しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国50州 > オクラホマ州

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 アメリカの南部の中でも,アーカンソー州,ルイジアナ州から東側は特に深南部といい,そこから西側とはずいぶんと雰囲気が異なります。
 それに比べて,ルート66の通るオクラホマ州,テキサス州,ニューメキシコ州などは,日本では考えられない平坦な悠久の大地が延々と続いています。それを走るのを退屈とするか,それとも,何かを思うかは,こうした土地の歴史を知っているかどうかでずいぶんと違います。どんなところにも,その土地を生きた人々の苦悩と喜びが詰まっているのです。
 私はテキサス州もニューメキシコ州も多くの道路を走ったのですが,これまで,ルート66は見事に逃しています。唯一走ったのはサンタフェ近郊だけで,そのころは,こんなところにルート66が走っているんだ,と驚いたことがあります。
 そこで,将来,ルート66を制覇するには,これまで走ったことのないオクラホマ州のオクラホマシティからアリゾナ州までを走らなければならないわけですが,これが並大な距離ではないので,このご時世ではちょっと絶望的です。

 今日の写真は,オクラホマ州の中で私が走ったルート66です。
 オクラホマ州のルート66はとてもきちんと保存されていて,走っていてとても楽しいものです。
 通過する町ごとに,ルート66に対して,リスペクトをもっていることがとてもよく感じられますが,これは,日本で,旧街道を歩くときに感じるものと一致します。
 このブログはルート66の観光案内ではないので,そういった内容他に譲るとして,ここでは,いくつかの私が通過した町について,断片的に書くことにします。
  ・・
 オクラホマ州のルート66を走ると,なだらかな丘とところどころにオイルポンプが点在していて,石油が埋蔵されていることを確認できます。この姿こそ,アメリカ南部であることが実感できます。
 また,そうでないところは,道路の際まで牧場があって,牛がのんびりと草を食べている姿を目撃できます。
 ミズーリ州からオクラホマ州に入ったところにあるのがマイアミという町です。マイアミのランドマークは「コールマンシアター」(Coleman Theatre)です。この劇場でウィル・ロジャース(William Penn Adair "Will" Rogers)のひとり舞台ことを忘れてはならないといいます。マイアミの次の町クレアモア(Claremore)の町の中心から少し外れたところに「ウィル・ロジャース記念博物館」があります。
 また,この劇場には幽霊が出るということで知られているのですが,これらのことは以前ブログに書いたことがあります。 
 ルート66を通る町には,ここだけでなく,幽霊が出るという話が結構あるので,私は興味を惹かれます。どの国でも,こういう話は好きです。

 また,オクラホマ州で生まれたサイラス・アヴェリー(Cyrus Avery)のことを知らずして,ルート66は語れないとさえいわれます。
 サイラス・アヴェリーは石油事業に力を入れ,その採掘のために頑強な道路が必要でした。しかし,その時代,オクラホマ州は道路後進地域だったので,サイラス・アヴェリーは地方行政官に立候補して当選すると,道路を整備することに努力して,1925年,ついにルート66が誕生することになったのです。
 やがて,オクラホマシティに到着するのですが,私は,その先を走っていません。

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💛
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●「コールマンシアターの幽霊」●
 こうしてなんとかたどり着いたのが今日紹介する町マイアミ(Miami)である。
 前回書いたように,道に迷いながら,この町に着いたのだが,町の入口には写真にあるようなゲートがあって,ここもまたヒストリック・ルート66を誇りにしている町であった。
 マイアミ,発音はマイアマーであるという。人口は約13,000人。
 この町の中心は,ファースト・ストリートとメイン・ストリートが交差するところで,そこにこの町のランドマークであるコールマン・シアター(Coleman Theater)があった。1927年に作られたコールマン・シアターは,「ウィル・ロジャースのひとり舞台」という逸話で有名なところである。
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 ウィル・ロジャース(William "Will" Rogers)がショーマンだった1930年代のある年,彼は,ここコールマン・シアターでショーをやることになった。そこで,この町の人々は彼の到着を出迎えに飛行場に出かけたのだが,彼は手違いで別の飛行場に到着してしまったので,クルマを飛ばして,シアターに到着したのだった。
 その彼を待ってたのは,出迎えに出かけてしまってだれひとりいない空席となったシアターであった。観客が大急ぎでシアターまで引き返してくる間,ウィルは文句も言わず,ひとりで輪投げの練習をしていたのだという。
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 これが,「ウィル・ロジャースのひとり舞台」という逸話である。
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 そしてまた「コールマン・シアターは幽霊」が出ることでも知られている。
 入口奥のホールに2階ロビーを写した写真があって,その中の暗い影というのが幽霊なのだという。ステージ脇の楽屋口に続く舞台袖の少し広くなったところに裸電球がスタンドに乗って点灯されていて,それは決して消されることはないのだそうだ。
 それは,この裸電球がついている限り幽霊は出ないと信じられていることから…,らしい。

 こういった,日本では全く知られてない,しかしアメリカ人の誰もが知っている多くの物語,そうしたものを知って,このヒストリック・ルート66を走るのはとても幸せなことに違いない。そうすれば,たったひとつの郵便ポストも,ガソリンスタンドの給油機も,そしてまた,ある人物の銅像も,そうしたすべてのものが,輝きを持って存在感を増してくるのだ。
 たとえば,今日の3番目の写真にあるような,たわいもないガソリンスタンドの給油機のような…。この旧式の給油機は,多くのヒストリック・ルート66に関する写真集やらブログにとりあげられているものだけれど,それを見るだけで,それが設置された時代に訪れた旅人を引き込んでいく。
 きっと,旅の一番の楽しさというのは,こうしたことから生まれてくるのだろう。
 マイアミ,いや,マイアマーはそうした幸せを感じさせるのに,ぴったりの町であった。

