これまでに書いたようにして,私は,2013年夏のアメリカ旅行を楽しんできた。
久しぶりに行った東海岸は,アメリカののどかな中西部とはまた違った刺激があったし,これまでの自分の人生を振り返ることもできた。
この旅から帰って,
・・・・・・
また,メイン州の片田舎で,のんびりと大西洋と真っ青な空を眺めていたい。
ボストンからモントリオール・オタワまで,初秋の紅葉を眺めながら,ドライブがしたい。
今度こそ,ホワイトマウンテンズでコモ鉄道に乗ってみたい。
フェンウェイパークで上原浩治投手の勇姿を見てみたい。
年に一度は,ニューヨークに行って,世界で一番新しくて,そして,一番刺激的な大都会の空気に触れていたい。
・・・・・・
そう思うようになった。
私は,20代のころは,毎年のように北海道を旅して,まっすぐに続く道をドライブしては感動していた。海辺の小さな町で,潮風に吹かれていた。しかし,アメリカを知ってしまってからは,残念ながら,北海道の雄大さには,魅力を感じなくなってしまった。
30代のころは,毎月,京都や奈良に出かけては,四季折々の景色や,日本の深い歴史に心を打たれ,自分の未熟さを感じたものだった。
そして,40代は,東京へ出かけては,クラシック音楽のコンサートや,世界各地からやってくる美術展に足を運び,多くの名演奏に接し,名画を見た。
・・
そして,今。
私の心には,京都や奈良の文化や伝統の偉大さは,今も枯れずに大切に残っている。
これは,日本が世界に誇る財産である。しかし,大都市東京には,魅力を感じなくなった。確かに,東京には,世界中のなにもかもがあるかもしれないが,渋谷や池袋の雑踏とけたたましい騒音,そして,あまりに多すぎる,他人を押しのけて壁を登るような人の群れと,アクロバティカルな車の洪水。
それに比べれば,ニューヨークの人を引き付ける圧倒的な迫力と陽気さって,なんなんだろう。そして,ボストンの郊外,タングルウッドの夢の世界。
私は,途方もなく素晴らしい世界を知ってしまったようだ。
この後の人生は,1年でも長く健康でいて,自分の足で,何度も何度も,そんな世界に触れてみたい。どうやら,私のこころの中には,また,新しい夢が生まれてきたようだ。
カテゴリ:アメリカ合衆国旅行記 > 旅行記・2013夏
2013アメリカ旅行記-夢がかなった旅の終わり⑤
やがて,搭乗する時間になった。デトロイト便は,通路を歩いて地上から乗り込むようになっていて,ニューヨークとは思えないほどであった。まるで,日本の田舎の電車の駅のようであった。
滑走路に飛行機が停まっていて,タラップがあった。通路を出て,タラップに向かうとき,夏の日差しがまぶしかった。
やがて,タラップから乗り込んだ。
私は,2004年の夏,モンタナ州で交通事故に会い,足を骨折した。その2年後完治して,私は再びモンタナ州の小さな町ビュートを訪れた。そのビュートの飛行場からシアトルに向かったときも,こんな感じだったなあと,その時思い出した。ビュートの飛行場から見たモンタナ州の大地が美しかったことを昨日のことのように覚えている。
今回もそのときと同様に,小さな飛行機だった。
ニューヨークからわざわざデトロイトに行くなんて,デトロイトがデルタのハブ空港だからなのであって,それほど利用客があるとも思えなかった。
飛行機が離陸して,空から見たニューヨークの景色は,とても美しかった。
ニューヨークは大都会だが,少し郊外に出れば,森と湖に囲まれていて,自然が一杯のところである。32年前にはじめてこの景色を空から見たときは,その緑の多さにびっくりした。日本では摩天楼と犯罪ばかりのニューヨーク,と思っていたのに,空から見たのは,そんな人間社会をあざ笑うかのような大自然の雄大さだった。
この旅では,これまで空から見ただけだった,そんな風景さえもドライブすることができんたんだなあ,としみじみと思った。
やがて,飛行機はデトロイトに到着した。
降りたのは,いつものコンコースAではなく,コンコースCだった。ここからずいぶんと長い地下通路を歩いてコンコースAに行った。通路は,虹色の照明が次々に変化して,とても美しかった。
デトロイトの空港では,日本食レストラン「空」でちらし寿司を食べた。
日本の味であった。
そうこうするうちに,デトロイトからの帰国便に乗り込む時間になった。
デトロイトから名古屋に行く帰国便は,さらに,名古屋からフィリピンのマニラまで行くことから,東京・成田へ行く便とは違い,いつものように,乗客の多くはフィリピン人で,日本人はほとんどいなかった。
今回は,めずらしく,空席が少なからずあった。
通路を隔てた中央の4席には,単身赴任の旦那さんに会って帰国するところであった女性と2人のかわいい子供が座っていた。
1年前のノースダコタ州からの帰国のとき,この帰国便に乗るときは,非常に憂鬱であった。
しかし,今回の帰国便は,座席がリニューアルされていたこともあって,また,比較的空席があったこともあって,とても新しく,気持ちがよかったので,憂鬱な気持ちは全くなかった。
それよりも,きっと,夢がかなったという満足感が強かったこともあるのだろう。
今回の旅は,こうして,無事,終わりを告げた。
32年,私の半生が,こうしてつながったのだった。
ほんとうに幸せな旅であった。
日本時間の午後6時少し前,飛行機は日本に到着した。中部国際空港のバッゲジクレイムにいた係の女性は,日本人らしくなく,心から愛想がよかった。話をしていたら,私の書いているブログの話題になった。私は,ぜひ,見てくださいね,と言った。
最後まで,気持ちのよい旅であった。
◇◇◇
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2013アメリカ旅行記-夢がかなった旅の終わり④
☆11日目 7月30日(火)
ついに,帰国の日が来た。
10泊12日の旅では,実質,観光に使えるのは9日しかない。つまり,実際の日にちより3日も少ないことになる。
帰国便の出発は,朝7時45分であったから,午前5時30分にはホテルを出発しなくてはならない。
心配していた朝は,何の問題もなく起床できた。
時間が早かったが,さすがに,空港に近いホテルだったので,朝食は朝の5時からとることができた。アメリカでも,これくらいの心配りはできるみたいだ。
このホテルは,ことのほか豪華で,食堂はフロントを眼下に見渡せる2階にあった。しかも,ひろく,清潔で,素敵なことろだった。
食堂のテレビではCNNをやっていた。私が日本で毎晩見ているのと同じ番組であった。ただし,当然,時間だけは日本で見るときは夜の7時だから,11時間も違ったけれど。
それは,「NEW DAY」という番組だった。「NEW DAY」,いい言葉だ。私の大好きな言葉だ。
アメリカ人は,何か辛いことがあっても,新しい日が来ると,昨日は昨日,「NEW DAY」だというそうだ。どこの国に生まれても,それが日常の生活になるとストレスがある。
朝食を終えて,部屋に戻り,カバンをもって,ホテルのチェックアウトをした。
シャトルバスは5時過ぎにはすでに空港に行く宿泊客を待っていて,ホテルの玄関に停まっていた。
あわただしく,私を含めて数人が乗り込んだ。
私は,これからジョン・F・ケネディ国際空港へ行って,デトロイト行の便に乗り,デトロイトで乗り換えて,日本に帰国することになる。
ジョン・F・ケネディ国際空港は,さらに拡張工事をしていたので,デルタ航空のターミナルが変更になっているかもしれないから注意しろと書かれてあったが,特に変更になっているわけでもなかったので,通常のデルタ航空のターミナルで降ろしてもらった。
ターミナルは,早朝だというのに,すでに,多くの客でごった返していた。
こんなとき,閑散としたノースダコタ州のビスマルクの空港が懐かしい。
空港で,自動チェックインを済ませ,カバンを預けて,セキュリティを通り,待合室に入った。
デトロイト行の搭乗ゲートに通じる待合室は新しく,また,コンパクトであった。
ファーストフード店や土産物店も,小さなものがいくつかあるだけで,日本の空港のようであった。
待合室の座席には,iPad がたくさん並んでいて,自由に利用することができた。私は,自分のブログを見たり,ブルックリンのホテルを探してさまよった場所をグーグルアースで調べたりと,この旅のことをいろいろと思い出しながら,iPad を使って搭乗時間までの時間をつぶしていた。
もう,カバンを預けてしまったので,あとは,日本に帰国するだけになってしまったことが,さみしかった。でも,今回は,帰国する憂鬱さよりも,この夢がいっぱい詰まった旅をなし終えた充実感で一杯であった。
これを書いている今にして思うのだか,この旅は,私がアメリカという国に夢をもち,あこがれを抱き,そしてそのすべてがかなった最高の旅になった。そして,自分の人生を思い出すのに十分な旅になった。今でも,また,アメリカ旅行にはもちろん行きたいが,この旅で,私がアメリカに私が抱いていた長年の夢はほとんどすべて実現したことで,夢からは覚めてしまった。
このことだけがとても寂しい。
夢がかなった旅の終わりであった。
2013アメリカ旅行記-夢がかなった旅の終わり③
地下鉄を降りて,ジャマイカセンターにあるカフェテリアで夕食をとってから,さらに,エア・トレインに乗り換えて,ホテルへのシャトルバスの出ているターミナルへ戻り,ホテルに電話をしてシャトルバスをよんだ。
ニューヨークの夕日がきれいであった。
シャトルバスが来るまでしばらく待ったが,やがて,シャトルバスが到着して,ホテルに帰った。
先にも書いたことであるが,こうして,空港に近いホテルを予約しても,そこからマンハッタンに出かけるのは,このように結構不便なことだから,地下鉄沿線のホテルを予約するべきなのである。
さて,最後の夜である。
明日の朝,ぜったいに寝坊をしないために、目覚ましを三つ用意した。
ひとつは,携帯電話(ガラ携)の目覚し機能である。もうひとつは,現地でネットに繋ぐために持っているiPod-touchの目覚し機能である。そして,最後に,携帯した小さな時計の目覚ましであった。
さらに、それに加えて,ホテルの部屋にあった時計もめずらしくちゃんと機能したので,目覚ましを設定した。
アメリカのホテルにはどこにもよく似た目覚まし時計がある。設定した時刻になるとラジオが起動するものである。しかし,それらは,あるときは壊れ,また,時間が合っていないなど,うまく機能しないのは,私の泊まるような安価なホテルでは,日常茶飯事なのである。
また,今回は問題はないのだが,アメリカには時差があって,旅先で現在の正しい時間がなかなかわからないこともあるので注意が必要なのだ。テレビを見ていても,四つの標準時が表示されるだけなのだから,日本のように,今いる場所の正しい時刻がわからない。もし,たとえ1時間であっても勘違いしていたら,飛行機に乗り遅れてしまう。
そんなわけだから,それに夏時間との切り替え日なども重なると,現地に住んでいる人でも大変であろう。現在,こうしたとき、もっとも役立つのは,GPSを利用して自動的に切り替わるiPod-touchの時刻表示なのである。
モーニングコールを頼んでもよいのだが,これも曲者で,頼んでおいても電話がかかってこないことすら,これまでに経験したことがある。
私は,どう考えても,朝,寝過ごすなどということは考えられないのであるけれども,人生でたった一度だけ,アリゾナ州のフェニックスで,それも,アメリカに着いたばかりで時差ぼけがひどいときならともかくも,もう帰国するという日の2日前に,ぐっすりと眠ってしまって,目覚めたらその日が半分終わってしまっていたという経験をしたことがあるものだから,それが,いつまでもトラウマになっているのだった。
さて,あすの朝の準備も終わったので,あとは,時間通りに起きるばかりになった。そして,朝が来れば,この旅も終わりである。
◇◇◇
余談だが,この春に行った別のアメリカ旅行では,サンアントニオからの帰国便の出発時刻は,早朝の午前7時10分であったから,空港には午前5時には到着しなくてはならなかった。
このときは,この旅以上に苦しかった。今回と同様に,多くの目覚ましを用意したのだけれども,それとは別に,テレビの下に目覚ましとは関係のない時計があって,その時計が2時間も時間が違っていたものだから,夜中に目覚めた私は,真っ先にその時計を見て、もう起きる時間だと勘違いをしてしまったのだった。
一旦起きてしまったら,それ以後,寝るに寝られず,大変な思いをしたのであった。実際は,まだ午前2時であったのに…。
2013アメリカ旅行記-夢がかなった旅の終わり②
そうこうしているうちに,トイレに行きたくなった。車で旅行をしていれば,ガソリンスタンドを探せばいい。アメリカでは,ガソリンスタンドにコンビニが併設されている。
しかし,徒歩の場合、どうしたらいいのであろうか。
実は、昨日の夜景ツアーで集合したグランドセントラルステーションのホテルで,宿泊者以外にトイレが利用できなくて困ったことがあった。大都会ニューヨークでは,いくら治安が良くなったからといって,トイレにさえ困ってしまうことがあるのだ。
困りながら歩いていると,公園があって、トイレがあった。しかし,あいにく使用中であった。
うんざりしつつさらに歩いていくと,どうやら、そうしてたどり着いた場所はブルックリンハイツの辺りであった。
ここは,昨晩、マンハッタンの夜景ツアーで来た場所であった。この一角に公衆トイレがあったのを思い出した。
夜景ツアーも,昔は,このブルックリンハイツのあたりは治安の悪いところで,ツアーでなければ,この有名な摩天楼の夜景を見ることは困難だったのだけれど,今や,ブルックリンハイツ自体高級住宅地だし,こうしてブルックリンブリッジを歩いてくれば,ツアーに参加しなくても夜景を見ることもできるのだということを,このとき知った。
私は,ブルックリンハイツをさらに少し歩いて,やっと地下鉄を見つけた。
というよりも,実際は,乗りたいと思っていた地下鉄,それが何ラインなのかは覚えていないけれど,その地下鉄が走っている線路を見つけたのだ。しかし,そのラインの乗り場を見つけることができなかった。そこで,さらにしばらく歩いて,やっと別のラインの駅の入口を見つけたのだった。
