しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:日本国内 > 四国

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 NHK連続テレビ小説「らんまん」を楽しく見ています。6月いっぱいで松坂慶子さんが演じた主人公槙野万太郎の祖母たきが亡くなったことで前編が終わって,これからの3か月が後編です。私は,見ていて辛くなるドラマは嫌いだし,主人公がいじめられるのもダメですが,このドラマは,登場人物はいい人ばかりなので,こころ穏やかに見ることができます。
 なお,実際の牧野富太郎博士はひとりっ子だったし,祖母とは血のつながりがなかったということなので,このドラマの槙野家の家族は創作ですが,ドラマだから,これでよいのでしょう。

 そんな楽しいドラマですが,このドラマを見るたびに,私は,忸怩たる思いに駆られます。
 それは,このところ,2020年2月,2022年10月,2023年1月と3回高知県へ出かけて,さまざまな場所に行ったのにも関わらず,ドラマの主人公である牧野富太郎博士にちなんだ場所をすべて見落としてしまっていた,というかパスしてしまっていたということです。
 牧野富太郎という名前は子供のころから知っていました。学校で借りた伝記を読んだのです。しかし,特に興味をもったわけではありませんでした。元来,私は「生物」という教科が好きではありませんでした。それがこんなに偉大な人だったとは…。失礼しました。
 だから,高知県立牧野植物園なんて,私が高知県へ行ったころは,こんな場所に大きな植物園があって,だれが来るのだろう? と思ったほどでした。しかし,高知県立牧野植物園の横を通ったときに臨時駐車場があったほどだから,いったいどうして? とさえ思いました。こうして,何度も行く機会があったのにそれを逃してしまいました。また,牧野富太郎博士の生まれ故郷である佐川の町も通ったことがあるのですが,きれいな町だなあ,と思っただけでした。
 日本の旅はこころでするものといつも書いている私が,実は,このように,自分が無知であったために,価値のあるものを見逃していたのです。これを恥じます。

 高知県立牧野植物園だけでなく,高知県佐川町には牧野富太郎ふるさと館,また,東京にも練馬区牧野記念庭園があるということなので,今はドラマが放映されている最中なのでおそらく多くの人が訪れているだろうから,ドラマが終わったころに,ぜひ行って見たいものだと,楽しみにしてます。
 ああ,情けない。

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Buck Moon 2023.

梅雨の晴れ間。
久しぶりに満月が見えました。
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 私は,子供のころ,学校へ行くのが好きでなかったから,夏休みは出校することなどほとんどないのが快適で,たまにあった出校日なんて嫌で嫌でたまりませんでした。私には行く意味がわからない出校日など作らなくても,潔く,8月31日まで休みにすればいいのに,と思いました。そんなわけで,高校のころは,幸いなことに,私の通った学校は補習などは全くありませんでしたが,たった1日だけあった出校日もさぼって行きませんでした。アメリカでは,3か月,出校日すらない長期の休みがあると聞いて,うらやましくて仕方ありませんでした。
 とはいえ,家にいても,日本の夏は,テレビをつけると終戦記念日の何とか特集と高校野球ばかり。このふたつもまた,暑さを助長するようで,嫌いでした。私が子供のころは,ブカツといえば,しごき。高校野球も例外でなく,テレビの画面では,甲子園のグランドで,監督が選手を小突いていたりして,野球とは何と野蛮なものか,と思いました。そして,窓を開ければ,セミの鳴き声。お盆のころを過ぎると,セミの鳴き声が,アブラゼミからツクツクボウシに代わり,そうなると,秋の足跡が聞こえてくるようで,また学校に行く日が来るのかと切なくなりました。

 そんな若き日々もとうの昔に過ぎ去り,今は,夏といって私が思うのは,京都・五山の送り火と郡上おどりと徳島の阿波おどりです。これぞ,日本の夏です。
 コロナ禍で四苦八苦していたこれらの行事もまた,3年ぶりに復活だそうです。
 その中で,今日の話題は徳島の阿波おどりです。阿波おどりは,今年は,8月12日から8月15日に開催されて,徳島市内をおどりが埋め尽くします。
 今の私は,人が群れるのと暑いのがまったくだめなので,もう,見にいくことはありませんが,数年前は,この阿波おどりをひと目みたいものだと,わざわざ徳島まで出かけたものでした。
 記憶に残るのは,第一に,めちゃくちゃ暑かったということです。見ているだけでも暑いのに,この暑さの中,衣装を着けて踊るなんて,尋常ではないと,見ていただけの私は思ってしまうのですが,やっている人たちはこころから踊ることが好きなのでしょう。第二に,阿波おどりは,有名連という,とてもおどりが上手な集団と,にわか連という,完全にしろうとの集団があって,有名連以外は,見るには値しなかったということです。「踊る阿呆に見る阿呆」というように,阿波おどりは見るのではなく参加するものだそうですが,見る専門の私としては,上手な踊り以外は,ちょっと耐え難いものでした。

 何が違うかといえば,踊り以上に鳴り物の存在です。
 有名連は鳴り物が上手,そして,にわか連に至っては,鳴り物は単なる景気づけでした。
  ・・・・・・
●鉦(かね)
 鉦が金属音を鳴らして阿波踊りのリズムをリードします。
 阿波おどりにはじめて使われた楽器といわれていてよく耳に響きます。叩くバチは撞木(しゅもく)とよばれ,棒に鹿の角の切れ端がついています。
● 笛
 笛は「篠笛」とよばれる楽器で,阿波おどりのメロディーを奏でる主役です。「ぞめき」の入り乱れる中にふと聴こえる澄んだ笛の音はとても心地よく,日本の風情を感じさせてくれるものです。
●三味線
 歯切れのよい音色が特徴的な三味線は,目でも耳でも楽しませてくれます。阿波おどりでは,絶妙な音色を奏でる重要な楽器です。
 主に細棹や中棹の三味線が用いられ,三味線の調子は使用する笛の調子に合わせて,六本調子三下がりで調律されます。
●大太鼓
 ドドンガドンという腹の底に響き渡るような豪快な太鼓の音がお囃子のベースの役割を務めます。
 阿波おどりの迫力と躍動感を表現しています。平胴太鼓とよばれる約10キログラムの和太鼓を肩から胸の前に抱えるように持ち,使用します。
●締太鼓
 和太鼓を肩から吊り下げて叩き,甲高くかわいたような音を出します。裏打ちによって「ンタンタ」という軽快なリズムを生み出すことで,踊り子や周りのお客様の心を浮き立たせてくれるので,リズムに合わせて自然と身体が踊り出します。
●鼓
 お囃子のアクセントとなる鼓には,打ち方によって音色が変化する小鼓と突き抜けるような甲高い音が鳴る大鼓があります。
  ・・・・・・
 これらの中で,笛と三味線の音こそが阿波おどりの醍醐味です。有名連ではこれが粋なのです。そうした粋な鳴り物がないと,阿波おどりは,単に,ドンドンと異常に大きな太鼓の音とカンカラという甲高い鐘の音だけが響く中で,踊っているというよりも単に騒いでいるだけのようになってしまい,不快でした。
 これが,私が阿波おどりを見たときの正直な感想です。
 今日の写真は,私が写した有名連の優雅で美しい姿です。


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 では,今日は,念願かなって写すことができた中岡慎太郎,坂本龍馬,ジョン万次郎の像です。

 まず,1番目の写真が室戸岬にある中岡慎太郎の像です。
  ・・・・・・
 中岡慎太郎は1838年(天保9年)土佐藩郷士の子として生まれた幕末の尊攘派志士です。1861年(文久元年),武市瑞山の編成した土佐勤王党に入り,藩主を護衛し上京して尊王運動に奔走しましたが,藩論が公武合体に傾くと脱藩して長州に走り,以後,長州藩で活動しました。
 海援隊の坂本龍馬と並び,中岡慎太郎は陸援隊を結成し,薩長同盟の成立に尽力し,武力討幕の計画を立てていましたが,京都・近江屋で坂本龍馬と謀議中襲われ,殺害されました。ときに30歳でした。
  ・・・・・・

 2番目の写真が桂浜にある坂本龍馬の像です。
  ・・・・・・  
 坂本龍馬は1835年(天保6年)土佐藩郷士の子として生まれた幕末の尊攘派志士です。本名直柔,別名才谷梅太郎,通称龍馬。
 江戸で剣術修行中に知った武市瑞山,久坂玄瑞らの影響を受けて尊王攘夷運動に入り,1862年(文久2年)年脱藩して江戸で幕府の軍艦奉行勝安房守(勝海舟)の知遇を受けました。
 薩摩藩の援助を受けて長崎で洋式銃砲の取り引きを行う貿易商社亀山社中を設立,1866年(慶応2年)薩摩藩と長州藩の間を斡旋して両藩を和解させ,薩長同盟を成立させました。1867年(慶応3年)に脱藩の罪を許され土佐藩に戻り,亀山社中を海援隊と改め藩と密接に結びました。
 討幕派と佐幕派の調停,融合をはかろうと,朝幕連合政権による新体制樹立を謀議中,中岡慎太郎とともに京都・近江屋で刺客に暗殺されました。ときに33歳でした。
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 最後の写真が足摺岬にあるジョン万次郎の像です。
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 中浜万次郎は1828年(文政11年)生まれの幕臣です。ジョン万次郎ともいい,John Munnとも書きます。
 土佐国中ノ浜の漁師悦助の二男に生まれ,1841年(天保12年),出漁中台風に遭い,南の鳥島に漂着。アメリカの捕鯨船に救助され,アメリカに渡り,勉学ののち捕鯨業に従事し,1851年(嘉永4年)に琉球を経て薩摩に到着します。長崎奉行所で取り調べを受けたのち,土佐藩に送致され,島津斉彬や山内豊信に珍重されました。
  ・・・・・・
 幕末に貴重な人材として,マシュー・C・ペリー来航のときは幕府に出仕して通訳に従事し,その後,軍艦操練所に勤務し,「咸臨丸」の遣米使節に随行しました。明治政府成立とともに徴士(明治初年に藩士や地方の有力者の中から召し出されて政府に登用された者)となり,東京大学の前身である開成学校教授,のち,普仏戦争視察団としてヨーロッパへ派遣されたりと活躍しました。

 中岡慎太郎と坂本龍馬は僚友としてわかるのですが,どうして,もうひとつの像がジョン万次郎なのかと私は思っていました。それが,ジョン万次郎は足摺岬の地に生まれたということを知って,納得がいきました。
 現在,足摺岬には,ジョン万次郎の生まれ育った家が再現されていて,見学することができます。また,博物館もあります。
 稀有な人生を送った人ですが,漂流してアメリカに渡り,たまたま能力が優れていたために,その機会を生かすことができたことで,その奇跡が起きたのだと思います。もし,台風に遭わず漂着しなかったら,そうした能力も埋もれ,ただの漁師としてその一生を終えたのでしょう。
 「カムカムエヴリバディ」で松重豊さん扮する伴虚無像さん言う「日々鍛錬し,いつ来るともわからぬ機会に備えよ」というセリフがあったのですが,それこそ,その人の生まれつき与えられた能力あってこそなので,そうした人材が幕末の日本に存在したということこそがこの国にとって幸運なことでした。

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 私が若いころは,本州と九州は関門トンネルがありましたが,今とは違って,北海道と四国は本州とは橋やトンネルで結ばれておらず,船で渡る必要がありました。
 四国に行くには宇高連絡船というものがありました。宇高連絡船は,岡山県玉野市の宇野駅と香川県高松市の高松駅との間で運航されていた旧・日本国有鉄道,現在のJR四国の鉄道連絡船で,実際の距離は11.3海里,21キロメートルほどでした。
 1988年(昭和63年)4月10日,というから,今からちょうど34年前の今日,本四備讃線,つまり,瀬戸大橋が開業しました。そして,宇高連絡船は,1991年(平成3年)3月に廃止となりました。
 瀬戸大橋ができたころは,車で通行するのにはずいぶんと高速料金が高価だという評判で,そのことだけが記憶に残っています。
 
 船を使わなければならなかったとはいっても,高松あたりは昔から身近なところで,岡山を含めた観光コースとして,私も,宇高連絡船を利用して,何度か行きました。また,高知市は「四国V字」といって,高松,高知,松山と巡る修学旅行のコースでした。
 しかし,四国のそれ以外のところは,なかなか行く機会がありませんでした。私が長年行きたかったのは,徳島市,室戸岬,足摺岬,宇和島市でした。
 そこで,私がまず目指したのが徳島市へ行って阿波踊りを見ることでした。まずは,列車で行きました。そして,2度目は淡路島を経由して,車で行きました。ずいぶんと簡単に行くことができるのだなあと思いました。
 次に目指したのが室戸岬でした。
 室戸岬は,徳島市から,あるいは高知市から,ここもまた,車を使えば,比較的楽に行くことができました。それでもなかなか行く機会がなかったのが足摺岬でした。
 そんな足摺岬でしたが,2020年のコロナ禍がはじまる直前に,やっと行くことができました。その折に,四万十川や宇和島市にも寄ることができたことは,すでに書きました。

 室戸岬には中岡慎太郎,高知市の桂浜には坂本龍馬,そして,足摺岬にはジョン万次郎の像があります。坂本龍馬像は有名ですが,おそらく,その次に有名なのは中岡慎太郎像でしょう。私は,若いころにこのふたつの像があると聞いて,ぜひ,見たいものだと思っていましたが,足摺岬にジョン万次郎の銅像があるのを知ったのは,比較的最近のことです。
 しかし,正直,そのころは,ジョン万次郎って,だれ? という感じでした。
 その後,いろんなことを知ってから,ぜひ,この三つの像をすべて見たいものだという想いが募ってきたのでした。


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 私がずっと行きたかった四国の四万十川に行くことができたのは2020年2月のことでした。忍び寄るコロナ禍直前のことだったので,今から思うと夢のようです。
 四万十川はずっと気になっていたところだったのですが,私の住むところからは遠く,行くのに工夫が必要でした。お金をかければ簡単に行くことはできるのでしょうが,いつものこと,なるべく安価にと考えると,なかなか名案が浮かばないのでした。
 いろいろ調べて行くと,高知市まで高速バスで行くことができるのがわかりました。そこで。高知市からレンタカーを借りることにして,せっかく行くのならと,四万十川と同じように行きたかった足摺岬を加えて,同時に行くことにしました。

 やっと実現した四万十川は,予想以上にすばらしいところでした。
 今,私が日本国内でこれまでに行ってよかった,また行きたいと思うところは,東北地方とともに四万十川くらいのものです。
 素朴さがたまりません。また,私がこのときに宿泊したのは小さなゲストハウスでしたが,これもまた,四万十川の素朴さと相まって,忘れられないところとなりました。
  ・・・・・・
 四万十に 光の粒を まきながら
 川面をなでる 風の手のひら
     俵万智
  ・・・・・・
と詠った歌人の俵万智さんは四万十大使にということですが,この川を見て,その美しさに魅了されない人はいないでしょう。

