しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国50州 > ワシントンDC

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●安価で快適な「メガバス」●
 私はこの旅で50州制覇とMLB30球団のボールパーク制覇に加えて,長年の夢であった「アムトラック」にも乗ることができた。長距離バスはすでに「グレイハウンド」は乗ったことがあったが「メガバス」は初体験であった。
 フィラデルフィアからワシントンDC まで利用したアムトラックは39ドルであった。そして,今回ワシントンDCからフィラデルフィアに行くメガバスは2階の最前列という最も高価な席でも10ドル,そこに手数料を加えて私が支払ったのは12ドル75セントであった。わずか1,500円くらいでワシントンDCからフィラデルフィアまで行くことができるのである。240キロ,東京から浜松ほどの距離である。
 アメリカのメガロポリス,つまり,ニューヨーク,ワシントンDC,ボストンなどを観光するには車は邪魔になるだけだから,都市間の移動にはバスを使い,市内観光には地下鉄などを利用するに限る。このとき,公共交通機関を利用して観光するのに便利なように,地下鉄の駅から徒歩圏内の場所に適当なホテルを見つけるのがポイントである。
 しかし,アメリカの東海岸の夏は日本以上に蒸暑いから,夏休みに旅をするには覚悟がいる。

 考えてみれば,私にとっては,35年前に生まれてはじめて何もわからずアメリカをひとり旅をしたときが最も旅のやり方としては優れていたようなのだ。
 確かに今よりも大都市の治安は悪かったが,今ほどに観光客でごった返していなかったし,市内観光は歩くか公共交通機関を使い,都市間の移動にはグレイハウンドを利用したとても楽しい旅であった。若さは暑ささえ苦にしなかった。
 思い出すのは,ニューヨークで宿泊した安ホテルから,朝,歩いて近くのレストランに行ってモーニングサービスのような食事をしたときのことだ。ビリージョエルのアメリカが,吉田ルイ子のアメリカがそこにはあった。ああ,懐かしき日々よ。
 今考えると,たいして英語もできなかったのに,今回の旅以上にいろんなところに行き,様々な経験をしているのだ。若いというのは実に素晴らしい。そして,そうした旅をしたことが生涯の思い出となる。若い時間を決して無駄に使ってはいけない,としみじみ思う理由である。
 メガバスの乗り心地は,日本の高速バスとほとんど変わらなかった,というよりも日本のバスよりも広く快適であった。
 私は,2階の最前列の席に座ったからずっと景色を見ることにしていた。このバスは無料のWifiが通じてはいるがさほど入りがよくないらしい。しかし,私はこの貴重な時間をネットサーフィンをするような無駄をして過ごす気はまったくなかった。

 バスはユニオンステーションを出て,そのままインターステイツ95を目指してワシントンDCのダウンタウンを走っていった。
 写真にあるように,私の乗ったバスの前にボルトバスが走っていた。それと進路を別にすると,その前にもう1台のメガバスが別の目的地に向かって走っていて,ジャンクションで分かれていった。
 私の乗ったバスはインターステイツ95に乗ってフィラデルフィアを目指して進んでいく。この道はすでに私が数日前に車で走ったところである。それにしても… と前回走ったときに思ったのは,このインターステイツの道路標示が変だったことである。アメリカでは茶色地の標示は観光地を示すものなのである。道路標示なら緑色地でなければならないのだ。
 今回,座席から見ても,ここの標示は確かに茶色地であった。どうやら,このインターステイツ95の走っているところは国立公園のなかであって,管轄が国立公園局のようで… あった。

 そうこうするうちに,バスはボルチモアの行政区域に入った。さらに走っていくと道路は有料道路になった。私は有料道路を走るのは避けたので,この道路は走っていない。バスはこのまま有料道路を通ってインターステイツを一旦降りて,ボルチモアのダウンタウンに向かうのかと思った。このあたり,窓から外を見ても,インターステイツにもパトカーが数台停まってなにやら取り調べをしているし,物騒なところだった。
 実は,私はバスがボルチモアのダウンタウンを走るのを密かに期待していた。ダウンタウンの疲弊した景色が見たかったからだ。しかし,バスはインターステイツを降りずそのままボルチモアを通過してしまい,それからもずいぶんと走って,ボルチモア郊外のモールの駐車場に停まった。
 メガバスのボルチモアの停留所は意外な場所にあった。後で調べると,そこは,
  White Marsh Mall Opp Red Lobster
  - 8092 Honeygo Blvd Baltimore MD Bus Station -
というところであった。ダウンタウンからは20マイルも離れていて,こんな場所で降りても車がなければボルチモアのダウンタウンには行くことができない。
 この停留所で数人の乗客が下車した。どうやら家族がここまで迎えに来ているようで,モールの駐車場に停めていた車に乗って帰っていくのが見えた。メガバスの停留所は都会によってはこういう郊外の不便なところにあるあるから利用する際は注意が必要,とガイドブックに書かれてあったのを思い出した。

◇◇◇
ニューヨークの想い①-吉田ルイ子の青春
ニューヨークの想い②-貧しきものよ,この国においで。

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●アメリカの格安バスに乗る。●
☆14日目 8月9日(火)
 今日はワシントンDCからフィラデルフィアに移動する日であった。いよいよ長いこの旅も最終章であり,フィラデルフィアの市内観光を残すのみとなった。
 フィラデルフィアからワシントンDCへ来たときは鉄道の「アムトラック」を利用したが,今回は「メガバス」を利用することにした。アメリカには「グレイハウンド」(greyhound)という老舗の長距離バスがあるが,「メガバス」(megabus)というのは現在売り出し中の長距離格安バスである。経営母体などは全く異なるが,イメージとしてはちょうど日本でいうJRバスと格安長距離バスのような感じであろうか。

 「グレイハウンド」はアメリカで最大規模のバス会社であるが,この会社の走らせる長距離バスそのものを「グレイハウンド」と称することも多い。アラスカ州とハワイ州を除くアメリカ本土とカナダ及びメキシコの一部の都市を結ぶ膨大な数の路線を持ち,3,100路線以上が存在する。
 「グレイハウンド」は1913年にミネソタ州ヒビングにて設立され,1926年にグレイハウンド・コーポレーションとなる。現在はテキサス州ダラスに本社を構えている。
 私もまだアメリカでは車を運転しなかった今から35年前,グレイハウンドを利用してニューヨーク,ワシントンDC,ボストンを移動した。当時はこのグレイハウンドに乗ってアメリカを横断するのが夢であった。
 思えば,若いというのはよいものよ! 大学に入ったばかりの大学生諸君,ともかく,英語ができないとか金がないとかいった言い訳をせずに,この夏は思い切って旅に出て,グレイハウンドでアメリカ横断をしてみるとよい。人生の何かが確実に変わり,自分に自信ができることであろう。当時もまた,お金のない若者や留学生はグレイハウンドに乗ってアメリカを旅した。谷村新司さんも若いころそうしたと聞く。

 アメリカではグレイハウンドのような長距離バスの停車場をバスティーボ(bus depot)という。日本ではバスターミナルを「バスセンター」と名乗るが「バスセンター」という言葉は和製英語である。また,「terminal」という語はターミナルケアのように人生の終点を連想させるので,アメリカでは嫌われている場合もある。
 バスティーボは都市によってその場所が非常に治安の悪いところであったりするので注意を要するが,比較的規模の小さい都市ではダウンタウンにあることが多く,たまたまそこに差しかかったとき,そこからバスに乗り込む人の姿を見ていると,ああ,アメリカだなあ,とけっこう感動する。
 旅はいいものだ。

 私はレンタカーで旅をしていることが多いので,こういう公共交通機関に疎かったのだが,近年,「グレイハウンド」に加えて「メガバス」とか「ボルトバス」といった格安バスがあるという話だったので,今回,ぜひ利用してみたいと思っていたのだった。
 「ボルトバス」(boltbus)というのはアメリカ北東部のバス事業者で,本社はニュージャージー州セコーカスにある。2008年に設立されたグレイハウンドとピーターパン・バスラインズの折半出資の事業で,グレイハウンドの営業許可を利用してニューヨークとアメリカ北東部の都市を結ぶバス路線を運行しはじめたという。

 ボルトバスもメガバスもグレイハウンドをスタイリッシュに改善したバスで,車内には無料Wifiやモバイル用の電源もあり快適だという話でだった。また,どれくらいの人々がチケットを購入したかによって運賃が決まり,最低1ドルの運賃が設定されているという。
 私は,インターネットでメガバスを予約した。予約したときに座席の選択ができて,席によって値段が若干違っていたのがまたアメリカらしい話であった。私はせっかくなので2階席の最前列を予約した。値段はアムトラックよりはるかに安く3分の1くらいであった。
 ワシントDCでは,バスターミナルはユニオンステーションの3階にあって,ここからはグレイハウンドもメガバスもボルトバスも発着していて,過剰に豪華な新宿は別として,日本の大都市のバスターミナルとほとんど変わらないところであった。

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●国立アメリカ歴史博物館へ●
 国会議事堂の見学を終えた私は,まだスミソニアンの博物館群の閉館には時間があったから,ホテルに帰る前にもうひとつ見学に行くことにした。
 私は明日のにはフィラデルフィアに向かうことになるから,ワシントンDCを観光するのはこれが最後となる。そこで国立アメリカ歴史博物館へ行くことにした。
 2日前にこの博物館が工事中だと思ったのは私の大いなる誤解であって,この博物館は開館していることを後で確認した。ただし,2015年から修復工事を行っていて,3階部分だけはまだ工事が終わっていなかった。
 国会議事堂をからずいぶんと歩いてやっと入口に到着した。この博物館はそれほどセキュリティが厳しくなかった。

 国立アメリカ歴史博物館(National Museum of American History)は,歴史と文化を中心に,テーマごとの展示で多様なアメリカの歴史と文化を年代順に紹介している博物館である。
 館内に入ると,まず,真っ先に目についたのが星条旗をモチーフにしたオブジェであった。その奥のコーナーには,アメリカの本物の「元祖」星条旗,そして,国歌についてなどが説明されていた。
 アメリカ人は本当に星条旗に誇りを持っている。
 次に私が面白いと思ったのはファーストレディのコーナーであった。ファーストレディとは言わずもがなアメリカ大統領夫人のことであるが,この人気コーナーに展示されているのは歴代大統領夫人の着用したドレスである。
 それにしても,今回アメリカの大統領選挙でクリントンが勝利しなかったのがつくづく残念である。そうであったら,このコーナーはどうしたのであろうか?

 私がこの博物館でぜひ見たかったのは,アメリカンストーリーのコーナーであった。ここには,リンカーン大統領の懐中時計とデスマスク,MLBのレジエンドであるベーブ・ルースのサイン入りボール,映画「オズの魔法使い」に主演した女優ジュヂィ・ガーランドが履いたルビーの靴,「セサミストリート」のカーミットの人形,さらには,ボクシングチャンピオンだったモハメド・アリが試合で使った本物のグローブなどが展示されているのである。
 アメリカの博物館に行けば,こうした貴重な本物をどこでもみることができる。実際に見ているときは実感がないのだが,考えてみれば,どれもが世界にひとつしかないすごいものなのである。

 こうして,ついに国立アメリカ歴史博物館を見学して,私は,ワシントンDCのナショナルモールの博物館群を後にすることとなった。当初,この旅を思いついいたときにはワシントンDCを観光する予定などなかったから,これもまた不思議な縁であった。そしてまた,改めて35年,という月日の重さを考えてしまう。
 今日もまた,いつもと同じように,ナショナルモールから12番ストリートを北に歩いて,メトロセンターから地下鉄に乗ってホテルに戻ることにしていたが,その途中にあって気になっていたサンドウィッチショップで夕食をとることにした。ここは,サンドウィッチを買って店内で食べることのできる店であった。
 このお店の外にかわいい女の子の母親が友達と話に夢中になっていた。その間,暇を持て余した女の子がサンドウィッチを食べていた私と目があって,姿を消したり現れたりして遊んでいた。
 どこの国も子供たちは純粋でかわいいものであった。

 食事を終えて人の雑踏のなかを地下鉄の駅に向かった。ここワシントンDCもまた他のアメリカの大都市同様,ものすごく多くの国から来た観光客と,そして,住んでいる人もまたさまざまな人種にあふれていて,そうしたなかにいると,危うく自分を見失いそうになる。自分は何なのだろうか? もし,ここにいる人種の違った人に生まれていたらどんな人生を送ったであろうか?
 この人種のるつぼといわれる実験国家アメリカ同様の姿が次第に世界に広がって,今や,日本でも,多くの外国からの観光客で一杯になっているのだが,そうなっていくとき,この狭い地球上で,人がこの先どのように共存して生きていくかという現実に直面していくに違いない。そのとき,日本という国の教育,特に中等教育で教えていることがそれに対してあまりに無力であることに,私は悲観的になる。この街を歩いていると,そういった気持ちになってくるのである。
 地下鉄の入口に着くと,アマチュアのバンドが音楽の演奏をしていて,多くの観光客がそれを取り巻いていた。これもまた,アメリカらしい風景であった。こういう若者はこの先どういった人生をおくるのであろうか? ふと感傷的になってしまった。
 
