しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:日本国内 > 東北

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【Sumaary】
Akita Prefecture may seem to have little to offer, but it hides many hidden gems. Among them, Lake Tazawa stands out for its stunning deep blue surface and serene beauty in all seasons. The lake is Japan’s deepest, with a depth of 423.4 meters. The area also offers notable hot springs, including Nyuto Onsen, providing relaxing stays with scenic mountain views.

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 何もない,といわれる秋田県ですが,この県には隠れたすばらしさがあります。さすがに角館はインバウンドも見られますが,それ以外のところは,観光客も少なく,自然も多いのです。私が特に気に入ったのは,田沢湖周辺でした。田沢湖は
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 田沢湖は水深423.4メートルを誇る,日本で1番深い湖です。
 田沢湖の見どころは,なんといっても息を飲むほど美しい瑠璃色の湖面です。 夏には周辺の木々の緑とキラキラ光る湖面の調和がすばらしく,冬には白銀の世界の中,風に揺られて静かに波うつ湖が神秘的な景色を見せてくれます。
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 というように,神秘的な風景を楽しむことができます。
 また,田沢湖には,クニマスが生息していましたが,1940年(昭和15年)に灌漑と水力発電のため田沢湖に入れられた玉川の水が酸性であったために絶滅してしまったそうです。

 田沢湖の周辺には,乳頭温泉をはじめとして,旅情を差そう温泉があります。温泉のある高台からは,天気がよければ,山形県との県境にある烏帽子岳を見ることができます。
 まだ行ったことがないのですが,山形県との県境に近いところには,隠れた名湯が多くあって,落ち着いた時間が過ごせるということなので,機会があれば,一度行ってみたいものです。

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【Summary】
Kakunodate, known for its samurai residences, preserves its Edo-period streetscape. The Ishiguro and Aoyagi families played key roles in local history. The Ishiguro family served the Satake clan, contributing to education and town leadership. Aoyagi House, the oldest in Kakunodate, displays historical artifacts. Notably, Odano Naotake’s Akita Ranga art, influenced by Western techniques, left a lasting impact on Japanese painting.

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 武家屋敷で知られる角館は,1620年に芦名義勝が古城山の南麓に町を造ったことがはじまりといわれますが,今もなお江戸時代から変わらぬ町なみを残しています。
 武家屋敷の中には公開されているところがいくつかあります。そのなかで,私が訪れたのは石黒家と青柳家でした。

  石黒家は佐竹北家の佐竹義隣に召抱えられた石黒勘左衛門直起を初代とし,財政を担当する用人として佐竹北家に仕えました。8代石黒直信は,幕末から明治初めにかけて家塾「紅翠亭」を開き学問の普及に尽力した人物で,9代石黒直幹は晩年には角館町長を務め,10代石黒直豊は角館図書館の初代館長を務めました。 さらに,12代石黒直次は最後の角館町長を務め,合併後は仙北市の初代市長となりました。現在もこの武家屋敷に子孫が暮らしているそうです。
 また,格式高い薬医門で知られる青柳家は,角館に現存する武家屋敷のなかで最古の建物で,茅葺きの母屋の座敷に入って建物を主体に内部を見学できました。 四季折々の草花あふれる3,000坪の敷地内には,母屋,武器庫,解体新書記念館,秋田郷土館,武家道具館,アンティークギャラリー喫茶・ハイカラ館,幕末写真館,時代体験庵などがありました。
 私が特に興味をもったのは,青柳家と姻戚関係である小田野直武が描いた「解体新書」の挿絵でしたした。西洋の陰影法を取り入れ,後の洋画界に大きな影響を与えた秋田蘭画は,小田野直武と秋田藩主・佐竹義敦によって完成されたということです。

 このように,この国の江戸時代というのは,想像以上に人々の文化的水準と知性が高く,地方まで,そうした教養が行き届いていたことに驚かされます。

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【Summary】
In July 2024, I traveled along the Tsugaru and Shimokita peninsulas, focusing on Cape Tappi. Despite passing through areas like Minmaya, Takanozaki, and Kanita without fully exploring them, I found them charming. I hope to revisit these places, including Minmaya’s Yoshitsune Temple, Okutsugaru-Imabetsu Station, and the Tairadate Furofushi Onsen.

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 青森県に2024年7月4日から7月7日まで行ったときは,津軽半島と下北半島を海岸沿いに時計回りに走りました。とりあえずの目的地は龍飛崎でしたが,その後,どのくらいの時間で行くことができるかわからなかったので,見どころがあっても,通過してしまった場所もありました。それと同時に,新たに,魅力的なところをたくさん知りました。
 そんなわけで,今日取り上げる津軽半島の東側のほとんどは,単なる通過点になってしまいました。それでも,三厩,高野崎,蟹田と通りましたが,どこも素朴で,私には郷愁ただよういいところでした。

 ということで,このときは通過してしまったのですが,この場所は,また,行きたいと思うところが少なからずあります。
 まず,三厩には義経寺があります。ここまで源義経が逃げ延びたという伝説があるのですが,その真実はともかく,ここから蝦夷の地にわたるには,津軽海峡が横たわっているというのが衝撃的に思えます。
 次に,北海道新幹線の奥津軽いまべつ駅があります。どうしてこんなところに新幹線の駅が? とよく話題になるのですが,私が見たいのは,新幹線ではなく,ここから在来線の貨物列車が青函トンネルを通るために新幹線軌道を走っていく姿です。
 さらに,平舘不老不死温泉に泊まってみたいということです。

 蟹田駅を過ぎると,急に家が増えて,津軽半島の郷愁がなくなってしまうのですが,それ以外のところは,私にとって,まさに理想的な「旅」という目的にかなうところです。また,機会があれば,ゆっくりと訪れてみたいです。

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【Summary】
The Tsugaru Railway runs from Goshogawara City to Tsugaru-Nakasato in central Tsugaru Peninsula. Unlike the often-closed JR Tsugaru Line, it rarely stops service and features a famous stove train in winter. In March 2024, I visited during an unusually mild winter, but still enjoyed the snowy scenery. Along the route are notable spots, including Goshogawara, the "Shayokan" (Osamu Dazai's childhood home) in Kanagi, and Ashino Park. The area is rich in Tsugaru culture, making it worth revisiting.

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 津軽半島の中央部を,五所川原市から津軽中里まで走るのが津軽鉄道です。
 知っている人には当然ですが,私は,行くまで,津軽鉄道とJR津軽線の区別がわかりませんでした。JR津軽線は,青森駅から津軽半島の東岸を北に蟹田駅まで行き,そこから北西の山の中を三厩駅までつないていて,津軽鉄道とは別のものです。そして,現在,蟹田駅から三厩駅までは,豪雨の影響で不通になっていて,代行バスが走っています。そこで,津軽鉄道とJR津軽線を混同して,津軽鉄道が不通になっていると誤解してしまいます。
 地元の人に聞くと,JR津軽線は「すぐ止まる」けれど,津軽鉄道は「止まらない」といいます。そういう認識のようです。そして,津軽鉄道には,冬の間,有名なストーブ列車が走ります。
 私は,このストーブ列車に乗りたいとずっと思っていたのですが,冬の青森県なんぞ,大雪で行くのも大変だしなあ,と躊躇していました。しかし,ストーブ列車が3月末まで走っていることを知って,さすが3月ならいくら何でも大丈夫だろうと,昨年2024年の3月に行ってみたのでした。この年は暖冬で,私の行った3月は雪があったのですが,2月でも雪がない日があったということでした。今年2025年とはえらい違いです。いくら雪が大変とはいえ,雪原を走る津軽鉄道に乗りたくて行ったのに,雪がない,というものまた,困った話だったようです。

 津軽鉄道は,ストーブ列車だけでなく,沿線にも見どころが多くあります。
 まずは,五所川原市です。この町はいかにも津軽,という感じのする味わい深いところです。そして,太宰治が生まれ育った,現在は「斜陽館」として公開されている建物が,金木という町にあります。そこを北に行くと,芦野公園があって,太宰治の銅像があります。この辺りが,津軽三味線発祥の地でもあります。
 また,終着の津軽中里駅周辺も,いかにも雪国,とった風情のあるところです。
 また行ってみたいものだと思います。スクリーンショット 2025-01-12 191935b


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【Summary】
Over the past two years, I traveled to Aomori four times and became fascinated by its charm, especially the Tsugaru Peninsula. I visited iconic places like Tsurunomai Bridge, Kodomari, and Cape Tappi. Though I covered many spots, I later learned about Takayama Inari Shrine, known for its red torii gates, and hope to see it in a snowy landscape someday.

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 ここ2年ほどの間,2023年5月18日から5月20日まで,2024年3月6日から3月8日まで,2024年4月15日から4月16日まで,そして,2024年7月4日から7月7日までと4度も青森県を旅行しました。はじめのうちは,何があるのだろう,と思っていたのですが,行けば行くほど,その魅力にはまってしまいました。
 どこもおもしろいところなのですが,その中でも,私は,津軽半島に多くの興味がわきました。そこで,今日は,津軽半島の西側について書きます。
 
 まずは,鶴の舞橋です。ここは,日本一長い三連太鼓橋としてゆうめいなところです。遠くには岩木山も見ることができて,とても美しいところです。
 さらに北に行き,十三湖を過ぎると,太宰治の小説「津軽」にゆかりのある小泊に着きます。ここには小説「津軽」の像記念館があります。小さな素朴な町ですが,なかなかよいところです。
 そして,津軽半島の最北端,龍飛崎に至ります。龍飛崎は断崖となっていて,高台にある展望台からは,西は日本海,北は津軽海峡,東は陸奥湾という雄大な風景を見ることができます。

 このように,念願だった場所にはすべて行くことができたのですが,実は,あとで,高山稲荷神社というところがあるのを知りました。ここは,朱色の千本鳥居という美しい風景を見ることができるのです。できれば,いつか,雪景色の姿を見てみたいものです。

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Wolf Moon 2025.

早朝の火星と1月の満月「ウルフムーン」。
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【Summary】
In May 2023, I visited Aomori for the first time, exploring Oirase Gorge and Lake Towada. The calm atmosphere and few tourists left a great impression on me. Although Lake Towada attracts many group tours, it feels less crowded now. The balance between nature and tourism remains well-maintained.

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 私がはじめて青森県を時間をとって旅したのが2023年5月だったことを考えると,あれからまだ2年も経っていないのが不思議な気がします。そのころぜひ行ってみたかったのが十和田湖であり,奥入瀬渓谷でした。そして,そのときの印象がとてもよくて,私は青森県が大好きになりました。
 私が訪れたのは5月だったのですが,秋に出かけていたら,さぞかしすごい人混みだったことでしょうし,そうであれば,また,印象は異なっていたかもしれません。初夏の奥入瀬渓谷は,それほど人もおらず,落ち着いた時間をすごすことができました。

 また,奥入瀬渓谷を走っていくと,十和田湖に行きつきます。
 十和田湖は,まず,周辺を1周して,それから船に乗りました。さすがに有名な観光地なので,団体観光客が多く乗船していました。とはいえ,さびれ感も感じられるところでした。やはり,以前よりは団体観光客も少なくなっているようです。
 十和田湖に限らず,以前に行われていた団体旅行のための観光施設から脱却して,個人や小グループ向けの観光地に脱却できるかどうかが,今のその地の状況に結びついているように思います。
 とはいえ,アニメなどで脚光を浴びて,その結果,インバウンドであふれるという状況は,まったく望ましいものではありません。また,リゾートと名を打って,やたらと豪華な観光地になってしまったら,素朴さを求める観光客は敬遠してしまいます。
 今の十和田湖や奥入瀬渓谷は,それがいい感じで調和されているように,私には思えました。

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【Summary】
In 2024-2025, Aomori faced severe winter snow, unlike the previous mild year when I visited Tsugaru Railway and Furofushi Onsen. Aomori’s greatest charm lies in its many unique, relaxing hot springs, such as Sukayu Onsen, Furofushi Onsen, and Lamp Inn Aoni Onsen, making it a fascinating destination.

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 2024年の夏は猛暑でしたが,一転して,2024年から2025年の冬は近年になく寒く,青森県は雪害がひどいようです。私は,昨年の3月に津軽鉄道に乗り,「黄金崎不老ふ死温泉」に行ったのですが,ほとんど雪もなかったのですが,今年なら,行くこともたいへんだったにちがいありません。
 そんな青森県ですが,最大の魅力は,何といっても温泉です。これまでに私が行ったのは,「酸ヶ湯温泉」「黄金崎不老ふ死温泉」「ランプの宿青荷温泉」「東北温泉」です。また,龍飛崎の先端にある「龍飛崎温泉ホテル竜飛」もいいところでした。

 これ以外にも,名前をあげるなら,いくらでも出てくるのですが,私の理想とする,人が少なく,規模が小さく,くつろげるところ,となると,なかなか難しいもの。行ってみなければわからない,というところでしょうか。
 先にあげた酸ヶ湯温泉は,冬はものすごい積雪ですが,それでも,温泉に行くことは可能で,この季節がもっとも静かで魅力的だということなので,何とか,また,行ってみたいものだとひそかに思い続けています。
 また,ぜひ行ってみたいのが大鰐温泉です。ここにある「ヤマ二仙遊館」は
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 旅館業としての創業は明治5年,現在の建物は明治30年に建てられたもので,大鰐温泉で最も古い旅館。平川河畔に面した閑静な宿には,近隣に住む裕福な家から多くの湯治客がやってきたそうで,金木の津島家(太宰の生家)も訪れた宿です。
 そのほか,森鴎外の師としても知られる漢文学者の依田学海,南満州鉄道初代総裁の後藤新平,詩人大町桂月が宿泊した記録もあり,現存する宿帳には,小説家葛西善蔵の名が残されているなど,多くの文人に親しまれてきました。
 今も当時のままの部屋に宿泊する事が出来ます。
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とあります。

 このように,青森県は,行ったことがなかったころは,何があるところなのだろう? と思っていたのですが,実は,実は,なんとまあ,魅力的なところだったのでしょうか。

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【Summary】
I watched TV Tokyo's special "Local Bus Relay Journey" and enjoyed its thrilling route from Naritasan Shinshoji Temple to Cape Tappi. The journey, especially through Tohoku, highlighted the challenge of traveling via local buses, with some relying on substitute buses due to past flood damage. While the program was dramatic and enjoyable, I worry about the sustainability of such travel shows given Japan's increasing transport suspensions.

