がホテルのロビーにいたときに,スタッフが電話で話をしていた相手は,実は彼女であった。
 日本人が宿泊しているはずだが電話をつないでくれ,と言ったのに,日本人など泊まっていない,というやり取りをしていたらしかった。お前は頭が変だと言われたらしく怒っていた。
 そこで,友人は,私がこのホテルにいないと思いこみ,ホテルまで来なかったのだと言った。
 まあ,こんな感じで,今回もまた,はじめっから歯車が狂いっぱなしなのであったが,ともかく,私は借りたレンタカーはホテルの駐車場に停めて,彼女の車に乗り込んで,今日の観光に出発したのだった。

◇◇◇
カンザスシティ・ロイヤルズが3-3に追いついた昨日,2回裏の青木宣親選手のヒットには感動しました。それはそうと,この日も「謎の人物」Laurence Leavyさんは,マーリンズのユニフォームを着て,しっかりとテレビに映っていました。
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 道路標示にしたがって,バンデラに向けて走っていった。途中で道路が分かれるところは,入念にチェックして,帰りに戸惑わないようにした。戻るときに道を間違えると,広いアメリカのこと,もうどうにもならなくなる。
 車の量もさほど多くなく,快調に進んで,30分くらい過ぎて,バンデラの町が見えてきた。
 ここは日本でいう,宿場町のようなところであった。

 サンアントニオから北西に車で1時間ほどに位置するバンデラ(Bandera)は,ゲスト・ランチと呼ばれる観光牧場が多くあることで有名な町。人口は,約900人である。ゴルフコースを備えたリゾート牧場から,投げ縄やカントリーダンスを教えてくれる本格的な観光牧場まで,好みに合わせた滞在先を選ぶことができるということであった。

 バンデラよりも規模が大きいのだが,ダラスから西に行ったところには,フォートワースというカーボーイの町もあって,ここへは以前行ったことがある。
 フォートワースはダラスの西にあり,カウボーイたちによる西部開拓が始まったところで,1896年からアメリカ最大級の家畜取引所があったことでも知られている。現在は,家畜取引所のあった一帯は街並みが当時そのままの様子に復元されていて,ストックヤーズ国立歴史地区となっている。
 また,ストックヤーズにある世界初の屋内ロデオ競技場「カウタウン・コロシアム」では,カウボーイハットにウェスタンブーツできめたカウボーイ・カウガールによる白熱の競技を見ることができる。
 このように,ここテキサス州には今でも西部劇の世界が体感できる町が存在する。

 バンテラの町の端に車を停めて,バンテラの町を少しだけ歩いた。とても素敵なところであった。ジャーマンタウンに何度も行くくらいなら,この町に来た方がよいと思った。
 残念ながら,時間がなかったので,これくらいにして,バンテラの町を後にすることにした。ともかく,この町を見ることができてよかった。
  ・・
 あとで,友人に,サンアントニオに戻る途中でバンテラという町に行ってきたと言ったら,いい町だったでしょう! と言われた。
 それなら,少しの時間でもいいから,その町に連れて行ってくれてもよかったのに,と思ったことだった。

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☆8日目 3月20日(木)
 モーテルのフロントに食堂が併設されているのだが,まだ,朝早く,フロントには鍵がかかっていた。
 しばらくすると,ホテルのスタッフらしき人物が車でやってきたが,彼は,なにかの用事で来ただけらしく,もうすぐ準備ができるから,と言って,鍵をかけて出て行ってしまった。少し待っていると,別のスタッフが現れて,フロントが開いたので,中に入って食事をした。
 途中で,ふたりのひげを生やした男が入ってきた。どうやら私の部屋の隣に宿泊したオートバイの2人連れであった。昨日,彼らがホテルに到着したときに,声をかけたのだが,聞こえなかったのか,無視されたような気がしたので,いい気持ちはしていなかったのだが,それは誤解だったようで,食事をしていたら,向こうから声をかけてきた。
 気ままにこうしてオートバイで旅行を楽しんでいるということであった。
 悠々自適な身分になったとき,こうして,友達同志でオートバイで旅する人たち,夫婦でキャンピングカーでめぐる人たち… アメリカは広く,魅力にあふれ,すばらしいところだ。
 日本でも,道の駅の駐車場に小さなキャンピングカーを停めて旅をしている人たちもいるにはいるが,そのスケールが違いすぎる。

 私は,今日は,ジャンクションを出て,朝の10時までにサンアントニオに着けばいい。
 今日泊まるホテル「スーパー8・アントニオエアポート」はすでに予約してあって,朝10時にそのホテルの駐車場にいるということをサンアントニオで私の帰りを待つ友人に連絡してあった。
 ここジャンクションからサンアントニオには2時間もすれば行くことができるから,朝7時頃,私はホテルを出発した。
 あとは,のんびりと走ってサンアントニオに着けばよかった。
 インターステイツを走っていると,道路の東側から太陽が昇る途中であった。夜明けが美しかった。

 実は,私には,この旅で,ジャンクションからサンアントニオに向かう途中に,一か所,気になる場所があった。それは,パンテラという名の町であった。
 日本を出発する前に,このあたりのことをテレビでやっていた。
 その番組で,サンアントニオから北西に車で30分くらいのところに「パンテラ」といかいう,いまでもカーボーイの住む町があるという話であった。しかし,それを見た頃には詳しい地図もなく,あえて調べもしなかったので,こちらに来てから,そこはいったいどこなのだろうかとずっと気になっていた。
 昨日,観光案内所でもらった地図を昨晩ホテルで見いていて探していたら,どうやらここではないか,という場所を見つけることができた。それは,パンテラではなく,「バンデラ」(Bandera)であった。サンアントニオに帰る途中,少し遠回りしたところにその町はあった。しかし,これからそこへ行くには時間もないので,どうしようかとずっと迷っていた。

 インターステイツ10をずっと走って行くと,「バンデラ」という道路標示が見えた。その道路標示のあったところでインターステイツを降りて,さらに,40キロメートルくらい北に行くらしいことはわかった。頭の中で計算すると,午前10時にサンアントニオに着くには,ここからバンデラに寄り道するとぎりぎりであった。しかも,道を間違えなければ,という条件つきであった。
 ずいぶんと迷ったのだが,ここで行かなければ,おそらく一生行くこともないであろうと思った。
 これまで,サンアントニオで待ち合わせをしたときに,時間通りに来たことのない友人の性格を考えると,少しくらい遅れてもどうっていうこともないように思えた。しかも,私は,借りた車を返すのは,帰国する日の朝だったから,たとえ友人に会えなくとも移動手段に困ることもないのであった。 

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 チェックインを済ませて,カバンを部屋に置いた後,再び車に乗って,夕食を兼ねて、あたりをドライブすることにした。
 この町のパンフレットによると,ジャンクションは「Land of Living Water」ということがウリであるらしく,町の南にはサウスリャノリバー(South Liano River)という州立公園があるということだった。
 私は,まず,その公園へ行こうと思った。町からずいぶんと南に行ったところに,大きな川が流れていて,その周りは広い公園になっていた。標示にしたがって,公園の中に入っていったが,どこまで行っても,人影はなかった。
 ずっと奥には,公園の管理所のようなところがあった。
 きっと夏などには,キャンプやバーベキューをする人で大いに賑わうのであろう。

 再び,ダウンタウンに戻ると,メインストリート沿いに,古きよき時代に栄えたであろうダウンタウンがあった。
 また、この小さな町には,学校やら,スーパーマーケットやら,ガンショップ!,飲み屋,葬儀屋,ポルノショップなどなど,生活するのに必要な(あるいは必要でない?)すべてがそろっていた。
 メインストリートのまわりには住民の家々があって,それらはアメリカのこうした町によくあるこじんまりとした一軒家が並んでいた。ちなみに,この町は「city-data.com」によると,きわめて治安のよい町であった。
 私は,こうした町を見るたびに,何か,我々日本人とは,生きている,生活しているという根本から,全く違うもののように思えてくる。
 我々は彼らのような生活を知らない。そしてまた,彼らには,我々のような生活は全く想像がつかないであろう。
  ・・
 早朝に起き,あわただしく朝食をとって,満員電車に揺られて,ずいぶんと遠い職場に行って,遅くまで仕事をして…。そんな生活を当たり前の日常だと思っている人って,世界中にどれほどいるのだろう?

