しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国旅行記 > 旅行記・2017春

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●ハワイの過ごし方●
☆9日目 3月30日(木)
 いつものように機内でだらだら過ごしていたら,やがて日付変更線を越えた。ハワイは赤道に近いのでジェット気流の影響が強く,東に向かうときと西に向かうときでかかる時間がものすごく違う。向かい風の帰りは時間がかかるのだ。
 やが日本に近づいてきて,セントレア・中部国際空港のある知多半島が見えてきた。ちょうど夕日が海に沈むところだったので,太陽が海に反射してとてもきれいであった。
 定刻より早くセントレアに着陸した。荷物は機内持ち込みにしたおかげでそそくさと飛行機を降りて,一目散に税関を通りて,わずか数十分後には名鉄の特急に乗り込んでいた。まるで通勤のようであった。

 これで今回のハワイ・マウイ島の旅は終了である。
 今回は2度目のハワイであったが,オアフ島は前回行ったときに寄ったダイヤモンドヘッドとワイキキビーチ,そして,今回の真珠湾とおおよその見どころは行くことができた。そして,前回のハワイ島も今回のマウイ島も,ともに無計画だが日数だけは十分の滞在だったから,日本のテレビでやっているハワイの特番に出てくるような見どころはほぼすべてを制覇してしまった。
 私はこの旅のわずかその8か月後には4つ目の島であるカウアイ島にも行くことができたから,もう,ハワイについてはおよそほぼすべてのところを知ることができた。

 ハワイに限らず,私は人の作ったものよりも自然のほうに惹かれる。私にとってハワイのよさというのは,マウナケア山やハレアカラ山の山頂から見た雲海であり,真っ青な海であり,そして,日本では決して見られない満天の星空である。そしてまた,日本では忘れさられてしまったような昭和の町並みである。ホノルルのような混雑した東京のような都会は別として,ハワイ島やマウイ島に行けば日本のような渋滞もないから,ハワイは京都やら各地の小京都と呼ばれる観光地を散策するよりもずっと落ち着く楽しいところである。
 私がこれまで行ったなかで今も忘れられないのは,ハワイ島にはじめて着いたときに1泊だけしたヒロのアーロンコテッジで出会った夫婦連れのハワイでの過ごし方であった。おそらく,彼らが最も粋なハワイの楽しみ方を知っているのだろう,と今も思うのである。
 また行ってみたい。

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◇◇◇
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●ハワイ便のビジネスクラス●
 ホノルルの空港に到着したら,空港を巡回するバスが待っていた。バスに乗らずともそのままコンコースを歩くこともできるのだが,ホノルル国際空港(このときはそういう名前であったが,2017年4月27日にダニエル・K・イノウエ国際空港(Daniel K. Inouye International Airport))と改名された)は狭いとはいえそれでも結構な広さであるから,こうしてシャトルバスサービスがあると助かるのだ。
 この後のフライトを聞かれたので答えたら,その便の出発するあたりまで乗せてくれたが,バスに乗ったのは私だけであった。
 
 しかし,私は勘違いをしていた。
 一旦空港を出て,デルタ航空のカウンタでチェックインをして荷物を預けるつもりであったが,そんなことをしなくても,直接,次の便の搭乗ゲートへ行けばチェックインができるのであった。
 バスを降りてコンコースを歩いていって,係りに空港の出口を聞くと不思議な顔をして,直接次の便のゲートへ行け,と言った。私はチェックインをしたいから要領がよくわからなかったが,ともかく次の便のゲートに行くと係りの女性がチェックインをしてくれた。ここでカバンを預けられるのか? と聞くと,そのまま機内持ち込みでいいんじゃない? と言われた。

 これもまたよくわからなかったのだが,私の持っていたカバンは確かに機内持ち込みサイズではあったが,この旅では星を写すための三脚や簡易赤道儀を持っていて結構重たかった。ハワイアン航空では持ち込みができたが,この重量で後日カンタス航空に乗ったときはおもたいから預けなければならない,と言われたし,そのあたりのことがよくわからないのである。会社によって違うということだが,あれほどセキュリティには厳しいアメリカの飛行機会社が持ち込み荷物の重量制限が鷹揚なのも不思議な話だ。
 いずれにせよ,こうして私はホノルルでもう一度セキュリティチェックを受けることもなく乗り継ぎ便に乗ることができて,とても楽であった。
 
 まあ,そんなわけで,私は無事にチェックインが終了したので,フライトの搭乗手続きがのはじまるまでの時間をゆっくりデルタ航空のラウンジで潰すことができた。ホノルルの出発が13時4分だったので,デルタスカイクラブのラウンジで無料の昼食をとるにはちょうどいい時間でもあった。
 ラウンジのあるのは13番ゲートの前で私の乗るフライトの出発するのが21番ゲートだったからかなり距離があった。
 やがて搭乗手続きの時間になったので乗り込んだ。私は一番安いエコノミーで予約をするが,いつも空いているのでデルタコンフォートにアップグレードになるから,座席が広く助かる。しかも,セントレアとホノルル間の便というのは空席が多くて,大抵の場合隣の座席が空いてる。
 ハワイ便なんてさほど飛行時間が長いわけでもないからあえて5倍以上もする値段の高いビジネスクラスなどを利用する意味もないと私は思うのだが,それでも年配の夫婦などが一生に一度の海外旅行なのだろうか,けっこう利用をしている。しかし,ハワイ便の機体はアメリカ本土へ行く便のファーストクラスのようなシートに比べたら狭い席なので,さらに意味がなさそうに私は思える。
 定刻に離陸。窓から外を見ると,眼下にはいつものようにホノルルの街並みとその向こうにダイヤモンドヘッドが美しくその姿を現した。セントレアの到着は翌日の午後5時35分である。

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●とかく時差は難しいものだ。●
☆8日目 3月29日(水)
 7泊9日のこの旅の8日目,帰国の日である。帰国便に乗ると途中で日付変更線を越えるから,そのまま9日目となる。
 海外旅行をあまりしたことのない人やツアー旅行で何も考えないでただ添乗員について行くだけの人はそういうことをあまり考えないこともあるだろうが,日本から海外に出かけるときには時差というのはかなりの難問である。それはおそらく,アメリカ人がヨーロッパに行くとかいうときとは比較にならないことであろう。
 日本からの旅行で,ニュージーランドとハワイは,実は時間は1時間の違いしかないのだが,日付変更線を越えるか越えないかという点が決定的で,ニュージーランドはプラス4時間,ハワイはマイナス19時間ということになるのだ。
 日本へは飛行機でともに約10時間かかるとして,ニュージーランドから帰国する場合,ニュージーランドを午前9時に出発するとすれば,その時間の日本は同じ日の午前5時で,5+10=15だから,同じ日の午後3時に帰国することになる。しかし,ハワイから帰国する場合では,同じように午前9時に出発するとすれば,その時間の日本は「翌日の」午前4時で,4+10=14だから,帰国は翌日の午後2時ということになるのだ。そこで,ここに「7泊9日」という1泊の不足ができるわけなのである。
 お恥ずかしい話だが,私は海外旅行はどこに出かけても日数よりも泊数が2少ないものだと思っていた。しかし,そうではなく,たとえば,南太平洋のイースター島に行くときなどは6泊9日! などということも起きるのである。
 そしてまた,この時差というものの面白いのは,飛行機に乗る時間をうまく選べば,お昼ばかりになったり,反対に夜ばかりになったりできるのである。だから,頻繁に飛行機に乗る人は毎日をお昼だけで過ごすなどということが可能なのである。

 さて,私はこの帰国の日,カフルイ空港の出発は午前9時48分であった。
 朝食もとらず,朝7時過ぎにはホテルをチェックアウトして空港に向かった。到着したときは夜だったので,空港からホテルまでの道に迷ったのだが,それはすでに遠い昔のことのように思えた。このカフルイ空港は思ったよりも大きな空港だったので,私はハワイにはじめて来たときに着いたハワイ島ヒロの空港ののどかさに比べて,少しこのデラックスさに幻滅したものだった。ハワイはもっと素朴でなければ私のイメージには合わない。
 空港に着いて,レンタカーを返し,レンタカー会社のシャトルバンにのって空港に行った。
 空港で十分に時間があったのでゆっくりと朝食をとり,やがて時間になったので飛行機に搭乗した。
 私はホノルルからはデルタ航空に乗るのだが,カフルイからホノルルまではそれとは全く別にハワイアン航空を予約したので,ホノルルまでのフライトが欠航になったり,あるいは遅れると困るのである。
 旅にはハプニングがつきもので,これまでにも散々いろんなことを経験したが,若いころはそれもまた面白かったけれど,もう今はそういうのはごめんだと思うようになってきた。私も老いた。
 時間通りに離陸した飛行機で,いつものように機内で配られたグアバジュースを飲みながら外を眺めていたら,すぐにホノルルが見えてきた。なにせたった35分のフライトなのである。

 ホノルルの到着は定刻通り午前10時23分であった。
 しかし,ここからが少し大変であった。ハワイアン航空では荷物を預けると余分に結構高いお金がいるので機内に持ち込んでいたが,この荷物はホノルルでデルタ便のチェックインをするときに預けるつもりであった。…であったのに,それがうまくいかなかったのである。私はこのところ,年に20回以上も飛行機に乗っているというのに,未だよくわからないことが多い。

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●「サム・サトウズ」のドライヌードル●
 まだ時間は早かったが,食事(昼食)をとってホテルに帰ることにした。たまにはゆっくりするのもよいだろう。 
 で,食事をとる場所である。
 「地球の歩き方」のカフルイにあるレストランのページに「サム・サトウズ」に並んで「ココイチバン屋」というレストランが紹介されていた。帰り道では「サム・サトウズ」よりも「ココイチバン屋」のほうが近かったので,まずはそのレストランを探してみることにした。
 そもそも,ココイチというのは愛知県清須市発祥のカレー屋の名前であるが,この店はそれとは無関係のようであった。しかし,このマウイ島のココイチは地図に書かれた場所に行っても存在しなかった。おそらくここだろうと思った場所には別の店があった。
 私の勘違いなのかもしれないが,おそらくココイチは閉店したと思われる。

 日本人の大好きなハワイであるが,その情報のほとんどすべてはオアフ島であって,それ以外の島については情報が異常に少ない。そして古いのである。
 私がはじめて来るまでハワイが嫌いだったのも,そして,一度訪れて以来ハワイが大好きになったのも,すべてハワイというのはオアフ島だと思っていたこと,それが理由であった。ほとんどの日本人の思うハワイと私の思うハワイはまったく別の場所なのである。
 あたりを何度も回ってみたがそれらしき店が見つからなかったであきらめて,私は「サム・サトウズ」へ行くことにした。
 前回「サム・サトウズ」の前を通ったときはすでに営業時間を過ぎていたが,今回はぎりぎりで間にあった。営業時間は午後2時までである。
 駐車場には多くの車が停まっていたが,そのほとんどは食事を終えて帰るところであった。
 私が注文したのはメニューのなかで一番上に書かれているこの店の名物「ドライヌードル」の小であった。要するにこれは焼きそばである。
 このレストランは1933年開業で,現在は日系3世のオーナーが経営しているという。お店は日本の小さな町の食堂という感じで,ここもまた,私が子供のころに日本によくあった食堂のようであった。

 帰りにレジにいた人がこの店のオーナーだろうか? 外見は日本人のようであったが日本語で話しかけてもまったく日本語は理解できないようだった。私が友人に紹介されて来たと話したら「マンジュー」をプレゼントしてくれた。
 このレストランは知る人ぞ知る,というお店で,ブログを探すと一杯出てくる。日本から観光でマウイ島に来る人にとっては定番のお店であろう。そしてまた,私と同じように,お土産にマンジューをくれたということも書かれてある。
 これだからハワイは楽しい。
 そんなわけで,私はこの旅で,マウイ島の,知る人ぞ知るたくさんのお店に行くことができた。

