しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:ヨーロッパ > フィンランド

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 先日,2022年4月27日,NHKBSPで「ヨーロッパ発駅ロマン-フィンランド・ヘルシンキ」が放送されました。フィンランドの首都ヘルシンキの中央駅を舞台としたさまざまな物語です。私は,2018年2月と2019年8月にフィンランドに行きました。2018年の2月に行ったのは,北極圏近くのロヴァニエミでしたが,2019年8月は,この番組に出てきたヘルシンキ中央駅近くのホテルに宿泊したので,とても懐かしく番組をみることができました。ただし,私がヘルシンキに行ったのは夏で,番組で出てきたヘルシンキは冬でした。
 フィンランド中央駅が作られたのは1919年なので,今から100年以上も前のことです。私が子供のころの名古屋駅などとよく似た感じで,懐かしい気持ちがしたものです。その後,日本の駅舎はどこも近代的な外観となりました。しかし,その内部も最新かといえば,疑問符がつきます。それに比べて,ヘルシンキ中央駅は,駅の外観は古くても,チケットの販売機などは完全に自動化され,最新設備となっていたのは,ウィーンの国立歌劇場同様でした。こうしたことが,ヨーロッパの文化の豊かさと奥深さで,伝統を大切にしながらも,日本よりもずっと先進性をとり入れ利便性を兼ね備えたヨーロッパというところの優秀性を私は感じました。また,改札口がないので,だれでもホームに行くことができます。

 この駅から,フィンランドの各地に多くの列車が発着しています。
 番組でも紹介していましたが,ヘルシンキのヴァンター国際空港にも,ヘルシンキ中央駅から直接行くことができて,とても便利です。
 私がこの駅で特に印象に残っているのは,フィンランドの北,北極圏の町ロヴァニエミまで行く寝台列車サンタクロースエクスプレスの出発シーンですが,もうひとつが,この番組でも紹介されたロシアのサンクトペテルブルグまで通じている国際列車です。私は,ヘルシンキ中央駅の電光掲示板でこの列車の表示は見ましたが,発着シーンは見損ねました。このことを今では残念に思いますが,それは,この当時は,次に来たときに乗るからいいや,と思っていたことによります。
 ヘルシンキからサンクトペテルブルグまでは,東京から大阪に行くよりも近く,わずか300キロメートルほどしかないのですが,国境を隔てているので,車内で検札があるということでした。私は,2020年の夏に三度目のフィンランドに行って,そのときにこの列車に乗ってサンクトペテルブルグまで行く予定をしていただけに,コロナ禍でその旅が実現できなかったことが数少ないこころ残りのひとつとなっています。

 フィンランドの東はロシアです。長い国境線がふたつの国を遮断しています。また,フィンランドの歴史は,ロシアとの戦争の歴史でもあり,植民地化されたこともあります。この番組が,現在のロシアのウクライナ侵略を意識して放送されたのかどうかは知りませんが,このご時世ともなると,こうした事実がかなり深刻な問題として浮かび上がります。果たして,今もサンクトペテルブルグ行きの列車は運行されているのでしょうか?
 フィンランドは,世界で最も幸せな国といわれています。また,教育が充実して学力世界一だともいわれています。実際,この国を旅すると,治安もよく,旅もしやすく,自然も魅力に富み,豊かな国であることを実感します。しかし,未だに徴兵制度があるということを聞いて,平和ボケした日本に住む私は,当時,とても意外な気がしたものです。
 私がヘルシンキに着いたちょうどその日,ロシアからプーチン大統領が来ていて,その車列を見ました。私のわずか数メートル前を,この,面積だけが巨大な国の元首が車に乗って通り過ぎて行ったのです。それは今からわずか3年前のことだったのに,当時は,その国の恐ろしさへの実感は程遠いもので,フィンランドがロシアと陸続きであることを痛感しただけでした。フィンランドの置かれた地理的なリスクが何を意味しているのか,私にはまったく理解できませんでした。
 それが,今や,フィンランドは,隣国の脅威に懸念を抱かざるを得ない状況となっています。
 この番組を見ながら,どうか,将来にわたって,私の大好きな,そして,すばらしい北欧の国の平和がこれからも続くようにと願わずにはいられませんでした。

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 デジタル朝日の&Travelに「フィンランドで見つけた“幸せ”」と題したライターの内山さつきさんの文章が載っていました。少しだけ引用してみましょう。
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 「アイノラ」のことを思い出すとき,シベリウスのピアノの小品「樅の木」(The Spruce)がいつも静かに心の中を流れている。…
 そのメロディーに耳を傾けていると,かつての「アイノラ」に流れた家族のあたたかく美しい時間,そして,作曲家として成功した後も,ついに完成することのなかった幻の作品を追い求め続けた,シベリウスの沈黙のその内側へと思いをはせずにはいられないのだった。
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 フィンランドの作曲家シベリウス(Jean Sibelius)が1957年に91歳の生涯を閉じるまで暮らした場所はヘルシンキの北へ40キロメートルほど行ったヤルヴェンパー(Järvenpää)というトゥースラ湖(Tuusulanjärvi)のほとりの町にあります。ヘルシンキからは電車で行くことができます。この場所をシベリウスの妻アイノ(Aino Sibelius)さんにちなんで 「アイノラ」(Ainola)といいます。
 シベリウスは妻アイノさんと1904年にここに建てた住まいに移り住みました。

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 フィンランドを代表する作曲家シベリウスは,ドイツやロシアなどの作曲家から大きな影響を受けながら,フィンランドの伝統や自然に根ざした作品の創作に力を注ぎました。幼いころからピアノやヴァイオリンを学び,また,作曲も独学で身につけたシベリウスは,ヘルシンキ音楽院で学んだのち,ベルリンとウィーンに留学しました。
 フィンランドの民族的な要素を素材としたシベリウスの作品は,ロシアの圧政に苦しんでいたフィンランド国民によって支持され,国民の英雄として尊敬を集めました。
   ・・・・・・
 シベリウスは晩年作品を発表せず「ヤルヴェンパーの沈黙」(the silence of Järvenpää)とよばれているのですが,「アイノラ」で世界中から流れてくる自分の音楽を大きなラジオで聴きながら過ごしたといいます。
 私がこの地を訪れたのは2019年8月のことだったので,ここもまた,1年遅かったら行くことができないところでした。

 シベリウスは日本では愛好者が多いのですが,アメリカなどではそれほどでもないようです。
 フィンランドは世界一幸せな国といわれていますが,実際はロシアと長い国境を接しているために苦悩の歴史を背負っていて,しかも,緯度が高いことから寒く暗く,そうしたことがこの音楽を深いものにしているわけです。私はその染み入るような音楽がずっと好みでした。
 しかし,フィンランド,そして,この「アイノラ」に行ってみて,逆に切なくなりすぎて,聴くのをためらうようになってしまいました。それは,シベリウスが嫌いになったとかいうことではなくて,その苦悩を感じてしまったということにあって,それまでとは異なって,決して安易に聴くことができなくなったことにあります。
 そんな気持ちとは別に,「アイノラ」はとてもすばらしいところでした。
 私はフィンランドというと,まず,この「アイノラ」を思い浮かべます。本当に行くことができてよかったと思います。

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 再放送ばかりのNHKBSPです。
 これもまた,いつごろの再放送でしょうか,昨年2021年9月上旬の早朝に「ヨーロッパ大横断・川の旅」という番組が放送されていました。オランダから9か国を巡って黒海まで,ライン川とドナウ川を豪華客船でクルーズするというものです。
 アメリカ資本の客船ということで,乗客は,アメリカ人のいかにも金持ちという年配の夫婦の人たちがほとんどでした。何でも「死ぬまでにやっておきたいことリスト」に入っているから参加したという話がインタビューされていたように,老後の楽しみ,のような人たちの船旅でした。
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 こうした船旅というのは贅沢な話で,私のような貧乏人には別世界のお話です。アメリカ人は,このヨーロッパの船旅のほかに,カリプ海やアラスカの船旅が「一度はやってみたいこと」のリストであるようです。
 船旅というのは,豪華客船に乗り込んで,連日,豪華な食事やショー,お昼間は甲板にあるプールで泳いだり,のんびりと景色をみたり,そして,名所になると船を停めて上陸するという,そんなツアーです。
 で,これを見ていて,私は思い出しました。

 2019年の夏,私はフィンランドのヘルシンキに旅をしました。はじめは予定になかったのですが,調べて行くうちに,フィンランドのヘルシンキからバルト海を渡ってエストニアのタリンまで往復,片道3時間の船旅ができることを知って,船旅を予約して楽しみました。私は,単なる船旅のつもりだったのですが,思い出したというのは,そのときに乗った客船がこの番組で出てきた豪華客船とほぼ同じだったということを,です。
 私は,そんな旅をする気持ちがあったわけでもなく,それは単に,タリンまで行く交通手段として選んだだけでした。だから,思っていたのは,日本の瀬戸内海フェリーとか,そういう類のものだったのです。
 しかし,私が乗ったのは,超豪華客船だったわけです。
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 船内には豪華なレストランもあったし,カジノもあったし,ショーもやっていたし,甲板に出れば,すばらしい景色を眺めることもできました。
 行きは,コンフォートクラスを選択して,ラウンジのようなところで過ごしました。そして,帰りはレストランで夕食を予約しておきました。その結果,期せずして,ものすごく豪華で贅沢な船旅が実現したのです。
 海外を旅行して感じるのは,こうした時間を楽しむという文化の違いです。コンサートホールひとつにしても,日本では,音楽を聴いた後にゆったりと食事を楽しむようなレストランすらなかったりしますし,列車でも,早く目的地につけばいい,とばかりに,今や,食堂車すらありません。学校や官公庁の建物もボロボロです。

 ヘルシンキとタリンを日帰りで往復することしか頭にありませんでしたが,後で考えると,こんな贅沢な船旅になったわけです。
 フィンランドとエストニアはユーロ圏内なので,別の国に行ったのに何の手続きも必要もなかったことも不思議といえは不思議だったし,単に船でバルト海を渡るつもりだったのに,実際は,憧れの豪華客船の旅を体験したのもまた,不思議なことでした。これもまた,本当にやっておいてよかったことです。今それをやろうと思ってもできないだけに,奇跡のようなものです。
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 このようなことのひとつひとつを思い出しても,一体私は,この数年で,どれだけ多くの奇跡のような旅をしたのでしょう。もし,次があるのなら,今度は,バルト海をスェーデンのコペンハーゲンやノルウェーのオスロまでの船旅を楽しんでみたいものです。