 マイアミを越えると,再び,ヒストリック・ルート66がこの先どこに続いていくのかさっぱりわからなくなってしまったのだが,自分の不勉強を棚に上げて道路標識の不備に腹立てながら州道69を走り,やがて,オクラホマ州の州境までやってきた。
 その町がクオボー(Quapaw)であった。
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 かつて,オクラホマ州は道路に関して後進地域であった。オクラホマ州で育ち,石油事業に力を入れたサイラス・アヴェリー(Cyrus Avery)という男は,地方行政官に立候補して当選すると,持てる力すべてを使っていい道を作る努力をした。そして,1925年に,ついに,ルート66が完成した。
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 そうした人々の努力によって生まれたこのアメリカの「マザー・ロード」は,地図からはその名が消された今もなお,アメリカの人々の心の中に輝き続けているのだ。
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   We will never have true civilization until we have learned to recognize the rights of others.
        William "Will" Rogers
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●アメリカ人は本当に銃が好きだ●
 今日紹介する町は,写真の順に,クレアモア(Clarmore),ヴィニタ(Vinita),そしてアフトン(Afton)である。
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 クレモアは人口約20,000人。タルサから東へ40分くらいのところにある。この町では,ヒストリック・ルート66はリン・リッグス・ブルバード(Lynn Riggs Blvd)という別名を名乗り,今でも現役のメインストリートである。このメインストリートのあたりはチェーン店が軒を連ねるよくあるアメリカの小都市の風景である。
 隣に走るウィル・ロジャーズ・ブルバード(Will Rogers Blvd)にもルート66の時代の建物が現存していて,とても旅情をさそう。このウィル・ロジャーズ・ブルバードは町のほぼ中央を東西に横切っていて,往年のルート66を偲ばせる建物の多くはこの道沿いに残っている。その中でも,1930年に建てられたかつてのウィル・ロジャーズ・ホテル(Will Rodgers Hotel)とオールド・トウィン・ホテル(Old Twin Oaks Hotel)が目につく。
 また,「銃の博物館」(J.M. Davis Arms & Historical Museum)が町の真ん中にあって,「ウィル・ロジャーズ博物館」(Will Rogers Museum)とともに観光名所とされているそうだ。
 「銃の博物館」の展示物はもちろん銃。銃といえばアメリカなのだが,世界各国,もちろん日本も含めて,年代もさまざまな銃がひたすら展示されている。博物館の外に戦車が飾ってあるのが目印となるということだ。
 私はこの博物館には行かなかったが,以前,テキサス州で同じような博物館に行ったことがある。それ以外にも,様々な博物館に銃の展示がある。
 本当にアメリカ人は銃好きなのだと思うが,そこに展示してあるものの中には,旧日本軍の持っていた銃というものもかなりあって,私はそのことにも驚いた。

 クレモアを過ぎると,州道66はインターステイツ44と少し距離を置きながら北側を平行に走っているが,やがて,ヴィニタに到着して,再びインターステイツ44と交わるあたりから,細かな地図も持たず,予習をしていない私には,だんだんとヒストリック・ルート66をたどることが難しくなってきた。
 このあたり,すでに,オクラホマ州の北東の州境付近である。

 すでに書いたが,ヒストリック・ルート66はすでにこの世から消えた名前であって,現在,この道路から派生した新しい道路の名前は,州道66であったり,州道60であったりする。
 気を利かせてヒストリック・ルート66という道路標示があればよいのだが,カーナビの表示や地図を見ても,現在の名前しか表示されず,わからなくなってしまうのだ。
 実は,ヴィニタを過ぎると,ヒストリック・ルート66は州道66ではなく州道60となり,やがて,アフトンという町を過ぎると,州道60は南北に走る州道59との交差点があって,そこでヒストリック・ルート66は左折して北に曲がり,州道59に変わるようなのだ。
 そして,そのまま北上を開始して到達するのが,マイアミ(Miami)という町であった。
 うまくヒストリック・ルート66をたどれなくなってしまった私であったが,それでも,なんとかマイアミに到着したのだった。

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●ガソリン価格が気になるようでは●
 サバルバ(Sapulpa)はそのまま通り過ぎた。その次の町はタルサ(Tulsa)であった。
 私は,確かに,ヒストリック・ルート66のタルサという町の中を迷いつつ通ったのだが,実は,この町の細かな記憶がほとんどないのだ。
 しかし,後で調べてみると,このタルサは人口約40万人という非常に大きな都市であった。きっと,きょうの1番目の写真のように,州道66に並走してインターステイツ44が走っていて,その近代的な都会に私のイメージがわかず,なんの印象もなく通り過ぎてしまったのもだと思われる。
 しかし,有名な町らしいので,ここでは,ガイドブックから少し紹介してみることにする。
 タルサは石油の町といわれ,人口は約40万人である。これもまた石油産業で栄えたオクラホマシティに続くオクラホマ州第2の都市ということである。
 NHKの「世界ふれあい街歩き」という番組でも2007年に取り上げられたという。

 タルサは,ゴールデン・ドリラー(Golden Driller)という像がダウンタウンから東にあるタルサ・エキスポセンター(Tulsa Expo Center)の前に立っていることで有名なのだそうだ。
 このゴールデン・ドリラーというのは石油労働者の像で,高さがなんと23メートルもある。オリジナルの像はテキサス州のフォートワースで建てられたのだが,1966年に International Petroleum Exposition のシンボルとして,タルサにも新しく建てられて今に至っているということである。
 また,デザート・ヒルズ・モーテル(Desert Hills Motel)という古いホテルがヒストリック・ルート66沿いにあって,1953年から,今も営業をしている。このモーテルは,だれもが一度は写真で見たとこがあるであろうサボテンのネオンサインが目印のモーテルである。

 この町は大きく広いから,町中に入ると,ヒストリック・ルート66を正確にだどることが難しくなってしまう。私は,何とかカーナビとルート66の小冊子に載っている地図を頼りに苦労しながら,無事にこの町を通り過ぎたのだった。
 この町で私がしたことは,ガソリンを入れたことと,そのついでに昼食のサンドウィッチを買ったことだった。
 今日の写真のようなサンドイッチは,アメリカをドライブしていると非常に重宝するものである。比較的大きなコンビニ(アメリカのコンビニはガソリンスタンドに併設している)にお昼前に行くと手に入る。
 写真から想像する以上に量がある。それはパンの厚さを考えて頂ければわかるというものだが,その中にはたっぷりのチーズとハムと,そして野菜が入っているから,これだけで,十分にお腹がいっぱいになる。私には,少し量が大すぎるほどである。

