しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ: 古を懐かしむ

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【Sumaary】
Akita Prefecture may seem to have little to offer, but it hides many hidden gems. Among them, Lake Tazawa stands out for its stunning deep blue surface and serene beauty in all seasons. The lake is Japan’s deepest, with a depth of 423.4 meters. The area also offers notable hot springs, including Nyuto Onsen, providing relaxing stays with scenic mountain views.

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 何もない,といわれる秋田県ですが,この県には隠れたすばらしさがあります。さすがに角館はインバウンドも見られますが,それ以外のところは,観光客も少なく,自然も多いのです。私が特に気に入ったのは,田沢湖周辺でした。田沢湖は
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 田沢湖は水深423.4メートルを誇る,日本で1番深い湖です。
 田沢湖の見どころは,なんといっても息を飲むほど美しい瑠璃色の湖面です。 夏には周辺の木々の緑とキラキラ光る湖面の調和がすばらしく,冬には白銀の世界の中,風に揺られて静かに波うつ湖が神秘的な景色を見せてくれます。
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 というように,神秘的な風景を楽しむことができます。
 また,田沢湖には,クニマスが生息していましたが,1940年(昭和15年)に灌漑と水力発電のため田沢湖に入れられた玉川の水が酸性であったために絶滅してしまったそうです。

 田沢湖の周辺には,乳頭温泉をはじめとして,旅情を差そう温泉があります。温泉のある高台からは,天気がよければ,山形県との県境にある烏帽子岳を見ることができます。
 まだ行ったことがないのですが,山形県との県境に近いところには,隠れた名湯が多くあって,落ち着いた時間が過ごせるということなので,機会があれば,一度行ってみたいものです。

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【Summary】
Kakunodate, known for its samurai residences, preserves its Edo-period streetscape. The Ishiguro and Aoyagi families played key roles in local history. The Ishiguro family served the Satake clan, contributing to education and town leadership. Aoyagi House, the oldest in Kakunodate, displays historical artifacts. Notably, Odano Naotake’s Akita Ranga art, influenced by Western techniques, left a lasting impact on Japanese painting.

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 武家屋敷で知られる角館は,1620年に芦名義勝が古城山の南麓に町を造ったことがはじまりといわれますが,今もなお江戸時代から変わらぬ町なみを残しています。
 武家屋敷の中には公開されているところがいくつかあります。そのなかで,私が訪れたのは石黒家と青柳家でした。

  石黒家は佐竹北家の佐竹義隣に召抱えられた石黒勘左衛門直起を初代とし,財政を担当する用人として佐竹北家に仕えました。8代石黒直信は,幕末から明治初めにかけて家塾「紅翠亭」を開き学問の普及に尽力した人物で,9代石黒直幹は晩年には角館町長を務め,10代石黒直豊は角館図書館の初代館長を務めました。 さらに,12代石黒直次は最後の角館町長を務め,合併後は仙北市の初代市長となりました。現在もこの武家屋敷に子孫が暮らしているそうです。
 また,格式高い薬医門で知られる青柳家は,角館に現存する武家屋敷のなかで最古の建物で,茅葺きの母屋の座敷に入って建物を主体に内部を見学できました。 四季折々の草花あふれる3,000坪の敷地内には,母屋,武器庫,解体新書記念館,秋田郷土館,武家道具館,アンティークギャラリー喫茶・ハイカラ館,幕末写真館,時代体験庵などがありました。
 私が特に興味をもったのは,青柳家と姻戚関係である小田野直武が描いた「解体新書」の挿絵でしたした。西洋の陰影法を取り入れ,後の洋画界に大きな影響を与えた秋田蘭画は,小田野直武と秋田藩主・佐竹義敦によって完成されたということです。

 このように,この国の江戸時代というのは,想像以上に人々の文化的水準と知性が高く,地方まで,そうした教養が行き届いていたことに驚かされます。

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【Summary】
In July 2024, I traveled along the Tsugaru and Shimokita peninsulas, focusing on Cape Tappi. Despite passing through areas like Minmaya, Takanozaki, and Kanita without fully exploring them, I found them charming. I hope to revisit these places, including Minmaya’s Yoshitsune Temple, Okutsugaru-Imabetsu Station, and the Tairadate Furofushi Onsen.

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 青森県に2024年7月4日から7月7日まで行ったときは,津軽半島と下北半島を海岸沿いに時計回りに走りました。とりあえずの目的地は龍飛崎でしたが,その後,どのくらいの時間で行くことができるかわからなかったので,見どころがあっても,通過してしまった場所もありました。それと同時に,新たに,魅力的なところをたくさん知りました。
 そんなわけで,今日取り上げる津軽半島の東側のほとんどは,単なる通過点になってしまいました。それでも,三厩,高野崎,蟹田と通りましたが,どこも素朴で,私には郷愁ただよういいところでした。

 ということで,このときは通過してしまったのですが,この場所は,また,行きたいと思うところが少なからずあります。
 まず,三厩には義経寺があります。ここまで源義経が逃げ延びたという伝説があるのですが,その真実はともかく,ここから蝦夷の地にわたるには,津軽海峡が横たわっているというのが衝撃的に思えます。
 次に,北海道新幹線の奥津軽いまべつ駅があります。どうしてこんなところに新幹線の駅が? とよく話題になるのですが,私が見たいのは,新幹線ではなく,ここから在来線の貨物列車が青函トンネルを通るために新幹線軌道を走っていく姿です。
 さらに,平舘不老不死温泉に泊まってみたいということです。

 蟹田駅を過ぎると,急に家が増えて,津軽半島の郷愁がなくなってしまうのですが,それ以外のところは,私にとって,まさに理想的な「旅」という目的にかなうところです。また,機会があれば,ゆっくりと訪れてみたいです。

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【Summary】
The Tsugaru Railway runs from Goshogawara City to Tsugaru-Nakasato in central Tsugaru Peninsula. Unlike the often-closed JR Tsugaru Line, it rarely stops service and features a famous stove train in winter. In March 2024, I visited during an unusually mild winter, but still enjoyed the snowy scenery. Along the route are notable spots, including Goshogawara, the "Shayokan" (Osamu Dazai's childhood home) in Kanagi, and Ashino Park. The area is rich in Tsugaru culture, making it worth revisiting.

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 津軽半島の中央部を,五所川原市から津軽中里まで走るのが津軽鉄道です。
 知っている人には当然ですが,私は,行くまで,津軽鉄道とJR津軽線の区別がわかりませんでした。JR津軽線は,青森駅から津軽半島の東岸を北に蟹田駅まで行き,そこから北西の山の中を三厩駅までつないていて,津軽鉄道とは別のものです。そして,現在,蟹田駅から三厩駅までは,豪雨の影響で不通になっていて,代行バスが走っています。そこで,津軽鉄道とJR津軽線を混同して,津軽鉄道が不通になっていると誤解してしまいます。
 地元の人に聞くと,JR津軽線は「すぐ止まる」けれど,津軽鉄道は「止まらない」といいます。そういう認識のようです。そして,津軽鉄道には,冬の間,有名なストーブ列車が走ります。
 私は,このストーブ列車に乗りたいとずっと思っていたのですが,冬の青森県なんぞ,大雪で行くのも大変だしなあ,と躊躇していました。しかし,ストーブ列車が3月末まで走っていることを知って,さすが3月ならいくら何でも大丈夫だろうと,昨年2024年の3月に行ってみたのでした。この年は暖冬で,私の行った3月は雪があったのですが,2月でも雪がない日があったということでした。今年2025年とはえらい違いです。いくら雪が大変とはいえ,雪原を走る津軽鉄道に乗りたくて行ったのに,雪がない,というものまた,困った話だったようです。

 津軽鉄道は,ストーブ列車だけでなく,沿線にも見どころが多くあります。
 まずは,五所川原市です。この町はいかにも津軽,という感じのする味わい深いところです。そして,太宰治が生まれ育った,現在は「斜陽館」として公開されている建物が,金木という町にあります。そこを北に行くと,芦野公園があって,太宰治の銅像があります。この辺りが,津軽三味線発祥の地でもあります。
 また,終着の津軽中里駅周辺も,いかにも雪国,とった風情のあるところです。
 また行ってみたいものだと思います。スクリーンショット 2025-01-12 191935b


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【Summary】
Over the past two years, I traveled to Aomori four times and became fascinated by its charm, especially the Tsugaru Peninsula. I visited iconic places like Tsurunomai Bridge, Kodomari, and Cape Tappi. Though I covered many spots, I later learned about Takayama Inari Shrine, known for its red torii gates, and hope to see it in a snowy landscape someday.

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 ここ2年ほどの間,2023年5月18日から5月20日まで,2024年3月6日から3月8日まで,2024年4月15日から4月16日まで,そして,2024年7月4日から7月7日までと4度も青森県を旅行しました。はじめのうちは,何があるのだろう,と思っていたのですが,行けば行くほど,その魅力にはまってしまいました。
 どこもおもしろいところなのですが,その中でも,私は,津軽半島に多くの興味がわきました。そこで,今日は,津軽半島の西側について書きます。
 
 まずは,鶴の舞橋です。ここは,日本一長い三連太鼓橋としてゆうめいなところです。遠くには岩木山も見ることができて,とても美しいところです。
 さらに北に行き,十三湖を過ぎると,太宰治の小説「津軽」にゆかりのある小泊に着きます。ここには小説「津軽」の像記念館があります。小さな素朴な町ですが,なかなかよいところです。
 そして,津軽半島の最北端,龍飛崎に至ります。龍飛崎は断崖となっていて,高台にある展望台からは,西は日本海,北は津軽海峡,東は陸奥湾という雄大な風景を見ることができます。

 このように,念願だった場所にはすべて行くことができたのですが,実は,あとで,高山稲荷神社というところがあるのを知りました。ここは,朱色の千本鳥居という美しい風景を見ることができるのです。できれば,いつか,雪景色の姿を見てみたいものです。

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Wolf Moon 2025.

早朝の火星と1月の満月「ウルフムーン」。
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【Summary】
In May 2023, I visited Aomori for the first time, exploring Oirase Gorge and Lake Towada. The calm atmosphere and few tourists left a great impression on me. Although Lake Towada attracts many group tours, it feels less crowded now. The balance between nature and tourism remains well-maintained.

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 私がはじめて青森県を時間をとって旅したのが2023年5月だったことを考えると,あれからまだ2年も経っていないのが不思議な気がします。そのころぜひ行ってみたかったのが十和田湖であり,奥入瀬渓谷でした。そして,そのときの印象がとてもよくて,私は青森県が大好きになりました。
 私が訪れたのは5月だったのですが,秋に出かけていたら,さぞかしすごい人混みだったことでしょうし,そうであれば,また,印象は異なっていたかもしれません。初夏の奥入瀬渓谷は,それほど人もおらず,落ち着いた時間をすごすことができました。

 また,奥入瀬渓谷を走っていくと,十和田湖に行きつきます。
 十和田湖は,まず,周辺を1周して,それから船に乗りました。さすがに有名な観光地なので,団体観光客が多く乗船していました。とはいえ,さびれ感も感じられるところでした。やはり,以前よりは団体観光客も少なくなっているようです。
 十和田湖に限らず,以前に行われていた団体旅行のための観光施設から脱却して,個人や小グループ向けの観光地に脱却できるかどうかが,今のその地の状況に結びついているように思います。
 とはいえ,アニメなどで脚光を浴びて,その結果,インバウンドであふれるという状況は,まったく望ましいものではありません。また,リゾートと名を打って,やたらと豪華な観光地になってしまったら,素朴さを求める観光客は敬遠してしまいます。
 今の十和田湖や奥入瀬渓谷は,それがいい感じで調和されているように,私には思えました。

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【Summary】
In 2024-2025, Aomori faced severe winter snow, unlike the previous mild year when I visited Tsugaru Railway and Furofushi Onsen. Aomori’s greatest charm lies in its many unique, relaxing hot springs, such as Sukayu Onsen, Furofushi Onsen, and Lamp Inn Aoni Onsen, making it a fascinating destination.