 マウイ島には「マウイ・ゴールド・パイナップル」という名物もある。
 パイナップルの原産はブラジルとパラグアイだが,今ではハワイの象徴ともなっている。かつてはサトウキビとともにハワイ諸島の経済を支えていたパイナップルも,1930 年代の全盛期から生産が徐々に減少し,現在はオアフ島とマウイ島の2島だけで栽培されている。マウイ島では「マウイ・ゴールド・パイナップル・カンパニー」が甘くて酸味が少なくジューシーな品種を育てている。
 私は旅行中には知らなかったが,マウイ・パイナップルツアーというのがあって,このツアーに参加すると,ハレアカラ火山の中腹にある約6平方キロメートルのプランテーションを訪れてパイナップルの歴史や栽培技術,フルーツの出荷準備の様子の説明を聞いたのち,処理工程でパイナップルの選別と洗浄を行ってから保存可能期間を延ばして見栄えをよくするために植物ワックスを噴霧しサイズごとに梱包する様を見学できるということだ。そして,その後でパイナップル畑に向かい,経験豊富な作業者たちが1 日に約7,000個のパイナップルの樹冠をすべて手作業で植えつけているのを見たあとで,ガイドがその場で採って切り分けたパイナップルの試食をすることができ,さらに,お土産に パイナップルが配られる。

 私はそんなことも知らなかったので,モールでパイナップルを食しようと思ったのだが,この大きなパイナップルを買って帰ってもどうしようもないのであきらめて,切ったパックを買ってホテルで食べたのだった。
 この日は早めに部屋に戻って,荷物をカバンに詰めて帰国の準備をして,夕食はカップヌードルを食べた。

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●マウイズ・ワイナリー●
 次に向かったのが「マウイズ・ワイナリー」(Maui's Winery)であった。しかし,ハワイでワインというと何か結びつかない。私はワインを味わう素も趣味もないのでいろいろと調べてみた。
 「ハワイアンワイン」というのは「ハワイ産のフルーツを使った甘い香りとフルーティな舌触りが特徴のトロピカルなワイン」なのだそうだ。ハワイ産のワインは,ピノ・ノワール(Pinot Noir=赤ワイン用ブドウ品種)やシャルドネ(Chardonnay=白ワイン用ブドウ品種)などから作られたブドウのワインと,グアバ,リリコイなどハワイ産のフルーツで作られたトロピカルワインがあるそうだが,なかでも一押しはハワイのパイナップルを原料にしているパイナップルワインで,この「マウイズ・ワイナリー」で作られているパイナップルワインが人気という。

 「マウイズワイナリー」はマウイ島で唯一の商業ワイナリーで,ハレアカラ山斜面の裾野にある「ウルパラクア・ランチ」と呼ばれる場所にある。
 クラの集落から南に向かって走っていってもなかなかその場所がわからず,こんなに遠いのか? と思ったところにやttあったのだが,ここもまた多くの観光客が訪れていた。そしてまた,ここも日本人は皆無であった。
 ワイナリーを所有している「テデスキー・ヴィンヤード社」の社名から「テデスキー・ワイナリー」と呼ばれているこのワイナリーには年間18万人以上もの人が訪れる。ワイナリーの広い敷地内には醸造所やボトリング・ルーム,そして無料でワインが試飲できるテイスティング・ルームがある。また,ガイドツアーでは醸造タンクも案内してくれる。

 「マウイズ・ワイナリー」の歴史は約150年前の1856年に遡る。スコットランド人の船長ジェームス・マキー氏が海での事故後の療養のためにマウイ島に来た際に,訪れたこの地をいたく気に入り,さとうきび工場であったこの土地を工場ごと買い取った。マキー氏は現在はテイスティング・ルームとして使われている「ザ・キング・カラカウア・コテージ」を,同じくこの地に魅了されて度々訪れていたハワイ王朝最後の王であるカラカウア王とカピオラニ女王のために建て,彼らをもてなしたと伝えられている。

 このワイナリーの名物であるパイナップル・ワインには「マウイ・ブラン」「マウイ・スプラッシュ」「フラ・オ・マウイ・スパークリング・ワイン」の3種類がある。「マウイ・ブラン」はマウイで育ったおいしいパイナップルを発酵させて作った軽い口当たりのやや辛口のワインで,パシフィックリム料理に良く合う。「マウイ・スプラッシュ」はパイナップルとパッション・フルーツから作られていて,とてもフルーティーで甘口。デザート・ワインのように甘くて飲みやすいのと同時に程よい酸味もあり,テイスティング・ルームで最も人気が高いワインである。また,「フラ・オ・マウイ・スパークリング・ワイン」は文字通りパイナップルとトロピカル・フルーツのスパークリング・ワインである。さらに忘れてはならないのが,1984年から作られている「マウイ・ブリュ・スパークリング・ワイン」である。ハワイにあるワイナリーの中でスパークリング・ワインを作っているのはここだけだそうだ。

 いずれにしても,車を運転してやってきてワイナリーで試飲をする,ということすら私には理解できない。
 ハワイではないが,実際,オーストラリアでワイナリーがたくさんある地域を走っていて,私はアルコールの検問にあったことがあるから,ハワイでも気をつけたほうがよいのだろう。

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●アリイ・クラ・ラベンダー●
 「アリイ・クラ・ラベンダー」へ行こうと走ってい途中でtふと見つけた「クラ・ボタニカルガーデン」に寄った。いよいよ次に目指すのは当初からの目的である「アリイ・クラ・ラベンダー」であった。
 州道37を南に走って行くと地図にはこのあたりだという場所になっても何の道路標示も見つからず,どこかな? と思っていると,左に狭い道路があった。どうやら地図に書かれた道はこれだろうと見当をつけて左折した。
 州道377を南から北に走るのなら,ワイポリ・ロードとの交差点に「アリイ・クラ・ラベンダー」の道路標示があるということなのだが,私のように南に向かって走っていくと目印がないようであった。
 狭い道路は登り坂で,ずっと登っていく感じになったが一向に何の目印もなく不安になってきたころに黄色いゲートがあって,その先が広い駐車場であった。

 アメリカを旅していていつも思うのは,日本と違ってほとんど看板もなく,道路標示もあるのならないのやら… であるにもかかわらず,目的地に到着すると多くの車が停まっていることである。
 要するに,人はみな頭があるから自分で考えて行動するのである。その点日本人は異常に過保護であって,人はみな自分で考えるという視点が欠如しているのである。交通機関における異常なほどの放送や,学校でのうるさいほどの注意事項はみな,そうした,人をバカにした発想からきているとしか思えない。
 考える教育とか言いはじめたが,今度は考えることすら考えさせずに事細かく教えるのであろう。

 「アリイ・クラ・ラベンダー」(Alii Kula Lavender)はクラの高台にある広大なラベンダーガーデンである。ここにはフレンチラベンダー,スパニッシュラベンダーなど30種のラベンダーが海抜900メートルの高台に一面に咲き誇っている。これだけの標高だと,ハワイといえども地中海性気候に似ていて,ここはラベンダーとオリーブが一緒に咲いている素敵な場所である。
 このガーデンの創業者であるアリイ・チャンは、生まれもった「植物を上手に育てる才能」と自然豊かな環境のもとで育った感性を活かして,このラベンダーファームを立ち上げたという。

 農業アーティストや園芸マスターによって仕上げられた農園には,豊かに生える緑の中に淡いパープルが無数に散りばめられ,まるで絵本のような幻想的な景色を作り上げている。
 ファーム内は1日5回開催されるガイド付きウォーキングツアーや5人乗りのカートツアー,さらには子ども向けのラベンダー宝探しなどのアクティビティーも盛りだくさんある。
 また,売店では,広大な敷地で育ったラベンダーがコスメや食材に加工されてお土産として販売されているし,アリイ・チャンの邸宅に隣接するポーチで絶景を見ながら優雅なティータイムを楽しむこともできる。
 ラベンダーの語源はラテン語の「Lavandre=洗う」という言葉である。ラベンダーは古代ローマの時代から 殺菌や防虫効果のあるハーブとしてお風呂や洗濯に使われていた。また,リラックス効果が高いので,心を落ち着かせ心地よい眠りを誘うハーブとしても有名である。

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●クラに咲く美しい花々●
 そもそもマウイ島というさほど広くもない島に7泊もしたのだから,主な見どころには行ってしまった。そこで,最終日のこの日は,マウイ島で私が最も気にいったクラにもう一度行ってみることにした。
 クラはとても美しく素敵な集落であるが,泊るところがない。そして,食事をする場所もない。気の利いた民宿のようなものやカフェでもあれば最高なのに! と思ったのだが,そう,たった一軒,素晴らしいロッジとレストランがあるのだ。しかし,高い。
 それが「クラロッジ」である。

 ハレアカカラ山に向かう途中にその「クラロッジ」はある。広い駐車場に車を停めて入口から中に入ると,そこはギャラリーになっていた。
 私は単に土産物屋を見ただけだが,なんでも宿泊する人はそこにある暖炉を囲んでおしゃべりが楽しめるのだそうだし,宿泊しなくてもレストランで食事をとることはできる。このロッジからはマウイ島の雄大な眺めが見られる。
 ここのお薦めは20ドルするマルゲリータピザと11ドルのマウイオニオンスープなのだそうだ。マウイオニオンというのはクラで最高が最高の玉ネギである。
 オーガニックの野菜を作っている庭に窯があって,そこで焼かれたピザを屋外のテラス席で食べることができる。
 なんでも窯に入れる薪はハワイのキアベという木だそうだ。また,窯は兜をつけたマウイの戦士の顏を模したイメージになっていて,自分でピザを焼く体験をすることもできるという話である。

 「クラロッジ」を過ぎ,次に向かったのはラベンダーガーデンでであったが,その途中に「クラ・ボタニカルガーデン」(Kula Botanical Garden)というものがあった。この植物園は「地球の歩き方」にも載っておらず,ネットにもパンフレットにもほとんど情報がなかったが行ってみることにした。
 ここはウォーレンとヘレン・マッコードが1968年に設立した庭園で,カラフルな植物,素晴らしい岩,覆われた橋,鯉の池,彫刻されたティキの展示物などがあるのだそうだ。標高が約700メートルで広さは8エーカー。
 以前書いたように1エーカーを0.4倍すると野球場の広さだからここは野球場3個分の広さである。
 クラはマウイ島のなかでも涼しく湿度があるので,マウイ・オニオンや花の栽培に適していて,そのためにこうした植物園があるわけで,ここには現在約2,500種の植物が育っている。

 4番目の写真は「プルメリア」(Plumeria)である。「プルメリア」はキョウチクトウ科インドソケイ属に属する植物の一般的な名称。落葉樹で花を付ける小灌木である。17世紀のフランスの植物学者シャルル・プリュミエにちなんで名づけられた。
 300種類があり,樹液には毒性があり、目や皮膚に悪い。
 「プルメリア」はニカラグアの国花である。タヒチ,フィジー,サモア,そしてハワイ,さらにはニュージーランドなどの太平洋の島々でレイに好んで使われる。
 花は女性の髪にも飾られ、未婚者は頭の右に、既婚者は左に飾る。また,インドでは赤い花のプルメリアの香りを入れた香をチャンパと呼び,ナグ・チャンパ(Nag Champa)などがある。
 そして,5番目と6番目の写真がクラを代表する花「プロテア」 (Protea)である。
 「プロテア」 は、ヤマモガシ目ヤマモガシ科の属のひとつで,ギリシャ神話に登場する自分の意志でその姿を自由に変えられる神「プロテウス」に由来する。あまりにも立派で荘厳な花が咲くからである。南アフリカ共和国の国花に指定されている。
 南アフリカから熱帯アフリカにかけて115種ほどが分布している。樹高数十センチメートルから数メートルの常緑の低木で,幹は直立し葉は互生で長い柄があり革質で厚い。花は枝の先に単生するが,総苞片に包まれたキク科の植物に見かけが似ている頭状花序で,花序そのものはそれほど華やかではないが総苞片が鮮やかな色彩でフリルがつくなど様々な形をしているために派手な色彩の容器にあざみやたんぽぽの花を入れたようなユニークな形をしている。花序は大きなものでは直径20センチあまりになる。