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 昨年2024年12月28日と12月29日,2日間にわたって放送されたテレビ東京系の「ローカル路線バス乗り継ぎの旅8時間SP」を見ました。
 この番組は,「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」で千葉県・成田山新勝寺から青森県・龍飛崎を目指すガチンコ8日間の旅ということで
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 スタートの成田山新勝寺からゴールの龍飛崎までの4区間を,ふたつのチームが交代しながらリレー方式でつなぎます。リーダーを務めるのは「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」シリーズでおなじみのミスターバス旅・太川陽介と「ローカル路線バス乗り継ぎの旅W」で大活躍中の元スピードスケート日本代表・五輪メダリストの髙木菜那が,交互にタスキをつなぎ,4区間を駆け抜ける前代未聞のバス旅リレー。
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という企画で,第1区は,太川陽介と,信子,水谷隼,草薙航基。第2区は,髙木菜那と,佐々木彩夏,川村エミコ,高島礼子,第3区は太川陽介と,神田愛花,澤穂希,酒井貴士。そして、第4区は髙木菜那と,村井美樹,松村沙友理ということでした。

 私は民放をほとんど見ないのですが,「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」だけは楽しみにしています。しかも,旅のコースが,近年マイブームになっている東北ということで,ずいぶん期待しました。
 なかでも,2日目の秋田県から青森県は,私も旅行したばかりで詳しいのですが,路線バスなんてあるのかいな? と思っていました。特に,青森県は日本海側はずいぶん不便なところで,白神山地が大きく行く手を拒んでいるので,興味がありました。
 ずいぶんハラハラしましたが,あまりに奇跡的な幕切れだったので驚きました。
 この番組,どこまでが筋書きで,どこが出たとこ勝負なのかわかりませんが,所詮はバラエティ番組。楽しめればそれでいいのです。それにしても,この結末でなければ,これほど最高のドラマにはなっていなかったことでしょう。

 ところで,2024年7月に発生した大雨の影響による奥羽本線の新庄駅と院内駅間,2022年8月に発生した大雨の影響による津軽線の蟹田駅と三厩駅間において,現在バスによる代行輸送が行われていて,私はそのことを知っていて番組を見ていたのですが,もし,この区間がバスによる代行輸送でなかったら,バス路線はないのだから,この番組は成り立たなかったかもしれません。
 代行バスは定期バスではないから,その利用はルール違反じゃないの? などという野暮なことはいいませんが,バスによる旅も鉄道による旅もどんどんと運休が進んでいる現在の日本では,こうした企画自体がいつまでできるのやら,ということのほうが心配です。

cccbbbaaa

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tohoku


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2025年1月1日の太陽です。

初日の出を見損ねたので,せめて,黒点を…。
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☆☆☆☆☆☆
 岩手県奥州市水沢に国立天文台水沢VLBI観測所があります。国立天文台の中で,現存する一番古い観測所のひとつで,1899年(明治32年)に設置されました。
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 明治時代,天体観測の面でも欧米各国の科学技術を導入して,正確な緯度を測定する事業を行うために設置された緯度観測所が前身です。現在も,国際緯度観測事業を行いつつ,測地学観測の観測所として機能しています。
 緯度観測所では,日本及びアジアにおける国際測地学研究の拠点として,測地学に関連する研究及び測定を行いました。この観測事業の実施を行った木村栄教授が近代測地学の世界的業績であるZ項を発見した場所として有名です。
 現在,これらの観測に用いられた機材開発技術を応用して,月測地学探査に必要な機器開発を実施し,月探査計画での観測データ解析も行っています。また,相対基線法による超長基線電波干渉法(Very Long Baseline Interferometry=VLBI)観測で精密な銀河マップを作製することを目的に,日本各地にあるVLBI観測点を専用ネットワークで結んだ観測点の解析センターの役割を担っています。これらのデータ解析には精密な時刻測定が必要なため,国内では数少ない協定世界時(UTC)を刻む原子時計を運用し,データ解析に活用し,研究観測から得られたデータは,日本電信電話の時報(117),情報通信研究機構のJJY,NHKのラジオ放送の時報などに活用されています。

 2019年から,ブラックホールの影を世界ではじめて撮影に成功したチームに参加した本間希樹教授が所長を務めていますが,2020年度の天文台関連の予算が半分程度に減額されることとなって電波望遠鏡の停止や人員の補充が行われないなど研究への影響が懸念されていましたが,他の研究により予算が確保され電波望遠鏡の維持は可能となったそうです。また,2021年には必要最低限の研究が可能な予算要求がほぼ満額で決定されたといいます。

 私は,この観測所のことは昔から知っていましたが,光学望遠鏡があるわけでないからまったく興味もなく,どこにあるのかも知りませんでした。
 2019年,宮沢賢治にちなんだ花巻に興味をもち,また,ブラックホールの写真撮影に成功した本間希樹教授が所長ということで行ってみたくなって,東京から深夜バスに乗って出かけてきました。行ってみて,私はこの地が大好きになりました。また,水沢VLBI観測所で行っている研究にも興味をもちました。
 奥州市は遠いところでしたが,今は,県営名古屋空港から花巻空港までFDAが飛んでいるので,行くことは容易になったので,また,訪れてみたいものです。


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 小出駅は,魚沼市四日町にあります。上越線の駅ですが,只見線の終着駅でもあります。以前は只見線の列車が上越線経由で浦佐駅まで乗り入れていたこともあったそうです。
 私は,これもまた,何も知らず調べず,今回の旅は,只見線に乗る,ということだけが目的でした。そこで,只見線を乗り終えたら,最短の方法で,その日のうちに帰宅することにしていました。小出駅から最も近い上越新幹線の駅を探したら浦佐駅だったので,小出駅から上越線で浦佐駅に出て,浦佐駅から上越新幹線で東京へ,そして,東京から東海道新幹線で名古屋へと乗り継ぐことにして,すでに新幹線の座席指定券は購入してありました。ただし,只見線が遅れたり,不通になることも考慮して,購入したのは,浦佐駅午後6時53分発東京駅着午後8時12分の「とき」342号,そして,東京駅発8時30分名古屋駅着午後10時23分の「ひかり」665号でした。帰宅がずいぶんと遅くなってしまうことだけが難点でした。

 私は,目的を達成すると,それ以外はどうでもよくなる性分です。そこで,思ったより早く小出駅に着いたので,そこで新たな観光をする気もなく,予定を変更しできるだけ早く帰宅するために,新幹線の指定券を変更することにしました。
 只見線の車内で親しくなったひとり旅の女性は,これから越後湯沢駅に行くということでした。私は途中の浦佐駅で降りるので,同じ列車でした。小出駅発11時10分と,30分ほど待ち時間があったので,一緒に小出駅で一旦改札口を出ました。駅前に食堂でもあれば昼食を,と思ったわけです。しかし,駅前には何もありませんでした。仕方なく駅に戻ってたわいもないおしゃべりをしながら列車を待ち,やがて,やってきた列車に乗りました。私が浦佐駅で降りるとき,彼女が,浦佐駅は何もないという話だ,と言ったのでびっくりしました。それまで,私は,「腐ってもタイ」,浦佐駅は新幹線の駅だから,そんなことはないと思っていたからです。
 しかし,それは真実でした。本当に浦佐駅は話のタネにできるくらい何もない駅でした。
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 浦佐駅は,南魚沼市の北部の大和地区に位置し,冬はスキー客,夏は奥只見湖や尾瀬方面への新潟県側の玄関口として旅行客にも利用されるということでできた駅です。また,日本の奇祭のひとつである「裸押合大祭」の舞台となる越後浦佐毘沙門堂もあります。
 上越新幹線の建設が決定した当時,六日町と小出町の中間点に位置する浦佐に新幹線の駅が設けられることが決まった際,両町から異議の声が上がったそうです。でありながら,浦佐に駅ができたのには,「何らかの政治的な意図が働いていた」とする「政治駅」説や,「六日町は越後湯沢に近過ぎるため駅の設置が難しく,小出に設けるとルートが大回りになり,小出駅の構内が狭隘で新幹線ホームが設けられない」という「現実問題が背景にあったとする」説があるそうです。
 駅ができたのち,スキー場が閉鎖されたこともあって,上越新幹線が開業した当初は1日2往復設定されていた只見線に直通する普通列車は廃止されました。現在,駅周辺には商業施設が少なく,医療機関や学校,宿泊施設が若干あるのみです。
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 浦佐駅は異常なくらい閑散としていました。ほとんどというか,まったく乗客がいませんでした。
 駅舎西口1階には団体待合室と化粧室とレンタサイクル駐輪場があって,それらは機能していたのですが,付近の待合室と化粧室は閉鎖されていました。駅の機能は2階に設けられているのですが,みどりの窓口すらありませんでした。新幹線改札口には自動改札機が2台あるのみでした。
 私は,この駅で,座席指定券の変更をしようと思っていたから,改札口で聞いてみると,改札口のとなりにある「話せる指定席券売機」で行うようにと言われました。言われたまま「話せる指定席券売機」に向かって話しかけてみると,係員の顔が写り,遠距離で会話ができました。まず,指定席券を発券機に設置されたスキャナで読み取るように言われました。そして,浦佐駅発午前11時59分発東京駅着13時28分の「とき」318号の新たな指定席が決まりました。そして,次に,言われた通り券売機に切符を入れると,新たな切符が出てきました。なかなかおもしろい体験でしたが,お年寄りや外国人は困ることでしょう。

 再び改札口に戻り,今交換した新しい切符と,すでに持っていた2枚の乗車券を駅員に示し,これで自動改札機が通れるかと聞くと,試してみましょう,と言われて,駅員が切符を自動改札機に通したら,無事通ることができました。ここで通したのは,名古屋駅から只見線を経由した大宮駅までの連続1と大宮駅から名古屋駅までの連続2,そして,変更したばかりの浦佐駅から東京駅までの上越新幹線の特急券の3枚でした。ということで,自動改札機を通り,ホームに行ってみたのですが,ホームには売店すらありませんでした。私は困りました。新幹線が来る時間までに,ホームにあると思っていた売店で駅弁を買うか,何か昼食をとるつもりでいたからです。
 浦佐駅の2階にはかろうじてコンビニがあることだけは確認してありました。そこで,再び,改札口で駅員さんに話をして外に出してもらい,コンビニで昼食を買い,それを待合室で食べてから,今度は,自動改札機ではなく,改札口からホームに入れてもらいました。こんなことができるのも,私以外に乗客がまったくいなかったからに違いありません。また,駅員さんといっても,若い男性と女性のふたりだけでした。
 ホームは,相変らず閑散としていて,この駅から列車に乗るのは2人から3人でした。
 やがて,ホームに滑り込んだ「とき」318号に乗りこみました。憧れだった「とき」,いい名前です。車内は,思った以上に乗客が多く,空席はほとんどありませんでした。

 上越新幹線は,三国峠を通る長いトンネルを抜けると,すっかり景色が変わります。まるで川端康成「雪国」の世界です。それまでは真っ白だった風景は一変して緑だらけとなり,雪に覆われた只見線が夢のように思えました。まもなく人だらけの東京駅に着きました。乗客が私ひとりの浦佐駅も日本なら何万人もいるような東京駅もまた日本です。信じられません。外国人でごった返すみどりの窓口で並んで,やっとのこと東京駅から名古屋駅までの座席指定券を変更してもらい,午後5時前には帰宅しました。
 予想をはるかに超えた楽しい旅は,こうして終わりました。
 もし,1日,日程が異なっていれば,大雪で,只見線に乗ることはかなわず,帰ることすらできたかどうか。いつもながら幸運でした。

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 午前9時30分,定刻に只見駅を出発しました。只見線の旅もあと1時間ほどで終着の小出駅です。
 只見線は,会津川口駅から只見駅までがもっとも風光明媚なところで,この先はたいしたことはないと思っていたのですが,最後の見どころ? がこのあとにありました。
 前回書いたように,只見駅を過ぎると,並走する国道252号線は,六十里越えという難所を迎え,冬の間は雪が深く通行できません。しかし,只見線は,3,712メートルの田子倉トンネルとそれに続く6,359メートルの六十里越トンネルというふたつの長いトンネルが掘られているので,運行ができるのです。

 このように,只見線は,只見駅を過ぎると長いトンネルに入るので,次の大白川駅までの30分間,全く駅がありません。しかし,かつて,田子倉トンネルの中に田子倉駅がありました。ただし,ほとんど乗客がなく,2001年(平成13年)から冬期間は全列車が通過となり,2013年(平成25年)に駅は廃止されてしまいました。
 只見駅で乗り込んだ車掌さんが,このふたつのトンネルと田子倉駅についての案内放送をしました。 勉強不足の私は,それがかなりの見どころであることすら知らなかったので,「猫に小判」「豚に真珠」「馬の耳に念仏」状態だったのですが,マニアには見たくてたまらないところだったに違いありません。
 今は廃墟となった田子倉駅をあっという間に列車は駆け抜けました。心構えがなかった私は,肉眼で駅を確認することはできましたが,残念ながら写真を撮ることはできませんでした。また,只見駅を過ぎると,トンネルのために,運転席の横のそれまで開いていたシェードも閉められてしまい,前面の展望がきかなくなりました。トンネルの中の駅,停車まではむりとしても,徐行運転するサービスがあってもいいなあ。