そうして,そのラインの地下鉄に乗って,途中で乗り換えて,どうにかジャマイカセンターまで帰ることができたのであった。
今,そのときに写した写真を見ると,このあたりを高架で走るNラインの地下鉄が写っているが,私が乗った地下鉄は絶対にこれではない。Nラインではジャマイカセンターには帰れないのだ。
こうして地下鉄の駅を探している途中に消防署があったり,公園があったりと,さまよいながら歩いていたことは,それはそれでおもしろかった。思い出してみると,こうしたことのほうが,とてもなつかしく記憶に残っているのは不思議なことである。
このようにして,今回の夢のような旅の実質的な最終日は,無事に終わりを迎えたのだった。
ニューヨークといっても,これまではマンハッタンしか知らなかった。わずか数日の滞在であったけれど,こうして,ニューヨーカーのような気分になって,マンハッタンだけではなくて,ブルックリンも歩きまわることができたことは,本当に楽しかった。
江戸っ子が東京の浅草や三軒茶屋のようなところを気ままに歩くような,そんな気持ちになることができた。今これを書きながら,そのことを思い出すと胸が一杯になってくる。若いころにあこがれたアメリカがやっと手に入ったような気がするのだ。
さあ,これで,この旅も終わりである。
あとは,明日早朝の帰国便に,絶対に乗り遅れないようにしなくてばならない。実は,これが今回の旅の最大の懸念事項なのだった。
2013アメリカ旅行記-夢がかなった旅の終わり①
人生には意外性がある。
思えば,私が生まれてはじめてニューヨークにひとり旅をした32年前の若さを,今の自分が嫉妬する。
今よりも英語もできず,しかも,治安の悪いニューヨークだったのに,どうしてあのように多くの思い出を残して旅ができたのか,今考えても不思議なことであった。
そして,それから,あっという間の32年が過ぎた。
その間,仕事で楽しかった思い出など,ほとんどない。おまけに,私には「悪夢の2007年」があった。この年,一生分の不幸が自分の身に降りかかった。
結果的に,私は,そのときに仕事を辞め,「社会的な通念である人生」からは落伍した。ある人には見捨てられ,そして,別のある人には救われ,なんとか生き延びることができた。そして,その結果,価値観も変わり,「社会的な通念である人生」というのもには,なんの未練も価値観も持たなくなった。
だからこそ,こうして,旅をすることもできたし,その結果,夢が実現したともいえる。
いったい,人は何のために生きているのだろうか。何を目指して生きているのだろうか。
「社会的な通念である人生」を精一杯生きている人を見ると,私はそんな気持ちになってくる。気の毒な限りだ。
私に不幸が襲ったとき,私を見捨てたある人たちは,彼らの人生の中で,その後に私の得た体験のうちのどれだけのものを手に入れることができたのであろうか。
彼らの人生に比べたら,私のほうが,ずっと幸せである。これだけは断言できる。
ともかく,私は,夢がかなって,ブルックリンブリッジを渡りはじめた。32年間のはるかな時間を渡るかのように。こうなれば,渡り切るしかない。渡り終わったその先がどうなっているのかは知らない。だけれども,引き返すことだけはしまいと誓った。
ブルックリンブリッジは,思ったよりも長く,結局1時間近く橋を渡っていたであろうか,それでも多くの人が私と同じように橋を渡っていた。
遠くには自由の女神も見えて,そうして,やがて,マンハッタンの摩天楼がだんだんと小さくなってくるころ,ようやく橋の終わりになった。
橋を渡り終わって,私は途方にくれた。
橋を渡り終えると,そこまでは徒歩で渡っていた人が大勢いたのに,どこへ行ってしまったのか,急に人が少なくなった。いったいこの後,私はどうしたらいいのであろうか。
MLBを見終わったときも同じことを思うのだが,あれだけの人はいったいどこへ行ってしまうのであろうか。
しかし,私には,もう一度ブルックリンブリッジを逆に歩いてマンハッタンに戻るような元気は,もう残っていなかった。
今晩宿泊するホテルは,ジョン・F・ケネディ国際空港の近くだ。ここブルックリンでも,どこか近くには地下鉄の駅があるだろう。そして,そこまで行くことさえできれば,ホテルに帰ることができるだろうと思った。そこで,ここから一番近い地下鉄の駅を探した。持っていた地図によれば,それほど遠くないところに地下鉄の駅がありそうだった。
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び⑨
ニューヨーク観光も,いよいよクライマックスであった。
暑さでずいぶんと疲れていたが,そのまま私は,ウォール街まで歩いて行った。
実は,この旅で最大の失敗は,履いて行ったスニーカーがほほ新品であったにものかかわらず,すでにボストンで中敷きがダメになってしまったことであった。私は,それ以来,サンダルを履いていたのだが,足に合わず痛くて,しかも,ずいぶんと歩いたおかげで,サンダルも底がすり減って,崩壊間近であった。
家に帰ってから気がついたのだが,私の両足の中指のツメが内出血をしていて,爪が真っ黒になっていた。
帰国後,これが治るのに5か月も要したほどであった。
そんなこともあって,ニューヨーク観光など,もうどうでもよくなってきていたのだけれど,ウォール街まで来てみると,目の前にブルックリンブリッジがあるのを見て,最後の闘志がわいてきた。
昨日,夜景ツアーでこの橋を車で渡ったときに,橋の外側が工事の塀で覆われていたので,また今回も渡ることができないんだなあ,と残念に思ったことだった。しかし,それは私の早合点であった。
このことも,すでに,このブログに書いたが,32年前に来たときは,八神純子さんがJALPAKのコマーシャルで,「パープルタウン」の流れる中,ブルックリンブリッジを自転車で駆け抜けるシーンにあこがれてニューヨークに来たようなものであった。そして,その時は,なんという不運か,前日ブルックリンブリッジのワイヤが1本切れたとかで,通行禁止になってしまっていたのであった。
私は,そのときの旅で,ブルックリンブリッジまで歩いてきて,橋を目の前にして,雨が降りはじめたことを昨日のことのように思い出す…。
多くの観光客がブルックリンブリッジを目指して歩いて行くところであった。
ブルックリンブリッジの徒歩での上り口までの距離は,私のいるところからはずいぶんと遠く思われたが,きっとこの機会を逃したら,一生,もうブルックリンブリッジを徒歩で渡る機会など訪れないだろうと思った。いくらブルックリンブリッジがここから遠いからといって,日本までの距離とは比べ物にならないであろう。当たり前の話だけれど。
そんなわけで,私は疲れた体に鞭を打ち,崩壊寸前のサンダルを励ましながら,ブルックリンブリッジをめざずことになったのだった。
ブルックリンブリッジに登ってみると,思ったよりも多くの観光客が対岸のブルックリンを目指して歩いていた。ある人は写真を撮り,また,ある人は自転車で駆け抜けていた。私は,歩きながら時折マンハッタンの方向を振り返るのだが,マンハッタンは摩天楼がまもなく夕方を迎える太陽で美しく輝いていた。
私は,このようにして,ほとんどめげてはいたけれども,どうにか,やっと,ブルックリンブリッジを歩いて渡る,という,ここに来るまでほとんど忘れかけていた32年前の青春の夢が,きょうやっとかなったことに,涙が出てきて止まらなくなった。
本当に,今回の旅では,多くの,これまでやりたくてやりたくてしかたがなかった夢がほとんどかなったのであった。
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び⑧
バッテリーパークまで歩いて行くと「STATUE OF LIBERTY IS OPEN」と書かれた横断幕があった。
そういえば,自由の女神は,しばらく補修で観覧ができなかったが,近ごろオープンしたということを思い出した。私は,生まれてはじめてアメリカをひとり旅したときにGRAYLINEのニューヨーク市内観光ツアーに参加した。それは,今となっては懐かしい思い出で,当時の情熱を,とてもうらやましく思うが,そのとき,バッテリーパークでバスを降りて,ある一定の時間が与えられて,ツアー客のそれぞれが勝手にリバティ島までフェリーで渡り,自由の女神に昇り,そしてバスに戻った。どうして,そんなことができたのか,今となっては不思議な気がする。
現在のように,これほど混雑してしまっては,それは到底無理なスケジュールであろう。しかも,そのとき,私は,自由の女神の王冠のところにある展望台まで登ることも容易にできたのだった。
今から32年も前のアメリカは,今よりも行くのが大変だったけれども,今ほど観光地も混雑しておらず,よい思い出が一杯できた。確かに,今よりも都市の治安ははるかに悪かったけれども,テロのような別の心配はほとんどなかった。
そんなわけで,私は,自由の女神もエンパイアステートビルも,今回の旅行でぜひ行ってみようというほどの気持ちはなかったが,ふと「STATUE OF LIBERTY IS OPEN」の横断幕を目にしたことから,リバティ島まで渡る気持ちになった。
チケット売り場は,思ったほど混雑しておらず,フェリーも多くの人が並んではいたが,少し待てば容易に乗ることができそうだったので,リバティ島に上陸するだけのチケットを購入した。
ただし,このチケットでは,自由の女神には昇れない。
多くの人でごったがえす桟橋に並んで,船に乗り込んだ。船から眺めたマンハッタンは,絶品であったし,32年前の記憶が昨日のように蘇ってきた。やがて,目の前に自由の女神が見えてきた。
リバティ島の外周を歩いて行くと,どんどんと自由の女神が近づいてきた。
一番近くまで来ると,道は,外周コースト自由の女神見学コースに分かれていた。私は,外周コースを1周して,再び,マンハッタンに戻る桟橋に出た。行きよりもずいぶんと多い人でごった返していてうんざりしたが,ずいぶんと並んで,どうにか船に乗ることができたのだった。
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び⑦
グランドセロは,新たなビルを建設しているところの向こう側に,「National September 11 Memorial」という広場があって,そこの中が公園になっていた。現地でもらった日本語のパンフレットには「9/11記念碑」と記されていた。
記念碑に入るには,かなり厳しいセキュリテイチェックがあった。入場料とでもいったものはなかったが,募金箱があって,それぞれが,自分の気持ちでお金を入れていた。私もお金を入れたと思うのだけれど,いくらいれたのかは覚えていない。
この中の様子は,すでに,昨年の9月11日にこのブログで書いたが,以前貿易センタービルが建っていた場所には,ふたつのプールが作られていた。「深さ30フィート」とパンフレットに書いてあった。そのプールの中央の深さ22フィートの滝に流れ落ちるようになっていた。また,そのプールの外壁には,同時多発テロで犠牲になった人たちの名前が刻まれていて,ところどころに,白いバラが挿してあった。
敷地内には,多くのスワンプ・ホワイトオークの木が植えられていた。すべてが完成すると400本以上が植えられることになるということだった。
これもすでに書いたことだが,その中に,1本だけ9/11で生き残った「サイバーツリー(生還の木)」というものがあって,それだけはマメナシの木だということであった。こうして,生き残った木は,人々の心の支えになることであろう。
この記念碑を出た所には,9/11博物館があった。
この博物館は,9/11当日の出来事や,背景,事件後の国内外の反応が記憶されていて,追悼展示が設けられているということであった。また,博物館のアトリウムには2本の鋼鉄製のトライデントが立っているのだという。その鋼鉄は今は亡きノースタワーの外観に使われていたものだそうだ。
この博物館は,入口の前に列ができていたことと,この日とても暑くてへばっていたこと,さらに,そんな疲れからこうした惨事までも見世物のように扱っていること,また,金儲けにしていること(けっこうな入場料であった)に腹を立てて中に入らなかったのであるが,今は,中に入らなかったことが悔やまれる。
新たな貿易センタービルは,このときすでに,ほぼ外観は完成していて,下の部分の完成を急いでいた。遠くからでもずっとそのビルを見ることができていた。完成すれば,新たなニューヨークの名所になることであろう。口の悪いアメリカ人は,「ANOTHER TARGET」だと言っているという物騒な話を聞いたことがある。
この日,ぜひ行きたかったところは,これで終わりだったが,それでもまだ,お昼前であったので,私は,そのまま,マンハッタン島の先端バッテリーパークまで歩いていくことにした。はじめてニューヨークに来た24歳のころを振り返っているかのようであった。
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び⑥
グラウンド・ゼロ(ground zero)とは,英語で「爆心地」を意味する語である。強大な爆弾,特に核兵器である原子爆弾や水素爆弾の爆心地を指す例が多い。
従来は広島と長崎への原爆投下爆心地や,ネバダ砂漠での世界初の核兵器実験場跡地,また核保有国で行われた地上核実験での爆心地を「グラウンド・ゼロ」とよぶのが一般的であった。しかし,アメリカ同時多発テロ事件の報道の過程で,テロの標的となったニューヨークのワールドトレードセンター(WTC)が倒壊した跡地が,広島の原爆爆心地を連想させるとして,WTCの跡地を「グラウンド・ゼロ」とアメリカのマスコミでよばれ,これが定着した。
・・・・・・
