しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国旅行記 > 旅行記・2015夏

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●これからも続くはずだったのに…●
 帰国便に乗らなければならない時間が近づいてきたので,チャイナタウンから電車ライトレールに乗って,ポートランド国際空港に戻ることにした。
 ポートランド国際空港はシアトルのタコマ国際空港より小ぶりで美しい空港である。この旅の時点では,成田国際空港からはシアトル便とポートランド便が飛んでいた。こんなに近い都市に何も東京から同じように飛ばさなくてもいいように思っていたが,それだけポートランドに行く日本人が多かったということだろうか。
 いずれにしても,日本からアメリカに行くときに選ぶ都市として,ポートランドは悪くない。街の治安もいいし,何より,空港からダウンタウンまでアクセスが便利だからである。しかし,アメリカを体験をするのに,ポートランドはあまりに日本と変わらないので,私は逆に物足りないような気がする。
 空港に着いて,私はいつものように,デルタスカイクラブのラウンジでフライトの出発を待った。やがて,搭乗時間になったので,機内に乗り込んだ。

☆16日目 8月14日(金)
 機内で日付変更線を越えるので,太平洋上空で翌日8月14日になった。そして,定刻,日本に戻ってきた。
 2015年の2週間以上にわたった長いアメリカの旅は,これで終了である。この先もこんなに長い期間旅行をすることはもうないであろう。
  ・・
 わずか5年前というのに,今では,このときの旅が夢のような気がする。本当にいろんなものを見て,いろんな経験をした。この旅をもって,アメリカは憧れからなじみの国になったように思う。この翌年2016年の春には,私は,生まれてはじめてハワイに行き,ハワイに目覚めた。そして,2016年の夏に東海岸を縦断し,ついに念願だったアメリカ50州を制覇した。
 あれだけアメリカ本土を旅していたのに,それをもって,その熱がすっかり冷めてしまった。そして,その後は,毎年ハワイに行くようになった。そして,ときどきアメリカ本土にも足をのばしたが,私にとってのアメリカは,単に休日に骨休みに行くようなものになってしまっていた。

 そんな時期であった。
 2020年に突然,地球全体に起きた新型コロナウィルスの流行で,もはや,日本を出国してどこかへ行くことができなくなった。残念ながら,日本には,アメリカのような雄大な大自然はどこにもない。今の私は,行き場を失った喪失感に満たされている。
 「私の旅は,これからも,まだまだ続きます」とかつて書いたが,続けることが不可能になった。そんな時期に5年前の旅を振り返ると,ある意味つらく,また,懐かしく,そして,楽しい思い出でこころが満たされ,新鮮になり,またいつか行きたくなってきた。
 ともかく,これで,やっと,これまで書かずに残ってしまっていた2015年夏のアメリカ旅行記をすべて書き終えることができてホッとした。


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●ポートランドのチャイナタウン●
 ポートランドのチャイナタウンはダウンタウンの北西部にあり,面積は約0.5平方キロメートルほどである。
  ・・・・・・
 第2次世界大戦前は,この地域はポートランドのジャパンタウンだった。1890年代以降,多くの日本人移民がポートランドに上陸し,ホテルや浴場,その他のサービスの需要を生み出した。当時,ジャパンタウンには100を超える企業が集まったという。
 やがて,1980年代にポートランド当局が再開発として,この場所を公式にチャイナタウンとして改造したのだが,このとき,実際はほとんどの中国系アメリカ人と中国人移民はこの地域からは引っ越しており,イーストポートランドの82番街に非公式のチャイナタウンが存在している。
  ・・・・・・

 この地域はポートランドのホームレスが多く住んでいて,犯罪などの危険性が開発を妨げる要因となっているという。今も,夜は歩かないほうがいいといったとことが書かれてあるが,それは,アメリカの他のチャイナタウン同様だと思う。
 そもそも私は,深夜にこうしたエリアを歩くことはないので,実際のことは知らないが,お昼間に歩いていると,深夜に人々が集まるような店やショップが数多くあるから,さもありなんという感じはする。日本でも,新宿やら池袋やら,まあ,外観はよく似たものである。
 チャイナタウンの入口には1986年に作られたチャイナゲートとその両脇にライオンのペアがあって,わかりやすくていい。
 この地域の活性化を目的に,2000年蘭蘇園(Lan Su Chinese Garden)がオープンした。蘭=Lan はポートランドを表し,蘇=Su は蘇州を表す。
 この庭園は,1988年,中国の蘇州とポートランドが姉妹都市になったことで,Kuang Zhenによって設計され,蘇州の65人の職人によって建てられたものである。
 500トンもの岩が中国から持ち込まれ庭で使用された。庭にある植物の約90パーセントは中国原産であるが,現在は輸入禁止のために,多くの植物は輸入禁止の前に持ち込まれた植物から育ったもので,100年もの古いものである。また,100を超える木,蘭,水生植物,多年生植物,竹,珍しい低木が庭全体に配置され,合計で400を超える種があるという。
  ・・
 日本庭園といいこの中国庭園といい,こうした名所に訪れると,まさに,ポートランドが太平洋を隔てたアジアからもっと近いアメリカの都市ということを実感する。
 朝10時の開園の少し前,私はこの庭園を訪れた。入口にいた恰幅のいい男性の係員と開園までしばし雑談を交わした。その後,庭園で楽しい時間を過ごすことができた。


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●活気を取り戻したダウンタウン●
 ポートランドのダウンタウンはウィラメット川(Willamette River)の西岸に開けている。ポートランド地域全体からみると,南西にあたり,高層ビルのほとんどはこの地域内にある。
 ダウンタウンのすぐ南はサウスウォーターフロント地区という大規模な再開発地域である。
  ・・
 ポートランドのダウンタウンはユニークで,道幅は20メートルと狭く,街区は1ブロックが61メートルの正方形に作られていて,歩行者に優しい街となるように設計されている。どうりで歩きやすく,日本にいるような街だと思ったわけだ。
 それに比べると,たとえば,シアトルは各ブロックは80メートル四方ほど,ニューヨークのマンハッタンに至っては200メートルもある。
 このように,ポートランドの各ブロックは道路と合わせると1辺が80メートルを占めることになるので,1マイル(約1.6 キロメートル)をちょうど20の街区に分割していることになる。

 1970年代のはじめ,ポートランドのダウンタウンは他のアメリカの大都市同様に,斜陽の一途を辿った。
 私がはじめてアメリカに行ったのは70年代の後半であったが,アメリカの大都市はどこもダウンタウンが荒廃し治安が悪く驚いたものだ。何という国かと思った。そんなダウンタウンに嫌気がさした人たちが郊外に脱出したため,郊外には大きなショッピングモールがオープンした。
 現在の日本は,治安こそアメリカのように悪くはないが,駅前商店街はどこもシャッター街のようになってしまっていて,まるで70年代のアメリカのような気がする。
 しかし,今でも日本の地方都市が荒れるに任せられているのとは対照的に,アメリカの大都市は再開発がすすんでいる。しかし,ポートランドでは,アメリカ国内の多くの都市で行われたダウンタウンの再開発とは異なり,再開発にあたって古い建築物を広域にわたって破壊しなかったが,1977年にダウンタウントランジットモール,1978年にウォーターフロントパーク(トムマコールウォーターフロントパーク),1984年にパイオニアコートハウススクウェア,1986年にポートランドとグレシャムを結ぶライトレールシステム,1990年にパイオニアプレイスというショッピングモールを続々と完成させていった。それにつれて、ダウンタウンに活気が戻り,かつては午後6時を過ぎるとさながらゴーストタウン化していたダウンタウンは復活し,今は1日中賑わう街となっている。

 ポートランドはまた,「ブリッジタウン」の異名で知られる。
 ウィラメット川には,以前書いた四つの橋に加えて,自動車専用の四つ橋の合計八つの橋が架かっている。ここでは,それらを北から順に紹介しよう。
  ・・・・・・
●フレモント橋(Fremont Bridge)
 インターステイツ405が通る。パールディストリクト,ノースウェスト地区,ダウンタウンを繋ぐ。
●ブロードウェイ橋(Broadway Bridge)
 ロイドディストリクトからオールドタウン,チャイナタウンに繋ぐ。
●スティール橋(Steel Bridge)
 独立リフトをもつ世界で唯一の2層橋である。ライトレールやアムトラックをオールドタウン,チャイナタウンに渡す。
●バーンサイド橋(Burnside Bridge)
 ダウンタウンとオールドタウン,チャイナタウン地区を繋ぐ。
●モリソン橋(Morrison Bridge)
 セントラルビジネスディストリクト(=CBD)に直通する。
●ホーソン橋(Hawthorne Bridge)
 ポートランド市最古のハイウェイブリッジ。オレゴン州では最も自転車がよく走る橋である。
●マーカム橋(Marquam Bridge)
 2層の橋梁で,インターステイツ5が通る。
●ロスアイランド橋(Ross Island Bridge)
 国道26(SEパウエルブルバード)が通る。
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◇◇◇
最遠の月

10月31日は,
最遠の月
1月に2度満月のあるブルームーン
48年ぶりのハロウィンの満月
でした。
4月8日のスーパームーンの写真と月の大きさを比べてみてください。
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●アメリカで普通に見かけるもの●
 今日は少し話題を変えて,アメリカの街中では普通に見かけるけれど,日本にはなじみのないものを紹介したい。団体ツアーで旅行をしていても縁がないかもしれないが,私のように車を借りてアメリカを旅すると,こうしたものを知らずして旅ができないのである。
 ところで,経験というのは貴重なものであるが,夢をなくすものでもある。私は今まで頻繁に海外旅行をしてきた結果,海外に行くのも東京に行くのと,さして変わらなくなってしまった。ときめきがないのである。
 ところが,2020年,コロナ禍によって,海外が遠いところになってしまうと,改めて国というもののガードを実感するようになった。しかし,奇跡的に,コロナ禍の前に行ってみたいと思っていたところはここ数年ですべて行きつくしていたのが幸いであった。

 さて,話を戻す。
 1番目の写真は,交差点にある歩行者信号のボタンである。アメリカの交差点の信号には,歩行者用に写真のようなボタンがある。これを押さないと,たとえ車道が青信号になっても,歩道の信号は青にならない。しかも,この青信号,結構時間が短い。だから,足の悪い老人などは交差点を渡ることは不可能,というか,危険なのである。
 アメリカでは,そもそも,歩いている人が多くないし,体の不自由な人はむしろ車を利用するのだろう。また,赤信号であっても右折(日本でいう左折)は可能だから,このことも考慮して注意して歩道を渡る必要があるのだが,アメリカの運転はたえず歩行者優先であることが徹底されているから,さほど心配したことはない。
  ・・
 2番目の写真は,民間の駐車場の入口にあった看板である。アメリカの駐車場は,その昔は料金はさほど高くなかったが,近ごろはどんどん高くなって,日本と変わらなくなってしまった。この写真の料金は「1日あたり」である。
 ところで,アメリカ人は「Early Bird」という言葉が大好きなようだ。早朝割引ということだが,「早起きは3文の徳」というわけである。中学校だか高等学校だかで「The early bird catches the worm.」というのを習ったことがあろう。これが,英語では日常的に使われている。レストランなどにも,「Early Bird Special」なるメニューがある。
  ・・
 そして,3番目の写真が,路上駐車帯の料金支払い機である。私が車で旅行をしていて,一番面倒なのが,この路上駐車なのである。要するに,勝手がわからない。
 クレジットカードが使えるものもあることはあるにが,壊れていたりするし,コインが必要なことが少なくない。アメリカに住む私の友人は,このためだけに,ビニール袋一杯にコインを入れて車に積んでいる。この機械,駐車するときに事前に時間を決めなけらばならないが,そんなこと言われても,どれだけかかるかなんて事前にはわからないではないか。
 路上駐車というのは,機械の使い方さえわかれば,一番めんどうのない駐車の方法なのだろうが,万一誤操作して駐車違反にでもなったら,旅行中のことでもあり,面倒極まりない。また,ここは夜6時を過ぎたら係員は来ないから事実上は無料だよ,とか言われたこともあるが,そんなこと,教えてもらわなければわからない。
 それでもまた,こうした機械があればマシなほうで,近ごろはアプリで料金を支払う,などというものが増えてきた。そんなもの,地元の人ならともかく,旅行者にとってはわざわざこのためだけにアプリをインストールする必要もあるし,面倒極まりない。QRコードでも表示しておいてインターネットにアクセスしてその場で支払えば済むのではなかろうか?
 このように,アメリカの都会を車で旅すると,駐車場探しがいつも問題となるのだ。