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 セントレア・中部国際空港からはヘルシンキまで直行便があります。そして,ヘルシンキからは電車で気軽に郊外の地方都市に行くことができます。ちょうど,名古屋から奈良や静岡,高山などに日帰り旅行をするような感じです。そしてまた,夏に行けばお昼間が長いので,十分な時間をとることができます。私は2度目の旅で,タンペレ,ナーンタリ,トゥルク,そして,シベリウスの故郷アイノアに行きましたが,どこもいい印象ばかりです。そのどの町も,また,出かけてみたいところです。
 このように,日本国内の,どこも混雑して蒸し暑い観光地に渋滞する高速道路を走ってでかけ,高価なホテルに泊まるくらいなら,ふらっとヘルシンキにでも出かけるほうが,ずっと快適なのです。このコロナ禍は別として,わずか9時間ほど飛行機に乗れば,名古屋からヘルシンキには行くことができるし,ヘルシンキからも郊外の美しい町にも鉄道で簡単に行くことができるし,そのどこも治安のよい落ち着いた美しいところなので,何の目的もなくふらっと訪ねるのはとてもよい国なのです。

 これまでに行ったフィンランドの感想を交えて書いてきましたが,結局,私の幻に終わったフィンランド旅行は,このように,単に時間つぶしに行こうと思っていただけでした。私が2度目にフィンランドに行ったとき,ヘルシンキの街中で出会った日本人の女性が「毎年来ています」と言ったのを聞いて,よほど魅力のあるところなのだなあ,と思ったのが強く印象に残っています。
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 今後,再び海外旅行ができるようになって,私は,この幻となった旅を実現することができる日が来るのでしょうか?


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 1年前に私が計画していたフィンランドの旅で,私は,夜がほとんどない夏のフィンランドを楽しもうと思っていたので,行くことができなかった今でも,夜がほとんどないということがどういうことなのか,想像がつきません。
 私は,それまで,2度フィンランドに行ったのですが,1度目は2月のロヴァニエミでした。これは冬だったので,午後3時には暗くなりました。オーロラを見るには夜が長いのでもってこいの季節ではありましたが,短いお昼間にどこかに出かけようと思っても,レンタカーを借りて雪の中を走る勇気もなく,バスを利用するとなると,よほどきちんとバスの時間を調べておかないと,待っている時間で凍えてしまうので,命の保証すら危うくなります。
 いつかこの季節に,ロヴァニエミよりさらに北に行ってみたいと思っているのですが,もしそれを実行を移すとなると,かなりの下調べが必要でしょう。
 2度目に出かけたのは8月の下旬だったので,とても快適でした。今年の猛暑は別として,私の行ったときは,もっと寒いのかと想像していたのですが,普通の夏服で,暑くもなく寒くもなく十分でした。8月下旬ともなると,夜が短いという印象はあまりありませんでしたが,それでも観光することができる時間が長く感じられて,結構遠出もできたので,楽しい旅となりました。

 夏の北極圏といえば,フィンランド以外に,私は,8月にアラスカとアイスランドに行ったことがあります。アラスカでは,夏とはいえ,オーロラも見ました。オーロラは冬しか見ることができないと思っている人もいますが,年中見られます。ただし,夜暗くならないと見られないから,冬の方が適しているというだけのことです。
 夏のアラスカでオーロラを見たことから,それに次いで,アイスランドでも同じように夏にオーロラを見ようと出かけてみたわけですが,夜になって日が暮れても,空がずっと明るいままだったのには落胆しました。考えてみればそれは当たり前で,日が沈んだとはいえ,太陽は地平線の下かなり浅いところを這いつくばるように動ているから,ずっと夜明け前のような状態だったわけです。
 それにしても不思議なのは,アラスカだってアイスランドと同じ状況であるのに,アラスカでは夜がすっかり暗かったことです。どうしてそうだったのか,その理由が私には今もってよくわかりませんん。
  ・・
 ということで,北極圏近くを旅するには,冬はかなりの計画性と工夫が必要になるのですがオーロラがよく見え,その一方,夏はオーロラはあまり期待できない代わりに,快適で,白夜の体験もできるというわけです。

 私は,夏はほとんど夜がなく,その反対に冬は夜ばかりのこの国に住む人たちがどんな生活をしてしているのかということに,行くことができなかった今になって,とても興味が湧いてきました。特に,夏は,ずっと明るいのに,長い夜を何をして送っているのでしょうか。それとも,昼が長いとか短いということは関係なく,いつも同じように規則正しく毎日生活しているのでしょうか?
 これはやはり,実際に行ってみて確かめてこなくては…。
 いつになったら,そんな旅ができるのでしょう。

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 フィンランドは,どこかに気ままに出かけて,1日をゆったりと過ごすのに適している国のようです。また,夏と冬とではまったく魅力が異なります。
 私は,結果として,冬のフィンランドと夏のフィンランド,そのどちらも経験することができました。そしてまた,幻になってしまいましたが,私が昨年の夏に再びフィンランドへ行こうと思ったのは,白夜というものを味わってみたかったということも理由のひとつでした。
 とはいえ,ヘルシンキは北極圏ではないので,一応,少しは太陽が沈みます。

 白夜を体験するために北極圏まで出かけるもっとも簡単な方法は,ヘルシンキから飛行機を利用することですが,それよりももさらに魅力的な方法は鉄道です。
 このころは,毎年フィンランドに行くことができると思っていたから,あえて,この旅で北極圏に行こうとは思っていませんでしたが,私の夢は鉄道でフィンランドを縦断することだったのです。
 鉄道でフィンランドを縦断する… とは,「サンタクロースエクスプレス」に乗ることです。
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 今日の写真は,その「サンタクロースエクスプレス」がヘルシンキの中央駅を出発するところです。「サンタクロースエクスプレス」午後11時13分ヘルシンキ中央駅発で,翌日の朝・午前10時51分,北極圏の町ロヴァニエミに到着します。
 この写真は2019年の夏に写したものですが,このときは乗らず,いや,乗れず,出発だけを見送りました。夏なら,ロヴァニエミの近郊で白夜を経験できるし,冬なら,夜明けのフィンランドの大雪原を車窓から眺めることができることでしょう。
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 私も見送るだけでなく,次に行くときは乗ってみようと夢見ていたのですが…。

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昨日2021年7月5日,フィンランド北極圏は熱波に覆われ,気温が30度を超える猛暑となりました。地球はどうなってしまったのでしょう。

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 森と湖の国フィンランドといわれますが,実際,飛行機が首都ヘルシンキに近づいて,着陸態勢に入って地上が眺められるようになると,眼下に見えるフィンランドの大地は森と湖ばかりです。
 フィンランドを舞台にした映画「かもめ食堂」で,主人公のサチエさんがフィンランドには何もないというと,フィンランド人の青年トンミ・ヒルトネンが
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 森がアリマス
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と応えるシーンがあります。
 このように,フィンランド人は自然豊かな森が誇りです。フィンランドの森は,それがだれの所有であれ,人は自由に行き来でき,キノコやベリーを見つけたらそれを摘んでもいいという「自然享受権」があります。


 そこで,フィンランドに行って,私がやりたかったもうひとつのことは,キノコ狩りでした。
 行先はヌークシオ国立公園です。「地球の歩き方」によると,ここはヘルシンキから最も近い国立公園で,面積は45平方キロメートル,ハイキングコースも整備されているということです。
 前回と前々回と2度フィンランドに行って,私は「地球の歩き方」に載っているフィンランドのそのほとんどは行ったのですが,その2度のフィンランド旅行で残ってしまったやりたいことは,このキノコ狩りと,そして,ヘルシンキからロヴァニエミまでの寝台特急「サンタクロースエクスプレス」に乗ることでした。そこで,このときの旅では,キノコ狩りを実現したいなあ,となんとなく考えていたわけです。
 実際は,細かい計画を立てる前に,コロナ禍で旅行はキャンセルしてしまったので,具体化することはなかったのですが,ヌークシオ国立公園に行くのは,結構大変なことです。ここは鉄道では行くことができなくて,バスの利用ということなのですが,そのバスが不便なのです。バスは本数は少なく,特に,帰りのバスに至っては,時刻表もないということが「地球の歩き方」には書かれてありました。
 私は,フィンランドのバスは,ロヴァニエミからサンタクロース村に行ったときと,ナーンタリからムーミンワールドに行ったとき,そして,ロヴァニエミの市街と空港の往復に利用したのですが,どれもそれなりに大変でした。本数が少ない上,バス停があったりなかったり,時刻表もなかったりと,観光地に行くにも大変なのに,ヌークシオ国立公園への往復なんて,できるのかいな? と思っていました。
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 今,これを書きながら思うことは,もし,実際に行くとなれば,レンタカーでも借りたほうが無難なような気がします。しかし,それでは旅の楽しみがなくなるなあ,などなど,複雑な気持ちもします。 
 しかし,それもまた,贅沢な悩みです。このご時世,おそらく,この先も,私は,フィンランドでキノコ狩りをすることは,もはやありますまい。


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 この旅は5泊7日の予定でしたが,特にどこに行ってみたいとか,何をしてみたいとか,そういったことは決めていませんでした。それは,その1年前にヘルシンキに行って,そのときに,行きたいと思っていたところはほぼすべて行ってしまっていたからでした。
 フィンランドはとてもすてきな国です。また,郊外に行くにも電車やバスを利用すると簡単に行くことができます。ということで,この旅の目的は,フィンランドまで行ってのんびりとしてこよう,その日の気分でやりたいことを決めようという感じでした。
 海外旅行に行くことができない今考えると,それはかなり贅沢な話であったわけですが,その当時は,もはや,行ってみたいというところもほとんどなくなっていて,それまでに行った場所の中でよかったところをリピートする,という気持ちになっていたわけです。
 この時点では予約はしていなかったのですが,2020年の秋には3度目のオーストリアのウィーンに行って,チェコまで足をのばそうと考えていました。

