しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:星を見る > 望遠鏡・天文台

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 岩手県奥州市水沢に国立天文台水沢VLBI観測所があります。国立天文台の中で,現存する一番古い観測所のひとつで,1899年(明治32年)に設置されました。
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 明治時代,天体観測の面でも欧米各国の科学技術を導入して,正確な緯度を測定する事業を行うために設置された緯度観測所が前身です。現在も,国際緯度観測事業を行いつつ,測地学観測の観測所として機能しています。
 緯度観測所では,日本及びアジアにおける国際測地学研究の拠点として,測地学に関連する研究及び測定を行いました。この観測事業の実施を行った木村栄教授が近代測地学の世界的業績であるZ項を発見した場所として有名です。
 現在,これらの観測に用いられた機材開発技術を応用して,月測地学探査に必要な機器開発を実施し,月探査計画での観測データ解析も行っています。また,相対基線法による超長基線電波干渉法(Very Long Baseline Interferometry=VLBI)観測で精密な銀河マップを作製することを目的に,日本各地にあるVLBI観測点を専用ネットワークで結んだ観測点の解析センターの役割を担っています。これらのデータ解析には精密な時刻測定が必要なため,国内では数少ない協定世界時(UTC)を刻む原子時計を運用し,データ解析に活用し,研究観測から得られたデータは,日本電信電話の時報(117),情報通信研究機構のJJY,NHKのラジオ放送の時報などに活用されています。

 2019年から,ブラックホールの影を世界ではじめて撮影に成功したチームに参加した本間希樹教授が所長を務めていますが,2020年度の天文台関連の予算が半分程度に減額されることとなって電波望遠鏡の停止や人員の補充が行われないなど研究への影響が懸念されていましたが,他の研究により予算が確保され電波望遠鏡の維持は可能となったそうです。また,2021年には必要最低限の研究が可能な予算要求がほぼ満額で決定されたといいます。

 私は,この観測所のことは昔から知っていましたが,光学望遠鏡があるわけでないからまったく興味もなく,どこにあるのかも知りませんでした。
 2019年,宮沢賢治にちなんだ花巻に興味をもち,また,ブラックホールの写真撮影に成功した本間希樹教授が所長ということで行ってみたくなって,東京から深夜バスに乗って出かけてきました。行ってみて,私はこの地が大好きになりました。また,水沢VLBI観測所で行っている研究にも興味をもちました。
 奥州市は遠いところでしたが,今は,県営名古屋空港から花巻空港までFDAが飛んでいるので,行くことは容易になったので,また,訪れてみたいものです。


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 花山天文台は京都市山科区の花山山山腹に位置する天文台。京都大学大学院理学研究科附属の施設で,1929年(昭和4年)に設立されました。 天文台のある山は標高221メートルの花山山で「かざん」あるいは地元では「かさん」とも読まれています。
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 京都大学における天文学研究は1897年(明治30年)に設立された京都帝国大学理工科大学にさかのぼります。当初は大学敷地内において観測を行っていて,佐々木哲夫によるフィンレー彗星 (15P/Finlay) の観測はこの時期のことです。
 1921年(大正10年)に理学部物理学科が分割されて宇宙物理学科が設置されましたが,大学付近における市電の開通などに伴い観測環境が悪化したので移転が検討されるようになりました。
 花山山にある土地が地主から大学に寄付されたので,2年の工事によって天文台が建設され, 1929年(昭和4年)に花山天文台が設立されました。初代天文台長は山本一清でした。
 京都帝国大学附属の花山天文台は,東京帝国大学附属の東京天文台(現・国立天文台)と並んで日本における天文学研究の拠点でしたが,京都と東京では天文学用語が異なっていることもしばしばでした。東京で「惑星」とよんでいたのに対して,京都では「遊星」,また,1930年(昭和5年)に発見されたPlutoについて,東京では「プルート」を用いたのに対し,京都では野尻抱影が提唱した「冥王星」を早くから受け入れていました。

 設立から長い間,観測施設施設として利用されてきましたが,京都市の人口増加に伴って光害や大気汚染などの環境の悪化により,1968年(昭和43年)に新設されたの飛騨天文台設立にその地位を譲りましたが,現在でも「教育施設」として重要な役割を果たしています。
 花山天文台は,2013年「京都を彩る建物や庭園」に選定され,2014年に「京都を彩る建物や庭園」に認定されました。

●口径45センチメートル屈折赤道儀
 この望遠鏡は,1927年(昭和2年)理学部宇宙物理学教室で購入し,1929年(昭和4年)に花山天文台が創設されたとき移設されました。
 当初は口径30センチメートルのレンズがついていましたが,1969年(昭和44年)に性能向上のため,カール・ツァイス製の45センチメートルレンズに換装され,これによって,焦点距離が675センチメートルと伸びたので鏡筒が長くなってしまいました。
 そこで,架台とのバランスが崩れるのを防ぐために,対物レンズから入った光を末尾の反射鏡で受けて折り返し,鏡筒の真ん中付近に接眼レンズを設けるというユニークな工夫がされているので,一般的な屈折式の望遠鏡とは少し違った外観となっています。
 これがまあ,京都らしいというか,私は好きです。
●口径70センチメートルシーロスタット
 1961年(昭和36年)に設立された太陽館に設置されて,太陽の分光スペクトル観測望遠鏡として活躍しています。現在は大学院生の研究指導や理学部学生に対して課題研究と課題実習の実習教育を実施しています。


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 日本の天文台について,これまで三鷹,飛騨,岡山と,3回書きましたが,その続きです。
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 木曽観測所は,長野県南西部に位置する木曽町三岳の標高1,120メートルの尾根伝いに広がった緑豊か な台地に建設されています。
 木曽観測所は,1974年(昭和49年)に東京天文台の観測所として開設されました。1988年(昭和63年)に国立天文台に改組されたのに伴って,国立天文台の組織から離れて,現在は,理学部附属天文学教育研究センターの観測所となっています。
 木曽観測所の設立目的は,口径105センチメートルシュミット望遠鏡による銀河系内外の諸天体の観測的研究,並びに夜天光の観測を行なうことでした。

●口径105センチメートルシュミット望遠鏡
 木曽観測所のシュミット望遠鏡は,補正板口径が105センチメートル,主鏡は150センチメートル,焦点距離は330センチメートルで,F比は3.1です。
 木曽観測所では,シュミット望遠鏡の広い視野を活かした様々な観測プロジェクトが実施されていました。
 木曽観測所におけるシュミット望遠鏡の観測プログラムは,パロマ天文台のシュミット望遠鏡である「サミュエル・オシン望遠鏡」(The Samuel Oschin telescope)のように全天域を隈無く観測するのではなく,掃天探査を要する研究テーマを主とし,個別の研究 テーマをこれに加える形で月ごとに編成されました。
 建設当時は写真乾板が観測の主流だったのが,最新の固体撮像素子技術を導入して微光天体を高感度かつ精密に測定する必要が生じたため,1987年にCCDカメラの開発が開始され,さらに,2012年には超広視野モザイクCCDカメラに置き換わりました。また,2019年からは,さらに超広視野のCMOSカメラ「Tomo-e Gozen」が本格運用を開始しました。
 私は,このシュミット望遠鏡にとても親しみがありました。そして,ついに,2019年の公開日に,その実物に触れることができました。

 こうしていろいろと書いていると,何もかも,このコロナ禍の前に夢が実現したことに幸運を覚えます。
 見学してわかったことは,この望遠鏡もまた,老朽化したものをなんとか生き延びさせて活躍の場を与えようと苦労していることです。しかし,シュミット望遠鏡という形式自体が今では古いことと,赤道儀という架台の形式もまた,時代に取り残されていることから,現状を維持することがたいへんだということです。
 そうしたことも,何だか,30年以上前に買って,今も使っている私の古びた望遠鏡と同じように,親近感を抱きます。

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 現在の私は「Sky & Telescope」というアメリカの天文雑誌だけを愛読しています。以前,ときどき購入して読んでいた「月刊天文ガイド」「星ナビ」という日本の天文雑誌はまったく手にすることがなくなりました。それは,歳をとった私の興味を満たさなくなってしまったからです。
 そんなわけで,これまで知らなかったのですが,先日,ひさしぶりに書店でこれらの雑誌をパラパラ開いてみたら,高橋製作所の広告がないのに驚きました。調べてみると,ネット上ではすでにずいぶん前から話題になっていたようです。
 私がはじめて「月刊天文ガイド」を購入したのは,1968年3月号でした。昨年引っ越しをしたのを機会に,持っていた雑誌のほぼすべてを破棄してしまったので,今も手元にあるのは,はじめて購入した1968年3月号だけですが,久しぶりにそれを見てみたら,そのころは多くの望遠鏡メーカーがあって,たくさんの広告が載っていました。しかし,今思うと,現在のニコンである日本光学工業と五藤光学研究所以外は,どの会社も小さな企業で,ほとんどの部品は下請けから買い集めてそれを組み立てて製品にしていただけように思います。そんな業界に新風を吹き込んだのが高橋製作所でした。
 多くの小さな会社はなくなってしまいましたが,数々の荒波を乗り越えて,今も存在しているのが高橋製作所とビクセン,そして,中国製の望遠鏡を輸入して販売しているケンコーくらいです。

 今から50年ほど前,望遠鏡は子供たちの憧れの存在でした。現在のアマチュア天文愛好家のほとんどは,そのころの子供がそのまま齢をとった人ばかりなので,かなりの高齢となっています。そして,今の子供たちの多くは天文に興味がありません。そもそも,興味をもとうにも星が見えないのだから,どうにもなりませんし,星空が美しいという触れ込みで売っている観光地に出かけることはあっても,わざわざそのために天体望遠鏡を買おうという人はほとんどいないでしょう。
 そんな時代に,天体望遠鏡「なんて」商売になるのでしょうか?
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 高橋製作所は1932年(昭和7年)に創立された鉄鋳物の製造会社でした。第2次世界大戦後に望遠鏡の製造をはじめた当初は,SWIFTというブランドの望遠鏡を海外に輸出していたようですが,1967年(昭和42年)に,タカハシブランドの望遠鏡を発売し,これが当時連載されていた「月刊天文ガイド」の望遠鏡をテストするという記事に取り上げられて好成績を残したことで,脚光を浴びました。そして,P型というハンディで高性能の望遠鏡を発売したことで,トップメーカーに躍り出たのです。
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 そのころは,高橋製作所から新製品が続々と生まれて,私もずいぶん購入した覚えがありますが,そうした購買意欲は「月刊天文ガイド」あってこそで,この雑誌が存在していなければ,この会社は存在していなかったことでしょう。それが,恩人である雑誌から広告の掲載を撤退してしまうというのは…。

 あるころから,高橋製作所は,いったいだれが買うのやら… と思うような,高性能,かつ,高価な望遠鏡しか製造しなくなってしまいました。これでは,あこがれていても手が出ません。さらに,ここ数年は,ほとんど販売している製品が同じままです。かつてのような,新製品にときめくこともなくなりました。
 それでも,その昔「月刊天文ガイド」創刊当時に,天体望遠鏡に憧れていた人たちが,やがて,定年退職を迎え,お金持ちになったので,再び昔の趣味を取り戻し,高価な機材を購入する人も少なくなかったと思うのですが,そうした人たちも,このような趣味を卒業する歳になってきました。とはいえ,車1台もの値段がするのでは,若い人には手が出せるものではありません。
 そんな事情もあって,風の噂では,日本国内ではあまり売れていないとか。これが,雑誌に広告を載せるのをやめた理由のひとつなのでは,ともいわれています。

 そのような理由だけに限らず,今や,日本中,満足に星が見える場所すらなくなってしまったことのほうが大きいのかもしれません。私が星見をしていた場所も,年々明かりが増えてきたり,道路できたりして,撤退を余儀なくされています。
 しかし,オートキャンプ場や,満天の星が見られることを売りとするようなホテルや施設が作られていることを考えると,満天の星を見たいという願望は少なくないものと思われますが,そうした人たちの願望と,現在販売されている望遠鏡に対する期待とが一致していないように感じます。これでは,ほんの一部の,高齢化した往年の天文ファンだけが,今も変わらず天文雑誌の写真コンテストに応募するために,高価な機材を使っているわけですが,そうした人たちは,もう絶滅危惧種となりつつあります。
 今や,若い人の価値観はそんなところにはないのです。
 たとえば,スマホで制御できて,軽くて,持ち運びが簡単にできて,自動で極軸をあわせてくれるような架台や,デジタルセンサーとコンピュータで画像を見せてくれるようなものが必要なのです。また,たまに星がたくさん見えるところに出かけたとき,美しい星の写真を撮りたいと気軽に持っていけるような機材があるといいなあと思っても,ビクセンだけがかろうじてそうした需要を満たす製品を販売しているだけで,高橋製作所の製品には,そうした需要に応えることもないし,また,そんな技術力もないようなのです。

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 「岡山の反射望遠鏡」というのも,子供のころの私には憧れの望遠鏡でした。
 国立天文台の岡山天体物理観測所は,岡山県浅口市と岡山県小田郡矢掛町にまたがる竹林山山頂付近にあります。1960年(昭和35年)に「東京大学附属東京天文台岡山天体物理観測所」として開所し,2018年(平成30年)に観測プロジェクトが終了しました。
 現在は,国立天文台ハワイ観測所岡山分室によって管理されていて,共同研究グループによって機器の保全及び利用がなされています。

 標高372メートルの竹林寺山頂に位置しているこの場所は晴天率が高く,また,気流が安定していて,光・赤外観測にはうってつけの場所であったというのが設営された理由でした。また,標高が低いために山頂への道路等も既に整備されていたために運搬や調整などにおいて支障をきたさない点が評価されたといいます。
 私は,こんな都会に近いところに作ったらすぐに空が明るくなってしまうのに,と思ったものですが,実際行ってみると,思ったよりも山奥でした。そして,この山頂は,実際,不思議なくらい雲が切れて晴天率が高いのです。
 しかし,それでも,今は空も明るくなって,標高が高くないのは,利点というよりも,今となってはそれはデメリットでしかないようです。
  ・・
●口径188センチメートル反射望遠鏡
 主砲はイギリスのグラブパーソンズ社製の口径188センチメートル反射望遠鏡で,クーデ焦点に置かれた高分散エシェル分光器 (HIDES=HIgh Dispersion Echelle Spectrograph) を使った恒星の分光観測が精力的に行われたそうです。
 今はどうか知りませんが,私が行ったときには,ガラス越しに望遠鏡の姿をみることができました。
  ・・
●口径91センチメートル反射望遠鏡
 口径91センチメートル反射式望遠鏡は日本光学工業(現在のニコン)製の国産1号機となる大型反射式天体望遠鏡でした。
 私は一度でいいからその姿を見たかったのですが,こちらは見学ができません。