 ところで,四国といえば,巡礼の地でもあります。
 私は今のところ,巡礼をする気持ちはまったくありませんが,足摺岬には第38番札所・蹉跎山補陀洛院金剛福寺があるので寄ってみました。そこで,この第38番札所の前の第37番札所・藤井山五智院岩本寺まではなんと84.0キロメートルあり,また,次の第39番札所・赤亀山寺山院延光寺までは53.1キロメートルもあるということを知りました。1日中歩き続けても着けません。以前,お遍路さんとお話をしたときに,高知県の西側がえらく大変だった,と言われた理由がよくわかりました。
 私は蹉跎山補陀洛院金剛福寺を訪れたときに,ぜひ,このふたつのお寺だけは歩いて訪ねてみたいと,このときは思ったものですが,今となっては,そんなことを思った自分が自分でないような気がします。
 いずれにしても,四万十川と足摺岬には,ぜひ,また,行ってみたいものです。


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 「日本に目を向ければ,私は,夏にぜひ見たいと思っていた行事がふたつありました。そのひとつは京都・五山の送り火です。もうひとつは次回書きます」と前回書きました。もうひとつは徳島の阿波踊りです。日本では,お盆といえば盆踊り,盆踊りといえば,なんといっても徳島の阿波踊りです。
 近年,テレビで毎年のように徳島の阿波踊りが中継され,それに魅せられて,一度は見たいものだと数年前から思っていました。しかし,後で知ったことには,徳島の阿波踊りが今のような観光目的の一糸乱れぬものになってしまったことにさまざまな意見があったようです。そしてまた,運営についても,いろいろな問題が起きていたらしいです。難しいものです。

 さて,話を戻しまして,一度は見てみたいものだと思っていた徳島の阿波踊りを,2016年についに見にいくことができました。
 行くのも大変だったし,徳島市内では宿泊する場所を見つけるのもまた難しいことでした。
 実際に行ってみてわかったのですが,午前中に到着すれば駐車する場所も何とかなるし,泊まるところもひとりならなんとななるのでした。しかし,そんなことは知らないので,列車で行って,郊外になんとかホテルを見つけて予約をしました。
 海外旅行には慣れているとはいえ,日本国内を旅行するほうが,いろんな意味でずっと面倒だし困難です。

 到着した徳島市は,暑いし,人は多いし,そりゃ大変でしたが,思った以上にすばらしいものでした。今日の写真はすべてそのときに私が写したものです。徳島の阿波踊りは写真の被写体には最高です。
 先にも書いたように,阿波踊りは年々洗練されて,名古屋のどまつりとか土佐のよさこいなどとは違い,一糸乱れぬ踊りとなっていました。私はどまつりとかよさこいはまったく興味はありませんが,岐阜県郡上市の郡上踊りには興味があります。郡上踊りは阿波踊りとはまったく正反対で自由参加の素朴さがとてもすてきです。これは子供のころに見たことがあります。
 阿波踊りで踊るグループを「連」といいますが,中でも上手な「連」を「有名連」といい,そこに入るのが徳島の人たちのステータスだそうです。また,「有名連」の中でも,「娯茶平」(ごじゃへい)という名前の「連」が最も人気があります。この「連」の連長さんは岡秀昭さんで,テレビの中継でもいつも解説を担当されていたので,私はひと目みたいものだと思っていました。

 そんな阿波踊りだったのですが,これもまた,昨年は中止となってしまいました。今年は規模を縮小して行うそうです。コロナ禍の前に行っておいてよかったです。

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 私はこれまで海外に目が向いていたので,日本国内を旅することはあまりありませんでした。また,魅力も感じていませんでした。それでも,いくつか気になる場所はあったので,今行かなければ,きっと将来も行くことはないだろうと,あえて機会をみつけては,足を運んでいました。
 2020年は,まず,1月に静岡県の旧東海道の蒲原宿と二川宿を歩きました。また,その数日後,旧中山道の御嶽宿から伏見宿まで歩き,帰りに明智荘へ寄りました。2月には,念願だった高知県の四万十川と足摺岬へ遠出し,宇和島まで足をのばしました。 また,旧中山道の加納宿から河渡宿,美江寺宿まで歩き,その折に,金華山に登りました。3月になると,余部鉄橋へ行き,帰りに豊岡,福知山城,黒井城へ行きました。そして,その1週間後に,新潟県の親不知子不知海岸へ行きました。また,岐阜県の山県市にある大桑城に登り,さらに,丸岡城,東尋坊,一乗谷,そして,小谷城に行きました。4月のはじめには,岐阜県の妻木と愛知県の新城へも行きました。5月の末は木曽駒高原へ行き,帰りに鳥居峠を歩き奈良井宿へ行きました。7月は北海道,8月は京都府の伊根と滋賀県の木之本,10月には再び木曽駒高原へ足を運びました。
 結構いろんなところへ出かけたものです。そしてまた,特に意識していたわけではないのですが,「エール」と「麒麟がくる」ゆかりのさまざまな場所にも偶然行きました。
 
 そのなかで,もっとも印象に残っているのは,高知県の四万十川です。
 昨年行った岩手県の水沢や花巻とならんで,高知県の四万十川は,私が好きになった場所です。ともに,あの,のどかさが最高です。私は,日本国内では,リピートしたいと思うようなところはあまりないのですが,この二か所は,いつかまた時間をとって,ゆっくり旅をしてみたいと思うところです。
  四万十川は,高知県の東部にある山を水源として太平洋に流れ込む川で, 高知の大自然を象徴する存在となっています。 日本の河川のほとんどは,急流でまっすぐ流れているのですが,四万十川はうねうねと蛇行しながらゆったりと流れています。いかにも自由という感じです。その美しさから,四万十川は「日本最後の清流」ともよばれます。
 四万十川では,遊覧船のツアーや沈下橋を通過する屋形船下りなどを利用して様々に楽しみむことができるし,また,四万十川で獲れる天然の鰻と鮎で地元グルメを満喫したり,山々と川の流れが織りなす手つかずの自然を堪能することができます。
 四万十川に行くにはまず高知市に行くことが必要ですが,高知市も魅力がある町です。駅前には土佐藩の幕末の英雄である武市半平太,坂本龍馬,中岡慎太郎の像が出迎えてくれて,郷土の誇りを感じます。その高知市でおいしいものをあじわうのもまた,魅力です。
 このように,2019年の東北に続き,2020年はすでに書いた北海道の道北とともに高知県の四万十川で,日本の今も残る数少ない自然の魅力を感じることができた年になりました。

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 高知市に戻ってきました。高知市は3年前に来て市内に宿泊もしたので様子はよくわかります。しかし,そのときは高知城に行くことができなかったので,今回は高知城にだけは行きたいと思っていました。高知城もまた宇和島城と同様「現存12天守」のひとつです。
 先日東北に行ったとき,幕末,東北は奥羽越列藩同盟として武力対決をしたのが理由だと思うのですが,明治維新後にほとんどの城は取り壊されてしまいました。それに対して,四国地方には,多くの城が残っているのです。こういったことは,やはり,その地に行ってみないとよくかわりません。

 高知城は立派なお城でした。1か月ほど前に和歌山城に行ったことを書きましたが,同じような規模で,また,同じように山の上に立つ城ですが,予想に反してさびれていた和歌山城とはえらい違いでした。これもまた行ってみないとわかりません。それは,城に限らず,和歌山市と高知市をともに歩いてみても同じことを感じました。同じ県庁所在地といっても,ずいぶんと様子が違うものだなあと思いました。
 高知城は江戸時代に建造された天守や本丸御殿,追手門が現存しています。戦国時代以前,大高坂山城とよばれた城が築かれていた場所に,江戸時代初期,土佐藩初代藩主の山内一豊によって掛川城を模して現在の高知城が着工され,土佐藩庁が置かれました。
 城内には山内一豊と妻の千代,板垣退助の銅像が立っています。
 戦国時代に四国を収めていた長宗我部元親ですが,水はけが悪かったため大高坂山城を捨て,桂浜に近い浦戸に浦戸城を築きました。関ヶ原の戦いで長宗我部元親の子・盛親は西軍に与したので改易され,代わって山内一豊が土佐国一国24万2千石を与えられ,大高坂山城後に築城を開始しました。この際,真如寺の僧・在川により河中山城と改名されたのですが,度重なる水害を被ったことで第2代藩主の山内忠義は河中の表記を変更,竹林寺の僧・空鏡によって高智山城と改名,これが省略されて高知城とよばれるようになりました。
 1727年(享保12年)の大火で城は追手門以外のほとんどが焼失し,現在見られる建造物の大半はこののちに再建されたものです。
 私のような愛知県で育った者には,四国や九州の,いわゆる「落下傘大名」のことは実感がなかったのですが,要するに,よそ者が突然やってきてその地を収めるわけです。であれば,「地のモノ」との軋轢が生まれるのは当然なわけで,そこに多くの悲劇が生まれますが,土佐もまた同様で,私は高知城で,山内一豊が行った数々の悪業を思い出しましたが,この地から幕末多くの志士が輩出したのはその反骨からだったのかもしれません。

 それはそれとし,高知城に行くこともできて,今回の四国への旅は終了。帰りのバスは午後8時10分にJR高知駅北口出発なので,それまでに夕食をとることにしました。高知市の繁華街にあるのが,日本三大がっかりのひとつはりまや橋ですが,じょうずにライトアップされていて,けっこういい雰囲気でした。せっかく高知に来たので,食事はカツオのたたきにしました。食事を終えてJR高知駅に行きまた。夜になると駅前の坂本龍馬,中岡慎太郎,武市半平太の像がライトアップされていました。
  ・・
 こうして,今回の旅行は終わりました。
 はじめて行った足摺岬と四万十川,そして宇和島市でしたが,予想以上にいいところでした。私は国内で一度は行きたいところへ行く旅をしているのですが,一度行ったらもういいや,と思う場所も少なくありません。しかし,今回行った場所はとてもいいところでした。気に入ってしまいました。また行きたいと思いました。そのときは,もっと時間をかけて,ゆっくりとまわってみたいものです。第37番札所から第39番札所もぜひ歩いてもみたいものです。
 四国は遠いところだと思っていましたが,夜行バスを使えば,東京へ行くよりも安価にむだなく旅行ができ,お遍路さんがまわっていることで安価な宿泊先もたくさんあるので,楽しい旅ができるところだということがわかりました。

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 宇和島城を出て,次に向かったのが天赦園(てんしゃえん)という庭園でした。宇和島藩2代藩主伊達宗利が海を埋め立てて造成した浜御殿に,第7代藩主で,100歳まで生きた伊達宗紀が1866年(慶応2年)に隠居所を造るために築庭したものです。園内には伊達家の「竹に雀」にちなんだ大名竹,豊後竹,真竹,孟宗竹など珍らしい十数種類の竹と,伊達家の姓である「藤原姓」にちなんだ大紫藤,白藤,上り藤などがあります。鬼ヶ城連峰を借景とした池泉回遊式の庭園です。

 天赦園の名は,伊達政宗が詠んだ漢詩
  ・・・・・・
 馬上少年過
 世平白髪多
 残躯天所赦
 不楽是如何
  ・・
 馬上に少年過ぎ
 世は平にして白髪多し
 残躯は天の赦す所
 楽しまずして是を如何せん
  ・・・・・・
の一節にちなみ,余生を十分に過ごしたいという思いが込められています。

 天赦園から南に神田川沿いを歩くと,大村益次郎の住んだ場所,そして,川をへだててイネの住んだ場所の跡があります。
 わが国近代兵制の創設者として有名な大村益次郎は1824年(文政7年)長州に生まれました。緒方洪庵の適塾で学び逸材といわれましたが郷里にもどり村医者をしていました。1853年(嘉永6年)第8代藩主伊達宗城の招きによって来藩し村田蔵六という名前で宇和島藩士として蘭学の教授,兵書,翻訳に従事し,また藩の軍制,特に軍艦の研究等にも力を尽くしました。2年半のちに藩主に従って江戸に行ったので,宇和島に住んだのはわずかな期間でした。
 大村益次郎はここに住んでいたころ,シーボルトと楠本タキとの間に生まれたイネの師となっています。
 NHKの大河ドラマ「花神」で中村梅之助が演じた大村益次郎と浅丘ルリ子の演じたイネとの恋物語はフィクションらしいのですが,この時代と宇和島藩のことがとてもロマンチックに描かれていました。

 原作者の司馬遼太郎さんは次のように書いています。
  ・・・・・・
 シーボルトという人がいます。あの人はオランダ人と言っていましたが実はドイツ人でした。長崎で遊妓との間に一子をもうけドイツに帰りました。おイネさんというお嬢さんでした。おイネさんは大きくなり宇和島藩に招かれました。奥方付といった境遇で遊んでいてもいいし学問をしたければしてもいいという境遇にありました。
 城下に神田川原という侍屋敷があり,そこの小さな一軒に住むことになったのですが,妙齢のおイネさんひとりで住むのは不用心でした。もうひとりだれか用心棒を住まわせたほうがよいということになり,村田蔵六がいいという話になりました。女の人がひとり住むところへまだ三十手前の蔵六も一緒に住む。大丈夫かと思いますが、「村田蔵六なら大丈夫だ」といわれていたように,堅い人間でした。そういうわけでおイネさんと村田蔵六は一時期一緒に住んだことがあります。
 私(司馬遼太郎)があるとき藤野先生(故人・阪大教授)の研究室で雑談していたとき,藤野先生が「村田蔵六がおイネさんと住んでいたころふたりの間に何かあったと思いますか」。私はそんな話題が出るとは思ってもみませんでした。私は自分で考えてみました。「自分だったら大丈夫かな,大丈夫ではないかな。何もなかったでしょう」と答えたのですが,藤野先生は言いました。「私はあったと思います」堅い堅い教授が実にうれしそうな顔をされていました。藤野先生も,言われた蔵六も堅い人です。何かあったかどうかもおもしろいけれど,村田蔵六を書いてみようと思ったのはそれがはじまりのようなものでした。
  ・・・・・・

 また,「花神」には愛川欽也の演じた提灯屋の嘉蔵(のちの前原巧山)も出てきます。伊達宗城はオランダ語の専門書を翻訳しての船の設計を命じ,蒸気機関の製作を,なんと城下に住む提灯屋の嘉蔵に任せ,蒸気船を完成させるのです。
 宇和島藩に住んでいた嘉蔵は当時最下層の身分の人で,唯一手先が器用なことから堤灯の張替えを生業にしていました。ある日,ひょんなことから嘉蔵に蒸気船を作れないかという依頼がきます。伊達宗城が黒船を藩独自で作ろうと藩内で人を探していたのです。嘉蔵は黒船(蒸気船)のことを話に聞いたことはあってもそれ以外のことは全く何も知りませんでした。嘉蔵は長崎に留学し苦労しながら蒸気機関に関することを必死で学び,帰藩後,試行錯誤と失敗を繰り返しながらも蒸気機関を独力で開発し,大村益次郎の支援をうけながら国内で2番目の純国産の蒸気船を完成させたのです。司馬遼太郎は「この時代に宇和島藩で蒸気機関を作ったことは現在の宇和島市で人工衛星を打上げたのに匹敵する」と評しています。
 私が宇和島というところに来たのは,今から150年ほど前にこんな夢のようなことが起きていた場所に思いをはせていたからなのです。

 宇和島市を出て,広見川に沿って来た道を戻り,江川崎から国道381号線を四万十川沿いに四万十町,そして,高速道路に入って,高知市に戻りました。江川崎からの四万十川は上流になるのですが,むしろ四万十市に向かう下流側よりもずっと開けていて人も車も多く素朴さは薄れ観光地化されていたので,私はむしろ下流の四万十市のほうに魅力を感じました。