 このサンドイッチを購入したコンビニのあったガソリンスタンドの看板の「2.30」というのは,1ガロン当たりの値段である。1ガロンは約3.9リットルであるから,2.30÷3.9= 0.59,つまり,70円くらいのものである。円高のころなら,50円,という感じであっただろうか。このように,私がこの旅をした2015年5月の頃のガソリンの値段はものすごく安くて,私は,本当にびっくりしたのだった。
 その後,アメリカではガソリンの値段が少しずつ上がっていって,8月に再びアメリカに行ったときは約3ドルほどになっていた。しかし,数年前には4ドルだったこともあるから,それでもまだかなり安価なのだが,アメリカに住む友人曰く,アメリカのガソリンの価格が気になるようでは,君は,旅行者というよりもアメリカ人だ,ということであった。ああ。
  ・・
 いずれにせよ,2012年,私がシェールオイルブームに沸くノースダコタ州に行ったときは,雑誌「TIME」では大々的に取り上げられていたが,日本のマスコミではほとんど報道もされておらず,日本ではシェールオイルというのは無名であった。第一,ノースダコタ州に興味がある日本人なんていなかった。そのときの私は,その状況を目のあたりにして,数年でアメリカは世界一の石油輸出国になると予言したが,それが的中して,アメリカのガソリンは値下がりした。そして,日本のインフレ政策も石油の値下がりとともに吹っ飛んだ。

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●カフェで水1杯とピーナッツ1袋●
 ヒストリック・ルート66についての詳しい案内は,それについて書かれた多くのブログがあるので,それらに譲ろう。というより,単にその日の思いつきでこの道を走ることにした私にその資格はない。
 それよりも,ここでは,実際,私が「思いつき」で走ってみて,いかに戸惑ったかを紹介することにしよう。関心のある方に何かの参考になるかもしれない。

 ヒストリック・ルート66を走破しようと思うのなら,もちろん,ツアーなどはないから,クルマを借りなければどうにもならない。そして,詳しく書かれた地図が必需品なのである。
 ヒストリック・ルート66は,現実には消えた道路だから,現在の道路名称とは異なっているので,カーナビだけではたどれないのである。
 市外地は問題ないのだが,要注意なのは町に入って道路が複雑になってしまったときである。あるいは,市外地でも,現在の道路はかけ離れてしまった場所を通っている場合である。
 また,多くのブログがあると書いたが,そのほとんどは,同じようなガイドブックに従ってそこを観光をしたようなものばかりだから,残念ながらあまりユニークなものはなく,同じような情報ばかりである。

 では,私が走ったオクラホマ州北東部のヒストリック・ルート66について,町の名と共に順に紹介していこう。
 ストラウド(Stroud)から先は,片側1車線の単調な州道66が続いていたが,少し走っていくと,右手に大きなガソリンスタンドがあった。そこに差しかかったときに,その手前に小さな脇道があって,ヒストリック・ルート66はその脇道に入っていくという道路標示を見つけたのだった。その標示に従って入っていったら,そこには本当に小さな町があった。
 それが今日の写真の1番目と2番目の町デビュー(Depew)であった。

 昔は,こういう町こそルート66沿いに栄えた町だったのだろうと思った。
 町の中は,日本の道のような車がすれ違うのもやっとのような狭い道がメインロードで,その道がヒストリック・ルート66であった。
 そのまま進んでいくと,すぐに町が終わってしまって,再び,元来た州道66と合流した。
 それでも,この町は今でも州道66に接しているから,小さいとはいえ,現在も人が住む町として存在しているし,町にはハイスクールもある。
 所によっては,こうした新道がヒストリック・ルート66と離れて作られたために,かつての町がゴーストタウンになってしまっていることもあるようだ。

 再び州道66に戻った私は,さらに北東に走っていくと,次の町に到着した。その町の名はブリスト(Bristow)という。それが3番目の写真である。ブリストは人口が4,000人ほどの小さな町で,写真のようにとてもよい雰囲気を持っていた。写真からでも,古き良きアメリカの町,という感じを味わっていただけると思う。
 ブリストには,カフェでは必ず1杯の水とピーナッツを1袋ださなければならない,という変わった条例「条例328」があるのだそうだ。その規則は,日本の喫茶店を真似てできたのか,あるいは日本の喫茶店が真似たのかは,私は知らない。
 ブリストを過ぎると,州道66はインターステイツ44と並走するようになった。今日の4番目の写真のように,左手に走るのがインターステイツ44,私が走っているのが州道66である。いかにもアメリカであろう。
 インターステイツ44の道路標示を拡大してみていただければわかるが,この先にある次の町がサパルパ(Sapulpa)であった。このあたりは,州道66をそのまま走って行けばよいから,特に迷うこともなかったのだった。

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●ヒストリック・ルート66はどこ●
☆3日目 5月11日(月)
 私は,ミズーリ州のカンザスシティからカンザス州を経由してオクラホマ州まで来た。何度も書くようだが,今回の旅は,私は50州制覇のために少しでも多くの州を経由しようという,いささか「クレイジー」な目的以外にはどこに行こうとかいった思い入れがあまりなかった。というよりも,こんな地域を観光旅行するような人もほとんどいないから,本当は情報がなかった,というべきかもしれない。だから,具体的な予定が立たず,その日その日に決めるしかなかった。
 今日は,はじめの予定では,オクラホマシティからインターステイツ40を東の方向に走り,アーカンソー州を経由してテネシー州のメンフィスまで行って,そこに宿泊するつもりであった。それでも結構な距離なのだが,何とかなりそうだと思った。
 ただし,そこまで行く間に,私には,ひとつだけ気になっていた場所があった。そこは,ミズーリ州のブランソンという町であった。その理由はすでにブログに書いたので,お読みになった方もおられるだろう。しかし,まだ,この時点では,ブランソンへは,旅の後半に行く予定にしていたセントルイスから,帰りに利用する空港があるカンザスシティに引き返す途中に,もし時間があれば立ち寄ろうと思っていた程度だった。それに,ブランソンの正確な場所さえ知らなかった。

