しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ: フィンランド旅行LIVE

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 セントレア・中部国際空港からはヘルシンキまで直行便があります。そして,ヘルシンキからは電車で気軽に郊外の地方都市に行くことができます。ちょうど,名古屋から奈良や静岡,高山などに日帰り旅行をするような感じです。そしてまた,夏に行けばお昼間が長いので,十分な時間をとることができます。私は2度目の旅で,タンペレ,ナーンタリ,トゥルク,そして,シベリウスの故郷アイノアに行きましたが,どこもいい印象ばかりです。そのどの町も,また,出かけてみたいところです。
 このように,日本国内の,どこも混雑して蒸し暑い観光地に渋滞する高速道路を走ってでかけ,高価なホテルに泊まるくらいなら,ふらっとヘルシンキにでも出かけるほうが,ずっと快適なのです。このコロナ禍は別として,わずか9時間ほど飛行機に乗れば,名古屋からヘルシンキには行くことができるし,ヘルシンキからも郊外の美しい町にも鉄道で簡単に行くことができるし,そのどこも治安のよい落ち着いた美しいところなので,何の目的もなくふらっと訪ねるのはとてもよい国なのです。

 これまでに行ったフィンランドの感想を交えて書いてきましたが,結局,私の幻に終わったフィンランド旅行は,このように,単に時間つぶしに行こうと思っていただけでした。私が2度目にフィンランドに行ったとき,ヘルシンキの街中で出会った日本人の女性が「毎年来ています」と言ったのを聞いて,よほど魅力のあるところなのだなあ,と思ったのが強く印象に残っています。
  ・・
 今後,再び海外旅行ができるようになって,私は,この幻となった旅を実現することができる日が来るのでしょうか?


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 1年前に私が計画していたフィンランドの旅で,私は,夜がほとんどない夏のフィンランドを楽しもうと思っていたので,行くことができなかった今でも,夜がほとんどないということがどういうことなのか,想像がつきません。
 私は,それまで,2度フィンランドに行ったのですが,1度目は2月のロヴァニエミでした。これは冬だったので,午後3時には暗くなりました。オーロラを見るには夜が長いのでもってこいの季節ではありましたが,短いお昼間にどこかに出かけようと思っても,レンタカーを借りて雪の中を走る勇気もなく,バスを利用するとなると,よほどきちんとバスの時間を調べておかないと,待っている時間で凍えてしまうので,命の保証すら危うくなります。
 いつかこの季節に,ロヴァニエミよりさらに北に行ってみたいと思っているのですが,もしそれを実行を移すとなると,かなりの下調べが必要でしょう。
 2度目に出かけたのは8月の下旬だったので,とても快適でした。今年の猛暑は別として,私の行ったときは,もっと寒いのかと想像していたのですが,普通の夏服で,暑くもなく寒くもなく十分でした。8月下旬ともなると,夜が短いという印象はあまりありませんでしたが,それでも観光することができる時間が長く感じられて,結構遠出もできたので,楽しい旅となりました。

 夏の北極圏といえば,フィンランド以外に,私は,8月にアラスカとアイスランドに行ったことがあります。アラスカでは,夏とはいえ,オーロラも見ました。オーロラは冬しか見ることができないと思っている人もいますが,年中見られます。ただし,夜暗くならないと見られないから,冬の方が適しているというだけのことです。
 夏のアラスカでオーロラを見たことから,それに次いで,アイスランドでも同じように夏にオーロラを見ようと出かけてみたわけですが,夜になって日が暮れても,空がずっと明るいままだったのには落胆しました。考えてみればそれは当たり前で,日が沈んだとはいえ,太陽は地平線の下かなり浅いところを這いつくばるように動ているから,ずっと夜明け前のような状態だったわけです。
 それにしても不思議なのは,アラスカだってアイスランドと同じ状況であるのに,アラスカでは夜がすっかり暗かったことです。どうしてそうだったのか,その理由が私には今もってよくわかりませんん。
  ・・
 ということで,北極圏近くを旅するには,冬はかなりの計画性と工夫が必要になるのですがオーロラがよく見え,その一方,夏はオーロラはあまり期待できない代わりに,快適で,白夜の体験もできるというわけです。

 私は,夏はほとんど夜がなく,その反対に冬は夜ばかりのこの国に住む人たちがどんな生活をしてしているのかということに,行くことができなかった今になって,とても興味が湧いてきました。特に,夏は,ずっと明るいのに,長い夜を何をして送っているのでしょうか。それとも,昼が長いとか短いということは関係なく,いつも同じように規則正しく毎日生活しているのでしょうか?
 これはやはり,実際に行ってみて確かめてこなくては…。
 いつになったら,そんな旅ができるのでしょう。

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 フィンランドは,どこかに気ままに出かけて,1日をゆったりと過ごすのに適している国のようです。また,夏と冬とではまったく魅力が異なります。
 私は,結果として,冬のフィンランドと夏のフィンランド,そのどちらも経験することができました。そしてまた,幻になってしまいましたが,私が昨年の夏に再びフィンランドへ行こうと思ったのは,白夜というものを味わってみたかったということも理由のひとつでした。
 とはいえ,ヘルシンキは北極圏ではないので,一応,少しは太陽が沈みます。

 白夜を体験するために北極圏まで出かけるもっとも簡単な方法は,ヘルシンキから飛行機を利用することですが,それよりももさらに魅力的な方法は鉄道です。
 このころは,毎年フィンランドに行くことができると思っていたから,あえて,この旅で北極圏に行こうとは思っていませんでしたが,私の夢は鉄道でフィンランドを縦断することだったのです。
 鉄道でフィンランドを縦断する… とは,「サンタクロースエクスプレス」に乗ることです。
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 今日の写真は,その「サンタクロースエクスプレス」がヘルシンキの中央駅を出発するところです。「サンタクロースエクスプレス」午後11時13分ヘルシンキ中央駅発で,翌日の朝・午前10時51分,北極圏の町ロヴァニエミに到着します。
 この写真は2019年の夏に写したものですが,このときは乗らず,いや,乗れず,出発だけを見送りました。夏なら,ロヴァニエミの近郊で白夜を経験できるし,冬なら,夜明けのフィンランドの大雪原を車窓から眺めることができることでしょう。
  ・・
 私も見送るだけでなく,次に行くときは乗ってみようと夢見ていたのですが…。

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昨日2021年7月5日,フィンランド北極圏は熱波に覆われ,気温が30度を超える猛暑となりました。地球はどうなってしまったのでしょう。

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 森と湖の国フィンランドといわれますが,実際,飛行機が首都ヘルシンキに近づいて,着陸態勢に入って地上が眺められるようになると,眼下に見えるフィンランドの大地は森と湖ばかりです。
 フィンランドを舞台にした映画「かもめ食堂」で,主人公のサチエさんがフィンランドには何もないというと,フィンランド人の青年トンミ・ヒルトネンが
  ・・・・・
 森がアリマス
  ・・・・・・
と応えるシーンがあります。
 このように,フィンランド人は自然豊かな森が誇りです。フィンランドの森は,それがだれの所有であれ,人は自由に行き来でき,キノコやベリーを見つけたらそれを摘んでもいいという「自然享受権」があります。


 そこで,フィンランドに行って,私がやりたかったもうひとつのことは,キノコ狩りでした。
 行先はヌークシオ国立公園です。「地球の歩き方」によると,ここはヘルシンキから最も近い国立公園で,面積は45平方キロメートル,ハイキングコースも整備されているということです。
 前回と前々回と2度フィンランドに行って,私は「地球の歩き方」に載っているフィンランドのそのほとんどは行ったのですが,その2度のフィンランド旅行で残ってしまったやりたいことは,このキノコ狩りと,そして,ヘルシンキからロヴァニエミまでの寝台特急「サンタクロースエクスプレス」に乗ることでした。そこで,このときの旅では,キノコ狩りを実現したいなあ,となんとなく考えていたわけです。
 実際は,細かい計画を立てる前に,コロナ禍で旅行はキャンセルしてしまったので,具体化することはなかったのですが,ヌークシオ国立公園に行くのは,結構大変なことです。ここは鉄道では行くことができなくて,バスの利用ということなのですが,そのバスが不便なのです。バスは本数は少なく,特に,帰りのバスに至っては,時刻表もないということが「地球の歩き方」には書かれてありました。
 私は,フィンランドのバスは,ロヴァニエミからサンタクロース村に行ったときと,ナーンタリからムーミンワールドに行ったとき,そして,ロヴァニエミの市街と空港の往復に利用したのですが,どれもそれなりに大変でした。本数が少ない上,バス停があったりなかったり,時刻表もなかったりと,観光地に行くにも大変なのに,ヌークシオ国立公園への往復なんて,できるのかいな? と思っていました。
  ・・
 今,これを書きながら思うことは,もし,実際に行くとなれば,レンタカーでも借りたほうが無難なような気がします。しかし,それでは旅の楽しみがなくなるなあ,などなど,複雑な気持ちもします。 
 しかし,それもまた,贅沢な悩みです。このご時世,おそらく,この先も,私は,フィンランドでキノコ狩りをすることは,もはやありますまい。


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 この旅は5泊7日の予定でしたが,特にどこに行ってみたいとか,何をしてみたいとか,そういったことは決めていませんでした。それは,その1年前にヘルシンキに行って,そのときに,行きたいと思っていたところはほぼすべて行ってしまっていたからでした。
 フィンランドはとてもすてきな国です。また,郊外に行くにも電車やバスを利用すると簡単に行くことができます。ということで,この旅の目的は,フィンランドまで行ってのんびりとしてこよう,その日の気分でやりたいことを決めようという感じでした。
 海外旅行に行くことができない今考えると,それはかなり贅沢な話であったわけですが,その当時は,もはや,行ってみたいというところもほとんどなくなっていて,それまでに行った場所の中でよかったところをリピートする,という気持ちになっていたわけです。
 この時点では予約はしていなかったのですが,2020年の秋には3度目のオーストリアのウィーンに行って,チェコまで足をのばそうと考えていました。