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 2024年の夏は猛暑でしたが,一転して,2024年から2025年の冬は近年になく寒く,青森県は雪害がひどいようです。私は,昨年の3月に津軽鉄道に乗り,「黄金崎不老ふ死温泉」に行ったのですが,ほとんど雪もなかったのですが,今年なら,行くこともたいへんだったにちがいありません。
 そんな青森県ですが,最大の魅力は,何といっても温泉です。これまでに私が行ったのは,「酸ヶ湯温泉」「黄金崎不老ふ死温泉」「ランプの宿青荷温泉」「東北温泉」です。また,龍飛崎の先端にある「龍飛崎温泉ホテル竜飛」もいいところでした。

 これ以外にも,名前をあげるなら,いくらでも出てくるのですが,私の理想とする,人が少なく,規模が小さく,くつろげるところ,となると,なかなか難しいもの。行ってみなければわからない,というところでしょうか。
 先にあげた酸ヶ湯温泉は,冬はものすごい積雪ですが,それでも,温泉に行くことは可能で,この季節がもっとも静かで魅力的だということなので,何とか,また,行ってみたいものだとひそかに思い続けています。
 また,ぜひ行ってみたいのが大鰐温泉です。ここにある「ヤマ二仙遊館」は
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 旅館業としての創業は明治5年,現在の建物は明治30年に建てられたもので,大鰐温泉で最も古い旅館。平川河畔に面した閑静な宿には,近隣に住む裕福な家から多くの湯治客がやってきたそうで,金木の津島家(太宰の生家)も訪れた宿です。
 そのほか,森鴎外の師としても知られる漢文学者の依田学海,南満州鉄道初代総裁の後藤新平,詩人大町桂月が宿泊した記録もあり,現存する宿帳には,小説家葛西善蔵の名が残されているなど,多くの文人に親しまれてきました。
 今も当時のままの部屋に宿泊する事が出来ます。
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とあります。

 このように,青森県は,行ったことがなかったころは,何があるところなのだろう? と思っていたのですが,実は,実は,なんとまあ,魅力的なところだったのでしょうか。

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【Summary】
When I was young, I traveled all over Hokkaido. Now, tourist spots are crowded, which discourages me from visiting. I especially liked the quiet Route 275 in northern Hokkaido and Shumarinai Lake, which reminds me of Northern Europe. Despite heavy snow in winter, auroras aren’t as visible as in Finland. I’d like to take the Soya Main Line from Asahikawa to Wakkanai someday, but I wonder if I'll ever have the chance. Also, bears might appear.

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 若いころ,北海道は津々浦々,ほとんどのところに行きました。今は,どこも,観光地というところはどこもすごい人混みらしく,それを聞くだけでも,私は,行く気が失せます。
 これまでに行った中で,私がいいなあ,と思ったのは,道北でした。特に,国道275号線。ここを走ると,本当に何もなく,それが魅力的です。朱鞠内湖という湖もあって,北欧を思い出させます。
 この冬はものすごい雪だそうですが,それでも,私がオーロラを見にいったフィンランドの北極園よりは緯度が低いので,かろうじて空が赤くなることはあっても,美しく満足のいくオーロラが見られないのが残念です。
 ここには,旭川駅から稚内駅まで宗谷本線が走っています。私は,まだ,乗ったことがありません。こうしたところをのんびり旅するのも,また,いいものだと思うのですが,そんな機会が果たして訪れるのでしょうか。
 いずれにしても,クマが出そう。

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【Summary】
In July 2020, during the pandemic, I visited Hokkaido to see the Neowise comet. While traveling from Rumoi to Wakkanai, I stopped by the roadside station "Sunflower Hokuryu" on Route 275, surrounded by beautiful blooming buckwheat fields. Though Hokkaido is now crowded with tourists, I wonder if this quiet, expansive area remains unchanged.

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 しばらくどこへも行く予定がないので,これまで行ったところから,思い出に残るところの写真を載せることにします。今日は,2020年7月に行った北海道からです。
 このごろは,北海道は,特に,函館,小樽,稚内,倶知安町など,インバウンドで混み合っている,と聞いています。また,北海道新幹線は,函館北斗駅までは開通していても,その先は工事が難航して,札幌駅までの延伸はいつになるのか定かではないようですし,在来線にもさまざまな問題が山積しているようです。
 そんなことを聞くと,もはや,私は行ってみたいという気持ちにはなりません。

 とはいえ,私は近ごろも北海道に行きました。
 行ったのは,コロナ禍真っ最中の2020年7月でしたが,これは,ネオワイズ彗星を見るのが目的でした。その昼間,宿泊していた留萌市から北の果て稚内市まで遠出をしたのですが,その時に走った国道275号線沿線にあったのが,道の駅「サンフラワー北竜」でした。
 あたりは一面そば畑でしたが,ちょうど白い花が咲いていて,それはすばらしい風景でした。日本にもこんな広々としたアメリカのような景色を見ることができるところがあるのだなあと,そのとき思いました。
 再び観光客が戻った北海道ですが,その場所は,今,どうなっているのでしょう。
 まだ,そのときのまま,人が少なく静かな平原地帯のままなら,また,その場所なら行ってみたいものだと,ときどき思い出します。

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 まず,2020年の秋に私が写した京都の姿をご覧ください。
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 今から30年ほど前の京都は,本当にすばらしいところでした。桜の季節,紅葉の季節はもちろんのこと,夏も,冬も,そして,とりわけ,ハイシーズンが来る少し前の10月の京都は,私が最も好きだった季節で,静寂に包まれて,おだやかな時間を過ごすことができました。
 それが何ということでしょう。
 2019年のころには,京都は,すでに,行くべき場所ではなくなりつつありました。インバウンドやらで,やたらと外国人が押し寄せるようになって,それまでの暗黙の秩序もなくなり,他人の家に土足で踏み込むようなマナーの悪さから,街中には注意書きが溢れていました。また,食事をしようにも,どの店も満員,交通機関も満員,そして,市内の繁華街はカオス状態と化していました。私の大好きだった京都はどこに行ってしまったの? と思いました。

 それが,天の恵みというか,天の裁きというか,2020年の春になると,外国人どころか日本人観光客すらまったくいない京都になりました。私は,こんなことはもう二度と起こらないから,今こそ,京都へ出かける千載一遇の機会が来た,と思って,春も秋も,毎週のように,車で京都へ出かけました。
 そこには,静寂に包まれたむかしの古都の姿がありました。
 そのとき私は,しばらくしたら,再び,2019年のころの京都が戻ってくるだろうから,もう,この街のこの静寂に包まれた姿は二度と来ないだろうと思って,別れを告げてきました。
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 そして,今年2023年の秋。
 はやり,聞くともなく聞こえてくるのは,大渋滞の京都です。しかも,そのほとんどは外国人で,日本人はどこに行ってしまったの? 状態だそうです,私の周囲の京都好きだった人たちも,もう行かない,と言っています。私も同様です。
 すでに書いたように,私は,今年の10月,別れたはずの京都に行きました。それは,将棋竜王戦第2局の前夜祭に出るためでした。それでも,10月ならまだ大丈夫だろう,というのが甘い考えでした。そこで見たのは,2019年の時と変わらぬ無秩序な京都の姿でした。そこで,このときも,前夜祭に行っただけで,京都見物をすることはありませんでした。

 いつも思い出すのは,今から30年ほど前に,毎週のように京都に出かけて,ほとんど全ての神社仏閣を訪ねたときのことです。
 あのころは,本当によかったな。あの京都はもう,どこにもない。それは,まるで,亡き人を懐かしむのと同じ気持ちです。
 そうだ京都,もう行くのよそう。よき思い出を忘れないために。

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 将棋名人戦は1937年(昭和12年)からはじまりましたが,初期のころは挑戦者を選ぶ方法が変則で現在のような順位戦ではありませんでした。将棋の第1期順位戦は1946年(昭和21年)からはじまり,そのときの将棋名人戦は第6期だったのでずれがありました。
 その後,第30期順位戦とそれに続く第35期将棋名人戦の終了後,主催新聞社の変更に伴うごたごたで1年間中断ののち,順位戦は第36期名人戦挑戦者決定リーグ戦と名称が変更されたことで,このずれが是正され,その6年後に再び順位戦と名称を戻したときにそのままにしたので,現在は,将棋名人戦と順位戦は同じ期として記述されています。
 と,ここまでは前置きで,今日の話題は,1971年(昭和46年)是正前の第26期順位戦でのふたつの対局です。

 私が中学生のころは,今とは違って,一般のファンが将棋の棋譜を見るためには新聞を購読するしか方法がありませんでした。このころは竜王戦はなく,将棋界では朝日新聞が単独で主催をしていた将棋名人戦こそが相撲でいう本場所でしたが,それを見るには,朝日新聞を読む必要があったのです。といっても,東海地方に住む私には,新聞といえば中日新聞で,朝日新聞を読む機会すらありませんでした。図書館で新聞が読めることも知りませんでした。
 そこで,将棋名人戦と順位戦を見たさに,父親を説得して,といっても,将棋が見たい,では説得できなかったので,あれやこれやと理由をつけて,やっと朝日新聞に変えてもらうのに成功したのが,1970年(昭和45年)の4月で,それは,奇しくも,ちょうど,時の大山康晴名人対升田幸三九段,升田式早石田戦法が話題となった最後の第30期将棋名人戦がはじまったときでした。
 そして,第30期将棋名人戦が終了してはじまったのが第26期順位戦。これが,私が順位戦なるものを新聞で読むことができたはじめてのものでした。

 そんなわけで,この期のA級順位戦はとても記憶に残っているのですが,その中でも,とりわけ,1971年(昭和46年)7月13日から朝日新聞に掲載された二上達也八段対中原誠八段の対局と,8月14日から朝日新聞に掲載された二上達也八段対塚田正夫九段の対局の2局が,変な意味で私には忘れられない将棋でした。ともに,対局者が羽生善治九段の師匠である二上達也八段というのは単なる偶然です。
 とはいえ,記憶があいまいで,今にして,当時の対局をきちんと知りたいと思っていたのですが,その棋譜を探しだすことも容易ではありませんでした。将棋年鑑にも載っていないし,雑誌にもない。だれかの自戦記にもない。ネット上にもない。当時の新聞の観戦記を読まないことには,これらの棋譜は埋もれてしまっているからです。そこで,先日,国立国会図書館に出かけて,当時の朝日新聞から発掘して,やっと確かめることがてきました。それを紹介します。
 52年前のA級順位戦でこのような将棋が指されていたなどということは,今の若い人はまったく知らないことでしょう。

●二上達也八段対中原誠八段
 まず,二上達也八段対中原誠八段の対局ですが,これは,角換りで,先手の二上達也八段が▲7八金としなくてはならないのに,それを忘れて不用意に▲4七銀としてしまったためにスキができて,次に△7五歩と突かれて,同歩と取れば△6五角が受からない。ということで,そのままずるずると押し切られれてしまった,というものです。
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●二上達也八段対塚田正夫九段
 もうひとつの,二上達也八段対塚田正夫九段の対局は,相横歩取りで▲7七銀とするのが定跡とされていたところ,後手の塚田正夫九段が,先手の二上達也八段に▲7七歩という「新手」をされてびっくりして,△7四飛,▲同飛,△同歩,▲8二歩,△同銀,▲5五角で完敗してしまった,というものです。
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 当時の将棋界は振り飛車しか指さなかった大山康晴名人がタイトルを独占していたので,一般の人が知ることができる対局のほとんどは対抗形でした。そこで,このような相居飛車の将棋が観戦記に載るのはとても新鮮でしたが,私がこの2局が強く印象に残っている理由は,あまりに不出来な将棋だったからにほかなりません。プロって,なんていい加減を将棋を指すのだろうか,しかも順位戦で。と生意気にも思いました。
 しかし,今,改めて,将棋AIでこの2局を並べてみると,先に書いたほど,この時点で形勢に差があったわけではなく,手はあるのです。これらの将棋をあまりに不出来と思ったのは,私が,観戦記に書かれたことを鵜呑みにしていただけだったのです。