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●コモダベーカリーの串刺しドーナッツ●
 ワカアオの町は,もともとはサトウキビ農園で働く人のために作られた居住区にできた。サトウキビ農園では日系人が多く働いていたが,過酷な労働であったという。今は,ここには日系人の末裔たちが経営する店が多く残っている。
 今世界有数の観光地ハワイには,多くの日本人が訪れるので,ショッピングやグルメを楽しむための情報が数多くある。しかし,私は,現代に生きる日本人が明治・大正期の貧しい時代を生き抜いた人たちのことをあまりにも知らず,また,リスペクトしていないことに心を痛める。それは,ハワイだけでなく東北を旅行しても感じることである。
 権力者の争いの歴史などど~でもいいから,もっと庶民の歴史を教えるべきだといつも思う。もしその時代に生きていたら,ほとんどの人はそうした庶民の立場であったはずだからである。

 ワカアオの町で有名なのは「コモダベーカリー」である。数日前に一度行ってみたが,その時は店の中にほとんど商品がなかった。それは,午前中に売り切れてしまうからであった。
 ここは地元民の間で有名な場所で,朝の開店と同時に行列ができる人気店である。そこで,この日は朝一番に行ってみることにした。
 町のはずれ(といっても5分も歩けば町のすべてに行くことができるくらいの小さな町だが)に,1番目の写真のような広い駐車場があって,私はまだスペースがあったそこに車を停めた。そして,歩いて店まで行ったが,すでに,店の前には行列ができていた。

 この店の現在のオーナーはベティー・シブヤという女性で,彼女は創業者のひ孫にあたる人である。
 創業者である曽祖父はサトウキビ農園で働くために日本から移住したが,あまりに労働が過酷だったので,新しい仕事をはじめようと1916年小さな店でグアバジャムパンを売り出した。のちに,彼の9人の子供のうち8人目のイクールがミネソタ州のパン専門学校に行き,1960年代初期に帰ってくると商品を増やし,シュークリーム(Cream Puff)やドーナッツなどを売り出したのが評判となり,今のように大きな店になった。
 この店の人気はマラサダ(Malasada)である。マラサダというのはシナモンシュガードーナッツ(cinnamon sugar donut)のことである。その中でも串刺しドーナッツ(Stick Donut)は一番の人気商品で午前中には売り切れてしまうという。

 私は勝手がわからず,たった1個でも買えるのかな? そんな買い方をしている人がいるのかな? と心配であったがそれは杞憂であった。ほとんどの人が1個の串刺しドーナッツを買っていた。私も列に並んで1個の串刺しドーナッツを購入した。
 このドーナッツを手にして,近くの公園まで行って,私はこのドーナッツを食べた。それは思ったよりもずっと大きなもので,朝食を済ませた私にはかなりのボリュームであった。
 この朝は,こうしてここマウイ島に来た目的のひとつを果たすことができたのだった。
 この町を出発するまえに飲み物を買おうと「コモダベーカリー」の近くにあったスーパーマーケットに入った。ここはスーパーマーケットというよりもまさしく「よろず屋」であった。入口で店員さんの威勢のいいあいさつで迎えられた。ごっちゃごちゃにならんだ商品からソフトドリンクを取ってレジに行くと,端数の2セントがオマケになった。
 ハナのよろず屋さん「ハセガワ」もそうであったが,この島には私の子供のころにあったような日本の姿がたくさんあった。とても懐かしい気持ちがした。今や,古きよき日本は日本よりもハワイに存在しているようだった。

IMG_2807IMG_2808IMG_2809●「Pork Adobo Fried Rice」●
☆7日目 3月28日(火)
 7泊9日のこの旅の7日目,最終日であった。
 私の宿泊したホテル「マウイ・シーサイドホテル」には「タンテス」(Tante's)という評判のよいレストランがあって,私は5日目にそこで朝食をとった。そのときに「ポーク・アドボ・フライドライス」(Pork Adobo Fried Rice)というメニューが気になったので,今日の朝食はそれを選ぶことにして,再び「タンテス」に入った。

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 「アドボ」(Adobo)とはマリネを意味するタガログ語である。また,フィリピンの肉や野菜の煮込み料理の名称でもある。酢が使われることが多く,常温での保存性を高めた料理法であるといえる。語源はスペイン語の「漬ける」を意味する動詞アドバル(adobar)である。
 「アドボ」はフィリピンの代表的な家庭料理で,フィリピン人の国民食であるが,もともとはスペイン料理の「アドバード」(肉の漬け焼き)を起源としている。
 骨付きの鶏か豚のいずれかを使い,ジャガイモ,ニンジン,タマネギ,タケノコなどの野菜やエビ,ゆで卵を具に加えることもある。
 レシピは各家庭や店によってまちまちだが味付けにはニンニク,醤油かパティス,砂糖,粒の黒胡椒,ローリエなどを使うのが一般的である。
 「アドボ」が余ったら煮汁と一緒に炒飯にしたりスライスして焼き白飯と卵料理に添えて朝食に食べたり食パンにはさんでホットサンドにすることもある。
 ハワイ料理のプレートランチのメニューにもよく使われる。
  ・・・・・・

 「アドボ」というのはこのような料理であるが,グルメでない私にはその味がさっぱり想像つかない。しかし,ほとんど好き嫌いのない私は,郷に入れば郷に従え,ということで,食してみることにしたのである。
 このレストランで出てきたのは「アドボ」というよりも,写真のように「アドボ」を汁と一緒に炒めた,ほぼ豚肉入りチャーハンに目玉焼き2個がのっていたのであった。非常に美味であった。
 料理に関しては日本に勝る国はないから海外旅行では多くを期待してはいけないし味付けは大概大味ではあるが,こうしたおいしいものが食べられるのだから,ハワイは食に関してもいいところだ。

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●ハワイを夢見てきたが流す涙はキビの中●
 州道30を北西にラハイナのダウンタウンを越えたあたりにあるケヌイ・ストリートを左折して海岸に向かって走っていくと目指す浄土寺があったので,寺の横にあった駐車場に車を停めた。寺のさらに向こうは海岸で,地元の人たちが海水浴をしていた。海のきれいさは日本とは比較にならないが,雰囲気だけは日本のようなところであった。

 日本人が最初にマウイ島へ移民として横浜港を出たのは1868年(明治元年)のことであった。
 「金のなる木が生えている」という話を聞き夢を膨らませてハワイ諸島についた人々を待ち受けていたのは,裸にされて体格で値段をつけられ治外法権のサトウキビ畑に売られて強制労働させられる毎日であった。ホレホレ節という民謡を歌いながら炎天下でサトウキビの葉を落とす作業をしなければならなかった。
 「ハワイ,ハワイと夢見てきたが,流す涙はキビの中。いこかメリケン,かえろか日本,ここが思案のハワイ国」。
 勤勉で真面目な日本人はマウイ島人口6万人のうち3万人になっていた時期もあったという。

 ちょうどそのころ,ハワイに仏教寺院が建てられた。
 「ラハイナ浄土院」(Lahaina Jodo Mission)は1925年(大正元年)カフルイ浄土院を開いた原聖道師がラハイナに土地を借りて仮布教所を設置,翌年着任した斉藤原道師が寄付などを集めて1927年(大正3年)に堂を建てたのが始まりである。1930年(昭和5年)現在地に土地を購入して移転,ハワイの他の寺院とは違って日本的に作られま。
 1968年(昭和43年)火災で本堂が焼失する事故にあったが原源照師らの努力で3年後に再建された。日本から大工を寄せて,日本式本堂,納骨堂に利用されている三重塔,このほか鎌倉大仏を縮小したミニ大仏,鐘楼,山門,東屋などが建立された。
 寺院の側にある墓地は中国人や日本人の無縁仏であるが,今はハワイ州が管理しているために勝手な整備ができないそうである。

 ラハイナ観光の最後に私がめざしたのは「ハレ・パイ」(Hale Pa'i)であった。今度は州道30をダウンタウンの方向に少しだけ戻って左折し,山側にラハイナルナ・ロードの坂を上ってずっと奥まで進んでいくと高台には新しい住宅街があって,その先の行き止まりにラハイナルナ高校(Lahainaluna High School)があった。学校の横に広場があって,高校生たちが遊んでいた。そこに車を停めて外に出ると,「ハレ・パイ」はそこにあった。
 「ハレ・パイ」は印刷博物館である。開館時間に着いたはずだったが,なぜか閉まっていて中に入ることができなかったので,ここでは資料から紹介しよう。

 オアフ島に到着した宣教師が来たとき,ハワイ人は文字をもっていなかった。 ハワイ語はアルファベットとして表記をするのが難しかった。 宣教師たちはキリスト教の福音を教えるために,まずは言葉を書く表現法を開発しなければならなかった。
 そうして1822年にハワイで印刷された最初の本はハワイ語のスペルの本であった。

 マウイ島のラハイナに宣教師が上陸したのが1823年。現在のラハイナルナ高校はそのときに時神学校として創立された。
 1831年,ラハイナルナでは印刷の必要が認識されたので,印刷をするための建物が建設され1834年にホノルルから印刷機(Ramage Printing Press)が到着した。そして,1834年に「Ka Lama Hawaii」の初版が印刷された。1837年には現在の建物が作られた。
 「ハレ・パイ」は1846年に印刷が中止されるまで使用され,その後は学校の部屋に使用されたが,1964年、ハレ・パ・チーはラハイナ・レストレーション財団に引き渡された。

 こうして,私はこの日,マウイ島の西海岸,特にラハイナの観光を終えて,ホテル近くのモールでケイタリングの夕食をとった。このように,この島を訪れる日本人の多くはそのことに興味もないが,マウイ島は様々な顔をもつ,そして,歴史のある島である。

◇◇◇
Super Blue Blood Moon 2018
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●ラハイナの歴史を感じるトレイル●
 私は「ラハイナ・ヒストリック・トレイル」(Lahaina Historic Walking Trail)でラハイナを隈なく巡っている。地図やパンフレットを片手にこんなふうに観光をしている人たちがほかに少しだけいたが,日本人の姿はなかった。
 ウエブで調べても,ブログをさがしても,日本の旧東海道を歩いているとか,百名山を登っているといったものは山ほどあるのにも関わらず,ラハイナの歴史地区を歩いたというブログはほとんどないか,あっても写真と簡単な説明が載っているだけである。

 では,先を続けよう。
 今日の1番目の写真は「イギリス国教派墓地」(Maria Lanakila Catholic Cemetery Episcopal Church)である。この墓地は「イギリス国教派教会」(The Episcopal Church)の隣にある墓地であった。この墓地にはイギリス国教派教会に関わった家族や信者が埋葬されている。つまり,ハワイにはじめてキリスト教が布教されたときに信者となった人たちが今ここに埋葬されているわけである。
 「イギリス国教派教会」は1862年に宣教師によって設立された。1909年に現在の場所に動かされ,1927年に改装された。

 2番目の写真は「真言宗法光寺」(The Buddist Church of the Shingon Sect)である。
 「真言宗法光寺」は1902年砂糖キビプランテーションで働くため日本人が移民してきたころに普通の家屋を使い真言宗初の布教場としてスタートしたハワイ州で1番古く歴史のある真言宗のお寺である。
 この後で訪れることになる浄土寺も含め,ここラハイナにはこうした仏教寺院がいくつかあった。

