しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国50州 > ワシントン州

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●セントへレンズ火山国定公園(Mount St.Helens National Volcanic Monument)
 セントへレンズ火山国定公園の魅力はダイナミックな火山を目の前で見る,ということに尽きます。そのすごさは富士山の比ではありません。なにせ,人工物はまったくないのですから。
  ・・
 セントへレンズ火山国定公園は,火山の近くまで行くアクセスルートが北西,北東,南の3か所あります。そのうち,南のルートは噴火跡が見られないので,私は残るふたつのルートを選び足を運びました。
  ・・
 まず,北東のコースから登りました。このコースは山頂にウィンディリッジ(Windy Ridge)という展望ポイントがあります。そこまで登る道路は快適なのですが,そのまわりは火山の噴火による爆風で倒れた樹木が無残な姿をさらしていて,それは壮観でした。また,途中にスピリットレイク(Spirit Lake)という大きな美しい湖が眺められました。
 展望ポイントに到着しても,ほとんど人がおらず,とても魅力的なところでした。
  ・・
 次に北西のルートをまっすぐにジョンストンリッジオブザバトリー(Johnston Ridge Observatory)まで向かいました。このルートは車で噴火口まで最も近くに行くことができる場所にあるビジターセンターということで,北東のルートとはまったく違って,多くの人でごった返していました。
 ジョンストンリッジオブザバトリーで,まずは,ビジターセンターを横に,展望台に行って,火山の風景を楽しみました。すごい風景でした。そのあとで,ビジターセンターに入りました。
 ということで,私のだどったのは一般の観光客と順路が反対だったのです。そこで,結果的に出口からビジターセンターに入るような形となってしまいました。
 セントへレンズ火山は国立公園局の管轄ではなく,農務省森林局の管轄で,ビジターセンターもトレイルも有料なのです。しかし,出口から入った形となってしまった私は,その入場料を払わなくてもビジターセンターに入れてしまったのです。
 ジョンストンリッジオブザバトリーはものすごく混雑していました。私は悪気もなく,入館料が必要なこともまったく知らず,混雑した中を,映画が上映されるシアター「シネドーム」(Cinedome)に向かって押し合いへし合いしながら入っていって空いた席に座りました。
 この映画を見終わると,スクリーンが開いてその向こうに,実物の火山を見ることができるという演出で,これがすばらしいものでした。本来は,そうしてはじめて火山を見てから,実物を見にいくという仕掛けだったのですが…。


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 シアトルの町からはマウントレイニーの姿が美しく見ることができて,いつも感動します。日系の人たちはシアトル富士,あるいはタコマ富士ともよんでいます。また,ポートランドの町から見えるのはマウントフッドで,こちらはオレゴン富士とよばれています。
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 飛行機がシアトルを飛び立つと,機内からは眼下に美しい雪山をいくつか見ることができて感動しますが,それらは,北から順に,標高4,392メートルのマウントレイニー(Mount Rainier),その約80キロメートル南西に標高2,550メートルのマウントセントヘレンズ (Mount St. Helens),約50キロメートル東に標高3,743メートルのマウントアダムス(Mount Adams),そして,約100キロメートル南東の地点に標高3,429メートルのマウントフッド(Mount Hood)です。
 日本でも身近な存在であるこれらの山々のうちで,ここでは,マウントレイニー国立公園とセントへレンズ火山国定公園を紹介します。

●マウントレイニー国立公園(Mount Painier National Park)
 マウントレイニー国立公園(Mount Rainier National Park)は1899年にアメリカ5番目の国立公園として設立されました。公園は953平方キロメートルの面積があり,これは東京23区の1.5倍ほどです。
 成層火山であるマウントレイニーはカスケード山脈の中で最高峰。アメリカの先住民は,この山の神々しい姿を畏れ,神の宿るところ(Tahoma)とよんでいたといいます。

 例年だと,およそ130万人がこのマウントレイニー国立公園を訪れ,そのうちの約1万人がマウントレイニーへの登頂を目指し,そのうち25パーセントだけが登頂に成功するそうです。また,マウントレイニーは,公園の97パーセントが原生地域として保護されています。
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 シアトルから近いので,私は,マウントレイニー国立公園に2000年夏,2015年夏,2017夏の3回行ったことがあります。ちょうど東京から富士山にいくようなものでしょうか。しかし,国土が広いので,日本のように混雑することもなく,きわめて快適です。
 中でも,2015年に行ったときは,マウントレイニー国立公園をはじめとして,のちの紹介することになるオリンピック国立公園,セントへレンズ火山国定公園,そして,クレーターレイク国立公園まで足をのばしましたが,このときは,マウントレイニー国立公園の北東の入口から国立公園入って南に走り,西に進路を変えて南西のゲートに進むというコースで観光しました。
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 マウントレイニー国立公園の1番の見どころはパラダイス (Paradise)という場所です。パラダイスはマウントレイニーの南斜面,高度1,647メートルの地域です。
 マウントレイニー国立公園最大の魅力であるナラダ滝(Narada Falls)は,マウントレイニーハイウェイのふたつの層の間の横切っていて,簡単に見ることができます。滝は168フィート(51メートル)と20フィート(6.1メートル)のふたつの層からなっていて,188フィート(57メートル)の落下をします。上層はほぼ切り立った崖の下のいくつかのストランドに落ちる馬尾状になっていて,垂直な峡谷に落ちます。下層ははるかに小さなプランジ状です。この滝の透き通った流れはいかにも涼しげです。
 私が行ったときは,滝壺で若い女性がふたり,びしょ濡れになりながら遊んでいました。

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●ノースカスケイズ国立公園(North Cascades National Park)
 私はグレイシャー国立公園の帰りに寄ったので,実感がないのですが,ノースカスケイズ国立公園は意外なほどシアトルに近いのです。しかし,アメリカで最も北を横断するインターステイツ90よりも北にあるのでうっかりします。私は,グレイシャー国立公園に行かなければノースカスケイズ国立公園には行くことはなかったと思うと,その偶然に感謝します。
 行ってみてわかったのですが,先に書いたウィンスロップの町,そして,ノースカスケイズ国立公園,このふたつの場所こそ,もし私がシアトルに住んでいたら,毎年夏に行きたくなるすばらしい場所に違いありません。
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 ノースカスケーズ国立公園は通常の国立公園とは異なりゲートがないので無料です。
 この国立公園は,州道20沿いにある展望台や道路から景観を眺めるだけでもすばらしいのですが,トレイルもあって,ちょっとしたハイキングができます。目の前には標高2,700メートル級の雪を被った山々が圧倒的な迫力で迫ってくるし,ワシントン峠(Washington Pass)から展望すると, Liberty Bell Mountain の姿が圧巻です。
 さらに,州道2を2マイル西に進むと,レイニー峠(Rainy Pass)に差しかかります。ここにはRainy Lake に至るトレイルがあって,私も歩いてみたのですが,Rainy Lake までは往復3キロメートル,1時間ほどのたのしいハイキングができます。
 Rainy Lake は静かなすばらしい湖です。湖に着くと,そこにあるのは,景色を楽しむ展望デッキだけなのですが,鮮明できれいな山の空気と鳥の鳴き声が混ざり合い,静かな時間を過ごすことができました。

 ノースカスケーズ国立公園にはおまけがあります。
 それは,州道20をさらに西に,シアトルに向かって進んでいくと,巨大な湖が点在していて,そのすばらしい眺望を楽しめることです。それらは,ロス湖(Ross Lake),ディアブロ湖(Diablo Lake )です。
 また,私は行くことができなかったのですが,ノースカスケーズ国立公園には,国立公園の園外にあたる南にシュラン湖(Lake Chelan)があります。シュラン湖は水深が433メートルもある氷河湖です。南北80キロメートルに及ぶ湖畔は道路すらなく,シュラン(Chelan)という町からだけ神秘的な風景が望めるのだそうです。また,湖の北岸にステヒーキン(Stehekin)というビレッジがあって,そこには,シュランからフェリーか水上飛行機でないと行くことができないということです。
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 とまあ,いろいろ神秘に満ちているのですが,私が最も記憶に残っているのは,それ以上に,ウィンスロップの町からノースカスケイズ国立公園に行こうとして道に迷ったこと。
 ワシントン州の山の中であわや遭難,というありさまは,今も恐怖がよみがえります。


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●落ち着いた美しい町ロングビュー●
 シアトルを出発して,マウントレイニー国立公園,オリンピック国立公園,そして,セントへレンズ火山国定公園と周遊してきた。それとともに次第に南下して,この次にめざすのはオレゴン州のポートランドであった。
 この日はセントヘレンズ火山国定公園から州道504を西に走り,インターステイツ5に出て,さらに南に,ロングビュー(Longwiew)という人口35,000人ほどの比較的大きな町にあるクオリティインに泊まることになった。
 ロングビューはインターステイツ5沿いの町で,カウリッツ川(Cowlitz River)とコロンビア川(Columbia River)の合流点にある。ここからオレゴン州のポートランドまでは30分ほどである。

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 ロングビューは,かつて地元の先住民族の祖先の墓地のある場所だった。
 1849年,開拓者ハリー(Harry)とレベッカ・ジェーン・ハンティントン(Rebecca Jane Huntington)が率いるヨーロッパ系アメリカ人によって開拓され,はじめはバージニア州のトーマスジェファーソン(Thomas Jefferson)第3代大統領の家を記念して,モンティチェロ(Monticello)と名づけられた。
 1921年になって,この地は,ふたつの大きな製材所を運営するために14,000人の労働者が必要ということで,町が作られた。
  ・・・・・・
 モンティチェロ,懐かしい名前である。私はこの旅をした翌年の2016年に,そんなことは意識していなかったが,偶然,バージニア州のモンティチェロにも行った。

 ロングビューは広い公園のある美しいところであった。ホテルにチェックインをしてから,夕方公園の川べりの散歩をした。涼しく快適であった。
 アメリカに限らず,私が行ったことがあるオーストラリア,ニュージーランドなどでも,海外からの観光客が訪れる,いわゆる「観光地」でない,地元の人たちが日常を過ごすこのような町の多くは,どこも落ち着いていて,暮らしやすそうに思える。
 そこは何があるということでも,特筆すべき名所があるというものでもないが,そういった町は,一般に,とても静かで,広々としていて,しかも,どこもゴミひとつない美しく広大な公園がある。夕方ともなると,住民が散歩をしたり,ベンチででくつろいだり,ジョギングを楽しんだりしている。あまりに広いので,決して「密」が起こることもない。商店は定刻に閉店してしまうが,入りやすそうなレストランが多数あって,そこでは時間を忘れて夕食を楽しむことができる。それもまた,日本のようにせまくなく,空席待ちをする必要もない。
 私もこの日,町の1軒のレストランに寄ってステーキを食べた。
 日本には,どこに行こうと,こうした町がないのが残念である。しまった,書いていたら,また行きたくなってきた。

◇◇◇

💛

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●ジョンストンリッジオブザバトリー●
 多くの国立公園はゲートで入園料を払うようになっているが,セントへレンズ火山国定公園は,3つのルートとも,入口にゲートはなく,無料で最終地点までいくことができた。
 セントへレンズ火山国定公園の園内には,マウントセントヘレンズビジターセンター,コールドウォーターリッジビジターセンター,ジョンストンリッジオブザバトリーの3か所のビジターセンターがある。
 マウントセントヘレンズビジターセンターはインターステイツ5から降りた直後にあり,シルバーレイクの湖畔に建っている。こんな場所で時間を使っていては私が予定したふたつの展望台に行けなくなるのでパスして登っていった。
 セントへレンズ火山に近づいていくとコールドウォーターリッジビジターセンターがあった。このビジターセンターにはブックストア,ギフトショップ,そして,カフェテリアもあるし,400メートルほどハイキングが楽しめる「Winds of Change」トレイルがあったらしいが,私はそれをまったく覚えていない。
 その先,まっすぐにジョンストンリッジオブザバトリーまで向かった。ここは車で噴火口まで最も近くにいくことができる場所にあるビジターセンターである。

 まずは,ビジターセンターを横に,展望台に行って,火山の風景を楽しんだことは前回書いた。そして,そのあとで,ビジターセンターに入った。
 ジョンストンリッジオブザバトリーは,1980年の噴火の生物学的および地質学的影響の調査に関する展示を目的として建てられたもので,詳しい展示があるのは,どの国立公園のビジターセンターも同様であるが,さらに,噴火時の様子を伝える16分の映画が上映されていてこれがウリだ。
  ・・
 これを書きながら思ったのだが,日本の富士山には,こうしたビジターセンターはあるのだろうか? 私は登ったこともないし,登ろうとも思わないので実際のことは知らないが,聞くところでは,富士山登山はすごい人らしい。しかも無料である。
 このことが,何でもアメリカ基準の思考が身についてしまった私にはまったく理解ができない。日本の多くの山と同様に,富士山は観光地ではなく,信仰の山,だからであろうか?