 いずれにしても,今から50年以上も前に,今と変わらないような,こんな将棋が指されていたというのが驚きです。そしてまた,このところ,佐藤天彦九段や豊島将之九段,広瀬章人九段などが振り飛車を指しはじめたのも「いつか来た道」なのです。それは,要するに,相居飛車の将棋があまりに研究しつくされて,しかも,藤井聡太竜王名人に勝てなくて,飽きちゃった結果なのでしょう。
 これもまた,羽生善治九段の全盛期には定跡形の鬼のような存在だった佐藤康光九段が,その後,定跡形からはすっかり離れてしまったことと同じような現象ですし,大山康晴,升田幸三という巨匠が若いころは居飛車一辺倒だったものが振り飛車党に変わったのと同じです。
 まさに,将棋戦法の歴史は繰り返す,のだと私は思っています。

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 暑い夏です。これでは何もする気が起きません。外出する気にもなりません。いくら優雅な日々を送っているとはいえ,もっと過ごしやすい気候ならともかく,これでは,気力も体力もすっかりなくなってしまうので,日々,だらだらと過ごしているのです。若いころとは違って,そうしなければならないということもほとんどないので,そんなことを続けていると,ますます,何かをする意欲がなくなってきます。
 こんな状態を打破して,何かをしたい,という気持ちになるには,いったいどういった動機づけが必要なのだろう? などとぼんやり考えたりします。
 これまで,旅行をしたり,好きなことをする時間が最も多かったのは,いくら暑いとはいえ,何といってもこの時期だったので,ずいぶんといろいろな思い出がよみがえってきたりします。そこで,ふと思い出したのが,今から50年くらい前に流行っていた「スリーディグリーズ」(The Three Degrees)というアメリカの女性ボーカルグループでした。
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 「スリーディグリーズ」は,1963年にアメリカのフィラデルフィアで結成されました。私はまったく知らなかったのですが,メンバーはしばしば入れ替わり,これまで,延べ15人もの女性メンバーがいたということですが,今も現役! だそうです。「スリーディグリーズ」というのは,英語のことわざ「Man, woman, and devil, are the three degrees of comparison.」からきたもので,女性は悪魔の前段階,というような感じでしょうか。また,フィラデルフィアのソウルミュージックは,従来のソウルを都会的に洗練したもので,1970年代のディスコブームの先駆けでした。
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 私が知っているのは,1974年に発売されて,日本でも人気となった「天使のささやき」(When will I see you again)という曲で,このときのメンバーは,ファイエット・ピンクニー(Fayette Pinkney),ヴァレリー・ホリデイ(Valerie Holiday),そして,リードヴォーカルがシーラ・ファーガソン(Sheila Ferguson)でした。
 「天使のささやき」という日本名をつけ,来日したときは日本語の歌詞で歌った(歌わされた)というのが,いかにも当時の日本のダサさです。
 今,Youubeでそのときの映像を見ることができるのが幸運な話です。「天使のささやき」は
  ・・・・・・
  When will I see you again?
 When will we share precious moments?
 Will I have to wait forever?
 Will I have to suffer and cry the whole night through?
  ・・・・・・
からはじまりますが,曲のはじめの,青江三奈を連想するため息がすてきです。当時の私は子供だったので,単にいい曲だなあ,と思っていただけだったのですが,歌詞の意味のわかる今となっては,もっといろいろなことが感じられるのが,50年という年月なのでしょう。
 ということで,この曲を聴いていたら,当時の自分の気持ちがよみがえってきました。そして,また,アメリカに行ってみたいなあ,とか,そういった当時の夢が湧いてきました。何事も,意欲というのは,こうしたたわいもないことから生まれてくるものなのですなあ。


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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 やっと秋らしくなってきました。とはいえ,相変らず晴れ上がることもなく,次々に台風がやってきます。満足に星を見たのはいつのことでしょうか? 今のこの国の姿のようです。
 さて,日本の秋といえば紅葉ですが,紅葉は晩秋のことで,早秋はコスモスとヒガンバナと,そして,トンボです。しかし,トンボを見ることも少なくなってしまいました。
 トンボといえば,日本を「秋津洲」といいます。「秋津洲」とはトンボのことです。私は,このような季節に奈良,特に,飛鳥地方のようなところを散策することが昔から好きでした。そして,古に想いを馳せるのです。現実逃避です。
  ・・・・・・
 山常庭 村山有等
 取與呂布 天乃香具山 騰立
 國見乎為者
 國原波 煙立龍
 海原波 加萬目立多都
 怜憾國曽
 蜻嶋 八間跡能國者
  ・
 やまとには むらやまあれど
 とりよろふ 天の香具山 登り立ち
 国見をすれば
 国原は けぶり立つ立つ
 海原は かまめ立つ立つ
 うまし国そ
 あきづしま 大和の国は
  ・
 大和にはたくさんの山々があって
 中でも立派に足り整っている天の香具山に登って
 国の中を見渡すと
 国の広い所には煙があちらこちらに立っている
 池には水鳥があちこち飛び立っている
 美しくてよい国
 この秋津洲大和の国は
   「万葉集」巻1・2 舒明天皇
  ・・・・・・

 「秋津洲大和の国は」というのは,日本はトンボの国だと詠っているわけですが,これにはいわれがあります。
  ・・・・・・
 卅有一年夏四月乙酉朔 皇輿巡幸
 因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰
 妍哉乎 國之獲矣
 妍哉 此云鞅奈珥夜
 雖内木錦之眞迮國 猶如蜻蛉之臀呫焉
 由是 始有秋津洲之號也
  ・
 神武天皇は即位して31年4月国内を見て回りました
 腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)に登り国を見渡して言いました
 妍哉(あなにや)国を獲つること(なんと素晴らしい国を獲たことか)
 内木綿(うつゆふ)の真迮(まさ)き国といえども(狭い国ではあるが)
 なお蜻蛉(あきつ=とんぼ)の臀占(となめ=交尾)せる如くあるかな
 これが日本の国号を「秋津洲(あきつしま)」といういわれです
   「日本書記」巻3
  ・・・・・・
 つまり,神武天皇は,日本はトンボが交尾をする姿に似ていると言った,というわけです。

 腋上の嗛間丘というのは,奈良県御所市にある標高229メートルの国見山で,この国見山での出来事が日本書紀における神武天皇の最後の業績記載ということだそうです。日本書紀によると,初代神武天皇は,辛酉(かのととり)の年,紀元前660年に即位し,76年後の紀元前585年に127歳で没していますが,これは作り話。この辛酉にあたる年には大変革が起こるという「辛酉革命説」が,紀元前660年2月11日に神武天皇が即位したという根拠となっているのです。日本書紀の年代は,数式を用いて復元すると中国史書の倭国に関する記録ときちんと対応するといいます。
 どこの国にもこうした「神話」があって,その土地に住む人の矜持となっている,というか,されているわけですが,島国日本もまた,昔から,海の西にある大国に恐れおののきながら,こうした矜持をもとに国を作っていったのです。そして,それは今も相変わらずです。
 それはそうとして,めっきり早くなった秋の夕暮れどきに,飛鳥地方にある小高い丘に登って「国見」をしながら,古に想いをめぐらすのもまた,秋の楽しみのひとつです。


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 朝日新聞の朝刊に連載していた多和田葉子の小説「白鶴亮翅」がよくわからないまま終わり,今村翔吾さんの小説「人よ,花よ,」がはじまりました。
  ・・・・・・
 「人よ,花よ,」は南北朝時代の武将・楠木正成の長男・楠木正行を主人公に,若者たちの生き様を描く歴史小説です。
 湊川の戦いで討ち死にした楠木正成と,四條畷の戦いに挑んだ楠木正行は,ともに大軍を相手に最期を迎えました。「楠木正成は自分の意思で戦に身を投じたけれど,楠木正行は幼いときから戦の渦中にいて,ある程度は自分の未来や人生が決定づけられていた」といいます。この小説では,できるかぎり楠木正行の気持ちをひもといて,葛藤も含めて描いてみたい。
  ・・・・・・
といった紹介がありました。

 歴史小説は,その時代のことを知らないとわからないので,ここで復習をしてみました。
  ・・
 1333年(元弘3年),鎌倉幕府が滅亡し,1334年(建武元年)に,御醍醐天皇による建武の新政がはじまります。しかし,1335年(建武2年)に起きた中先代の乱を機に足利尊氏が新政権に反旗をひるがえし,その翌年,京都を制圧し,北朝の光明天皇を立てます。御醍醐天皇は南朝として吉野に逃れ,ここに南北朝の動乱がはじまります。この際,摂津国湊川で,九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍とこれを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦が湊川の戦いです。
 楠木正行は生年や幼少期の実態は不明で,後村上天皇が即位した翌年の1340年(延元5年/暦応3年)から史上に現れ,南朝の河内守護として河内国を統治しました。
 1344年(興国5年/康永3年),北畠親房が吉野行宮に帰還し、准大臣として南朝運営の実権を握ると,楠木正行は,好むと好まざるとに関わらず幕府との戦いの矢面に立つことになります。1347年(正平2年/貞和3年)に兵を起こした楠木正行は,北朝・室町幕府の細川顕氏や山名時氏らの大軍を立て続けに破るなど,すべての合戦に完勝しますが,1348年(正平3年/貞和4年),四條畷の戦いにおいて,幕府の総力に近い兵を動員した高師直と戦い,北四条で力尽き,26人の将校と共に戦死しました。この後,高師直と足利直義との間の政治権力の均衡が崩れ,室町幕府最大の内部抗争である観応の擾乱が発生することになるのです。
 「人よ,花よ,」はこの時代を描こうとするもののようです。

 NHKの大河ドラマ「太平記」は,1991年(平成3年)に放送されました。鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱期を,足利尊氏を主人公に描いた物語です。
 このころ,南北朝をテレビドラマで取り上げるのは,元寇ととももタブーとされていたので,はじめての試みとして,私は,興味をもって見ました。足利尊氏の生涯は,よくもまあ,これだけ戦いに明け暮れたものだという印象をもちましたが,それは,今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も同じです。
 ところで,「太平記」では,楠木正成を演じたのが武田鉄矢さんです。そこで,私は,楠木正成というと,武田鉄矢さんの顔が浮かんでしまうのです。「人よ,花よ,」を読んでいても,そんな感じになってしまうので,どうもいけません。また,「太平記」には楠木正行も登場したのですが,私にはまったく記憶がありません。
  ・・
 今のところはまだ,この小説ははじまったばかりですが,読みやすいので,毎日楽しみにしています。日本人は昔も今も変わらないものだなあ,というのが,これまで読んだ感想です。
 歴史小説は,作者の意図がしっかりしていないとかったるくなってしまうので,今後,どうなっていくか,といったところです。私としては,武将の姿以上に,この時代に生きた庶民の苦悩を描いてほしいものだと思っています。

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 NHKで放送している「世界ふれあい街歩き」という番組で「スコットランド移民の理想郷ダニーデン〜ニュージーランド」が取り上げられていました。この番組は2016年に放送されたものの再放送でした。番組の紹介は
  ・・・・・・
 ニュージーランド南島のダニーデンはスコットランドからの移民が建設した街。独自のタータンチェックを持ち,祖国の伝統と生活スタイルを大切にしながら楽しむ人々と出会う。
  ニュージーランド南島のダニーデンは,19世紀にスコットランドから渡ってきた移民が建設した街。今も街角にはバグパイプの音色が流れ,朝食には麦のおかゆポリッジ(oatmeal)を食べ,開拓の歴史を反映した独自のタータンチェックを誇りにするなど祖国の伝統と生活スタイルを大切にする人々と出会う。
 街のもうひとつの自慢は世界一急な坂道。まるでジャンプ台のような急坂を息を切らしながら駆け上がったり,家族の思い出を作る人々と出会う。
  ・・・・・・
です。