ワールドトレードセンター(世界貿易センター)は,ニューヨーク市マンハッタン区のローワー・マンハッタン(マンハッタンの南端)に位置していた商業センターであった。建設および経営にはニューヨーク・ニュージャージー港湾公社があたった。ここは「ワールドトレードセンター・コンプレックス」という5万人の勤務者と1日20万人の来館者のあるニューヨーク最大のオフィス兼商業センターであった。
コンプレックスは7つのビルによって構成されていたが,特にその中心であったツインタワーは,完成時には世界一の高さを誇り,2棟の巨大な直方体が並び立つ姿は,ニューヨーク市やマンハッタンのシンボルとなっていた。
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私は,これまで,2度,ここに来たことがあって,1度目は1981年,2度目は2000年であった。
1981年の時は,エレベーターで展望台まで上った。そして,2000年の時は混雑していて上るのをあきらめたが,まさか,その翌年に惨事が起こるなどとは想像もできなかった。
そして,2001年9月11日。9/11テロ(アメリカ同時多発テロ事件)によって崩壊した。
それ以降,この地は,「グラウンド・ゼロ」又は「ワールドトレードセンターサイト(跡地)」という呼び名が定着している。
私は,42ストリート駅から地下鉄Eラインに乗って,終点のワールドトレードセンター駅まで行った。そのときは,ワールドトレードセンターは倒壊したのに,どうして駅名だけ同じなのか,と不思議な気がした。考えてみれば,駅名を変える必要はないわけだから,別に不思議でもないのだけれど。
この日はすごく暑い日で,駅を出たときの日差しがきつかった。地上に出れば,すぐに目的地がわかるものだと思っていたが,例のごとく,アメリカは広すぎてどこがどうなのかよくわからなかった。ともかく,歩いていた人にグラウンド・ゼロはどちらかと聞いたら,ココがそうじゃないかという怪訝な顔をして,こっちだと方向を教えてくれた。八重洲ブックセンターあたりで東京駅はどっちだと聞いたようなものであった。
ところが,たしかに,その場所は,新しいビルを建設している場所ではあったけれど,逆方法を歩いたようで,目的地からはどんどん遠ざかってしまった。なにせ,建設現場なので,道が遮断されていたりして,思う方向に行けなかったのだった。しかたなく再び元の場所に戻って,どうにか,目指す方向を見つけた。
実際に行くまで,この場所がそのときどうなっているのか,私は知らなかった。
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び⑤
イントレピッド海上航空宇宙博物館をあとにして,次は,グランドゼロである。
特に急ぐこともないので,私は,ブロードウェイまで歩いて行った。
途中には,日本料理店やらベトナム料理店やらがあって,ランチ$11.99といった看板が出ていた。
ブロードウェイまではさほど遠くなく,まもなくミュージカル街が見えてきた。お昼間のブロードウェイのミュージカルホール街は閑散としていたが,私は,有名なミュージカルをやっているいろんな劇場を外から見て回ることにした。
なんといっても,この年の話題は,「マチルダ」と「キンキーブーツ」であったので,ぜひ,それを上演している劇場を見ようと思った。昨日見た「シカゴ」とか「オペラ座の怪人」とかを上演している劇場はすぐにみつかるのに,「キンキーブーツ」をやっている劇場が見つからない。ブロードウェイのミュージカルに関するグッズを売っているショップを見つけたので,中に入って,その劇場の場所を聞いた。こんなことを聞く人がいるのかしら,と思ったが,気持ちよく教えてくれたので,念願かなって,その劇場を見ることができた。
それにしても,ミュージカル大好き人間がニューヨークに来たら大変なことになると思った。これだけのミュージカルを毎晩上演しているのだ。それも,チケットは半端な金額ではない。
景気が悪いだとか,アメリカには往年の勢いがないだとか,世間はいろいろいうけれども,MLBにせよ,クラシック音楽にせよ,ミュージカルにせよ,これだけのものを毎晩楽しめる国が他にあるだろうか。
それに,一歩外に出れば,大平原や,奇想天外な風景やらが延々と続いている。
やはり,すごい国だ。ただし,よく考えてみると,アメリカに生まれたからといって,それほど国内の旅行ができるわけでもなく,ミュージカルが見られるわけでもないから,旅人の特権なのであろう。
しかし,私のまわりにも,ほとんど行ったことがないのに,アメリカへ行かず嫌いが少なからずいる。これだけのエンターテイメントとワイドビューを味わえる国は他にはない。私は,ヨーロッパにもオーストラリアにもロシアにも行ったことがあるけれど,アメリカのこのダイナミックな魅力を知らずしてアメリカ嫌いを自認する人を哀れに思ってしまう。
どうか,団体ツアーでの観光旅行でなく,一度,その足で,アメリカを味わってみてください!
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び④
夏休みということもあって,そろいのTシャツを着た小学生やら,観光客やらで,ゲート付近は結構な賑わいであった。しかし,チケット売り場の列が掃けるにはそれほど時間がかからず,館内に入ることができた。
まず,イントレピッドの最上階のフライトデッキまでエレベーターで上がった。
フライトデッキの一番奥に,7月10日にオープンしたばかりのスペースシャトルパビリオンという体育館を巨大にした建物があって,その中に,スペースシャトルが鎮座していた。私はもっと混雑を予想していたが,拍子抜けであった。それでも,機体に書かれたさまざまな表示やら,緊急脱出用の機器やらが妙に生々しかった。
スペースシャトル(Space Shuttle)は,当初は通常のロケットより1回あたりの飛行コストを安くできるという見込みでこの計画がスタートし製造されたのだが,実際の運用でチャレンジャーが爆発事故を起こしたり,コロンビアが帰還途中で空中崩壊したりと,発生した事故に対する安全対策が必要になって,当初の予想より保守費用が大きくなっていって,使い捨てロケットよりもかえって高くつくものになっってしまったので,2011年7月の飛行をもって退役した。
私は,第1回目の飛行のとき,ほんとうに宇宙船がグライダーのように着陸することが信じられず,深夜にテレビで着陸の中継を見て感動したことを覚えている。
一度は打ち上げを自分の目で見たかったが,それはかなわなかった。
スペースシャトルは確かにでかかったが,この国のスケールでは,何の驚きもなかった。なにか,おもちゃのようであった。確かに,このニューヨークに展示されているスペースシャトルも実際のスペースシャトルには違いがないのだが,地球を周回したものではないので,その分,リアルさに欠けた。
私は,できれば,将来,ワシントンかフロリダで,実際に地球を周回した本物を見たいと思った。特に,フロリダにあるアトランティスは,テレビのある番組で見たところ,飛んでいるような状態で展示がされているようで,ぜひ一度は見てみたいと思っている。
空いていたこともあって,このパビリオンで,スペースシャトルを前から後ろから横から,と,思う存分眺めることができた。小さそうではあるが,写真を写すと,広角のレンズで画角が一杯であった。私は,スペースシャトルと「セルフィー」しようと,スタッフに写真を撮ってくれるように頼んで,シャトルの前に立っていたら,ちょうど子供が通りかかったので,私は,その子供も招き入れて,一緒に写真を写した。
このパビリオンには,そのほかにも,ソユーズ宇宙船やら,スペースシャトルの説明やらといった展示品があって,このままもってくれば,なにかの国際博覧会の展示そのものにできそうであった。
そんなふうにして,のんびりとスペースシャトルを堪能して,パビリオンから外に出た。
フライトデッキからはナビゲーションブリッジにも狭い階段で上がることができた。そこは,イントレピッドの操縦室であった。これまでいろいろと見た船の操縦室と同じようなものであった。
それ以外にも,フライトデッキには,いろいろな戦闘機が展示してあった。私は,さほど,飛行機には興味がないのでよくわからないけれど,マニアにはたまらない展示に違いないであろう。
そのあと,階下のギャラリーデッキ,ハンガーデッキ,そして,一番下のサードデッキと見学した。ハンガーデッキにも,数多くの飛行機や,マーキュリー宇宙船(これはレプリカ)などが展示してあった。
それにしても,この国の博物館というのは,どこもスケールが違うし,展示してあるものの量が違う。これで,私は,ますます,日本の博物館にはいかなくなってしまうのであろう。
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び③
地下鉄に乗って,マンハッタンに向かった。
この日,特に見たいところは,スペースシャトルとグランドゼロであった。それ以外は,特に決めていなかった。
・・・・・・
スペースシャトル(Space Shuttle)は,アメリカ航空宇宙局(NASA)が1981年から2011年にかけて135回打ち上げた再使用をコンセプトに含んだ有人宇宙船である。飛行可能な機体は最終的には6機製造された。
初号機の「エンタープライズ」は,宇宙に行けるようには作られてはおらず,もっぱら滑空試験のためのみに使用されたので,実用化されたのは,「コロンビア」「チャレンジャー」「ディスカバリー」「アトランティス」「エンデバー」の5機である。
当初は,「エンタープライズ」も進入着陸試験が終了した後に実用機として改造される予定だったが,構造試験のために製造されたSTA-099を「チャレンジャー」に改造したほうが安上がりだと判断された。その「チャレンジャー」は1986年,発射から73秒後に爆発事故を起こして機体が失われてしまったために,機体構造の予備品として残っていたものを集めて,新たに「エンデバー」が製作された。また,「コロンビア」も,2003年に空中分解事故を起こして消滅してしまった。
退役後は,現在,「ディスカバリー」はワシントンのスミソニアン博物館の国立航空宇宙博物館別館,「アトランティス」はフロリダ州のケネディ宇宙センターの見学者用施設,「エンデバー」はロサンゼルスのカリフォルニア科学センターに展示されている。
「エンタープライズ」は,長年ワシントンの国立航空宇宙博物館別館に展示されていたが,すべてのスペースシャトルが退役したことで,「ディスカバリー」がこれに変わって展示されたために,現在,ここニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館に展示されたというわけである。
・・・・・・
1982年に開館したイントレピッド海上航空宇宙博物館(Intrepid Sea-Air-Space Museum)は,アメリカ海軍で使用されていた航空母艦「イントレピッド」を利用したもので,ここでは,艦船や航空機の展示を行っている。
ニューヨークのマンハッタン西岸・86番桟橋にあって,イントレピッド財団が運営を行っている。
空母「イントレピッド」は博物館の本館で,飛行甲板上には各種航空機が展示されている。
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退役後の空母「イントレピッド」を博物館として再利用されることが1982年8月に決定されると,船体はニューヨーク市マンハッタン中心部西46番通りの西端でハドソン川に張り出している86番桟橋に係留されて,イントレピッド海上航空宇宙博物館として生まれ変わり,多くの観光客を集めるマンハッタンの名所のひとつとなった。
しかし,築80年以上になるこの桟橋は老朽化が著しくて,構造強度の劣化から崩壊の可能性が指摘されると,2006年に,この桟橋を近代的なものに改築するのと同時に,イントレピッドにも補修改修工事を施すために,ハドソン川を約8キロメートル下ったニュージャージー州ベイヨンのドライドックへ一時移動させることになった。
ところが,24年間に堆積していた土砂にスクリューがとられて,離岸直後に座礁してしまった。
詳細な調査を行ったところ,もう少し堆積土砂を撤去すれば次の大潮満潮時に離礁させることが可能という結論に至って,ともかく,12月5日に離礁に成功した。
こうして,「イントレピッド」は,飛行甲板の修理,未公開エリアの整備,外装の再塗装などの補修改修工事が施されて,2008年秋に,新築成った86番桟橋に無事戻されて,博物館として再オープンした。
そして,2012年,スペースシャトル1号機「エンタープライズ」がイントレピッド海上航空宇宙博物館で展示された。
・・・・・・
イントレピッド海上航空宇宙博物館は最寄の地下鉄の駅がない。私は,50ストリート駅で降りて,そこから,のんびりと西に4ブロック歩いていった。
マンハッタンも,この辺りは観光地でないので,東京の錦糸町を歩いているようなものであった。
考えてみれば,この辺りは,あの,かの有名な「WEST SIDE」である。ここも,昔は,決して治安の良いところではなかった。それがなんという変わり方であろうか。
やがて,イントレピッド海上航空宇宙博物館が見えてきた。
☆ミミミ
日本はゴールデンウィーク。私も,若い頃はいろいろな所へ出かけたものですが,どこも混んでいて,結局,行く所はない,という結論になりました。あえて言うなら,海外,それも,日本人の行かない所なら。
というわけで,私の休日は天体写真撮影三昧です。満天の星を見て,夜明けのドライブ。自宅に帰ってコーヒーを味わうのは,最高の贅沢です。でも,今の季節は,午前4時にはもう東の空は明るくなります。
現在,北西の空,北斗七星のあたりに,パンスターズ彗星(C/2012K1 PanSTARRS)が見えています。これは,昨年明るくなったパンスターズ彗星とは別物で,この夏に5等星くらいに明るくなるといわれています。現在は9等星くらいですが,今日の朝は,M51・子持ち星雲に接近しました。写真を写しましたので,ご覧ください。左上がM51,右下がパンスターズ彗星です。
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び②
