しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:日本国内 > 大阪

IMG_3278IMG_3288

######
 適塾を出て,次に行ったのが,梅田スカイビル空中庭園展望台でした。大阪の街を高いところから見てみよう,というわけです。
 今から40年以上前,はじめて大阪に行ったとき,当時は,プロ野球の球団に阪神タイガースと阪急ブレーブスが競っていました。そこで,大阪駅を降りて外に出たら,左手に阪神百貨店,右手に阪急百貨店がそびえていて,感動したものでした。私は今でもその印象が強烈なのですが,現在は,もう,高層ビルが乱立していて,よそ者にはどのビルがどんなビルなのか,訳がわかりません。先日行った天王寺駅も同じように訳がわかりませんでしたが,それと同様です。
 この国は東京をはじめとして,大阪,博多などの都会だけがどんどんと進化し,行くたびに違う姿をみせています。それに対して,地方都市は,そりゃまあ,どこも悲惨な状況です。

 念願だった適塾を見てから,北に向かってしばらく歩いていくと,そんな大阪駅に着きました。ここから地下道を通って梅田駅の北口に行くことができて,そこで地上に出て西に行くと,めざす梅田スカイビルが見えてきました。地上に出ず,そのまま地下でつながっていれば,と思いました。
 さて,私の目的地は梅田スカイビルの展望台だったのですが,その前に目についたのが地下街に行く通路でした。そこで,レストランでもあれば昼食をとろうと,とりあえず降りていくと,そこにあったのは「滝見小路」という,古き良き昭和の街並みを再現した昭和レトロ商店街でした。
  ・・・・・・
 「滝見小路」は,自然の森にある列柱滝を眺める商店街で,どこか懐かしくなぜか新しい風情を感じながら料理やお酒を堪能できます。
 稲荷神社,三輪自動車や井戸など,歩くだけでも楽しめる街並みも見どころです。
  ・・・・・・
 というところで,レストランがたくさんあったのですが,まだ時間が早くどこも開店していませんでした。まもなくレストランが開店しはじめると,すぐに長蛇の列ができはじめました。
 私は,人混みが嫌いなので,そんなところで食事をする気もなくなって,近くにあったココイチで昼食をとりました。

 さて,食事を終えて,いよいよ空中庭園展望台へ向かいました。
  ・・・・・・
 地上40階,地下2階,高さ約175.295メートルの梅田スカイビルは,1993年に完成しました。ウェスティンホテル大阪とともに新梅田シティを構成しています。
 タワーイースト,タワーウエストの2棟で構成され,その頂部を連結するように円形の空中庭園展望台が設置されていて,両棟を行ききするため,22階に連絡通路が設けられています。
 空中庭園展望台は1993年に開業しました。超高層ビルの展望台は屋上に設置されているので,360度の視界と全天を風を感じながら展望を楽しむことができます。
  ・・・・・・
 聞いてみたら,大阪市には,梅田スカイビル空中庭園展望台よりも100メートル以上高い,高さ287.6メートルのあべのハルカスの60階に位置するハルカス300という天上回廊があるということでした。こちらはフロア全体にガラスを配した屋内回廊だそうです。私は行ったことがないので,今度行ってみよう。

 エレベーター,エスカレーターと乗り継いで,空中庭園展望台に出て,景観を楽しみました。
 私も海外に行くと,まず,高いところからその町を一望してみたいと思うわけで,それと同じように,ここもまた海外からの来訪者がたくさんいました。
 ふたり連れの場合,ふたりが入った写真を撮るのに苦労していることも少なくなく,そんなとき,声をかけてあげると,とても喜ぶので,ここでも,そうしていたふたり組の女性に声をかけて,写真を撮ってあげました。どこから来たかと聞くと,彼女たちはアメリカから来たと言っていました。アメリカ人というのは,意外なことにけっこう珍しく,アメリカ人の話す英語を久しぶりに聞いて,また,アメリカに行ってみたくなったことでした。
  ・・
 梅田スカイビル空中庭園展望台を堪能してから,地上に降りて,そのまま南へ向かって歩き,大阪中之島美術館で開催されていた「醍醐寺展」を見てから,フェスティバルホールでの演奏会へ行きました。

IMG_3276IMG_3279IMG_3320IMG_3319IMG_3286IMG_3287IMG_3293IMG_3294IMG_3313IMG_3308IMG_3300


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_3238IMG_3230IMG_3233IMG_3234IMG_3223

######
 2024年6月30日に,大阪のフェスティバルホールで,井上道義指揮NHK交響楽団の演奏会を聴いたことは,すでに書きました。
 せっかく大阪に行くのだから,午後4時からの演奏会の前にどこかへ行ってみようと,岐阜羽島駅から「こだま」の自由席で新大阪駅に着いたのは,まだ,早朝8時過ぎでした。
 今回,私がぜひ行きたかったのは適塾でした。
  ・・・・・・
 適塾(てきじゅく)は,正式名称を緒方洪庵の号である「適々斎」を由来とする適々斎塾(てきてきさいじゅく),別称を適々塾(てきてきじゅく)といい,緒方洪庵が江戸時代後期1838年(天保9年)に大坂船場に開いた蘭学の私塾で,幕末から明治維新にかけて,福澤諭吉,大村益次郎,箕作秋坪,佐野常民,高峰譲吉など多くの名士を輩出しました。現在の大阪大学医学部の前身です。
 適塾は現存し,わが国唯一の蘭学塾の遺構として,また,江戸末期の大阪の船場町屋の遺構としても貴重なものとして,1976年(昭和51年)から実質5年を掛けて解体修理を行い,修復を機に広く一般に公開しています。
  ・・・・・・

 私が適塾を知ったのは,1977年に放送されたNHK大河ドラマ「花神」でした。
  ・・・・・・
 一人の男がいる。
 歴史が彼を必要とした時,忽然として現れ,その使命が終ると,大急ぎで去った。
 もし,維新というものが正義であるとすれば,彼の役目は,津々浦々の枯れ木にその花を咲かせてまわることであった。
 中国では「花咲じじい」のことを「花神」という。
 彼は「花神」の仕事を背負ったのかもしれない。
 彼,村田蔵六。のちの大村益次郎である。
  ・・・・・・
からはじまるこのドラマは傑作でした。
 「花神」は,周防の村医者から倒幕司令官に,明治新政府では兵部大輔にまで登りつめた日本近代軍制の創始者・大村益次郎を中心に,松下村塾の吉田松陰や奇兵隊の高杉晋作といった,維新回天の原動力となった若者たちを豪快に描いた青春群像劇で,司馬遼太郎さんの小説「花神」「世に棲む日日」「十一番目の志士」「峠」「酔って候」から「伊達の黒船」といった作品を脚本家の大野靖子がドラマ化したものです。
 第1回は,長州の村医者出身の村田蔵六が蘭学修行のため大阪にある緒方洪庵の「適塾」の門を叩くところからはじまります。好学家で優秀だった村田蔵六は,特段野心があるわけでなかったのですが,時代がそれを許さず,技術者,そして軍人として故郷長州の動乱に巻き込まれていくのです。

 私は,かつて一度,適塾を訪れたことがありますが,あまり記憶がありません。
 公開されていなかった,と書いたブログもあり,入れなかった,という人もありますが,それがいつのことだったのか忘れましたが,私は内部も見学できました。その後,私も歳をとり,少しは知識も増したので,もう一度行ってみようと,数年前,大阪に行った折りに訪ねてみましたが,そのときは改装中で公開されていなかったので,今回,ぜひ,と思っていました。
 この日は,改装されて新しくなった建物に入ることができました。そして,感激しました。歳をとって涙腺の緩くなった私は,この時代の若者の姿をイメージするだけで泣けてくるのです。
 司馬遼太郎さんの小説「花神」に「蔵六は,塾のものとはあまりつきあいをしない。彼は物干し台が好きであった」と描かれている物干し台も現存し,緒方洪庵の像の背後に見ることができます。

IMG_3221IMG_3222 IMG_3237IMG_3240IMG_3255IMG_3272

◇◇◇

DSC_5608


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_1226IMG_1230IMG_1244

######
 JR天王寺駅に着きました。もう列車の中で駅弁の夕食を終えたので,天王寺で食い倒れをする必要もなく,ホテルに行って寝るだけでした。
 以前,大阪に行ったとき,東横イン大阪通天閣に泊ると言ったら,よくそんな治安の悪いところに…,と大阪に住む女性に驚かれたことがあるのですが,地元の女性は天王寺にそういう印象があるのでしょう。私にはそういう印象はなく,車で大阪に行ったときも,駐車料金が安いから,天王寺付近の駐車場に車を停めます。
 今回のホテルは,東横インあべの天王寺にしました。東横イン大阪通天閣でも東横インあべの天王寺でもどちらでもよかったのですが,強いていれば,あべの天王寺のほうがJR天王寺駅に近いかな? というのが理由でした。

 このあたりはよく知っているはずなのに,JR天王寺駅を出て,道を間違えました。西に行かねばならぬのに東に向かってずっと歩いていたのです。ということで,上町筋まで来てやっと気がついて引き返し,なんとかホテルに着いてチェックをしました。30分ほどロスをしました。あべの天王寺のほうがJR天王寺駅に近いかな? には何の意味もなくなってしまいました。
 東横インの3大欠点は,エレベータと朝食と部屋の壁がうすいことです。エレベータに関しては,東横インあべの天王寺は2基あったのでよかったのですが,1基しかないところはずいぶんと待たされます。朝食については今までに何度も書いているので,今回は書きません。壁のうすいのは致命的で,隣の部屋の人のいびきに悩まされます。私の身内にはいびきのうるさい人がいないので,よくもまあ,こんなにいびきのうるさい人がいるものだ,といつも感心します。
 部屋にいても,テレビを見るわけでもないし,ほかにすることもないので,外に出て,散策することにしました。私は,普段でも,友人に飲みに誘われない限り,夜の繁華街に出ることはまれです。こんな機会でもなければ,天王寺界隈なんて,夜に歩くこともありません。

 東横インあべの天王寺は国道17号線に面しています。北側が通天閣とジャンジャン横丁のある通称・新世界で,道路を渡った南側をずっと下っていくと,飛田新地です。好奇心が手伝って,まずは,飛田新地を歩いてみることにしました。このあたり,近ごろは,外国人の観光地のようになってしまっていて,多くの外国人が興味本位で闊歩していました。Trip.com という外国人対象のサイトに次のようなクチコミがありました。原語を機械翻訳したものらしいです。
  ・・・・・・
 飛田新地は日本政府観光局で,百年以上にわたる特色ある歴史文化を保存するために,わざわざ開拓した特区的な街区です。地元住民の歴史文化に対する畏敬と保護のほかに,また,日本は歴史を尊重し,多文化の国家特性を守っていることを世界中から観光客に伝えています。
  ・・
 各店の前には,露出した服を着た叔母と女の子がいて,通行人に笑顔を浮かべています。インターネットで調べて,これが合法的な歓楽街だと確信しました。ここを通って,大正期に残された日本の古い建物も見ることができます。
  ・・・・・・
 ちょっとなあ,という感じですが,外国人はこの場所をこのように捉えているのでしょうか。
 青春通り,メイン通りというところは多くの人が歩いていましたが,その南にある通称・妖怪通りとかいうところは,ほとんど人もおらず,さびれ感満載で,そんな通りでさびしげに客をひいてる女性を見ると,人生の悲哀を感じてしまいます。