 今日もまた,いつもと同じ駅から地下鉄に乗ってワシントンDC郊外のホテルに戻った。
 私は,35年ぶりのワシントンDCの観光をこうして終えたのだった。

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●ジェファーソンの蔵書●
 見学を予約した時間が近づいたので,自然史博物館を出て,歩いて国会議事堂(United States Capitol)に向かった。
 何度も書いているが,私が前回この国会議事堂に来たのは今から35年前のことであった。そのときに持っていった「地球の歩き方」の1980年版はこの冊子の創刊2年目のものだが,そこから当時の説明を引用してみよう。
  ・・・・・・
 (国会議事堂は)中に入ると無料のツアーが数分おきに出発している… 
 議会が招集されている時の上院下院の本会議見学は議員の紹介が必要だが,外国人にはわりあい寛大で紹介がなくとも事情を話せば見学を許可してくれる。この場合,なぜ見たいのかはっきり何度もいわないといけない。守衛が一緒について来るし時間も数分と短いが…
  ・・・・・・
 このように書かれてある。

 当時のアメリカはこんなにおおらかだったのだ。しかし,私は,事情を話したわけでもなく,なぜ見たいかを何度も言ったわけでもなかったが,なぜか,見学コースに行こうと思って間違えて本会議の見学をしてしまったのである。そしてまたそのとき守衛が一緒についてきたわけでもなかった。
 今となっては信じられない話であるが,これは事実である。そして,私は,このとき,当時副大統領であったパパ・ブッシュ(ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ=George Herbert Walker Bush=第41代大統領)を目の前で見たのだった。

 そんなわけで,そのときの私は,この国会議事堂の見学コースに参加しなかった,いや,できなかったので,今回こそ,ぜひ,見学コースに参加しようと,今年度版・つまり最新の「地球の歩き方」に書かれてあったように,事前にインターネットで予約した。しかし,実際は,事前に予約などしなくても,当日行けば何の問題もなく見学コースに加わることができたのだった。
 まず,ビジターセンターに行って,セキュリティチェックを受けて,指定されたツアーに参加するという段取りになる。はじめに入った部屋は劇場のようなところで,ここで国会の歴史を紹介する15分程度のフィルムを見た。その後で,係員の解説を聞きながらロタンダ,彫像ホールと見学していく段取りであった。
 ロタンダ(Rotunda)は国会議員の儀式にも使われる広場で,内径が29メートル,ドームの内壁の高さは55.8メートルである。彫像ホール(Statuary Hall)は,1857年まで下院議会室として使われていた部屋であったが,1864年からは50州がそれぞれ選んだ「州で傑出した人物ふたり」の彫像が陳列されている。
 しかし,正直言って,この見学ツアー,私には何も面白くなかった。期待はずれであった。

 ロタンダと彫像ホールの見学が終わると自由解散で,その後は展示ホールの見学ができるわけだが,この展示ホールは,別に見学ツアーに参加せずとも自由に入ることができるのだった。展示ホールは,国会の模型やら昔の議会の様子,公民権運動のパネルがあって,非常に興味深いものであった。
 また,国会議事堂にはフードコートがあって,ここもまたツアー参加者でなくても利用できる。フードコートはサラダバーや肉の煮込み料理など,メニューが非常に充実しるということであったが,私はすでに昼食を終えてしまっていたから食することができず,非常に残念であった。

 国会議事堂は,このように,どこが見学コース参加者専用で,どこが自由に入れる場所なのかすらよくわからないまま,私は見学を終えたのだが,さらにこの建物はその先の奥まったところにも通路があった。
 そこもまた,行ってもよいところなのか,立ち入り禁止なのかよくわからなかった。しかし,数人の観光客がそこを歩いていくので,私も彼らにつられて歩いていくと,やがて地下のトンネルを通過し,たどりついたのは議会図書館であった。
 この国会議事堂の隣にある議会図書館(Library of Congress)は世界一の蔵書を有するという。図書館は3つの建物からなり,なかでも最も美しいのがトーマス・ジェファーソン館(Thomas Jefferson Bldg.)である。ジェファーソン館の必見はジェファーソン図書館の復元で,「本なしでは生きられない」と語った第3代大統領トーマス・ジェファーソンの蔵書が,国会図書館が焼失したのちに再建されたときに寄付されたものである。ここには約2,000点のコレクションと議会図書館の収蔵品から選別した約4,400点もの書籍がみごとに陳列されていた。また,階下の閲覧室にはこの図書館を利用している議員の姿をみることもできた。
 こういった豪華な建物を見るにつけ,日本とは比較にならない国力を感じるのだった。
 私は,この旅で,すでに,ジェファーソンの旧宅であったバージニア州シャーロッツビルの「モンティチェロ」(Monticello)にも行っていたから,これもまた不思議な縁だと思った。

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●国立自然史博物館●
 国立公文書館を出て私が次に行ったのは国立自然史博物館(National Museum of Natural History)であった。
 アメリカの大都市にはどこも美術館とならび自然史博物館がある。自然史博物館というのは日本でいうところの科学博物館のようなものだ。それを「科学」というより「自然」と名づけるところが文化の違いであろう。
 私は今年の6月下旬にオーストラリアで天頂に輝く天の川を見て「自然の尊厳」を感じた。日本は公害でこうした満天の星空が見える場所すらないことや,何億年も前の地層もほとんどないこと,そして,絶えず天災に悩まされていることから,自然は尊厳する対象であるよりも戦う相手のように考えているのではないか,と感じる。そして,自然を破壊することが国の発展だと信じているところがあるから,さらに自然の怒りを買うのだ。そして,自然を破壊するこことを多少は申し訳ないと思うのか,何かを建設するときに地鎮祭などを行うのは傲慢な日本人の見せかけだけの正義であろう。

 さて,この自然史博物館は1910年に開館したスミソニアンで最も古い博物館である。テーマは地球すべてで,地球誕生46億年間の自然界に存在するすべてを網羅した博物館となっている。
 入口を入ったところで出迎えてくれるのが博物館の主,アフリカ像であった。このアフリカ像(Giant Bush Elephant)は,1955年に捕獲されたもので,これまで捕獲された像のなかで最大のものだという。しかし,牙はグラスファイバー製のフェイクである。というのも,本物は重すぎてj剥製が立っていられないからという話である。

 私はまず,地下に降りて,この日の昼食をとった。ナショナルモールにある博物館はどこも無料だし,地下に行けば大概どこもレストランがあるので,食事をするにはとても便利なのだ。
 その後,館内をくまなく回ったが,この博物館で特筆すべきは鉱物と宝石の展示であった。
 この博物館の目玉はホープダイヤモンド(Hope diamond)と名づけられた世界一有名な45.52カラットというとてつもないブルーダイヤである。このダイヤモンド,もともとは112.16カラットあったそうで,1673年にフランスのルイ14世が購入し,67.12カラットまでにカットされた。その後,フランス革命で盗難に遭ったが,それから20年後にロンドンで発見され,1830年にはイングランドのヘンリー・トーマス・ホープ(Henry Thomas Hope)のものになったことから,ホープダイヤモンドと呼ばれるようになった。

 なお,カラット(carat)とはダイヤモンドなどの宝石の質量を表す単位であって,現在は「1カラット=200ミリグラム=0.2グラム」と規定されている。カラットの語源はアラビア語の「quirrat」(デイゴ),あるいは,ギリシャ語の「keration」(イナゴマメ)だといわれる。
 なお,カラット,カット,カラー,クラリティ(透明度)の4つがダイヤモンドの品質を決めるとされる。
 宝石のほかにもここは鉱石の展示も充実している。金,銀,銅をはじめとして,こうした鉱石がどのように地球上に存在しているかということがわかるように展示されている博物館をここ以外には見たことがなかった。その意味でも,私は非常に興味をもって鉱石の展示に見入った。隕石も数多く展示されていた。
 この博物館には,さらに,人類の起源として,初期の人類から現在の人類までの進化のようすも展示されていたが,これは最新の展示なのだそうだ。さらに,海洋生物や哺乳類,昆虫園,蝶園といったもの,そして,骨格のコーナーもあって,非常に充実した博物館であった。

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●35年前とは全く違うワシントンDC●
 フォード劇場とピーターセンハウスの見学を終えた後の予定は,国会議事堂の見学であった。
 35年前にワシントンDCに来たとき,今になっては夢のような話であるが,私は国会議事堂の見学をするつもりで,間違えて議会の傍聴をしてしまった。そこで今回,そのときにできなかった国会議事堂の見学をしたいものだと思っていて,事前にインターネットで予約までしてあったのだ。しかし,見学時間は午後だったので,それまでずいぶんと時間があったから,昨日行くことのできなかった国立公文書館や国立自然史博物館に寄ってみることにした。
 
 ピーターセンハウスを出て10番ストリートを南下してペンシルベニアアベニューを南東に向かって歩いていくと,様々な政府の建物があった。東京で霞が関を歩いているような感じである。
 まず目についたのがFBIである。
 連邦捜査局,つまり,FBI(Federal Bureau of Investigation)の本部は以前はツアーで公開されていて,私も参加したことがあるが,現在はアメリカ上院議員の紹介がないと見学できないという。
 FBIは1908年の創立で,1930年代半ばにギャングの活動を鎮静化させたことで知名度を得た。司法省に属し,連邦法に違反する事件や複数の州にまたがる犯罪捜査,公安情報の収集など行うとともに,テロリスト対策が最重要業務となっている。

 さらに歩いて司法省を過ぎ,はるかむこうに国会議事堂を眺めながらペンシルベニアアベニューを歩いていくと,国立公文書館に到着した。
 国立公文書館(National Archives Museum)はギリシア神殿を思わせる壮麗な建物で,多くの所蔵品が公開されていて,今も無料で見学することができる。
 入口は多くの人でごった返していたが,流れがよく,広いので,問題なく見学することができた。ただし,館内の写真を写すことはできなかった。

 ここでの必見は「自由の憲章」(Charters of Freedom)と呼ばれる独立宣言(Declaration of Independence),合衆国憲法(The United States Constitution),人権宣言=権利の章典(Bill of right)であるから,それを見るために,まずはそれらが展示されている中央広間のロタンダに急いだ。
 アルゴンガスを注入したチタンとアルミニウムに金メッキを施したケースに,羊皮紙に書かれたこれらの文書は収めらていて,夜間や緊急時には展示場所の真下地下6メートルにあるシェルターにおろされ保管されるのだという。
 見学しているうちに,私は以前ここに来たことがあるのを思い出した。
 

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●狙撃後に横たわった部屋●
 アメリカ合衆国憲法修正第13条(Thirteenth Amendment to the United States Constitution)は,公式に奴隷制を廃止し,奴隷制の禁止を継続すること,および制限のある例外(犯罪を犯した者)付きで,自発的ではない隷属を禁じたアメリカ合衆国憲法の修正条項のひとつである。
 この修正条項が批准される前にも,ほかのすべての州は「奴隷解放宣言」によって奴隷は解放されていたが,デラウェア州とケンタッキー州では奴隷制は合法のままであった。
 前回書いたように,「奴隷解放宣言」を発したエイブラハム・リンカーンは,この奴隷解放宣言が一時的な戦争の手段と見なされるかもしれないことを心配して,奴隷制がまだ合法であるこれら2州の奴隷を解放することに加えて,永久的な奴隷制度の廃止を保障するためにこの修正条項を指示したのだった。
 修正提案は,下院議員のジェイムズ・ミッチェル・アシュレー(James Mitchell Ashley)(共和党,オハイオ州選出)とジェイムズ・ファルコナー・ウィルソン(James Falconer Wilson)(共和党,アイオワ州選出),および上院議員のジョン・ブルックス・ヘンダーソン(John Brooks Henderson)(民主党,ミズーリ州選出)の3人によって起草され提出された。さらに,この修正に続いて,修正第14条(元奴隷の市民権の保護)と修正第15条(選挙権に関する人種による制限の禁止)が追加された。
 修正第13条から第15条の3つをあわせて「レコンストラクション修正」(Reconstruction Amendments)と呼ぶ。

 アメリカ合衆国憲法修正第13条が可決された3か月後に南軍が降伏し南北戦争は終わるを告げた。
 リンカーンが狙撃されたのは1865年4月14日。それは終戦の6日後のことであった。狙撃された時刻は午後10時13分または11時17分とされる。
 狙撃した俳優ジョン・ウィルクス・ブースはこのときラテン語で「Sic semper tyrannis!」(=Thus always to tyrants!)と叫んだという。リンカーン大統領に伴っていたラスボーン少佐が飛びかかるもナイフで腕を切られ振り払われ,ブースはバルコニーから階下にジャンプしたがそのときに脚を折った。
 ブースは,足を引きずり,どうにか用意した馬に乗って逃走した。一方,致命傷を負ったリンカーン大統領は通りの向かいのピーターセンハウスに運ばれたが,しばらくの昏睡の後,1865年4月15日午前7時22分に死亡が宣告された。享年56歳であった。