 オクラホマシティで,私は,この町がヒストリック・ルート66の経路であることを知って,ルート66に関する小冊子を手に入れた。昨晩,ホテルでそれを見ていたら,ヒストリック・ルート66を北東にたどっていけば,あこがれだったルート66をずっと走ることができるのだなあと思った。それに加えて,ヒストリック・ルート66がオクラホマ州を越えてミズーリ州に入ったところに,なんと,ブランソンがあるのだった。
 そこで,私は,予定を変更して,ヒストリック・ルート66を走りブランソンまで行くことにして,この日のホテルをブランソンに予約した。そして,早朝,ホテルで名ばかりの朝食である菓子パンとコーヒーをとって,さっそくホテルを出発したのだった。
 しかし,昨日見たヒストリック・ルート66の道路標示に従って走っていっても,その先にそれに続く案内標示が見つからず,その先どう行けばヒストリック・ルート66に入れるのかわからなくなってしまった。そこで,とりあえず,ヒストリック・ルート66と同じ方向に向かうインターステイツ44に乗ったのだった。

 このインターステイツ44がターンパイク,つまり有料道路だったのが災いした。
 フリーウェイならジャンクションで自由に降りられるが,ターンパイクでは通行券を手に入れたり料金を払ったりしなければいけないから煩わしいのだ。そこで,私は,一般道に降りる気をなくして,そのまましばらくインターステイツ44を走っていくことになってしまった。しかし,ターンパイクを走りながらルート66に想いを巡らせていても,実際に走らなければ何もおもしろくない。
 やがて,私の車のカーナビの画面に,インターステイツ44にまとわりつくように,ヒストリック・ルート66という道路が表示されるようになった。そこで,ともかく次のジャンクションでターンパイクを降りてみようと,やっと決心したのだった。
 そうして降りたところがストラウド(Stroud)という町であった。
 インターステイツを降りたところにあった一般道はまさにヒストリック・ルート66に通じる道で,案内板にしたがって走っていくと,やっと,念願のヒストリック・ルート66に到達することが出来た。
 そんなわけで,ここでインターステイツを降りたのは,大正解であった 。
 しかし,本当は,もっと早くインターステイツを降りて,ヒストリック・ルート66を走るべきなのであった。私がそうしなかった理由は,先ほど書いたように,インターステイツ44がターンパイクであったことに加えて,一般道を走っていては,今日の目的地ブランソンまで何時間かかるかわからないという不安もあった。実際ヒストリック・ルート66を走っていくと,それはそれはノスタルジックに溢れた素晴らしい景観ではないか。それに,いたるところにルート66を掲げた店やら名所があって,いやが上にも気分が盛りあがっていくのだった。

 やはり,この道は,アメリカ人の「マザー・ロード」なのだ。
 後で調べてみると,オクラホ州では,ヒストリック・ルート66は,今でも同じ番号のまま「州道66」として存在しているのだった。
 私が迷ったオクラホママシティの市街地からは,州道66は,市街地で一旦インターステイツ44に吸収されて共有区間となり,道路が州道77と交わるところで州道77:に共有を変更して,進路を北にとって進んでいく。そして,市街地を過ぎたところで,再び,州道66に独立するのであった。だから,そのあとは州道66を東に走って行けば,それこそがヒストリック・ルート66なのだった。
 しかし,共有区間では州道66という表示がされておらず,単にインターステイツ44とか州道77という表示になっていた。それはカーナビでも同様であった。そこで,私は州道66を見失ってしまったのだった。
 日本の旧東海道を歩こうと思ったときに,旧道が,時には国道1号線となったり,時にはまた別の道になったりして迷ってしまうのと同じことなのである。オクラホマ州はヒストリック・ルート66がきちんと保存されているのだから,観光資源としてヒストリック・ルート66という道路標示もきちんと整備してほしいものだと思った。

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 Parade Day in KC. 30 years in the making!
Wherever the ball park I went to wach the game,
the team won the Word Series in the year .
So I am waiting for inviting me to watch the MLB for free. Please!
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●旅をしていると「こんな日」も●
 ヒストリック・ルート66でエル・リーノ(El Reno)の町まで行った私は,そこで引き返して,再びオクラホマシティまで戻ってきた。
 きょう予約をしたのはリンカーン・イン・エクスプレス(Lincoln Inn Express Hotel & Suites)というホテルであった。場所は,オクラホマ州議会議事堂から北に伸びるノース・リンカーン・ブルバード(North Lincoln blvd.) がインターステイツ44とぶつかる手前の西側にあって,ロケーション的には問題がないはずであった。
  ・・
 ちなみに,Hotel & SuitesのSuitesが何を意味するのか,これまでずっと疑問であった。
 経験上,これは,部屋に応接間のような別の小部屋が付いているのを意味しているのではないか,と思うようになったが,改めて調べてみると,やはりそうで,これは和製英語の「スウィートルーム」と同じだと考えればよいらしいことがわかった。つまり,続きの間つきの部屋のことであった。続きの間とは一般に応接セットのある居間のことであるが,ここにダイニングのついていることもある。
 そんな部屋は必要ないのだが,えてして,そうした部屋があてがわれることもある。

 私にとってホテルは寝られればそれでいいのだから安価なものを選択するのであるが,この安価には2種類あるのだ。そのひとつは,はじめっから格が低いものだが,これは,新しいホテルのときは掘り出し物である。そしてもうひとつは,昔の高級ホテルが古びたもの,こっちの方は,時に気味が悪い部屋のことがある。きしんでいたり,お湯が出なかったり,何かが壊れていたり…。
 残念ながら今日のホテルは,後者のほうであった。
 このホテル,一見豪華なのだが,かなり古びていた。ホテルには,私には無用のプールもあったが,このプールには水も入っておらず,まるで潰れたテーマパークのようであった。