 宿泊するモーテルをさらに越えて,インターステイツ10をも越えてさらに行くと,町の北側に小さな飛行場があった。そして,その向こうは,もう,市街地ではなく,平原が広がっていた。この先をずっと行っても,もう,何もなさそうであったから,引き返すことにして,インターステイツと交差する手前に,ちょうどそこにあった「Cooper's」 という名のレストランに入った。

 この町で唯一というほどのレストランには,ほどほどの客がいた。
 大学の食堂のように,トレイを持って,食べたい品を注文するようになっていたが,私にはどのように注文するのかよくわからなかった。前に並んでいた人の注文するのをよく聞いて,私も同じように注文した。
 まず,飲み物、そして,いくつかの品から好きなものを頼む,といった感じであった。
 この町の住民になったような気がして,とても楽しかった。
 アメリカの小さな町を観光する楽しさは,こんなところにある。
  ・・
 食事を終えて,一度ホテルにもどった。まだ,日が暮れておらず,外が明るかったので,再びホテルを出て,近くをのんびりと散歩した。静かな夕暮れだった。
 こうした旅は悪くない。

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 やがて,フォートストックトンに着いた。きょうの宿泊地であるジャンクション(紛らわしいが,このジャンクションはインターチェンジではなく,地名である)に向かって,インターステイツ10を,さらに東に走った。来たときと同じ道なので,まわりの景色を見る余裕があった。
 時には,道遠くに大きな湖があったり,風力発電用の風車があったりするが,それ以外は,相変わらず,単調な道が延々と続いていた。

 切り通しのようになっていたりするところもあったが,いかにも,広い大地に道を平坦に走らせるためにえぐっただけのように思えた。
 遠くに円すい形の山が見えた。
 近づくと,これは山というよりも,モニュメントバレーと同じく,小高い大地が風化によってけずられた跡地のようであった。

 アメリカに移り住んだ日本の人が言っていたが,モニュメントバレーとかグランドキャニオンなんて,アメリカ中にいくらでもあるんだよ,ということであった。まさに,こうした大地の風化した景色はロッキー山脈のふもとにはいくらでも存在するのである。
 今年の夏,つまり,この旅行記の後に行ったユタ州なんて,まさに,こうした景色だらけであった。ここテキサス州は,その地層の最南端であった。

 途中,売店もないパーキングエリア(そう,インターステイツには,時折,こうしたパーキングエリアがあるが,決してガソリンスタンドなどない。あっても自動販売機くらいのものだ)に車を停めて小休止しながら,さらに延々と退屈な道を何時間も走った。
 次第に,私は,サンアントニオに近づいて行った。
 今晩泊まるのは,サンアントニオまであと2時間ほどのところにある小さなジャンクションという名の町であるが,ジャンクションのひとつ手前に,ソノラという町があった。
 そこで一度休憩をしようと,インターステイツ10を降りた。
 降りたところに,偶然,広い駐車場と。観光案内所があった。
 中に入ったら,スタッフがいて,テキサス州の地図をもらうことができた。

 テキサス州の地図は,旅の間,ずっと手に入れたかったものだった。ここに観光案内所があることを,行く途中で知っていればよかったのになあ,と思った。
 アメリカでは,このように,どの州も,観光案内所が充実していて,観光館内所には親切なスタッフがいて,さまざまなパンフレットやら地図を無料でもらうことができるのである。
 こうした観光案内所は,たいていは,インターステイツを走っていると,州境を過ぎたあたりに見つけることができるのだが,州を越えたりしないときは,逆に,なかなか案内所を見つけることができないのだ。

 地図を手に入れて,再び,インターステイツ10に戻った。さあ,いよいよ,目指す町ジャンクションである。
 インターステイツ10は,ジャンクションにさしかかって,道路標示がその地名を指し示していた。この町は,往路ですでにチェック済みである。ここでインターステイツを降りると、すぐ右手にRV車用のキャンピングエリアがあった。
 ジャンクションはキンブル郡の郡庁所在地で人口約2,500人。キンブル郡はアラモの戦いで戦死したジョージ・C・キンブルに因んで名付けられたという。1920年代後半には,毛糸とモヘアの生産,さらに様々な農産物が経済を支え続けたという。このように,ジャンクションは古くから栄えた町であった。
 そのキャンピングエリアを過ぎて,1本しかない,町のメインストリート沿いを走って行った。
 この町はちょっとしたリゾートのような,しかし,単なる町のような,そんなところであった。近くには他に町はないから,ここが宿場町のようになったのであろう。
 メインストリート沿いには,スーパーマーケットやら,レストランやら,モーテルやらがあった。
 どこのモーテルも小さなものであったが,駐車場にはほとんど車が停まっておらず,空部屋がけっこうあるようだった。

 私が予約したモーテル「サンバレー・モーテル」も問題なく見つけることができた。
 ここにも駐車場にはほとんど車が停まっておらず,今日の宿泊客は,私だけなのかな,と思った。さっそくチェックインして,部屋に入った。安価な,小さなモーテルであったが,インド人らしき人の個人経営で,こぎれいなモーテルであった。
 きょうの選択は悪くなかったな,と思った。

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 やっと,フォートストックトンに着いた。空は,やっとかすみがなくなってきた。
 ここは,インターステイツ10を西からずっと走ってみるととてもよくわかるが,交通の要所なのである。ここを過ぎると大きな町はなく,人間も車も,ここで栄養補給をする必要があるのだ。
 誇りっぽいところであった。給油機はどれも砂にまみれていた。
 この巨大な給油所はすべてディーゼル用であった。ガソリン用のポンプは,使用できなくなっていた。私はそれがわからず,ガソリンを入れようと車を停めて,操作をしていたら,少し向こうでディーゼルを入れていたRV車のガイに,大きな声で,ガソリンじゃない,と叫ばれた。

 アメリカ人は,私が思っているよりもずっと世話焼きで親切だったりする。
 ディーゼルなんて入れてしまったら,えらいことになるところであった。
 その向こうにあった別のスタンドに行って,ガソリンを入れ,事なきを得た。ついでにここで昼食をとった。
 ここまでくれば,あとはニューメキシコ州に向かうときに通ったインターステイツ10を今度は,一路,東に戻るだけだった。
 こうして,私は,たった4日ではあったが,ニューメキシコ州を往復することができた。

 何度も書くように,ニューメキシコ州は,はてしなく広い所であった。まさか,来ることができるなんて,思わなかった。
 今,これを書きながら地図を見ても,やはり,このニューメキシコ州は行くのに大変なところである。
 ロッキー山脈というと,なにかとても険しい山道を思い浮かべるのであろうが,日本とは違って,山深いところを狭い道路が通っているとか,日本の中央自動車道のように,橋や高架が続いていたりトンネルが続いていたり,というものでは全くなくて,ただ,広々とした荒野が延々と続いているだけなのである。
 むしろ,モンタナ州のビュートからヘレナに行くインターステイツ15や,ウェストヴァージニアをピッツバーグに向かうインターステイツ70の方が,山の中を走っているという気がする。