 私がフォード劇場を出ると,そのまま道路の向かい側のピーターセンハウスを見学するように促された。ここもまたどこかわからないほど地味な入口からなかに入ると,そこにはリンカーンが運び込まれ横たわったとされる場所が展示されていたが,現在ここに置いてあるベッドは当時のものではない。
 この建物はリンカーンに関するさまざまな展示もあって,立派な博物館となっていた。のちにケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺されたときにその狙撃をしたといわれる建物が現在ケネディ大統領に関する立派な博物館となっているのと同様であった。この国はつねに歴史をリスペクトする。
 おそらく,多くの日本人観光客はツアー旅行でワシントンDCを訪れてもここに来ることはないと思うが,この場所こそアメリカを知るためにはきわめて貴重なところだと私には思われた。来ることができてほんとうによかった。

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●リンカー大統領の死●
☆13日目 8月8日(月)
 この日がワシントンDC滞在の最終日であった。おそらくもうこの都市に来ることもあるまい。そこで,私は絶対に行っておくべきところを探した結果,まずはリンカーン大統領が暗殺されたというフォード劇場に行くことにした。フォード劇場があるのはダウンタウンに北側,メトロセンター(Metro center)という地下鉄の乗換駅から北に1ブロック行ったところなので,私の泊まっているホテルの最寄駅からは乗り換えなしであった。

 リンカーン大統領が観劇中に狙撃されたのがこのフォード劇場(Ford's Theatre)で,狙撃後に運び込まれて翌日息を引き取ったのが劇場から道を隔てたところにあるピーターセンハウス(Petersen House)ある。
 フォード劇場とピーターセンハウスの入場は無料だが,朝8時30分から配布される整理券が必要である。手数料を払えばインターネットでも予約できるそうだ。しかし,予定は未定の私は当然予約などしていなかったから,整理券を手に入れるためにその1時間程度前に到着するようにホテルで朝食を済ませて向かった。
 なお,写真にあるように,私がワシントンDCの滞在中に宿泊したホテルの朝食はとても豪華であった。

 フォード劇場に到着すると,すでにひとりが待っていた。並んでいると次第に人が増えてきたが,思ったほどの混雑ではなかった。やがて8時30分になって無事9時からの整理券を手に入れることができた。
 開館時間になってフォード劇場に入ると,まず,地下の博物館に案内された。この博物館は,リンカーンの大統領就任から暗殺までがホワイトハウスでの生活や執務なども加え,時系列で紹介されていた。
 1865年4月14日,リンカーン大統領はこのフォード劇場で「Our American Cousin」という現代劇を妻メアリー・トッド(Mary Todd Lincoln),従者のチャールズ・フォーブス(Charles Forbes)とヘンリー・ラスボーン(Henry Rathbone)少佐,少佐のフィアンセのクララ(Clara Harris)を伴って観劇中に,北軍だったメリーランド州出身の俳優ジョン・ウィルクス・ブース(John Wilkes Booth)に1.2メートルの至近距離から拳銃で後頭部左耳後5センチを1発撃たれた。ブースは役者という立場を利用して出演している劇中の暗殺を企てたのだった。
 博物館には,ブースの日記や持っていた銃やナイフも陳列されていた。

 しばらくの時間自由にこの博物館を見学していると,やがて声がかかって階上の劇場への階段が開かれたので,見学者は階段を上っていった。
 19世紀を代表するこの劇場は100年余りにわたって閉鎖されていた。博物館の大改装に合わせて劇場も改修され,現在はミュージカルや芝居を上演する場となっているが,リンカーンが狙撃されたときに座っていたバルコニーは当時のままに残されている。

 この劇場でリンカーン大統領が狙撃されたときの様子は,映画「リンカーン」でもみることができる。
 映画「リンカーン」(Lincoln)は,ドリス・カーンズ・グッドウィン(Doris Kearns Goodwin)による伝記本「リンカーン」(Team of Rivals: The Political Genius of Abraham Lincoln)を原作とし,リンカーン大統領の最後の4か月が描かれたもので,2012年に公開された。
 アメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)は,史上最も愛された大統領といわれ,常にユーモアを絶やさず,黒人を含めたすべてに人々にオープンに接する人物だった。
 リンカーン大統領は1809年にケンタッキーの貧しい開拓農民の丸太小屋で生まれた。9歳で母を亡くし,青年時代には事業に失敗して多額の負債を抱え込み,20代半ばで州議会議員に立候補して落選した。
 やがて,2度目の挑戦で当選した後,弁護士の資格を独学で取得し,37歳で連邦議会の下院議員に出世した。49歳で上院議員に挑戦するも敗れるが,優れた人柄で人望を集め1860年に51歳で大統領となった。

 奴隷制に否定的なリンカーンが大統領に就任したことで,奴隷制廃止を警戒した南部7州は連邦を脱退して南部同盟政府を樹立し,さらに4州が加わった11州が北部と対立,就任演説の翌月1861年4月に南部軍の発砲で南北戦争が勃発した。
 当初は南軍優勢だったが,1862年,リンカーン大統領は「奴隷解放宣言」(Emancipation Proclamation)を発布し北軍の士気を高めて巻き返した。
 開戦2年目の1963年に激戦地ゲティスバーグの戦死者慰霊式典でリンカーン大統領は南北戦争を民主主義の存亡を懸けたものとし,有名な「人民の人民による人民のための政治を消滅させてはならない」という演説をした。
 1865年1月。リンカーンは大統領に再選され2か月が経ったが,4年以上に及ぶ南北戦争が未だに続いている。リンカーンは毎晩ひとりで船に乗りどこかへ向かっているという不思議な夢を見るようになる。・・・これが映画の冒頭である。
 「奴隷解放宣言」で奴隷は解放されたかに思えたが,実際はこの宣言によって解放された奴隷はわずかであった。奴隷解放宣言は戦時中の立法措置であって戦争が終われば効力は失われることになるからである。しかし戦争は終わる方向に進んでおり,リンカーンの共和党でも「これ以上の犠牲者を出さないために1日でも早く戦争を終わらせるべき」という意見が強くなっていた。
 戦争の犠牲と人間としての尊厳のジレンマ,さらに,反対を押し切って戦場に向かう長男ロバート,三男ウィリーを失ったことで疎遠になっていった妻メアリー・トッドに苦悩しながら,リンカーン大統領は奴隷を永久に開放するために,アメリカ合衆国憲法修正第13条を議会で可決させることを決意するのだった。彼は,終戦直前の1865年1月,「全米で奴隷制を禁止する」と定めたアメリカ合衆国憲法修正第13条を打ち出し,可決に持ち込んだ。

  ・・・・・・
Amendment XIII
Section 1. Neither slavery nor involuntary servitude, except as a punishment for crime whereof the party shall have been duly convicted, shall exist within the United States, or any place subject to their jurisdiction.
Section 2. Congress shall have power to enforce this article by appropriate legislation.
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修正第13条
第1節 奴隷制もしくは自発的でない隷属は、アメリカ合衆国内およびその法が及ぶ如何なる場所でも、存在してはならない。ただし犯罪者であって関連する者が正当と認めた場合の罰とするときを除く。
第2節 議会はこの修正条項を適切な法律によって実行させる権限を有する。
  ・・・・・・ 

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●イチロー選手が3,000本安打を達成した日●
 観光地としてのワシントンDCは決して危険な都市ではないが,この町は1990年代初頭「殺人の都」(Murder Capital)として知られていた。その後,犯罪発生率は2000年までに半分に減少したとはいえ,現在でも全国平均の2,3倍,殺人に関しては8倍という犯罪件数の多さが憂慮されている。
 観光客の多いナショナル・モールや繁華街であるデュポン・サークルなどは人通りも多く警官の姿もよく見かけるので安全であろうと思われるが,夜中のひとり歩きや薄暗い路地の通行は危険である。

 ワシントンDCは国会議事堂を中心として,北西(North West),北東(North East),南西(South West),南東(South East)の4地区にわかれているが,このうちNWが最も人が多く比較的安全な地域である。反対に治安が悪いのがユニオン駅の北東方面や中華街(China Town),そしてUストリートといわれている。
 一般的にアメリカでは「チャイナタウンは危険」というのが常識だが,ワシントンDCの場合は中華街は再開発が進んだ結果「門だけが立派」というもっぱらの評判で,中華街というほどのものはほとんど残っていない。
 とはいっても,Hストリート以北及び7thストリート以東のMetro Centerとチャイナタウンの間は夜間は危険であるとガイドブックには書かれてあった。そのHストリートと7番ストリートのあたりが今日の写真である。

 ベースボールが終了して,今日も私はホテルに帰るまえにダウンタウンで夕食を済ませることにしたが,はやり口になじむのは日本料理か中華料理である。そこで,昨日,チャイナタウンのあたりに日本料理店があったのを思い出して,地下鉄のグリーンラインにのってチャイナウン駅までやってきたというわけだ。
 先に書いたように,ワシントンDCのチャイナタウンは門だけは立派であったがその周辺を歩いてみても,特に何もなく,中華料理店が数店あるだけだった。日本料理店もあるにはあったが,特に入りたいという気持ちになることもなかったので,私は,しけた1軒の中華料理店に入って,写真のようなワンタン麺を注文した。

 旅行をしているこの時期は夏なので昼が長く,私がこうした場所を歩いても特に何の危険もないのだが,いくら規模が小さいとはいえ中華街独特の雰囲気は多くのアメリカの都会と同様で,こうした東洋だか西洋だかよくわからない感じは決して不快なものではない。
 私は15年前,ロスアンゼルスで置き引きにあって,お金もパスポートも何もかもがなくなり,領事館の紹介で日本人街のミヤコインというホテルに数泊したことがあった。そのとき,日本人街をみて,日本という国もアメリカではわずか数ブロックの塊でしか過ぎないということにかなり愕然としたことがあったが,このときもそのことを思い出していた。
 7番ストリート沿いはこうした雑居ビルも多く,まだ陽が暮れていないこの時間は人通りも多く,どことなく渋谷やら新宿やらと同じような感じであった。

 私はこうして,この日,念願の30球団目のボールパークを制覇した満足感で一杯で,ホテルに戻った。これをもって,この旅の目的であった50州制覇と30球団のボールパーク制覇をともに成し遂げたのであった。
 ところで,私がこの旅のはじめ,フロリダでイチロー選手の3,000本安打を見損ねてからずいぶんと日にちが経っていたが,ついにこの日にイチロー選手は3,000本安打を達成した,というニュースが流れてきた。
 マイアミ・マーリンズは私の見た7月31日のセントルイス・カージナルス戦以降はロードに出て,8月1日から3日はシカゴ・カブス,そして,5日からはコロラド・ロッキーズと,シカゴからデンバーへと転戦をしていた。3,000本安打を見ようと追っかけをしていた人たちもまた,マイアミからシカゴ,そして,デンバーまで移動をしていたわけであったが,それに加えて,デンバーには多くの日本人が住んでいるから,たまたまこの日のゲームを観戦して幸運に出会ったラッキーな人も少なくなかったことであろう。
 思えば,野茂英雄投手がはじめてのノーヒットノーランを達成したのもデンバーだったし,デンバーにあるクワーズフィールドは日本人に縁のあるところなのかもしれない。クワーズフィールドもまた,ナショナルズパーク同様,とても気持ちのよいボールパークである。

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●ワシントン・ナショナルズ,三度目。●
 ゲームの開始が近づいたので,私は席に着いた。以前にも書いたが,特に思い入れのあるプレイヤーがいないときは,スタンドの1番上段のきわめて安価な席で観戦するに限るのである。
 今日の1番目の写真に写っている係員,けっこういかつそうだが,この人めちゃくちゃいい人で仕事熱心だった。彼の仕事ぶりは,チケットに書かれた席でないところに座ろうとする輩を排除しようとか,そういう態度ではなく -なにせ,この席は最も安価な席だからわざわざ自分の座席を偽ってまで座る価値などない- しかし,通路からこのセクションに入ると,他の係員はまったくいい加減なのに,キチンとチケットを拝見して,席まで案内してくれようと,そうした善意に満ち満ちているのだった。

 私はどうもこの国の,それぞれのやり方でいかようにでもなるという仕事ぶりが今だに全く理解ができないのだが,要するに,日本のように,徹底的に打ち合わせをして,だれもが同じサービスをする代わりに全く個人の裁量がなく融通が利かない,というのとは真逆な,人によってまったくサービスが異なる,ということなのである。
 これに慣れてくると,それがまあ,実に味わい深いわけである。アメリカというのはそういう国なのである。