 話を戻します。
 それでも,ヘルシンキに5泊滞在するのだから,どこかで1日,日帰りでロシアのサンクトぺテルブルグに行ってみようなか,などとなんとなく思っていました。それは,この1年前にヘルシンキに行ってホテルで朝食を取っていたとき,レストランで一緒になった日本人観光客の人に,サンクトペテルブルグに行ってきたという話を聞いて,行ってみたいな,と思ったのがその理由でした。
 アメリカやオーストラリア,ニュージーランドなどとは違って,ヨーロッパで出会う日本人観光客は旅慣れている人が多く,行動力もすごく,うらやましくなります。
 ヘルシンキからサンクトぺテルブルグは意外と近いのですが,実際に行こうとすれば,結構手続きがたいへんなのです。しかし,1年前の旅でも,行く前にはそれほど思い入れもなかったエストニアにフェリーで行くことができたので,それと同じような気持ちでした。
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 私が聞いた話は,ヘルシンキからサンクトペテルブルグまで行く手段は,電車と船があって,船だとビザが不要だとか,電車だと国境を越える時点で検札があるとかいうことでした。また,ビザを入手するには,大阪のロシア領事館まで行く必要があるという話だったし,行くまでにそういった煩わしい手続きをクリアする必要があるのかなあ,とぼんやりと思っていました。結局,キャンセルになったので,そういった行動をすることもありませんでしたが,実際に行くと決めたら,そうしためんどうなことは嫌なので,現地ツアーにでも参加しようかな,と考えていました。
 しかし,本当にサンクトぺテルブルグに行きたいのなら,こんな中途半端な計画ではなく,直接ロシアに入国して何泊かすべきだろうと,今は思います。しかし,私には,サンクトペテルブルグにはそれほどの想いはないのです。


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 幻のオーストラリア旅行の次は,幻になったフィンラド旅行です。この旅は,今からちょうど1年前の今ごろに行くことにしていたものです。それにしても,1年経っても状況があまりよくなっていないのに失望します。来年こそ,行くことができるのでしょうか?
 今回もまた,行くことができなかったので,それまでに行ったときの写真とともに幻の旅行記を書くことにします。
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 購入したフィンランド航空の航空券は,行きが,セントレア・中部国際空港2020年6月24日水曜日午前10時30分発,ヘルシンキ・ヴァンター国際空港同日午後2時30分着,帰りはヘルシンキ・ヴァンター国際空港6月29日火曜日午後5時25分発,セントレア・中部国際空港6月30日水曜日午前8時45分着のものでした。出発前の3月31日にすべてキャンセルしました。
 これまでに書いた幻となったオーストラリア旅行は,航空券,ホテル代ともキャンセル料なしでしたが,カンガルー島のツアーのみ,キャンセルに伴う返金ができませんでした。このフィンランド旅行では,ヘルシンキで宿泊するホテルのみ,キャンセル不可のものを予約してしまったために,4泊の宿泊代が返金できませんでした。これまでも,私は,キャンセル不可のホテルを何度も予約して宿泊しましたが,まさか,こんなことが起きるとは思ってもいなかったため,失敗しました。まあ,仕方がないことです。

 このころ,フィンランド航空を利用すれば,名古屋からヨーロッパに行くのはすごく簡単でした。
 ヨーロッパに行くには,フィンランド航空のほかにも,中国の航空会社を利用することもできるらしく,このほうがずっと格安だそうですが,旅は快適さを旨とする私は興味がありません。
 フィンランド航空は私の知る限り最も快適な航空会社であり,私にはそれ以外の選択肢はありません。また,フィンランド航空は,ファーストクラスを利用しなくても,少しの金額を増額してエコノミーコンフォートにグレイドアップして,一番前の席を予約してしまえば,より快適に空の旅ができます。さらに,新しく導入されたエアバスA350 はさらに快適です。
 私が好んで使う航空会社は,アメリカのデルタ航空,オーストラリアのカンタス航空,そして,フィンランド航空ですが,中でも,一番のお気に入りはフィンランド航空です。再び海外に行くことができるようになったとき,同じ状況で旅行ができるのであれば,私は,また,こうしてフィンランド航空を利用してヨーロッパに出かけることになるでしょう。
 その日が来るのをこころ待ちにしています。


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フィンランド大聖堂地下のカフェをもって,今回のフィンランド旅行は終わりです。いつものことですが,来るまえは何があるのだろう,といった程度の想い入れでモチベーションも低くやってきたのですが,フィンランドはとてもすばらしいところでした。
このごろの旅はいつも思った以上にすばらしいものになります。それはおそらく,私がガイドブックに載っているような有名なところへ行かないからでしょう。おまけに,観光客が圧倒的に少ないというメリットもあります。
日本から一番近いヨーロッパということで,多くの人が直行便でヘルシンキにやってきます。しかし,そのほとんどはトランジット。空港だけ経由して,ある人はイタリアへ,また,フランスへと旅立っていきます。ヘルシンキで降りる人はとても少ないのです。それがまたいいのです。フィンランドは,もっと多くの人に降りてもらいたいらしいのですが,一旦降りた人はその魅力に取りつかれてリピーターになります。私は,多くの人にその魅力を知ってほしいと思う反面,今や世界中どこも観光客だらけでうんざりするので,フィンランドまで観光客であふれかえってほしくないなあ,という思いも強くあります。

帰りはヘルシンキ中央駅から電車で空港まで行くことにしました。来るときは空港から電車でヘルシンキ市内まで行ける,そんなことすら知りませんでした。わずか数日で,ずいぶん多くのことを知ったものです。
例のごとく,すでにオンラインでチェックインを済ませてあったし,キャリーバッグは機内に持ち込むので,カウンターを経由することもなく,そのままセキュリティを通って,空港に入ってラウンジに行きました。
ラウンジからはターミナルの様子がよく見えました。ヨーロッパの各地からトランジットでヘルシンキにやって来た多くの日本人の団体ツアー客でターミナルはあふれていました。
やがて,搭乗時間が来たのでゲートに行きました。どこぞやの空港のように,やれ,優先搭乗の順番だとか,そういううるさい放送も一切なく,ゲートに長い列が出来ることもなく,搭乗時間になったら,三々五々,機内に入って行きました。このことすら,まったくストレスがありませんでした。
帰りもまた,行きと同じエコノミーコンフォートの最前列で,行きと同じように隣の席は空いていて,快適な空の旅となりました。中央の座席には行きと同じ母娘がいました。

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ヘルシンキ大聖堂の地下にカフェがある,ということをフィンランドに来るまえに知りました。しかし,私はそのことをすっかり忘れていて,2日前に思い出したのです。しかし,もう時すでに遅し。昨日は早朝に出かけてムーミンワールドに行き帰りは夜だったので行くことができず,この旅では行く機会を逸したように思いました。ところが,この日の帰国便の出発が夕方だったので,午前中に行くことができることがわかり,念願がかなったのです。
前日の夜,カフェはすでに閉まっていましたが,場所を探ってみました。ところが,その,カフェというのがどこにあるのかわかりませんでした。目立った看板もないのです。やっと見つけたのは,地下ではなくヘルシンキ大聖堂のとなりにあったカフェを兼ねた土産物店でした。そこでコーヒーが飲めたので,ヘルシンキ大聖堂地下のカフェはここのことだろう,と思いました。
朝,昨日下見をした場所に来てみると,どうもそれは私の探していたヘルシンキ大聖堂の地下のカフェとは違うようでした。さらに歩いていると,別の看板がみつかりました。ヘルシンキ大聖堂の地下に行くには,大聖堂の裏側に行かなければならなかったのです。裏にまわってみると,入口が見つかりました。開店は午前11時ということでした。
…とまあ,ここまでは,昨日書いたとおりです。

時間をつぶしてヘルシンキ大聖堂に戻ってきたのは10時30分でした。まだ時間が早かったので,まず,昨日カフェと間違えた土産物店によってみました。やがて,11時に近くなったので,みやげ物店を出て,ともかく,ヘルシンキ大聖堂に入ってみました。大聖堂に入って左の通路にまわると,そこにも,カフェの入口がありました。外に出て,裏側にまわらなくても,大聖堂の中からも地下に行くことができるようでした。しかし,時間になっても,その入口が開くわけでもなく…。何も起きませんでした。
すると,別の女性の2人連れが扉を開けて,中に入って行きました。要するに,この入口はカフェが開店しても開けてもらえるのではなく,自分で開けて中に入るわけです。私も後から続いて扉を開けて中に入ると,その先にあったのはエレベータでした。そりゃそうです。カフェは地下にあるわけだから,降りなけれはなりません。
エレベータに乗って地下に降りました。そこにあったのは,カフェというよりも広い地下室,というか広間でした。想像していたようなカフェではなく,広い地下の空洞の一角を借りて,ボランティアの人たちがカフェを開いているのでした。
コーヒーとボランティアさんたちの手作りパンで合計3ユーロと安く,とても雰囲気のよいところでした。要するに,これは,カフェというより教会のバザーでした。こうして私は念願のヘルシンキ大聖堂の地下のカフェにも行くことができたのでした。

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旅の7日目。帰国の日になりました。帰国便は午後5時25分発と遅いので,夕方まで時間がありました。最終日も夕方まで観光ができることを考えただけでも,ヘルシンキの旅は楽です。
私が今回の旅でやり残したことといえば,ヘルシンキ大聖堂の地下のカフェに行くことでした。ヘルシンキ大聖堂の地下にカフェがあることを知ったのは,この旅に出発する少し前のことでしたが,うかつにもそのことをすっかり忘れていました。あきらめていたのですが,最終日に行く時間があることがわかり,ホッとしました。これで帰ってから後悔することもありません。
とはいえ,場所がわかりません。昨晩様子を見に来たのですが,朝,改めて来てみて,昨晩見つけたのは私が目指すカフェではありませんでした。気を取り直して探してみると,ヘルシンキ大聖堂の裏側に入口が見つかりました。確認すると,カフェの開店は午前11時でした。そこで,それまでの時間,ヘルシンキの市内を散策することにしました。

