名古屋でマニラ行きに乗り換えることができるので,名古屋便の搭乗口は,多くのフィルピン人がいた。日本人はほとんどいなかった。
やがて,やっと搭乗の時間になって,飛行機は3時間以上遅れて,デトロイトを出発した。
フィルピン人で溢れかえる機内は,少しの空席があって,幸い空席のとなりの席を手に入れた人は,2つの座席を独占して倒れるように眠っていた。私の隣の席も空いていたが,そういうすることをなさけないと思った。
機内には,もう,「Hi!」といって気さくに話しかけるアメリカの香りはどこにもなかった。客室乗務員も,アメリカの国内便のような気さくさや明るさはこれっぽっちもなかった。みんなが不機嫌そうだった。
これからの13時間を越す退屈なだけのフライトが憂鬱だったので,空いた隣のその向こうに座ったフィリピン人の老夫婦が何か語りかけたけれども,返事をしなかった。空いた席を使いたいということだった。私は,勝手にしろ,と心の中でつぶやいた。
やがて,機内にいるのがさんざんいやになったころ,夏の熱気でむせかえる中部国際空港に到着した。夜9時だった。マニラ乗換え便は夜12時発なのだそうだ。
まだ,せめて日本に生まれたのは幸運なことだったかもしれないな,と思った。
バゲッジクレイムにはデトロイトからの到着便の荷物を待つ人は少なく,隣の香港,その隣の韓国からの帰国便は,お土産を一杯抱えた家族連れで,ごった返していた。
空港からの名鉄特急の指定席は満員だった。隣に乗り合わせた,私と歳の近い女性は,韓国からの観光旅行の帰りだった。韓国に行って,日本が韓国でした歴史を嘆かわしいと感じたと話した。とても気が合って,楽しく話をしていたら,あっという間に,名古屋に着いた。
また,ひとつの夢が実現した。そして,またひとつ,夢を失った。今度は,どんな夢を実現しようか?
・・・・・・
自己を高めてくれるものはあくまでも能動的な愛だけである。たとえそれが完璧な片思いであろうとも。
北杜夫「どくとるマンボウ青春記」より
・・・・・・
カテゴリ:アメリカ合衆国旅行記 > 旅行記・2012夏
2012アメリカ旅行記-帰国②
やがて,フライトの時間になって,時間通り,ミネアポリスからデトロイトへ向かった。
この旅行では,はじめのうちは,座席がいつも1番前だったのに,ビスマルクのときと,今回は,1番後ろの座席になった。機内サービスのソフトドリンクが来る頃には,もう,着陸態勢に入っていた。アップルジュースを頼むと,グッドアイデアねと言われて -残っている飲み物の種類が限られていたのだろう- 缶からジュースを注いだ残りの入った缶も全て渡された。
デトロイトの空港には「空」という名の寿司屋があって,アメリカ人が上手に箸で寿司を食べていた。
今回の旅行の最後のフライトは出発が3時間遅れなので,20ドルのミールクーポンをくれた。それでマクドナルドへ行って,ハンバーガーをテイクアウトした。以前,このマクドナルドで,セットだったのに,英語が聞き取れずもうひとつサラダを頼んで,2つ抱えて困ったことを思い出した。あれはもう10年も昔のことだ。
さして広くないデトロイトの空港で,本を読んだり音楽を聴いたりして,怠惰に時間を過ごした。時折,日本語の放送「こちらデトロイトはアメリカ東部標準時です。時間をお確かめください」が聞こえる。
この旅では,シアトル,ソルトレイクシティ,ラピッドシティ,ビスマルク,ミネアポリス,デトロイトと,いろいろな空港に降り立った。時差も4回変わった。
この旅は,ノースダコタ州に行こうという動機からはじまったが,結果的に,アメリカを横断することになった。ノースダコタ州はそれほどまでに遠かった。そして,想像した以上にすばらしいところだった。
デトロイトの空港にも日本人はほとんどいなくて,東京便の搭乗口には中国人があふれていた。
名古屋便の表示を見たとき,ああ,帰国するんだなあ,と思った。今回の旅は終わりなんだなあ,と思った。
2012アメリカ旅行記-帰国①
☆9日目 7月29日(日)
いよいよ,帰国である。
きょうは雨。これまで,1日目にラピッドシティに着いたときだけ雨。旅行中は,夕立でこそあったけれど,いつも晴れていた。国立公園に行ったときは,ほとんど快晴で,暑いくらいだった。
この地域は,1日中雨ということはないという話だったけれども,もし,この旅行中,雨天だったら,印象はまったくちがったものだったろう。その意味でも,非常に幸運だった。
早朝,ホテルのロビーに下りてみたけれど,まだ,パンが届いていなかったので,何も買わず,空港で朝食をとることにして,部屋でコーヒーだけを飲んだ。
少し早めにホテルをチェックアウトして ―結局,追加料金なんて1ドルも要らなかった― 傘をさして,電車の駅に向かった。早朝のトラムの駅は,食べかけの食料が散在していて不愉快だった。反対側のホームに,女性がひとり,ターゲット・フィールド行きのトラムを,ぼーっと待っているように見えた。やがてトラムが来たのに,彼女はそれに乗るでもなく,まだ,ホームにいた。
空港経由のモール・オブ・アメリカ行きは,前のトラムが出たばかりだったので,かなりの時間待つ必要があった。やがて,次のトラムがきた。
空港へ向かう車窓からの景色は,自宅から空港へ向かうときの日本の景色とさほど変わらなかったように感じた。やがて雨はあがり,今日もミネアポリスには真っ青な空が広がっていた。
今回の旅で,自分にとって,アメリカも特別な存在でなくなってしまった。少しさびしい気持ちだった。
やがて,トラムはミネアポリスの空港に着いた。
デルタ空港のカウンタに着いて自動チェックインをすると,ミネアポリス-デトロイト便は予定通りだが,デトロイトからのフライトが3時間遅れという表示があって,いやになった。
荷物を預けようと係の女性と英語で話をしていたら,途中で,彼女は,日本の方ですが?と言って,お互い日本語になった。めったに日本語で話ができないのでうれしいということだった。だれも何を言っているかわかりませんから,と言って,雑談になった。アメリカで仕事をしている日本人もアメリカにいるとこちらの文化に同化して,明るく気さくになる。仕事なんて,こういうふうにすればいい,と思う。アメリカでは,組織の中で自分に任された仕事をこなすのに,つねに上司にお伺いを立てたり報告をしたりする必要はなく,自分の責任で決断してやればいいのだそうだ。失敗したときはきびしいけれど,それは仕事だから当然だ。
ノースダコタに行ってきたんですよ,と言ったら,彼女は,ノースダコタがどういうところか知らないと言ったので,ここに住んでいるのなら,空路ビスマルクまで行って,そこからドライブしてメドナに行けば,3日は十分に楽しめますよ,なにせ,アジア人の団体客がいないから最高ですよ,といった話をした。現地在住の,しかも,ノースダコタ州の隣のミネソタ州に住んでいる人にすら,ノースダコタ州は馴染みのない場所なのだろうか。であればなおさら,今回行った価値があると思った。
荷物を預け,ミネアポリスの空港で,さしておいしくもないサンドイッチの朝食をとった。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス⑪
場所も場所だけに,帰りが心配だったので,7thイニングストレッチまでで,スタンドを後にしたが,バス停では,30分くらいバスを待たなくてはならなかった。
バス停は,えらく太った黒人の女性が3人,座り込んで,なにやら,どこかしこに電話をしたり,あるいはタバコをふかしたりながら,また,あるいは悪態をつきながら,同じバスを待っていた。
雨が降ってきて,彼女たちがずぶぬれになったころ,84番の満員のバスがやってきた。ところが,数分先のユニーバシテイアベニューでバスを降りるときには,雨もすっかり上がっていて,私と同じようにバスを降りた彼女たちのうちの一人が私に向かって,あの雨はなんだったの!と言って笑った。
それほど待つこともなくやってきた16番に乗りついだ。バスの中は,中国人の若く美しい女性やら,ウェストがその女性の4倍はある黒人のおばちゃんやら,大学生やら,多国籍文化で華やいでいた。
夜11時頃,無事,ホテルに帰着した。
最後の1日もとても楽しかった。ツインシティは公共交通を使えば十分に楽しめることがよくわかった。
この旅の最後の頃は,観光客というよりも,そこに住んでいるようだった。そして,東京で遊んでいるような気がした。アメリカも,公共交通が発達していれば,大都市の観光は,東京を観光するのとさして変わらない。
それにしても,この国の人は,コーヒーを一杯飲むときや,食事をするとき,音楽を聴くとき,そして,ミュージカルや野球を見ているとき。どうして,みんなあれほど幸せそうに,心から人生を楽しめるのだろうか。
いよいよあすは帰国をする日だ。荷造りをしながら,寝坊しないようにしなくては,と思った。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス⑩
極めつけは,あるイニングの合間に,セイゴ・マスブチという真っ黒に日焼けした日本人が,「リアル・ジャパニーズ・ガイ・ウィズ・カラオケ」とかいって,スタンドの上方で王冠をかぶったカップルを従えて歌を歌ったことだった。
となりの女性に,彼は有名なのかと聞いたら,ここだけで有名だと言っていた。
彼が歌を歌い終わって私の横の通路を降りてきたとき,「アイム・リアル・ジャパニーズ・ガイ・トゥー」と言って,握手を求めたら,彼は変な顔をして,握手をした。
親に内緒でいたずらをしていた子供が親に見つかったときの顔だった。
スコアボードの時計は,これもわけのわからないことに,ずっと12時だった。
レフトのスタンドの向こうには貨物列車が走り,ときおり,長い長い貨物列車をつないだ機関車が警笛を鳴らしながら近づくたびに,ゲームの邪魔をして,場内の放送が,わけもなく「トレイン」と言った。
・・
ここは,ベースボールというよりも,大衆演劇というほうがふさわしいところであった。あるいは,浅草の花やしきであった。
最高だった。
私は,この日のバカバカしいこのゲームのことを一生忘れないであろう。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス⑨
クルーズが終わり,再びミシシッピー川を越え,ダウンタウンに戻って,16番のバスを待った。
バスはちょうど出たところだったが,すぐに次のバスが来た。
早朝に予習したように,スネーリングストリートまで行って,そこで84番に乗り換えて,セントポールセインツの試合のあるミッドウェイスタジアムに向かった。
午後5時,ミッドウェイスタジアムに到着した。
朝とは違って,ものすごい人だった。野球場のまわりはバーベキューの会場で,当日まで知らなかったのだが,ここは,夕食が無料であった。つまり,入場料が12ドルだったが,これは,食事付きなのであった。
ここでも,フォークとナイフだけをもらって,好きな食べ物や飲み物を思い思いに取って,適当に座って,食事を取る。家族連れやらグループやらみんな楽しんでいた。