 3番目の写真は1910年代に活躍したウォルター・ペリー・ジョンソン(Walter Perry Johnson)選手の銅像である。ジョンソン選手はニックネームを「人間機関車」(The Big Train)という通算417勝をあげたワシントン・セネタースの剛速球投手であるが,きわめて紳士的な性格で臆病な面があったといわれ,それに気づいたタイ・カッブ(Tyrus Raymond "Ty" Cobb)選手は,ジョンソン選手との対戦のときにはあえてホームプレートぎりぎりまで身体を寄せて内角球を投げにくいように対策を施したというエピソードがある。
 悲願だったリーグ優勝が1924年に成し遂げられ,36歳になっていたジョンソン選手も23勝7敗と大活躍し投手三冠を獲得しリーグ最優秀選手に選ばれた。翌1925年には37歳で20勝を達成しセネタースのリーグ2連覇に貢献した。そして,1936年に設立された野球殿堂の最初に殿堂入りした5人のひとりとなった。

 ワシントン・セネターズは1901年のアメリカンリーグ創設と同時に発足したチームであるが,1904年には球団史上ワーストの38勝113敗を記録するなど長く低迷していた。1912年にクラーク・グリフィス(Clark Calvin Griffith)が監督に就任するとチームは躍進し91勝61敗でリーグ2位となり,設立以来初めて勝ち越した。その後は再び中下位で低迷することとなったが,1924年に初のリーグ優勝を果たし,ニューヨーク・ジャイアンツを破りワールドチャンピオンに輝いた。1925年にもリーグ連覇を果たした。
 セネターズとは上院議員(セネター)からとった名前であるが,ナショナルズという呼び方も創設以来あったとされ,1905年から2年間は使われていたという説もある。ファンの間ではセネンターズよりもナショナルズの方が親しみがありこれを略称したNatsといういい方も存在していたらしい。
 しかし,長年にわたる観客減に悩んでいた球団は本拠地の移転を画策し,ついに1961年にミネソタ州ミネアポリスに移転し,ミネソタ・ツインズに改称した。
 移転後もワシントンDCでは野球チーム存続の声が大きく,1961年のエクスパンションで新たにワシントン・セネタースが創設されたが,このチームも10年後の1972年にテキサス州アーリントンに本拠地を移し,テキサス・レンジャーズとなった。
 そして三度目がやってきた。2005年にモントリオール・エクスポズがワシントンDC.に移転し,新生ワシントン・ナショナルズが誕生したのである。

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●名物プレジデントレース●
 この日の対戦相手はサンフランシスコ・ジャイアンツであった…らしい。というのは,ここもまた,ゲームの内容にはまったく興味がなかったのである。そんなことよりも,このボールパークの素晴らしさのほうが私には強く印象に残っているのである。

 地下鉄の駅からボールパークまでの1ブロックはちょうどシアトルのオールドタウンからセイフコフィールドまでの感じに似ていたが,非常に華やいだ雰囲気であった。
 ゲートに着いたとき,私はこれで30球団制覇だとひとりで盛り上がっていた。チケットを見せたときに,係員の女性にそのことを話したら,30球団制覇ということではなかったが,このボールパークにはじめてきた証明書をくれるという話になって,その証明書を書いてくれる場所を教えてくれた。しかし,聞いた場所がよくわからず困っていたら,なんと,そのときの係員の女性が仕事を中断してわざわざやってきて,親切にその場所まで案内してくれた。これだけでも,アメリカにはありえない話である。
 私は,こうして自分の名前の入った証明書を手に入れ,記念写真も撮影した。

 なかに入ると,食事のできる広いコーナーがあったし,外にはポトマック川にそった美しい首都ワシントンの景色も眺められた。ここは春になると桜が咲き乱れてさらに美しいのだそうだ。
 首都にこれほどの集約施設があるのはテロの標的になるのではないか,という懸念もあったようだが,そんなことに恐れおののいているようなアメリカではない。
 私の懸念は,このボールパークに屋根がないということであった。アメリカの東海岸の天候は日本とよく似ていて,夏は蒸し暑く,しかも,雨が少なくない。私のような旅行者にとれば,雨で中止というのがもっとも心配なことなのである。
 しかし,幸運なことに,この旅では天気に恵まれて,屋根のあるフロリダはともかく,ボルチモアもフィラデルフィアも,そして,ここワシントンも,素晴らしい天気になった。
 試合開始までの時間はいつものように,ボールパーク内を散策した。
 ライト後方にはハイビジョンの特大スコアボードが設置されていた。また,センター後方にはボストン・レッドソックスのホームグランドであるフェンウェイパークさながらのワシントン版グリーンモンスターであるバッターズアイボックスが3列作られていた。

 このボールパーク最大の名物が4回終了時に行われるプレジデントレース(Presidents Race)である。これは歴代大統領6人の着ぐるみが競争するアトラクションである。この着ぐるみが試合開始まえのコンコースを闊歩していた。
 6人の大統領とは,マウント・ラシュモア(Mount Rushmore National Memorial Park)に彫ってある4人の初代大統領のジョージ・ワシントン=ジョージ(George Washington),第3代大統領のトーマス・ジェファーソン=トム(Thomas Jefferson),第16代大統領のエイブラハム・リンカーン=エイブ(Abraham Lincoln),第26代大統領のセオドア・ルーズベルト=テディ(Theodore "Teddy" Roosevelt)に,2013年より第27代大統領のウィリアム・ハワード・タフト=ビル(William Howard Taft),そして,2016年は第31代大統領のハーバード・フーパ―(Herbert Hoover)が加わった。着ぐるみの背番号もまた,この代に倣っている。
 大統領でありながら,いや,大統領だからこそレースは飛び蹴りや妨害など何でもありの展開をみせるという。テディは2012年のレギュラーシーズン最終戦に初めて1着となるまで525連敗を記録して話題を呼んだのだが,その間にはナショナルズのプレイヤーであるジェイソン・ワースがテディを勝たせようとしてエイブをブロックしたのにもかかわらず,ブルペンのメンバーが他の大統領を押しとどめている最中にテディも転んでしまいワースがやむなく先頭を切ってゴールインするというハプニングも起きた。
 テディがついに初勝利を果たした際には,乱入した偽のフィラデルフィア・フィリーズのマスコットであるフィリー・ファナティック(Phillie Phanatic)からアシストを受けたりもした。
 プレジデントレースはエイブが圧倒的な強さを誇っていて,それに次いで,ジョージ,トム,テディと続くが,テディはポストシーズンでは2012,2014年の6ゲームすべてに勝利を収めている。

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●モントリオール・エクスポスの悲劇●
 国立航空宇宙博物館を出て南に少し歩いたところに地下鉄グリーンラインのレエンファントプラザ(L'Enfant Plaza)駅があってそこからわずか2駅でボールパーク(Navy Yard/Ballpark)駅に着いた。地上に出るとナショナルズパークが目の前に見えた。
 このボールパークをホームとするワシントン・ナショナルズが,ついに私のMLB30球団目の観戦になった。
 ワシントン・ナショナルズは新しいチームで,もとはモントリオール・エクスポスであった。このモントリオール・エクスポスという超不人気球団が首都ワシントンに移転して新たにワシントン・ナショナルズになったのは2005年のことで,当初は国会議事堂からはるか東に行ったアナコスティア川沿いにあるロバート・F・ケネディ記念スタジアム(Robert F. Kennedy Memorial Stadium)を間借りしていたが,2008年に総工費6億ドル以上をかけてナショナルズパークが作られた。
 おかげで私はモントリオールに行くことなく30球団制覇が成ったわけだ。

 1976年,カナダのモントリオールでオリンピックが行われ,メインスタジアムが建設された。当初は屋根が蓋のようにかぶさるドーム方式になる予定であったが,オイルショックによる予算不足と工期の遅れから屋根をかけることができず,結局,屋根がくり抜かれた形でオリンピックが行われた。
 私はそれをテレビで見ていて,当時は日本はすばらしい国だと誤解していたから,子供心に日本と違ってカナダはなんと情けない国なのかと思った。その翌年,MLBのモントリオール・エクスポスをフランチャイズとして使用するための改修が施され,ちゃんと開閉式の屋根も作られた。
 モントリオール・エクスポスは1969年に設立されたチームで,当初は3,000人程度しか収容することが出来なかったので急遽外野席を取り付けるなどしたジェリー・パークをホームグランドとした。しかし,チームの予算が厳しいことから自前のボールパークを新設する予算もなく,しかもカナダは寒いからドーム球場が必要だったので,オリンピックスタジアムを野球場に改良して使用を開始した。
 かつてのトラック跡の一部に外野スタンドを,またフィールドにも野球用の人工芝を取り付けたが,はじめのころは陸上トラックがむき出しになっていたこともあった。また,カナダということもあって,場内の放送が英語とフランス語で行われているということだった。私は興味本位で,このバカげたボールパークでベースボールが見たいものだと思っていた。

 設立時は地区優勝を果たしたりしていたのだが,当初から人気低迷に悩まされた。1990年代前半になって人気を回復し,1994年にはナショナルリーグ東地区の首位を快走していたのにストライキのためシーズン自体が中断してしまい,これを機に再び観客が激減し,二度と戻ることがなかった。
 1995年以後はチームの主力選手や有望な若手選手を次々と放出し,また,施設の老朽化が著しく,支柱の落下事故や屋根の雨漏りなどの事故も多発したのに改装することも新しいボールパークを作ることもできず,ファンは失望した。そして,ついに2000年には地元のTV放送とラジオ放送も打ち切られてしまった。
 そんな次第で,2002年にはオーナーがチームの経営を丸ごと放棄しフロリダ・マーリンズへスタッフともども脱走するという事件が起き,球団の経営は破綻状態になった。
 こうした理由から,モントリオール・エクスポスはワシントンに移転してきたのである。
 ワシントンに移転後は,ボールパークの新設や強豪プレイヤーの獲得などにより,かつてのナショナルリーグのお荷物チームがうそのように強豪チームに変身し,毎年首位を争うようになった。今年度も現在のところ,ナショナルリーグ東地区で首位を独走している。

 私は,ここもまた,MLB30球団のボールパークを制覇するという目的だけで訪れたので,まったく何も期待していなかったし,チームにも何の思い入れもなかったのだが,ボールパークをひとめ見てびっくりした。
 その豪華さ,アクセスのよさ,そしてなによりも,このチームは,ファンサービスにかけてはMLBのすべてのチームのなかでずば抜けていたのであった。これなら強くなり人気も出るはずである。

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●飛行機の発明からわずか66年で●
 今日は国立航空博物館の展示のうちで,宇宙開発と並んで人気のある飛行機について書く。
 まずはなんといってもライト兄弟(Wright Brothers)に関する展示室である。この展示室はライト兄弟の人類初の動力飛行100周年を記念して2003年に改装されたホールである。
 ホールの中央にあったのがライト兄弟が人類初の動力飛行に成功したときの航空機「ライト兄弟1903フライヤー」(Wright Brothers' 1903 Flyer)である。これは水冷4気筒,わずか12馬力の手作りエンジンであった。この日曜大工で作った機体が,1903年12月17日にノースカロライナ州キティホーク(Kitty Hawk)南約6.4キロのキルデビルヒルズ(Kill Devil Hills)付近にて初飛行に成功した。
 このホールは「フライヤー」を中心として,まわりには当時の街並みやライト兄弟の自転車工場などが作られていた
 ライト兄弟の初飛行ののち人類が月に到達したのはそれからわずか66年後のことであった。

 次の見ものは「三菱零式艦上戦闘機52型A6M5」(Mitsubishi A6M5 Reisen)である。いわゆる「ゼロ戦」は1万以上も生産されたのだが,ほとんどずべては現存していないから,この復元された本物の機体見たさに日本から来る観光客も大勢いるそうだ。しかし,私は,復元された零戦が日本のデパートの屋上に展示されたときに見たとこがあるし,ゼロ戦というのは日本人の間には「名機」として信じられているが,実際は重大な欠陥をもっているから,この飛行機に多くの人があこがれるのかよくわからないのだ。
 ここに展示されているのは太平洋戦争後期の局地戦闘機タイプのもので,当時最新の航空,兵器技術の粋を集めたものではあったが,防弾装置すらなく,それを知ったアメリカ航空隊からその弱点を狙われて数多くの優秀なパイロットを失うことになった。そしてまた,この欠陥を指摘した技術者に対して当時の軍の上層部は「大和魂で乗り越えろ」と言ったとかいう話なのである。
 戦争当時からこの機体はこのような致命的な欠陥があった。これは戦艦「大和」や「武蔵」も同様であって,どうやら,こうしたモノづくりの遺伝子が現在の日本の工業製品にも存在しているように私は感じる。

 この航空宇宙博物館にはレストランがあったので,ここで昼食をとることにした。レストランといっても単にマクドナルドなのだが,その大きさというのが並大抵のものではなかった。非常に多くのゲートがあって,ここで注文すると次々にオーダーされたハンバーガーが用意される。そしてまた,多くの席も用意されているのだ。
 これはフロリダのケネディ宇宙センターも同様であるが,こちらの観光地のレストランは「観光客+α」の座席数がどこにでも用意されているので,食事にあぶれるということはないである。
 私はいつものとおり,通常の食事では野菜さえ確保できれはよいので,写真のようにオーダーした。
 アメリカのマクドナルドで提供されるサラダは日本のものとは比較にならないほど大きいので,これで十分なのである。そしてまた,ソフトドリンクもお代わり自由になっている。