 チャップリンが「ひとり殺せば殺人者で百万人殺せば英雄となる」といったように,私のような年寄りになると,是とか非,道徳とかいうことは,人間,その中でも権力者が勝手に決めたルールや倫理に過ぎない,ということがわかってきます。自分たちで,理性があるとか英知だとか,そんな自画自賛をしている傲慢な人類ですが,実際は,早かれ遅かれ,たったひとりの暴発すら止められず,殺し合いをして滅ぶ,それだけのおろかな生命体です。
 そこで,こうした場所を歩いていても,私は,ここがあの有名な飛田新地なのか,有史以来人間はこういうことをくり返してきたのだなあ,生きるのは大変だなあ,悲しいなあ,という,そういう気持ちになるだけでした。
 というわけで,早々に退散して,国道17号線を渡って,今度は新天地に行きました。
 こちらは性欲ではなく食欲を満たす場です。すごい人が飲んだり食べたり,あるいは,騒いだりしていました。驚いたのは,その昔はカラオケ屋台ばかりだったのに,近ごろは,やたらと遊技場があったことです。「実弾禁止」とかかれた看板が大阪らしいというか…。私は,こうしたことにも全く興味がなく,何が楽しいんだろう? と理解不能でした。

 東京では,旧吉原遊郭であった千束4丁目界隈から浅草まで歩いていくと,大阪の天王寺と同じように,性欲と食欲の入り混じった人間社会の姿を垣間見ることができるわけですが,雰囲気がまったく違うのが,東京と大阪の違いなのでしょう。日本は不思議な神の国です。表向きは法治国家となっていても,そんなものは都合のいいようにどうにでも解釈する,これが,日本という国の本当の姿です。
 年寄りの私は,性欲でも食欲でもなく睡眠欲です。人混みの中を歩き疲れたので,早々にホテルに戻って寝ました。

IMG_1231 IMG_1234 IMG_1242IMG_1243 IMG_1233 IMG_1240 IMG_1245IMG_0586


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_0785

######
 2023年10月16日,京都ホテルオークラで行われた第36期将棋竜王戦第2局の前夜祭に出席して,その日は四条大宮の東横インに泊りました。その翌日のことです。
 25年ほど前の10月の京都は紅葉には早く,観光客は少なく,静かでとてもよいところでした。しかし,今は,コロナ禍以降でインバウンドが再び復活して,どこも外国人だらけになってしまい,とはいえ,落ち着いた観光客なら許せるのですが,我がモノ顔で京都の街中を闊歩する姿は本当に嫌なものです。日本の歴史や文化を知る人もほとんどいません。単に観光地で群れているだけです。そんなわけで,私の好きだった京都はどこにもなくなってしまいました。そこで,京都を観光するのはやめて,これまでずっと行きたかった司馬遼太郎記念館に行くことにしました。

 今の若い人はどうなのでしょう? 司馬遼太郎さんを知っているのでしょうか?
 司馬遼太郎さんは,私の亡くなった父親より数年歳をとっていて,私は,大学生のころ,いつも,なんらかの司馬作品を読んでいました。そのころは,こうした作品を書く作家の存在は当たり前だと思っていたのですが,今考えると,司馬遼太郎さんがいなければ,坂本龍馬が今のように有名だったかどうかもわからないし,私たちが知っている戦国時代や明治維新とは違ったイメージをもっていたのかもしれません。
 以前書いたように,「街道を行く」に書かれていた日本全国に根差す多くの歴史は,私が今になって旅をしてようやく理解できたものですが,それを,私が気づくよりもっと若いころにすでに理解し,解釈して作品として世に残していたということが,どれだけすごかったかということをやっとわかってきたのでした。

 司馬遼太郎記念館は,そんな司馬遼太郎さんが生前暮らしていた場所にあります。場所は,東大阪市で,近鉄の奈良線の河内小阪駅が最寄りの駅だとGoogleMapsがいうので,それに従って降りました。駅前には「司馬遼太郎記念館」と書かれたアーケードがあったので,興奮しました。しかし,河内小阪駅からは歩いて15分以上あって,実際は,その東の八戸ノ里駅からのほうがずっと近いのでした。そんなわけで,四条大宮駅からは行くのがけっこう大変なところでした。
 司馬遼太郎記念館は静かな住宅街にあって,庭には多くの木々があり,まるで,山荘のようなところでした。庭から書斎を窓越しに見ることができました。また,残されていた書籍が4万冊以上ということで,その多くが,現在,ここに保存されているのですが,その迫力と言ったら,すごいものでした。
 庭に咲くキンモクセイの香りが,この偉大な作家のイメージと重なって,幸せな空間となっていました。

  ・・・・・・
 もういちど繰り返そう。
 さきに私は自己を確立せよ,と言っ た。自分には厳しく,あいてにはやさしく,とも言った。それらを訓練せよ,とも言った。それらを訓練することで,自己が確立されていく。そして,”たのもしい君たち”になっていく。
 以上のことは,いつの時代になっても,人間が生きていくうえで,欠かすことができない心がまえというものである。
 君たち。君たちはつねに晴れ上がった空のように,たかだかとした心を持たねばならない。 同時に,ずっしりとたくましい足どりで,大地をふみしめつつ歩かねばならない。
 私は,君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら,以上のことを書いた。 書き終わって,君たちの未来が,真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。
  「21世紀に生きる君たちへ」司馬遼太郎
  ・・・・・・

DSC_1540IMG_0790IMG_0787DSC_1559DSC_1552IMG_0783IMG_0784DSC_1541


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_1518DSC_1533

#####
 京都の四条大宮に宿泊した私は,翌日,司馬遼太郎記念館に行くために,大宮駅から大阪梅田駅行きの阪急電車に乗りました。司馬遼太郎記念館は,途中の淡路駅で乗り換えて,大阪地下鉄堺筋線で日本橋まで行き,さらに,近鉄の奈良線に乗り換える必要があるというように,結構不便なのでした。
 しかし,朝6時過ぎにホテルをチェックアウトしたので,司馬遼太郎記念館の開館時刻である午前10時までには時間はたっぷりあったので,大阪梅田駅に行く途中の高槻駅で途中下車しました。
 高槻市は,来年に日本将棋連盟の関西本部が移転するということで,近ごろは話題となっていますが,私は高槻市というのは,戦国時代に高山右近が統治してていたところということで,それ以前から名前を知っていたので,一度どんなところか行ってみたかったのです。

 何も考えずにやってきたのですが,阪急電車の高槻駅はJRの高槻駅とは少し離れていました。日本将棋連盟の関西本部が移転する場所はJR高槻駅の近くだと聞いていたので,阪急電車の高槻駅からJRの高槻駅まで歩くことにしました。駅前にあった地図で確認すると,そこからさらに歩いて高槻城跡を見てくれば,阪急電車の高槻駅に戻るという散策をすることができるようでしたので,そうすることにしました。
 日本将棋連盟の関西本部はJR高槻駅のすぐ近くにできるという以上のことは知りませんでした。歩いていれば見つかるだろう,それに,高槻市の市バスに将棋のアニメが描かれているものがあるということだったので,運がよければ見ることができるかな,とも思いました。そして,JRの駅前で遭遇しました。
  ・・・・・・
  武家屋敷が広がっていた高槻城三の丸跡から,江戸時代の小将棋や中将棋の駒が多数発掘されていて,初代高槻藩主・永井直清は文化に造詣が深いこともあって,古くからこの地では広く将棋がたしなまれていたことがうかがえます。 また,1892年(明治25年)生まれの中井捨吉八段にはじまり,現在でも,福崎文吾九段,浦野真彦八段,長沼洋八段,伊奈祐介七段などが高槻市出身だそうです。
 そこで,1年後の2024年の秋に,高槻市を「将棋の聖地」として,関西将棋会館を高槻市に移転するということになりました。
  ・・・・・・
 JR高槻駅前は大きな新しいビルが立ち並んでいて,こんなところに空き地があるのかな? と思いながらさらに歩いて行くと,建設中の場所に着きました。どうらやここに将棋会館が作られるようです。本当に駅から近く,とても便利なところ。よくこんな場所が空いていたものです。新しく開館したら,また,来てみたいと思いました。

 さて,次に行ったのが,高槻城跡でした。高山城跡は,現在,再開発されていて,公園が整備されていました。高槻藩,江戸時代の殿様は,紆余曲折の後,最後は永井氏が治めたのですが,この地は,今も高山右近が愛されているように感じました。
  ・・・・・・
 高山右近は,1552年(天文21年)かその翌年に生まれ,1615年(慶長20年)に亡くなった武将で,代表的なキリシタン大名として知られました。
 父の高山友照は三好長慶に仕え,大和国宇陀郡の沢城(現在の宇陀市榛原)を居城としていましたが,三好長慶が没すると三好氏は衰退し,1568年(永禄11年)に足利義昭が室町幕府15代将軍となったころには,和田惟政が高槻城に入り,高山父子は和田惟政に仕えることとなりました。
 1571年(元亀2年)に和田惟政が荒木村重に敗れて討死したのちは,子の和田惟長が城主となり,高山父子は相談役となりましたが,これを良く思わない和田家臣たちが和田惟長に高山親子の暗殺を企てたことで,ついに,1573年(元亀4年)に和田惟長らと斬り合いになり,敗れた和田惟長は生国・近江国甲賀郡へ逃れましたが,同地で死亡。この後,高山父子は荒木村重の支配下に入り,高槻城主となりました。
 1582年(天正10年)本能寺の変で信長が没すると,高山右近は羽柴秀吉の幕下にかけつけ,山崎の戦いでは先鋒を務め,明智光秀を敗走させたことでその功を認められて加増されましたが,バテレン追放令が秀吉によって施行されると,キリシタンであった高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産を全て捨てることを選び,天正16年(1588年)に前田利家に預けられて加賀国金沢に赴きました。さらに,1614年(慶長19年)に加賀で暮らしていた高山右近は,徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて,加賀を退去し,長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに渡ったのですが,老齢の高山右近は病を得て,翌年に息を引き取りました。
 1962年,高槻天主教会堂跡の近くに,高山右近臨終の地であるフィリピン・マニラ郊外アンティポロにある聖母大聖堂を模して建てられたカトリック高槻教会の新聖堂があって,高山右近記念聖堂と命名されています。
  ・・・・・・
 高槻藩は,高山右近が大名の地位を追われたのちは,新庄直頼,内藤信正,土岐定義,松平家信,岡部宣勝,そして,松平康信が入るというように,藩主が短期間で変わり安定しなかったのですが,最終的に,山城長岡藩より永井直清が入ってようやく藩主が定着し,永井氏13代の支配を経て明治時代を迎えました。
 高槻市は大阪市のベットタウンなのでしょう。JRも阪急電車も高槻駅は通勤,通学の人で一杯でした。歴史をリスペクトする,きれいな,なかなかいい町だなあと思いました。

DSC_1519DSC_1520DSC_1525DSC_1526DSC_1527DSC_1530DSC_1531DSC_1538DSC_1539


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_0029 IMG_0028 2019-12-27_18-23-56_245 2019-12-27_18-13-39_410

 今から40年以上前は,日本将棋連盟の建物といっても,東京も大阪も1軒家のようなところだったようです。時の名人だった大山康晴が会長となって尽力して,ともに立派なビルができましたが,おそらく,それを作るのはすごく大変なことだったと思います。
 そうして作られた関西の将棋会館ですが,館内に将棋博物館があるというので,できたころに一度行ったことがあります。それはつい昨日のような気がするのですが,ずいぶん昔のことだったわけです。また,できたばかりの東京の将棋会館の地下には確か「歩」(あゆみ)とかいう名前のレストランがありました。

 今は,東京の将棋会館の地下のレストランはなくなり,関西の将棋会館の地下の将棋博物館もなくなったようですが1階にはレストラン「イレブン」があります。
 このごろは将棋メシといって話題となるので,このレストランも有名になりました。将棋連盟の建物内にあるとはいえ,将棋連盟が経営しているものはないということすら知りませんでした。私はてっきり社員食堂や大学の食堂のようなものだと思っていました。
  ・・
 話題になったので,一度は行ってみようと思ったのですが,休業日だったりして,なかなか実現しませんでした。それが昨年やっと寄ることができて,私は,そこで写真にある「珍豚美人」(ちんとんしゃん)を注文しました。これは豚のてんぷらにセサミソースをたっぷりかけ,つけ合わせとしてマッシュポテトとニンジンがついたものです。
 中途半端な時間に行ったので,だれか棋士の先生がいないかな,と期待したのですが,だれにも会うことなく,残念でした。
 また行って,今度は藤井聡太二冠の好物である「バターライス」でも注文したいなあと思っているのですが,このご時世ではなかなか実現しません。