こんな朝早く,ホテルのシャトルバスに乗ったのは,私しかいなかった。すぐにホテルに到着した。すぐに,といっても,歩いていけるような距離ではない。ホテルのフロントで,予約をしてあることを告げた。予約してあったホテル,ベスト・ウェスタン・ケネディ・エアポートは,普通の全国チェーンのホテルで,別に高級ホテルでもないのだが,ブルックリンのひなびたホテルにいた私には,天国に思えた。フロントには,過剰警戒のガラスの覆いなどないし,高級感が満ち溢れていた。むしろ,マンハッタンの中心にあるペンシルベニアホテルのほうが,ずっとおんぼろに見えた。
ホテルでは,別段,チェックインはまだだとか言われず,フロントの係は首をかしげながらコンピュータの画面とにらめっとをしていたが,なんとか部屋が確保できて,私は,カバンの置き場所と今晩の寝場所を確保するのに成功した。フロントの係は,日本から来たのか? おれも居たことがある,と言った。私は「アーミーか」と聞いたら,彼は,「ネイビー」だと答えた。
部屋は広く,デラックスであった。心置きなくネットも使えそうであった。専用のパスワードがあって,チェックインのときにそれを教えてくれた。部屋に荷物を置き,いよいよきょうのニューヨーク観光である。特に,細かな予定は立てていなかったが,ぜひ行きたかったのは,スペースシャトルの本物を見ることであった。そのあとで,グランドゼロへ行こうと思った。
再び,ホテルからシャトルバスに乗り込んだ。朝早かったので,ホテルをチェックアウトしてそのまま空港に向かう人で,そこそこにバスは混んでいた。私は,このバスで空港のターミナルまで行って,そこからエアトレインでジャマイカ・センターまで行って,地下鉄に乗り換える必要があった。ここはアメリカだ。私は,地下鉄に乗るのだが,と言ってバスに乗り込んだが,バスの運転手は,このバスはターミナルまでしか行かないがそれでいいか,と聞いた。もちろん私は承知で乗り込んだが,おそらく日本でこういう状況であれば,シャトルバスはジャマイカ・センターまでのサービスがあることだろう。
すでに書いたように,このように,空港に近いホテルというのは,便利なようで便利でない。
バスは,それぞれの客の乗る航空会社のターミナルをめぐっていった。
アメリカでは,航空会社によってターミナルが違うし,それぞれがものすごく離れているので,こうしたときに,どの会社の飛行機に乗るかと聞かれるから,アメリカを個人旅行する人は戸惑わないようにしてください。
私は,シャトルバスに乗った私以外のすべての客を降ろした最後になった。
やがて,私の降りる一番ジャマイカセンターに近いエアトレインのターミナルに着いた。なんだか,私のために余分に走ってもらったような悪い気になったので,降りるときに運転手にチップをあげた。本当はあげる必要はない。シャトルバスの運転手にチップをあげるのは,重い荷物を運んでもらったときである。だから,運転手は,ちょっとびっくりしていた。
ともあれ,このターミナルでエア・トレインに乗って,地下鉄の乗換駅であるジャマイカ・センターに着いた。
この駅にカフェテリアがあるのは知っていたので,そこで朝食をとった。
2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び①
☆10日目 7月29日(月)
ついに,最終日になった。
実際は,あと2日あるのだが,あすは,早朝,帰国便に乗るだけである。そして,機内で日付変更線を越えるので,あっという間に1日が過ぎてしまう…。
ということで,あすの早朝に空港に到着するために,今晩は,空港の近くのホテルに泊まることにした。
今回の旅行で行ったボストンやニューヨークは,ホテルの宿泊代が異常に高い。私は,ずっとアメリカの田舎を旅行していたものだから,アメリカのホテルの宿泊代がこれほど高価だとは思っていなかった。それで,ニューヨークでも,ブルックリンにホテルを予約したのだけれども,その結果,これまでに書いたように,かなりスリルのある事件が起きた。しかし,慣れてみると,この方がずっとおもしろかった。
ともあれ,少し高価であったが,最終日は,ホテルを変わることになった。ここで少し不安だったのが,早朝,今晩泊るホテルに行っても,そんなに早くチェックインできるかということであった。チェックインできなければ,カバンを預けなければ,きょう一日身動きができない。そういえは,日本の観光地で,アジア人と思しき観光客が,大きなトランクを引きながら観光をしているに出会う。トランクなど預ければいいのに,と思うのだが,きっと,朝,ホテルをチェックアウトして,その日の夕刻帰途に着くのであろう。そして,その間の荷物の処遇に困っているのであろう。
まあ,どうにでもなるわい,と思い,早朝,異常に早い時間に,ブルックリンのホテルをチェックアウトした。時間は覚えていないが,おそらく,6時前であったろう。何度も書くが,東京で,ホテルに泊まって早朝にチェックアウトをして地下鉄やJRに乗るのと,ほとんど違いはない。昨晩,夜景ツアーに参加した時に,他の参加者に,ニューヨークをひとりで旅しているのにかなり驚かれたが,別段,それほどのことでもない。
地下鉄Lラインのホージー・ストリート駅から早朝のほとんど人がいない地下鉄に乗り込んで3駅。地下鉄は地上に出て,ブロードウェイ・ジャンクションという駅に着いた。ここで,JラインかZラインに乗り換えるのである。写真でわかるように,品川あたりの京阪急行のような駅である。
ニューヨークに着いた初めの日にわけがわからなくなった因縁のラインである。ホームからの夜明けが美しかった。時刻は朝の6時19分であった。Jラインの電車が来たので乗り込んで,ブルックリンの景色を眺めながら9駅くらいであろうか,ジャマイカ・センターの駅に到着した。ここから,エア・トレインに乗り換えて,とりあえず,ジョン・F・ケネディ国際空港へ行く。そして,ホテルのシャトルバスの停まるターミナルまで行かなくてはならなかった。
以前書いたように,これは,非常にばかげたことだったのである。ジャマイカ・センターの駅近くの徒歩圏内にもいくつかホテルがあって,そこに予約してあれば,ホテルのシャトルバスなど使わなくともエア・トレインで空港にも行けるし,地下鉄でマンハッタンにも行けたのである。それを,わざわざ,エア・トレインに乗り,空港に行って,そこからホテルのシャトルバスに乗り,ホテルに行って,チェックインをして,ふたたび,ホテルのシャトルバスでエア・トレインの駅まで行って,さらに,エア・トレインでジャマイカ・センターの駅まで行かなければ,地下鉄に乗れないのであった。
このときは,すでに,ホテルの予約をしてあったので,やむをえず,このような不便なアクセスをとるしかなかった。
これから旅行をする人は,ぜひ,このことを参考にして,ジャマイカセンターにホテルを予約してください。
ともかく,空港のシャトルバスのターミナル駅についた。案内に,ホテルの名前を行って,場所を尋ねたら,エスカレータを降りろと言われた。そこは,ホテルのシャトルバスをよぶ電話のある場所であった。
ホテルに電話をして,シャトルバスをよんだ。ターミナルで待っていると,バスが来たので乗り込んだ。運転席の横には,もらったチップであろう小銭が山と積まれていて,こうしたシャトルバスは,降りるときにチップがいるのかしらん,と,私はわけがわからなくなったのだった。
2013アメリカ旅行記-ニューヨークの夜景・再び③
夜のマンハッタンをツアーのバンで移動しながら,そうした昔のことをたくさん聞くことができた。そうするうちに,バンは,ブルックリンビレッジを通り過ぎて,イーストリバーを渡り,対岸のブルックリンハイツについた。この夜景ツアーは,ブルックリンハイツからとエンパイヤ・ファルトン・フェリー・ステイツ・パークからのマンハッタンの夜景を眺めるものであった。
以前来たときには,けっこう治安の悪いところだったようで,夜景を眺めて,すぐに促されてその場所を後にしたけれど,今は,たいへん治安がよく,多くの観光客が夜景を見にきていた。
ブルックリンハイツは,エンパイヤ・ファルトン・フェリー・ステイツ・パークの東側の高台で,高級住宅地である。また,エンパイヤ・ファルトン・フェリー・ステイツ・パークからのブルックリンビレッジとマンハッタンの夜景は,映画「マンハッタン」で有名な場所である。
私は,ここに来る途中で,自分にはブルックリンビレッジを歩いて渡るという夢が残っていたことを思い出した。果たして,今回もこの夢が実現できるかしら,とこのときは思った。
話が飛ぶが,次の日,つまり,この旅の実質上の最終日,私は,ついに,念願のブルックリンブリッジを歩いて渡ることができた。そして,再び,このブルックリンハイツからエンパイヤ・ファルトン・フェリー・ステイツ・パークへ歩いてみた。このとき,ここの夜景は,今や,ツアーでなくとも,ひとりで橋を渡って見にくることができるのだと,そう思った。
この日のマンハッタンは,雨上がりで少し霧がかかっていた。それが,また,幻想的であった。
貿易センタービルの建物は,悲惨な9・11で崩壊してしまったので,前回来たときとは違う。また,それ以外にも数多くの高層ビルが建ち,景観も変わった。この町は生きている,と思った。
多くの観光客がそれぞれが思い思いに写真を撮っていた。
私の参加したツアーは,この夜景を見るだけのものであった。私は,今回の旅でニューヨークのほとんどの夢は実現したのだが,ひとつだけやり残してしまたことがある。それは,ヘリコブターで,空からマンハッタンの夜景をみることだ。この夢はいつか実現できるのだろうか…。
ツアーが終わり,私は,地下鉄Lラインに乗ることができる駅まで送ってもらった。ブルックリンで道に迷ったのは昨日のことだが,もう,ずいぶんと昔のように感じた。
Lラインの車内は込み合っていて,私は,カメラを肩にかけて座席の前に立っていた。座っている男が「そのカメラは,レンズ交換の出来るやつだろう」と言って,私のニコン1J3を見て話しかけてきた。そして,その男は隣にいた女性(きっと奥さん)にカメラのことを話しているようであった。望遠ズームを付けていたので,私は,きょうヤンキースを見てきた帰りだと答えた。そうしたら,彼は「そういえば今日は日本人のなんとかいうボーイが4-4を打ったんだろう」と言った。イチローも,ニューヨークでは,ボーイなんだと,なにかおかしくなった。
そして,なぜか,ずっと,この町に住んでいるような気がした。
この日は,昨日のように地下鉄の中は大道芸人もなく,静かなものであった。
ホテルに戻った。この旅で,もっとも楽しみにしていて,もっとも多忙だと思っていた1日が楽しく終わった。すべてが順調な1日であった。この日のことは生涯忘れないであろう。
いよいよ明日は,実質上の最終日である。ホテルの移動をどのようにするかということだけが,少し心配であった。
2013アメリカ旅行記-ニューヨークの夜景・再び②
日本のラーメン屋のような店であった。私は,カウンタに座ってカツ定食なるものを注文した。どんなものが出てくるのか興味があった。
昔,パリに行ったときに,シャンゼリゼ通りで「どさん子」というラーメンチェーンを見つけて,塩バターラーメンを食べたのを思い出した。そのときの店員の「シオバタらーメン」と言った発音が忘れられない。
難しいものを注文したせいか,なかなか出てこなかったが,のんびりと店内を観察することができた。非常ににぎわっていた。あとで知ったことには,このところ,ニューヨークでは,非常にラーメンが人気であるらしい。ニューヨーカーは食事にかける時間が長く,日本人の2倍,3倍も麺を救い上げたままおしゃべりに夢中になっていたりするので,麺がのびないように通常よりも水分を多くしたりと,企業努力をしている店が人気なのだそうだ。
これを書きながら思い出したが,いくらラーメンブームとはいっても,ニューヨーカーにはやはりピザだそうだ。
けっこう大きめのピザを4分の1切って買い,これを弧の真ん中と中心を折り目にして二つ折りにして,手ですくうようにして口に入れるのだそうだ。フォークで食べるなどは論外で,ピザをフォークで食する写真が掲載されたことで,ニューヨーク市長はスキャンダルにまで発展した。
・・
やがて,私の前に食事が運ばれた。日本とまったく同じ,というか,日本よりも美味なカツ定食が出てきた。しっかりと赤味噌の味噌汁まで付いていた。何度も書くが,ここは東京と変わらない。東京よりも店内は広く,食事もおいしいことが違うくらいだ。
食事が終了して,私は,そのまま5番街を南に歩いて,朝と同じ集合場所に向かった。まだ時間が早かったので,これも朝と同じマクドナルドに行って,ブログを書いた。朝と同じ店とは思えない賑わいであった。
時間になったので,集合場所に行った。少し雨が降ったので,ガスっぽくなっていたが,夜景は見られそうであった。10人くらいの参加者がいて,朝とは違った男性のツアコンが,これも朝とは違って,自分でバンを運転して現れた。
今回参加したツアーは,大都市ニューヨークで日本人観光客を相手にしているだけあって,そつがないというか,ビジネスライクというか,質問してもちゃんと答えてくれるし,案内もしてくれるので問題はないのだけれども,まったく無理が利かないというか,個人的に親しくなれるという感じがなかった。
アメリカを旅行すると,そうした人にこれまでもたくさん出会ってきたが,それにしても,日本人として生まれて,アメリカに憧れてこの地に来て生きていくということは,それなりに大変なことであり,また,ここでしか味わえない楽しいこともたくさんあるだろう。私も含めて,日本からの旅行者を相手に毎日仕事をするというのは,たとえそれが仕事とはいえ,当然,わけのわからぬ人もいるだろうし,そこに,さらに,異文化という要素が加わるから,苦労も多いことであろう。
ツアコンは,私とさほど年が違わない人で,ニューヨークにずっと住んでいるということで,ニューヨークの変遷を聞くことができた。私が感じていたように,この街は,近年,ものすごく治安がよくなって,それは,ジュリアーニ前市長の功績であるということだった。以前は,本当に,死体が川に浮いていたり,投げ捨てられていたり,麻薬の売買をやっていたりしたそうだ。