  ・・・・・・
 田子倉駅を中心にした半径2キロメートルには,現在はだれも住んでいません。
 田子倉駅は,線路の北側に単式ホーム1面1線を有する地上駅で,列車が大白川方の六十里越トンネルと只見方の田子倉トンネルの間で少しだけ外に出る地点に位置していました。ホームは南側の田子倉湖と北側の崖に挟まれた低い場所にあり,スノーシェッドに覆われていました。
 ホームの中ほどから北側に階段があって,これを登ると,駅舎を通って崖の上を走る国道に出ることができるようになってしました。駅舎の内部には階段と通路のみがあったということです。駅にまだ列車が停車していたころの乗車人員は,1日平均で,2000年3人,2001年3人,2002年0人,2003年3人,20040人でした。
 現在も駅舎は現存していますが,駅舎内に入ることはできません。
  ・・
 六十里越えは,新潟県魚沼市と福島県南会津郡只見町との間にある峠で,最高点の標高は863メートルです。六十里越えの名の由来は,実際の距離は六里,約24キロメートルでありながら,険しさゆえに1里が10里にも感じられるほど余りに急峻かつ長大な山道であること,中世まで東日本においては1里は500メートルであったことなどの説があります。
 新潟県中越地方と福島県会津地方南部を結ぶ街道であるものの,国内有数の豪雪地帯で,かつ,雪崩れや落石の危険性が高い箇所を経由することから,冬季は通行できない難所です。
 新潟県中越地方と只見町を結ぶ街道は,六十里越えのほかには,約15キロメートル北東側の三条市と只見町の間に位置する八十里越えがあるのですが,そちらの方が更に難所で,国道289号などの国県道は自動車の通行すら不能区間です。
  ・・・・・・

 なぜか,それまでは何ともなかったのに,トンネルを越えたあたりから列車の窓ガラスが曇って,窓を拭かないと写真が撮れなくなりました。
 この難所を抜けると民家が見えてきて,やっと只見駅の次の大白川駅に到着しました。ここで,年配の女性がひとり乗車してきたのにはびっくりしました。我々8人に,乗客がひとり増えたのです。
 その先,列車は民家の中を抜けて行って,入広瀬駅,上条駅,越後須原駅,魚沼田中駅,越後広瀬駅,薮神駅と停車して,やがて,小出駅に到着しました。
 午前10時41分,私は念願の只見線を走破しました。全く退屈しない4時間半でした。

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 私の乗った只見線の列車は,午前6時8分定刻に会津若松駅を出発して,吹雪の中を遅れることもなく,ついに,午前9時7分に只見駅に到着しました。
  ・・・・・・
 秘境ともいえる日本の原風景を残していて,「自然首都」をキャッチフレーズにしている只見町(ただみまち)は,福島県の最西端に位置し,日本有数の豪雪地帯です。また,只見川には水力発電のための「大鳥ダム」「田子倉ダム」「只見ダム」などがあって,広大な人造湖を造りだしています。特に「田子倉ダム」は貯水量が5億トンと国内屈指の規模を誇り,周囲の山々と織りなすコントラストは山紫水明の地として観光の拠点です。
 町の面積は747.54平方キロメートルで,東京23区よりも広大な面積がありますが,その9割が山林であり,ブナ,ミズナラ,トチノキなどの広葉樹林帯です。
 源流を尾瀬とする只見川の流域に集落と農地が集まっています。産業は農業と観光が主で,特に農業では,恵まれた自然条件による米作りと,昼夜の寒暖の差を利用したトマトと花弁栽培が盛んです。
  ・・・・・・

 只見線の主要駅である只見駅は町の中心部にあって,昭和40年代後半まで蒸気機関車C11による貨物列車が運行されていたことから,駅構内には蒸気機関車の進行方向を切り替える人力による転車台が残されていてマニアの羨望となっています。また,臨時運行される観光列車の折り返し地点ともなっています。
 2011年(平成23年)の夏に発生した集中豪雨によって,只見駅から会津川口駅までの区間が営業休止となり,代行バスが運行されました。このまま廃線になるのではないかと危惧されましたが,2022年(令和4年)秋,会津川口駅と只見駅間が復旧し,全線運転再開しました。
 只見線が存続できるのは,只見線と並行して走る国道252号が,福島県と新潟県との県境付近の六十里越前後の区間で,冬の間は豪雪によって閉鎖となるため,只見線が新潟県に抜ける唯一の交通手段となることにもよります。

 列車は,只見駅で午前9時7分から9時30分まで23分間停車します。
 8人の乗客は外に出ました。私は,駅舎から外に出てみました。そのとき,列車が来たのを見計らって,只見駅前から,会津田島駅まで行くバスが出発しました。しかし,だれも乗る人はいませんでした。
 このバスは商工会議所が運航しているとかで,おそらく観光シーズンであれば,今回の私の旅のように,小出駅まで行って上越新幹線で東京へ戻らずとも,只見駅で下車して,そこからバスを利用して会津田島駅まで行って,大内宿や湯之上温泉などを経由して,会津鉄道,東武鉄道と乗り継いで,東京に戻るのが,絶好の観光コースとなることでしょう。
 駅前には家々があったのですが,この雪では,だからといって,どこかに遠出する気にもならず,また,行ってみたからといっても,何かがありそうに思えませんでした。
 私は,特にすることも行くところもないので,再び,駅の中に戻って,雪と列車の美しい風景を写真に収めていました。他の乗客も時間を持て余していたので,持っていたお菓子を交換し合ったりして,交流が生まれました。
 この駅で運転手が交代しました。さらに,これまではワンマンカーでしたが,只見駅で車掌さんも乗車しました。乗り込んできたのは,すごく元気のよい車掌さんでした。

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 私は,2019年11月22日,東武鉄道の「リバティ会津」という特急で会津田島駅まで行って,会津田島駅から湯野上温泉駅まで会津鉄道に乗り換え,さらに湯野上温泉駅から乗り合いバスで大内宿まで行ったことがあります。そのときは,大内宿に行きたかっただけだったのですが,その後,知識が増すと,今回行ったところと,大内宿の位置関係を知りたくなりました。
 それが今日の地図ですが。異なる路線を走ると全く無関係に思えた場所が糸のようにつながっていくのが不思議です。どこも,とてもいい印象が残る場所なので,また行ってみたいと思います。私は人の多い観光地よりも,こうしたのどかなところのほうが好きなのです。
 私には東北というのはものすごく遠く感じるのですが,東京からなら,日帰りコースだったりしますし,東京と名古屋は1時間30分程度だから,名古屋からでも日帰りで行くことができると考えると不思議な気がします。

 会津川口駅から只見駅までが只見線でもっとも景観のよい場所であり,それは只見川と自然との調和からくるものであったから,自然が猛威を振るい,調和が崩れれば,橋梁は破壊され,7年間も只見線が切断されてしまった場所ともなりました。
 本名駅の次が会津越川(こすがわ)駅,そして,会津越川駅の次が会津横田駅でした。このあたりはのどかな田園地帯がひろがっていましたが,冬の間は雪に覆われて,生活するのはたいへんだろうなあ,と思いました。
 会津横田駅を過ぎると,列車は第七只見川橋梁を渡りました。運転席のとなりの窓から橋梁の姿を見ることができました。第七只見川橋梁は,以前は上路式でしたが,水害で橋梁が全面流失してしまい,下路トラス桁に変わりました。橋の下を流れる只見川と,下流に見える集落や水田などの美しい自然風景が広がっているところで,並行してかかる四季彩橋から第七只見川橋梁見ることができるということです。
 第七只見川橋梁を越えると,会津大塩駅に着きました。会津大塩駅は無人駅で,のどかな里山の景色の中にぽつんと建つ素朴なたたずまいを見せます。春はさまざまな花々が周囲を彩り温かみのある景色を演出するそうです。

 会津大塩駅の次が会津塩沢駅です。会津塩沢駅から15分くらい歩くと,河井継之助記念館があります。河井継之助記は,は,戊辰戦争で長岡から会津へと向かう際に塩沢で亡くなった長岡藩家老・河井継之助を紹介する資料館で,地元の人の思いで,残された終焉の間が館内に移築されています。冬場は閉館しています。
 また,只見川の対岸にある十島集落は,小島のような形で,集落にある神社がビュースポットとなっていて,そこから眺める只見川と塩沢集落の景観が美しく,撮影ポイントとなっているそうです。
 会津塩沢駅を過ぎると,列車は第八只見川橋梁を渡ります。このあたりからだんたんと空が広くなり,晴れていれば,只見川の川面に空の美しい青が映り込むということです。

 次の会津蒲生駅を過ぎると,北側に,天気がよければ,蒲生岳がみえるそうです。蒲生岳は只見川から一気にせり上がるその山容の鋭さから「会津のマッターホルン」とも称される,標高828メートルの独立峰で,悠々とした姿はあたりののどかな風景と相まって印象的です。
 叶津川(かのうづがわ)橋梁は会津蒲生駅から只見駅間にかけて集落を貫く叶津川に架かる全長372メートルの橋梁。半径250メートルの曲線を描くのが特徴で,時速30キロメートルの速度制限があるカーブは,その美しさで写真愛好家たちに知られています。
 午前9時7分,列車は只見駅に着きました。
 只見駅出発が午前9時30分で,23分もの停車時間がありました。

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 午前8時5分,列車は会津川口駅に到着しました。
 反対側のホームには,小出駅午前5時36分発の2両編成の列車が午前8時2分にすでに到着していました。この列車は,会津川口駅で39分停車します。私の乗っている列車は会津川口駅を午前8時15分に出発するので,停車時間は10分でした。
 只見線全線に乗る,といっても,単に列車に乗っているだけかと思っていたのですが,こうして,会津川口駅と,その先の只見駅での長い停車時間があるので,ホームに出て写真を撮ったり,駅舎を見ることもできるのでした。
 あたりは凄い雪で,これもまた,美しく,最高でした。

 会津川口駅は,金山町の中心にあります。金山町は,金銀の鉱山が多かったことに由来するといわれ,江戸時代は羽州街道の宿場町として発展しました。もとは秋田の小野寺義道の領地でしたが,やがて最上義光の領地となりました。
 おいしいものが食べられたり,景色がすばらしかったり,温泉があったりと,歴史や名所などを調べて行けば奥が深いと思うのですが,あまりまとまった情報がありません。もったいない話です。ぜひ,今度は時間を十分にとって行ってみたいところです。
 この日は,10分の停車時間だったので,駅舎まで行ってみました。

 さて,列車は出発して,只見駅に向かって進んでいきます。
 会津川口駅から只見駅までの区間の橋梁がすべて流されてしまって,7年もの間,只見線は不通となっていましたが,今,こうして乗ることができるのがうれしいことです。
 まず超えたのが第五只見川橋梁でした。会津川口駅と本名駅間の阿賀野川水系只見川に架かる全長193.28メートルの橋梁です。2012年(平成23年)7月の新潟・福島豪雨被災後で,只見川の増水・氾濫によってこの橋梁は川口方プレートガーダー桁1連が流失しましたが,この付近の只見川は川幅がやや広く,かつ下路式トラス橋のため,トラス桁部分は冠水,流失する事態を免れました。

 列車が,次の只見川夏井川橋梁をこえると,本名駅に着きました
 本名駅を出ると,大きなダムが見えてきます。これは,上端が旧国道252号線になっている全国でも珍しい形状をもつダムで,太平洋戦争終戦後,GHQとの敗戦処理の折衝を矢面に立って行った白洲次郎氏が東北電力初代会長時代の1954年(昭和29年)に完成した,東北電力の発電専用のダムです。
 列車が第六只見川橋梁を渡る瞬間,北西側にその巨大な姿を目の前に見ることができますが,ダム下流の金山町から見ると,ダムと橋梁の景観がすばらしく,ゲート巻上機建屋から見下ろす下流の景色も絶景ということです。

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 私が乗っている只見線,今日は,会津宮下駅から会津川口駅までです。
 会津宮下駅を出ると,車窓から見えるのは巨大な東北電力宮下ダムで,対岸を国道252号線が走っています。
 ダム湖を過ぎると,列車は第三只見川橋梁を渡り,それまで進行方向右手に見えた只見川が左手に変わるのですが,第三只見川橋梁に差し掛かる瞬間,一気に視界が開け,ゆったりと流れる只見川と木々の緑が織りなす景色が車窓いっぱいに広がり,絶景となることで知られています。今は真冬なので,美しい雪景色が見られましたが,紅葉の秋はため息の出る美しさ,ということです。

 会津宮下駅の次は早戸駅です。早戸駅で下車すると,霧幻峡の渡し(むげんきょうのわたし)の乗り場に行くことができます。霧幻峡の渡しの運行は4月下旬から11月中旬までであり,予約が必要ということなので,今回はムリですが, 情緒ある「手漕ぎ渡し舟」に乗るときだけ味わうことができる只見川の川面から眺める四季折々の風景は,幻想的な川霧に包まれながら時空を超えた日本の原風景に出会えるということで人気です。
 列車の車窓からはそこまでは望めませんが,それでも,雄大な只見川を見ることができました。

 会津水沼駅,会津中川駅と過ぎました。 
 やがて,先ほどまでは,列車はずっと山の中だったのに,次第に民家が見られるようになってきました。これが金山町の集落です。
 只見線からも見ることができる,かねやまふれあい広場は,只見線の絶景スポットとして知られ,水面に迫る集落,川沿いを走る只見線が生み出す風景はすばらしく,特に,夏の早朝や夕方,雨上がりの川霧に沈む集落や冬の雪景色の中を走る列車の風景は幻想的,ということです。また,会津川口駅からほど近くの只見川の水面の先に広がる大志集落を望む風景は「大志俯瞰」(おおしふかん)とよばれ,晴天時は,山々と集落が只見川に反射する美しい水鏡の風景が見られるところだそうです。
 そんな場所を走りながら,列車は会津川口駅に到着しました。