少し行ったとこにある駐車場では,いたるところで,バーベキューパーティをやっていた。また,駐車場の端には,新車やら他のいろいろなものの展示会もあったり,さらには,ボールすくいやら,輪投げやらもあったり。
ここは,日本でいう夏祭りの夜店ではないか。
10年くらい前に,NHKで放送した「わたしをボールパークに連れてって」という番組で,ここが取り上げられていて,どのメジャーリーグの試合よりずっと面白いといっていたので,わざわざ来てみたのだが,それはこういうことだったのだ。
ダウンタウンにあるターゲット・フィールドが水道橋の東京ドームだとしたら,ここは,北千住の夏祭りか。
夜6時開場。
野球場は,日本の田舎球場とさして変わらないが,外野のフェンスが広告の看板であるのとグランドが美しい全面芝であるのが,アメリカである。
日本のそれがコンクリートの塊なら,こちらはテーマパークである。
しかしぼろい。
予算がないのがよくわかる。でも,さして収容人数の多くない客席は,満員であった。
ここの球団から大リーグに昇格した夢をかなえた選手の銅版がいくつか野球場の壁に埋め込まれてあった。
一番面白かったのは,ファールグランドにも急ごしらえで作られたスタンドがあったことであった。グランド内でも直に野球がみられるのだ。
そして,内野の後方の座席もまた,バーベキュー会場だった。
客席には,マドンナとかいう名前のピンクのかぶりもののマスコット ―いわゆるゆるキャラ― やら,2匹の名物ブタやら,ガート・ザ・フォロートとかいう名前の,やたらと厚化粧のよくわからんおばさんやらがスタンドを闊歩し,試合は,イニングの終了ごとに,観客から数人がグランドに降りて,毎回異なるなにやらわけのわからない競争をした。そして,出場者の家族がスタンドを一番前まで降りてきて,ゲームそっちのけで応援した。
それはまさに町内会の運動会であった。
2012アメリカ旅行記-ミネアポリス・番外編②
アメリカの国技と呼ばれるベースボールは,下部組織がしっかりしていて,日本の国技である大相撲の序ノ口,序二段,三段目,幕下,十両,幕内のように,様々なランクがある。
下はルーキー・リーグから始まり,A,AA,AAA,そして,メジャーリーグである。
アメリカを旅行して楽しいのは,メジャーリーグではなく,こうしたマイナーリーグ観戦があげられる。
日本のいわゆる2軍とは違って,独立採算性であるので,きわめてファンサービスがよく,観客動員にも力をいれている。
試合中に様々な出し物があったり,スタンドにも,床屋さんあり,プールあり,バーベキューコーナーあり,といった具合である。
案内所に出向いて,日本からわざわざ見に来たとかいうと,お土産をくれたりもする。
きわめて低コストで運営されているので,審判は2人,スタンドも,チケット売り場のおじさんがお土産屋さんになったりと大忙しである。
さらに,こうした大リーグ機構とは別に,独立リーグというものもある。
選手は,大リーグ機構でドラフトにかからなかったり,引退したりした選手が多い。
この「セントポール・セインツ」は独立リーグのひとつである「アメリカン・アソシエイツ」に属する強豪?チームである。
日本人や女性もプレイしたことがある。また,指折りの観客動員数を誇っている。
アトラクションに動物を起用した元祖として知られ,球団のマスコットは「マドンナ」である。
確かに,メジャーリーグを見に行くよりも,非常に安価であり,サービス満点であり,子供連れなら,日本でお祭りに出かけるような,あるいは,町内会の運動会のノリで見に行くことができる。
私を案内してくれたおじさんは,私が,このチームを日本のテレビ番組で知って見に来たといったら,ものすごく親切だったし,気を使ってくれた。
スタンドでは,イニングごとに行われるゲームに出場する家族を応援する人たちでごった返し,地元のFM局の放送もある。きわめて座席が少ないために,身近に選手やマスコットに接することができるし,お客さんも「隣のおばちゃん」みたいな人ばかりなので,すぐに,仲よくなれたりもする。
名所・旧跡を訪れるのもよいけれど,あるいは,大リーグを見に行くのもよいけれど,普段着のアメリカを見たければ,訪れた都市のマイナーリーグや独立リーグを観戦することを,ぜひ,お勧めしたい。
日本の野球も,2軍の試合は,子どもたちを無料で招待して,選手と触れ合う機会をたくさん作り,お祭りのように屋台やら夜店やらを加えれば,もっと,ファンが増えると思うのだけれど,2軍は修行の場とかいう,日本的な考えがあるので,受け入れられないであろう。
残念なことである。
2012アメリカ旅行記-ミネアポリス・番外編①
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ミネアポリスはとても素敵な都会だった。
日本からは直行便があるし,公共交通も完備されているから,東京を歩いているように,過ごせると思う。治安もいいし,初めて一人旅をする人にお勧めの都会だ。アメリカまで来たという感慨すらないかもしれなほど身近なところだ。でも,冬の寒さはたいへんらしい。
これまでに書いてきたいくつかの事柄について,載せることができななった写真を,今日は「番外編」として紹介することにしよう。
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初めに,ミネソタ州議事堂の上院と下院,そして,裁判所。
ミネソタ州の州都はツインシティとよばれるミネアポリスとセントポールのうち,セントポールにある。州議事堂は威厳のある建物で,自由に見学ができる。そして,ガイド付きの見学ツアーがある。日本語のパンフレットもある。親切な受付で「パンフレットないですか?」と言ったら,日本語もあるよ。って言われた。
こういった建物を訪れると,その美しさに目を奪われる。
日本でも,明治時代の建物には,京都府庁をはじめ,威厳を感じさせるものもあるけれど,昭和後期以降に建てられたほとんどのものは,観光で訪れるといった魅力がないのが残念である。
日本人は,生きることに思想や誇りがない。
なんの目的もないのに,我慢することだけが美徳だ。
州議事堂の建物の中には,州知事の部屋や,この写真のような上院・下院,そして,裁判所がある。
これは,ノースダコタ州議事堂も同様であった。
ミネアポリスは,スヌーピー,いや,漫画「ピーナッツ」の作者,チャールズ・モンロー・シュルツの出身地である。
チャールズ・モンロー・シュルツは貧しいドイツ系移民で理髪師だった父カールと,ノルウェー系の移民だった母ディナの一人息子として1922年11月26日,ミネアポリスに生まれ,セントポールで育った。生まれてまもなくつけられた愛称はスパーキー。漫画に出てくる馬の名前スパーク・プラグから取った名前だった。今でもスパーキーと呼ばれているシュルツは,漫画にちなんだ愛称と共に,まさに一生を漫画に捧げている。
スヌーピーは,シュルツが1950年から書き始めたもので,ミネアポリスには,写真のような,スヌーピーのモニュメントがたくさんある。
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私が漫画家になるべく生まれて来たことは、なかなかみんなには理解してもらえません。本当に幼い頃から、私の夢は、新聞に連載漫画を毎日描くことだったのです。
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お昼に食べたペーグルは写真のもので,「ここの店には,アイス(ド)コーヒーもあり,すしバーガーもあった。すしバーガーに挑戦しようと思ったが,アボガドの入ったすしを食べる勇気がなかった。」と書いた。
しかし,今,写真を見てみると,どうやらすしにアボガドが入ったものでもないみたいで,やはり,これは注文すべきだったようだ。そうすれば,どんなものかよくわかっただろうに。
アメリカで「アイスコーヒー」というのも興味がある。
以前,ニューヨークのハーレムのレストランで,こぶしの大きさくらいのフライドチキンと一緒にアイスコーヒーを試しに頼んでみたら,そんなものないが,作り方を教えてくれればサービスする,と言われたのを思いだした。
旅に出たら,躊躇しないで,どんどんと興味のあるものは挑戦しなくちゃいけないなあと改めて思う。
ミシシッピ川クルーズの船着き場にいた足長おじさんの写真も写した。隣のおじさんは単なる観光客のおじさんであって,腹出たおじさんではない。まあ,いずれにしても,どんな状況でも,楽しみを見つけるあたりが素敵なところだ。
ミシシッピ川は,ミネアポリスからアイオワ州,セントルイスを通り,最後にニューオリンズまで流れていくのだが,それぞれの場所で,まったく異なる印象があるのが,不思議でもあり,魅力でもある。これまでそうした景色を多く見てきたが,そのどの場所にも素敵な思い出がある。
ミネアポリスのミシシッピ川には底しれぬ明るさを感じる。行ったときの天候によるものかもしれないが…。
この川のセントアンソニー滝は,滝の勾配はあまりないが川幅が広いので,それを堰き止め,粉引き用のタービンを回すのに利用することで多くの製粉工場が作られた。そして,ミネアポリスは小麦粉の一大生産地となった。
アイオワ州で見たミシシッピ川は,何かしら,丘の上から底深く流れる大河のように感じたという印象がある。
セントルイスは,ミシシッピ川の東側がいわゆる「イーストセントルイス」といって治安のよくないといわれているところでもあり,対岸に渡ってはいけないような,そんな印象がある。ここは,南北戦争のときの奴隷開放の要所であって,そうしたことを取り扱った博物館もあり,もっとしっかりアメリカ史を研究してもう一度訪れてみたいところだ。ここでも,ミシシッピー川クルーズがあったが,時間がなく,利用できなかったのが残念だった。この川にもいろいろな歴史があるのだろう。
そして,ニューオリンズ。このアメリカらしくない魅力にあふれた都会のことについては,すでに書いた。とにかく,ミシシッピ川の似合う都会だ。
なかでも,いずれ紹介することもあると思う「ハンニバル」というトムソーヤの故郷から眺めたミシシッピー川が印象的だった。川に沿って,古びた鉄道の線路があって,それが,なにかしら子供のころのなにかの思い出と結びついていくところだった。
このように,旅をするというのは,その土地の空気を味わい,その土地の食べ物を食べ,その土地の人と接することだ。そして,そうした思い出は,月日が過ぎれは過ぎるほど,どんどんと美化され,自分の宝物になっていく。
すばらしいことだ。
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なにか身近かで,親しみやすい近代都市ミネアポリス…。
ミシシッピ川クルーズを堪能した後は,朝予習をしたように,セントポールからバスに乗って,独立リーグ「セントポール・セインツ」の野球観戦に出かける。
抱腹絶倒,この場末の野球チームとは?