今日の1番目と2番目の写真はヘルシンキ大聖堂から少し南に下ったところにあるマーケット広場です。この海岸に面したさわやかな一帯に,ヘルシンキで規模も利用者も最大のマーケットがあります。結局,私はここで何も買いませんでした。というより,旅でまったくお土産を買いませんでしたが,見ているだけで楽しいところです。
このマーケット広場から北側,坂を登っていくとヘルシンキ大聖堂に至るのですが,マーケット広場を見てまわってもさらにまだ早かったので,次に,西に歩いて行くことにしました。
マーケット広場から西に広がるのがエスプラナーデ公園です。このエスプラナーデ公園の先にあるのがスウェーデン劇場。このスウェーデン劇場前からバスがいろんな方向に出ています。ヘルシンキに来たばかりの数日前には,ガイドブックに「バスはスウェーデン劇場の前から」と書かれていてもスウェーデン劇場がどこにあるのかさえ知らなかったのが懐かしい限りです。

このエスプラナーデ公園の北側の通りがポホヨイスエスプラナーデ通りで,その北側にブランド店が立ち並んでいて,ちょうど銀座のような感じです。それが今日の3番目から5番目の写真です。
この通りを北に行くと多くの路地があります。今日の6番目と7番目の写真のように,こうした路地には子供をベビーカーに乗せたお母さんが歩いているのに,よく出会います。この場所に限らず,ヘルシンキでよく目にするのがこうした子供を連れた母親の姿です。
幸福度世界一のこの国は,子どもを育てるにも国の補助が手厚いのです。幸福度世界58位のどこぞやの国のように,少子化が問題になっているにもかかわらず,妊婦さんが医者にかかると診察費が加算されるというような,そんな愚策とはフィンランドは無縁なのです。

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日帰りのエストニア観光もまた,思った以上に楽しいものとなって,私は,ヘルシンキに戻ってきました。偶然,エストニアで出会った人と親しくなって,タリンではちみつ入り黒ビールを飲んでいたときに,ヘルシンキに戻ったら飲みに行こうという話になりました。こんな幸運なことはありません。ヘルシンキというのは個性派バーでのナイトライフが有名だとかいう話ですが,それだけはひとり旅の私に無縁のものだと思っていました。それが,望外なことに実現するのです。
調べてみると,アテリエ・バーというのが有名だとか。そこで,そこに行くことにして,夜の9時に待ち合わせをしました。フェリーを降りて,急いで待ち合わせ場所に急ぎました。

アテリエ・バーは地上14階建ての高層ホテル「ソロ・ソコス・ホテル・トルニ」の屋上にあって,そこからはヘルシンキの夜景が一望できるという話でした。
エレベータに乗って最上階をめざしました。エレベータを降りると,バーはさらにその上でしたが,この上にバーがあるとは思えないほどの非常階段のような急な階段がありました。疑心暗鬼で上っていくと,上り切ったところにバーがありました。とはいえ,日本の都会にあるようなデラックスなラウンジではなくて,単なる喫茶店のような感じで,室内はさほど広くありませんでした。カウンタで飲み物を注文して,それを受け取って座席に行きます。外に出ることもできて,確かにそこからはヘルシンキの夜景が一望でした。
とはいえ,日本のような夜景とは違って,というより,日本の夜景が異常なのですが,白い街灯が続いているだけのものでしたけれど,私はこうした夜景のほうがずっと落ち着きます。はじめにビールを飲んで,その次に,このバーお勧めのカクテルを飲みました。
こうして,今回のフィンランドの旅は何から何まで思っていた以上の時間を送り,最後の夜が終わりました。

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帰りのフェリーの時間が近づいてきたので,フェリー乗り場に向かうことにして,旧市街を来るときは通らなかった道を急ぎました。もう夕方だったので,来たときの混雑もなくなって,また,別の姿を感じることができました。美しい旧市街がこれだけ便利な場所にあれば,世界中から観光客が増えてくるというものです。そして,帰国してから,エストニアはいいところだったよ,と話すから,これが口コミとなって,さらに観光客が増す,ということになります。行くなら今のうちでしょう。
しかし,外国から日本に来る人も,京都に惹かれてやってきても,その深い歴史や文化にに詳しい人は多くないことでしょう。それと同じように,私は,タリンの歴史や文化を習ったことがないので,よく知りませんでした。私は来てみて,もっといろんなことを知りたいなあと思いました。そうすれば,そのよさをもっと理解できたのに,残念なことでした。

フェリー乗り場は,ヘルシンキに戻る人で一杯でした。日帰りでヘルシンキから観光で来た人に加えて,物価の安いエストニアに,特にアルコールを買いに来るフィンランド人がたくさんいるそうです。やがて,フェリーの乗船時間になったので乗り込みました。帰りはビュッフェを予約してありました。
ビュッフェが開くのを少し待って,ビュッフェに入りました。入口で,ビュッフェの予約チケットを持っている人と持っていない人で列がふたつあったのですが,どちらの列がそうなのか,表示がフィンランド語だけでよくわかりません。私のうしろにならんでいたのがマレーシアから来たという家族連れで,彼らも戸惑っていました。そうしたら,その家族のなかの高校生の女の子がスマホを取り出して,翻訳ソフトで解読をしました。こういうことをさりげなくすることができるのが日本との教育の違いだなあ,と私は思いました。彼女は,今はスマホがあれば何でもできるよ,と言っていました。
ビュッフェは予想に反して空いていて,並ばなくても,いくらでも座席も食べ物もありました。
来るときはずっとラウンジにいたので船内の様子もしらなければ,外の景色を見ていませんでした。そこで私は,食事を終えてから,まず,船の中を探検しました。船内にはカジノもあり,ショーをやるステージもあり,個室もありました。一般席はやはり込み合っていました。
やがて,夕日が沈みかけているのが見えたので,甲板に出てバルト海のはるか彼方に夕日が沈んでいくのを眺めていました。やがて,海の対岸にヘルシンキの街並みが見えてきました。

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タリンの旧市街は城郭のなかにあって,徒歩圏内,歩いてまわることができるくらいの広さでした。旧市街の中心に広場があって,その向こうがお城の高台になっていて,そこに登ると市街地を見渡せます。なにせ私は,タリンの旧市街が美しいということを聞いてやってきただけで,タリンの歴史も見どころも何も知らないので,外見からほんとうにすてきな町だなあと思って歩いただけで,その町の本当のところがわかりませんでした。
常日頃,日本の旅はこころでするものだといいながら,海外に出かけてこんなことでは情けないありさま。これでは真逆です。それは,昨年ウィーンに行ったときも同様で,私は学生のころ世界史をほとんど勉強しなかったので,ウィーンの歴史も何もわかりませんでした。私にとって唯一の救いはクラシック音楽に詳しかったことでした。しかし,ウィーンに行ってみて,ヨーロッパの歴史にとても興味がわいたので,その後,ずいぶんと本を読んだおかげで,詳しくなりました。エストニアもまた同様で,帰国後にその歴史を調べることとなりました。

この日は,旧市街をくまなく歩きまわり,見どころと思える場所に順に入ってみました。ある教会の塔に登っていると,後ろから背の高い日本の人が急ぎ足で上がってきました。話をしてみるとなんと日本人。帰りの船の時間が迫っているので急いでいたということでした。その場で少しおしゃべりをして一緒に写真を撮って別れました。
私はその後,塔を降りて引き続き旧市街を歩いていると,今度は日本大使館がありました。現在,NHK交響楽団の首席指揮者であるパーヴォ・ヤルヴィさんがこのタリンの出身で,また,大相撲の大関だった把瑠都関も現在故郷のエストニアで国会議員をしているとかいう話で,エストニアという国はとても日本になじみがあるのです。
しゃれたお店でお昼をたべてしあわせな気分でさらに歩いていると,再び,先ほど教会の塔で会った人に再び会いました。タリンが思ったよりもすてきな町だったので,帰りの船を変更したという話でした。再会を祝し,これも何かの縁だと祝杯を挙げることにして,一緒にカフェに行って,はちみつ入り黒ビールなるものを飲みました。こうして,思いがけない場所で,あるひとりの日本人と意気投合して話し込んでいるうちに,タリンでの時間があっという間に過ぎて行きました。

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今日はエストニアの首都タリンについてです。

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タリン(Tallinn)はエストニア語で「デンマーク人の城」という意味だそうです。人口約42万人で,中世にはハンザ都市のひとつとして栄えた港湾都市です。「ハンザ」とは古高ドイツ語(Althochdeutsch=古ドイツ語のうち第二次子音推移が生じた地域のドイツ語)で,現代のドイツ語の 「ハンゼ」(Hanse)のことで,「団体」を意味します。もともと都市の間を交易してまわる商人の組合的団体を意味します。「ハンザ=同盟」なので世界史で習う「ハンザ同盟」はおかしな訳となり,二重表現となります。
中世のヨーロッパでは,都市同盟が重要な役割を果たしました。周辺の領主に対抗するため独立意識の高い諸都市が連合し皇帝や国王も都市連合を意識して権力を行使しなければならなかったわけです。そのなかでも,いわゆる「ハンザ同盟」は規模と存続期間において群を抜いていました。

1050年,今日トームペア(Toompea)と呼ばれるタリンの中心部の丘に最初の要塞が建設されました。トームペアとはドイツ語で「聖堂の立つ丘」を意味します。13世紀初頭,この場所はドイツ騎士団とデンマーク王らによる北方十字軍によりロシアとスカンディナヴィア結ぶ軍事戦略地点として着目され,また,ノヴゴロドと西欧を結ぶ中継貿易で繁栄を築きました。1219年,デンマーク王バルデマー2世が十字軍を率いて侵攻し,ここにトームペア城(Toompea loss)を築きました。これが「タリン」の名の由来となったのもです。1285年にハンザ同盟に加わりましたが,タリンはハンザ同盟都市としては最北に位置します。
第二次大戦後独立を果たしたエストニアは,ソビエト連邦の崩壊後資本主義社会へ移行し,EU加盟などを機に経済は大きく変貌を遂げています。とりわけ,隣国フィンランド企業のタリンへの進出が盛んで,百貨店のストックマンがショッピングモールを開業させたり,北欧資本のホテルの開業も相次いでいます。IT産業の盛んなエストニアで,タリンは「バルト海のシリコンバレー」ともよばれ,実際に,タリンはカリフォルニア州のシリコンバレーの都市ロス・ガトスと姉妹都市になっています。