 ホテルにチェックインをしてから,いつものように夕食に出かけようと思った。ところが周りにはレストランらしきところがないのだった。ホテルのフロントで近くにレストランがないかと聞いてみると,2ブロック南に行けばチャイニーズレストランがあると言った。
 そこで車で行ってみたが,この店は潰れていた。仕方がないので,さらに南に,州議会議事堂の方まで走って行ったが,付近はさびれていて,ほんとにな~んもない。意外なことに,オクラホマシティは州議会議事堂のあたりが殺伐としているのだった。
 実は,オクラホマシティというのは,1995年にオクラホマシティ連邦ビルで爆弾テロが起きたところ,そして,オクラホマ州というのは,南部の香りがちょっぴりする州で,風紀がいいのか悪いのかさっぱりわからなかったが,私の感じたところでは,その後者のようであった。
 ともかく,夜になって,私はもう疲れていて遠くへ行く気もなくなっていたから,近くに何かないか探していたら,やっと,グランディーズ(Grandy's)という店が見つかった。グランディーズは一見ファミリーレストラン風であったから,駐車場に車を停めて,私はこの店に入った。ところが,入ってみて,想像とあまりに違うことに,私は愕然とした。
 こんなことなら,ダウンタウンまで行けばよかったと,このとき後悔した。
 一応,食事をするテーブルがあったのだが,ウェイトレスが案内するのではなく,カウンタで注文して品物を受け取ってそこで食べるというマクドナルド型であった。そして,カウンタのあたりは注文を待つ客でごった返していて,しかも,注文を待つ人たちが,「かなりの雰囲気の人たち」であった。そう,私だけがその場で浮いていた。

 マクドナルドのように,カウンタの上にメニューが絵で表示されていた。やっと自分の順番になったので,私はそのなかで手ごろなものを注文した。
 私が注文したのは,今日の2番目の写真の左上に小さく挿入したものであった。
 この店のホームページには,このメニューには次のように書かれてあった。
  ・・・・・・
 Pot Roast Meal: Tender beef pot roast drizzled with beef gravy served with 2 regular sides and a  famous Grandy's roll.
  ・・・・・・
 ところが,店員のほうも,また,「かなりの雰囲気の人」で,彼の言う英語が私にはさっぱりわからない。めんどくさくなって適当に返事をしていたら,出てきたものはなんとその2番目の写真のものであった。要するに,サイドオーダーについて生返事をしていたものだからいらないと解釈されてしまったようなのだ。
 私は,そんなものを受け取っても 店内で食べる事もできず,箱一杯に入ったローストビーフを持参して,傷心してホテルに戻ったのであった。ホテルの近くにはコンビニすらなかったから,他に食べるものは何も手に入らなかった。
 朝,ホテルの朝食でもてあまし,手元に持って帰ったマフィンがふたつあったのが幸運だった。
 私は,このローストビーフとそのマフィンだけで,侘しく夕食にする羽目に陥ったのだった。ああ,野菜か果物がほしい。旅をしていると,ときには「こんな日」も,ある。

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●古きよきヒストリック・ルート66●
 ヒストリック・ルート66は,イリノイ州シカゴとカリフォルニア州サンタモニカを結んでいた全長3,755キロメートルにわたる大陸横断をする旧国道で,1926年に指定された。
 インターステイツ網の発達によってその役目を終えて1985年に廃線となったが,今なお,映画や小説,音楽などに多く登場し,古きよきアメリカの「マザーロード」となっている。
  ・・・・・・
 廃線後は場所によって道路は様々な形に転用された。
 沿道の多くの都市では,道路はインターステイツを補完する通勤道路となったり,州道,郡道,市町村道あるいは私道となった。
 また,道路としては完全に使われなくなった部分や,橋で寸断されてしまったところ,インターステイツに吸収されてしまったところもある。
 その一方,ミズーリ州スプリングフィールドとオクラホマ州タルサ間のように,そのままの形で保存されている部分も数多く存在する。
 現在でも,80パーセント以上は車でたどることができるし,各地で保存運動もあって,古きよきアメリカをたどるために,多くの観光客がやってくるのだ。
  ・・・・・・
 この「66」という数字が,州道に同じ番号で引き継がれている場合もある。特に,ここオクラホマ州では,州道66がヒストリック・ルート66であったり,あるいは,それに近いところを通っている。それに並走するインターステイツ44がターンパイク(有料道路)なので,今でも,州道66は,そのバイパスとしての役割を果たしている。
 いわば,日本の旧東海道が現在の国道1号に吸収されたり,あるいは,並走して走っているのと同じである。

 日本で旧東海道を歩くことが流行しているように,アメリカを旅する人たちには,このヒストリック・ルート66はあこがれの対象である。
 そして,私も含めて,66歳になったら,この道路を走破しようと決めている人も数多い。
 特に,オクラホマ州は,このヒストリック・ルート66を南西のテキサス州との州境から北東のカンザス州の州境まで,今もなお,ほぼ,昔と同じ経路で走破できるのだ。
  ・・
 オクラホマシティの市街地には,私が目にしたようにヒストリック・ルート66の道路標示があったから,予習もせず,詳しい地図も持たない私でも,容易にその道がたどれるものだと思っていたのだが,さに非ず,私は,すぐに道に迷ってしまった。
 幸い,簡単な経路が書かれた小冊子を手に入れることができたので,それを手がかりに,なんとかそれらしき道を見つけることができたので,ともかく,オクラホマシティのひとつ西の町 -いわば「宿場町」- であるエル・リーノ(El Reno)まで走ってみることにした。

 私は,迷いながらも,オクラホマ州議会議事堂から放射線状に走る道路を西に走って,どうにかオクラホマシティの市街地を抜けた。
 すると,インターステイツ40に添うようにして,現代の州道66が走っていたが,このときの私は,まだ,この「66」という数字が,ヒストリック・ルート66と関係があるのかないのかさえ知らなかった。もし,関係があるのなら,それは粋な計らいだと思った。
 片側2車線もある広い州道66をそのまま走っていくと,その途中に「ヒストリック・ルート66はこちら」という矢印のある道路標示を見つけることができたので,私はそれが指し示す方向に進路を変えた。
 そこは片側1車線の古い道路で,これこそ,正真正銘のヒストリック・ルート66であった。
 やがて,その先に古い橋がかかっていた。これこそ,当時のままの橋だろうと感慨深くなった。それを車で渡ってさらに走って行くと,やがて,その古い道路は,再び,先ほどの州道66と合流した。
 そのままさらに走っていくと,今度は,アメリカの小さな町の特徴である給水塔がその先に見られた。給水塔には「ELRENO」と書かれていた。
 ここがエル・リーノ(El Reno)という町であった。広くもない町に入っていくと,道路が分かれて,その1本は現在の州道66のメインロードで,もう一本がヒストリック・ルート66のメインロードであった。そして,ヒストリック・ルート66のメイン・ロードに沿って,古き良きアメリカの街並みが続いていたのだった。

 私は,この旅のカンザス州とオクラホマ州の記憶がごっちゃになってしまっていたのだが,この文章を書きながら,オクラホマ州のことをはっきりと思い出すことができた。
 オクラホマ州で思い出したのは,さほど見どころのなかったダウンタウンとさびれた州議会議事堂の周辺,そして,次回触れることになる夕食にも事欠いた出来事だったのだが,それと共に思い出したのが,古き良き哀愁に包まれた,このヒストリック・ルート66なのであった。
 このふたつの異なったイメージが同じオクラホマ州のものであるとは,今でもなかなか結びつかないのだが,将来,きっと,私は,カンザス州にはもう自分の意志で行くことはないと思うけれど,このヒストリック・ルート66という魅力のために,オクラホマ州には,再び,足を運ぶことになるであろう。

◇◇◇
I wish you are a Happy Halloween 2015.