 ニューメキシコ州には,他に,映画「コンタクト」に出ていたLVA(Very Large Array)とよばれる電波望遠鏡群や第2次世界大戦中にマンハッタン計画の中で原子爆弾の開発を目的として創設されたロスアラモス国立研究所LANL(Los Alamos National Laboratory)など,途方もないものがあるそうだが,実際にニューメキシコ州に行ってみると,さもありなん,という感じであった。ここは宇宙に一番近い所,かもしれない。
 私は,この広くて遠いニューメキシコ州にもう一度行くことができるとはとても思えないことが残念であるけれども,もし,また行くことができるのあれば,この広さをのんびりと味わってみたいものだと思った。
 映画「コンタクト」の最後のシーンのように。

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 エルパソを過ぎて,やがてテキサスの大平原を快調に走りだした。時折,車が路肩に放置してあったりするのを見るのだが,あれはどう考えても居眠り運転で車が通行帯から飛び出て走行不能になったものだと思った。
 これだけ単調でガスっていれば眠たくもなるだろう。

 そのうち,検問に出会って,私のけだるい雰囲気が吹っ飛んだ。
 はじめに見た道路標示には,大型車だけの検問所のように見えたのだが,あとで写真をみると,大型車は重量を測るためのよくあるターミナルであって,検問所はその0.5マイル先で,すべての車が対象であった。
 そのまま走って行くと,道路にラバーコーンが設置してあって,すべての車が検問所に導かれるようになっていた。

 「地球の歩き方」に,エルパソの付近には検問所があると書いてあったので,一応,心の準備はできていたが,やはり緊張した。
 いつもいろいろと不満を持っていながら,こういうときだけ,日本人であることに感謝する。
 検問所は大きな屋根で覆われていた。前の車がすぐに発進したので,私もやり過ごそうとしたら,停止させられた。
 警官? がパスポートの提示を要求した。
 検問があると思っていたので,パスポートはすぐに取り出せるようにしておいたので助かった。それにしても,ここで,運転免許証の提示を要求しないことのほうが私には興味深かった。

 パスポートを見ながら,いつ来たのか? いつまでいるのか? これはレンタカーか? といった質問があって,やがて,気をつけて!といわれて,放免になった。
 何か因縁でもつけられたらどうしようと思って,内心ドキドキしていたので,本当にほっとした。
 このように,インターステイツ10は,エルパソを40キロメートルくらい過ぎたところには,常時,検問があると考えた方がよいと思う。もし,行かれる方があれば,ご留意を。それだけ違法滞在者が多いということだろう。
 先日,テレビで違法入国のドキュメンタリーが放送されていたが,メキシコに限らず中南米から若者が家計を助けるためにリオ・グランデ川を泳いでわたり,国境を越えるのだという。悲惨な現状だ。

 エルパソからずっとガスっていて,景色もほとんど見えなかったが,検問所を過ぎても,相変わらず,空気はガスっていて,見通しがよくなかった。
 以前書いたように,私とは逆方向に,インターステイツ10を西に走りエルパソまで行った人のブログに「な~んもないテキサス州の荒野を退屈に走った」とか書いてあったのだが,その風景を,今日は写真で載せることにする。
 百聞は一見にしかずである。

 私が4日前,ニューメキシコ州に向かったときの往路は,インターステイツ10を,途中のフォートストックトンという町で離れて,北西に国道285を走ったことはすでに書いたが,復路は,エルパソから,正真正銘,インターステイツ10を東に東にサンアントニオに向かって走っていった。
 行きには通らなかったフォートストックトンまでの途中にあったのは,シエブランカとバンフォーンというふたつの町だけであった。
 石油を採掘する井戸すらなかった。

 では,写真をご覧ください。
 私は,こんなガスった,な~んにもない風景の道を,何時間も,サンアントニオに向かって走ったのだった。時折目にするのは,併走して走る,長い長い貨物列車だけであった。

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 展望台から降りて,しばらくエルパソのダウンタウンをドライブした。きれいな街であった。私が読んだブログには,「治安の悪そうな…」と書いてあったが,私がそれを読んだときのイメージとは全く違っていた。ダウンタウンからは,南向きに,サウスエルパソストリートという道とその東の国道85がリオ・グランデ川を越えていて,つまり,国境を越えていて,メキシコと行き来できるようになっていた。そして,川にそってセザー・E・チャベス・ボーダー・ハイウェイが東西に走っていた。

 サウスエルパソストリートは徒歩で国境を行き来できるようで,橋を覆う外壁から中の歩いている人影が眺められた。
 道の両側にあったのは,メキシコから国境を越えて買い出しにやってくるメキシコ人相手の店だという。決して品質のいいものはないが,安価なものがそろっているらしい。そこから南に歩いて15分くらいで国境を越えることができるということだ。
 ここで日本人が国境を越えるときは,ツーリストカードが必要で,メキシコへの入国・出国には税金を払わなければならないと書かれてあった。
 国道85のほうは車で国境を越えられるようで,国境を越えたアメリカ側には,民間の駐車場がたくさんあって,客引きをしていた。
 私のようにアメリカでレンタカーを借りたときには,メキシコに車で行くことはできないということなので,この駐車場に車を停めて,歩いて国境を越えることになる。カナダ国境は車で越えられるのだが…。
  ・・
 私は,この風景をみて,とても不思議な気がした。
 私は,車から降りたわけでないので,車窓から見た風景はそれくらいであったが,ものすごい異国に来たような気がした。

 これ以上エルパソにいても,それほどおもしろそうなところもなさそうだなあと思いながら,セザー・E・チャベス・ボーダー・ハイウェイを走っていくと,ジャンクションがあって,そこでインターステイツ10に乗り換えると,すぐにエルパソの郊外に出てしまった。
 もう少し,国境の街を見たいとも思ったけれど,インターステイツ10を多くの車とともに走っていたら,そんなことは,もう,どうでもよくなってしまった。
 インターステイツからはリオ・グランデ川をもっと眺められるかとも思ったが,インターステイツ10はどんどんと国境から離れていってしまい,もう,川を見ることもできなくなった。
 しかも,残念ながら,空はスモッグでどんより曇っていて,景色も悪く,視界も効かなかった。

 「エルパソという町はほこりっぽく、貧しげで、スモッグに包み込まれたあまり、住みたいとは思えない町でしたねぇ…」と書かれたブログを読んだことがあるので,この町はいつもそうであるらしかった。
 石油の精製工場があるためとかいわれているが,この町は,そんなことも含めていろんなことを感じさせてくれたところであった。正直言って,私も,住みたいとも,のんびりと観光したいとも思わなかった。でも,一度は行ってみたい町ではあった。
 エルパソから40キロメートル近く過ぎると,再び,テキサス州の大平原のドライブになった。右手は,ずっと向こうはメキシコとの国境であって,ときおりあるジャンクションでインターステイツを降りて,そこにある必要もないような道路を南に走って行っても,川で行き止まりになるだけだと思うのだけど…,というような感想をもちつつ走っていくと,大きなドライブインがあったので,そこに駐車して,昼食のパンを買った。

 シーニックドライブの中腹の展望台からは,美しいエルパソの町が眺められた。その向こうはメキシコであった。
  ・・
 メキシコといえば,私は,生まれてはじめてアメリカを旅行した34年前に,ロサンゼルスから南下して,アメリカ国境を越え,ティワナという町に行ったことがある。ちょっと見のメキシコツアーであった。私は当時のことしかわからないが,アメリカからメキシコへ出国するのは簡単だが,日本人観光客ならともかく,戻ってくるときが大変だといわれた。
 サンディエゴに住んでいる人はティワナなど行かないというし,そりゃもっともだと,私も思う。だって,旅行者の私は,ティワナでは,土産物店で,片言の日本語で値切って買い物をしたり,飲み物を飲んだりしたが,値切って買い物をするのも店員が片言の日本語を話すのも,すべて観光用のコースなのだ。今の私にはこうした物見遊山の観光旅行には興味はないが,そのときに飲んだソーダ水の衝撃は,未だに忘れられない。それに,軟弱な私は,このときに,発展途上国に旅行はできないというトラウマができてしまった。