私にとってのニューヨークは,ビリージョエルの口笛の音,マンハッタンの暗闇に浮かぶ足音,そして,遠く南に霞む摩天楼を見上げて生きる荒んだハーレム,そして,エンパイアステイトビルの展望台からゴーッという風の音とともに見下ろす碁盤状の町並み…,である。
しかし,時代は変わり,ニューヨークは,今や,東京と同じになっ(てしまっ)た。
2013アメリカ旅行記-ニューヨークの夜景・再び①
試合終了後の地下鉄乗り場は,昨日同様,多くの人でごった返していた。地上2階の乗り場まで鉄の階段を上って,改札口に到着した。
私の前の人がメトロカードを自動改札に通したが,改札が開かなかった。私は,にわか知識で料金が不足しているんだ,と言った。すでに,私のこころはニューヨーカーであった。ところが,次に私が自動改札を通したときに,同じことが起こった。そういえば,今日来るときに帰りの料金が不足していると思ったことを思い出した。人に言っておきながら自分も同じとはバカげたことだ。これも,アメリカ人のようだった。
自動改札の横には,係員のいるブースがあって,ここでお金を払えばチャージしてくれる。機械化しても,結局は,人間のほうが要領がよいのである。私は。20ドル紙幣を出して,メトロカードにチャージをしてもらい,今度は何なく自動改札を通ってホームに出た。
ホームには地下鉄が停まっていて,ほどほどの混雑であったが,その列車に乗り込んだ。列車の中には,1組の日本人家族がいた。私は,未だ,興奮さめやらなかったので,その家族に「すばらしい試合でしたね」と話しかけた。
聞くところによれば,観光でニューヨークに来て,こちらで松井選手の引退セレモニーがあると知って試合を見にきたのだそうだ。彼らは,松井とイチローは知っていても,それ以外のことは皆無であった。だから,ジーター選手もリベラ選手も知らなかった。
見たくて仕方がないのに見る機会がない人もたくさんいるのに,それほどの想い入れがなくても,偶然こういう試合を見てしまう人がいる…。世の中はそんなもんだ。
出発調整でしばらくホームに停車していたが,列車は出発して,一路,マンハッタンを南下していった。その家族は途中で下車した。
今日のこのあとの予定は,ニューヨークの夜景をブルックリンハイツから眺めることであった。
私は,前回に来たときにも夜景ツアーというのに参加して,そのときは,ブルックッリンビレッジの対岸からのマンハッタンの夜景も見たし,エンパイヤステートビルの最上段から深夜のマンハッタンの夜景も見たので,別に,今回見られても見られなくてもよかったのだけれど,この日は試合後の予定がなかったので,現地の日本人観光客相手のツアーに参加したのであった。偶然,朝,ゴスペルツアーに参加した若者も私と同じ日程であった。
試合終了後,夜景ツアーには,まだずいぶんと時間があったので,ブロードウェイを散歩して,日本料理を食べることにした。
思えば,わずか1日前,ブルックリンでさまよっていたのがずいぶんと前のことのように感じた。この日の私は,東京ドームでプロ野球をみて,渋谷で夕食を食べようと道玄坂を歩いているのとさほどの違いはなかった。違いといえば,人の多さ(なんたって,東京のほうが人は圧倒的に多い)と風紀の悪さ(東京のほうが不気味である),そして,観光客相手のパフォーマンス(ニューヨークのほうがはるかに楽しい)であった。
5番街は,いつ来ても華やかである。観光名所の周りは,観光客でごった返している。セントラルパークには観光用の馬車が人待ちをしている。路上の物売りがいろんなものを売っている。何年も前から変わらぬ風景であったが,来るたびに,この街はきれいになっていく。
ただし,ティファニーの前は,ずっと昔から同じであった。
かつて,好景気のころは,5番街は,星条旗が自信満々にあらゆるビルにはためいていた。
そして,今回,アメリカはリーマンショックの不況から脱して,再び加速をはじめたように見えた。
目についたのは,ユニクロの店舗であった。
私は,52丁目を通り過ぎ,ブロードウェイまで南下して,そのまま,日本食が食べられる店を探した。ブロードウェイに,日本食の食べられる店を見つけた。ラーメンやらカツ定食やらの懐かしいにおいがした。客の多くはコリアンとチャイニーズとそれに白人で,ほとんど日本人はいなかった。店に入ると,なまりのあるアクセントで「いらっしゃいませ~」と言われた。厨房には,多くの日本人が働いていた。
2013アメリカ旅行記-ヤンキースタジアム・再び④
試合は,だらだらと後半戦に入った。依然として,この日6番を打っているイチローだけが,好き勝手にヒットを打っていた。
今年は,こんな試合ばかりなのだろう。私は,マリアノ・リベラ投手の姿を見たかったが,それも期待できなかった。隣の男性も,リベラ? きょうは出てこないでしょう,と言った。
日本からわざわざMLBを見に行っても,なかなかお目当ての選手を見ることは難しいのである。それでも,先発投手なら,連続して5試合くらい見れば,その夢はかなうし,往年のイチローなら,ほぼ毎日出場していた。しかし,押さえの投手を見るのは,運だけなのだ。私は,これを書きながら,なんとか上原投手を見たいものだと思っているのだが,はたしてこの夢はかなうのだろうか。
そして,8回に,彼らは帰っていった。彼らは,松井の引退セレモニーが見られれば,それで,この日の目的は達成できたのであろう。
ところが,この日の試合は,このままでは終わらなかったのだった。
なんと,5対5の同点にもかかわらず,9回の表に,マリアノ・リベラ投手が出てきた。私は,興奮した。
以前,クリーブランドでヤンキースの試合を見たとき,彼は結局登板したのだが,私は,あまりに一方的な試合で,途中で帰ってしまい,見損ねた。それ以来のトラウマであった。しかも,彼は,今年で引退を表明していたので,このころは,出る試合出る試合,さよなら興行化していた。観客の熱狂は最高潮に達した。この国に住んでいたって,ほとんどの観客は私と同じで,そうそう,リベラ投手を見る機会などないのであろう。
このMLB史上最後の背番号42を背にしたリベラ投手は,いつものテーマで現れ,いつものようにカッターを投げ,三者凡退でマウンドを後にした。そして,9回裏,7月26日にトレードでヤンキースに復帰したばかりのかつて日本の広島カープに所属していたアルフォンソ・ソリアーニ選手がサヨナラ・ホームランを打って,ヤンキースは劇的な勝利を得た。
ヤンキースタジアムでは,試合が終わった瞬間から,球場全体に,フランク・シナトラが歌う「ニューヨーク・ニューヨーク」がかかる。私は,小説に書いても出来過ぎなこの試合の余韻に浸りながら,ずっと,スタンドからグランドを見ていた。
大型のビジョンには,松井選手のセレモニーからこの試合のハイライトが放映されていたが,やがて,アルフォンソ・ソリアーニ選手のヒーローインタビューが始まった。そして,恒例の,スポーツ飲料の入った大きなバケツがソリアーニ選手めがけてぶっかけられて,ずぶぬれになったところで,インタビューは終了した。
名残惜しくスタジアムを後に,外に出ると,日本のテレビ朝日がインタビューをしていたのに遭遇した。インタビュアーが私にマイクを向けた。このインタビューは,松井選手が,ここニューヨークでどのように見られているかということを聞きたかったのであるが,私は,この劇的な試合を見たあとで興奮しきっていて,試合のコメントを大声で話していた。
ヤンキースタジアムの周辺は,昔のくすんだ状態とはまったく違って,きれいに整備されていて,旧のヤンキースタジアムのあった場所は,広いグランドに整備されていた。その向こうには,フェリーの乗り場があるので,多くの人がそちらに向かって歩いていった。私は,地下鉄で帰るので,それとは反対側の地下鉄の乗り場に向かって歩いて行った。
2013アメリカ旅行記-ヤンキースタジアム・再び③
やがて試合がはじまった。
はじめは,ニューヨークの新しいヤンキースタジアムで試合が見られればそれでいいと思っていた。それが,偶然,松井選手の引退セレモニーと重なった。うれしさ半分,これで多くの日本人が押しかけるだろうという懸念が半分であった。しかし,私が思っていたほどの日本人はいなかった。特に,旅行者はほとんどいなくて,その多くは,現地在住の日本人であった。
ところが,この試合は,この年のヤンキースの試合の中でも,十指に入る好ゲームとなった。これほどの試合を見ることは今後もできないであろう。
まず,イチロー選手が4打数4安打であった。そして,昨日まで故障者リストに入っていたジーター選手がこの試合から復帰した。それだけでなく,いきなり最初の打席でホームランを打った。
これで,もし,黒田投手が投げていれば,申し分なかったが,これは,次の機会にとっておこう。
・・
私は,この年の旅行で,ほとんど思い残すことはなくなったが,しいてあげれば,上原投手を見損ねたことと,黒田投手が見られなかったことであろうか。
将来,私は,ダルビッシュ投手と青木選手は,ぜひ,アメリカで見てみたいと思っている。
さて,試合は,せっかくジーター選手がホームランを打って,ムードを引き寄せ,初回に3点を取ったのに,フィル・フューズという先発投手がだらしなく,5回の表に1点を取られて同点になってしまった。
言い忘れていたが,相手は,昨日と同じタンパベイ・レイズであった。ボストンで試合を見たときもレッドソックスの相手はタンパベイ・レイズであった。私は,この旅で,レイズとともに行動をしているようだった。
試合は,中だるみになって,この年の,弱いヤンキースそのものになった。見ていて,ヤンキースは,これほど打てないのかと思った。なにせ,ジーター選手とこの日絶好調のイチロー選手,それ以外には,カノー選手くらいしか,期待の持てる選手が打線にはいない。これでは勝てない。
隣に座った日本人の男性と話が弾んだ。
アメリカ人は,子供のまま大きくなったようなものだ,と彼は言った。この表現は当たっていると私は思った。そう考えると,アメリカ人のすべての行動が理解できる。
アメリカ人は,人を仕切りたがり,腹が立てば顔に出し,欲しいものは,我慢できずに手に入れる。ようするに単純なのだ。わかりやすい。だから,前にも書いたが,野球場に集まった5万人近い観衆は,小学生そのものなのである。しかし,先生が引率していないだけたちが悪い。売り子が来て,たいしたものでなくても,彼らは買う。売店にある,しょうもない品物でも喜んで買う。それも,かれらの収入に比べれば途方もなく高い。私は,この,ヤンキースタジアムなんて,特に,何物もやたらと高いのに,どうして,彼らがこうも散在できるのか不思議であった。
アメリカには想像つかない大金持ちがたくさんいるが,彼らは,このスタジアムでも年間予約席の革張りのシートに陣取って,彼らしか使えないレストランで食事をし,野球を楽しんでいるから,一般席をうろついているアメリカ人は,標準的な日本人よりも収入が低いはずだ。
どうやら,彼らは明日のことなんて考えていないらしい。
私は,こんなことで,彼らの老後とか医療はどうなるのであろうか,と心配になったが,そのあたりのことは,よくわからない。とにかく言える事は,ジャンクフードをよく食べ,よく飲み,騒ぐ。この国には,やたらと楽しいことがあるから,よほどの自己管理ができなければ,仕事をする時間などないし,体だけは,どんどんと太っていく。しかも,ここは東海岸だからまだマシで,西海岸に住んでいたら,時差の関係で,夕方の4時から夜中までどこかでずっと野球をやっているから,こんなものを好きになると,毎日が大変なことになる。
・・
この国とつき合うということは,たとえれば,アメリカがドラえもんのジャイアみたいなもので日本はのびたくんみたいなものだと思えばよい。違うのは,ドラえもんがいないということである。ところが,日本人は,アメリカをドラえもんだと思っているから,話がややこしくなるのである。
2013アメリカ旅行記-ヤンキースタジアム・再び②
この日の試合は,事前にチケットを予約しておいたので,昨日よりも1階下の見やすい席であった。日本の球場にたとえれば,1塁側の外野近くの3階席である。それでも,ここでは10,000円位する。これ以上の席は年間予約席で,正規の入手は困難であろう。
隣の席は,私より少し若い日本人であった。奥さんと息子さんが2人の家族4人連れであった。話をしてみると,アメリカ在住の日本の人であった。いろんな話を聞くことができてとても楽しかった。
彼は,アメリカから見ると日本は存在感が薄れ,元気がないと言っていた。日本製品は品質がいいのだからもっと自信を持つといい,と言っていた。息子さんたちは,日本で就職するかどうかという時期であるらしく,それなりに大変そうであった。
私も若いころは海外に住むことに憧れたけれども,好むと好まざるとにかかわらず,日本人として生まれてしまえば,他国に住むということは,それなりに大変なこともあるし,歳をとった私は,これだけ便利になってしまうと,別に,アメリカに住まなくても,ときどき旅行すればそれで十分だと安易に思うようになってきた。ニューヨークなど,行こうと思えば,毎週でも行ける。
まだ,試合開始にはずいぶんと時間があったので,モニュメントパークと博物館に行ってきたら,と言われて,そこへ行くことにした。モニュメントパークのほうは,長蛇の列ができていて,とても試合開始に間にあいそうになかった。なにせ,きょうは,松井選手のスペシャルデーで,なんらかのセレモニーがあるから,それを見逃す手はない。モニュメントパークは,次回来たときにも行くことができる。このモニュメントパークは,試合がはじまってしまえば閉鎖されるので,もし,行きたければ,開門と同時にそこを目指すべきである。
博物館のほうは,問題なく入ることができた。私は,すでに,クーパーズタウンの野球殿堂と博物館に行った後だったので,大して広くもなこの博物館は,期待以下であった。天下のヤンキースタジアムなのだから,もっとすごいのを作ってもいいではないかと思った。