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●バス・プロ・ショップスで靴を●
 すでに書いたように,私は,履いていたシューズがいかれてきたので,新しいのを買おうと思っていたが,靴屋,あるいは,靴を売っている店という類のモノがなかなか見つからないのだった。昨年,ズボンのベルトを探すのに苦労していたのと同じである。早い話が,ウォールマートへ行けばいいのだが,そういう時に限って,近くにない。
 オクラホマシティで目についたのが,ダウンタウンにあった「バス・プロ・ショップス」であった。ちょうど駐車場を探していたこともあったので,私はこの店舗の広い駐車場に車を停めて,なかに入った。

 「バス・プロ・ショップス」(Bass Pro Shops)は,世界第3位のスポーツ用品販売業者で,アウトドア用品の巨大小売店「BASS PRO SHOPS “Outdoor World”」を全米で約60店舗チェーン展開している。
 このチェーン店は,1970年代に,ジョン・モリスがミズーリ州で父親の経営する酒屋の裏で始めた釣り餌販売業からはじまる。その後,釣り具・アウトドア用品のカタログ販売事業を成功させて,現在は大型店を全米展開するにいたり,全米最大級の小売チェーンとなっている。
 日本の「ヒマラヤ」のようなスポーツ用品店を2,3倍にしたようなものだと思えばいい。
 店舗は商品レイアウトや店内ディスプレイにこだわっていて,巨大な滝や水槽,動物の剥製などが飾られて,店内は大自然の臨場感をかもしだしている。そこにありとあらゆるアウトドア・スポーツ用品を取り揃え,大型プレジャーボートやATVまでもが多数 店内で販売されているから,日本人は圧倒される。
 アメリカ型のワンストップ・ショッピングの典型といえる店である。

 私は,以前,サンアントニオの「バス・プロ・ショップス」に入ったことがあるから,店内の様子はよくわかっていた。馬鹿でかい店内に入って,私は靴売場を探した。やっと見つけたコーナーに気に入ったのがあったので,店員にサイズを聞いた。日本とはサイズが異なっているのでよくわからないと言ったら,ものすごく親切に対応して,在庫を調べたりしてくれた。とても,アメリカらしくない? 対応であった。
 私は,こうして,やっと手に入れた新しい「ニューバランス」に履きかえて,古い靴をゴミ箱にすて,車をそのままここの駐車場に停めたまま,しばらく,オクラホマシティのダウンタウンを散策しに出かけたのだった。
 少し雨が降りかけていて心配したが,たいしたことはなかったのが幸いであった。

 オクラホマシティのダウンタウンはさほど広くもなく,さらに,その中心の「ブリックタウン」とよばれる一角には,人工の川が流れていた。そこを観光用のボートが運行していて,その風景がサンアントニオのような感じでもあった。
 また,川の周りには映画館やらレストランやらがあって,結構な賑わいであった。
 ひとつ問題だったのは,この人工の川の対岸に渡る橋があまりないことで,向こう岸に行くにはかなりの大回りが必要であることだった。アメリカの中都市は,どこもまあ,こんな感じのところが多い。しかし,サンアントニオのような歴史的な名所でもあれば別だが,その多くは単に商業施設が並んでいるだけだから,私のような観光客が行ったとしても特に何もすることがない。
 そんなわけで,カンザスシティはこんな町か,と納得するだけで,観光は終了であった。 
 まだ,時間も早かったので,ホテルに行く前に,ここに来るときに見たヒストリック・ルート66の道路標示を思い出して,このヒストリック・ルート66を探して,しばらく,町の郊外をドライブをしてみることにした。
 いよいよヒストリック・ルート66である。

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●ブリックタウン・ボールパーク●
 オクラホマシティの北東にあったカウボーイ&西部歴史博物館を出て,次に私は,最寄りのジャンクションからインターステイツ235に入って,ダウンタウンに向かった。
 1番目の写真は,そのインターステイツ235をダウンタウンに向かって走っているときに写したものである。道路の右側に見えるのがダウンタウンの遠景である。
 オクラホマシティには漢字の「田」のようにインターステイツが走っていて, 南北に走るのが西から順にインターステイツ44,235,35,東西は北から順に44,35,240である。つまり,私は,市街地の真ん中を縦断するインターステイツ235を北から南に向かって走ったことになる。

 ダウンタウンでインターステイツ235を降りると,そこは「ブリックタウン」と呼ばれるところであった。そして,その一角にマクドナルドがあった。
 私は,カウボーイ&西部歴史博物館にあると勝手に思っていたレストランがなくて,昼食を食べ損ねていたので,ともかく,マクドナルドに入って,昼食をとることにした。そんなわけで,結局,昼食はハンバーガーのミールセットになってしまった。
 日本マクドナルドは,ハンバーガーの大きさは日本もアメリカも同じだといっているが,写真のように,絶対アメリカのほうが大きいし,フライドポテトも量が多い。それに,ソフトドリンクはお代わり自由である。
 その後,車を停められる場所を探しながら,ダウンタウンを一回りドライブすることにした。

 ダウンタウンは,一昔前のセントルイスのような感じであった。あるいは,サンアントニオのようなところでもあった。
 現在のセントルイスは,再開発がやっと進み,近代的に変貌しているが,オクラホマシティは,その昔,つまり20年くらい前のアメリカの中都市といった感じであった。
 走っていてまず目についたのは,ボールパークだった。
 ここのボールパークは,マイナーリーグAAAのオクラホマシティ・ドジャースの本拠地であるブリックタウン・ボールパークであった。このボールパークはとてもきれいで,しかも豪華で,作られて日が経っていない感じだった。