大リーグとはまた一味違ったアメリカの「ナショナルパスタイム(国民の娯楽)」の魅力とは?
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス⑧
しかし,橋をわたってたどり着いたのは,ミシシッピ川クルーズの乗り場でななく,ショーボートの乗り場だった。
そこにいた人に,この船はクルーズするのかと聞くと,これは停泊しているだけだ,というではないか。ではクルーズはどこから乗るのかというと「それはいい質問ねえ」とかいいながら,思案げにどこだろうかと彼女の友達に聞いている。憎めない人たちだ。
結局わかったことは,ショーボートの乗り場のはるか100メートルくらい先にクルーズの乗り場があるということだった。
ちょうど時間は午後1時少し前だったので,ちょうどキリがいいところで,午後1時発の船があったとしたら間に合うかな? と思って走って乗り場に向かうと,まさに,ちょうど,船が出るところだった。
乗り場のチケット売り場で急いで聞いてみると,この船は団体専用で,次の一般用の船は午後2時発だという。そして,クルーズの所要時間は1時間30分だということだった。
クルーズをするにはちょうどいい時間だったので,チケットを購入して,船が出るまでの1時間,のんびりとミシシッピ川とその向こうに広がるセントポールのダウンタウンを眺めていた。
気温はかなり高かったが,日陰は涼しくて,とても気持ちがよかった。
時間が近づいたので乗船のために並んでいると,足長おじさんが歩いてきて,船を待つ人たちを楽しませていた。
やがて,乗船。
観光船は,ミシシッピ川を下って行く。
クルーズは,幸い屋外の先頭の座席が1席だけ空いていたので,そこに座って1時間30分のクルーズを楽しむことができた。
船は,まず,ミシシッピ川を1時間ほど南に下り,そこでターンして少し速度を早めて戻るというコースだった。
川岸には,昔の鉄道の跡だとか,いろいろな施設や昔はさぞかし栄えたところだろうと思われる様々な遺構などがあって,ミシシッピ川の歴史がしのばれた。
きっと,ものすごく多くの,それぞれの重い重い人生が,この川の流れの底に横たわっているのであろう。
クルーズは感慨深いものがあり,素敵だったが,いろいろな国籍の人が乗っていて,その中にはかなりマナーの悪い人もいたのは不快であった。いつも,クルーズというのはそういうものであるのが残念なところだ。
まあ,観光地というのは,概して,そういうものだ。
だから,お年寄りの観光客が少ししかいないノースダコタ州は,素敵なところだったなあ,と今にして思い出すのであった。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス⑦
公共交通で観光をするのは結構大変なものだが,こうした偶然もあるし,普通に暮らしている人の姿を見ることができるから面白い。
この時は,乗るバスを間違えたと思ったのに,幸運にも,セントポール大聖堂に着いてしまったわけだ。
朝9時であった。
大聖堂はちょうど結婚式の準備で,花嫁さんが写真をとっていたり,華やいだ雰囲気だった。
こちらの教会ではよく結婚式に出会う。
大聖堂をぐるりと一周して,次に歴史博物館,ミネソタ州議事堂とめぐることにした。
歴史博物館はたいしたことはなかった。ミネソタ州議会議事堂は,土曜日で閑散としていたが,案内所は開いていて,上院と下院の議事堂,そして,最高裁判所の中にも入ることもできた。
その後,セントポールのダウンタウンに向かって歩いて行った。
ダウンタウンは,ミネアポリスから接続されるトラムの工事中で道が閉鎖されたりしていて,歩きにくかった。
それに,ダウンタウンも土曜日で,閑散としていた。
ミネアポリスに比べて,セントポールは観光地というよりもビジネス街と官公庁街であった。
ダウンタウンに「ブルーガーズ・ベーグルズ」という店が開いていたので,ここで昼食をとった。
ベーグルとお好みの肉や野菜をサンドしたもの,スープ,そしてコーラの3品で,トリオという名のセットだった。
ここの店には,アイス(ド)コーヒーもやすしバーガーもあった。
すしバーガーに挑戦しようと思ったが,アボガドの入ったすしを食べる勇気がなかったのでやめた。
昼食後,これからどうしようかと考えた。
科学博物館があるということだったが,まあ,他の都市にもあるのとそう違いがないであろうと思った。そこで,ミシシッピー川クルーズに乗ることにした。
そういえば,ミシシッピー川は,これまで,セントルイスやニューオリンズへ行ったときに何度も見たけれど ―アメリカにあこがれていた若き頃に,ミシシッピ川を一度見ることが夢だった― クルーズはまだやったことがなかった。ダウンタウンの坂を下ると,偶然,そこは,ミシシッピ川の川岸であった。ワバシャストリートに橋がかかっていて,その橋をわたった向こうに船がいた。
どうやら,そこがクルーズの乗り場らしい。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス⑥
16番のバスに乗った。
外を眺めるが,はじめのうちは,どこを走っているのかさっぱりわからなかった。運転手は,次に止まるバス停を放送しているのだが,発音が聞き取りづらい。
必死に小冊子や地図とにらめっこをしていたら,距離感や今どこを走っているか,そして,運転手の発音が,だんだんと明確になってきた。
乗車して20分ぐらいすぎたころだろうか,ミネアポリスとセントポールの中間あたりになって,進行方向の右側に大きなモール街が広がった新興住宅地のような一角にたどりついたころ,スネーリングストリートという放送があったので,降りることにした。
セントポールセインツのミッドウェイスタジアムはスネーリングストリートとコモ公園のところにある。
このバス停で,84番バスに乗りかえて北に5分行けば,目的地に着くということがわかったのは,しかし,のちのこと,しかも,16番の一緒に降りた大学生らしき人物が,その時ちょうど止まっていた84番の北行きのバスに飛び乗ったとき,一緒に乗ればよかったのに,そうしなかったのは,そのときは,バスに乗らなくても,北に少し歩けばコモ公園に着くだろうという間違った認識があったからだった。
結局,スネーリングストリートを北に20分くらい歩いても,コモ公園に着かないので,ついに力尽きて,たどり着いたスネーリングストリート沿いのハムライン大学で84番のバスを待っていた学生がいたので,一緒にバスを待った。
やがてバスが来たので乗ったら,すぐに窓から,東のほうに小さな野球場が見えた。
次のバス停が目的地だった。
ちなみに,バスには自転車も乗せられる。
ここだと思って,バスをおりて,その方向だと思われる道を歩く。しかし,歩けども歩けど目的地に着かない。東西に鉄道の線路が走っていて,その南側に球場があって,歩いていた道は線路の北側なのであった。線路には踏み切りなどというものはなくて,線路を隔てた向こうの野球場に行くことができないのだ。
結局,バスを降りたところまで引き返して,今度は,線路の南側の道を10分くらい歩いていくと,ようやくセントポールセインツの野球場にたどりついた。非常にひなびた,しかも,古い,場末の野球場だった。
朝早いのにもかかわらず,すでに,野球場の外ではバーベキューの準備をしていた。
野球場の場所を確認して,バス停まで引き返し,84番でユニバーシティアベニューまで南に行って,16番のバスを待つ。そこに来たのが,セントポール行きの21番のバスだったので乗りこんだ。
しかし,一緒に待っていた人たちは他に誰も乗り込まなかった。
このバスは,やがて,ユニバーシティストリートを南に離れ,セントポールの住宅地に入っていってしまった。一瞬あせった。このバスは,セントポールへ行くのに,迂回をするようだ。まあ,ともかくセントポール行きだから最後には目的地に着くからとのんびりと構えていると,バスはやがて,セントポール大聖堂へ着いた。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス⑤
☆8日目 7月28日(土)
朝起きて,ホテルのロビーへ降りる。このホテルはロビーにフードコーナーがあって,朝食をいろいろと売っている。甘いパンを食べたくなったので,砂糖をまぶしたパンとフルーツジュースを購入して部屋にもどる。部屋でコーヒーを沸かして,いっぱしの朝食が完成する。
きょうは,セントポールへ出かけ,帰りに,独立リーグ,セントポールセインツの試合を見る。チケットはすでにインターネットで購入済みである。
大問題なのは,セントポールセインツの野球場へどうやって行くか,どうやってホテルまで帰るか,ということであった。バスの路線がよくわからない。車社会のアメリカでは,公共交通を使うときの情報を見つけるのがむずかしい。
ベッドの上にいろんな資料を広げて検討するが,どの地図も,どこかが便利だとどこかが不便で,どれを持っていけば何とかなるか -結局「Where」という地図が一番役に立った- がわからない。
セントポールセインツのボールパークへは,最寄りのバス停はスネーリングストリートとコモだとホームページにあった。バスは5番が84番だというが,このバスにどこで乗ればいいのかよくわからない。はたして,今晩,ちゃんとホテルに帰ってこられるのだろうか? それに,5番にも5Aやら5Bやら,84番にも84Aやら84F やら最終地点が変わるものがあるみたいだ。
とりあえず,なんとかなりそうなものを一式,ナップザックに詰め込んで,出発した。
調べてみると,公共交通を利用するには,6ドルで1日乗り放題券を入手するといいことがわかった。その券は,トラムの乗り場で買えるということなので,まずはメトロドームのトリムの駅まで出かけて購入した。そのとき,ホテルの部屋をちゃんと閉めてあったか不安になって,めんどうだったけれど,一度ホテルに引き返した。
部屋を確認して,再び,出発する。ホテルの前の道の一本南の道をセントポール行きのバスが通っていることは確認してあったので,そこでバスを待つ。
「地球の歩き方」によれば,95番のバスがフリーウェイ経由ではやくセントポールに着くということだったので,それを待つが,来たのは16番のバスだった。
あの本は便利だが,肝心ことがよくわからないことがある。たとえば,ダウンタウン行きといっても,ダウンタウンは広く,バスはダウンタウンのどこまで行くかなど。
そういえば,この本には,決定的に致命的な欠点がある。それは,この本がものすごく重たいということだ。旅で持つ本は,できるだけ軽いものでなければならない。改定するごとに,紙質がよくなって,どんどんと重たくなっていく。この本は,旅行をするためのものから,旅行ができない人が旅行したつもりになるために読むグラビア本に変わってしまったのか。
出版社の人は,この本を持って,旅行したことがあるのだろうか?