旧市街は下町のローワータウン(Lower Town)と山の手のトームペアから成ります。
ローワータウンは、城壁など欧州でも最も保存状態の良い旧市街地のひとつです。そこにあるのは, ラエコヤ広場,旧市庁舎,市議会薬局,聖ニコラス教会,聖霊教会,グレートギルド会館,聖オラフ教会,太っちょマルガレータ(1529年に建てられた砲塔),三人姉妹の家,聖ミカエル修道院などです。
また,山の手のトームペアは石灰岩でできた丘で,トームペア城,アレクサンドル・ネフスキー聖堂,トームキリク,キーク・イン・デ・キョクの塔(Kiek in de Kök)など歴史的建造物が多い地域です。
タリンへは,ヘルシンキ,オーランド諸島,ストックホルムなどからフェリーの定期便が運行されています。

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今回エストニアの首都タリンに行くまで,この国のことなどまったく知りませんでした。NHK交響楽団の首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィさんがこの国の人だということすら,最近知ったばかりでした。さらに,この国は大相撲の大関だった把瑠都関も出身なのですが,そのこともまったく興味がありませんでした。
この国を訪れるのに,そんなことも知らないのは失礼なので,調べてみました。それにしても,まさか,私がエストニアに行くとは思ってもみないことでした。そしてまた,こうした歴史ある国のことをあまりに知らないわが身を恥じました。

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エストニア共和国(Eesti Vabariik)は,面積が九州の1.23倍,人口132万人。エストニア,ラトビア,リトアニアという「バルト3国」のひとつで,欧州連合(EU),北大西洋条約機構(NATO),経済協力開発機構(OECD)の加盟国です。通貨はユーロなので便利です。首都タリンへは,ヘルシンキからバルト海をフェリーで渡るだけで,とても便利なところにあります。
エストニアの公用語はエストニア語で,フィンランド語と同じくウラル語族の言語です。ウラル語族は英語とはまったく異なることばですが,フィンランド同様英語た通用したので大丈夫でした。
フィンランド同様,この国もロシアと陸路国境を接していて,さまざまな問題を今も抱えています。日本もロシアのとなりですが,海を隔てています。領土問題も深刻で,国民はロシア嫌い。こうした問題は日本だけでなく,ロシアと国境を接する国共通のようです。もっと日本人はエストニアやフィンランドのことを知る必要があります。

当時のソビエト連邦に占領されていた歴史があり,独立後,エストニア国籍を持たないロシア人が15%を占めていて,彼らはロシア語を話しますが,看板・広告等でのロシア語表記は制限されています。反露感情の強い国民性なので,ロシア語系住民との融和が大きな課題としてのしかかっているそうです。また,宗教はキリスト教圏ですが,国民の信仰は比較的薄いということです。現在のエストニア軍は1991年の再独立にともなって再創設されたもので,徴兵制度があります。これはフィンランドも同様です。
エストニアの経済状況はバルト3国で最も良好。産業は,外国のIT企業の進出も多くソフトウェア開発が盛んで,最近では「eストニア」とあだなされているほどです。政府が発行する個人IDカードがあって,15歳以上のエストニア国民のほとんどがそれを持っていて,行政サービスのほとんどが個人端末から済ませることが可能,また,早期のIT教育や国際学力調査で欧州の上位国としても知られるなど,日本よりずっと情報先進国です。というより,日本は世界からずっと遅れています。
フィンランドからフェリーで近いので,世界遺産に登録された首都タリンの歴史地区を背景として観光産業が発達し,年間の観光客数は500万人を超えています。

この国の歴史は,ロシアに翻弄されつづけています。
13世紀以降,デンマーク,ドイツ騎士団,スウェーデン,ロシア帝国などの支配を経て,ロシア帝国が崩壊した1918年に独立を宣言。ソビエト連邦やドイツ帝国の軍事介入を撃退して独立を確定し,1920年のタルトゥ条約でソ連から独立を承認され,1921年には国際連盟にも参加しました。
しかし,1940年にソビエト連邦に占領され,1941年から1944年まではナチス・ドイツに占領され,第二次世界大戦末期の1944年には,再びソビエト連邦に占領・併合されました。
ソビエト連邦崩壊直前の1991年に独立回復を宣言,国際連合に加盟し,その後西欧諸国と経済的政治的な結びつきを強固にしていきました。しかし,2007年のタリン解放者の記念碑撤去事件を機に「青銅の夜」と呼ばれるロシア系住民による暴動が起こりロシアとの関係が悪化,同時にロシアからの大規模サイバー攻撃を受け,エストニアのネット機能が麻痺しました。これを契機として,NATOサイバー防衛協力センターが首都のタリンに創設され,将来の大規模サイバー攻撃や国土への武力侵攻に備えて2018年には「データ大使館」をNATO加盟国であるルクセンブルクに設置しました。
2014年エストニアとロシアの領有権問題についてソ連時代の国境線を追認する形での国境画定条約に合意しましたが,その後ロシア側がエストニアの「反露感情」に抗議を繰り返し,現在も条約の批准ができないでいます。

6日目。明日は帰国するので,今日が終日自由になる最後の日。そこで,この日は出発するまえからエストニアに遠出することにしてフェリーの予約がしてありました。私は今回ヘルシンキへの旅を計画するまで,エストニアという国がそんなに近いという認識がありませんでした。そもそも,エストニアという国自体,名前以外に何も知りませんでした。地図を見ると,バルト海を渡るだけでエストニアに行くことができるのを知って驚きました。それは,昔あった青函連絡船で青森から函館へいくよりも近いのです。それに,エストニアの首都タリンは古城の残る美しい小さな街で,ヘルシンキから日帰りで十分に行き来できるところでした。

ヘルシンキとエストニアのタリンを往復するにはフェリーを使います。当日にチケットを購入すればいいようでしたが,行ったこともないので混雑しているのかどうかなど,さっぱり見当がつきません。そこで,BELTRAで事前にチケットを購入してきました。行きは午前9時発。帰りは午後6時30分発。口コミを読んて,さらに,行きはラウンジ,帰りはビュッフェを付けました。
いつものようにホテルで朝食を済ませ,港に急ぎました。フェリー会社のカウンタはまだ空いていなかったので少し並んで待ちましたが,開いたのでバウチャーを見せてチケットと交換しました。ここで行きも帰りもチケットに交換できました。あとは乗船するだけでした。
やがて,搭乗時間になったので乗り組みました。
フェリーは想像以上に大きくて,まるで太平洋を航海するような感じでした。中はものすごく豪華でした。私はラウンジだったので,そこに入ると,空港のラウンジと同じようになっていて,食事も自由にできました。ラウンジは人数制限もあって座る場所がないということはなくとても落ちつくところでしたが,外の景色を見ることができませでした。これは帰りの楽しみとすることにして,ラウンジでゆっくりしました。
やがてタリンの港に到着しました。外に出ると,向こうに旧市街が広がっていました。

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まだ夕方の4時過ぎでしたが,ヘルシンキに戻るまで3時間かかるので,ムーミンワールドから帰ることにしました。結局,滞在したのは4時間ほどでしたが,ムーミンワールドはそれで十分な大きさでした。ヘルシンキから遠いのだけが欠点でしたが,なかなかいいピクニックになりました。
しかし,そのおかげで,フィンランドの郊外に電車で行くことができたし,トゥルクやナーンタリという小さくて,きれいな町を知ることができました。なんといっても人が少ないのが最高でした。
おそらく9月になれば寒くなってしまうのでしょうが,私は,2月に北極圏のロヴァニエミに行ったことがあるので,フィンランドの冬というものもおおよそわかります。

ナーンタリのバス停でバスが来るのを待って,まずトゥルクへ戻りました。帰りは,トゥルクの長距離バスターミナルでバスを降りて,線路に沿って歩いて駅に着きました。ちょうどあと10分ほどでヘルシンキ行きの電車が出発するので,慌ててチケットを買いました。ホームには改札がなく,しかし,電車のチケットは車内では買えないので,大急ぎで駅で買う必要があります。また,10月からは現金で買えず,クレジットカードでしかチケットが買えなくなるそうです。
電車の座席は2階建ての2階席で景色がよく見えました。途中で車内販売もきました。乗って,2時間,ヘルシンキに戻りました。この日はちょっと贅沢な食事をと思ったのですが,入ったレストランで頼んだスープがなんとムール貝だらけで,まあ,どうでもよくなってしまって,それを夕食代わりにしました。
さあ,この旅も明日が最後。明日はフェリーでエストニアに行きます。

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ムーミンワールド(Muumimaailma)は,トーベヤンソンの ムーミンの本に基づいたテーマパークです。デニス・リブソン(Dennis Livson)によって設計され,ナーンタリの隣のカイロ島にあります。
私は,フィンランドに来たからにはムーミンワールド,ということではるばるやって来たのですが,昨日まで,ムーミンワードの夏の開園が今日までということすら知らず,ムーミンワールドの園内がどうなっているのかもまったく知りませんでした。昨日ホテルで朝食をとったときに話をした日本から来た母娘のふたり連れに,まったり感満載のいいところだったと聞いただけでした。
ともあれ,ムーミンワールドが紹介されている様々な写真に載っているのはムーミンハウスなので,ムーミンハウスを目指して進みました。園内は想像したより狭く,あっという間にムーミンハウスが見えてきました。多くの人がムーミンハウスの前にいて,そこには,ムーミントロールとムーミンパパの着ぐるみが写真のモデルになっていました。私も年がいもなく一緒に写真を撮って,そのあと,ムーミンハウスに入りました。
ブルーベリー色のムーミンハウスは5階建てで,中は想像以上に広く,手の込んださまざまな内装が作られていました。ムーミンハウスの周りには,ヘミューレンの家,ムーミンママのキッチン,消防署,スナフキンのキャンプ,ムーミンパパのボート,魔女のコテージがありました。 魔女の迷宮のあるトッフルの小道, ハッティファッテンの洞窟, グロッケの家などの多くのアクティビティと幻想的な小道があります。