 こうした施設が作られたころは,今とは違って海外に観測施設を作るなどというのは夢のことだったので,日本国内でなんとかと工夫を凝らしたのですが,結局,日本国内で満足に天体観測ができるような場所はほとんどなかったと思われます。
 そしてまた,今となっては,ここに設置されたような望遠鏡は古く,最新の観測には役に立たなくなってしまいました。
 現在は,この地に,民間からの資金援助により,京都大学大学院理学研究科宇宙物理学教室・附属天文台,名古屋大学大学院理学研究科光赤外線天文学研究室,国立天文台岡山天体物理観測所,および,ナノオプトニクス研究所との連携研究により,国内最大の3.8メートルの新技術天体望遠鏡が建設されて,京都大学理学研究科附属天文台が中心となって国内の大学連携により共同運用がされ,突発天体や星形成領域の観測をしているそうです。 


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 「三鷹の東京天文台」と並んで,「京都大学の飛騨天文台」もまた,若いころに,飛騨天文台に口径65センチメートルの屈折望遠鏡が設置されたという写真が「天文年鑑」の表紙を飾ったときに知って,それを見にいきたくなったものです。
 そのころ,というのは,今から50年ほど前のことですが,アマチュアの使う天体望遠鏡は,口径65ミリメートルの屈折赤道儀というのがポピュラーでした。その10倍の口径の,同じような形の巨大な屈折望遠鏡が存在するということに当時の私は興味をもったわけです。

 飛騨天文台は,京都大学大学院理学研究科附属です。高山市の大雨見山の山上にあります。
 それまで,京都大学の観測拠点は,京都市の花山天文台や生駒山太陽観測所だったのですが,京都市の近代化に伴って精密観測が困難になってきたために,1968年(昭和43年)に移設されたものです。
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●65センチメートル屈折望遠鏡
 65センチメートル屈折望遠鏡は,1972年(昭和47年)に完成しました。
 飛騨天文台の安定した空気層環境で,長焦点を利用して惑星や彗星の核など,太陽系天体の精密を要する目的で設置されたということです。
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●ドームレス太陽望遠鏡
 ドームレス太陽望遠鏡は太陽研究のための望遠鏡で,口径60センチメートルのドームレス・クーデ式太陽専用望遠鏡として,カールツァイスによって製造されました。国内では屈指の大きさの太陽像を得ることができるものです。
 太陽はその表面で起こる様々な高エネルギー爆発現象の物理構造を詳細に解析できる唯一の天体で,宇宙の天体活動を理解する基盤となります。
 1979年(昭和54年)に完成したドームレス太陽望遠鏡は,地上観測で望み得る最高の空間分解能が得られるように設計されていて,高分解単色太陽像の撮影などを通して太陽活動現象のメカニズムを解明すると共に,宇宙電磁プラズマ現象の謎に迫ろうとしています。

 飛騨天文台は国立公園内にあります。一般には公開されていないのですが,見学会が行われていて,2010年(平成22年),私もそれに参加して,待望の望遠鏡を見ることができました。
 いろいろと解説してもらったうちで,この天文台が太陽観測に力をいれていることがわかったのですが,それまでは,太陽なんてまったく興味がなかったので,知識もありませんでした。説明を聞いて,太陽もおもしろいものだということを知りました。
 しかし,見学会では,65センチメートルの屈折望遠鏡の実物は見られましたが,その時点で,その望遠鏡がどのように使われているのかは説明もなく,よくわかりませんでした。実際のところ,今の時代,こうした旧世代の望遠鏡の活躍する場は限られている,というか,全くないように思いました。
 この国では,昔から東京大学と京都大学はライバル関係にあって,その内情は私にはよくわからないし,それを書くことが目的ではないから深入りしませんが,現在,東京大学の天文台は国立天文台として広く研究が行われているのに対して,飛騨天文台などは京都大学の付属施設として研究が行われているわけで,その関係が私にはよくわかりません。


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 以前,諸外国の天文台について書きました。今日からは,日本の天文台についてです。まずは,三鷹市にある国立天文台です。

 私にとって,三鷹という地名は東京天文台と同等でした。
 子供のころに見た図鑑に載っていたのは,「三鷹の東京天文台」にある(あった)大きな屈折望遠鏡と電波望遠鏡でした。子供のころの憧れというのはずっと先まで大きな影響力を与えるものです。そこにいつかは行って,実物を見てみたいものだと念願していました。
 あれから機構が改革され,東京天文台は,国立天文台となりました。そして,星が満足に見えない三鷹に,現在あるのは,日本の天文学のナショナルセンターです。かつての私の憧れの機材は,今は文化財となりましたが,私は,研究用の現役機材よりも,こちらのほうに興味があるのです。

 三鷹というところにはじめて行ったときは,落ち着いた町だなあ,という印象でした。天文台はJRの三鷹駅からはずいぶんの距離がありましたが,歩いていると,天文台のあたりは,東京外国語大学,国際基督教大学,深大寺,植物園などがあって,すばらしいところでした。
 日本において,天文台は1878年(明治11年)に本郷で東京大学観象台としてはじまり,1888年(明治21年)には東京大学東京天文台として港区麻布板倉に移されました。現在の三鷹大沢への移転は1914年(大正3年)から1924年(大正13年)にかけて行われ,その後,1988年(昭和63年)に文部省所管の「国立天文台」と改められ,国際協力事業の積極的な推進をめざし,さらに国立大学の共同利用機関として位置づけられ現在に至っています。
 今では,研究用の観測基地は世界中に広がり,三鷹はそのセンター的な役割を担っています。

 大正,昭和に建設された施設のうち現存のものは,文化財として,常時,または,期日を決めて公開されていて,見学することができます。
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●第一赤道儀室
 1927年(昭和2年)に設置されたカール・ツァイス社製の口径20センチメートル,焦点距離359センチメートルの赤道儀は,速度調整機構付重錘式時計駆動といって重力により赤道儀内の錘が下に下がることを利用して天体を追尾するものです。
 この望遠鏡では,天気がいいと黒点を見せてもらえます。私も何度も見ることができました。
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●大赤道儀室
 私の憧れだったのが,1929年(昭和4年)に設置された有名なカール・ツァイス社製の口径65センチメートル,焦点距離1,021センチメートルの屈折望遠鏡です。この望遠鏡が大赤道儀室にあります。
 現役時代は,ドームの床全体がエレベータ式で昇降するつくりだったそうですが,退役後は固定されていて,もはや,星を見ることはできません。2001年(平成13年)に「天文台歴史館」となりました。
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●太陽塔望遠鏡
 1930年(昭和5年)に建設された地上5階、地下1階建ての建物で,ドイツのベルリンにある「アインシュタイン塔」と同じ目的で建造されたため「アインシュタイン塔」といわれます。
 一般相対性理論から予見される重力効果を観測する目的で作られたのですが,重力効果を観測することはできませんでした。しかし,太陽黒点観測や太陽スペクトル観測などに成果を挙げ,1968年(昭和43年)に研究観測を終了しました。
 通常は公開されていないので残念だったのですが,幸運なことに,私は2018年(平成30年)の特別公開で内部を見ることができました。
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●太陽電波望遠鏡
 先に書いたように,私が子供のころに見た図鑑に載っていた電波望遠鏡ですが,現在は存在しません。その跡地に案内板だけが設置されています。
 一度,見たかったものです。


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  以前,オーストラリアの天文台を紹介したので,今日はニュージーランドにある天文台の紹介をしましょう。
 ニュージーランドの南島の中央マッケンジー盆地にテカポ湖という星空の美しい場所があります。テカポ湖は世界一星空が美しい場所という触れ込みで,通称・世界遺産ということになっていますが,実際は,そうした名目の世界遺産はありません。実際,とても魅力のあるところですが,観光地化されてしまい,観光客が多すぎです。

 そのテカポ湖のほとりのジョン山海抜1,031メートルの位置に所在するのがマウントジョン天文台(Mount John University Observatory=MJUO)です。
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 マウントジョン天文台には口径0.61メートル望遠鏡が2台,口径1.0メートル望遠鏡が1台,口径1.8メートル「MOA 望遠鏡」が1台,観光用の口径0.4メートル望遠鏡が設置されています。
 1960年,アメリカのペンシルベニア大学が南半球での天体観測を目的とする天文台の設置を決定し,1963年にカンタベリー大学と学術間協定を帰結し天文台の共同利用とニュージーランドでの研究拠点として,1965年開所しました。
 ペンシルベニア大学の研究者が定年退職を迎えたことによりアメリカとニュージーランドの共同研究は終わりを遂げ,1975年からはカンタベリー大学付属研究施設となりました。
 1982年にアメリカ空軍が設置した地上局は閉鎖され、建物はニュージーランド政府へ移譲されました。
 1996年,日本とニュージーランドの共同研究が開始され, 2005年には観光客用の望遠鏡も設置されました。
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 日本の名古屋大学の天文台もあるのですが,聞いてみると,この天文台を使用していた教授が定年で退職してしまったので… という話でした。

 私はテカポ湖には2016年と2018年の2度行って,南半球の星空を見ることができました。
 マウントジョン天文台は,テカポ湖を見下ろす山の上にあって,お昼間は誰でも山頂まで登ることができます。天文台自体は公開されていませんが,山頂にはアストロカフェという名のカフェがあって,コーヒーを飲みながらテカポ湖の姿を見ることができます。
 夜に登るには天体観望ツアーに参加する必要があって,個人で登って星見をすることはできません。 
 テカポ湖畔は夜になると観光客が集まってくるのでけっこう光があって,私は,そこから離れたいい場所がないかと探し回ったのですが,なかなか見つけることができませんでした。
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 現地の人が,どうしてこれだけの好条件なのに,多くの天文台が建設されないのか,といっていましたが,ここは観光地すぎることと,標高が低いので,専門的な高度な天体観測にはいまいちの場所です。そこで,天文台といっても,大学のいち研究者が設立したような設備しかなく,その研究者が退官してしまうと,どうやら,その後は,置き去りにされてしまったようです。
 南半球で本格的な研究をする施設をつくるとなると,標高の高い南アメリカのアンデス山脈がその場所となるのも当然の成り行きですが,一般の人が南半球の星空を一度でいいから眺めてみたい,というときは,テカポ湖畔はよい場所でしょう。

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 シドニーの都心THE ROCKSにあるシドニー天文台(Sydney Observatory)はオーストラリアで最も古い天文台で,1857年から1859年にかけて建てられました。
 シドニー湾に沿ったシドニーの中心部ハーバーブリッジの側の丘の上にあって,その近くには有名なオペラハウスもあります。
 天文台があるのは,1790年,最初の風車が作られたことで「風車の丘」(Windmill Hill)として知られていた場所で,1804年以降はフィリップ砦(Fort Phillip)が設けられていました。
 シドニー天文台はシドニーの砂岩を使いイタリア式の建築で作られています。シドニーの主要な建物でははじめてイタリアの盛期ルネサンス様式のパラッツォとイタリアの別荘のふたつの建築の流れを組み合わせたものです。

 作られた当時の天文台の最も重要な役割はタイムボールタワー( the time-ball tower)を通して時間を提供することで,毎日午後1時ちょうどに,塔の上のタイムボールが落ちて正しい時刻を知らせました。今でも屋根の上にその十字の棒と丸い玉を見ることができます。
  1901年にオーストラリア連邦が成立し,気象学は1908年から連邦政府の機能となり,天文台はより天文学的な役割をもつようになりました。また,シドニーの新聞に太陽、月、惑星の昇る時間と沈む時間を提供するなど,多くの情報を提供するようになりました。
 1970年代半ばになると,大気汚染と都市の光の問題で天文台での仕事が困難になったので,1982年,ニューサウスウェールズ州政府はシドニー天文台を天文学および関連分野の博物館に転換することを決定しました。

 現在は,オーストラリアで最も古い望遠鏡である1874年に建てられた40センチメートルのシュミットカセグレイン望遠鏡と29センチメートルの屈折望遠鏡が存在していて,一般に公開されています。
 天文台は,展示を見るだけなら無料ですが,有料のプラネタリウムや観望会もあります。日本でいう科学館みたいな場所です。
 私がこの天文台を知ったのは,NHKBSPで放送されている「コズミックフロント」で紹介されたことですが,ちょうどそのころにシドニーに行くことになったので,寄ってみました。シドニーは美しい街ですが,駐車場の料金が異常に高く,車を停めるのに苦労したのが一番の思い出です。あのド広いオーストラリアなのに,意外なことです。だから私は大都会はきらいです。
 シドニー天文台のプラネタリウムを見たいとも思いませんでしたし,観望会も,また,星が満足に見られないシドニーという大都会で星を見る気もなかったのですべてパスして,無料の展示だけを興味深々でたっぷり見学しました。


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 オーストラリアの天文台の紹介をしています。私が行きたかったサイデンスプリング天文台(Siding Spring Observatory)とパークス天文台(Parkes Observatory)についてはすでに書きました。今日はポールワイルド電波天文台(Paul Wild Observatory)について書きます。

 オーストラリアの東側内陸部を南北に走るA39という番号の道路は,メルボルンとブリスベンを結ぶ道路で,天文台街道です。南から順に,パークス天文台,そして,クーナバラブランという町の郊外にサイデンスプリング天文台があります。さらに北に走るとナラブライ(Narrabr)という町があって,ポールワイルド電波天文台は,ナラブライの町から25分ほど行ったところにあります。
 道路案内にしたがって走ってナラブライの郊外に出ると,やがて天文台の入口があったのでそこを入って行くと,驚くことにカンガルーの群れがお迎えでした。
 脅かさないようにそっと車を走らせるのですが,その気配を感じて飛び跳ねて去って行くのですが,カンガルーにもおマヌケなヤツがいて,道道と車の前を横切って行ったりします。オーストラリアの道路にはよくカンガルーの死体があるのですが,おそらく,そんなおマヌケなカンガルーが惹かれるのでしょう。
 やがて,天文台の建物とパラボラアンテナが見えてきました。ポールワイルド電波天文台は,予想したよりずっと広くしかも巨大でした。