 実は,セントへレンズ火山国定公園は登りのルートは無料だったが,3つのビジターセンターはすべて有料だったのである。しかし,私はそのことをまったく知らなかった。ジョンストンリッジオブザバトリーはものすごく混雑していた。入口を入ったところのホールの真ん中に受付があって,そこで「自発的に」入館料を払うことになっていたらしい。ただし,お金を払っても,そのあとでなんらかのチェックはない。私は悪気もなく,入館料が必要なこともまったく知らず,混雑した中を,映画が上映されるシアター「シネドーム」(Cinedome)に向かって押し合いへし合いしながら入って行ってしまった。
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 映画を見終わると,スクリーンが開き,その向こうに,実物の火山を見ることができるという演出で,これがすばらしかった。アメリカのこうしたアトラクションはどれも非常に凝っている,というか,すべてがディズニーランドと同じ手法,というより,ディズニーランドがマネなのである。
 考えてみれば,展望台に行く前にビジターセンターに入って,映画を見終えたときにはじめて本物の火山を見るという,劇的な演出がされていたのだ。しかし,私は,先にもうひとつのルートを登って,すでに火山を見てしまっていたし,さらに,ここでも,先に実物の火山を見てしまっていたから,映画の演出がムダになてしまったようだった。
 こうしていろんなことがあったが,ともかく,セントへレンズ火山を堪能して,インターステイツ5に戻ることにした。
 帰り道で,来るときにパスしたマウントセントヘレンズビジターセンターに寄ろうと思ったが,すでに閉館時間を過ぎてしまっていて,なかに入ることができなかったのが少し残念であった。

💛

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●ジョンストンリッジ展望台●
 北東のルートを降りて,予定どおり次に北西のルートでジョンストンリッジ展望台をめざした。
 北西のルートの入口に行くには大回りをして再びインターステイツ5までもどって,北西のルートに行かなければならない。
 マウントセントへレンズをアナログ時計の円の中心に置いたとき,北東ルートの入口はアナログ時計の3時の位置であり,北西のルートは9時の位置になる。そして,行かなかった南のルートは6時の位置になるのだ。
  ・・
 これから目指す北西のルートの終点はジョンストンリッジ展望台(Johnston Ridge Observatory)である。ジョンストンリッジ展望台は標高1,280メートルの尾根にある,火口に最も近い展望台である。大噴火のとき,ここで観測していて犠牲になった火山学者デイヴィッド・ジョンストン(David Alexander Johnston)の名前からつけられた。
 ジョンストンリッジ展望台から火口までは9キロメートルほどの距離で,馬蹄形のクレーターを真正面から眺めることができるので,一番人気のところである。それに加えて,インターステイツ5からアクセスできるので,便利でもある。

 マウントセントへレンズの火口は,このときは小康状態だったので,何事もなく観光することができたが,火山の活動状況によっては園内の道路が閉鎖されることもある。
 それは,阿蘇山や箱根の大涌谷と同じである。私は幸運にも,阿蘇山も箱根の大涌谷に行ったとき平穏であったが,ここもまた,ともにその1年後は火山活動が活発になって閉鎖され,アクセスできなかった。
 さまざまなブログを見ると,このマウントセントへレンズに行ってはみたがジョンストンリッジ展望台が閉まっていたとかいった気の毒なものもあるので,私はここでもまたツイていたといえるだろう。
 火山活動が平穏なときには,マウントセントへレンズは登頂することも可能だそうだ。しかし,環境保護のため,1日100人に制限されている。こういったことが徹底されているのがアメリカである。登頂は往復で12時間ほどかかるということだが,人気があるのは,南側からのルートということだ。

 北西からのルートは,北東からのルートとはうって変わって,最後まで快適な道路が続いて,難なく到着することができた。また,ここは,北東のルートとは異なり,完全な観光地であり,広い駐車場には多くの車が停まっていた。
 展望台に至る道を登っていくと,ビジターセンターがあった。ビジターセンターの入口も人で溢れていた。私はビジターセンターの横を素通りして,まず,展望台に行った。展望台からは巨大なセントへレンズが間近に迫り,180度にわたって山しかないという光景は,まさに圧巻だった。それにしても,いつも書いているように,ジョンストンリッジ展望台は日本とはまったく違って,意味のない落書きだらけの看板やら赤茶びた老朽化したままの手すりやらも皆無だし,ごみひとつ落ちていない。
 マウントセントへレンズは,噴火以前の姿はまさに富士山と瓜ふたつでtあった。もし富士山が噴火したらこうなるのかと思うと恐ろしくなったことだった。

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💛

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●ウィンディリッジ展望ポイント●
 セントへレンズ火山の登り口は北西,北東,南の3つのルートがあることはすでに書いた。
 セントへレンズ火山は,噴火の際に北西の山腹が大きく崩れたために,山頂が吹き飛んでできた馬蹄形クレーターや溶岩の跡,溶岩ドームなどのドラマチックな風景を見ることができるのは山の北側だけなので,3つのルートのうち,北東と北西に絞って登ってみることにしたのだった。
 よって,南からのルートのことは預かり知らないが,北東と北西のルートのうちでは,北西からのルートが最高であった。しかし,当然,北西のルートは人気があるから,すごい人であった。それにくらべて,北東からのルートは空いていてのどかで,それはそれでよいものであった。

 はじめに登った北東のルートのゴールはウィンディリッジ(Windy Ridge)という展望ポイントで,展望ポイントに着くまでの道路は想像以上に大変であった。
 写真で見ると大したことがないように思えるだろう。そしてまた,日本の山岳道路に比べたらそれは美しく快適であるように思えるだろう。が,それでも,狭くカーブが多かった。しかも,途中までは大した風景も見られず,何度もめげそうになった。
 ところが,やっと見晴らしのよいところに出ると,突然,セントへレンズ火山の恐るべき雄大な景色が姿を現した。大噴火の時に爆風で倒れた樹木は無惨な姿をさらし,そのはるか向こうには火口がえぐられた巨大なセントへレンズ火山の姿であった。
 このコースのよいところは,眼下に広がる巨大なスピリットレイク(Spirit Lake)の全体を見ることができることだった。

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 1980年の噴火以前は,スピリットレイクはノースフォークトウトル川と支流の谷を占めていた2本の支流で構成されていた。約4,000年前,これらの谷はセントヘレンズ山からのラハールと火砕流堆積物によって塞がれ,スピリットレイクを形成したのだった。
 スピリットレイクの最長部分は約2.1マイル,3.4キロメートルで,火山性物質で構成された自然のダムを作っていた。また,水位は安定していて,高度は約3,198フィート,970メートルであった。
  ・・
 スピリットレイクは人気のある観光地で,湖畔には6つのキャンプ場とロッジがあったが,1980年のセントヘレンズ火山の噴火で,すべてが一変してしまった。
 スピリットレイクは火山からの側方爆風の完全な衝撃を受け,この噴火に伴う爆風とがれきのなだれにより湖の大部分が押し出された。
 また,湖の北の海岸線に沿った山の斜面の湖面から850フィート,260メートルほどの高さの波が襲った。この波で,約350,000エーカーフィート,430,000,000立方メートルにわたって熱分解した木やその他の植物材料などのがれきや火山灰などが堆積した。この堆積により,湖の体積は約45,000エーカーフィート,56,000,000立方メートルも減少したのだった。
 そして,湖の表面標高は197フィート,60メートルから206フィート,63メートルに上昇,表面積は1,300エーカーから約2,200エーカーに増加し,最大深度は190フィート,58メートルから110フィート,34メートルに減少した。噴火は周囲の丘の中腹から数千本の木を引き裂き,湖に押し流した結果,噴火後の湖の表面の約40パーセントを覆う湖の表面に浮遊ログラフトが形成された。
  噴火後,スピリットレイクには火山ガスが湖底から染み出し,これが非常に有毒な水となり,1か月後には湖水には酸素がなくなった。科学者は,湖はすぐには回復しないだろうと予測したが,1983年には植物プランクトンが再出現し,酸素レベルが回復,カエルやサンショウウオなどの両生類が湖に再植民し,漁師によって再導入された魚類が繁栄したた。
 自然というのはすごいものだ。
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 ようやくウィンディリッジ展望ポイントに到着した。コースの途中もそうであったが,展望ポイントにもほとんど人がいなかった。しかし,とてもすばらしい風景が広がっていた。
 このコースがすいていたのは,このコース以上に北西のコースがすばらしいことと,こちらの方がアクセスがきわめて不便であることが原因だと思われる。しかし,この展望ポイントからの風景を見ないというのは,あまりに残念なことだと思った。

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💛

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●セントへレンズ火山の噴火●
 マウントセントヘレンズ(Mount St. Helens)は大型の活火山である。
 カスケード山脈の一部にあって,先住民族のクリッキタット(Klikitat)からは「煙と火の山」という意味の「ロウワラ・クロウ(Louwala-Clough)」とよばれていたが,18世紀後半にカスケード山脈の調査を行ったイギリス海軍の航海士ジョージ・バンクーバー(George Vancouver)によって,友人であった外交官の初代セントヘレンズ男爵アレイン・フィッツハーバート(Alleyne FitzHerbert, 1st Baron St Helens) にちなんでマウントセントヘレンズと名づけられたものである。
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 セントヘレンズ火山は,1980年5月18日に大噴火を起こした。
 この大噴火によって大規模な山体崩壊を起こし,直径1.5キロメートルにわたる蹄鉄型のカルデラが出現,山の標高は2,950メートルから2,550メートルに減少した。崩壊時に土砂は岩屑なだれとなり,200軒の建物と47本の橋を消失させ,57人の命を奪い,5,000頭のシカや1,100万匹の魚が死亡した。また,鉄道は24キロメートル,道路は300キロメートルにわたって破壊された。
 火山灰や火砕流、泥流、そして岩屑なだれなどの被害は概ね火山学者たちが事前に予測した通りの範囲で起きたが,横なぐりの爆風は予想外であり,大噴火を予測することもできなかった。
  ・・
 2004年秋,セントヘレンズ火山の活動は再び活発化した。9月23日ごろ,山頂においてマグニチュード1未満の微小地震が約200回にわたって連続して発生し,9月26日には,この群発地震を危険な兆候と捉えレベル1の警戒が発令された。地震の頻度は9月29日ごろに最大化し,1分間に4回の割合で微小地震が観測された。山頂の溶岩ドームからは水蒸気が立ち上り,警戒レベルが2に引き上げられた。
 10月1日になると水蒸気や火山灰の噴出がはじまり,噴煙は標高3,000メートルに達し,10月2日には,前日よりも強い爆発が起き,警戒レベルが最大レベルである3に引き上げられた。が,10月6日には警戒レベルは引き下げられた。それ以降も,山頂の新たな溶岩ドームは,1秒間に10立方メートルの割合で成長を続け,このペースで溶岩ドームが成長するならば,2015年にはセントヘレンズ火山の標高は1980年の噴火前と同じ高さに達するだろうと推測された。
 翌年2005年の3月8日,セントヘレンズ火山を再び大規模な火山活動が襲い,噴煙が海抜1万メートルにまで立ち上り,マグニチュード2.5の地震が観測された。5月5日,セントヘレンズ火山の山頂にできた新たな溶岩ドームは,最高点の標高が2,339メートルであると発表された。
 この溶岩ドームの活動は2008年1月に止まり,6月10日には噴火活動の終息が宣言された。
  ・・・・・・

 マウントセントヘレンズは火山灰や軽石などの噴出物が溶岩とともに円錐状に堆積した山で,複式円錐火山ないし成層火山とよばれる内部構造をしている。また,複数のデイサイトの溶岩ドームが崩壊してできた玄武岩と安山岩の層が含まれている。 
 マウントセントヘレンズから東に約55キロメートル行った地点には標高3,743メートルのマウントアダムス(Mount Adams)が,北東に約80キロメートル離れた地点には標高4,329メートルの最高峰マウントレイニー(Mount Rainier)が,また,南東に約95キロメートルの地点には標高3,429メートルのマウントフッド(Mount Hood)が位置している。これらの山々は飛行機に乗るととてもよく見えて,その山々の雪を被った頂きを上空から見ると,いつも感動する。
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 マウントセントヘレンズの北側に位置するレイクスピリットは,有史以前の噴火によって谷が堰きとめられてできた湖である。また,マウントセントヘレンズからは3本の河川が流れている。それらは,山の北側から北西側に流れるトートル川(the Toutle River),山の西側に流れるカラマ川(the Kalama River),山の南側から東側に流れるルイス川(the Lewis River)である。

◇◇◇
正代関,初優勝と大関昇進,おめでとうございます。
ずっとこのブログで書いているように,白鵬さえいなければ,大相撲はおもしろいのです。そんな横綱も全盛期を過ぎ,次の主役を求めて,相撲協会も懸命です。
もし,今,稀勢の里関が全盛期であれば,最強の横綱だったことでしょう。白鵬の全盛期と重なったのが不運でした。DSC_3747 (2)