 ティワナの治安を調べてみると,特に悪いということもなく,私の調べたサイトには,悪名名高き,ロサンゼルスのリトル東京からバスティーボに歩いて行く道のほうがよほど危険だと書かれてあった。その一方,メキシコ側のシウダーファレスは,かなり治安が悪いようだ。「地球の歩き方」には必要がなければ行くなと書かれてあった。しかし,行った人のブログには,「町は凄い人だかりでホテルの窓には鍵ないし…,しかし,夜は居酒屋に行きテキーラを飲んだりもしたが,客引きもいないし,ぼったくりもないし」と,書かれてあった。
 私は,今回,国境を越える予定はなかったが,なんとなくアメリカとメキシコの違いには興味があって,展望台からメキシコ側を感慨深く見た。あいにくガスがすごくて,ほとんど向こうは見えなかった。それが下の写真であるが,写真の中央上部に書き込んだ赤丸の中,ガスっていたので画像処理がしてあるが,国旗らしきものが写っているのがおわかりだろう。このように,巨大なメキシコ国旗が国境の向こうにたなびいているのが肉眼でも確認できた。日本では体験できない陸続きの国境というものは,人にさまざまな感慨を抱かせるものである。

 私は行ったことがないが,戸井十月さんのアジア大陸横断のテレビ番組をみても,西アジアの国々では、国境と国境の間には非常に広い緩衝地帯があるのが常で,どうして,人間というのは,こうした柵やら塀やらで,そこに線を引く必要があるのか,などと深く考えてしまったのだった。

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 車は,朝のラッシュ時のエルパソ市内に入ってきた。
 ダウンタウンの北にあるフランクリン山脈は,ロッキー山脈の最南端で,その山脈の南側面を走る道路・シーニックドライブの中腹にはアメリカとメキシコ,ふたつの国が同時に見渡せる展望台がある,ということだったので,まず,この展望台へ行ってみようと思った。
 はじめは軽いノリであったが,大した地図も持たず,エルパソの街中を走るのは,無謀なことであった。どれだけこんな経験をしても,私は懲りていないのだった。

 ここエルパソも,また,想像以上に大きな都会であった。シーニックドライブへはどう行けばよいのか,さっぱりわからない。
 「地球の歩き方」には,エルパソ周辺の小さな地図があって,国道54を走っていけば,エルパソのダウンタウンへ行けるように書いてあったのだが,先に書いたように,国道10すら道が2本あったり,工事中であったりして,しかもやらたと交通量が多くて,走るだけでもたいへんであった。
 それでも,なんとか国道54を見つけて走っていくと,ジャンクションがあって,そこからインターステイツ10に入ることができた。
 インターステイツ10を右側に,つまり西方向に向かって走っていくと,今度は,エルパソを通り過ぎてしまって,道は北上を開始しはじめた。このまま走っていくとアリゾナ州に行ってしまう。しかし,その時は,すでにエルパソをとおり過ぎてしまったことに,しばらく気がつかなかった。
 インターステイツ10の左手は,線路と並行して走っていて,その向こうは鉄柵が張り巡らされていた。さらにその向こうには川が流れていて,川の対岸には,古びた家やら工場やらが見えてきた。反対の右手は高い山になっていた。

 私は,ようやく,エルパソを通り過ぎたことに気がついた。道を戻るためには,インターステイツ10を降りて,どこかでUターンをしなくてはいけなかったのだが,いつものように,これが容易ではなかった。それでも,何とかそうして,再び,今度は進路方向を逆に見て,インターステイツ10を南に走って行った。
 そのころには,なんとなく街の大きさや様子がわかってきたのだった。鉄柵は国境であり,川はリオグランデ川,そして,川の向こうの町はメキシコのシウダーファレスだったのだ。そして,反対側の山の上が,めざす展望台であった。

 インターステイツ10を走って,再びダウンタウンにもどったころに,インターステイツを降りる道があって,その道をおりて,やっとダウンタウンに入ることができた。
 ダウンタウンは,まだ,朝早く閑散としていたが,とてもきれいであった。
 道路の名前を見ていると,ここの町の道路の名前は,カンザスストリートとかオレゴンストリートとか,アメリカの州の名前になっていた。
 町の北西が丘になっていて,そこには,テキサス大学エルパソ校があった。
 ダウンタウンからメサストリートを走って,テキサス大学エルパソ校にさしかかったあたりを右折すると,高台の高級住宅地になって,その先がシーニックドライブで,そして,山の中腹に目指す展望台が見つかった。

☆ミミミ
皆既月食,ご覧になりましたか? 私は,いつもの観測地にツキノワグマが出没して,退散を余儀なくされ,時間と勝負しながら車でさまよい,なんとか見つけた観測地で,やっとのこと,薄曇りのなか,皆既月食と天王星(右上の星)を写すことができました。
それにしても,星を見るにも,クマ対策が必要とは,頭の痛い問題発生です。

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☆7日目 3月19日(水)
 きょうは,1日かけて,サンアントニオにもどる日だった。私が泊まっているのはアラモゴードのダウンタウン,ここから国道54を南南西に走っていくと,ニューメキシコ州からテキサス州の西の端に入る。そこがエルパソである。エルパソからは東にインターステイツ10を走っていけばそのままサンアントニオにもどることができるのだ。

 早朝,朝食もとらずにホテルを出た。
 ホテルを出て,早朝の国道54を走った。すぐに国道70と分岐する陸橋があった。ここを右折して国道70に入ると昨日行ったホワイトサンズ国定公園に向かう。きょうは,そのまま南下して,国道54を南に走っていくことになる。
 交差するところにガソリンスタンドがあったので,ガソリンを入れ,ボトルに入ったコーラと簡単な菓子パンの朝食を買った。
 長距離をドライブするときに必要なのは水なのである。眠気防止には水なのである。それと,気の利いた音楽。アメリカを何時間も走るときは,このふたつが必須なのである。

 ガソリンスタンドを出て,私は国道54をどんどんとエルパソに向かって走っていった。
 右手には,大地が広がっていたが,そこはアメリカ軍の基地であるらしかった。大地というのは,広大な飛行場であった。
 そのままずっと,ほとんど車の走らない道が続いていた。左手に線路が並走していて,貨物列車が見えた。何両もある機関車がなんと2階建てのコンテナを運んでいた。何を見てもスケールが大きすぎる。
 ずっとそんな感じで進んでいた。

 やがて,ニューメキシコ州からテキサス州に入るあたりになると,次第に周りには住宅が増えてきた。エルパソ郊外の新興住宅地であった。道路も建設中だったりして,道路標示もあいまいで,同じ国道54なのに,どこを走っていけばいいのかよくわからず,迂回をしてしまったりと,とにかく,ずっと向こうにはエルパソの町が見えるから,そちらを目指せばいいのだけれど,車線は多く,朝のラッシュ時で車も多く,と,私は,久しぶりの都会のドライブに戸惑っていた。
 エルパソも,また,想像以上に広い大都会であった。

 エルパソは,メキシコとの国境に接した都会で,メキシコ人が多く移住している。そのために,事実上,スペイン語と英語が公用語となっている。近くには銀,銅,原油など鉱産資源が豊富で,銅精錬所や石油精製工場があるという。
 リオ・グランデ川を挟んでメキシコのシウダー・フアレスと隣接していて,エルパソから南に,橋を渡ると国境を歩いて越えることもできる。シウダー・フアレスは非常に治安が悪い町だということだが,一方,エルパソの治安はとてもよい。しかし,エルパソの人口の22パーセントは貧困線以下の生活をおくっているということだ。