 ポールワイルド天文台は天文学者ポールワイルドにちなんで名づけられました。
 この天文台は,オーストラリアの科学機関であるCSIROによって運営されています。また,太陽観測所もあって,これはオーストラリア気象局の宇宙天気サービス部門によって運営されています。CSIRO(Commonwealth Scientific and Industrial Research Organisation)というのは,オーストラリア連邦科学産業研究機構のことで,オーストラリア政府の科学研究を担当する機関です。天文学に限る研究施設ではありません。
 ポールワイルド天文台の現在の施設は,1988年に運用を開始したオーストラリアコンパクト電波干渉計(Australia Telescope Compact Array = ATCA)です。これは,オーストラリア国立望遠鏡機構(Australia Telescope National Facility = ATNF)が運営を行う電波望遠鏡です。現在稼働中の電波干渉計としては唯一南半球に立地し,北半球の望遠鏡からでは観測することのできない南天の天体の観測に威力を発揮しています。
 ATCAは口径22メートルのパラボラアンテナ6基からなる電波干渉計で,6基のアンテナのうち5基は東西3キロメートル南北214メートルのT字型のレールの上に配置され,もう1基は東西レールの西の端からさらに西に3キロメートルのところに固定されています。5基のアンテナの位置を年に何度か変更することによって,様々な基線長での観測を可能にしています。名前に「コンパクト」と入っているのは,オーストラリア国内8基の電波望遠鏡を結合したVLBIシステムである長基線電波干渉計 (Long Baseline Array: LBA)と区別するためということです。また,2007年には,コンパクトアレイに長さ7ミリメートルの電波を受信できる受信機が装備され,NASAが宇宙船を追跡するのにも役立っているということです。
 天文台は一般に公開されていて,ビジターセンターでは,さまざまな情報ディスプレイや展示がありました。私の思い出に残っているのは,素朴なこの施設とともに,何といっても,先に書いたカンガルーたちでした。


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 星の美しいオーストラリアには,ブリスベンからシドニーまでの約1,000キロメートル,内陸を走るA39に沿って,ポールワイルド電波天文台(Paul Wild Observatory),サイデンスプリング天文台(Siding Spring Observatory),パークス天文台(Parkes Observatory)といった世界的に有名な天文台があります。それらの天文台を私は順に訪れました。
 今日は,パークス天文台について紹介します。
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 シドニーからクーナバラブラン(Coonabarabran)までは,直接行けば車で5時間ほどですが,クーナバラブランよりも南にあるパークスを経由するとパークスまで5時間,パークスからクーナバラブランまで2時間と,合計7時間ほどの距離になります。 シドニーの高速道路を通り,片側1車線でありながら制限速度110キロメートルのオーストラリアの典型的な郊外の道路を走っていくと,パークスの町が見えてきます。パークスは思ったよりも大きな,そして美しい町で,天文台は町から北に行ったところにありました。

 パークス天文台は,口径64メートルの電波望遠鏡(CSIRO Parks Radio Telescope)を核とする電波天文台です。南半球ではアメリカ航空宇宙局のディープスペースネットワーク・キャンベラ深宇宙通信施設の口径70メートルに次ぐものです。
 パークス天文台を有名にしたのは,アポロ11号の月面着陸の際にテレビ中継の映像を受信したことです。もともとはほかの追跡基地をバックアップするための場所だったのに,打ち上げ間際の変更によって,アメリカの正反対の国にあるこの電波望遠鏡が大仕事を仰せつかることになったのです。
 この出来事を元にして2000年に制作された映画が「月のひつじ」(The Dish)でした。
  ・・・・・・
 1969年7月,アポロ11号が人類初の月面着陸を目的に打ち上げられました。アメリカのNASAは世界にその様子を生中継すべく,カリフォルニア州ゴールドストーンの受信設備を当初用いようとしていました。
 しかし,打ち上げのスケジュールがずれ,月がアメリカの裏側にあって電波が届かない時間帯に月面着陸を行うことになってしまったのです。そこで白羽の矢が立ったのが,オーストラリアのニューサウスウェールズ州の田舎町パークス。羊の数のほうが人よりも多いといわれるところにあるパークス天文台のパラボラアンテナでした。
 かくして,世紀の一大イベントの中継成否がこの小さな町の天文台に託されたのです…。
  ・・・・・・

 オーストラリア連邦科学産業研究機構(Commonwealth Scientific and Industrial Research Organisation=CSIRO)によると,当初の計画では、カリフォルニア州のゴールドストーン基地が追跡基地となり,オーストラリアのキャンベラ近郊にあるハニーサックルクリーク(Honeysuckle Creek Tracking Station)にある基地は,司令船コロンビア号を追跡することになっていました。そして,パークス天文台の任務は月面歩行の間このふたつの追跡基地をバックアップすることだったのです。しかし,打ち上げの2か月前になって変更され,パークス天文台に白羽の矢が立てられたのです。
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 月面着陸当日オーストラリア時間午前6時17分,月に降りた宇宙飛行士たちは,予定よりはやく船外活動をすることになりました。そのため,パークス天文台で月からの信号を受信することは不可能かと思われましたが,準備に手間取り船外活動をはじめたために,パークス天文台からの受信が可能になりました。
 しかし,次のトラブルに見舞われます。
 そのころ,パークスの電波望遠鏡には時速110キロメートルの強風が吹きつけていたのです。大きな皿状の望遠鏡は風を受けて後ろに倒れそうになります。安全面での限界を超えていましたが任務は遂行されました。幸い、風は衰えを見せ,バズ・オールドリン(Buzz Aldrin)がテレビカメラを稼動させた時にはちょうどパークス天文台が信号を受信できる位置まで月が昇っていました。
 こうして,パークス天文台の電波望遠鏡が月からの信号を受信し歴史的瞬間の映像と音声が世界中に送られたのです。

 2019年,私はシドニーからパークス天文台へ行きました。
 駐車場に車を停めて,ビジターセンターに向かいました。電波天文台ではスマホなどは機内モードにしなければなりませんでした。予想以上に豪華なビジターセンターがありました。 電波望遠鏡も古びているのかな,と思っていたのですが,さにあらず,常に整備された様子が伺われるもので,とても美しく感動しました。これまで私は日本や海外の多くの天文台を見学しているのですが,どこも日本とは違って立派なビジターセンターがあります。 また,レストランも併設されていたので,私は,ここで昼食をとりました。
 パークス天文台の口径64メートルの電波望遠鏡は,内側の直径17メートルが高精度アルミパネル,その外側から直径45メートルまでは穴のあいたアルミパネル,その外側は鉄線のメッシュになっています。観測可能な周波数は400ミリヘルツから43ギガヘルツです。
 1961年に建てられたパークス天文台は,現在基本的な構造だけを残して最新の電波望遠鏡として機能するようアップグレードされています。特に,パルサーの観測に力を入れていて,世界中の他の電波望遠鏡によって発見されたパルサーの数を全部合わせてもパークス天文台で発見されたパルサーの数には敵わないそうです。また,NASAと提携してガリレオやカッシーニなど多くの惑星探査機の追跡や通信を担当しています。


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 サイデンスプリング天文台はゲートもなく,直接,一般見学用の駐車場まで行くことができます。サイデンスプリング天文台の主砲は3.9メートルアングロサクソン望遠鏡です。この望遠鏡は1973年に完成したもので,馬蹄形の赤道儀架台は日本の三菱電機が作りました。また,大きな反射鏡を作ったのは岡山にある188センチメートルを作ったのと同じイギリスのグラブパーキンソン社です。

 作られた当時,南半球には大きな天体望遠鏡がありませんでした。オーストラリアは電波望遠鏡の分野で華々しい成果をあげていたので,新しく作られた光学望遠鏡の分野でも大いに期待されたものです。
  ・・
 今となっては旧式ですが,この望遠鏡は今も現役です。望遠鏡はガラス越しに見学することができます。建物に入ると,階段とエレベータがあって,5階まで登ると見学ブースに出ます。そこでガラス窓越しに巨大な望遠鏡を見ることができます。
 この望遠鏡は,現在世界中で作られているデジタル新時代の望遠鏡とは設計が本質的に異なっていて,古いのは否めません。 日々発展する科学技術は,巨額な費用を使ってこうした機器を作っても,技術の進化が早すぎてそれが十分に活躍できるのはわずか数十年にすぎません。なかなか大変な時代です。
 この天文台にも立派なビジターセンターがあります。おもしろいのは,こうした,山の中にあってしかも都会から決して近く施設なのに,けっこう多くの見学者が訪れていることです。日本では,わずか2時間から3時間で行くことができるようなところにある天文台のような施設でも,ほとんど見学者もいないし,ビジターセンターにも大した展示がない,ましてや,レストランどころか喫茶コーナーすらないのですが, これは何も天文台に限りません。私は,こうしたところに行くたびに,日本人というは知的好奇心のない国民だとしみじみ思います。日本では,勉強というのは,学歴というブランドを手に入れるだけのものです。

 サイデンスプリング天文台には,もうひとつの主砲であるシュミット望遠鏡があります。しかし,サイデンスプリング天文台では,先に書いた最も大きい口径3.9メートルの反射望遠鏡は公開されているので見ることができますが,シュミット望遠鏡は一般には公開されていません。そこで,パロマ天文台と木曽観測所のシュミット望遠鏡は雑誌などで多くの写真が掲載されているので,子供のころから親しみがあるのですが,サイデンスプリング天文台のシュミット望遠鏡は私には謎でした。どういう形をしているのか,写真ですら見たことがありませんでした。
 その謎だったシュミット望遠鏡についても,ビジターセンターに詳しい説明がありました。
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 口径124センチメートルF2.5 のシュミット望遠鏡は「UKシュミット式望遠鏡」といいます。望遠鏡の外形はパロマ天文台の「サミュエル・オシン望遠鏡」に非常によく似ています。「UK」というのはイギリスのことですが,それはもともと,この望遠鏡は1973年にイギリスによって建設され運営されていたためです。1988年にオーストラリア天文台と合併され,2010年にイギリスが撤退したので,現在はオーストラリアが運営しています。南半球にあることから,南天の星空の調査に使われています。
 当初は,35センチメートル四方の正方形のガラス製の写真乾板に6度角四方の視野から像を結んだ写真を,宇宙望遠鏡科学研究所によってディジタルスキャンして, ハッブル宇宙望遠鏡のガイドスターカタログとデジタイズドスカイサーベイを作成するのに使われていましたが,この望遠鏡もまた,ほかのシュミット望遠鏡同様,1990年代後半に大規模な電子CCD検出器に置き換えられました。さらに,2000年以降は,シュミット望遠鏡の優れた光学系と広い視野を生かして,6度という広い視野をもつシステム(=6dFシステム)が構築されました。
 現在は,このシステムで,100個以上の天体のスペクトルを同時に取得できる「多物体光ファイバ分光装置」として活用されています。また,2001年から2005年にかけて「6dF Galaxy Survey」プロジェクトを実施し, 南天全体で120,000を超える銀河の赤方偏移を測定し,その中で最も明るい10,000の銀河についてより詳細な測定が行われました。また,2003年から2013年にかけては,銀河の約50万個の星について半径方向の速度と物理パラメーターを測定しました。さらにその後,この望遠鏡はリモート操作が行えるように改造され,新しい調査プロジェクトがはじまっているということです。


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 アメリカの天文台を見学するほかに,私は,オーストラリアでもいくつかの天文台を訪れる機会がありました。オーストラリアの天文台で私が行きたかったのは,サイデンスプリング天文台(Siding Spring Observatory)とパークス天文台(Parkes Observatory)でした。
 これまでに紹介したアメリカの天文台のうち,ハワイのマウナケアとハレアカラのような標高が3,000メートルを越える場所に建設された最新式の天文台以外は,今では旧世代のものです。オーストラリアは南半球にあるので,北半球では見ることができない南天の星空を観察できる貴重な場所ですが,南半球の天文台もまた,今ではチリとアルゼンチンの国境付近にある標高の高い場所に建設されるようになって,高い山のないオーストラリアに天文台を作る優位性がなくなってしまいました。

 物理学や天文学は,今では地球という天体の規模を越えるような観測機材がないと実験や観測ができなくなってしまったところまできています。それとともに,マウナケアの山頂に計画されているTMT(Thirty Meter Telescope)という超大口径の望遠鏡の建設が,住民の反対運動で進展していないようなことも起きています。また,コンピュータの発達で,処理するデータも膨大なものとなっています。
 科学の発達は,本来,人の幸福のために役立つものでなければならないのですが,どうやら,それ以上に,人の好奇心が勝ってしまうこともあるようです。なかなか難しい問題です。私は,人間の知的好奇心を満たす学問がこの先どうなってしまうのかといったほうが興味があります。
 それは,もし,TMTが建設されたとしても,そして,その機材で新たな発見がされたとしても,人はそれでは満足できず,また,それ以上に多くの謎が生まれ,さらに巨大な観測機材が欲しくなるからです。しかし,それも地球規模を越えるとなると,そろそろそれもまた,限界に近づいているような…。
 人類は,一体,何を求めているのでしょう。

 しかし,最新式の観測機材は,もはや,超巨大なコンピュータという感じで,昔のもののような機能美とか品格といった,いわば,伝統建設や芸術を見るような美しさがなくなってしまいました。そこで,私は,最新の学問よりも,使い古された,古きよき時代の天文台を古代遺跡を巡るように見ることのほうがずっとおもしろく興味があるのです。
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 少し話が逸れてしまったようです。
 ともあれ,次回から,私が見ることができたオーストラリアの天文台について順に紹介していくことにします。