💛

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●ウィンディリッジへ●
 ☆12日目 8月10日(月)
 今日は,セントへレンズ火山国定公園(Mount St.Helens National Volcanic Monument)に行く。
 標高2,550メートルのマウントセントへレンズは1980年に大噴火を起こした火山。それまでのお椀型の山がこの大噴火で崩れてしまった。この噴火跡を眺めるのが,この国定公園の楽しみである。
 アクセスルートは北西,北東,南の3か所あるが,南のルートは噴火跡が見られないので棄却して,1日たっぷり使って,北西のルートと北東のルートの両方向からアクセスすることにした。
 このふたつのルートは,それぞれ登っていくと最終の到着地点は距離的には近いのだが,このふたつの到着地点を結ぶ道路はないから,ふもとから別々に登っていかなくてはならない。

 朝,ホテルで豪華に朝食をとった。
 これを書きながら思うのだが,旅はほんの少しだけぜいたくすると憂いがなくなる。私は節約旅行をずっとしてきた。そのため,ホテルでは,シャワーでお湯が出なかったり,インターネットが通じなかったりすることはしょっちゅうだった。また,朝食サービスがなく,そうした場合に近くにカフェがなく朝食をとるのに困ったりもした。とはいえ,1泊8,000円程度と12,000円程度の違いにすぎないのだが。
 節約旅行をしていたわけは,今より「当然」若くお金もなく,しかし,いろんなところに行きたかったので,できるだけお金を使わないようにしていたからだ。そのおかげで,人が思うよりたくさんの場所に安価に行くことができた。
 そうした夢がかない,歳をとった今となっては,もっとゆったりと,そして,贅沢に旅がしたくなった。また,旅をしていると,またいつでもその場所に来ることができそうな気がするが,ほとんどの場合二度目はない。またまれに二度行ったところは,はじめて行ったときのときめきがない。だから,その一度というのがほとんどの場合は一生に一度のイベントなのだ。
 と,そんなことを思っていたら,コロナ禍で,本当に,どこにも行かれない日々が訪れてしまった。行きたいところにすべて行っておいて本当によかったと思うこのごろである。
  ・・
 余談だが,将棋でも,毎回タイトルの常連である超一流の棋士でもない限り,たまたま調子がよい棋士が何らかのチャンスでタイトル戦の挑戦者にでもなったときには,その機会はおそらくそれが人生で最初で最後の機会となるものだ。あとで振り返れば,そのときが人生最大のイベントだったと気づくであろう。しかし,挑戦者となった時点では,それが自分にとってどれほど貴重な時間であるかということに,さほどの認識がないものだ。
 何事につけてもおそらくそれと同じなのだろうから,その一瞬一瞬を大切にしたいものだと思う。

 さて,ホテルをチェックアウトして,セントへレンズ火山国立公園に向かった。
 まずは北東のコースからセントへレンズの山頂をめざす。山頂にはウィンディリッジ(Windy Ridge)という展望ポイントがある。そこまでの道は,インターステイツ5から東に国道12を走り,セントへレンズ火山を南に過ぎたところで,南に,州道25を南下,そして,登山道に入る。
 登山道は快適だが,まわりは火山の噴火による爆風で倒れた樹木が無残な姿をさらしていた。

💛

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●チェホールズの町●
 ルビービーチからしばらく海岸線を南に走った国道101だったが,再び内陸側に入って,オリンピック半島の付け根に当たるノース湾(North Bay)の根っこにあるアバディーン(Aberdeen)という町を過ぎると道路は湾に沿って方向を東に変え,さらに,南東に国道12を進んでいくと,ついに私はインターステイツ5に戻ってきた。
 オリンピック半島を半時計周りにほぼ海岸に沿って4分の3周したことになる。
 インターステイツ5を少し南下して,今晩の宿泊先として予約してあったのは,インターステイツ5沿いのチェホールズ(Chehalis)という町の,昨日とはうって変わって豪華な新しいホリデーインであった。
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 チェホールズは人口8,000人ほどの,結構大きな町であった。かつてこの地に住んでいたネイティブアメリカンの人々は,この地を「砂の場所」(place of sand)または「砂の移動」(shifting sand)とよんでいたが,それを探検家は「Chehalis」と聞いたことからこの名になった。
 1873年に北太平洋鉄道が建設され,この町が鉄道の横の倉庫の周りの集落として作られはじめた。やがて,近くの森で伐採がはじまり,製材労働者が定住した。
  ・・・・・・

 インターステイツ5に入るまであたりは大草原で,今日の2番目の写真のように,遠くに原子力発電所のような怪しげな建物が見えた。
 それらは,このときは原子力発電所だとばかり思っていたが,今これを書きながら調べてみると,この辺りには原子力発電所はない。あれはいったい何だったのか,それは今も不明である。
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 ワシントン半島に行くまで,私は,ワシントン半島はシアトルに近いのでもっと都会かなあと思って気が進まなかったが,実際のワシントン半島は非常に田舎であることに驚いた。とてもいいところだった。シアトルに行って,さてどこか郊外に観光に行こうと考えると,だれも東側に目が行き,なかなか西側のワシントン半島には関心が向かないものだ。

 のどかだったオリンピック半島とは反対に,これから向かうポートランドまでは非常に多くの車が通る主要道路であるインターステイツ5を走ることになる。夢から醒めたような感じがした。
 ホテルにチェックインして,次は夕食であった。町はほどほど大きいのに,意外にもめぼしいレストランが1件も見つからなかった。レストランを探していくうちに隣の町に着いてしまった。そこにモールを見つけたので入ってみると中にサブウェイがあったので,仕方なくサブウェイで夕食をとることになった。
 私は,アメリカではサブウェイが嫌いで,ほとんど行くことがない。それは,注文がめんどうだからである。日本とは違って,お任せというものがなく,すべて,自分の好みでオーダーするのだが,パンを選べ,ドレッシングを選べといわれてもどんな種類のものがあるか知らないから注文が難しい。本当は,サブウェイは野菜も豊富だし,マクドナルドなんかよりもずっと健康的だと思うのだが…。

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💛

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●美しいルビービーチ●
 国道101は,フォークスを過ぎ,さらに,オリンピック半島の北西の内陸をずっと走っていった。まわりは森林におおわれて単調ではあったが,日本の高原道路とは違って,とても美しかった。
 日本では,こんな山岳地帯の道路でさえ,「動物飛び出し注意」のような意味のない道路標識やらさびついたままになっているガードレールやら,そして,はげたままになっている道路の白線やらだらけで,まったく美しくない。

 さて,そうして内陸部を走っていた国道101だが,突然,太平洋の海岸に出た。そこはルビービーチ(Ruby Beach)であった。駐車場があったので,車を停めて,海岸まで歩いて行った。
 ルビービーチはオリンピック半島最南端のビーチである。オリンピック半島北部の海岸のほぼすべてのビーチと同様に,ルビービーチにも大量の流木が浜辺のいたるところにあって,壮観であった。日本のビーチはどこもかしこもゴミだらけだが,そうしたゴミはひとつとしてない。
 ルビービーチは砂浜にルビーのような結晶があることからそうよばれているという。富山県にもヒスイ海岸というのがあるのを思い出す。
 ビーチからは遠くに点在する島々が見えた。このビーチの美しい景色や沖合の島々は,国立野生生物保護区とオリンピック海岸国立海洋保護区によって保護されている。ルビービーチの北にあるホー川(Hoh Rover)は自然に恵まれているというが,行くことはできなかった。
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 また,ここは野鳥の楽園でもある。ムレや房状のツノメドリなどの鳥の大きな営巣コロニーがあるので,バードウォッチングにも最適な場所で,カモメ,白頭ワシなどの鳥が巣を作り,摂食しているのを見つけることもできるという。
 また,浜辺にはまざまな色のイソギンチャクが見られるのが海岸をハイキングする楽しみとなる。

 アメリカでは,いたるところにこうした大自然があり,すべて,保護され,美しく保たれている。観光をするには,きちんと決められた決まりがあり,キャンプをする場所などもしっかり規制されている。ゴミは捨ててはならないし,持ってきたものはすべて持ち帰るのがルールである。日本とは大違いである。アメリカ人は,夏になるとこうした場所に出かけて,自然を楽しむのだが,多くの人がアウトドアをするので,どこもけっこう予約をするのがたいへんなようである。
 私も,アイダホ州で3度キャンプをしたことがあるが,日本人の考えるようなオートキャンプとはまったく異なっていた。子供のころからキャンプを楽しむことによって,そうした習慣やルールが身につくのだろう。
 キャンプでは,朝は日の出を見て,食事を作り,お昼間はハイキングや釣りを楽しみ,夕方にまた食事を作り,夜は満天の星の下で寝る。そうした人生最大の楽しみを日本人は知らないし,日本にはキャンプをする場所すらない。

💛

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●セキウ,フォークスという町●
 今のようにインターネットが自由に使えたら,この旅でフラッタリー岬の先端まで行くことができたのに,実に惜しいことをした。
 思えば,私が頻繁に海外旅行をしたここ10年足らずの間,インターネットをはじめとする情報機器の進化はすさまじいものがあった。はじめのころは電話を借りるのもたいへんだった。それが今では iPhone 1台ですべてが賄えるようになった。
 特に,アメリカは日々進化していて,昨年のシステムが1年経つとまったく変わってしまう。新しいものを取り入れる力はすごい。それに比べると,日本は10年どころか30年何も変わっていない。これでは世界から遅れるはずである。
 今はコロナ禍で在宅勤務だの,オンライン授業だのといわれるが,コロナ禍がすぎれば,すべてなかったものとして元に戻ってしまうだろう。

 さて,この旅では,フラッタリー岬にいくことを断念して,私は,ネアーベイから州道112でオリンピック半島の北海岸に沿って南東に引き返し,途中で右折して州道113に入り,フォークス(Forks)という町で国道101に入って,オリンピック半島の西海岸沿いに南下して,次の目的地であるポートランドをめざすことになった。
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 州道112でオリンピック半島の北海岸に沿って戻るとき,左手の海岸には漁港が見られた。そこはセキウ(Sekiu)という変わった名前の集落であった。セキウは釣りやカヤック,バードウォッチング,ダイビングなどを目的とした人が夏に訪れる観光地として知られている小さな町である。
 セキウを過ぎると州道112は南に進路を変え,やがて,州道113に吸収され,さらに,州道113もまた,国道101に吸収されると,ソルドク川(Sol Doc River)にかけられた橋を渡る。橋を越え,南に,内陸の林の中を単調に走り続けると,やがて町が現れた。この町がフォークスであった。
 フォークスは人口が3,000人程度の町で,町の経済は地元の木材産業によって支えられていた。
 近年は小説「トワイライト」(Twilight)シリーズに関連した観光でも知られるという。「トワイライト」はアメリカの作家ステファニーマイヤー(Stephenie Meyer)による吸血鬼をテーマにした4つのファンタジー ロマンス小説のシリーズである。2005年から2008年まで毎年発行された4冊の本は,ワシントン州フォークスに引っ越したエドワード・カレン(Edward Cullen)という104歳の吸血鬼に恋をした少女イザベラ・スワン(Isabella "Bella" Swan)の 10代後半を描いたものだそうだが,私は読んでいないのでこれ以上のことは知らない。
 このように,フォークスは,現在,木材産業の衰退に伴い,観光業にシフトしているようだ。また,サケやニジマスを釣るスポーツフィッシャーに人気の目的地であり,また,オリンピック国立公園を訪れる人たちの玄関口ともなっているという。

💛

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●行くことができなかった岬の先端●
 レイククレセントを出て,さらにオリンピック半島を州道112を通って北側の海岸を西に,半島の北西の端まで行くことにした。
 私は,こうした半島を走ると,海岸線に沿って1周してみたくなるのだ。
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 アメリカ旅行をするようになる前,私は北海道に憧れていた。そして,北海道を海岸線に沿って車で1周することを企てた。しかし,北海道で海岸線が通れないのが,知床半島であった。ここは途中で道がなくなり,半島の真ん中を通る知床横断道路を走る必要があるのだった。知床半島を海岸に沿って行くためには,道なき道をクマに襲われるのを覚悟で2泊3日歩く必要があるという話だったが,私は冒険家でないから,そういうことはしなかった。
 走っておもしろかったのは松前半島と亀田半島で,ここはお勧めである。海岸に沿って1周するという目的でもなければ,函館から札幌に向かうのには,何も海岸に沿って遠回りして走る必要はないから,この道が作られた目的は,その海岸線に住む住民のためのものだろう。この追分ソーランラインという名前の松前半島を海岸線に走る国道228号線と,亀田半島を海岸線に走る国道278号線は,高台にかなり立派な道路が作られていて,景色がよい。
 私はこの半島の道を走った数年後に,同じ思いをしようと,今度は青森県の下北半島を海岸に沿って走ってみたが,これは,期待とはまったく違い,がっかりした。
  ・・
 その後,ハワイに行くようになって,日本人ばかりのオアフ島は抜きにして,今度は,ハワイ島,マウイ島,カウアイ島,モロカイ島といったそれぞれの島の周りを車で1周しようと企てた。
 しかし,ハワイ島こそほぼ島を周回する道路があったが,マウイ島は道路はあれどレンタカーでの通行が禁止されている部分があり,断念した。また,カウアイ島には一部道路がない。さらに,モロカイ島に至っては,海岸まで崖になっている部分がほどんどで,当然,周回などできなかった。
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 アイスランドに行ったときも島を1周しようと一度は考えた。アイスランドは北海道の1.3倍ほどの面積である。
 しかし,アイスランドは島の4分の3は不毛な土地でほとんど人が住んでおらず,車が故障でもしたらと思ったら怖くなった。せめて10歳くらい若かったら試みたかもしれない。結局,私は,島の4分の1程度しか走れなかった。