 話を戻します。
 それでも,ヘルシンキに5泊滞在するのだから,どこかで1日,日帰りでロシアのサンクトぺテルブルグに行ってみようなか,などとなんとなく思っていました。それは,この1年前にヘルシンキに行ってホテルで朝食を取っていたとき,レストランで一緒になった日本人観光客の人に,サンクトペテルブルグに行ってきたという話を聞いて,行ってみたいな,と思ったのがその理由でした。
 アメリカやオーストラリア,ニュージーランドなどとは違って,ヨーロッパで出会う日本人観光客は旅慣れている人が多く,行動力もすごく,うらやましくなります。
 ヘルシンキからサンクトぺテルブルグは意外と近いのですが,実際に行こうとすれば,結構手続きがたいへんなのです。しかし,1年前の旅でも,行く前にはそれほど思い入れもなかったエストニアにフェリーで行くことができたので,それと同じような気持ちでした。
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 私が聞いた話は,ヘルシンキからサンクトペテルブルグまで行く手段は,電車と船があって,船だとビザが不要だとか,電車だと国境を越える時点で検札があるとかいうことでした。また,ビザを入手するには,大阪のロシア領事館まで行く必要があるという話だったし,行くまでにそういった煩わしい手続きをクリアする必要があるのかなあ,とぼんやりと思っていました。結局,キャンセルになったので,そういった行動をすることもありませんでしたが,実際に行くと決めたら,そうしためんどうなことは嫌なので,現地ツアーにでも参加しようかな,と考えていました。
 しかし,本当にサンクトぺテルブルグに行きたいのなら,こんな中途半端な計画ではなく,直接ロシアに入国して何泊かすべきだろうと,今は思います。しかし,私には,サンクトペテルブルグにはそれほどの想いはないのです。


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 幻のオーストラリア旅行の次は,幻になったフィンラド旅行です。この旅は,今からちょうど1年前の今ごろに行くことにしていたものです。それにしても,1年経っても状況があまりよくなっていないのに失望します。来年こそ,行くことができるのでしょうか?
 今回もまた,行くことができなかったので,それまでに行ったときの写真とともに幻の旅行記を書くことにします。
  ・・
 購入したフィンランド航空の航空券は,行きが,セントレア・中部国際空港2020年6月24日水曜日午前10時30分発,ヘルシンキ・ヴァンター国際空港同日午後2時30分着,帰りはヘルシンキ・ヴァンター国際空港6月29日火曜日午後5時25分発,セントレア・中部国際空港6月30日水曜日午前8時45分着のものでした。出発前の3月31日にすべてキャンセルしました。
 これまでに書いた幻となったオーストラリア旅行は,航空券,ホテル代ともキャンセル料なしでしたが,カンガルー島のツアーのみ,キャンセルに伴う返金ができませんでした。このフィンランド旅行では,ヘルシンキで宿泊するホテルのみ,キャンセル不可のものを予約してしまったために,4泊の宿泊代が返金できませんでした。これまでも,私は,キャンセル不可のホテルを何度も予約して宿泊しましたが,まさか,こんなことが起きるとは思ってもいなかったため,失敗しました。まあ,仕方がないことです。

 このころ,フィンランド航空を利用すれば,名古屋からヨーロッパに行くのはすごく簡単でした。
 ヨーロッパに行くには,フィンランド航空のほかにも,中国の航空会社を利用することもできるらしく,このほうがずっと格安だそうですが,旅は快適さを旨とする私は興味がありません。
 フィンランド航空は私の知る限り最も快適な航空会社であり,私にはそれ以外の選択肢はありません。また,フィンランド航空は,ファーストクラスを利用しなくても,少しの金額を増額してエコノミーコンフォートにグレイドアップして,一番前の席を予約してしまえば,より快適に空の旅ができます。さらに,新しく導入されたエアバスA350 はさらに快適です。
 私が好んで使う航空会社は,アメリカのデルタ航空,オーストラリアのカンタス航空,そして,フィンランド航空ですが,中でも,一番のお気に入りはフィンランド航空です。再び海外に行くことができるようになったとき,同じ状況で旅行ができるのであれば,私は,また,こうしてフィンランド航空を利用してヨーロッパに出かけることになるでしょう。
 その日が来るのをこころ待ちにしています。


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フィンランド大聖堂地下のカフェをもって,今回のフィンランド旅行は終わりです。いつものことですが,来るまえは何があるのだろう,といった程度の想い入れでモチベーションも低くやってきたのですが,フィンランドはとてもすばらしいところでした。
このごろの旅はいつも思った以上にすばらしいものになります。それはおそらく,私がガイドブックに載っているような有名なところへ行かないからでしょう。おまけに,観光客が圧倒的に少ないというメリットもあります。
日本から一番近いヨーロッパということで,多くの人が直行便でヘルシンキにやってきます。しかし,そのほとんどはトランジット。空港だけ経由して,ある人はイタリアへ,また,フランスへと旅立っていきます。ヘルシンキで降りる人はとても少ないのです。それがまたいいのです。フィンランドは,もっと多くの人に降りてもらいたいらしいのですが,一旦降りた人はその魅力に取りつかれてリピーターになります。私は,多くの人にその魅力を知ってほしいと思う反面,今や世界中どこも観光客だらけでうんざりするので,フィンランドまで観光客であふれかえってほしくないなあ,という思いも強くあります。

帰りはヘルシンキ中央駅から電車で空港まで行くことにしました。来るときは空港から電車でヘルシンキ市内まで行ける,そんなことすら知りませんでした。わずか数日で,ずいぶん多くのことを知ったものです。
例のごとく,すでにオンラインでチェックインを済ませてあったし,キャリーバッグは機内に持ち込むので,カウンターを経由することもなく,そのままセキュリティを通って,空港に入ってラウンジに行きました。
ラウンジからはターミナルの様子がよく見えました。ヨーロッパの各地からトランジットでヘルシンキにやって来た多くの日本人の団体ツアー客でターミナルはあふれていました。
やがて,搭乗時間が来たのでゲートに行きました。どこぞやの空港のように,やれ,優先搭乗の順番だとか,そういううるさい放送も一切なく,ゲートに長い列が出来ることもなく,搭乗時間になったら,三々五々,機内に入って行きました。このことすら,まったくストレスがありませんでした。
帰りもまた,行きと同じエコノミーコンフォートの最前列で,行きと同じように隣の席は空いていて,快適な空の旅となりました。中央の座席には行きと同じ母娘がいました。

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ヘルシンキ大聖堂の地下にカフェがある,ということをフィンランドに来るまえに知りました。しかし,私はそのことをすっかり忘れていて,2日前に思い出したのです。しかし,もう時すでに遅し。昨日は早朝に出かけてムーミンワールドに行き帰りは夜だったので行くことができず,この旅では行く機会を逸したように思いました。ところが,この日の帰国便の出発が夕方だったので,午前中に行くことができることがわかり,念願がかなったのです。
前日の夜,カフェはすでに閉まっていましたが,場所を探ってみました。ところが,その,カフェというのがどこにあるのかわかりませんでした。目立った看板もないのです。やっと見つけたのは,地下ではなくヘルシンキ大聖堂のとなりにあったカフェを兼ねた土産物店でした。そこでコーヒーが飲めたので,ヘルシンキ大聖堂地下のカフェはここのことだろう,と思いました。
朝,昨日下見をした場所に来てみると,どうもそれは私の探していたヘルシンキ大聖堂の地下のカフェとは違うようでした。さらに歩いていると,別の看板がみつかりました。ヘルシンキ大聖堂の地下に行くには,大聖堂の裏側に行かなければならなかったのです。裏にまわってみると,入口が見つかりました。開店は午前11時ということでした。
…とまあ,ここまでは,昨日書いたとおりです。

時間をつぶしてヘルシンキ大聖堂に戻ってきたのは10時30分でした。まだ時間が早かったので,まず,昨日カフェと間違えた土産物店によってみました。やがて,11時に近くなったので,みやげ物店を出て,ともかく,ヘルシンキ大聖堂に入ってみました。大聖堂に入って左の通路にまわると,そこにも,カフェの入口がありました。外に出て,裏側にまわらなくても,大聖堂の中からも地下に行くことができるようでした。しかし,時間になっても,その入口が開くわけでもなく…。何も起きませんでした。
すると,別の女性の2人連れが扉を開けて,中に入って行きました。要するに,この入口はカフェが開店しても開けてもらえるのではなく,自分で開けて中に入るわけです。私も後から続いて扉を開けて中に入ると,その先にあったのはエレベータでした。そりゃそうです。カフェは地下にあるわけだから,降りなけれはなりません。
エレベータに乗って地下に降りました。そこにあったのは,カフェというよりも広い地下室,というか広間でした。想像していたようなカフェではなく,広い地下の空洞の一角を借りて,ボランティアの人たちがカフェを開いているのでした。
コーヒーとボランティアさんたちの手作りパンで合計3ユーロと安く,とても雰囲気のよいところでした。要するに,これは,カフェというより教会のバザーでした。こうして私は念願のヘルシンキ大聖堂の地下のカフェにも行くことができたのでした。

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旅の7日目。帰国の日になりました。帰国便は午後5時25分発と遅いので,夕方まで時間がありました。最終日も夕方まで観光ができることを考えただけでも,ヘルシンキの旅は楽です。
私が今回の旅でやり残したことといえば,ヘルシンキ大聖堂の地下のカフェに行くことでした。ヘルシンキ大聖堂の地下にカフェがあることを知ったのは,この旅に出発する少し前のことでしたが,うかつにもそのことをすっかり忘れていました。あきらめていたのですが,最終日に行く時間があることがわかり,ホッとしました。これで帰ってから後悔することもありません。
とはいえ,場所がわかりません。昨晩様子を見に来たのですが,朝,改めて来てみて,昨晩見つけたのは私が目指すカフェではありませんでした。気を取り直して探してみると,ヘルシンキ大聖堂の裏側に入口が見つかりました。確認すると,カフェの開店は午前11時でした。そこで,それまでの時間,ヘルシンキの市内を散策することにしました。

今日の1番目と2番目の写真はヘルシンキ大聖堂から少し南に下ったところにあるマーケット広場です。この海岸に面したさわやかな一帯に,ヘルシンキで規模も利用者も最大のマーケットがあります。結局,私はここで何も買いませんでした。というより,旅でまったくお土産を買いませんでしたが,見ているだけで楽しいところです。
このマーケット広場から北側,坂を登っていくとヘルシンキ大聖堂に至るのですが,マーケット広場を見てまわってもさらにまだ早かったので,次に,西に歩いて行くことにしました。
マーケット広場から西に広がるのがエスプラナーデ公園です。このエスプラナーデ公園の先にあるのがスウェーデン劇場。このスウェーデン劇場前からバスがいろんな方向に出ています。ヘルシンキに来たばかりの数日前には,ガイドブックに「バスはスウェーデン劇場の前から」と書かれていてもスウェーデン劇場がどこにあるのかさえ知らなかったのが懐かしい限りです。