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 今日は,フラグスタッフにあるローウェル天文台について紹介しましょう。
  ・・・・・・
 フラグスタッフ(Flagstaff)はアリゾナ州北部に位置する小さな都市で,人口は約5万人です。コロラド高原の南西端に位置し,標高が2,000メートルを超えます。このように,フラッグスタッフは高地に位置し,かつ,乾燥しています。冬を除いては概ね温暖で,青空が広がる日が多いところですが,冬の寒さは厳しいものです。標高が高いために,同じ州の標高330メートルのフェニックスに比べて夏の最高気温は10度以上も低く,摂氏27度ほどです。しかし,乾燥しているため,夜になると夏でも摂氏10度ほどまで下がって冷え込みます。また,冬は日中こそ摂氏4度から摂氏5度ほどであるものの,夜になると氷点下10度を下回ることもあります。
 7月や8月には夕立がよく起きます。年間降雨量は約570ミリメートル,降雪量は270センチメートルほどです。
  ・・・・・・
 1855年,エドワード・フィッツジェラルド・ベール(Edward Fitzgerald Beale)は,ニューメキシコ州リオグランデからカリフォルニア州フォートテホンへの道を調査していましたが,その道中でこの場所の東端にキャンプを張りました。エドワード・フィッツジェラルド・ベールとその部下は,すぐ側に立っていた松の木から枝を折って取り除き,星条旗を掲げるための旗竿としました。
 市の名まえであるフラグスタッフは1876年にアメリカ合衆国独立100周年を記念して立てられた旗竿に由来しますが,フラッグスタッフに最初の移民が住みついたのは1876年のことです。
 1880年代に入ると市は成長をはじめ,鉄道産業が栄えました。こうして,1886年ごろには、フラッグスタッフはアルバカーキと西海岸との間では最も大きな都市になりました。

 ローウェル天文台(Lowell Observatory)は,パーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)によって,1894年に標高の高さと視界のよさからフラグスタッフに設立された天文台です。
 私も見ることができた歴史的記念物に指定されている口径61センチメートル屈折望遠鏡は今も現役で,一般公開されています。61cm屈折望遠鏡は,1896年に20,000ドルの費用をかけて,アルヴァン・クラークによってボストンで製造され,アリゾナまで列車で運ばれたものです。
  ・・
 1900年代のはじめ,ウィリアム・ヘンリー・ピッカリング(William Henry Pickering)とパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)は,天王星の軌道における摂動の分析からその存在が予測され発見された海王星と同じように,海王星の軌道もまた他の未発見の惑星「惑星X」によって乱されていると推測し,そのような惑星が存在する可能性のある天球座標をいくつか提唱しました。
 1905年,ローウェル天文台ではこの「惑星X」を捜索するプロジェクトを開始,プロジェクトはパーシヴァル・ローウェルが1916年に死去するまでの11年間続けられましたが,見つけることはできませんでした。
 ローウェルの死後の1929年,プロジェクトが再開されることになって,当時の天文台長であったヴェスト・スライファー(Vesto Melvin Slipher)がクライド・トンボーにこの仕事を預けました。クライド・トンボーは,ローウェル天文台の口径33センチメートルの天体写真儀で空の同じ区域の写真を数週間の間隔を空けて2枚撮影し,その画像の間で動いている天体を探すという方法で捜索を行いました。そして,撮影した膨大な写真を丹念に精査した結果,ついに,1930年2月18日,同年の1月23日と1月29日に撮影された写真乾板の間で動いていると思われる天体を見つけました。これが冥王星です。

 私はフラグスタッフというところにぜひ行ってみたかったことと,できればローウェル天文台を見てみたいとずっと思っていたのですが,2019年,やっとその念願がかないました。これもまた,今ではかなり幸運なことでした。それは,1年遅れていたら行くことができなかったからです。
 行くまでは,いろいろ調べても,ローウェル天文台がどのように公開されているのか,行けば見学できるものなのか,まったく見当がつかなかったのですが,気軽に中に入って,思う存分見学し,夜は天体観測会にも講演にも参加できるものでした。ここは,市民のための天文台でした。
 私は,冥王星を発見した望遠鏡に,何と,触れることまでできたのが,今では夢のような出来事です。
 星好きにはたまらない素朴な田舎町であるフラグスタッフは,私が住んでみたいアメリカの数少ない町のひとつです。


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 2018年の旅で,念願だったパロマ天文台を訪れたのですが,私が訪れたちょうどその日,天文台構内の駐車場の工事をしていて,中に入れませんでした。
 今にして思えばそのときの私は何にとりつかれていたのか,その翌年2019年にも再びそこに行くことにしたのがすごいことです。京都や東京だって,そう簡単に何度も行くことができるわけではありませんが,その当時は,ロサンゼルスなんて,私には精神的にそれくらいの距離でしかなかったのです。
 コロナ禍が起きていなければ,今もそんな感じで旅を続けていたのでしょう。しかし,今では遠い遠いところです。

 2019年は,パロマ天文台だけでなく,後に紹介することになるフラグスタッフのローウェル天文台をはじめ,バリンジャー隕石孔,さらには,大谷翔平選手まで見ることができましたが,これらのことは,2018年にパロマ天文台の中に入れなかったことで成し遂げられた奇跡なのです。まさに塞翁が馬でした。
 が,幸運はそれだけではなく,パロマ天文台を訪れたこの日が土曜日で,私が見たかったパロマ天文台の200インチ反射望遠鏡は,通常はガラス越しにしか見ることができないのですが,ドームの中に入って見学できるツアーに参加することができました。これもまた,もし2018年にパロマ天文台に入れたとしたらできなかったことでした。

 ロサンゼルスからパロマ天文台までは120マイル,約200キロメートルあります。
 ロサンゼルスで宿泊したモーテルから国道91を走り,アナハイムを過ぎて,さらに東に進んでいってインターステイツ15に入ります。そして,インターステイツ15を南東に進んでいって,テメクラ(Temecula)という町でインターステイツ15を降り,州道76に入る,という経路で走っていきます。テメクラからは一般道で,わずか36マイル,約60キロメートルの州道76は山道となるので1時間程度もかかり,リンコン(Rincon)という数件の家がある小さな町からさらに山道を走っていくと,やっと,パロマ天文台の口径500センチメートル反射望遠鏡の巨大なドームが見えてきます。

 門を通り過ぎて天文台の構内の道路を入っていくと,その先に広い駐車場があって,車を停めると右手にビジターセンターがあります。このビジターセンターもまた,土曜日と日曜日だけ開いているということでした。
 見学ツアーでは,まず,ドームの入口の前で望遠鏡の歴史のレクチャーがあってから,いよいよドームに入ります。ドームの1階部分では反射鏡の再メッキができる工場があって,それらの装置の説明ののち,端にある階段を上って,ついに,望遠鏡のある2階に登り,巨大望遠鏡と対面となります。 
 ドームはものすごく巨大で,外観もピカピカ,今も現役の口径500センチメートル反射望遠鏡はしっかりと整備されていて,ドーム内もきちんと整理整頓がされていました。


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 私は,星を見ること以上に天文台に興味がありましたが,それは,子供のころに買ってもらった「原色現代科学大事典」の第1巻「天文」に載っていた世界中の天文台を実際にこの目で見てみたいというのが動機でした。
 そうした望遠鏡は,ウィスコンシン州のヤーキス天文台にある口径102センチメートルの屈折望遠鏡,サンノゼ郊外のハミルトン山にあるリック天文台の口径91センチメートル屈折望遠鏡,サンディエゴ郊外のパロマ山にあるパロマ天文台の口径500センチメートル反射望遠鏡と口径122センチメートルシュミット望遠鏡,ロサンゼルス郊外のウィルソン山にあるウィルソン天文台の口径152センチメートルヘール望遠鏡と口径254センチメートルフッカー望遠鏡,アリゾナ州フラグスタッフにあるローウェル天文台の口径33センチメートル屈折写真儀などでした。
 しかし,ウィルソン山,パロマ山という名前だけは知っていても,それがどこなのかは全く認識がありませんでした。

 その後,知識も増して,そうした望遠鏡の多くが今は時代遅れのものとなっていることは知ったのですが,子供のころの夢はそんなこととは関係ありません。
 そこで,私はこのような望遠鏡が現在公開されているのならぜひ見てみたいものだという想いがどんどん強くなってきて,ついに出かけることにしました。
 しかし,一般の観光地とは違って,わざわざ行っても見られるものかどうかわかりません。ホームページを見ても,どんな様子なのか要領を得ません。行かなくてはことが進まないので,とにかく行ってみようと,2018年と2019年に天文台を見るためにカリフォルニア州に旅に出たのですが,今では,本当に行ってきてよかったと,強く思います。
 これもまた,もし,行っていなければ,今ごろはものすごく後悔していたことでしょう。

 実際は,2018年に行ったときは,もっとも期待したパロマ天文台は見ることができず,逆にあまり期待していなかったウィルソン天文台は偶然にも特別公開の日にあたって,そのすべてを見ることができたのは不幸中の幸いでした。
 2018年には行くことができなかったパロマ天文台は,その翌年にまた出かけて,ついに,念願のパロマ天文台にも行くことができて,しかも,見学ツアーに参加することができて,私は,長年の夢をすべて実現したのです。
 ここでもまた,私の強運が発揮されました。

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 1917年11月に完成したウィルソン天文台の口径254センチメートルフッカー望遠鏡でエドウィン・ハッブル(Edwin Hubble)は,星雲が実際には我々の天の川銀河の外にある銀河であると結論,さらに,ハッブルと助手のミルトン・ヒューメイソン(Milton L. Humason)は,宇宙が膨張していることを示す赤方偏移の存在を発見しました。
 この望遠鏡は世界最大のものとして君臨していましたが,1948年にパロマー山に口径500センチメートル反射望遠鏡を完成したことでその座を明け渡すことになりました。1986年に口径254センチメートル反射望遠鏡は一度は運用を終了しましたが,1992年に再び使用が開始されました。フッカー望遠鏡は20世紀を代表する傑出した科学装置なのです。
  ・・・・・・
 パロマ天文台については次回。


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☆☆☆☆☆☆
 前回書いたように,マウナケアに憧れてはじめてハワイ島に行ったころは,まだ,南半球の星空は知らなかったので,ハワイが最も星見に適したところだと思っていました。
 ハワイ島もよかったけれど,観光客が星見をするには場所の少なく人も多かったので,もっと星見に適したところがないかと調べていて,マウイ島にハレアカラという夢のような場所を見つけました。そこでハワイ島に行った翌年に行ってみることにしました。
 ハレアカラはマウナケアとは違って,山頂まで舗装されていて,きわめて楽に登ることができました。日が暮れるとほとんどの人は下山するので,人もいなくなります。おそらくハワイの中で,一般人が星見をするのに最も適な場所ですが,何せ,ここは異国,ひとりで深夜の山の上で星見をするにはちょっと二の足を踏みます。ということで,私は,いいところだなあと思っても,1,2時間程度,満天の星を楽しんだだけでした。しかし,その数年後に再び行ったマウイ島でハレアカラのふもとの町クラに泊まったときにゲストハウスのベランダから見た星もすばらしいものでした。つまり,ふもとの町でも,十分に星を見ることができます。

 さて,今回は天文台の話です。
 このハレアカラにも天文台群があります。しかし,ここは完全に一般とは遮断されていて見学はできないので,遠くからドームを眺めるだけなのが残念ですが,いかにも研究施設という感じがします。前回書いたハワイ島のマウナケアより標高が1,000メートルほど低いのが難点ということですが,それでも富士山程度。何の何の,ここは最高のコンディションでしょう。
 ハレアカラにある施設を調べてみました。ウェブページから引用します。
  ・・・・・・
 驚くほどの透明度,乾燥した空気,そして静けさと,限られた光害のため,ハレアカラの頂上は世界で最も有数の天体観測の場所です。ここでは,ハワイ大学,アメリカ空軍などが運営する天体物理学の複合施設である「ハレアカラ天文台」があって,ここで行われている研究に世界中から多くの専門家が参加しています。また,空軍が運用する望遠鏡の中には,天体ではなく人工衛星の研究に携わっているものもあります。
 天文台は一般に公開されていませんが,ハレアカラアマチュア天文学者グループが主催する公開イベントがあります。
 以下,天文台にある望遠鏡についての紹介です。
●ミーズ天文台 (Mees Observatory)
 ひとつの赤道儀に多くの機器が取り付けられている独特なものです。
● アトラス (ATLAS)
 ハワイ大学によって開発され,NASAが資金提供する小惑星衝突早期警報システムです。
 100マイル,160キロメートル離れたふたつの望遠鏡で構成されていて,毎晩空全体を自動的にスキャンして接近天体を探します。
● パンスターズ PS1 and PS2(PAN-STARRS PS1 and PS2)
  単一鏡の試作望遠鏡PS1は2007年の8月に設置されました。さらに,現在はPS2がPS1の隣のドームに建設されています。多くの彗星を発見した望遠鏡として有名です。
●LCOフォークス天文台(LCO Faulkes Observatory)
 フォークス望遠鏡はラスクンブレス天文台グローバル望遠鏡ネットワーク(LCOGTN)の教育用です。
●TLRS-4レーザー測距システム(TLRS-4 Laser Ranging System)
 ハレアカラでの初期世代のレーザー測距実験であるLUREによって生成された衛星レーザー測距(SLR)データの時系列を維持するものです。
●東北 T60 and T40(Tohoku T60 and T40)
 日本の東北大学ハレアカラ天文台は惑星の外気圏・磁気圏からの微弱な放射を継続的に監視することを目的として、2006年3月に設置されたものです。
● 黄道光天文台(Zodiacal Light Observatory)
 黄道光天文台には次のふたつの機器があります。
 0.5メートルのコロナグラフです。この望遠鏡は多くの太陽および冠状実験に使用されます。
 デイ・ナイトシーイングモニター(DNSM)は,差分画像の動きを測定します。
●高度な電気光学システム(Advanced Elwctro-Optical System = AEOS)
 3.67メートルのAEOS望遠鏡は空軍で最大かつ最先端の望遠鏡システムです。
 ハワイ大学では,この望遠鏡で高解像度の可視および赤外線分光器と分光偏光計設備機器を操作しています。
●マウイ宇宙監視サイト(Maui Space Surveillance Site = MSSS)
 マウイ宇宙監視サイトは,アメリカ空軍フィリップス研究所の資産である空軍マウイ光学ステーション(Maui Optical Station = AMOS)の組織です。
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 以前,アメリカの国立公園の紹介をしたので,今回からは天文台をとりあげます。天文台はアメリカに限らず,日本もオーストラリアも見学したところがあるので,順に紹介していくことにします。
 星に興味のない人に天文台を見学に行くというと,星を見にいくと思う人が多く,望遠鏡を見にいくというと,そのどこがおもしろいのかと聞かれるのですが,それも当然です。それは,車に興味のある人がクラシックカーの博物館に行くのと同じようなものでしょうか。
 とはいえ,どんな望遠鏡でも見たいわけではなく,子供のころに図鑑で見たものを中心として,そのころに憧れた,いったいどんな山奥にあるのだろう,とか,どんなに大きいのだろう,とかそういった好奇心からくるものです。
  ・・
 私がそうした興味をもつようになった原点の本が3冊あります。
 1冊目は学研から発行された「原色現代科学大辞典」の第1巻「宇宙」に載っていた世界中の天文台,2冊目はこのブログにもたびたび登場する「月刊天文ガイド別冊・日本の天文台」,そして,3冊目は出口修至さんの書いた「アメリカ天文紀行・ふたたびキットピークへ」です。
 こうした本に書かれてあった天文台に一度でいいから行ってみたいものだとずっと思っていたわけです。