 さて,話を戻す。
 私が目指したオリンピック半島の北西の端の岬をフラッタリー岬(Cape Flattery)という。
 このとき持っていた地図で調べると,フラッタリー岬に行くにはオリンピック半島の周回道路から外れて,盲腸のように狭い道を走っていかなければならないようだった。が,実際は,道が続いているようないないような…。地図がいい加減でよくわからなかった。遠回りをしてでも行ってみようと試みたのだが,私は,ネアーベイ(Neah Bay)という町で道に迷ってしまった。
 ネアーベイのあたりは,道がアメリカにしては狭く曲がりくねり,ブレーキを頻繁に踏む必要があった。ネアーベイは岬に至る手前の北側の付け根の町である。ここからケープフラッタリーロード(Cape Flattery Road)という道を南西に行くと,今度は,岬に至る手前の南側の付け根の町ワアッチ(Waatch)に着いた。この道を走っていると,私と同じように,岬まで行こうという車らしき姿を頻繁に見かけたが,みなネアーベイやワアッチでウロウロしていた。
 結局,私は道が見つからずフラッタリー岬に行くことを断念して,ワアッチから再びネアーベイまで戻り,小さなレストラン「Warm House Restaurant」を見つけたので,やっと昼食にありついた。それがまあ,食べたハンバーガーが殊のほかスモーキーでおいしかったこと! こんなにおいしいハンバーガーをこれまで食べたことはなかったと思うほどだった。このレストランの駐車場から展望が開けていて,海の向こうにカナダのバンクーバー島が美しく見えた。
 レストランのウェイトレスに「フラッタリー岬まで行こうと思ったのだが」と話すと,「そう,岬までの道はないのよ。皆さんここでウロウロしている」といって笑っていた。
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 あれから5年。今では,当時はわからなかった情報が,インターネットで簡単に手に入る。
 調べてみると,フラッタリー岬の近くまで,ちゃんと自動車で行くことができる道路があるし,先端近くには駐車場もあるではないか。実は,この道路は,ネアーベイではなく,ワアッチから岬までつながっていた。が,そんなこと,この時代にはわからななった。レストランのウェイトレスが言っていたのは「ネアーベイからは岬に行けないよ」ということだったらしい。
 インターネットでは,フラッタリー岬の写真まで見ることができるではないか。そこで,フラッタリー岬の写真を今日の最後に載せておくことにする。しかし,行くことができると知ると,それはそれで,行けなかったことが余計に悔しくなる。惜しいことをした。そして,それを知ると行ってみたくなる。シアトルなぞ,普通なら行こうと思えば東京へ行くくらいの気持ちでどうにでもなるが,このご時世ではそれが実現するのはいつのことになるだろうか。

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💛

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●高い透明度を誇る湖●
 ハリケーンリッジロードを下って,ポートアンジェルス(Port Angeles)の町まで戻ってきた。途中,道路の端には多くのシカがいた。
 シカなど,今では日本でも山道を走ればいくらでもいるし,見通しの効かない道路の真ん中に立っていることもあってドキッとするが,この旅をしていた2015年のころは,今ほどシカを頻繁に見たことがなかったので,珍しかった。
 この翌年の2016年,ワシントン州から走ってモンタナ州のグレイシャー国立公園に行ったときの帰り道で,巨大なシカが私の運転する車に体当たりしたのも,今では懐かしい。思えば,これまで本当にいろんなことがあったものだ。今考えると危機一髪の出来事も少なくないが,すべてなんとか切り抜けてきた。そうしたすべてが夢のような気がする。

 ポートアンジェルスはオリンピック半島の北海岸中央部に位置する町で,半島における中心都市。人口は約20,000人ほどである。ここにはオリンピック国立公園の本部が置かれていて,国立公園への玄関口ともなっている。
 この町はアメリカとカナダの国境になっているファンデフカ海峡(Strait of Juan de Fuca)に面していて,山が海に迫る地形のため水深が深いのに加え,西側から東に向かって形成されている砂嘴が天然の防波堤の役割を果たしているので天然の良港となっている。
  ・・
 ポートアンジェルスから次に向かったのはレイククレセント(Lake Crescent)という湖であった。クレセントという名前のごとく,この湖は高い透明度を誇り,湖の底まで見渡すことができた。ここに着くころにはすっかり天気も回復していた。
 レイククレセントの最大水深は624フィート(190メートル)で,ワシントン州ではレイクシュラン(Lake Chelan)の1,486フィート(453メートル)に次いで2番目に深い湖であるが,湖全体の水深測量調査を実施した結果,1,000フィート(300メートル)を超える非公式の深度が測定されたという。
 なお,このあと行くことになるオレゴン州のクレーターレイク(Crater Lake)は最大水深1,949フィート (592メートル),日本では,田沢湖は430メートル,摩周湖は200メートルほどである。
 レイククレセントは藻類の成長を阻害する水中の窒素の欠如によって引き起こされる鮮やかな青い色と並外れた透明度で知られている。

  ・・・・・・
 レイククレセントは氷河が深い谷間を切り開いたときに形成された。
 1849年,ジョン・サザランド(John Sutherland)とジョン・エベレット(John Everett)がふたつの湖を見つけ,レイクサザーランドとレイクエベレットと名づけた。その後,レイクエベレットはレイククレセントと改名された。それは,1890年,Port Crescent Improvement Company が湖の近くに町を作ろうと宣伝し,M・J・キャリガン(M.J. Carrigan)がPort Crescent Leader を立ち上げてそれを後押しし,湖をレイククレセントとよんだことによる。
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 1937年,ハリー・イリングワース(Hallie Illingworth)というウェイトレスが行方不明になった。3年後,死後体重が減り死体が水面に浮いていたのを地元の漁師によって発見された。死体は氷点下に近い湖の温度によって完全に保存されていたが,彼女の肌は「アイボリー石鹸」とよばれる物質に変化していた。これは鹸化とよばれるもので,体脂肪と相互作用する湖水中のミネラルによって引き起こされたのである。彼女の夫であるモンゴメリー・ J・ "モンティ"・イリングワース(Montgomery J. "Monty" Illingworth)は殺人罪で有罪判決を受け,1951年に仮釈放されるまでの9年間,刑務所に留まったという。
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💛

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●標高2,000メートルを越えると…●
☆11日目 8月9日(日)
 今日は,オリンピック国立公園を見学しながら,オリンピック半島の北海岸に沿って北西の端の岬まで行く。
 その次の日は,岬からは西海岸を太平洋沿岸に沿って南下し,行きどまりのノース湾で入り江の湾岸にそって東に進み,オリンピック半島をほぼ1周したら,インターステイツ5に入って南下し,翌日にセントヘレンズ火山国定公園に行くことができるように,途中の町で宿泊するという計画であった。
 オリンピック国立公園は,アメリカ大陸の一番北西にあるオリンピック半島全体が国立公園になっている。半島の中央は2,400メートル級の山々が連なっていて,その外周をクルマで巡るというのが見学コースである。

 私が宿泊していたスクイムの街は半島の一番北東の町である。スクイムの町はとてもよいところだったが,私の宿泊したのがさえないモーテルだったのだけが残念だった。
 朝7時にチェクアウトして,まずはじめにオリンピック国立公園のハリケーンリッジ(Hurricane Ridge)という展望台に向かうことにした。この日の朝食はどこで何を食べたか,今では全く記憶にないが,あのモーテルに朝食がついていたとはとても思えないので,おそらく,この日は朝食ぬきで出発したのだろう。
  ・・
 今にして思うに,私がこれまでに行ったほとんどのアメリカ旅行は,かなり貧しい旅の連続であった。ともかく,何事も安価にするというのが私の旅の基本であった。
 そこで,宿泊する場所も,寝られればいいというところばかりだったから,相当にひどいところに泊まったことも少なくない。駐車場にコンボイがずらっと停まっているようなモーテルにはしょっちゅう泊まったし,隣部屋になったハーレーに乗ったおじさんたちと仲良くなったりといったこともあった。食事だって,夕食はハンバーガーばかりを食べていた。朝食ぬきだの,昼食抜きだの,あるいは,どこぞやのコンビニで菓子パンを買って,それをかじりながらドライフしただのということは日常茶飯事であった。
 だからこそ,私はお金もないのにアメリカ50州制覇という夢をかけ足で達成することが可能だったのだろうが,私の旅は普通の人が考える海外旅行とはかけ離れたものであった。しかし,この先,また再びアメリカを旅できるときがくるのなら,今度は,せめてもう少しは贅沢な旅をしてみたいものだと思う。

 さて,この日は,まず,スクイムから半島の北側を州道101で西に走って,ポートアンジェルス(Port Angeles)という町で南に左折してハリケーンリッジロード(Hurricane Ridge Road)を通って山へ登っていった。終点のハリケーンリッジ展望台は,ハリケーンリッジロードを一気に標高1,500メートルまで登っていくとあるが,道路のまわりは美しい山々が連なっていて,それを見渡しながらの運転はとても気持ちがよかった。スクイムのホテルを出たときは小雨が降るような天気だったが,さすがに標高が高く,展望台まで登りきるとそこは雲の上で快晴だった。気温は10度くらいでとても寒かったが,すばらしい展望を楽しむことができた。
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 この旅のあと,私は,頻繁にハワイを旅するようになり,ハワイ島の標高4,205メートルのマウナケア(Mauna Kea)の山頂にも2度登ったし,マウイ島の標高3,055メートルのハレアカラ(Haleakalā)にも数回登った。
 そのときわかったのは,どうやら雲というのは標高2,000メートルあたりの位置に発生していることが多く,その標高を越えると,雲の上に出て天気がよくなるということである。
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 ハリケーンリッジ展望台に到着した。
 ここにはレストランがあったので,朝食をとろうと考えた(らしい)。しかし,朝早すぎて,まだ,レストランは開いていなくて中に入ることができなかった。

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💛

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●すばらしきアメリカの小さな町●
 スクイム(Sequim)は人口約4,000人の町である。スクイムはラベンダーの生産地として知られているということだが,私がこの町に滞在したわずかな時間では,ラベンダーを見る機会はなかった。近年は退職者を中心に急激に人口が増加し,往年ののどかな田園都市的性格を失いつつあるそうだが,アメリカのこのような町はどこもそんな感じがする。
 「思い出は美しい」というが,実際,どう考えても,私がアメリカを旅しはじめた20年前のころのほうが,大都市の治安以外は,いろいろな面で今よりずっとよかったように感じるのは,やはり,「思い出は美しい」からだろうか?
 しかし,退職者が住みたいと思えるような静かな町があるだけ日本よりよいと思う。日本では退職後に住んでみたいというような町は皆無である。スクイムのあたりによい働き口が多くあるとは思えないが,退職者にとれば,シアトルなどの大都会よりずっと過ごしやすいように感じる。
 この地はオリンピック山脈の影響で乾燥していて,年間降水量が少ないということだ。確かに私が行ったときも晴れ渡っていたが,雨の多いシアトルとは大違いだから,これだけでも過ごしやすそうだ。
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 今,この町について書いていて,なんだか,とてもいい町だったなあ,などという感慨にふけるるのだが,それは何もスクイムだけでなく,このようなアメリカの小さな町すべてに私が抱く感情である。
 日本の地方都市はどこもさびれてしまっていて,しかも,気の利いたレストランなどもほとんどないか,駅前には古びた飲み屋があったり,あるいは,それが閉店したままになっていたりして空き家だらけでさえない。こうしたアメリカの小さな町は日本には存在しないのである。