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 チェックアウトをして,まず,四万十市へ行き,そのあとで宇和島市へ向かうことにしました。
 今回の旅では四万十市の観光をする予定はなかったのですが,まったく知らないで通り過ぎるのもと思って,市内をくるりと車でまわってみることにしました。四万十市は小さい町ですが「土佐の小京都」とよばれる町です。室町時代,応仁の乱の戦火を避けるため,関白一條教房が現在の一條神社のある場所に中村御所を構えたのがはじまりです。応仁の乱というのはよほどひどいものだったので,権力者が逃げ延びてきたのでしょう。都を懐かしんだ一條教房は京都を模した碁盤の目状の街づくりをしたのだそうです。鴨川や東山など京都に見立てた地名やゆかりの神社などが残り,「大文字の送り火」や土佐一條公家行列「藤祭り」「一條大祭」などといった京文化の名残りが今もあります。
 碁盤の目状といっても,道幅がものすごくせまく,車がやっとすれ違えるほどでした。私はこうした道路を走り慣れてなれていないので信号待ちでは車を家の軒先ぎりぎりまで寄せて停めないと対向車線ができずにすれ違えないことをはじめはわからず,往生しました。日本ではAIだのキャッシュレスだのといってもそれは大都会だけのことで,東京で生活している人にはわからないことでしょうが,地方の中小都市はずっと昭和のままなのです。しかし,それがよかったりもします。
 町の高台にお城を模した建物がありました。これは山内一豊の弟・康豊の居城であった中村城跡に作られた博物館ということで,狭い道を登ってみました。朝早かったことで,というかこの日はもともと休館日で博物館は閉館していましたが,高台は公園になっていて,四万十川や市街地を一望することができました。

 さて,ここから宇和島市に向けて出発です。
 四万十川に沿って上流に向かい,前回書いたように,江川崎まで行って左折して,宇和島市に行きました。四万十川にはところどころ沈下橋があって,それらを眺めながら進みました。高知県から愛媛県に入ると,思ったほど遠くなくやがて大きな町が見えてきました。そこが宇和島市でした。
 はじめて来た町は土地勘がないので困ります。道なりに進んでいくと駅があって,駅を通り過ぎると,宇和島城がありました。海外も国内も,車で旅をしていると,町の中では車を停めるのに苦労します。ともかくどこか適当な駐車場に一旦車を停めてあたりを散策してから方針を決めます。幸い,お城の入口に市営の駐車場を見つけたので停めました。あとでわかったことに,宇和島市はどの駐車場も1時間100円でした。これくらいならいいやと,ここに駐車して2,3時間歩いて市内観光をすることにしました。宇和島市に何があるのか知りませんでしたが,私が宇和島市に来たのは,大村益次郎の足跡をさがしてその余韻に浸ることが目的でした。
 まずは,宇和島城への登城です。
 「現存天守」というのがあります。「現存天守」とは,日本の城の天守のうち江戸時代またはそれ以前に建設され現代まで保存されている天守のことです。現在は弘前城,松本城,丸岡城,犬山城,彦根城,姫路城,松江城,備中松山城,丸亀城,伊予松山城,宇和島城,高知城の12あって,これを「現存12天守」と総称します。このひとつの宇和島城は中世期にあった丸串城(板島城)の跡に藤堂高虎によって築かれたもので,標高74メートルの丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心にする平山城です。明治以降は大半の建物が撤去され城郭は「城山公園」として整備されました。

 宇和島城は伊達家宇和島藩の居城です。伊達といえば政宗であり,仙台です。しかし,伊達政宗の長男・秀宗は仙台藩を継がず,宇和島藩主となりました。伊達秀宗は1591年(天正19)年に伊達政宗の庶長子として生まれましたが,4歳のとき,豊臣秀吉の人質となりました。1596年(文禄5年)には秀吉の猶子となって元服しました。関ヶ原の戦いでは石田三成方の宇喜多秀家に人質に取られ,その後、徳川家康の人質となりました。
 伊達政宗には秀宗の弟として忠宗が誕生しました。1611年(慶長16年)に忠宗が元服し仙台藩伊達家の後継ぎという立場が決定的となったことで,秀宗は後継者から外されてしまいました。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で秀宗は政宗と共に参戦し戦功として伊予宇和島10万石を拝領しました。こうして伊達秀宗は宇和島藩主となったのです。
 宇和島藩の財政は厳しく,そのため,仙台藩からの援助が必要でした。しかし,宇和島藩が仙台藩の下に見られることを嫌い,仙台藩との関係を重く見る家老であった山家公頼を桜田元親が家族もろとも皆殺しにしてしまいました。しかも,秀宗はこの騒動を伊達政宗にも幕府にも報告しませんでした。激怒した伊達政宗は,老中の土井利勝に宇和島藩の返上を申し入れ秀宗を勘当してしまいました。土井利勝は政宗をなだめ,伊達秀宗との間を取り成しました。伊達秀宗は「長い人質生活を送らされた上に仙台藩を継ぐこともできなかった。父を恨んでいる」。それを聞いた政宗は怒るどころか伊達秀宗の思いを理解し受け止めました。以後,伊達家宇和島藩は幕末まで続きます。
 幕末。宇和島藩は伊達宗城を輩出し,宇和島藩の伊達家は仙台藩の伊達家よりも家格が上となりました。この伊達宗城こそ,長州藩の村医者にすぎなかった大村益次郎を招いた藩主なのです。宇和島藩は,幕長戦争では派兵すれども参戦せず,戊辰戦争では避戦中立ひとりの殉職者も出しませんでした。

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 なんとか三里沈下橋をひやひやしながら渡り終えて,さらに上流にむかって川岸の左岸を通る国道441号線を走って行きました。適当なところで引き返すことにしていましたが,四万十川はこのようにして,ずっと上流に向けて行くことができるのが次第にわかってきました。
 調べてみると,四万十川は蛇行を繰り返しながら江川崎という町まで行き,そこで二股にわかれます。というよりも,上流から流れてきた四万十川が江川崎で四万十川と広見川に分かれて,四万十川が南の四万十市へ,広見川が西の宇和島市へ向かい,海にそそぐのです。
 四万十川の上流は高知県の山間の谷を流れていて,川に沿って国道381号線が走り,四万十町に向かいます。そこで,明日はまず江川崎から宇和島市に行き,宇和島市から四万十町へ,ずっと四万十川の上流に沿って走ることにしました。

 さて,この日は,三里沈下橋を渡ってから少し進んだところにあった「四万十の碧」と書かれた小屋の広い駐車場でUターンして戻ることにしました。車を停めて「四万十の碧」の小屋にあった看板を見ると,どうやらここで屋形船に乗ることができそうでした。四万十川で屋形船に乗れることは「ブラタモリ」でやっていたので知っていたのですが,私は屋形船に乗る予定はありませんでした。
 ともかく小屋の中に入って,店員さんに船に乗れるのですか? と聞くと,乗れますよ,乗りますか? と言われました。民宿の到着時間が午後5時30分と連絡してあったのですが,今は午後3時50分。午後4時の船に乗ると乗船時間が約50分ということなので,十分に間にあいます。そこで,急遽屋形船に乗ることにしました。料金は2,00円でした。こうして,今回の無計画な旅もまた,いつものように,望外なほど順調に進んでいくのでした。
 時間になったので乗船しました。客は私ひとりで最高でした。説明を聞きながら四万十川を,先に渡った佐田沈下橋あたりまで下っていって,そこでUターンをして戻るコースでした。
 私の乗った屋形船には,かつて,蛭子さんや横綱千代の富士だった九重親方も乗船したそうで,写真や色紙が張ってありました。ちなみに,「ブラタモリ」でやっていたのは「なっとく」という会社のもので,それは「四万十の碧」よりもう少し上流にあります。

 船から降りて,民宿に向かいました。私が予約をしたのは1泊2食つきで9,000円というものでしたが,評判通り食事が最高でした。また,部屋はバストレイつきでしたが,外風呂というのがありましたので,頼んでお湯を入れてもらいました。外風呂,つまり露天風呂は手作り感満載,寒さに震えながら熱いお湯につかるのもまたかなりの快感でした。
 私は国内旅行よりも海外旅行のほうが慣れていて,これまでさまざまなタイプのところに泊ったことがありますが,そのほとんどはモーテルとよばれる安宿です。そうした気楽に泊れるところがどういうところなのか日本ではよくわかりませんでしたが,やっとどうにか慣れてきました。私は,海外でも日本でも大きなホテル,特に日本の温泉にある豪華な大きな旅館,そうしたところに宿泊するのは苦手です。多くの人がいて,温泉にも多くの人が漬かっています。それが嫌いなのです。私にとって日本では家族で経営しているような小さな旅館,あるいは民宿のほうがずっと旅情があり,気楽です。しかもお値打ちであり,食事もおいしいのです。前回岩手県の花巻市に行ったときに泊った花巻台温泉も小さな宿でしたがとてもよいところでした。それに続いて,今回もまた大当たりでした。
 深夜過ぎには月も沈み空が暗くなって,明け方には窓から満天の星空が輝いていました。しかし,今の位置は天の川がないので星しか写らないのが残念でした。今度来るときは星見兼ねてもいいかなと思いました。
 やがて夜が白みはじめて,朝食を終えてコーヒーを飲んでいたころには美しい日の出が見えました。

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 ジョン万次郎資料館はとても立派な博物館でしたが,私以外に訪れていた人はひとりもいませんでした。日本の各地にはさまざまな博物館があるのですが,どこも閑散としています。ジョン万次郎資料館はNHKの大河ドラマ「龍馬伝」が放送されたときにリニューアルされたものですが,日本では,こうした何らかの話題性でもないと予算がつきませんが,一旦予算がつくと,あと先を考えずにけっこう立派なハコモノができるのです。しかし,数年もして熱が冷めると誰も来なくなり,手のひらを返して維持をする予算もつかなくなって老朽化していく,というのがお決まりのパターンです。これが文化や歴史をリスペクトしない,単にブームだけで人が動き回るこの国の特性であり,事なかれを旨とする役人です。
 海外に行くと,かなり不便なところでも,そして平日であっても,多くの人がこうした博物館に訪れ,また,博物館で行われているレクチャーも一杯の人になります。博物館は金持ちが財団を作りそれをサポートしたり,有志の団体があったりします。日本では企業もそうしたことにあまり投資をしないし,また,余裕のある有志もあまりいません。そしてまた,日本人の旅行というのは,ブームになった場所に,さして興味もないのにツアーで訪れてその場所については何も学ばないで単に記念写真を撮って去っていき,結局はおいしいものを食べてお土産を買って帰る,というだけのものです。食事に3,000円は出費しても,博物館に500円は出せないのです。これが日本の,人と競うだけが目的の点取り教育の成果です。教師もまた,修学旅行で引率しても生徒の見学時間には近くの喫茶店でコーヒーを飲んで雑談しているだけだし,進路指導といったところで「君,その点数では希望する大学に受からないよ」と言っているだけなのですから教育ではありません。
  ・・ 
 ジョン万次郎という人は思っていた以上にすごい人でした。たまたま漂流した若者が優秀だったということで帰国してから日本の優れた人材となったのですが,この人材が埋もれることがなかったのが幸いでした。この国のシステムでは,全く能力がなくても地盤看板かばんがあって与党から当選して静かにしていれば大臣というブランドが手に入る反面,優秀なのに埋もれている人材も多いことでしょう。

 四万十市に戻りました。私の宿泊先は四万十市から四万十川に沿って少し上った上流の川岸にある民宿です。四万十川に沿って上っていくと,沈下橋の道路案内がありました。四万十川が沈下橋で有名なのは知っていましたが,四万十川のどこにあるのか,四万十川というのはどこをどう巡るものなのかは知りませんでした。まだ予定のチェックイン時間には2時間ほどあったので,ともかく沈下橋に行ってみることにしました。
 沈下橋というのは,橋の上に欄干がないか,あってもかなり低いものや増水時に取り外し可能な簡易的なものしかついていないものをいいますが,それは増水時に橋が水面下に没したとき,流木や土砂が橋桁に引っかかり橋が破壊されたり、川の水がせき止められ洪水になることを防ぐためです。沈下橋は,自然を押さえつけるのではなくあるがままの自然を受け入れ折り合って生きていこうという,流域にすむ人々の生活様式を象徴するものだそうです。
 はじめに着いたのは,もっとも下流にあった佐田沈下橋でした。沈下橋のなかでも一番道幅が広いということでした。沈下橋は車で渡れるということでしたが,恐ろしいので渡る気持ちはありませんでした。しかし,到着してみたら,渡る勇気がわいてきました。震える手でハンドルを握り,ともかく渡り終えました。渡り終えて橋のほうを振り返ると,なんと,手前からトラクター,そして対岸からは乗用車が渡ろうとしているところでした。おそらくは地元の人なのでしょう。ともに譲るという気もなく,両岸から渡っていきます。私はどうなることかと見入っていたら,何事もなく橋の途中ですれ違いました。もし私が乗用車の運転手だったら生きた心地はしなかったことでしょう。
 渡り終えて,私は四万十川の反対側の川岸の狭い道路を上流に向かって走りました。次の沈下橋を渡って戻るつもりでした。道はどんどん狭くなり,不安になったころ,次の三里沈下橋が見えました。しかし,さきほどよりもずいぶんと狭い沈下橋でしたが,こうなったら意を決して渡るしかありません。

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 ついに,念願だった足摺岬に着きました。足摺岬にあったのは,ジョン万次郎の像と,足摺岬の灯台と展望台,そして,金剛福寺でした。
 駐車場に車を停めて,まずはジョン万次郎の像です。高知市桂浜にある坂本龍馬の像はあまりに有名ですが,室戸岬には中岡慎太郎の像があると知って感動し,いつかは見たいものだと思い続けて,3年前に対面することができました。足摺岬にジョン万次郎の像があるということを知ったのはずいぶんと後のことだったし,知ったときには,どうしてジョン万次郎なのだろうと思いました。そしてまた,足摺岬はあまりに遠く,実際に見ることができるとも思っていませんでした。

 そのジョン万次郎の像が,今,目の前にありました。この像は1968年(昭和43年)に建てられたそうです。その手にはコンパスと三角定規を握り太平洋を見つめていました。坂本龍馬の像と中岡慎太郎の像と,そして,ジョン万次郎の像。高知県は粋なことをするものです。
 次に灯台に行きました。この白亜の灯台は 高さ18メートル,光度46万カンデラで,光達距離38キロメートル。わが国でも最大級の灯台のひとつで,1914年(大正3年)に点灯されました。灯台から遊歩道を300メートルほど歩いて,天狗の鼻に行きました。そこからは灯台を眺める絶景が楽しめました。「岬」のことを足摺では「鼻」というそうです。ここは四国最南端。岬は突き出ているので,朝日と夕日が海に沈むのを見ることができるそうです。次回来るときはこの近くに宿泊して,それを見たいものだと思いました。夜には満天の星空も見られます。
 近くに食堂があったので,かつおめし丼という昼食をとりました。この時期,ほとんど観光客はおらず,お客さんも私ひとりでした。お店の人に聞くと,このごろはお遍路さんも少ないということでした。人混みの嫌いな私には人が少ないのはとても落ち着くのですが,ともかく,どこも閑散としていました。