 では,はじめます。
 話は矛盾しますが,上記にあげた本にはかかれていないハワイ島マウナケアの天文台から,まずは紹介します。
 私は,ハワイというのは日本人観光客ばかり,という先入観から,あまり気が進みませんでした。それでも行ったのは,アメリカ合衆国50州制覇の目的を達成するためだったのですが,せっかく行くならということで目指したのがオアフ島ではなくハワイ島でした。それはハワイ島にはすばる望遠鏡をはじめとする多くの天文台がマウナケアの山頂にあるからでした。
  ・・
 ハワイ諸島の中で一般の人が行くことができるのは6島ですが,そのうち最も東側のある大きな島がハワイ島です。
 この島の中央にそびえるのが標高4,200メートルのマウナケア。実際,私は,この場所にお昼間と早朝日の出前の2度行きました。マウナケアの山頂には,世界最大級の天文台が13基あります。この望遠鏡のあるあたりは,ハワイ島のどこからでも見ることができるように思われるのですが,実は,ハワイ島でも地図の①で示したワイメアからと②で示したヒロからだけ山頂の天文台のドームを見ることができるのです。

 マウナケアにある望遠鏡のひとつが,日本の誇る口径8.2メートル,世界最大級のすばる望遠鏡です。しかし,すばる望遠鏡のドームを外から見ることはできても,事前にアポイントを取らないとその内部の望遠鏡自体を見ることは簡単にはかないません。
 私も,すばる望遠鏡の本体を見ることはできなかったのですが,すばる望遠鏡のドームは,見てきました。その代わり,お昼間に行ったとき,そのお隣にあるケック望遠鏡はこの目で見ることができましたし,ビジターセンターにも行くことができました。明け方に行ったときは,マウナケアの山頂にある多くの望遠鏡が,ゴーゴーと音を立てて観測をしている姿に感動しました。また,雲海から昇る朝日の美しかったこと。
  ・・
 すばる望遠鏡の最大の発見は「すばるディープフィールド」といって,くじら座のあたり,何もなさそうな場所を写したときに見つかった銀河団です。この銀河団は距離が100億光年,約90,00,000,000,000,000,000,000キロメートル(900垓キロメートル)の向こうです。宇宙の年齢は138億年といいますから,宇宙ができてわずか38億年経ったときの姿を見ているということになります。

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☆☆☆☆☆☆
 2021年12月25日,これまで何度も延期されていたジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(James Webb Space Telescope=JWST)が南アメリカのフランス領ギアナで打ち上げられ,高度約1,400キロメートルの宇宙空間でロケットから分離,数分後に太陽電池パネルを展開して発電を開始したことが確認されました。スラスター噴射で軌道を調整し,2022年1月の終わりには地球から約150万キロメートル離れた「ラグランジュ点」のL2ポイントに到着します。
 私は,2016年の夏にフロリダ州ケネディ宇宙センターでジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡のモデルを見て関心をもっていただけに,ついに,という気持ちでした。打ち上げのカウントダウンはフランス語でした。
 ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡は,2010年に退役を迎えるはずだったハッブル宇宙望遠鏡(Hubble Space Telescope、=HST)の後継機として計画された赤外線観測用宇宙望遠鏡です。名称は、NASAの第2代長官ジェイムズ・E・ウェッブにちなんで命名されたものです。
 当初は2011年の打ち上げが予定されていたのですが,開発が遅れ,2015年以降に打ち上げが延期され,そのために,ハッブル宇宙望遠鏡が延命されました。さらに,2018年以降に延期となり,また,2020年以降に再延期となって,さすがに計画中止を求める声が他のプロジェクトから上がっていただけに心配しました。やっと,2021年12月18日の打ち上げが発表されたのですが,直前になってロケットへの搭載準備中に予定外の振動が生じたので,最終的な打ち上げが12月25日になったのです。

 ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の観測目標は,宇宙誕生ビッグバンの約2億年後以降に輝きはじめたとされるファーストスターを観測することだそうです。ファーストスターからの光は赤方偏移により波長が引き延ばされ赤外線に変化すると考えられているので,赤外線域で捜索・観測することによってそれが発見できるといいます。
 現在,ハッブル宇宙望遠鏡は地表から約600キロメートルという低い軌道上を飛行しています。とはいえ,国際宇宙ステーション(International Space Station=ISS)はそれより低い約400キロメートルであり,航空機に至っては約10キロメートルでしかありません。これに対して,ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡は地球から約150万キロメートルという高さで,ちょうど太陽とは反対側の遠距離に置かれることになります。地球から月までは約38万キロメートルなので,それよりも4倍も遠いのですが,その位置は,太陽-地球の「ラグランジュ点」(Lagrangian points)のひとつでL2ポイントとよばれる場所です。「 ラグランジュ点」というのは,ふたつの天体の重力の釣り合いが取れる安定したポイントのことでL1からL5の5か所あります。
 L2ポイントは太陽の反対側にあるために,地球によって太陽が遮られて宇宙空間での観測を行うのに都合のよい場所です。しかし,太陽から発せられる光や電磁波などがノイズになってしまうのでそれを避けるために機体を極低温に冷却したり,太陽や地球から発せられる光を避けるために折畳まれた遮光板を搭載する必要があるそうです。

 ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の質量は6.2トンで,約11トンあるハッブル宇宙望遠鏡の約半分ですが,反射鏡の口径は約6.5メートルもあって,2.4メートルのハッブル宇宙望遠鏡の2.5倍です。ただし,ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の反射鏡はロケットに収まらないほど巨大なので,18枚の6角形セグメントに分割されていて,打ち上げられた後に高感度のマイクロモーターと波面センサーによって正確な位置に導かれて展開するようになっています。

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 ☆☆☆☆☆☆
 私が細々と星見を楽しんでいるお供は30年以上前に買ったPENTAX 75SDHFという望遠鏡で,架台はMS3Nという赤道儀でした。
 経年劣化で,もう,ぼろぼろなのですが,私にはこれで十分なので,いろいろと直しながら使っていました。電源もUSBで使えるように改造しました。
 しかし,だんだんと調子が悪くなってきて,ついに,先日,追尾ができなくなってしまいました。修理が可能かどうかわからないのですが,できるとしても,けっこうな修理費が必要でしょう。
 この赤道儀が壊れたら星見はやめようと思っていたのですが,まだまだ未練があったので,後継機を探すことにしました。

 私には焦点距離が300ミリ程度の望遠レンズが2分ほど追尾できれば十分で,オートガイダーもいらないし,長年培った技でファインダーだけでねらった星を視野に入れることができるので,自動導入とかいうこじゃれた武器も要りません。そこで,最低限のものを探すのですが,どれもこれもオーバースペックなものばかりです。趣味なんて所詮自己満足の世界だし,多趣味な私は,赤道儀「ごとき」にたくさんのお金をかける気にもなりません。

 そこで,何とか見つけ出したのが,ビクセンのAP赤道儀でした。
 これまで使っていた赤道儀もアリ溝式に改良してあったので,赤道儀を変えてもそのまま鏡筒が接続できるし,極軸望遠鏡も,海外で使うためにポータブル赤道儀を買ったときのものが使えます。また,電源もUSBが使えるということで,これで十分だな,と思いました。
 ということで,わずか10万円程度で後継機が手に入りました。この先5年から10年くらいは何とか使えそうで,ひとまず安心しました。

 それにしても,いろいろと探してみると,高価なものがあまりに多いのに驚きました。
 確かに性能はいいのでしょうが,望遠鏡1台が車1台くらいの値段がするのです。しかし,毎日使う車と違って,使えるのは月に1回か2回程度であり,しかも,重たければ,持ち運びも大変です。よほどのマニアでない限り,買ってはみたものの,それを十分に使っている人がどのくらいいるのかな,と私は疑問に思ってしまいました。
 次回は使ってみた感想を書きます。


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 少し前のことになってしまいましたが,このブログで,世界で再び活躍しはじめた3台のシュミット望遠鏡について取り上げました。その話題の最後に,今日は,アマチュア用のシュミット望遠鏡について書いておきましょう。こちらのほうは今もよみがえっていませんので,そうした願望と懐かしさを込めて,です。
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 かつて,広瀬秀雄という東京大学の教授で東京天文台の台長さんがいました。私が持っている著書は,1975年(昭和50年)に中央公論社の自然選書で出版した「望遠鏡-美しい星の像を求めて-」という本ですが,それより27年も前の1948年(昭和23年)に「シュミットカメラ」という本を著した人です。
 この時代,視野の広い天体写真儀として考えられたのはシュミット望遠鏡のほかになく,広瀬秀雄教授が主体となって作られたのが,日本の天文学者が熱望した東京大学木曽観測所のシュミット望遠鏡でした。

 同じころ,天体写真がブームとなったアマチュア天文愛好家もまた,それに感化されて,シュミット望遠鏡にあこがれました。そして,日本特殊光学という会社が,ついに,アマチュア用のシュミット望遠鏡を発売しました。
  ・・・・・・
 愛知県幡豆郡に天体機材メーカー「理科教材社」がありました。この会社の創業者である山田坂雄さんがハイレベルアマチュアのためにはじめたのが,シュミット望遠鏡の研究開発でした。
 それまで,シュミット望遠鏡は補正板の研磨が困難なために量産品の実用化は不可能と考えられていたのですが,ついに成功し,1977年(昭和52年)に日本特殊光学(JSO)を設立し,売り出しました。発売当初,高い評価を受けたのですが,残念ながら創業者の後継がなく,会社は廃業しました。
 とはいえ,この会社を創業したときに山田坂雄さんはすでに59歳で,しかも個人経営に近く後継者がいないとなっては,企業として成り立つものではありません。
 天体望遠鏡の会社というのは,そのほかにも愛知県刈谷市にあった旭精光研究所などもまた,個人経営のような会社だったから経営者の趣味の域を出ていないようなものでした。
 古きよき昭和の時代ならともかく,今の時代には,もうそんな会社の存在は困難でしょう。
  ・・・・・・

 シュミット望遠鏡の特徴は視野が広いことと画像の周辺までピントがきちんと出ることとFが明るいことです。一般の望遠レンズで星を写すと,中心部はともかく周辺までピントが合うようなレンズは,当時はありませんでした。天体は「点」なのでとてもシビアなのです。レンズは光が通過したときにコマ収差,色収差などさまざまな収差ができて,特に,焦点距離が短いレンズほどそういった収差が大きいのです。今は,特殊な光学ガラスを使ってそれを克服しているのですが,値段が高くなります。私の使っているような安価な望遠レンズだと,周辺の星は丸く焦点せず,矢印のようないびつな形になってしまいます。
 シュミット望遠鏡はこうした欠点を補うことができたわけですが,しかし,短所は焦点距離の割に大きいことと使い勝手が悪いことでした。特に,像を結ぶ焦点が平面でなく球面になるので,焦点板(当時はフィルムを使っていました)を球面に加工しなければならないのです。現在の天文台のシュミット望遠鏡はディジタル化されているのでフィルムは使いませんが,焦点板に使うCCD受光素子を球面に配置してあります。
  ・・・・・・
 日本特殊光学が当時発売したNTP16Bというシュミット望遠鏡は,口径が160ミリメートルで焦点距離が400ミリメートル,つまりF2.5と明るいものでした。焦点部分,つまり筒の真ん中にフィルムをセットしました。フィルムは市販のものは使えないので,平版の大きなフィルムを暗室や暗箱で手作業で丸くカットして,それを球面に湾曲させ,専用の丸い金属ホルダーに入れました。
 また,普通の望遠鏡やカメラでは,レンズや鏡は「筒」に直接取りつけるのですが,シュミット望遠鏡は気温の変化によるピントのずれが著しいので,それを防ぐため,多少の温度変化では延び縮みしないインバーという特殊な金属棒でつなげ,筒から独立した構造になっていました。そして,筒の横の覗き穴から100分の1ミリメートル単位でメモリの数値を見て試写し,データと照らし合わせてピントを出しましたが,それを行うには,シュミット望遠鏡は眼視ができないので,眼で見てピントを合わせることが不可能でしたから,いろいろと状況を変えて試写を繰り返してデータを集め,いちいちピントを合わせていました。
 とまあ,書いているだけでも気が遠くなる作業です。こんなに手間をかけなけらばならないので,この機材を使いこむことができた人は,ひとりいたかいなかったかだったという話です。
 一体,何台のアマチュア用のシュミット望遠鏡が製造され,その中で現物が何台現存しているのでしょうか? 私は見たことがありませんし,現物の写真すらほとんどありません。
  ・・・・・・
 現在は,レンズの性能が格段によくなったこととディジタルカメラになったことで,広い視野が得られ,かつ,周辺まで星が点像になるものが製品化されているから,シュミット望遠鏡のような大変なものは必要ありません。しかし,考えてみれば,天文台のシュミット望遠鏡のように,フィルムを使わないで,焦点板にCCDを球面にして配置して固定すれば,いちいちフィルムを入れ替える必要もなく,また,簡単に写した画像が確認できるから,シュミット望遠鏡の欠点はすべて補えるわけです。そこで,当時のシュミット望遠鏡をディジタル化すれば,結構おもしろいものができそうです。