 このようにして,私はラハイナの南にあった寺院を巡ってふたたびダウンタウンに戻ってきた。
 3番目の写真はカメハメハ3世の「タロイモ畑跡」(The Taro Patch)である。
 1959年のおわりごろまでここにタロイモ畑の跡をみることができた。カメハメハ3世は自らこの畑で働き,人民の労働意欲を鼓舞したといわれている。現在は真似事のようにタロイモが少し植えられて当時の面影を味わうことができるように再現されていた。
 タロイモとは何であろうか? 日本で栽培されているサトイモ,エビイモ,エグイモ,京料理のカラノイモ,タケノコイモ,南日本のタイモもタロイモの一種である。なかでもサトイモはタロイモのうちで最も北方で栽培されている品種群である。熱帯アジアやオセアニア島嶼域,アフリカの熱帯雨林地帯ではさらに多くの種やその品種群が多く栽培されていて,これを主食としている民族や地域も多い。また,キプロスにはコロカシと呼ばれるタロイモがあり,ポリネシアではタロイモから作るポイというペースト状の食品が主食とされている。
 ハワイ州の伝統料理に豚肉をタロイモの若葉で包んで蒸し焼きにしたラウラウという料理がある。

 そして,今日の最後,4番目の写真が「ウォ・ヒン博物館」(The Wo Hing Museum)である。
 ハワイには日本人だけでなく中国人移民も数多い。「ウォ・ヒン」は道教信徒のお寺であり,また,「中国人友愛組合」(Chee Kung Tong)の支部でもある。1階には中国の工芸品が展示されているほか,トーマス・エジソンが撮ったといわれるフィルムが公開されているそうだが,私は外から見ただけで中には入らなかった。それは,この建物に入るのに入館料が必要であったことに加え,中国に興味がないのが理由であった。
 トレイルにはもう一箇所浄土寺というお寺があるのだが歩いていくには少し遠いので,私は駐車場に戻って,車で行くことにした。

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●「プリンセス・ナヒエナエナ」の悲劇●
 引き続き,ラハイナの散策を続けよう。
 ラハイナ監獄からさらに南に歩いて行くと町はずれになってきた。このあたりは寺院が多いが,ここにラハイナの王族の悲劇があることを知る観光客は少ない。

 まず,1番目の写真は仏教寺院の「ラハイナ本願寺」(Lahaina Hongwanji Mission)である。屋根のてっぺんにだんごがささったような変わった建物で,1904年に建てられた。親鸞像がお寺の前にあり,ローマ字で「NOKOTSUDOU」と書かれた納骨堂もある。
 現在このお寺は日本語学校としても使われているそうだが,日系の人たちの集会場という機能もありそうだ。
 さらに歩いて行くと2番目の写真のマウイ島島最古のプロテスタント教会「ワイオラ教会」(Waiola Church)に着く。この教会は1828年に建てられた由緒あるもので,もともとはワイネエ教会(Waine'e Church)といわれた。幾度か改築が重ねれら,現在の名に改名された。
 その教会に隣接するのが3番目と4番目の写真にあるワイオラ墓地(ワイネエ墓地)である。この墓地にはカメハメハ1世の第1王妃ケオプオラニとプリンセス・ナヒエナエナの墓がある。
 前回書いた聖なる土地「モクウラ」が開発の波にのまれ,一度は葬られた「モクウラ」からここ「ワイオラ墓地」に移されたものである。

 カメハメハ1世はカメハメハ王朝の創始者で,ハワイ島コハラの首長の家系に生まれた。カラニオプウ大首長の死後,内戦状態にあったハワイ島を平定して王朝を建てた。
 カメハメハ1世には多く妻がいたが,その第1王妃がケオプオラニである。ケオプオラニは大変身分の高い生まれで,カメハメハ1世でさえ顔を上げて話をすることを許されなかったという。
 カメハメハ1世とケオプオラニの間には,のちのカメハメハ2世と3世となる男子が生れたが,その妹として生まれたのがナヒエナエナである。
 ナヒエナエナは実の兄カウイケアオウリ(後のカメハメハ3世)と愛し合っていて将来結婚することになっていた。今の常識とは違い,当時のハワイアンの習慣として,近親結婚,特に高貴な血を受け継ぐ者同士の結婚はその血筋を守りまた高めるものとして尊重されていた。したがって王とその高貴な妻とのふたりの兄妹は生まれながらにしてその道をたどる運命であった。
  ・・
  ところが,そのころヨーロッパからの宣教師がハワイへ布教を始め,王族の中にもキリスト教を崇拝するものが多くなってきた。ケオプオラニもキリスト教の教えに傾倒していったひとりである。こうして宣教師の影響は次第に王朝の政治にまで影響を及ぼすようになった。
 キリスト宣教師が始めてハワイに到着したとき,ナヒエナエナはたったの5歳であった。ハワイ貴族の娘として育ってきた彼女は宣教師から押し付けられた生き方に賛同することを拒んだ。彼女はイエス様を崇拝することよりも,海の神,風の神,火山の神,自然の神たちを崇拝することを選んだのだ。しかし,母親ケオプオラニが洗礼を受けキリスト教徒になってからは母親からキリスト教を押し付けられることになる。
 ナヒエナエナが表向きだけでもキリスト教を受け入れることになったのは,ケオプラニが死を目の前にした病床での遺言であった。
 「これからは宣教師に育ててもらい,立派なキリスト教徒になるのよ」
 こうして,否応にもキリスト教徒になることを受け入れることになったのだが,それでも古代ハワイアンのしきたりを完全に捨てることができなかった。そして,わざと昔ながらの服を着続けただけではなく,宣教師たちの反対を押し切ってカウイケアオウリと結婚した。
 が,結婚するやいなや宣教師からこんな手紙が彼女の元に届いた。
 「君は最大の罪を犯した。その罪は重く、君は母親のいる天国には行けないだろう」
 それがきっかけで心の病にかかり,かなりな量のお酒を飲み続けた。
 そんな人生の中でも明るい光が差したのは息子を身ごもったことであった。ところがその幸せも長くは続かず,赤子は産まれて数時間のうちに他界した。その事実に耐えられなかったナヒエナエナもまた,その3か月後に21年の短い生涯に幕を打ったのだった。カメハメハ3世として王朝のトップに立ったカウイケアオウリは他の女性と結婚したが,たびたびラハイナにあるナヒエナエナの墓標を訪れていた。
 …今もプリンセス・ナヒエナエナは,母親ケオプオラニと共にラハイナのワイオラ教会の片隅で眠っている。

 ハワイでのウエディングに憧れた日本人がこの教会で結婚式をあげる。ウェブサイトにもハワイでの結婚式の会場としてこの教会が取り上げられている。しかし,こうした歴史の悲劇が書かれたものは皆無である。
 ハワイに関する観光ガイドブックは多いが,それらの情報はショッピングやらグルメばかりである。ここラハイナにもまた,ショッピングやグルメ,そして,ウェディングで日本から訪れる人も少なくないが,こうした歴史を知る,あるいは興味をもつ人は多くない。しかし,この歴史を知ってこの地を訪れると,別の感慨がわくであろう。そしてまたこの教会で結婚式を挙げるということの重さを知ることができるであろう。
 旅をするというのはそういうものであるし,そうでなければならない。

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●「ラハイナ・ヒストリック・トレイル」●
 カメハメハ王国初期の首都であったラハイナには「モクウラ」(Moku’ula)と呼ばれた地域に王と神官,そして妻たちが住んでいたが,今は跡形もない。「モクウラ」は現在のフロントストリートに面していた場所にあった。私はこの日,このフロントストリートを歩きながらラハイナの名所の散策をしている。
 ラハイナの史跡を見て歩くのに最適なのは「ラハイナ・ヒストリック・トレイル」(Lahaina Historic Walking Trail)と題したウォーキングセルフツアーである。このトレイルは町の史跡保存協会がフロントストリートを中心に南から北へ史跡に番号をつけたものであり,町中のあらゆるところに地図がおかれ「ラハイナ・ヒストリック・サイト」という看板には史跡の名前と番号がかかれていて非常にわかりやすい。現在もコースは整備中で,最終的には62か所の見どころが設定されるということだ。
 このトレイルを歩いてラハイナの歴史を巡る時間の迷路を散策するのが古都ラハイナのもっとも楽しい過ごし方なのだが,何だかアメリカの観光地というよりも,日本の観光地のようであった。

 フロントストリートを南に向かって歩いて行くとショッピングエリアを抜けて町はずれになってきた。ここに町営の広い駐車場があって,ずいぶんと駐車スペースが空いていた。この日私はラハイナのダウンタウンで車を停める場所に苦労したが,ここに停めればよかったと後悔した。はじめて来た場所で最もわからないのがこういったことなのである。そしてまた,こういうことはガイドブックには書いてない。
 この駐車場のあたりから海岸向かったところに「イキパーク」があった。

 1番目の写真はその「イキパーク」(Kamehameha Iki Park)である。ここは「モクウラ」の跡地にあって,かつては王家の居城があった。敷地には「モクヒニア」という池があって,その池に住む「キハーワヒネ」というトカゲの姿をした女神には聖なる強い力があり,深く崇められていたということである。カメハメハ1世の第1王妃ケオプオラニ及びその子どもたちは,死後この池に埋葬されたといわれる。
 居城は石で積み上げられた家であったため「ハレ・ピウラ」(鉄の屋根の家)と呼ばれたが,カメカメハ3世が都をホノルルに移したあとは使われなくなり,解体されて石は裁判所建築の際に使われた。
 この聖なる土地も一度は開発の波にのまれたが,住民の大きな反対運動で中断された。開発の際にこの場所に埋葬された墓はワイオラ教会の横に移された。現在は写真のように,池や遺跡を復元するための活動がされている。

 ここから東にプリズンストリートを歩いて行くと,左手にあったのが2番目の写真の「ラハイナ牢獄跡」であった。ここはラハイナが捕鯨で栄えた1850年代に使われていた小さな牢獄の跡で,ハワイ語で「監禁の家」を意味する「ハレ・パアハオ」とも呼ばれる。
 囚人の多くは飲んで暴れた海の荒くれ者たちであった。そのほか船から脱走した人,馬の乗り方が悪かった人,さらには安息日に働いた人なども投獄された。囚人たちが自ら建てたという獄舎は壊された砦から取ったサンゴ石で基礎を作った木造の建物である。囚人たちは足かせや鎖などで拘束されながら建造作業に携わったため「鉄で縛られた家」とも呼ばれている。ここは石塀とともに当時のままの姿を残していて,廊下の両側に並ぶ独房の中の様子が見られるほか,収監されていた人物などの資料も展示されている。

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●知らなければただの石●
 では今日も私が歩いた順にラハイナの見どころを紹介していこう。
 1番目の写真は「パイオニアイン」(The Pioneer Inn's)である。
 ラハイナ港のすぐ目の前にあるこのホテル&レストランはラハイナのランドマークとなっている。ここは1901年に創業したマウイ島最古のホテルであり,ハワイ全体でも初期のころに誕生したホテルである。アメリカンスタイルの風情と古めかしさを感じる外観は,ハワイ,そしてオールドアメリカンの良き時代を体現している。
 内装はもちろん改装がなされていて,インテリアの細部にまでこだわりが感じられる客室はどこか懐かしい雰囲気に満ちているのだそうだ。内部の壁には捕鯨時代初頭の鯨捕りの様子や捕鯨船の写真,捕鯨用具などが展示されているが,このホテルがオープンした1901年には,すでにクジラの油に代わり石油の時代となっていたという。
 レストラン「パイオニア・イン・グリル&バー」では,昔ながらのアメリカの雰囲気にあふれたランチやディナーを堪能することが可能であるという。
 2番目の写真は「ボールドウィンホーム」(The Baldwin Home)である。
 ここは19世紀に米本土からマウイ島に移住した,宣教師で医師のドワイト・ボールドウィンの邸宅で,1834年に建設された旧邸宅はのちに改装されて,現在は博物館となっていて,当時の生活を垣間見ることができる興味深い展示が並んでいるという。