このエスプラナーデ公園の北側の通りがポホヨイスエスプラナーデ通りで,その北側にブランド店が立ち並んでいて,ちょうど銀座のような感じです。それが今日の3番目から5番目の写真です。
この通りを北に行くと多くの路地があります。今日の6番目と7番目の写真のように,こうした路地には子供をベビーカーに乗せたお母さんが歩いているのに,よく出会います。この場所に限らず,ヘルシンキでよく目にするのがこうした子供を連れた母親の姿です。
幸福度世界一のこの国は,子どもを育てるにも国の補助が手厚いのです。幸福度世界58位のどこぞやの国のように,少子化が問題になっているにもかかわらず,妊婦さんが医者にかかると診察費が加算されるというような,そんな愚策とはフィンランドは無縁なのです。

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まだ夕方の4時過ぎでしたが,ヘルシンキに戻るまで3時間かかるので,ムーミンワールドから帰ることにしました。結局,滞在したのは4時間ほどでしたが,ムーミンワールドはそれで十分な大きさでした。ヘルシンキから遠いのだけが欠点でしたが,なかなかいいピクニックになりました。
しかし,そのおかげで,フィンランドの郊外に電車で行くことができたし,トゥルクやナーンタリという小さくて,きれいな町を知ることができました。なんといっても人が少ないのが最高でした。
おそらく9月になれば寒くなってしまうのでしょうが,私は,2月に北極圏のロヴァニエミに行ったことがあるので,フィンランドの冬というものもおおよそわかります。

ナーンタリのバス停でバスが来るのを待って,まずトゥルクへ戻りました。帰りは,トゥルクの長距離バスターミナルでバスを降りて,線路に沿って歩いて駅に着きました。ちょうどあと10分ほどでヘルシンキ行きの電車が出発するので,慌ててチケットを買いました。ホームには改札がなく,しかし,電車のチケットは車内では買えないので,大急ぎで駅で買う必要があります。また,10月からは現金で買えず,クレジットカードでしかチケットが買えなくなるそうです。
電車の座席は2階建ての2階席で景色がよく見えました。途中で車内販売もきました。乗って,2時間,ヘルシンキに戻りました。この日はちょっと贅沢な食事をと思ったのですが,入ったレストランで頼んだスープがなんとムール貝だらけで,まあ,どうでもよくなってしまって,それを夕食代わりにしました。
さあ,この旅も明日が最後。明日はフェリーでエストニアに行きます。

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ムーミンワールド(Muumimaailma)は,トーベヤンソンの ムーミンの本に基づいたテーマパークです。デニス・リブソン(Dennis Livson)によって設計され,ナーンタリの隣のカイロ島にあります。
私は,フィンランドに来たからにはムーミンワールド,ということではるばるやって来たのですが,昨日まで,ムーミンワードの夏の開園が今日までということすら知らず,ムーミンワールドの園内がどうなっているのかもまったく知りませんでした。昨日ホテルで朝食をとったときに話をした日本から来た母娘のふたり連れに,まったり感満載のいいところだったと聞いただけでした。
ともあれ,ムーミンワールドが紹介されている様々な写真に載っているのはムーミンハウスなので,ムーミンハウスを目指して進みました。園内は想像したより狭く,あっという間にムーミンハウスが見えてきました。多くの人がムーミンハウスの前にいて,そこには,ムーミントロールとムーミンパパの着ぐるみが写真のモデルになっていました。私も年がいもなく一緒に写真を撮って,そのあと,ムーミンハウスに入りました。
ブルーベリー色のムーミンハウスは5階建てで,中は想像以上に広く,手の込んださまざまな内装が作られていました。ムーミンハウスの周りには,ヘミューレンの家,ムーミンママのキッチン,消防署,スナフキンのキャンプ,ムーミンパパのボート,魔女のコテージがありました。 魔女の迷宮のあるトッフルの小道, ハッティファッテンの洞窟, グロッケの家などの多くのアクティビティと幻想的な小道があります。

ムーミンワールドは乗り物がないので,ディズニーランドのようなテーマパークではありません。それよりも,子どもたちが昔の日本の野山をかけて遊んだような,そんなことが自由にできる場所で,入園料以外にお金もかからず,とても落ち着く,フィンランドらしい公園でした。ディズニーランドのような,アメリカ的な金にモノを言わせたテーマパークとは違って,こうした遊びができるフィンランドの子供たちは本当に幸せだと思いました。
入口近くには屋根付きのムーミン劇場「エマ」があって,そこでの公演も自由に見ることができました。また,レストランや土産物店もあって,私はそこで昼食をとりました。
  ・・・・・・
ここであまり多くのことを書くよりも,写真をご覧ください。
また,ムーミンワールドの様子を知りたいと思ったら,埼玉県飯能市にあるムーミンバレーパークへ行くとわかると思います。ただし,日本のような人の多すぎる国で,フィンランドのムーミンワールドのようなまったり感を味わえるかどうかはわかりませんが。

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ついにナーンタリまでやってくることができました。ここは湘南海岸をもっと人を少なくしたようなところで,ムーミンワールドは江の島のような感じでしょうか。ともかく,ナーンタリの海岸沿いには多くのしゃれたカフェやレストランが並んでいて,とてもすばらしいところでした。ムーミンワールドはナーンタリの海に浮かぶ島をまるごと利用したテーマパークなので,結構長い橋を渡ると入口がありました。
この日の開園時間はお昼の12時,ヘルシンキから往復6時間もかけてはるばる行くようなところなのだろうか,という気持ちもありました。私は,特にムーミンに想い入れがあるわけでもなく,詳しいわけでもないのですが,せっかくフィンランドに来たからには,という一念でやってきました。そしてまた,この日がこの夏最後の開園日ということで,混雑を予想していたのですが,さすがフィンランド,人口が決定的に日本よりも少ないので,それは杞憂でした。

埼玉県にもムーミンバレーパークというのがあるそうです。ネットで調べた限り,フィンランドのムーミンワールドとほぼ同じような感じです。なので,ムーミンワールドがどういうところかと思う人は,日本のムーミンバレーパークに行ってみれはおおよそのことはわかるでしょう。
ただし,当然,アメリカのディズニーランドと日本のディズニーランドの雰囲気の違いと同じようなものが,このムーミンワールドにもあると思われます。で,やはり,本場というか,そうした高揚感は,本場でなければねえ…,と私は思うわけです。
しかし,そんなことよりも,日本では,どこも人多すぎだし,トイレにウォッシュレットはあってもペーパータオルすらないといったなんかを勘違いしたチグハグな日本的な「おもてなし」感,親切にしてやっているじゃないかでも本音はお金儲けという感じとでもいうか…,それが私にはなじめません。口コミなどには,海外に行ったことのない人がその逆のことを書いている場合が多いのですが,そうした日本人の,大人を子供扱いするそして過保護な社会の環境が私には居心地の悪さとなるのです。

入口にチケット売り場があって,事前に購入した人はすぐに入れましたが,私のような当日券を買う人のほうは列ができていました。周りは小さい子供を連れた家族連れがいたので,私は声をかけて,フィンランドの人の暮らしぶりを訪ねたりしていました。私が話していた人のひとりに,子どもが交換留学で日本に行っているという人がいたりして,話が弾みました。
そうこうするうちに私の順番になって,チケットを手に入れて,中に入ることができました。

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私がこの旅に来るまで,ムーミンワールドに行くことはあるまい,というか,できない,と思っていたのは,これまでにも書いたように,その場所がヘルシンキからあまりに不便なところにあるからでした。ヘルシンキから電車でトゥルクへ2時間,トゥルクからさらにバスでナーンタリへ1時間,そして,ナーンタリから徒歩で20分ほど,という場所です。おまけに,ナーンタリへ行くバスはトゥルクの駅前からではなく,トゥルクの街のなかのバス停から出ているということでした。
なんとかトゥルクまでやってきて,しかも,偶然トゥルクにあったシベリウス博物館を見学することもできました。さて次に目指すはナーンタリです。
シベリウス博物館を出てナーンタリ行きのバスが出ている停留所に向かいました。アウラ川にかかる橋を渡り,朝来た反対方向に歩いて行きました。
駅から東に600メートルほど行った場所に長距離バスターミナルがあります。また,駅から南に同じく600メートルほど行った場所にマーケット広場があります。このマーケット広場にナーンタリ行きのバス停があると私の持っていたガイドブックに書かれてありました。

私の行ったシベリウス博物館は駅の南東,ちょうどこの3か所を3頂点とする正方形の4番目の頂点の場所にあります。私は,橋を渡ったあと,西へマーケット広場に向かって歩きました。ところが,マーケット広場がありません。というか,その付近一帯が工事中でした。何が何だかわかりません。また,バス停はかたまっているのではなく,,道路沿いの歩道に点在していて,どのバスがどこへ行くバスの停留所なのかさっぱりわかりません。ナーンタリへ行くバスは6番か7番ということだったので,それだけを手がかりにバス停を探します。
日本人の感覚では,ムーミンワールドという世界的に有名な場所に行くのだから,大きな案内板があるように思うのですが,そんなもの,まったくありません。それは,昨年行ったロヴァニエミでサンタクロース村へ行ったときも同様でした。
さっぱり見当がつきません。歩いている人を探して聞いてみると,どうやら工事のためにバス停が移動してしまっているということで,地元の人さえ,要領を得ません。ここまで来て,ムーミンワールドに行けないのかなあ,とだんだん不安になってきました。歩いていると,やっとのことで7番のバスが停まっているのを見かけたので,運転手さんに聞くと,そのバスは反対方向へ行くバスだということで,私の行く方向のバスのバス停はその反対側,ではなく,もっとず~ッと向こうでした。なんとかバス停の位置がわかりました。運転手さんの行ったとおり歩いていくとやっとバス停が見つかりました。少し待っているとバスが来て,乗り込みました。このバスはクレジットカードが使えず,現金のみでした。

バスはもっと混んでいると思ったのですが,ムーミンワールドに行く人は私のほかに一組の母子だけだったようで,拍子抜けでした。
バスが出発しました。次のバス停に到着すると,日本人の若い女性のグループをはじめとして,多くの人が私の乗ったバスを待っていて,びっくりしました。そのバス停というのは,なんと駅から東に行ったところにあった長距離バスターミナルでした。それならそうとガイドブックに書いてあればいいのにと思いました。女性たちのひとりに,どうしてこのバス停がわかったのか聞いてみると,やはり,街の人に聞いたということでした。
やがて,混雑したバスはナーンタリに着きました。ここで降りて,さらに,ムーミンワールドまでナーンタリの街を歩きます。ナーンタリはこじんまりとしたすばらしく美しい街でした。広い公園があり,港には多くのヨットが停泊していました。ムーミンワールドの近くになると,広い駐車場があって,多くの家族連れが車で来ていました。どうやらこうしてバスで来るのは外国からの観光客,というより,どこにでも出没する中国人はおそらくムーミンを知らないのか皆無で,日本人ばかりのようでした。