 なお,シュミット望遠鏡によく似たライトシュミット望遠鏡というものがあります。
 シュミット式望遠鏡では補正板の製作が難しいこと,焦点の像面が湾曲すること,全長が焦点距離の倍になること,焦点面の位置が取り扱いに不便であること,といった短所を軽減するために編み出された光学系です。これは,アメリカのF・B・ライト(F.B.Wright)とフィンランドのユルィヨ・バイサラ(Yrjö Väisälä)が,補正板を主鏡に近づけ,焦点が補正板の中心と一致する場合について独立に研究し,主鏡を楕円の短軸を回転軸とした回転面,すなわち偏球面にすることを思いついて実用化したものです。
 ライトシュミット望遠鏡は,扱いが簡便であり周辺像も極端な悪化をしないといった長所があります。しかし,シュミットという名前で誤解をしますが,これはシュミット望遠鏡とはまったく違うものです。実際,像が全体的に甘く,コントラストも低いという欠点があり,私も,一時手に入れましたが,すぐに失望して手放してしまいました。

💛

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 引き続き,現在も使われているシュミット望遠鏡の紹介をします。
  ・・
 今なお現役で最も口径の大きいシュミット望遠鏡は,前回書いたパロマ天文台の口径126センチメートル「サミュエル・オシン望遠鏡」(The Samuel Oschin telescope)ですが,その次がオーストラリアのサイデンスプリング天文台にある口径124センチメートルの「UKシュミット式望遠鏡」(UK Schmidt Telescope)です。そして,それに次いで東京大学木曽観測所にある口径105センチメートルのシュミット望遠鏡となります。
 今回はその中で,まだこのブログで取り上げられていないサイデンスプリング天文台のシュミット望遠鏡について書きます。

 パロマ天文台と木曽観測所のシュミット望遠鏡は雑誌などで多くの写真が掲載されているので,子供のころから親しみがあるのですが,サイデンスプリング天文台のシュミット望遠鏡は謎でした。どういう形をしているのか,写真ですら見たことがありませんでした。
 私は,2018年と2019年の2回もサイデンスプリング天文台に行く機会がありました。しかし,パロマ天文台もそうですが,サイデンスプリング天文台もまた,最も大きい口径3.9メートルの反射望遠鏡は公開されているので見ることができますが,シュミット望遠鏡は一般には公開されていません。しかし,サイデンスプリング天文台の展示室にこの望遠鏡のことがパネルで紹介されてあったので,私はこの望遠鏡について知ることができました。
  ・・
 それにしても,木曽観測所が名古屋から車で2時間,パロマ天文台もまた,サンディエゴから車で2時間もあれば行くことができるのに比べて,サイデンスプリング天文台は都会からかなり遠いのです。この天文台のあるのは私の好きな町クーナバラブランですが,クーナバラブランは最も近い都市であるシドニーまでは,なんと500キロメートル近くもあり,車で5時間30分もかかります。オーストラリアは雄大過ぎるのです。

 この天文台にある口径124センチメートルF2.5 のシュミット望遠鏡は「UKシュミット式望遠鏡」といいます。望遠鏡の外形はパロマ天文台の「サミュエル・オシン望遠鏡」に非常によく似ています。
 「UK」というのはイギリスのことですが,それはもともと,この望遠鏡は1973年にイギリスによって建設され運営されていたためです。1988年にオーストラリア天文台と合併され,2010年にイギリスが撤退したので,現在はオーストラリアが運営しています。
 南半球にあることから,南天の星空の調査に使われています。
 当初は,35センチメートル四方の正方形のガラス製の写真乾板に6度角四方の視野から像を結んだ写真を,宇宙望遠鏡科学研究所によってディジタルスキャンして, ハッブル宇宙望遠鏡のガイドスターカタログとデジタイズドスカイサーベイを作成するのに使われていました。
 この望遠鏡もまた,ほかのシュミット望遠鏡同様,1990年代後半に大規模な電子CCD検出器に置き換えられました。さらに,2000年以降は,シュミット望遠鏡の優れた光学系と広い視野を生かして,6度という広い視野をもつシステム(=6dFシステム)が構築されました。このシステムで,100個以上の天体のスペクトルを同時に取得できる「多物体光ファイバ分光装置」として活用されています。
 また,2001年から2005年にかけて「6dF Galaxy Survey」プロジェクトを実施し, 南天全体で120,000を超える銀河の赤方偏移を測定し,その中で最も明るい10,000の銀河についてより詳細な測定が行われました。また,2003年から2013年にかけては,銀河の約50万個の星について半径方向の速度と物理パラメーターを測定しました。
 さらにその後,この望遠鏡はリモート操作が行えるように改造され,新しい調査プロジェクトがはじまっています。
  ・・
 このように,私が知らなかっただけで,このシュミット望遠鏡は南半球に設置されている利点を生かして,今も充実した研究に使用されているのです。

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 以前,東京大学木曽観測所のシュミット望遠鏡について書いたこのブログに,
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 最も口径の大きなシュミット望遠鏡は1960年,ドイツのカール・シュヴァルツシルト天文台(Karl Schwarzschild Observatory )に作られた口径134センチメートルのものでしたが,現在は使われていません。
 その次に大きいのが,1949年アメリカのパロマ天文台に作られ,現在「サミュエル・オシン望遠鏡」(The Samuel Oschin telescope)とよばれている口径126センチメートルのものです。現在は写真乾板をCCDに変えて,準惑星の発見などに活躍しています。
 そして,3番目がオーストラリアのサディングスプリング天文台にある口径124センチメートルの「UKシュミット式望遠鏡」(UK Schmidt Telescope)で,その次が,この木曽観測所にある口径105センチメートルのシュミット望遠鏡です。
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と書きましたので,今回はパロマ天文台のシュミット望遠鏡について書きます。

 この6月に念願かなって訪れたパロマ天文台には,1948年に完成した口径200インチ(5.08メートル)の反射望遠鏡のほかに,同じく1948年に完成した「サミュエル・オシン望遠鏡」があります。
 天体観測の方法が変わって使いみちがなくなっていたこのシュミット望遠鏡の広い視野を使って,数多くの太陽系外縁天体(TNO)を発見したのが,マイケル・ブラウン博士(Michael E. Brown)でした。
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 「サミュエル・オシン望遠鏡」は「オシン・シュミット」ともよばれています。このシュミット望遠鏡の名前は起業家で慈善家であったサミュエル・オシン(Samuel Oschin)にちなみます。サミュエル・オシンは,1914年,オハイオ州デイトンでユダヤ人の家庭に生まれました。10歳のときから彼は煙突の清掃作業という仕事をはじめました。その後,デトロイトの「ブリッグス・マニュファクチャリング」に就職し,第二次世界大戦中にアメリカ陸軍と空軍に飛行機の部品を供給する大規模な契約を獲得しました。そして,戦後は帰還兵からの需要の増加をサポートするために工場を家具の製造に変換しました。さらに,1946年にロサンゼルスに移住しエアコン事業をはじめ,その次には,住宅需要を見て不動産開発と建設会社を開始しましした。その後,カリフォルニア州パコイマで貯蓄ローン協会を購入し、州全体で27の支店に成長させました。 
 こうして,製造業,銀行業,投資業,不動産開発と立て続けにビジネスを成功させたしたサミュエル・オシンは財団を設立し,天文学,医学,教育,芸術など多くの分野で慈善活動を行いました。彼のパロマー天文台への寛大な寄付によって,このシュミット望遠鏡は彼の名前がつけられたのです。
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 いつも思うのですが,アメリカは,カーネギーにしろ,ローウェルにしろ,人生で成功を収めた人がすることは日本のそれとはまったく違います。

 「サミュエル・オシン望遠鏡」は,1948年に造られた当初は,10インチ×14インチの写真乾板を使用していました。1980年代半ばには補正板を色収差の少ないガラスに置き換えられ、より高品質の画像が生成されるようになりました。
 この望遠鏡が行っているプログラムのひとつに地球近傍小惑星追跡プログラム(Near-Earth Asteroid Tracking=NEAT)があります。これは,2001年秋からはじまった天の赤道付近の帯状領域のマッピング観測を行う「Palomar Quasar Equatorial Survey Team =QUEST Variability survey」(QUEST変光サーベイ)です。
 この探索プロジェクトで使用するために,2000年以降,東京大学木曽観測所のシュミット望遠鏡同様,写真乾板はCCDカメラに置き換わり,同時に補正板もより広い範囲の波長に透明なガラスに交換されました。最初に搭載されたCCDカメラは3つの別々の4K×4Kセンサーを南北線に配置し,総視野は3.75平方度で,近地球小惑星を捜索(NEAT)する目的で使用されました。2003年から2007年にかけてクエーサーを観測するために,CCDを28個4列の112個で構成した2,400×600ピクセルの合計161メガピクセルのものに変更されましたが,それは当時画素数最大のCCDカメラでした。この新しいカメラで,2003年11月14日にセドナを発見,また,約40個のカイパーベルト天体を発見しました。
 さらに,2009年には,カナダ・フランス・ハワイ望遠鏡用に構築された12,288×8,192ピクセルの合計100メガピクセルのCCDカメラに変更されましたが,これは7.8平方度の視野しかありませした。そこで,2017年に,47平方度の視野をもつ16×6144×6160の合計606メガピクセルCCDカメラとなりました。 
 現在は,シュミット望遠鏡は完全に自動化され,リモートで制御されて,収集されたデータは高性能ワイヤレス研究教育ネットワークを介して送信されています。

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☆☆☆☆☆☆
 「うすださん」というのは臼田宇宙空間観測所にある64メートルのパラボラアンテナのことで,電波望遠鏡などの受信だけの設備とは異なって,送信設備をもつ通信アンテナ設備です。臼田宇宙空間観測所(Usuda Deep Space Center=UDSC)は,長野県佐久市にある惑星探査機との通信用観測所として設置された宇宙航空研究開発機構(Japan Aerospace eXploration Agency=JAXA)の研究機関である宇宙科学研究所(Institute of Space and Astronautical Science=ISAS)の施設で,JAXA統合追跡ネットワーク技術部が維持管理を行い,宇宙科学研究所が運用を行っています。
 1986年,76年の周期で地球に接近するハレー彗星を観測するため。欧州宇宙機関(ESA)が「ジオット」を,当時のソビエト連邦が「ヴェガ」を2機打ち上げました。アメリカは,それ以前に打ち上げられていた「ISSE-3」を軌道修正しハレー彗星に送り込むことになりました。日本もまた,ハレー彗星や太陽系の各惑星の探査を目指すプロジェクト「PLANET計画」を立ち上げ,「さきがけ」「すいせい」を打ち上げましたが,それらの探査機を操作するための自前の通信設備が必要となったために,いくつかあった候補地から臼田が選ばれたものです。
 この観測所にある直径64メートルのパラボラアンテナは,建設当時東洋一の大きさを誇りました。 
 パラボラアンテナの構造は野辺山にある45メートル電波望遠鏡の開発で培われたものですが,電波測定を目的とする電波望遠鏡とは違って,パラボラ面の裏面にカバーをしたり温度調整や定常的な鏡面精度の測定をしていません。今後の木星探査計画などに対して大幅な能力不足や通信可能時間の不足が問題となり,現在,64メートルアンテナの後継施設として,佐久市前山字立科に54メートルの新しいパラボラアンテナを建設していますが,こちらは,パラボラ面の裏面にカバーをしたり温度調整や定常的な鏡面精度の測定をするものになるそうです。

 臼田のパラボラアンテナは,いわゆる電波望遠鏡とは目的が異なるために,天文雑誌などには取り上げられていなかったのですが,30年ほど前にその存在を知って,見にいくことにしました。今となってはほとんど記憶がないのですが,覚えていることといったら,えらい山の中で,延々と狭い山道を登って行ったら山頂にとんでもない巨大なパラボラアンテナが突然姿を現した,というものです。
 今回,せっかく野辺山に行ったので,そのついでに,再び,この臼田まで行ってみることにしました。
 覚悟していたとはいえ,やはり,今でもとんでもない山の上でした。しかも,残念なことに,1週間前の台風の影響で道が崩れ,公開が中止となっていました。しかし,パラボラアンテナの姿くらいは見えるだろうと,登れるだけ登っていくことにしました。なんとか道路は閉鎖を免れていて,山頂のパラボラアンテナだけは見ることができました。それにしても,よくもまあ,こんな場所が日本に残っていたなあと思うほど,オーストラリアの山の中のような感じの場所でした。
 しかし,こうした設備を見るたびに,日本は土地がなくお金もなく,そんな環境の中でやっとのこと世界と競えるように必死に背伸びをしている様を知ります。しかし,この先の少子高齢化社会ではこのような学術研究が将来もこれまでのように行えるとは思えず,どうなっていくのだろうかと私は心配になります。

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 若いころ,満天の星空に憧れた私にとって,八ヶ岳山麓は憧れの地でした。特に,電波天文学の聖地である野辺山は,電波天文台の大きなパラボラアンテナをひとめ見たいものだと思い続けていたところでした。当時,清里というのは若者のトレンディな地で,清泉寮というところでソフトクリームを食べるのが流行りでした。私も,今から40年近くまえに,その野辺山に行ったことがありますが,それからずっと遠ざかっていました。
 今回,その野辺山まで再び足を延ばしてみました。清里は当時の清里に比べたらずっとさびれていました。また,憧れだった八ヶ岳山麓もまた,私には,ニュージーランドやフィンランド,オーストラリアなどとは比べるべくもない日本の田舎にすぎないところでした。

 野辺山宇宙電波観測所は,日本を代表する電波天文台で,八ヶ岳のふもと長野県南佐久郡南牧村に位置しています。正式名称は自然科学研究機構国立天文台野辺山宇宙電波観測所および太陽電波観測所で,先週私が行った国立天文台水沢とならんで,国立天文台野辺山とよばれています。
 この観測所は,東京大学附属東京天文台の天体電波研究部の観測施設として設立されました。
 水沢VLBI観測所によるVERA計画や宇宙科学研究所による宇宙空間VLBI計画VSOP(電波天文衛星「はるか」),アルマ望遠鏡計画といった現在花形の電波観測は,この野辺山から生まれたものです。
 野辺山で太陽電波観測が始まったのは,西を八ヶ岳山麓,東を秩父山地に囲まれ,放送電波による電波ノイズが少ないこととアクセスのよさ,そして,信州大学の実験農場があったことです。