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 只見線に乗車して1時間ほど経ちました。乗っているのは,カナダから来たという夫婦連れと2人の息子たち,私と同年代の夫婦連れ,そして,ひとり旅の若い女性,そして私の8人。列車はワンマンカーなので,運転手さんがひとり。とてものどかでした。各駅停車であっても,こんな雪の中,途中でだれも乗ってきませんし,降りる気にもなりません。
 紅葉の時期は通勤ラッシュ並みというから,幸運でした。旅はこうでなければいけません。

 会津柳津駅で停車中,窓から外を見ると,「赤ペコ発祥の地」という看板が見えました。
 会津柳津駅のある柳津町には,日本三所の虚空蔵菩薩のひとつ福満虚空藏菩薩を本尊として祀る圓藏寺があって,この寺が「赤ペコ発祥の地」です。
  ・・・・・・
 今から400年ほど前の1611年(慶長16年)に会津地方を襲った大地震後の1617年(元和3年)本堂である虚空藏堂を厳上に建てるとき,大材を厳上に運ぶのに大変困り果てていたところ,どこからともなく力強そうな赤毛の牛の群れが現れて,大材運搬に苦労していた黒毛の牛を助け,本堂である虚空藏堂を建てることができたという伝説からきたものです。
  ・・・・・・
 圓藏寺は,只見線の車内からもちらりと見ることができました。
 また,月光寺という寺もあるそうです。月光寺は圓藏寺と深い関係をもつ寺で,そそり立つ岩場を伝い落ちる滝を背にして静寂の地に建つ山居寺ということです。本堂の裏側に只見線の線路が伸びていて,春には線路脇に咲く桜のトンネルを潜る列車を見ることができるというから,そのころに来てその姿を見てみたいものです。また,日本遺産「会津の三十三観音めぐり」のひとつ奥之院弁天堂という観音堂もあるようです。
 柳津町には,柳津温泉もあり,一度,ゆっくりと訪れてみたいです。

 列車は郷戸駅,滝谷駅,会津桧原駅と停車して,さらに進むと,只見川を渡りました。ここが第一只見川橋梁で,只見線の魅力を語るうえで代名詞といってよいほど有名なビュースポットです。只見川が水鏡となって風景が川面に写る姿や,水面から川霧が立ち橋梁を包む幻想的な景観が見られます。
 第一只見川橋梁を渡ると,会津西方駅があります。それを過ぎると,再び,列車は第二只見川橋梁で只見川を渡ります。会津西方駅より国道400号を会津宮下方面に400メートル進んだ場所にビュースポットがあります。このビュースポットでは,国道400号からほぼ水平な視点から橋梁を眺めることができ,特に列車が走る様子は周囲の風景と相まって美しさもひとしお,ということです。
 それを過ぎると,国道252号,只見線,県道237号と3つのアーチ橋を一度に重ねて見られるスポットがあって,「宮下アーチ三兄弟」とよばれ親しまれているそうです。
 このように,只見線は,乗ってよし,見てよし,なので,次回はレンタカーでも借りて,外から只見線をみるのも悪くないなあ,と思いました。

 そして,列車は午前7時30分過ぎ,会津宮下駅に到着しました。ここで反対側から来る列車とすれ違うので,しばらく停車しました。写真を撮ろうと,乗客はホームに降りました。しばらく待っていると,列車がやってきました。この列車は,午前7時6分に会津川口駅を出発して,午前8時58分に会津若松駅に到着するものです。
 なかなかの景色でした。

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 ついに,念願だった只見線に乗車できました。心配だった雪は降り続いていましたが,ともかく列車は動きました。あとは,雪が強くなって途中で止まらないことを祈るだけでした。
 シーズンオフを狙ったのが功を奏して,ガラガラでした。また,雪が幸いして,雪景色の只見線という最高の状況となりました。
  ・・
 私は,この日,只見線で小出駅に到着後,午後6時31分発の上越線に乗って浦佐駅午後6時40分着。そして,浦佐駅午後6時53分発上越新幹線「とき」342号で午後8時12分東京駅着。さらに,東京駅午後8時30分発東海道新幹線「ひかり」665号で午後10時23分名古屋駅着の予定でした。「のぞみ」でなく「ひかり」なのは,ジパング倶楽部を利用していたからです。
 そこで,1日3本しか全線を走る列車のない只見線,私が乗ったのは,会津若松駅午前6時9分発ですが,次の午後1時5分発がJR小出駅午後5時47分着なので,最悪でも,これに乗る必要があるわけでした。

 来る前,只見線に乗っているだけではなく,1度は途中下車して,沿線でどんな観光をしようか考えました。そして浮かんだのが次の①②③の案でした。
  ・・・・・・
 案① 時刻表とにらめっこをした結果,今乗っている列車は会津川口駅午前8時5分着なので,この駅で午前8時41分発か,もしくは,その次の午後0時29分発の逆向きの列車に乗り換えて会津柳津駅まで戻って会津柳津駅で途中下車すれば,会津若松駅午後1時5分発の列車が会津柳津駅午後2時5分に来るので,これに乗ることが可能。
 案② あるいは,会津川口駅で7時間24分滞在すれば,午後3時29分発に乗れる。
 案③ また,只見駅でも同様に7時間24分滞在すれば,午後4時31分発に乗れる。
  ・・・・・・
 その程度の考えでした。
 しかし,実際乗ってみたところ,今乗っている列車でも,会津川口駅での停車時間は10分あり,只見駅では23分あるので,停車時間に列車から降りて,外から写真も撮れるし,駅の構内の売店に行くこともできることがわかりました。また,この雪では,会津川口駅や只見駅で7時間24分滞在しても,紅葉の時期ならともかく,雪の中どこへ行くの? と思ったので,結局,①②③の案は廃案となり,このままJR小出駅まで乗りつくすことにしました。

 さて,列車は進み,会津坂下(あいずばんげ)という駅に着きました。単線の只見線は,この駅で,反対方向からの列車とすれ違います。単線の只見線,すれ違うのは,ここ会津坂下駅と会津宮下駅,そして,会津川口駅の3つです。つまり,この3つの駅ならば,反対方向の列車に乗り換えて,JR会津若松駅に戻れるということになります。
 会津坂下駅で反対側からやってきた列車は,2両編成でしたが,車内は高校生で一杯でした。どうやら,会津若松市内の高校に通う只見線沿線に住む高校生たちのようでした。それとは反対に,私の乗った列車に乗っていた2人の高校生は,会津坂下駅で降りていきました。地図で調べると,ここには会津農林高等学校があったので,どうやら,そこの生徒のようでした。
 と,このあたりまで,只見線は会津若松市街地を通っているので,高校生の通勤手段となっているようです。
 会津坂下駅を過ぎると,空が白んできました。列車は,会津若松市街地を過ぎ,田園地帯に入りました。窓から外を見ると,一面の銀世界でした。
 やがて,塔寺駅を過ぎて,次が会津坂本駅,そして,会津柳津駅と進むと,只見線は只見川に沿った山の中に入り,それとともに雪も強くなりました。
 いよいよ,ここから只見線の景勝地です。

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 2024年1月15日月曜日。念願だった只見線に乗ります。
 昨日,会津若松駅で「明日雪だとどうなりますか?」と聞くと「そのときはそのときにならないとわからない」と言われました。運次第だな,と思いました。会津若松駅周辺にはコンビニすらなかったのですが,近くにスーパーマーケットがあったので,昨晩の夕食後,翌日の朝食を買いました。午前6時8分発の只見線に乗るので,東横インで朝食は食べられません。
 午前4時30分に起床して,部屋で朝食を食べ,支度をして,午前5時30分にチェックアウトしました。昨日はとても天気がよかったのですが,朝はすでに雪景色でした。しかし,どうやら只見線は動いているようでした。

 私は,旅に出る前は,先入観ができるといやなのでまったく見ないのですが,帰宅してからYouTubeを見ると,秋の行楽シーズンに満員の只見線に乗った,というようなものがたくさんありました。
 午前5時45分に只見線の列車がホームに入ってくるので,混雑しているときは,早くホームに行って並ばないと座ることすらできないとありましたが,このときの私はそんなことは知らないし,この寒さではホームで待つのもいやだったので,午前6時まで余裕で駅の構内の待合室にいました。午前6時になって改札を通ったのですが,すでに列車はホームにいました。しかし,がらがらでした。
 最終的に,この日,只見線をJR小出駅まで乗りつくしたのは私も含めてわずか8人で,始発の会津若松駅で乗っていたのは,この8人に加えて,途中で下車した高校生が2人だけでした。
 10人の乗客を乗せた只見線は,定刻に出発しました。
 日の出はまだ1時間先のことで,外は真っ暗だったので,風景をみることはできませんでしたが,只見線で景色のよいといわれる場所は,夜が明ける1時間後に到着する会津標津駅から先のことです。

 ところで,この旅の1週間後。1月24日に寒波が襲来して,只見線は不通になりました。
 私は,もし,只見線が不通だったときは,磐越西線で遠回りをして新潟駅まで行こうとぼんやり考えていましたが,磐越西線もまた,雪だとダイヤが乱れるようです。
 それに加えて,これは想定外のことでしたが,1月23日はJR東京駅とJR大宮駅間で架線事故が起きて,東北新幹線も上越新館も止まってしまいました。もし,私が遭遇していたら,今回の旅は不可能でした。
 いつものこと,今回も私は強運でした。

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 この日は鶴ヶ城のボランティアガイドで偶然一緒になった女性と同じコースで観光をすることになって,結局,飯盛山ではずっと一緒にまわることになりました。レンタサイクルにしなったことでいい出会いができました。
 飯盛山で,会津若松市の観光も終わり。あとはまちなか周遊バスで会津若松駅に戻るだけでしたが,飯盛山で時間をとりすぎて,まちなな周遊バスの時刻に間に合いませんでした。どうしようかと考えて,おしゃべりをしながら,会津若松駅まで歩くことにしました。およそ30分の道のりでした。

 会津若松駅近くに七日町があります。来るとき,まちなな周遊バスの車内で見て,帰りに寄ろうと思っていました。私はそこで夕食をとることにしていましたが,その女性は,七日町を少し見てから,今日の列車で帰るということだったので,七日町まで行って,そこでお別れすることになりました。
 七日町には古い家並みがあって,歩いて楽しいところです。
  ・・・・・・
 大正浪漫の雰囲気のただよう七日町通りは,藩政時代には会津五街道のうち,日光,越後,米沢街道の主要道路が通り,城下の西の玄関口として問屋や旅籠,料理屋が軒を連ねていました。
 明治時代以降も重要な通りとして繁栄を極め,昭和30年代頃までは,会津一の繁華街としてにぎわっていました。その後,一度衰退したこの通りは現在大正浪漫を感じられる通りとして甦り,観光客に人気となっています。
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 七日町で最も気になった建物が福西本店でした。
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 福西本店は,明治時代から大正時代にかけて繁栄した会津若松の商人である福西家が築いた蔵と商家の建築物です。特に,野口英世青春通りに面した店蔵,仏間蔵,炭蔵の外壁は,一般的な白漆喰ではなく手の込んだ黒漆喰で作られています。母屋には広々とした大広間や座敷蔵などがあります。
 さらに,庭を見渡す東南の一角には二階建ての数寄屋があり,二階は客室として利用されています。
  ・・・・・・
 内部を見学できるということでしたが,もう時間が遅く,閉まっていました。また来いよ,と言われたと解釈しました。

 その後,当てもなく歩いていて,神明通りの東裏,興徳寺の本堂東側に見つけたのは,1590年(天正18年)から会津藩の藩主であった蒲生氏郷の墓でした。この墓は,会津史談会が1953年(昭和28年)に建てた,空風火水地の五文字を刻した五輪塔で,京都大徳寺の本墓から分骨したものと伝えられます。
 また,そのあたりを,野口英世青春通りといい,野口英世が青春時代を過ごし,會陽医院に書生として住み込みで働きながら約3年半にわたって医学の基礎を学んだ場所。洗礼の地は「野口英世初恋の地」ともよばれ,初恋の人・山内ヨネ子と出会ったところだそうです。
 野口英世は,3歳のとき火傷を負った左手を手術した會陽医院の跡が,現在,アンティークカフェで,その2階に野口英世青春館という博物館となっていたので,見学しました。
 さらに歩いていくと,「椿餅」がウリの伊勢屋というお菓子家さんがあって,実にいい外観をしていたので,写真に収めました。「椿餅」は「白虎隊も食べた」といわれている由緒あるお菓子で,創業の地が鶴ヶ城の南口に面していて,城の北面の坂が「椿坂」とよばれていたのが名前の由来です。また,伊勢屋という屋号は,伊勢の松坂城主だった蒲生氏郷が1590年に会津に移封されたときに伝えられた技術を基に創業したからだそうです。

 結局,七日町には,夕食をとる適当な店はなく,会津若松駅まで来てしまったので,駅前にあった寧々家という店でおいしく酒を呑みながら夕食をとりました,
 これで,会津若松市の観光は終わりです。今回は時間がなかったので,ひととおり歩いただけでしたが,会津若松市はとても雰囲気のいい町だったので,また来ようと思いました。
 さて,いよいよ明日は只見線乗車です。空を見上げると快晴で,木星に接近した月がきれいでしたが,明日の天気予報は雪。果たして,列車は動くのか?