ムーミンワールドは乗り物がないので,ディズニーランドのようなテーマパークではありません。それよりも,子どもたちが昔の日本の野山をかけて遊んだような,そんなことが自由にできる場所で,入園料以外にお金もかからず,とても落ち着く,フィンランドらしい公園でした。ディズニーランドのような,アメリカ的な金にモノを言わせたテーマパークとは違って,こうした遊びができるフィンランドの子供たちは本当に幸せだと思いました。
入口近くには屋根付きのムーミン劇場「エマ」があって,そこでの公演も自由に見ることができました。また,レストランや土産物店もあって,私はそこで昼食をとりました。
  ・・・・・・
ここであまり多くのことを書くよりも,写真をご覧ください。
また,ムーミンワールドの様子を知りたいと思ったら,埼玉県飯能市にあるムーミンバレーパークへ行くとわかると思います。ただし,日本のような人の多すぎる国で,フィンランドのムーミンワールドのようなまったり感を味わえるかどうかはわかりませんが。

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ついにナーンタリまでやってくることができました。ここは湘南海岸をもっと人を少なくしたようなところで,ムーミンワールドは江の島のような感じでしょうか。ともかく,ナーンタリの海岸沿いには多くのしゃれたカフェやレストランが並んでいて,とてもすばらしいところでした。ムーミンワールドはナーンタリの海に浮かぶ島をまるごと利用したテーマパークなので,結構長い橋を渡ると入口がありました。
この日の開園時間はお昼の12時,ヘルシンキから往復6時間もかけてはるばる行くようなところなのだろうか,という気持ちもありました。私は,特にムーミンに想い入れがあるわけでもなく,詳しいわけでもないのですが,せっかくフィンランドに来たからには,という一念でやってきました。そしてまた,この日がこの夏最後の開園日ということで,混雑を予想していたのですが,さすがフィンランド,人口が決定的に日本よりも少ないので,それは杞憂でした。

埼玉県にもムーミンバレーパークというのがあるそうです。ネットで調べた限り,フィンランドのムーミンワールドとほぼ同じような感じです。なので,ムーミンワールドがどういうところかと思う人は,日本のムーミンバレーパークに行ってみれはおおよそのことはわかるでしょう。
ただし,当然,アメリカのディズニーランドと日本のディズニーランドの雰囲気の違いと同じようなものが,このムーミンワールドにもあると思われます。で,やはり,本場というか,そうした高揚感は,本場でなければねえ…,と私は思うわけです。
しかし,そんなことよりも,日本では,どこも人多すぎだし,トイレにウォッシュレットはあってもペーパータオルすらないといったなんかを勘違いしたチグハグな日本的な「おもてなし」感,親切にしてやっているじゃないかでも本音はお金儲けという感じとでもいうか…,それが私にはなじめません。口コミなどには,海外に行ったことのない人がその逆のことを書いている場合が多いのですが,そうした日本人の,大人を子供扱いするそして過保護な社会の環境が私には居心地の悪さとなるのです。

入口にチケット売り場があって,事前に購入した人はすぐに入れましたが,私のような当日券を買う人のほうは列ができていました。周りは小さい子供を連れた家族連れがいたので,私は声をかけて,フィンランドの人の暮らしぶりを訪ねたりしていました。私が話していた人のひとりに,子どもが交換留学で日本に行っているという人がいたりして,話が弾みました。
そうこうするうちに私の順番になって,チケットを手に入れて,中に入ることができました。

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私がこの旅に来るまで,ムーミンワールドに行くことはあるまい,というか,できない,と思っていたのは,これまでにも書いたように,その場所がヘルシンキからあまりに不便なところにあるからでした。ヘルシンキから電車でトゥルクへ2時間,トゥルクからさらにバスでナーンタリへ1時間,そして,ナーンタリから徒歩で20分ほど,という場所です。おまけに,ナーンタリへ行くバスはトゥルクの駅前からではなく,トゥルクの街のなかのバス停から出ているということでした。
なんとかトゥルクまでやってきて,しかも,偶然トゥルクにあったシベリウス博物館を見学することもできました。さて次に目指すはナーンタリです。
シベリウス博物館を出てナーンタリ行きのバスが出ている停留所に向かいました。アウラ川にかかる橋を渡り,朝来た反対方向に歩いて行きました。
駅から東に600メートルほど行った場所に長距離バスターミナルがあります。また,駅から南に同じく600メートルほど行った場所にマーケット広場があります。このマーケット広場にナーンタリ行きのバス停があると私の持っていたガイドブックに書かれてありました。

私の行ったシベリウス博物館は駅の南東,ちょうどこの3か所を3頂点とする正方形の4番目の頂点の場所にあります。私は,橋を渡ったあと,西へマーケット広場に向かって歩きました。ところが,マーケット広場がありません。というか,その付近一帯が工事中でした。何が何だかわかりません。また,バス停はかたまっているのではなく,,道路沿いの歩道に点在していて,どのバスがどこへ行くバスの停留所なのかさっぱりわかりません。ナーンタリへ行くバスは6番か7番ということだったので,それだけを手がかりにバス停を探します。
日本人の感覚では,ムーミンワールドという世界的に有名な場所に行くのだから,大きな案内板があるように思うのですが,そんなもの,まったくありません。それは,昨年行ったロヴァニエミでサンタクロース村へ行ったときも同様でした。
さっぱり見当がつきません。歩いている人を探して聞いてみると,どうやら工事のためにバス停が移動してしまっているということで,地元の人さえ,要領を得ません。ここまで来て,ムーミンワールドに行けないのかなあ,とだんだん不安になってきました。歩いていると,やっとのことで7番のバスが停まっているのを見かけたので,運転手さんに聞くと,そのバスは反対方向へ行くバスだということで,私の行く方向のバスのバス停はその反対側,ではなく,もっとず~ッと向こうでした。なんとかバス停の位置がわかりました。運転手さんの行ったとおり歩いていくとやっとバス停が見つかりました。少し待っているとバスが来て,乗り込みました。このバスはクレジットカードが使えず,現金のみでした。

バスはもっと混んでいると思ったのですが,ムーミンワールドに行く人は私のほかに一組の母子だけだったようで,拍子抜けでした。
バスが出発しました。次のバス停に到着すると,日本人の若い女性のグループをはじめとして,多くの人が私の乗ったバスを待っていて,びっくりしました。そのバス停というのは,なんと駅から東に行ったところにあった長距離バスターミナルでした。それならそうとガイドブックに書いてあればいいのにと思いました。女性たちのひとりに,どうしてこのバス停がわかったのか聞いてみると,やはり,街の人に聞いたということでした。
やがて,混雑したバスはナーンタリに着きました。ここで降りて,さらに,ムーミンワールドまでナーンタリの街を歩きます。ナーンタリはこじんまりとしたすばらしく美しい街でした。広い公園があり,港には多くのヨットが停泊していました。ムーミンワールドの近くになると,広い駐車場があって,多くの家族連れが車で来ていました。どうやらこうしてバスで来るのは外国からの観光客,というより,どこにでも出没する中国人はおそらくムーミンを知らないのか皆無で,日本人ばかりのようでした。

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どうにかトゥルクの町までやってきました。ムーミンワールドに行くために寄っただけの町でしたが,ここには偶然シベリウス博物館がありました。私はムーミンよりもシベリウスの方がずっと興味があります。せっかく来たからには,ムーミン博物館に行く前にぜひ,シベリウス博物館に寄ってみようと思いました。
駅から南に歩くとアラウ川が流れていて,橋を越えたところにトゥルク大聖堂,そして,その向こうにシベリウス博物館があると地図にあったのですが,駅から結構歩いても橋に着きません。距離感がつかめないのです。途中で地図をみせながら通りすがりの人に聞いて,どうにか橋を越えました。
トゥルク大聖堂のあたりに結構多くの観光客がいました。私はトゥルクはムーミンワールドに行く中継点だと思っていたのですが,ムーミンワールドが目的ではなく,このトゥルクの町自体が観光地であることを知りました。確かに美しい町,そして,見どころの多い町でした。
教会を越えてしばらく歩くと,シベリウス博物館がありました。シベリウス博物館の開館は11時からで,まだ少し時間が早く,入口ではスタッフが開館の準備をしていました。やがて時間になったので,中に入りました。それにしても,どうしてこの町にシベリウスの博物館があるのかが謎でした。特にシベリウスがこの町にゆかりがあるとも思えなかったのです。
シベリウス博物館(Sibelius-museo)は作曲家ジャン・シベリウスにちなんで名づけられたフィンランドで音楽を専門とする唯一の博物館です。この博物館は,シベリウスに関した展示だけでなく,というよりも,むしろ,シベリウスに関した展示が付属した,世界中から集められた歴史的楽器や楽譜,原稿,録音,写真,コンサートプログラム等,音楽に関する貴重な資料が展示されている音楽博物館でした。そして,建物の奥まったセクションがシベリウスに関するさまざまな資料を展示したコーナーになっていました。

シベリウス博物館の起こりは1920年代に設置されたオーボ・アカデミー大学音楽学部のセミナーでした。現在の建物は建築家のヴォルデマル・ベックマンの設計で,1968年に完成したものです。
シベリウス博物館の建設地は,もともとはトゥルク・ロイヤル・アカデミーの植物園でしたが,1827年のトゥルク大火で焼失してしまいました。 1923年,植物園の土地はオーボ・アカデミー大学へと寄付され,1930年代には植物園を元の状態に復元しようという試みが行われたのですが,その試みは途絶え,園は荒廃してしまいました。
オットー・アンデションが創設間もないオーボ・アカデミー大学の音楽学・民謡学部の教授職に任用された1926年ごろより,のちにこの音楽博物館に収納される資料が集めらはじめて,可能な限り規模の大きな蔵書を備える音楽学部のセミナーを作り上げようということになりました。しかし,1949年以前には博物館には正式な名前がなく,単に「オーボ・アカデミー大学の歴史的音楽コレクション」として知られるようになりました。
ここで1940年代の後半に作曲家のジャン・シベリウスに関する展覧会が開催され,楽譜から書簡,草稿に至るまで様々な品物が展示されました。報道陣が展覧会を「シベリウス博物館」と誤って呼んだことにより,アンデションと大学の楽長であったローセンクヴィストの間で論争が生じ,展示会に関するこれ以上の混乱を避けるためにアンデションはシベリウスに手紙を出し,公式に彼の名前を使用したいと正式な許可を願い出ました。シベリウスはこの申し出を「多大な喜びをもって同意」し,シベリウス博物館となったのです。
博物館ははじめ,現在レストランが営業している場所にあったのですが,この建物で運営を続けるのは難しいことがわかり,博物館専用の建物の建設が望まれるようになりました。1960年代に入って建築家のヴォルデマル・ベックマンがオーボ・アカデミー大学の博物館用建屋の設計を任されることになって,1966年の秋に最終案が完成し,建物は1968年に落成しました。