 野辺山観測所で最も有名なのは,口径45メートルのミリ波望遠鏡で,1981年に完成しました。波長が数ミリの電波(=ミリ波)を観測する電波望遠鏡としては世界最大級のものです。1996年にはBEARS(25-BEam Array Receiver System)とよばれる25素子受信機が搭載され,1度に25点を観測する高速マッピングが可能になりました。近年ではOn-The-Fly (OTF) とよばれる観測領域を掃天しながら短時間間隔でデータを取得する技術が実装されて,マッピングのスピードと精度が大幅に向上しました。この新しい技術によって,いくつもの新星間分子,原始星周囲のガス円盤,ブラックホール存在の証拠の発見など世界的に重要な観測成果を今も出し続けています。

 40年近くまえに来たときと比べて,観測装置がたくさん増え,また,この45メートルの電波望遠鏡も新しい技術を用いて進化を遂げていて,この観測所が今も現役で活躍をしているのを見て,私は嬉しくなりました。
 それにしても,世界中の天文台巡りをしていると,どうして日本のこうした研究施設はこんなにもボロいのだろうか,そしてまた,一般のビジターが少ないのだろうか,ということをいつも感じます。それは,日本では金持ちが財団を作ってこうした学術研究の援助をしないこと,そしてまた,一般の人たちは,学校での学習はテストで点をとることと学歴を手に入れることが目的で,人間の知的好奇心を満たすためだという教育を成長過程で受けていないことが原因であろうと思います。なにせ,今回の大学入試改革を見てもわかるように,日本では教育の「有識者」は,勉強をさせるためには入試を難しくすることだという短絡的な考えしか持ち合わせていないことが明白だからです。その結果,高校生は受験に必要な知識を暗記する作業に貴重な時間を費やすだけで、生きることの目的を考える時間も本を読む時間もないというのが現実です。残念なことです。

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 一般のカメラがフィルムからディジタルカメラに変わったように,天文台の望遠鏡による写真もまた,写真乾板からCCD,そしてCMOSへと変わっていきます。
 しかし,問題だったのは,初期のCCDは小さく,せっかく望遠鏡が広い視野の像を結んでも,それを受けとる受光素子がなかったということでした。また,1台の望遠鏡のために特別に受光素子を開発できるものではないから,流用する必要がありました。しかも,シュミット望遠鏡の焦点は曲面なので,平面のCCDでは使えません。
 こうした事情で,シュミット望遠鏡の存在価値がなくなっていきました。視野が広いというのがシュミットカメラの特徴なのに,写した写真の視野が狭いのであれば,口径のより大きな反射望遠鏡にかなうわけがありません。そこで,シュミット望遠鏡は冷遇されるようになっていきます。当然,新しいシュミット望遠鏡も作られなくなりました。そのころは,パロマ天文台にあるサミュエル・オシン望遠鏡も遊んでいたといいます。

 こうして,写真乾板がディジタル画像素子に変わってから,より大きな素子の開発が急務となっていきました。
 木曽のシュミット望遠鏡も,1980年代後半からCCDを用いた観測装置の開発がはじまり,ついに,受光面積が小さいという欠点を補うためにCCDを複数並べるモザイクCCDカメラを完成させました。
 1987年に100万画素CCDカメラ(1K-CCD)を開発,1997年からはその後継にあたる400万画素CCDカメラ(2K-CCD) と近赤外線カメラ「KONIC」が搭載され,電子処理されたデータに基づいてコンピュータで解析を行うようになりました。
 2012年になると,さらに広視野化を実現した「Kiso Wide Field Camera=KWFC」が運用されるようになりました。これは,浜松ホトニクス株式会社製の2,000×4,000画素(800万画素)のCCDを8枚(6,400万画素)並べ,2度角四方が一度に観測できる世界最大級の広視野カメラでした。
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 ハワイ・マウナケア山頂にある日本のすばる望遠鏡には,2012年,最新鋭の「Hyper Suprime-Cam=HSC」(Subaru Prime Focus Camera)が開発され,直焦点に搭載されました。HSC は満月9個分(約5度角四方)の広さの天域が一度に撮影できるという世界最高性能の超広視野カメラです。独自に開発した116 個の浜松ホトニクス株式会社製CCD 素子を配置し,合計8億7,000万画素を持つ巨大なデジタルカメラとなっています。光学収差や大気分散を補正するための補正光学系はキヤノン株式会社によって製作されました。
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 そして,2014年から開発を開始し2019年4月に完成した最新の超広野カメラが「Tomo-e Gozen」です。名前は,木曽義仲とともに源平合戦で活躍したとされる女武者「巴御前」にちなんで名づけられたもので,まさに,木曽観測所にふさわしい粋な命名です。
 この世界初の天文観測用モザイクカメラは超高感度CMOSセンサを84枚並べ,シュミット望遠鏡の9度ある全視野をカバーするものです。キヤノン株式会社のフルサイズ一眼レフカメラに搭載されているCMOSセンサーを84枚並べたようなものというわけです。
 現在,一般のディジタルカメラも受光素子はCCDからCMOSに変わりましたが,CMOSセンサはCCDに比べて高速にデータを読み出せるのが特徴で,その特徴を生かして動画観測が行えます。シュミット望遠鏡は,その焦点に結ぶ像が球面になるので,昔の写真乾板も球面にしてありました。そこで,超広野カメラもまた球面にする必要があります。聞いてみると,それぞれのCMOSは平面ですが,それをモザイク状にしたときに球面になるようにしてあって,これで精度が保たれるそうです。「Tomo-e Gozen」はすばる望遠鏡のHSCよりも1世代新しいものといえます。
 ディジタルカメラの受光素子というのは,日本の工業技術の最後の砦です。日本以外の国の会社ではこうしたものを作ることはできません。海外の天文台からも,問い合せが来ているそうです。

 作られて半世紀が過ぎようとするニコン製のシュミット望遠鏡は,こうして「Tomo-e Gozen」というキヤノン製の新しい目を得てリニューアルされ,生まれ変わりました。
 ただし,フィルムカメラからディジタルカメラに変わってカメラマンンの撮影方法が変わったように,天体写真も1枚1枚時間をかけて撮影する手法から短時間の露出でくまなく天体をほうきで掃くように写していく手法に変わったので,そのような目的で作られていない設計の古い赤道儀がこうしたタフな撮影に耐えられるかどうかが問題だそうです。
 最新式の望遠鏡はたくさんの小さな反射鏡を集合させ大口径にして光を集め,作りが簡単で軽量な経儀台をコンピュータで稼働させるように変わりました。赤道儀式の架台をもった1枚鏡のシュミット望遠鏡のような設計の古いものは,今後新たに作られることはもはやないでしょう。そう考えると,少しでも長く,この望遠鏡が活躍することを願ってやみません。

 この日の特別公開は,いろんなお話が聞けて,また,興味深いさまざまな機器を見ることができて,しかも,設置されたばかりの「Tomo-e Gozen」を見ることができて,とても有意義なものとなりました。しかし,期待した青空はどこかに行ってしまい,そればかりか,雷が鳴り響き,大雨が降ってきて,楽しみにしていた星を見ることができないのは残念でした。
 こうした研究施設を見学して,最新式の技術と学問に接するたびに,コンピュータすら満足になかった私の学生時代を思い出し,あと40年ほどあとに生まれていたらよかったなあと思います。

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 木曽観測所にあるシュミット望遠鏡(Schmidt telescope)というのは,反射屈折望遠鏡の形式のひとつですが,写真撮影専用なので,見るための望遠鏡ではありません。シュミット望遠鏡は視野の広い望遠カメラというが長所です。作られたときの雑誌の記事に,この望遠鏡は見る機能も併用されているというような記事があったのですが,実際にそのように使われたというのは聞いたことがありません。
 反射望遠鏡の主鏡が放物面であるのと違って,シュミット望遠鏡の主鏡は球面鏡なので,製作が簡単です。絞りを球心位置に置いて非点収差とコマ収差を除去し,4次関数で表される非球面の薄いレンズ(補正レンズ)を置くことで球宇収差を除去するようになっています。そこで,補正レンズを作るのが難しいのです。また補正板の口径が大きくなってくると補正板はレンズなので屈折望遠鏡と同じく色収差が増大してしまいます。そこで,あまり大きな口径のものが作れません。
 さらに,作られる像面が主鏡の球心と同一位置に球心を持つ凸球面になる像面湾曲があるために,焦点に置く写真乾板は湾曲させる必要がありますし,鏡筒が焦点距離の2倍の長さになってしまうため,かなり大きい架台が必要になります。

 シュミット望遠鏡として名を残すのは,右手のなかったエストニアの光学技術者ベルンハルト・シュミット(Bernhard Schmidt)です。1905年,ベルンハルト・シュミットは,左手だけで研磨できるように,主鏡を球面、副鏡を4次以上の項を含む高次双曲面とする方式の望遠鏡を編み出しました。これがのちにシュミット望遠鏡といわれるようになりました。1935年,フィンランドの天文学者ユルィヨ・バイサラ(Yrjö Väisälä)はシュミット式望遠鏡の優秀性を説き,これでシュミット式望遠鏡は国外に有力な支持者を得ることになりました。
 シュミット望遠鏡は広い視野を得ることができるために,1950年から30年余りの間に一世を風靡しました。
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 最も口径の大きなシュミット望遠鏡は1960年,ドイツのカール・シュヴァルツシルト天文台(Karl Schwarzschild Observatory )に作られた口径134センチメートルのものでしたが,現在は使われていません。
 その次に大きいのが,1949年アメリカのパロマ天文台に作られ,現在「サミュエル・オシン望遠鏡」(The Samuel Oschin telescope)とよばれている口径126センチメートルのものです。現在は写真乾板をCCDに変えて,準惑星の発見などに活躍しています。
 そして,3番目がオーストラリアのサイディングスプリング天文台にある有効口径124センチメートルの「UKシュミット式望遠鏡」(UK Schmidt Telescope)で,その次が,この木曽観測所にある口径105センチメートルのシュミット望遠鏡です。
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 1974年に完成したこの105センチメートルシュミット望遠鏡はF3.1。日本光学工業(現ニコン)製で,6度四方という広い視野を持っています。この望遠鏡が作られたときのことは,1975年に発行された広瀬秀雄さんの書いた中央公論社発行の自然選書「望遠鏡-美しい星の像を求めて-」という本のなかの「より広い視野を求めて-日本で大型シュミット・カメラが生まれるまで」に詳しく書かれています。 
 このように,待望の広視野望遠鏡が生まれたわけですが,2000年を境に時代はディジタル化が進み,写真乾板を使って広視野の写真を写すことができたシュミット望遠鏡は時代に取り残されることになっていきました。

☆☆☆
Star Festival 2019

七夕

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☆☆☆☆☆☆
 これまで何度も東京大学木曽観測所のことはこのブログに書いていますが,今年もまた夏の特別公開が8月3日土曜日と4日日曜日にあったので,1日目に行ってみました。1日目は天気がよければ夜間の観望会があるということだったので満天の星空を借景にしたドームの写真を撮ろうと,それも楽しみでした。
 この観測所にある観測機器は口径105センチのシュミット望遠鏡ですが,普段はガラス越しに見ることしかできません。特別公開ではドームに入ることができるので,間近に見ることができます。今回行ってみて,私はドームに入ったことがないと思いこんでいたのですが,ずいぶんと昔の特別公開に来たとこがあって,そのときに一度入ったのを思い出しました。望遠鏡はそのときと大きく変わったことがあるのですが,そのことはまた後日書きます。

 私は,子供のころから,星を見ることよりもむしろ望遠鏡に興味がありました。それも,望遠鏡で星を見ることでなく,望遠鏡という機材を見るのが好きだったのです。
 頻繁に海外旅行をするようになった今は,昔あこがれていた世界中の天文台へ行ってそこにある望遠鏡を見ることができるのが幸せなのですが,それまで写真でしか見たことがなかった望遠鏡の実物を見たり説明を聞くと,ますます知識が増してよりおもしろくなってきました。
 そうした数ある天文台の望遠鏡のなかでも,私はこの木曽観測所にある口径105センチのシュミット望遠鏡が一番好きなのです。それは,この望遠鏡が作られたころに天文雑誌や天文年鑑の表紙を飾ってそれを見てあこがれたことと,シュュミットカメラというなんだかプロ好みな機材であることと,日本光学という会社が必死に作ったものであることと,望遠鏡自体の格好がいいからです。
 しかし,このシュミットカメラという種類の望遠鏡は,21世紀になってからしばらくの間冷遇されていました。その理由もまた後で書きます。それが,昔のアイドルタレントが売れなくなって低迷したのち,歳をとって突然第二次ブームが来ることがあるように,シュミット望遠鏡もまた,このごろになって再び脚光を浴びてきました。
 
 そうしたことは次回にして,今日は,私が世界中の天文台に行くようになって感じた日本の天文台の印象について書きます。
 海外の天文台に行くと,大概一般の人のための立派なビジターがあって,そこでどんな研究をしているかという説明パネルや模型があります。レストランやカフェもあることが多いです。施設はたえずメンテナンスされているので,きれいで豪華です。
 望遠鏡もまたしっかりメンテナンスされていて,年代モノとは思えぬほどです。アメリカやオーストラリアの研究施設にある望遠鏡は,維持にすごくお金をかけているように思えます。それに比べると,日本は本当に貧弱で気の毒です。これでは学者さんがかわいそうです。日本の研究施設にある望遠鏡は痛々しいくらいひどいです。ドームもさびているし,望遠鏡もテープが張ってあったり塗装がはげ落ちていたりと痛々しい状態です。天文台自体もまた,見学ブースに簡単な説明展示はあっても,レストランどころかビジターセンターさえありません。
 そうしたことに加えて,この観測所の望遠鏡には,反射鏡の再メッキをするための設備がないので,そうする必要があるときは反射鏡を多くの人の力で取り外して梱包して,再メッキ施設のある岡山まで送るのだそうです。はじめは作る予定だったのに,予算がつかなかったということです。それは,日本の学校に食堂や講堂がなく,食事は教室で,講堂の代わりは体育館で,というのと同じです。私が先月行ったアメリカのパロマ天文台の200インチ反射望遠鏡では,1階に反射鏡の再メッキをする立派な施設が当然のごとくあって,それが望遠鏡以上に重要なことで,見学コースはその説明からはじまりました。ドームのなかもきちんと整理されていて,ドームをメンテナンスするためのエレベータもありました。当然,トイレもありました。ウイルソン山天文台の望遠鏡も同様でした。