💛

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●ポートランド名物の屋台●
 ポートランドのダウンタウンは日本の都市と似ている。この町は車でなく電車や徒歩で移動するところだ。
 ダウンタウンの中心にあるのがパイオニアコートハウススクエア(Pioneer Courthouse Square)である。ここは以前駐車場だったところを市民がレンガのブロックを買って建設費を捻出して造ったものという。
 広場の周りにはブランドショップやアップルショップなどがあるが,日本とたいして変わらないから,ここを歩いていてもアメリカに来たという感じすらしないかもしれない。今は世界中,都会はこんなものだ。
 私は,MAXライトレール(MAX=Metropolitan Area Express Light Rail)で空港からやってきて,パイオニアコートハウススクエアで下車した。
 今日の午前中は,ここからはじめて,徒歩でポートランドの町を散策しようというわけである。

 パイオニアコートハウススクエアから東にわずか500メートルほど歩くと,ウィラメット川(Willamette River)にたどり着く。川べりにはトムマッコールウォーターフロントパーク(Tom McCall Waterfront Park)がある。
 また,北に向かって1キロメートルほど歩くとチャイナタウンがある。
 サンフランシスコのダウンタウンもおなじような広さだが,サンフランシスコには坂があって,歩くのがたいへんだし,ごちゃごちゃしていて,しかも,治安のよくないところが少なくない。それに比べて,ポートランドはどこも美しく,また,治安がよい。「地球の歩き方」には,深夜のグレーハウンドのバスターミナル付近だけ治安がよくないとあるが,まあ,深夜に行かなけば問題はないであろう。
  ・・
 すでに書いたことだが,ポートランドの名物いえば,屋台である。屋台では,世界各国の食が低価格で楽しめるのが魅力であり,そのクオリティも高い。屋台は,フードコートならぬフードカート(food cart)という。スモールビジネスとしてはじめやすく,規制する法律がなかったことから,ポートランドには数多くのフードカートある。人気となったフードカートは複数の店舗を経営するまで成長している。

 現在,アメリカではポートランドに限らず,屋台が多く,ワシントンDCなどでもよく見かける。ニューヨークにも多いというが,私はニューヨークではほとんど見たことがない。というか,ニューヨークに行ったのも,かれこれ7年も前のことになってしまった。ちなみに,私がニューヨークに行ったのは,1981年,1997年,2013年と,偶然,16年周期なのである。果たして私は2029年に,四たびニューヨークに行くことができるであろうか?
 ポートランドのフードカートは,街全体で約500もの店が出店していて,さまざまな料理やビールを気軽に楽しむ事ができる。そして,フードカートが立ち並んでいるエリアをフードカートポッドという。ポートランドの主なフードカートポッドには次のものがある。
  ・・・・・・
●North Park Blocks … SW 8th Ave.,SW Ankeny St.,SW Park Ave.
●5th Ave. Food Card Pod … SW. 5th Ave. & SW. Oak St.
●3rd Ave. Food Card Pod … SW. 3rd Ave. & SW. Washington St.
●Portland State University Food Card Pod … SW. 4th Ave. & SW. College St.
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💛

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●便利なポートランドの市内交通●
☆15日目 8月13日(木)
 長かったこの旅も,帰国の日がやってきた。
 国内線で乗り継ぎをしてから帰国するときは,まず,国内線に乗って,デトロイトやシアトル,ロサンゼルスといった日本への直行便のある都市まで,日本への直行便の乗り換えに間に合うように着かなければならないので,国内線に乗るのが早朝になることが多いから,帰国の日はあわただしい。
 しかし,今回はポートランドから日本にそのまま直行便で帰国するので,出発は午後の1時過ぎ。しかも,ポートランドのダウンタウンから空港までは公共交通で1本なので,ずいぶんと余裕があったので,午前中はポートランドの市内観光ができた。
  ・・
 この旅では必要がなかったが,国内線乗り換えをしなければならない場合は,国内線が遅れると乗り換えることができなくなってしまうという不安もあり,また,実際に私は乗り遅れたこともあるので,乗りかえの必要な地方都市から帰国するときは最後まで気がかりだ。
 だから,最終日は前日に日本への帰国便のある都市まで行って,1泊するほうが無難だと,このごろ思うようになった。

 朝,ホテルで朝食を済ませ,まず借りていた車で空港に向かって,空港にあるレンタカーオフィスに予定より早く車を返却した。それから再び公共交通でシアトルのダウンタウンに戻って観光をしようという予定であった。今回の長い旅では,車を借りたのはシアトルで返却はポートランドであった。
 レンタカーを返却したあと,空港にある航空会社のカウンタでフライトのチェックインを済ませカバンも預けて身軽になってから,ダウンタウンに戻った。
 …と,この旅をした今から5年前の2015年はこんな感じであった。その後,私はオンラインでチェックインを済ませるようになったし,カバンはキャリーオンにするので,この旅のころのように,早朝航空会社のカウンタに行って,先にカバンを預けるということもなくなった。

 ポートランドでは,空港からの公共共通はMAXライトレール(MAX=Metropolitan Area Express Light Rail)という電車があって,40分でダウンタウンと結んでいる。この電車,市内区間は無料だが,空港からは市内の無料区間までだけ有料である。
 空港を出たすぐのところにホームがあった。電車が停まっていたので,チケットを購入して乗り込んだ。チケットを購入するといっても,ホームに自動販売機があるだけで,改札があるわけでもなく,検札も来なかった。欧米ではどこもそんな感じである。
 これからダウンタウンまで行って,フライトの搭乗時間に間に合うまで,ポートランドを南から北に散策するのである。
  ・・
 空港からダウンタウンまでのアクセス方法は,都市によってずいぶんと異なるので,いつもとまどう。車社会のアメリカだから,空港でレンタカーを借りてしまえば何の問題もないのだが,車を借りないときはいろいろ不便なことも多い。そもそも,移動手段が車を持っていることが前提となってできている。
 それでも,ニューヨーク,ボストン,サンフランシスコ,ミネアポリス,シアトル,シカゴなど,おおよその大都市は,今では便利な公共交通がある。そういった都市では,車を使わない場合は,空港に近いところにホテルを予約しないで,公共交通でのアクセスが容易なダウンタウンにホテルを予約しておいたほうがむしろ便利である。
 空港に近いというのがウリのホテルを予約すると,逆にホテルまで行く手段が難しかったりするから要注意である。それは,ホテルのシャトルバスをあてにすると,電話をかけて空港までわざわざシャトルバスをよぶ必要があったり,タクシーを利用するとなると,空港から近いといってもけっこう高価だったり,また,このごろはアメリカではウーバー全盛でタクシーそのものが絶滅危惧種であったりといった問題があるからだ。空港に近いからといっても歩ける距離ではない。

💛

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●西海岸と東海岸にある同じ名前の町●
 帰路もまた,どこを走ったのか覚えていないのだが,来たときよりも早くインターステイツ5に入ったことだけは確かである。何だ,このルートで来ればもっと早かったのに,と思ったことは記憶にある。日本とは違って,有名な観光地であろうと,途中には大きな案内看板などは皆無である。
 インターステイツ5に入ると快調に進み,北に北に走って,やがてポートランド近くまで戻ってきた。
  ・・
 ポートランドの手前にオレゴン州の州都であるセイラム(Salem)という町がある。
 話は飛ぶが,ニューヨーク州の州都がニューヨークよりはるか北の内陸部にあるオールバニー(Albany)であるというのを,多くの日本人は知らない。私はクーパーズタウンの野球殿堂と博物館に行ったとき,途中で偶然オールバニーを通ったことがあるが,古いビルが立ち並ぶ歴史ある町であった。
 それと同じく,オレゴン州の州都がセイラムということもまた,ほとんどの日本人は知らないであろう。また,セイラムという名前の町は,オレゴン州だけでなく東海岸のボストンの近くにもある。東海岸のセイラムは魔女の町として有名で,私は,その町にも偶然行ったことがある。ポートランドもまた,東海岸と西海岸に同じ地名の町があるが,それらもまた,ともに行ったことがある。
 このように,アメリカには東海岸と西海岸に同じ地名がけっこうあるので,それを知らずに空路を予約するとえらいことになるし,また,実際,なってしまったというのを聞いたことがある。

 この日の夕食は,そのオレゴン州の州都セイラムのデニーズで,ささやかにサーロインステーキを食べた。
 アメリカの小さな都市がどこも治安がいいということではないから注意を要するが,私の行ったことのあるほとんどの小さな都市はどこもとても落ち着いたすてきなな町であった。セイラムもまた,こじんまりとして美しかった。こんな町に住んで,安定したささやかな仕事をして,週末には家族で郊外に出かけてキャンプをするというのが,アメリカに生まれたら最も楽しくすばらしい生き方ではなかろうかと思う。
 人間を長くやっていると,そうした塩梅がよくわかってくる。
 とにかく,私がアメリカに生まれても,ニューヨークだとかロサンゼルスのような大都会には絶対住みなくない。日本でもまた,東京や大阪は嫌だ。

 夜おそくホテルに戻った。
 この日,シアトルマリナーズの岩隈久志投手がノーヒットノーランを達成した。テレビのスポーツニュースでは盛んにその話題を放送していた。私は,この登板のひとつまえの登板をセイフコフィールドで見てすっかり満足していただけに,ちょっと悔しかった。それもまた,今ではいい思い出だ。
  ・・・・・・
 岩隈久志投手は,1999年のドラフト会議で大阪近鉄バファローズから指名を受けて入団し,その後,東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍,ともにエースとして活躍したのち,2012年にMLB(メジャーリーグベースボール)に挑戦。シアトル・マリナーズに入団した。アジア人として野茂英雄以来2人目となるノーヒットノーランを達成したのがこの日のゲームであった。
 2016年までは活躍したが,2017年開幕から6試合目の登板で左膝に打球を受け,新たに右肩の炎症も発覚し故障者リスト入りとなり復調することはなかった。
 2018年はマイナー契約を結んだが,メジャーでの登板を果たせないまま退団した。9月のゲームで試合前に捕手役をイチロー選手が務め,始球式を行ったのが最後となった。
 2018年末,読売ジャイアンツと契約し,日本の球界に復帰したが,登板することなく,1週間ほど前の2020年10月19日に引退を発表した。
  ・・・・・・
 これが5年という歳月である。

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●湖に浮かぶ老人●
 クレーターレイクの見どころといえば,まず,ウィザード島(Wizard Iskand)である。ウィザード島はこのブログの「クレーターレイク国立公園③」の最後に写真を載せたものである。高さ233メートルの小さな火山で,山頂には火口があって,これがクレーターレイクの名前のの由来となっている。
 次に,ファントムシップ(Phantom Ship)という長さ90メートルほどの小さな島で,まさに幽霊船のような雰囲気である。これは今日の1番目の写真の湖面の左に小さく写っている。
 これらは湖の外周道路リムドライブ(Rim Drive)を走ると見ることができた。
 さらに,湖に浮かぶ老人(The Old Man of the Lake)という100年以上前から湖面を漂っている枯れ木があるそうだが,私はこれを見た記憶がない。どうやら見損ねたようだ。残念なことをした。
  ・・
 私は湖の北側の入口から入ったが,湖の南側のリムビレッジというところにビジターセンター(=2番目の写真)があった。帰り道,そこに寄ってみたのが,中には簡単な展示があった。

 さて,これでクレーターレイク国立公園巡りは終了である。ここはポートランドからはとてつもなく遠いところであったが,もし次回があるのなら,こんな場所に宿泊して何日も過ごすのも悪くないと思う。観光地とはいえ,ほかの多くの国立公園に比べたら,さすがに人が少なく,景色も美しいし,ツアーがないので,うざっい団体観光客がいないからである。
 コロナ禍が終わったら,再び世界はどこも以前のように観光客で埋め尽くされるようになるのかどうかはわからないが,もし,以前のように観光客が戻って多くの場所がオーバーツールズムになったとしても,世界には人の少ないすばらしい大自然に接することができる場所が,まだある。このクレーターレイク国立公園などがそうだ。こうしたところは貴重なのである。
  ・・
 来るときも見た山火事だが,帰り道,その山火事がずいぶんと大きくなっていた。走っていると,その山火事がずいぶん近くに見られて,道路までその煙りが来て,すごい迫力であった。
 クレーターレイク国立公園は,ポートランドから往復で10時間,距離にして800キロもあった。日帰りをするにはかなりの強行軍であったが。そんな時間を超えた感動があった。本当に行ってよかったと思う。ここに行く前日,この場所を教えてもらったことを感謝した。