 と思っているうちに,40年も経って老朽化し,また,手狭になったので,関西将棋会館が高槻市に移転することが決まったそうです。将棋で町おこしをしようと考えた高槻市に拍手です。しかし,レストラン「イレブン」は移転しないということです。また,東京の将棋会館もどこだかのビルに移転するようです。
 大阪にまったく詳しくない私は,高槻市なんて,大阪市からすごく遠いイメージなのですが,調べてみると,京都市と大阪市の中間あたりで,まったくそんなことはないのでした。私が知る高槻市は戦国時代のキリシタン大名である高山右近です。さらに調べてみると,この辺りはおもしろい史跡がたくさんあるようなので,また,世の中が落ち着いたら行ってみたいと思いました。きっとそのころには,移転なった新しい関西将棋会館ができていることでしょう。
  ・・・・・・
 高槻周辺はキリシタン大名として有名な高山右近の領地であったことから,熱心なキリスト教信仰の地として知られ,1581年(天正9年)には,領民の70パーセントを超える1万8,000人がキリシタンとなっていました。 高山氏よりも前に城主だった和田惟政も宣教師フロイスと親交があり,キリスト教を積極的に受け入れ,キリシタン文化の定着に寄与しました。
 高山氏の居城であった高槻城は,江戸時代には岡部氏を経て高槻藩永井家の居城となっていましたが,明治に入り廃城となり,高槻城の跡には「陸軍工兵第四大隊」が置かれました。
  ・・・・・・

◇◇◇
将棋メシの話に関連して,以前東京に行ったとき,千駄ヶ谷の東京将棋会館近くの,これもまた,将棋メシで有名なレストランや食堂を巡ってみました。そして,「みろく庵」で食事をしてきました。私が行ったときは,まだ,「みろく庵」が閉店するまえだったので,そんなことは知らず,これもまた,行っておいてよかったと,後になって思ったことでした。

9b3b2f92e3c3bbdf3445c672


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_5091DSC_5060DSC_5061DSC_5081

 私は50年来の念願がかなって,和歌山城に行ってきました。もっと壮大なお城だと思っていただけに,かなり拍子抜けしましたが,行けてよかったです。それとともに,それまでは思っていなかった,どうして陸の孤島のような和歌山市に徳川御三家のひとつがあったのかという疑問がふつふつとわいてきました。いつもそうですが,その地に行ってみないとわからないことがたくさんあるものです。
 あとで調べてみると,私が寂れたところだなあと思った和歌山市は,実際,人口も減っていて,活気のないところのようでした。そもそも,JRの和歌山駅と南海電車の和歌山市駅がずいぶんと離れていて,しかも,その中間にある和歌山城のあたりが市の中心部であるということからして,都市の発展を妨げていますし,これといって産業の目玉もありません。これでは人が流出します。そしてまた,和歌山市から南にいったところで,さらに何もないから,通過点ともなれません。

 もともとこの地にあったのは,JR和歌山駅近くの太田城でした。そのころ,根来寺は寺領72万石,3万兵の僧兵を養い,ここを中心として「紀州惣国一揆」が起きていました。これが紀州征伐の原因となって,豊臣秀吉の水攻めにより太田城は落城しました。その後,1585年,豊臣秀吉が当時若山とよばれていた地に城を築き,豊臣秀吉の弟羽柴秀長にこの地を与え,城が完成すると地名を和歌山と改めました。
 豊臣秀長は城代として家老の桑山重晴にこの城を任せましたが,関ヶ原の戦いで徳川家康に従った桑山重晴の子桑山一晴は大和新庄へ移封となり,代わりに浅野幸長が入りました。1619年,福島正則の改易で浅野幸長が広島へ移り,和歌山城に入ったのが徳川家康の10男徳川頼宜で,これにより紀州徳川家が成立しました。
 徳川家康は,天下を統一したのち,伊達藩など東北への監視として水戸徳川家,関西方面への監視として名古屋に尾張徳川家を置きました。
 ポルトガル船が種子島に鉄砲を伝えたように,種子島や琉球は諸外国との接点でしたが,種子島や琉球には和歌山港から紀伊水道を南下して黒潮に乗って帆船で行き来しました。陸路では広島の毛利家や九州の島津家などの領地を通らねばならず,直接自由に行き来できるものではなかったのです。また,鉄砲の一大製造地であった根来寺は当時砂金も採れ刀など鍛冶職人が多く住み僧兵も根来寺を中心に1万人くらい住みんでいましたし,高野山などの僧兵にも目を配る必要がありました。このように,武器製造地を押さえ,僧兵を監視し,琉球などの海外との接点を独自に管理するための重要拠点として,和歌山の地は重要だったのです。

 幕末。13代の紀州藩主であった徳川慶福が徳川家茂と改名して14代将軍となると,藩主が空席となり,幕命によって,伊予西条藩の9代藩主松平賢吉が紀州徳川家の養子となり徳川茂承と名を改めて14代藩主となりました。徳川茂承は長州征伐に参戦しましたが,戊辰戦争では新政府に恭順,明治維新を迎え,版籍奉還によって和歌山藩知事となりました。

2019-12-27_12-06-28_6522019-12-27_15-28-11_518DSC_50741969-502 2019-12-27_14-37-06_883 2019-12-27_18-13-39_410

 堺市役所から,反正天皇陵を通り,仁徳天皇陵経由して,履中天皇陵と3つの天皇陵の拝所を通り,もよりのJRの上野芝という駅まで,ずいぶん歩いてたどり着きました。お昼になったので駅の近くで食事でもと思っていたのですが,お店が何もなかったので和歌山駅まで我慢することにしました。
 阪和線というくらいだから,上野芝駅で乗れば一挙に和歌山市に行けるだろうと思い,そのまま来た電車に乗りました。ところが,電車はふたつめの鳳とかいう駅が終点で,そこで降ろされました。次に来る,前4両が関西国際空港で後ろ4両が和歌山へ行くという8両編成の電車に乗り替えるのだそうです。
 待ち時間が13分でした。この駅に何か食べるところがないかなと探すと,構内にそば屋が1軒あったのですが,わずか10分では食べるのもはばかられ,改札を出たところにコンビニがあったので,バカらしかったのですが,一旦改札を出て,コンビニでパンを買って,これを昼食とすることにしました。

 再び改札を通りホームに降り,電車が来たので乗りました。しかし,今度は,和歌山市には和歌山駅と和歌山市駅があって,その位置関係がさっぱりわかりません。そもそも,駅の名前の付け方からしてよくわかりません。名古屋に名古屋駅と名古屋市駅が,京都に京都駅と京都市駅があるようなものです。そもそも私はこれまで和歌山市にまったく関心がなかったのです。乗った電車の終点は和歌山駅で,和歌山市駅はそこからまた盲腸線のような支線に乗り換える必要があるのでした。
 で,一体,和歌山城は和歌山市のどこにあるのだろうと調べてみると,それは和歌山駅と和歌山市駅の中間あたりでした。ならば和歌山駅から歩けばいいではないかということで,終点で電車を降りてお城まで歩くことにしました。
 降り立ったJRの和歌山駅周辺は,正直言ってかなりさびれていて,想像以上に活気のないところでした。三重県の四日市市のJRの駅の周辺に似ていました。日本の地方都市というのは,どこもみなそんな感じです。栄えているのは東京だけです。日本はオリンピックなんてやっている場合じゃないんです。
 駅前通りのアーケード街は,御多分にもれずシャッター商店街で,人通りもほとんどありませんでした。なのに,景気づけなのか活気づけなのかずっと民謡のような音楽がかかっていてやかましいというか,まったく歩いていて楽しくありません。ここの商店街のお偉い人はこういう趣味なのでしょう。なんだかなさけなくなってきました。
 ずっと西に向かって大通り沿いに歩いて行ったのですが,和歌山城まではかなりの距離がありましたが,やがて,やっとお城が見えてきました。
 和歌山城は,江戸時代,徳川御三家のひとつ紀州家の居所,いわば,老舗です。だから,威厳があるだろうと思っていたのですが,天守閣はかなりの石段を上ったところにあり,私は上るのにへろへろになりました。昨年行ったオーストリアのザルツブルク城はもっと険しかったのですが,ザルツブルグ城と違うのは,和歌山城はおどろくほど閑散としていて,観光客もまばらで,しかも,ぼろっちいお城でした。お城の中の展示もなさけないほどのモノでした。ただし,「和歌山城おもてなし忍者」とかいうかわいいくノ一が数少ない観光客にいちいち声をかけては一緒に写真を撮ってくれたので,それだけはいいところだなあ,と思いました。

 ところで,私が興味があったのが,どうしてこんな辺境の地が,江戸時代には重要な場所だったのだろう,ということでした。そこで調べてみました。
  ・・・・・・
 その昔,今から50年近くまえの大河ドラマに「国盗り物語」というものがありました。司馬遼太郎作品で,主人公は斎藤道三と織田信長。この作品でかっこよかったのが,林隆三という俳優さんが演じた鉄砲の名手であり,織田信長を苦しめた雑賀孫市でした。その雑賀衆の住んでいたのが和歌山市,だったわけです。そんなわけで,戦国時代から江戸時代のはじめはここは重要な軍事拠点,鉄砲というのが戦国時代の最新兵器であって,その武器庫だったのです。それで納得しました。しかし,今となっては,特に何もないところです。これ以上のことはまた後日書くことにします。
  ・・・・・・
 お城の帰りに博物館に寄ってから,私は和歌山城を後にして和歌山市駅まで行き,南海電車の乗って大阪に戻りました。南海電車のほうは終点が和歌山市駅なのです。帰りは新今宮駅で環状線に乗り替えました。
 大阪駅に戻る途中,ひとつ前の福島駅で降りて,福島駅近くにある将棋連盟関西本部にある将棋メシの聖地「レストランイレブン」に寄って,「珍豚美人定食」なるものを食べました。この日,ちょうど対局のあった藤井聡太七段の食べた昼食のメニューが同じものだったということを,帰宅後に知りました。
 帰り,東海道線が強風で遅れが生じていたのですが,常日ごろ,うるさいくらい車内放送がかかるのに,電車の遅れやら接続する電車の情報となると全く流れないというのもまた,日本らしい現象でした。要するに,これぞ日本,どうでもいいことはくどいほどの情報を流すのに,必要な情報はいつも全く流れない,というわけなのです。
 しかしまあ,こういった,ある意味どうでもいいプチ旅行というのは悪くないものです。

2019-12-27_09-46-08_579DSC_5049DSC_5057DSC_5034

 仁徳天皇陵,履中天皇陵,反正天皇陵に行ったので,ここで,この時代の天皇について書きます。
 古代史がおもしろいのは,わからないことが多いからですが,そこで,調べれば調べるほど興味が増してきます。権力者の系譜というのは,それがどこまでが真実であるかということよりも,そうした権威をいかに神聖化するかということが組織を束ねるためのひとつの目的となっていくので,それと史実を同等にはできませんし,それは政治であり学問ではありません。