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 会津武家屋敷で,再び,鶴ヶ城のボランティアガイドを一緒に聞いた女性と会いました。旅は道連れ,そして,目的地が同じなので,ここから次に行く飯盛山へ,同じまちなか周遊バスに乗りました。こうして,奇しくも楽しい旅となりました。
 飯盛山は標高314メートル,会津の城下町を一望に見渡すことのできる小高い山で,飯を盛ったような形から名づけられました。讃岐の飯盛山と共通の山だと思った日本武尊(ヤマトタケル)の魂が白鳥になり舞い降りたなどの神話も残る信仰の山ですが,白虎隊十九士自刃の地として知られています。
  ・・・・・・
 1868年(明治元年)の会津戦争は,薩摩藩,土佐藩を中心とする明治新政府軍と会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府軍との間で行われた戦いです。
 京都御所警備という任務に就いていたのにかかわらず,情報軽視や身分が硬直していた会津藩は,武士や地主以外の領民軽視で戦争の準備も軍制改革も遅かったことに加えて,和平主張する者を排斥したことから,藩内強硬派によって,悲惨な戦争が起きてしまう結果となりました。
 会津藩では,年齢ごとに,白虎隊,朱雀隊,玄武隊,青龍隊,幼少隊などが組織されました。藩士子弟の少年たちで構成される白虎隊の士中二番隊は戸ノ口原の戦いにおいて敗走し,飯盛山に逃れましたが,鶴ヶ城周辺の城下町が燃えているのを城が燃えているのと勘違いをして,敵に捕まり生き恥を晒すよりはと自刃してしまいました。
  ・・・・・・

 ハスを降りて,飯盛山への登山口まで来ました。登山口からは急な石段がありました。動く坂道「スロープコンベア」というエスカレータがあるということでしたが,あいにくこの日は運休だったので,雪が積もってすべりやすい階段を手すりを頼りに苦労して登りました。
 飯盛山は観光地となっていて,多くの土産物屋さんがあったのですが,今はシーズンオフで,閉じているのか,営業していてもお客さんがいないか,さびれ感満載でした。
 どうにか山頂に到着しました。山頂には,白虎隊十九士の墓,各地で戦死した三十一士の墓があり,自決した場所には慰霊碑がありました。自決した場所から鶴ケ城を見ることができるということでしたが,目を凝らしてもなかなか確認できず,自宅に戻って写真を見て,やっと判明しました。
 帰り道,中腹にあった栄螺堂(さざえどう)へ迂回しました。
  ・・・・・・
 日本でも珍しい木造建築物である栄螺堂は,1796年(寛政8年)に建立された,高さ16.5メートル,六角三層のお堂で,正式名称を「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)といいます。
 もともと,飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)という寺があり,その住職であった僧・郁堂(いくどう)の考案した建物だそうです。その独特な2重螺旋のスロープに沿って,昔は西国三十三観音像が安置されていて,参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていましたが,明治新政府による廃仏毀釈に伴い,明治以降は,養老の滝の話などの,8代藩主・松平容敬が編纂した会津藩の道徳教本であった皇朝二十四孝の絵額が掲げられています。また,上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造で,たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという世界にも珍しい建築様式です。
  ・・・・・・
 なかなか興味深い建物でした。

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 御薬園を出て,次の見どころは会津武家屋敷でした。さすがにそこまでは歩くのがたいへんだと,まちなか周遊バスに乗ることにしたのですが,地図を見ると,その間に,近藤勇の墓がある天寧寺とか書かれてあったので,興味が湧いて,結局,歩き通してしまいました。
 これでは1日乗り放題のチケットを購入した意味がありません。いや,さまざまな施設に割引で入れたので,意味がなかったわけでもないのですが…。
  ・・
 余談ですが,いろいろなところで,割引だとかポイントだとかがあっても,それをどう使うか四苦八苦しているだけではないか,とこのごろ思うようになりました。そして,苦労ばかりが多くなって,結局,いくら得をしたのか? と思うと,何だか馬鹿らしくなってきました。所詮は数百円から多くても数千円くらいのものです。死んだあとに残るお金ならあってもなくても同じ。ならば,そんなことに関わっても,わずらわしいだけであまり意味がないのではないか? だから,簡単に割引になるものならともかく,工夫や知恵を絞ってまで,割引の恩恵の預かろうとするのは本末転倒…。
 閑話休題。

 近藤勇の墓に至るのは,「奴郎ヶ前」(やろうがまえ)という場所にあった狭い坂道で,かつ,かなり距離があったので,結局行くのをやめました。「奴郎ヶ前」には案内板があって,それによると,このあたりは,昔,処刑場があり、罪人が最後の食事として田楽と清水が与えられた場所だった,とありました。柵を意味する矢来の前だったことから「矢来の前」。これが転じて「奴郎ヶ前」と変化したといわれています。
 現在,この場所には会津三大茶屋のひとつである「奴郎ヶ前の田楽」を提供する「お秀茶屋」がありました。四方を山で囲まれた盆地である会津。峠には茶店ができ,その茶屋の料理が名物になりました。それらを三大茶屋といいます。
  ・・・・・・
 滝沢街道にある「強清水(こわしみず)の天ぷら」
 日光街道にある「一ノ堰(いちのせき)の棒たら」
 東山街道にある「奴郎ヶ前の田楽」
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 どうして,この場所に近藤勇の墓が? それはつぎのような理由からです。
  ・・・・・・
 28歳で京都守護職を拝命した9代藩主・松平容保(まつだいらかたもり)は,江戸帰還を命ぜられた浪士組のうち京都残留を希望する近藤勇らを御預として,のちに新選組となった「壬生浪士組」を誕生させました。
 新選組は,戊辰戦争に参戦するも敗北を繰り返し,近藤勇が西軍へ投降してもなお抵抗し,宇都宮から会津へと転戦。会津では斎藤一ら一部の隊士が如来堂において西軍に急襲され全滅したといわれます。
 近藤勇は東京板橋で斬首され,京都の三条河原において罪文とともに晒し首にされましたが,土方歳三が近藤勇のために建立したといわれる墓がこれです。土方歳三は,足の治療を続けている間,毎日この現場に来て指図し,建立させたそうです。また,近藤勇の戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」は,松平容保が贈ったものであるといいます。
 墓に葬られているのは,京都の三条河原から新選組隊士が奪ってきた首であるとも,また遺髪であるとも。
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 奴郎ヶ前を過ぎ,さらに歩くと,会津武家屋敷に到着しました。今回もまた,歩き通してしまいました。私は,会津武家屋敷というのは,江戸時代の武家屋敷が残る風情あるところだと勘違いをしていました。実際は,日新館藩校同様,会津藩家老・西郷頼母(さいごうたのも)の屋敷を復元して見せる観光用の施設で,土産物屋などが併設されていました。本来の西郷頼母邸はこの場所ではなく,鶴ヶ城正面の追手町にありました。
  ・・・・・・
 西郷頼母は,幕末の会津藩の家老です。西郷家はもともとは保科姓で,信州高遠藩の藩主だった保科正直の弟三河守正勝からはじまり,のちに会津藩主となった保科家の分流です。
 西郷頼母は,田中土佐と共に松平容保に京都守護職辞退を進言したので,松平容保から怒りを買い,家老職を解任されました。戊辰戦争が起きると家老職に復帰し,白河口総督として戦いますが,敗れ,会津へ戻り,その後,長男を連れて会津から出ました。新政府軍が城下町に乱入したとき,家族ら21人は邸宅で辞世の句を残して自決しました。西郷頼母自身は,紆余曲折ののち,明治時代は福島県伊達郡の霊山神社で神職を務め,辞職後は会津若松に戻り,1903年(明治36年)に会津若松の十軒長屋で死去しました。
  ・・・・・・

 会津若松市の観光で,最後に残ったのは白虎隊で有名な飯盛山でした。そこまではさすがに遠く,まちなか周遊バスに乗ることにしました。しかし,まちなか周遊バスが来るには,まだずいぶん時間があったので,近くにあると思われた松平家墓所まで行ってみることにしました。
 松平家墓所は,入口まではさほどの距離でなかったのですが,そこからが大変でした。雪が残る山の中へ滑りやすい苔むした石段を登り,到着までは片道20分以上かかるとありました。また,熊注意,ともありました。さすがに冬は冬眠中だから熊は出ないだろうと思ったのですが,あまりの遠さにどうしようかと思っていたところ,途中にも墓らしきものがあったので,それだけを見て引き返しました。
 帰ってから調べてみると次のようでした。
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 江戸時代,墓所の場所全体が院内山とよばれていたので,松平家の墓所は「院内御廟」(いんないごびょう)といいます。
 「院内御廟」には,2代藩主・保科正経から9代藩主・松平容保までの歴代藩主とその側室や子どもが埋葬されています。ちなみに,初代・保科正之の墓所は猪苗代町の土津(はにつ)神社にあります。
 1657年(明暦3年)保科正之の子ども保科正頼が18歳で早世し,その埋葬場所として,南向きの山でよい清水が出るためこの場所が選ばれました。その後,2代藩主が葬られ,3代藩主も院内山に埋葬されることが決定して以来,歴代の藩主の埋葬地として歴史を刻むこととなりました。
 墓所は15ヘクタールにもおよび,荘厳な景観をつくりだしているそうです。
  ・・・・・・
 結局,私が行くことができたのは,保科正頼の墓までだったのです。

 会津武家屋敷の先に,今回は行くことができなかった,天平年間に開湯した東山温泉がありました。東山温泉には,江戸時代,会津藩の浴場と保養所があり,負傷した土方歳三はここで湯治しました。明治以降は,この風情に魅せられた文人歌人も多く,与謝野晶子や竹久夢二などが訪れ,数々の作品を残したということです。いつか,ゆっくり行ってみたいものです。
  ・・・・・
 湯あみしてやがて出じとわが思ふ会津の庄のひがし山かな
 半身を湯より出して見まもりぬ白沫たてる山あひの川
 自らを清しとすれど猶あかず会津の山の湯を愛でて浴ぶ
 湯の川の第一橋を我がこゆる秋の夕のひがし山かな
   「青海波」与謝野晶子
  ・・・・・・
 ただし,東山温泉は,様々な問題で,現在は,廃墟化しているホテルもあるということです。日本の温泉地の多くは,同じような問題を抱えています。

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 日新館天文台跡は鶴ヶ城の西にあって,こんなマニアックな場所はほとんどの人にはまったく興味はないから,まちなか周遊バスのコースではありませんでした。そこで,その場所まで歩く必要があったのですが,こうしたはじめての町を歩くのは,とても楽しいものです。
 次に目指したのが,鶴ヶ城からは,はるか東にある御薬園(おやくえん)でした。途中からまちなか周遊バスのコースになるので,そのあたりでバスに乗ればいいかな,と思っていたものの,結局,歩き通しました。
 幸い,この日は天気もよくとても暖かでした。
 御薬園へ行く途中で見つけたのが,田中玄宰(たなかはるなか)の屋敷跡でした。田中玄宰は江戸時代後期の会津藩家老で,会津藩5代藩主・松平容頌(かたのぶ),6代藩主・松平容住(かたおき),7代藩主・松平容衆(かたひろ)に仕えた偉い人です。天明の大飢饉の窮地を乗り越えるため,殖産興業の奨励を図り,今日の会津地方の伝統産業の基礎を築くなど,高く評価されたそうです。
 そして,県道64号線沿いには,若松城の土塁が今も残っていました。

 30分程度歩いて,やっと御薬園に着きました。
 見どころということでやってきた御薬園ですが,私は御薬園が何か知りませんでした。御薬園は藩主の庭園でした。
  ・・・・・・
 約635年前,この地に住む喜助が病気で難儀していました。朝日保方(あさひやすかた)という白髪の老人が鶴の舞い降りた泉の水で喜助を介抱し,喜助はもとのからだに戻りました。喜助は疫病から救ってくれた恩人として,朝日保方を霊泉の傍らに手あつく葬り,祠をたてて朝日神社とし,霊泉の泉を鶴ケ清水と名付けたということです。この祠は今も御薬園にあります。
 1432年(永享4年),当時の10代当主・葦名盛久(あしなもりひさ)は,この地は霊地であるとして別荘を建て,16代当主・葦名盛氏(あしなもりうじ)は別荘を復興,これが御薬園の創始とされています。
 その後,永い戦乱で別荘はまったく顧みられませんでしたが,初代藩主・保科正之は霊地の由緒を正して庭園を整備し,保養所として用いるようになりました。2代藩主・保科正経(まさつね)は、貧しい領民を疫病から救い,病気の予防や治療などを施したいとの願いから,園内に薬草園を設け,各種の薬草栽培を試みました。
 現在の庭園は3代藩主・松平正容(まさかた)の時代,1696年(元禄9年)に小堀遠州の流れを汲む園匠目黒浄定(めぐろじょうてい)と普請奉行辰野源左衛門(たつのげんざえもん)の手に成るもので,規模を拡大し借景を取り入れた池泉回遊式の大名庭に大補修を加えたものです。
 周囲約540メートルの長方形で面積は1.7ヘクタール,約5100坪あり,北に千古の雪を頂く飯豊の霊峰や,東には磐梯の秀峰と背あぶり山・東山の連山が望まれた借景のすばらしい庭園として造られました。
 また,薬園が整備拡充され,朝鮮人参を試植し,これを広く民間に奨励したことから,領民からお殿様の薬園,御薬園(おやくえん)とよばれるようになりました。
 戊辰戦争後,維新政府は御薬園を没収し官有地としましたが,これを憂いた現在の若松市柳原町の豪商・長尾和俊は,会津一円に募金を呼びかけて買い戻され、旧藩主の所有となりました。
 1932年(昭和7年)国の名勝に指定され,1953年(昭和28年)から一般に公開されました。
  ・・・・・・

 御薬園は,中央に心字池がある池泉式回遊式大庭園で,思った以上にすばらしいところでした。ここは,大河ドラマ「八重の桜」のロケ地となったところでもありました。心字池の周りを歩くようになっていたので,景色を眺めながら歩きました。心字池の中央に亀島と楽寿亭,池の西側に御茶屋御殿,庭園北側に藩政時代の薬草栽培地跡を利用した薬用植物標本園がありました。
 少しだけ雪が残り,それはそれはすばらしい雰囲気でした。
 池泉式回遊庭園の池の水源は,猪苗代湖と東山の湯川の2系統から引き入れているということです。
 ひときわ目につく数寄屋造りの楽寿亭は,主として藩主や藩重役等の納涼や観光の場であり,茶席や密議等の場としても使われていたようです。楽寿亭の命名は保科正容によるもので
  ・・・・・・
 松平正容は,平素から政務は「仁」と「知」が大切であるといい,「仁知」の2字を座右の銘としていました。時折り御薬園に来て山水を見ていましたが,それは,自然の造化のなかにも「仁」者の「寿」と「智」者の「楽」のあることを感じ「楽寿亭」の名をつけた
  ・・・・・・
といいます。