やがて,試合開始前のセレモニーがはじまった。
大きなビジョンに現役時代の松井選手のビデオが放映されはじめた。ホームプレート付近には,松井選手のご両親が姿を見せていた。やがて,本物の松井選手が,手を振りながら,オープンカーで登場した。ホームプレート付近で,なになら表彰がはじまった。私が思っていたよりも,観客席は沸きあがって,松井という選手がヤンキースで非常に愛されていたということがわかった。
このチームは,勝利優先で,活躍ができなくなると,ベーブルースであってもトレードされてしまう。松井選手も,ワールドシリーズでMVPを取った翌年にトレードされてしまったので,これほどの声援があるというのは,私には驚きであった。
伊良部投手もそうであったが,今年メジャーリーグに挑戦する田中投手は,以前にも書いたが,ヤンキースにだけは行かないほうがいいと,私は思っていた。彼は,ドジャースに行くべきであった。
シアトルで長くプレイをして,晩年にトレードされたイチロー選手は,引退後,このチームでどういった待遇をされるのかが気になる。なんとなく,どっちつかずのよう感じであるし,シアトルは,ケングリフィーJr.の引退や,ダイヤモンドバックスにトレードされたランディージョンソンのように,引退後にそのチームに貢献した選手を冷遇するようなところがあるので,ひょっとしたら,51を永久欠番することすら期待できないかもしれない。イチローはヤンキースでは松井のように活躍したわけでもないし,シアトルで優勝に貢献したわけでもない。
セレモニーは,あっという間に終わったが,多くのヤンキースの有名選手に囲まれて,松井選手はベンチに姿を消した。その中には,イチロー選手はいなかった。その気持ちはわかる。だって,松井選手が活躍したときにはイチロー選手はいなかったわけだし…。しかし,無邪気に出てきて祝福しても悪くはない,と私は思うのだが,彼の矜持では,そういうことは絶対にできない。
やがて,試合がはじまり,始球式(ファーストピッチ)で,再び,松井選手が姿を現した。
このファーストピッチをやるだろうとは思っていたが,現地で見ていたときには,情報がなく,実際に姿を見せるまで私は半信半疑であった。
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ところで,このメジャーリーグのファーストピッチをマウンドで行うようになったのは,近年のことである。もともと,こういった始球式は,日本で行われていた。アメリカでは,ベンチの上からフィールドにボールを投げ入れる形であった。きっと,若い人は知らないと思うが,この現在の形の始球式は,日本から逆輸入したものなのである。
2013アメリカ旅行記-ヤンキースタジアム・再び①
さあ,ゴスペルも予定通り終了して,次は,ヤンキースタジアムである。
なにせ,松井秀喜選手のバブルヘッドは先着15,000人である。ヤンキースはケチである。このあとロサンゼルス・ドジャースが野茂のバブルヘッドを配ったが,それは50,000人であった。
私はヤンキースに移籍したイチロー選手に何とかしてワールドチャンピオンになってほしいので,にわかヤンキースファンになっていたが,やはり,ヤンキースは,好かない。球場の入場料は高く,金持ちと一般人の待遇が目に見えて違う。
私は,この夏の旅行で,ボストンのフェンウェイパークとニューヨークのヤンキースタジアムに行ったけれども,やはり,庶民にはレッドソックスである。
・・
とはいえ,そんなことを言っていても,今はバブルヘッドを手に入れるために,急いで並ばなくてはならない。
私は,参加していたゴスペルのツアーのコンダクタにお願いして,地下鉄4番ラインの86ストリート近くで降ろしてもらった。メトロポリタン美術館を横目に,私は,急いで地下鉄に乗った。
地下鉄は,ヤンキースタジアムを目指す人たちで満員であった。
昨日,きょう雨だといけないので急遽ヤンキースタジアムで試合を見たのだが,幸い今のところ雨の気配はなかった。天気予報では,次第に雨模様ということであったが,この調子なら試合はできる。昨日の車内とは雰囲気が全く違っていた。
私は,昨日にヤンキースタジアムに来る予習が済んでいるので,余裕で地下鉄に乗っていた。
思ったほど,というか,ほとんど日本人は見当たらなかった。きっと,ツアーでは,地下鉄なんて利用しないのであろう。こうして,旅行者が個人で来ることも,あまりないのであろうと思った。
161ストリート駅を降りた。すでに,どのゲートも長蛇の列であった。
私も,すぐにその列に並びたかったのだが,まず,WillCallでチケットを引き換えなくてはならなかった。
ボストン・レッドソックスは,インターネットでチケットを購入すると,家庭のプリンタで印刷してそれで入場できる。しかし,ヤンキースタジアムでは,現地のWillCallでチケットに引き換えなくてはならないので,そのままでは入場ゲートに並ぶことができなかった。
だから,昨日,野球を見た帰りに,明日のチケットをWillCallで手に入れようと思って,昨日の試合の終了時に聞いたのだが,試合がはじまると,WillCallは店じまいなのだという。これもアメリカらしいじゃあないか! しかも,WillCallが開くのは開門の時間だという。
すでにWillCallにも長陀の列ができていた。もしこれでチケットを引き換えている間に15,000人が過ぎてしまったら,困ったことではないか。本当に,ヤンキースが嫌いになった。これがわざわざ日本から来た客に対する態度か,と感じた。くたばれヤンキースだ,とそのとき思った。
そうこうしているうちに,予定よりも早くWillCallが開いた。どんどんと列がさばけていって,すぐに私の番になった。WillCallの窓口は,チケットを予約したときに登録したクレジットカードを出すだけで,機械がそれを読み取って,あっけなくチケットを発券した。それはそれですごい話だった。
そんなふうにして,予想よりも早くチケットを手に入れた私は,ヤンキースタジアムの4番ゲートに並んだ。
4番ゲートはヤンキースタジアムの正面ゲートである。通称,ルーゲーリック・ゲートという。ここから入場するのがツウというものである。
ここも当然長い列ができていたが,私は前にいた夫婦づれに,このあたりで15,000人は大丈夫なのかと聞いた。正面玄関に並んでいて手に入らないはずはないではないか,という答えが返ってきた。さすがにアメリカ人,楽観的であった。
そのあともどんどんと客は増えてきて,日本人らきし人々もちらほら見えるようにはなったが,予想したほどの数ではなかった。
私の後ろに日本人の若い女性がいた。
彼女はこちらに住む留学生だと言った。以前書いた「私,人とは違うわよ」といったタイプの女性であった。いわゆるプライドが服を着た生意気女だ。私が日本人だと知っていながら英語で話しかけてくる。どうして,私が日本人相手に英語を話さなくてはならないのだと,少しムッとした。今日の私はなぜか機嫌が悪い…。いまどき,英語が話せるくらいでは自慢にもならない。あの女がどんな身分なのかは知らないが,生意気なやつであることは疑いのないことであった。本当に能力の高い人物はもっと謙虚である。
しばらく並んでいたら,列が動き出し,やがて,球場の入口に来た。セキュリティチェックで,彼女が持っていたソフトドリンクのペットボトルが没収された。いい気味だ,と思った。
・・
入口で,簡単なセキュリティチェックを通って,難なくバブルヘッド人形をもらって,中に入ることができた。スタジアムのコンコースを通って,別の入口にまわって,もらい忘れたと言ってもう一個手に入れようと画策したが,失敗した。アメリカも,思ったほどいい加減ではない。今日の私は,なぜか悪人である…。
続々と入場して,やがて,15,000人に迫ろうとしたときには,バブルヘッド人形を取り合っていたというかいう話を,後で聞いた。
私は,無事に人形もゲットして,自分の座席に着くことができた。
2013アメリカ旅行記-ゴスペルツアー④
次に,グラント将軍の墓で下車した。このあたりは,非常に交通量の多いところで,交通整理のおじさんも忙しそうであった。われわれは時間を決めて一時駐車をして見学した。
グラント将軍は,アメリカ真の英雄である。
南北戦争では北軍の将軍として勝利し,その後は大統領を2期つとめた。その後,奥さんと2年あまりの世界周遊の旅に出て長崎に訪日し,参内して天皇にも挨拶した。ニューヨークに戻るとウォール街の金融業で財を成した。
多くの州から墓地の勧誘を受けたそうだが,奥さんと一緒のお墓に入ることを約束したニューヨークからの墓を貰うことに決めたという愛妻家であった。ふたつ棺が並んでいる。
その後,コロンビア大学やその近くにあるセント・ジョン・デバイン大聖堂,イチロー選手の住んでいるというマンションをバスで見てツアーは終了した。
コロンビア大学は,あまりにも有名なマンハッタンにある私立総合大学。アメリカで5番目に古い大学で,アイビー・リーグの一校である。
実務大学としては経済,法科,医学は世界トップクラス。また,研究大学としても有名で,海外から多くの研究者や留学生が集まっている。
セント・ジョン・デバイン大聖堂は世界最大級のゴシック建築で有名な教会。
ゴシック建築とは,中世ヨーロッパの建築様式のことで尖った屋根とアーチ状が特徴。この教会はとても大きく,自由の女神もすぽっと入るほどである。
この教会は、1892年に建設がはじまって,すでに100年以上が経つのだが,1941年に建設が中断し,再び建設をはじめたのが1978年であり,未だに未完成である。
観光客が少なく,穴場的観光地である。
イチロー選手の住むマンション「THE LAUREL」(400 East 67th Street New York, NY 10065)(1番下の写真)は,家賃が月320万円で,引っ越したときには,ニューヨークで話題になったそうである。イチロー選手の住んでいるマンションの近くでは,イチロー選手の奥さんが犬を連れて散歩しているのを見かけることがあるという話であった。
このツアーでゴスペルの後に見学した場所は,以前来た時と同じコースで,とても懐かしかった。というか,ハーレムの見学コースというのはこれくらいのものなのであろう。
ハーレムは,本当に安全なところになったなあ,というのが実感であった。
案内の女性は,イーストハーレムに住んでいるという。イーストハーレムなんて,昔は立ち入るなと言われたところだが,このツアーを案内した女性は,このイーストハーレムに住んでいるのだ。
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今回は,時間もなかったので,このツアーは有意義であった。
私の読んだ別のブログに「ハーレムの移動は交通の便があまりよくはなく,また,この地域の情報は情報誌などでも非常に乏しいことから,危険を避けるという意味合いにおいても,ツアー参加がお勧めだと思う」と書いてあったが,私はそうは思わなかった。
私には,昔のぶっそうなハーレムを思い出して,ここまで安全な観光地に変貌したことが驚きであった。ハーレムは地下鉄を使えばどこへも徒歩で行けるくらいの広さなのだから,ゴスペルも,観光も,別にツアーでなくても個人で気軽に来るくることができるようになったんだなあと思った。それに,自分で歩いて見なければ,結局は,ガイドブックを読んでいるのとさほど変わらない。今度来るときは,1日のんびりとハーレムを散策してみよう。
2013アメリカ旅行記-ゴスペルツアー③
ゴスペルをやっていた教会を出て,バスに乗って,さらに北の125丁目のアポロ・シアターへ行った。
ハーレムの125丁目は一番の繁華街である。アポロ・シアターは,1913年に設立されたアメリカで最も著名な,アフリカ系アメリカ人のミュージシャンと深いかかわりのある劇場である。毎年130万人が訪れるニューヨークの観光名所となっている。
ここの劇場からマイケル・ジャクソン,ジャクソン5がデビューし,デューク・エリントン,ビリー・ホリデー,ジェームス・ブラウンなどが活躍した。
毎週水曜日には「アマチュアナイト」というものが行われていて,観客の拍手で優勝者が決まり,勝ち抜いていくと全米に放映されるテレビに出演できるのだそうだ。反対にブーイングを浴びると箒で舞台からスィープされ,強制退場させられるということである。
アポロ・シアターも,以前来た時に行ったことがあって,その時は,中に入ってアポロ・シアターの支配人と話をする機会があった。今回も,アポロ・シアターの前で写真を撮った。再びここにいるということが,なんだかとても不思議であった。
その向かい側の建物には,ハーレムのピカソといわれるフランコさんという人が店舗のシャッターに描いた絵がたくさんあった。
フランコさんは,ハーレムが退廃していたときに,こうして絵を描くことで,ハーレムの再興に一役買った有名な人物である。日曜日には,ここでフランコさんに会うこともあるということだが,残念ながら,私は会うことができなかった。
そのあとは,バスの中からアレクサンダー・ハミルトン邸,ニューヨーク州立大学を通り,モリス・ジュメール邸で下車した。
アレクサンダー・ハミルトンは,アメリカ独立時の英雄で,独立戦争時にはワシントン下の総司令官の副官を務め,独立後は,合衆国憲法の基準となるザ・フェデラリストを執筆した。
ニューヨークのウォール街は世界金融の中心だが,それは,アメリカ独立後にウォール街が金融街に変貌したのがきっかけである。初代の財務長官に就任したのはこのアレグザンダー・ハミルトンで,彼は現在の連邦準備銀行の基礎を作った。また,ハミルトンは,ニューヨーク銀行も設立し成功を収めた。こうして,ウォール街はアメリカ金融の中心地となった。
ハミルトンは,アーロン・バーと決闘して撃たれて死去,という豪快な人生だった。
ニューヨーク州立大学の創設者は初代駐日公使として日米修好通商条約を締結したアメリカ外交官タウンゼント・ハリスである。歴史ある大学で,昼間にウォール街などで働いていて資格をとり,夜間のクラスを取る就労者が多いため,夜間のハーバードともいわれる。