 ジョン万次郎の像の近くに第38番札所・金剛福寺がありました。822年(弘仁13年),嵯峨天皇の勅願によって弘法大師が三面千手観音を本尊として823年(弘仁14年)にできたものです。こんな最果ての地に今から1,000年以上も前から寺があることが驚きでした。ここは大変立派なお寺さんで,壮大な庭,そして,境内には多宝塔や十三石塔,逆修の塔などがありました。
 実はこの第38番札所は「修行の道場・土佐」という名のとおり,霊場を巡る人にはとんでもない難所にあるそうです。なにせ,ひとつ前の第37番札所・岩本寺からは約90キロメートルもあり,徒歩なら20時間以上かかります。そして,次の第39番札所・延光寺まではまた約60キロメートルもあり,徒歩なら15時間もかかるのです。ともに1日ではたどり着けません。これは絶望的な距離です。実際に歩いてきた人がえらく遠かった,と言っていた意味が理解できました。これだけの距離を歩くと,おそらく,こころのなかの何かが変わることでしょう。
 私は八十八箇所を巡るつもりはないのですが,もし巡るとしても車で札所だけを巡っても意味がないと思いました。歩くことで何かが変わるのです。私はさまざまな旧街道を毎回10キロメートル程度歩くだけの経験しかしていませんが,それでもそう思うのだから,その何十倍も歩くというのはすごいことです。自分がどう変わるか,歩いてみなくてはまったく想像がつきません。そこで,この第37番札所から第39番札所の150キロメートルだけは,元気なうちに歩いてみたいものだと思ったことでした。というより,歩かなければならないところだと思いました。
  ・・
 足摺岬へ行くという念願がかなってすっかり満足した私は,足摺岬に別れを告げて,次に,土佐清水漁港にあるジョン万次郎資料館に向かうことにしました。

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 今回の旅もまた,思った以上にすばらしいものでした。では,旅の様子を順を追って書いていきます。
 まず,名古屋駅から22時30分に夜行バスに乗りました。バスは1列が3席からなっていて仕切りにはカーテンもあってとても快適でした。途中,四日市でさらに乗客を乗せてから消灯し,翌朝の6時前に徳島のバス会社のターミナルに着きました。ここに数台のバスが停まっていて,四国の各方面に向かうそれぞれのバスに乗り替えます。私は高知市に行くバスに乗り替えて,さらに2時間30分ほどで高知駅に到着しました。
 朝8時過ぎに高知市に着くような列車や飛行機はありません。夜行バスが最も安くて,しかも最も便利なのです。それにしても,私には高知市はハワイへ行くより時間的に遠いところです。
 9時にレンタカーを借りていたので,その時間まで駅にあったカフェで朝食をとりました。レンタカー会社は駅前にあって便利でした。さあ,いよいよレンタカーで出発です。行先は,ともかくまずは四万十市に向かうことにして,そこから先をどうするかは着いてから考えることにしました。
 
 私は勘違いをしていたのですが,高知県には四万十川に沿って上流に四万十町,下流に四万十市があるのです。もともとは四万十町だけがあって,四万十市というのは昔は中村市だったところが改名したのです。
 私は子供の頃から地図を見るのが好きだったので,高知県に中村市というのがあるのは子供の頃から知っていましたが,それが現在の四万十市であることは知りませんでした。それにしても,こんな間違いやすい名前にしてはいけません。地元の人以外は混乱します。どうやら「四万十」というのはブランドらしく,何でも「四万十」と名づければ有名になると思っているようだし,確かにそうです。
 レンタカーを借りるとき,四万十までは高速道路があると聞いたので,さっそく高知市から高速道路に乗りました。私はそれが四万十「市」のことだと思っていたのですが,実際は四万十「町」のことでした。高速道路は四万十町までつながっていたのですが,四万十町から四万十市まではその先まだずいぶんと距離があるのでした。ともかく,四万十町で高速道路を降りて,さらに,四万十市に向かって走りました。

 私がこの旅で行きたかったのは,四万十川と足摺岬と宇和島市でした。しかし,どのくらいの距離と時間がかかるのかは地図ではよくわかりませんでした。来るまでは,まず宇和島市へ行って,そこから海岸に沿って足摺岬まで行って,宿泊先として予約してあった四万十市に入ろうと考えていましたが,実際に来てみると,宇和島市は遠く,さらに,宇和島市から海岸に沿った道路は狭いので,足摺岬を経由して四万十市に着くのはずいぶん遅い時間になってしまうようでした。そこで予定を変更して,まず,足摺岬に行き,足摺岬から四万十市に引き返し1泊。次の日に四万十市から宇和島市を経由して高知市に戻ることにしました。この変更は正解でした。
 ともかく,四万十市に着くと,待望の四万十川が見えてきました。これには感動しました。ずっと見たかった四万十川でした。足摺岬はこの四万十川に沿って河口まで行って,さらに南下するのです。
 足摺岬までの途中に,ジョン万次郎の生家というのがありました。

  ・・・・・・
 ジョン万次郎は江戸時代末期から明治にかけてアメリカ合衆国と日本で活動した日本人です。アメリカからの帰国後の本名は中浜万次郎ですが,井伏鱒二が書いた「ジョン萬次郎漂流記」からジョン万次郎という名が広まりました。
 万次郎は1827年(文政10年),土佐の中浜の貧しい漁師の次男として生まれ,14歳の頃仲間と共に漁に出て遭難し無人島に流れつき143日も生き延びました。その後アメリカの捕鯨船のホイットフィールド船長により救助され,日本人としてはじめてアメリカ本土へ足を踏み入れました。アメリカでは首席になるほど熱心に勉学に励み,卒業後漂流から数えて11年後に日本に帰国しました。 その後,ジョン万次郎は江戸城へ呼ばれ旗本に格上げされ,日本ではじめての通訳となったり,アメリカの知識を求めてくる幕府の重鎮や維新志士にその経験を伝えたりと様々な功績を残しました。
 このジョン万次郎の像が足摺岬に立っているのです。

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 四国というのは不思議なところです。近いようで遠く,知っているようで知らない。何度も行っているようであまり行ったことがないし,どういうところなのかよくわからない。…というように,私はほとんど行ったこともないしよく知らないわけです。実際,行こうとするとなかなか大変です。
 私の子供のころは橋も架かっていなかったので,宇高連絡船というのを使って四国にわたる必要がありました。そのころ,高松,琴平,道後,松山といった四国の北側は,岡山や広島といった中国地方に行った折に瀬戸内海を渡って行ったことがあるのですが,それ以外の場所となると,わざわざ行こうと思わなければなかなか行く機会がありませんでした。
 2016年,徳島市の阿波踊りが見たくなって,電車で夏の暑い盛りに行ってみました。このときのことはブログに書きました。さらに,2017年のちょうどこの時期,今度は高知市に行ってみたくなって,1泊2日で淡路島を経由して車で行きました。しかし,これまで,四国の南西のほうは行ったことがありませんでした。

 四国に行くと,「四国八十八箇所」を歩く人をかなり見かけました。
 「四国八十八箇所」は四国にある空海ゆかりの88か所の寺院の総称で,「四国八十八箇所」を巡拝することを「四国遍路」あるいは「四国巡礼」といいます。「四国八十八箇所」は単に88の寺院の総称ということだけでなく,それに加えて急峻な山や深き谷を巡りその間にある堂を残らず巡る488里の修行のことですが,現在では,修行が目的の人に加えて,定年になって,観光も兼ねて巡っている人も多いようです。四国の面積は,ハワイ島の約2倍ほどで,山あり谷あり海あり川ありと変化に富んでいるので,どこへ行ってもおもしろいところなのでしょう。
 そうして歩いている人から,高知県はえらく広い,と聞きました。地図で見ると,確かに高知県といっても,その西側はかなり遠くに思えました。その先端が足摺岬,岬にはジョン万次郎の像があるのだそうです。私は高知市桂浜の坂本龍馬の像と室戸岬の中岡慎太郎の像は見たのですが,さすがに足摺岬ともなると遠く,私には縁がないような気がしました。そのうちに,四万十川といういまでも自然が多く残っている河川があるとききました。また,大河ドラマで司馬遼太郎さんの「花神」を見て,主人公の大村益次郎が宇和島に縁があることを知って以来,宇和島というのはどこなのかとずっと気になっていました。

 そんな感じだったのですが,わざわざ行く気にならないと行けない場所に行こうという私の計画のひとつとして,今回,高知県の西の端に行ってみることにしました。いつものように,できるだけ安価に行く,という方針です。で,調べてみると,名古屋市から高知市まで片道5,600円の夜行バスがあるようでした。そこで,往復夜行バスを使い,高知市でレンタカーを借りて,途中で1泊というのを考えました。本当は車は使いたくなかったのですが,公共交通機関を使ったらどれだけ日数がかかるかわかりません。それに,それほど渋滞することもないだろうと思いました。宿泊先は四万十川沿いにある夕食と朝食込みで9,000円の民宿にしました。これで30,000円でおつりがきます。
 おりしも「ブラタモリ」で四万十川を放送していました。この番組を見て行く気になったのではなく,私が行こうと決めた後で偶然テレビの番組があったのです。それにしても,先日は「ブラタモリ」で私が行こうと思っていた東北地方の花巻市をやっていたし,私のマネをするんじゃない!
 とまあ,冗談はこれくらいにして,高知県へ1泊2日,いや,1泊4日の旅立ちです。

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 徳島の阿波おどり,京都の大文字の送り火など,一度は見てみたいと思っても,その方法がわからない,あるいは実際はどういう状況なのかわからない人は多いものと思います。パック旅行にでも参加するなら別ですが,個人で旅行をするとなるとなおさらです。そこで,実際に私が旅してみて,私ならこう旅をするという方法を書いてみたいと思います。
 今日は徳島の阿波おどりです。
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 今年はいろんなもめごとがあったので,毎年NHKBSで放送される日本の夏祭り,阿波おどりはやらないのかと思っていましたが,9月3日に例年どおり放送がありました。
 私は,この阿波おどりが見たくて,2年前の夏に徳島まで行ってきました。そのときのことはすでに何度かこのブログに書きました。そのときに訪れた阿波おどり会館で,職員の人が,実はいろいろ問題があってね,と言っていたのを聞いていたので,昨年から今年にかけての出来事を知って,やっぱりなあ,と思いました。
 2年前,私は,阿波おどりを見にいくに際して,どのくらい混雑するのだろうか,とか,泊るところはあるのだろうか,とか,桟敷席のチケットは購入できるのだろうか,とか,わからないことがたくさんありました。旅というのはいつもそうで,「安心・安全・快適」を旨とするパック旅行にでも参加すれば,そのすべては何の問題もなくクリアできるのでしょうが,そこには自由も生まれず,実際に行ってみても,それはテレビ画面で見ているのと変わらないと私は思うので,自分で行動できるうちは自分で旅行をしてみようとしているのですが,そうしたときにいつもこうした壁にぶち当たります。そこで私は,とりあえずは行ってみて,そこから自分なりの方法やら結論を見つけて,もし二度目の旅をするときがあれば,そのときはそのようにしようと考えています。つまり,どこに行くにも一度目はお試しです。
 そうした考えで出かけた阿波おどりでしたが,インターネットの販売ではとっくに売り切れだった桟敷席なんて,当日現地ではいくらでも売っているし,早朝に徳島市内内へ車で到着すれば,駐車場なんていくらでもあるしで,いろいろ工夫して宿舎を抑えたり,チケットをなんとか入手して行ったのに,たいへんがっかりしました。
 そもそも阿波おどりというのは,有名連という「見せる芸術」まで完成されたおどりと,そうでない一般の連の人たちの「自己満足」のおどりとの差が大きすぎて,自分も参加するという楽しみで出かける人は別として,桟敷席でお金を払っておどりを見にいくという私のような目的の場合,正直言ってがっかりした,というのが結論でした。「みせる芸術」としての阿波おどりはすばらしいので,何度でも見たいのですが,でありながら,そこに参加している人たちはプロではなく,出演料ももらっていないものなのです。そして,そうした金のとれる有名連を分散することで会場を増やして,足りない分は一般の連を参加させて少しでもお金をたくさん取ろうというシステム自体に矛盾があると感じたので,こうしたシステムがこの先ずっと維持できるわけではないだろうと,私はそのとき思いました。
 私にはそれ以上のことはわかりませんが,やはり,私が感じたような問題があったわけです。なにはともあれ,今年も阿波おどりが中止されることなく行われたことは喜ばしいことです。
 この阿波おどりに行ってみて,私がもっともたいへんだったのはその暑さでした。私の行った2年前でもたいへんだったのに今年はさらに暑かったから,もし,私がそんな夏に徳島市まで行ったとして,夜になるまで人混みのすごい街中で過ごすなんていうことをしたとすれば限界だったことでしょう。
 この先,私が再び阿波おどりを見にいくことがあるとすれば,今度は,長距離バスで行くか,あるいは,車で出かけて早めに駐車場を確保してから当日の桟敷席のチケットを手に入れます。そして,夜になるまでは電車に乗ってどこか郊外に行ってのんびりと観光をして,夕方に徳島市に戻り,阿波おどりを見終わったら,現地では宿泊せず,郊外の空いたビジネスホテルで宿泊する,あるいは長距離バスで行った場合はレンタカーでも借りて四国一周の旅でもするという方法をとることになると思います。
 そういった方法を思いつくことすら,一度は行ってみないとわからないことなのです。だからこそ,自分で旅をすることはおもしろいのです。

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私は「高等遊民」になりたい-私が行きたい日本
特別編の特別編・2016徳島阿波おどりを見にきました①
特別編の特別編・2016徳島阿波おどりを見にきました②
私が行きたかった日本-阿波徳島へ行ってきました①
私が行きたかった日本-阿波徳島へ行ってきました②

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 NHK総合「ブラタモリ」は近頃マンネリで,私にはあまりおもしろくありませんでした。しかし,#85の高知県は久々にとても興味深く見ることができました。どうやら,おもしろいかどうかは番組のできではなく,私の興味がある場所かどうかが問題だということです。
 私にとって高知県というか高知市は,今年の2月,ある事情で高知市のホテルを1泊予約することになってしまったので大急ぎで往復してきたというだけのことでしかないのですが,その折に私がこれまでずっと一度は行きたかった場所を訪れることができました。今回の「ブラタモリ」で取り上げられた場所が,まさにその私が行ったところばかりだったのです。

 幕末から明治にかけての歴史で活躍した雄藩を「薩長土肥」といいます。しかし,薩摩,長州,土佐,肥後では,幕末と明治初期にかかわった歴史上の存在位置と価値はずいぶんと違います。
 薩摩というところは,島津家が戦国大名でなくもっと歴史が古く,また,天守閣を作るくらいなら民にお金を使うほうがいいというようなその土地に根付いた考えをもっていたほどなので,国全体に揺るがぬ地位を持っていました。しかし,明治になって西郷隆盛が反政府側から担ぎ出されてしまったために,藩全体が悲劇を背負ってしまったところとなったことが行ってみてみて実感しました。
 長州もまた,島津家と同様に毛利家も戦国大名でなかったのですが,地理的な事情からまわりにたえず気を配らなくてはならず,そのために内政は保守的な支配層と急進派がしのぎを削るという構図になりました。そこに幕末の動乱時,急進派のなかに吉田松陰という核が生まれることで,倒幕の先導を配するに至りました。
 肥前は幕末には大したことをせず明治以降政府に人材を登用したことで同列に扱われているだけですから幕末には大した位置を占めていません。
 そうしたなかで,土佐という地は,山内一豊といういわば「落下傘大名」がその地を支配するために江戸初期にずいぶんと醜いことを行い,上士,郷士という差別を生み,その怨念の結果が幕末に坂本龍馬を排出したという経緯になるわけです。今回の「ブラタモリ」のテーマはまさにこのことでした。