 こうして,この日の午前中を国立航空宇宙博物館で過ごした。2度目とはいえ,私にとっては全く退屈することもない展示であった。

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●アメリカの無人ロケットによる宇宙開発●
 国立航空宇宙博物の展示のうち,今日は無人ロケットによる宇宙開発を紹介しよう。
 アポロ計画で有人による月着陸を成功させるために無人の月探査計画が実施された。そのひとつが「レインジャー計画」 (Ranger program)である。1番目の写真に写っている3基の衛星のうち1番後方にあるものがそれである。
 レインジャー計画は月の近接写真を撮影するために1959年から開始され9基が打ち上げられた。探査機は高感度アンテナ,太陽電池,6台のカメラなどで構成されていた。しかし,このレンジャー計画は6号まですべて失敗して,7号から9号の3基がかろうじてその役割を達成した。レンジャー計画では撮影の終了した衛星は月面に激突した。

 レインジャー計画に引き続き,1966年から1968年にかけて「サーベイヤー計画」(Surveyor Program)が実施された。1番目の写真の手前の衛星である。サーベイヤー計画は月における各種調査や軟着陸技術の開発を行うものであった。探査機は3本の着陸脚と逆噴射エンジンを用いて月面に軟着陸し,着陸後は太陽電池とロボットアームにより地表の調査などを行った。
 1号から7号までが打ち上げられ,2号以外は成功,サーベイヤー計画によって,月面が有人月着陸船の着地に支障がないことが確認されたのだった。サーベイヤー計画のなかでも特筆すべきは3号であった。3号は「嵐の大洋」に着陸し2週間をかけて電動ショベルにより約20センチ月面を掘削する様子をテレビカメラで撮影し,それによって月面の土が地球の湿った砂に似ていることが判明したのだが,後にアポロ12号がこの3号の着陸地点からわずか400メートルの地点に着陸し,3号の部品を地球に持ち帰ったのだった。
 
 最後が「ルナ・オービター計画」(Lunar Orbiter program)である。1番目の写真の右側に写っている衛星である。ルナ・オービター計画は1966年から1967年に行われたもので,アポロ計画のための月面の地図作成が目的であった。5基が打ち上げられそのすべてが成功し,月の表面の99%を60メートル以上の解像度で撮影した。
 このように,ルナ・オービター計画は優等生であった。

 2番目の写真は火星の生命探査を行ったバイキングのランダーである。「バイキング計画」(Viking program)は1970年代に行った火星探査計画である。バイキング1号とバイキング2号の火星探査機が火星への着陸に成功した。
 バイキングは母船であるオービターと着陸船であるランダーによって構成されており,ランダーは火星軌道上でオービターから切り離され地表に着陸した。バイキング計画では着陸後90日間の探査を計画していたが,ランダー,オービター共に設計寿命を大幅に越えて稼動し火星探査を続けた。

 3番目の写真のなかで右側のものがボイジャー探査機である。「ボイジャー計画」(Voyager program)は太陽系の外惑星および太陽系外の探査計画である。2基の無人惑星探査機ボイジャーを用いた探査計画で,1977年に打ち上げられた。惑星配置の関係により,木星・土星・天王星・海王星を連続的に探査することが可能であった機会を利用して打ち上げられた。1号・2号とも外惑星の鮮明な映像撮影に成功し,新衛星など多数の発見に貢献した。
 そして,左側のものがニュー・ホライズンズ探査機である。「ニュー・ホライズンズ」(New Horizons)は2006年に打ち上げた人類初の冥王星を含む太陽系外縁天体の探査を行う無人探査機である。

 4番目と5番目の写真がハップル望遠鏡の鏡の誤差を修正するために入れ替えた光学系の装置のレプリカである。ハップル望遠鏡は1990年,スペースシャトル・ディスカバリー号によって打ち上げられた。しかし,打ち上げ直後の調整で天体の光を集める鏡の端が設計より0.002ミリ平たく歪んでいることが発覚した。この歪みは鏡面の歪みを検出するヌル補正装置が正しく取り付けられていないことが原因だった。この問題を修正するために焦点に入ってくる15%の光を最大限に利用するソフトウェアが開発されたが,これ以上の修復は直接宇宙へ行き修理するしかなかった。
 NASAはこの修理に鏡の誤差を修正する光学系の装置を入れる事を急遽決定した。この修理に伴う船外活動のために,宇宙飛行士たちは1年以上かけ延べ400時間に及ぶ訓練を受けることとなった。この訓練のおかげで修理は成功し,ハッブルは当初の予定を遥かに超える性能を手にし,天文学史に残る数々の貴重な天体写真を捉えることができたのだった。

 このように,国立航空宇宙博物館の展示は私が35年前に行ったときから後の探査機の展示も加わっていて,私にはどれだけ時間をかけても見飽きないものであった。

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●アメリカの有人ロケットによる宇宙開発●
 国立航空宇宙博物館(National Air and Space Museun)はナショナルギャラリーとは違って,ものすごい観光客であった。やはり,ワシントンDCを訪れる観光客の興味はこうした科学技術なのだなあと思った。
 ただし,すでに書いたことだが,別館のウドバ―ハジーセンターにも行かなければ片手落ちということになるが,ツアーではなかなかこの両方に行くのはむずかしい。私は個人旅行をしているからそうした認識はないが,たまに現地ツアーなどに参加すると,ツアー旅行でのこうしたストレスを思い出す。

 ナショナルモールにある本館は長さが約200メートルで3階建てのビルである。
 私が35年前に来た時はすでにアポロ計画は終了していたが,今でもアメリカの宇宙開発の誇りはアポロ計画なのであろう。そこでここにもマーキュリー計画からアポロ計画までの有人月着陸計画の多くの展示があるので,今日はそれらを紹介したい。
 2番目の写真はマーキュリー計画で使用した「フレンドシップ7」(Mercury Friendship7)である。ユーリー・ガガーリンの搭乗したソビエトの有人宇宙船ボストークが地球を1周して後れをとったアメリカが1962年に打ち上げて地球を3周したひとり乗りの宇宙船である。この打ち上げから10年もしないで人間を月に送り込んだのだからすごいことである。

 3番目はジェミニ計画4基めの「ジェミニⅣ」(GeminiⅣ)である。ジェミニ計画は1965年から1966年にかけてマーキュリー計画とアポロ計画の間に行われ,無人のⅠ,Ⅱののち,2人の宇宙飛行士を乗せてⅢからⅫまで10回の飛行が行われた。ジェミニの目標はアポロ計画で必須となる月面着陸のための技術を開発することで,月に行って帰ってくるまでに必要とされる期間の,宇宙滞在を達成し宇宙遊泳によって宇宙船の外に出て活動を行いランデブーとドッキングの実行をする際に必要となる軌道操作の技術を切り開いた。
 これらの新技術が検証されたことによってアポロ計画では基本試験を行うことなく月飛行という本来の目的を遂行することができた。
 「ジェミニⅣ」は1965年6月3日に打ち上げられ,4日間の飛行を行い,アメリカではじめての宇宙遊泳が行なわれた。

 そして,4番目が人類初の月着陸をしたアポロ11号(Apple11)の司令船である。
 アポロ計画はアメリカ航空宇宙局(NASA)による人類初の月への有人宇宙飛行計画であった。1966年から1972年にかけて無人の1号から6号を含め17回の打ち上げが実施され,11号から17号まで,事故によって月着陸を断念した13号を除き6回の有人月面着陸に成功した。
 宇宙船は全体として二つの大きな部分から構成されていて,飛行士はそのうちの司令船(Command Module=CM)で飛行中の大部分の時間を過ごし,月着陸船(Lunar Module= LM)で月面に降下し戻ってくるようになっていた。 司令船は円錐形をしていて3人の宇宙飛行士を月軌道に乗せ,また宇宙から帰還させ海上に着水するように設計されていた。

 5番目の写真は月着陸船のモデルである。実際の月着陸船は,その下の部分は月に残し,飛行士の乗る上部は帰還の際に切り離されるので,地球には戻らない。このように,月面への着陸と司令船が待機する月周回軌道までの帰還のみを目的に設計されていて,地球の重力圏では運用しないことが前提であるため、耐熱板は限定的なものであり、また徹底して軽量化が図られていた。定員は2人で上昇段と下降段の二つの部分から構成されている。下降段には、アポロ月面実験装置群や月面車などを搭載するスペースが設けられている。

 6番目の写真は月の石の展示である。
 アポロ計画では合計6回の月着陸に成功したので,月の6つの場所の岩石を地球に持ち帰ることになった。それぞれの場所には特徴があるので,さざざまな異なる性質をもつ石が展示されている。
 1970年に大阪で行われた大阪万国博覧会の目玉商品はアポロ12号が月から持ち帰ったばかりの月の石であった。これを見たいがために数時間も並んだものである。そして,月の石が展示されていたアメリカ館には同時に月着陸船のモデルも展示されていた。
 アメリカの有人宇宙計画はアポロ計画の終了後はスカイラブ計画を経てスペースシャトルに移った。そのスペースシャトルがウドバ―ハジーセンターに展示してあるわけだ。

 ここを訪れる多くの人たちにとって,すでにアポロ計画は歴史上のできごとであって,現実ではないのだろう。日本の若者でも,人類が月に行ったというのはアメリカがでっち上げた大嘘だと信じている場合が少なくない。これは,くだらないテレビ番組の影響であろうが,このことに限らず,例えばハワイやニュージーランドに行ったときに星空観察ツアーに参加しても,あまりに知識のない人が多いことに私は驚いた。近頃は,世の中はそういうものだと思うようになってきた。
 恐ろしく博学な人も少なくないが,その逆もまた少なくない。これこそが世の中というものなのである。

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●ナショナルモールのメリーゴーランド●
☆12日目 8月7日(日)
 今日のイベントはMLBワシントン・ナショナルズのゲーム観戦であった。
 私はアメリカ合衆国50州制覇もメジャーリーグ30球団のボールパーク制覇も,そもそもそんな目的はなかったのだが,さまざまなところを旅するうちに,結果としてそうなった。はじめっからその気なら,もっとやり方もあっただろうし,何らかの記念品を集めるとか,そうしたことをしておけばよかったが,遅きに失すであった。
 いずれにしても,このワシントン・ナショナルズをもって30球場のボールパーク制覇を達成する,今日は記念の日である。

 今日はデーゲームで開始時刻が午後1時35分であった。試合開始の2時間前が開場時間なので11時35分に行けばよいから,それまでは気が向いたところへ行くことにした。
 まずは2日前にも行ったこの旅2度目のホワイトハウスである。北側の裏口は建物の近くまでいくことができるので,地下鉄で最寄りの駅まで行って,すずしい朝だったからそこからぶらぶらと歩くことにした。
 ホワイトハウスの近くにはあの「トランプホテル」もあったが,写真を写すのを忘れた。というよりも,この時期,だれも彼がアメリカの大統領になるなど思ってもいなかった。
 ホワイトハウスの前には写真のようなテントがあって,核兵器反対といった運動をしているようであった。こういうものがホワイトハウスの前に公然と存在するものまたアメリカらしいものだ。そしてまた,3番目の写真のような土産物トラックがたくさん停まっていた。トラックのオーナーはほとんどが中国人や韓国人であった。
 東京の皇居周辺あたりを考えてみれば,この違いがとてもよくわかることであろう。よくも悪くもアメリカはおもしろいところだ。

 ホワイトハウスの次に私がナショナルモールで絶対に見たかったが,4番目の写真のメリーゴーランドであった。
 この有名なメリーゴーランドがモールのどこにあるのか私は知らなかったが,探す間もなくすぐに目についた。この古びたメリーゴーランドは未だ現役なのである。
 今から54年前の1963年8月28日,すべての人々が皮膚の色や出身などに関係なく平等に保護されることを求め,25万人の人々がワシントンDCに集結してワシントン記念塔からリンカーン記念堂まで有名な「ワシントン大行進」が行われた。そして,リンカーン記念堂で行われた演説の最後を飾ったのが,マーティン・ルーサー・キング・ジュニア博士(Martin Luther King, Jr.)だった。
 大行進とキング牧師の演説を機に,1964年アメリカ連邦議会は「公民権法」を成立させ,また,公共の場における人種分離を禁止し公立学校や公立施設における人種統合を求め,さらに,人種や民族に基づく雇用を違法とした。
 大行進の行われた1963年当時,黒人差別の激しいことで知られたボルチモア州の遊園地にこのメリーゴーランドはあったのだが,黒人の子供達は乗ることが許されていなかった。このキング牧師が演説を行ったまさにその日,このメリーゴーランドに初めて黒人の女の子がひとり乗ることを許されたのだった。
 こうして公民権運動と人種差別撤廃の象徴となったメリーゴーランドは,その後,時代を映す記念的存在としてワシントンDCに移されたという記念碑なのである。