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5日目の朝を迎えました。今日は,昨日までどうしようかと迷っていたムーミンワールドに行くことにしました。
実は,昨日,朝食を食べていたときに,居合わせた日本人旅行者の母娘連れに,明日ムーミンワールドに行こうと思っているという話をしたら,私たちは昨日行ってきたけれど,まったりしたいいところだったと言われました。私はまったく知らなかったのですが,ムーミンワールドはこの日が今シーズンの最終日なんだそうです。今回もまた,ものすごくツイていました。
ムーミンワールドはヘルシンキからかなり遠く,片道3時間ほどします。ヘルシンキからの日帰りツアーというものがあるので,よほどそれに参加しようと思ったのですが,それは料金が約3万円もします。しかし,自力で行くことができなければ,それでもツアーに参加するしかなさそうです。自力で行くにも,往復6時間,そんな時間をかけてまで行く価値があるのかしら,とも思いましたが,やはり,フィンランドといえばムーミン,あとで後悔したくないので,行ってみることにしました。この日の開園時間はお昼の12時ということなので,朝8時くらいにホテルを出ても十分大丈夫そうでした。
問題はどのくらい混雑しているか,ということでしたが,これは杞憂でした。どうしても日本のテーマパークを想像してしまいますが,そもそも,絶対的にフィンランドは人口が少ないのです。

この日は日曜日で,朝食の時間がいつもより1時間遅かったのですが,今日は朝8時の出発なので,問題ありませんでした。この旅はこのように,何事もツイていました。そんなわけで,早朝時間ができたので,朝食前にホテルを出て,ホテルの北側にあるカイサニエミ植物園の周りを散歩しました。残念なことに,ホテルに近いのに,ついにこの植物園に行くことはできませんでした。それは,私は勘違いしていて,昨日行こうとして,入口がわからなかったのです。この植物園の入口はホテルとは正反対側にあったのをこの朝知ったのですが,開園まえでした。
ホテルに戻って朝食をとりました。幸いにも,この日も快晴でした。この旅では3日目だけが雨でしたが,それ以外は天気に恵まれました。
朝食を終えて,駅に向かいました。ムーミンワールドがあるのはナーンタリという港町ですが,ナーンタリは,ヘルシンキからまずトゥルクという町まで電車で2時間ほど行って,そこからさらにバスに乗って1時間かけて行くという,不便な場所にあるのです。
ヘルシンキ8時37分トゥルク行きに乗りました。トゥルクはタンペレへ行ったときとは違ってインターシティ(特急)で,座席に着くと検札が来ました。名古屋から長野へ在来線の特急で行くようなものです。2時間ほどヘルシンキから西に向かって走って,トゥルクに到着しました。トゥルクは大きな町でした。

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タンペレからの帰り,駅のベンチで電車を待っていると,隣に日本語を勉強しているフィンランド人の若い男性がいました。話しかけると,日本語は難しいから挑戦しているのだとか。彼の持っていた本から,外国人の日本語能力検定というものがあるということを知りました。日本で行われている英語検定のようなものでしょう。1級から5級まであって,彼が持っていたのは3級でした。
私は漢字に書き順というものがあるとか,日本人でも,というか,私は,漢字は読めるけど意外と書けないものだとか,そういうたわいもない話をしました。
やがて電車が来たので彼と別れて,ヘルシンキに戻りました。

ヘルシンキに着いて,駅のあたりで何か夕食を食べようとレストランを探しました。
ヘルシンキにもマクドナルドも日本食のレストランもありますが,アメリカを旅行しているのとは違って,この国ではそうしたものを食べたいと思わないのも不思議なことですが,おそらく,それ以外の選択肢がたくさんあるからでしょう。
フィンランドといえば有名なロバーツコーヒーというチェーン店がありますが,今回の旅では入る機会がありませんでした。次回来るときは,それはおそらく遠い将来ではないでしょうが,ぜひロバーツコーヒーでシナモンロールを食べたいものだと思いました。
ロバーツコーヒーの創業者はロバート・パウリグという人です。7代前の先祖であるビュールストロムはフィンランドで初めてコーヒーを焙煎した人物で,ヘルシンキの市長も務めました。
ロバートの祖父にあたるエドワード・パウリグは「ニッセン」というコーヒーショップを100店舗以上経営し「フィンランドのコーヒー王」と呼ばれました。ロバート・パウリグは祖父のもとで修行を積み,ブラジルでコーヒーに関する基礎を身につけました。アメリカを旅していたロバート・パウリグはアメリカのカフェ文化に感銘を受けてフィンランドでカフェをはじめることを決意し,1987年にヘルシンキの海沿いにある「ヴァンハ・サタマ」でロバーツコーヒーの1号店をオープンさせました。現在は日本にも数店舗進出しています。
この晩は,駅の近くのカフェジャバという名のカフェに入って,写真のようなサラダとコーヒーの夕食にしました。フィンランドではこれが一番です。
こうして私のフィンランド旅行の4日目が終わりました。

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昼食を終えて,ムーミン美術館に向かいました。
ムーミン美術館は,タンペレホールという大きな建物のなかにあるようでした。タンペレホールというのは,タンペレの中心にあるソルサプイストの南端に位置する北欧諸国で最大のコンサートおよび会議センターで,タンペレホールの向かいにはタンペレ大学の本館があり,タンペレ駅からわずか0.5キロメートルの距離にあって,このホールのメインの講堂の収容人数は1,756席あります。
ムーミン美術館のきっかけは,トーベ・ヤンソンのムーミン作品や原画が,1986年タンペレ美術館に寄贈されたことに遡ります。コレクションはタンペレ美術館ムーミン谷博物館で1987年から2016年まで展示されていましたが,とても小さくて,来た人をがっかりさせていたようです。 で,どこかに大きな美術館を,という話があったそうですが,なかなか適当なところがなかったそうで,それが,このタンペレホールが作られるということで,この場所に移動することができた,というはなしでした。
そんなわけで,オープンしたのが2017年6月。つまり,まだ2年目を迎えたばかりで,ここでも私はツイていました。 
フィンランドに興味を持ち,はるばるやってきても,シベリウスに関する「アイノラ」や博物館が休館だった,とか,ムーミンワールドがお休みだった,そういう人が少なくないのです。私は,そういうことも調べないでのこのことやってきて,昨年の冬にはロヴァニエミでオーロラを目撃し,今回は,見たい,行きたいという場所にはすべて行くことができました。このムーミン美術館は,数年前に興味を持っていたら来ることすらできなかったわけです。
おまけに,フィンランドにはムーミン美術館とムーミンワールドがあるという,その区別もしらず,当然,ムーミン美術館が何を展示されているのかもわからず,という程度でした。これでは,ムーミンが大好き,でもフィンランドに行きたくても行けない,という人には怒られてしまいます。

入口を入ると,チケット売り場ではムーミン美術館に入るチケットを買う人でごった返していました。チケットを購入するのは並ぶのではなく,チケットを購入する順番の番号の書かれた紙を機械で発券して,自分の番号が来るのを待つ,というシステムでした。ここはムーミン美術館のチケットだけでなく,この日は別の展示室で行われていて,この日が最終日だというアンディ・ウォーホール展を見に来た人が多いらしく,それで混雑してるということでした。私はアメリカピッツバーグのアンディ・ウォーホール美術館に行ったことがあるので,なにもフィンランドで見ることもなかったので,特に関心もなかったのですが,外国に来てこういうものに出会うと不思議な気がします。この数か月前にもオーストラリアのブリスベンの科学博物館でアメリカのロケット開発に関する企画展をやっていて,そんなものはアメリカで嫌になるほどホンモノを見たことがあるなあ,と思ったばかりです。
この,世界でひとつのムーミン美術館は,ムーミン本や挿絵でおなじみの人生の知恵,ユーモア,元気いっぱいの冒険心,人の温もりや友情など,世界中のムーミンファンたちに語られている世界を体感することができる,というのがウリでした。
ムーミンの作者トーベ・ヤンソンが手がけたムーミンの物語を,洪水や夏まつりの水上劇場,灯台の島の謎,十一月のムーミン一家失踪ミステリーなど,12冊のムーミン本のとおりに作られたミニチュアの模型とともに見ることができるようになっていました。説明員のなかに日本人の女性がいて,いろんな話を聞くことができました。

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タンペレの町は南北にタンメルコスキ川が通っていて,というよりも,実際はその川が陸地を分断していて,その西側に「◁」形で陸地,というより,実際は川で分断されているのだから,「島」があって,周りが湖で囲まれています。そして,川の東側に南北で鉄道が走っています。
私は朝鉄道の駅を降りて,西に向かって「◁」の南側を歩いてその先端にあるビューニッキ展望台まで行きました。そして,今度は「◁」の北側を歩いて,川まで戻ってきました。
川のほとりにあったのが,旧フィンレイン工場です。この赤レンガで作られた工場は,ジェームズ・フィンレインが1820年に作った綿織物の工場で,1990年に移転しました。今はその跡地が,レストランや映画館,労働者博物館,パブなどになっていて,ここに住む人のショッピングモールのようになっていて,けっこうな賑わいをみせていました。
私も歩いてみましたが,このような場所はどこの国にもあるので,特に興味もわきませんでした。とにかく,日本も外国も,都会というのはどこもそう違いがなく,そこに住む人には便利なショッピング街ですが,観光客にはつまらない場所と化してしまいました。ニューヨークの五番街へ行って,ユニクロに入ってみたところで,売っているものは同じです。