 このすばらしい庭園に訪れていたのは,私のほかにひとり女性がいただけでした。が,その女性は,奇遇にも,鶴ヶ城で一緒にボランティアガイドの説明を聞いた人でした。

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 鶴ヶ城の見学を終えたころ,ちょうどお昼になったので,どこかで食事を,と思いながら歩いていると,城の北の丸のあたりに「本丸茶屋」という店があったので入りました。
 会津若松市の名物は「会津ソースカツ丼」ということなので,これを注文しました。
 「会津ソースカツ丼」は,どんぶりの飯の上にキャベツを敷き,その上にとんかつを載せ,ウスターソースをかけたものでした。
  ・・・・・・
①大正年間に早稲田大学向かい鶴巻町にあった洋食店「ヨーロッパ軒」が1913年(大正2年)東京の料理発表会で「ソースカツ丼」を披露し,その数年後には店で提供していた。
②1921年(大正10年)早稲田高等学院生の中西敬二郎が「ソースカツ丼」を考案した。
③1920年(大正9年)岩手県一関市の「和風レストラン松竹」にて誕生した。
④東京の「ヨーロッパ軒」が1923年(大正12年)の関東大震災で再建不能となって福井へ移り,翌年福井市の「ヨーロッパ軒」にて誕生した。
⑤大正の末,群馬県桐生市「志多美屋本店」にて誕生した。
⑥1930年(昭和5年)会津若松市の「若松食堂」にて誕生した。
⑦ 昭和年間に前橋市の「西洋亭」にて誕生した。
➇昭和初期,長野県駒ケ根市,恵那市にて誕生した。
  ・・・・・・
といった数々の発祥説があるそうですが,会津若松市は「「ソースカツ丼」に最初にキャベツを入れた町 」だそうです。
 「ソースカツ丼」,私は長野県駒ケ根市のものしか知らなかったのですが,ほかにも,群馬県桐生市だの,新潟市古町だの,福井名物だのと,全国にわたって,「ソースカツ丼」なるものは存在しているようです。要するに,カツ定食を一緒にしただけのものですからだれでも考えつきます。我こそは元祖,と言ったものが勝ちです。
  ・・
 今回は食べませんでしたが,「ソースカツ丼」以外の会津若松市のグルメは,馬刺しとかラーメンとかです。
 会津馬刺しは, 熊本,長野と並ぶ「日本三大馬刺し」のひとつに数えられているそうです。会津では,みそに唐辛子やニンニクなどを混ぜた「 辛みそ」をしょうゆに溶かして食べるのが一般的ということです。
 また,福島県で有名なのは「喜多方ラーメン」ですが,「会津ラーメン」というのもあって,「 喜多方ラーメン」との違いは,味が全体的に濃いめで,具はシンプルそのものでチャーシュー,ねぎ,メンマが一般的であり,この黄金比こそが「会津ラーメン」の真髄だそうです。ちなみに,会津では味噌ラーメンも少し変わっていて,野菜,もやし,肉をふんだんに入れた味噌タンメンを指すということです。ところで,「日本三大ラーメン」というのがあって,それは,一般的に,北海道の「札幌ラーメン」,福岡県の「博多ラーメン」,福島県の「喜多方ラーメン」を指すそうです。

 昼食を終えて,鶴ヶ城付近の見どころを探すと,会津藩の藩校であった「日新館」の跡地というのが見つかりました。私は,日本各地,様々なところに行くと,城跡に加えて,藩主の菩提寺と藩校を探すのですが,それは,江戸時代,その地を治めた殿様の治世がよくわかるからです。
 「日新館」は,1868年(慶応4年)戊辰戦争により校舎は焼失してしまい,現存するのは会津若松城趾西側に残る天文台跡のみです。調べてみると,現在,「会津藩校日新館」というものが別の場所にありますが,それは,藩校に関する資料が残っていたため,総工費34億円を費やして1987年(昭和62年)に会津若松市河東町に復元して開館した観光施設です。
 1782年(天明2年)から数年間続いた天明の大飢饉をはさんで,会津藩内でも様々な問題が出てきました。その諸問題を解決すべく,5代藩主・松平容頌(たかのぶ)のとき,家老・田中玄宰(はるなか)は藩政の改革をするよう進言し,その中心に「教育の振興」をあげました。それが「日新館」創設のきっかけとなりました。
 江戸時代,全国各地に天文台が建設されましたが,現存しているのは日新館の天文台跡のみなので,全国的にも貴重な史跡であり,天文学的にも貴重なものであることから,日本天文遺産認定となりました。日本天文遺産とは,歴史的に貴重な天文学・暦学関連の史跡・建造物や物品,文献などの遺産を大切に保存し,文化的遺産として次世代に伝えるために,日本天文学会により創設された制度です。

 こうして,会津若松市街地を歩いていると,はじめて来た地なのに,どこか似たところを歩いたことがあるなあ,と思いましたが,それがどこだったのか,なかなか思い出せませんでした。このごろいろいろなところに行っているので,記憶がごちゃごちゃになってしまっているようです。家に帰ってから調べてみると,それは,山形県米沢市でした。ということなのですが,偶然,私が,天文台跡まで歩いている途中に目にしたのが,直江兼続邸跡・山鹿素行誕生地でした。
 直江兼続は上杉景勝の家臣で,米沢のひとです。それがどうして?
 豊臣政権時代,会津藩を統治していたのが上杉景勝でした。しかし,関ヶ原の戦いののち,上杉家は米沢に移されたことで,直江兼続もまた,会津から米沢に移ったわけです。
 山鹿素行が生まれたのは,そののちのことになります。山鹿素行の誕生地を記念した碑石は地元の自然石で「山鹿素行誕生地 大正15年春 元帥伯爵東郷平八郎書」と刻まれています。山鹿素行という名は高等学校の日本史の教科書にもありません。それがどうして私が山鹿素行を知っているのだろう?
 それは,赤穂義士が討ち入りをしたときに「山鹿流陣太鼓」を鳴らしたという物語(創作)からです。山鹿素行は,江戸前期,赤穂藩士の教育などを行った儒学者です。3代将軍・徳川家光の師範でしたが,徳川家光の死後,赤穂藩から学問師範として迎えられ,軍学や儒学を教えました。その後江戸に出て民間の学者となりましたが,反政府的なことを説いて,赤穂藩に流刑を言い渡されました。
 浅野内匠頭は山鹿素行の「教え」をイデオロギーとしていたといいます。
 そこで,討ち入りのときに,大石内蔵助が陣太鼓をたたき,それを聞いた吉良上野介の家臣たちは「一打ち二打ち,三流れ… アレは山鹿流の陣太鼓か」と言って,刀もって飛び出して行く,という創作が生まれたとか。

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 ボランティアガイドさんの説明を聞いてから,鶴ヶ城の天守に入りました。5層まで上ると,遠くの磐梯山を美しく見ることができました。
  ・・・・・・
 磐梯山は約5万年前と1888年(明治21年)に大規模な山体崩壊・岩なだれを起こしました。5万年前の山体崩壊は表磐梯側で起きて猪苗代湖ができました。また,1888年の山体崩壊は裏磐梯側で起き,水蒸気爆発によって小磐梯を崩壊,消滅させ,桧原湖などの多くの湖沼群を作りました。
 磐梯山は,南側が表磐梯,北側が裏磐梯とよばれ,表磐梯から見る山体は整った形をしていますが、裏磐梯から見ると一変して山体崩壊の跡の荒々しい姿を見せます。
  ・・・・・・
 復元天守で鉄筋コンクリート造りの鶴ヶ城の中は博物館となっていて,会津若松市の歴史を知ることができます。
 私が興味をもったのは,大河ドラマ「八重の桜」でも出てきた「会津藩家訓15ヶ条」でした。家老・友松氏興が建言し,保科正之と朱子学者・山崎闇斎と共同で作成したといわれる「会津藩家訓15ヶ条」は,200年にわたり会津藩の精神的支柱として存在しました。
  ・・・・・・
第1条
  大君の儀,一心大切に忠勤を存すべく,列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば, 則ち我が子孫に非ず,面々決して従うべからず。
  ・・・・・・
 9代藩主・松平容保(たかもり)は,越前の松平春嶽や一橋慶喜らに京都守護職への就任を要請されます。この「会津藩家訓15ヶ条」第1条の内容を引き出された松平容保は要請を承諾するしかなく,これが後に戊辰戦争の悲劇へとつながったといわれています。

 天守を出て,次に向かったのが茶室「麟閣」でした。
 1591年(天正19年)千利休は豊臣秀吉の怒りにふれ,死を命じられました。千利休の茶道が絶えるのを惜しんだ会津城主・蒲生氏郷は,千利休の子・千少庵(しょうあん)を会津にかくまい,徳川家康とともに秀吉に千家の再興を願いでました。このとき建てたのが「麟閣」と伝えられています。
 1594年(文禄3年),千少庵は許され京都へ帰って千家を再興しました。 その子・千宗旦(そうたん)に千家茶道が引き継がれ,そののち,千宗左(そうさ),千宗室(そうしつ),千宗守(そうしゅ)の3人の孫によって表,裏,武者小路の3千家が興され,今日の茶道隆盛の基が築かれ,それ以降,3千家はそれぞれ名跡を受け継ぎました。
 戊辰戦争で会津藩が敗れ,明治のはじめに城内の建物が取り壊される際,茶人・森川善兵衛は,貴重な茶室の失われるのを惜しみ,1872年(明治5年)に自宅へ移築しました。平成2年に市制90年を記念して,鶴ヶ城内の元の場所へ移築しました。
 「麟閣」には,3千家の家元による扁額が掲げられています。茶室南側にあるのが表千家14代千宗左のもので,表門上にあるのが裏千家15代千宗室のもの,そして,脇門上にあるのが武者小路千家14代千宗守のものです。

 鶴ヶ城には大きな「赤べコ」がありました。「赤べコ」は会津若松市の郷土玩具です。赤に下塗りした牛の型に黒の斑点と白の縁取りを絵付けした張り子人形です。古くは厄除けのお守りや縁起物として,今日では人気の土産物としても親しまれています。
 「赤べこ」は,会津地方でつくられてきた会津張り子のひとつで,他に「会津天神」「起き上がり小法師」「会津だるま」などがあります。会津張り子の発祥は江戸時代の歌舞伎から着想を得てつくられた福島県三春町の三春張り子の模倣という説と,領主・蒲生氏郷が京都から職人を招いて藩士たちに張り子づくりを学ばせたのがはじまりとする説があります。
 「赤べこ」ができた当初はとくに形の決まりはなく,職人ごとに個性が溢れていたのが今日ようになったのは明治初期のころで,大正末期には,赤塗りに黒の斑点,白の縁取りに統一されたといいます。
 また,400年ほど前に会津地方を襲った大地震により倒壊した,柳津町にある圓藏寺の本堂の再建を手伝った赤牛の伝説をもとに誕生したともいわれていて,柳津町は,赤ペコ発祥の地として町起こしをしています。

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 JR会津若松駅に着きました。念願の,一度は来たかった会津若松市です。思ったよりも大きな都市で,しかも,とてもきれいな町でした。まず,今晩の宿泊先である駅前の東横インに行ってカバンを預けました。さすがにこの町の東横イン付近には風俗街はありませんでした。そして,駅に戻って,歓呼案内所に入りました。「1日観光をしたいのですが」と言うと,とても親切に説明をしてもらえて,地図やパンフレットをくれました。
 会津若松観光は,「まちなか周遊バス」という1時間ごとに観光スポットを循環運行している右回りの「あかべぇ」と左回りの「ハイカラさん」があるので,これを利用するといい,ということでした。
また,主な見どころは,七日町,鶴ケ城,御薬園(おやくえん),会津武家屋敷,飯盛山だといわれました。 
 ちょうど10時発の「ハイカラさん」が3分後にあるというので,早速,1日乗り放題のチケットを購入してこれに乗りましたが,バスを利用しなくとも,レンタル自転車もあるとあとで知りました。会津若松市は平地なので,このほうがよかったかもしれませんが,今回,利用しなかったことが吉と出ました。その理由はあとでわかります。
 ちなみに,会津若松で「あかべぇ」はわかりますが,「ハイカラさん」は何? と思いました。1982年のNHK朝の連続テレビ小説に「ハイカラさん」がありましたが,このドラマの舞台は静岡県でした。また,「はいからさんが通る」というアニメもあるのですが,会津若松市とは無関係のようです。調べてみると,会津には「「はいからさん語り部」育成プロジェクト実行委員会」というのがあって「はいからさんに逢えるまち」というイベントを秋に行っているということです。主催するアネッサクラブでは「はいからさんというのは常に時代をリードし改革していく人と捉え」ているそうです。
 「ハイカラさん」は,七日町という歴史的建造物が並ぶ繁華街を通って,鶴ヶ城に向かいました。いい町だなあ,というのが第一印象でした。七日町は駅に近いので,最後に観光をすることにして,まず,有名な鶴ヶ城に行くことにして,最寄りのバス停で降りました。