建物は、地下鉄を掘った際に採掘された石灰岩など作られた大変重層な建造物である。
モリス・ジュメール邸は,1765年,英国陸軍中佐ロジャー・モリスの別荘としてワシントン・ハイツの高台に建てられた,ジョージア様式の建築物である。
当時の面影を色濃く残す市のランドマークとして知られていて,独立戦争中にはワシントン陸軍大将の司令部として機能していた。その後,フランス移民のステファン・ジュメルが買い上げ,現在は,非営利団体によって博物館として運営されている。
この建物のある高台からは,マンハッタンの景色が眺められ,昔は,ハーレムが高級住宅地であったことがしのばれた。この付近には,古い集合住宅があった。
そういえば,前回来たときも,ここで写真を撮ったことを思い出した。
しかしまあ,ここに来たのは2度目のことであるが,いずれもツアーで連れてきてもらったので,その場所がよくわからない。またここに行け,といわれても自分ひとりでは無理である。やはり,旅は,自分の力で歩きまわらなければいけないと強く思う。
2013アメリカ旅行記-ゴスペルツアー②
マクドナルドの店内も,早朝で,私以外にお客さんがいなかったので,のんびりと朝食を楽しんだ。やがて,集合時間が近くなったので,集合場所に向かった。
ツアーの参加者は,若い男の子ひとりと年配の女性がひとり,他に中年の夫婦が2組ほどであった。
案内の女性と一緒に小型バスでペンシルベニアホテルを出発して,マンハッタンを北上し,セントラルパークを抜けて,116丁目の「First Corinthian Baptist Church」という教会に到着した。
ここは,オペラハウスを改装したという教会で、内部はブロードウェイの劇場よりもひとまわり広い劇場のようであった。入口で教会の人の出迎えを受け,階段を上って2階の席へ行く。
そこは,観光客用の席であるらしく,他にもいろんな国から来た観光客が続々やってきた。内部では,写真は禁止であるということだった。
すでに,ゴスペルははじまっていた。
・・・・・・
ゴスペルとは,英語で福音書のことである。元来はキリスト教プロテスタント系の宗教音楽を意味した。
アメリカ大陸に連行されたアフリカ人が苦しい状況下で,救いを与えるゴスペルと出会ったことで彼ら独自の賛美をささげるようになった。これらとヨーロッパの讃美歌などが融合して黒人霊歌が生まれた。
現在は、されにジャズやロックと結びついて,進化を続けている。
・・・・・・
ステージ上には30人くらいの聖歌隊がいて,黒を基調にした衣装をまとっていた。ピアノやギターをはじめ,数人のバンドがステージにいた。
聖歌隊のひとりがリードをとって,他の聖歌隊がそれに続く。観客も立ち上がって一緒にリズムをとらなくてはならないような雰囲気で、座席があっても、ずっと立ちっぱなしであった。
今日は観客が多いからと,特別に1曲,そして、われわれのために挨拶があった。案内の女性によると,そういったことは珍しいことだそうだ。途中で,隣同士でハグするように促された。われわれは、見知らぬ周りの人と、思い思いにハグ(するマネを)したり,握手をしたりした。こういう時に,日本人はノリが悪くていかん。
私は、ゴスペルはもっとノリのよいものかと思ったし、もっとおごそかなものかと思っていたが、ママさんコーラスのようなものであった。
やがてゴスペルは1時間ほどで終了して,牧師さんの話が始まったようだった。
牧師さんというよりも,何か近所のおじさんがしゃべりはじめたみたいで、これでゴスペルが終了というけじめがわかるものではなかった。事前に知らされていたように,このツアーでは,ここで退出するということだったので,案内の女性に軽く合図されて,まわりの迷惑にならないように退出した。
他の観光客は、まだ、そのまま牧師さんの話を聞いていたので、退出したのは、私の参加した日本人数人のツアー客だけであった。
このツアーに参加した人が書いたブログがあって,それには非常に感動したということが書いてあったが,私は,念願がかなって堪能したが、感動するほどのことはなかった。
こうした観光用のゴスペルでなく,もっと,この地の人向けのものを期待していた。
いつものように,私はいろんな経験をしすぎているのかもしれない…。経験は感動する心をを奪っていくものだ。
2013アメリカ旅行記-ゴスペルツアー①
☆9日目 7月28日(日)
今日は,この旅で最も楽しみにしていた1日であった。今日のイベントこそ,この旅を企画したもともとの理由であった。
・・
すでに書いたように,私は,この年,イチロー選手がニューヨーク・ヤンキースと再契約を交わしたときはヤンキースの試合を見に行こうと思っていた。そして,イチロー選手はヤンキースと2年契約をした。そこで,私は,3月に,インターネットでヤンキースのチケットを手に入れた。その試合が今日というわけであった。
ナイトゲームで帰りに苦労するよりもデーゲームの方がいろいろな意味で便利だと思ってこの試合に決めたのだが,実際に来てみると,何度も書いているように,ニューヨークはきわめて安全な大都会に変貌を遂げていて,ナイトゲームであっても何も問題はないようだった。
ただし,幸運なことに,この試合は,2003年から2009年までヤンキースで活躍した松井秀喜選手の引退セレモニーを行う,ということになった。それは,私がチケットを入手したのちに決定したことであった。私は,友人からそのことを聞くまで全く知らなかった。そのことを聞いて,うれしかった半面,これは困ったと思った。
松井選手のバブルヘッド人形が先着15,000人にプレゼントされる,とのことであったが,それであれば,試合開始前は当然,大混乱になるし,早く到着しなくてはならない。そして,これを目当てに,日本人が大挙して詰めかけるであろう。私は,日本人の団体ツアー客が嫌いである。
旅の計画を立てたときは,当然そんなことは知らなかった。このデーゲームは午後1時からなので,午前と夜に何をしようか考えた。
この日が日曜日なので,午前中はゴスペルを聴こうと思った。
調べてみると,ゴスペルを聴くには,観光客に公開しているところや,ツアーで参加できるところがあることがわかった。ただし,観光客に公開しているところでもツアー客が優先であるらしく,あてもなく個人で行ってもうまくいくとは限らないので,ツアーに参加することにした。
しかし,ツアーで参加したとときに,ヤンキースの試合の開門時間に間に合うようにツアーが終わるものがほとんどなかった。その中にただひとつ「あっとニューヨーク&ツアーズ」という現地の旅行社が「ハーレムとゴスペルツアー」というものを実施しているのが見つかった。このツアーだと,朝7時に集合ということであったが,ゴスペルを見て,しかもハーレム観光をしても,午前10時30分に解散ということだった。
夜は,「ニューヨーク夜景スポットめぐり」というのが同じ旅行社のツアーにあった。これは,午後8時30分から2時間30分ほどのツアーであった。
そこで,このふたつのツアーを申し込むことにした。
ハーレムは以前ニューヨークに来た時に,ハーレムコンプリメンションツアーというのに参加した。そのツアーにはそのとき一緒にニューヨークに行った友人と参加したのだが,参加者は,なんと我々ふたりだけで,大型バスでガイドさんとハーレムを歩いた。夜景も,その旅で,別のツアーに参加して,堪能したことがある。
だから,今回は,私にとって,前回来たときにやっていなかったゴスペルが一番の期待であった。ところが,申し込んだのが5月と早すぎて,直前になるまで私以外の申し込みがなく,一度はツアーは中止という連絡が来てしまった。結局,他の参加者が現れて,なんとかこのふたつのツアーは実現したのだった。
ということで,昨日はミュージカルをみて,深夜にホテルに戻った私は,うきうきしながら,早朝5時に起床して,再び,地下鉄に乗って,マンハッタンに向かった。日曜日早朝の地下鉄は,日本のそれと同じように閑散としたものであった。
「ハーレムとゴスペルツアー」の集合場所は,ペンシルベニアホテルの正面玄関であった。ペンシルベニアホテルは33ストリート7番街である。私の乗った地下鉄Lラインはマンハッタンの14ストリートを西に走る。7番街は停まらないので,6番街で降りた。まだ時間があったので,そこからペンシルベニアホテルまで北に歩くことにした。
早朝のマンハッタンも,日曜日の早朝の東京と同じようにほとんど人がいなかった。ペンシルベニアホテルの近くにマクドナルドがあったので,そこで朝食をとることにした。私は日本ではめったにマクドナルドへは行かないが,アメリカでは朝食を食べるときにはマクドナルドへ行くことが多い。そして,注文するのは,ホットケーキである。今回もそうしたが,アメリカのマクドナルドは量が異常に多い。ブルックリンのホテルでは wifi がつながらなかったが,マクドナルドで無料でつながるので,朝食を食べながら,メールをチェックして,ブログを書いた。
2013アメリカ旅行記-ブロードウェイへ⑨
来た時と同じ経路で,帰りの地下鉄に乗った。
つまり,タイムズスクエア42ストリート駅から1,2,3番ラインに乗って,14ストリート駅で降りて,6番街14ストリートまで地下の通路を歩いて,Lラインに乗った。
深夜であったが,頻繁に地下鉄は走っていて,多くの乗客がいた。日本と同じであった。
Lラインに乗って座っていたら,イーストリバーを越えたあたりの駅で,あまりガラのよくない若者が3,4人乗り込んできた。彼らは,ドル札(ほとんどが1ドル札)の一杯入ったカバンと,音楽デッキを持っていた。
まず,彼らは,電車の中で札を数えはじめた。
私は状況が呑み込めなかった。ほかの乗客も見て見ぬふりをしていた。次第にわかってきたことは,彼らは大道芸人だということだった。そして,この札は,今日の儲けというわけであった。それにしても,これほど儲かるとは,と思った。しかし,今考えてみると,1ドル札を束にしてもそうたいした額でもあるまい。
しばらく札束を数えていた彼らは,それを山分けにした。それぞれの今日の儲けということなのだろう。駅に停まるごとに乗客が降りて,次第に,立っている乗客がいないほどになった。
この後,予想もしないことが起こった。彼らは,車内で大道芸をはじめ,音楽デッキからけたたましいリズムが流れて,車内で踊りだしたのだった。巧みにつり革や止まり棒を使って,曲芸まがいの踊りに興じた。
やがて,乗客に帽子を回して,おひねりをせびりだした。乗客はだれもお金を入れようとはしなかったが,それでも,彼らは踊り続けた。近くの乗客は,別に無視するでもなく,話しかけたりする人もいた。別に,車内が険悪な状況になったわけでもなかったし,危害が及ぶような状況ではなかった。
私は,これもニューヨークなんだなあ,と思ってみていたが,夜遅くでもあり,きょう1日いろんなことがあって少し疲れていたこともあって,すごい音量の音楽だけは,いい加減にしてくれ,と思った。
写真を写してやろうと思ったが,何事かが起きそうでそれを躊躇した。
今にして思うには,5ドル札1枚でも恵んでやって写真を写せはよかったと思った。こういうことができないから,私は,トラベルライターには程遠い。
そういえば,ニューオリンズのプリザベーションホールの時も同じであった。ジャズマンにいくらかのチップを渡せばツーショットで写真が写せたのに,ただカメラを向けたので拒否されたのであった。
しかし,私の気持ちとしては,数ドルのチップを渡して写真を写すなんていうのは,相手を見下げているというか,まるでその人を物乞いとして扱っているようではないのか? しかし,もともと,チップという行為そのものの本質がそういうものなのではなかろうか。であれば,これは文化の違いとして理解するしかない。やはり,私には,西洋の文化は謎である。
大道芸人のかれらのボス的存在の体のおおきいアフリカンアメリカンが音楽デッキの操作をしていたが,電車が駅に停車すると,彼はスイッチを切るのである。そして,再び電車が走り始めると,スイッチを入れる,この繰り返しであった。その様子をみると,かれらの行為は違法なのであろう。
電車に乗っている30分くらの時間がずいぶんと長く感じられたが,やっと,ホージーストリート駅に到着した。
駅を降りて改札を出て,階段を上がって,無事,ホテルに戻ることができた。
もし,夕方ブルックリンで道に迷っていなかったら,おそらく,このときに間違った地下鉄に乗って,右往左往していたことだろう。その場合,私はどうなっていたのだろうと考えると,ぞっとした。
やはり,幸運であったと考えたほうがよいのだろう。
・・
ホテルに戻って,部屋に入った。
見た目にはましな部屋に見えるだろうが,この部屋は wifi が通じなかった。
シャワールームは,お湯は出たが,レバーを切り替えても,シャワーは使えなかった。
一昔前の,退廃したニューヨークを思い出したが,疲れていたので,フロントに行って文句を言う気も失せ,寝ることにした。
良くも悪くも,ここは,ニューヨークであった。
2013アメリカ旅行記-ブロードウェイへ⑧
ミュージカル「シカゴ」(Chicago)は,ジョン・カンダー作曲,フレッド・エッブ作詞,フレッド・エッブおよびボブ・フォッシー脚本により1975年に初演されたアメリカのミュージカルである。すでに,ハリウッドで映画化もされている。
2年3か月のロングラン公演の後,1977年8月27日に一度は終演したが,その後再演され,現在もそれが続いている。
・・・・・・
舞台は1920年代・禁酒法時代のシカゴ。
スターを夢見るロキシー・ハートは,愛人フレッドを撃殺し逮捕され監獄へ,一方,悪徳敏腕弁護士ビリー・フリンの力で,監獄の中にいながらもスターとなっていたヴェルマ・ケリーは,ビリーの力で無実になる日も近いのだった。
監獄で,ロキシーは,憧れのヴェルマに近づこうとするが,相手にもされなかった。
そこで,ロキシーもビリー・フリンを雇い,ビリーによるでっちあげによって,悲劇のヒロインとして一世を風靡するようになっていった。