 こうした政治家として単なるシロウトが政治をつかさどるという「落下傘大名」は,関ヶ原の戦いで勝利をした徳川家康がその論功行賞から各地に領土を与えたために生まれました。
 彼らは,いきなり縁もゆかりのない地を収めることが必要となったためにもとからいた地の武士たちをてなづけたり融和を図る必要があったのですが,大名の力量によって,それがうまくゆかず,その結果多くの悲劇が生まれました。その典型が土佐の山内家というわけです。
 そうした「落下傘大名」の領地であったところを旅行してみると,たとえば,肥後(熊本)では今でも加藤清正公は人気があり,反対に細川家はさっぱり,といった空気を直に感じることができます。

 こうしたことが現在も同じように続いているのがこの国の本質です。
 たとえば,学校の校長も縁もゆかりもない学校に突然赴任します。そうした場合,教師たちは「よそ者」である校長を距離を置いて傍観するわけです。そして,そこにも,後で書くような「6:3:1」の派閥が生れるのですが,そうした組織がうまくいくわけがありません。
 こういうのがこの国に根ざしているわけです。管理職として「落下傘」で赴任するものもまた,論功行賞ですが,この国の考える組織とか権力とか地位というものはすべてそうしたものなのです。要するにシロウトなのです。
 政治の世界でも後で書くいわゆる「6」の割合で群れる「主流派」たちは,「3」の割合の集まりを「野合」といって非難するのが常ですけれど,この国の集団というのはそもそも思想などでまとまっているわけではなく,単に「錦の御旗」を掲げたものが「正義」となって,そこに身の保全を図るものたちが群れているだけのことです。そんなことは後醍醐天皇の時代も明治維新の時代も同じです。そして,そうした「正義」にたかって多数派を作るわけで,そうした人々がおよそ6割いるのが日本という国なのです(これを「体制派」あるいは「主流派」と称します)。そこに,深い思慮をもつ人たちがおよそ3割いて,彼らは思慮があるから同じ意見をもっているわけではありませんからまとまれば「野合」と言われるのです。さらに,ぶれない人たちが1割いて,その結果「6:3:1」の構図となっているのです。それはそれでよいのですが,ときとして3割が6割に巻き込まれるような一大事が起きたときに残りの1割を弾圧しはじめ,そこから悲劇が訪れるのです。
 今回の「ブラタモリ」で訪れた高知という場所は,日本の歴史上のこうした姿を我々に思い起こさせてくれるところです。

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私は価値がわからない④-「6:3:1の法則」とは?

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 室戸岬では車を駐車場に停めて,岩の間を歩いたり,展望台に上ったり,中岡慎太郎像と写真を写したりしました。土産物屋の一軒もなく,中岡慎太郎像と一緒に写真を写すにもそれを頼む人さえなかなか見つからないと,日本の有名な観光地にはあり得ない状態で,私は非常に好感をもちました。
 この旅では,この室戸岬の先端の数キロだけが,私の心を満たしてくれました。それにしても遠いところでした。
 室戸岬から先は四国の東側の海岸に沿って走りました。高知市に泊まるということと室戸岬に行くということ以外は何の予定もなく出かけた四国への旅でしたが,わずか1泊2日,復路は淡路島を一挙に高速道路で走り抜け,そのまま帰宅しました。

 室戸岬から少し北東側にいったところに「御厨人窟」(みくろど)がありました。 御厨人窟は四国八十八箇所番外札所のひとつです。神明窟(しんめいくつ)も隣接しています。
 これらは隆起海蝕洞で,それぞれ祠が祀られており,御厨人窟には五所神社があり祭神は大国主命,神明窟は神明宮があり祭神は大日孁貴となっています。
 御厨人窟は平安時代の初期,弘法大師がこの洞窟に居住したと伝えられています。この洞窟から見える風景は空と海のみで,ここから「空海」の法名を得たとされます。また,神明窟で難行を積みその最中に明星が口に飛び込み,この時に悟りが開けたと伝えられています。
 現在は落石のため崖前の全面に柵が設けられていて,洞内への立入りはできません。

 ここで岐阜から来ているというひとりのお遍路さんに会いました。彼は私とほぼ同じくらいの歳で,毎回高速バスで来ては数日間歩いているのだそうです。私は,これだけ健康なら行けるうちに海外に出かければいいのにと思ったことでした。
 このあたり,車で走っていると,道路の脇はお遍路さんだらけですが,道が狭いので危険です。お遍路さんは,定年退職後の人や外国人ばかりなのですが,学生時代は「ブカツ」漬けで就職すれば残業ばかり,そうした人たちが定年退職して自分とはじめて向き合うために遍路旅をするという気持ちはわからなくもありません。そうした人生をおくらなかった私はやらないでしょうが。

 しかし,この四国八十八箇所巡礼といってもありがたいことばかりではなく,今の状況は1930年ごろに整備された四国を支える観光ビジネスで,所詮人間のやっていることだから欲得がらみの問題もあります。世の中なんてそんなものです。詳しく知りたい方は「62番札所」とでも検索してみてください。 
 ところで,私は先日胃カメラを使った検査をして,そのときに,突然,この結果次第ではこれで私の夢もすべて終わりだなあ,という焦燥感に襲われました。人生なんてたかがそれだけのものか,と。そう思ったら,時間がこれまで以上に貴重なものに思えてきました。それとともに,世の中の雑事やらさまざまな騒がしいニュースやら,そうしたことのすべてがより馬鹿らしく思えてきました。

 その後,夫婦岩を過ぎ,白浜海岸まで走ってそこで昼食をとりました。白浜海岸は四国屈指の遠浅の砂浜海岸で,夏になると海の家が設置され,大勢の海水浴客で賑わうといいます。ここは満ち引きの差が「普通じゃない!」ということです。遠浅の海岸で沖合まで約50メートルも浅瀬が続いているからです。
 このように,四国は,室戸岬あたりから東海岸の白浜海岸あたりまでが見どころで,そのあたりだけは風光明媚でとても素晴らしいところです。それにしても,本州から行くには高速料金は異常に高く,時間もかかり,せっかく到着してもほとんどの場所は山と軽トラばかり。九州の久住高原とは違って星を見るような空の開けた場所もありません。時間とお金とそれに見合った風景を考えると,ハワイへ行った方がはるかに安上がりだなと,これが私の結論です。

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 安芸を過ぎ,さらに国道55号線を走っていくと,しだいに交通量もほとんどなくなって,もちろん「軽トラ」もいなくなり,やっと私の思い描いていた美しい海岸線を快適に走れることになりました。今や日本にはこうした景勝地はほとんど残っていません。やっと,ここまで走ってきてよかったと思ったことでした。
 やがて,室戸岬の手前にある小さな町・室戸市を越えると一段と交通量が減って岬の先端に近づきました。そうするうちに右手に駐車場がありました。そこが室戸岬でした。私は広い駐車場や売店などがあると思っていたので驚きました。

 室戸岬は1928年に国の名勝および室戸阿南海岸国定公園に指定された高知県を代表する観光地で,安芸山地が太平洋に落ち込む南端が太平洋に大きく突き出しています。ここは泥岩・砂岩・斑れい岩によって海岸段丘や岩礁,奇岩が形成されていて,高台には室戸岬灯台が立っています。
 黒潮の流れる沖合いは台風銀座でもあり,室戸岬は強風で知られています。この地名が出てくるのはいつも台風シーズンで,そのために知名度は抜群なのですが交通の不便さもあって俗化されておらず,岬にはバス停付近に民宿が1軒あるだけでした。しかし,混雑や騒音には無縁なので,今でも雄大な風景を味わうには絶好の場所となっているわけです。夜になると満天の星空が見られるのですが,写真を撮るには灯台の光が邪魔をするのだそうです。

 桂浜の坂本龍馬像と並んで,ここに中岡慎太郎像があるということは知っていました。 
 中岡慎太郎は,土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の高知県安芸郡北川村柏木)に大庄屋の長男として生まれ,武市半平太が結成した土佐勤皇党に加盟して志士活動を展開し始め,京都での八月十八日の政変後に土佐藩を脱藩し長州藩に亡命,脱藩以後は長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となりました。
 薩摩と長州の志士たちの間を飛び回り,亀山社中(後の海援隊)を結成した坂本龍馬や三条の随臣・土方久元を説き伏せて薩長の和解および薩長同盟を結実させたといわれています。
 京都四条の近江屋に坂本龍馬を訪ねたときに何者かに襲撃されました。龍馬は即死ないし翌日未明に息絶えたのですが,慎太郎は2日間生き延びて暗殺犯の襲撃の様子について谷干城などに詳細に語ったといいます。享年30歳でした。
 墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社に坂本龍馬とともにあります。
 
 室戸岬に立つ銅像は本山白雲の製作。桂浜にある坂本龍馬像が向かう先と同じ方向を見ているのだと私は聞いたとこがありますが,実際は両者の像の向かう方向は全く関係がないそうです。

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 桂浜を後に,私は国道55号線まで戻って,室戸岬まで海岸線を走ることにしました。
 ここでも私はひとつ目的があったのです。それは「芸西村」です。
 昨日歩いた高知市で私は池谷・関彗星を発見した関勉さんのことを書きましたが,関勉さんの著書「夜空を翔ける虹」のなかから芸西村のことが書かれた部分を少し紹介してみましょう。
 ・・・・・・
 高知の空が汚くなって星が見られなくなった……。
 今年(1973年)にはいってからいよいよ空は悪くなった。
 解決はただひとつ,いさぎよく現在の生活を捨てて,都会を脱出する以外に道はなかった。
 冬暖かく,風光の明るい芸西村は,私は好きである。この芸西村からはるばると,幾人かの女性が私のところへギターを習いに来た。芸西村は全国的にも有名なビニールハウスによる農作物の産地である。昼間,このハウスを手伝い,夜はギターを習いに来ていた一門下生が,天体観測場所として適地があることを教えてくれたのである。
 ・・・・・・
 こうして,関勉さんは高知市の家から車で40キロの道をひとりで走ってきて,土地を開墾して,今日の1番目の写真のささやかな観測小屋を建て,そこに20センチほどの望遠鏡を設置して観測を始めたのでした。
 その後,望遠鏡は口径40センチとなり,同じ敷地に「芸西天文学習館」が作られ,銀色に輝くドームと口径60センチの望遠鏡が五藤光学から寄付されました。
 私は,この場所にも行ってみたかったというわけです。

 その著書は次のように結ばれています。
 ・・・・・・ 
 美しい朝やけとともに,やがてのぼってきた太陽は,土佐湾の海面を照らし,金波銀波のさざなみは,あたかも無限の可能性を物語るかのように,海一面に光輝いているのである。
 私の心は,このすがすがしい山の夜明けととともに,未知の星を求めて,大きくふくらむのであった。
 ・・・・・・
 私は,こうして,一度は訪れたかった芸西村まで走りました。
 私が想像していたよりは芸西村はずっと開けてしまっていて,今もまだ夜になると満天の星空を見ることができるのかどうかはわかりません。日本に満天の星空がみられる場所なんて,今やどこにもないからです。
 それでも,今から50年近く前に,星空を愛するひとりの男の人が情熱をもって,この地に観測小屋を自分の力で立てて,それがいまはドームが作られるほど発展したことが,なにか,とても素晴らしいことに思えました。

 私は芸西村を過ぎ,さらに室戸岬に向かって車を走らせました。
 高知市から芸西村までの国道55号線は片側1車線,ここもまた,例のごとく「軽トラ」が列を作り,交差点に信号があれば,そこで自然渋滞が起こり,動きませんでした。
 海岸沿いの雰囲気はどことなくニュージーランドのクライストチャーチにむかう海岸線と似ているのですが,この車の多さは,私がのどかな海岸を走るという夢を奪いました。
 それでも芸西村を過ぎたあたりからは車も少なくなって,やがて,安芸市まで来ました。

 ここは阪神タイガースの春季キャンプ地として有名な場所だということを思い出しました。私は日本の野球には興味がなく,まして,アリゾナやフロリダのメジャーリーグのキャンプ地を知っているから,日本のプロ野球のキャンプ地など訪れる気もなかったのですが,実際に見てみると,私が思っていたよりは設備が整っていることに驚きました。
 あいにくこの日はキャンプも休日でしたが,そのおかげでファンもいなかったので渋滞することもなく逆に私は助かりました。それとともに,近いうちにアリゾナ州に行くときは,こんどこそ,メジャーリーグのキャンプ地巡りをしようと,またまた行きたいところが増えてしまったことでした。

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 四国への旅も2日目となりました。
 昨日は室戸岬を経由して高知まで来る予定だったのに,淡路島で思わぬ時間がかかリ室戸岬に寄らずそのまま高知市まで来てしまったので,今日,室戸岬に向かうことになりました。しかし,それでは足摺岬とは逆方向なので,四国一周はまたの機会にしてそのまま室戸岬を経由して帰ることにしました。

 その代り,天気も回復したので,桂浜へ日の出を見にいくとにしました。この時期,日の出は6時40分過ぎなので,6時にホテルをチェックアウトして桂浜まで走っていきました。
 20分くらいで到着。車を停めることができるのかわからなかったのですが,着いてみると,広い有料駐車場は門も開いていて,係員もおらず,無料で停めることができました。
 そのまま歩いて桂浜まで行きましたが,暗くて,坂本龍馬像がどこにあるのかよくわかりません。なんとか見つけて行ってみたのですが,あたりは木々に囲われてしまっていて,海岸が望めません。私は龍馬像の向こうに日の出が見られたらいいのになあと期待したのですが,それはかなえられませんでした。

 海岸でしばらく待っていると,やがて東の空が次第に明るくなってきました。私が最も好きな瞬間です。
 残念ながらここは海からは太陽が昇りません。海から太陽が昇るのが見たければ室戸岬まで行かなければなりません。しかし,龍馬像の近くで日の出を見るなんて素敵ではないですか。
 来たときは観光客もまったくいなかったのですが,次第にちらほらと人の姿が見られるようになってきました。
 やがて太陽が昇ってきました。
 日の出を見終えて,龍馬像に行きました。龍馬さんの頭の上に鳥がとまっていたのが,ほほえましく思えました。
 なお,この坂本龍馬像は,高知県の青年有志が募金活動を行い,当時の金額にして2万5千円を集め,昭和3年に作られたものだそうです。和服姿に懐手,ブーツ姿の龍馬の像は高さ5.3メートル,台座を含めた総高は13.5メートルで,おそらく写真でしか見たことのない人がはじめて実物をみたらすごく大きく感じることでしょう。
 龍馬さんの誕生日でありかつ命日である11月15日をはさんだ2か月間は像の横に展望台を設置し,龍馬さんと同じ目線で太平洋を眺めることができるということですが,私は,そんなものはない今のほうが好きです。