 現在の福島県は江戸時代,会津藩の他に多くの藩がありました。そのうち,会津藩は,陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩で,居城が,現在,鶴ヶ城とよばれる若松城でした。
 蒲生氏郷が入るまでは「黒川」とよばれていましたが,蒲生氏郷が故郷の近江にあった「若松の杜」にちなんで町名を「若松」と改め,会津にあることから会津若松ともよばれるようになりました。
 鶴ヶ城の天守に入る前,ボランティアガイドさんの説明が聞けるというので,参加しました。ガイドさんの説明を聞いたのは,私と,説明がはじまったころに参加した横浜から来たという女性のふたりでした。
  ・・・・・・
 1934年(昭和9年)国の史跡に「若松城跡」として指定されたので,正式には若松城ですが,約400年前,藩主蒲生氏郷が幼名・鶴千代であったことと蒲生家の家紋に鶴が入っていたことで鶴ヶ城と名づけ,一般にはこの名前で知られています。
 豊臣秀吉が天下統一を達成すると,東北の地に信頼が厚く,かつ武勇に優れた武将を置く必要があったことで,旗下の武将・蒲生氏郷に異動を命じました。蒲生氏郷は,1592年(文禄元年),室町時代に蘆名氏が築いた黒川城を改修し,鶴ヶ城と名づけました。その翌年には,金箔を貼った鬼瓦を使用した七重の天守を築きました。
 1598年(慶長3年)に蒲生氏郷の子・蒲生秀行が家中騒動で宇都宮に移封となり,上杉景勝が入封しましたが,関ヶ原の戦いで西軍に荷担したため出羽30万石に移封され,1601年(慶長6年)に再び蒲生秀行が入封し,初代藩主となります。2代藩主は蒲生秀行の子・蒲生忠郷(たださと)には,嫡子がなかったため,本来なら蒲生氏は断絶するところでしたが,母が家康の娘であるということで,出羽の上山藩を領していた弟の蒲生忠知を後嗣として伊予の松山藩が与えられ,存続を許されました。そして,1627年(寛永4年)会津には加藤嘉明が40万石で入封します。しかし,重臣とのいさかいが原因で会津を去ると,1643年(寛永20年)徳川秀忠の子・保科正之が出羽から入部しました。
  ・・・・・・
 このように,私は,会津藩と先日行ったばかりの松山藩,そして,2022年に行った上山藩に藩主のつながりがあるのが,奇遇というか不思議な気がしました。日本は狭いです。

  ・・・・・・
 こうして,会津藩は,結局・保科家となりました。
 1696年(元禄9年)3代藩主・保科正容(まさかた)の時代に松平姓と葵紋が許され,御三家に続く御家門の地位を確立し,以降,保科は松平と改め,松平家が藩主となりました。

 1868年(慶応4年)松平容保(かたもり)が9代藩主となったあとに戊申戦争が勃発します。会津藩は、徳川家に忠誠を誓い鶴ヶ城に籠城し,新政府軍に徹底抗戦します。新政府軍の猛攻を耐え抜きますが,ついに開城します。ここで起きたのが会津の悲劇です。
 戊辰戦争後,鶴ヶ城は取り壊されましたが,1965年(昭和40年)に天守が復元されました。
 現在では,赤瓦が葺かれた五重五階の天守閣,干飯櫓,走長屋,鉄門が再建,郭を構成する高石垣などが残されています。
  ・・
 鉄門は本丸東側の入口の門で,名前通り門扉や柱が全て鉄で覆われています。
 鶴ヶ城で目につくのは石垣です。石垣の加工は時代の流れとともに進化しました。鎌倉後期の自然石をそのまま積み上げる野面積みはじまりました。関ケ原の合戦以降盛んに用いられたのは表面に出る石の角や面をたたき平たくする打込み接ぎ,江戸時代初期から多用された方形に整形した切込み接ぎです。鶴ヶ城は,それぞれの時代の石垣の変遷をみることができます。
 太鼓門近くの石垣に直径2メートル、奥行3メートルにもおよぶ大きな石があります。 大きな石を魔除けとしてあえて入れたのだそうですが, あまりの重さに石の運搬に遊女が石の上で踊って人足を励ましたとの言い伝えから「遊女石」とよばれているそうです。
 また,石垣の中に,ハート形をした石がふたつあります。大きなハートと小さなハート,2個見つけると願い事が倍かなうそうです。
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Wolf Moon 2024.

明け方西空の満月です。
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 JR西川口駅から京浜東北線に乗って,JR大宮駅に着きました。私が乗るのは,午前7時5分発の東北新幹線「やまびこ」203号でした。
 今回私が持っていたのは連続切符で,名古屋駅から大宮駅(連続1)と大宮駅から名古屋駅(連続2)でした。行き(連続1)の名古屋駅から大宮駅の切符には,経由:名古屋・新幹線・東京・大宮・新幹線・郡山・浦佐・新幹線と書かれてありましたが,JR大宮駅で新幹線に乗り換えるときに自動改札を通ったら切符が回収されてしまうのが心配だったので,窓口を通りました。果たして真相はどうなのでしょうか? 今でも謎です。
 さて,まだ私の乗る「やまびこ」がホームに到着するには30分以上あったのですが,ホームに行って,次から次にやってくる新幹線車両を見て楽しみました。となりのホームにやってきたのが,ディズニーランド仕様のE2系で,側面にドナルドダックやミッキーマウスの大きな絵が描いてありました。これは
  ・・・・・・
 東京ディズニーランドとして1983年に開業した東京ディズニーリゾートの40周年を祝おうと,JR東日本とオリエンタルランドが企画したもので,E2系車両の10両を黄やピンクのパステルカラーで彩り,ディズニーのキャラクターなどを配してあります。
  ・・・・・・
 ということだそうですが,2023年12月22日から2024年3月末ごろまで,仙台と東京を1日1往復しているようです。

 さて,そうこうするうちに,私の乗るE5系「やまびこ」がやってきました。座席はけっこう空いていました。この日はとても天気がよく,窓際西側の席がとってあったので,遠くに雪を被った美しい山々がよく見えました。これらの山々は,足尾山地で,男体山,女峰山,高尾山,そして,那須岳と続いていきます。そして,あっという間にJR郡山駅に到着しました。
 余談ですが,郡山市といえば,私には今は亡き藤井旭さんが美しい星空を求めてたどり着いた地という印象があります。懐かしい思い出です。以下,著書「白河天体観測所」から引用します。
  ・・・・・・
 全国から東京へ東京へ1極集中する人波をかけわけるようにして,いつまでも星空が残っていそうな逆方向の場所と目ぼしをつけておいた東北をめざし,日光から会津若松へと山道をぬけ,郡山市へとたどり着きました。
 郡山では,この町出身の同じ美術大学の寮暮らしだった友人から,よく土産にもらった大のお気に入りだった薄皮饅頭屋さんに立ち寄りました。そして「食いおさめかも知れんな」などと言いながら,店先で思いっきりパクついていましたら,なんと社長さんとおぼしき人からこう声をかけられてしまったのです。
 「…そんなに饅頭が好きとは…よし気に入った。うちで仕事をしないか…」
  ・・・・・・
 ここに出てくる薄皮饅頭屋さんはJR郡山駅前にある老舗「柏屋」さんです。

 今は,東京からは新幹線さえ使えば,どこもあっという間です。そこで,東京に住んでいればどこにでも簡単に行くことができる,といえるわけですが,反対に,どこからも東京へは簡単に行くことができるわけで,こうして,さらに,東京は人だらけになり,地方は過疎化が進むのです。ただし,新幹線は高く,贅沢な乗り物なので,お金のない若い人は,高速バスを利用するしかありません。
 今回,私は,会津若松市の観光をすることにしていたので,JR郡山駅で途中下車をすることもなく,10分後の午前8時29分に出発する会津若松行きの磐越西線に乗ることになります。次回があれば,ぜひ,郡山観光がしたいものです。
 すでに磐越西線のホームには列車がいたので,早々に乗り込みましたが,先客が予想以上に多く,座る席はかろうじてあったのですが,思ったより混雑していました。この日は日曜日だったので,子供たちが大勢いて,2人で4席を占領したりしていて,結構うるさい車内でした。
 途中,列車は,猪苗代湖の北側を通っていくので,右手には,安達太良山,そして,磐梯山が見え,あたりは銀世界となりました。この先どうなることかと心配しましたが,午前9時41分,定刻にJR会津若松駅に着いたときは,駅前には全く雪がありませんでした。

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 2024年1月13日土曜日。NHK交響楽団第2001回定期公演を聴きに東京へ出かけた私は,この日のお昼は,上野寛永寺から「モネ 連作の情景」展,そして,藤井聡太王将写真展,靖国神社と東京を散策しました。今回は,その翌々日に只見線に乗ろうと,1月14日,1月15日の2日間,東北旅行を計画しました。
 只見線は,福島県のJR会津若松駅と新潟県のJR小出駅を約4時間30分で結ぶ秘境のローカル線です。2011年の豪雨で橋が流され,不通になっていましたが,昨年全線開通しました。JR会津若松駅発午前6時8分,午後1時5分,午後5時という1日に3本しか全線を走る列車がありません。JR会津若松駅発午前6時8分に乗るには,前日に会津若松市に到着して,前泊する必要があります。そこで,せっかくなので,1月14日の朝,会津若松市に着いて,終日,これまで行ったことがなかった会津若松市を観光することにしました。
 NHK交響楽団の定期公演終了が午後8時なので,翌日の早朝に東北新幹線に乗り,JR郡山駅で磐越西線に乗り換えて,会津若松まで向かうことにしました。1月13日は東京都内に宿泊してもいいのですが,このごろは都心はホテルの宿泊代が高いので,JR 西川口駅前の東横インに宿泊することにしました。これなら,NHKホールのある渋谷から山手線,京浜東北線と乗り継げばさほど時間もかからず,翌日は京浜東北線で大宮駅まで行けば,東北新幹線に乗ることができます。

 ということで,夜9時30分ごろ西川口駅に到着しました。
 西川口なんて,何の縁もゆかりもないので,はじめて来ました。駅から東横インまではさほどの距離はないのですが,そこまで行く間が風俗街なのに驚きました。川崎駅前もそうだったし,大阪の天王寺駅前もそうだったし,日本全国どこにいっても東横インは風俗街にあるようだ,という話を後日友人にしたら,駅前だから当然だ,と言われました。いつも思うけれど,日本というのは,まことに不思議な国です。
 この日は,いつものように,NHK交響楽団の定期公演の前に夕食をとってあったので,そのまま東横インにチェックインして,翌日に備えて早々に寝ました。
 翌日は,早朝に大宮駅まで行って東北新幹線に乗るので,東横インで朝食をとる時間がなく,西川口駅前のコンビニで朝食を買おうと思ったのですが,西川口駅前に松屋があったので,そこで朝食をとることにしました。それにしても,夜の西川口は,駅前の交番の前の歩道で酔っ払いが寝ているわ,きらびやかなネオンにつつまれているわで,すごいところでした。国内,国外問わず,こういう場末の雰囲気は嫌いではありませんが…。
  ・・
 さて,翌日1月14日日曜日は午前5時起床。予定通り,松屋で朝食をとり,一旦,東横インに戻ってチェックアウトをして,早朝の京浜東北線に乗りました。
 ともかく心配だったのは天気でしたが,1月14日は快晴で暖か,ということでした。しかし,1月15日は寒波到来,東北地方は雪,ということだったのです。果たして只見線は動くのか? こうなったら私の運にかけるほかありません。
 実際,私が旅をした1週間ほど後の1月23日は,JR東京駅とJR大宮駅間の新幹線の架線故障があって,東北新幹線も上越新幹線も終日不通,しかも,1月24日は大雪で只見線も不通,JR郡山駅からJR会津若松駅まで乗った磐越西線も大雪で通常の運行に支障があったということで,ひとつ間違えば,私が行ったような旅は不可能でした。さて,今回の旅は,どうだったのでしょうか?

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 NHKFMに「朗読の世界」という番組があります。ラジオNHK第1にも「朗読」「らじる文庫」という番組があるほか,それ以外にもさまざまな番組の中に朗読のコーナーがあるようです。若いころは,こんな番組だれが聴くのだろう? と思っていたのですが,今の若い人も同じことを言っていました。しかし,本を読むのも,特に,小説を読むのも面倒になってきた私は,こうした番組の意義がわかってきました。喜ぶべきか悲しむべきか…。
 その「朗読の世界」で,太宰治の「津軽」が全35回で取り上げられていたので,聴きました。
 先日,青森県を旅して,太宰治の生まれた家,現在の「斜陽館」に行ったこともあって,これまでは存在だけを知っていた小説「津軽」に興味をもったのですが,思ったよりも分量が多くて,また,この時代の小説は読みにくいので,断念しました。そんなことこともあり,まさに,ちょうどいい時期にこの小説の朗読に出会ったのです。