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どうにかトゥルクの町までやってきました。ムーミンワールドに行くために寄っただけの町でしたが,ここには偶然シベリウス博物館がありました。私はムーミンよりもシベリウスの方がずっと興味があります。せっかく来たからには,ムーミン博物館に行く前にぜひ,シベリウス博物館に寄ってみようと思いました。
駅から南に歩くとアラウ川が流れていて,橋を越えたところにトゥルク大聖堂,そして,その向こうにシベリウス博物館があると地図にあったのですが,駅から結構歩いても橋に着きません。距離感がつかめないのです。途中で地図をみせながら通りすがりの人に聞いて,どうにか橋を越えました。
トゥルク大聖堂のあたりに結構多くの観光客がいました。私はトゥルクはムーミンワールドに行く中継点だと思っていたのですが,ムーミンワールドが目的ではなく,このトゥルクの町自体が観光地であることを知りました。確かに美しい町,そして,見どころの多い町でした。
教会を越えてしばらく歩くと,シベリウス博物館がありました。シベリウス博物館の開館は11時からで,まだ少し時間が早く,入口ではスタッフが開館の準備をしていました。やがて時間になったので,中に入りました。それにしても,どうしてこの町にシベリウスの博物館があるのかが謎でした。特にシベリウスがこの町にゆかりがあるとも思えなかったのです。
シベリウス博物館(Sibelius-museo)は作曲家ジャン・シベリウスにちなんで名づけられたフィンランドで音楽を専門とする唯一の博物館です。この博物館は,シベリウスに関した展示だけでなく,というよりも,むしろ,シベリウスに関した展示が付属した,世界中から集められた歴史的楽器や楽譜,原稿,録音,写真,コンサートプログラム等,音楽に関する貴重な資料が展示されている音楽博物館でした。そして,建物の奥まったセクションがシベリウスに関するさまざまな資料を展示したコーナーになっていました。

シベリウス博物館の起こりは1920年代に設置されたオーボ・アカデミー大学音楽学部のセミナーでした。現在の建物は建築家のヴォルデマル・ベックマンの設計で,1968年に完成したものです。
シベリウス博物館の建設地は,もともとはトゥルク・ロイヤル・アカデミーの植物園でしたが,1827年のトゥルク大火で焼失してしまいました。 1923年,植物園の土地はオーボ・アカデミー大学へと寄付され,1930年代には植物園を元の状態に復元しようという試みが行われたのですが,その試みは途絶え,園は荒廃してしまいました。
オットー・アンデションが創設間もないオーボ・アカデミー大学の音楽学・民謡学部の教授職に任用された1926年ごろより,のちにこの音楽博物館に収納される資料が集めらはじめて,可能な限り規模の大きな蔵書を備える音楽学部のセミナーを作り上げようということになりました。しかし,1949年以前には博物館には正式な名前がなく,単に「オーボ・アカデミー大学の歴史的音楽コレクション」として知られるようになりました。
ここで1940年代の後半に作曲家のジャン・シベリウスに関する展覧会が開催され,楽譜から書簡,草稿に至るまで様々な品物が展示されました。報道陣が展覧会を「シベリウス博物館」と誤って呼んだことにより,アンデションと大学の楽長であったローセンクヴィストの間で論争が生じ,展示会に関するこれ以上の混乱を避けるためにアンデションはシベリウスに手紙を出し,公式に彼の名前を使用したいと正式な許可を願い出ました。シベリウスはこの申し出を「多大な喜びをもって同意」し,シベリウス博物館となったのです。
博物館ははじめ,現在レストランが営業している場所にあったのですが,この建物で運営を続けるのは難しいことがわかり,博物館専用の建物の建設が望まれるようになりました。1960年代に入って建築家のヴォルデマル・ベックマンがオーボ・アカデミー大学の博物館用建屋の設計を任されることになって,1966年の秋に最終案が完成し,建物は1968年に落成しました。

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5日目の朝を迎えました。今日は,昨日までどうしようかと迷っていたムーミンワールドに行くことにしました。
実は,昨日,朝食を食べていたときに,居合わせた日本人旅行者の母娘連れに,明日ムーミンワールドに行こうと思っているという話をしたら,私たちは昨日行ってきたけれど,まったりしたいいところだったと言われました。私はまったく知らなかったのですが,ムーミンワールドはこの日が今シーズンの最終日なんだそうです。今回もまた,ものすごくツイていました。
ムーミンワールドはヘルシンキからかなり遠く,片道3時間ほどします。ヘルシンキからの日帰りツアーというものがあるので,よほどそれに参加しようと思ったのですが,それは料金が約3万円もします。しかし,自力で行くことができなければ,それでもツアーに参加するしかなさそうです。自力で行くにも,往復6時間,そんな時間をかけてまで行く価値があるのかしら,とも思いましたが,やはり,フィンランドといえばムーミン,あとで後悔したくないので,行ってみることにしました。この日の開園時間はお昼の12時ということなので,朝8時くらいにホテルを出ても十分大丈夫そうでした。
問題はどのくらい混雑しているか,ということでしたが,これは杞憂でした。どうしても日本のテーマパークを想像してしまいますが,そもそも,絶対的にフィンランドは人口が少ないのです。

この日は日曜日で,朝食の時間がいつもより1時間遅かったのですが,今日は朝8時の出発なので,問題ありませんでした。この旅はこのように,何事もツイていました。そんなわけで,早朝時間ができたので,朝食前にホテルを出て,ホテルの北側にあるカイサニエミ植物園の周りを散歩しました。残念なことに,ホテルに近いのに,ついにこの植物園に行くことはできませんでした。それは,私は勘違いしていて,昨日行こうとして,入口がわからなかったのです。この植物園の入口はホテルとは正反対側にあったのをこの朝知ったのですが,開園まえでした。
ホテルに戻って朝食をとりました。幸いにも,この日も快晴でした。この旅では3日目だけが雨でしたが,それ以外は天気に恵まれました。
朝食を終えて,駅に向かいました。ムーミンワールドがあるのはナーンタリという港町ですが,ナーンタリは,ヘルシンキからまずトゥルクという町まで電車で2時間ほど行って,そこからさらにバスに乗って1時間かけて行くという,不便な場所にあるのです。
ヘルシンキ8時37分トゥルク行きに乗りました。トゥルクはタンペレへ行ったときとは違ってインターシティ(特急)で,座席に着くと検札が来ました。名古屋から長野へ在来線の特急で行くようなものです。2時間ほどヘルシンキから西に向かって走って,トゥルクに到着しました。トゥルクは大きな町でした。

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タンペレからの帰り,駅のベンチで電車を待っていると,隣に日本語を勉強しているフィンランド人の若い男性がいました。話しかけると,日本語は難しいから挑戦しているのだとか。彼の持っていた本から,外国人の日本語能力検定というものがあるということを知りました。日本で行われている英語検定のようなものでしょう。1級から5級まであって,彼が持っていたのは3級でした。
私は漢字に書き順というものがあるとか,日本人でも,というか,私は,漢字は読めるけど意外と書けないものだとか,そういうたわいもない話をしました。
やがて電車が来たので彼と別れて,ヘルシンキに戻りました。

ヘルシンキに着いて,駅のあたりで何か夕食を食べようとレストランを探しました。
ヘルシンキにもマクドナルドも日本食のレストランもありますが,アメリカを旅行しているのとは違って,この国ではそうしたものを食べたいと思わないのも不思議なことですが,おそらく,それ以外の選択肢がたくさんあるからでしょう。
フィンランドといえば有名なロバーツコーヒーというチェーン店がありますが,今回の旅では入る機会がありませんでした。次回来るときは,それはおそらく遠い将来ではないでしょうが,ぜひロバーツコーヒーでシナモンロールを食べたいものだと思いました。
ロバーツコーヒーの創業者はロバート・パウリグという人です。7代前の先祖であるビュールストロムはフィンランドで初めてコーヒーを焙煎した人物で,ヘルシンキの市長も務めました。
ロバートの祖父にあたるエドワード・パウリグは「ニッセン」というコーヒーショップを100店舗以上経営し「フィンランドのコーヒー王」と呼ばれました。ロバート・パウリグは祖父のもとで修行を積み,ブラジルでコーヒーに関する基礎を身につけました。アメリカを旅していたロバート・パウリグはアメリカのカフェ文化に感銘を受けてフィンランドでカフェをはじめることを決意し,1987年にヘルシンキの海沿いにある「ヴァンハ・サタマ」でロバーツコーヒーの1号店をオープンさせました。現在は日本にも数店舗進出しています。
この晩は,駅の近くのカフェジャバという名のカフェに入って,写真のようなサラダとコーヒーの夕食にしました。フィンランドではこれが一番です。
こうして私のフィンランド旅行の4日目が終わりました。

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昼食を終えて,ムーミン美術館に向かいました。
ムーミン美術館は,タンペレホールという大きな建物のなかにあるようでした。タンペレホールというのは,タンペレの中心にあるソルサプイストの南端に位置する北欧諸国で最大のコンサートおよび会議センターで,タンペレホールの向かいにはタンペレ大学の本館があり,タンペレ駅からわずか0.5キロメートルの距離にあって,このホールのメインの講堂の収容人数は1,756席あります。
ムーミン美術館のきっかけは,トーベ・ヤンソンのムーミン作品や原画が,1986年タンペレ美術館に寄贈されたことに遡ります。コレクションはタンペレ美術館ムーミン谷博物館で1987年から2016年まで展示されていましたが,とても小さくて,来た人をがっかりさせていたようです。 で,どこかに大きな美術館を,という話があったそうですが,なかなか適当なところがなかったそうで,それが,このタンペレホールが作られるということで,この場所に移動することができた,というはなしでした。
そんなわけで,オープンしたのが2017年6月。つまり,まだ2年目を迎えたばかりで,ここでも私はツイていました。 
フィンランドに興味を持ち,はるばるやってきても,シベリウスに関する「アイノラ」や博物館が休館だった,とか,ムーミンワールドがお休みだった,そういう人が少なくないのです。私は,そういうことも調べないでのこのことやってきて,昨年の冬にはロヴァニエミでオーロラを目撃し,今回は,見たい,行きたいという場所にはすべて行くことができました。このムーミン美術館は,数年前に興味を持っていたら来ることすらできなかったわけです。
おまけに,フィンランドにはムーミン美術館とムーミンワールドがあるという,その区別もしらず,当然,ムーミン美術館が何を展示されているのかもわからず,という程度でした。これでは,ムーミンが大好き,でもフィンランドに行きたくても行けない,という人には怒られてしまいます。