 そして,3番目の写真が「ハウオラの石」(The Hauola Stone)である。
 この石は,そのことを知らなければ見逃してしまうただの石であるが,実は「魔法の石」なのである。
 ラハイナ港の岸壁の海側にその石はある。この石は,ここで出産すれば富と健康が約束されると信じられハワイ王族たちが出産の場所にしていた聖なる石なのである。よって,ここに座ると子どもを授かることが出来るとか,海に向かってこの石に座り,寄せる波に足を洗わせると,病気や怪我が治った,生まれたこの臍の緒をこの石の上に置くと,その子は強く健康に育つなどとの言い伝えがある。

 最後の写真がカメハメハ3世スクールという名のついた学校である。
 カメハメハ3世(Kamehameha III)はハワイ王国第3代の王である。1825年,兄カメハメハ2世の死を受けて即位したが,1832年までは義母カアフマヌが摂政を務めた。カアフマヌはカメハメハ2世に洗礼を施しハワイの伝統的信仰を廃するなどしている。
 当時ハワイは重要な捕鯨地域として,また砂糖の産地として注目されていたが,。こうしたなかでカメハメハ3世は王国の改革に努め,1840年にハワイ語の憲法を制定し1840年代半ばにはイギリス,フランス,アメリカから独立国として承認された。
 しかし,憲法制定後の政府では白人が要職を握り,ハワイ人が主体的に政治参加することが妨げられていた。近代的な土地制度も導入されたが私有観念の希薄なハワイ人が土地を失う結果に終わった。

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●美しい海岸線は原宿のようであった。●
 ラハイナはビルを建ててはいけないという規則があるのでいまでも昔の風情の残る港町になっている。
 車を停めて,ラハイナの町を散策することにした。この町は端から端まで1キロほどの徒歩圏内で,多くの見どころがある。アメリカというよりも,どことなく高山のような日本の観光地みたいなところであった。
 まず,町の中央にあるのが巨大な「バニヤンツリー」(The Banyan tree)である。1873年にラハイナでのキリスト教布教50周年を記念して当時の保安官であったウィリアム・スミスによって植えられたハワイ諸島最大級の巨木である。蔦が地面につくと今度はそれが支えとなっていくので1本の木なのに妙な形になっているのである。こうして,自然に日陰が作られるのだそうだ。
 高さは約18メートル,2,700平方メートルの木陰ができていて,多くの人がここで日差しを避けていたが,週末にはフリーマーケットなどが行われる。

 次に行ったのが「オールドラハイナ・コートハウス」(Old Lahaina Courthouse)であった。1859年に建てられた裁判所は1925年に建て直されたが,現在は郷土文化博物館になっている。
 当時は罪を犯した船乗りたちがここで裁判にかけられたのだという。
 階段を上って2階にいくと,写真や模型などでハワイの歴史が説明されていた。カイルアコナにもよく似た博物館があったが,こうした古い建物がきちんと整備され保存されているのが素晴らしかった。
 また,裁判所もそのままの姿で残っていて,壁にはクジラを捕獲するための鉄砲や船の模型などが展示されていた。
 また,建物の外に置かれている大砲は1816年,ラハイナ沖で沈没したロシア船から回収したものである。
 博物館から外に出ると,美しい海岸とヨットハーバーがあって,この海岸に平行に走る道路を「フロント・ストリート」(Front Street)といい,このストリートに沿って,多くのブティック,レストラン,そして,ギャラリーがならんでいて,まるで原宿のようであった。

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●商店街を壊滅させたショッピングモール●
 リゾートを過ぎて州道30をさらに南に走っていくと古い町に出る。ここがハワイの古都ラハイナ(Lahaina)である。日本でもそうであるが,そうした町のはずれの交差点にはショッピングモールがある。ここラハイナもまた,例外ではなかった。
 日本の町は,こうしたショッピングモールのために,古くからある商店街は寂れてしまっていて,惨憺たるものである。いまでも昔からの商店街が存在しているのは,皮肉なことに,そうしたショッピングモールを作る土地がない東京である。というか,東京だけなのかもしれない。しかし,このラハイナは,昔ながらの町はしっかりと30年前のまま存在していた。

 まず私はこのモールの駐車場に車を停めて中に入っていった。
 モールというのは,日本もハワイもアメリカ本土も,さほど変わるものではない。売っているものもそれほど違いがない。いわば,無国籍である。しかし,便利なものである。
 今から20年近く前,アメリカは好景気に沸き,日本はバブル経済がはじけて,都会には家をなくしホームレスとなった人のブルーシートが公園に林立し,駅には得体のしれないイラン人がうろうろしていたころがあった。
 今の若い人はそんな状態が信じられないであろう。思えば,そのころから日本はどこかおかしくなったのだが,ちょうどそのころ,アメリカではこうしたモールが作られはじめた。日本にはまだなかったから,アメリカを旅すると私はずいぶんと驚いたものだった。そのうち,日本にもよく似たものが作られはじめたのだが,何事も右倣えの日本では,ものすごい勢いで過剰にそういうものができて,その結果,地元の商店街が壊滅したのだった。

 私は,このモールに車を停めて,ラハイナを散策しようと考えたのだが,この日は暑く,また,ラハイナの町はモールから歩くには少し遠かったのであきらめて,国道30を右折して,ラハイナの町,つまり,海岸通りを走って車を停める場所を探すことにした。
 ラハイナに行ったことのない人は,湘南海岸の様子を思い浮かべてみるとよいであろう。
 ところが,ここもまた,ものすごい車で,なかなか車を停める場所が見つからないのであった。
 ずいぶんと走って,一度ラハイナを通り過ぎて,再び戻って,私は民間の駐車場に車を停めることにした。
 その駐車場もかなり混雑していたが,なんとかスペースを見つけて車を停めることができた。
 
 1795年といえば,日本では徳川家斉が将軍で文化文政時代華やかなりしころである。フランスではフランス革命戦争が起こっていた。
 この年,カメハメハ大王がハワイを統一した。この年から1845年にカメハメハ3世がホノルルに遷都するまで,ラハイナはハワイ王国の首都であった。このころ,アメリカの捕鯨船がハワイ諸島に来航し,首都ラハイナは捕鯨船船団の基地として活気づいていた。また,アメリカ本土から宣教師が訪れて,学校や教会を建てたり英語を教えたりとハワイの近代化に貢献したのだった。その時代の史跡が今もラハイナに残っているわけだ。

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●これほど美しい水着姿の女性は…●
 ホノコワイ・ビーチパーク(Honokowai Beach Park)はホノコワイのリゾートにあったパブリックビーチであった。海岸に出る小径を歩いていると,多くの水着姿の若者とすれ違った。そのなかに私は,人生でこれほど美しい水着姿の女性を見たことがない,という人とすれ違った。実は,私がこのホノコワイ・ビーチパークで一番印象に残っているのはこのことである。写真がないのが残念でならない。
 ハワイというとサーファーのイメージが浮かぶと思うが,そうしたプロのサーファーがいるのは,オアフ島のノースショアとかここマウイ島のホオキバビーチのような波の高い北の海岸であり,それ以外の場所では,ほどんどの人は砂浜で戯れいているか水浴びをしているだけである。

 日本という道徳心と節操のない国では,何をするときも必ず少数の迷惑者が存在し,そのために大多数の善意の人がかなりの被害を被る。そうした迷惑者はなんらかのブームがくると興味もないくせにそれに乗っかろうと現れ,秩序をめちゃくちゃにして去っていく。そして残るのは規制だけなのだ。
 たとえば「撮り鉄」と呼ばれる鉄道を写す趣味でも,線路内の危険な場所に入り込んだり花をむしったりする。たとえば「星の美しい」といわれる場所でもそういう場所に入り込み,ゴミを捨て懐中電灯で暗さを台なしにする。それを個々に注意したり逮捕すればよいものを,この国では面と向かって注意することをせずに,柵で覆ったり立ち入り禁止にしたり,安全のためとして電灯が設置されるといったように,無言で物理的に対策をとる。道路でもそうだ。ある一部の無法運転を防止するために,やたらと道路内にポールが設置されたり柵ができる。
 当然,アメリカでもそうした輩はいるのだが,この国はそういった場合,面と向かって注意をする。悪質な場合は逮捕する。だからそうした少数の悪者のために全体を犠牲にするような美観を損ねる柵ができたりはしない。
 
 それは次のようなところでも実感できた。
 私が海岸を見ていたら,サーフボードで遊んでいたひとりの女性が危うく波にさらわれそうになったのを目撃した。私が驚いたのはその瞬間であった。
 アメリカの海水浴場には必ず見張り場がある。これもまた日本と違うのは,どこも同じデザインの建物であり,共通性が保たれていることである。その建物からものすごい勢いで見張りをしていた係員が降りてきて乗り物にのって砂浜を一直線にその女性をめがけて走っていった。そして,たちどころに彼女を救出した。そして,その後,その女性の体調を聞き,注意を促したのだった。

 ホノコワイ・ビーチパークを出て州道30をさらに南下していくと,海岸線から少し入ったところを走っていた州道30が海岸線をしばらく走るようになる。そこにあったのがハナカオオ・ビーチパーク(Hanakao'o Beach Park)であった。

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●記憶がごちゃごちゃになっている。●
 西マウイ最北端からの帰路,州道30を南に走りながら,主だった場所で車を停めながら気ままに観光をすることにした。
 ハワイに限らずアメリカで最も問題なのは駐車場探し。私がこのごろめっきりアメリカで嫌いになったのは車の多さである。多いだけなら日本のほうがずっと道路が狭いだけ混雑しているし運転マナーも最悪なので,私はアメリカで車に乗るがほうがずっとストレスがないのだけれど,車を停めるのに苦労するのは日本と同様なのである。
 アメリカでは一般道に駐車帯があるのだけれど,それが空いていたためしがない。無料の公営駐車場があったりもするが,やはり車が一杯でスペースを探すのが大変である。したがって,少し離れた場所に車を停めて歩くか,さもなくば有料駐車場に停めるということになる。
 この頃困るのはパーキングメーターなどで,スマホのアプリで料金を支払うというものがでてきたということで,こんなシステム,観光客にはまったくなじまないのである。

 州道30の通る海岸線に沿って,北から順に,カバルア(Kapalua),ナピリ(Napili),カハナ(Kahana),ホノコワイ(Honokowai)といった新しいリゾートがあり,それを過ぎると,マウイ島でもっとも大きなカアナパリ(Kaaanapali)リゾートに着く。
 そして,さらに南下すると,マウイ島の古都ラハイナ(Lahaina)である。
 今日は,カパルアからホノコワイまでの様子をご覧ください。

 最北端から道路だけで何も見るべきものもない州道30はカパルアに差しかかると急にリゾートエリアになって,大きなホテルが立ち並ぶようになる。私はその交差点を右折して州道30から離れて,海岸線の狭い道路を走ることになった。
 この旅は2017年の3月に行ったのだが,この後,私は2017年の6月にはオーストラリアに行き,8月にはアメリカ本土のアイダホ州とワシントン州,そして,アラスカ州まで足をのばし,わずか1か月少し前にハワイ州カウアイ島に行ってきた。それが,どういうわけか,この3月のマウイ島と11月末に行ってきたばかりのカウワイ島の記憶がごちゃごちゃになってしまっているのだ。写真を見ながら,これはどちらの島だったのだろか? と不思議になることだらけなのである。そしてまた,昨日行ってきたような錯覚にさえ陥るのである。
 もう,時間の感覚も,そしてまた距離の感覚さえもめちゃくちゃになってきたようなのである。

 ともかく,私はカバルアのリゾートエリアの道路を走り,再び州道30に戻り,今度は左折して高台にあるカパルア空港に行き,再び州道30を横切り,ホノコワイ・ビーチパークへ行って,空いたスペースに車を停めて,海を見にいったのだった。

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●秘境・マウイ島北の美しい海岸線●
☆6日目 3月27日(月)
 7泊9日のこの旅の6日目。残すはあと2日であった。
 この日はこれまで行っていなかったマウイ島の西側のふくらみを海岸線に沿って時計回りに一目散にレンタカーで通行禁止になる手前まで行くことにしていた。これでマウイ島のほどんどの海岸線を走ることができる。そして,そこからの帰路にゆっくりと観光をしながら戻ってくることにした。
 マウイ島に到着した日にホエールウォッチングクルーズが出発するまでの待ち時間に途中までは行ってみたが,その先は私には未開の地であった。