💛

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●アメリカで最も深い湖●
 クレーターレイク国立公園(Crater Lake National Park)は,1902年,アメリカで5番目の国立公園として設立された。公園の面積は286平方マイル,741平方キロメートルというから,東京23区の面積628平方キロメートルより広い。クレーターレイク公園にはクレーターレイクとよばれるカルデラ湖がある。
  ・・・・・・
 クレーターレイクはマウントマザマ(Mount Mazama)の噴火活動によって形成された。最深部はなんと1,958フィート,597メートルと,アメリカで最も深い湖であり,世界で7番目の深さを誇る。また,面積は53平方キロメートルである。
 なお,世界一はバイカル湖の1,742メートルで,日本の田沢湖は世界10位の423メートルである。また,湖自体の平均標高は6,178フィート,1,883メートルである。
 クレーターレイクは,流入・流出河川をもたないために湖水は極めて青く澄んでいる。
 火山活動は,アメリカ西方沖にある小さな海洋プレートであるファンデフカプレート (Juan de Fuca Plate) が北アメリカプレートの下に潜り込む際のオレゴン州の沖合いでの沈み込みによって引き起こされた。この動きによって引き起こされた熱と圧縮がカスケード山脈を形成した。
 約40万年前,マウントマザマはカスケーズ山脈の他の山々と同様に層状の楯状火山として誕生した。長期にわたり溶岩流と火砕流が交互に重なりあい,高さ11,000フィート,約3,400メートルと,富士山ほどの成層火山に成長した。
 紀元前4,860年ごろに大噴火により崩壊し,上部の3分の1にあたる2,500フィート,760メートルから3,500フィート,1,100メートルの標高を失い,この噴火により直径約10キロメートルにわたる巨大なカルデラが形成され,カルデラに雨水が溜まった。
  ・・・・・・

 この大噴火によってできた地域は過剰な多孔性とレゴリスから成るやせた土壌のために,植物がほとんどみられない。したがって,私が通ってきたような大平原となったわけである。
 湖の外周道路リムドライブ(Rim Drive)はカルデラの縁の周囲をめぐる景色のよい道であった。
 湖には,ヒメマス(Oncorhynchus nerka)と ニジマス(Oncorhynchus mykiss)が繁殖しているが,大きさ,種類,数に制限を受けることなく,許可なしでつりができるという。また,湖での水泳は許可されている。さらに,夏期は毎日ボート・ツアーが実施されていて,湖の中のスコリア丘とウィザード島に停まる。
 湖面に触るには,湖の北にある険しい歩道であるクリートウッドトレイル(Cleatwood Trail)を降りることになる。また,展望台にはリムドライブを通って自動車で簡単に行くことができるが,最も見晴らしがよいのは8,929フィート,2,721メートルのスコット山からのものである。しかし,そこに行くためにはリムドライブの起点から2.5マイル,4キロメートルの急な道のりを歩かなければならないという。
  ・・
 私は,外周道路を走った後,意を決して,クリートウッドトレイルを歩いて降りることにした。
 予想よりずっと大変で,往復1時間,かなりきつい坂道であった。途中で根を上げそうになりながらも下まで降りて,湖面を触ることできた。クレーターレイクは形は同じカルデラ湖である北海道の摩周湖そっくりだが,深さと面積は3倍ある。湖は独特のエメラルド色をしていて、とにかく素晴らしいの一言であった。
 湖水は冷たく,湖畔には心地よい風が吹いていた。

💛

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●最も美しい湖●
 国立公園のゲートを越えてもまだまだクレーターレイクははるか南で,依然,クレーターレイクハイウエイという名前の道路が穏やかに広がる草原と木立の中を延々と続いて行くだけであった。
 遠くに煙が立ち上っていたが,それは山火事であった。アメリカでもオーストラリアでも,山火事が頻繁に起き,日本でも時折ニュースになる。2019年の年末,オーストラリアでは大規模な山火事が起き,多くのコアラが死んでしまったというニュースは記憶に新しい。私が2019年春エアーズロックに行ったときも,そうした山火事を防止するために,わざと火を起し,大平原を焼き尽くしているのを見たが,せっかくの青空が灰色に濁ってしまっていた。
 大自然というのは雄大で美しいだけのものではない。

 やがて,大平原から景色が変わってきて,次第に道路も標高が高くなってきた。その先には多くの車が停車しているのが見られた。そこは駐車場で,どうやらクレーターレイクに到着したらしいことがわかった。まだ湖の姿は見えないが,その向こうに世界で7番目に深い湖クレーターレイクがあると思うと興奮してきた。
 とうとうクレーターレイク国立公園に到着したのだ。ポートランドからはインターステイツ5を南に3時間走りオレゴン州南部まで行って,さらにそこから東へ2時間山の方へ行ったところにあった。遠い道のりだった。

 クレーターレイクの北側から私はやってきたが,湖の入口辺りには,湖のクルーズ船のチケット売り場があった。しかし,残念ながら,チケットはすべて売り切れであった。それにしても,いつも不思議に思うのは,アメリカの観光地というのはどこも遠く来るのがたいへんで,途中はほとんど車の姿も見えないのに,どこへ行っても,到着すると,結構な観光客がいるということだ。いったい,どこからこれだけの人がやってくるのだろう。そしてまた,どこの国立公園も,きちんと整備され,ゴミひとつなく,こわれたようなガードレールもなく,道路もきちんと線が引かれていて,意味のない看板ひとつなく,ものすごく美しいのだ。
 日本だと,どこに行っても,さびたガードレールやら,意味のない看板やら,廃墟やら,廃道が無残な姿をさらしているし,ゴミがすてられているし,まったくもってなさけないのだが,そうした安っぽさはみじんもないのである。
 まず,湖の外周道路リムドライブ(Rim Drive)を走りながら,景色のよい場所に車を停めて,湖を見ることにした。その湖の美しさは筆舌に尽くし難いものであった。それは私がそれまでに見た中で最も美しい湖であった。

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●セルフでないガソリンスタンド●
 ポートランドからは,まず,アメリカの太平洋岸を北から南に縦断するインターステイツ5に入り,途中で州道に進路を変えて,クレーターレイク国立公園に向かうことになる。
  ・・
 途中でガソリンを入れることになった。すでに書いたが,オレゴン州ではガソリンスタンドはセルフではない。私は来るまでそのことを知らなかった。
 オレゴン州はアメリカでもちょっと異質な州でさまざまなユニークな政策がとられているようだ。ガソリンスタンドがセルフでないのは,従業員を雇うことで失業対策をしているのが理由のようだ。

 私がいつものようにガソリンスタンドで車を停めて,ガソリンを入れようと車から降りようとすると,若い女性が出てきた。まわりを見ると,ガソリンスタンドのそれぞれのポンプのところに女性がいて,給油をする仕事をしていた。
 ガソリンを入れてもらうとチップを払う… らしいことを後で知ったが,このときに私がチップを払ったかどうかは覚えていない。知らないのだから仕方がない。
 この日は長いドライブだったので,このあともう一度ガソリンを入れたが,そのときは田舎のガソリンスタンドであった。広い敷地の端にガソリンポンプがあって,ほかの州のガソリンスタンドと同じようにコンビニが併設されていて,おじさんがひとりで切り盛りしていた。
 こうなると,おじさんはコンビニのレジを離れることはできないから,システムは機能せず,結局,セルフで入れるしかない。ガソリンスタンドがセルフないという州の決まりなんて,実行できないじゃないか,と私は思った。アメリカという国は,このように,いつもどこか何かが抜けているのがおもしろい。
 日本でも,高知県とか福井県とかに行くと,未だにセルフでないのが一般的だとこのごろ知ることになったが,このごろはセルフでしか入れないので,私は逆にとまどってしまう。

 この日,私は,どこをどう走ったのか正確に覚えていないが,どこかでインターステイツ5を出て,州道を走っていったようだ。
 アメリカでは,道路の途中にはほとんど道路標示はないので,分岐などで控えめにある道路標示を見逃すと,走っていて,それが正しい道路かどうか不安になることがある。気づいて引き返すにも,並みの距離ではないし,聞こうと思っても人もいない。
 今は,カーナビやスマホがあるからまず大丈夫だが,この旅をしていた5年前は,私のような日本からの旅行者が常時 Wifi を使うことは困難であった。
  ・・
 走っていて,クレーターレイク国立公園は思ったよりえらく遠いところだと思った。道は広くきれいで,まわりは一面の大平原であった。かすかに覚えているのは,どこかでT字路があって,そこでどちらに曲がるのか迷ったことと,どうやら,そのときに,道を間違えたらしいこと,くらいである。
 しかし,そのうちに,なんとか,国立公園のゲートが見えてきた。やっと,国立公園に到着したと思ったが,ゲートを越えても,クレーターズレイクははるかはるか先であった。その先も延々と,大草原を走ることになった。本当に,こんな大平原の向こうに湖があるのだろうかと思ったことは今も忘れられない。
 いくら日本からアメリカに観光旅行をする人が多くても,こうした国立公園に行ったことがある人はそうは多くないであろう。アメリカの国立公園といっても,ほとんどの日本人になじみのあるのは,おそらくグランドキャニオン国立公園くらいのものであろう。

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💛

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●アメリカの国立公園●
☆14日目 8月12日(水)
 私が子供のころは,アメリカという国は夢の国であった。テレビで放送されたアメリカのホームドラマを見て,その裕福さをだれしもが憧れた。
 地球儀を買ってもらってはじめてアメリカが地球上のどこにあるかを知ったが,当時,世界にはソビエト連邦という巨大な面積をもつ国があって,アメリカが世界で一番面積が広い国でないことに,逆にがっかりした,そんな思い出がある。
  ・・
 私のアメリカ旅行は,今から40年前,カリフォルニアのディズニーランドに行ってみたいということからはじまった。そのころはまだ,日本にはディズニーランドはなかった。
 はじめてアメリカに,それもツアー旅行で行ってみて思ったのは,狭い日本の上でちまちまと生きるだけのなっさけない大人になりたくない,ということだった。そしてまた,ツアー旅行などしている場合じゃない,と思った。そこで一念発起して,それまで大の苦手だった英語を勉強して,翌年,ニューヨークにひとり旅をした。そして,それが高じて,MLBが見てみたい,になり,次第にエスカートして50州制覇が目標になってしまった。
 アメリカの国立公園を制覇したいという夢はもたなかったし,アメリカにそんな大自然があるということも知らなかった。しかし,頻繁にアメリカに行くようになると,知らず知らず,そのたびに多くの国立公園に行くことができた。そして,アメリカで最もすばらしいのは大自然だと気づいた。

 たびたびこのブログで紹介している「地球の歩き方」のアメリカの国立公園編だが,今改めてそれを読んでみると,この2015年の旅のあとにもずいぶん多くの国立公園に行った結果,私は,期せずして,この本に載っている国立公園のそのほとんどに行くことができたことを知った。
 未だに行く機会のないのは,西海岸では,レッドウッド国立公園,そして,グランドサークルでは,キャニオン・デ・シェイ国定公園,メサベルデ国立公園,これだけである。その中で,キャニオン・デ・シェイ国定公園とメサベルデ国立公園は2020年の8月に行く予定で飛行機のチケットも購入したのだが,コロナ禍でかなえられなかった。レッドウッド国立公園はそのあとに行く予定であったが,はたして今後どうなることであろうか。
  ・・
 この旅をしている2015年には,行こうと考えていなかった,というより,その存在すら知らなかったのが,これから書くクレーターレイク国立公園であった。
 しかし,行ってみて本当によかったと,今では思う。それは,そこがとてもすばらしい場所であったことに加えて,改めて行こうとすると,レッドウッド国立公園同様,大都市からとても遠く,行くことが大変な場所だからである。

 前日,食事をご馳走になっているとき,その場の会話で,明日の予定がないというような話になった。そこで勧められたのが,このクレーターレイク国立公園であった。クレーターレイク国立公園に行くことを勧められる前は,この日はインターステイツ84沿いにコロンビア川を上流にさかのぼって走るつもりであった。これもまたすばらしい景観であるが,ここはポートランドに行く機会があれば,簡単にアクセスできるであろう。しかし,クレーターレイク国立公園はそうはいかない。
 聞いたところでは,クレーターレイク国立公園はポートランドから2,3時間で行くことができるだろう,ということであった。私はそれを信じて行くことに決めたのだが,実際は,そんな生易しいものではなかった。距離にして,ポートランドからは240マイル,約380キロメートルというから,さほどのでもないようであるが,それでも,名古屋・東京間の距離である。これを車で日帰りしようということであった。
 ホテルで朝食を終えて,早速,クレーターレイク国立公園に向かって出発した。