◇◇◇
嬉しいほうに予想が外れて,カンザスシティ・ロイヤルズがリーグ優勝決定戦に進出を決めました。

☆ミミミ
昨晩は十三夜。台風一過で,素晴らしい月を見ることができました。昨日載せた写真は,昨年の十三夜。きょうは,昨日写した今年の十三夜をご覧ください。

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 サンセット・ストロールの夕焼けはたいしたことはなかったが,それでも,真っ白い大地の日暮れを楽しむことができた。太陽が沈んで,このツアーも流れ解散になった。
 私は,車に戻って,ホテルを目指して,車を走らせた。
 
 帰りの国道70は,周りは真っ暗で,時折通る車のライトと,遠くにアラモゴードの光が少し見えるだけであった。
 アメリカの大地は,お昼間はその雄大さに見とれながらドライブを楽しむことができるが,日が暮れて暗くなると,本当に真っ暗になってしまって,道路の左側の黄色いラインだけがライトに照らされて,これだけを頼りに走っていくことになる。
 たいした距離でもないのに,ホワイトサンズ国定公園からアラモゴードまでがずいぶんと遠く感じられた。
 夏時間なので,日本の感覚とは1時間違って,日が沈んだばかりなのに,もう,夜の9時近くであった。
 ホテルの場所は調べてあったが,まだ,チェックインをしていなかったので,フロントに行ってチェックインをした。
 チェックインが終わって,夕食をとるために,再び外に出た。近くにデニーズがあったので,そこで食事をした。
 ホテルに帰って,あすのホテルを予約した。

 いよいよ,明日は,テキサス州にもどることになる。
 きょう1日で,カールズバッド洞穴群国立公園とホワイトサンズ国定公園に行くことができた。なんとかニューメキシコ州で行きたかったところはこれで制覇することができたわけだ。
 ここまで来たからには,明日の朝は,エルパソまで行って,そこからインターステイツ10をもどろうと思った。ホテルは,来るときに調べてあったジャンクションという名の町に決めて,一番安価なホテルを予約した。
 すでに書いたことだが,なぜか,この日のアラモゴードのホテルについては,ほどんど記憶がないのである。写真を見ても,なかなか実感がわかない。どうしてだろうか?

  ・・・・・・
 アラモゴード (Alamogordo) は人口約35,000人。
 ホロマン空軍基地とホワイトサンズ・ミサイル実験場という二つの主要な軍事基地がある。
 この軍事基地では,史上初の原子爆弾が1945年7月16日に起爆された。また,最初の宇宙飛行チンパンジー・ハム (Ham) の生誕地である。彼は1961年1月31日,フロリダ州ケープ・キャナヴェラルから打ち上げられ,大西洋へ無事に着水した。ハムは1983年にに死亡し,遺体はアラモゴードにあるニューメキシコ宇宙歴史博物館前の芝生に埋葬されたという。
  ・・・・・・
 そうした事も,今回,この旅をするまで,私はよく知らなかった。

◇◇◇
ひそかに期待していたピッツバーグ・パイレーツは,サンフランシスコ・ジャイアンツに完敗して,ポストシーズンから姿を消しました。残念です。
ピッツバーグ・パイレーツは,チームカラーが黒なので,黒い服をきた観客でスタンドが真っ黒に染まって,異常な状態になります。MLBでは,ポストシーズンともなると,どこも客席の雰囲気がすごいことになるので,興味のない方もこれだけでもご覧になるとおもしろいと思います。
ピッツバーグは,ペンシルべニア州にあって,アルゲイニー川とマノンガヘイラ川とオハイオ川に囲まれた美しい都会です。本拠地PNCパークはアルゲイニー川を6番ストリート橋で渡ったところにあって,ホームランを打つと,ボールが海ポチャならぬ川ポチャになります。また,アンディ・ウォーホール美術館もあります。
私は,この街で道に迷った挙句,偶然,カーネギー博物館にたどりついた思い出があります。

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 サンセット・ストロールでは,ボランティアのレインジャーが,ホワイトサンズについていろと説明をするのを聞きながら,白い砂地を歩いた。
 まだ日没には1時間くらいあったのだが,雲が多く,私は,夕日が見られるかどうかとても心配であった。
 どうしてこの地がこのように白い世界になったのかとか,所々に生えている植物の生態とかの詳しい説明があった。ビジターセンターで見たのと同じような内容であったが,やはり,実物を見ながらだから,それなりに説得力があった。
 アメリカのこうしたツアーガイドは,どれも内容が詳しく,しかも,参加者が積極的に質問をしたり,時にはジョークを交えたり,と国民性の違いといってしまえばそれだけのことかもしれないが,いつも,すごいなあ,と思う。しかも,どこも無料である。

 デューンズ・ドライブから離れ,どんどんと奥まで歩いて行くので,自分ひとりだったら迷子になってしまったであろう。そうした意味でも,このツアーは参加した甲斐があった。
 海岸の砂丘だと,スニーカーで歩くと,靴の中まで砂が入ってしまうが,そうした砂丘や砂漠とは違って,ここの白い砂は,その表面だけが砂地なので,歩いても足が砂の中にめり込む,ということはない。底は堅い石膏なのだ。だから,強い風が吹いても,それほど砂が舞い上がることもないのであろう。
 しかし,いくら詳しい説明があっても,それほど説明するようなものもないし,この国定公園は他にはない信じられない風景とはいっても,それだけのところである,というのが私の正直なところであった。
 ツアーの参加者も,はじめのうちはレインジャーの説明を一生懸命に聞いていたが,だんだん飽きてきて,それぞれが勝手に写真を写したり,少し離れて歩いたりしはじめた。
 やがて,日没の時間になった。雲の間から太陽が沈むのが見えたり見えなかったりしたけれど,特に夕焼けになるようなこともなく,少し西の空が赤くなった程度であった。
 一緒に参加していた日本人が,思ったほどきれいじゃなかったね,といっているのが聞こえた。

  ・・・・・・
 お昼間,波長の長い赤色の光は,大気中を直線的に通過するので,観察者の視野には,光源である太陽の見た目の大きさの範囲に収まってしまうが,波長の短い青色の光は,大気の熱的ゆらぎにより散乱するために空は青く見える。
 夕方になると,光線の入射角が浅くなるので,大気層を通過する距離が伸びるから,青色の光は障害物に衝突する頻度が増すことで吸収されるから,地表に到達しにくくなる。その代わり,赤色の光など波長の長い光線は散乱されて,太陽が沈む方向の空が赤く見えることになる。
 夕焼けがきれいに見える条件は,赤い波長の光線を散乱させる水蒸気などが大気にあること,適当な量の雲がありその雲より低い高度,つまり,雲の下から太陽光線が当たることである。このふたつの条件が達成されるためには,昼と夕の気温差が大きくて,湿度が高く,上空には雲があるが,西の方には雲がないことである。
  ・・・・・・
 私がホワイトサンズ国定公園に行ったときは,この条件を満たしていなかったというわけだった。

◇◇◇
カンザスシティ・ロイヤルズが劇的なサヨナラ勝ちをして,地区シリーズ優勝決定戦進出を手に入れました。今年もおもしろくなりそうです。

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 まだ,日没には2時間ほどあったのだが,ここまで来たからには,サンセット・ストロールという,夕暮れのホワイトサンズを1時間かけて歩くというレインジャープログラムに参加しようと思った。
 時間がたっぷりあったために,先に歩いたインターデューンボードウォークにもう一度出かけてみたり,ハート・オブ・ザ・サンズに行ってみたりもしたが,確かに,いたるところ真っ白な世界で,日本では決してみることのできない圧倒的な風景ではあるけれど,簡単にいえば,それだけのところなのであった。
 そり遊びをする人や,小高い山に登っていく人など,それほどには多くない観光客は,思い思い楽しんではいたが,あまり遠くまで行ってしまうと,場所を見失ってしまうし,特にすることもなくなってきた。まだ,この公園にいる人たちは,きっと,みんなサンセット・ストロールに参加するために時間をつぶしているのに違いがなかった。