 「津軽」は,1944年,太宰治が34歳のときに書かれた小説です。紀行文ですが,その中にフィクションが交えられていることから小説に分類されているそうです。太宰治が,生まれ故郷である青森県津軽を訪れ,過去に世話になった人々と出会いながら津軽出身者という自分のアイデンティティを確立していくという,美しくも,切ない物語です。
 「津軽」では,太宰治,本名・津島修治を「私」と称し,越野タケを「たけ」としています。
  ・・・・・・
●序編
 私は,現在の五所川原市である青森県金木村に生まれました。親は大地主でした。
 出版社の編集者から「津軽の事を書いてみないか」と言われたことから,津軽人とはどんなものであるかを見極めたくて,当時住んでいた東京を出発し,津軽半島を3週間ほどかかって1周することになりました。
●巡礼
 青森に着いて,かつて私の実家である島津家に仕えていたT君の出迎えを受けます。
 T君は,昔,金木家で一緒に遊んだ仲間だったのですが,私がT君を親友だと思っているのに対して「あなたはご主人です」と答えるT君でした。
 明日,T君とともに,青森県蟹田へ出かけます。
●蟹田
 蟹田で出会うのは中学時代の友人であるN君です。今は蟹田の町会議員となっていて蟹田になくてはならない人物です。
 蟹田の山へ花見に行き,その後,蟹田分院の事務長をしているSさんの家にお邪魔し,熱狂的な接待を受けますが,津軽人である自分自身の宿命を知らされた気になり,「津軽人としての私を掴むこと」を目的とする私は,津軽人の愛情の表現は少し水で薄めて服用しなければならないと感じるのでした。
●外ヶ浜
 N君と農業について語るうち,青森の郷土史に5年に1度は凶作に見舞われているのを発見し,哀愁を通り越し憤怒を感じます。
 翌日,N君の案内で外ヶ浜街道を北上し,竜飛岬にたどり着きます。竜飛は,烈風に抗し怒涛に屈せず懸命に一家を支えて津軽人の健在を可憐に誇示していました。
 竜飛の旅館で歌いながら寝てしまった翌朝,寝床で,童女が表の路で手毬唄をうたっているのを聞き,希望に満ちた曙光に似たものを感じて,たまならい気持になるのでした。
●津軽平野
 竜飛で1泊した翌日,私はひとりで,生まれた土地である金木町へ出発します。
 金木の生家に着くと,実家には長兄の文治と次兄の英治,長兄の長女の陽子,陽子のお婿さん,姪ふたり,祖母などがいましたが,あまり会話が弾まず,気疲れがします。
●西海岸
 翌日,金木から父の生まれた五所川原の木造駅に行きます。五所川原へ戻った私は,3歳から8歳まで育ててくれた女性たけに会うために,小泊を訪れました。
 小泊港に着き,たけの家を見つけたのですが,戸に南京錠がぴちりとかかっていて固くしまっています。筋向いのタバコ屋に聞くと運動会へ行ったとのことでした。
 運動会でたけと再会したのですが,たけは私を小屋に連れて行き「ここさお坐りになりせえ」と傍に座らせただけで何も言いませんでした。いつまでたっても黙っていると,たけは肩に波を打たせて深い長い溜息をもらしました。「竜神様の桜でも見に行くか。どう?」
 竜神様の森の八重桜のところで,能弁になったたけは「30年近くお前に逢いたくて,そればかり考えて暮らしていたのを,はるばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと,ありがたいのだかうれしいのだか,かなしいのだか。よく来たなあ」。
 兄弟の中で,私がひとり,粗野でがらっぱちのところがあるのは,この悲しい育て親の影響だったという事に気づいて,このときはじめて,育ちの本質をはっきり知らされたのでした。
  ・・・・・・
 
 作品のなかでは,たけとの会話がクライマックスになっていて,それが「津軽」の中核をなしていますが,実際は,ひとことも言葉を交わすこともなく,太宰治はひとり離れて周りの景色を見ていた,といいます。おそらく,これは,太宰治の願望を表わしたものでしょう。そして,自分のどうしようもなくいたたまれない本質の源流が越野タケのせいだと言いたかったのかもしれないなあ,と私は思いました。そういう意味では,この小説は太宰治の狂気です。
 「津軽」は,太宰治のことをよく知り,また,実際に津軽の地を見てくると,より作品を深く味わうことができるのだろうと思います。だから,先に「津軽」を読んで,その想い入れを持って実際にその地を訪れるか,あるいは,私のように,その地を知ってから「津軽」を読むか,そのどちらにしても,その両方をしなければ,作品は理解できないでしょう。
 私は,小説「津軽」に接して,いつかまた,再び津軽の地を旅してみたいと思いました。


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 2023年5月17日に,NHKBSPで「新・街道をゆく~北のまほろば」が放送されました。私がちょうど青森県に旅行をする前日だったので,まさにぴったりの内容でした。録画しておいて,旅から帰ってから見ました。
 以前,司馬遼太郎さんの書いた「街道をゆく」を映像化した番組が作られたのですが,「新・街道をゆく」はそれを新しく作り直したものです。
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 司馬遼太郎さんが終生深い思い入れを抱き,亡くなる2年前の1994年に旅して記したのが,青森県を歩いた「街道をゆく41~北のまほろば」。なぜ,司馬遼太郎さんが,本州最北の地である青森を,物成がよく豊かな土地を意味する「まほろば」とよんだのか。縄文の巨大遺跡から幻の中世都市,津軽が生んだ芸術家である太宰治や棟方志功…。
 厳冬の津軽半島を舞台に司馬遼太郎さんの足跡をたどる。
  ・・・・・・
という内容の番組でした。

 司馬遼太郎さんは1923年に生まれ1996年に亡くなった作家です。とても多くの作品を執筆していて,NHK大河ドラマでのよく取り上げられていました。私は大学生のころ,ずいぶんと読みました。
 小説だけでなく,紀行文や対談集も数多く,その深い洞察力と知識に基づいた歴史感は「司馬史感」といわれ,多くの人が影響を受けました。当然,批判的に思う人もいたのですが,私は若かったので,そうした批判をするような知識ももっていなかったし,よくわかりませんでした。だから,ある種,洗脳されたかもしれません。
 また,「街道をゆく」は「週刊朝日」の連載として1971年にはじまり,司馬遼太郎さんが亡くなる1996年まで25年にわたり続きました。「街道をゆく」は,日本民族と文化の源流を探り,風土と人々の暮らしのかかわりを訪ねる旅の紀行文です。
 いつ「週刊朝日」を手に取っても載っていたのですが,若かったころの私にはさしておもしろくもなかったので,これまで読んだこともありませんでした。
 しかし,今回,青森県を旅行してみて,どうして,弘前藩の殿様・津軽家が江戸時代ずっと続いたのにもかかわらず人気がなくリスペクトされていないように思えたのか,太宰治が豊かな家に生まれたのに屈折した小説を書いたのか,この寒い地で3,000年以上も縄文文化が栄えたのか,など,多くの疑問をもって帰宅しました。それからこの番組の録画をみて,まさに私が疑問に思ったことが取り上げられていて,感激しました。そして,はじめて「街道をゆく」という紀行文のおもしろさがわかりました。
 そこで,図書館で「街道をゆく41~北のまほろば」を借りて読んでみました。私は,この歳で,やっと,司馬遼太郎さんが何を書きたかったのかということがわかったのが,喜びでもあり,また,やっと追いついたという思いをもちました。

 縄文時代,この地は,食料の宝庫だったようです。山や野に木の実が豊かで,三方の海の渚では魚介がとれ,走獣も多く,川にはサケやマスがやってくるという,「北のまほろば」だったのです。
 私は,東北地方や北海道に縄文時代の遺跡が多いのは,これらの地が今のように寒くなく,もっと温暖だったからと思っていました。それも多少はあるでしょうけれど,温暖でなければ豊かでない,というのは「街道をゆく~北のまほろば」を読んでみると,どうやらコメ作についての考えのようです。コメ作中心でなかった縄文時代はそうではなく,コメ作が伝わってから,そうした価値観が根づいたと「街道をゆく41~北のまほろば」には書かれてありました。
 ところが,江戸時代,殿様はコメを上方の商人に売りつけることで貨幣に変えていたので,コメは貨幣となりました。そこで,本州最北の地はコメ作には気候的に不向きであったのにかかわらず,領主の津軽家の殿様は米作りを奨励し農地を開いたのです。しかし,5年に一度は「やませ」が吹いて飢饉が訪れるという悲劇が襲いました。これが金を借りるということにつながっていくので,次第に貧しくなっていったのです。
 明治時代になってリンゴ作りがはじまって,やっとこの地に見合った特産物が手に入ったのですが,それでも,ときに台風が襲って,実りの秋にほとんど収穫できないという悲惨な年もありました。
  ・・
 私は子供のころ,学校で,縄文時代は生活が不安定で,コメ作がはじまった弥生時代になって生活が安定したと習いました。しかし,実際は違う。縄文時代は貧富の差もなく長く平和が続きました。弥生時代になって,貧富の差ができて,人々は戦いに明け暮れるようになったのです。
 津軽,今の青森県は「北のまほろば」。コメ作りが広がる以前はとても豊かだったです。
 青森県に限らず,どの地も,こうしたさまざまな先人の苦労の上で,今の人々の生活があるということが,実際に行って,その地の空気を吸い,その地を歩くことで,実感することができるということを,私は,旅をすることで知りました。

 余談ですが -という書き方は司馬遼太郎さんの小説によく書かれてある言葉でもありますが- 「街道をゆく41~北のまほろば」の中に「無名の師」(むめいのし)という言葉がありました。浅学の私は,この言葉を知らず,調べてみたのですが,その意味は
  ・・・・・・
 起こす名分のない戦争。 特に仕掛けられる側だけでなく、仕掛ける側においても必要がなくかつ勝算が確定的でない場合に独裁的な指導者によってなされるものを言う。
  ・・・・・・
とありました。まさに,現在のお隣の大国のことだ,と思いました。昔も今も,愚かな独裁者をもつと,支配される側は悲劇です。

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アラスカ州のアンカレッジやニュージーランドのクイーンズタウン,ハワイ州モロカイ島の空港のような,小さな「おいしい山形空港」に着きました。レンタカーを返却して,後は帰るだけです。帰りの便は午後4時20分発でした。
2020年7月に北海道に行ってから2年ほどこうした旅をしていなかっただけなのに,とても新鮮でした。そして,旅の楽しさを思い出しました。
それにしても,日本は狭いです。「おいしい山形空港」を離陸したと思ったらあっという間に県営名古屋空港に着いてしまいました。名古屋と山形の飛行時間は,ハワイ州オアフ島のホノルルからハワイ島のコナまでとさして変わりません。コーヒーとともに,帰りは行きと違って,パンではなくケーキが出ました。
そんなわけで,私にとれば,飛行機を利用した国内旅行なんてちょっとそこまで,という感じで,旅行のうちにも入らないのですが,それでも,山形は別世界,期待以上のところでした。
県営名古屋空港も空いていて利用しやすかったし,FDAは快適でした。
また,気軽に何度も来てみたいと思ったことでした。

飛行機も北海道以来,久しぶりでした。
日本の国内線は,行きは後部座席,帰りは前のほうが快適だということが利用してみてわかりました。それは,行きは,混雑防止のために後部座席から搭乗案内がされることや後部座席のほうが空いていること,帰りは,早く降りられることが理由です。なんか話が矛盾しているように思うでしょうが,利用してみるとこの理由の意味がわかることでしょう。
また,わずか1時間程度なので,窓際のほうが景色が見られるのでいいのですが,気をつけないといけないのは主翼の横に座ると,せっかく窓際の席であっても景色がみられないということです。
  ・・
帰りは,期待に反して,ずっと曇りでした。
さすが晴れ男。私が滞在していた間はずっと天気がよく,帰るころになると曇ってきたわけです。もし,この旅が天気に恵まれていなかったら,私の印象はずいぶんと違っていたことでしょう。
ということで,北アルプスを見たいと思っていたのに,帰りの機内からは残念ながらずっと雲しか見ることができませんでした。
やがて,少しずつ雲が切れて,眼下に地上が見えてきました。ここはどこなのだろうと思いました。
すると,雪を被った標高の高い山が…。
それは御嶽山に違いないと思いました。そして家に帰ってから確かめると,やはり御嶽山でした。
行きは会津磐梯山が見え,帰りは御嶽山を見ることができました。
こうして,とても楽しい2泊3日の旅は終わりました。
次はどこに行こか? 外国人が日本にやってくる前の今こそ,落ち着いた旅をする絶好の機会です。

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山形と聞くと誰しもが思うのが佐藤錦というブランドのさくらんぼです。
山形空港のあたりは,ほんとうにさくらんぼ畑ばかりなのに驚きました。
さくらんぼ,とても高価なのです。さくらんぼ1個がリンゴ1個ほどの値段がします。
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「おうとう」からもぎとられた果実が「さくらんぼ」。
「おうとう」はバラ科サクラ属の果樹で,日本に渡来したのは1868年,山形県へは1876年に入りました。全国で試作されましたが,山形県以外ではほとんどが失敗しました。山形県でうまくいったのは,霜害と台風被害が少なかったことが理由でした。
その後「さくらんぼ」栽培は山形県内で普及し,現在は,全国生産量の約7割を占めるようになりました。
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「さくらんぼ」の中で,味も人気もナンバーワンの品種が「佐藤錦」です。
佐藤錦の生みの親は,東根市の篤農家・佐藤栄助さんでした。それまでは,「日の出」「珊瑚」「若紫」などの「さくらんぼ」を栽培していたのですが,収穫しても日持ちが悪くて,腐らせたり出荷の途中で傷んでしまったりと悩みが多いものでした。
1912年,佐藤栄助さんは,日持ちはよくないが味のいい「黄玉」と酸味は多いが固くて日持ちのいい「ナポレオン」をかけ合わせました。それが実を結びました。
こうして育った果実から,選び抜いて種をとり…,を繰り返すことで,16年もの苦労で,最終的に1本にしぼられた原木。これこそが最高品種でした。
山形生まれの比類なきこの品種を命名する際,はじめは「出羽錦」という案でしたが,「発見者の名前を入れた佐藤錦がいい」ということになったそうです。
「佐藤錦」の特長は,見た目がきれいな鮮紅色で光沢があり,甘みが多く,食味が良好であるということで,重さは1粒7グラムから8グラムですが,近年は12グラムから13グラムの大玉も多く出まわっているということです。
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最上川の舟下りを終え,昼食をとりました。これで,今回の旅も終わりです。
途中,新庄市,尾花沢市,東根市,天童市などを経由しながら,山形空港に向けて走りました。
山形は思っていたよりずっとすばらしいところでした。また,わずか2泊3日の旅なので,来るまでは,立石寺と天童市へ行くことができればいいと思っていたのですが,山形県のほぼすべての場所に行くことができました。
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唯一の心残りは「さくらんぼ」を食べることができなかったことでした。
「さくらんぼ」の旬は6月。まだ,少し早かったのです。そして,私は,この「さくらんぼ」にときめいてしまって,片時もわすれられなくなってしまったのです。
家に帰ってから「さくらんぼ」に関する多くのニュースを耳にするようになりました。それは,私が気にしているから耳に入るのか,はたまた,今がその季節なのか…。
そんなわけで,私は,さくらんぼを目当てに,山形市にふるさと納税をしてしまったのでした。

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