入口を入ると,チケット売り場ではムーミン美術館に入るチケットを買う人でごった返していました。チケットを購入するのは並ぶのではなく,チケットを購入する順番の番号の書かれた紙を機械で発券して,自分の番号が来るのを待つ,というシステムでした。ここはムーミン美術館のチケットだけでなく,この日は別の展示室で行われていて,この日が最終日だというアンディ・ウォーホール展を見に来た人が多いらしく,それで混雑してるということでした。私はアメリカピッツバーグのアンディ・ウォーホール美術館に行ったことがあるので,なにもフィンランドで見ることもなかったので,特に関心もなかったのですが,外国に来てこういうものに出会うと不思議な気がします。この数か月前にもオーストラリアのブリスベンの科学博物館でアメリカのロケット開発に関する企画展をやっていて,そんなものはアメリカで嫌になるほどホンモノを見たことがあるなあ,と思ったばかりです。
この,世界でひとつのムーミン美術館は,ムーミン本や挿絵でおなじみの人生の知恵,ユーモア,元気いっぱいの冒険心,人の温もりや友情など,世界中のムーミンファンたちに語られている世界を体感することができる,というのがウリでした。
ムーミンの作者トーベ・ヤンソンが手がけたムーミンの物語を,洪水や夏まつりの水上劇場,灯台の島の謎,十一月のムーミン一家失踪ミステリーなど,12冊のムーミン本のとおりに作られたミニチュアの模型とともに見ることができるようになっていました。説明員のなかに日本人の女性がいて,いろんな話を聞くことができました。

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タンペレの町は南北にタンメルコスキ川が通っていて,というよりも,実際はその川が陸地を分断していて,その西側に「◁」形で陸地,というより,実際は川で分断されているのだから,「島」があって,周りが湖で囲まれています。そして,川の東側に南北で鉄道が走っています。
私は朝鉄道の駅を降りて,西に向かって「◁」の南側を歩いてその先端にあるビューニッキ展望台まで行きました。そして,今度は「◁」の北側を歩いて,川まで戻ってきました。
川のほとりにあったのが,旧フィンレイン工場です。この赤レンガで作られた工場は,ジェームズ・フィンレインが1820年に作った綿織物の工場で,1990年に移転しました。今はその跡地が,レストランや映画館,労働者博物館,パブなどになっていて,ここに住む人のショッピングモールのようになっていて,けっこうな賑わいをみせていました。
私も歩いてみましたが,このような場所はどこの国にもあるので,特に興味もわきませんでした。とにかく,日本も外国も,都会というのはどこもそう違いがなく,そこに住む人には便利なショッピング街ですが,観光客にはつまらない場所と化してしまいました。ニューヨークの五番街へ行って,ユニクロに入ってみたところで,売っているものは同じです。

どこかで昼食でも,と思ってそのまま川に沿って駅のほうに歩いて行きました。川を渡って駅を越えると,今日の本来の目的地であるムーミン美術館にたどり着くので,その途中で,というわけでした。
駅前は,日本の中都市の駅前とそう違うものではなかったのですが,そこに一軒の感じのよさげなカフェがありました。そのカフェの雰囲気がとてもよかったので,中に入ることにしました。そして,サラダとコーヒーを注文しました。
このごろ,私はアメリカだけでなく,さまざまな場所を旅行するようになって,ヨーロッパやオセアニアはこうしたカジュアルなすてきなカフェがどこにでもあって,気楽に食事を楽しめることを実感するようになりました。その逆に,こうした気の利いたカフェがないのは,日本とアメリカだと思うようにもなりました。日本は,個人営業の店は高級店で,それ以外はチェーン店ばかりです。あるいは,どこも混雑していて,気が休まりりません。アメリカもまた同様だし,アメリカはチップがいるので,私は,アメリカに行くときはバーガーチェーン店ばかりを利用しているし,日本では,ひとりで入るのは,マクドナルドと吉野家とココ壱番屋ばかりになってしまいました。

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ビューニッキ展望台をあとにして,タンペレの市街にもどりました。この街は,いかにもフィンランドの「森と湖の国」にふさわしいところでした。このあとは街中にある多くの見どころを順に周って,最後にムーミン美術館に行くことにしました。
そこで,まず向かったのがレーニン博物館でした。
私はロシア(ソビエト連邦)の歴史をほとんど知りません。知っていることとはスターリンの粛清でショスタコービッチなどの作曲家が苦労したことくらいです。
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ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин)はロシアの革命家です。ロシア社会民主労働党(=ボリシェヴィキ,のちにロシア共産党と改名)の指導者として活動し,十月革命を成功させ,革命政府の人民委員会議議長として史上初の社会主義国家であるソビエト連邦の初代指導者を務めました。その次の指導者がスターリンです。ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин)はソビエト連邦の第2代最高指導者で,1930年代の大粛清(Большой террор)とよばれる大規模な政治弾圧を行いました。
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レーニン博物館は,フィンランドとソ連の和睦の証として1946年に設立された博物館で,労働会館の3階のフロアにありました。労働会館のビルの入口を入ると,ホールのようなものがあって,この日は何も催しがなかったので,閑散としていて,上に博物館があるとも思えない感じでしたが,ためらいながら階段を昇っていくと,博物館の入口に着きました。
入館料を払って中に入りました。けっこう多くの入場者がいました。この博物館は,ロシア革命からペレストロイカまで,ロシア(ソビエト連邦)の歴史が細かく展示されていましたが,私には勉強不足でよく理解できない博物館でもありました。

次に行ったのがアムリ労働住宅博物館でした。ここは1880年代から1970年代までの労働者たちが住んでいた住宅を(おそらく)移築して保存,公開してある博物館でした。あまざまな年代の多くの住居が一か所に集められていて,それらの中に入ることができます。そして,当時住んでいた人の名前や職業がこと細かく書かれてあって,フィンランドの人々の生活の歴史がとてもよくわかりました。
日本でも古い時代の住居跡が博物館となっているところがありますが,こうして,さまざまな時代の住居が一か所にまとめられているというのは,私はしりません。
私にはなかなか興味深いところでした。どの国も,こうした人々の歴史があって,今の便利な生活があるのだなあ,としみじみと思いました。ここはゆっくり見る価値がありました。

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タンペレはヘルシンキの北,約150キロメートルに位置する湖の半島にあたる場所に開けた町です。フィンランド第2の都市で,歴史ある建物が多く,多くの観光客でにぎわう町でした。とはいえ,ごったがえずほどではなく,ほどよく快適に観光をすることができるところでした。
それにしても,この程度の町がフィンランド第2の都市,というのですから,フィンランドというのは,本当にすてきな国です。ここタンペレは住んでみたいと思うようなところでもありました。
この日は,街歩きの最後にムーミン美術館に行くことにして,そのまえに,タンペレの見どころをすべて順番に訪れることにしました。この街もまた徒歩で十分に歩き回ることができるくらいの広さでした。

マーケットホールからさらに西に,半島の先端が高台となっていて,ここにビューニッキ展望台というのがあるそうなので,行ってみることにしました。その途中に日本料理店があって,ちょっとびっくりしました。展望台までは結構遠く,途中で道に迷いながら,なんとか到着することができました。
展望台はかなり古びた建物でした。まず,エレベータに乗って展望台に登ることにしました。エレベータもかなりの年代ものでした。展望台について,エレベータを降りて,外に出ました。ここは湖に囲まれた半島の先端に位置していて,東側にタンベレの市街地が見える以外はすべて湖。とても美しい景色を見ることができました。
この町の北に公園があって,そこには新しい展望台があるので,この展望台は高さにしても完全に負けているのですが,それでも,この街にはるばるやってきたら,ぜったいこちらのほうがお勧めです。
展望台を降りると1階にカフェがありました。なんでもこのカフェのドーナッツは有名で,フィンランドで一番おいしいという評判だそうです。であれば,これは食するしかありません。
私はドーナッツとコーヒーを頼みました。実際,ここのドーナッツはものすごくおいしくて評判どおりでした。これを食べるだけでも,タンペレを訪れる価値があるというものです。

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ホテルに3泊して,4日目となりました。海外に出かける多くの旅では,到着は夕方になるので,3泊しても観光できるのは2日ということが多いのですが,ヘルシンキは到着した日の午後から行動できたので,すでに3日たっぷり観光をしました。そしてまた,なんと3日で10万歩も歩きました。
昨日は,列車に乗ったので,ヘルシンキから郊外に遠出することにも抵抗がなくなりました。今回の旅では,こうして,1日1日,次第に遠くに出かけることができるようになってきました。しかし,それでも,さすがに,まだ,ヘルシンキから列車とバスを乗り継いで4時間近くもかかるムーミンワールドに行こうとは思っていませんでしたが…(結局行くことができました)。そこで,今日は,せめてと思って,列車で2時間ちょっとのタンペレという町にあるムーミン美術館まで行ってみることにしました。

昨日同様,駅に行って,まずチケットを購入しました。やがて指定された列車が来たので乗り込みました。
私はこれまでずっとアメリカを車で旅行していたので,海外で列車に乗って旅をすることはほとんどありませんでした。ヨーロッパには,若いころ一度だけ行ったフランスでTGVに乗ったっきりでした。でありながら,なんとなく,歳をとったら車でアメリカを旅することを卒業して,ヨーロッパを列車で旅したいものだと思っていたのですが,どうやらそれがかなってきました。昨年行ったオーストリアでも,ウィーンからザルツブルグまでの列車の旅をしましたが,なかなか快適でした。海外では,車中から外の風景を見て,そこに住んでいる人を想像するだけで楽しいのです。
今回の旅でも,ヘルシンキから郊外へ行く列車に乗るのもまた,それと同様にとても興味のあるものでした。フィンランドの郊外の風景を見ていると,ほんとうにいい国だということを再認識しました。列車の旅はとてもすばらしいものでした。
やがて,タンペレの町に到着しました。