 朝食はいつものように近くのスーパーで適当にケイタリングしてスーパーの外のテラスで食べた。このスーパーがあったおかげでずいぶんと助かった,
 食事を終えて,さあ,出発である。
 マウイ島で最も混雑するといわれる「ホノアピイラニ・ハイウェイ」(Honoapiirani Hwy)だが,早朝はまだほど車が走っていなかったので助かった。途中の展望台で一度だけ休憩して,あとは停まらずマウイ島の最北端であるホノコハウ(Honokohau) まで走っていった。
 西側の海岸線に沿って,ラハイナ(Lahaina),カアナパリ(Kaanapali),ホノコワイ(Honokowai),カパルア(kapalua)というように,見どころがたくさんある。これらの見どころは帰路に行くためにとっておくとにしてすべて通りすぎた。

 最後のリゾートエリアであるカパルアを過ぎると,急に素朴な風景が広がるようになった。私にはここからが楽しみなドライブなのである。とともに,ツアーで訪れる人たちには行くことのできない真のハワイの姿がある。
 マウイ島は道路を走っていても地名の書かれた標示板が全く見つからないところで,いったい今どこを走っているいるのか,地図上のどこになるのかサッパリわからない,と以前書いたが,ここもまた同様であった。
 さらに北に向かって走って,私の視野に真っ青な海岸線が広がるようになったときに,写真のようにホノルア(Honolua)という唯一の標示があった。このあたりの展望台から眺める海岸線はとても美しかった。ヨットが浮かび,海で戯れる人がたくさんいた。
 ハワイに行って海で遊ぶならこういうところにいくべきであろう。

 さらに進んでマウイ島最北端・ホノコハウ(Honokohau)をすぎても道路は相変わらず2車線の舗装道路で,坂をどんどん登っていく。この日は幸運なことに天気がとてもよかったこともあって,ものすごく雄大な風景と青空と青い海が果てしなく続ていいて,その中を走っていくのが快適であったが,この先どこまで行くことができるのかだんだんと心配になってきた。
 道路は依然として2車線で舗装されていて,もっと先まで行けそうであったが,次第に走っている車が少なくなってきたので,そろそろ引き返すことにした。

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●人間はもっと謙虚であるべきだ。●
 いよいよツアーバスがやってくる時間になった。今回マウイ島に来た目的はハレアカラというところがどういうところか知りたかったからであった。山頂で夕日が沈むのを見てその後に現れる満天の星空が満足に見られるところなのか,それとも日本の観光地のようにどこも人にあふれているところなのか…。
 保険をかける意味でさっそく到着した日にツアーの予約をしたのだがツアーを待つ間もなく私は自分でそれを実現してしまった。そして今日はツアーで再び山頂に行くことになった。

 マウイ島で星空観察を行っているのはマウイオールスターズというツアー会社だったが,実際は山内さんがオーナー兼ガイドをやっている個人営業のような会社であった。
 山内さんの話では,マウイ島では州の規定で一度に11人までしかツアーで山に登るのが認められていないということで,それがハレアカラの山頂に多くのツアー客が押しかけることのない秩序となっていたし,ハワイ島のマウナケアと違って山頂まで舗装道路があってレンタカーを使えばだれでも登れるのはハレアカラの山頂に軍の施設があるというのが理由であった。

 私が参加したツアー御一行様は4人連れの家族と5人連れの家族,そして日本語ペラペラの中国人と私であった。
 実は実は,この山内さんは意外なところで意外なつながりが後で発覚するのだ。まさしくビックリポンである。地球は恐ろしく狭いのであった。事実は小説より奇なりである。そのことは今後の展開が楽しみなのでここでは書かない。しかし,私がいつも思うのは,まるでインフレ―ジョン宇宙のように勇気を出して日本から一歩外に出てみると,突如世界は自分の力を越えてものすごい広がりを見せるということなのである。学校の成績がどんなによかろうと一流企業に入って出世しようとお金持ちになろうと,それでは得られない世界があるということなのだ。
 だから,若者よ,旅に出よう!

 ツアーはまずドーナッツ屋さんへ行ってドーナッツを食べて,次にスーパーに寄ってそれぞれが自分の好きな夕食のお寿司を買って(このお寿司一応予算があるそうだが,まあ,少しくらい越えてもいいらしい),クラロッジによって時間をつぶして,それから山に登って夕日を見て,暗くなるまで待って山頂から少し降った駐車場で望遠鏡で星を見るというものだった。
 私の予想に反してこのツアーは人気があって,山内さんは連日このハレアカラの山頂に登っているのだそうだ。今後も1日も長くこのツアーが続けばいいと願う。

 このマウイ島ハレアカラの天体観察ツアーに加えて,私はここ2年でハワイ島マウナケアの天体観察ツアー,そして,ニュージーランド・テカポ湖畔の天体観察ツアーに参加した。そして,自力でもこうした場所で星空を見ることができた。そしてまた,アラスカ・イエローナイフではオーロラ観察をすることもできた。そうして得た結論は,人間がいかに科学を発達させようとも,神の作りたもうたこの大自然を凌駕することは不可能だということである。人間はもっと謙虚であるべきなのだ。

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●自己嫌悪に陥るのであった。●
 私は再びパイアの町にやって来た。パイアの町は通り抜けてはいたものの車を停めて散策したことがなかったからであった。この町を通る州道36だけがマウイ島の東側の北の海岸線をハナまで行く唯一の道路なのであるが,この道路はパイアで必ず渋滞に巻き込まれる。それは,車を駐車するスペースや駐車場が少ないからである。
 アメリカは広いから日本と違っていくらでも土地があるような気がするだろうが,実は,こうした小さな町では道路のまわり一帯がショッピング街になっていて,そうした町は日本とは違って路上駐車が可能なように道幅があるのだが,そこはいつもほぼ車が一杯で駐車スペースを探すのが容易でないのだ。
 ここパイアの町もまた同様であった。探してみると,パイアでは町のはずれに駐車場があって,そこなら車を停めるスペースが若干はあった。しかしこの駐車場から出るにはひっきりなしに車道に車が走っていてしかも信号がないからとても大変なのであった。そんな状況で車が駐車場から出入りするから今度は車道がふさがれるのでこの道路は車が一日中滞るのである。

 こうした町は,このマウイ島のパイアやワイルク,ハワイ島のカハルウ(Kahaluu),カウアイ島のカパア(Kapaa)といったハワイの町だけでなく,オーストラリアやニュージーランドにも多くある。私はここ数年,そうした町にずいぶんと行ったので,今思い出すとそれらの町がこんがらがってしまっていて,どの町がどうだったのがさっぱり思い出せないのだ。
 
 とはいえ,こうした町にあるのはレストランやら土産物屋やらブティックやらであるが,そのどれも私が興味をそそられるようなところではないのである。強いて言えば私に用があるのは食堂くらいのものだが,とはいえ,こうした町にある食堂はどこも高いだけなのである。
 パイアの町もまた同様であった。
 やっと車を停めた私はさほど広くもないパイアの町の南側の歩道を歩いて町はずれまで行って,そこで道路を渡って今度は北側の道路を引き返してきただけであった。
 こうした町の楽しみ方を覚えない限り,私は今後,海外旅行をしても暇を持て余すだけでないのかと,正直心配をしているわけだ。

 この日の夜はハレアカラの天体観察ツアーに参加することになっていたので,3時50分にそのピックアップがホテルに来るからその時間までにホテルに戻ることにした。
 夕食はツアーに含まれていたから,お昼は軽くおやつ代わりに何かを食べることにして,いつものホテルの近くのマウイモールのフードコートに寄ってハンバーガーを注文した。
 結局これではわざわざハワイに行かずとも,自宅にいて気が向いたときに家の近くの(我が家の近くには3つもショッピングモールがあるのだが)モールに行ってマクドナルドでコーヒーでも飲んでいるようなものではないか。私は自己嫌悪に陥るのであった。

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●移民時代の歴史がわかる博物館●
 この日は「地球の歩き方」に載っていた中央マウイの博物館巡りから「マウイ・トロピカル・プランテーション」と「アレキサンダー&ボールドウィン砂糖博物館」を訪れた。「マウイ・トロピカル・プランテーション」を見学した後,私は「アレキサンダー&ボールドウィン砂糖博物館」に向かった。

 「マウイ・トロピカル・プランテーション」から南に州道30を走り,左折して州道380を今度は北北東に進路を変えて,今度は右折して州道331を南に行くとこの博物館は数日前に朝食を食べたレストラン「ジッピーズ」の近くにあった。
 博物館は州道331の左手にあって少し州道から入ったところにあったので注意深く道路標示を探して左折すると博物館があって,駐車場に車を停めた。
 ここもまたアメリカの博物館らしく,ほどんど目立つ看板もなく,入っていいのかしらん,というような入口から中に入った。

 「アレクサンダー&ボールドウィン砂糖博物館」(Alexander & Baldwin Sugar Museum)というのはマウイ島のプウネネにある博物館でり,1987年にオープンした。
 ブウネネはかつてサトウキビ産業で栄えた古い町で町(といっても町らしいものもないけれど)の中心にあるアレクサンダー&ボールドウィン製糖工場は今も稼働している。
 博物館はその一角にあって,アレクサンダー&ボールドウィンを含むハワイの砂糖産業の歴史資料が展示されている。博物館となっている建物はもともと農地管理のための施設で1902年に作られたものをそのまま使用している。

 ハワイのサトウキビ農場は日本からも多くの移民が入植し,厳しい環境の中で生活をしていた。この決して大きくない博物館には,そうした移民が日本からもってきた荷物だとか,暮らしていたころの生活用具とか,さらには仏壇までもが展示されていた。
 何度も書くように,現在のハワイは観光地として多くの日本人が訪れて,そのほとんどがオアフ島のホノルルに滞在しているのだが,一旦そこを離れると,サトウキビ農場やコーヒー農場に,そうした時代の移民の暮らしぶりを今も感じることができて,私は考えさせられるものがある。

 博物館の外に出ると,畑の整備に使われたオーブンや運搬に使用されたカフルイ鉄道の車両などが無造作に置かれていた。
 博物館というのは,いわば,使われなくなった「ガラクタ」の物置場なのだが,それを処分するでなく,こうして展示することで,その時代の人たちの生きた証となることに意義を感じるのだった。

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●マウイ・トロピカル・プランテーション●
 「マウイ・トロピカル・プランテーション」(Maui Tropical Planttation)はワイルクからマアラエアに行く州道30の途中にある。イオア渓谷に行くことができなかった私は,次にこの「マウイ・トロピカル・プランテーション」に向かった。私は駐車場に車を停めて中に入った。「マウイ・トロピカル・プランテーション」というのは農業博物館,というよりも植物園のようなところである。

 このプランテーションの広さは120エーカーもある。といっても,エーカーという単位がよくわからない。よくよく考えるに,日常からさまざまな「単位」というものは必要不可欠であるにもかかわらず実はかなり理解がいいかげんなのである。それに,海外,特にそれはアメリカであるが,日本とは使われている単位が違うので非常に困るのである。
 そもそも日本だって土地の広さでは今でも「坪」という単位を使っているが学校では一切教えず,そんな単位はないものとなっている。しかし,本当にそれでいいのであろうか? むしろ古典で助動詞の活用を学ぶことよりもこうした単位を覚えることのほうがずっと有意義である。
 ということで,ここで「エーカー」について少し考えてみたい。