💛

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●アメリカの巨大モール●
 ワシントンパーク(Wasington Park)へ行った後,夕食をご馳走になることになって,家に招かれた。家に行く途中で巨大モールに寄ることになった。モールに行く途中で何やらのデモ隊に遭遇したが,アメリカではさほど珍しくもない光景だ。
 ところで,今や日本にもモールはめずらしくないが,アメリカに行って現地の人に会うと,いつも得意げに巨大モールに連れて行ってくれる。どうやら,アメリカの人は,こういうモールは日本にはないと思っているらしい。
  ・・
 おそらく,日本のモールは,アメリカを手本にして作られたものだと思うが,それが次第に日本的に進化してきた。
 日本では,はじめのころはこうしたモールも珍しかったが,もう,今は,日本中どこに行っても同じような店があるので,行く気にならなくなった。店舗が広すぎるから,ペットボトル1本買おうとしても不便なのである。しかも,モールの中にあるスーパーマーケットはレジも混雑している。専門店といってもその多くはブティックばかりなので私には意味がないし,チェーン店はどこへ行っても同じだ。
 それでも,アメリカでは駐車場が広く車を停めるのに余裕があるからすぐに駐車して店に入れるからさほど大変でないが,日本の駐車場はごみごみしているから車を停めるのだけでもひと苦労だし,買い物を済ませて車を出そうとすると渋滞していて大変なのである。
 コンビニもまた,アメリカではガソリンスタンドに併設されているから,トイレ休憩のためにあるようなものだ。一方,日本では,コンビニは独自の進化を遂げたが,何せ値段が高すぎる。スーパーマーケットで58円で買うことができるペットボトルが148円もするから,私はめったにコンビニには行かない。そうした日本のコンビニのお得意さんは,早朝,まだ,スーパーマーケットが開いていない時間に工事現場に向かう人たちがその日の昼食を購入するためにあるようなものだと思っていたが,若い女性もコンビニ好きだと聞いて驚いた。
  ・・
 今や私は,食料品以外の買い物はほとんどネットショッピングで済ます。また,食料品は,スーパーマーケットと衣料品を売っているくらいの小売店舗かドラッグストアで済ませる。巨大モールは,散歩するときと時間つぶしをする以外に行くことはほとんどなくなってしまった。

 さて,私が連れていっていってもらったアメリカの巨大モールでは,日本にはない趣向が目を引いた。それは,今日の写真のように,店内を公園にあるようなミニチュアトレインが走っていたことである。これがなかなかのものだった。日本でも同じようにやれば子供たちが喜ぶと思うのだが,それがないのは,当局の許可が出ないか,または,人が多すぎて通路でこれをやると事故が起きる可能性があるからなのだろうか。
 また,この時私が行ったモールで驚いたのは,3Dプリンタの実演であった。まず,3方向から写真を撮る。そして,それをもとに,2,000円くらいで,実物そっくりの小さなモニュメントを3Dプリンタで作ってくれるのだ。こりゃ将来日本でも流行ると思ったが,この旅のあと5年経ってもまったく流行しないのが意外である。私は結婚の記念品や誕生日のプレゼントなどにいいと思うのだが…。

 モールを出て,次に,中華料理のテイクアウトショップに寄って夕食を購入して,自宅にお邪魔した,夕食をご馳走になって,それからホテルまで送ってもらって,楽しい1日が終わった。
 こうして,この日,私はポートランドという町をはじめて散策することができた。ポートランドは,このときまでに一度来たことがあるが,フライトの待ち時間に3時間くらい滞在して,ワシントンパークを車で少し走っただけだった。
 ポートランドは思った以上にすてきな,そして,思った以上に小さな都会であった。ダウンタウンは日本の都会のように狭いが,しかし,サンフランシスコのように人も車も多くはなく,また,市内の公共交通は無料で,しかも治安がよく,住みやすそうな都会であった。

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●美しきワシントンパーク●
 ポートランドのダウンタウンから西に2キロメートルほど行くと高台となるが,そこには159エーカー,640,000平方メートルの広大なワシントンパーク(Wasington Park)という公園がある。ここには,日本庭園とローズガーデン(International Rose Test Garden),動物園,そして,ピトック邸(Pittock Mansion)がある。こうした広大な公園のある都会はすてきだ。
 外国にある日本庭園には,けっこういい加減なものや,日本人が訪れると首をかしげるところもあるが,ここの日本庭園はアメリカで一番すばらしい日本庭園といわれるだけのことはあって,かなりのホンモノで,多くの観光客が訪れていた。
 それにしても,こうした日本庭園は,造ることはもとより,それを維持するほうがずっとたいへんだろう。
 また,バラのシーズンは5月から6月で,私が行ったのは8月だったが,ローズガーデンにはけっこうな数のバラが咲き誇っていた。

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 日本庭園は,1958年,ポートランド市と札幌市が姉妹都市となったのを記念して造園された本格的なものである。
 オレゴン日本庭園協会が計画し,デザイナーの戸野琢磨氏にもと,5.5エーカー,22,000平方メートルの敷地に,白砂の美しい平庭やアヤメが植えられた池泉回遊式庭園,花心邸と名づけられた茶室がある露地庭,東屋や竹垣がアクセントなっているナチュラルガーデン,枯山水の禅庭など,5つの日本庭園が森の中に配されている。
  ・・ 
 ローズガーデンは,ダウンタウンを見下ろす丘に700種8,500株以上のバラが咲き誇るアメリカ最古のバラの試験場である。
 ポートランド市内を走るタクシーや警察の車に一輪のバラの絵が描いてあったり,5月の下旬から6月の下旬にかけてローズ・フェスティバル(Rose festival)というお祭りが開催されていたり,ポートランンドの女子サッカーチーム「ソーンズ」(Thorns)はバラの棘を意味していたりと,ポートランドは「バラの街」といわれてる。
 1888年,オレゴン州最大の新聞社「オレゴニアン」(Oregonian)の創業者ピトックの夫人がバラ協会を設立し,1901年に弁護士ホルマンが「ポートランドをバラの街に!」と新聞に記載したことが後押しとなって「バラの街」といわれるようになったのがはじまりである。
 ローズガーデンは1917年に作られた。現在では,アメリカで無料観覧できる場所ベスト10に選ばれたり,最優秀庭園に選ばれたりしているこの庭園には,年間50万人の観光客が訪れるという。
 毎年,ポートランド市内の高校生からローズ・クィーンがひとり選ばれ,6月のローズフェスティバルでヒロインとなる。通路には歴代のローズ・クィーンのサインが刻まれたプレートが埋め込まれれている。
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 ワシントンパークで最後に行ったのがピトック邸であった。
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 ヘンリー・ルイス・ピトック(Henry Lewis Pittock)は1835年に生まれ,1919年に亡くなったイギリス生まれのアメリカの開拓者であった。新聞の編集者であり,共和党の政治家,そして,市民活動家であり,また,熱心なアウトドアマンで冒険家だった。はじめ週刊として発行された「オレゴニアン」(Oregonian)はのち,日刊紙として,今もオレゴン州最大の発行部数を誇るが,ヘンリー・ルイス・ピトックは,この「オレゴニアン」の創設者である。
 ピトック邸は,ヘンリー・ルイス・ピトックが自分と妻のために建てたルネッサンス風の大邸宅であるが,現在は,ポートランドの発展におけるピトックと彼の家族の役割を記録した博物館として運営されている。
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 ピトック邸の広い庭からは,見事なポートランドの街並みを見ることができた。

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💛

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●旅先での出会いは…●
 日ごろから親しい人でも,一緒に旅をすることは,若いころとは違って,簡単なことではない。まして,日ごろおつき合いのない人と旅先で出会ってその町の案内をしてもらうということは,なかなか難しいものだ。
 私は,旅行先やそれ以外にも様々な方法で知り合った人と,遊びに来て,という誘いに応じて,出かけたこともこれまでに少なからずあったが,いざ会っても,そのあとがけっこう難しいのだ。それは好みが違ったり,行きたいところや行動様式が違うからだ。さらに,友達とならフィフティフィフティで何とかなるが,お招きにとなると,お金をどうするかという問題もある。
  ・・
 私は,旅先では,地元の人に,旅人では行くことができないところに案内してもらうのが最もうれしい。特に,レストランなど,知らないところにはなかなか入りにくいから,最も楽しい時間となる。だから,もし,海外から日本に友人が来たら,そういった場所を案内するのがいいと思うのだが,そのとき,問題なのは食習慣の違いを理解しているかどうかということだろう。私は好き嫌いがないからまだしも,それでもやはり,これまで食べたことがないものの中には抵抗があるものが少しはある。
 それよりも,観光地を案内されるほうがより難しい。この旅の1年前の2014年,これもまた,友人の招きでテキサス州のサンアントニオに行ったとき,私はまずアラモ砦に行きたかったのに,あんなところは観光用だといって興味を示してもらえなかった。それは,たとえば,京都に行って外国人を案内するときに,鹿苑寺金閣は再建だから見る価値などなく,慈照寺銀閣は国宝だからこちらのほうが価値があるといわれるようなものだった。
 そのように,なかなか波長が合わないこともあって,そういったときは,結局,ひとり旅のほうがずっと居心地がいいということになってしまうことも多い。しかし,この旅で会った友人は,そういうことを心掛けてくれて,楽しい時間を過ごすことができた。

 この日は,ポートランドのダウンタウンをひと通り案内してもらった後で,ウィラメット川(Willamette River)畔のトムマッコールウォーターフロントパーク(Tom McCall Waterfront Park)にあったレストランで昼食をとった。平日なのに多くの人がノンビリと景色を眺めながら食事をしていて,とてもいい雰囲気であるとともに,うらやましかった。
  ・・・・・・
 ウィラメット川は,オレゴン州のポートランドおよびセイラムを流れる川である。コロンビア川の支流で,長さは187マイル(301キロメートル)および,ひとつの州の中だけを流れている川としてはアメリカで最大の面積をもっている。
 トムマッコールウォーターフロントパークは,ポートランド市内を東西に分けるウィラメット川の西ダウンタウン側に約2.4キロメートル続く公園である。
 この区間には,北からスティール橋(Steel Bridge),バーンサイド橋(Burnside Bridge),モリソン橋(Morrison Bridge),ホーソン橋(Hawthorne Bridge)の四つの橋がかかり,徒歩や自転車,インラインスケートなどで「橋の街」ともよばれるポートランドの姿を楽しむことができる。夏場は水遊びする子供達でにぎわうサーモンストリート噴水(Salmon Street Springs)や桜並木と石碑が並ぶ日系アメリカ人歴史プラザ(Japanese American Histrical Plaza),川に浮かぶオレゴン海洋博物館(Oregon Maritime Museum)といった見所もある。
  ・・・・・・
 ポートランドはどこに行っても美しいところだったが,特に,このウィラメット川のほとりの公園が過ごしやすかった。このときはまだ知らなかったが,のちに行ったオーストラリアのブリスベンのダウンタウンに似ていないこともない。いずれにせよ,こんな過ごしやすい町は,日本にはない。

💛

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●ポートランドは日本の都市のよう●
 ポートランドのあるオレゴン州というのは,アメリカの州の中でもいろんな意味でちょっと,というかかなり変わった州である。
  ・・
 アメリカのガソリンスタンドは日本のガソリンスタンドがセルフになるずっと以前からセルフだったから,アメリカではどこもセルフだと思っている人もいるだろう。私もそうだった。しかし,オレゴン州とニュージャージー州のガソリンスタンドはセルフサービスではない。
 アメリカでレンタカーに乗らない日本人にはどうでもいい話だが,このことは,このときに知ったが,アメリカでは有名なことらしい。この旅で,私はまずこれに戸惑ったが,そのことはまた後で書くことにする。
  ・・
 また,オレゴン州はマリファナが合法である。これはオレゴン州のほかにワシントン州,ニューヨーク州,アリゾナ州,ニューメキシコ州,ミネソタ州,ハワイ州などがあるそうだが,このことは私にはまったく関係も興味もない。
 ただし,この旅の2年後2017年にアメリカへ皆既日食を見にいったとき,皆既日食の前日,オレゴン州のインターステイツが大渋滞を起こしていて,これは皆既日食を見にいく車の列だと報道されたが,実際は,その日に発売になったマリファナを買いにいく車だったらしい,という話を聞いた。このことが真実かどうかは知らない。
  ・・
 さらに,ポートランドは,日本からの短期ホームステイ先として有名である。実際,日本からのポートランド便やポートランドのダウンタウンには日本人の女子大学生の姿がやたらと目についた。聞くところでは,これは州の政策で,まずしい家のお金稼ぎだと聞いたことがある。私はそれが正しいかどうかは知らない。ただし,私立の大学の外国語学部でアメリカでのホームステイをウリにするところは,そのホームステイ先はポートランドである。
 私は,女子大学生が群れてポートランドの家庭に短期ホームステイをしたところで,お金を捨てるだけで,青春の思い出以外は何も得られないと個人的には思っている。

 ポートランドはきわめて治安もよく,ダウンタウンはさほど広くもなく,とても快適な都市であるから,アメリカではじめに降り立つには最適だとは思う。ホームレスも多いのだが,ホームレスにも過ごしやすい都会なのだそうだ。
 空港からダウンタウンまでは鉄道ですぐアクセスできるので,車がなくとも,とても便利である。また,市内区間の公共共通は無料で,しかも,頻繁に走っているので,来た電車に乗るだけでどこにも簡単に移動できるのも快適である。
 また,ダウンタウンでやたら目につくのは屋台である。屋台は,今では,ポートランドだけではなく,ワシントンDCやニューヨークもどんどん増えているそうだ。レストランの値段が高く,しかも,さらにチップが必要なアメリカでは,屋台はビジネスマンが気軽に昼食をとるにはとても便利なのだ。しかも,屋台は移民がひとりで商売をはじめられるから人気なのである。ただし,たいへんな競争で,それぞれが工夫を凝らして商売をしているそうだそうだし,当局の嫌がらせもあるという。
 ダウンタウンにはアップルショップやら,ブランド品のショップやらが並んでいるのは,アメリカというより,今や,全世界どこも同じようなものである。ポートランドのダウンタウンは,広すぎることもなく,徒歩でどこにでも気軽に行くことができる。私は,どことなく,名古屋の繁華街である栄にいるような気になった。