 ダニーデン(Dunedin)。私は,ニュージーランドの南島はほとんどの場所に行った気になっていたので,当然,ダニーデンも行ったことあると思い込んでいました。それにしては,記憶にない街の名前だな? と思って調べてみたのですが,実際は行っていませんでした。
 この番組にも出てきましたが,ダニーデンで私が惹かれたのはボルドウィンストリート(Baldwin St.)でした。ギネスブックにも登録されたという世界で最も角度がきつい坂道は,なんとしても登ってみたいと思いました。
 また,番組では,ダニーデンからタクシーでクイーンズタウンまで出かけたのですが,要するに,ダニーデンだけでは番組が成り立たなかったということでしょう。
 私は,ニュージーランドに2016年,2018年,いずれも秋,つまり,現地は春,に2回行ったことがあって,ともに,とてもいい思い出がたくさんあります。
 ニュージーランドは日本の田舎の緩い感じに似たとても親切な人たちが多い国です。はじめて行ったときに,クライストチャーチから海岸線に沿ってずいぶんと南まで行った記憶があるのですが,実際はオアマル(Oamaru)止まりでした。
 オアマルにブルーペンギンコロニー(Blue Penguin Colonie)があって,それを目当てに行ってみたのですが,どうやらシーズンオフだったらしく,私のためにわざわざ巣箱を出してくれました。
  ・・
 しかし,今考えると,2度も行ったのにも関わらず,私の頭には星空… というのが最優先だったので,それ以外の場所をこころおきなく旅してこなかったなあ,と残念に思います。そして,すっかり忘れていたニュージーランドのよさを,この番組を見て再発見し,目覚めてしまったのです。

 ということで,今ごろになって,3度目はない,と思っていたニュージーランドに,また,行きたくなりました。
 当時のことをいろいろと思い出してみると,生まれてはじめてニュージーランドに行ったときが,最も印象深いものでした。そして,そのときに数日滞在したクライストチャーチのことを懐かしく思い出しました。
 「世界ふれあい街歩き」を見ていて,いい所だな,とは思っても,だからといって,行ってみたいなあと思うところはあまりありません。しかし,今回のダニーデンは数少ない行ってみたくなったところだったのです。
  ・・
 コロナ禍で,しばらく海外旅行ができなかったのですが,このところ,また,次第に旅行ができるようになってきたようです。しかし,私は,コロナ禍以前,あれほど行っていた海外旅行なのに,行く意欲がどんどんなくなってきていて,もういいや,あるいは,自分はこの先どこに行きたいのだろう,と自問自答を繰り返すようになってきました。そして,本当に行きたいと思う場所ができたら,そのときは行ってみよう,そう思うようになりました。
 果たして,それがいつのことか,あるいは,そんな気持ちになる日はもう来ないのか…。
 この番組に出会ったのは,そんな折のことでした。
 本気で行くことを考えてみようかな。

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 大相撲夏場所が終わりました。
 今場所はテレビ観戦でした。そこで,今日のはじめから3枚の写真は昨年の名古屋場所で写したものです。
  ・・
 大嫌いだった白鵬が土俵を去ったので,再び大相撲中継を見るようになりました。とはいえ,解説が北の富士さん以外のときは,私は,英語モードに切り替えて見ています。そのほうが快適だからです。
 今場所はものすごくおもしろい場所でした。幕内上位はほとんど実力の差がなく,どの取組もどちらが勝つのかわからなかったし,しかも,どの力士もそれなりに個性があって好感がもてるので,どちらも応援したくなるからです。まるで学生相撲選手権みたいでした。
 実際は,体調が万全ならば横綱照ノ富士が抜きん出ているのでしょうが,私はアンチ実力者です。なので,照ノ富士が先場所は全休,今場所は序盤で3敗したからこそ楽しめました。照ノ富士が白鵬みたいなら,私はまた見るのをやめます。

 と,ここまでは前置きで,朝日新聞の5月21日のbe版「今こそ!見たい」に歴代横綱の読者によるランキングが載っていました。今日はそのお話です。
 こうしたランキングは読者の年齢によって知っている横綱も違うので,一概に評価はできませんが,それは別としてなかなか興味深い記事でした。
  ・・
 私が子供のころ,横綱といえば大鵬と柏戸でしたが,大鵬は強すぎました。で,おもしろくありませんでした。しかし,当時,父親は双葉山のほうが絶対に強かったと言っていました。私はそんなものかと思いましたが,双葉山は私の子供のころは時津風理事長で,時津風部屋の名古屋の宿舎で歩いている姿を見たことはあれど,相撲を取っている姿は映像でしか見ていないので実感がわきませんでした。また,柏戸は勝っても負けても土俵から落ちていくのでケガで休場ばかりでした。
 大相撲というのは単にスポーツというだけでなく,いかにも日本らしき価値観である「品格」やらがその存在の意義だということなので,その「品格」やらが実際は何なのかはわからねど,そうした「品格」やらも考慮してのランキングなのでしょう。ということで,私もまた,そうした側面から考えてみます。つまり,強ければいいってもんじゃない,というわけです。
 記事によれば,ランキングの第1位が千代の富士,第2位が大鵬,第3位が北の湖でした。それに関して,やくみつるさんの感想が載っていて「やや意外」と書かれてありました。しかしまあ,やくみつるさんがいかに相撲好きとはいえ,私より若いから,3歳のころから父親に連れられて大相撲を見にいっていた私が知るような,大鵬,柏戸の全盛期なんてほとんど知らないでしょう。「柏戸のつま先立ち」と書かれてありましたが,やくみつるさんの抱く大鵬や柏戸の姿はビデオでその取組風景を見ただけだろうに,と私は思いました。

 千代の富士が第1位なのは,体が小さいのにもかかわらず強かったから,ということでしょう。名古屋場所の宿舎が私の家の近くだったので,私は,北の富士が横綱だったとき,そして,千代の富士がまだ関取りにもなっていないころから目の前で見ています。小さな相撲取りで,横綱になるような器には思えませんでした。それが突然覚醒しちゃったのです。
 強い力士はきらいな私ですが,それだから千代の富士は大好きでした。とはいえ,どういうわけか,というより,解説で人気なので,強くもなかったのに第10位に入ってしまった千代の富士の師匠の北の富士が私は最も好きだった横綱です。「品格」という感じではないですが,これほどかっこいい横綱はほかにいませんでした。特に土俵入りは最高にかっこよかったのですが,その完璧な映像がどこを探してもみつからないのが残念です。その一方で,相撲自体はほどほどに弱く,初日に負けるともうあとはガタガタでまったくダメでした。しかし,その反対に,調子に乗ったときのここ1番はめっぽう強く… といった,人間味あふれ,ムラっ気だらけだったところも最高でした。
 近年は,稀勢の里も大好きでした。もし,白鵬がいなかったら,おそらく稀勢の里はあと5年早く横綱になっていたことでしょう。これが相撲協会にとって不幸でした。
  ・・
 ところで,現在は,この先,だれが横綱になるのか全く先が読めないのですが,私は,千代の富士に似ているといわれる若隆景に大いに期待してます。もっとも横綱らしい横綱になる感じがします。多くの相撲ファンもそう願っていますよ。また,琴ノ若が琴桜になるのも期待しています。
 でも,豊昇龍かなあ? ならば朝昇龍を思い出す。それは絶対にいやだなあ。

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 ヒストリックルート66は,シカゴを起点に,イリノイ,ミズーリ,カンザス,オクラホマ,テキサス,ニューメキシコ,アリゾナ,カリフォルニアの8州を通り,ロサンゼルスを終着点とする全長4,000キロメートルのハイウェイです。1972年,インターステイツが完成してその役割を終えましたが,1972年に保存法が成立して,それ以来,多くの場所でヒストリックルート66は再生されています。
 その中でも,アリゾナ州のフラグスタッフ(Flagstaff)はまさに,ヒストリックルート66が当時の面影をのこしていて,私は,一度訪れてみたいものだと思っていたのですが,2019年の夏に念願がかない,行くことができました。そして,すっかり,この町に惚れこみました。
 町の中心にフラグスタッフ鉄道駅があります。ここはアムトラックの駅で,1926年に標高2,104メートルの地点に建設されました。もともとは1886年アッチソン・トピカ・サンタフェ鉄道(Atchison, Topeka and Santa Fe Railway)の赤色の砂岩製の駅の建物だったところです。

 町の中心にある「モンテビスタ」(Hotel Monte Vista)は有名なホテルです。1927年創業の老舗で,現在は完璧にオリジナルの状態に改装されています。ダウンタウンの中心にあって,3階に73室の客室とスイートの宿泊施設があります。過去には,ジョン・ウェイン(John Wayne),ハンフリー・ボガート(Humphrey DeForest Bogart),クラーク・ゲーブル(Clark Gable),アンソニー・ホプキンス(Sir Anthony Hopkins)など多くの有名人が滞在しました。
 ここはお化け伝説のあるホテルでもあります。
  ・・・・・・
 荒くれ西部でここまで古いホテルとなれば,これまで何人の人がこのホテルで殺されたことでしょうか。 このホテルで起こるといわれているのは,不気味な音が聞こえてきたり家具が動かされていたりロビーの電話が勝手に鳴ったりいろんなものが倒れたり…。
 ホテルの従業員や宿泊客の情報によると,バンドのミュージックがだれもいないはずの2階のロビーから聞こえてきたりもするということです。
 とりわけ,210号室はベルボーイの幽霊が訪ねてくるらしいといいます。ドアをノックして「ルームサービスです」という声がして,ドアを開けると誰もいないということがたびたびあるとか。
 また,220号室はだれもいないはずの部屋から咳払いが聞こえてきたりするそうです。ある日,メインテナンスの男の人がこの部屋で修理を終え電気を消してドアをロックして出て行ったにも関わらず,5分後には電気がついていて,ベッドのシーツもはがされ,テレビもついていたそうです。さらには,カウボーイのゴーストはもちろんのこと,殺された売春婦なんかも目撃されているそうです。
 さらに,305号室は女性の幽霊が窓際のロッキングチェアに座っていることがあるそうで,掃除の人が椅子を動かしたのに次の日には窓際に戻っていたといった話もあるそうです。
  ・・・・・・
 私は66歳のときにヒストリックルート66を走破してみたいと以前から思っていたのですが,まさかのコロナ禍で,どうも実現しそうにありません。しかし,もし可能なら,フラグスタッフでは,いくら高くても,次回は「モンテビスタ」に宿泊して,こうした幽霊たちに会ってみたいものです。

 1924年のころ,フラグスタッフにホテルは少なく,出稼ぎに町へやってくる人達を滞在させ続けるのが極めて難しかったので,この地にあるローウェル天文台の所長であり天文学者のヴェスト・スライファー(Vesto Melvin Slipher)がホテル建設のため,地域的な債券設立のキャンペーンをはじめました。その資金で建てられたのが「モンテビスタ」です。
 禁酒法時代にオープンしたこのホテルは,酒の密売をラウンジでしていたのですが,1931年,役人に急襲されて閉館します。そして,禁酒法が廃止された2年後に再開しました。また,1935年から1940年の5年間は,ホテルのラウンジとロビーは,町でたった1軒だけのスロットマシンができる場所として人気を博しました。
 やがて,1940年代になると,西部劇映画が人気となり,セドナやオークリークキャニオン(Oak Creek Canyon)近くで100本以上の映画が撮影されることになり,撮影中は「モンテビスタ」が宿泊所となったのです。
  20世紀初頭には,フラグスタッフには映画産業を誘致する計画もあったのですが,結局計画は実現せず,ハリウッドにその地位を奪われてしまいました。

V.M._Slipher


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 私はグルメでないので,食べ物にはほとんど関心がありません。しかし,周りにグルメの人が多いことと,いろんなところへ旅したことがあるので,その土地で有名なモノとか,グルメ雑誌にのっているようなお店は行ったことがあるし,おおよそのモノは食べました。なので,あえていいモノを食べたいとも思いませんしこだわりもありません。
 ということですが,そんな私がひとりで外食をするとき,優先順位としては,まず,そのお店が空いていること,その次が提供される時間が早いこと。これでは,ファーストフードしか選択権がありません。
 で,時に食べたくなるのが,朝マックの「ビッグブレックファストデラックス」なのです。

 食事文化が貧困なアメリカでは,食事というモノはエサだと私は思っています。そこで,アメリカを旅するときに,とにかく手っ取り早く食事を済ますのに行くのがマクドナルドです。特に,コンボイのドライバーが利用するような安価で朝食のないモーテルに宿泊したときの朝食としては最も手ごろです。
 そんなときにオーダーするのが,この朝マック「ビッグブレックファストデラックス」(アメリカでは「Big Breakfast with Hotcakes」)となります。内容は,スクランブルエッグ,マフィン2枚,ホットケーキ3枚,ソーセージ,ハッシュポテト,バター,メイプルシロップ,ストロベリージャム,塩胡椒,そしてセットで注文したソフトドリンク。高カロリーなので,こんなものを毎日食べていたら寿命が縮まることでしょうが,そんなことは承知です。「たま」だからいいのです。これをオーダーしたくなるのは,まあ,時折起きる私の発作のようなものでしょう。
 そしてまた,これを食するときの私は,幸せ感一杯なのです。