 1エーカー(acre=ac)は約4047平方メートルである。坪にすれば1224.17坪であるが,坪の方がむしろわかりやすいだろう。また,1エーカーは0.40468564224ヘクタール,つまり約0.4ヘクタールということだ。
 1ヘクタールというのはは100アールであり,1アールは100平方メートルだから,1ヘクタールとは1辺が100メートルの正方形,つまり,野球場くらいのものであるので,1エーカーというのは野球場の0.4倍というところである。そこで,120エーカーというのはその0.4倍の48ヘクタール,つまり,野球場48個分ということになる。
 つまり,エーカーを0.4倍した値を野球場1個分と考えればいいわけだ。
 そもそも,エーカー (acre) という名前は、ギリシャ語で「牛のくびき」を意味する言葉に由来し,「雄牛2頭引きのくびきを使って1人が1日に耕すことのできる面積」として作られたものだそうだ。

 この「マウイ・トロピカル・プランテーション」の入場料は無料である。広い園内には「トロピカル・エクスプレス」という電気自動車が走っていて,バナナやパパイヤ,アボカド,マカダミア ナッツなどの畑を通るが,これは有料である。私は歩くほうが早いとばかりに園内をくまなく歩いて回ったが,暑かったのでかなりばてた。
 このプランテーションには5つのジップラインがあって,子供たちが遊んでいた。ハワイには珍しいアミューズメントパークであった。
 アウトドアコンサートやココナッツ剥き,パイナップルのカット実演,そして,ミルハウスレストランではディナー ショーが行われたりもするそうである。
 

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●天文ファンの聖地●
☆5日目 3月26日(日)
 7泊9日のこの旅の5日目で,1日目はオアフ島を観光して夜このマウイ島に来たからマウイ島の4日目であった。今日を含めてまだ3日ある。
 海外旅行というのは時差があるので日数を数えるのがとかく難しい。ハワイであれば時差が-19時間もあるので(つまり19時間もとに戻れるので),7時間かけて到着しても12時間過去に戻れるわけで,1日目の夜9時30分に日本を出発しても12時間引くと午前9時30分,つまり,同じ日の朝到着するからその日の観光ができる。反対に帰りは朝出発しても日本はその時間よりも19時間先を行っているのですでに翌日になっていて,しかも帰りはジェット気流の関係で行きよりも時間がかかるから日本に帰国すると次の日の夕刻になってしまう。
 つまり,7泊9日であれば,実質観光できるのは1日目から7日目の7日間ということになる。そして,今日がその5日目ということであった。
 それにしても,マウイ島だけで6日間というのは長い。ツアーであればマウイ島に滞在するのは長くて2泊だろう。こんな旅をしている日本人も少ないであろうが,そこで私はマウイ島を隅々まで見て回ることができた。
 何度も書くが,このマウイ島という島はリゾートから古い町並みまで,要するに,ディズニーランドから房総半島や高山までというような,狭い島なのに様々な面をもつ島であった。

 今日の1番目の写真はホテルからハレアカラの山頂を望んだもので,天文台のドームがきれいに見えた。この天文台こそ,現在彗星を多く発見している「パンスターズプロジェクト」(PanSTARRS Project)を遂行しているまさに総本山,いわば天文ファンの聖地である。
 星を見るにはハレアカラの3,000メートル級の山頂はハワイ島マウナケアの4,000メートルよりも低くそれだけ寒くなく天気もよく道路もよいのでずっと便利なのである。
 今日は夕方からハレアカラの夕日と星空を見る日本語ツアーに参加することになっていた。来るまで予定はなかったが調べてみるとそうしたツアーがあるのをインターネットで知って予約をしたらなんと2日前にハレアカラをドライブしていたときに電話がかかってきて,この日しか空きがないと言われた。結局その日も含めて2回も個人でハレアカラに昇ったのでいまさら参加する必要もなかったのだが現地の様子とかいろんな情報を得るには参加するのも意味があるかなあ,と思ってキャンセルしなかった。ツアーは3時50分にホテルに迎えにくるということだった。

 朝食はホテルの敷地内にある「タンテス」(Tante's)というレストランにした。このレストランは非常に評判のよい店だそうである。
 9時頃にホテルを出発して,まず,車で10分程度のところにあるイアオ渓谷(Iao Valley State Park)に向かった。イアオ渓谷は針のようにとがった異形を見せるイアオ・ニードル(Iao Needle)をはじめとして,マーク・トウェンが「太平洋のヨセミテ」とよんだほどの渓谷美ということで,マウイ島一番の見どころであるらしい。
 イアオ渓谷はワイルクのダウンタウンから少しわかりにくい道路を西マウイの山のほうに向かって走っていくとある。道路は日本の山道のようになってきたのだが,なぜか途中で通行止めになっていた。
 こういうのがまたアメリカらしいのだ。この道路を走るのは渓谷に行く観光客くらいのものだからワイルクあたりに道路標示でもあればいいのにそんな気はもうとうないらしい。なんでも豪雨で道路が破壊されてしまったらしい。引き返すしかなかったが,結構多くの観光客が私と同じように途方にくれていた。

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●地元民ご用達のレストラン●
 ホテルへの帰り道に地元民ご用達のお店で食事をすることにした。
 私がマウイ通のEさんから紹介していただいたいくつかのお店の中でまず「サム・サトウズ」(Sam Sato's)へ行ってみた。ここはワイルクの住宅街のとてもわかりにくいところにあった。普通の住宅みたいでどこが入口なのかもよくわからなかったのだが,まったく人影もなかった。お店の看板を見ると,午後2時までということで,どうやらこのお店は夕食を食べるところではないようであった。このお店は後日また行くことになる。
 そこで,次に行ってみたのが「テイスティ・クラスト」(Tasty Crust)であった。ここは住宅街というよりも道路に沿った場所にあった。いわば,日本に来た外国人がいきなり地元の小さな飯屋に行くようなものだ。それは別に問題はないのだが,私にとって問題なのはメニューがよくわからない,ということなのだ。

 海外に出かけて,一番の問題なのは食事だと思われる。ツアー旅行で行って食事がついているなら,あるいは食事がついていなくてもホテルのレストランなどを利用するのなら何の問題もないであろう。私も海外旅行をはじめてしたころはそんなものであったが,しかし,それなら海外旅行をする楽しみの多くの部分はないわけだし,物足りなかった。
 マクドナルドのようなファーストフードばかりを利用している人もいるが,これもまた,なんかなさけない話である。ただし,ファーストフードはそれなりに便利なもので,私もよく利用する。
 今回はせっかくマウイ島に行ったのだから,地元の人が利用するようなお店にできるだけ行ってみようと思っていた。

 まだ時間が早かったので,一般の夕食タイムではなく,お客さんは数人しかいなかった。メニューをみて,ロコモコを注文することにした。しばらく待って出てきたこのお店のロコモコは写真のようなものであった。
 ロコモコ(Loco Moco)というのはハワイの料理のひとつで,飯の上にハンバーグと目玉焼きを乗せ,グレイビーソースをかけたものが基本である。
 もとは学生向けの安価なファーストフードだったが,近年注目され,ハワイの郷土料理としての色彩が濃くなってきている。
 このロコモコのルーツは完全には明らかになっていない。ハワイ大学のジェームズ・ケリー教授の研究によれば,1949年にハワイ島のヒロでリンカーングリルという小さなレストランを営んでいた日系2世のナンシー・イノウエによって発案されたとしている。
 日本の伝統的な流儀で,飯をよそった丼に焼いたハンバーガー・パティを載せ,料理人として有名店で修行した夫のリチャード・イノウエが作った自家製のグレイビーソースをたっぷりとかけて若者向けの安価な食事として出したというのである。
 「Loco」 とは「イカレた奴」,あるいは「Local=地元」との掛詞で,このレストランの常連の高校生のひとりのあだ名に由来するともいわれている。また「Moko」 にはハワイ語で「入り乱れる」「混ざる」という意味があるが,単に語呂がよかったので定着したのであろうという話であった。

 まあ,いずれにせよ,食事という点では日本が一番だから,多くを期待してはいけない。なにせ,このロコモコ,まったく野菜がないというのが最大の欠点だし,アメリカのお米というのもまた,どうしてこうして丸くしたものを配膳しちゃうのだろう? と思うのである。

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●マウイ島と孫文●
 私は再び南マウイから中央マウイを経由してホテルまで戻ることになった。その途中,ハレアカラの麓の途中孫文(Sun Yan孫逸仙=孫中山)を記念する公園(Sun Yat Sen Park)があった。
 寂れた公園で道路脇の駐車場に車を停めて自由に入ることができるのだが,公園には雑草が生い茂り,歩道は整備されておらず,中にいたのはニワトリだけであった。
 この公園はかなりの斜面に築かれていて,いくつかの獅子像と真新しい孫文の像およびかれの主張した三民主義と統治形態,さらに世界平和にむけての理論的主張が英語と中国語で述べられていた。

 孫文は,中国の政治家で初代中華民国臨時大総統であった。「中国革命の父」と呼ばれる。譜名は徳明 ,字は載之,号は日新,逸仙 (Yìxiān) または中山。中国や台湾では孫中山として,欧米では孫逸仙の広東語ローマ字表記であるSun Yat-senとして知られる。
 清国広東省香山県翠亨村の農家に生まれる。12歳のとき,地域信仰の象徴であった洪聖大王木像を地元の子供らと壊したことから,兄の監督下に置かれることが決まる。当時のハワイ王国にいた兄の孫眉を頼り,1878年,オアフ島ホノルルに移住,イオラニ・スクールを卒業。同市のプナホウ・スクールにも学び西洋思想に目覚めるが,兄や母が西洋思想に傾倒する孫文を心配し,中国に戻された。
 清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き,1894年ハワイで興中会を組織した。彼の家族はハレアカラの傾斜に避難した。
 1904年,清朝打倒活動の必要上「1870年11月ハワイのマウイ島生まれ」扱いでアメリカ国籍を取得した。

 とまあ,そんな次第でこの地に孫文にちなんだ公園があるのだが,私がここに行ったときはそんなことは全く知らず,なんだこの怪しげな公園は? と思っただけであった。おまけにお恥ずかしいはなしだが,「Sun Yat Sen=孫文」ということすら知らなかった。
 話は少し脇道にそれるが,カタカナ表記やら日本の科学用語やら専門用語というのは実に迷惑なもので,たとえば旅行で予約したホテルの名前もカタカナで表記されたところで検索もできず場所もわからない。この「Sun Yat Sen」という表記も,学校では学ばないからわからないのである。
 また,自然科学の分野でも「因数分解=factorization」すら知らないから,将来,専門的に研究をするときに論文が読めないのである。

 この孫文公園をしばらく散歩したが特に何ということもなく,感銘も受けず,私は再び車に戻った。
 走っていると,小さな農場があった。ここは農場というより日本の道の駅のようなところで,広い駐車場があって,そこに車を停めた。そこにはさまざまな果物やら花やらが売られていたが,外には動物が放し飼いされていて,さらには,この高台からマウイの南の美しい海岸線が眺められた。

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●ここはハワイの地の果てなのか?●
 前回も書いたように,この先どこまで走ることができるのかさっぱりわからなかなった。地図には地名が書かれていたが,地名があっても家の1件もなく,したがって地名の標示すらないのだった。そもそもこのマウイ島最大の欠点は人の住んでいるところもまた,地名の標示がないことであった。ほんの少し前に行ってきたカウアイ島はどの町も町に差しかかると大きな地名の標示があったから,これはハワイの問題ではなくマウイ島の問題であろう。そこで,どこまでが通行できるのかさっぱり不明なのであった。
 今日の1番目の写真を改めて見て私はここで州道31が終わるということをはじめて知った。見損ねていた。しかし,写真でもわかるように,この先も同じような片側1車線の舗装道路が延々と先まで続いていた。しいていえば,片側1車線とはいえ,すれ違うのがやっとの狭い車線になったことであった。それでも,ハナに行ったときのくねくね道よりもずっと広いし見通しもよかった。見通しがよいというよりもなにも,な~んにもない海岸線にそった草原をずっと道路が伸びているだけのことであった。これではどこまで行くことができるのかさっぱり不明であった。