  ・・・・・・
I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident: that all men are created equal."
I have a dream that one day on the red hills of Georgia the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.
I have a dream that one day even the state of Mississippi, a state sweltering with the heat of injustice, sweltering with the heat of oppression, will be transformed into an oasis of freedom and justice.
I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.
I have a dream today.
I have a dream that one day, down in Alabama, with its vicious racists, with its governor having his lips dripping with the words of interposition and nullification; one day right there in Alabama, little black boys and black girls will be able to join hands with little white boys and white girls as sisters and brothers.
I have a dream today.
I have a dream that one day every valley shall be exalted, every hill and mountain shall be made low, the rough places will be made plain, and the crooked places will be made straight, and the glory of the Lord shall be revealed, and all flesh shall see it together.
  ・・・・・・

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●ナショナルギャラリー●
 ワシントンDCの中心部にあり,多くの観光客が訪れるのが「ナショナルモール」(National Mall)である。その東側に国会議事堂があり,西側にポトマック川が流れ,橋を渡るとアーリントン国立墓地である。その間に4キロにわたる芝生広場があって,南北には芝生広場を挟むようにして,スミソニアンの博物館や様々なモニュメント群が林立する。
 35年前にここを訪れたときに,この広大さに驚いた。そのとき,スミソニアンの博物館の建物は,すべて,地下道でつながっていると記憶していたのだが,それは今回行ってみて誤解であると気がついた。
 スミソニアンの博物館は全部で19もあるのだというが入場は無料である。この日,私は,そのうちの国立アメリカ歴史博物館に行こうとして迷い,結局,ナショナルギャラリーに行くことになったわけだ。
 35年前にはなかった厳しいセキュリティをくぐり,館内に入った。

 ナショナルギャラリー(Natikonal Gallery of Art)は13世紀から現代までの絵画や彫像を中心とした西洋美術のコレクションが13万点以上あって,その質の高さと量はパリのルーブル美術館に匹敵するといわれている。しかし,私が思うに,それほど有名なものはないように感じる。
 そんななかで1番の「見物」は,レオナルド・ダ・ビンチ(Leonardo da Vinci)の絵画「ジネブラ・デ・ベンチの肖像」(Madonna del Garofano)だということであったので,まずは,それを見にいった。
 「ジネブラ・デ・ベンチの肖像」は,レオナルド・ダ・ヴィンチが1474年から1478年頃にフィレンツェ貴族ジネーヴラ・デ・ベンチを描いた肖像画でアメリカ大陸で一般公開されている唯一のレオナルドの作品である。

 近頃日本で話題のフェルメール(Johannes Vermeer)の作品が3点もあるというので,その次に見にいった。それらは「はかりを持つ女」(Woman Holding a Balance),「手紙を書く女」(A Lady Writing a Letter)そして「フルートを持つ少女」(Girl with a Flute)である。
 フェルメールの作品は、疑問作も含め30数点しか現存しない。これらをすべて見ようとする愛好家も多く,日本でもフェルメール作品を目玉商品とした展覧会が頻繁に開かれている。だから,どこかの町を旅行してその町の美術館にフェルメール作品があったのにそれを見逃すと,あとあと後悔することになる。
 「はかりを持つ女」に描かれている女性はフェルメールの妻カタリーナとされる。モチーフは「さまざまな聖なる真理あるいは神の裁きとしてのヴァニタスであり宗教的救済と平衡で内省的な暮らしをもたらすものである」としている。
 「手紙を書く女」では,手紙を書いていた女性が何かに気を取られ,優雅に振り向く情景が描かれている。女性が身につけている首飾りには10個の,イヤリングには2個の真珠がそれぞれあしらわれている。描かれている人物はフェルメールの近親者だった可能性が指摘されている。フェルメール自身はモデルを雇いたかったが財政が逼迫しており,妻子に平穏で豊かな生活を与えるだけの金銭的余裕もなかったということがその作品に暗示されているとする説もある。
 「フルートを持つ少女」は保存状態が悪い上に出来映えも他のフェルメール作品に比べて劣ると評価され,フェルメールの真作とは見なさない研究者が多い。フェルメールの描いた未完成作を彼の死後に他の画家が補筆したものだという説もある。

 ところが「地球の歩き方」に書かれたギャラリーに行ってみてもそれらの作品が見つからないのだった。そこで私は散々探しまわることになった。
 ようやく見つけたこれらの作品のまわりにはほとんど観光客がいなかった。ナショナルギャラリーには日本人観光客もずいぶんと見かけたが,彼らもまた,フェルメールがあることを知らなかったのか,あるいは見つからなかったのか…。なにせ「Vermeer」をあの有名なフェルメールだと気づかないということも要因かもしれない。しかし,もし日本でこれらが公開されたとしたら,ものすごい待ち時間になることだろう。
 フェルメールに限らず,スミソニアンのどこも観光客で溢れる博物館のなかでナショナルギャラリーはずいぶんと空いている博物館であった。

 ほかにも様々な作品を見たが,閉館の時間になってしまったので,ナショナルギャラリーを後にした。
 昨日はホテルの近くで夕食をとったが,ホテルの近くには適当なところがなかったから,今日は,ホテルに帰るまえにワシントンDCのダウンタウンで適当に夕食をとることにしていた。しかし,何度も書いているように,暑くて退廃的になっていた私は,すべてがどうでもよくなり,チャイナタウン近くにあったマクドナルドでサラダを食べることにした。
 ワシントンDCの治安は悪くないということであったが,私の入ったマクドナルドの店内には常に警官が立っていて,食事をしている客のなかにも,あやしげな感じの人も少なくなかった。

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●ナショナルジオグラフィック●
 アレキサンドリアから戻って,次にどこに行こうか考えた。35年前に行くことができなかったところに行ってみようと思ったが,この暑さと人混みにめげてしまい,それもどうでもよくなりつつもあった。そこで,私のiPhoneに入れてあった電子版の「地球の歩き方」で探していくと…
 そうそう,ここで話が脱線する。
 私は,今回,この「地球の歩き方」の電子版を使っているのだが,これがたいへん便利なのである。以前は,重くて大きいこの本に難渋したのだが,電子版になって,その悩みが解決した。ただし,すべての「地球の歩き方」が電子版になっていないのだけが残念である。

 さて,本題にもどって…。
 ワシントンのナショナルモールから北に行くと,デュポンサークル(Dupont Circle)地区がある。ここはビジネス街の北側に属しているワシントンの繁華街ということである。特に観光地というわけではないので,観光客は少ないのだが,そこにある見どころは,ナショナルジオグラフィック協会(National Geographic Society)の1階にある博物館tと,動物園であった。
 本当は動物園にも行きたかったのだが,歩いて行くには遠くて,しかも,園内は広すぎたので断念して,ナショナルジオグラフィック協会の博物館に行くことにした。
 35年前にワシントンDCへ行ったときに宿泊したホテルについてはほとんど記憶にないが,その場所がデュポンサークルの東側,ロードアイランドアベニュー(Rhode Island Ave. N.W.)にあった「ラマダイン」(Ramada Inn)であったことを帰国してはじめて知った。現在,その地には同じホテルは存在しない。

 「ナショナルジオグラフィック」という雑誌は,日本でもその日本語版が出版されているが,ここはその本部である。雑誌が発行されているのは,ナショナルジオグラフィック協会(アメリカ地理学協会)で,2013年に125周年を迎えた世界最大の非営利学術研究団体組織である。この本部ビルの1階に博物館があって,ワシントンDCの見どころのひとつだということだったので,ぜひ,行ってみたいと思ったわけだった。
 アレクサンドリアからの帰路,地下鉄のブルーラインに乗って,Farragut West 駅で下車して北に3ブロックと書かれていたので,広い歩道を歩いて行ったのだが,なかなか目的地に到着しない。どうやら道を1本間違えていたようであった。それにしてもアメリカの都会は広い。広すぎて,アメリカには老体は歩くのが大変である。
 どうにか場所がわかり,私は,やっと博物館に到着した。
 入場料を払って入ると,「Summer of the Greeks」といったギリシア時代の特別展をやっていた。様々なギリシア時代のものが所狭しと展示してあって,それらは非常に貴重なものらしいのだが,高校で世界史を勉強しなかった私にはさっぱりわからず,豚に真珠状態であった。
 私は,特別展とともに常設展があって,そこにはナショナルジオグラフィックが所蔵する写真などが展示してあると思っていたが,あったのはほとんどがこの特別展だけであった。
 アメリカの博物館にしては規模が小さく,いささか拍子抜けであった。

 私は,早々に引き上げることにした。そして思ったのは,やはり,ワシントンDCはスミソニアンの博物館を見て回ることこそ,一番の見どころだということであった。そこで,次に,前回行くことができなかったナショナルモールにある国立アメリカ歴史博物館に行ってみることにした。
 再び地下鉄にのって,ナショナルモール駅で降りた。ところが,何をどうまちがえたのか,国立アメリカ歴史博物館がみつからない。というか,建物を間違えて,その隣の工事中のビルがそうだと勘違いをしてしまったのだった。
 そこで,その近くにあったナショナルギャラリーに行ってみることにした。すでに35年前に行ったことがあるのだが,ここにはフェルメールの絵画が3点もあるのだという。今回,それをはじめて知った。35年前はそんなものを見た記憶がなかったから,今回はぜひ,それを見たいものだと思った。
 ナショナルモールを歩いていると,ナショナギャラリーの外庭にはリスが戯れていた。

◇◇◇
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●35年前の軌跡をたどる。●
 私には2度目のワシントンDCであった。前回来たのが1981年のことだから35年前であったが,そのときに行くことができなかったアーリントン国立墓地の海兵隊戦争記念碑(硫黄島記念碑)に行くことができたから,今日の目的は達成した。
 国立墓地を出てメモリアルアベニューを歩くと地下鉄の駅に着いた。このまま地下鉄でホテルに戻ってもよかったのだが,まだ帰るには早かったことと,目の前に1番目の写真のポトマック川を渡るアーリントンメモリアルブリッジがあり,その川の向こうにはワシントン記念塔が見えたものだから,その意外な近さに驚いて,ワシントン記念塔の向こうのナショナルモールに行くことを決めたのだった。

 結局,この日,私はナショナルモールをさらに歩いて,ホワイトハウスまで行った。この場所は,ワシントンDC観光の定番コースであり35年前にも同じように歩いたが今回再び歩いた印象は,ずいぶんと古びたなあ,ということであった。これが歳月ということであろうか。
 はじめてここに来た時は,この広大なアメリカ合衆国の首都を見て,よくもまあこんな国と戦争をしたものだ,と思った。その印象があまりに強かったものだから,私のワシントンDCの思い出は35年前のままであった。
 その時代,アメリカでは大都市の中心部はどこもスラム化が進んでいて治安が悪く,それにもまた驚いたものだった。その後の好景気で,いくつかの都市を除いて,アメリカの大都市は再開発が進み,新しい高層ビルが立ち並ぶようになったが,ワシントンDCのナショナルモールの周辺は35年前そのままの姿であった。ただし,美しかった芝生も枯かけていたり,あるいは修復の工事中だったりした。そしてまた,観光客が異常に多かった。

 奈良時代からすでに,日本は大陸の脅威におびえ,それは今も相変わらず同じだが,それに対抗するために,庶民は弥生時代同然の暮らしをしていたのにもかかわらず,巨大な平城京,そして,平安京を作り上げた。今,東京の皇居から霞が関あたりに行くと,やはり,その広大な敷地に驚く。こうした「大きさ」というものこそが「権威」なのであろう。その大きさに人々はひれ伏すのだ。そしてまた,ある人は何か勘違いをし,そうした権威を手に入れようとして一生を棒に振るのだ。
 しかし,歴史を学べば容易にわかるように,幸せな人生をおくった権力者などいないわけで,人として最も幸せな生き方というのは,自由をいかに手にいれるか,ということなのだが,そのことが最も難しい。
 私は,こうした「権威」を目の前にすると,いつもそうしたことを思う。

 さて,今日は,どこにでもある写真であるが,この日に私の写したワシントンDCの観光の定番をご覧ください。
 2番目の写真がリンカーン記念館(Lincoln Memorial)である。古代ギリシアの神殿を模した白亜の記念館には椅子に腰かけた5.8メートルのリンカーンの座像がある。この座像には
  ・・・・・・
 IN THIS TEMPLE
 AS IN THE HEARTS OF THE PEOPLE
 FOR WHOM HE SAVED THE UNION
 THE MEMORY OF ABRAHAM LINCOLN
 IS ENSHRINED FOREVER
  ・・
 エイブラハム・リンカーンの名声は
 彼に合衆国を救われた国民の心と同様
 この神殿に永遠に秘められる
  ・・・・・・
と刻まれている。