タンペレには,駅の東出口を出て,線路沿いに南に少し行ったところにムーミン美術館があるのですが,この日は土曜日,平日は9時に開館するムーミン美術館は週末は11時の開館ということだったので,美術館が開館するまで市内観光です。そこで,駅の西口を出て,まず,タンペレの町を歩くことにしました。この日は1日かけて,タンペレを堪能する予定でした。
まず向かったのが,朝早くからやっているというタンペレ・マーケットホールでした。駅を出ると,駅前のメインストリートは工事中でした。工事を何となく見ていると,どうやらトラムの線路を牽いているようでした。この時期に市電を設置するというもの,日本と違ってなかなかのものです。フィンランドという国は日本とは比べものにならないくらいハイテクな国ですが,駅といい,公共交通機関といい,そうしたものの外観は30年前の日本を思い出すようなところがあって,とても落ち着きます。
朝は寒く,半袖の私は少し心配になりましたが,次第に気温が上がったので,これで十分でした。
やがて,タンペレ・マーケットホールに到着しました。お土産を買わない私は,時間的にカフェに入るのも中途半端な時間だったので,ぶらりとウィンドウショッピングをしました。このマーケットホールのとなりに,日本の今風のマーケット,というかデパートがあったのが意外でした。これではおそらく,このマーケットも潰れてしまうのではないかなあと思ったことでした。

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私はヘルシンキカードというものを持ってヘルシンキの観光をしていましたが,このカードは市バス,トラム,メトロなどが乗り放題になるばかりでなく,博物館や美術館などにも無料で入ることができてとても便利でした。ヘルシンキカードには24時間,48時間,72時間のものがあるのですが,値段があまり違わないので,最大の72時間のものを購入して,有効に利用しました。
ヘルシンキ市内では「Hop On Hop Off」という2階建ての観光バスが走っていて,これも乗り放題だということを私ははじめ気づかなかったのですが,ガイドブックを見直してそれを知ったので,機会があれば利用しようと思っていました。
ちょうどヘルシンキ大聖堂の前の広場にこのバスが停まっていたので,大した距離でもないのですが,最後にこれに乗って中央駅まで行ってホテルに戻ろうと思いました。そこで,停まっていたバスに乗ろうと,ヘルシンキカードを見せて,これで乗れるかと聞いたのですが,私の聞き方が悪かったのか,このカードで無料でのれる湾岸クルーズの乗り場はこの近くのマーケット広場のところで黄色いのぼりが立っているからすぐわかると言われました。

なんだかよくわからなかったのですが,ともかく,湾岸クルーズに無料で乗れるなんて思ってもみなかったので,行ってみることにしました。急いでマーケット広場に行ってみると,確かに黄色いのぼりが目立っていました。しかも,クルーズ船はちょうど出発間際でした。ということで,偶然,なんと1時間30分もの湾岸クルーズ「Sightseeing by Boat」というものに乗ることができました。
この船には,1階の船室と2階の観望席がありました。実はこのあと雨になるという天気予報を私は知っていて,確かにすでに雲行きがおかしくなっていました。乗り込んだ人たちはみな観望デッキに急いだのですが,私は雨になるとわかっていたので,1階の客席の窓側に座りました。船は予想以上に遠くまでクルーズをしていきました。私の予想通り途中で大雨になって,デッキにいた人が大挙して客席に避難してきました。
ずっと雨だったので,船室から出ることができませんでしが,船室の窓からも,ヘルシンキ湾が十分に堪能できました。このクルーズ最大の見せ場が船の幅ぎりぎりの運河を通るときで,船が脇をこすりながらすり抜けていきました。

クルーズは乗り甲斐があって非常にお得でした。
今回のフィンランドの旅は6泊8日でしたが,天気が悪かったのはこの日だけ,しかも,朝方の大雨とこのあとに降ってきた雨だけで,幸いお昼間は大丈夫だったので,シベリウスの住んでいた家「アイノラ」まで遠出することができました。残念なことに,この湾岸クルーズは雨になってしまいましたが,まあ,このクルーズはおまけだったということで,やむをないことでした。
船を降りたときは雨はすでにやんでいました。ヘルシンキでは雨になっても,日本と違って,1日中降るというようなことはないそうです。港からホテルまでは,結局歩いて戻ることになりました。ついに,「Hop On Hop Off」バスに乗る機会はありませんでした。今日もまた,ホテルの近くのモールの食べ放題で夕食を済ませました。

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行った場所に住んでいる人の生活を知るには,マーケットに行くのが一番です。というわけで,私は,旅行をするとマーケットに行ってみることにしています。料理もしないので,何も買わないのですが,見て歩いているだけで楽しいものです。マーケットに行ってみると,生きるのに一番必要な知恵は調理ができることだと痛感します。
私が学生時代は,男子は家庭科すらなく,本当にどうしようもない時代でした。という言い訳はさておいて,とにかく若いころに身につけなくてはならない最も大切なことは,食べる手段を身につけることとコミュニケーション能力だと,歳をとって実感するようになりました。

ヘルシンキでマーケットといえば,まずはマーケット広場です。大統領官邸の真ん前にこうしたマーケットがあるというものすてきなことです。マーケット広場のほかにも,さまざまなマーケットがあるので,トラムに乗って行ってみることにしました。
まず行ったのがハカニエミ・マーケットホールでしたが,ここは現在改装中だったのが残念でした。とはいえ,改装中の建物の前の広場に臨時のプレハブ小屋が作られていて,そこで営業をしていました。このなかに,老舗の肉屋さん「レイニン・ニーハ」がありました。感じのよい女性の店員さんがいて,目が合ったので,日本で映画に出てきたお店ですよね,と話しかけたら笑っていました。
次に行ったのが,ヒエタラハティ・マーケットホールでした。ここは,行った時間が悪かったのか,閑散としていました。
そして最後に,オールド・マーケットホールに行きました。ここは改装が終わったばかりで,充実した店内に多くの店がありました。食事をするには時間が中途半場だったのが残念でした。
いずれにしても,ヘルシンキはさすがに野菜は小ぶりのものが多いのですが,魚や肉はいろんな種類のものがたくさんあって,行ってみた甲斐があったというものでした。

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今日はシベリウスの生涯について書きます。
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1865年シベリウス(Johan Julius Christian Sibelius)は医師クリスティアン・グスタフ・シベリウス(Christian Gustaf Sibelius)を父,マリア・カルロッタ・シベリウス(Maria Charlotta Sibelius),旧姓ボーリ(Borg)を母としてハメーンリンナ(Hämeenlinna)に生まれました。高校卒業後,ヘルシンキ大学に進学して法学を学びはじめましたが,音楽への興味の方が圧倒的に大きかったのでヘルシンキ音楽院(現在のシベリウス音楽院)に転入,在学中の1888年当時17歳のアイノと恋に落ち4年後に結婚しました。
1892年「クレルヴォ交響曲」(the choral symphony ”Kullervo””)をきっかけとしてシベリウスは管弦楽に意識を向けるようになり,本格的に作曲家の道を歩みはじめ,1899年交響曲第1番を作曲,初演で各方面から好評を博しました。このときの公演プログラムでは,少年と男声合唱のための「アテネ人の歌」(Song of the Athenians)も演奏され,この曲の最後「フィンランドは目覚める」(Finland Awakens)がとりわけ高い人気を獲得したのですが,これがのちに広く知られる「フィンランディア」(Finlandia)です。

1901年から1902年にかけて作曲された交響曲第2番はフィンランドの人々の間に熱狂の渦を巻き起こしました。交響曲の完成後,シベリウスはトゥースラ湖(Lake Tuusula)のほとりに「アイノラ」(Ainola=Aino's Place)と名づけた邸宅を建築し,移り住みました。しかし,1907年のはじめごろからシベリウスは暴飲暴食に耽るようになり,この生活習慣がアイノの健康状態に深刻な影響を与えることとなって,療養施設への入居に至らしめてしまいました。妻が不在の間にシベリウスは禁酒を決意し,交響曲第3番の作曲へと意識を集中させることになりましたが,完成した交響曲は否定的な論評を浴びることとなってしまいました。また,喉の癌の疑いにより大きな手術を受けましたが,この手術が成功したことにより,再びシベリウスとアイノは自宅での幸福を新たなものにすることができました。
1910年のはじめに着手した交響曲第4番は,その内省的な作風があまり前向きに評価されず、賛否両論を巻き起こすことになりました。1915年には交響曲第5番,続いて1919年の暮れには交響曲第6番を作曲し,ともに初演で称賛されました。さらに,1924年のはじめには交響曲第7番が完成,公開演奏は好評を博し,ダンネブロ勲章のナイトに叙される栄誉に与りました。

しかし,交響曲第7番を最後に,シベリウスの創作活動は急激に落ち込み,残りの生涯で規模の大きな楽曲はわずかしか生み出すことはありませんでした。残りの30年の人生をシベリウスは音楽について公に語ることすら避けながら過ごすようになりました。 これが「ヤルヴェンパーの沈黙」(the Silence of Järvenpää)とよばれるもので,シベリウスの存在は神話のようなものとなっていったのです。
1955年,90歳の誕生日を迎えたシベリウスは盛大に祝われたのですが,その2年後の1957年,アイノラにて91年の生涯を閉じました。シベリウスは国葬によって葬られ,アイノラの庭へ埋葬されました。アイノ・シベリウスはその後の12年間を同じ家で暮らし,1969年97歳で夫の後を追いました。彼女も夫の側に眠っています。
1972年,存命のシベリウスの娘たちがアイノラをフィンランド政府へと売却,それ以降アイノアは博物館として公開されているのです。

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フィンランドが独立の機運に湧き始めた19世紀後半から20世紀半ばに,祖国フィンランドの自然や伝承神話などをモチーフに美しく神秘的な作品を数多く残したのが作曲家ジャン・シベリウス(Jean Sibelius)ですが,シベリウスが妻アイノ(Aino Sibelius)とともに30代後半から死去するまで住み続けていた自邸が,妻の名前にちなんでつけられた「アイノラ」(Ainora)です。
1904年,その当時創作活動が停滞し精神的に追い詰められていたシベリウスを救うため,妻のアイノはヘルシンキから郊外への移住をシベリウスに提案し,ヘルシンキから北へ30キロメートルほど離れたヤルヴェンパー(Järvenpää)という美しい田舎町に5千平方メートルの土地を購入し,丸太造りの2階建ての家屋を建てて移住しました。この家の家具や棚,階段,サウナ小屋などの設計は,建築を勉強していた妻アイノが行いました。また,ピアノの置かれたリビングには,親友であった芸術仲間ガッレン・カッレラによる肖像画や風景画などが掛けられ,イタリア製のシャンデリアやオランダ製の暖炉なども設置されました。