 地図によれば,この先をずっと行けば島を1回りできるし,ハナに到着する。しかし,走っている車などほとんどなかった。
 そうこうするうちに,海の向こうにハワイ島がかすんで見えるようになってきたから,進む方角が変わってきたのであろう。ハワイ島を見るとその最も高いマウナケア山頂に天文台のドームが白く輝いていることに私は感動した。これはすごい景色であった。
 そのうちに道路が狭くなってついには両側1車線になった。それでもまだ舗装された道路が延々と続いていたが,まわりは草原からハワイ島のような溶岩台地になってきた。どうやらこのあたりが限界であるらしいと思ったので,引き返すことにした。
 なんだかものすごい景色であった。そしてまた,これもマウイ島の姿なのであった。

 結局,私はこの旅とそしてこの後に行ったカウアイ島を含めると,オアフ島,ハワイ島,マウイ島,カウワイ島のハワイ4島に行ったことになるのだが,帰ってからしばらくして思い出すのは,そしてまた行ってみたいなあと思うハワイは,こうした大自然のある場所だけなのである。
 もともとハワイというのはこうした大自然の島だったのであろう。火山の島だから土壌に植物が育つのは困難であるけれども,しかし人は生きていかなくてはならないから,大変な苦労をしてコーヒーやらさとうきびやらを栽培したのだろう。そうして暮らしていた後に,この島にアメリカ本土から観光という波がやってきて,島のあちらこちらに巨大資本がリゾートを作っていったのである。つまり,自然を破壊していったのである。

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●どこを走っているのやら…●
 南マウイの道路がなくなっている場所まで行って美しい海岸を見て,私は引き返すことになった。
 このように,道路ひとつとっても,このマウイ島は様々な姿を見せる。それは,片側数車線もある広い道路からすれ違うこともできないような細い道路までさまざまなことである。

 再び来た道を延々と中央マウイまで引き返した。私が走ったマウイ島の東側の島の部分の西海岸の州道31はワイレアが終着点でその先に道路がない。いや,地図によれば狭い未舗装の道路がもう少し先まで続いてるらしいのだが,レンタカーは通行禁止である。
 そして,このマウイ島の中央にハレアカラがそびえる東側はその山麓の西側を州道31に平行に州道37がもっと島の南に向けて走っていて,その道路がやがて島の南の海岸線を東に向けて通じていてさらに一周してハナまでつながっているが,この道路も途中から狭くなってレンタカーでは通行が禁止になる。
 そこで私はレンタカーでの通行禁止になるところまで行ってみようと思ったのだった。
 しかし,この州道31から州道37に行くアクセス道路はなく,中央マウイまで引き返す必要があったのだ。

 再び州道31沿いのリゾートタウンをみながらやっと州道37との分岐に出て,再び今度はハレアカラの山麓を南に向けて走り出した。
 この州道37は途中でハレアカラに登る山岳道路の分岐がある。今回は途中の「パンダエクスプレス」で昼食をとってからそこを過ぎて,さらにクラという町を目指して走っていった。
 この州道37の走る高台からは右手,つまり西側に美しい海岸線が望まれ,また,道路はのどかな高原ムードが満載でとてもすばらしいところであった。これがさきほど走った州道31と同じ島の道路とはとても思えないほどであったし,私がマウイ島で最も気に入ったのはこの場所であった。

 クラという町とはいってもレストランがあるわけでもなく,しいて,なにか見どころがあるとすれば,なんとワイナリー,つまり,ハワイにワイナリーなのだ!,それと植物園,それくらいのものであった。そうした場所は後で訪れることにして,ともかく,レンタカーで行けるところまで行ってみようと,私はどんどんと走っていった。
 次第に道路は狭くなっていったが,それでも片側1車線の車がすれ違うことが可能な道路が延々と続いていた。カーブや坂が多くなってきて,まわりには全く人家がなくなってきた。さらに進んでいくと,海が見えてきた。もう,その先はにあるのはうねうねとどこまでも続く道路だけになってきた。
 レンタカー会社でもらった地図には地名が書かれていて,その先は通行禁止のはずなのだが,一体全体,地名の標示などまったくなく,いまどこを走っているかすらわからないのであった。
 

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●「マウイ最後のリゾート」だった●
 やがて中央マウイを過ぎて東マウイの西海岸に差しかかった。このあたりの地名をキヘイ(Kihei),そして,その南をワイレア(Wailea),そしてさらにその南をマケナ(Makena)という。ここは,マウイ島で一番のリゾート地である。
 キヘイの海岸は約10キロメートルに及び,カラマ公園,カマオレ・ビーチパークなどの公園が点在し,ショッピングセンターも多くある。また,ウインドサーフィンのゲレンデとしても有名である。キヘイはリゾートの中では比較的安価なので一般の旅行者向けのホテルやコンドミニアムも多いが,非常に混雑していて,私は好まない。
 キヘイの南はワイレアである。この「魔法のように変貌を遂げた」といわれる超高級リゾートである。ここは多くの別荘や豪華なホテルが海岸沿いにならんでいて,ほかの場所とはまるで異なる雰囲気を醸し出している。聞くところによると,このあたりはアメリカ本土の大金持ちの別荘地域であるらしい。

 さらに南下するとマケナに達する。日本がバブルのころ,この地に西武グループが「マウイ最後のリゾート」として建設し売り出した。現在はオークラのリゾートとなっている。私はこうしたリゾートはお金を大企業に貢ぐだけのものだと思っているからまったく興味がない。
 さらに進むと,道路がどんどんと狭くなっていっていった。私は地図を頼りに走っていたのだが,このあたり,私は道がわからなくなった。やがて,車がすれ違うことも不可能なほど道路が狭くなっていって,しかも,けっこう坂やカーブが多くて,この先どうなるのやら,と思うようになった。まだ先に道は続いていて,舗装もされていたからレンタカーで走行するのは大丈夫そうであったが,そろそそそれも終焉が近いらしいことがわかった。
 そのうちは道路は海岸線を走るようになった。それまでのリゾートがうそのように急に素朴な海岸になった。
 おそらく,ここをリゾート開発しようとする前からあったのはこうした海岸であるのだろう。
 やがて,美しい海岸に到着した。ここがこのマウイ島の東部分の西海岸の道路の終焉であって,この先にレンタカーの走れる道路はなかったから,私は駐車場を探して車を停めた。
 ここには白砂の美しいビーチが広がっていた。私がハワイでみたもっとも美しい砂浜であった。

 それにしても,どうしてこれほど美しいこの島をそのままにしておかないで広大なリゾートに作り変えてしまうのであろうか? そうしたリゾートはハワイのいたるところに点在するのだが,こうした日本人には想像のできないほど広大なリゾートは閉鎖的に囲まれていて,ゴルフコースがあったり,芝生で覆われて池には噴水があり,海に面してホテルが作られて,そこにはプライベートビーチがある。しかし,いくらお金があったところで,そんな映画セットのような場所で休暇を過ごして何が楽しいのだろうか? 私はそのことがまったく理解できないのである。

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●見晴らしのよい中央マウイ●
 この旅をしていたときは,まだ,カウアイ島には行ってないかったから,私が知っているハワイの島はホノルルのあるオアフ島とハワイ島,そして,このマウイ島だけであった。
 オアフ島は別として,ハワイ島とマウイ島は全く別のよさがある。また,LIVEで書いたようにこの11月にカウアイ島に行ったので,その結果,私のマウイ島に対するイメージも少し変化したが,いずれにしても,このマウイ島というのは素朴なハワイとリゾートのハワイ,そして雄大な大自然など,さまざまな顔をもつ島である。ツアーで訪れる多くの人はこのうちで素朴なハワイというのは知らないだろうし,大自然はオプショナルツアーで行くくらいのものであろう。
 しかし,私がハワイに求めるののは素朴なハワイと大自然なのである。

 この日私はマウイ島を海岸沿いに走れるだけの道路を走ろうと思って動き回っているが,西側の北海岸に沿ってレンタカーでの通行が禁止されてるところまで行って引き返して,次に向かったのはひょうたん型の島の中央のくぼみの部分を南下して東側の島の西の海岸であった。
 中央マウイとよばれるくぼみの部分は広がった平地であって,とても見晴らしがよい場所である。走っている車は多くないが道路は広くとても気持ちがよかった。

 私の泊まっているマウイ・シーサイドホテルは中央マウイの北海岸の東側だが,その町をカフルイ(Kahului)という。そこから西に行った場所がワイルク(Wailuku)で,ワイルクはモロカイ島,ラナイ島,カホウラウェ島を含むマウイ群庁があって,のどかで古い町がある。そこから中央マウイを西側に沿って広い道路である州道30が南マウイに向かって続いている。
 私はこのあともこの道路を何度も走ることになるが,ここにはベイリー・ハウス博物館とマウイ・トロピカル・プランテーションという植物園がある。結局,この旅ではベイリー・ハウス博物館には行く機会がなかったが,マウイ・トロピカル・プランテーションには後日行くことができた。このときは,広い敷地があるなあ,と思いながら走っていただけであった。

 やがて,中央マウイを過ぎて,マアラエア(Maalaea)に着いた。ここが,私がホエールウオッチングをしたときに予約をしたマウイ・オーシャンセンターのある場所である。
 ビギナーズラックというか何というか,私がさまざまなところを旅したときに,まず到着してその地のことがよくわからないときに適当に車を走らせたときに通った場所というのが,その場所の一番の見どころだったりすることが多いのだが,それは幸運というよりも,そうした場所だからこそ,一番の見どころになるのであろう。 

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●さまざまな顔をもつ島●
 マウイ島は小さいほうの西側の丸い島と大きいほうの東側の丸い島がくっついたひょうたん島であり,そのくっついた狭い部分の北側の海岸沿いにあるのが私の泊まっているホテルのあるカフルイである。今日はまず,海岸に沿って西に走り,西島の北側を可能な限り,というか,レンタカーで通行が可能な限りの場所まで行ってみることにした。
 1番目の写真はホテルの前の道路から西側を望んだところであり,この島でも美しい景色である。この道路を走っていくわけであるが,この先がカフルイの旧市街というか役所(マウイ群庁)や商店街のあるところで,そのあたりをワイルク(Wailuku)という。ワイルクは日系移民とも縁が深いところで,ハワイ島のヒロのような感じに似ていなくもない。

 私がこの旅で行ったときは惜しくも違っていたが,月のはじめの金曜日であれば,「ワイルクのファーストフライデー」というイベントがあるそうだ。ワイルクの中心マーケットストリートが歩行者天国になって露店が並び,ステージではライブコンサートが夜遅くまで繰り広げられるのだという。
 まあ,村祭りのようなものであろう。
 また後でこのワイルクの町を歩くことになるが,この町は坂が多い。歩いていると日本語で話しかけられたりすると書かれていたが,私はそういう経験はしなかった。

 ワイルクを越えると結構閑静な住宅街になった。地図によると海岸沿いに道路があるのだが,そこに行く交差点がわからず,私は住宅街に迷い込んでしまった。
 何度も書くが,本当にこの島は場所によってまったく異なる印象をもつもので,この住宅地はアメリカ本土にあるような新興住宅地であった。ただ,この島では特に産業もなく,アメリカ本土に住む大金持ちの別荘やら,観光客相手のリゾート施設ばかりだから,ここに住んでいる人がどういった仕事をしているのかよくわからない。また,ハワイは遊びに行くにはいいところだが,住んでしまうと狭く退屈な場所ではないか,とは私のアメリカ人の友人が話していたことだ。
 
 やっと海岸沿いの道路を見つけて走っていったが,突然雰囲気が変わって急坂になった。そしてまた,崖に沿って這いつくばるように小さな住居が点在するようになった。ここは島の北側,こんな場所に住むのはたいへんである。
 あっという間にずいぶんと高いところまで昇ってしまい,また,道路もすれ違うことも困難な1車線となったからこのあたりで引き返すことにした。広い場所を見つけたので車の方向を変えてカフルイの街を望むと,雄大な海と山の続く風景を見ることができた。

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