 コロナ禍で行くことができなくなってしまったアメリカですが,私がアメリカ旅行をする目的は,もともとはディズニーランドに行きたい,MLB,つまり,本場のベースボールが見たい,ニューヨークでミュージカルを見たい,といった誰しもが夢見ることと同じでした。しかし,それを実現したのちは,日本では決して見ることができないどこまでも続く大平原をドライブすることであり,そのときどきに現れる小さな町でゆったりとした時間の流れにまかせることです。そのような小さな町にもたいていは存在するマクドナルドで,住んでいる人の姿を見ながら過ごす時間が最高の贅沢となったわけです。
 日本にいても,そんな贅沢はできません。道路はひどく狭く,景観は悪く,どこに行っても人だらけ,どんな山の中にもわずかな平地があれば小さな家だらけ。そこで,早朝,まだ,夜が明けきらぬ,周りが暗くて醜い町の景観がまだ闇の中にあるころに,マクドナルドに出かけて,ほとんどだれもいない店内で「ビッグブレックファストデラックス」を食べながら,気持ちだけアメリカに飛ぶのです。時間が飛ぶわけではないのですが,私には精神的な空間の移動がまさに「タイムスリップ」となるです。
 これこそが,今の私には至福の時間なのです。

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 朝日新聞=名人戦,毎日新聞=王将戦,読売新聞=十段戦という時代に私は将棋を覚え,家で購読する新聞を朝日新聞に代えたために,私は,ずっと名人戦や順位戦を見て過ごしました。
 覆ったのが1976年(昭和51年)のことでした。
 それは,この年,朝日新聞社が囲碁の名人戦を読売新聞社から獲得したのが発端です。これで囲碁,将棋ともに名人戦を主催するという念願がかなったのに,皮肉にも,将棋の契約金が囲碁よりずっと少なったとかで将棋界が値上げを要求し,それが認められなかったことで契約が決裂して,1年の空白ののち,名人戦が毎日新聞社に移ることになったのです。朝日新聞社はそれからもずっと名人戦にこだわり,新しいタイトル戦を開催しませんでした。
 それ以来,私は,将棋に興味をなくし,空白の時代が続きます。そこで,私は,谷川浩司九段,羽生善治九段などが名人だったときの将棋をほとんど知りません。

 名人戦を主催することになった毎日新聞社ですが,ここで問題となったのが王将戦の処遇でした。
 王将戦を開催していた毎日新聞社は名人戦も主催することになったために,ふたつの棋戦を同時に新聞に掲載することもできず困ってしまったわけです。そこで,毎日新聞社は王将戦をスポーツニッポン社に移管しました。しかし,将棋のタイトル戦としてはスポーツ紙では格下です。それ以来,王将戦は,泡沫タイトル戦のような感じになってしまいましたし,私はスポーツ紙など読むこともないので,もう,それ以降のことはまったく知りません。
 王将戦は,もともと毎日新聞社のビッグタイトルであったことから,挑戦者決定リーグ戦があり,しかも,タイトル戦は名人戦のように2日制でした。しかし,このとき以来,契約金は低く抑えられ,なんだか中途半端なものとなってしまいました。朝日新聞社は適当に将棋欄を埋め合わせしていたので,囲碁のように全国紙に鼎立する三大棋戦があるわけでもなく,これが,私が,囲碁のタイトル戦がうらやましいと思った理由でした。
  ・・
 スポーツニッポン社としても,なんらかの「色」をつけなければ,と工夫したのでしょうか。それが今も続く,勝った棋士がコスプレをして翌日の誌面を飾るといういわゆる「勝者の罰ゲーム」であり,囲碁・将棋チャンネルでのタイトル戦の生放送となったのでしょう。
 今のように,ABEMAで将棋の生中継が行われるようになったのはきわめて最近のことです。将棋の生中継が見られるようになったのは,放送開始間もないNHKBSのコンテンツとして名人戦に白羽の矢が立ったのがそのはじまりでした。そこで,囲碁・将棋チャンネルとリンクした王将戦は,当時としては独自に生放送が見られる画期的な棋戦だったわけですが,それが逆に,今となっては王将戦はABEMAで見ることができない棋戦というひずみとなっているのです。

 その後,読売新聞社では,1988年(昭和63年)に十段戦が発展的に解消されて竜王戦ができました。これもまた,囲碁の棋聖戦と同様に,読売新聞社らしいというか,名人戦を超える格を有する棋戦を「むりやり」金の力で創設したように私には思えました。将棋連盟も名人戦との兼ね合いに苦慮します。大山康晴十五世名人や升田幸三実力制第4代名人が創設に反対し,賞金額1位で棋戦の序列は上であっても,タイトルホルダーとしての序列は名人と同格ということになったそうです。大人の事情です。
 ということなので,今でも,私の世代では名人戦が唯一無二のものです。三枚堂達也七段が順位戦のC級2組から1組に昇級したときに師匠の内藤國雄九段がはじめて喜んだというのは,そういう価値観からくるものなのです。
 時代は繰り返します。
 2006年(平成18年)。三度目の名人戦の契約問題が起きました。
 私は名人戦が朝日新聞社の主催に戻ることはないとあきらめていたのですが,水面下ではいろいろあったようです。私のような単なる「観る将」が将棋界には囲碁界のような三大棋戦が全国紙に鼎立していないという不自然さを思っていたくらいだから,棋士はもっとそれを切実に感じていたことでしょう。
 紆余曲折の結果,何と,名人戦は朝日新聞社と毎日新聞社の共催という突拍子もないことが実現して,今に至るわけです。
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 時は移り,現在は平穏無事のように思えますし,藤井聡太人気で,一時「斜陽産業」とよばれた将棋界はバラ色のような感じです。しかし,名人戦が共催であったり,王将戦だけがAMEBAで見られないとか,鳴り物入りでドワンゴがはじめた叡王戦を手放したりと,結構波乱に満ちています。
 今や,将棋は新聞で読むもの,という時代は過ぎ,新聞社の威光は陰り,将棋を見るために新聞を購読するということもなくなりました。この先もABEMAで将棋の中継が続くかどうかもわからないし,読者の激減する新聞社も将棋棋戦の主催ができる余裕があるのかないのか。また,叡王戦のように,新たなスポンサーが生まれるのかどうか。
 それもこれも,将棋というコンテンツにどれだけ魅力があるかどうか,にかかっているのでしょう。

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 今日の写真は,藤井聡太竜王が以前「まだ乗ったことがないので一度乗ってみたい」と言っていた新幹線N700Supreme,背後の山は雪を被った伊吹山です。
 さて,現在,王将戦の7番勝負が行われています。この王将戦というタイトル戦は,将棋の8大タイトルの中でも異端な棋戦なので,このことについて書いてみようというのが今日のお話です。

 将棋も囲碁も,タイトル戦というのは必ずしも順風満帆に行われてきたわけではありません。
 将棋に比べて,囲碁では読売新聞=棋聖戦,朝日新聞=名人戦,毎日新聞=本因坊戦というように,3大全国紙が3大棋戦を主催していて,この3つのタイトルをすべて獲得した棋士が「大三冠」とよばれる,というように,まことにわかりやすい状態なので,私はずっとうらやましく思っていました。
 しかし,囲碁のタイトル戦も,はじめからこうした三者鼎立の状態ではありませんでした。
 最も歴史があるのは1937年(昭和14年)にできた毎日新聞社の主催する本因坊戦です。将棋にはこのころすでに名人戦があったのですが,囲碁にはなかったようです。で,1961年(昭和36年)に読売新聞社によって名人戦ができました。こうした経緯から,囲碁の名人戦というのは,将棋のように順位戦という格付けがあるわけではなく,単なるタイトル戦のひとつで,すべての棋士が予選に出場して勝ち残った棋士が挑戦者決定リーグ戦に参加,そして,挑戦者決定リーグ戦で優勝した棋士がタイトル戦に出場するというものです。
 やがて,1974年(昭和49年)に名人戦の契約問題が起き,「囲碁も将棋も名人戦」というのが念願だった朝日新聞社に移りました。その代わりに1976年(昭和51年)に作られたのが棋聖戦というわけです。

 将棋では,毎日新聞社の主催する名人戦が最も歴史があって,1935年(昭和10年)にはじまりました。それに対抗して,読売新聞社は1956年(昭和31年)に,現在の竜王戦の前身である九段戦,それが発展した十段戦というのを作りました。将棋の名人戦も,1950年(昭和25年)にやはり契約問題が起きて,朝日新聞社に移り,その結果,それに対抗する形で1951年(昭和26年)にできたのが王将戦だったのです。そんな経緯があって,私が将棋に興味をもった今から55年ほど前は,朝日新聞=名人戦,毎日新聞=王将戦,読売新聞=十段戦で落ち着いていたのです。
 しかし,将棋は囲碁とは違って,名人戦の格が高すぎました。当時は,段位はすべて順位戦で決まりました。いわば,相撲のように,本場所が順位戦であって,それ以外の棋戦は巡業のようなものといいう扱いだったのです。そこで,この名人戦を三大全国紙のどの社が主催するかという潜在的な大問題が存在するわけです。
  ・・
 そんなわけで,王将戦は,どう頑張っても名人戦には格の上で勝てません。で,毎日新聞社が考えついたのが「指し込み制度」でした。これは,7番勝負のタイトル戦で3番手直り,つまり,3勝差がついた時点で王将戦の勝負が決定し,次の対局から香落ちと平手戦で交互に指し,必ず第7局まで実施するというシステムでした。
 この制度のおかげで,奇しくも,升田幸三実力制第4代名人が家出をするときに物差しにしたためたという「名人に香車を引いて勝つ」が実現してしまったわけです。この制度は,実は今も存在しているですが,4番手直りに改められ,しかも,またどちらかが4勝した時点で対戦が終了することになったので,死文化してしまいました。
 もし,今も当時のままの制度だったら,今期,王将戦3連勝の藤井聡太竜王はすでに王将位を獲得して,しかも,次の対局は「名人に香車を引く」ということになっていたのです。

aaa


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 愛知県江南市のホームページには次のようにあります。
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 「一,親助六尉,尾州清須御城を退去候は,慶長寅の年の夏越方の事。…親父様,よくよく南窓庵によりて,諸事書留め覚え帳併家伝記,先祖系図書等の古証文の散逸をおそれ書き留め候…これら諸縁を武功夜話と題目仕り…」
 江南市と信長を強く結びつけたこの文献は,江南市前野町の吉田さん宅に先祖代々伝わる秘蔵の古文書「武功夜話」です。
 「武功夜話」には,どの巻首にも「貸出しの儀平に断るべし」と記され,門外不出となってきました。
 1959年(昭和34年),この地方を襲った伊勢湾台風のため吉田家の土蔵が崩れ落ちてしまったのを機に,吉田家の親戚にあたる吉田蒼生雄さんが12年かけて訳され,ついに380年ぶりに陽の目をみることになったのです。
  ・・・・・・

 この「武功夜話」は,戦国時代から安土桃山時代,尾張の土豪であった前野家の動向を記した家譜の一種で,この書物で,吉乃という人物が有名になりました。
 「武功夜話」によると,吉乃はこの地の商人だった生駒氏の娘で織田信長の側室になった女性です。正室であった濃姫(濃姫)が子供に恵まれなかったのに対して,吉乃は長男織田信忠,次男織田信雄,長女の徳姫を生んでいます。
 大河ドラマ「麒麟がくる」の第21回「決戦!桶狭間」で帰蝶が「天から降ってきた,大事な預かりものじゃ」といってあやしていたのが吉乃の子織田信忠です。
 さて,吉乃の生家生駒氏の菩提寺で,吉乃の墓のある久昌寺ですが,老朽化が進み,この春にも取り壊されると聞いて,うまくいけば,夜明けの太陽とともに写真が写せるのではないかと,晴れた日の早朝,行ってみることにしました。私は学者でもなければ,このような古文書を読み解く趣味も力もないので,よくいわれる「武功夜話」が偽書だとか,ここではそういうことを書くのは避けます。それよりも,このような歴史を感じるところに出かけて,古を思うことが何より楽しいのです。