実際に旅行をしたときに必要な情報や本の形状や重さはどういうものかを,いくら内容が多くなろうと,もっと旅行者の気持ちになって考えるべきだと,私は,1980年版の軽い本を手元に置きながら,思うのである。
・・
まだ,朝の7時すぎだ。のんびりと景色をながめながらセントポールへ着けばいいと思って,その16番のバスに乗り込んだ。乗車券は運転手のところにある機械を通せばいいのだが,はじめは,それもどうすればわからない。まあ,こんなことは1回聞けばいいだけのことだけれども。
次第次第にわかってきたことは次のことであった。ミネアポリスとセントポールは,ユニバーシティアベニューという道でつながっているということ。現在,その道に沿って,トラムを走らせる工事をしているので,まもなくトラムでつがって,ものすごく便利になるということ。バスは,どこもおよそ昼間は15分,夜は30分くらいの間隔で走っていて,最終のバスは深夜の0時近くまであるので,とても便利だということ。
バスの中に,経路と時刻表の書かれた小冊子があった。結局,この小冊子がとても役に立った。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス④
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試合は,いつものように国歌から始まり,インディアンズを相手に,点を重ね,ファインプレイが続出して,異常な盛り上がりを見せていた。
他の球場なら,比較的どの席も自由に出入りできるのだが,ここは係員がしっかりしていてガードが固い。
試合自体にはそれほど興味もなかったので、最上段の席に登って景色を見ていた。客席から見えるミネアポリスの夜景がきれいだった。
7thイニングストレッチが終わったので,帰ることにした。
外に出て,照明の輝く美しい球場を外から眺め,少し歩いて,ダウンタウンの駅からトラムに乗り,ホテルに帰った。トラムの乗り場からは,ツインズの勝利を祝福する花火がいつまでも上がっていた。
ところで、部屋にある電話の利用案内に,市内通話「complimentary」とあった。無料ということか。「free」なら誰でもわかる。「complimentary」では,日本の高校生はなんのことかわからないだろう。
こうしてアメリカを旅行していると,知っている,あるいは使っている英語が日本の学校で学んだものとまったく違うことを痛感する。
たとえば,バスに乗ったときに運転手が発する停留所の名前,アクセント重視のこの発音はカタカナ英語ではまったく聞き取れない。
野球場で私の隣にいたアメリカ人が家族と話していた言葉は,「Beer Down Over There Left.」。こういう会話で十分通じているじゃあないか。
とにかく,だれでも目があえば,また,バスに乗れば運転手に「Hi!」と言い,そして,別れるときは「Thank you!」という。人に触れてしまえば,「Excuse me.」と言う。外に出ると他人にいつも無言の日本人は,これが自然にできないので,アメリカで,気難しく思われる。時には,おかしな状況さえ生まれかねないだろう。
むずかしい英語の単語を覚える以前に,こうしたあいさつが自然にできなければ,ストレスフリーなアメリカ旅行は決してできないと思うのである。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス③
結局,この日は,ワインズマン美術館に行くのを断念して,ダウンタウンに向かったが,ミネアポリス美術館も徒歩では遠く,それも断念した。
そこで,なんとかミネアポリス名物の「スプーンブリッジ・アンド・チェリー」と呼ばれる彫刻のオブジェくらいは見なくてはならないと思いつき,とにかく,それがある彫刻庭園へ行って,そのあとに,ターゲットフィールドにMLBを見に行くことにした。
アメリカの都会は,すべてが広いから,歩くとなるとかなり大変だ。車がないとこういう時に不便なのだ。
ここでもかなり歩いて,ミネアポリスのダウンタウンを越え,はるかかなたに彫刻庭園に隣接するウォーカー・アート・センターが見えたときは,足が棒状態だった。
やっと到着したのに,ウォーカー・アート・センターは午後5時までだった。私が着いたのが4時30分。チケット売り場で、あと30分しかないけれど,といわれたが,チケットを購入して,中に入った。
ウォーカー・アート・センターは,トーマス・バーロウ・ウォーカーのコレクションを展示してある美術館で,近代美術が数多くあった。
中も当然広いところで,30分しかなかったので,駆け足だった。
次に,となりの彫刻庭園に行った。ここはオープンスペースで,入場は無料だった。
念願の「スプーンブリッジ・アンド・チェリー」で写真を撮った。
そして,いよいよターゲットフィールドへ向かった。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス②
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部屋を出てミネアポリスの観光をして,その後,MLBの試合を見る。それが,今日の予定だった。
ホテルの北側にミルシティ博物館がある。その北にミシシッピ川が流れ,ミネアポリス第一の観光名所,ミシシッピ川唯一の滝であるセントアンソニー滝がある。いずれも徒歩ですぐ行くことができるので,まず,ミルシティ博物館に行くことにした。
ミネアポリスはミルシティとよばれ,かつては製粉の町であった。
ミルシティ博物館は,世界最大といわれた製粉所を改築して2003年にオープンした博物館であった。劇場のようなエレベータがあって,そのエレベータの内部が20人くらいが座れる長方形の客席になっていて,それに乗ると上下して,それぞれの階で止まるとドアが開いて展示が始まるという面白いアトラクションであった。
こういったアイデアを次から次へと考えつくアメリカ人とは一体なんだろう,といつも考えさせられる。
ミルシティの歴史を知ることができるこれらの展示を見終えると,最上階に上って,エレベータから外に出て,展望台からミネアポリスの景色を眺めることができた。
ミルシティ博物館を出て,セントアンソニー滝を一望するストーンアーチ橋へ行く。ストーンアーチ橋はとても長い橋だった。橋は観光客で一杯だった。セグウェイとよばれる電動立ち乗り二輪車による市内散策ツアーの一団もいた。
ところが,この日は,このあとが大変だった。
「地球の歩き方」にはミネアポリスのダウンタウンは徒歩で回れると書いてあったが,そんなもんじゃない。とにかく歩くには広すぎたのだ。
橋を越え,ワインズマン美術館へ行こうと思ったが,それは無謀なことだった。徒歩で行くにはかなり遠い。今にして思えば,うまくバスを利用すれば,簡単に,どこにも行けたのだけど,この時点では,バスの乗り方がよくわからず,躊躇していた。今思うに,空港でトラムに乗るときに,はじめから,1日乗車券を買えばよかったのだが,このときは,バスの経路もわからず,バスの乗り場やバスが来る間隔もよくわからなかった。
もし,1日乗車券を持っていれば,ダウンタウンでは,もっと気軽に,どんなバスであれ来たバスにさえ乗れば,どうにでもなったであろうにと,残念なことをした。
2012アメリカ旅行記-そして,ミネアポリス①
トラムは,空港の駅からは南のモール・オブ・アメリカへ行くものと北のダウンタウンに行くものがあるからホームを間違えないように,と,空港の案内所で言われた。
6年前にこの空港に来た時は,次の便の待ち時間が6時間もあって,となりのモール・オブ・アメリカで過ごした。そのときは,空港からモール・オブ・アメリカまでトラムがあることを知らず,長い間バスを待った。トラムを知っていれば,6時間もあれば,むしろ,モール・オブ・アメリカへは行かずに,ミネアポリスのダウンタウンで観光ができたのにと,あとで後悔したものだった。
そのさらに2年前にこの空港に来たのは,モンタナ州ビュートで交通事故に遭って足を骨折して,車椅子で日本に帰国するときだった。ここにくるたびに,そうしたいろんな思いで一杯になる。
そんなわけで,ミネアポリスのダウンタウンには,今回,はじめて訪れることができたのだった。
行きたいなあ,という思いは,それを思い続けたとき,必ず,実現するものだ。
ミネアポリスとその東側のセントポールはツインシティと呼ばれていて,治安のよい,交通の便利な,落ち着いた町なのだそうだ。ただし,冬の寒さは尋常でなく,両方の町のダウンタウンには,スカイウェイという空中回廊で,外に出なくても移動ができるようになっている。
空中回廊は,冬にたいして寒くもないシンシナティにもあった。シンシナティで空中回廊を歩いたときは,知らぬよその家を通路代わりにして勝手に歩くような,変な感覚があって,面白かった。
まず,トラムに乗って,ダウンタウンに行き,予約をしてあるホテルのチェックインをすることにする。トラムは1ドル75セント。チケットは駅の販売機で購入する。クレジットカードも利用できる。後から思うと,このとき,1日乗り放題6ドルのチケットを買えば,この日の観光に便利であった。
空港の地下の駅から,トラムはやがて地上に出て,北のダウンタウンに向かった。20分くらい乗っていると,メトロドームが見えてきた。