 心配していた風は,この日は止んでいたが,そのかわり,雲が多く,日没が見られるかどうかは微妙なとろこであった。
 なんとなく時間をつぶしていたら,やがて,日没まで1時間くらいになってきて,サンセット・ストロールの出発する時間になってきた。この集合場所の近くの道路際には,だんだんと駐車する車が増えてきた。私も,車を停めて,人がちらほら集まってきたところで,同じように待っていた。
 時間になって,初老の夫婦がやってきた。彼らがこのレインジャープログラムの案内人であった。

 アメリカの常で,まず,彼らの自己紹介があって,次に,ツアー参加者がめいめい,どこから来たかを言うことになった。参加者は10数人程度であった。
 参加していた中に,意外にも中国人やら日本人やらがいたが,私は日本人がいるのに大変驚いた。
 昨年,ボストン近郊のプリモスプランテーションというテーマパークへ行ったときも,日本人はいなかった。さすがに,ニューヨークのヤンキースタジアムには日本人はいたけれど,ボストンのフェンウェイパークにも日本人はいなかった。
 サンアントニオでも見ることはなかった。それが,ここには,日本人の若者のグループが4人と家族連れが3人もいた。私は,もちろん,彼らが仲間内で話している日本語がわかったが,彼らの話していた内容は,案内人の話す英語は,TOEICのリスニングの英語よりむずかしいとか,まあ,そんなようなくだらないものであった。
  ・・
 それにしても,日本の若者はかわいそうだ。
 彼らは,子供のころから,非効率で何を目的としているのかわからぬ日本の学校教育に毒されていて,テストで点数を競うことを勉強と勘違いして育てられてしまっている。そこで,日本から外に出たときに,自分で飛び立つ羽が育っていないのだ。彼らを教育している教師だって,飛び立つ羽がないわけだから,これは,救いようがないのである。だから,こういう会話になるのである。

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 ここを散策し終えて,その先を目指していくと,次第に,植物もなくなって,あたりは全面真っ白い世界になってきた。道路も,また,真っ白な砂に覆われるようになってきた。
 すると,サンセット・ストロール集合場所という標示があった。
 サンセット・ストロールというのは,夕暮れのホワイトサンズを1時間かけて歩くというレインジャープログラムである。
 そのまま走っていくと,ハート・オブ・ザ・サンズという,ピクニックテーブルが並ぶ場所に出た。

 この国定公園の一番奥まったところにあるハート・オブ・ザ・サンズで,デューン・ドライブはぐるりと大きく弧を描き,1周して,戻ることができるように地図には書いてあるのだが,道が二手に分かれていたり,走っていくと1周しないで同じ場所に戻ってしまったりして,なんかよくわからなかった。なにせ,真っ白な世界,道だけ見ても方向すらわからなくなってしまうのだった。
 そんなわけで,私は,ここを何周もする羽目になったが,次第にどういったふうになっているのかがわかってきた。
 ここは,ビジターセンターから最も離れた場所で,植物の生えていない広大な真っ白い平原の風景が延々と続いていた。
 駐車場に車を停めてコースに行くと,1周なんと5時間! 程度のトレイルを歩くことができるようになっていた。

 ここのコースは署名してからでなければ立ち入ることができず,日没までに戻ってきたことがわかるように戻った時刻を記入して公園管理官に無事を知らせる必要があるということが書かれてあった。
 砂丘では似たような景色が続くために,あらかじめ定められたコースを含めて,砂丘に立ち入る場合には背の高いもの,例えば入口にある給水塔や山脈の景色で方角と自分の位置を確認してから立ち入るよう薦められていた。コースを外れる場合には,コンパスも必携であった。
 また,春には強風が吹くために,砂塵で視界が1メートル以下に遮られてしまうこともあり,足跡もすぐに消えてしまうために,簡単に自分の位置を見失ってしまうということだった。このため,目印に立てられているポールが見えなくなったときはすぐに引き返すようにということであった。

 私は,もちろん,このコースを歩くつもりはなかったが,少しだけ様子を見ようと先に進んでいった。しかし,これは,実際はとんでもないことであった。
 わずか数分歩いただけのところに立って周囲を見渡しながら写真を撮っていたら,方角が全くわからなくなってしまったのだ。遠くに目印のポールが見えるのだが,そのポールが,これから進んでいく方向にあるのか,あるいは,来た道にあるのかさえわからなくなった。
 もし方向を間違えると,もどるのに5時間かかるのだ。
 私は,かなり動揺した。注意事項は,そのとおりなのだと実感した。
 幸い,そこからすぐの高台にのぼってみると車の駐車場が見えたので,事なきを得たのだった。
  ・・
 急に怖くなって,私は,すぐに引き返した。
 それにしても,すごい所だった。
 アフリカの砂漠には行ったことはないのだが,まさにこんな感じなのだろうと思った。ただし,石英を主成分とする砂状結晶でできている砂丘とは異なって,最も暑い夏季にさえ,石膏は太陽のエネルギーをすぐには熱に変えないので,素足で問題なく歩くことができるということであった。若者や子供たちが,ここでそり滑べりを楽しんでいたのも,そんなわけだった。
 デューンライフネイチャートレイルが気になっていたので,一度,このハート・オブ・ザ・サンズから入口に引き返して探してみると,確かにインターデューンボードウォークよりもはるか入口よりのところにデューンライフネイチャートレイルがあったが,立ち入り禁止になっていた。

 なお,ホワイトサンズ国定公園はホワイトサンズ・ミサイル実験場の中にあるので,ニューメキシコ州ラスクルーセス及びアラモゴード間の国道70と国定公園は,ミサイル実験場でテストが行われる際に安全理由のために閉鎖されるのだという。この閉鎖は平均して1~2時間の間,だいたい週に2回ほど起こるということだが,私のいたときは,幸い,こうした事態は起きなかった。

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 ホワイトサンズ国定公園は,アラモゴードの南西およそ25キロメートル,標高約1,200メートルに位置する白い大砂丘地帯である。
 これまでに書いたように,アラモゴードから国道70を30分ほど走っていくと,ホワイトサンズ国定公園の入口に着いた。
 ホワイトサンズ国定公園は,ビジター・センターが午前8時から午後6時,ホワイトサンズ国定公園内を車で走ることのできる道路デューンズ・ドライブへの立ち入りは夏季は午前7時から午後9時,冬季は午前7時から日没となっていた。
 まず,入口にビジターセンターがあったので車を停めて中に入ると,案内所や売店があった。また,ここでは,ホワイトサンズ国定公園のできた仕組みなどを解説するビデオが上映されていた。

  ・・・・・・
 ホワイトサンズ国定公園は,石膏の結晶でできた約700平方キロメートルの広大な白い砂丘の南部から成っている。
 石膏は水溶性なので,普通は,雨が石膏を溶かして海へ運んでしまうから,白い砂のままであることはないのだが,ここトゥラロサ盆地には,海に注ぐ川がないために,周囲のサン・アンドレス山脈とサクラメント山脈から石膏を溶かした雨がこの盆地に留まって,地面にしみ込むか浅い池を作り,それが乾燥して,地表に透明石膏と呼ばれる結晶様の石膏を残した。
 また,この地は,氷河期の間はオテロ湖と呼ばれる湖であったが,それが乾燥して,透明石膏の結晶の大きな平地になった。干上がったオテロ湖は,現在は,プラヤという,大雨が降ったときだけに水が溜まる低地で,1年のうちの大部分は乾燥している。
 こうして,ここの地面は,最高3フィートに達する透明石膏の結晶で覆われた。
 石膏の結晶は,風化と浸食が結晶を砂状に砕き,それを南西からの強風が持ち去って白い砂丘を作っていく。石膏の砂は最初は透明なのだが,砂粒同士が擦れ合って傷ができて光を通しにくくなるため,だんだんと白くなっていく。
 ここの砂丘は絶えず形を変えて,1年間に約9メートルずつ風下に向かって南西から北東へゆっくり移動する。
 また,砂丘の行く手で砂が植物を覆ってしまうが,ある種の植物は,砂丘によって埋められることなく十分な速さで成長することができる。
  ・・・・・・
 そんな内容のビデオであった。