 まだ,通勤ラッシュのはじまる前の時間に車を走らせました。
 愛知県尾張地方の北部は,戦災にも遭っていないので道は狭く,ごみごみとしていて,一旦,自働車道を外れるとすれ違うことも困難な道ばかりです。また,車を停める場所にも事欠きます。
 迷いながら,なんとかiPhoneの力を借りて,久昌寺に到着しました。車が4,5台停められる駐車場があったので助かりました。あたりは公園として整備されていると聞いていたのですが,まあ,広場とベンチがあるくらいで,荒れ果てていました。しかし,立派な周辺案内板があったので,近くの生駒家跡や29歳で亡くなったという吉乃が荼毘に付された地などを回ってみました。これといって何もないところでしたが,その何もないところが,昔をしのぶにはむしろよかったのかもしれません。
 それにしても,こうした場所で,400年以上も昔,織田信長や豊臣秀吉が闊歩していたなんて,考えるだけでも楽しいではないですか。何が現実なのかそうでないのか,自分に関わりのないことなんてすべてが夢のようなものです。日本の景色はこころで見るものです。
 思っていた写真が写せて満足しました。

◇◇◇
太陽黒点。

2月2日。この日昇った太陽には多くの黒点がありました。
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 ビリー・ジョエル,ウィリアム・マーティン・ジョエル(William Martin “Billy” Joel)は1949年ニューヨーク州のサウスブロンクス出身のシンガーソングライターです。1970年代後半から1990年代前半にかけてヒットを連発しました。
 私が英語を勉強したり,アメリカに興味を抱いた1960年代末から1970年代は夢のような時代でした。アメリカはあこがれであり,アポロ11号の月着陸や大阪で行われた万国博覧会で最も魅力的だったアメリカ館など,日本とはかけ離れた巨大で豊かな大国に一度は行ってみたいと思ったことでした。その一方で,危険な香りが一杯の国でもありました。
 そのころ私が耳にしたのがビリー・ジョエルの音楽でした。
 中でも,「ストレンジャー」(The Stranger)。この曲の冒頭と最後は,私の頭の中に暗くすさんだニューヨークの姿を想像させるのに十分でした。ビルとビルの谷間の暗くゴミだらけの路地に靴音だけが不気味に響く…。
 「ストレンジャー」は日本ではCMソングとして起用されたことで大人気となったのだそうです。
 そして,「ニューヨークの想い」(New York State of Mind)。ビリー・ジョエルがソロデビューして以来活動の拠点としていたロサンゼルスから生まれ故郷のニューヨークに戻るときの想いを歌った楽曲で,曲の歌詞が私に大陸横断の夢を与えました。西海岸から長距離バス・グレイハウンドに乗ってニューヨークに向かうとき,遠くに摩天楼が見えてくるときめき。それを一度は味わってみたいものだとずっと思ってきました。
 それ以外にも「ピアノマン」(Piano Man),「素顔のままで」(Just the Way You Are),「オネスティ」(Honesty)と,今聴いても切なくなってきます。
 そして,そうした私の想いがすべて実現した今となって,憧れだったアメリカは,あのころの自分の懐かしさに変わりました。
  ・・
 なお,ビリー・ジョエルは1985年にクリスティ(Christie Brinkley)と結婚し,娘のアレクサ・レイ・ジョエル(Alexa Ray Joel)が誕生しましたが,娘のミドルネーム「レイ」は,ビリー・ジョエルの憧れの存在だったレイ・チャールズ(Ray Charles Robinson)にあやかってつけたものだったということです。朝の連続テレビ小説「カムカムエブリバディ」にも似たような話が…。

 NetFlix や ABEMA や AmazonPrime など,いくらでもそれに代わる有料放送が存在する現在,ほぼ強制的に高額な受信料を徴収するなどという時代錯誤を未だにやっている NHK は,その高額な料金にも関わらずチャンネルばかりたくさんあっても大したコンテンツもなく,再放送ばかりでお茶を濁していることが腹立たしいのですが,1月27日の早朝は,NHKBSP でビリージョエルのヤンキースタジアムライブを放送していたので,録画して見ました。しかし,ここで放送されたのは1990年のコンサートだったのに,私の期待していたものとは違って好きな曲目もほとんど演奏されず,がっかりしました。
 それよりも,私が別の意味で懐かしくなったのは,ヤンキースタジアムでした。
 そのころのヤンキースタジアムは,現在の新しいヤンキースタジアムの隣に建っていたものです。
 私がはじめてニューヨークに行ったのは1981年のことだったのですが,ハドソン川の対岸にそびえる巨大な建物は,私が感動するに値する建物の姿でした。しかし,1997年,2度目のニューヨークで実際にヤンキースのゲームを見にいったとき,スタジアムの建物は老朽化し壁が落下したとかでごった返し,また,ボールパークの周りの治安の悪さと不気味さにも度肝を抜かれました。
 なにせ,ヤンキースタジアムのあるサウスブロンクスは悪名高きところで,ゲームの途中に何が起きようと想定内のことでした。私が見にいったゲームでも,その途中で,ストリーキングが出没し素っ裸の男がグランドを駆け回りました。また,ヤンキースタジアムの近くの有料駐車場は,停めるのはいいけれど,何があっても知らないよ,状態だったし,車で行けば通らざるをえないハーレムは麻薬を売買する住民がたむろしていました。また,マンハッタンからハーレムの地下を抜けてハドソン川を越えてサウスブロンクスで地上に出た地下鉄は,落書きだらけでした。
 しかし,今となっては,そんなすさんだニューヨークならまた行ってその姿を見て味わってみたいものだと思うのは,私が「ストレンジャー」を聴いて感じるその哀愁からなのでしょうか。

billy


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 ウィンスロップ(Winthrop)はシアトルから北東,カスケード山脈の懐に残る西部開拓時代を偲ばせる田舎町です。市街地は1890年代のゴールドラッシュに沸いていたころの建物が並び,まるで西部劇の世界に入り込んだ気分になります。ディズニーランドにこのような町の真似事がありますが,そんな「おもちゃ」ではなく,ここは正真正銘の町です。

 2016年,私は,モンタナ州のグレイシャー国立公園からワシントン州のカスケード国立公園に向かう途中で,この町に寄りました。  
 ここで私はホテルを探してチェックインしました。
 ワシントン州にはこんなすてきな町があるのです。私が忘れられないのはこうした田舎ののどかな小さな町なのです。
 ワシントン州の壮大なメソウ渓谷(Methow Valley)を走るノースカスケードシニックバイウェイ(the North Cascades Scenic Byway)に位置するこのウィンスロップの町は,旧中山道の馬籠宿のように,新たに歴史的な町を模して作られたところです。

 メソウ渓谷は,1833年ゴールドラッシュの時代,多くの白人の入植者が来ました。そのうちの代表的な3人がジェームス・ラムジー(James Ramsey),ベン・ペーリジン(Ben Pearrygin),ガイ・ウェアリング(Guy Waring)でした。特に,ウェアリングがこの地の「父」とよばれます。
 町の名は冒険家であり作家であったテオドラ・ウィンスロップ(Theodore Winthrop)にちなんで名づけられたものです。
 1893年,ウィンスロップに火災が起きて,町は壊滅的な被害を受けましたが,1972年に州道20がこの町を通ることになったとき,キャサリン・ワグナー(Kathryn Wagner)と夫のオットー(Otto)がこの地に西部劇のような町を再建するというアイデアを思いつきました。

 ウィンスロップには数件のモーテルやマーケットがあって,私はそのうちのアビークリークイン(Abbycreek Inn)というモーテルに部屋を見つけて,チェックインをしました。
 チェックイン後,町を歩くのに十分な時間があったので,1軒のオープンカフェを見つけて軽い夕食をとりました。その後,川のほとりを散歩しました。
 歩いていると,お年寄りの女性が話しかけてきました。雑談をしながら美しい夕日が沈むのを眺めていました。
 ここはのどかで素晴らしい,桃源郷のようなところでした。
 夜は,近くのスーパーマーケットで買い物をしたりして過ごしましたが,緯度が高いので,いつまでたっても暗くならない。本当に夜が来るのかしらんと思いながら眠りにつきました。ふと深夜に目覚めると,さすがに日が沈んでいたのですが,外に出てみると,満天の星空が広がっていました。
 翌朝,モーテルの部屋の窓を開けると,そこには野生のシカがいてエサの草を食べているところでした。住んでみたい町です。

aaa


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 2018年春,第76期将棋名人戦の第5局が名古屋大須の万松寺で行われました。その前日の夜,前夜祭が近くにホテルで行われ,参加費を払って行ってきました。
 一度は行ってみたいと思っていただけにその機会ができて,とても楽しい時間が過ごせました。
 その後はコロナ禍になってしまい,こうした機会もなくなって,本当にあのとき行っておいてよかったと思ったことでした。

 2018年というのは今からわずか4年近く前のことなのですが,それ以来,将棋界はずいぶんと様変わりしたものです。
 このときの対局者は名人が佐藤天彦さんで,挑戦者が羽生善治さんでした。この名人戦で勝って羽生善治さんが100回目のタイトル獲得となる筋書きだと思っていたのですが,その予想は外れました。
 まだこの時期は,今輝く藤井聡太現竜王のブームがはじまったころで,名人戦に登場するのはずいぶん先のことのように思えました。また,羽生善治さんは絶対王者でした。

 前夜祭は,はじめに参加した棋士の紹介にはじまり,懇談会,そして,最後に一緒に写真を撮ることができました。
 テレビでしか見たことがない棋士の人たちといろいろとお話ができたのがとてもうれしいことでした。
 これも将棋界ならではの話で,他のスポーツやタレントさんではこうはいきません。
 なかでも,藤井聡太竜王の師匠である杉本昌隆さんとお話ができたのはよかったです。

 将来,また,こんな機会が一日も早くできるようになればいいなあと思います。それとともに,この機会を逃さなかかったことに,今更ながらこれもまた幸運だったものだとつくづく思うのです。
 運は周りにいくらでもあるのですが,それを手に入れることができるかどうかは自分の行動にかかっているのです。


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 こころに残っている小さな町,今回はモンタナ州の州都ヘレナ(Helena)です。小さな町といっても州都なのでそこそこに都会です。
 私は2013年にモンタナ州のビュートに行ったとき,少し時間ができたので,インターステイツ15を北に走りました。まったく人家もない山の中のインターステイツ15をずっと北に向かって走っていって,この先は地の果てだとおもったら,忽然と広大な大地にヘレナの町並みが見えてきました。このときの驚きは忘れられません。
 そのときはそのまま引き返したのですが,あの美しい町並みにひとめぼれして,ずっとこころに残り,いつかぜひゆっくりと滞在してみたいという想いが募って,2015年に再びヘレナに行ってみました。

 ビュートからヘレナまでは100キロメートル,1時間というところです。
 先に書いたように,ヘレナは,モンタナ州の州都です。人口はわずか約25,000人。19世紀後半のゴールドラッシュによってできた町です。
  ・・・・・・
 1864年「4人のジョージア人」とよばれるジョン・コーワン(John Cowan),D・J・ ミラー(D. J. Miller),ジョン・クラブ(John Crab),ロバート・スタンレー(Robert Stanley)の4人組がラスト・チャンス・クリーク(Last Chance Creek)で砂金を発見したことで町は創設されました。
 はじめ「4人のジョージア人」のひとりジョン・クラブの名を取ってクラブタウン(Crab Town)と名づけられたこの町は,やがて町名変更の機運が高まって,ジョン・サマービルが自分の生まれ故郷であるミネソタ州セント・ヘレナ (St. Helena) の名をつけることを提案し,そのうちに「セント」が落ちて「ヘレナ」のみが残って町の名前となりました。
  ・・・・・・
 1888年ごろは,およそ50人の億万長者がヘレナの町に住んでいて,人口当たりの億万長者の数は世界一であったといいます。