この2日間の宿泊を予約したホテルである「アロフト・ミネアポリス」は,メトロドームから歩いて3分くらいの便利なところにあって,トラムのメトロドーム駅から近かった。駅で降りて,カバンをごろごろと転がして,ホテルに向かう。
「アロフト・ミネアポリス」は,インターネットの予約サイト「エクスペディア」で予約をしてあった。2泊で約16,000円だった。「エクスぺディア」ははじめて使ったので心配だったが,それは杞憂だった。この便利なサイトは,これから,大流行するだろう。
ミネアポリスでは,車のない私にとって,事前にホテルを予約しておいてよかったと思った。
道を隔てた建物には「ワサビ」という名の,日本料理店があった。ノースダコタ州から比べると距離的には遠いのだが,ずっと日本に近づいた気がした。
「アロフト・ミネアポリス」は,ホテルというよりもスポーツ施設のような外観で,中に入ったら,案内所のようなブースがあった。そこがホテルの,フロントらしくないフロントだった。
1階にはバーがあり,かなりゴージャスなホテルだった。アメリカでこんなゴージャスなところに泊まったことはめったにない。本当にこの値段で泊まれるのか,何かの間違いではないか,後で,法外な料金を請求されるのでないかと,だんだんと不安になってきた。フロントでインターネットからプリントアウトした用紙を見せると,この予約は昨日だという。そんなわけはない。確かにきょうが27日金曜日だ。でなければ27日のチケットを持っているMLBが見られなくなる。
いずれにしても,宿泊は2日間なので,たとえ間違いであっても今日は泊まれるしと,なぜか楽観気味であった。確かに,長く旅行をしていると,日にち感覚も曜日感覚もなくなってしまうが,帰りの日にちを間違えたらえらいことになるなあなどと考えていたら,フロントにいたもうひとりの女性が,きょうが27日に違いないと言った。私に応対したフロントの女性が日にちを間違えていたわけだ。
アメリカらしい,いい加減な話だ。この国は,まあ,いつも,こんなふうに素敵なところだ。
そんなこんなで,フロントで話が弾み,地図ももらって,無事,チェックインを終了した。
部屋は5階で,景色もよく,新しく,絶対に,これはなにかの間違いで,あとで,高額な追加料金を取られると固く確信したが,まあ,それならそれでもいいやと思った。
2012アメリカ旅行記-さらば,ノースダコタ③
空港のカウンタにも誰もいなかった。フライトの自動チェックインをした。アメリカの国内便は,荷物を預けると1つ25ドル必要なので迷ったが,結局荷物を預けた。係員が出てきて,かばんにタグを付けた。
結果的には,機内に持ち込んだほうがずっとよかった。到着したミネアポリスの空港が,すでに知っていたこととはいえ,とにかく広く,さらに悪いことに,乗った飛行機の到着ゲートがバゲジクレイムとまったくの正反対のところだったので,移動するのに30分以上もかかってしまったからである。
ちなみに,CARRY-ON SIZEは,インチで14×9×22,センチでは36×23×56。私の持っていたカバンの大きさと全く同じである。
空港のセキュリティを通り,待合室へ入った。待合室には,売店があって,土産を売っていた。
ノースダコタ州の名物は,いまやオイルである。そこで「バッケンオイルシェール」と書かれたTシャツを買った。
ビスマルク空港は,1日に出発する便が数便しかないが,町と同じで,のどかなでこぢんまりとして,きれいな空港だった。
これが,ノースダコタ州の州都であった。
飛行機は,ミネアポリスからの乗客を乗せて,ビスマルク空港に定刻に到着した。そうして到着した飛行機は,折り返し,我々を乗せて,再び,ミネアポリスに向かった。
1時間と少しのフライトで到着したミネアポリスの空港は,とにかく広いところだった。ここは,デルタ航空最大のハブ空港で日本からの直行便もあって,日本語の表示もある。飛行機から降りて,バゲジクレイムの表示にしたがって行くが,行けども行けどもバゲジクレイムに到着しない。やっとのことで到着したら,荷物はとうに到着していて,すでにコンベアは止まり,所在投げにカバンが置き去りにされていた。
カバンを取ると,今度は,ダウンタウンに向かうトラムという市電の駅まで,ずいぶんと歩いた。やっとトラムという表示があったが,そこはトラムの乗り場ではなくて,空港の地下鉄の駅だった。トラムは地下鉄に乗って次の駅から乗るのだった。空港の地下鉄に乗って,次の駅で降りて,やっと,トラムの乗り場に着いた。結局,到着後,空港を出るまで1時間もかかってしまった。
すっかり田舎者になってしまった私は,まさに,田舎のねずみ状態だった。
2012アメリカ旅行記-さらば,ノースダコタ②
今日の朝のフライトでノースダコタを後にするのだが,その前に,昨日行くことができなかったノースダコタ・ヘリテッジ・センターに行ってみようと思った。
そこで,まずはじめに,一度空港へ行って,空港からノースダコタ・ヘリテッジ・センターへ行って,何分あれば空港に戻れるかを確認してみようということで,早朝モーテルをチェックアウトして空港へ向かった。空港に着くと,夜明けがとてもきれいだった。
・・
空港からノースダコタ・ヘリテッジ・センターに向かったら,わずか10分で着いた。
このように,車で走れば,ビスマルクはほんとうに小さな都会だった。これなら午前8時40分にノースダコタ・ヘリテッジ・センターを出発すれば午前9時には空港に十分着くであろう。
ノースダコタ・ヘリテッジ・センターに着いたときはまだ午前7時前だったので,再び午前8時に来ることにして,その前に,ミズーリ川からの景色を眺めに行った。川べりにはずっと道路が続いて,川畔に公園があった。公園の駐車場に車を停めて,しばしミズーリ川を眺めた。
そこには,ビスマルクのホームページに載っていた風景が広がっていた。鉄道の橋脚とミズーリ川の水面がマッチして,とてもきれいだった。クルーズができるボートも停泊していた。
公園を出て,マクドナルドで朝食をとってから,再びノースダコタ・ヘリテッジ・センターへ行った。着いたのは,午前8時より少し早かったけれど,センターはすでに開いていて,のんびりと展示を見ることができた。アメリカはテロ対策で大変そうに思うだろうが,ノースダコタ州ともなると無防備なくらいのどかであった。
ノースダコタ・ヘリテッジ・センターは,ノースダコタ州の歴史を4つの時代に分けて展示してある施設で,無料だがかなり豪華で広い博物館だった。
見終わったとき,受付には,入ったときにはいなかった初老の男の人が座っていた。話しかけると,ノースダコタ州についていろいろと教えてくれた。やはり日本人は珍しいらしい。
結局,早朝の2時間ほどで,心残りだったビスマルク・ヘリテッジ・センターも見学することができて,ビスマルク市内の観光をすべて終えることができた。
・・
ノースダコタ・ヘイテッジ・センターを午前8時40分に出て,空港に到着した。
レンタカーを専用の駐車場に停めて,空港の中のカウンタに向かった。空港は閑散としていて,レンタカーのカウンタにも誰もいなかった。9時になって係りの人が来たのでキーを返却した。
走行距離は950マイル(1,520キロメートル)だった。
2012アメリカ旅行記-さらば,ノースダコタ①
☆7日目 7月27日(金)
早朝,午前3時に目が覚めた。せっかく目が覚めたのだから星を見ようと思った。きっと10分も郊外にでれば,真っ暗であろう。
車を,きのう,知らずに走って郊外に出てしまったメインストリートを,きのうと同じように西の方向へ走らせていった。やがて,周りは本当に真っ暗になった。道端に車を止めて外に出ると,そこに広がるのは,まさに,満天の星だった。
天の川が走り,時々,星が流れた。空と一体となった。
そうこうしているうちに,ビスマルク方向の東の空がだんだんと白んできて,やがて,夜明けが近づいた。
日本では,何時間も走って,やっとのことで星空を見ることができるところまで来ても,そこでも大都市の光が地平線付近を照らしている。こんな星空を見ると,もう,日本で星を見に行くことがなさけなくバカらしくなった。
きょうは,朝9時にレンタカーを返却して,ミネアポリスへ向かうことになっている。いよいよ,ノースダコタ州ともお別れである。
ただ,心残りがあった。
「地球の歩き方」には,以前は,ノースダコタ州に関する情報はまったく掲載されていなかったが,2012年のものには,ビスマルクについてわずか2ページではあるが載っていて,観光名所として,ノースダコタ州議事堂とノースダコタ・ヘリテッジ・センターが載っていた。私はまだ,その,ノースダコタ・ヘリテッジ・センターへ行っていない。また,ビスマルクのホームページには,ミズーリ川岸に公園があって,橋をのぞむすばらしい景色の写真があったのだが,そこへも行っていないのだ。
これでは,なんのためにビスマルクへ来たのかわからないではないか。しかも,もう2度とこの地にこられるとも思えない。
昨日,夜7時までやっている動物園に5時前に入って時間を使ってしまったことを後悔するが,今となっては時すでに遅い。
そこで思いついたことがある。
まだツキが残っているかなと,「地球の歩き方」を見てみると,ノースダコタ・ヘリテッジ・センターは朝8時からやっていると書いてある。9時に空港へ着けばよいのなら,なんとか今日の朝行くことが可能なのではないか?