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 夜8時に高知市に到着して夕食をとるために街に出ました。ホテルのあった場所は「はりまや橋」から歩いて10分くらいの便利なところだったので,そのまま歩いて市内観光ができそうでした。
 高知市といえば,高知城とはりまや橋と桂浜です。そして,最も有名なのは龍馬さんですが,私にはもうひとつ目的がありました。
 ともかくまずは「はりまや橋」。
 「3大がっかり」のひとつとして有名だそうですが,これほどの名所をがっかりといってしまえば,日本の名所なんてどこもがっかりだらけです。これもいつも書いているように,日本の観光地はその場所にまつわる文学やら音楽やら短歌やら歴史やらを知らねば,どこもそのよさのほとんどはわかりません。
 私は「はりまや橋」を見て,ペギー葉山の歌声が心のなかに響けばそれで十分でした。

 わたしの「もうひとつの目的」というのは,ここ高知市は,1965年に発見された有名な「池谷・関彗星」(1965S1)の発見者のひとりである関勉さんがこの彗星を発見した場所であって,その発見した場所を見てみたいということだったのです。
 私がこのごろ旅をしている世界中の場所の多くは,子供のころに読んだ「月刊天文ガイド」などに載っていた記事で知った場所で,そのころから一度は行ってみたいなあと思い続けていたことが動機になっているようです。そのために本田實さんの住んでいた倉敷にも行きましたし,近いうちにアメリカのパロマ天文台にも行ってみたいと思っています。ここ高知市もそうしたところのひとつで,私には関勉さんが彗星を発見していた町なのです。
 私は一度倉敷の大原美術館で偶然関勉さんにお会いしたことがあります。

 昔は今と違って個人情報が公になっていたので,地名が変更になっていれば別ですが,私は関勉さんの家の住所を知っています,というか覚えています。そこでその場所まで行ってみることにしました。
 目的はお宅をお尋ねするということではなくて,今から50年以上のことですが彗星を発見したのがどういう場所であったかということを知りたかったというだけのことです。
 「はりまや橋」を越えてさらに西に進み高知城を越えました。天守閣は小高い山の上にあってライトアップされ明るく輝いていました。
 以前行った熊本もそうですが,ここ高知もまた,戦国時代に尾張地方出身の大名が江戸時代になって論功行賞で手に入れた知行地です。高知に領地をもらって落下傘大名としてこの地に降り立ったのが山内一豊ですが,山内家は幕末まで取り潰しにもならず続きました。
 熊本に降り立ったのが加藤清正ですが,加藤家はすぐに取り潰しになってその後釜に細川家が続きました。加藤清正が「清正公さん」といって熊本では今でも非常に慕われているのとは違って細川家は人気がありません。
 一方高知では山内一豊はずいぶんと悪政をしました。それが幕末「薩長土肥」の原動力となった間接的な原因だと思うのですが,これもまた能力のない人物が人の上に立つとどうなるかというよい手本だと思います。
 そもそも,人の上に立つ器量でもない人がなんらかの間違いで人の上に立つとロクなことはありません。それでもバカ殿を演じるならまだしも,なまじっかプライドでもあれば自分の弱点を見せないためにやたらと威張りちらし部下をいじめるということになります。そんな輩は私の身近にも五万といました。それは要するに自分に余裕がないからです。

 やがて,高知城のふもとに広がる官庁街を過ぎるとここが県庁所在地だとは思えないほど,ずいぶんと暗い住宅地になりました。私には市街地が夜になれば今でもこんなに暗いことに驚いたのですが,それでも満足な星空が望めるほどではありません。しかし,今から50年も前には満天の星空が広がり,彗星の発見さえできたのです。
 そんなことを考えながらたどりついた場所にあったビルの一角に古い街路地図がありました。この地図にしっかりと「関ギター教室」の表示がありました。この場所こそ,「池谷・関彗星」が発見された場所なのです。
 この静かな住宅地には,龍馬さんの遺構もずいぶんとありました。
 私が以前日本史が大好きだったころ,ずいぶんと龍馬さんには傾倒しました。実際は無名の坂本龍馬が世に出たのは司馬遼太郎さんの功績によるもので,今我々が知る龍馬の姿は物語上の虚像ですが,死して100年以上経ってこんなことになってしまってさぞかし本人は天国でびっくりしていることでしょう。
 その後,私は「土佐の國・二十四万石」というお店で夕食をとりました。高知といえばやはり「かつお」でしょう。ということで,この日の夕食はおいしいカツオをいただくことにしました。
 旅というのは,こうしたたわいもないことが最も思い出に残るものです。これもまた,虚像です。

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 昨年の夏に長年ずっと行きたかった阿波踊りに行くことができて以来1年も経たないのに,これで3回目となった徳島までやって来ました。ここはすでに勝手知ったる道路です。
 もともとの予定はこのまま四国の東側の海岸線に沿って走って室戸岬まで行き,そこから高知市に行く予定でした。そして,明日以降の予定は未定で,そのまま足摺岬を通り,四国一周? とも思っていました。
 四国はハワイ島の2倍ほどの大きさなので大した広さでもないと思っていたのですが,なにせ,車と人がハワイの比ではなく,その感覚的な広さは想像を越たのです。

 徳島に着いたときにカーナビで調べてみると,このまま予定どおり進むと,室戸岬に到着するのがなんと午後8時! というではありませんか。そんな夜遅くに室戸岬に行ってみても何も見えません。海岸線だって暗いだけです。実は,室戸岬で満天の星空を見たいものだ,という密かな期待もあったのですが,天気も今ひとつで星も見られそうにありません。
 そんなわけで予定を変更して,そのまま最短距離で高知市まで行くことにしました。とはいえ四国は山ばかりなので,一般道を走れば,最短距離はいえ吉野川にそって延々と西に進み,阿波池田から南下するしか仕方がないのです。

 私は今から35年ほど前に坂本龍馬像見たさに一度だけ高知市に行ったことがあります。
 当時は本州から四国に渡る橋もなく連絡船に乗って「四国V字」というコース,つまり,高松,高知,松山と観光をするのが定番でした。そのときに,大歩危・小歩危,という名を知ったのですが,今でも私はそれがどこにあるのかさえ知りません。調べればわかるのですが興味がなかったのです。今回,走ってみてそれがどこにあるのかもよくわかりました。

 私が日本で地方の片側一車線の一般道を走るのが嫌いな理由のひとつは「軽トラ」の存在なのです。なにせこの「軽トラ」,アメリカでいえば「ピックアップトラック」の存在に変わるものなのでしょうが,ピックアックトラックとは全く異なり,加速は効かないし一旦信号で停車すると動き出すのが遅いし,制限速度まで達するのにいい加減時間がかかるのです。こんな軽トラやら軽自動車やらがつながっているのだから,単に信号待ちだけなのに慢性的な渋滞になるのです。
 しかもお年寄りの運転手が多く,自転車代わりで長距離を走るわけでもないので,時速50キロメートル制限の道路を40キロメートルくらいでのろのろと進みすぐに左折やら右折をするので,さらに時間がかかって,少しも距離が稼げません。

 四国も狭い島なのでほとんどの道路は片側一車線で,この道路状況はどことなくニュージーランドやらハワイやらと似ているのですが,ニュージーランドやハワイでは,こののろのろ状況はあり得ません。
 人も車も少ないニュージーランドは市外地に出れば片側一車線であっても100キロメートル制限だし,しかも,追い越し車線が数キロメートルおきに存在します。ハワイ島は主要道路は片側2車線以上あって田舎の片側1車線道路はもっと車が少ないです。
 そのうち,四国山地に差しかかったら,大雨になってきました。そして,日が暮れてあたりは真っ暗になってきました。こんな状況でだらだらと走っていくのでまったく楽しくもなく,これは苦行以外のなにものでもありませんでしたが,どうにか夜の8時過ぎに高知市に到着することができました。
 私は晴れ男なので,あの土砂降りの雨はどこへ行ったのか,車を降りるころにはすっかり上がっていました。
 さっそくホテルでチェックインを済ませました。せっかく来たので夕食ついでに夜の高知市を観光しようと「3大がっかり」で有名な「はりまや橋」に出かけました。

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 海外旅行をするとき私はホテルをExpedia,Booking.com,Hotels.comで探しています。しかし,まれに国内を旅行するときは東横インが便利なので,これらのサイトを利用したことはありません。
 Booking.comはExpediaの子会社ですが,Expediaは予約をするとポイントが増えるのですがBooking.comは10泊すると1泊無料になります。しかし,最後に宿泊してから1年という有効期間があって,私はあと2泊というところで期限になりそうだったので,別にそんなもの無効になってもどうっていうことなかったのですが,せっかくだからこの機会に一度は行ってみたかった四国の室戸岬にでも行ってみようと,高知市の安価なホテルを予約しました。
 ということで,今回もまた,ほとんど思い入れもなく,2月23日になんとなく四国に出かけました。

 これもいつも書いているように,国内旅行は電車に限ります。車は高速道路が異常に高いし走りにくいし渋滞ばかりだし,海外で走ることと比較すればまったく楽しくないからです。今回もずいぶんといろんな行き方を考えたのですが,室戸岬は不便だし,結局,仕方なく車で行くことにしました。
 自宅から高知までは300キロメートルくらいのものだから8時間も走れば着けるかなあといったいい加減な気持ちで朝8時ごろに家を出ました。そしてお昼前には淡路島まで来ました。淡路島は高速道路を一挙に走り抜けてもよかったのですが,前回,淡路島の北側の海岸線の一般道を走ってみてあまりの海岸の汚さにショックを受けたので,今回は南側の海岸線を走ることにしました。

 洲本まではなんということもない海岸線で愛知県の知多半島みたいなところでした。しかし,洲本まで来るとさすがに有名な観光地らしくきれいな町になったので少しだけ淡路島の印象が変わりました。ここで再び高速道路に戻ってもよかったのですが,せっかく来たのでさらに淡路島の海岸線を進むことにしました。
 ところが,その先が凄かった! 急に道路が険しくなり狭くなり山道を進んでいくことになったのですが,そこには信じられない光景が広がっていたのです。
 淡路島は洲本から南側には諭鶴羽山地(ゆづるはさんち)があって,その山の向こうの南の海岸線まで行くには峠を越える必要があります。その峠にあったのが生石山の展望台でした。せっかくだから行ってみようと寄り道をしてみたのですが,それがひどいことに,折れた木が道路をふさぎ動かせません。写真のようなありまさでした。これでは山頂の駐車場にたどりつけませんが,こんな状態なのにも関わらず道路の登り口には何の注意書きもなければ,この状況を復旧する気もなさそうでした。行政はどうなっているのでしょう? 不慣れな人ならここから狭い道路をバックで戻るのは至難の業です。崖から転落しても不思議ではありません。
 ともかくここまで来てしまったので,私はここに車を置いてあとは歩いて展望台まで行ってみました。

 展望台からは岬が眺められ,岬の周囲は海食崖が発達しクロマツや照葉樹が生い茂っていて,北の由良湾に「淡路橋立」と呼ばれる成ヶ島が長い砂州を伸ばしているのが眺められました。すでに梅が咲いていました。
 この生石山のある紀淡海峡は大阪湾防衛の要地とみなされていたために,1890年(明治23年)に旧陸軍により由良要塞が築かれたという案内板がありました。現在も付近には砲台や要塞の遺構が残っていて廃墟となし異様な雰囲気でした。
 車に戻りなんとか数メートルバックさせてギリギリUターンのできる場所を見つけました。ずいぶんと切り返して車の向きを変えました。

 無事に降りてさらに進むと,今度は水仙が見られるという怪しげな公園に出ました。ここは淡路島では灘黒岩水仙郷と並び2大水仙郷なのだそうです。1月から2月にかけて約500万本の水仙が太平洋に面した南向き斜面一面に咲き誇り独特の甘い香りを漂わせるということなのですが,偶然ちょうど旬な時期だったのですね。
 しかし聞くところではここは栽培による植栽がほとんどの観光農園,品種も地中海原産が多くを占める外来種ということなのでここもまたいかがわしさ満載です。
 おまけに,ここには「ハーハー笑うところ」「3倍おもしろい」といったキャッチコピーの看板とともに「UFO神社」「淡路島ナゾのパラダイス(秘宝館)」などの施設が併設されていました。なんでもそれらは,水仙は時期が限られるため通年で客を呼び込む目的で作られたものだそうです。こんな施設,民放の番組の格好のネタですが,私にはまったく興味もなくこんなところに寄っていては高知まで行けないのでパスしました。
 さらに道路を進んでいくと,次にあったのが,なんとモンキーセンターでした。これもパスして進んでいくと道路はついに海岸線に出ました。このあたりから,道路には猿がいっぱいたむろっているし,海からは波しぶきが打ち上げられて海水で水びたしだし,尋常でない状況になってきました。

 このように,真の淡路島を知るならば,この諭鶴羽山地の南のディープな地域に踏み込まなければならないと痛感しました。この後で行った高知市の桂浜にも水族館がありましたが,日本人というのは,どうしてこうした風光明媚で何もしないほうがずっと美しいところを保護するでもなくこうした金儲けのためだけに破壊して場末の施設を作ることにかけては天下一品なのでしょうか?
 私は,今回もまた,ここにも存在したゴミだめのような日本の観光地を見て絶望的な気持ちになりました。
 それにしても淡路島で思った以上に時間がかかり,ようやく鳴門大橋に差しかかった時にはすでに午後4時過ぎ。果たしてこれで今日のうちに高知までたどりつけたのでしょうか?