 日本では,研究施設に限らず何ごともみな,こういう感じです。サンフランシスコのゴールデンブリッジではペンキを塗り直すためのゴンドラが橋に沿ってはじめから作られていますが,日本ではその必要があるたびに足場を作ります。
 話は逸れますが,今年のヨーロッパは異常な猛暑で,ドイツも最高気温が40度を越しているそうです。しかし,日本とは違ってクーラーさえない場所が多いそうです。どうやら,どこも寒いくらいにクーラーの入ったアメリカとは違うようです。で,ドイツ人はこの猛暑をどう対処するかというと,学校や仕事を休みにしてしまうのだそうです。さらに,電車さえ運休になったりするそうです。ドイツ人もまずはクーラーを入れることを検討するそうですが,ドイツでは,きちんとクーラーを設置する場所を整備して配線なども隠し建物の美観を考えてから,クーラーを設置しようとするのだそうです。当然すごくお金も時間もがかかります。なので,なかなかクーラーが入らないので,休みにしてしまうのです。日本なら,とりあえず,壁に穴をあけたり,無理やり天井に配線むき出しでも,ともにかくクーラーをつけて冷やすという目的だけかなえてしまい,景観やら美観など知ったこっちゃありません。こういう話を聞くと,日本では道路や町の外観などがすべてが汚らしくぐっちゃぐちゃである理由がもとてもよく理解できるというものです。
 そういう国民性だから,望遠鏡もまた,改良をするとなると配線はむき出しのまま,ドームのなかには不要になった道具が散乱していても気にしないということになります。また,チキンとしたくても,そんなことに予算がつかないわけです。このように,研究施設だけでなく,公立の学校や大学がぼろいのも,日本全体がぼろっちく,町も美しくなく,道路もやたらと棒が設置されていたり,道に塗ったペンキがはがれていても平気だったり,ガードレールがさびていてもそのままなのは,すべてこういうことなのだなあと改めて感じ,寂しくなったことでした。 

◇◇◇

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 私が今回のロサンゼルス旅行の目的のひとつはウィルソン山天文台訪問でした。今日は,そのウィルソン山天文台について紹介しましょう。
 私は子供のころ,アメリカには巨大な望遠鏡がたくさんあって,アメリカ(政府)はすごいと思ったものですが,それはアメリカ(政府)がすごいのではなく,アメリカで財を成した人物がすごいということだったのです。日本で大金持ちが天文台を建設した,なんていうことを聞いたことはないでしょう。
 
 ウィルソン山天文台の初代台長はジョージ・ヘール(George Ellery Hale)です。ヘールは1868年6月29日シカゴで生まれた天文学者で,父はエレベーター製造で財をなしたウィリアム・ヘールです。つまり,私が訪れた日の前日が生誕150年だったということです。
 少年時代から自宅の屋上に据え付けられた天体望遠鏡で天体観察に没頭し,マサチューセッツ工科大学で学び,1890年に学位を取得,その後,自宅の敷地内に12インチの屈折望遠鏡を備える天文台を建設して太陽の観測を行いました。
 この望遠鏡には,彼が大学在学中に発明したスペクトロヘリオグラフ(単色太陽光分光写真儀)が組み込まれ,これによって太陽光からカルシウムの特性スペクトルに単色化し,史上初めて太陽の紅炎(プロミネンス)の撮影に成功しました。この成果によって,24歳でシカゴ大学天体物理学講座の助教授に就任しました。
 1897年,シカゴの実業家チャールス・ヤーキス(Charles T. Yerkes)の資金を得て101センチ屈折望遠鏡を備えるヤーキス天文台を建設しました。さらに,1904年,カーネギー研究所の寄付を得て当時世界最大の257センチ反射望遠鏡を備えるウィルソン山天文台を建設し,初代台長になりました。さらに,ロックフェラー財団から寄付を受け,パロマー山天文台の建設に着手しますが,その完成を見ることなく死去しました。

 ウィルソン山天文台(Mount Wilson Observatory=MWO)は,ロサンゼルスの北東パサデナ郊外のサン・ガブリエル山系にある標高1,742メートルのウィルソン山頂にあります。ウィルソン山は北アメリカの中では最も大気が安定した場所のひとつで,天体観測を行なうのに理想的な環境でした。完成当初はウィルソン山太陽観測所 (Mount Wilson Solar Observatory) と呼ばれ,天文台創設2年後の1904年にワシントン・カーネギー協会から出資を受けました。
 1896年,ジョージ・ヘールは父のウィリアム・ヘールからの寄贈品として直径60メートルのミラーを受け取りました。しかし,1904年にヘールがカーネギー協会から資金を得るまで天文台の建設は待たなければなりませんでした。1905年に反射鏡の研磨が始まり,完成には2年を要しました。当時は天文台へ道が未整備で,資材の運搬はラバなどが用いられていましたが,望遠鏡に使われる分割できない大型の部品を運ぶために電動トラックが開発されました。この完成当時世界最大だった望遠鏡は天文学の歴史上,最も多くの成果を挙げて成功した望遠鏡のひとつとなりました。

 ヘールはさらに大口径の望遠鏡の建設に着手しました。カーネギー協会とともに資産家で慈善家のジョン・D・フッカー(John D. Hooker)が必要な資金の大半を援助,1917年11月,100インチ望遠鏡は完成しました。
 エドウィン・ハッブル(Edwin Hubble)は,この100インチ望遠鏡での観測をもとに,星雲が実際には我々の天の川銀河の外にある銀河であると結論,さらに,ハッブルと助手のミルトン・ヒューメイソン(Milton L. Humason)は,宇宙が膨張していることを示す赤方偏移の存在を発見しました。
 フッカー望遠鏡は世界最大の望遠鏡として君臨していましたが,1948年にパロマー山に200インチ望遠鏡を完成したことでその座を明け渡すことになりました。1986年に100インチ望遠鏡は一度は運用を終了しましたが,1992年に再び使用が開始されました。フッカー望遠鏡は20世紀を代表する傑出した科学装置なのです。

☆ミミミ
古の大望遠鏡は今-世界一を誇ったアメリカの象徴①
古の大望遠鏡は今-世界一を誇ったアメリカの象徴②
古の大望遠鏡は今-世界一を誇ったアメリカの象徴③

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 私は40年以上前の「幻想」のなかで趣味を楽しんでいるのです。つまり,時代遅れです。しかし,当時発行されたこうした雑誌やその別冊を今にして面白く読んでいます。
 やっと手に入れた「月刊天文ガイド」の別冊「日本の天文台」には,40年以上前の,国立天文台のような研究施設,学校天文台や公立天文台のような公開施設,そして,アマチュアの個人天文台が載っています。
 そのなかで,国立天文台のさまざまな施設は,老朽化して現役を退き,今は歴史的保存物の対象となりました。現在,日本の天文学を支える最新の研究施設は,ハワイにあるすばる望遠鏡と南米チリにあるアルマ望遠鏡が主砲となっていて,空の明るい国内の非力な望遠鏡は使い物になりません。当時最大だった岡山の188センチ反射望遠鏡もまた,昨年その使命を終えたようです。

 「日本の天文台」に載っていた個人天文台もまた,40年も前のことだからその所有者が歳をとり,あるいは他界したので,その使命を終えたものがほとんどです。どんな機材を使っていたかというのは個人の趣味の問題なので,ここでそれを話題にするものではなさそうですが,今の私の知識でそれらを見ると,本当に自分が何をしたいかがわかっていた人は,あの時代であってもそれに応じた素晴らしい機材を工夫して作りそれを使っていたということがわかって感心します。こうしたことはなにも望遠鏡に限るものではありません。観光地などに出かけたときにカメラ好きが使っているカメラでも,自分がなにを撮りたいかがわかっている人の持ち物はそれなりに理があります。それは「ブランド」や「見栄」ではありません。
 現在のアマチュアの天文ファンは,超新星を探すとかいった特別な目的をもって楽しんでいる人は別として,単に美しい星を楽しみたい,写真を写してみたという人は,空の明るい日本で写した写真をコンピュータ処理をしてなんとかサマになるようにさまざまな工夫をして楽しんでいます。しかし,それもわびしい話で,いくら高額の機材を手に入れようと,空の暗いオーストラリアにでも出かけて安価な機材で適当に写したほうがよほど素晴らしい写真が写せてしまう,というのが現実です。

 それより切実なのは,研究を対象とした天文台ではなく,一般の人を対象とした公開用の施設です。
 「日本の天文台」に載っているこうした施設にあった望遠鏡の多くは日本光学(現在のニコン)と五藤光学の屈折望遠鏡や西村製作所,あるいは旭精光研究所の反射望遠鏡でした。当時の私は自分では手に入らないそうした機材に深くあこがれました。それらのほとんともまた老朽化しましたが,幸いにも破棄されなかったものの多くは,現在,四国にできた「望遠鏡博物館」で余生を送っています。私もそれを見にいったことがありますが,この本に載っていたまさにその「本物」を目にして感激しました。
 実際に話を聞いてみると,日本光学の望遠鏡よりも安価だった五藤光学の望遠鏡のほうが赤道儀の精度がよかっただとか,しかし,光学系は劣っていただとか,そういった生の声をきくことができました。それは本からではわからないものでした。
 現在,こうした公共の天文台には当時よりも大きな反射望遠鏡があって,週末ともなると公開観望会を実施していたりするので,私もときどき見にいきます。そして,惑星を実際に眺めると感動します。しかし,これだけ立派な機材があっても空が明るいからなかなか有効に活用できていないことを残念に思うことが少なくありません。
 確かにドームがあって,そのなかに立派な望遠鏡があるというのが,一般の人の「天文学」に対する印象でしょう。それはまさにお城の天守閣のようなものかもしれません。しかし,一般の人が星の美しさを知り感動するためには,実際の満天の星空を見るのが一番なのです。
 今,日本では「日本一星空の美しいところ」という触れ込みで多くの観光客を集めている場所があります。あるいは,ニュージーランドのテカポ湖やボリビアのウユニ塩湖のように星空目当てのツアーもあります。こうしたところに足を運ぶ人が少なくないのだから,人は満天の星空を見たいのです。そうしたことを考えたとき,望遠鏡という機材以上に,満天の星空という40年前の日本が持っていた貴重なものを失ってしまったことが私には残念でなりません。

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 「月刊天文ガイド」を創刊号のころから知る私たちにとって「三種の神器」にあたる本はおそらく「イケヤ・セキ彗星写真集」「広角レンズによる星野写真集」「日本の天文台」であろうと思われます。
 私が星に興味をもったときはすでに「イケヤ・セキ彗星写真集」はその数年まえに発行されてしまっていましたが,「広角レンズによる星野写真集」と「日本の天文台」は購入することができたので,毎日のように飽きもせずこれらの本を眺めて育ちました。
 実は,私が興味をもったころはまだ「イケヤ・セキ彗星写真集」は出版社に在庫があったのですが,子供の知恵ではそんなことは気づかなかったので,それが手に入らないことが残念でした。しかし,いつも眺めていた本というのは知らないうちに薄汚れたり,いつの間にかどこかにいってしまうものであり,どうでもよいようなものはいつまでも手元にあるものです。そんなわけで,私の愛読していた「広角レンズによる星野写真集」と「日本の天文台」もそのうち行方不明となってしまいました。

 歳をとると子供のころの原風景が懐かしくなるもので,私はこの3冊の本が無性に手元に欲しくなりました。いくら本棚をさがしても,昔絶対に手元にあったはずの本は見つからず,見つからなければより一層欲しくなるのでした。近年はネットオークションや古書のウェブページがあるので,それをこまめに探しました。そして,まず「イケヤ・セキ彗星写真集」を手に入れました。その後,「広角レンズによる星野写真集」も見つけました。同時に,生まれてはじめて買った「月刊天文ガイド」の1968年3月号も見つけました。「月刊天文ガイド」はこの号をはじめとして10年以上は買い続けたのですが,その置き場所に困ってすべて手放してしまいました。しかし,このはじめの1冊だけはどうしてもまた欲しかったのです。
 どうしてもなかなか手に入らなかったのが「日本の天文台」でした。あるときは3万円近くの値がついているものもありましたが,それではあまりに高価です。
 今回,それを私はずいぶんと安くやっと手に入れたのです。この本は1976年当時に日本にあった公設・私設の天文台を写真とともにまとめたものですが,やっと手元に戻ったこの本を改めて見ると,当時の記憶がだんだんと蘇ってきました。そのうち,手に取ったときに同じような感慨を覚えた本があるのを思い出しました。それは,やはり今から40年ほど前に出版されたアメリカ大リーグのボールパークをまとめた写真集でした。それはともに,当時の,今となっては古臭い施設をまとめた写真集なのでした。こういうものを「古きよき時代」というのです。 

 今から40年以上も昔,この本に載っていた天文台に,私は憧れました。その後,実際足を運んだところも少なくありません。この当時の日本の天文台のうちで,いまでも現役なのはどれくらいあるのでしょうか? おそらく1割もありますまい。現実は,こうした当時の望遠鏡が今役に立つようなときは限られているのです。というよりも,完全に時代おくれなのです。それは,ひとつには機材が古いということにあり,もうひとつは日本の空が絶望的に星が見えないくらい悪くなったということにあるのです。
 天文台がアマチュア天文ファンの「聖地」でありえた時代,天文台は,当時の青少年のドリームランドでした。なにかこうした施設にはものすごい夢とロマンが満ち溢れていたように思えました。そうした想いが動機付けとなって,当時の青少年は夢や知識が増したのです。そう考えると,単に「時代遅れ」といって,今,こういう施設を葬り去ってはいけないように思います。この本に再び巡り合って,私も,再び,こうした「聖地」の巡礼をしたいものだと,改めて思ったことでした。

日本の天文台池谷関彗星写真集広角レンズによる星野写真集

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