 初代神武天皇以来,2代綏靖天皇から9代開化天皇までの「欠史八代」ののちの10代崇神天皇からが実在した可能性のある天皇なのですが,その後の15代応神天皇までもその実在性は定かでありません。15代応神天皇の子が16代仁徳天皇,その子どもが17代履中天皇,18代反正天皇であり,このころからほぼ実在していたと思われます。また,今に伝わる天皇家の系図をみると,その後,25代武烈天皇と26代継体天皇に大きな隔たりがあり,26代継体天皇はその5世代前の15代応神天皇までさかのぼったその5世孫の傍系で越前国からやって来たとなっています。
 そこで,学問としての歴史は,王朝交代説を唱えるわけです。私は歴史学者でないので,それ以上のことは知りませんが,ともかく,紀元300年ごろまでになんらかの形で今の奈良県にあたる地方に有力者が生まれヤマト政権を成していて,紀元400年ころに今の大阪府にあたる河内出身の15代応神天皇あるいは16代仁徳天皇とされる有力者がそれに代わり,その正当性を主張するためにそれ以前のヤマト政権と系譜を同一にして25代まで続き,紀元500年ころにまた別の系統の今の福井県あたりからやってきた有力者がとって代わって26代継体天皇の系譜となってそれが今に続くような感じに私はみえます。
 また,後世,50代桓武天皇の母は百済系渡来人氏族和氏の出身である高野新笠です。

 当時の日本のことを伝える中国の文献は,卑弥呼で有名な「魏志」の倭人伝以降「晋書」の四夷伝に266年倭国から朝貢があった,という記述があるのち,「晋書」の安帝紀に413年倭国から安帝に貢物を献ずる,とあるまで,約150年間記述がありません。その時代を伝えるのが後世に作られた古事記と日本書紀だけであることから,この時代は「空白の4世紀」とよばれています。
 この時代の日本は古墳時代で各地に大きな古墳が大量に作られていることから,多くの有力者がその覇権を争っていたことが想像できます。そして,その覇者としての政権が誕生し,「宗書」の倭国伝にみられる「倭の五王」の時代を迎えるわけです。これが百舌鳥古墳群に葬られた天皇の時代です。
 「倭の五王」である讃,珍,済,興,武のうち,済,興,武はそれぞれ19代允恭天皇,20代安康天皇,21代雄略天皇を指しているのですが,讃は15代応神天皇か16代仁徳天皇か17代履中天皇,また,珍は16代仁徳天皇か18代反正天皇のいずれを指しているのか諸説があります。
 いずれにしても,巨大古墳が存在してるのは事実であり,そこに誰かが葬られたことも事実なので,そこにどういった史実があったのかは定かでないにしても,実際に百舌鳥古墳群を見ていると,どうしてこんな巨大なものが必要だったのか,また,そんなものが作れる権力があったのか,あるいは,作る必要があったのかなど,いろんな想像が膨らんできて,おもしろいものです。
 それにしても,その日を生きるのも大変だったのに,よくもまあ,こんな巨大なものを作ったものです。

2019-12-27_09-49-36_791DSC_5018DSC_5027DSC_5048

 まあ,ともあれ,堺駅に着きました。ところが,どちらの出口を出ればいいのかわかりません。観光案内所と書かれた標示があったので,それを目当てに行ったのですが,いっこうに観光案内所も見つかりません。探して探して,あんな標示でわかるものか,という駅の奥まった,しかも階段を降りた場所に,やっと観光案内所をみつけました。
 さあ,ここで体制立て直しです。
 観光案内所の人はとても親切でした。堺の町は思っていたよりずっときれいでした。堺東駅は堺駅からはるか1.6キロメートルほど東だったのですが,私は歩くのはまったく苦ではないので,地図をもらって歩くことにしました。20分ほど歩いて行くと,堺市役所に着きました。エレベータで21階の展望台に行きました。
 世界遺産になった百舌鳥古墳群ですが,教科書や雑誌などでよく見る写真は空から写したもので,あの姿をみることができる展望台はありません。天皇陵を仰ぎ見ることに抵抗があって,展望台を作らないのでしょうか。地上を歩いていてもこんもりとした小山が見えるだけなので,知らずに行ってもおそらくがっかりします。
 唯一高いところから見ることができるのが堺市役所21階の展望台だけということだったので,行ってみたわけです。
 エレベータで昇りました。冬休みということで,平日でしたが,子どもを連れた家族が数グループ来ていました。ボランティアの説明員もいました。しかし,正直いって,展望台といっても21階では高さが足りないので,前方後円墳の形には見えず,がっかりしました。
 それより私が興味をもったのは,どうして奈良でなく大阪にこの時代の天皇が葬られていたのかということですが,それはおそらく,この時代の国の権力者の力を大陸に見せつける必要があったからなのでしょう。今も昔も,日本は大陸,つまり中国の力に怯えて虚勢を張って生きるしかないのです。歴史を知ると,人は何も変わっていないということを実感します。

 展望台を降りて,古墳の周りを歩いてみることにしました。
 百舌鳥古墳群には多くの古墳が今も残っているのですが,なかでももっとも大きなものが仁徳天皇陵として知られている大山陵古墳です。百舌鳥古墳群で,現在天皇陵として指定されているのは,仁徳天皇陵のほかに,履中天皇陵となっている七観山古墳と,反正天皇陵となっている田出井山古墳なので,この3つの拝所に行ってみることにしました。履中天皇と反正天皇は仁徳天皇の子供です。この3つの古墳は天皇陵となっていることで宮内庁の管轄で拝所があり,学問的に古墳を発掘することに制限があるわけですが,そもそも,そうした古墳を天皇陵として特定したのが近年のことであって,それが実際その天皇の陵だったかどうか疑わしいわけです。この3つの陵にしても,特に,反正天皇陵は実際はこれとは異なっているという学説が有力です。私個人としては,本来と違うものを祀っていることの方がよほど無礼だとずっと思っているのですが…。
 いずれにしても,こうして,昔学校で習った百舌鳥古墳群を一度は見てみたいという念願がかないました。堺という町は,戦国時代の遺構はほとんど残っておらず,百舌鳥古墳群以外に大した見どころもなかったので,次の目的地・和歌山城に向かうことにしました。

nankai 2019-12-27_09-16-20_0252019-12-27_09-17-16_0372019-12-27_09-34-58_780

 堺という町は,大仙陵古墳と戦国時代の鉄砲で歴史的に有名なので,学生時代から50年ずっと行ってみたいと思っていたのですが,これまで行く機会がありませんでした。また,和歌山城は,徳川御三家のひとつ紀州徳川家の居城ですが,これもまた,行く機会がありませんでした。
 名古屋生まれの私には,和歌山県というのは縁遠く,大阪からほんのわずか行くだけなのに,なかなか行くことができませんでした。和歌山県に限らず,愛知県から縁遠い県というのは,群馬県や茨木県,秋田県などがあります。私は「このごろ日本国内でこれまで気になっていて行く機会のなかった場所に出かける機会を作っている」と書いたことがありますが,わざわざ行ってみようと思わない限り行くことのないそんなところに今わざわざ行かなければ一生行くこともないだろうと痛切に思うようになりました。そこで,昨年2019年12月27日,堺と和歌山城に行ってみることにしました。

 これもまた,いつも書いているように,日本は狭いようで広く,便利なようで不便で,新幹線と在来線の特急を乗り継げばどこだって行くことができるのでしょうが,どこへ行くにも結構高価です。しかし,日本国内の旅にそんなお金をかける気にもなりません。また,そんな旅行をしても楽しくないので,今回もまた,いかに安価に行けるかを考えました。車など使っても高速道路は渋滞し運転マナーも悪いので論外です。
 はじめは大阪までバスで行こうと思ったのですが,思い立ったのが数日前だったので早割チケットは完売。そうした割引がなければ在来線で行っても値段は変わらず,さらに列車のほうが時間が正確なので,始発と終電の時刻だけを調べて在来線で行くことにしました。
 当日は,早朝,始発に乗って出発しました。名古屋から和歌山というのは,いわば,オーストリアでウィーンからザルツブルグ,あるいは,フィンランドでヘルシンキからナーンタリまで日帰り旅行をするようなものなのですが,私には海外でそうした旅をするほうがずっと楽です。それは,日本では,どこも人だらけで混んでいるということ,意味のない車内の放送がうるさすぎること,そしてまた,駅の標示や電車の運行がわかりにくいことなどが理由です。さらに,目的地に着いても,日本はどこの町も同じように雑然としているだけで歩いていてもさほど楽しくないのです。
 
 ともかく,JRの東海道線で大阪までの往復チケットを窓口でクレジット払いで買って出発です。Suica は,JR東海を越えた範囲まで行くときは改札では使えないというバカげた話なので困ります。この例で最もあほらしいのが名古屋から彦根へ行くときです。JR東海とJR西日本をまたぐので Suica が改札で使えず,窓口でチケットを買う必要があるのですが,窓口に人の列ができていると最悪です。チケットを買う時間がないとホームに列車が停まっていても乗れません。
 この日は,早朝だというのに平日でもあり,通勤通学で車内は結構混んでいました。私の乗った列車は大垣止まりで,そこで今度は米原行きに乗り替えるのですが,その大垣から乗った2番目の列車は座る席すらありませんでした。それでも,米原で再び乗り換えた3番目の列車では座ることができて,予定どおりの時間に大阪駅に着きました。大阪駅からはめちゃめちゃ混んでいた地下鉄で難波まで行き,難波から南海電車に乗りました。本当は環状線で新大宮駅まで行ったほうが便利だったのですが,知りませんでした。
 南海電車なんて,これまで乗ったこともありませんでした。私が知っている南海というのは,昔大阪にあったプロ野球球団,鶴岡一人監督と野村克也捕手の南海ホークスとその本拠地であった大阪難波球場くらいのものです。
 私は,南海電車は路線がひとつしかなく,難波駅でそのまま停まっている電車に乗ればすべて堺に行けると思っていました。しかし,ホームに大きく掲示されていた路線図を見ても,私が降りようと思っている堺東という駅がないのです。路線図には堺という駅はあっても,堺東という駅がありません。後で,堺東駅は別の路線である高野線だということがわかったのですが,南海電車の難波駅に大きく掲示されていた路線図はなぜか南海線しか書かれていないのでした。そして,ずらっと並んだホームには,和歌山へ行く南海線の電車ばかりでした。しかも,いろんな種別の列車があって,南海電車では特急は別料金なのかそうでないのかとか,要するに,私の知りたい情報はどこにも書いてなくて,はじめて来た私にはとまどうことだらけでした。ここでもまた,あきらめているとはいえ,大切なことを勘違いしている日本らしい話でした。
 そもそも南海電車のマーク自体,地元の人ならともかく,知らない人にはそれが南海電車だとはわかりません。そこで,表示にそのマークが書かれていても,それが南海電車だということすらわからないのです。まあ,聞けばいいのでしょうが,堺東駅でなくても堺駅で降りてあとは歩けばいいだろうと,停まっていた電車に飛び乗りました。

IMG_2673IMG_2670IMG_2668IMG_2741047 (2)

 今はまったく見なくなったNHKの大河ドラマですが,かつては夢中だった私がこの大河ドラマで最も傑作だと思っている「花神」には,「適塾」で学ぶ村田蔵六,のちの大村益次郎が出てきます。
 あくまでドラマなので事実がどうなのかは知りませんが,このドラマで描かれた「適塾」でのストイックなまでの大村益次郎の姿に,若かった私はえらく衝撃を受けました。
 今の学校教育のような「エセ」ブランドの学歴を手に入れるためだけのドリル学習とは違い,そこには人が学問をするということの本質がある気がしました。
 「適塾」は大阪駅からほど近い場所にあって,現在も建物が保存公開されています。私も以前訪れたことがあって,今回再び行ってみたのですが,地震の被害にあって修復中ということで,残念ながら中には入ることはできませんでした。
 大阪といえば,難波のあたりはとんでもない人混みであり,また,多くの観光客がめざすのはUSJですが,私はそうした観光地には興味がなく,この静かな一角のほうに惹かれます。このあたりを歩いているとずっと心が和み,幸せな気分に浸ることができます。