💛

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●私の「密かな愉しみ」だった町●
☆13日目 8月11日(火)
 ついにオレゴン州までやってきた。この日8月11日と翌日8月12日はオレゴン州で過ごし,最終日8月13日のお昼にオレゴン州ポートランドの国際空港から帰国する。
 この旅の最後の目的地をオレゴン州ポートランドにしたのは,この年2015年の1年前,2014年の夏に同じようにポートランド経由でアイダホ州に行ったとき,Facebookの書き込みでそれを知ったポートランドに住む友人から,ポートランドに来るなら遊びにきてという返信をもらって、その時に来年は行くからねと約束したのが発端であった。
  ・・
 そのようなわけで,このときの旅は,ワシントン州のシアトルに降り立ち,アイダホ州に行き,モンタナ州までドライブし,再びシアトルに戻ってMLBを見て,さらにワシントントン州の3つの国立公園を巡り,最後に,オレゴン州のポートランド,という盛り沢山の内容になった。しかも,予定外の美しい場所がもうひとつ,明日の旅で加わるのだ。
 今にして思うに,こんな旅はもう二度とできないであろう。しかも,このときの旅で行ったところは,アメリカに住んでいてもなかなか行くことのできない場所ばかりだった。
 今や私には2週間も旅をする元気はない。たとえ元気があっても,コロナ禍で行くことができない。そう思うと,本当に行ってよかったし,こうした貴重な体験は,思い立ったときにしておくべきだと痛感する。
 もはや,私の人生に未練も後悔もない。

 ポートランドに着いてからの予定は,友人と会うこと以外には,毎度のごとくまったく未定であった。
 ポートランドには,かつて1度だけ来たことがあった。それは今にして振り返ると,私の「密かな愉しみ」となった思い出だが,そのときにポートランドを詳しく観光した覚えがない。
 そこで今回は,ポートランドはきれいな都会と聞いていたから,時間があればどこへ行ってもいいかな,くらいの気持ちだったし,友人と会うのだから,あなた任せでもあった。
  ・・
 この日から2日宿泊するのは,空港の近くでダウンタウンからは10キロメートルくらいのところにある「ラキンタ」(La Quinta)という比較的高級なホテルであった。
 朝10時,ホテルの駐車場で友人と待ち合わせということにした。ホテルのチェックインは昼過ぎだから早かったが,試しにフロントで尋ねてみると,ホテルのチェックインをすることができた。アメリカでは,チェックインの時間前でも部屋が空いていれば大概可能である。そこでチェックインを済ませ,ホテルの駐車場を確保してそこに車を停め,友人を待った。
 友人はちょうど10時にやって来た。彼女は台湾からの移民で,以前,イエローストーン国立公園を現地ツアーで観光した時に知り合った。9年ぶりの再会であった。そのままダウンタウンまで彼女の車で行って,まずはポートランドのダウンタウンにあるスターバックスに入って,ラテをご馳走になった。

💛

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●落ち着いた美しい町ロングビュー●
 シアトルを出発して,マウントレイニー国立公園,オリンピック国立公園,そして,セントへレンズ火山国定公園と周遊してきた。それとともに次第に南下して,この次にめざすのはオレゴン州のポートランドであった。
 この日はセントヘレンズ火山国定公園から州道504を西に走り,インターステイツ5に出て,さらに南に,ロングビュー(Longwiew)という人口35,000人ほどの比較的大きな町にあるクオリティインに泊まることになった。
 ロングビューはインターステイツ5沿いの町で,カウリッツ川(Cowlitz River)とコロンビア川(Columbia River)の合流点にある。ここからオレゴン州のポートランドまでは30分ほどである。

   ・・・・・・
 ロングビューは,かつて地元の先住民族の祖先の墓地のある場所だった。
 1849年,開拓者ハリー(Harry)とレベッカ・ジェーン・ハンティントン(Rebecca Jane Huntington)が率いるヨーロッパ系アメリカ人によって開拓され,はじめはバージニア州のトーマスジェファーソン(Thomas Jefferson)第3代大統領の家を記念して,モンティチェロ(Monticello)と名づけられた。
 1921年になって,この地は,ふたつの大きな製材所を運営するために14,000人の労働者が必要ということで,町が作られた。
  ・・・・・・
 モンティチェロ,懐かしい名前である。私はこの旅をした翌年の2016年に,そんなことは意識していなかったが,偶然,バージニア州のモンティチェロにも行った。

 ロングビューは広い公園のある美しいところであった。ホテルにチェックインをしてから,夕方公園の川べりの散歩をした。涼しく快適であった。
 アメリカに限らず,私が行ったことがあるオーストラリア,ニュージーランドなどでも,海外からの観光客が訪れる,いわゆる「観光地」でない,地元の人たちが日常を過ごすこのような町の多くは,どこも落ち着いていて,暮らしやすそうに思える。
 そこは何があるということでも,特筆すべき名所があるというものでもないが,そういった町は,一般に,とても静かで,広々としていて,しかも,どこもゴミひとつない美しく広大な公園がある。夕方ともなると,住民が散歩をしたり,ベンチででくつろいだり,ジョギングを楽しんだりしている。あまりに広いので,決して「密」が起こることもない。商店は定刻に閉店してしまうが,入りやすそうなレストランが多数あって,そこでは時間を忘れて夕食を楽しむことができる。それもまた,日本のようにせまくなく,空席待ちをする必要もない。
 私もこの日,町の1軒のレストランに寄ってステーキを食べた。
 日本には,どこに行こうと,こうした町がないのが残念である。しまった,書いていたら,また行きたくなってきた。

◇◇◇

💛

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●ジョンストンリッジオブザバトリー●
 多くの国立公園はゲートで入園料を払うようになっているが,セントへレンズ火山国定公園は,3つのルートとも,入口にゲートはなく,無料で最終地点までいくことができた。
 セントへレンズ火山国定公園の園内には,マウントセントヘレンズビジターセンター,コールドウォーターリッジビジターセンター,ジョンストンリッジオブザバトリーの3か所のビジターセンターがある。
 マウントセントヘレンズビジターセンターはインターステイツ5から降りた直後にあり,シルバーレイクの湖畔に建っている。こんな場所で時間を使っていては私が予定したふたつの展望台に行けなくなるのでパスして登っていった。
 セントへレンズ火山に近づいていくとコールドウォーターリッジビジターセンターがあった。このビジターセンターにはブックストア,ギフトショップ,そして,カフェテリアもあるし,400メートルほどハイキングが楽しめる「Winds of Change」トレイルがあったらしいが,私はそれをまったく覚えていない。
 その先,まっすぐにジョンストンリッジオブザバトリーまで向かった。ここは車で噴火口まで最も近くにいくことができる場所にあるビジターセンターである。

 まずは,ビジターセンターを横に,展望台に行って,火山の風景を楽しんだことは前回書いた。そして,そのあとで,ビジターセンターに入った。
 ジョンストンリッジオブザバトリーは,1980年の噴火の生物学的および地質学的影響の調査に関する展示を目的として建てられたもので,詳しい展示があるのは,どの国立公園のビジターセンターも同様であるが,さらに,噴火時の様子を伝える16分の映画が上映されていてこれがウリだ。
  ・・
 これを書きながら思ったのだが,日本の富士山には,こうしたビジターセンターはあるのだろうか? 私は登ったこともないし,登ろうとも思わないので実際のことは知らないが,聞くところでは,富士山登山はすごい人らしい。しかも無料である。
 このことが,何でもアメリカ基準の思考が身についてしまった私にはまったく理解ができない。日本の多くの山と同様に,富士山は観光地ではなく,信仰の山,だからであろうか?

 実は,セントへレンズ火山国定公園は登りのルートは無料だったが,3つのビジターセンターはすべて有料だったのである。しかし,私はそのことをまったく知らなかった。ジョンストンリッジオブザバトリーはものすごく混雑していた。入口を入ったところのホールの真ん中に受付があって,そこで「自発的に」入館料を払うことになっていたらしい。ただし,お金を払っても,そのあとでなんらかのチェックはない。私は悪気もなく,入館料が必要なこともまったく知らず,混雑した中を,映画が上映されるシアター「シネドーム」(Cinedome)に向かって押し合いへし合いしながら入って行ってしまった。
  ・・
 映画を見終わると,スクリーンが開き,その向こうに,実物の火山を見ることができるという演出で,これがすばらしかった。アメリカのこうしたアトラクションはどれも非常に凝っている,というか,すべてがディズニーランドと同じ手法,というより,ディズニーランドがマネなのである。
 考えてみれば,展望台に行く前にビジターセンターに入って,映画を見終えたときにはじめて本物の火山を見るという,劇的な演出がされていたのだ。しかし,私は,先にもうひとつのルートを登って,すでに火山を見てしまっていたし,さらに,ここでも,先に実物の火山を見てしまっていたから,映画の演出がムダになてしまったようだった。
 こうしていろんなことがあったが,ともかく,セントへレンズ火山を堪能して,インターステイツ5に戻ることにした。
 帰り道で,来るときにパスしたマウントセントヘレンズビジターセンターに寄ろうと思ったが,すでに閉館時間を過ぎてしまっていて,なかに入ることができなかったのが少し残念であった。

💛

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●ジョンストンリッジ展望台●
 北東のルートを降りて,予定どおり次に北西のルートでジョンストンリッジ展望台をめざした。
 北西のルートの入口に行くには大回りをして再びインターステイツ5までもどって,北西のルートに行かなければならない。
 マウントセントへレンズをアナログ時計の円の中心に置いたとき,北東ルートの入口はアナログ時計の3時の位置であり,北西のルートは9時の位置になる。そして,行かなかった南のルートは6時の位置になるのだ。
  ・・
 これから目指す北西のルートの終点はジョンストンリッジ展望台(Johnston Ridge Observatory)である。ジョンストンリッジ展望台は標高1,280メートルの尾根にある,火口に最も近い展望台である。大噴火のとき,ここで観測していて犠牲になった火山学者デイヴィッド・ジョンストン(David Alexander Johnston)の名前からつけられた。
 ジョンストンリッジ展望台から火口までは9キロメートルほどの距離で,馬蹄形のクレーターを真正面から眺めることができるので,一番人気のところである。それに加えて,インターステイツ5からアクセスできるので,便利でもある。

 マウントセントへレンズの火口は,このときは小康状態だったので,何事もなく観光することができたが,火山の活動状況によっては園内の道路が閉鎖されることもある。
 それは,阿蘇山や箱根の大涌谷と同じである。私は幸運にも,阿蘇山も箱根の大涌谷に行ったとき平穏であったが,ここもまた,ともにその1年後は火山活動が活発になって閉鎖され,アクセスできなかった。
 さまざまなブログを見ると,このマウントセントへレンズに行ってはみたがジョンストンリッジ展望台が閉まっていたとかいった気の毒なものもあるので,私はここでもまたツイていたといえるだろう。
 火山活動が平穏なときには,マウントセントへレンズは登頂することも可能だそうだ。しかし,環境保護のため,1日100人に制限されている。こういったことが徹底されているのがアメリカである。登頂は往復で12時間ほどかかるということだが,人気があるのは,南側からのルートということだ。

 北西からのルートは,北東からのルートとはうって変わって,最後まで快適な道路が続いて,難なく到着することができた。また,ここは,北東のルートとは異なり,完全な観光地であり,広い駐車場には多くの車が停まっていた。
 展望台に至る道を登っていくと,ビジターセンターがあった。ビジターセンターの入口も人で溢れていた。私はビジターセンターの横を素通りして,まず,展望台に行った。展望台からは巨大なセントへレンズが間近に迫り,180度にわたって山しかないという光景は,まさに圧巻だった。それにしても,いつも書いているように,ジョンストンリッジ展望台は日本とはまったく違って,意味のない落書きだらけの看板やら赤茶びた老朽化したままの手すりやらも皆無だし,ごみひとつ落ちていない。
 マウントセントへレンズは,噴火以前の姿はまさに富士山と瓜ふたつでtあった。もし富士山が噴火したらこうなるのかと思うと恐ろしくなったことだった。