 私がスクイムに滞在したのは偶然土曜日であった。
 スクイムの小さなダウンタウンの中心にあるシティホールプラザでは,スクイムファーマーズ&アーティザンマーケットが5月から10月まで毎週土曜日に行われるという。
 この晩も,シティホールプラザは全く盛り上がりに欠けるススクイムファーマーズ&アーティザンマーケットの真っ盛りであった。というより,もともと町民が少ないから,こんなものだ。
 スクイムに限らず,アメリカのこうした小さな町では,住んでいる人たちが三々五々夕暮れになるとこうした場所に車で集まってきて,のんびりと過ごす。駐車するスペースはいくらでもある。私はこれまで,多くの町でこうしたものを見たことがある。そして,いつもうらやましく思った。日本だと,お盆のころにお祭りをやるが,やたらと屋台が並び,混み合っていて,しかも,終わった後はゴミの山である。
 こうした集まりには暗黙のルールがあるようで,騒音公害になることもなければ,終わった後にゴミだらけになることもない。また,ちゃんと午後9時になると終了して,めいめい挨拶を交わして車に乗って帰っていく。私も混じって楽しむことにした。ステージで歌っていたカントリーはすごく上手だった。こういうのが日本にはないすてきな人生の過ごし方だと思う。
 終了後ホテルに戻ってテレビを見た。放送されていたのは,あの,伝説になったサイモン&ガーンファンクルのセントラルパークコンサートだった。かつて,こうした音楽を聴いてはアメリカに憧れたこともあったなあと思った。今,実際,そのアメリカにいる,と思うと胸が熱くなった。

💛

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●トレーラーハウス●
 食事を終えて,今日の宿泊先にチェックインをしようとしたのだが,このモーテルを予約したのは失敗であった。この町に着いてみたら,私が予約したものよりもずっと立派な全国チェーンのモーテルが多数あって,事前に予約しなくともどこでも泊まることが可能だったからだ。
 私がアメリカ旅行をはじめたころは,いつも当日ホテルを探して直接フロントで交渉して宿泊したものだった。今でもそれで問題ないのだが,エクスペディアなどで事前に予約ができるようになったことで,その方がホテルを探す手間がないので,事前に予約するようになった。それでも,全国チェーンのホテルならまず無難だが,そうでない場合,失敗することが少なくないのだ。もっともあてにならないのが口コミで,あんなもの,いくらでも操作ができるから参考にしないほうがいい。

 この日予約したホテルは,まず,フロントに人がいなかった。そして,いないときは電話をしろと書かれていたが,これが面倒なのだ。そもそも,日本からやって来て,気軽に電話などできるものではない。いまでこそ自分の持っているスマホでなんとかなるが,5年前はそうではなかった。
 なんとかスタッフが見つかったのでよかったが,これで,テンションがかなり下がってしまった。そして,別の多くの立派なホテルを見て,後悔した。
 旅というのは宿泊するところでずいぶんと印象がかわる。そして,それが,その国に抱くイメージにまで影響するのだから,ホテルというのはかなり責任重大なのである。
 私がいまでもアイスランドによいイメージを抱かないのは,すべて泊まったモーテルのひどさが原因であった。あれは本当にひどかった。そもそも,アイスランドのような観光後進国に,アメリカやオーストラリアのようなホテルを期待した私の方が悪かったかもしれないのだが。
 そういえば,ニュージーランドも,ホテルに関してはやはりまだ,観光後進国といえる。もちろん高級ホテルに宿泊するのなら,どの国も問題ないのだが,私のように,安価で民宿に毛がはえたような場所に泊まろうとすると,それが顕著なのである。
 おそらく,日本に来る外国人も同じであろう。高級ホテルならまったく問題はないだろうが,やたらと高価である。
 ビジネスホテルなら,部屋が異常に狭く,バストレイもまた,牢獄のように感じるだろう。また,温泉宿は外国にはありえないシステムだ。民宿程度の旅館やら民泊,さらにゲストハウスとなると,いったいどういった感想をもつのだろう。ただし,日本では,やたらと外国人に親切だから,私が海外で困るようなことは起きないかもしれない。

 ともかく,この旅では最も悪いホテルとなってしまったが,これも天災と考えることにしょう。晴れの日もあれば嵐の日もある。
 どうにかチェックインを済ませ,町を散策することにした。
 ホテルの裏はトレーラーハウスが並んでいるエリアだった。アメリカの町には大概どこも,こうしたトレーラーハウスが並ぶエリアがある。それは,日本でいう古びた長屋のような場所である。特に治安が悪いとは思えないが,低所得者が住んでいる感じ満載なのである。それでも,ぼこぼこの中古であっても車はあるし,雑草が生い茂っていても庭もある。こういう家を見ていると,アメリカという国に生まれて,こうした家に住んで生活する人のことをいつも考えてしまう。
 私にはこうしたところに住む友人がいないのでその実態はよくわからないし,アメリカに住む友人たちに聞いても,トレーラーハウスの並ぶエリアがどういう場所なのか,どういう人が住んでいるのかよく知らないという。その実態は今も,私には謎である。

💛

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●「テリヤキ」とはいかなるものか?●
 さらに北に向かって走っていくと,オリンピック半島の北東の端にあたる場所にあったスクイム(Sequim)という町に着いた。ここが今日の宿泊場所である。地図で見るとシアトルからとても近いのだが,シアトル湾をはさんでいるだけで,思った以上に遠く感じた。
 スクイムはのどかなアメリカらしい田舎町であった。私はこうした町が一番落ちつく。アメリカの多くの町はこんな感じなのであるが,日本から観光でアメリカに行っても,おそらくこうした町には行かないであろう。したがって,多くの日本人はこのような町の存在を知らない。
 まず,夕食をとることにした。なぜか,ワシントン州には「テリヤキ」と看板に書かれた日本料理店がやたらとあるのだが,一体全体「テリヤキ」とは何ものであろうか? 日本料理の何某かであることはわかるが,アメリカ人はこの「テリヤキ」で,どういう料理を想像するのか,私にはさっぱりわからなかった。そこで,興味半分で「テリヤキ」と看板に書かれた1軒の小さな店に入ってみた。
 大概,こうした日本料理店を経営しているのはチャイニーズかコリアンなのであるが,日本料理と書いたほうが受けがいいのかもしれない。アメリカで日本料理はブランドなのである。しかし,日本の中国料理とかイタリア料理などと同じように,これらはその国の料理ではない。

  ・・・・・・
 「照り焼き」というのは,醤油を基本にした甘みのあるタレを食材に塗りながら焼く調理法である。タレの糖分により食材の表面がツヤを帯び「照り」が出るのが名前の由来である。
 日本では魚。または肉の調理に使われる技法であるが,日本以外の国では主に肉の調理に使われる。
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 ということで…
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 「照り焼き」は米国でも人気があり「teriyaki」が辞書に載るほど定着している。しかし,アメリカなどでは「teriyaki」とはテリヤキソース(teriyaki sauce)を用いて下味付けをした肉料理を指す。それは日本の「照り焼き」調理法とは異なり,料理に照りを出す調理法ではない。あらかじめ食材をテリヤキソースに漬け込んで調理したり,グリルで焼いた肉類にテリヤキソースをかけたりして食する。
 このため,アメリカで日本語の看板には「テリヤキ」とカタカナで表記されている。日本料理に傾倒しているレストランでなくても肉類の照り焼き料理を供する所があり,また,スーパーマーケットなどでも瓶詰めされたテリヤキソースが販売されているが,日本人の感覚からするとそれは甘過ぎたり余分な香辛料が入っていたりすることが多く,日本の「照り焼き」とアメリアの「teriyaki」は別物である。
 しかし,その事実はアメリカ人には知られておらず,「テリヤキ」は純粋な「日本料理」だと思われている。
  ・・・・・・

💛

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●わざわざ行かなくては行かれない。●
 この旅はわずか5年前のことだというのに,何と楽しそうだったのだろうと,今では思う。憧れが半分,不安が半分,そして,ときめきとともに期待が一杯であった。そして,少しはアメリカのことを知っているというおかしな自負とゆとりがあった。
 「思い出は美しすぎて」というが,おそらくそれだけではなく,このころの旅は本当に楽しかった。
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 またアメリカに行くことができるのがいつのことになるのかわからないが,行けるようになったとしても,そこがおおよそどういうところかわかってしまうし,もう,ときめきもなくなってしまった。
 人の幸せというのは,結局,なにか夢を見て,それを実現しようとしているときにあるのだろう。そして,それを実現してしまうと,そうした夢を見ていたころを懐かしがって生きるしかないのかもしれない。

 さて,1番目の目的地であったマウントレイニー国立公園の南西の出口を出て,その次は,2番目の目的地であるオリンピック国立公園を目指した。
 オリンピック国立公園はワシントン州の最西部にあるオリンピック半島にある。シアトルのさらに西にあたる場所である。
 地図で見ると都会に近く思えるので,今回行くまではけっこう都会のような気がして,あまり魅力的には思えず気が進まなかった。しかし,実際は,想像以上にのどかな田舎,しかも,風光明媚であった。
 この半島は,いわゆる「トドのつまり」であって,わざわざ出向かなねれば行くことがない場所である。私は,同じことを青森県の下北半島に行ったときに思った。そして行ってみて,下北半島は,核廃棄物処理場とか砕石場などばかりで,言葉は悪いが,結局,日本列島のゴミ捨て場のような位置づけのの場所であった。
 それに比べて,オリンピック半島は,とてもとてものどかな,美しいところであった。このブログを書きながら思い出していると,また行ってみたいと思う気持ちが深まってきた。

 オリンピック半島はUの形に湾が入り込むシアトル湾をはさんだ西側にあるから,北側からオリンピック半島に行くにはシアトル湾にかかる橋を渡る必要がある。何度も書いたように,シアトル湾の東側,つまり,シアトルの市街を北上すると,インターステイツ5は絶えず渋滞している。そこで,それを避けて,湾の根元にあたるシアトルの南のタコマから地上を通ってオリンピック半島に行き,半島の東海岸沿いに北に走り,反時計周りで半島を海岸沿いに1周することにした。
 途中でウォールマートやドラーツリーショップ(日本でいう百円ショップ)に寄りながら北上した。こうした何気ない日常に接することこそ,アメリカを旅する楽しみである。決してツアー旅行では行くことがないから,多くの日本人は知らない姿であろう。
 この日,いや,次の日もそうであったが,車で移動している時はずっと曇り,さらには,時折雨が降っていたが,オリンピック半島の北海岸に向けて走っていくうちに晴れ上がり,遠方の山々が美しく浮かび上がってきた。

💛

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●トレイルを歩く。●
 パラダイスに到着して,車を駐車場に入れた。涼しく爽やかな日であった。標高1,647メートルのパラダイスのビジターセンターからは次のようないくつかのトレイル(Trail)が続いていた。
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●ニスカリーヴィスタ(Nisqually Vista)
 ニスカリーヴィスタトレイルは ,全長1.2マイル(約1.9キロメートル),起伏200フィート,所要時間45分の舗装されたトレイルで,マウントレーニアの雄大な姿とさまざまな野生の草花を見ながら散歩ができる。また,途中,この山では5番目に大きいニスカリーグレーシャー全体を見ることができる。
●デッドホースクリーク(Dead Horse Creek )
 デッドホースクリークトレイル は,全長2.5マイル(約4キロメートル),所要時間1.5時間で,ニスカリーヴィスタトレイルの起点の右横からはじまりグレーシャーヴィスタまで平坦な箇所と上り坂が続く。ニスカリーヴィスタよりも変化に富んだ地形と遠くはマウントセントへレンズまで見渡せるパノラマビューが楽しめる。標高差は400フィートある。
●スカイライン(Skyline)
 スカイライントレイルは,全長5マイル(約8キロメートル),所要時間4時間の,グレーシャーヴィスタとパノラマポイントまで続くトレイルである。マウントアダムス,マウントセントへレンズ,ニスカリーグレーシャーを見渡すことができる。
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 アメリカの国立公園にはこうしたトレイルが完備されていて,景色を味わいながら歩くのが最大の楽しみとなる。トレイルはどこもゴミひとつ落ちていないし,意味のない看板もガードレールもラバーコーンもない。また,さびついた街灯やらモニュメントもなく,自然のままの姿になっている。
 こんな楽しみを知ってしまうと,日本で山歩きなどしたくなくなる。
 私はこの中で,ニスカリーヴィスタトレイルを歩いた。
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 ニスカリーヴィスタトレイルでは,夏場は公園内のあちこちで野性動物の姿を見ることができるという。実際,冬場は冬眠しているマーモットが,短い夏を満喫するかのように草や花,木の根っこを懸命に食べ続けている姿を身近に見ることができた。また,リスや野鳥、バンビを連れたシカのファミリーも木陰に見え隠れしていた。かわいい姿だが,マウントレイニーの動物たちは過酷な自然の中で必死に生きているのだ。
 また,ラッセルルピナス(garden lupin)やピンクマウンテンヒース(pink mountainheath )の花が美しく咲いていた。ラッセルルピナスは,紫・藤色・樺色・紅・白などの花を咲かせる,夏に休眠する耐寒性の宿根草だが,暑さに弱い。アメリカ北西部の原産で,草丈150センチメートル以上になる。ピンクマウンテンヒースはアメリカ北西部と西部カナダの北アメリカ西部の山岳地帯に生息する常緑高山低木で,赤紫色の花を咲かせる。
 マウントレイニー国立公園最大の魅力であるナラダ滝(Narada Falls)は,マウントレイニーハイウェイのふたつの層の間の横切っていて,簡単に見ることができる。滝は168フィート(51メートル)と20フィート(6.1メートル)のふたつの層からなっていて,188フィート(57メートル)の落下をする。上層はほぼ切り立った崖の下のいくつかのストランドに落ちる馬尾状になっていて,垂直な峡谷に落ちる。下層ははるかに小さなプランジ状である。透き通った流れはいかにも涼しげであった。滝壺では若い女性がふたり,びしょ濡れになりながら遊んでいた。