 江戸時代の末期,緒方洪庵の開いた大坂大学の前身である「適塾」は,正式には緒方洪庵の号から適々斎塾,また,適々塾とも称されました。
 緒方洪庵は1810年(文化7年)に生まれ1863年(文久3年)に52歳で亡くなった江戸時代後期の武士であり医師であり蘭学者です。 
 人柄は温厚で,およそ人を怒ったことがなかったといいます。「適塾」の塾生だった福澤諭吉は「先生の平生,温厚篤実,客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず,誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評しています。
 やはりここでも,真に偉大な人物というのは,私がこれまでに出会って迷惑をこうむった輩のような偉そうに威張っていたり高圧的であったりパワハラまがいの小者ではないのです。
 開塾25年の間に3,000人と伝えられている門下生が学び,その中でも,福澤諭吉,大鳥圭介,橋本左内,大村益次郎,長与専斎,佐野常民,高松凌雲など幕末日本のエリートを多く輩出しました。
 勉強法は蔵書の解読で,塾に1冊しかない「ヅーフ・ハルマ」の写本が置かれていた「ヅーフ部屋」には時を空けずに塾生が押しかけ,夜中に灯が消えたことがなかったといいます。
 「ズーフ・ハルマ」(Doeff-Halma Dictionary)というのは江戸時代後期に編纂された蘭和辞典です。これは「フランソワ・ハルマ」(François Halma)という蘭仏辞書をベースに作成されたもので,約50,000語を収録していました。複製は写本で行われたために出版数は33部前後と少なく,ページ数が3,000を越えたこともあって大変貴重なものでした。
 塾生は,立身出世を求めたり勉強しながら始終わが身の行く末を案じるのではなく,純粋に学問修行に努め,物事のすべてに通じる理解力と判断力をもつことを養いました。

 大村益次郎は1824年(文政7年)に生まれ,1869年(明治2年)暗殺によって非業の死を遂げた長州藩の医師であり西洋学者であり兵学者でした。維新十傑のひとりで,長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し勝利の立役者となりました。また,日本陸軍の創始者でもあります。
 防府でシーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学んだのち,1864年(弘化3年)から「適塾」で学び塾頭まで進みました。
 緒方洪庵の孫である緒方銈次郎は父親や祖母の緒方八重から聞いた話として,大村益次郎の「適塾」時代は,
  ・・・・・・
 伝えるところによれば,村田(大村益次郎)は精根を尽くして学び,孜々として時に夜を徹して書を読むことを怠らずとあるほど猛勉強をし,暇さえあれば解剖の本を読み,しばしば動物の解剖を行うなど研究熱心であった。塾頭としても綿密に考えて講義をし,遊びをしない品行方正な人格であった。
  ・・・・・・
としているそうです。
 また,大村益次郎は豆腐好きで,ドラマ「花神」の原作であった司馬遼太郎の「花神」には,
  ・・・・・・
 蔵六は緒方家の物干し台にのぼり,豆腐の皿を膝もとにひきつけておいて酒をのんだ。星空の下でひとり豆腐を食い,酒をのんでいる。師匠である緒方洪庵の蔵六評は「ひとりで酒盛りをしている男」である。
 江戸の長州藩邸に起居する時代になると彼の豆腐好きはいよいよ昂じていて,「毎夕三丁なければ酒が終わらない」と豆腐への傾倒はますます激しくなる。
  ・・・・・・
と書かれています。
 実際,生活は質素で,芸者遊びや料亭も行かず酒を好む以外は楽しみはなかったということです。兵部大輔の高位になった後も「先生は非常に気力旺盛な方で豪傑でありました。強記博聞おのれを持することが極めて質素でありました」と曾我祐準が証言するほどであったといいます。
 改元とかでかまびすしい今,こうした人たちの力で今の日本があることをもっと知るべきなのかもしれません。

IMG_0029IMG_0027IMG_0028IMG_2752IMG_2754DSCN1689

 東京や京都はよく出かけるので,その町の様子は住んでいるようにとてもよくわかります。しかし,大阪となるとほとんど行ったことがないので,いまひとつよくわかりませんでした。
 これまで大阪に行く機会はあっても,用事が済むとすぐに帰ってしまったので,町を散策する機会もあまりありませんでした。そこで,地名は知っていてもどこがどういうところなのかどんな場所にあるかという位置関係すらよくわかっていませんでした。
 そんな,私にとってなぞに包まれていた大阪はなじみがないことが幸いして,大阪に来ると海外旅行をしているような,そんな楽しみを感じます。 
 今回,エストニア祝祭管弦楽団のコンサートで大阪に来る機会があったので,そのまま1泊してその翌日も加えた2日間,大阪市内を歩いてみることにしました。街を知るには歩くに限るのです。
 着いた日の夕方からのコンサートその前に少し時間があったので,梅田から福島あたりを散策しました。その晩私が泊まったのは東横インの通天閣前だったので,翌日は早朝にホテルをチェックアウトして,北に向かって十三まで歩きました。難波から十三まで距離にしたらわずか10キロメートルもありませんでしたが,なかなか楽しい道歩きになりました。
 このブログは町案内をするのが目的ではなく,自分の思いを残すことが目的なので,ここでは私自身の大阪に抱くイメージごとに,歩きながら思ったことを書いていくことにします。

 まず今日は,私にとっての大阪はまず坂田三吉ということで,将棋に関することにしましょう。
 この頃は藤井聡太七段ですっかり有名になった日本将棋連盟の関西本部ですが,このビルがあるのは大阪駅のひとつ西のJR福島駅の北側です。大阪駅からはJRに乗らなくてもほとんど人が通らない地下道をずっと西に歩いていくと福島駅までたどり着くことができました。
 ずっと以前,この建物ができたころに興味があって来たことがあります。その当時は確か地下1階だったかに将棋博物館もありました。アメリカなら将棋殿堂のような,過去の大棋士の殿堂が作られるのだろうと思いますが,やっかみの強い日本人にはそうした過去の偉人そのものを称える文化はありません。あるのは第〇〇世〇〇とか第〇〇代〇〇のように功績のあった人に称号をつけることです。それはその人を称えるというよりその名跡に権威をつけることが目的です。
 野球だけはアメリカのように野球殿堂というものがありますが,それはアメリカのマネしているだけで,日本の文化ではありません。
 それにしても,今でこそ将棋ブームですが,一昔前に,東京と大阪によくもこんな将棋会館というビルを建てることができたものだとその大変さがわかるこの歳になると感心します。これは大山康晴十五世名人の功績です。
 このビルの1階にイレブンというレストランがあるのですが,なぜか私が行くときに限ってこのレストランが開いていたことがなく,残念ながらまだ中に入ったことはありません。

 今でこそ教育のひとつの素材となって地位の向上した将棋ですが,私の子供ころは博打打ちと変わらぬ認識しかなく,むしろ興味をもつ子供は厄介者でした。人の価値観やら常識などというものは,このように時代とともに変わっていくもので,今の常識もまた疑ってかかったほうがいいのです。
 大阪の通天閣あたりにある将棋道場は,今なお,そうした頃のある意味ヤバい面影をとどめていますが,こういう場所だからこそ,村田英雄の歌った「王将」で有名な「銀がないている」という言葉を吐いた坂田三吉名人王将ゆかりの地として味わいの深いところであるわけです。
 私が子供の頃の将棋道場なんて,昼間っから仕事もしないおっちゃんがタバコをくゆらせながら1日中かけ将棋をやっているようなところでした。

 今回,私が福島駅のあたりを歩きまわったのは,ちょうど朝日新聞の土曜be版に取り上げられていた,若くして世を去った天才棋士村山聖九段の面影をさがすことが目的でした。
 村山聖九段は1969年(昭和44年)に生まれ1998年(平成10年)にわずか29歳で亡くなった棋士です。幼少の頃から腎臓の難病であるネフローゼを患いながらも異例の早さでプロ入りを果たした,いわゆる「羽生世代」の強豪のひとりでした。
 薄れていく意識の中で棋譜をそらんじ「……2七銀」が最後の言葉であったといいます。後年,映画「聖の青春」が上映されたことで有名になりました。
 この村山聖が苦悩の青春をすごしたのがこの福島町界隈で,住んでいたアパートの部屋が今も空き部屋として残っていて,彼をしのんで訪れる人が今もいるといいます。私は外から見ただけですが,部屋の窓には映画「聖の青春」のチラシが無造作に張られていました。

 人の一生なんて,どんな偉業を何を成し遂げようが,所詮,成し遂げたあとでは。それがどんな偉大なことであっても自分がしたという認識よりも小説を読んだのと同じような他人事に風化してしまいます。人は現在だけを認識し,未来を思い生きているのです。
 何かを成し遂げた人はそれだけなのに,何かを成し遂げたいとう願望がありながらそれがかなわなかったときの後悔のほうはずっと心に刻み込まれるのです。それが人の「業」(ごう)というものでしょう。だから,何かを成し遂げたいという願望があったとしても凡人はそれを成し遂げる才能すら授かっていないのだから,もともとそんな願望などもっていない人のほうがよほど幸せな人生が送れるのかもしれません。
 そのように,多くの人はその願望を成し遂げる才能すら授かっていないわけですが,村山聖は成し遂げられる才能を授かっていながら病気によってそれがかなわないうちに急逝してしまった,そのことが悲劇なのです。この町を歩いていて,私はそうした人の悲しさと辛さ,そして生きることの尊さを感じました。

DSC_7155DSC_7168DSC_7162DSC_7164DSC_7470 (2)DSC_7647

 今年もまた大阪場所はやはり最高でした。
 では,今日は,テレビにはあまり紹介されない裏側の写真を紹介しておきましょう。
 まず,1番目の写真は会場に入ったところです。横綱の実物大のパネルがあります。私はこういうのもこれまで興味がなかったのですが,稀勢の里のパネルと一緒に写真を写しました。中央には優勝したときにもらう天皇賜杯と優勝旗,そして,各優勝杯が展示されています。
 優勝旗は稀勢の里と書かれた幟が見えるようになっていますが,天皇賜杯の下の部分に刻まれた稀勢の里の文字が裏側にあって見ることができず,見にきていた多くの人が探していました。鏡でも置いてあればいいのに,と口ぐちに言っていました。

 2番目の写真は,入口を入って右手にある相撲協会公認グッズ売り場です。数年前は売るために買うと親方の直筆サインを書いてくれたりしたのですが,いまや大人気で,売り切れ続出の状況です。右に並んでいるのは,購入を待つ人たちです。
 この体育館はロビーが広いので,非常に気持ちがよいのです。国技館は別格として,愛知県体育館もロビーが狭く,九州は逆にロビーに売店があるだけで,それ以外の場所はせまく売店が全くありません。

 3番目の写真は単なる階段なのですが,この体育館の欠点はこの階段です。なにしろ凝っていて,そのために,階段の場所がよくわかりません。これでは,何かあったときに,きっと大惨事になります。また,トイレも階段を上った先にあるので,足の悪い人には大変不便です。
 はじめてこの体育館に行って,イス席にたどりつける人は皆無でしょう。なお,エレベーターは存在して,力士使用禁止と張り紙がしてあります。

 4番目はテレビの放送席です。テレビカメラもどんどんと進化していて,現在NHKでは4K,8Kといったスーパーハイビジョンの映像を放送センターに行くと見ることができます。私も見たことがありますが,すごく精細です。
 私は,それよりもアメリカのフットボール上のように3D映像とか,あるいは,会場内にいる人のスマホを対象にビデオ映像を即座に配信してほしいものだと思います。
 放送席は正面の最上段にあります。この席の下のイス席が報道のカメラマンの席です。カメラマンの人とお話をしたのですが,もっと別の角度から写したいけれど場所が決められているので,ここからしか写すことができないと不満を言っていました。
 若いころから相撲を見に行っていると,カメラマンの使用しているカメラの変遷がよくわかって大変に興味深いものがあります。
 なお,土俵下にもカメラマンがいて,彼らはスピードライトを使用していますが,発光口を体育館の照明によって違うフィルターで覆うのだそうです。

 そして,5番目の写真は正面のマス席のなかにあるラジオの放送席です。この日の解説は北の富士さんで,姿が見えます。大阪場所のラジオの放送席は結構土俵に近いところにあります。
 私は名古屋場所でラジオの放送席のひとつ後ろのマス席で見たことがあります。放送席にはモニターがあるので,とても見やすかった覚えがあります。そのときの解説は舞の海さんで,放送終了後に握手をしていただきました。
 アナウンサーも解説の人も,マイクに向かってしゃべっていても,周りにはほどんど何も聞こえません。それより,ラジオの大相撲中継ですが,実況をラジオで聞いていても雰囲気とどちらが勝ったかがわかるだけで,アナウンサーが苦労して描写している割に取組の様子は頭に浮かばないのですが,それは私だけのことでしょうか。
 昔のテレビ放送は,神風(正一)さんと玉の海(梅吉)さんというすばらしい解説陣がいました。ともに冷遇されてはやくして相撲協会を去った人です。そして,おふたりの後,同じように冷遇されて相撲協会を早期退職した北の富士さんをNHKが解説に迎えたのが大正解でした。
 人間的な魅力にあふれた人は組織から冷遇されるのです。しかし,人を悪人にしてしまう大きな組織の役員やら管理職などという仕事は早く見切りをつけたほうが幸せな人生がおくれるのです。

 この日も新横綱稀勢の里は完勝。こうして,私の楽しい今年の大相撲観戦も終わりました。来年はチケットとれるかなあ?