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 まず徳島市の東横インにチェックインをしてから,再びホテルを出て,あてもなく四国の東海岸を南に向かって走ってみることにしました。阿南を抜けて阿波橘まで行くと,そこにはこの夏に来たときに宿泊したホテルがありました。夏に来たときはJRだったのでよくわからなかったそのロケーションがやっと理解できました。さらに進んで行くと日和佐海岸に出ました。
 そういえば日和佐海岸はウミガメがやってくるということで有名なところです。ならばハワイ島と同じではないですか。しかし,それにしては違いすぎです。気の毒にもハワイと比べてしまったのでは相手が悪すぎます。
 残念ながら,四国は私が思っていたほどではなく,山が海まで迫っていて海岸沿いも海が眺められるという場所はほどんどなく,星がきれいに見られそうな場所には,やはりここもまた無粋な街灯が空を照らしていて,私にはほとんど魅力のないところでした。

 このところ,特に意識しているわけでもないのですが,旅に出ると,結果的に昔からずっと気になっていたところをひとつずつ訪れている感じになっています。
 そこで,今回はせっかくここまで来たので,帰りは淡路島は高速道路を降りて海岸線を走ってみることにしました。今回は北側だけを走ったのですが,ここもまた,私が想像していたのとは全く違い,ひどく落胆することになりました。
 どうやら私は,この淡路島にのどかな漁村の風景を期待していたようなのです。そして,そういったところにある(と思われた)民宿にでも泊まれば,波の音を聞きながらおいしいお魚が食べられる,みたいなそんな感じを思い浮かべていたのです。
 しかし実際は,淡路島の北岸もまたほとんど山が迫っていて,進行方向の左手に時折みられる海岸は,砂浜というよりもまさにゴミの山でした。
 一方,右手の山には淡路城というお城がありましたが,そこにあったのはつぶれたテーマパークの廃墟のようなところでした。
 そういえは,近江・滋賀県の佐和山にも,佐和山遊園とかいう同じような廃墟がありますが,それと同じようなものでした。また,琵琶湖大橋を京都方面に渡ったところにも朽ちた観覧車の残骸がそびえています。こうして,この国は,そういったものをほったらかしにして,国全体がどんどんとゴミだめになっていくのです。

 淡路島の北海岸を走って,島の北東の端にたどり着きました。そこには道の駅がありました。そこから見えた淡路大橋は確かに巨大なものではありましたが,この橋は車でしか通ることができず,せっかくこれだけのものを作ってもただ走り抜けるだけの道路です。
 ここまで立派なものを作ったのだから,せめてもう少しだけ道幅を広げて,歩いて渡れるようにでもすればランドマークにもなるし,本当にこの国の人は知恵も遊び心もなさすぎます。
 私はサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジもニューヨークのブルックリンビレッジも歩いて渡ったことがあります。それと比べてはいけないけれど,歩いてあるいは自転車で渡れるのならすばらしい観光スポットだったのに残念なことです。
 去る10月11日にNHKBSプレミアム「にっぽん横断こころ旅」で,ちょうど淡路島から眺めた「人類の作った化け物のような」と火野正平さんが表現していた明石大橋を放送していました。この番組では,対岸の本州側の景色を見せようとしていたのですが,霧っていて全く見えませんでした。また,実際は海岸はゴミだらけなのに,テレビではさも美しい所のように見えました。
 私はもちろん晴れ男なので,私が行った日は鮮やかに対岸の風景が見られましたが,きっと夜になると対岸にある町並みにも明るく夜景が照り輝くことでしょう。つまり,ここからも美しい星空は見られないのでしょう。

 瀬戸内海を渡り,再び一般道に降りて,神戸から大阪,そして,生駒山を経由して私は帰途につきました。途中で寄った生駒山にはおなじみのネコバスのようなロープウェイがありましたが,ほとんど人影もなく,ガードレールはさび付き,どこもかもが日本の斜陽を象徴しているかのようで,だんだん情けなくなってきました。
 生駒山を過ぎて奈良市に出たら,途端に観光客だらけになって活気が出てきました。そこに見たのは早秋の美しい奈良の景色で,こんなことなら徳島に泊まらず淡路島もさっと通過して奈良で1泊すればよかったと後悔したことでした。しかし,そこにいた観光客はほとんどが外国人で,私はすっかり現実に戻されました。
 その昔,奈良の東大寺から西に広がるのどかな日本の風景とそこに溶け込むように沈む夕日に私は魅了されました。しかし,私の見たかったそのころの原風景など,今の日本にはどこにも残っていなかったのです。

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 「天体望遠鏡博物館」からの帰り道,私は,四国八十八箇所霊場の最後の札所である「医王山遍照光院大窪寺」に立ち寄りました。
 結願の霊場「大窪寺」は徳島県の県境に近い矢筈山(標高782メートル)の東側中腹に位置します。
 私は,別に四国八十八箇所霊場巡りをするために来たのではありません。というよりも,まったく関心がありませんでした。
 この寺が偶然「天体望遠鏡博物館」の近くにあったから寄ってみただけなのですが,私がそこで見たのは,テレビなどで見るお遍路さんの姿でした。たとえが悪いかもしれませんが,東京両国へ行ってお相撲さんの姿を見たとか,京都祇園に行って舞妓さんを見たとか,はたまた,バージニア州ランカスターへ行ってアーミッシュを見たとか,私にはそういうたぐいのものと同じで,ああ,本物だ! みたいな感じでした。

 私はこの日どこかに泊まって翌日家に帰ることにしていたのですが,その行程がまったく定まりません。
 いっそのこと四国を1周しようかとも思ったのですが,来てみたら四国は山ばかりで道も細く,まったく気乗りがしませんでした。比べては悪いいけれど,ハワイ島のほうがずっと楽しいのです。
 そんなわけで,帰る途中の徳島市の東横インに泊まることにしました。
 この夏に生まれてはじめて徳島市に来て,また,数か月後に来るとは夢にも思いませんでした。あれだけそれまでは行きたくても行けなかったのに,すぐまた来るとは不思議なものです。
  ・・
 その翌日,だらだと家に帰るつもりだったのですが,鳴門市まで走っていくと,今度は,1番札所「竺和山一乗院霊山寺」という道路標示を見つけました。で,結願の寺だけではあまりに申し訳ないので,そこにも立ち寄ることにしました。
 四国八十八箇所霊場の全行程はおよそ1,460キロメートルに及びますが,ここは札所番号の順に巡拝すると遍路の「発願の寺」,つまり「同行二人」のはじめの寺です。弘法大師はこの寺に天竺の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景を感じとって,天竺の霊山を日本に移す意味で「竺和山霊山寺」と名づけられたということです。
 それにしても,順打ちでもなく逆打ちでもなく,88番札所の後に1番札所に寄るなんてキセルです。
 お詫びに,88歳になったら,残りをすべて巡ることにします。

 そのあと,私は淡路島を通過して,大阪に入り,ずっと気になっていた生駒山の宝山寺に寄ってから,家に帰りました。
 宝山寺は,奈良県の生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院で生駒聖天とも呼ばれる寺です。昨年,私はこれもまたずっと気になっていた京都府八幡市にある男山石清水八幡宮へやっと行くことができたのですが,ここはそこととてもよく似ていて,縁日でもないからえらく寂れていました。
 近鉄のケーブルカーがあるのですが,お客さんがいるのやらいないのやら…。日本にはこうしたある意味場末の原風景が結構残っていて,そこには場の雰囲気を台なしにする中国人団体観光客がいないのが幸いで,私にはむしろ旅情をそそるのです。実は,この寺の門前は「宝山寺参道」という「最後の桃源郷」とよばれるディープなところなのですが,興味のある方はそれがどういうものかはご自分でお調べください。
 関西は,いや,日本というのは,学校では習わない,あるいは,ガイドブックには載っていないことだけがめっぽうおもしろいという,本当に不思議な国なのです。

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浪速の春の大相撲観戦⑥-今も残るディープな大阪
早春の京都②-先達はあらまほしき事なり。

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 一時期騒がれた3Dテレビはどこへいってしまったのでしょう?
 もう3Dテレビ向けの番組すらないそうです。今ではそんなものはなかったかのように,盛んに4Kやら8Kやらのテレビが売り出されて,家電量販店には大きなディスプレイが所狭しと並んでいますが,そもそも視聴者がそんなものを求めているわけでもなく,あんな大きなもの買ったって見る場所もなく,見たい番組すらないでしょう。
 テレビは老人が使いやすいものでなくてはならないのに,やたらとチャンネルばかりが多くてもそんな配慮のかけらもないし,数年後にはこれもまたなかったかのように姿を消していくのでしょう。
 テレビに限らず,コンピュータも車もまたしかり。
 日本のPCは富士通もNECもみんな「レノボ」になってしまいました。最後の日本の砦である車さえ,スズキもダイハツもみんなトヨタになってしまうし,トヨタだって現在は世界一であっても電気自動車が普及すればその先はわからず… といった様相を呈してきつつあるこのごろです。

 日本の家電メーカーはすでに見る影もなくなり,それに後追いするかように日本の工業製品はすべてが斜陽になってきたのに,今もなお,日銀は金融緩和をすれば景気が上向くとバカみたいに信じています。
 学校で教師が語るようなことはわざわざ学校など行かなくてもインターネットで手に入るし,紙媒体の新聞などお金を出して読む必要もなく,欲しいものは即座に家に届くというように時代が変わってしまったのに,それに頭がついていけないおじさまたちが形骸化し硬直した組織や社会の仕組みのなかで昔の価値観でやっているから,その結果は目に見えているのです。しかも,何もしないほうがまだましなのに,さらに火に油を注いでいるのだから,それでは産業界の斜陽と人々の社会不安が加速されるだけなのです。

 さて,今日のお話は「天体望遠鏡博物館」の続編ですが,天体望遠鏡こそ,そうした斜陽をいち早く迎えた工業製品そのものなのです。
 そもそも学者さんでもない一般の人にとって天体望遠鏡とはいったい何をするものなのでしょう? 惑星を見たいのならば公開天文台へ出かけて見せてもらえば事足ります。星雲や星団を見たいのならば双眼鏡のほうがずっと綺麗に見えます。
 日本では「天体写真ブーム」が起きたせい(おかげ?)でアマチュア向けの望遠鏡は写真を写す道具として高精度になりました。そして,ブームになればいつもの常でそれにのっかかる愛好家が出てきて,その一部が暴徒化? し,いや,マニアックな道を走り,彼らは,PCを使った画像処理の方向に突き進みました。それを「天文学」とよべるのかどうかば別として,好きモノの道楽であることは間違いなく,そうした人たちは散財して望遠鏡やカメラを買い替えては,車で山野を駆け巡っています。
 しかし,この国には星が満足に見られる場所すらありませんし,若い人にはおいそれと手の出せるような安いものではないから,後継者は育ちません。
 そんなわけで,今や,マニアックな世界は「高橋製作所」の高価な望遠鏡と一部の愛好家にお任せするということになり,その一方で学者さん御用達の望遠鏡は京都の老舗「西村製作所」が一手に引き受けて,最先端の研究は日本の夜空に見切りをつけてハワイやチリに脱出していまい,かつて学校に設置されていたような望遠鏡を作っていたメーカーは望遠鏡を作ることをやめてしまったり会社がなくなってしまいました。

 では,学校に設置されていた口径15センチメートル程度の屈折望遠鏡で,当時は一体何をしていたというのでしょう?
 学校で夜間に集まって天体観察をする,ということ自体がかなり不自然なことだし,そこに,空が明るくてよく見えないという現実と高等学校では地学という科目すら教えなくなったという状況が加われば,それらがゴミと化すのも時間の問題にすぎませんでした。だから,そのほとんどは満足に使われなくなり,不運な晩節を過ごしていたわけです。
 そうした望遠鏡を作っていたメーカーのひとつが1番目の写真にある「五藤光学研究所」のものであり,もうひとつが2番目の写真にある「日本工学工業=現・ニコン」のものでした。
 そうした望遠鏡もまた,余生を過ごすためにこの天体望遠鏡博物館にはたくさん集められました。

 かつて「日本の天文台」という「月刊天文ガイド」の別冊が発行されました,今や入手困難なこの本のなかには,日本中にあった多くのこれらの望遠鏡が載っていたのですが,写真で見た限りでは,オーソドックスなスタイルの五藤光学のものに比べて,ニコンのほうがあか抜けたかっこよさで,いかにも性能がよさげに見えたので天文少年少女たちの憧れでした。実際,値段もこちらのほうがかなり高価であったようです。
 この会社でかつて作られたもののなかでは岐阜天文台の口径25センチメートルの屈折赤道儀が今も現役として公開されていますから,実際にこの望遠鏡で星が見たければ足を運ばれるとよいでしょう。それが今日の3番目の写真のものです。
 しかし,実際は,ニコンの望遠鏡にはさまざまな短所があったそうです。そうした欠点は,ここにある屈折望遠鏡に限るものではなく,これまでニコンの作った天文台向けの大型望遠鏡も,アマチュア向きの小型望遠鏡も,「実はこれね…」と使っていた人からいろいろ漏れ聞こえてきます。期待が大きいからこそなのでしょう。

 ニコンという会社は三菱グループだから権威主義の権化のようなところなのですが,三菱といえば,今や,車もダメだし,造船もダメ,航空機を作ってもなかなかうまくゆかず,人工衛星は打ち上げに失敗し… ということで,いかにも現在の日本の工業を象徴している会社のように思えます。
 私もニコンのカメラを長年愛用しているのでとても愛着があるのですが,確かに使ってみるといろいろ欠点が目につくし,最近の新製品の相次ぐ発売延期など...  本当は,この会社って商売が下手なだけではなく,「高性能=高価格=高級品」と一般にいわれているのは単にイメージだけのことなのかなあ,と近頃思うようになってきました。私の思い過ごしならいいのですが…。

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 今回の小旅行の目的地は「天体望遠鏡博物館」でした。
 「天体望遠鏡博物館」は,日本各地に私蔵あるいは死蔵されていた望遠鏡を集め,香川県さぬき市多和にあった旧多和小学校をリユースした建物に展示したもので,2016年3月開館されました。
  ・・
 1965年に発刊された「月刊天文ガイド」は,その時代の子供たちにとって夢の一杯詰まった雑誌でした。当時は今と違ってパソコンがあるわけでなし,そうしたなかで,なんだかメカのいっぱい詰まったようにみえる天体望遠鏡はロマンの塊でした。その雑誌には多くの望遠鏡の広告が載っていたので,それを飽きずに眺めていたものです。
 その中にはもちろんきちんと星を見ているマニアもいたのでしょうが,多くの人は,今ほどではないにせよやはり都会の夜空は明るくて星など見えず,それよりも,望遠鏡のほうにもっと興味があったのです。しかし,それを買えるかといえばそれはまた別の話で,だから,本の上での知識しかなかったわけです。
 また,今と違って多くの高等学校にはドームがあって,それが使われていたかどうかは別として,そのなかには口径が15センチメートルほどの屈折赤道儀が存在していました。

 中小望遠鏡メーカーはハレー彗星が去る頃にほとんど姿を消し,また,高等学校の望遠鏡も使われないまま放置されるようになってきました。このようにして,そうしたころの望遠鏡は,今まさに屑鉄同然となりつつあったのですが,それらを一挙にまとめて,しかも,星が見られるように現役の望遠鏡に再生して展示しよう,というのがこの望遠鏡博物館です。
 だから,当時の「天キチ」(天文マニアをこう呼びました)たちにとって,ここは聖地,まさに憧れの望遠鏡の実物そのものに出会える場となったのです。もし,あと数年こういう企てがなかったらそれらは散逸しこの世から姿を消してしまったであろう貴重な財産が保存されたというのは非常に意義深いことです。
 というわけで,私は開館以来,ずっと行ってみたかったのですが,遠いということに加え,週末の土,日曜日と祝日のみの開館ということでなかなかその機会もなく,やっと10月10日に行くことができました。

 行くまで知らなかったのですが,博物館前の道は四国八十八箇所霊場結願の寺「大窪寺」に向かう遍路道でした。
 廃校になった小学校を利用した建物の中にはアマチュアが使うものから天文台で使われていた憧れのモデルまで200基以上が展示されていました。
 そのなかで私が特に興味深かったのが「カルバー望遠鏡」でした。以前倉敷天文台を訪れたときのことをこのブログに書きましたが,その中で話題にした「数奇な運命をたどることになったカルバー望遠鏡」,まさにその実物がこの博物館にあったのです。私はブログに「望遠鏡は再び花山天文台に戻ってきた」と書いたのですが,どういうわけかこの博物館にその実物があったのです。
 この望遠鏡の数奇な運命に関わるお話はとても面白いので,ぜひブログをお読みください。下記にリンクが張ってあります。
  ・・・・・・
 この天体望遠鏡博物館の目的は次の3つだそうです。
  文化遺産としての天体望遠鏡を残すこと。
  青少年たちの教育。
  人口が減りつつある多和地区の再生。
  ・・・・・・
 この博物館がいつまでも発展しますように。
 天体望遠博物館のお話はまだ続きます。

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岡山から宇宙を見た-倉敷天文台と本田實②
岡山から宇宙を見た-倉敷天文台と本田實③
岡山から宇宙を見た-倉敷天文台と本田實④