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●マウントレイニー国立公園●
 マウントレイニー国立公園(Mount Rainier National Park)はワシントン州ピアース郡の南東部からルイス郡の北東部にかけて位置する国立公園で,1899年にアメリカ5番目の国立公園として設立された。公園は953平方キロメートルの面積があり,これは東京23区の1.5倍ほどである。
 成層火山であるマウントレイニーの標高は4,392メートルで,これはカスケード山脈の中で最高峰である。アメリカの先住民は,この山の神々しい姿を畏れTahoma(神の宿るところ)とよんでいたという。また,シアトルやタコマに移民した日系人たちはふるさとの風景を懐かしんで「タコマ富士」とよんでいた。
 マウントレイニーの高さはアメリカのすべての山の中で17位であるが,そのうちの12はアラスカ州にある。それを除いた最高峰は意外と知られていないが,マウントホイットニー(Mount Whitney)の4,421メートルである。マウントホイットニーについては,すでにこのブログで「2018夏アメリカ旅行記」に書いたことがある。
 例年だと,およそ130万人がこのマウントレイニー国立公園を訪れ,そのうちの約1万人がマウントレイニーへの登頂を目指し,25パーセントだけが登頂に成功するのだそうだ。

 マウントレイニーは,公園の97パーセントが原生地域として保護されている。マウントレイニー国立公園の地域で人類の最も初期の証は,ベンチレイクトレイル沿いで見つかったおよそ紀元前4,000年から5,800年の有舌尖頭器であるという。
 1番の見どころはパラダイス (Paradise)という場所である。パラダイスはマウントレイニーの南斜面,高度1,647メートルの地域で,,マウントレイニー国立公園を訪れた人に最も人気のあるエリアである。パラダイスという名前は,1885年夏,ヴィリンダ・ロングマイヤー(Virinda Longmire)によって,この地に映える野生の草花を見て名づけられたものである。
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 パラダイスにはジャクソンビジターセンター(Jackson Visitor Center)とパラダイスイン(Paradise Inn)というホテルがある。私は,パラダイスに着いてここに着いて車を停め,まず,ジャックソンビジターセンターの中にあるカフェテリアで昼食をとることにして,ハンバーガーを注文した。
 昼食後,ジャクソンビジターセンターのとなりにあるパラダイスインのロビーに入ってみた。パラダイスインの創業は1916年。堂々たる石造りの建物の1階にはダイニングルームやお土産店,暖炉もあって温かい雰囲気だった。
 泊まったわけではないので,部屋の中は見ていないが,一般的なホテルに比べると小さめで、テレビやインターネットのアクセスもないというこのホテルは,旧きよき時代を思いつつ大自然の懐に抱かれることができるという。私は,アメリカのほとんどの国立公園に行ったが,国立公園内ホテルには泊まったことがない。いくら贅沢をしても一度は体験してみたいものだったと,今にして思う。

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 Harvest Moon 2020.
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●すばらしいアメリカの国立公園●
 マウントレイニー国立公園(Mount Rainier National Park)には次の四つの出入口がある。
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●ニスカリー(Nisqually)
 公園の南側のロングマイヤー(Longmire)から公園内の標高1,647メートル地点のビジターセンターやロッジのあるパラダイス(Paradise)につながる,南西のニスカリー・エントランス
●スティーブンズキャニオン(Stevens Canyon)
 州道123から公園の南東部にあるオハナペコシュ(Ohanapecosh)のビジター・センターを経由して入るスティーブンズキャニオン・エントランス
●ホワイトリバー(White River)
 公園北東部の標高1,950メートル地点サンライズビレッジ(Sunrise)に続くホワイトリバー・エントランス
●カーボンリバー(Carbon River)
 公園北西部のカーボンリバー・エントランス
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 この中で最も人気が高いのは1番目のロングマイヤーとパラダイスにつながるニスカリー・エントランスなのだそうだが,私は,シアトルから南下してきたから,2番目のスティーブンズ・キャニオン・エントランスから入って,1番目のニスカリー・エントランスから出た。
 入園料を払って国立公園に入ると,ずっとマウントレイニーの雪を被った美しい山が見えてきた。展望台に広いパーキングがあったので,車を停めて外に出た。天気がよく,すばらしい眺めであった。

 今,これを書きながら,改めて,何とアメリカの国立公園はすばらしかったのだろうという記憶がよみがえってきた。
 それは,自然が美しいだけでなく,道路や駐車場,そうした設備すべてが自然に溶け込んでいることである。日本のようなさび付いたガードレールやらラバーコーンやら,至る所にすてられている空き缶やら,意味のない看板やら,そういったものが一切ないのである。このブログを書きながら,そうした忘れていた記憶がどんどんとよみがえってきて,また行きたくなって危険なのである。
 容易に海外に行くことができない今は何とか国内に目を向けようと思っていたのに,実際出かけると幻滅することばかりであったが,そうした矢先に,アメリカのすばらしかった国立公園を思い出して,しきりに行きたくなってきた。実に困ったものだ。

 再び車に戻ってしばらく進むと,リフレクションレイク(Reflection Lakes)が見えてきた。リフレクションレイクは小さな湖だが,名前のごとく,湖面にマウントレイニーが反射して,美しい姿を見せるのだという。しかし,私が行ったときは,湖面に藻が浮いていて,あまり反射した姿を見ることができなかったのは残念であった。
 それでも,マウントレイニーの美しい姿を湖の向こう側に見ることができた。

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●日本にはない雄大な国立公園●
☆10日目 8月8日(土)
 今,この2015年の旅を5年後に振り返っていると,本当にいい旅だったなあ,また行きたいなあ,という気持ちがどんどんと深まってくる。
 さて,ワシントン州には北からノースカスケード,オリンピック,マウントレイニー,セントへレンズという国立公園があり,そのどれもがすばらしいところだ。
 ノースカスケードはこの旅の1年後2016年にモンタナ州のグレイシャー国立公園とともに行くことになるのだが,2015年のこの旅では,ノースカスケードを除いた三つの国立公園と,さらに,オレゴン州のクレーターレイク国立公園に行くことができた。
 この日がこの旅での国立公園めぐりの第1日目で,マウントレイニー国立公園をめざすことになる。

 朝,ホテルで朝食後チェックアウトして,早速マウントレイニー国立公園に向かう。
 シアトルからインターステイツ5を南下して,マイルマーカー142のジャンクションで降りて,州道18,州道410と,合計110マイル,180キロメートルほど走ると南東の入口に到着する。ここから国立公園に入って,マウントレイニー国立公園の南側に沿って西に向かって走り,南西のゲートから出るという計画であった。
 この日の天気予報はあいにく曇り午後から雨で,早朝ホテルを出たときには,シアトルもどんよりと曇っていたが,幸い,マウントレイニーに近づくにつれて晴れ上がった。ワシントン州は山脈をひとつ越すと全く違う天気になる。
 途中でガソリンを入れた。そのガソリンスタンドがいかにもアメリカのド田舎で,いやがうえにも期待が高まったが,そのうち,森林に囲まれた直線道路から,国立公園の雄大な山々が見えるようになってきた。

 このあたりを走っていると,かれこれ20年くらい前に,ここと同じような景色を見たことがあるなあと思った。それは,2000年,カナディアンロッキーに行ったときのことであった。アメリカの国立公園は,こうした山々の美しいところもあれば,ユタ州の多くの国立公園のように,赤茶けた悠久の大地が広がっているところもある。カナディアンロッキーは,アメリカの国立公園のうちで山々が美しいところの延長線上にあるようで,同じような景色が見られるのだ。
 こうしたアメリカの国立公園は確かにすばらしいのだが,日本にはぜったいにありえない雄大さを求めていくと,観光シーズンはものすごく車が多いので,期待外れになるかもしれない。本によれば,夏が終わった9月以降は人も少なくてとてもいいと書かれてあるが,この季節に旅行をしたことは,私もこれまでに1回しかない。…などと書いているうちに,また,9月に行ってみたくなってきた!
 やがて,国立公園の入口に近づいたが,入園料を払う車の列で渋滞していた。

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9月に入ったのに,昨日も猛暑。夜はすごい雷雲でした。
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●先発は岩隈久志投手であった。●
 私は通常はMLBを見るとき安価な席しか購入しないのだが,というより,近年,チケットが異常に高価になってしまったのだが,この日はひとりでなかったので,けっこういい席を手に入れていた。
 シアトル・マリナーズといえば,日本では何といってもかつて在籍したイチロー選手で有名になったのだが,このころはすでにシアトルにはいなかった。しかし,ボールパークの外壁にはイチロー選手の写真がレジェンドとしてそのときも掲げられてあった。
 シアトルという町はNFLのシアトル・シーフォークスが強く,また,ファンが多く,創設以来優勝したことがない弱小球団のシアトル・マリナーズは,不人気ということではないが熱狂的なファンがおらず,したがって,観客もシアトル・マリナーズのユニフォーム姿の人はほとんどおらず,冷めている。チームもまた,この時点では永久欠番の選手もおらず,在籍した実績ある選手を必ずしもリスペクトしているとはいえなかった。
 私は,あれだけの記録を残したイチロー選手の引退後のシアトル・マリナーズでの処遇が心配だった。結局,こののち,チームはイチロー選手の功績をうまく残すことができたのは幸いであったが,それはこの旅のあとのことである。
 こうしたことを知ったのは,この旅のあとだが,このころの私は,まだそうしたさまざまなチーム事情も知らず,MLB30球団すべてのホームグランド巡りに夢を追いかけていた。

 さて,この年のシアトル・マリナーズは,投手としては日本から来た岩隈久志投手が絶好調であり,野手としてはニューヨークからトレードされてきたカノ―選手が活躍していて,いいムードだった。
 しかも,何とこの日の先発は岩隈久志投手だった。私はなぜかとてもツイていて,この翌年にもシアトル・マリナーズのゲームを見たのだが,そのときの先発もまた岩隈久志投手だった。こんな幸運は確率25分の1である。
 このボールパークにはお寿司屋さんがある。そこで,食事は,岩隈投手にちなんだ「クマコンボ」というお寿司にしたのだが,その翌年,このお寿司屋さんのオーナーと知り合うなどということは,この時点ではまったく知らなかった。
 ゲームは結局,シアトル・マリナーズの逆転勝ちで,静かだったゲームが終盤に盛り上がった。岩隈久志投手には勝利がついたのだが,逆転後の7回を抑えたときの嬉しそうな顔は忘れられないものだった。

 前回書いたように,車を駐車した場所がボールパークから近かったので,ゲームの終了後は混み合うこともなく,すんなりとフリーウェイに入り,この日宿泊するホテルに戻ることができた。
 とてもすばらしいゲームだったので大満足だったのだが,実は実は,こののち,とんでもないことが起きた。それは,このゲームの5ゲームあとの岩隈久志投手の次のローテーションで先発した岩隈久志投手がノーヒットノーランを達成したことだ。このニュースを聞いたときは大いに悔しくなった。こんなことがあるのだろうか,と思った。これもまた,今となってはよき思い出だ。
 私はこれまでずいぶん多くのMLBのゲームを見たが,ゲームの内容を覚えているものなんてほんのひと握りだ。しかし,ゲーム開始前のことやら,ゲームが終わった後のボールパークの景色やら,そういったものの多くは,今も目に浮かんでくる。
 さあ,これで,この日の日程は終了して,次の日からは国立公園巡りである。