 そして,3番目の写真がワシントン記念塔(Washington Monument)である。高さが169メートルあり,最上階には展望台がある。以前は並べば容易に昇ることができたが,今は事前にインターネットで予約しないととてもでないが人が多すぎて昇ることが不可能になってしまった。
 アメリカの観光地には,馬に乗った警官の姿をよく見かけるが,これが4番目の写真である。考えてみれば,車なら渋滞して動かないところでも馬なら移動が容易なのであろう。
 そして,5番目と6番目の写真がホワイトハウス(White House)である。5番目のものが南側,6番目のものが北側で,南側は遥か遠くまでしか近づくことができない。非常にガードが厳しいのである。それに対して,北側はほぼ正面まで行くことができる。よくテレビに出てくるのは北側からのもので,ここで,プラカードをもって座り込んでいたりする姿も見ることができる。

 35年前に行ったときは,この北側からイーストウィングの見学コースに入ることができた。朝早く行ってワシントンDCの観光コースをまわる前に並んで,入館する時間の決められたチケットを入手するのがコツであった。現在は国会議員の紹介があれば入れるとか,いや,外国人は大使館の斡旋が必要だとか日本大使館では斡旋をしていないとか,さまざまな情報があるが,いずれにしても,日本からの観光客が入るのは不可能であろう。
 私は再びここに来ることができた興奮から,まわりの観光客たちに「私は昔ホワイトハウスのなかに入ったことがあるよ」と自慢げに話しかけていたのだった。

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●ワシントンDCの地下鉄●
 私はこの旅でワシントンDCを観光するにあたって,一番大変だったのはホテルを探すことであった。これは,アメリカの大都市を旅するとき共通の悩みである。
 シアトルのようなよく知っている都会ならともかく,どこに宿泊すればよいのかがわからないのである。私のような一人旅ではダウンタウンのホテルの宿泊代は異常に高いのでなるべく郊外に泊まりたいのだが,車を使わないならば,フィラデルフィアでもそうであったが,公共交通機関の最寄りの駅に近くでなければならないというのがホテル探しの最大のポイントである。

 ワシントンDCの地下鉄の路線図を見ながらホテル探しをして,私がようやく見つけたのは「イーストフォールチャーチ駅」(East Fall Church Metor Station)から歩いて5分ほどのところにあるエコノロッジメトロ(Econo Lodge Metro)という名のホテルであった。この「イーストフォールチャーチ駅」というのは,ワシントンDCのダウンタウンから西にポトマック川を渡ったバージニア州アーリントン地区にあって,地下鉄のオレンジラインとシルバーラインの駅である。ダウンタウンまでは15分程度で行けるので,理想的なものであった。
 問題は,夜,駅から歩いてホテルに戻るときの治安だけであったが,この場所なら特に問題はなかろうと思った。

 ワシントンDCのユニオン駅はさすがアメリカ合衆国の首都だけのことはあって,かなり立派な総合駅であった。とはいえ,新装なった東京駅のような豪華さを期待してはいけない。
 思うに,アメリカで豪華なのは空港である。これは日本とは全く比較にならない。成田空港など,せまく古く汚いし,レストランもたいしたところがない。これが天下の! 日本の首都の空港かという感じである。鉄道の駅はその正反対であろう。
 私は,まず,ユニオン駅で昼食をとることにした。適当な店を選んでなかに入ってみたが,私には,東京同様,アメリカの首都の人々の行動の速度に全くついていけないのだった。なにせ,どんどんと注文をして,人が流れていくのである。一体私は何を注文すればよいのであろうか? 私が東京駅でとまどうのと同じシチュエーションであった。わけがわからず,前にいた客と同じようなものを適当に注文した。ともかく,グルメでない私はおなかが満たされて,野菜が取れればそれでよいのである。

 その後,地下鉄の駅に行った。
 チケットの自動販売機が並んでいて,親切な係員もいた。ワシントンDCでは,日本の「Suica」のようなシステムの「Smartrip」カードがあって,とても便利であった。このカードは発券時にカード代が2ドル必要(この2ドルは戻らない)で,はじめにこのカード代の2ドルとさらに乗車用の数ドルをチャージするわけである。もちろん日本とは違ってクレジットカードで購入ができる。これを購入して,数ドル分をチャージした。
 ワシントンDCの地下鉄に乗るのは,前回35年前に来たとき以来であった。核シェルターになるといわれる広い地下道を走る地下鉄は,35年前にはずいぶんときれいな地下鉄だと思ったが,今回は古びて汚い地下鉄だなあと思ったことだった。

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●定刻,ワシントンDCに着いた。●
 憧れだった2時間余りのアムトラックの旅を終えて,私は,定刻,ワシントンDCに到着した。日本でいう在来線の特急列車の旅を終えたような感じであった。

 日本は近年新幹線網が出来上がって,どこにも新幹線で行くことができるようになった。それは確かに便利だが,旅情という点では非常に物足りないものがある。時間と勝負をしているようなビジネスマンならともなくも,旅自体が楽しみである人たちにとれば,新幹線には全く魅力を感じない。この先リニア新幹線ができて,トンネルばかりのなかを走ったところで,さらに何も楽しくない。
 それとは逆に,100万円もする超豪華列車も走るようになった。お金が余っていて,しかし,海外旅行などには無縁のシニア世代の人たちがそれを利用するのだろうが,それもまた,庶民とは無縁のものでしかない。
 庶民が,例えば,東京から名古屋まで在来線で行こうとすると,何度も乗り換える必要があり,その都度,せっかくそれまで座っていたのに座れなくなったり,ホームで次の列車が来るのを並んで待つというストレスの多い旅をする必要がある。まるで,長距離は在来線には乗るな,新幹線に乗れ,と言わんばかりである。
 そんなことよりも,私は,時間がかかっても構わないから長距離を走る座席指定の普通列車を走らせてほしいものだと思う。この国は,効率だけを求めていて,人の心の幸せなど考えてもいない「おもてなし」のだ。

 さて,アムトラックは,ワシントンDCのユニオン駅(Union Station)に到着した。ユニオン駅はワシントンの東,国会議事堂のあるキャピトルヒルとよばれる場所の北側にあって,新しく整備された建物であった。
 ボルチモアとは違って,大勢の人でにぎわっていた。ここはアメリカ合衆国の首都なのである。
 乗客はここで降りて,広いコンコースを歩いてホームから駅の構内に出た。このユニオン駅からは地下鉄でワシントンDCのおおよその場所に便利に行くことができるのである。

 私がワシントンDCに来たのは,今回が2度目である。初めて来たのは35年前のことであった。このときは人生初のアメリカへのひとり旅で,ニューヨークとワシントンDCとボストンに行った。移動は長距離バスの「グレイハウンド」を使った。
 私の手元に,1980年版の「地球の歩き方」という本がある。これは,天下の「地球の歩き方」のなんと初版本なのである。この時代,こんな旅行ガイドブックは他にはなく画期的なものであった。1980年代は,今よりもはるかに治安は悪かったが,今のような国際テロとは無縁のアメリカであった。しかし,この本の表紙に書かれていた「アメリカを1か月以上の期間1日3,000円以内でホテルなどの予約なしでバスを使って旅するための徹底ガイド」を実践できた勇気ある人がどれぼどいたことであろうか。
 そのときの私は,確かに一人旅ではあったが,ホテルは出発前に予約してあったし,1か月以上もも期間を旅しなかった。それでも,私にはかなり勇気の必要なことであった。

 そのときの旅で降り立ったワシントンDCはグレイハウンドのバスティボウ(長距離バスの発着するバスセンター)であった。当時の場所は現在とは違ってホワイトハウスの裏手であった。私は大胆にも数日間ワシントンDCでの宿泊に必要な着替えだけを別のバッグに詰め替えて,以外の荷物は旅行バッグに入れてバスティボウのコインロッカーに預けて,タクシーに乗ってホテルに行こうした。
 しかし,私の乗り込んだタクシーの運転手は,私と同じ方向に行く別の客が来るまで待っていて,相乗りを強要されたことを今でも覚えている。私はそれに対して何の抵抗もできなかった。そのときの心細さったら!
 現在は,グレイハウンドもまた,このユニオン駅から発着する。

今日はワシントンDCの最終日。午後に国会議事堂を見学するツアーの予約をいれておいたので,それまでをどう過ごそうか考えました。
35年前に来てワシントンDCは大方見たので,今回来たのはMLBを見るためだけだったのですが,それなのに何と4泊もしてしまったので,まあ行くことができればいいしできなくてもいいし,程度に気ままな観光をしているのですが,今考えてみても,35年前にひとりでアメリカに来てよくもまた精力的にあちこち歩き回れたものだとそのときの自分に感心します。
それほど英語もできなかったと思うし,自分でも信じられません。若いというのはすごいものです。そのときは国会議事堂の見学をするつもりで間違えて議会の傍聴をしてしまったくらいなのです。今ではそんなことはできません。
調べた結果,朝一番でまずはフォード劇場に行くことにしました。
フォード劇場というのはリンカーンが暗殺されたところ。朝9時開館なのですが午前8時30分に整理券が配られるというので並びました。まず地下の博物館に案内されてしばらくしてから劇場に行くことができました。そしてそのあとで道を隔てたところにある,狙撃されたリンカーンが運び込まれて息絶えたピーターセンハウスの見学となりました。時系列で展示がされていてとても充実していました。
次に行ったのが国立公文書館でした。ここでは独立宣言と合衆国憲法と人権宣言のホンモノを見ることができましたが35年前に来たのを思い出しました。
その次は自然史博物館でした。ここには45カラットのダイヤモンドとか珍しいものがたくさんありました。
時間が近づいてきたので国会議事堂まで歩いて行ったのですが,これは選択を誤りました。
暑いなかをえらく遠い距離を歩くことになってしまいましたが,ともかくビジターセンターになんとか到着して見学ツアーコースに並びました。特に予約などしていかなくとも問題なく見学ができるのでした。見学は期待はずれというか,見学ツアーでしか入れないというところはほんの限定的なところで,その他の場所は自由に見学ができるのでした。その後,そのまま建物の中を通ってトーマスジェファーソン図書館へ行ったのですが,国会議事堂よりもこちらの方が凄かったのです。こちらを見逃している人も多いでしょうが,これを見逃す手はありません。ここは,建物のなかは素晴らしい装飾が施されていて,グーテンベルクの聖書やジェファーソンが寄贈した蔵書の山を見ることができました。
帰りはさすがに歩くのは懲りたので,地下鉄でスミソニアン駅まで戻ってアメリカ史博物館へ行きました。ここは全く期待していなかったのにも関わらず,ベーブルースのサインボールとかモハメドアリの使ったグローブとかすごく広く興味深い展示がたくさんありました。
ダウンタウンでサンドウィッチとスープの夕食ををとってから,帰宅時間(午後5時)と重なって少しだけ混雑する地下鉄でホテルに戻りました。
これでこの旅のワシントンDCはおしまいです。
私が泊まったホテル「エコノロッジメトロ」は大正解でした。もしワシントンDC観光をされる方があれば,このホテルをお勧めします。レーガン,ダラスどちらの国際空港からも地下鉄で便利にアクセスできますし車なら広い駐車場があります。

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今日のイベントはMLBワシントン・ナショナルズのゲームを見ることでした。ゲームは午後からなので午前中どうしようかと考えて結局航空宇宙博物館へ行きました。私にはやはりこういうところが心躍ります。
月の石は幾つか展示してあるし,結構新しい展示もあったし,随分と楽しめました。
それにしても35年前に来たときから考えるとワシントンDCのモールも随分と汚くなったなあというのが実感でした。そしてまた,あの頃はこんなに混雑していなかったのにとも思いました。
お昼は博物館の巨大なフードコートで済ませて,その後,ボールパークに向かいました。
地下鉄に乗ってたったの2駅でナショナルズパークに着きました。ついにこれでMLB30球団のボールパーク訪問の達成です。思えば36年前にロサンゼルスでドジャースタジアムに行って夢中になってからの長い道のりでした。
入るときにこのボールパークの係りの人にそういう話をしたら,このボールパークの初回訪問証明書をあげましょうといって作ってくれました。ベースボールカードももらいました。奇しくも今日はイチローも3,000本安打を達成した日でした。
ここのボールパークはいいです。ものすごく雰囲気がいいのです。Wifiも問題なく全席でつながります。今回の旅で行った四つのボールパークのなかで問題なく最高です。お客さんを楽しませることを心がけています。それで思わず私はゲームに夢中になってしまいました。
全て行った30のボールパークのなかで私が特にお勧めするのは,フェンウェイパークとリグレーフィールドは別格として,今日イチローが記録を達成したデンバーを始め,ミネアポリスとシアトルですが,ここワシントンもその仲間入りです。ボルチモアはボールパークは素晴らしいのですが,街の治安が悪すぎます。
ボールパークに行くたびに思うのは,ここに来ている人たちはそれにしてもよく食いよく飲むことです。ビールなんて小瓶が1本1,000円もするのに4本も5本も飲んでるし,ホットドッグなんて800円もするのによくこんなもの買うなあと思います。水がペットボトルで300円,コーラがミディアムサイズのコップで500円,コップにチームのロゴが入ると800円,みんなが着ている球団をあしらったユニフォームなんて10,000円は下らないのです。ボールパークのなかは物価めちゃくちゃです。
私が何度アメリカに来ても本当によくわからないのは,普通の夕食を食べても何千円もしてしまうし,みんなえらくすごい車に乗っているのだけど,どう考えたってこれじゃあ日本の一般の人に比べたら3倍も4倍も収入がなければおかしいのです。それに平日だといってもどこもすごい人混みだし,アメリカ人ってそんなにお金もちで暇なんだろうか? いったいどうなっているのだろう? ということです。
なんかちまちまと早朝から夜中まで非効率に仕事することしか能がなく,憂さ晴らしに酒を飲み,走る道もないのに高級車を買わされて,せっまい家ひとつ買うのに人生を費やし,役にも立たない学校教育とプリントやるだけの塾に子供を通わせてお金を浪費し,子供たちは「ブカツ」とかいって週末さえ自分の時間を奪われ ,それもレギュラーならともかくも応援しに行くだけなのに無駄に時間を使わされて,それを善だと信じている教師と生き甲斐だと信じ込まされている生徒,そんな日本人全体がよりバカみたいに思えてきます。
ゲームは7回裏のホームランが効いて1対0でナショナルズの勝ちでした。デーゲームということもあり,久し振りに最後まで見ました。
その後,チャイナタウンに行ってラーメンを食べました。ワシントンDCのチャイナタウンはあまり規模が大きくはなく,治安がいいのか悪いのか,ホームレスは結構いるのですが,実際のところはよくわかりません。こういうところを歩くときアジア人顔というのは便利ですが,アメリカで食事に飽きたときボリューム満点で安い中華料理があると本当に助かります。