ということで,朝6時前にモーテルをチェックアウトして,早速出発することにした。
が,フロントが開いていない。ルームキーをいれるポストすらない。そこで,部屋が自動ロックでなかったので,部屋のベッドの上にキーを置いて,そのまま出発することにした。
ここに泊まったことで,マンダンのカントリーミュージックの野外コンサートや,満天の星を見ることができたのだから,これはこれでよかった。
今回の旅行もずっと幸運続きだった。
2012アメリカ旅行記-さらに,ビスマルクへ⑥
モールは,ラピッドシティにあったモールと同じようなものだったが,ここも人が少なく,閉店している店も多かった。
その中で,ただ1軒,人が大勢集まっていた店があった。税込7.48ドルで食べ放題・飲み放題の中華料理店だった。
そこに入ると,フォークとナイフを渡され,あとは,自分で食べたいだけ,飲みたいだけ,という具合であった。
食べ物をとって,箸があったのでそれを使って食べていると,隣にいた家族の中の初老の人が,箸に興味があって,不器用に動かそうとしていたので,思わず声をかけて,箸の持ち方を教えることになった。おもしろかった。「あとは練習だよ。日本の子供もはじめは親にしかられながらうまくなるんだから」などと。
時折入ってくる子供連れの客,子供はみんな箸を手にする。アメリカの子供は箸が好きなようだ。
夕食を終えて,モーテルに戻った。
まだ,早かったし,気候がさわやかでとても気持ちがよかったので,モーテルから出て,マンダンの,それほど広くないダウンタウンを散歩することにした。
少し歩いて図書館のある芝生広場に来てみると,野外のステージでカントリーミュージックのライブ演奏をやっていた。みんな,イス持参で聞きに来ていた。老人たちが多かった。
後ろのほうにベンチがあったので,私も座って聞くことにした。
芝生が風に揺れ,夕空の下,カントリーミュージックが心地よい。
何て満ち足りた気持ちなのだろう。
この国の豊かさ,というのは,こういう精神的なことなのではないだろうか,そう思った。
コンサートはしっかりと午後9時に終了し,老人たちは,それぞれ,自分たちの車に,座っていたパイプ椅子を片付けて,お互いにあいさつ交わしながら家に戻っていった。
私は,夜風に吹かれながら,のんびりと歩いて,モーテルに戻った。きっとこの夜のことは,ずっと思い出として残るだろうなあ,ふと,そんなことを感じた。
2012アメリカ旅行記-さらに,ビスマルクへ③
そこは「TPモーテル」という名のモーテルだった。
車を止めてフロントに入ると,さきほど洗濯物を運んでいたオーナーらしき気さくなおばさんがいた。「泊まれますか?」と聞くと,「シングルはないけどツインでいいか,それなら高くなるけどなんとかなるよ」というような会話が成立した。
そんなことを言いながら,そのおばさんは部屋番号と宿泊者の一覧の書かれたノートを見ながら,鉛筆と消しゴムで名前を書き入れては消して,を繰り返していた。
要するに,このモーテルはコンピュータではなく,最も原始的な方法で部屋割りをしているのだ。「スモーキングかノンスモーキングか」と聞くので,「できれば,ノンスモーキングがいい」というと,困った顔をして,再び部屋割りをはじめた。
そうこう作業を繰り返すうちに,どうにか部屋が決まったようで,ようやく部屋のキーを渡された。
・・
1階建てのモーテルで私に与えられた部屋は,中に入ってみると,外観とは異なり,なかなか快適であり,ちゃんとバスタブもあってお湯も出て,値段以上に快適なところだった。
モーテルには空室なしのネオンサインが灯った。
時間もどんどんとなくなっていくので,とりあえず荷物だけ部屋に入れて,観光に出かけることにした。
マンダンには,フォート・アブラハム・リンカーン州立公園があるということだった。
場所を確認すると,モーテルからミズーリ川に沿って南に少し行くだけではないか。
しかし,走っていくと思っていたよりも遠かった。緑に覆われた川の堤防をずっと走っていくと,やがて,州立公園の馬鹿でかい敷地の入口に到着した。
この州立公園は,南北戦争で立身出世してインディアンと戦ったジョージ・アームストロング・カスター将軍が最後に住んでいた家やら軍隊の宿舎やらを再建したもので,ものすごく広いところだった。
ツアーに参加すると,カスター将軍の家の中を案内してくれた。
参加したツアーには,小学生が5,6人,先生とともに参加していた。アメリカの小学生の姿を垣間見ることができて興味深いものだった。彼らの自由気ままさと積極さから,日本とはまったく別物の教育を受けていることを再認識した。
この公園の奥にはオン・ア・スランド・インディアンの村というのがあった。これはカスター将軍とは関係ないだろう。偶然,この場所に,昔,インディアンの村があったのに違いない。
ドーム型の住居が5つ再現されていて,そこでも,ツアーがあった。
ツアーといっても参加者は私ひとりだったが,ちゃんと説明を受けることができた。
ツアーの途中,突如,雨模様となったが,すぐに雨はやみ,再び,青空にもどった。
2012アメリカ旅行記-さらに,ビスマルクへ②
その後,再びインターステイツ94にもどり,いよいよビスマルクをめざした。インターステイツ94がビスマルク市街地にさしかかったとき,ここでも,また,ここでもだまされてしまったのが「インターステイツ94BUSINESS」だった。
要するに,このインターを降りてはいけなかったのだ。インターステイツ94とインターステイツ94BUSINESSはまったく別の道だ。しかも,インターステイツ94からインターステイツ94BUSINESSに入ったとたんに,道路に,EXITの表示があって,この表示にしたがって進むと,インターステイツ94を出ることを意味するのか,入ったばかりのインターステイツ94BUSINESSをなぜまた出るのか,あるいは,このEXITを出ると,再び,インターステイツ94に入るのかなど,わけがわからなくなって,混乱に陥ったのだった。
そのときは,そういうことであるとも知らず,私はビスマルクに入ったところでインターステイツ94からインターステイツ94BUSINESSに進路を変更してしまったので,道なりに走っていったら,車は,メモリアルハイウエイという名のついたインターステイツ94BUSINESSに沿ってミズーリ川を越えて,やがて,道はビスマルク市内のメインストリートとなって,ダウンタウンへ出てしまった。
ビスマルクではインターステイツ94に沿ってホテルがあるので,ともかく,ビスマルクに着いたら,まずホテルをさがそうと思っていたのだが,まちがえてインターステイツ94を降りてしまったので,ホテルがなかなかみつからない。
以前,インディアナポリスで同じ経験をしたことがあるので,事前に調べたり,たくさん地図をプリント遭うとしたりして注意していたのに,そして,こういう状態を避けなくてはいけないことはよくわかっていたのに,まったくもって,今回も同じ失敗のくりかえしである。
こういうときに,右折は信号が赤でもしてよいというこの国の道路法規が,逆に迷惑な話になる。中央車線をのんびりと走るわけにもいかず,だからといって右側車線を走っていれば今度は信号が赤でも右折できるから,信号で停車して周りを見て場所を確認する,という作業ができないのだ。もう,どこをどう走っているのか,だんだんとわけがわからなくなる。交差点で停止することができず,いつまでも走っていなくてはならなくなってしまう。
こうなれば,とりあえず,空港をめざそう,と思った。普通,空港の近くにはホテルがあるものだからだ。そこで今度は,空港という表示にそって道を進む。ダウンタウンから数分もすると,空港にたどり着いた。しかし,ここビスマルクでは,空港の周りには一軒のホテルもない。せっかくビスマルクに着いたのに,ホテルも見つからず,ますます,どこを走ればホテルがあるのかわからなくなって来て,だんだんあせってきた。
やがて,空港の周りの道を一周して,道なりに進んでいくと,はじめと逆の方向となって,ビスマルクのダウンタウンを過ぎ -今にして思えは,はじめに来たインターステイツ94BUSINESSを引き返したことになるのだが- さらに,インターステイツ94に入るインターチェンジもよくわからずとおり過ぎてしまい,ついに,ビスマルク市を抜けてしまった。インターステイツ94BUSINESSは,マンダンのメインストリートと名を変えた。どうやら,ビスマルクの西となりの町マンダンに来てしまったようなのだった。
そうしたら,そこに一軒,モーテルが見えた。一瞬,ここにしようかどうしようかと迷っているうちに,それも通りすぎてしまい,さらに進むと,さらにもう1軒,モーテルがあった。それも気が進まず迷っているうちにまた通りすぎてしまい,やがて,マンダンのダウンタウンも通り過ぎてしまって,道路は,西へ西へとインターステイツ94に併走する旧道となって,あたり一面牧草地だけの郊外に出てしまった。
周りに併走する車のいなくなった郊外の道路の端に車を止めて,冷静に考えてみる。
今どこにいるか,どこを走ったのか。はじめから仕切りなおしである。
マンダンの2つ目のモーテルに泊まることとする。そこに泊まれば,ビスマルクのダウンタウンは遠くなく,だから,空港も遠くないはずである。もし,そこのモーテルがどのようなものであったとしても,鍵さえかかれば,明日まで無事であろう。
それにしても,旅行に行く前に調べておいたビスマルクのホテルたちはどこにいってしまったのだろう。狐につままれた気持ちだった。
調べておいたつもりだったが,もっとしっかり調べておけばよかった。ここはアメリカ,たとえ人口が少ない小さな町であろうとも,道は広く車は多く…。
2012アメリカ旅行記-さらに,ビスマルクへ①
☆6日目 7月26日(木)
きょうは,ビスマルクの観光である。早朝,ディキンソンのセレクトインで軽い朝食(コーヒーとドナッツ)をとり,チェックアウトをして,インターステイツ94を一路東へ,ビスマルクをめざした。
・・
今にして思えば,この旅行は,もう1日日程に余裕があって,ノースダコタ州の東端にある都会ファーゴでもう1泊して,陸路,ミネアポリスへ行けば,完璧だった。そうすれば,ノースダコタ州の他の名所も訪れることができたに違いない。
他の名所というのは,ファーゴにあるファーゴエア博物館,ダンセスというノースダコタ州のカナダ国境の近くにある町のインターナショナルガーデン,ビスマルクから北に行ったウォッシュバーンという町にあるルルイスとクラーク案内センター,州の北にあるミントにあるスカンジナビアン・ヘイテッジ・パーク,ピックシティにあるサカカウェア湖州立公園,ディキンソンにあるダコタ恐竜博物館などである。