DSC_7762

DSC_7376 (1024x683)DSC_7387DSC_7406DSC_7459DSC_7456

 そんなわけで,十両の土俵入りから先は,席でじっくりと観戦です。とにかく今日来た目的は新横綱の土俵入りを見ることなのですが,うまく写真が写せるか,近づくにつれてだんだんと心配になってきました。
 数場所前は,宇良関,石浦関と,十両に小兵の人気力士がいて見逃せなかったのですが,今は,幕内に上がりました。また,数年前は,横綱白鵬とほかの力士に力の差がありすぎたのと,有望そうな若手が目につかなったので,幕内はおもしろくなかったのですが,このところ,若手の台頭が目覚ましく,誰が対戦しても上位陣に勝てるかもしれないという可能性があって,幕内の取組が非常に面白くなりました。

 いよいよ,幕内の土俵入りになりました。
 私は,この日白鵬が休場したということを知りませんでした。周りにいた人のおしゃべりから,なんとなく休場? みたいな感じが伝わってきましたが,これまで白鵬は飽きるほど見てきたし,もともと好きじゃないので,別に休場しても見られなくてもどおってことありません。
 ところで,白鵬の土俵入りですが,横綱になったはじめのころは今のような感じではなかったのです。その後,彼はどうやら敬愛する双葉山の土俵入りを研究したんです。で,昭和初期の横綱の土俵入りのような感じになった。つまり,3回目の四股を踏むときに手を上げない,しかもテンポも早くなったのです。それに文句を言ったファンがいるそうですが,そのファンは無知です。そして,それを記事にした記者は不勉強です。

 横綱の土俵入りが確立したのは明治以降であって,しかも現在のようなおおらかでゆったりとしたものになったのは大鵬からですが,私が見た横綱の土俵入りで最もかっこいいと思ったのはなんといっても北の富士です。ほとんど映像が残っていないのが残念です。
 雲竜型の北の富士と同時に横綱になった玉の海の不知火型の土俵入りもまた,現在の不知火型のふたりの横綱とは比べ物にならないほど美しい土俵入りでした。

 稀勢の里の土俵入りは堂々としていて力強いです。昭和45年(1970年),大鵬,北の富士,玉の海3横綱のころの土俵入りを思い起こさせます。
 稀勢の里は新横綱なのに,すでにもともと生まれながらの横綱のようです。やはり,横綱になるべくして生まれた逸材だったのです。しかし,もし,もっと若くして横綱になっていたら,きっと,現在ほどのフィーバーにはならなかったのかもしれません。それは,もう,みんなが見られないとあきらめかけていたときだからこそ,それが実現した今,夢にまで見た,とか,信じられない,という不思議な感覚になるからです。
 私も,何度見ても,本当に稀勢の里の横綱土俵入りを見ることができるのが信じられないと感じるし,見るたびに涙が出てきます。

 稀勢の里の横綱土俵入りがより素晴らしいのは,化粧まわしに品があることに加えて,太刀持ちの高安関と露払いの松鳳山関が横綱より若干背が低くしかも同じくらいの体格でともに浅黒く,非常にバランスがとれているということです。
 私は,大阪場所は本場所初の土俵入りということで初日に見たかったのですが,初日は高安-松鳳山という取組があったので,露払いが松鳳山関でなく輝関だったから,初日に来なくてよかったと思いました。これもまたツイています。おそらく,高安関は名古屋場所では大関でしょうから,この3力士のそろった美しい土俵入りが見られるのもあとわずかです。
 見にいくなら今です。

DSC_7454

DSC_7172DSC_7178DSC_7207DSC_7312DSC_7337DSC_7363

 大阪場所の6日目は一番出世披露があります。
 序ノ口の取組前の前相撲は他の場所は3日目からですが入門者の多い大阪場所は2日目から行われます。前相撲はその場所前の新弟子検査に合格した者と序ノ口から番付外に陥落している者が行います。非公開ですが,大阪場所は前相撲の取組数が多いので,開場時間になって入ってもまだ続いていて一般でも少しだけ見ることが可能です。私も昨年見ました。
 前相撲で5日目までに2勝を挙げると一番出世となります。6日目から8日目までに2勝を挙げると二番出世,それ以外を三番出世とします。

 出世披露とは,師匠や部屋の関取の化粧廻しを身につけて土俵に上がり,場内アナウンスによって所属部屋,四股名,出身地が読み上げられます。そして最後に行司が「これに控えおきます力士儀にござりまする。只今までは番付外に取らせおきましたるところ,当場所日々成績優秀につき本日より番付面に差し加えおきまする間,以後相変わらずご贔屓お引き立ての程ひとえに願い上げ奉りまする」と口上を述べます。
 出世披露は三段目の取組中に行われます。客席から盛んに声援が飛んでいました。彼らの力士人生,これからが大変です。

 私はこれを見てから1階に降りました。これまで毎場所見てきたので,この日は力士の入り待ちをする気はなかったのですが,入口に立ち寄ったときにはすでに入り待ちをする人でごった返していたので,少しの間立ち止まって見ていましたが,幕下上位の取組に見たいものがいくつかあったので,2時までで引き上げることにしました。
 この日見ることができた力士は,休場していてこの日から出場を決めた豊ノ島をはじめ,千代丸関,千代の国関,宇良関,高安関などでした。
 他の場所では力士が入ってくると拍手や歓声がすごいのですが,なぜか大阪場所はそういう反応がないのが不思議です。
 ただ,後ろにいた妙齢の女性が「千代丸さんカワイイ~」とか叫んでいるのだから,彼女たちにとれば,お相撲さんというのは女の子が大切に抱きかかえているくまさんのぬいぐるみと同じような存在なのでしょう。

 2時になったので,席に戻りました。
 見たかった取組というのは阿炎(あび),貴公俊(たかよしとし),剛士,貴源治などの幕下上位の将来有望力士のものです。
 今日の一番下の写真が話題の貴源治ですが,現在19歳で西幕下1枚目,誰しもが認める逸材です。勝ち越せば来場所はいよいよ関取ですが,この日は惜しくも負けてしまいました。
 なお,貴公俊,貴源治は双子でそっくりですが,隣にいた女性ファンによれば,口元にほくろがあるのが兄の貴公俊だとか言っていました。ザ・ピーナッツでもあるまいし…。

 大相撲は,このように幕下以下の若者たちを見るのが楽しみです。BS放送で午後1時から放送されるようになって幕下の取組はテレビで見られますが,それ以下は今でも実際に場所に行かないと見ることができないので,私は少しでも早く行ってそれらを見るようにしています。
 多くの人は朝早くからやっていることを知らないし,テレビの放送時間くらいからはじまると思っている人もいるし,せっかくチケットを手に入れたのに4時過ぎに行く人もいるようですが,もったいない話です。
 こうして朝から見るからこそ,いかに上位の力士が強く偉大なのかがよくわかるのです。

 大相撲は最も封建的な社会のように思えますが,学歴もコネも関係なく強ければだれでも横綱になれるわけで,その意味では,日本でもまれな実力社会です。
 それが,引退後は部屋の派閥やらなにやらできわめて人間臭くなってしまい,しかも,現役時代の地位が学歴のように扱われるのもまた人の世の常でしょう。私は昔は引退して親方ともなれば悠々自適だと思っていたのですが,親方衆というのも当然いろんな人がいるだろうし,雑用もたくさんあるだろうし,しかも,後援会とのお付き合いはセールスのお仕事と変わらないだろうし,それはそれでかなりたいへんそうです。どの世界も同じです。

DSC_7417 (2)DSC_7128DSC_7132DSC_7139DSC_7159IMG_2518DSC_7149

######
 「大相撲を見るなら大阪に限る」ということで毎年楽しみにしている大阪場所ですが,相撲人気が過熱して年々チケットが取りづらくなってきました。それに加えて期待の稀勢の里関がついに横綱に昇進ということで,異常なフィーバーになってしまいました。 
 私の今年の目的は新横綱稀勢の里の土俵入りをナマでみることただ1点。そのためにはイス席もマス席も土俵だまりも関係なく新横綱の土俵入りがきちんと見える席でないと意味がありません。そこで,新横綱は果たして東なのか西なのかが場所前に話題になっていました。新横綱は横綱最下位なので,西だと私は信じていましたが,聞くところでは,ほかの2人の横綱がその前の場所に休場した例がないとか。だから,ひょっとすると東では? という噂もあったそうです。
 私はなんの疑問もなく西と信じていたので,正面かもしくは東方ということで座席を探しました。実際はそんな選択ができるような状況ではなく,チケットを入手することさえ困難でしたが,なんとか5日目のイス席を1枚手に入れて3月16日に行ってきました。しかし,たまたま手に入れた席が土俵入りを見るには最高の席でした。東方の正面寄り。毎度のごとくついています。
 私は昨年も偶然5日目に見にいったのですね。あれからもう1年が経ちました。
 新横綱の土俵入りのことはまた後日。

 さて,いつも大相撲を見にいくときは1番はじめの取組からなのですが,今年はその時間に着くのはあきらめて,早朝7時に名古屋を出発して,近鉄特急で向かうことにしました。難波に到着したのが朝9時過ぎ。難波から大阪府立体育会館までは正確に歩くと10分というところですが,何度来ても相変わらず道順がよくわかりません。難波の地下街の表示が最悪なのです。デザイン的に懲りすぎていて,肝心なことが把握できません。
 昨年「5番出口を出る」と書いたのですが,自分でもすっかり忘れていました。
 地上に出て,それでもわからず,何度も聞いてやっと見慣れた景色にたどり着きました。
 今回知ったのですが,大阪府立体育会館を探すよりも南海電車の乗場を目指すほうがわかりやすいのです。そのほうが案内表示が多いからです。

 到着したときにはすでに5日目の取組は始まっていました。行く途中の歩道では前相撲を取り終えた若者や史上最弱力士の呼び声の高い服部桜とすれ違いました。せっかく今日服部桜の取組があったのに見られずそれだけが残念でした。
 彼が見切りをつけて辞めるまでに私は彼の取組を見ることができるだろうか? などということを思いました。
 当然当日券はすでに完売,というかイス席の端っこに僅かだけある自由席だけが当日券なのですが,それでも朝5時に並ばないと買えないということです。会場に入ると,まだ朝9時過ぎだというのに結構なお客さんがいました。この日は平日の5日目,最もチケットの売れない日なのでこの状況は信じられません。数年前なら最後まで売れ残ったマス席で結びの一番まで寝っころがっていられたのですが…。そんな話が嘘のようです。