どこかで昼食でも,と思ってそのまま川に沿って駅のほうに歩いて行きました。川を渡って駅を越えると,今日の本来の目的地であるムーミン美術館にたどり着くので,その途中で,というわけでした。
駅前は,日本の中都市の駅前とそう違うものではなかったのですが,そこに一軒の感じのよさげなカフェがありました。そのカフェの雰囲気がとてもよかったので,中に入ることにしました。そして,サラダとコーヒーを注文しました。
このごろ,私はアメリカだけでなく,さまざまな場所を旅行するようになって,ヨーロッパやオセアニアはこうしたカジュアルなすてきなカフェがどこにでもあって,気楽に食事を楽しめることを実感するようになりました。その逆に,こうした気の利いたカフェがないのは,日本とアメリカだと思うようにもなりました。日本は,個人営業の店は高級店で,それ以外はチェーン店ばかりです。あるいは,どこも混雑していて,気が休まりりません。アメリカもまた同様だし,アメリカはチップがいるので,私は,アメリカに行くときはバーガーチェーン店ばかりを利用しているし,日本では,ひとりで入るのは,マクドナルドと吉野家とココ壱番屋ばかりになってしまいました。

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ビューニッキ展望台をあとにして,タンペレの市街にもどりました。この街は,いかにもフィンランドの「森と湖の国」にふさわしいところでした。このあとは街中にある多くの見どころを順に周って,最後にムーミン美術館に行くことにしました。
そこで,まず向かったのがレーニン博物館でした。
私はロシア(ソビエト連邦)の歴史をほとんど知りません。知っていることとはスターリンの粛清でショスタコービッチなどの作曲家が苦労したことくらいです。
  ・・・・・・
ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин)はロシアの革命家です。ロシア社会民主労働党(=ボリシェヴィキ,のちにロシア共産党と改名)の指導者として活動し,十月革命を成功させ,革命政府の人民委員会議議長として史上初の社会主義国家であるソビエト連邦の初代指導者を務めました。その次の指導者がスターリンです。ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин)はソビエト連邦の第2代最高指導者で,1930年代の大粛清(Большой террор)とよばれる大規模な政治弾圧を行いました。
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レーニン博物館は,フィンランドとソ連の和睦の証として1946年に設立された博物館で,労働会館の3階のフロアにありました。労働会館のビルの入口を入ると,ホールのようなものがあって,この日は何も催しがなかったので,閑散としていて,上に博物館があるとも思えない感じでしたが,ためらいながら階段を昇っていくと,博物館の入口に着きました。
入館料を払って中に入りました。けっこう多くの入場者がいました。この博物館は,ロシア革命からペレストロイカまで,ロシア(ソビエト連邦)の歴史が細かく展示されていましたが,私には勉強不足でよく理解できない博物館でもありました。

次に行ったのがアムリ労働住宅博物館でした。ここは1880年代から1970年代までの労働者たちが住んでいた住宅を(おそらく)移築して保存,公開してある博物館でした。あまざまな年代の多くの住居が一か所に集められていて,それらの中に入ることができます。そして,当時住んでいた人の名前や職業がこと細かく書かれてあって,フィンランドの人々の生活の歴史がとてもよくわかりました。
日本でも古い時代の住居跡が博物館となっているところがありますが,こうして,さまざまな時代の住居が一か所にまとめられているというのは,私はしりません。
私にはなかなか興味深いところでした。どの国も,こうした人々の歴史があって,今の便利な生活があるのだなあ,としみじみと思いました。ここはゆっくり見る価値がありました。

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タンペレはヘルシンキの北,約150キロメートルに位置する湖の半島にあたる場所に開けた町です。フィンランド第2の都市で,歴史ある建物が多く,多くの観光客でにぎわう町でした。とはいえ,ごったがえずほどではなく,ほどよく快適に観光をすることができるところでした。
それにしても,この程度の町がフィンランド第2の都市,というのですから,フィンランドというのは,本当にすてきな国です。ここタンペレは住んでみたいと思うようなところでもありました。
この日は,街歩きの最後にムーミン美術館に行くことにして,そのまえに,タンペレの見どころをすべて順番に訪れることにしました。この街もまた徒歩で十分に歩き回ることができるくらいの広さでした。

マーケットホールからさらに西に,半島の先端が高台となっていて,ここにビューニッキ展望台というのがあるそうなので,行ってみることにしました。その途中に日本料理店があって,ちょっとびっくりしました。展望台までは結構遠く,途中で道に迷いながら,なんとか到着することができました。
展望台はかなり古びた建物でした。まず,エレベータに乗って展望台に登ることにしました。エレベータもかなりの年代ものでした。展望台について,エレベータを降りて,外に出ました。ここは湖に囲まれた半島の先端に位置していて,東側にタンベレの市街地が見える以外はすべて湖。とても美しい景色を見ることができました。
この町の北に公園があって,そこには新しい展望台があるので,この展望台は高さにしても完全に負けているのですが,それでも,この街にはるばるやってきたら,ぜったいこちらのほうがお勧めです。
展望台を降りると1階にカフェがありました。なんでもこのカフェのドーナッツは有名で,フィンランドで一番おいしいという評判だそうです。であれば,これは食するしかありません。
私はドーナッツとコーヒーを頼みました。実際,ここのドーナッツはものすごくおいしくて評判どおりでした。これを食べるだけでも,タンペレを訪れる価値があるというものです。

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ホテルに3泊して,4日目となりました。海外に出かける多くの旅では,到着は夕方になるので,3泊しても観光できるのは2日ということが多いのですが,ヘルシンキは到着した日の午後から行動できたので,すでに3日たっぷり観光をしました。そしてまた,なんと3日で10万歩も歩きました。
昨日は,列車に乗ったので,ヘルシンキから郊外に遠出することにも抵抗がなくなりました。今回の旅では,こうして,1日1日,次第に遠くに出かけることができるようになってきました。しかし,それでも,さすがに,まだ,ヘルシンキから列車とバスを乗り継いで4時間近くもかかるムーミンワールドに行こうとは思っていませんでしたが…(結局行くことができました)。そこで,今日は,せめてと思って,列車で2時間ちょっとのタンペレという町にあるムーミン美術館まで行ってみることにしました。

昨日同様,駅に行って,まずチケットを購入しました。やがて指定された列車が来たので乗り込みました。
私はこれまでずっとアメリカを車で旅行していたので,海外で列車に乗って旅をすることはほとんどありませんでした。ヨーロッパには,若いころ一度だけ行ったフランスでTGVに乗ったっきりでした。でありながら,なんとなく,歳をとったら車でアメリカを旅することを卒業して,ヨーロッパを列車で旅したいものだと思っていたのですが,どうやらそれがかなってきました。昨年行ったオーストリアでも,ウィーンからザルツブルグまでの列車の旅をしましたが,なかなか快適でした。海外では,車中から外の風景を見て,そこに住んでいる人を想像するだけで楽しいのです。
今回の旅でも,ヘルシンキから郊外へ行く列車に乗るのもまた,それと同様にとても興味のあるものでした。フィンランドの郊外の風景を見ていると,ほんとうにいい国だということを再認識しました。列車の旅はとてもすばらしいものでした。
やがて,タンペレの町に到着しました。

タンペレには,駅の東出口を出て,線路沿いに南に少し行ったところにムーミン美術館があるのですが,この日は土曜日,平日は9時に開館するムーミン美術館は週末は11時の開館ということだったので,美術館が開館するまで市内観光です。そこで,駅の西口を出て,まず,タンペレの町を歩くことにしました。この日は1日かけて,タンペレを堪能する予定でした。
まず向かったのが,朝早くからやっているというタンペレ・マーケットホールでした。駅を出ると,駅前のメインストリートは工事中でした。工事を何となく見ていると,どうやらトラムの線路を牽いているようでした。この時期に市電を設置するというもの,日本と違ってなかなかのものです。フィンランドという国は日本とは比べものにならないくらいハイテクな国ですが,駅といい,公共交通機関といい,そうしたものの外観は30年前の日本を思い出すようなところがあって,とても落ち着きます。
朝は寒く,半袖の私は少し心配になりましたが,次第に気温が上がったので,これで十分でした。
やがて,タンペレ・マーケットホールに到着しました。お土産を買わない私は,時間的にカフェに入るのも中途半端な時間だったので,ぶらりとウィンドウショッピングをしました。このマーケットホールのとなりに,日本の今風のマーケット,というかデパートがあったのが意外でした。これではおそらく,このマーケットも潰れてしまうのではないかなあと思ったことでした。

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私はヘルシンキカードというものを持ってヘルシンキの観光をしていましたが,このカードは市バス,トラム,メトロなどが乗り放題になるばかりでなく,博物館や美術館などにも無料で入ることができてとても便利でした。ヘルシンキカードには24時間,48時間,72時間のものがあるのですが,値段があまり違わないので,最大の72時間のものを購入して,有効に利用しました。
ヘルシンキ市内では「Hop On Hop Off」という2階建ての観光バスが走っていて,これも乗り放題だということを私ははじめ気づかなかったのですが,ガイドブックを見直してそれを知ったので,機会があれば利用しようと思っていました。
ちょうどヘルシンキ大聖堂の前の広場にこのバスが停まっていたので,大した距離でもないのですが,最後にこれに乗って中央駅まで行ってホテルに戻ろうと思いました。そこで,停まっていたバスに乗ろうと,ヘルシンキカードを見せて,これで乗れるかと聞いたのですが,私の聞き方が悪かったのか,このカードで無料でのれる湾岸クルーズの乗り場はこの近くのマーケット広場のところで黄色いのぼりが立っているからすぐわかると言われました。

なんだかよくわからなかったのですが,ともかく,湾岸クルーズに無料で乗れるなんて思ってもみなかったので,行ってみることにしました。急いでマーケット広場に行ってみると,確かに黄色いのぼりが目立っていました。しかも,クルーズ船はちょうど出発間際でした。ということで,偶然,なんと1時間30分もの湾岸クルーズ「Sightseeing by Boat」というものに乗ることができました。
この船には,1階の船室と2階の観望席がありました。実はこのあと雨になるという天気予報を私は知っていて,確かにすでに雲行きがおかしくなっていました。乗り込んだ人たちはみな観望デッキに急いだのですが,私は雨になるとわかっていたので,1階の客席の窓側に座りました。船は予想以上に遠くまでクルーズをしていきました。私の予想通り途中で大雨になって,デッキにいた人が大挙して客席に避難してきました。
ずっと雨だったので,船室から出ることができませんでしが,船室の窓からも,ヘルシンキ湾が十分に堪能できました。このクルーズ最大の見せ場が船の幅ぎりぎりの運河を通るときで,船が脇をこすりながらすり抜けていきました。