 アメリカでは,日本とは違って,ベースボールに巨大な下部組織がある。
 日本ではプロ野球というよりも大相撲を想像したほうがむしろわかりやすいのだが,30球団あるメジャーリーグを頂点として,その下には,AAA,AA,A,ルーキーリーグというように,4ランクのマイナーリーグがある。
 そのうちで,AAAはマイナーリーグの最上級で,大相撲でいえば幕下のような位置づけである。広いアメリカでは,メジャーリーグのない中都市に本拠地のあるマイナーリーグは,非常に人気のあるもので,それ自体で独立した興業ができる。日本の2軍のようなものではない。
 日本人の思想だと,下積みは修行の時代であるが,アメリカでは,これもまた,エンターテイメントの一角を担っているわけだ。

 AAAのボールパークも,ところによって当然ピンキリがあるが,このブリックタウン・ボールパークは,新しく,最新型のAAAのボールパークの草分け的な存在であった。
 流石にスタンドはメジャーリーグと比べれば規模は小さいが,外からフィールドが眺められたり,美しく色分けされたスタンドや広いコンコースがあって,メジャーリーグのボールパークと遜色のないものであった。ここでも,アメリカの単純明快性が反映されていて,その設計思想はメジャーリーグのそれと同じなのである。
 無論,日本のプロ野球の野球場よりずっと立派で,遊び心満載である。
 私は,最近はなかなか日程が合わず,マイナーリーグを見る機会がないが,あまりに豪華になりすぎて,入場料も高くなってしまったメジャーリーグのボールパークよりも,むしろ,古きよき時代を彷彿させる,こうしたマイナーリーグのほうが,見ていて楽しいものだ。
 もちろん,ファンを飽きさせない多くのイベントもメジャーリーグ以上に充実している。
 もし,これを読んでいる方も,機会があれば,ぜひ,こうしたマイナーリーグのゲームを楽しまれるといい。そして,見にいったら,ボールパークの中にあるビジターセンターで,日本からわざわざ見に来たとでもいえば,お土産をもらえることであろう。

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●今日は母の日のお食事会●
 ヒストリック・ルート66のことは,また後日。
  ・・
 私がこの旅で借りた車にはカーナビがついていた,というより,カーナビをオプションでつけた。このカーナビは言語を選べるので,日本語を選んだら「へんな日本語」を話すようになった。
 その「変な日本語」を一生懸命に理解して,とりあえず今日予約しておいたホテルを目指して,インターステイツ35を降りた。そして一般道を走っていると,前回書いたように,私は,まず,「Historic Route66」という表示を見つけた。その先には,「カウボーイ&西部歴史博物館」(National Cowboy & Western Heritage Museum)と書かれた表示があった。
 結局,この日の私は,1日中食事に苦労することになるのだが,このときはまだ,そんなことは知らない。
 いつもの通り,この日も昨晩泊ったホテルの朝食がいい加減だったものだったから,お昼くらいはまともなものを食べようと思った。博物館ならレストランかカフェテリアくらいはあるだろうと,ホテルへ行く前にこの博物館に寄ることにしたのだった。

 「地球の歩き方」によれば,オクラホマシティは, 人口が約60万人ほどの中都市で,見どころは,ブリックタウンというダウンタウンの商業施設と,カウボーイ&西部歴史博物館,そして,アメリカンバンジョー博物館,とあった。
 逆にいえば,それくらいのものしかないともいえた。
 アメリカンバンジョー博物館なんて,私は特に興味もなかったから,このカウボーイ&西部歴史博物館へ行けば,この町の観光ははそれだけでいいか,という感じであった。
 今,これを書いていて感じるのだが,この日の私は,このように,すべてがいい加減であった。要するに,この土地にも愛着がなかったのである。

 博物館の駐車場には多くの車が停まっていたが,なんとかスペースを見つけて,中に入った。
 入口を入ると広いロビーになっていて,そこで入場料を払った。そして,まず探したのが,私が勝手にあるはずだと思っていたレストランであった。しかし,それらしきものがとんと見当たらないのだった。
 なにやら博物館の奥まったホールでは,多くの人が食事を楽しんでいる様子だったのでそこへ行ってみた。私は,受付を無視して,その食事会の会場に紛れこんでしまったのだが,そこは,地元の母の日の食事会であった。
 アメリカ人はこうしたイベントをとても大切にする。
 家族で写真を撮ったり,お友達とおしゃべえりを楽しんだりと,それはそれは大騒ぎであった。これでは,私の食事どころではなさそうだった。
 よほど,どさくさに紛れて,そこに用意されていたバイキング形式の食べ物を食べちゃおうかとも思ったが,少しだけ残っていた自制心が機能した。

 結局,この博物館にはレストランもカフェテラスもないのであった。こんな大きくて立派な博物館なのに不思議な話であった。仕方なくここでの食事は諦めて,展示を見ることにした。
 以前,ニューヨーク郊外のクーパーズタウンの野球殿堂に行ったことがあるが,ここは,それに対して,カーボーイの殿堂とでもいったところであった。頻繁にアメリカに行くようになって分かったが,この国はやっていることは,全ての思想が一貫していて,単純明快なのである。 たとえば,車から飛行機,船舶にロケットの操縦まで,基本的にみな同じ発想で設計されているのである。
 それはどういうことかというと,家にあるバス・トイレもホテルのハス・トイレも,そして,宇宙ステーションのバス・トイレも機能や作りが同じだということである。キャンピングカーにしても,あれは,幌馬車の延長である。同じように,どの職業にも,「Hall of Fame」,つまり,「殿堂」と呼ばれるものがあって,その功績者を称えているのである。中には「教師の殿堂」なんていうものもある。
  ・・
 それに比べて,日本人は,自分たちでそういうことを考える発想自体がないから,気づいたものだけ,自分たちの文化をないがしろにして,まねするのである。だから,家のバス・トイレとホテルのバス・トイレは全く形式が違うし,さらには,和式と洋式があったする。野球には殿堂があるけれど,相撲にはない。もともと,「殿堂」なんていう文化は日本にはないから,単にアメリカに「野球殿堂」があると知るとそれをマネするのである。東京国際映画祭のレッドカーペットだってハリウッのそれの模倣でしかない。このように,何事もやっていることに思想がなく,単にモノまねをするから,継ぎはぎだらけになるのである。
 さらに,ホテルのバス・トイレなど,快適さなんて度外視で,単にトイレとバスが一緒になっていればいいだろうという感じでその根底の思想が分かっていないから,狭いだけで使い勝手が悪く,どうにもならない。だから,まるでアメリカ人が浴衣を着ているような不自然なものが出来上がるわけだ。そのくせ,ウォシュレットとかを作ると,今度はやたらと凝ってやりすぎるから,ガラパゴス化する。そして,外国人はその複雑な使い方がわからず,壊してしまうわけだ。
  ・・
 ところで,この博物館であるが,カウボーイ,カウガールに関する様々な展示があるコーナーと,その時代の街並みを模したコーナーがあった。壁には,野球殿堂のように,歴史上偉大なカウボーイ,カウガールをたたえたレプリカが飾ってあった。
 そして,外には,美しく広い庭園があった。