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私はここワシントン郊外のホテルを3泊予約して後でさらに1泊追加したので,合計4泊することにしていたので,とんでもないところだったらどうしようと思っていただけに,予想以上に快適なところだったので安心しました。
それより問題だったのは,この日は35度もあってしかも蒸し暑いことで,観光などせず1日ホテルでテレビでも見ていたい気持ちでした。こんな時期に何を好んでアメリカ東海岸など旅行するのか,私にも信じられません。
ワシントンDCについた翌日,つまり今日の予定はウドハーハージセンターにスペースシャトルを見に行くことだったのですが,もう数日前に行ってしまったので予定が空いてしまいました。そこで考えたのはアレキサンドリアというワシントンDCとはポトマック川を隔てた対岸の街に行くことでした。
地下鉄に乗ってオールドタウンという駅で降りると1本の道をはさんで歩いて30分くらいの川岸まで綺麗な街並みが広がっていました。川といっても海のような広さだから,まさに海岸のような感じです。
まずその川岸まで歩いたのですが,まだ午前10時前だというのに,すでに暑くて大変でした。
途中のシティホールの前の広場でマーケットが開かれていたのですが,これは毎週土曜日だけのことだったから幸運でした。シティホールの隣にビジターセンターがあったので中に入りましたがクーラーの涼しかったこと!
シティホールを隔てた反対側にあったのがギャッツビーズタバーンという昔の居酒屋の跡で見学ができるというのでツアーの始まるまで10分くらい外で待ってなかに入りました。もうひとり女性が待っていたのでてっきり観光客だと思ったらその女性がツアーガイドさんで,彼女の案内で家のなかを見ることができました。
そして最後にポトマック川の40分クルーズに乗りました。川の上は風が吹いて快適でした。船を降りてから昼食をとりました。
駅までの帰りはさすがに歩く気はしなかったのですが,この町は観光用に無料のトロリーバスが走っていてそれに乗ることができました。
さてその後に困りました。今日は天気予報では午後は雨が降るという予報だったし暑いしどこかへ行く気にもなりません。外を歩く気にはならなかったので向かったのはナショナルジオグラフィックの本社にある博物館でした。古代ローマ帝国に関する展覧会をやっていました。この展覧会を見ていてるうちに思い出したのがスミソニアンのナショナルギャラリーでフェルメールが3作品見られるということでした。
そこでナショナルギャラリーまで行ってともかくフェルメールを見ることにしました。
ナショナルギャラリーは無料で自由に絵画ので写真も写せます。不思議なのはあれだけ入口は人でごった返していたのに,展示室にはほとんど人がいないということでした。絵に対する興味のある人が少ないということなのでしょうか。もし日本にここのフェルメールが来ればそのうちの作品ひとつだけで黒山の人だかりになるのです。
ちなみにこのギャラリーの一番の見ものはダビンチ初期の傑作「ジネブラ・デ・ベンチの肖像」です。
この日は土曜日だったのでギャラリーは午後5時まで。冷房の効いた館内から外に出てもまだ焼けるほど暑かったのですが,北のほうのダウンタウンへ向かうと治安がよろしくないようで,マクドナルドにすら警官が立っていました。
今日は暑いのでばてました。明日からは涼しくなる… らしいです。本当かなあ。

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アメリカのテレビは,チャンネルがたくさんある割にはあまりおもしろくないのですが,なんとか見られるのはニュース番組にドラマ,そして視聴者参加クイズという感じでしょうか。ニュースは大統領選挙の話題でもちきりですが,両党の候補者が出そろった今になって,彼らに比べるかたちでオバマ大統領の支持率が上がってきたというのが皮肉な話です。
私が一番楽しみなのがNBCの「トゥナイトショー」なのですが,東海岸では開始時間が夜の11時30分と遅いのが難点です。リスニングの勉強なんてこの番組だけ毎晩見ていればいいような気もします。 それから「ファミリーフュード」です。これは昔日本でやっていた「クイズ100人に聞きました」ですが,英語の単語を覚えるのに最適です。入試必須3,000語のような現地の英会話では全く使えない単語でなく実際に使っているこういう単語の本当の意味することを覚えたいものです。今日の写真の問題はダンナが奥さんをベッドの上でどう呼ぶか100人に聞きましたの回答です。

35年ぶりに来たワシントンの印象はずいぶん街が古くなったなあという感じでした。35年前は地下鉄もきれいだったし,モールももっと落ち着いた感じに思えたのですが,今は地下鉄も汚く、モールも古くなったのを直していて工事中ばかり,そして世界中からの人多すぎです。観光客で溢れていて街全体がめっちゃくちゃという感じで,こんな状態で何事も起きない方が不思議な気がします。
これだけいろんな人種がいて皮膚の色が違えば背の高さも体重も言葉も違うと,何をもって美しいのかという基準さえさっぱりわからないし,道徳観も違いすぎてるし,改めて,人はどう生まれるかを選択できないということを,私はこの街で強く認識しました。
周りを見回して,もし私がそこにいる人に生まれていたとしたら… と考えるのです。幸いなことにとても愛くるしい女性だったかもしれないし,えらくボリュームのある黒人のおばちゃんだったかもしれないし,不幸にも地下鉄で騒いで悪たれついていた不良に生まれていたかもしれないし,あるいはホームレスだったかもしれないのです。そしてそのように生まれたことこそが自分では選択のできない運命なのです。
それにしてもまあ,いろんな人間がいるものです。こういう世界を見てしまうと,日本で教わった常識やら道徳やら既成概念などは全てどうでもいいように思えるから不思議です。そんな些細なことをちまちまやっているような時間は,短い人生にはないのです。さっさと本当に能力を使いこなせる実力を身につけないと,この過激な生存競争の渦の中に飲み込まれてしまいます。
そしてさらに思うことは,今年の春に行ったハワイと1か月前にドライブしたモンタナとそして今回旅をしている東海岸は全て同じアメリカ合衆国なのになんだこの違いは! と思うほど異なっているということです。

結局ホワイトハウスまで歩いてそこから地下鉄でホテルの最寄り駅・イーストフォールスチャーチに戻った私は,どこかで夕食をとろうと思ったのですが,結局,手頃なお店に限定すると選択肢もほとんどなく,ホテルの隣にあったレストランに入りました。
そこはどうやらシーフードを売りにしている店のようで,バケツいっぱいに入ったロブスターやら生カキをみんな手で剥いてかじっていたのですが,私はそんなもの食べる気もしなかったのでチキンなんとかとかいてあるものをオーダーしました。
メニューなど見たって何なのか想像もできないので出てきたものが何であろうと食べてやろうじゃないかと覚悟していたのですが,出てきたのはなんと山盛りの手羽先でした。それがまた意外に美味しかったこと!
さすがにこれだけでは情けないのでパンを追加したのですが,これでは野菜が足りません。

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私はこの旅の途中で様々に思いを巡らせます。今はネットで日本のニュースはいくらでも見られるようになったのですが,その多くは巨大なアメリカにいるとあまりにちまちまとしたものに思えてしまいます。まさに象とアリです。
もうひとつは中村紘子さんや元横綱千代の富士関の死去を知って彼らが幼い時からの姿をテレビで見てきた者としては,あれだけ偉大な人の一生もたかがこれだけのことだったのかという感慨です。
そしてまた,こうして元気に好きなだけ旅のできる自分に対して不思議な気持ちになったりもするのです。
ひとりで旅行をしているとたまに極度の恐怖感を抱くことがあります。渋滞のインターステイツで動くことのできない車の中にいるときなどがそうです。そして自由自在に英語ができない自分にいらだって,若いころにもっとたくさん吸収しておけばよかったのにと後悔するのです。
  ・・・・・・
日本の若者よ。意味のないことに時間など費やしていてはいけないんだよ。そんなことしている時間などないんだよ。地位だの学歴だのと形だけ取り繕っていても何もできないんだよ。偉そうなことを言って人生や道徳を説いていても日本から一歩外に出たら自分の力で生きていけないような大人の説教なんて信じちゃいけないんだよ。日本でやっている教育なんて実社会で通用することは何も身につかないからみんなままごとみたいなものさ。そんなことでは世界では生きていけないよ。
  ・・・・・・

さて今日の私のイベントはアムトラックに乗ることでした。アムトラックはアメリカの長距離列車です。私はこれまでアメリカの長距離バス・グレイハウンドには乗ったことがありますが,長距離列車のアムトラックには乗ったことがありません。そこで今回フィラデルフィアからワシントンDCの移動でアムトラックに挑戦してみることにしました。何事も経験です。
フィラデルフィアのアムトラックステーション・30thストリート駅はとても大きな駅で威厳があります。ここから乗るわけです。所要時間はわずか2時間程度なので,東京ー名古屋といった感じでしょうか。
日本人は狭い国土で小さな家に住んでいて些細なことにこだわりすぎ余分な工夫をするのが大好きなので,列車も時間通りに走らせることに命をかけています。それもわずか数秒という誤差みたいな値にこだわっています。やりすぎです。「3のことをするのに10の苦労をしている」わけです。真逆のこちらはいい加減で,「3のことをするのに2くらいの程度で済ませよう」とするわけです。そして残った8の力は遊びに費やすわけです。そんな調子だから時間もあまりあてにならないので,遅れてもいいように早めの時間の電車を予約しました。
駅に着いて朝食を済ませて,発車時刻を待ちました。出発の10分前に改札が開くというのでその少し前に列に並び,時間になったら係員が来たのでチケットを見せてホームに降りて電車に乗り込みました。
座席は自由なので適当なところに座りました。しばらくすると車掌が来て検札をして座席の上部の棚のところに紙を貼りました。座席は飛行機のビジネスクラス並みの広さで50パーセント程度の乗車率でした。
結構揺れて,日本の私鉄に乗っているような感じ,あるいはひと昔前の国鉄の特急列車みたいな感じでしたが,いい経験になりました。途中でボルチモアを通ったのですが,窓から眺めていてあの町の退廃ぶりに改めて驚きました。
やがてワシントンのユニオン駅に,なんと時間どおりに着きました。ここもまたすごく大きな駅でした。フードコートがあったのでともかく昼食を済ませました。
予定では,この後地下鉄に乗って今日から4日間泊まるワシントン郊外のホテルに行くことにしてあったのですが,まず,スマートパスという日本のSuicaのようなチケットの買い方に戸惑いました。自動販売機の前で困っていたらちょうど係員が来たので聞いたら親切に教えてくれました。
そして地下鉄に乗車,ホテルの最寄り駅まで15分くらい乗車しました。ワシントンDCの地下鉄の駅は核シェルターになるように作られています。だから円柱形で物凄く広いです。ちなみにワシントンDCの地下鉄は飲食厳禁です。
ダウンタウンのホテルはものすごく高価なのでこうした郊外のホテルを予約したわけですが,最寄りの地下鉄の駅から歩いて5分くらいの静かな住宅街にあったので助かりました。名古屋でいえば藤が丘のようなところでしょうか。チェックイン時間よりも早かったのですが,部屋に入ることができました。
荷物を置いて再びワシントンDCに出かけました。とりあえずは地下鉄に乗ってホテルから近いアーリントンの国立墓地を目指しました。ケネディ元大統領の墓まで歩いて行ってみると,そこからずっと東に遠くにリンカーン記念館が見えました。少し距離があったのですがそこまで歩いていったら,さらに歩きたくなってそのうちホワイトハウスまで行ってしまいました。
思えばここに来たのは35年ぶりのことでした。そのときは今と違ってホワイトハウスの中が見学できました。

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