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💛

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●ウィンディリッジ展望ポイント●
 セントへレンズ火山の登り口は北西,北東,南の3つのルートがあることはすでに書いた。
 セントへレンズ火山は,噴火の際に北西の山腹が大きく崩れたために,山頂が吹き飛んでできた馬蹄形クレーターや溶岩の跡,溶岩ドームなどのドラマチックな風景を見ることができるのは山の北側だけなので,3つのルートのうち,北東と北西に絞って登ってみることにしたのだった。
 よって,南からのルートのことは預かり知らないが,北東と北西のルートのうちでは,北西からのルートが最高であった。しかし,当然,北西のルートは人気があるから,すごい人であった。それにくらべて,北東からのルートは空いていてのどかで,それはそれでよいものであった。

 はじめに登った北東のルートのゴールはウィンディリッジ(Windy Ridge)という展望ポイントで,展望ポイントに着くまでの道路は想像以上に大変であった。
 写真で見ると大したことがないように思えるだろう。そしてまた,日本の山岳道路に比べたらそれは美しく快適であるように思えるだろう。が,それでも,狭くカーブが多かった。しかも,途中までは大した風景も見られず,何度もめげそうになった。
 ところが,やっと見晴らしのよいところに出ると,突然,セントへレンズ火山の恐るべき雄大な景色が姿を現した。大噴火の時に爆風で倒れた樹木は無惨な姿をさらし,そのはるか向こうには火口がえぐられた巨大なセントへレンズ火山の姿であった。
 このコースのよいところは,眼下に広がる巨大なスピリットレイク(Spirit Lake)の全体を見ることができることだった。

  ・・・・・・
 1980年の噴火以前は,スピリットレイクはノースフォークトウトル川と支流の谷を占めていた2本の支流で構成されていた。約4,000年前,これらの谷はセントヘレンズ山からのラハールと火砕流堆積物によって塞がれ,スピリットレイクを形成したのだった。
 スピリットレイクの最長部分は約2.1マイル,3.4キロメートルで,火山性物質で構成された自然のダムを作っていた。また,水位は安定していて,高度は約3,198フィート,970メートルであった。
  ・・
 スピリットレイクは人気のある観光地で,湖畔には6つのキャンプ場とロッジがあったが,1980年のセントヘレンズ火山の噴火で,すべてが一変してしまった。
 スピリットレイクは火山からの側方爆風の完全な衝撃を受け,この噴火に伴う爆風とがれきのなだれにより湖の大部分が押し出された。
 また,湖の北の海岸線に沿った山の斜面の湖面から850フィート,260メートルほどの高さの波が襲った。この波で,約350,000エーカーフィート,430,000,000立方メートルにわたって熱分解した木やその他の植物材料などのがれきや火山灰などが堆積した。この堆積により,湖の体積は約45,000エーカーフィート,56,000,000立方メートルも減少したのだった。
 そして,湖の表面標高は197フィート,60メートルから206フィート,63メートルに上昇,表面積は1,300エーカーから約2,200エーカーに増加し,最大深度は190フィート,58メートルから110フィート,34メートルに減少した。噴火は周囲の丘の中腹から数千本の木を引き裂き,湖に押し流した結果,噴火後の湖の表面の約40パーセントを覆う湖の表面に浮遊ログラフトが形成された。
  噴火後,スピリットレイクには火山ガスが湖底から染み出し,これが非常に有毒な水となり,1か月後には湖水には酸素がなくなった。科学者は,湖はすぐには回復しないだろうと予測したが,1983年には植物プランクトンが再出現し,酸素レベルが回復,カエルやサンショウウオなどの両生類が湖に再植民し,漁師によって再導入された魚類が繁栄したた。
 自然というのはすごいものだ。
  ・・・・・・

 ようやくウィンディリッジ展望ポイントに到着した。コースの途中もそうであったが,展望ポイントにもほとんど人がいなかった。しかし,とてもすばらしい風景が広がっていた。
 このコースがすいていたのは,このコース以上に北西のコースがすばらしいことと,こちらの方がアクセスがきわめて不便であることが原因だと思われる。しかし,この展望ポイントからの風景を見ないというのは,あまりに残念なことだと思った。

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●セントへレンズ火山の噴火●
 マウントセントヘレンズ(Mount St. Helens)は大型の活火山である。
 カスケード山脈の一部にあって,先住民族のクリッキタット(Klikitat)からは「煙と火の山」という意味の「ロウワラ・クロウ(Louwala-Clough)」とよばれていたが,18世紀後半にカスケード山脈の調査を行ったイギリス海軍の航海士ジョージ・バンクーバー(George Vancouver)によって,友人であった外交官の初代セントヘレンズ男爵アレイン・フィッツハーバート(Alleyne FitzHerbert, 1st Baron St Helens) にちなんでマウントセントヘレンズと名づけられたものである。
  ・・・・・・
 セントヘレンズ火山は,1980年5月18日に大噴火を起こした。
 この大噴火によって大規模な山体崩壊を起こし,直径1.5キロメートルにわたる蹄鉄型のカルデラが出現,山の標高は2,950メートルから2,550メートルに減少した。崩壊時に土砂は岩屑なだれとなり,200軒の建物と47本の橋を消失させ,57人の命を奪い,5,000頭のシカや1,100万匹の魚が死亡した。また,鉄道は24キロメートル,道路は300キロメートルにわたって破壊された。
 火山灰や火砕流、泥流、そして岩屑なだれなどの被害は概ね火山学者たちが事前に予測した通りの範囲で起きたが,横なぐりの爆風は予想外であり,大噴火を予測することもできなかった。
  ・・
 2004年秋,セントヘレンズ火山の活動は再び活発化した。9月23日ごろ,山頂においてマグニチュード1未満の微小地震が約200回にわたって連続して発生し,9月26日には,この群発地震を危険な兆候と捉えレベル1の警戒が発令された。地震の頻度は9月29日ごろに最大化し,1分間に4回の割合で微小地震が観測された。山頂の溶岩ドームからは水蒸気が立ち上り,警戒レベルが2に引き上げられた。
 10月1日になると水蒸気や火山灰の噴出がはじまり,噴煙は標高3,000メートルに達し,10月2日には,前日よりも強い爆発が起き,警戒レベルが最大レベルである3に引き上げられた。が,10月6日には警戒レベルは引き下げられた。それ以降も,山頂の新たな溶岩ドームは,1秒間に10立方メートルの割合で成長を続け,このペースで溶岩ドームが成長するならば,2015年にはセントヘレンズ火山の標高は1980年の噴火前と同じ高さに達するだろうと推測された。
 翌年2005年の3月8日,セントヘレンズ火山を再び大規模な火山活動が襲い,噴煙が海抜1万メートルにまで立ち上り,マグニチュード2.5の地震が観測された。5月5日,セントヘレンズ火山の山頂にできた新たな溶岩ドームは,最高点の標高が2,339メートルであると発表された。
 この溶岩ドームの活動は2008年1月に止まり,6月10日には噴火活動の終息が宣言された。
  ・・・・・・

 マウントセントヘレンズは火山灰や軽石などの噴出物が溶岩とともに円錐状に堆積した山で,複式円錐火山ないし成層火山とよばれる内部構造をしている。また,複数のデイサイトの溶岩ドームが崩壊してできた玄武岩と安山岩の層が含まれている。 
 マウントセントヘレンズから東に約55キロメートル行った地点には標高3,743メートルのマウントアダムス(Mount Adams)が,北東に約80キロメートル離れた地点には標高4,329メートルの最高峰マウントレイニー(Mount Rainier)が,また,南東に約95キロメートルの地点には標高3,429メートルのマウントフッド(Mount Hood)が位置している。これらの山々は飛行機に乗るととてもよく見えて,その山々の雪を被った頂きを上空から見ると,いつも感動する。
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 マウントセントヘレンズの北側に位置するレイクスピリットは,有史以前の噴火によって谷が堰きとめられてできた湖である。また,マウントセントヘレンズからは3本の河川が流れている。それらは,山の北側から北西側に流れるトートル川(the Toutle River),山の西側に流れるカラマ川(the Kalama River),山の南側から東側に流れるルイス川(the Lewis River)である。

◇◇◇
正代関,初優勝と大関昇進,おめでとうございます。
ずっとこのブログで書いているように,白鵬さえいなければ,大相撲はおもしろいのです。そんな横綱も全盛期を過ぎ,次の主役を求めて,相撲協会も懸命です。
もし,今,稀勢の里関が全盛期であれば,最強の横綱だったことでしょう。白鵬の全盛期と重なったのが不運でした。DSC_3747 (2)

💛

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●ウィンディリッジへ●
 ☆12日目 8月10日(月)
 今日は,セントへレンズ火山国定公園(Mount St.Helens National Volcanic Monument)に行く。
 標高2,550メートルのマウントセントへレンズは1980年に大噴火を起こした火山。それまでのお椀型の山がこの大噴火で崩れてしまった。この噴火跡を眺めるのが,この国定公園の楽しみである。
 アクセスルートは北西,北東,南の3か所あるが,南のルートは噴火跡が見られないので棄却して,1日たっぷり使って,北西のルートと北東のルートの両方向からアクセスすることにした。
 このふたつのルートは,それぞれ登っていくと最終の到着地点は距離的には近いのだが,このふたつの到着地点を結ぶ道路はないから,ふもとから別々に登っていかなくてはならない。

 朝,ホテルで豪華に朝食をとった。
 これを書きながら思うのだが,旅はほんの少しだけぜいたくすると憂いがなくなる。私は節約旅行をずっとしてきた。そのため,ホテルでは,シャワーでお湯が出なかったり,インターネットが通じなかったりすることはしょっちゅうだった。また,朝食サービスがなく,そうした場合に近くにカフェがなく朝食をとるのに困ったりもした。とはいえ,1泊8,000円程度と12,000円程度の違いにすぎないのだが。
 節約旅行をしていたわけは,今より「当然」若くお金もなく,しかし,いろんなところに行きたかったので,できるだけお金を使わないようにしていたからだ。そのおかげで,人が思うよりたくさんの場所に安価に行くことができた。
 そうした夢がかない,歳をとった今となっては,もっとゆったりと,そして,贅沢に旅がしたくなった。また,旅をしていると,またいつでもその場所に来ることができそうな気がするが,ほとんどの場合二度目はない。またまれに二度行ったところは,はじめて行ったときのときめきがない。だから,その一度というのがほとんどの場合は一生に一度のイベントなのだ。
 と,そんなことを思っていたら,コロナ禍で,本当に,どこにも行かれない日々が訪れてしまった。行きたいところにすべて行っておいて本当によかったと思うこのごろである。
  ・・
 余談だが,将棋でも,毎回タイトルの常連である超一流の棋士でもない限り,たまたま調子がよい棋士が何らかのチャンスでタイトル戦の挑戦者にでもなったときには,その機会はおそらくそれが人生で最初で最後の機会となるものだ。あとで振り返れば,そのときが人生最大のイベントだったと気づくであろう。しかし,挑戦者となった時点では,それが自分にとってどれほど貴重な時間であるかということに,さほどの認識がないものだ。
 何事につけてもおそらくそれと同じなのだろうから,その一瞬一瞬を大切にしたいものだと思う。

 さて,ホテルをチェックアウトして,セントへレンズ火山国立公園に向かった。
 まずは北東のコースからセントへレンズの山頂をめざす。山頂にはウィンディリッジ(Windy Ridge)という展望ポイントがある。そこまでの道は,インターステイツ5から東に国道12を走り,セントへレンズ火山を南に過ぎたところで,南に,州道25を南下,そして,登山道に入る。
 登山道は快適だが,まわりは火山の噴火による爆風で倒れた樹木が無残な姿をさらしていた。

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●チェホールズの町●
 ルビービーチからしばらく海岸線を南に走った国道101だったが,再び内陸側に入って,オリンピック半島の付け根に当たるノース湾(North Bay)の根っこにあるアバディーン(Aberdeen)という町を過ぎると道路は湾に沿って方向を東に変え,さらに,南東に国道12を進んでいくと,ついに私はインターステイツ5に戻ってきた。
 オリンピック半島を半時計周りにほぼ海岸に沿って4分の3周したことになる。
 インターステイツ5を少し南下して,今晩の宿泊先として予約してあったのは,インターステイツ5沿いのチェホールズ(Chehalis)という町の,昨日とはうって変わって豪華な新しいホリデーインであった。
  ・・・・・・
 チェホールズは人口8,000人ほどの,結構大きな町であった。かつてこの地に住んでいたネイティブアメリカンの人々は,この地を「砂の場所」(place of sand)または「砂の移動」(shifting sand)とよんでいたが,それを探検家は「Chehalis」と聞いたことからこの名になった。
 1873年に北太平洋鉄道が建設され,この町が鉄道の横の倉庫の周りの集落として作られはじめた。やがて,近くの森で伐採がはじまり,製材労働者が定住した。
  ・・・・・・