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●駐車するのに苦労した。●
 この2015年の旅のあと,私はシアトルには2016年,2017年と,結局3年連続で行くことになった。だから,2015年のこの旅のあとで,シアトルにはずいぶん詳しくなったわけだが,この時点では,いまのようにシアトルがなじみの都会になるとは思わなかった。
 しかし,知っているより知らないほうが,ずっと夢があるような気もする。
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 さて,やっとスペースニードルに着いたものの上ることもできず,次の目的地のセイフコフィールドに急ぐことになった。
 スペースニードルからダウンタウンまではインターステイツ5も一般道もかなり渋滞していてクルマが動けず,大変な思いをしたが,なんとか開始2時間前にはボールパークに到着した。
 この日はひとり旅でないのでいろいろと豪華で,ボールパークの駐車場も,一番便利なところが予約してあった。
 かつては,アメリカのボールパークはどこもまわりに広い駐車場があって,何の不便も感じなかったし,さすがアメリカだと思ったが,都市の再開発で,ボールパークがダウンタウンのど真ん中に新しく移転するようになって,ダウンタウンに宿泊していれば徒歩圏内なので便利なのだが,車で行くには駐車場に苦労するようになった。今では,ボールパーク料金よりも駐車料金のほうが高価なくらいだ。
 ロサンゼルス・ドジャースの本拠地ドジャースタジアムなんて,昔と同じ場所にあって周りは広い駐車場に囲まれているのだが,この駐車場は以前は無料だったのに,今は有料になってしまった。
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 さて,シアトル・マリナーズの本拠地セイフコフィールド(Safeco Field),現在のT-モバイルパーク(T-Mobile Park),のオフィシャルパーキングの中で最もボールパークに近い駐車場は便利なのだが駐車スペースが狭かった。アメリカの常であるように,車を頭から突っ込んで停めると,出るときがたいへんだったので,日本で習ったように,車をバックで停めることになった。これがまあ,1台当たりの幅が狭く大変であった。アメリカで車を停めるのにこんなに苦労するとは思わなかった。しかし,日本では慣れっこの私は,巧みな? ハンドルさばきで一発で車を入れたものだから,周りの人が拍手喝采であった。
 ちなみに,このとき借りていたのはアメリカ仕様の新型カローラであった。
 
 さて,ボールパークに入ると,すでに,ゲーム前の練習が終わるところであった。ベンチの近くにファンが集まっていた。目的はサインボールである。まあいわば大相撲の入り待ちのようなものだ。
 以前なら,気軽にサインをしてもらえたのだが,このごろは,こうしたものすら金儲けの対象となってしまっていて,そこに行くには別料金をとるようなところまで現れてきた。それとともに,私は,次第にメジャーリーグに興味を失いだした。やっていることが純粋でないのである。そして,のどかさが失われてしまったのである。
 それはそれとして,MLBは,ゲームの開始前が最も楽しいのだ。ああアメリカに来たなあと実感するときである。日本と違って,客席がグランドに近く,また,フェンスが低いのが驚きなのだ。また,ボールパークでは,コンコースが広く,ぐるりと一周できるので,コンコースを歩きながら,食べものを買ったり,ときには併設されている博物館を見たりといった楽しみを味わうことができる。これが,日本との違いである。
 日本人は精神的に余裕がないのだ。噂では,コロナ禍で延期になった,いや,私は中止になると思う東京オリンピックの会場として新しく作られた国立競技場も,せまくひどいものだそうだ。

☆ミミミ
昨晩,南の空に月と木星と土星が並んで輝いていました。
月と惑星は同時に写真に撮ると,どちらかが露出不足か露出オーバーになってしまい,うまく写せません。そこで,ちょっと加工をしてみました。
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●旅ができなくなったとき…●
 この日の予定は,ボーイング社の工場見学に続いて,スペースニードルの見学,そして,シアトル・マリナーズのベースボール観戦であった。ベースボールはすでにチケットが購入してあった。
 自分ひとりならもっといいかげんだが,今回は人を案内するので,予定もきめ細かく,かつ,豪華であった。
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 私はこの旅の前,すでに,2000年,2004年,2006年と3回シアトルの地を踏んだことがある。私がボーイング社の工場見学とスペースニードル,そして,ベースボール観戦と,この旅で選んだ場所と同じ行程で旅をしたのは2006年のことであった。10年ひと昔というが,2006年はこの2015年の旅の9年前,そして,今から数えたら14年も前のことになるわけだ。

 このごろはいろんな場所を旅しても,旅をしたことすら忘れてしまっていることも多いのだが,不思議なことに,2006年の旅についてはよほど印象が深くかつ楽しかったようで,ずいぶんいろんなことを今も鮮明に覚えている。
 私は,歳をとって体が不自由になって,今のように旅ができなくなったときに後悔したくないという一念で,ここ数年,1年に6度も7度も,行きたいと思っていた場所にどんどん出かけて,そして,ついに,行きたいと思っていたところはほぼすべて行くことができた。これで後悔はないなあ,この先はどこに行こうか? と思っていたときに,コロナ禍が訪れた。ほぼすべての場所に行った後に起きたことで,ある意味,幸運であった。
 しかし,行きたかったところに行ってしまえば,旅をすることがままならなくなったとき,思い出だけで生きていかれると思っていたのは間違いであった。行くことすらままならなくなった今になって,また行きたいなあ,行くことができればいいなあという想いが日に日にどんどん募ってくる。おそらく逆に,行っていなければ,行った場所を懐かしいとも思わないから,そうした辛さは感じないことだろう。
 これが現実なのである。人はいつまでも強欲なのだ。困ったものだ。

 さて,前回シアトルに行った2006年の感覚で2015年の旅をしていた私は,それがまったく役立たないことに気づく。アメリカは1年もあれば何もかもが変わってしまう国なのである。
 2006年当時は,スペースニードルのあたりは広い空き地があって,そこに大きな駐車場があった。私はこの駐車場に車を停めて,そこから公共交通機関を利用してシアトル観光をしたのだった。ところが,2015年のこのとき,スペースニードルのあたりはすっかり様変わりををしていて,あのときの空き地はすでになく,豪華な遊園地ができていた。車を停めようにも駐車場は少なく,また,ほとんど満車の状態であった。なんとか並んで車を停めることができた。が,今度はスペースニードルに行こうとしたら,ものすごい行列になっていて,昇るのに2時間もの待ちが必要だった。要するに,ここもまたオーバーツーリズムなのだった。
 コロナ禍の今はどうなのか知らないが,コロナ禍以前は,世界中の観光地はどこもそんな状況であった。行きたいといういう気持ちより,こんなに混雑していては行きたくないという気持ちが勝ちかけているほどのありさまだった。このオーバーツーリズムのバブルはコロナ禍によってはじけたと思っているが,果たして,この先はどうであろうか。今出かけられない反動で,よりオーバーツーリズムが激化するのだろうか?
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 さて,この日はそんな状況だったので,2時間並んでスペースニードルに上っていてはベースボールに間に合わないということになってしまった。そこで,スペースニードルはあきらめて,ベースボールを見にいくことにした。しかし,おまけに,インターステイツ5の南向きは大渋滞をしていた。シアトルのインターステイツ5の南向きの渋滞は実際はダウンタウンの手前で解消されるのだが,このときの私はそんなことは知らないから,これでは間に合わないと焦って,インターステイツ5を降りて,一般道を走ることにした。ところが,それがさらに裏目に出て,一般道はインターステイツ5以上に渋滞していた。果たして,ベースボールには間に合うのだろうか?

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●ボーイング社の工場見学●
 予定より遅れたが,何とか会うことができて,ほっとした。
 この日の予定はボーイング社の工場見学だった。事前に見学時間を予約してあったが,待ち合わせが遅れたので,予約した時間に間にあうかどうか微妙なところであった。
 シアトルは南北に長い都市である。西は海,そして,東には山が迫っている。空港のあるタコマは南側,そしてボーイング社の工場は北側にあるのだが,その間のインターステイツ5は慢性的に渋滞している。車線を増やそうにも土地がない。
 私自身は,前回来たときにすでにボーイング社の工場見学はしたのだが,はじめて来た人が観光する場所としてふさわしいと思って案内したのだった。 
 さまざまなところに行ってみると,はじめて行ったときの感動は忘れがたく,もう一度行きたいと思うところも少なくないが,その多くは2回行くと,まあ,これでいいかと満足する。要するに,納得するには2回必要ということだろう。それは勉強も音楽を聴くのもすべて同じことだ。しかし,はじめて行ったときの感動は2度目では味わえないものだ。
 また,より魅力的な場所であれば,何度でも聴きたい好きな音楽のように,そこに何度も行くことになる。これが常連というものである。

 渋滞による遅れを心配していたが,この日,道路は北向きはそれほど混雑していなかったので,幸い,時間に間に合って到着することができた。
 それにしても,生まれてはじめてアメリカに来て,いきなり車に乗って,日本にはない片側4車線も5車線もある広いアメリカのインターステイツを車の洪水の中,時速117キロメートルで走る体験は,きっと驚きに満ちていたことだろう。
 とにかく,何事もこの国は日本とはスケールが違いすぎる。そしてまた,アメリカ人のアグレッシブさをどう表現すればいいのだろう…。

 残念ながら,ボーイング社の工場見学は内部の写真撮影ができないので,今日の2番目から4番目の写真は,駐車場からの外観と豪華な受付だけである。
 この時期,つまり今から5年前の2015年のころは,航空産業は絶好調で,工場の中では多くの航空機が組み立てられていた。1機200億円以上もする航空機だが,買いませんか,というジョークが案内放送されていたのには驚いた。ボーイング747,777,787などの旅客機がそれぞれの機種によって別のセクションで組み建てられていたが,その工場のバカでかさは圧巻であった。
 その後,ボーイングの航空機はトラブル続きでただでさえ大変だったのに,そこにコロナ禍が加わって航空機需要は減り,逆風が吹き荒れている。今,この工場の見学がこのときのように行われているのかどうか私は知らない。

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●入国するのも楽じゃない。●
☆9日目 2015年8月7日(金)
 宿泊したホテルは空港に近いので,早朝のフライトに間に合うようにはやくチェックアウトをする人が多いから,朝食は午前4時からとることができた。アメリカの大都市はダウンタウンよりも空港近くのホテルのほうが安くサービスがよいが,シアトルもまた同様であった。いずれにしても,アメリカのホテルは,日本円にして1泊10,000円を境としてえらく差がある。
 今日の朝,友人の息子さんが日本から来る。朝9時に空港に迎えに空港に行くので,それまでゆっくりと過ごしてホテルを出た。
 シアトルタコマ国際空港はパーキングが広く,停める場所がなく困るというほどのことはないので,わかりやすい場所に車を停めて,空港の建物に入った。
 待ち合わせは空港のバゲジクレイムに降りるエスカレータのところにした。
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 アメリカの空港はそれぞれシステムが異なるのではじめて行くとけっこう迷うことが多い。広いシアトルタコマ国際空港は,ターミナル間の移動には地下鉄が走っている。移動の間,カバンを持たなくてよいように,入国手続きを過ぎたら再びカバンを預けると,出口にあるバゲジクレイムまで運んでくれるようになっている。はじめて来たころは私もそのようにして再びカバンを預けていたが,旅慣れてカバンが小さくなったので,今ではそのままカバンを持って地下鉄で移動するようになった。そうすれば,バゲジクレイムからカバンが出てくるのを待たなくてもいいからである。
 いずれにしても,このバゲジクレイムは,空港の出口にあって,そこに降りるエスカレータも1基なので,集合場所としてはもっともわかりやすく便利な場所である。

 バゲジクレイムは再会を喜びあい抱き合う姿が繰り広げられていて,ああアメリカだ,と思う場所であったが,今はどうであろう。
 この旅のころはいつもフライトが遅れていたが,このときもまた,予想通り? フライトの到着が遅れているらしく,なかなか姿がみえなかったが,予定の時間よりだいぶ遅れて会うことができた。フライトの到着が遅れたことに加えて,入国審査で戸惑っていたということだった。
 実は,近年,アメリカは,私のように何度も入国している無害なひとり旅のおじさんはすぐに入国できるのだが,はじめての入国,しかも若者となると,入国が簡単なものではない。聞くところでは,アメリカの市民権目当てで中国から若い女性が偽装結婚による不正入国を試みることが多発しているかららしい。そこで,中国人に限らず,日本人でも,若い人,特に女性が個人旅行でアメリカへ入国するのは非常にたいへんということだ。