 ヘレナの高台にモンタナ州会議事堂とモンタナ歴史社会博物館があります。モンタナ州議会議事堂(Montana State Capitol)の庁舎は1896年から1902年にかけて建設され,1909年から1912年にかけてウイングが増築されました。
 私が行ったときは,この州議会議事堂はセキュリティがとても緩く,というか,まったくないのも同然で,何のチェックもなく自由に中に入ることができました。今はどうなのか知りません。中に入ると観光客用のカウンタがあって,親切なおじさんがいました。私が日本から来たというと「歴史概略とセルフガイドツアー・モンタナ州庁舎」と書かれた日本語のパンフレットを持ってきてくれたので,私は,そのパンフレットに書かれたように,セルフガイドツアーをしました。

 州議会議事堂の東側,博物館を出たところに,ラスト・チャンス・ツアートレイン(Last Chance Tour Train)というヘレナの見どころを2時間くらいで巡るガイドつきツアーバスの乗り場があったので乗り込んで,町の観光を楽しみました。
 ヘレナは思った以上に奥の深い町でした。
 官庁街の西側にはゴールド・ラッシュ時代の歴史的な建築物が多くあり,また,そのはるか向こうにはロッキー山脈の大自然や原野が広がっていました。ゴールドラッシュで栄えた町だから,大邸宅が並んでいて,治安もよければ,町も美しいところでした。
 ヘレナという町を観光して私が感じたのは,アメリカという新大陸にやってきて成功した人間の強さと弱さでした。アメリカには,日本人の知らないすばらしい町があるのです。

へれな (2)


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 私がアラスカ州のフェアバンクス(Fairbanks)に行ったのは2017年の夏のことでした。この年の8月21日にアメリカ横断皆既日食があって,私はそれをアイダホ州で見たのですが,その帰りにアラスカ州まで足をのばしました。
 アラスカ州まで行ったのは,その当時,アメリカ合衆国50州制覇を目指していて,アラスカ州に行った理由はそのためでした。
  ・・
 ワシントン州のシアトルからアメリカ国内線でフェアバンクスまで行きました。
 フェアバンクスはアラスカ州の中央部に位置する都市で,人口は約3万人。アラスカ州ではアンカレッジに次ぐ第2の都市ですが,それでも小さな町でした。 北緯65度あたりにるるので,北緯66度3分7秒の北極圏からは約160キロメートル南に位置しています。
 フェアバンクスの面積は約85平方キロメートルなので,9キロメートル四方ほどでしょうか。車で走ってみるとあっという間に市街地を抜けて大平原に出ます。市内をチェナ川(the Chena River)が流れ,すぐ南でタナナ川(the Tanana River)と合流していて,夏の間はチェナ川を下る外輪船クルーズが運航していて,私も乗船することができました。

 フェアバンクスのダウンタウンは人が少なく静かな町ですが,スーパーマーケットやレストランなどがたくさんあって,生活しやすいところです。
  ・・・・・・
 1900年ごろ,カナダ・ユーコン準州で金が発見(Klondike Gold Rush)されるとともにゴールドラッシュに沸き,町が整えられました。現在もなお複数の金山が稼働しているということです。 
 町にはテーマパークやら動物園やら博物館やら公園があり,郊外にアラスカ州を縦断するパイプラインもあって,見どころには事欠きません。日本人にとってはオーロラの最もよく見える町として知られていて,郊外にはオーロラの見られるリゾートタウンもあります。
  ・・・・・・

 私はこのとき,見ることができればもっけもの,でも無理だろうとまったく期待していなかったオーロラを見ることができたのですが,オーロラは別としても,今にして,このフェアバンクスという町にまたたまらなく魅力を感じて,ふと,また行きたくなるのです。
 北極圏といえば,私はその後,フィンランドのロヴァニエミに行ったのですが,おなじ極北とはいえ,フィンランドとアラスカではまったくイメージがちがいます。印象では,フィンランドのほうがあか抜けた都会で,アラスカのほうが田舎,というか悠久たる大自然です。
 私はアウトドアが苦手で,というか,都会に生まれたのでそういう習慣がないのですが,その反対に,人はこうした大自然の中で生きる術を学ぶべきだと,できないからこそ思います。今でも忘れられなのは,フェアバンクス郊外で見た大きな住居です。あんなところで生活する自分はまったく考えられないのですが,そんなことができたら,何と幸せなことでしょう。
  ・・
 冬のフェアバンクスは行ったことないので,私には謎の多い町です。
 冬のフェアバンクスにも行ってみたいのですが,あんな寒冷地,おそらく無理でしょう。でも,フィンランドのロヴァニエミで摂氏マイナス30度は経験したので,なんとなく様子はわかります。しかし,いつも思うのは,世界にはこうした町があるということを体験しない人生というのは,ものすごく大切なことを知らないでいるということです。
 フェアバンクスは,私がいまでもこころに残っている小さな町のひとつです。

hya


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 「食わず嫌い」ではないけれど,私は,ほとんどのドラマを第1回から見はじめないのです。それは,番組の宣伝だけでつまらなそうだ,といった先入観をもってしまって,見るのを避けてしまうからです。今回の連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」もそうでした。何を今さら英会話? と思いました。 しかし,一度,ふと何かの機会で見たときに,そのすばらしさにすっかりはまってしまいました。
 これはおもしろい。
 ということで,2020年にはまっていた「エール」以来何作目かで,また,朝が楽しみになりました。
  ・・・・・・
 「カムカムエヴリバディ」は,2021年度後期放送のNHK「連続テレビ小説」第105作として,11月1日から放送されている日本のテレビドラマ。京都,岡山,大阪を舞台に,昭和から令和の3つの時代をラジオ英語講座と共に生きた祖母,母,娘の3世代のヒロインの一世紀(100年)におよぶ家族の物語をハートフルコメディーとして描く。
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ということですが,ドラマの感想は,いろんな人がいろいろと書いているので,ここではやめて,その代わりに,ラジオ英語会話番組の草分け「カムカムエヴリバディ」にちなんで,NHKのラジオ語学講座の思い出について書きます。

 私は,中学校1年生ではじめて英語を学んだとき,すすめられたのがNHKラジオ第2放送の「基礎英語」という番組でした。私は,毎日かかさずこうした講座を聴く,といった継続が得意なのです。現在に至るまで,多くのラジオ語学講座にお世話になりました。もともと能力が不足しているので身についたとはいえませんが,それでも,ほとんどお金をかけず,いろんなことを学びました。
 さて,私が12歳ではじめて聴いた「基礎英語」の講師は,調べてみると北村宗彬という慶応義塾大学の先生でした。と知ると,名前に憶えがあります。さらに調べてみると,北村宗彬先生に大学で習ったという人のブログがあって
  ・・・・・・
 (北村宗彬先生が言うには)英会話のためには文法なんて中2程度+(would like to などを含む)仮定法で十分だ(ということだった)。これは本当にそうだ。今,大学でこういう話を学生にすると大いに反発するのだが実際これで十分だ。そして,だからこれから「話す方法を学ぼう!」。
  ・・・・・・
と書かれてありました。この北村宗彬先生の「基礎英語」で聴いた中で今でも覚えているのは発音です。それは,英語には[オ]という短母音はなく,[ア]と[オー]のどちらかだと習ったことです。たとえば,longという単語は,[ロング]ではなく[ラング]だというわけです。
 ところで,私は,これもまたいつものように背伸びして,はやくそのあとに放送されていた「英語会話」という番組が聞けるようになりたいものだと思っていたのですが,その「英語会話」の前身が「カムカムエヴリバディ」だったのです。
 「カムカムエヴリバディ」は第2次世界大戦終了後の1946年(昭和21年)2月から1951年(昭和26年)2月までは平川唯一さんが担当し,「カムカム英語」として親しまれたということは,私は,ずいぶん以前から知っていましたが,こうした番組がはじまると,そのときやっと脚光を浴び,マスコミが騒ぎ立て,終わるとともに忘れさられるというのがこの国のミーハー的社会の姿です。だから,いつも私はまたか,何やっとるの… と思ってしまうわけです。

 さて,中学校の2年生になった私は「基礎英語」を卒業して「続・基礎英語」に挑戦しました。「続・基礎英語」の講師は安田一郎という有名な人で,「基礎英語」とはうって変わって,文法重視,言い換え練習を繰り返す,リズミカル,かつ,ハードな番組でした。でも,ためになりました。初学者にはこうした練習が大切だったのでしょう。
 そんな「お勉強」中心だった「続・基礎英語」もそこそこに,中学校3年生で,待望の「英語会話」を背伸びして聞きはじめました。この番組はその後,ずっと聞き続けました。そのときの「英語会話」は松本亨という人が講師だったのですが,松本亨先生は 1951年(昭和26年)4月から1972年(昭和47年)3月までという21年間も「英語会話」を担当した英語教育のカリスマのような人でした。松本亨先生の次が東後勝明先生で,すごく発音がよかったのが印象に残っています。
 一般の人を対象としたこのころの「英語会話」という番組は,学校の英語とはまったく違った非常におおらかでのんびりしたものでした。私は英語の専門家になるわけでなく,語学というのはコミュニケーションが取れればいいというのが目標だったから,いわゆる受験英語とはまったく違ったこうした番組を楽しむことができたことがとてもよかったと,今にして確信します。

  ・・
 資格試験も入学試験も順位争いも無縁で語学の才能のまるでない私が「お前の英語は一般の日本人の話す(学校で習ったような)英語と違う」とネイティブに言われるブロークンな英語でもちゃんと意思の疎通ができて,海外に出かけては多くの友人と国籍も言葉の違いも関係なくお話をしたり食事を楽しんだりできるようになったのは,語学ならぬ語楽だったからこそであり,また,これぞ,こころがあれば通じるという「カムカムエヴリバディ」の流れをくむ初期のラジオ「英語会話」で知らず知らず身につけたコミュニケーション能力のたまものなのでした。
 思えば,これが私の原風景でした。
  ・・・・・・
 英語は勉強ということではじめるクセがついている
 それではダメです
 英語は口真似遊びという遊びで覚えないと大成しない
  平川唯一
  ・・・・・・
 今日の写真は,私が長年夢だったサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジとニューヨークのブルックリンブリッジを歩いたときのものです。

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 私が中学1年生のとき,つまり,今から50年前,はじめて学校で英語を学びました。ちょうどそのころ,アポロ11号が月に着陸したり,大阪で万国博覧会が開催されたりと,アメリカからいろんなものがやってきて,すごくあこがれました。
 大阪の万国博覧会にオズモンドブラザーズ(Osmonds Brothers)という人気グループが日本にやってきました。
  ・・
 オズモンド家は8男1女で,三男から六男までの4人でコーラスグループを結成,その後,七男のダニーが加わったのがオズモンドブラザーズでした。当時大スターだったアンディ・ウィリアムス(Howard Andrew Williams)のTVショーにレギュラー出演してアメリカのスターとなっていました。 来日したとき,長女マリー(Marie Osmond)と幼稚園児だった八男ジミー(Jimmy Osmond)が加わったカルピスのCMが放送され,ジミーは日本で日本語の歌のレコードも出しました。
 1970年11月,「オズモンズ」(The Osmonds)と改名して,ついに「ワン・バッド・アップル」(One Bad Apple)が全米で大ヒットしました。
  ・・・・・・
 One bad apple don't
 Spoil the whole bunch girl
 Oh, give it one more try
 Before you give up on love
  ・・
 ひとりの悪いコにだまされたとしても,みんなが悪いコじゃないよ。
 もう一度トライしたら…
  ・・・・・・
という歌詞です。
 この曲のヒットで,このグループはアメリカのショービジネスで生き残れたのですね。 私は当時大ファンだったで,「ワン・バッド・アップル」のレコードを買いました。この歌,今も歌えます。
 1970年の大阪万博を中学校の遠足で見にいったときに,偶然,彼らが万国博覧会のホールでやっていたアンディ・ウィルアムスのコンサートに出演していて,ショーの合間の時間に会場を歩いていたのを目撃したことがあります!
  ・・
 その後,七男と長女のダニー&マリー(Donny & Marie Osmond)という兄妹のTVショーが放送されてアメリカで人気を博したという噂を聞きましたが,来日はしませんでした。
 それ以来,日本ではまったく噂を聞かなくなって(実際はラスベガスで活躍していたらしいのですが),気になっていたのですが,なんと,2000年に私がアメリカに行ってロサンゼルスでベースボールを見たときに,始球式でダニー・オズモンドが出てきて驚きました。