 インターステイツ5に入るまであたりは大草原で,今日の2番目の写真のように,遠くに原子力発電所のような怪しげな建物が見えた。
 それらは,このときは原子力発電所だとばかり思っていたが,今これを書きながら調べてみると,この辺りには原子力発電所はない。あれはいったい何だったのか,それは今も不明である。
  ・・
 ワシントン半島に行くまで,私は,ワシントン半島はシアトルに近いのでもっと都会かなあと思って気が進まなかったが,実際のワシントン半島は非常に田舎であることに驚いた。とてもいいところだった。シアトルに行って,さてどこか郊外に観光に行こうと考えると,だれも東側に目が行き,なかなか西側のワシントン半島には関心が向かないものだ。

 のどかだったオリンピック半島とは反対に,これから向かうポートランドまでは非常に多くの車が通る主要道路であるインターステイツ5を走ることになる。夢から醒めたような感じがした。
 ホテルにチェックインして,次は夕食であった。町はほどほど大きいのに,意外にもめぼしいレストランが1件も見つからなかった。レストランを探していくうちに隣の町に着いてしまった。そこにモールを見つけたので入ってみると中にサブウェイがあったので,仕方なくサブウェイで夕食をとることになった。
 私は,アメリカではサブウェイが嫌いで,ほとんど行くことがない。それは,注文がめんどうだからである。日本とは違って,お任せというものがなく,すべて,自分の好みでオーダーするのだが,パンを選べ,ドレッシングを選べといわれてもどんな種類のものがあるか知らないから注文が難しい。本当は,サブウェイは野菜も豊富だし,マクドナルドなんかよりもずっと健康的だと思うのだが…。

◇◇◇

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●美しいルビービーチ●
 国道101は,フォークスを過ぎ,さらに,オリンピック半島の北西の内陸をずっと走っていった。まわりは森林におおわれて単調ではあったが,日本の高原道路とは違って,とても美しかった。
 日本では,こんな山岳地帯の道路でさえ,「動物飛び出し注意」のような意味のない道路標識やらさびついたままになっているガードレールやら,そして,はげたままになっている道路の白線やらだらけで,まったく美しくない。

 さて,そうして内陸部を走っていた国道101だが,突然,太平洋の海岸に出た。そこはルビービーチ(Ruby Beach)であった。駐車場があったので,車を停めて,海岸まで歩いて行った。
 ルビービーチはオリンピック半島最南端のビーチである。オリンピック半島北部の海岸のほぼすべてのビーチと同様に,ルビービーチにも大量の流木が浜辺のいたるところにあって,壮観であった。日本のビーチはどこもかしこもゴミだらけだが,そうしたゴミはひとつとしてない。
 ルビービーチは砂浜にルビーのような結晶があることからそうよばれているという。富山県にもヒスイ海岸というのがあるのを思い出す。
 ビーチからは遠くに点在する島々が見えた。このビーチの美しい景色や沖合の島々は,国立野生生物保護区とオリンピック海岸国立海洋保護区によって保護されている。ルビービーチの北にあるホー川(Hoh Rover)は自然に恵まれているというが,行くことはできなかった。
  ・・
 また,ここは野鳥の楽園でもある。ムレや房状のツノメドリなどの鳥の大きな営巣コロニーがあるので,バードウォッチングにも最適な場所で,カモメ,白頭ワシなどの鳥が巣を作り,摂食しているのを見つけることもできるという。
 また,浜辺にはまざまな色のイソギンチャクが見られるのが海岸をハイキングする楽しみとなる。

 アメリカでは,いたるところにこうした大自然があり,すべて,保護され,美しく保たれている。観光をするには,きちんと決められた決まりがあり,キャンプをする場所などもしっかり規制されている。ゴミは捨ててはならないし,持ってきたものはすべて持ち帰るのがルールである。日本とは大違いである。アメリカ人は,夏になるとこうした場所に出かけて,自然を楽しむのだが,多くの人がアウトドアをするので,どこもけっこう予約をするのがたいへんなようである。
 私も,アイダホ州で3度キャンプをしたことがあるが,日本人の考えるようなオートキャンプとはまったく異なっていた。子供のころからキャンプを楽しむことによって,そうした習慣やルールが身につくのだろう。
 キャンプでは,朝は日の出を見て,食事を作り,お昼間はハイキングや釣りを楽しみ,夕方にまた食事を作り,夜は満天の星の下で寝る。そうした人生最大の楽しみを日本人は知らないし,日本にはキャンプをする場所すらない。

💛

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●セキウ,フォークスという町●
 今のようにインターネットが自由に使えたら,この旅でフラッタリー岬の先端まで行くことができたのに,実に惜しいことをした。
 思えば,私が頻繁に海外旅行をしたここ10年足らずの間,インターネットをはじめとする情報機器の進化はすさまじいものがあった。はじめのころは電話を借りるのもたいへんだった。それが今では iPhone 1台ですべてが賄えるようになった。
 特に,アメリカは日々進化していて,昨年のシステムが1年経つとまったく変わってしまう。新しいものを取り入れる力はすごい。それに比べると,日本は10年どころか30年何も変わっていない。これでは世界から遅れるはずである。
 今はコロナ禍で在宅勤務だの,オンライン授業だのといわれるが,コロナ禍がすぎれば,すべてなかったものとして元に戻ってしまうだろう。

 さて,この旅では,フラッタリー岬にいくことを断念して,私は,ネアーベイから州道112でオリンピック半島の北海岸に沿って南東に引き返し,途中で右折して州道113に入り,フォークス(Forks)という町で国道101に入って,オリンピック半島の西海岸沿いに南下して,次の目的地であるポートランドをめざすことになった。
  ・・
 州道112でオリンピック半島の北海岸に沿って戻るとき,左手の海岸には漁港が見られた。そこはセキウ(Sekiu)という変わった名前の集落であった。セキウは釣りやカヤック,バードウォッチング,ダイビングなどを目的とした人が夏に訪れる観光地として知られている小さな町である。
 セキウを過ぎると州道112は南に進路を変え,やがて,州道113に吸収され,さらに,州道113もまた,国道101に吸収されると,ソルドク川(Sol Doc River)にかけられた橋を渡る。橋を越え,南に,内陸の林の中を単調に走り続けると,やがて町が現れた。この町がフォークスであった。
 フォークスは人口が3,000人程度の町で,町の経済は地元の木材産業によって支えられていた。
 近年は小説「トワイライト」(Twilight)シリーズに関連した観光でも知られるという。「トワイライト」はアメリカの作家ステファニーマイヤー(Stephenie Meyer)による吸血鬼をテーマにした4つのファンタジー ロマンス小説のシリーズである。2005年から2008年まで毎年発行された4冊の本は,ワシントン州フォークスに引っ越したエドワード・カレン(Edward Cullen)という104歳の吸血鬼に恋をした少女イザベラ・スワン(Isabella "Bella" Swan)の 10代後半を描いたものだそうだが,私は読んでいないのでこれ以上のことは知らない。
 このように,フォークスは,現在,木材産業の衰退に伴い,観光業にシフトしているようだ。また,サケやニジマスを釣るスポーツフィッシャーに人気の目的地であり,また,オリンピック国立公園を訪れる人たちの玄関口ともなっているという。

💛

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●行くことができなかった岬の先端●
 レイククレセントを出て,さらにオリンピック半島を州道112を通って北側の海岸を西に,半島の北西の端まで行くことにした。
 私は,こうした半島を走ると,海岸線に沿って1周してみたくなるのだ。
  ・・
 アメリカ旅行をするようになる前,私は北海道に憧れていた。そして,北海道を海岸線に沿って車で1周することを企てた。しかし,北海道で海岸線が通れないのが,知床半島であった。ここは途中で道がなくなり,半島の真ん中を通る知床横断道路を走る必要があるのだった。知床半島を海岸に沿って行くためには,道なき道をクマに襲われるのを覚悟で2泊3日歩く必要があるという話だったが,私は冒険家でないから,そういうことはしなかった。
 走っておもしろかったのは松前半島と亀田半島で,ここはお勧めである。海岸に沿って1周するという目的でもなければ,函館から札幌に向かうのには,何も海岸に沿って遠回りして走る必要はないから,この道が作られた目的は,その海岸線に住む住民のためのものだろう。この追分ソーランラインという名前の松前半島を海岸線に走る国道228号線と,亀田半島を海岸線に走る国道278号線は,高台にかなり立派な道路が作られていて,景色がよい。
 私はこの半島の道を走った数年後に,同じ思いをしようと,今度は青森県の下北半島を海岸に沿って走ってみたが,これは,期待とはまったく違い,がっかりした。
  ・・
 その後,ハワイに行くようになって,日本人ばかりのオアフ島は抜きにして,今度は,ハワイ島,マウイ島,カウアイ島,モロカイ島といったそれぞれの島の周りを車で1周しようと企てた。
 しかし,ハワイ島こそほぼ島を周回する道路があったが,マウイ島は道路はあれどレンタカーでの通行が禁止されている部分があり,断念した。また,カウアイ島には一部道路がない。さらに,モロカイ島に至っては,海岸まで崖になっている部分がほどんどで,当然,周回などできなかった。
  ・・
 アイスランドに行ったときも島を1周しようと一度は考えた。アイスランドは北海道の1.3倍ほどの面積である。
 しかし,アイスランドは島の4分の3は不毛な土地でほとんど人が住んでおらず,車が故障でもしたらと思ったら怖くなった。せめて10歳くらい若かったら試みたかもしれない。結局,私は,島の4分の1程度しか走れなかった。

 さて,話を戻す。
 私が目指したオリンピック半島の北西の端の岬をフラッタリー岬(Cape Flattery)という。
 このとき持っていた地図で調べると,フラッタリー岬に行くにはオリンピック半島の周回道路から外れて,盲腸のように狭い道を走っていかなければならないようだった。が,実際は,道が続いているようないないような…。地図がいい加減でよくわからなかった。遠回りをしてでも行ってみようと試みたのだが,私は,ネアーベイ(Neah Bay)という町で道に迷ってしまった。
 ネアーベイのあたりは,道がアメリカにしては狭く曲がりくねり,ブレーキを頻繁に踏む必要があった。ネアーベイは岬に至る手前の北側の付け根の町である。ここからケープフラッタリーロード(Cape Flattery Road)という道を南西に行くと,今度は,岬に至る手前の南側の付け根の町ワアッチ(Waatch)に着いた。この道を走っていると,私と同じように,岬まで行こうという車らしき姿を頻繁に見かけたが,みなネアーベイやワアッチでウロウロしていた。
 結局,私は道が見つからずフラッタリー岬に行くことを断念して,ワアッチから再びネアーベイまで戻り,小さなレストラン「Warm House Restaurant」を見つけたので,やっと昼食にありついた。それがまあ,食べたハンバーガーが殊のほかスモーキーでおいしかったこと! こんなにおいしいハンバーガーをこれまで食べたことはなかったと思うほどだった。このレストランの駐車場から展望が開けていて,海の向こうにカナダのバンクーバー島が美しく見えた。
 レストランのウェイトレスに「フラッタリー岬まで行こうと思ったのだが」と話すと,「そう,岬までの道はないのよ。皆さんここでウロウロしている」といって笑っていた。
  ・・
 あれから5年。今では,当時はわからなかった情報が,インターネットで簡単に手に入る。
 調べてみると,フラッタリー岬の近くまで,ちゃんと自動車で行くことができる道路があるし,先端近くには駐車場もあるではないか。実は,この道路は,ネアーベイではなく,ワアッチから岬までつながっていた。が,そんなこと,この時代にはわからななった。レストランのウェイトレスが言っていたのは「ネアーベイからは岬に行けないよ」ということだったらしい。
 インターネットでは,フラッタリー岬の写真まで見ることができるではないか。そこで,フラッタリー岬の写真を今日の最後に載せておくことにする。しかし,行くことができると知ると,それはそれで,行けなかったことが余計に悔しくなる。惜しいことをした。そして,それを知ると行ってみたくなる。シアトルなぞ,普通なら行こうと思えば東京へ行くくらいの気持ちでどうにでもなるが,このご時世ではそれが実現するのはいつのことになるだろうか。

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💛

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●高い透明度を誇る湖●
 ハリケーンリッジロードを下って,ポートアンジェルス(Port Angeles)の町まで戻ってきた。途中,道路の端には多くのシカがいた。
 シカなど,今では日本でも山道を走ればいくらでもいるし,見通しの効かない道路の真ん中に立っていることもあってドキッとするが,この旅をしていた2015年のころは,今ほどシカを頻繁に見たことがなかったので,珍しかった。
 この翌年の2016年,ワシントン州から走ってモンタナ州のグレイシャー国立公園に行ったときの帰り道で,巨大なシカが私の運転する車に体当たりしたのも,今では懐かしい。思えば,これまで本当にいろんなことがあったものだ。今考えると危機一髪の出来事も少なくないが,すべてなんとか切り抜けてきた。そうしたすべてが夢のような気がする。