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 私は子供のころから暑いのが苦手だったので夏が嫌いで,毎年秋が来るのを待ち焦がれていました。
 今でも放送されているのかどうか知りませんが,当時テレビで「みんなのうた」という番組があって,秋になると「ちいさい秋見つけた」が流れるはじめます。それを聴くと本当にうれしかったことを思い出します。あの歌の何ともいえない哀愁と,子どものころに出かけたときに見た秋の里山の夕暮れ,その想いが私の原風景なのです。
 「ちいさい秋みつけた」は,サトウハチロー作詞・中田喜直作曲による日本の童謡です。サトウハチローが住んでいた文京区弥生の自宅の庭にはぜの木が植えられていて,この木の紅葉する情景を見たのが作詞のきっかけということです。NHKの「みんなのうた」に1962年10月にボニージャックスの歌で初登場しました。
 私はずっと秋が大好きだったのですが,今から9年ほど前の秋に私の人生に最大の悲劇が襲い,そのつらさを思い出すので,秋は耐え難い季節になりました。
  ・・
 しかし,それももう過去のこと,今は,やはり秋が一番の季節です。
 春もまたよい季節のような気がするでしょうが,思い出してみてください。春になると,黄砂やらPM2.5やらで空は濁り,花粉が飛び交い,まったくもってよくないのです。しかし,過ぎてしまうと,多くの人はそんなことをもう忘れているでしょうか。

 私は春先から夏にかけて海外旅行をするので,秋はひと休みの時期です。アメリカは秋の訪れが早く,もう今の時期は寒いので,旅をするには適しません。
 今年もそんな秋がどうやら忘れずに来たようですが,思えば私はこの季節は毎年なんとなく無計画に国内旅行をします,というか,してしまいます。今年は10日から11日まで,やはりなんとなく四国に行ってきました。目的は香川県さぬき市にある「天体望遠鏡博物館」に行くことでした。「天体望遠鏡博物館」のことはまた後日書くことにします。
 いつも書いているように,日本国内を旅行するには電車に限ります。しかし,私は9月に車を買い替えたのでその試乗も兼ねてということと,けっこう不便なところだったので,今回は車で行ってきました。
 この夏に徳島へ阿波踊りを見に行って,そのときに淡路島を経由すれば四国も近いものだと感じたので,気楽に構えていたのですが,実際に車で行ってみると,アメリカをドライブするのに比べて,運転していてもまったく楽しくありません。やたらと防音壁があって景色も満足に見られないし,道路はゴミばかり,そして,運転マナーは最悪だし,がっかりした,というのが正直なところです。
 今日はそのお話です。

 私は長距離をドライブすることは日本よりもむしろアメリカのほうが慣れているので,日本の高速道路を走ると,とても違和感を覚えます。
 その理由のひとつは,必要もない道路標示や道路に書かれた意味のない線やら色がいっぱいで,ものすごく疲れるということです。
 道路交通法に書いてあるのやらないのやらそれさえよくわからないのですが,ある場所ではスピードを抑えさせようとやたらと破線が車線の両側に引かれていたり,あるいは別のあるところは車線が青色で塗りたくられていたり,そして,インターチェンジ付近の地名を示す道路標示に統一性もなく,また分岐点にはわけのわからないランプが点滅していたりと,ドライバーの注意を向けたいという意志だけが空回りをしてます。だから注意力が散漫になって,何が重要かそうでないかさっぱりわからず,目も疲れるし非常に危ないのです。

 この夏にアメリカ東海岸を3,900キロメートル走ったのですが,アメリカでこうした長距離を走るのには,氷を入れた冷たい水を用意して(眠気防止のため),片側2車線道路の右車線(日本の左車線のこと)を制限速度でペースを守りながら,左側の中央分離帯に必ず引かれたイエローライン(アメリカの道路のイエローラインは日本のように追い越し禁止を示すものではなく道路の中央に必ず引かれていて進行方向を区別するものです)を確認しながら右側のホワイトラインを基準にして走るというのがコツです。ほかの車もそうしているから,いつも同じ車間距離で走れます。
 ところが,日本の高速道路ではそれができないわけです。それがふたつ目の違和感です。その理由は,引かれたラインに規則がないこととドライバーの運転がまことに乱暴である,という点にあります。後ろから煽ってくるのはあたりまえ,車と車の間を縫うようにして追い越したり,日本人の運転はめちゃくちゃなのです。
 今回,行きは名神高速道路から中国自動車道,そして,神戸淡路鳴門自動車道と高速度道路を走って四国に渡り,帰りは鳴門から淡路島までと淡路島から明石までだけ有料道路を通り,あとはすべて一般道で帰ってきました。帰りに走った東名阪道は無料道路だけど道路状は高速道路なので,アメリカのインターステイツに似ているのですが,この道路はほぼ無法地帯なのです。スピード制限などなんのその,トラックがまるでカーチェイスをしているみたいな感じで走り合っています。こんな乱暴な運転はアメリカのコンボイでは考えられません。

 さらに,日本の道路は,夜になると,そこが走行車線なのか路肩なのか段差のある歩道なのか,あるいは中央分離帯なのかさえさっぱりわからず,本当に危険なのです。交差点では道路の中にポールさえ立っていますが,それが暗くて見えないのです。これが三番目の違和感です。
 とにかく,やたらと標示があるのにもかかわらず,道路に引かれた中央線が消えかけていたり,路肩に白線が引いてあったりなかったり,暗くて見えないのだから道路に色塗るようなお金があるなら歩道の段差に色くらい塗れよと思うのですがそれがなかったりと,何を見て何を信じて走ればいいのかさっぱりわからないのです。しかも,左折をすると入る道路がどこなのかさえ不明だったり,車の内輪差をまったく考慮しない交差点だったりします。

 日本でしか走ったことのない人は,私が何を書いているのか理解できないでしょう。こんなもんだと思っているでしょう。しかし,日本は,まことにもってなっさけない国です。日本人が車の運転を難しいと思っているのは,あえて難しく道路を危険に作ってあるだけで,これは自動車学校が金儲けをするために国策でわざとそうしているに違いありません。学校の英語教育とまさしく同じです。
 こんなふざけた国で走るのなら軽自動車で十分,老後の蓄えもない人が車なんかに浪費して高価なものを買うのは本当にやめたほうがいいです。車線の狭い日本の道路では路肩に車をぶつけるか,狭い駐車場では当て逃げされるのが関の山です。車好きの方は日本で気張って高級車など買わずに,好きな車種を借りて思いっきりドイツのアウトバーンを走るかアメリカの果てなきインターステイツを心置きなく走りましょう。
 今日の下の4つの写真はアメリカの道路です。上の4つの写真と比べてみてください。
 私は,日本の道路を走ってみて,アメリカで走る数十倍も疲れました。

◇◇◇
愛しきアメリカ-道路のイエローライン

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 長年,徳島に阿波おどりを見にいきたいと思っていたのですが,どのくらい混雑するのか予想もつきませんでした。このことは京都の五山の送り火も同様でした。
 私は昨年の6月サンフランシスコに行ったとき,偶然その日が「プライド・パレード」だった!のです。また,今年の3月ハワイ島に行ったとき,偶然その日が「メリー・モナーク・フェスティバル」(フラダンスフェスティバル)だった!のです。しかし,そんな時期にわざわざ行くとは,まさに知らないというのは無敵なものです。おかげでホテルを探すのに苦労しましたが,なんとかなりました。
 何がいいたいのかといえば,お祭りというのは余計なことなど考えないで行ってしまえばどうにかなるということなのです。
 チケットの必要なスポーツのイベントやコンサートとは違い,一般の人が参加するお祭りというのはそういうものなのでしょう。以前,これもそうとは知らず,ちょうど博多どんたくの日に福岡に行って,それでも泊まるところがあったのを思い出しました。

 阿波おどりが名古屋のどまつり(日本ど真ん中まつり)とか高知のよさこい祭りとか郡上踊りなどと違うのは有料の演舞場があって,お金を払ってそれを観覧する,ということでしょう。そこに出演するのは「連」と呼ばれるおどりのグループですが,彼らはプロではないので,出演料というのはないのだそうです。そして,「連」には「有名連」という伝統の連が33あって,そこに属している人たちは,一年中この日のために練習をしているのです。
 演舞場は,有料の場所が四つ,無料の演舞場もいくつか,そして,街角のあちこちでおどりが繰り広げられています。有料の演舞場のチケットは前売りが「ぴあ」などで売り出されますが,すぐに売り切れます。しかし,当日行けば手に入ります。
 よくわからないのが,有名連は有料の演舞場だけに出演するわけでもないし,有料の演舞場にも有名連以外の多くの連が出場することなのです。おそらく,有料の演舞場のメリットは有名連の出演表があるのでお目当ての連が確実に見られるということなのでしょう。

 今回行ってみて私が思ったのは,「自己満足の世界と人に見せるものの明白な違い」なのです。有料の演舞場に有名連のおどりを見にいったのに,そうでない連のなかには見せるには値しないものも多くあって,それを延々と見せられるものだから私は嫌になってしまったということです。それは,コンサートを見にいって,お目当てのアーティストの演奏の合間に前座が延々と演奏をするのに似ています。というか,前座のほうが多いのです。これではいけません。
 つまり,2時間の間に有名連の出ている時間はその5分の1もないわけで,あとの時間は,どうでもいいようなおどりを見せられるわけです。私は,そうしたものを排除してほしいということではなくて,そうしたものは先に演ずるとか,場所をかえるべきではないかと思ったということです。また,有名連のような洗練されたおどりと違って,鳴り物といっても笛や三味線がなく大太鼓と鉦だけが大きく響くだけのすさまじいおどりを見せられると,これは阿波おどりとはいえないのではないかと嫌悪感さえ覚えました。
  ・・
 阿波おどりは,演舞場だけでなく,お昼間に「アスティとくしま」という阿波おどり会館と「あわぎんホール」という市民会館のステージで見ることもできます。いずれも有料ですが「アスティとくしま」ではひとつの有名連が「あわぎんホール」では六つの有名連が出演します。チケットは当日の朝10時なら入手できます。だから,有名連の洗練された演技だけを見たいのならむしろ「あわぎんホール」に行くほうがいいのです。クーラーも効いているし,快適です。ただし,まつりというのはこうしてステージで見るものではないと思っている人もまた,たくさんいます。

 そんなわけで,私は,憧れの阿波おどりを見て,感動6割失望4割の結果となりました。
 もし,また行くのなら,演舞場の前売券は買わず宿泊の予約もせず,バスに乗って徳島に行って,お目当ての有名連の出演する有料の演舞場の当日券を購入して,有名連の出演する時間だけ見るという味わい方をすると思います。そして,四国はいいところなので,阿波おどりだけでなく,四国じゅうを旅行してきたいものだと思っています。

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 以前,「私は高等遊民になりたい-私が行きたい日本-」というテーマで,日本で行きたいところが2箇所だけ残っていると書きましたが,その2箇所は佐渡島と徳島でした。
 そうそう,ともに「島」となっていますが,佐渡島は「島」ですが徳島は「島」ではありません。この夏,その念願がひとつかない,私は徳島市で,阿波おどりを見,観光をすることができました。
 私は東京とか京都以外の日本を旅するよりも,むしろアメリカを旅することのほうが多いので,日本国内でこれまで行ったことのない町に行くと,結局は日本もアメリカも旅をするという基本においては同じなんだなあ,と思いました。今回も,ガイドブックなどはほとんど,というよりもまったく読まず,何があるかはすべて到着してからの楽しみということで,2泊3日,小さなバックパックに2泊分の着替えだけもって出かけました。

 まず,名古屋から徳島へ行く方法がわかりませんでした。
 これもいつも書いていることですが,日本国内を旅行するのに車は不似合いです。なるべくなら公共交通機関を使いたいものです。そこで,行きはとりあえず一番安易な方法ということで,名古屋から岡山まで新幹線に乗って,岡山から徳島まで「うずしお」という特急に乗りました。岡山から先はディーゼルでしかも単線。揺れるし遅いし遠回りだし,とても不便でした。
 日本というのは中途半端にモータリゼーションが発達してしまったから,車を使わないと,どこへ行くにもかなり不便です。しかし,この鉄道に乗ることでそうしたことがわかったのが何よりでした。おそらく車で旅行しているば,こういう現実すら認識しないことでしょう。
 結局,行ってみてわかったことは,名古屋と徳島間は,早朝と深夜だけですが直行のバスあったのです。しかし,一番多くバスの便があったのは大阪と徳島間で,京都と徳島間というものありました。それらはすべて淡路島を通るので景色もよいから,徳島へ行くにはバスをを利用するのが原理だったのです。
 名古屋から京都,あるいは名古屋から大阪の高速道路は混むので,京都あるいは大阪まで鉄道で行って,そこからバスを利用するのが一番なのでしょう。これが結論です。

 徳島市というのは人口が24万人で,すべて徒歩圏内で歩きまわれるから観光には手ごろな町です。このあたりでいえば大垣くらいの規模の町だといえばいいでしょうか。ただし,大垣市はJR駅の北側にモールができてしまったので,本来の駅前が寂れつつありますが,徳島市にはそういうモールがないので,昔からの駅前の繁栄が残っています。
 徳島は,江戸時代,藍染と塩で栄えたところ。阿波おどりの演舞場のひとつが「藍場浜」というもこれで納得がいきます。江戸時代の殿様は蜂須賀家で,これは,「阿波よしこの」(阿波おどりで唄われている唄)にも出てきます。
 私は以前熊本に行ったときに,熊本の殿様は細川家なのですが,いまでも愛されているのは(加藤)清正公だと知って驚いたことがあります。こうした江戸初期の落下傘領主というのは,その後,領民に愛されていたかどうかは行ってみてはじめてわかるものですが,どうやら徳島では蜂須賀家は愛されていたようです。また,徳島は瀬戸内寂聴さんの生まれたところでもあります。

 私は,徳島で,阿波おどりを見たほかに,「ひょうたん島遊覧船」と「眉山ロープウェイ」に乗りました。というか,観光資源はこれくらいのものでした。
 「ひょうたん島遊覧船」というのは,徳島市の中心部が新町川と助任川に囲まれた中州になっていて,その形がひょうたんに似ているから名づけられているのですが,暑いなか川の水のすずしい空気に触れることができました。橋がかなり低く,ちょうど満潮時で水がかなり高かったので,あやうく頭を橋にぶつけるほどでスリルがありました。残念だったのは,全く町の案内がないということで,ただ船に乗っているだけ。こんなのはアメリカのクルーズではあり得ませんし,川の水は汚く,ペットボトルをはじめゴミだらけと,数日前に乗ったポトマック川とはえらい違いでした。これが日本の姿なのです。
 「眉山ロープウェイ」で登った眉山は標高が200メートルほどの小山なのですが,想像以上に景色がよく,これは登る甲斐がありました。
 日本国内を観光するときは,町の歴史を知らないとその魅力のほとんどはわかりません。そういった意味も含めて,徳島市はなかなかよい町で,私は気に入りました。阿波おどりの期間中の宿泊は,ネットなどで探してもすべて満室なのですが,実際は大丈夫,なんとかなるのだそうです。つまり行ってしまえはあとはどうにでもなるのです。
 阿波おどりについては,次回書きましょう。

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私は「高等遊民」になりたい-私が行きたい日本

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