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●スターバックス1号店●
 シアトルを訪れる人の多くはスターバックスの1号店に行きたいらしい。この旅の数年後に再びシアトルに行ったときに知り合ったシアトルに住むEさんは,日本から友達が来るとだれもがまずスターバックスの1号店に連れていってくれと言うと迷惑がっていた。
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 世界規模で展開するコーヒーのチェーン店スターバックス(Starbucks Corporation)は,1971年にシアトルで開業した。現在はおよそ90の国と地域で営業を展開し,店舗数は23,000店もあるという。
 スターバックスは,ジェリー・ボールドウィン(Jerry Baldwin),ゴードン・バウカー(Gordon Bowker),ゼブ・シーグル(Zev Siegl),アルフレッド・ピート(Alfred Peet)によって開業された当時はコーヒー焙煎の会社にすぎなかった。1982年,のちに会長兼CEOとなったハワード・シュルツ(Howard Schultz)が入社すると,コーヒー豆のみならずエスプレッソを主体としたドリンク類の販売を社に提案したが受け入れられなかった。
 1985年にスターバックスを退社したハワード・シュルツは,翌年,イル・ジョルナーレ(Il Giornale)社を設立し,エスプレッソを主体としたテイクアウトメニューの店頭販売を開始,これがシアトルの学生やキャリアウーマンの間で大人気となった。そこでハワード・シュルツは,1987年,スターバックスの店舗と商標を購入し,イル・ジョルナーレ社をスターバックス・コーポレーションに改称し,スターバックスのブランドでコーヒー店チェーンを拡大したのだった。
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 店名の由来は、ハーマン・メルヴィル(Herman Melville)の小説「白鯨」(The Whale)に登場する捕鯨船ピークォド号(Pequod)の副長スターバック(Starbuck)1等航海士とシアトル近くのマウント・レーニアにあったスターボ(Starbo)採掘場から採られたので,企業ロゴに船乗りとの縁が深いギリシヤ神話のセイレーン (Seirēn)が用いられている。
 シアトルの1号店は開店当時の色調とデザインを採用しているので,ほかのチェーン店とは異なるロゴとなっている。
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 私はスターバックスの1号店に入ってみたいということは特に思わなかったが,どこにあるのだろうという興味だけでその地に行ってみた。店の前は店内に入ろうとたくさんの人であふれかえっていた。人混みが嫌いな私は当然並ぶわけもなく,外からそれを眺めただけだった。
 私の性分で,どういうところかわかって納得すればそれで事足りる。オリジナルグッズを土産として買うような趣味もない。スターバックスの1号店があったのは海岸近くの高台,シアトルでも下町の雰囲気満載の場所であった。ここにはファーマーズマーケットなども立ち並んでいた。今は移転してしまったが,東京に行って,以前の築地市場に出かけて,吉野家の1号店を見にいくようなものだろう。そういえば,私の家の近くには,カレーハウスCoCo壱番屋の1号店というものもある。
 スターバックスの1号店はともかく,このあたりの町の雰囲気がおもしろかったので,その付近をしばらく散策してから,ホテルに引き上げた。

 一旦ホテルに戻ってから,夕食をとるために再び外に出た。
 私の泊まるような安ホテルにはレストランが併設されていることはまずないので,いつも夕食には結構苦労する。たまには豪勢に夕食をとることもあるが,通常は,食欲が満たされて野菜が取れればそれでいいと思っているしアルコールも飲まないから,近くにモールでもあればそこのフードコートで済ませるか,そうでなくても,ちょっとしたファミリーレストランがあればそこで済ます。しかし,何もないと,マクドナルドなどのハンバーガーチェーンということになってしまう。これは,日本国内を旅行するときも同じである。
 この日は幸い,ホテルの隣にIHOPがあったので,ここで夕食をとることにした。
 アイホップ(IHOP)は,朝食メニューがユニークなアメリカのレストランチェーンである。メニューにはハンバーガーやフライドポテト,スープ,サラダのような品目も当然用意されているが,ここのウリはパンケーキ,ワッフル,フレンチトースト,オムレツ、ブリンツのような朝食向きの食べ物である。しかし,私はアイホップは夕食でしか利用したことがない。
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 アイホップは,1958年,ジェリー・ラピン(Jerry Lapin),アル・ラピン(Al Lapin)とアルバート・カリス(Albert Kallis)がシャーウッド・ローゼンバーグ (Sherwood Rosenberg)の援助を受け,ロサンゼルスのトルカレーク地区に「The International House of Pancakes」(だからIHOP)を創業したのがはじまりである。アメリカ全土に店舗を展開し「アメリカのアイコン」を自称している。店舗数は1,300店あまりである。一時,ハンバーガーの提供開始時にブランド名を「IHOB」に改名したがすぐに元に戻したという。日本にも進出したことがあったが,現在は撤退した。
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 食べ物にうるさい日本に進出して外食産業を続けるのはむずかしい。

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藤井聡太新王位誕生

最年少二冠達成,おめでとうございます。

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●コロナ禍で絶滅したもの●
 2015年のこの旅まで,シアトルは3回通った行ったことがあるが,滞在して観光をしたのは前回がはじめてであった。そのときには,ボーイング社の工場やスペースニードル,航空博物館を見学した。また,旧市街のアンダーグラウンドツアーにも参加したし,シアトル・マリナーズのゲームではイチローや城島健司捕手も見た。
 およその見どころには行ったことになるが,美しい海に面しているのに海からの景色をまだ見たことがないし,まだ行っていないところもあったので,機会があればまた行ってみたいと思っていた。
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 シアトルのほかにも,そんな思いでリピートした場所も数々あるが,どこも,はじめて行ったときの思い出に勝るもはないのが常である。それは決して2度目が劣るというわけではないが,はじめてのときの思い出が強すぎるからなのだろう。はたしてシアトルはどうであろうか?

 今回のシアトルは,念願のハーバークルーズからはじめることにした。
 太平洋岸に面したシアトルは海が美しい都市である,夏を除いては天気が悪く,決して過ごしやすいところでもないという話だが,私は気候のよい過ごしやすい季節しか行ったことがないから,これまでも,シアトルは過ごしやすい都会だと思っていた。ハーバークルーズで海に出ると,風がすずしく,とりわけ気持ちがよかった。
 シアトルのウォーターフロントは波静かなエリオット湾に面していて,ピアとよぶいくつもの埠場は南のピア48から北のピア70まであって,それぞれが独特の風情をもっている。
 私は適当な駐車場に車を停めて,ピア57番桟橋から出航する1時間のシアトル湾クルーズを楽しむことにした。
 アメリカでは,あるところでは海,また,あるところでは湖や川で,このようなクルーズを楽しむことができる。私がこれまで経験したものでは,シカゴのミシガン湖クルーズもすばらしかったし,ハワイ島のサンセットクルーズも最高であった。また,バーモント州バーリントンのシャンプレイン湖のクルーズも思い出に残るものだった。また,ミネアポリスで乗船したミシシッピ川クルーズも楽しかった。
 ディナークルーズもあるし,天気さえ恵まれれば,これ以上の旅の楽しみはない。この日もまた,絶好の天気に恵まれた。

 以前なら,国内も国外も旅はどこもとても楽しかった。しかし,2015年を過ぎたあたりから,そうした楽しみをまったく台なしにする傍若無人な「色の黒いサングラスをかけ声がやたらとでかく自撮り棒をもった」某国のグループが世界中に蔓延するようになった。
 こうしたクルーズもまた同様で,彼らが団体で乗船するようになって以来,状況が一変した。特に彼らのうちで生意気なのが子供と女性だが,彼らは人の席は勝手に奪うし,人のカバンに腰かけるなどというのは珍しくもない。そうした輩がクルーズ船の狭い乾板を占拠するものだからたまったものではない。
 現在はコロナ禍で彼らの姿は消えてしまったが,コロナ禍が収まれば,ウィルスに代わって,また彼らが世界中に蔓延するに違いない。そして,その蔓延はマスクをしようとワクチンを投与しようと防ぎようがない。入国禁止以外に方法はない。海外はともかく,せめてその姿が再び現れる前に,日本国内を精力的に旅しようと私は考えている。
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 さて,このクルーズもまた,乗船すると,そうした状況が繰り広げられた。我先に甲板に昇って,眺めのよい席を集団で占拠する。私が席に座っていると,隣に,たとえば4人がけだと,さらに詰め詰めで4人座ってきて押し出される。そして,席を確保してしまうと,そこに荷物やらなにやらを置いて,席を立って,大声で歩きまわるわけだ。腹立たしいが,私は我慢してクルーズを楽しむことにした。
 甲板の状況とは裏腹に,海上から見たシアトルのダウンタウンはまことに美しい景色であった。遠くにはMLBシアトル・マリナーズのボールパークと,そのとなりには,NFLシアトル・シーホークスのスタジアムが見えた。私はこの数年後に,シアトルでフットボールを見ることになるのだが,そんなことができるとは,このときは夢にも思っていなかった。
 また,遠くにはマウントレイニーの姿が見られた。この数日後,私はこの山に登ることになる。

☆ミミミ
連日快晴という天気予報だったので,金星と月の動きを楽しむために写しています。
8月18日の早朝4時20分の東の空の月と金星です。前日より月の出がさらに遅くなりました。この日の月齢は28.1。あすは新月直前の月ですが,はたして晴れるか? 月は見られるか?
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●日々変化するアメリカ●
☆8日目 2015年8月6日(木)
 復習をして,私の記憶もよみがえってきたので,いよいよ2015年の3度目のアメリカ旅行の続き,第2部をはじめる。
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 3度目のアメリカ旅行では,まずアイダホ州に行って,6月末の2度目のアメリカ旅行で送っていった親戚の子供たちと再会した。そのあと車を借りてモンタナ州をドライブしたり,キャンプをして楽しんだことはすでに書いた。これが3度目のアメリカ旅行の第1部であった。
 私の友人の息子さんが大学生になったのを機にアメリカを体験してみたいということになり,私がそのお手伝いを買ってでた。これが第2部である。
 彼とは8月7日にシアトルのタコマ国際空港で落ちあうことになっていた。私は,ボイジーを離れ,その1日前の8月6日にシアトルに行って,落ちあう前日にひとりでシアトル観光を楽しむことにした。
 そんな次第で,私はボイジーからシアトルに移動する。3度目のアメリカ旅行の第2部がはじまるわけである。

 アイダホ州の州都ボイジーは小さな落ち着いた町である。
 アメリカではこの程度の町が最も過ごしやすく快適である。というより,これ以上の大都市は,どこも車の洪水で,かつ,人も多いから,アメリカらしい雄大さを求めるには不似合いである。
 しかし,ほとんどの日本人の旅行者は,おそらく,ロサンゼルスやサンフランシスコ,ニューヨークのような大都会しか知らないし,住んでいる人のほとんどもそうした大都会である。
 マスコミのアメリカ支局もまた,そうした大都会にある。したがって,日本に伝わってくるアメリカの情報というのは,かなりの偏りがある。まあ,日本でも,東京のことばかりをさも日本のように報道している某全国放送があるから,同じようなものではあるが。
 ボイジーは,空港もまた,この程度のほかの都市の空港と同じように,手ごろで楽である。セキュリティで長い列ができるということもない。
 ただし,ボイジーもまた,ハイテク企業の誘致で活況を呈しているから,この先のことはわからない。

 ボイジーからシアトルまでは空路1時間30分程度であるが,時差があるので,西に行くときは時間としては30分ほど進むだけになる。アメリカ旅行をするときは東から西に向かうと1日が25時間になってなんだか得をした気になるが,その反対に向かうと1日が23時間しかなくなるから,あわただしいことこの上ない。
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 私はデルタ航空のゴールドステイタスなので,アメリカの国内線を利用するときは,まずほとんどファーストクラスにアップグレードされる。といっても,座席が広いくらいだ。距離が長いと食事が出ることもある。今回もファーストクラスで快適な空の旅を楽しんでシアトルに到着した。
 この2015年の旅のあと,私はどういうわけか縁あって何度もシアトルに行ったので,今はシアトルのタコマ国際空港はセントレア・中部国際空港よりよほど詳しくなったが,この旅のころはそれほどもなかったから,いろいろ新鮮だった。
 シアトルではレンタカーのオフィスは空港から少しはなれたところにある別のビルに集中されていて,そこまでシャトルバスで行くことになる。この旅のころはアメリカではレンタカーを借りるときは事前に予約をしておくと指定された車が事前に駐車場に用意されていて,ガレージの上部に名前が表示されていたが,その後,何十台もの同じグレードの車がひと区画に集められていて,そこから好きな車を自由に選ぶように変更になった。このように,アメリカというところは日々変化していて,前回がこうだったというのは,ほぼ通用しない国だ。

 さっそくレンタカーを借りて,まず,予約しておいたホテルに行ってチェックインをした。
 ひとりだけならもっと安価なホテルに泊まるが,今回はふたりだから,私が泊まる中では上級ランクのホテルにした。アメリカのホテルは通常,ひとりでもふたりでも値段が変わらないから,ふたりだと贅沢ができるというわけだ。 今夜はこのツインルームにひとりである。
 チェックインは,フロントで予約票を見せるのではなく名前を聞かれることがほとんなので,まず「予約をしてある〇〇だが」とフロントで問いかければ事が済むのだが,ファーストネームとファミリーネームが混同されていることが多いので注意が必要である。日本では近ごろパスポートの表記の姓名が名性から姓名に変わったようだが,これではクレジットカードと順番が逆になってしまうから問題は生じないのだろうか? 日本人の名前は海外に行くと,どちらが姓でどちらが名なのかごっちゃになっていて混乱が生じる。このときもまた,コンピュータに表示されたリストには姓と名が反対だったらしく,なかなか私の名前が見つからなかった。
 なんとかチェックインが終わり,今日はこのあとシアトルを散策する。

☆ミミミ
8月17日の早朝3時30分の東の空の月と金星です。前日より月の出が遅くなりました。このところ急に天気がよくなり連日の快晴。この雲のない美しい夜明けの空を知らぬとは,なんともったいないことか,と思います。
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