そして,現地で手に入れたパンフレットによれば,ノースダコタ州には,これらの名所にくわえて,州立公園や野生保護区がたくさんあるらしい。きっと,どこも,のんびりとした雄大なところに違いない。
出発するときは,ノースダコタに3日もいて,面白いところが何もなかったらどうしようか,と考えていたくらいだったが,結果的には残念なことをした。
ディキンソンを少し過ぎたら,タイムゾーンの変更の看板があった。つまり,1時間すすめるのである。だから,きょうは1日が23時間しかない。
インターステイツ94を走り続けていると,ビスマルクへ着く少し前,右手前方の小高い山の中腹に大きな牛の影が見えた。ここノースダコタ州には,巨大モニュメントがたくさんあるということを思い出した。こちらにきたら,それらを探そうと思っていたけれど,実際にフリーウェイを走っていると,あまりに広すぎてそれどころじゃないなあ,と思うようになっていた,その矢先のことであった。
なにはともあれインターステイツ94を一旦降りて,この巨大な牛の像を目指す。そこはニューセイソンという町であった。
砂利道を右手の小高い丘に登ると,そこに,その巨大な牛の像はあった。
家族連れが1組いた。その小高い山の上からの景色もなかなかのものであった。
ニューセイソンの町には,モーテルが1軒と博物館,それと学校などがあった。
2012アメリカ旅行記-すばらしきノースダコタ⑧
やがてツアーが終わり自分の席に着いた。平日にもかかわらず,9割くらいの座席が埋まっていた。
開始時間までも飽きないようにと,さまざまな趣向があり,やがて時間になったので,国歌の演奏がありそれをみんなで歌って,いよいよミュージカルがはじまった。
・・
ミュージカルの内容は,この地の歴史を劇にしたもので,難しい内容でなく,きっと,英語がまったくわからない人にも十分に楽しめたであろうというものだった。
本物の馬やらムースも出てきた。日が沈み,だんだんと空が暗くなって,舞台はさらに感動を深めていく。途中に休憩があって,後半には,有名(であろうとおもわれる)コメディアンのジョージ・ケーシーの漫談もあった。
出演した歌手は12人,それと,主役の女性と年配の男性だった。
ステージの右手には,6人のメンバーからなるバンドがいて,特に,バイオリンを弾くアンベリー・ローゼンという名の女性がきわめてすてきだった。ずっと踊りながらバイオリンを弾き続けていた。
最後に花火も上がり,ミュージカルは午後10時30分に終わった。
・・
終演後は,本当に真っ暗なインターステイツ94を30分くらい東に走って,どうにかディキンソンのホテルに戻った。
アメリカのフリーウェイというのは,郊外では,街灯もなく,本当に真っ暗なのだと思った。
メドラに2泊すれば,そして,天候に恵まれれば,これら全てを十分に楽しめると思った。とてもすばらしいところだ。観光客はほどほどいるので,閑散としているわけではないし,かといって,ごった返しているということもない。全くストレスを感じないのだ。
しかし,ここまでたどり着くには,ビスマルクから車で2時間走ってくるか,さもなければ,ラピッドシティから延々と車で3時間北上するか,それしか方法はないから,日本人が観光に来るには,えらく大変なところだ。
しかし,もし,ラピッドシティを観光した人が,さらにディープなアメリカを知りたいのなら,日本では決して見ることができない,そして,アメリカでもほとんど見ることができない延々と続く大平原をながめながら3時間北上してメドラに行き,ここで2泊して,テオドア・ルーズベルト国立公園とサカカウェア湖とメドラミュージカルを堪能することをお勧めしたい。
あるいは,2時間のドライブでビスマルクから来ることもできる。
そうすれば,そして,幸いにも天候に恵まれるのなら,他の人が経験できない,そして,他のどこでも体験できない一生の思い出となる最高の旅が実現することになるであろう。そして,この旅は,人生感をも変えてしまうであろう。
私がそうであったように。
2012アメリカ旅行記-すばらしきノースダコタ⑦
やっとのことで,決心をして,山を下り,再び車に戻った。今だ興奮冷めやらぬ,という状況であった。
国立公園のループドライブを走って,インターステイツ94を眼下に眺められるスカイラインビスタという展望台からの景色を楽しんでから,サウスユニットのゲートに戻った。ここにはビジターセンターがあって,展示やら少しだけだか土産やらを売っていた。
結局2時間半以上を国立公園で過ごすことになった。
国立公園のゲートを出ると,すでに午後6時を過ぎていたので,そろそろミュージカルを見るために,野外劇場にいくことにした。
劇場は,メドラの町の西はずれにあった。チケットを購入したみやげ物店を過ぎたところを南に曲がると,町に沿って南側に鉄道が走っているので,その踏み切りをわたり,小高い山を登っていくと,広い駐車場に出た。
そこの先がスキー場のゲレンデのように坂になっていてそこに客席があり,谷を見下ろすような形に野外劇場があった。
その向こうには,国立公園で見たものと同じ景色が広がっているという,すばらしいロケーションであった。
駐車場の反対側には,バーベキューをする一角があって,そこがピッチフォースステーキフォンデューの会場であった。
すでに,肉が大きな棒に差されて焼かれており,準備万端であった。
客は,フォークとナイフをもらって,自分で好きな付け合せをプレートによそって,最後に肉をもらい,好きな席で食事をする,という按配だった。
場内にはステージがあって,そこではカントリーの演奏が行われていた。すずしいこともあり,しかも,景色も美しく,最高の雰囲気だった。
当日は,老人会の団体が来ていて,思い思いに食事を楽しんでいた。
100歳になるというお年寄りが紹介されて,みんなで祝福した。
アメリカでは,こういうことが頻繁に行われている。退役した軍人さんをたたえる,ということも頻繁に行われている。
こういうのはとてもアメリカらしい。
この国の人は,どうして,こうも人生を楽しんだり,人生の苦労をねぎらったりすることが上手にできるのだろうかと,いつも思う。
午後7時30分になって,ステージツアーがはじまった。
ステージツアーの参加者は20人くらいだっただろうか。
ミュージカルがはじまる前の客席に集まって,まず,このミュージカルがはじまった歴史やら演目やらといったことの説明を受けた。そしていよいよステージツアーが開始された。
ステージに案内されて,様々な舞台層装置やらを見ることができた。
楽屋にも入ることができた。
楽屋裏には,大道具とともに,当日登場する馬が数頭,おいしそうにえさを食べていた。ステージのあるか向こうの山の頂には,このミュージカルで重要な役割をする生きたムースが1頭いた。
2012アメリカ旅行記-すばらしきノースダコタ⑥
ループドライブを少しはなれて,別の道を少し進み,この先までいけるのかな,というような山を登ると,広い駐車場に出た。そこに車を止めると,近くに山道があって,人がふたり降りてくるのが見えたので,彼らの下ったその道を5分くらい登ってみると,この国立公園のもっとも高い地点へ出た。
突如,360度の絶景が広がった。
ここが,この旅のクライマックスだった。
自分がこの公園のなかで一番高いところにいるのだ。
風が強く,飛ばされそうになりながら,夢中で写真を撮った。
最高の景色だった。こんな絶景は今まで見たことがなかった。本当に360度の展望,なのだ。地球のてっぺん,なのだ。しかも,この景色は,あるところは地球創世記を思わせるような岩山が続いていて,また,あるところは渓谷がつらなり,また,別のあるところは,侵食した山々がつらなっており,人の創造物はまったく見えないのだ。
この景色を知らずして,何を語ることができようか。
この先も,これほどの絶景をみることはないであろう。
地球が丸いことも実感する。
以前,グランドキャニオンを見たとき,人間の作ったものは,これに比べれば,なんと情けないものか,と思ったが,ここは,それ以上だった。グランドキャニオンですら360度の絶景ではないし,人が多すぎる。
どんな山でも,登れば,山頂で360度の絶景をみることはできるが,眼下に人工物のない,それも,これほど変化にとんだ,地球創世記のような,そんな風景は見られないであろう。
もし,この場所で満点の星空を眺めたら,どんなにすごいことだろうか,とも思った。
そうして,しばらくこの絶景に浸りきっていたけれども,最後まで他の人はだれも来なかった。
本当に,地球を独り占めしていた。
この景色を,いつまでもいつまでも見ていたかった。
2012アメリカ旅行記-すばらしきノースダコタ⑤
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メドラのダウンタウンを目指し,インターステイツ94を降りる。
メドラの町は,ちょっとした高原のリゾートタウンのようで,町の端に予想以上にたくさんロッジが立ち並んでいたから,予約をしておけばここに宿泊できたのだ。そういえば,インターネットのメドラのサイトにここの宿泊施設が載っていて,結構手ごろな値段で予約できたので,日本でそうしようか迷ったことを思い出した。
適当に車を止めて,まず,カーボーイ博物館へ入った。結構大きな博物館で面白かったが,時間がないので,早々に後にする。
次に,近くに観光案内所があったので,中に入る。午後2時ごろだった。
メドラの地図をもらい,メドラ野外ミュージカルと国立公園のことを聞く。
まず,メインストリートの西端にあるチケットを売っているみやげ物店でチケットを入手して,その後,国立公園へ行き,夜,ミュージカルを見ればいい,と言われた。ミュージカルは夜8時半から。国立公園のサウスユニットは1周するのに2時間くらいだということだった。
みやげ物店へ行って,チケットを購入する。すごく親切にいろいろと説明をしてくれて,ミュージカルは夜8時30分からで,終了するのが10時半。 -きょうのホテルが決まっていてよかった- その前の午後6時半から,ピッチフォースステーキフォンデュー,12オンス(340グラム)のステーキが食べられるのだという。そして,午後7時半からはステージの裏手に上がって,楽屋裏のツアーがある。そのセットを薦められたので,せっかく来たのでそれらをすべて予約することにした。全部で70ドルくらいだった。安い!