 場内を歩いていると相撲協会公認グッズ売り場があって11時に開店ということでした。11時少し前に再び行ってみるとすでに黒山の人だかりでした。わたしはこういうのには全く興味がないのですが,今回だけは「稀勢の里キーホルダー」が欲しくなったので,早々に買い求めました。なぜかこれだけ定価の表示がなくて,でも,欲しい人が多くて,まあ,10,000円はしないだろうと冗談を言い合っていたのですが,実際は金700円也でした。人気は稀勢の里関と宇良関でしたが,特に「稀勢の里キーホルダー」の当日分は瞬く間に売り切れてしまいました。
 ほかにも「稀勢の里ジャポニカ学習帳」。これはすでに完売,今日の午後に何冊入るかなあ? ということでした。
 日本人はこういう商売が苦手で,メジャーリーグのように,もっとグッズを工夫して大々的に売ればいいのに,と思ったことでした。頭の古いおじさんの考えるような饅頭やせんべいや手ぬぐいばかりではいけません。新横綱である「今場所しか手に入らない」というレアものをいろいろと開発することが大切なのです。
 しかし,メジャーリーグのように,みんながひいき力士のTシャツを着て応援をはじめたら大相撲らしくなくなります。すでに「稀勢の里Tシャツ」を着た若い女性は結構見ましたが…。

◇◇◇
浪速の春の大相撲観戦①-人気の源流を探る。
浪速の春の大相撲観戦②-大阪場所は最高だった。
浪速の春の大相撲観戦③-アホの坂田師匠と神送りの儀式
浪速の春の大相撲観戦④-2016年もすごい盛り上がり
浪速の春の大相撲観戦⑤-入口は力士の人柄がよくわかる所
浪速の春の大相撲観戦⑥-今も残るディープな大阪

DSC_7886doubledipDSC_7910DSC_7909

 大相撲は不思議なもので,実際に見に行くと,外国人力士も日本人力士も関係なくなるのです。そして,だれが勝とうと負けようと,熱戦であれば堪能できます。
 それがテレビで見ているだけだと,だれが勝ったか負けたかだけが気になるのです。
 何事もそうですが,そういう意味では,大相撲も,見に行くほうがずっと楽しいものです。

 私は,昨年,春の大阪に始まって,夏の名古屋も秋の九州も,地方場所はすべて行ったことになります。
 これまでにも書いたように,九州は体育館がせまく設備が悪いのがかなりのデメリットです。博多という町は大阪とともにとても素敵なところで,何もない名古屋とは違います。九州場所の不入りは,体育館の場所が不便という意見がありますが,私は,それだけでないように思います。地方場所では,大阪は全く申し分ない立地であり,とても見やすい体育館です。
 私のように,大阪に住んでいない者にとって,日本の中でここはかなり異質な都会に思えます。そしてまた,「きた」と「みなみ」の様子はかなり違います。
 この大阪府立体育会館がある「みなみ」の場所は,難波駅の地下街の5番出口を出て,そのまま高速道路のガード下の道を5分ほど歩いてマクドナルドのある角を右手に折れると見えてくるのですが,はじめて行くとかなり迷います。まず,難波駅の地下街に表示がないのです。
 案内板にはかろうじて「大阪府立体育会館」というのが見つかります。「大阪府立体育会館」は正式名すら定かでないのです。確か「エディオンアリーナ大阪」とかいうのですが,そんな表示はどこにも見かけません。こんなしゃらくさい名前でなく「エディオン大阪府立体育会館」でいいんです。本当に,日本人は馬鹿な発想をしますね。企業の利己主義なんです。こんな名前をつけてエディオンは企業イメージが上がるとでも思っているのでしょうか。

 大阪「みなみ」には,その昔,名将・鶴岡一人監督率いる南海ホークスというパリーグの強豪チームがあって,私には,今でもそのイメージが強いのですが,その本拠地であった大阪球場のあたりは再開発されてしまって,今や,どこがどこなのか,よく分かりません。
 さらに南に歩いていけば昔の町の様子のままなのですが,そのさらに南にある通天閣は,今や若者に人気の観光名所であり,「二度漬け禁止」(英訳は「No Double Dippig」です)で有名になった串カツの店が賑やかに軒を並べています。もともとこのあたり,かなり怪しい雰囲気だったのですが,今や,若い女性がそんなことも知らず歩きまわっています。
 しかし,さらに南に,国道43号を渡って「動物園前1番街」のアーケード街あたりまで行くと,その怪しさが未だ健在です。日雇い労働者が多く住む西成や,さらには,飛田新地という知る人ぞ知るディープなゾーンがあって,ジャンジャン横丁なんて,本来は,その花街に向かう男たちの飲み屋街だったところです。
 今でも,夜になると,シャッターの降りた商店街のアーケードの下で野宿している人もいるし,決して安くもないのに日銭を使って酒を煽りながらカラオケに興じている人もいます。そして,新地では,必死に笑顔を見せて客を寄せている若い女性が座っていて,それを目当ての男たちが歩いています。

 こういうのを見ると,日本は,表面上は先進国を気取りながらも,その実際は毎日を必死に生活している人が住む発展途上国だと,私は思います。そして,行政もそういう公然たる事実を知っているのに知らないふりをして振る舞っている不思議な国です。
 本当に,人が生きるというのは,いろんな意味で,並大抵のことではありません。

DSC_7878 DSC_7879 DSC_7881 DSC_7883 DSC_7942 DSC_7927

 今日の1番目から4番目はの写真は,私が見に行った17日の前日,16日のものです。
 私は,16日の朝自宅を出て,京都市美術館でモネ展を見て,石清水八幡宮へ行ってから,大阪に来ました。
 これらの写真は,ホテルに行く途中で立ち寄った大阪府立体育会館の前で写したものです。

 時刻は3時過ぎで,体育館の前は,力士の場所入りを見ようと大勢の人で溢れていました。
 もうこの時刻は,ほとんどの力士は到着してしまっているはずなので,どうしてかな,と思ったのですが,あとでわかったことは,3番目の写真のように横綱白鵬が来るのがすごく遅くて,十両の取り組みが3分の2も終わったころにやっと到着したので,それまで,このように,規制ができていたというわけでした。
 近年は,ファンサービスで,力士が体育館に入るのは玄関と決められているらしいので,ここで待っていればすべての力士を見ることができます。帰りはめいめいで,裏口から帰ってしまう力士もいるということですが,それでも玄関で帰りを待っていると,気軽に写真を写したり,サインをもらえたりするので,それを待ち構えているファンもいます。
 また,出番を終えた力士が,写真のように集まって話をしている様子は,まるで,下校時刻に校門にたむろしている学生と変わりありません。
 こうした姿を見ていると,力士の人柄がよくわかります。テレビで相撲を取っているのを見ていてもわからない好印象を抱く力士も大勢います。また,その反対の場合もあります。

 玉垣親方(現役名・智ノ花)が出てきました。高校の教師から相撲界に入った異色の力士でした。ファンの一人がサインを頼むと,俺は現役でないという照れ臭そうな表情だったのですが嬉しそうでした。
 力士も,こうして親方になって相撲界に残れるのなら定年まで食うのに困るわけでないからいい商売なのでしょうか? 特に近頃は,外国籍の力士が多く,彼らは親方になれないので,日本国籍の力士が親方になるのも少しは間口が広そうです。
 人の生き方にルールはありませんからなんともいえませんが,安定という意味では,スポーツは割が合いません。超一流まで上り詰められればいいのですが,それは少数。だから,相撲に限らず,引退した後が大変だなあと,私はそんなことを考えてしまいます。

 私の近くにパンフレットを片手にサインを集めている人がいたのですが,彼の話では,お相撲さんは愛想がいいけど野球選手はダメだといっていました。
 私が思うに,日本のプロ野球選手は若いころから野球エリートだからそういう態度になるのでしょう。しかし,多くの選手は30歳を過ぎたら野球界に残れず第二の人生を歩むことになるから,そのときまでにいかによい人脈を築いておくかだと思うので,そんなことではだめだと思うのは,年寄りの冷水でしょうか。
 今,日本のプロ野球をスキャンダルが覆っていますが,数年前の相撲界も同様で,こうした閉鎖社会で何かよからぬことが万延したときに,それに染まらず生きるというのも,また,難しいものでしょう。それは別にスポーツ界だけのこととは限りません。
 人が生きるのはどんな社会でも自己がきちんとしていないと大変なものです。

 ここで,少し余談です。
 ここまで書いてきて私が思い出した別の話は,携帯電話が世の中に出てきたころのことです。
 当時,携帯電話を持っていたのはマスコミ関係者くらいのものでしたが,そのマナーの悪かったこと。お相撲をやっている体育館の館内には,ひっきりなしに電話がかかってその呼び出し音だらけでした。
 そしてまた,タバコも同様でした。館内で喫煙が許されていた頃,マス席全体は完全に煙っていて,もうもうとした煙の中で相撲を取っているようなものでした。私は,マス席など絶対座りたくないと思っていました。イス席は禁煙でしたが,そんなことお構いなしの,これもまたマスコミ関係者が喫煙をしていて,それを注意した外国人と険悪になったりしていました。
 そんな話は,どこにも書かれていませんが,事実です。そして,これがこの国の実態でした。その頃に比べたら,今はずいぶんとマシです。

 それはそうと,ここ大阪府立体育会館の素晴らしいのは,5番目の写真にあるように,全ての座席に立派な座布団が用意されていることです。名古屋や九州にはありません。すでに書きましたが,九州は,マス席さえ座布団がありません。それで1日楽しめというのはかなり無理があります。
 さらに,大阪には車イスの人が楽しむための観戦スペースもあります。名古屋や九州など,エレベータさえありません。
 また,名古屋にもありますが,当然,大阪にもレストランがあります。私は,昨年,このレストランで,今は亡き北の湖理事長と偶然遭遇して,ツーショットを写すことができました。
 大阪は,朝から体育館に行っても,退屈することなく,終日楽しむことができるところがたくさんあります。
 しかし,最大の難点は,階段が非常にわかりにくいことです。設計が凝りすぎで,登ったり降りたり曲がったりと,一度行ったくらいでは把握できません。何か災害でもあれば,悲惨なことになってしまうでしょう。

DSC_8038

IMG_0731IMG_0746DSC_7913 DSC_7921 DSC_7936

 今年も春場所がやって来ました。
 昨年抽選が当たって初めて春場所を見たとき「大相撲を見るなら大阪に限る」と,それ以来ずっと心待ちにしていました。昨年は千秋楽を大阪でも九州でも見たので,今回は3月17日の5日目にしました。
 それにしてもすごい人気で,前売りチケットは全て完売,1番めの写真のような掲示がありました。
 残った当日券を手に入れるために,午前8時前にはすでに2番目の写真のように長蛇の列ができていました。前売りの列はすでに100メートルを超えていて体育館の外周を取り巻いていましたが,そんなに並んだって買えるわけがありません。並んでいる人の多くが外国人で,ネットには平日なら買えると書いてあったのに… と言っていました。
 開場は8時30分なのに,今度は,チケットを手に入れた人が,開場を待って,これもまた,長蛇の列を作っていました。

 大相撲は,入門するとまず,前相撲というのを取ります。そして,晴れて入門が許されると,翌場所から番付の序ノ口に名前が載ります。
 前相撲は通常は3日目から行われるのですが,入門者の多いこの春場所は2日目からで,5日目までに2勝したものが一番出世,8日目までで2番出世,それ以降が3番出世,たとえ1番も勝てなくとも出世することができます。
 この前相撲は取り組み前に非公開で行われていて,家族の人だけが見るのを許されているのですが,そうした許された家族の人が8時15分から入れるということで,これもまた別の列を作っていました。
 私は,8時30分の開場と同時に中に入りました。
 前相撲といっても,春場所は人数が多く,今場所は確か48人もいるそうです。
 人数が多いので,私が中に入ったときには,まだ前相撲が終わっていなくて,3番目の写真のように,家族でもないのに,念願の前相撲も見ることができました。