 ポートアンジェルスはオリンピック半島の北海岸中央部に位置する町で,半島における中心都市。人口は約20,000人ほどである。ここにはオリンピック国立公園の本部が置かれていて,国立公園への玄関口ともなっている。
 この町はアメリカとカナダの国境になっているファンデフカ海峡(Strait of Juan de Fuca)に面していて,山が海に迫る地形のため水深が深いのに加え,西側から東に向かって形成されている砂嘴が天然の防波堤の役割を果たしているので天然の良港となっている。
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 ポートアンジェルスから次に向かったのはレイククレセント(Lake Crescent)という湖であった。クレセントという名前のごとく,この湖は高い透明度を誇り,湖の底まで見渡すことができた。ここに着くころにはすっかり天気も回復していた。
 レイククレセントの最大水深は624フィート(190メートル)で,ワシントン州ではレイクシュラン(Lake Chelan)の1,486フィート(453メートル)に次いで2番目に深い湖であるが,湖全体の水深測量調査を実施した結果,1,000フィート(300メートル)を超える非公式の深度が測定されたという。
 なお,このあと行くことになるオレゴン州のクレーターレイク(Crater Lake)は最大水深1,949フィート (592メートル),日本では,田沢湖は430メートル,摩周湖は200メートルほどである。
 レイククレセントは藻類の成長を阻害する水中の窒素の欠如によって引き起こされる鮮やかな青い色と並外れた透明度で知られている。

  ・・・・・・
 レイククレセントは氷河が深い谷間を切り開いたときに形成された。
 1849年,ジョン・サザランド(John Sutherland)とジョン・エベレット(John Everett)がふたつの湖を見つけ,レイクサザーランドとレイクエベレットと名づけた。その後,レイクエベレットはレイククレセントと改名された。それは,1890年,Port Crescent Improvement Company が湖の近くに町を作ろうと宣伝し,M・J・キャリガン(M.J. Carrigan)がPort Crescent Leader を立ち上げてそれを後押しし,湖をレイククレセントとよんだことによる。
  ・・
 1937年,ハリー・イリングワース(Hallie Illingworth)というウェイトレスが行方不明になった。3年後,死後体重が減り死体が水面に浮いていたのを地元の漁師によって発見された。死体は氷点下に近い湖の温度によって完全に保存されていたが,彼女の肌は「アイボリー石鹸」とよばれる物質に変化していた。これは鹸化とよばれるもので,体脂肪と相互作用する湖水中のミネラルによって引き起こされたのである。彼女の夫であるモンゴメリー・ J・ "モンティ"・イリングワース(Montgomery J. "Monty" Illingworth)は殺人罪で有罪判決を受け,1951年に仮釈放されるまでの9年間,刑務所に留まったという。
  ・・・・・・

💛

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●標高2,000メートルを越えると…●
☆11日目 8月9日(日)
 今日は,オリンピック国立公園を見学しながら,オリンピック半島の北海岸に沿って北西の端の岬まで行く。
 その次の日は,岬からは西海岸を太平洋沿岸に沿って南下し,行きどまりのノース湾で入り江の湾岸にそって東に進み,オリンピック半島をほぼ1周したら,インターステイツ5に入って南下し,翌日にセントヘレンズ火山国定公園に行くことができるように,途中の町で宿泊するという計画であった。
 オリンピック国立公園は,アメリカ大陸の一番北西にあるオリンピック半島全体が国立公園になっている。半島の中央は2,400メートル級の山々が連なっていて,その外周をクルマで巡るというのが見学コースである。

 私が宿泊していたスクイムの街は半島の一番北東の町である。スクイムの町はとてもよいところだったが,私の宿泊したのがさえないモーテルだったのだけが残念だった。
 朝7時にチェクアウトして,まずはじめにオリンピック国立公園のハリケーンリッジ(Hurricane Ridge)という展望台に向かうことにした。この日の朝食はどこで何を食べたか,今では全く記憶にないが,あのモーテルに朝食がついていたとはとても思えないので,おそらく,この日は朝食ぬきで出発したのだろう。
  ・・
 今にして思うに,私がこれまでに行ったほとんどのアメリカ旅行は,かなり貧しい旅の連続であった。ともかく,何事も安価にするというのが私の旅の基本であった。
 そこで,宿泊する場所も,寝られればいいというところばかりだったから,相当にひどいところに泊まったことも少なくない。駐車場にコンボイがずらっと停まっているようなモーテルにはしょっちゅう泊まったし,隣部屋になったハーレーに乗ったおじさんたちと仲良くなったりといったこともあった。食事だって,夕食はハンバーガーばかりを食べていた。朝食ぬきだの,昼食抜きだの,あるいは,どこぞやのコンビニで菓子パンを買って,それをかじりながらドライフしただのということは日常茶飯事であった。
 だからこそ,私はお金もないのにアメリカ50州制覇という夢をかけ足で達成することが可能だったのだろうが,私の旅は普通の人が考える海外旅行とはかけ離れたものであった。しかし,この先,また再びアメリカを旅できるときがくるのなら,今度は,せめてもう少しは贅沢な旅をしてみたいものだと思う。

 さて,この日は,まず,スクイムから半島の北側を州道101で西に走って,ポートアンジェルス(Port Angeles)という町で南に左折してハリケーンリッジロード(Hurricane Ridge Road)を通って山へ登っていった。終点のハリケーンリッジ展望台は,ハリケーンリッジロードを一気に標高1,500メートルまで登っていくとあるが,道路のまわりは美しい山々が連なっていて,それを見渡しながらの運転はとても気持ちがよかった。スクイムのホテルを出たときは小雨が降るような天気だったが,さすがに標高が高く,展望台まで登りきるとそこは雲の上で快晴だった。気温は10度くらいでとても寒かったが,すばらしい展望を楽しむことができた。
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 この旅のあと,私は,頻繁にハワイを旅するようになり,ハワイ島の標高4,205メートルのマウナケア(Mauna Kea)の山頂にも2度登ったし,マウイ島の標高3,055メートルのハレアカラ(Haleakalā)にも数回登った。
 そのときわかったのは,どうやら雲というのは標高2,000メートルあたりの位置に発生していることが多く,その標高を越えると,雲の上に出て天気がよくなるということである。
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 ハリケーンリッジ展望台に到着した。
 ここにはレストランがあったので,朝食をとろうと考えた(らしい)。しかし,朝早すぎて,まだ,レストランは開いていなくて中に入ることができなかった。

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●すばらしきアメリカの小さな町●
 スクイム(Sequim)は人口約4,000人の町である。スクイムはラベンダーの生産地として知られているということだが,私がこの町に滞在したわずかな時間では,ラベンダーを見る機会はなかった。近年は退職者を中心に急激に人口が増加し,往年ののどかな田園都市的性格を失いつつあるそうだが,アメリカのこのような町はどこもそんな感じがする。
 「思い出は美しい」というが,実際,どう考えても,私がアメリカを旅しはじめた20年前のころのほうが,大都市の治安以外は,いろいろな面で今よりずっとよかったように感じるのは,やはり,「思い出は美しい」からだろうか?
 しかし,退職者が住みたいと思えるような静かな町があるだけ日本よりよいと思う。日本では退職後に住んでみたいというような町は皆無である。スクイムのあたりによい働き口が多くあるとは思えないが,退職者にとれば,シアトルなどの大都会よりずっと過ごしやすいように感じる。
 この地はオリンピック山脈の影響で乾燥していて,年間降水量が少ないということだ。確かに私が行ったときも晴れ渡っていたが,雨の多いシアトルとは大違いだから,これだけでも過ごしやすそうだ。
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 今,この町について書いていて,なんだか,とてもいい町だったなあ,などという感慨にふけるるのだが,それは何もスクイムだけでなく,このようなアメリカの小さな町すべてに私が抱く感情である。
 日本の地方都市はどこもさびれてしまっていて,しかも,気の利いたレストランなどもほとんどないか,駅前には古びた飲み屋があったり,あるいは,それが閉店したままになっていたりして空き家だらけでさえない。こうしたアメリカの小さな町は日本には存在しないのである。

 私がスクイムに滞在したのは偶然土曜日であった。
 スクイムの小さなダウンタウンの中心にあるシティホールプラザでは,スクイムファーマーズ&アーティザンマーケットが5月から10月まで毎週土曜日に行われるという。
 この晩も,シティホールプラザは全く盛り上がりに欠けるススクイムファーマーズ&アーティザンマーケットの真っ盛りであった。というより,もともと町民が少ないから,こんなものだ。
 スクイムに限らず,アメリカのこうした小さな町では,住んでいる人たちが三々五々夕暮れになるとこうした場所に車で集まってきて,のんびりと過ごす。駐車するスペースはいくらでもある。私はこれまで,多くの町でこうしたものを見たことがある。そして,いつもうらやましく思った。日本だと,お盆のころにお祭りをやるが,やたらと屋台が並び,混み合っていて,しかも,終わった後はゴミの山である。
 こうした集まりには暗黙のルールがあるようで,騒音公害になることもなければ,終わった後にゴミだらけになることもない。また,ちゃんと午後9時になると終了して,めいめい挨拶を交わして車に乗って帰っていく。私も混じって楽しむことにした。ステージで歌っていたカントリーはすごく上手だった。こういうのが日本にはないすてきな人生の過ごし方だと思う。
 終了後ホテルに戻ってテレビを見た。放送されていたのは,あの,伝説になったサイモン&ガーンファンクルのセントラルパークコンサートだった。かつて,こうした音楽を聴いてはアメリカに憧れたこともあったなあと思った。今,実際,そのアメリカにいる,と思うと胸が熱くなった。

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●トレーラーハウス●
 食事を終えて,今日の宿泊先にチェックインをしようとしたのだが,このモーテルを予約したのは失敗であった。この町に着いてみたら,私が予約したものよりもずっと立派な全国チェーンのモーテルが多数あって,事前に予約しなくともどこでも泊まることが可能だったからだ。
 私がアメリカ旅行をはじめたころは,いつも当日ホテルを探して直接フロントで交渉して宿泊したものだった。今でもそれで問題ないのだが,エクスペディアなどで事前に予約ができるようになったことで,その方がホテルを探す手間がないので,事前に予約するようになった。それでも,全国チェーンのホテルならまず無難だが,そうでない場合,失敗することが少なくないのだ。もっともあてにならないのが口コミで,あんなもの,いくらでも操作ができるから参考にしないほうがいい。

 この日予約したホテルは,まず,フロントに人がいなかった。そして,いないときは電話をしろと書かれていたが,これが面倒なのだ。そもそも,日本からやって来て,気軽に電話などできるものではない。いまでこそ自分の持っているスマホでなんとかなるが,5年前はそうではなかった。
 なんとかスタッフが見つかったのでよかったが,これで,テンションがかなり下がってしまった。そして,別の多くの立派なホテルを見て,後悔した。
 旅というのは宿泊するところでずいぶんと印象がかわる。そして,それが,その国に抱くイメージにまで影響するのだから,ホテルというのはかなり責任重大なのである。
 私がいまでもアイスランドによいイメージを抱かないのは,すべて泊まったモーテルのひどさが原因であった。あれは本当にひどかった。そもそも,アイスランドのような観光後進国に,アメリカやオーストラリアのようなホテルを期待した私の方が悪かったかもしれないのだが。
 そういえば,ニュージーランドも,ホテルに関してはやはりまだ,観光後進国といえる。もちろん高級ホテルに宿泊するのなら,どの国も問題ないのだが,私のように,安価で民宿に毛がはえたような場所に泊まろうとすると,それが顕著なのである。
 おそらく,日本に来る外国人も同じであろう。高級ホテルならまったく問題はないだろうが,やたらと高価である。
 ビジネスホテルなら,部屋が異常に狭く,バストレイもまた,牢獄のように感じるだろう。また,温泉宿は外国にはありえないシステムだ。民宿程度の旅館やら民泊,さらにゲストハウスとなると,いったいどういった感想をもつのだろう。ただし,日本では,やたらと外国人に親切だから,私が海外で困るようなことは起きないかもしれない。

 ともかく,この旅では最も悪いホテルとなってしまったが,これも天災と考えることにしょう。晴れの日もあれば嵐の日もある。
 どうにかチェックインを済ませ,町を散策することにした。
 ホテルの裏はトレーラーハウスが並んでいるエリアだった。アメリカの町には大概どこも,こうしたトレーラーハウスが並ぶエリアがある。それは,日本でいう古びた長屋のような場所である。特に治安が悪いとは思えないが,低所得者が住んでいる感じ満載なのである。それでも,ぼこぼこの中古であっても車はあるし,雑草が生い茂っていても庭もある。こういう家を見ていると,アメリカという国に生まれて,こうした家に住んで生活する人のことをいつも考えてしまう。
 私にはこうしたところに住む友人がいないのでその実態はよくわからないし,アメリカに住む友人たちに聞いても,トレーラーハウスの並ぶエリアがどういう場所なのか,どういう人が住んでいるのかよく知らないという。その実態は今も,私には謎である。

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