クルーズは乗り甲斐があって非常にお得でした。
今回のフィンランドの旅は6泊8日でしたが,天気が悪かったのはこの日だけ,しかも,朝方の大雨とこのあとに降ってきた雨だけで,幸いお昼間は大丈夫だったので,シベリウスの住んでいた家「アイノラ」まで遠出することができました。残念なことに,この湾岸クルーズは雨になってしまいましたが,まあ,このクルーズはおまけだったということで,やむをないことでした。
船を降りたときは雨はすでにやんでいました。ヘルシンキでは雨になっても,日本と違って,1日中降るというようなことはないそうです。港からホテルまでは,結局歩いて戻ることになりました。ついに,「Hop On Hop Off」バスに乗る機会はありませんでした。今日もまた,ホテルの近くのモールの食べ放題で夕食を済ませました。

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行った場所に住んでいる人の生活を知るには,マーケットに行くのが一番です。というわけで,私は,旅行をするとマーケットに行ってみることにしています。料理もしないので,何も買わないのですが,見て歩いているだけで楽しいものです。マーケットに行ってみると,生きるのに一番必要な知恵は調理ができることだと痛感します。
私が学生時代は,男子は家庭科すらなく,本当にどうしようもない時代でした。という言い訳はさておいて,とにかく若いころに身につけなくてはならない最も大切なことは,食べる手段を身につけることとコミュニケーション能力だと,歳をとって実感するようになりました。

ヘルシンキでマーケットといえば,まずはマーケット広場です。大統領官邸の真ん前にこうしたマーケットがあるというものすてきなことです。マーケット広場のほかにも,さまざまなマーケットがあるので,トラムに乗って行ってみることにしました。
まず行ったのがハカニエミ・マーケットホールでしたが,ここは現在改装中だったのが残念でした。とはいえ,改装中の建物の前の広場に臨時のプレハブ小屋が作られていて,そこで営業をしていました。このなかに,老舗の肉屋さん「レイニン・ニーハ」がありました。感じのよい女性の店員さんがいて,目が合ったので,日本で映画に出てきたお店ですよね,と話しかけたら笑っていました。
次に行ったのが,ヒエタラハティ・マーケットホールでした。ここは,行った時間が悪かったのか,閑散としていました。
そして最後に,オールド・マーケットホールに行きました。ここは改装が終わったばかりで,充実した店内に多くの店がありました。食事をするには時間が中途半場だったのが残念でした。
いずれにしても,ヘルシンキはさすがに野菜は小ぶりのものが多いのですが,魚や肉はいろんな種類のものがたくさんあって,行ってみた甲斐があったというものでした。

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今日はシベリウスの生涯について書きます。
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1865年シベリウス(Johan Julius Christian Sibelius)は医師クリスティアン・グスタフ・シベリウス(Christian Gustaf Sibelius)を父,マリア・カルロッタ・シベリウス(Maria Charlotta Sibelius),旧姓ボーリ(Borg)を母としてハメーンリンナ(Hämeenlinna)に生まれました。高校卒業後,ヘルシンキ大学に進学して法学を学びはじめましたが,音楽への興味の方が圧倒的に大きかったのでヘルシンキ音楽院(現在のシベリウス音楽院)に転入,在学中の1888年当時17歳のアイノと恋に落ち4年後に結婚しました。
1892年「クレルヴォ交響曲」(the choral symphony ”Kullervo””)をきっかけとしてシベリウスは管弦楽に意識を向けるようになり,本格的に作曲家の道を歩みはじめ,1899年交響曲第1番を作曲,初演で各方面から好評を博しました。このときの公演プログラムでは,少年と男声合唱のための「アテネ人の歌」(Song of the Athenians)も演奏され,この曲の最後「フィンランドは目覚める」(Finland Awakens)がとりわけ高い人気を獲得したのですが,これがのちに広く知られる「フィンランディア」(Finlandia)です。

1901年から1902年にかけて作曲された交響曲第2番はフィンランドの人々の間に熱狂の渦を巻き起こしました。交響曲の完成後,シベリウスはトゥースラ湖(Lake Tuusula)のほとりに「アイノラ」(Ainola=Aino's Place)と名づけた邸宅を建築し,移り住みました。しかし,1907年のはじめごろからシベリウスは暴飲暴食に耽るようになり,この生活習慣がアイノの健康状態に深刻な影響を与えることとなって,療養施設への入居に至らしめてしまいました。妻が不在の間にシベリウスは禁酒を決意し,交響曲第3番の作曲へと意識を集中させることになりましたが,完成した交響曲は否定的な論評を浴びることとなってしまいました。また,喉の癌の疑いにより大きな手術を受けましたが,この手術が成功したことにより,再びシベリウスとアイノは自宅での幸福を新たなものにすることができました。
1910年のはじめに着手した交響曲第4番は,その内省的な作風があまり前向きに評価されず、賛否両論を巻き起こすことになりました。1915年には交響曲第5番,続いて1919年の暮れには交響曲第6番を作曲し,ともに初演で称賛されました。さらに,1924年のはじめには交響曲第7番が完成,公開演奏は好評を博し,ダンネブロ勲章のナイトに叙される栄誉に与りました。

しかし,交響曲第7番を最後に,シベリウスの創作活動は急激に落ち込み,残りの生涯で規模の大きな楽曲はわずかしか生み出すことはありませんでした。残りの30年の人生をシベリウスは音楽について公に語ることすら避けながら過ごすようになりました。 これが「ヤルヴェンパーの沈黙」(the Silence of Järvenpää)とよばれるもので,シベリウスの存在は神話のようなものとなっていったのです。
1955年,90歳の誕生日を迎えたシベリウスは盛大に祝われたのですが,その2年後の1957年,アイノラにて91年の生涯を閉じました。シベリウスは国葬によって葬られ,アイノラの庭へ埋葬されました。アイノ・シベリウスはその後の12年間を同じ家で暮らし,1969年97歳で夫の後を追いました。彼女も夫の側に眠っています。
1972年,存命のシベリウスの娘たちがアイノラをフィンランド政府へと売却,それ以降アイノアは博物館として公開されているのです。

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フィンランドが独立の機運に湧き始めた19世紀後半から20世紀半ばに,祖国フィンランドの自然や伝承神話などをモチーフに美しく神秘的な作品を数多く残したのが作曲家ジャン・シベリウス(Jean Sibelius)ですが,シベリウスが妻アイノ(Aino Sibelius)とともに30代後半から死去するまで住み続けていた自邸が,妻の名前にちなんでつけられた「アイノラ」(Ainora)です。
1904年,その当時創作活動が停滞し精神的に追い詰められていたシベリウスを救うため,妻のアイノはヘルシンキから郊外への移住をシベリウスに提案し,ヘルシンキから北へ30キロメートルほど離れたヤルヴェンパー(Järvenpää)という美しい田舎町に5千平方メートルの土地を購入し,丸太造りの2階建ての家屋を建てて移住しました。この家の家具や棚,階段,サウナ小屋などの設計は,建築を勉強していた妻アイノが行いました。また,ピアノの置かれたリビングには,親友であった芸術仲間ガッレン・カッレラによる肖像画や風景画などが掛けられ,イタリア製のシャンデリアやオランダ製の暖炉なども設置されました。

現在,シベリウスが暮らしていた自邸はそのまま保管されていて,毎年夏にのみ公開されています。冬のフィンランドもオーロラなど魅力的ですが,ムーミンワールドをはじめとして,夏でなければ訪れることができないところも多いのです。
敷地内の入口に小さな建物がありました。そこがカフェを併設したミュージアムショップで,そこにまず立ち寄りって入場料を払いました。カフェでは女性がひとり食事をしていました。
広い敷地に出ました。そこには美しい花の咲く庭園があって,私が訪れたとき,ちょうど1組の日本人の家族連れが来ていましたが,それ以外には誰もおらず,静かで落ち着く場所でした。そのまま歩いて行くと,シベリウスと妻アイノが眠っている墓がありました。そこを上がっていくと,自邸に着きました。
自邸には係の女性がふたりいました。挨拶をして中を見学しました。内部は往時のままに保存してあって,リビングやキッチン,書斎,寝室など各部屋に置かれていた家具や日用品,ピアノや絵画が残されていました。まるでその部屋にはシベリウスが座っているような気がしました。この部屋で作曲をしていたんだなあと思うと胸が熱くなってきました。私の頭の中にはシベリウスの作曲した曲が鳴っていました。満ち足りた気持ちになりました。
部屋を自分で見てまわることができるように,解説書が用意されていて,それには日本語版もありました。
一旦外に出ると,自邸には地下室があって,そこではシベリウスの生涯をビデオで見ることができました。
自邸を出ました。自邸の周りはまるでひとつの森のような広大な敷地になっていました。
アイノが手入れを欠かさなかったという美しい花園が今もしっかりと手入れされて広がっていました。そこにはアイノが好きだったリンゴの木もありました。また,自邸の奥にはサウナ小屋が残っていて,その内部も見学できました。
敷地を歩き終えました。ミュージアムショップに戻って,昼食をとることにしました。おいしいサラダとコーヒーの昼食は,この旅で,もっとも落ち着くことができた時間になりました。

私はこれで駅に戻りましたが,アイノラから少し西に歩いた場所にはトゥースラ湖(Lake Tuusula)があって,そこはシベリウスがよく散策をしていたところだったといいます。また,この湖周辺には,小説家ユハニ・アホの自邸やアールトが設計を担当した作曲家ヨーナス・コッコネンの自邸などこの美しい景色に見せられた芸術家たちの住まいがいくつも残っているそうです。この旅ではそうした場所に行くことができなかったのを今にして後悔しています。実際は,この湖畔に立ち寄りながら北上して,ひと駅先のヤルヴェンパー駅から帰るべきでした。
このように,ヤルヴァンパーはすてきな町だったので,また来る機会があれば,今度はここに1泊してみたいものだと思いましたが,それもそう遠いことではないように思えます。

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