 4番目の写真の「舛ノ山」を覚えておいででしょうか? 取り組みが終わったあとで,息もできないくらい苦しそうにしていた力士です。
 開始早々からすごい観客だったのですが,そんな観客が,彼の登場で大いに沸きました。なんとケガで長期の休場をして序二段まで陥落,朝の10時前には登場してきたのです。
 相撲自体は全く格が違うという感じでしたが,ここから,また,這い上がらなくてはなりません。
 下がるのは早くても,上がるのは大変です。

 17日は5日目ということで,三段目の取り組みの途中に,前相撲ですでに2勝を上げた力士の卵たちが「一番出世」の披露をしました。それが5番目の写真です。
 口上を読みあげる行司さんもまた入門したてで,全てが初々しく胸を打つものがあり,素晴らしかったのですが,その後の苦労を考えると,私は,これからが大変だなあ,とも思ってしまいました。
 相撲社会に限らず,生きていくのは簡単なことではありませんが,私は,こういう世界を見ると,そうした人生の縮図を見ているようにように思えて,何か,楽しみを通り越してしまいます。特に,大阪という場所がそれをさらに助長するのですが,そのわけは,また,いずれ書くことになると思います。
 やがて,だんたんと取り組みも上位になって,私が大相撲キャラクターの「ひよの山」とツーショットを撮ったりしているうちに,館内は異様な熱気に包まれてきました。

DSC_4811DSC_4871DSC_4908DSC_4922DSC_4955

 席に着いたら,隣に,キヤノンの一眼レフに200~400ミリのズームレンズで写真を写していた男の人がいました。私は,大阪は見やすくていいですね,と言ったら,でも座席がせまいでしょう? と言われました。いや,全く狭くないのです。名古屋の方がうんとひどい。大阪はイス席にもすべて座布団がついているけれど,名古屋は駅のイスみたいで,あんなところに何時間も座っているとお尻が痛くなるのです。ちなみに,東京は,イス席でもランクによって大きさが違いますし,いちばんうしろなんて,ものすごく遠いです。当然,イスはクッションがついています。

 お相撲自体は,テレビで放映されましたから,ここでは省略します。ともかく,ものすごい盛り上がりでした。特に,地元出身の勢関はすごい人気でした。豪栄道関は気の毒で,観客は優勝決定戦が見たいから,この日だけは照の富士の声援ばかりでした。そして,横綱対決は,一番声援のあったのが,「庄之助」でした。
 37代木村庄之助は,この場所9日目に定年の満65歳を迎え,本来ならば前日の中日が最後の捌きでしたが規定の改正により千秋楽をもって停年により引退となったので,この日が最後,終了後,花道で花束が贈られていました。

 取組後の表彰式,これを最後まで見るのが今回の目的でした。
 ものすごい数の表彰があって,最後が「吉本興業賞」。そこで土俵に登場したのが,アホの坂田こと,坂田利夫師匠。吉本興業阪本部所属のお笑い芸人です。芸名は将棋棋士の阪田三吉に由来しますが,将棋は苦手なのだそうです。
 そのころには観客のほとんどは,帰ってしまったか,優勝パレードを見に行ってしまって,残り少ない人たちが「アホ」と声援を送っていました。まあ,なんと大阪らしいというか,素敵ですね。
 そのあと,三賞の授与式があって,最後が,「出世力士手打式」に続いて「神送りの儀式」です。

 「出世力士手打式」,出世力士,つまり今場所で入門した力士が登場して,観客も起立します。
 まず,出世披露を受けた力士にお神酒を振舞われ,若者頭,世話人らとともに三本締めを行います。そして,「神送りの儀式」となります。この儀式は,初日前日の土俵祭に対応するもので,土俵祭によって神が宿り結界となった土俵を,この儀式によって結界を解きふつうの場所にもどす意味合いがあります。
 テレビで最後まで放送していたころは,勝負審判が胴上げされていたのを私は見ていました。その後,それを嫌がった某審判が行司に変更すると提案して,現在では行司が胴上げされている… というのは知っていたのですが,それを実際に見にいったというわけでした。
 大阪場所は出世力士が多いので,この儀式が華やかなのです。

 そして,すべてが終了したのち,呼び出しが,土俵祭りで土俵の中央にお供えして埋められた日本酒,米,塩を取り出し,大屋根が降ろされて,大屋根に取りつけられた房と水引が取り外されて,終了という段取りになりました。
 千秋楽のチケットを幸運にも手に入れられた方は,ぜひ,ここまでご覧ください。隣で見ていた写真を写していた人も,こういう儀式があることを知らず,最後まで見るといいと話しておいたので,その時間までいて感動していました。こうした儀式を見ると,お相撲がスポーツではなく神事であるということが実感されることと思います。
 これが日本という国のひとつの文化です。

DSC_4201 DSC_4204 DSC_4306 DSC_4484DSC_4568

 大相撲,東京と名古屋はよく見にいくのですが,大阪にははじめて行きました。
 大阪場所ならではのよさは,3月,新しく相撲界に入った力士が多く,前相撲をたくさん見ることができることです。しかし,千秋楽には前相撲はありません。だから,千秋楽のチケットが買えなかったら,前相撲のある3日目あたりに行こうと思っていました。
 私がわざわざ見にいきたいのは,テレビではやらない,足を運ばなければ見ることができないことを見るためなのです。

 はじめに結論を言うと,大阪場所,最高でした。九州に行ったことはないのですべての比較はできませんが,名古屋とは比較にならず,東京よりも楽しめます。すっかり気に入った私は,今後は大阪場所に行くことに決めました。
 近鉄の難波駅から会場の「ボディーメーカーコロシアム(大阪府立体育館)」に歩きましたが,道路のところどころに会場までの経路が表示してあって,しかも,お相撲さんが歩いていたので,あとを追いて徒歩で約10分,問題なく会場まで行くことができました。
 千秋楽は,10時過ぎと取組開始が遅いのですが,到着した9時半頃には,すでに場内に入ることができました。とりあえず,自分の座席(イス席)まで案内してもらいました。会場は名古屋より狭く,というかイス席が土俵に近くて見やすく,内装はずっと豪華でした。電光掲示板の豪華さも,名古屋と比較になりません。開始前なのに,すでにけっこうなお客さんがいました。開始前の場内は,相撲甚句が流れています。とりあえず,体育館内を一周してみました。インタビュールームやら,行事部屋やらが通路に面していて,お客さんの歩くところと力士や行司さんや呼び出しさんの歩くところが同じなのにびっくりしました。

 やがて取組開始。まだ席がたくさん空いているので,正面のイス席に行って,写真を写していると,「おおさかのおばちゃん」がいて,いろいろと教えてくれました。端的に言うと,大阪はお相撲さんを身近にみることができる場所がたくさんあるということでした。近くに座っていた女性の方ともたくさんお話ができ,いろいろと案内をしていただき,楽しく観戦することが出来ました。この場でお礼を申し上げます。
 十両の土俵入りの前後に,幕内力士が場所入りするけれど,入口は一般のお客さんと同じところだから,一度だけ可能な再入場制度を利用して,外でお相撲さんの場所入りを見たらいい,と言われました。その後は,館内に戻り,花道と支度部屋に続く通路で待っていると,身近にお相撲さんが通るから東か西を決めてそれを見るといいということでした。今日は,東方に注目力士がたくさんいるから,私は東方の支度部屋の前に行くことにしました。

 しばらくお相撲を見て,お昼を食べに地下にある食堂に行きました。なかに入ると,北の湖理事長がみえました。近くに席が空いていたので,そこに座って恐る恐る写真をお願いすると快諾していただけたので,ツーショットを写しました。食後は,会場のロビーで引退されたばかりの豊真将さんが買った手ぬぐいにサインをしていただけるということだったので,手ぬぐいを購入して,サインと写真をお願いしましました。会場にはほかにも,いろんなイベントをやっていました。
 そのあとは,教えてもらった通りに,一旦外に出て,力士の場所入りを見ました。力士ではないけれど,サンコンさんも歩いてきました。待っているとほとんどの力士を本当に目の前で身近にみることができました。近くで見るとデカイですねえ。やがて最後に来るという白鵬が入ったので,私も館内に戻り,今度は通路で力士の出を待ちました。
 ちょうど桝ノ山が帰るところで「頑張れ」と声をかけたら「ハイ」と返事がありました。この日は千秋楽なので,協会ご挨拶で土俵に向かう理事長と三役力士を見て,その後,土俵入りの力士をすべて目の前で見ることができました。それから自分の座席に初めて行って,横綱の土俵入りからは,いよいよお相撲の観戦です。館内は満員,すごい熱気でした。

DSC_4232DSC_4235DSC_4493DSC_4596

 相撲人気復活だそうです。私も,大相撲の「千秋楽」をナマで見たくなって,初めて大阪場所に足を運びました。
 気楽にチケットを買おうと思ったのですが,なんと,抽選! そして,めでたく当選したというわけでした。
 昔は,といっても,本当に遙か昔は,千秋楽のテレビの大相撲中継は最後の最後まで中継をしていて,「神送りの儀式」-そんな儀式があるのも多くの人はご存じないでしょう!- まで見ることができたのですが,今は,それを見る機会もなくなってしまいました。また,ついぞ「千秋楽」の大相撲を40年以上ナマで見ていなかったので,何とかみたいものだと思い,チケットを購入することにしたのです。

 観戦記は次回書くことにして,きょうは昔話です…。
  ・・・・・・
 私は,かれこれ半世紀,お相撲を見てきました。そのはじめは「栃若」でした。
 「栃若」といっても,栃錦を見た記憶はないのですが,若乃花は,枡席で見た明確な記憶があります。不思議なものです。そうそう,親方だったころの双葉山や千代の山も生で見たことがあります!
 そのあとの「柏鵬」 -白鵬ではありません- は,とてもよく覚えています。私が初めてファンになったのが柏戸です。柏戸という横綱は,勝っても負けて土俵から落ちていくのでケガが多く,見ていていつもハラハラしました。相手がだれてあっても常に負ける可能性があって,安心してみていられない,今の稀勢の里のようなものでした。子供心に,柏戸の取組が始まると心臓がいつもドキドキするので,自分の体が壊れたかと思っていました。
 柏戸の晩年から引退後のしばらくの間は,つまらない(といわれた)大鵬の一人舞台で,相撲人気は衰えていましたが,「北玉」つまり北の富士と玉の海が横綱となったあたりは,また,活況を呈し,私には最も面白い時代でした。中でも北の富士はかっこよく,しかし,腰高でもろく,玉の海急死の後の一人横綱を背負って立つにはあまりにその責任が重すぎました。
 その次の「輪湖」,つまり,輪島と北の湖の時代は玄人受けしても,相撲はワンパターンで水入りばかりでした。
 そして,訪れたのが,千代の富士です。
 千代の富士は強いのだけれど,体の小ささからもろく負けることがあったので,逆に人気があって,私は,強いというものがいつも嫌いなのだけれど,唯一,千代の富士だけは例外でした。千代の富士は,その入門以来とてもよく知っていたのですが,あの小さな青年がまさか大横綱になるとは当時は思いもしませんでした。
 そして,そのあとの貴乃花の頃からの相撲にはさほど興味がなく,現在に至っているのです。
  ・・・・・・

 誰も思ってはいても口に出さないけれど,現在の大相撲は「あの」大横綱がいなければ,毎場所誰が優勝するかわからないから,もっと,優勝争いに興味がわくのでしょうが,どうやら,現在の相撲人気は,誰が優勝するかというようなことは,どうでもよくなっているのだと思います。その意味では,これまでとは全く異質の相撲人気だと言えるでしょう。実際に見に行くと,お客さんの目が肥えていて,面白い相撲でなければ,そっぽを向きます。
 私は,ずっと,相撲を見に行くのなら,はじめから見るべきだと思っています。だから,相撲を見に行くときは,朝の9時前には出かけます。このことは,MLBを見に行くときも同じですが,実際に見に行くというのは,その全体の雰囲気を味わうためなので,勝負の結果は,結局のところ,たいした意味を持っていないかもしれません。
 それより熱戦が期待です。

このページのトップヘ