現在,シベリウスが暮らしていた自邸はそのまま保管されていて,毎年夏にのみ公開されています。冬のフィンランドもオーロラなど魅力的ですが,ムーミンワールドをはじめとして,夏でなければ訪れることができないところも多いのです。
敷地内の入口に小さな建物がありました。そこがカフェを併設したミュージアムショップで,そこにまず立ち寄りって入場料を払いました。カフェでは女性がひとり食事をしていました。
広い敷地に出ました。そこには美しい花の咲く庭園があって,私が訪れたとき,ちょうど1組の日本人の家族連れが来ていましたが,それ以外には誰もおらず,静かで落ち着く場所でした。そのまま歩いて行くと,シベリウスと妻アイノが眠っている墓がありました。そこを上がっていくと,自邸に着きました。
自邸には係の女性がふたりいました。挨拶をして中を見学しました。内部は往時のままに保存してあって,リビングやキッチン,書斎,寝室など各部屋に置かれていた家具や日用品,ピアノや絵画が残されていました。まるでその部屋にはシベリウスが座っているような気がしました。この部屋で作曲をしていたんだなあと思うと胸が熱くなってきました。私の頭の中にはシベリウスの作曲した曲が鳴っていました。満ち足りた気持ちになりました。
部屋を自分で見てまわることができるように,解説書が用意されていて,それには日本語版もありました。
一旦外に出ると,自邸には地下室があって,そこではシベリウスの生涯をビデオで見ることができました。
自邸を出ました。自邸の周りはまるでひとつの森のような広大な敷地になっていました。
アイノが手入れを欠かさなかったという美しい花園が今もしっかりと手入れされて広がっていました。そこにはアイノが好きだったリンゴの木もありました。また,自邸の奥にはサウナ小屋が残っていて,その内部も見学できました。
敷地を歩き終えました。ミュージアムショップに戻って,昼食をとることにしました。おいしいサラダとコーヒーの昼食は,この旅で,もっとも落ち着くことができた時間になりました。

私はこれで駅に戻りましたが,アイノラから少し西に歩いた場所にはトゥースラ湖(Lake Tuusula)があって,そこはシベリウスがよく散策をしていたところだったといいます。また,この湖周辺には,小説家ユハニ・アホの自邸やアールトが設計を担当した作曲家ヨーナス・コッコネンの自邸などこの美しい景色に見せられた芸術家たちの住まいがいくつも残っているそうです。この旅ではそうした場所に行くことができなかったのを今にして後悔しています。実際は,この湖畔に立ち寄りながら北上して,ひと駅先のヤルヴェンパー駅から帰るべきでした。
このように,ヤルヴァンパーはすてきな町だったので,また来る機会があれば,今度はここに1泊してみたいものだと思いましたが,それもそう遠いことではないように思えます。

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一般の旅行ガイドブックにはフィンランドについて詳しいものがほとんどありません。私が持参してきたのは「地球の歩き方Plat」というものですが,昨年行ったアイスランドもまた,旅行ガイドブックはこのシリーズしかありませんでした。このことは,日本から訪れる観光客が少ないということを意味するのだから,観光客の多いところが嫌いな私にはそれはそれで好ましいのですが,この本には,フィンランドといっても,載っているのはヘルシンキのほかにはムーミンワールドに近いナータリンとトゥルク,ムーミン美術館のあるタンペレ,そして,北極圏の町ロヴァニエミとサーリセリカのみです。そこで,フィンランドのこれ以外の町の情報は日本ではほとんど手に入らないということになります。
私が抱くフィンランドのイメージはムーミンやサンタクロースよりもむしろシベリウスなのです。しかし,シベリウスというのは,モーツアルトなどと比べるとずいぶんと地味で,かつ,渋く,シベリウスに関する場所がどこにあるのかというのがよくわかりませんでした。私のうっすらとした記憶にあるのが,昔,LPレコードの解説にあった,ヘルシンキから郊外に行ったところにあるシベリウスの住んでいた森の中の一軒家の写真で,すごい田舎に住んでいたんだなあ,こんな場所に行くことはないだろうなあ,と思ったことくらいのものでした。

今回,フィンランドに来るまえに,ネットで,シベリウスの関連スポットという情報を見つけてプリントして,たいして読みもせずに持ってきました。しかし,まさかこの旅でそこに行けるとも思っていませんでした。こちらに来てから読んでみると,ヘルシンキから北に30キロメートルほど行った場所にあるヤルヴェンパー(Järvenpää)という田舎町にシベリウスの自邸だった「アイノラ」があると書かれていて,そこに行くにはヘルシンキ中央駅から近距離電車に乗ってアイノラ駅で降りてそこから歩けば行くことができると書かれていました。しかも,公開しているのは夏の間だけでした。
メトロでマリメッコの本社まで行った帰り,ヘルシンキ中央駅に戻った私は,このあとそこに行ってみようと,電車のチケットを買うことにしました。チケットは大きな液晶パネルの機械を操作すると,想像以上に簡単に購入できました。こうして私は,フィンランドに来てから,日々徐々に遠くに行くことができるようになってきたのです。
電車は日本のものとそう変わったこともなく,違いといえば日本と違って人が少なく席が空いているということでした。席は指定で,座って外を眺めていると,ヘルシンキ郊外の景色が旅情を誘いました。朝あれほど降っていた雨も止んで,ずぶぬれで不快だった足元も次第に乾いてきました。
こちらの電車は改札がなく,ホームに行って乗り込むだけです。チケットも検札が来ることがあるらしいのですが,この近距離電車には来ませんでした。約30分でアイノラ駅に到着しました。無人駅でした。駅に大きなシベリウスの看板があって,その看板に書かれた方向に至るあぜ道のようなせまい道路を歩いて行きました。やがて森の向こうにシベリウスの自邸が見えてきました。

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3日目の朝になりました。外は大雨でした。これでは外を歩けません。
朝食を終えてフロントにいた男性に聞くと,フィンランドは7月ごろは天気が悪いんだよ,でも,この時期はまだましでねえ,と言っていました。まあ,雨の日は部屋にいるほうがいいんじゃないの,だそうです。といっても,1日を無駄にもできません。予定通り,今日は,マリメッコの本社にメトロで行くことにしました。
それにしても,ものすごい雨でした。救いはお昼過ぎには上がりそうだということでした。メトロの駅までさほどの距離はないのですが,歩道は水びたし,スニーカーにも水が入ってきて,気持ちがわるいことこの上ない状態でしたが,なんとか駅に着きました。
はじめてメトロに乗ったのですが,何の問題もなく,最寄りの駅までいくことができました。最寄りの駅はヘルシンキの郊外にあって,日本と同様に地下鉄も地上を走るようになっていたので,駅は地上にありました。ところが駅に着くと,先ほど以上の雨,これでは,駅から徒歩10分ほどのマリメッコの本社までとても歩けません。
駅でしばらく雨宿りをすることにしました。

雨宿りをしていると,初老の男の人が私に話しかけてきました。彼はフィンランド語しかできないようでした。フィンランドの語学教育が日本の英語教育とは比べ物にならないとはいえ,やはり,この時代の人は日本と変わらないなあ,と思ったのですが,私が何度英語でフィンランド語はわからないといっても,話をやめません。そんなわけで,私が英語,彼がフィンランド語というように,わけのわからない会話が続き,疲れました。
雰囲気でわかったことに,彼は金持ちでした。ブランドモノの腕時計をして,多額の年金をもらっているようでした。ただし,彼は酔っぱらっていました。どの国も,年寄りは人恋しいように思いました。
雨が少し小ぶりになって来たので,彼と別れて,マリメッコの本社まで歩いて行きました。
ショールームが開くにはまだ10分程度時間があったのですが,社員食堂ではコーヒーが飲めるようでした。そこで,コーヒーを飲みながら体が乾くのを待っていると,そのうちに徐々に来客が増えてきました。みな日本人の女性でした。
やがて,ショールームが開いたので,ウィンドウショッピングです。私は買う気もないので,単に見に来ただけ。そのうちに多くの日本人女性客でいっぱいになってきました。
マリメッコからの帰り道,メトロの駅までの間にも,どれだけの日本人女性とすれ違ったことか!

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私がヘルシンキ発ロヴァニエミ行きの夜行電車のことを知ったのは,「世界の村で発見!こんなところに日本人」というテレビ番組で,榊原郁恵さんがフィンランドの最北部の町ウツヨキに住む女性を訪ねるときに利用したのを見たときでした。ちょうどその番組が放送された数日後にロヴァニエミに行ったこともあって,とても身近に感じたものでした。私はヘルシンキからロヴァニエミまで飛行機を利用しましたが,こんな電車があるんだ,と思いました。そしてまた,その当時はフィンランドといえばロヴァニエミしか知らなかったので,ヘルシンキという町,そして,ヘルシンキの中央駅に興味をもちました。
私がロヴァニエミに行ったとき,オーロラ鑑賞ツアーに参加したその帰り道で,幸運にも,ちょうどロヴァニエミ発ヘルシンキ行きのこの電車が走っていくのに出会いました。
そんなこともあって,おそらく実現はしないでしょうが,いつかこの電車に乗ってフィンランドを旅したいという想いができました。私が宿泊しているホテルが中央駅に近いこともあって,私は,ぜひ,この電車を見てみようと思い立ちました。そこで,夜10時過ぎにホテルを出て,電車を見るためにホームに行ってみました。

この電車を通称「サンタクロース・エキスプレス」(Santa Claus Express)といいます。フィンランドVRグループが運行する夜行列車です。ヘルシンキ、トゥルクとサンタクロースの故郷とされるロヴァニエミを結ぶことからこの愛称があります。「大人のためのファンタジー列車」と紹介されているものです。ヘルシンキ中央駅とロヴァニエミを1日2往復しています。電車は14両から18両編成です。54号車とかいうので,そんなに長いのかと思うのですが,車両番号は1からつけられているのではありません。
車両は,デラックス寝台車と普通寝台車の指定席,そして,リクライニング2等座席車の自由席,さらに食堂車があります。
定刻の30分ほど前にホームに電車がバックでゆっくりと入ってきました。ホームには大きな荷物を持った乗客がたくさん待っていました。先頭まで行ってホームで写真を撮っていると,ホームに列車を牽いてきた機関士さんが降りてきたので,この電車に憧れて見にきたと話したらうれしそうでした。
やがて時間になって,電車が出発しました。これから800キロメートル,12時間をかけての旅の開始です。
なんだか,とても胸が熱くなりました。
こうして,私のヘルシンキでの長い,そして,楽しい1日が終わりました。

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