ステーキを食べるのはいいけれど,レストランでひとりだけというのもどうかなあ,と日本で調べていたときに躊躇していたのだけれど,実際に来てみると,そういうものではなく,これは最高の選択だった。
チケットを入手して,まだ,昼食をとっていなかったのを思い出して,メドラの街中にあった売店でハンバーガーを買って,急いで食べながら,国立公園を目指した。
国立公園のサウスユニットは,ノースユニット以上にすばらしいところだった。
ゲートを越えると,はじめにインターステイツ94をまたぐ橋を通る。インターステイツ94自体が国立公園の南端を駆け抜けているのだ。その後しばらく走ると道は二股に分かれてループになる。どちらから進んでも1周できるループドライブだ。道からはどこも見ても360度の絶景で,バッドランド国立公園と双璧だった。
テオドア・ルーズベル国立公園のよいところは,なんといっても,ほとんど観光客がいないことだ。まさに,国立公園を独り占めにできる状態なのだった。
途中に,バッファローの群れが住む平原があった。さらに,別のところでは,野生の馬に出会った。また,別のところでは野生の鹿に出会った。挙句の果ては,バッファローの親子連れが目の前に居座り,車が通過できなくなり,しばらくそれがとおり過ぎるのを待つという状況になった。
このときは,さすがに恐怖すら覚えた。いくら高速でバックしても,バッファローの速さにはかなわないであろうから。
そうして,極めつけは,バックヒルというところだった。
2012アメリカ旅行記-すばらしきノースダコタ④
テオドア・ルーズベルト国立公園は「地球の歩き方」のアメリカの国立公園編にも掲載されておらず,情報のほとんどなかったし,たいして期待もしていなかったが,実際は予想を絶する雄大さとすばらしい景観だった。
テオドア・ルーズベルト国立公園は,ノースユニットとサウスユニットに分かれている。
どちらのユニットもビジターセンターのあるゲートから,15マイルほど道が伸びていてドライブすることができる。
ノースユニットに行くには,インターステイツ94を通るベルフィールドから北に国道85を数時間どんどんと走るか,私がそうしたように,ワットフォードシティから国道85を南に下るしかない。
ノースユニットのビジターセンターに着いたが,道路ががけ崩れで,ノースユニットの道路はキャプロッククーリートレイルから先が閉鎖されているという。でもそこまでは行けるので,行って引き返してくればいい,とレンジャーに言われた。
そこで,ともかく行ってみることにした。
しばらく走っていくと,デイキャンプができるピクニックエリアがあって,それを過ぎると,今度は,ロングホーンという野生の牛の群れがいる平原があった。そのはるか向こうにはバッファローの姿もあった。そこで,望遠レンズでロングホーンの写真を撮っていたバイクに乗った2人組に出会ったので,私はこの地ではめずらしい日本人の観光客で,日本からわざわざノースダコタ州に観光で来たのだけれど,君たちの使っているキヤノンは私の国日本のカメラではないか,といったくだらない話をした。
その後にすれ違ったのはわずかに数台だった。ここには,人がほとんど来ない。したがって,絶景を独り占めにできることになるのだ。
これは限りなく贅沢なことに違いない。
やがて,レインジャーに言われたとおり,道はクローズされ,途中までしかたどりつけなかった。
ここの駐車場に1台だけ車が止まっていて,キャプロッククーリートレイルを歩いている人がいた。
途中から先に行くことができなかったのは残念であったけれど,人がいない絶景を堪能したことに満足して,ノースユニットをあとにする。
今度は,サウスユニットをめざして,国道85を南下した。
国道85を走っていくと,右手には国立公園の壮大なバッドランド,左手には雄大な牧草地帯と真っ黒い牛の群れ,そして,ところどこに石油を掘る井戸が見えてきた。
何度も思うが,なんというすごい景色だろうか。
そんな状態が,この先もこの先も,延々と続いて,そうして,ついにインターステイツ94を通るベルフィールドに到着した。
インターステイツ94に入ってしばらく西に進むと,メドラという小さな町に着いた。
この町こそが,ノースダコタ州最大観光地であり,サウスユニットの入り口である。
2012アメリカ旅行記-すばらしきノースダコタ③
道路はまだ延々と工事中ではあったけれど,それでも,相変わらず雄大なことに変わりはない景色を眺めながらさらに進んでいくと,州道22は,やがて行き止まりとなり,東西を通る州道23とぶつかった。
この道を左折して西へ行かなくてはならないのだが,まだ,時間に余裕があったので,ひとまず反対側に右折して,ニュータウンという名前の町まで行ってみることにした。
右折すると,すぐに大きな湖が現れて,長い橋がかかっていた。
これがサカカウェア湖だった。
湖畔には,野生動物保護区や公園やリゾート施設があった。橋の手前にはインディアンに関する役所があったり,湖畔にまで降りられる道があったりした。
私は,ここにあったガソリンスタンドで車を止めて小休止した。飲み物を買ってから再び出発して,橋を渡ってさらにしばらく走ると,ニュータウンという小さな町の賑わいに出た。
道路の両端に駐車帯のあるこの場所が,ニュータウンのダウンタウンなのだろう。
銀行やら,スーパーマーケットやら,ガソリンスタンドやらがあった。でも,ここもどうやらそれだけの町だった。
ここで引き返し,州道23を西に進むことになった。
改めて逆の車線から外を見ると標高が高いところから見下ろす形になって,橋が湖に溶け込んでいて,すばらしい景色だった。
そのような州道23を進んでいくと,この道は,その後,一旦南下をして,ふたたび西に逆L字型にもどった。そのまましばらくしたら,ワットフォードシティという町に着いた。
もう少し先まで行けば,今,シェール石油開発で人が押し寄せ,泊まるところもないと日本のNHKBSの番組で放送していたウィリストンという町にたどり着くはずだ。
ワットフォードシティにも大きな石油会社があって,州道23は石油を運ぶトレーラーで一杯だった。
このワットフォードシティで,さらにウィリストンをめさして西に進む州道23を離れ,左折して,進路を南に取り,今度は国道85を走る。
そうして,しばらく行くと,右手西側に,延々と,バッドランド国立公園で見たのと同じような風景が広がり始めた。
これがテオドア・ルーズベルト国立公園だった。
2012アメリカ旅行記-すばらしきノースダコタ②
早朝,ここにホテルを確保したことは,結果的に大正解 -メドナに泊まればもっとよかったのだか- であった。
・・
きょう1日でノースダコタ州のどこまで行くことが出来るかを地図を見ながら考えてみると,まだ朝早いので,ここディキンソンから州道22をそのまま北上して行けば,ノースダコタ州の中央部にあるサカカウェア湖畔にまで足を伸ばせそうだった。
そうして,そのあたりまで行ったら進路を西にとってワットフォードシティという町まで行って,今度は南に進路を変更して,コの字型にルートをとり,州道85を下れば,ちょうど,テオドア・ルーズベルト国立公園のノースユニットのゲートに到着し,さらに南下して,インターステイツ94のベルフィールドまで戻ってくれば,その西にあるメドラに着く。
メドラには公園のサウスユニットのゲートがある。
…そうしたコースが作れることがわかった。
そこで,ディキンソンからインターステイツ94を横切って,州道22をひたすら北上することにして,車に乗り込んだ。
きょうは平日。ディキンソンはちょっとした通勤ラッシュの真最中だった。町の北側に大きな会社があるようで,車線を広げている工事中の州道22はただでさえ走りにくいのに,やたら会社の駐車場に入れるために右折する車があるようで,渋滞気味だった。
それでも,その地点を過ぎると,あっという間に市街地は終わって,また,一面に牧草地が広がるようになった。遠くに見える黒い点の集まりは牛の群れだ。
サウスダコタ州との大きな違いは,石油だった。
一面の牧草地に時折見えるのは,石油を採掘する旧式の井戸。そして,ひときわ目立つのが,シェール層から石油を発掘する新型の掘削タワーと採掘した石油をストックするのであろう石油タンク群。
ノースダコタ州の西部からモンタナ州,そしてカナダに広がるバッケン油田は,シェール層という岩盤に大量の石油が眠っているということだったが,石油の高騰と技術の革新で,不可能であるとされてきたシェール層からの石油の採掘が採算的にも可能になって,現在,オイルラッシュの真只中。
労働者が全米から押し寄せ,ノースダコタ州は好景気に沸いている。失業率は1パーセント以下である。
アメリカは石油の輸出国に転換するということだ。
うわさには聞いていたけれど,本当に目の当たりにすると,なぜかものすごく感動する。
そんなわけで,道路も拡張工事中ばかり。道路工事用のトレーラーと石油を積んだトレーラーが頻繁に通過する。とはいっても土地は広く,道も広いので,雄大な景色に変わりはない。
さらに,なお,延々と平坦な景色が続いて,それでも,日本ではこんな景色は見たことがないので,いつまでもいつまでもずっと感動しながら走っていくと,やがて,本当にしばらくして,州道22がリトルミッスーリ州立公園に近づいたころ,急に景色が変わり,地層の連なりが脈々と見えるビュート,そして,奇妙な形の山並みが続く,まったく別の風景になった。この景色であれば,日本なら超一流の国立公園だ。
道も,これまではまっすぐだったのが,谷をぬうように曲がりはじめた。
確か1年ほど前,このあたりは水禍に見舞われたところである。このあたりの道路工事は拡張工事か,はたまたその復旧か。
その先も,延々と,そうした景色が続いていたが,やがて,しばらくして,ようやく,大きな川の見えるところまで来た。
2012アメリカ旅行記-すばらしきノースダコタ①
☆5日目 7月25日(水)
朝5時起床。ホテルに朝食コーナーがあったので,とりあえず,シリアルとコーヒーをとる。他のお客さんが来て,雑談をする。彼女は,私を,時間をつぶしているホテルのフロントマンと勘違いしていたようだった。
朝食を終えて,部屋に戻って,バッグを車に入れ,チェックアウトをする。とはいえ,フロントには誰もおらず,フロントの机の上には部屋のキーが一杯ちらばっていたので,同じようにキーを置いて,勝手にチェックアウトをした。
まだ,午前6時だというのに,どの客もチェックアウトが早い。観光施設もほとんどない町でのんびりしていても,どうしようもないから,みんな先を急ぐ。給油地のような町だ。
国道85に沿って進む。町の北のはずれに,博物館という小さな建物があったが,何が展示されていたのかは,行かなかったのでわからない。
きょうは1日,ノースダコタ州をまわれるだけまわろう。そして,最終の目的地はノースダコタ州の一番の観光地だというメドラであるが,どういうところか想像がつかない。
まず,ノースダコタを東西に走る主要道路インターステイツ94を目指すことにして,ともかくこの国道85をインターステイツ94の走るベルフィールドという町まで北上した。
はじめは晴れていたが,しばらくして,あたり一面霧になった。車の窓からは何も見えなくなった。
朝霧は晴れという。きょうも天気に恵まれそうだ。
あたり一面真っ白な中を,道の黄色線だけを頼りに慎重に走る。
時折,すれ違う車のライトと,前を走る車のバックライトだけが妖しく光る。
本当に,ずっと真っ白いだけの不思議な世界が続く。時折,霧のはれたところにきて,一瞬,きのう見た大平原と牧草の緑色があざやかになるが,また,すぐに,真っ白な世界に舞い戻る。
そんな,真っ白な世界が永遠に続いている。
本当に本当にしばらく走っていくと,やっとのことで,霧が晴れわたる。すると,夢から覚めたように,緑色の色彩に目を奪われた。そして,牧草地に道だけがまっすぐに伸びる,そんな,これまでの風景に舞いもどった。
この道を,また,しばらく走ったら,やがて,遠くにベルフィールドの町が見えてきて,右手前方にモーテルがあった。そして,そのはるか向こうに,ノースダコタ州を東西にまっすぐ横断するインターステイツ94が走っているのが見えてきた。
インターステイツ94に沿った町で,きょうの宿泊先を探そうと思った。といっても,ホテルのありそうな町は,この国道85とインターステイツ94が交差するベルフィールド,その東のディキンソンくらいだった。その次は,もう,ビスマルクになってしまうので,きょうの目的地のメドナからは遠すぎる。
確かにベルフィールドにはモーテルが存在したが,なぜか宿泊する気が進まず,次の大きな町であるディキンソンを目指し,インターステイツ94を東に走ることにした。
午前8時ごろ,ディキンソンに到着した。この町も,例によって,インターの近くに数件のホテルやガソリンスタンド,そして教会や学校,住宅地がある町だった。町の中の道路はどこも工事で,車線の規制があって走りにくかったが,ともかく,一番手前にあった「スーパー8」に入る道を見つけてなんとか右折して,ホテルの駐車場に車を止めて,フロントへ行った。
ノンスモーキングのシングルという条件の部屋が空いていないかと聞いたが,部屋がないということを言われた。親切なフロントのおばちゃんは,隣のホテルに聞いてみるといって電話をかけてくれた。
道の向こう側に,「セレクトイン」というホテルがあって,そこには希望の部屋があるということだったので,そこまで道を横断して歩いて行って,ホテルに入ると,すでに連絡を受けていますといった顔をしたフロントの男性がチェックインの手続きをした。結構値段が高かったが,仕方がない。
石油ブームでノースダコタ州はホテルが取れないという話は,まんざらうそでもないようだった。
もう,部屋に入っていいということだったので,とりあえず,部屋にカバンだけ入れて,改めて出発だ。