 ビジターセンターを出て,再び車に乗って,その横にあるゲートから公園の中に入っていった。この道をデューンズ・ドライブという。
 デューンズ・ドライブは,ホワイトサンズ国定公園の入口にあるビジターセンターから砂丘に向かって12キロメートル,ほぼまっすくに延びる道路であった。ホワイトサンズ国定公園ではデューンズ・ドライブを外れて自転車や自動車で砂丘に乗り入れることは禁じられているが,ところどころに車を停める場所があって,そこからは徒歩で砂丘を探索できるコースが作られていた。また,これらのコースに限らず,ホワイトサンズ国定公園ではどこでも歩くことができる。
 デューン・ドライブを車でしばらく走っていくと,だんだんと,周りの土地が白い砂に覆われてきた。ただし,しばらくは,一面真っ白な世界,というのとはほど遠かったので,やっぱり,ここはたいしたことないんじゃないかなあ,とこのときは思った。

 ここの砂地は,風化とか移動でよくコースが変わるようで,地図によって,コースが違ったりして,自分の居場所がよくわからなかった。
 まず,デューンライフネイチャートレイルというのがあると書かれていたけれど,見つからなかった。私が初めに見つけた散策コースは,その次のインターデューンボードウォークであった。広い駐車場があったので車を停めて,コースに出た。
 ここは,ビジターセンターから7.2キロメートルの距離にあって,コース長585メートルの往復コースであった。このコースは板張りの道が整備されていて,車椅子やベビーカーでも利用できる唯一のコースであった。遊歩道のところどころに情報を記した看板や休憩用のベンチが備えられていて,ここを歩きながら,ホワイトサンズの白い砂やら,この砂地にめげずに育つ植物を見ることができた。
 私は,真っ白い砂以外に何もない世界,というのを想像していたから,こうした植物の生えたところをみて,またしても,それほど大したところでないなあ,と思った。後で知ったことには,このような環境であっても成長する植物というものもそれなりに学問的な価値や意義のあることなのだったのだが…。

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 再び国道285に沿って車を走らせて,アーテーシアをめざした。やがて,国道285はアーテーシアのメインストリートとなって,銀行やらレストランやらが見えるようになってきた。スピードを落として,注意深く国道82の標示をさがした。
 信号のある交差点で,その標示があったので,左折した。あとはひたすら国道82を進んでいけばよい。
  ・・
 国道82を走り始めたら,車の警告灯が灯った。「MAINT REQD」である。この警告灯は,昨年の夏に東海岸を走っていたときにも表示された。そのとき私はパニックになった。車内には説明書もなく,心配になって,レンタカーの営業所に行って,車を交換した。
 日本に帰国した後で調べたら,これは,ほっておいてもいいらしいということがわかった。
 私が,「REQD」を「liquid」と勘違いして,なにか重要な液体が漏れているか足りないかと思ったのが誤解であった。
 これは,メンテナンス・リクワイアード(maintenance requred)である。インターネットで"What does the dash light mean"Maintenance Required?" と入力するといろいろ出てくる。今回借りた車にはちゃんと説明書があったので,そのライトの項目を見ると,どうやらこの警告灯はアメリカ仕様の車についているものらしい。カナダや日本にはない。「Engine oil replacement remainder light」で,ただ単に,5,000マイル毎にエンジンオイルを交換しろといういう警告ランプが点灯するだけなのだ。このランプは,オイル交換をしても自動でリセットされる事はなく,リセットをしなくてはならない。
 そんなわけで,今回は,この警告灯を無視することにした。きっと,アメリカでレンタカーを借りて長距離を走ると,だれもがこのランプの点灯に遭遇することであろう。

 道は広く,周りは,牧草地帯なのか,単なる荒れ地なのかは知らないが,道はどんどんと荒野に向かって続いていった。
 新しい町を過ぎて、道はどんとんと高台になって,「地球の歩き方」に書いてあったように,チョーヤサボテンやらユッカが生える広大な丘になった。遠くには山並みが見えるようになってきた。
 日本にもある高原道路のような感じになってきた。ただし,道路は広く,行き交う車もほとんどなかったが,周りにはリンゴ畑があったり,牧場があったり,池なのか湖なのかわからないが,そんなけっこうきれいな風景が続くようになって,明らかに、気候や景観が異なるようになってきた。やがて山道となって,道路の南側、つまり山の北斜面がスキー場になったところがあった。若干雪が残っていた。
 このあたりは,リゾート地であるらしく,宿泊施設やら,駐車場やらもあって,行き交う車の台数も増えてきた。
 やがて,トンネルをがあった。トンネルを出たところから,遙か西に景色が広がって,すばらしい景観になった。直線道路をずっと下っていくと,やがて,アラモゴードの町に出た。
 奈良の東名阪道を天理インターで降りるような感じなのだが,道が広く,直線であるというのが,決定的な違いであった。

 さらにずっと走って行くと,国道82は国道54と名を変えて,アラモゴードのバイパスになって,アラモゴードのダウンタウンの1本西を進んでいった。この町のすごさは,やらたとだだっ広いということであった。
 普通のアメリカの町(といっても日本に比べればこれだってめちゃ広いのだけど)をさらに横に10倍くらい拡大したような感じであった。
 ともかく,道は広く町は遠く,空は高く…。
 アメリカはどこも広いとはいえ,これだけの景観ははじめてのことであった。
 そのままずっと走って行くと,陸橋があって,ダウンタウンから来た国道54のローカル道路と交差して,それを過ぎると,アラモゴードの町は終わってしまった。
 夕方4時頃のことであった。
 陸橋で国道54はパイバスとローカル道路が一緒になって南にすすむ。そのまま陸橋を渡って走れば,国道70というだだっ広い道路になって,その道をさらに進むと,まもなくホワイトサンズ国定公園に着いてしまうのだけれど,せっかくこの時間に到着したので,夕暮れのホワイトサンズを楽しむことにした。となれば,帰りは遅くなるから,とりあえず,ホテルの場所だけ確認しようと思った。
 そこで,陸橋を越えたあたりでUターンをして,再び,アラモゴードを目指した。今度は,国道54のバイパスではなく,それに平行して走る国道54のローカルに入った。陸橋を越えたところから,アラモゴードのダウンタウンになって,道の両側に,どこにもあるアメリカの町のように,レストランやらホテルやら続くようになってきた。
 予約をしたホテル「デイズインアラモゴード」は,すぐに見つかった。
 ここで,チェックインだけ済ませてもよかったのだが,暗くなってもホテルの場所を見つけることは容易なことが確認できたので,わざわざチェックインするのが面倒になって,ホテルの場所だけを確認して,私は,再びUターンをして,そのままホワイトサンズ国定公園に向かった。
  ・・
 片側4車線くらいあって,しかも中央分離帯がないものだから,めちゃめちゃ広い道路をどんどん進むと,やはりこの広い道で油断するせいか,左側には,スピード違反で捕まった車がいたりした。
 さらにさらにこの道を進むと,遠くに,白い小高い山が見えてきた。きっと,そこがホワイトサンズ国定公園であるに違いなかった。はじめの印象は,小さな国定公園だなあ,期待はずれだなあ,ということであった。
 それが,大きな誤解であったことに,私はあとで気づくのであった。