 アンディ・ウィリアムスは日本でいえば加山雄三のような歌手で,映画「ティファニーで朝食を」(Breakfast at Tiffany's)のテーマ曲「ムーンリバー」(Moon River)がヒットし,そのころ日本にもたびたび来日しました。紅白歌合戦にも出たことがあります。
 アメリカでは,そうした大スターが晩年,ミズーリ州のブランソンという町で常設の自分のシアターを作って,そこでショーを開いています。ブランソンにはそうしたシアターが一杯あります。アンディ・ウィリアムスもまた,晩年,ブランソンの「ムーンバーシアター」で連日ショーをやっていて,オズモンズも出演していたようです。
  ・・
 私は,何と偶然,2015年にブランソンに行ったのですが,その3年前にアンディ・ウィリアムスは亡くなっていて,ショーを見ることができませんでした。オズモンズはショーを続けていましたが,残念ながら,私の行ったときに限って,ショーがなく,見ることがかないませんでした。
 あとで知ったことには,2009年に歳をとったオズモンズは解散して,それ以降は若い3人だけで続けていたということです。だから,もし私が行ったときショーをやっていたとしても3人だけのオズモンズだったのでしょう。

 オズモンド家はモルモン教徒だったので,2009年のファイナルコンサートはユタ州のソルトレイクシティで行われました。そのときに歌った「ワン・バッド・アップル」の動画と若いときの動画を見比べると私は泣けてきます。これがアメリカンドリームを成し遂げた人生50年のすべてです。同じ年代だし,人生って短いんだよ。何かとても悲しい。
 ファイナルコンサートが行われたというソルトレイクシティの劇場もまた,私は偶然,2016年に行ったことがあるので,これもまた驚きでした。
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 こうして,私とは,もつれあい,しかし,微妙にすれちがった彼らのグループを思い出すと,切なくも懐かしくもなる,というお話でした。


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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 今から50年近く昔,まだ,大学入試は今のような共通テストもなく,国立大学ではそれぞれの大学が独自の試験を行っていました。入口が狭ければ選抜をするしかないから,今と同じように受験は大変でしたが,マークシートなるものもなく,みな,記述式でした。
 思い出は美しく,かつ,懐かしくなるので,それが「古きよき時代」だったのか「古き悪しき時代」だったのかは知りませんが,今になって,当時の学生だった人たちが,そのころに使った参考書を懐かしみ,復刻版が出版されているようです。
 今でも,その時代の本のほうがよかったという人もいますが,今,その時代の参考書で学んでも効果はないかもしれません。というか,知の好奇心を楽しんでいた古きよき時代と,現代のような効率重視のコンピュータ時代では,そもそも受験というゲームのルールが異なるわけです。いずれにしても,人が生きるということ自体が死ぬまでの暇つぶしであって,人生が長いのか短いのかわからねど,その時間を退屈せずにすごす手段のひとつが知性の遊びであるということは変わりません。

 では,そのころの参考書について振り返ってみましょう。
 まず,国語では小西甚一さんが書いた「古文研究法」があげられます。この本が今もすばらしいと私が思うのは「はしがき」と「おわりに」です。ここには,どうして古典を学ぶのかが述べられています。今,こうしたことが書かれている参考書がどれほどあるのでしょうか。学校における古典の授業で,それを学ぶ意義を話してくれる教師がどれだけいるでしょうか。
 次に日本史です。私は,学生時代日本史が好きでしたが,そのときに夢中になって読んだものが笠原一男さんの書いた「詳説日本史研究」でした。インターネットもなかった時代,できるだけ詳しい内容が書かれているものが手元にあって,その内容を知っていることは大切だったからです。ただし,今となっては,このような本に頼らずとも,詳しい情報は検索すればいくらでも見つけられます。しかし,巷にあふれる情報が正しいものであるかそうでないかということを判断するのは,非常に難しい問題です。が,だからといって,教科書に書かれていることが正しかったのかといえば,それもまた議論があるのが難しいところだということを齢をとって知りました。
 英語には山崎貞さんの書いた「新々英文解釈研究」という本がありました。高校のときの教師がこの本を絶賛したのでそれを信じて読んだのですが,はしがきに大正14年1月とあるのにはのけぞりました。英文を漢文を読解するように読んでいた時代,その方法を身につけるには最適な参考書だったのでしょう。この参考書とととも,辞書もまた,研究社の「英和中辞典」という誰しもが使っていたものがあったのですが,私には高くて買えませんでした。この辞書はそののちに第4版が「欠陥英和辞典の研究」という本でやり玉にあげられて,あっという間にその地位を大修館の「ジーニアス英和辞典」に奪われてしまいましたから,評価というのもその程度のものだったのでしょう。こんなふうにして英語を学んでも,本は読めても,今の時代,まったく実用にはなりません。

 そうした参考書を自分で読んで学んだ時代は,現在の共通テストの前身である共通一次テストが実施されたころから雲行きが怪しくなり,参考書は予備校の講師が書いたハウツーものに代わり,学ぶメソッドも添削指導に変わり,受験勉強はドリル化しました。
 IT化の進む現在,知識を暗記するという時代を越えて,学歴とか能力テストのスコアではなく,いかにして必要な情報を正しく効果的に情報機器などを使って早く手に入れてそれを活用することができるかという能力が問われる社会に変わりつつあると私は思います。こうなると,どんなにすばらしい本を読んだところでそうした能力は身につきません。
 しかし,たとえば,50年近く前に大山康晴十五世名人の書いた「大山の将棋読本④居飛車の戦い」を今読んでも,定跡は変化しているので,まったく将棋には勝てないとしても,考え方を知るという面で活用するのなら,今も意義があるのです。そのように,物事にはいろいろな側面があるので,それがいいとか悪いとかという判断は,何を到達目標にするかということで違います。
 いずれにしても,定年後の時間を持て余す私のような不良老人には,何の到達目標もないのだから,50年ほど前に読んだそうした参考書を再読し,若き時代に想いを馳せるのも悪くはありません。しかし,今の若い人がいずれ齢ととったときに,私の生きた時代のような,若きころに想いを馳せた参考書がいったい存在するのでしょうか。


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 日本ではじめて彗星を独立発見したのは1903年(明治36年)の井上四郎さんだそうです。その次が1919年(大正8年)の佐々木哲夫さん,そして,山崎正光さんと続くそうですが,山崎正光さんが発見したのがクロンメリン彗星(27P Crommelin)です。クロンメリン彗星は,周期27.4年のいわゆる天王星属の周期彗星です。
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 1928年(昭和3年),岩手県の水沢緯度観測所に天文技師として務めていた山崎正光さんが発見した彗星は,のち,大英天文協会のクロンメリン博士が軌道を調べたところ,1818年に出現したポン彗星(1818II Pons)と1873年に出現したコッジャ・ウィンネッケ彗星(1873VII Coggia-Winnecke)と同じ彗星であることが判明したので,残念ながら山崎さんの名はつかず,クロンメリン彗星とよばれることになりました。
 これには次のようなおもしろい事情があります。

 クロンメリン彗星は,もともと3つの別々の彗星として考えられていたポン彗星,コッジャ・ウィンネッケ彗星,フォーブズ彗星(1928III Forbes)が,1929年,クロンメリン博士(Andrew Claude de la Cherois Crommelin)の軌道計算によって同一の彗星であることが判明し,それを受けて「ポン・コッジャ・ウインネッケ・フォーブズ彗星」(Comet Pons-Coggia-Winnecke-Forbes)となりました。そののち,軌道を計算したクロンメリン博士にちなんで,1948年に「クロンメリン彗星」とよばれるようになったのです。
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 ポン彗星は,1818年2月23日,フランスのジャン・ルイ・ポンさん(Jean-Louis Pons)がくじら座に最初に発見しました。
 2月27日の観測を最後に天候が悪化し,その後はこの彗星を見ることはできなかったので,軌道計算で算出された値には大きな誤差があり,周期が特定できませんでした。
 コッジャ・ウィンネッケ彗星は,1873年11月10日,フランスのジェローム・E・コッジャさん(Jerome Eugene Coggia)が,その翌日にはフリードリヒ・A・T・ヴィネッケさん(Friedrich August Theodor Winnecke)がヘルクレス座で発見したものです。
 その後,数個の観測がされましたが,11月16日を最後に見失われてしまいました。
 また,フォーブズ彗星は,1928年11月19日,南アフリカのアレクサンダー・フォーブズさん(Alexander Irvine Forbes)が約6等星で発見したもので,この彗星は12月24日まで世界中で追跡されました。日本の山崎正光さんが発見したのはこの彗星なのですが,実は,アレクサンダー・フォーブスさんの発見より前の10月26日に発見していたのです。詳細なスケッチを取り,その後の動きまで観測し,現在の国立天文台である当時の東京天文台に発見の通報をしていましたが,その後は悪天と月明かりで11月10日まで観測することができず,見失なわれてしまいました。
 10月26日のフォーブズ氏の発見を受けて,東京天文台は山崎正光さんが記録したスケッチを元に,クロンメリン氏が軌道計算をし,山崎正光さんとアレクサンダー・フォーブスさんの発見したふたつの彗星が同じものであることが明らかになりました。
 彗星に名前こそつきませんでしたが,山崎正光さんは彗星発見の功労が認められ,アメリカ太平洋天文学会からドノホー賞が授与されました。


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 家にある古い天文雑誌を改めて読んで,というより,考えてみれば,これまで写真を眺めたりしていただけで,多くの記事は読んだことがないので,それをはじめて読んでいます。
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 1974年に発行された「月刊天文ガイド別冊・彗星-その天文学と捜索者たち-」には,山崎正光さんの自伝「私の天文学経路(My path in Astronomy)」が載っているのですが,24ページもあって,文字がぎっしりで,これもまた,これまできちんと読んだことがなく,記事にある写真だけをみて,どこかの田舎のおじさんだなあ,と思っていただけでした。しかし,今回きちんと読んでみて,山崎正光さんがすごい人だと知ってびっくりしました。私はこういう話が好きです。

 山崎正光さんは1886年(明治19年)生まれといいますから,今から135年前の人です。その人が19歳,つまり,1905年(明治38年)に単身アメリカのサンフランシスコに渡り,日本人の農場などで手伝いをしたり,アメリカ人の家族のボーイをしながら,天文学にめざめて,勉強をするなんて,私にはとても信じられたものではありません。
 この人本当にすごいです。
 アメリカに行くといっても船で行くわけだし,今のように簡単にいけるわけでもないのです。
 そしてまた私が驚いたのは,そんな時代に,すでに,アメリカに住んで商売をしていた日本人が少なからずいたということです。
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 山崎正光さんは,渡米後,アメリカでリック天文台に勤めたり,カルフォルニア大学の天文学科を卒業し,反射鏡研磨の技術を習得して36歳のときに帰国。その後は水沢緯度観測所に勤め,1928年(昭和3年)10月27日に光度10等星の彗星を発見したのです。その後,この彗星は軌道計算をしたクロムメリン博士(Andrew Claude de la Cherois Crommelin)の名をつけられてクロムメリン彗星(27P Crommelin)となりました。
 私は,高知県にも行ったとことがあるし,ロサンゼルス郊外のウィルソン山天文台にも行ったことがあるし,水沢緯度観測所(現在の国立天文台水沢)にも行ったことがあって,偶然,山崎正光さんの足跡を訪ね歩いたということになるわけで,ほんとうにおどろきました。

 山崎正光さんというのは,ものすごく頭のいい人に思えます。実際,そうだったのでしょう。そして,山崎正光さんがかかわりをもった人たちも,当代一流の人たちばかりです。
 一体,この時代の日本というのは,どんな国だったのでしょう。
 今のように,コンピュータがあるわけでもないし,英語だって,それを身につけるのは並大抵のことではないと思われます。であるのに,今の私たちができないようなことを平然とやり遂げているのだかから,何だか違う人種のような気さえします。
 それでも,私の大学時代は,大学の教授といえば,神様のような存在でした。大学もまた,アカデミックさがありました。そんないい意味で権威のあったこの国はいったいどこに行ってしまったのでしょう。

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