嫉妬する側になってしまったヴェルマは,ロキシーに手を組もうと持ちかけるが,今度は,自分が相手にされないのだった。
そんな中,新たな女性殺人犯令嬢キティが登場し,マスコミの関心はそっちに移ってしまう。
誰にも見向きもされなくなったロキシーとヴェルマ。ふたりはタッグを組み「殺人犯のふたり」と掲げて,憧れのスターへとのし上がっていくだった…。
・・・・・・
このように,「シカゴ」は,二人の女殺人犯ロキシーとヴェルマが,敏腕弁護士の手を借りて,一躍マスコミの寵児となっていくさまを,ダンス満載でシニカルかつユーモラスに描いた作品である。
米倉涼子さんが2012年に7月10日から7月15日に主役ロキシー役で出演したことで,日本でも話題になった。
私がもらったプレイ・ビル(PLAYBILL)によると,ヴェルマ役は,米倉涼子がロキシー役をやったときと同じく,有名なアムラ-フェイ・ライト(Amra-Faye Wright),ロキシー役は,エイミー・スペインジャー(Amy Spanger)という女優さんであった。
久しぶりのブロードウェイのミュージカルであったけれど,これを見て,私は,すっかり夢中になってしまった。この分では,これからはニューヨークに来るたびに,ブロードウェイに足を運ぶことになってしまうかもれない。ついに,またひとつ,禁断の木の実を食べてしまったようだ。
ミュージカルが終わり,あわただしかったきょうも結果的に充実した1日になった。
いろんなことがあって,結局,夕食を食べ損ねてしまったので,終演後,ブロードウェイにあったマクドナルドに入った。
2階が広いコートになっていて,そこで食事をとった。
隣には,プエルトリコ人であろう父と息子が食事をしていた。こういう姿を見ていると,どこの国でもほほえましいものである。そして,みんな,精一杯生きているんだなあ,と実感した。
さて,食事も終えたので,ホテルに戻ることにした。
ミュージカルも終わって,深夜のブロードウェイは,人で一杯であった。
昔は,馬に乗った警官がたくさんいたのだが,それは,はるかかなたの歴史上のことであった。
2013アメリカ旅行記-ブロードウェイへ⑦
私は,アンバサダーシアターに到着した。時間は午後7時55分であった。奇跡的に間に合った。
一時はすっかりあきらめていたので,本当にうれしかった。
劇場の入口は,開場を待つ観客で列ができていた。
私は,予約をしていたチケットを受け取るために窓口に行った。私のように,窓口でチケットを受け取る人が少ないのか,予約をしたときにプリントアウトした用紙を見せると,チケットがチケット入れにいれたままキャビネットに保管されていて,すぐに受け取ることができた。なかなか気持ちのよい対応であった。
列に並んで,劇場に入った。
ブロードウェイの劇場は,それほどひろくなく,昔の日本の田舎の映画館のようなものであった。
席は,一番後ろの真ん中であった。なにせ,ブロードウェイはチケットが異常に高くて,見るだけなら,ということで入手した一番安価な席なのであったが,実際,座ってみると,その席で十分であった。
もし,ミュージカルを見に行きたいなあ,と考えている人があれば,私のように,事前に日本で,ブロードウェイの公式ページ「ブロードウェイ・コム」でチケット入手するとよいと思われる。そして,見るだけなら,体験するだけなら,わたしのように,一番後ろの席で十分である。
左隣には,オーストラリアから来たという老夫婦が座っていた。
この旅行に来る少し前に,名古屋で大相撲を見たとき,やはり,オーストラリアから来たという青年がいて,「夏休みか?」と聞いたら,「冬休みだ」と言われたのをこの時思い出して,ここでは,私は,「よい冬休みの思い出ですね」と問いかけたら,親しく話が弾んだ。ヨーロッパを旅して,その帰りであった。
右隣りには,若い日本人の女性がいた。その向こうに年配の女性がいて,そのふたりは親子であった。
母親の方は,昔,こちらにすんでいたということで,それを訪ねて観光旅行をしているということであった。
客席には,若干の日本人がいた。
1列前に,初老の日本人の夫婦がいた。旦那さんのほうは,まったくミュージカルに興味がなさそうであった。しかも,英語も全くわからないようであった。開演中は写真撮影禁止であるのに,写真を写していて,私の左隣のオーストラリア人に注意されていた。日本人の夫婦は,1幕目が終了したら帰っていった。
特に,年配の人にとって,それまでの人生が趣味もなく仕事一筋であったときには,退職したら一生の思い出に海外旅行,といっても,結局はその面白さの半分以上はわからないであろう。
人生とはかくも過酷なものである。
わたしのように若いころから遊び歩いていても,いろいろと楽しさを覚えるにつれて,何事もどんどんと深みにはまっていって,行きたいことやらやりたいことがますます増えてくる。そして,次第に,歳をとって,今度は人生の残り時間との勝負になってくるのだ。
人生とは,かくも短い。
50歳を過ぎて,役職について仕事に費やす時間が多ければ多くなるほど,退職後に何か別の世界を知ってしまったときに,結局,それがいかに時間の浪費であったかということに気づくことであろう。
人生は1度きりなのだ。
やがて,ミュージカルがはじまった。
聞きなれた「シカゴ」の音楽とともに,俳優がステージに現れた。
やはり,生バンドで,本場のミュージカル,というのは,最高であった。
はじまってからも,遅れて入ってくる観客がいるし,いつまでも少しざわついていて落ち着かなかったが,まあ,ブロードウェイのミュージカルとはこんなものである。
2013アメリカ旅行記-ブロードウェイへ⑥
ミュージカルがはじまる午後8時まで,あと1時間を切っていた。まあ,これなら間に合うなあ,ときわめて楽観的になっていた。
これまでもそうだったが,旅をしていると,こうした予期しないアクシデントがよくあるし,きっと,今回の旅行でいちばん忘れられない思い出というのは,こういう出来事だったりするのである,と今だからいえる。
予定では,ミュージカルが終わって深夜にホテルに戻るのが心配であったので,予行演習のつもりで一旦ホテルに戻ってみようとしたことが,これだけの大事になってしまったのであった。
しかし,もし,この予行演習をしなかったら,その時はどうなっていたのであろうか?
そう考えただけでもぞっとする。
だから,結果的に,このトラブルは,非常に幸運だったのだ。
人生とはおもしろい。でなければならぬ,とか,このほうがいい,とかいった価値観は,実は,どうでもいいことの方が多い。いったい人は何を目指して生きているのであろうか。
雑誌に載っている店を探し,ガイドブックに書いてある通り旅行をし,人と比べ,周りを気にして,ブランド品に身を飾って生きている人は,人生で何をしようとしているのだろうか…。
いろいろあったが,私は,ともかくも地下鉄Lラインの乗客となった。
そして,ミュージカルをみる49ストリートのアンバサダーシアターを目指していた。
ブロードウェイにはたくさんの劇場があるが,49ストリートへ行けば何とかなるであろう。アンバサダーシアターの場所は確認してあった。
Lトレインはマンハッタンの14ストリートを西に進む。ブロードウェイの劇場街は42ストリートから50ストリート,そして,先ほど書いたようにアンバサダーシアターは49ストリートなので,どこかで乗り換えて北に行かなくてはならなかった。
私は,Lラインを6番街駅で降りて,地下通路を1ブロック7番街駅まで歩き,そこで南北に走る1,2,3番ラインに乗り換えて42ストリート駅で降りたということが,あとで写真で確認できた。
どうして6番街から7番街まで歩いたかといえば,Lラインには7番街駅がないということであった。また,もうひとつ前の14ストリートユニオンスクエア駅で降りて,N,Q,Rラインに乗れば,このラインがブロードウェイの下を通っているのに,どうしてそうしなかったかといえば,この日,このラインは運休だったからであった。そんなわけで,なかなかめざす劇場までは,まだまだ遠かった。42ストリートの次の50ストリートのほうが近いのであるが,50ストリート駅は,1番ライン以外は通過するのであった。
私は,42ストリート駅から外に出て,観光客で込み合ったブロードウェイをかきわけかきわけ北上して,なんとか開演前に,無事,アンバサダーシアターに到着したのだった。着いたときは汗だくであった。
ブロードウェイが思った以上に混雑していて,人をかきわけかきわけ,なんとか開演に間に合ったというのが,奇跡というか,またしても幸運というべきであった。
人だらけでごった返す渋谷駅界隈を土曜の夜にNHKホールに行くようなものであった。
ここまでお読みになって,ニューヨークの地下鉄を利用することは,結構たいへんだとお思いになったことであろう。はじめて行く人に参考になるだろうから,これ以外の,ガイドブックにかいていないニューヨークの地下鉄の乗り方の注意点について,書いてみよう。
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まず,地下鉄の路線図を手に入れること。私は,ホテルのフロントでもらった。
路線図をもらったら注意深く見てみよう。
駅は,その複数の路線が通っているときは,停まる路線と通過するものがあって,そうした駅は黒丸で印がある。すべてが停車する駅は白丸で印がある。これは日本の電車の急行と各駅停車があるようなものだ。
駅に停まるか通過するかは,路線図の駅の名前のあとに記号で書いてある。たとえば,「23St. F・M」とあれば,23ストリート駅は,B,D,F,Mトレインが通っているが,停車するのはFとMだけ,というわけである。
また,すでに書いたことだが,私が間違えたように,同じ名前の駅がいくつかあることがあるので,ラインを間違えないように! そして,特に週末は,サービスを停止していたり,ホームがことなっていたりするので,必ず,駅の掲示を確認すること。
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2013アメリカ旅行記-ブロードウェイへ⑤
私は,30分以上,ホージーストリートを北,だと思っていたが,実際は北東に向かって歩いただろうか,やがて,ホージーストリートは突き当りになって,そこで終わりになった。すると,右手に,見慣れたホテルがあった。
ずっと不安ではあったが,ホテルのある地名と同じ名前のストリートを歩いているのだから,何とかなるとは思っていたが,それにしても遠かった。そして,ホテルに隣接して,見覚えある地下鉄の駅の入口がちゃんとあった。
なんだか,キツネにつままれたようであった。
何と,地下鉄はJラインではなくて,Lラインではないか! まさか,同じ名前の別の駅があるなどという,日本ではありえないことになっているなんて夢にも思わなかった。
ここで事態は好転した。
この時点で,ミュージカルの開始まであと1時間もなかったが,これならなんとか間に合いそうな気がした。
そして,ミュージカルが終わっても,こういうことなら何の問題もなく戻ってこられることもわかった。このホテルに2泊しても何ら問題がないこともわかった。
私は,ホテルの場所さえ確認できればそれでよいわけだから,すぐにここから地下鉄に乗ってブロードウェイに引き返すことにした。
私の気ままな旅は,いつもこんな感じになる。
ホテルに隣接した「ホージーストリート」駅の入口を降りると,そこは,マンハッタンとは反対側行きのホームにしか行くことができなかった。マンハッタン方向は,一度地上に出て,道を横断した向こうの入口から降りなければならないのであった。
ボストンでもそうであったが,日本とは違って,地下鉄の上りと下りに地下での連絡通路がない。
一旦地上に出て,道路を横断して,道の向こうの入口を探した。
反対側の入口は,商業店舗の横に隠れるようにあったので,その場所を見つけるのに少し苦労したが,ちょうど道を横断するときに一緒になった若者が地下鉄を利用するようで,地下鉄の入口に向かって歩いていくので入口を見つけることができた。
階段を降りていくと,まるで30年前にもどったような鉄格子に囲まれた改札口に出た。
改札を入ると,「ホージーストリート」という表示がくすんだ壁に書かれた,広告もない暗いホームに出た。
ホームで待っていると,これまでの人の苦労も知らず,何事もなかったかのように,地下鉄がホームに入ってきた。
これなら何の問題もなく深夜に戻ってこられると,ほっとしたと同時に,どっと力が抜けた。
何か,これまでに起こったことがすべて夢のようだった。とともに,今回もまた,何とかなったのだった。
ケネディ空港からマンハッタンに行く地下鉄Eラインは最新式のきれいなものであったが,この地下鉄Lラインは外見は変わらないが,古びていた。でも,間違えて乗ったJラインはもっと古びていた。
けれど,古きよきニューヨークの香りがした。
わずかこれだけの経験であったけれど,ブルックリンというところがどういったところか少しずつわかってきた。それは,はじめて東京に来て,渋谷駅から地下鉄銀座線に乗って,浅草駅で降りるような感じ,とでもいえばわかっていただけようか。
これも後で知ったことだが,私は地下鉄Jラインが「マートレストリート」駅で迂回してMラインの路線に曲がってしまったので,あわてて次の駅で降りて引き返したのだったが,次の駅で降りずに,そのままあと2駅乗っていれば,Lラインの「マートレストリート」駅(ここも同じ名前だ)に到着して,そこでLラインに乗り換えることができて,ホテル横の「ホージーストリート」駅は,その次の駅だったのだった。
こんなわけで,私は,道に迷ったことで,ブルックリンについて,非常に詳しくなった。
こういうことは,行く前にどれだけ調べてもわからない。まさに百聞は一見にしかずなのである。
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結局,私は,このようなことがあって,ブルックリンがマンハッタンよりも好きになった。
くすんだニューヨーク。ビリージョエルの「ピアノマン」の歌がきこえるような,そんなニューヨークはいいなあ。