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 カールズバッド洞穴群国立公園を出発して,再び,針路を北に,昨晩泊まったカールズバッドの町をすぎ,さらに北に,アーテーシアまで国道285をもどることになった。アーテーシアで,国道82に左折して,そこから西にアラモゴードという町まで行くのである。
 今晩は,そのアラモゴードにホテルが予約してあるから,早く着けば,きょう,ホワイトサンズ国定公園へ行けるだろうし,遅くなれば,明日の朝,ホワイトサンズ国定公園へ行こうと考えていた。
 そうそう,これを書いていて思い出したのだが,昨日の夕刻,ロズウェルからカールズバッドへ行く途中は,ものすごい風であった。制限時速が112キロメートルの道路を時速約100キロメートルで走っていた私の車は,何度,風にハンドルをとられたかわからない。それを思い出して,きょうも同じような状況だったら,ホワイトサンズ国定公園はとんでもないことになるぞ,と心配した。そういえば,反対側車線を走っていた車の中に,車全体がまるで砂漠からきたかのように砂だらけだったものがあった。

 カールズバッドからホワイトサンズ国定公園へむかう様子は,「地球の歩き方・アメリカの国立公園編」に,次のように書いてある。
  ・・・・・・
 カールズバッドから国道285を北上して,アーテーシアに行く。
 アーテーシアから国道82を西へ,あとはひたすら国道82の標識をたどる。チョーヤサボテンやユッカが生える広大な丘を越え,リンゴ畑を走り抜け,やがて山道となってスキー場を過ぎると,峠のトンネルを出たところでようやくホワイトサンズが見えてくる。坂を下りきったところがアラモゴードだ。
  ・・・・・・
 たったこれだけだが,この表記はとても正しい。これを書いた人は,実際,このルートを走ったに違いないのだ。しかし,これだけを走るのに,4時間かかるのだった。

 まず,昨日来た道,国道285を,北上して行く。アーテーシアまでは,インターステイツと変わらない快適な片側2車線の道路がずっと続いていて,昨日見たように,アーテーシアの手前あたりに,大油田地帯があった。そのあたりに,パーキングエリアがあったのだが,このパーキングエリアが,大油田帯の景観を見るためのものかどうかはわからなかった。
 私は,きのう,この大油田帯に感動したものだから,そして、パーキングエリアがあったことも知っていたから,ここに車を停めて,大油田帯を見ようと思っていた。ところが,あっという間にパーキングエリアを通り越してしまったことに気がついた。
 しかし,そのあとしばらく走っていくと,中央分履帯にUターンゾーンがあったので,そこでUターンをして,念願のパーキングエリアまで戻ることができたのだった。
 この道がインターステイツでないので,Uターンが可能であったことが幸いした。

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 こうして,一旦エレベータに乗ってビジターセンターに戻った。ビジターセンターの奥に展示室があって,この洞窟に関する様々な充実した展示があった。その奥に,別の洞窟へ行くための出口があった。
 実は,そこが,メインコリドーにつながるナショナル・エントランスへ向かう出口であった。

 まず,このビジターセンターの奥の出口を出て,地上を300メートルくらい歩いていった。草の茂るひろい荒れ地に道が作られてあった。この平原を歩いていると,この下に巨大な洞窟が広がっているとは信じがたかった。
 その先に広場があって,そこにレンジャーがいて,チケットの確認と注意事項の説明があった。
 注意事項とは,鍾乳石に触れない,ガムをかまない,など,当たり前のことであった。

 そこを過ぎると,屋外劇場のように石の座席が設けられていて,座って見学出来るようになっている場所があった。そこが,有名なコウモリの飛翔の観覧場所なのであった。
 夏の夕刻になると,ここで,その先のぽっかりと空いた洞穴から飛び出てくるコウモリの大群を見ることができるのだそうだ。
 そのコウモリの大群が出てくる洞穴の天然の入口がナショナル・エントランスだった。
 ここから約2キロメートル下降していくトレイルが走っていた。
 結構広い道がくるりくるりとそこを下っていくと,約230メートルほど先の地底に向かって降りていくことができた。
 他の観光客は,写真をとったり,はしゃぎながら,どんどんと地底に向かって歩いて行く。私も同じように歩いて行った。昔テレビのドラマで見た「タイムトンネル」みたいだった。

 ここのメインコリドーという名の洞窟内も,先に見たビッグルームと同じように,奇妙な形をした鍾乳石があって,そららは,悪魔の泉とか,鯨の口とか,魔女の指先といった名前がついていた。
 洞窟の入り口近くは,先に見たビッグルームがあまりにすばらしかったので,それに比べれば大したことがなかったから,少しがっかりしていたのだが,進むにつれて,気がつけば,ずいぶんと深い所に下りてきていて,やがて神秘の世界に出た。
 先にエレベータで降りたビッグルームと同じ深さにまで歩いて降りたのであった。

 そうやってトレイルを見学しながら歩いていった。
 1時間くらい歩いただろうか,地底部分ではトレイルに上り下りがあって,歩いていると結構暑く,次第に汗をかいてきた。
 そうしてさらに歩いて行くと,その洞穴の先に,なんと,先に見学したビッグルームがあった。つまり,このふたつめの洞穴はつながっていたということだった。だから,私は,もう一度,先ほどと同じようにまたビッグルームを歩いて,また,エレベータに乗って,ビジターセンターに戻ることになった。
 このようなわけで,まずはじめにメインコリドーから見学すれば,私のように2周しなくても,また,下るときはエレベータを利用しなくても,一筆書きで2つの洞窟を見学して,最後の上りだけエレベータを利用することになるのであった。
 このとき,さきほど,汗をかいていた人の理由もわかったのだった。

 アメリカではどこへ行ってもそうなのだが,ここカールズバッド洞穴群国立公園もまた,想像を絶する広さと迫力であった。私は,地上から見てもわからないのに,どうして地底にこんなすごいところがあることが見つけ出されたのか,そして,どのように探検されてきたのか,ということがとても不思議だった。
 アメリカの国立公園は,どこも,とてもしっかりと整備されていて,もちろん,ゴミひとつない。掲示が古びていたり壊れていることがない。手すりがさびていることもない。そして,そこが,どれほど辺鄙なところであっても大勢の観光客が来ている。
 ここ,カールズバッドも,また,例外ではなかった。
  ・・
 今回の私の旅は,予定の変更が多く,事前の予約ができなかったために,キングス・パレス・ツアーには参加することができなかった。しかし,このようにふたつの見学コースをまわるだけで,ゆうに3時間ほどかかったから,もし,もうひとつ見学するとなるとたいへんであった。私は,これで十分に満足できた。
 ビジターセンターには,カフェテリアと売店もあった。私は時間が惜しかったからカフェテリアはスルーして,売店を少しだけ見て,駐車場に戻った。
 もう,時間はお昼過ぎになっていた。
 さあ,次は,ホワイトサンズ国定公園である。
 ここからどれだけ時間がかかるかわからないが,ともかく,そこを目指して出発したのだった。

☆ミミミ
写真は,きょうの早朝4時過ぎに東の空に昇ってきたパンスターズ彗星(C/2012K1 panSTARRS)です。6等星で,双眼鏡でも見ることができます。左下に伸びる薄い尾もみることができます。予報よりも明るくならなかったのが残念でしたが,ちゃんと姿をみることができました。
彗星の尾は,太陽風で吹き飛ばされるイオンテイルと彗星の進路方向の逆に伸びるダストの尾(アンチテイル)があるのですが,左下というのは太陽の方向なので,この尾はアンチテイルです。つまり,この彗星は,8月28日に太陽に接近して,現在は太陽から遠ざかっているわけです。
また,今朝は,彗星は月齢26.5の月の右横にいましたが,これからは月は新月になっていくので,月の明りに邪魔されることなく,しばらくは彗星を見ることができます。
明け方の南東の空には,はやくも堂々とオリオン座が横たわっていて,この季節に冬の星座を見ることもできます。

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