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●懐かしのオクラホマ・ミキサー●
 インターステイツ35は,オクラホマ州に入るとすぐパーキングエリアがあって,その入口に「OKLAHOMA」という巨大なモニュメントがあった。
 オクラホマ州は北はカンザス州,西と南はテキサス州,そして,東はアーカンソー州に囲まれている。
  ・・・・・・
 「オクラホマ」とは,チョクトー族インディアンの言葉「okla」と「humma」を合わせたもので「赤い人々」を意味する。ここは,当初は全米のインディアン部族のほとんどを不毛の地に強制移住させる目的で作られた州であった。
  ・・・・・・

 目立たない州であるが,この州を有名にしているのは,「ルート66」なのだ。しかし,多くの日本の人には,それよりもオクラホマといって思い出すのは,フォークダンスの「オクラホマ・ミキサー」に違いない。
 日本でフォークダンスとよんでいるものはスクエアダンスのバリエーションで,1945年に被爆地長崎に派遣されたアメリカ軍軍属のコロラド州デンバー出身のウインフィールド・P・ニブロ氏によって紹介されたのが最初といわれる。
 スクエアとは四角のことだから,スクエアダンスとは四隅に男性が立ち,その間に女性が入って四角くなって踊られるもので,4組のカップルが正方形のフォーメーションを取ることに由来する。またミキサーとは,スクエアダンスで四角の頂点に立つ男性の周りを女性がくるりと回ったりするときに違う男性のところに移動するタイプのダンスのことである。
 ニブロ氏が日本に「これはオクラホマふうのミキサーです」とか言って紹介した際に使った曲がたまたま「藁の中の七面鳥」(Turkey In The Straw)で,この曲を「オクラホマ・ミキサー」と呼ぶようになったのでは? などといわれているようだが,本当のことはわからない。要するに,オクラホマ州とは直接関係がないということだ。

 インターステイツ35は,オクラホマ州に入って文字どおりフリーウェイ,つまり無料になって,道路は継ぎ接ぎだらけ,マイルマーカーの標示も他の州のものと同じように簡素なものになった。しかし,この方がずっとアメリカらしい,と私は思った。
 周りは相変わらずの牧草地であったが,次第に石油を採掘する井戸が見れるようになった。そう,お隣はテキサス州である。ここオクラホマ州でも石油は産業の重要な部分を占めているのだ。
 そのうち,遊園地があったり,家が増えてきたりと,次第に町に近づいてきた。どうやらオクラホマシティに到着したようであった。
 今日はオクラホマシティに泊ることにして,昨日エクスペディアでホテルを探した。オクラホマシティの市街地に差し掛かったあたりのインターテイツ35からインターステイツ44が枝分かれをしたジャンクションの近くに安価なホテルがあったのでそこを予約した。そこで,とりあえず,ホテルの近くまで行ってみることにした。
 ジャンクションを出て,カーナビに従ってホテルに向かっていると,「HISTORIC ROUTE 66」の標識が目についた。ここではじめて,私は,このオクラホマ州がヒストリック・ルート66の経路であることを思い出したのだった。

今日は快晴。朝の気温は9度でした。
名ばかりの朝食つき,単に菓子パンとコーヒーを食べて早々にホテルを出発しました。最後までやる気のないオクラホマシティでした。
今日は,オクラホマシティから北東に,オールドルート66を5時間走って,再び,ミズーリ州,ブランソン(Branson)という所にきました。
ルート66はアメリカのマザーロード。オクラホマシティからはインターステイツ44にほぼ平行に今も存在しています。
昔の街並みも残り素敵でした。来てよかったと感激しました。
ブランソンは日本では無名ですが,ショービジネスのメッカで,劇場がいっぱいあって,それぞれの劇場では,専属のエンターテナーが毎日ショーをやっています。晩年のアンディウィリアムスもここで毎日ショーをやっていました。今はオズモンズがやっています。
いわば細川たかし劇場やら小林幸子劇場があるわけです。
さらに遊園地やらヘリコプター遊覧,水陸両用バスツアーなど多くのアトラクションもあってすごい規模でビックリしました。軽井沢にディズニーランドを3つ作った感じです。
私は,日本人のショージ・タブチ・ショーを見ました。こちらで人気ナンバーワンです。チケット買えてよかったです。
日本のテレビで知っていたのですが,まさか本当にこんな遠い所に来るとは思いませんでした。
そんなことなら,もう数年早く来ればよかったなあと思いました。そうすれば,アンディウィリアムスショーも見えたのです。ムーンリバーシアターでは,今は亡きアンディウィリアムスの歌がかかっていて泣けてきました。
ショージ・タブチ•ショーではステージの上から日本から来たお客さんということで紹介されて,拍手を受けました。ショーの終了後には一緒に写真をとってお話をしてサインをもらってお土産まで頂きました。
今はシーズンオフ,ものすごくたくさんのホテルがあるので,とても安価に泊まれました。それでも大勢の観光客です。どうしてこの時期にこんなに来られるのでしょうか?アメリカのご老人たちはこうして人生を楽しんでいるんですね。
今日は天気もホテルもルート66もショーも食事も素晴らしく最高でした。

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