●日本ではおにぎりとお味噌汁●
これまで書いてきたように,私は1年に1度はアメリカ本土へ行っているのだから,決して久しぶりということではなかったが,今回は,なぜかずいぶんと懐かしい気がしたのが不思議だった。ただ,ロサンゼルスに行ったのは本当に久しぶりのことであった。ロサンゼルスもまた,アメリカの他の都会のように,ますます人も車も多くなってきたし,ダウンタウンは古びていた。アメリカの大都市は,人と車の量がどこも限界に来ているように私は思う。
近ごろは様々な航空会社を利用するようになったので,以前のように,デルタ航空一辺倒でなくなったが,これもまた,久しぶりに乗ったデルタ航空の機内に入ると,実家に帰ったような気持ちがした。
今回は,行きも帰りもはじめて羽田空港を利用したが,東京都内に住んでいる人ならともかく,私のように名古屋からアメリカに行くための中継地点というだけで利用する場合,羽田空港は決して便利な空港でないということがわかった。
確かに,東京都心に住んでいる人にはアクセスが楽だから便利な空港だが,狭いしラウンジも少ないし,帰りにキャリーバッグを無料で家に送ってもらおうと思ったのに,羽田空港ではアメックスの無料サービスが利用できないと言われてがっかりした。l
羽田空港に降りたって,帰国の手続きを終えて,国際線から国内線に行くターミナルを移動するバスに乗った。バスの中にはひとりの若い婦人警官が乗っていたが,なぜか彼女と話が弾んだ。日本にも,こうした気軽に話に応じてくれる人が,しかも警官がいるのが不思議なことだった。
羽田空港の国内線ターミナルに到着した。セントレアまでの乗り継ぎ便の搭乗まで時間があったので,食事をすることにした。国内線ターミナルにはいろんな店があったが,私が選んだのは,おにぎりとお味噌汁であった。
アメリカに住んでいる私の知人が,アメリカでおにぎり店をやればもうかるだろうと言っていたが,果たしてどうであろうか? 日本からの観光客にはうけるに違いないが,アメリカ人に受けるかどうか私には予想がつかない。「いきなりステーキ」もニューヨークで苦戦している。
この旅で私は意識してハンバーガーばかりを食べていたが,飽きるどころか,逆にハンバーガーを再評価したのだった。しかし,おにぎり以外にも牛丼とかカレーライスなど,外国に出たときに懐かしくなる日本の味というもがあって,それらは捨てがたいものである。
寿司は世界中どこでも食べられるが,日本流のカレーライスはない。このごろは日本でもインド人の経営するカレーライス店がたくさんできたが,あれは日本人の求めるカレーライスとは妙に違う。牛丼は今回,ロサンゼルスに吉野家があるということを帰国してから知ったが,現地で知っていれば食べにいったのにと後悔した。
ともかく,今回の旅では,一番の目的地だったパロマ天文台に行くことができなかったのが極めて残念なことであった。何とか近い将来行ってみたいものだが,今度はアリゾナ州のフラッグスタッフあたりに行くときに含ませるのがよいのだろう。しかし,どうすればそれが実現するかとなるとこれが難しいのだ。
私にはロサンゼルスもサンディエゴもまた行きたいと思うような場所ではないが,フラッグスタッフに行くにはロサンゼルスから車で行くか,あるいはアリゾナ州のフェニックスまで行ってそこから車で行く必要がある。また,フェニックスに行こうと思っても,日本からは直行便がないから,結局どこかで乗り換える必要がある。それでも,日本からアメリカには午前中に到着するフライトが多いから乗り換えは不便でないが,問題は帰りである。
また,アリゾナ州だと夏は非常に暑いから,それ以外の季節を選ぶほうが無難かもししれない。
おにぎりとお味噌汁を食べてから,狭いながらもラウンジを見つけたので,そこで,セントレア便の搭乗時間までを過ごした。羽田空港国内線のセキュリティは混雑していて長い列ができていたが,入口がたくさんあったのでその別の入口へ行ったらそれほどでもなく,すんなりと搭乗ゲートに入ることができた。
この旅での私の記憶はここまでで,その後のことをほとんど覚えていないし写真もない。機内では座席が通路側だったこともあって景色を見ることもなく,何の感想もなくセントレアに到着したのだろうと思う。
セントレアに到着して,車を預けた駐車場に迎えの車が来てもらうように電話をして,その車を乗降用の場所で待ったことだけは記憶にある。やがて迎えの車に乗って駐車場に着いて,自分の車に乗り換えてそのまま家に帰った…らしい。
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2018夏アメリカ旅行記-さあ,日本に帰ろう。④
●アルコールなんて出さなくても…●
前に来たときは古くさく不気味だったロサンゼルスの国際空港は,現在リニューアルの途中であった。完成したときは「コ」の字型に新しいターミナルビルができるような感じに見えるが,まだその一部は建設中であった。
日本へ向かう便のゲートは古いほうにあって,新しくできた建物とは通路がつながっていない。そのためにゲートを出てバスに乗って古いほうの建物に行かなくてはならなかった。
アメリカにはすでにリニューアルを終えた巨大な空港が多い。しかし,この2か月後にフィンランドのヘルシンキ・ヴァンター国際空港に行ったが,この空港も手狭になっていて拡張工事中であった。どうやら世界中の空港が手狭になりつつあるようだ。日本でも成田空港は搭乗ゲートが不足していて,国内線で到着したときなどは,タラップで降りてバスで空港ビルへ行かなくてはならないから恥ずかしいものだと思っていたが,それは決して日本だけのことではなかった。
やがて搭乗時間になって,機内に乗り込んだ。帰りもまたエコノミーコンフォートにアップグレードされていたので,いつものように,エコノミーコンフォートの最前列を指定した。この席はものすごく広いのだが,欠点はディスプレイが見にくいことと,デルタ航空の場合,テーブルが席に近く食事のときに窮屈なことである。
私は機内でディスプレイは使わないので差支えがないが,食事のときは不便である。同じ座席でも,フィンランド航空(フィンエアー)ではテーブルの位置が変えられる。これは機種の違いなのか,航空会社の配慮の違いなのか? いずれにせよ,私は飛行機マニアではないが,こうして数多くの旅行をしているので,これまでほとんどの種類の航空機に乗ったことがある。その感想として,ボーイング社の航空機よりもエアバスのほうがずっと乗り心地がいいと断言する。
以前はアメリカばかりに行っていたからデルタ航空を利用することがほとんどだったが,近頃,フィンランド航空やカンタス航空,キャセイ・パシフィック航空など,他の航空会社の飛行機を利用するようになってみて,航空会社によって,ずいぶんと違いがあることに気づくようになった。
たとえば,デルタ航空やカンタス航空では座席にUSBのコンセントがあるが,フィンランド航空にはないから予備電源を持っていることが必要にある。
そうした航空会社の違いを紹介するために,一例として,今日は,デルタ航空の帰りのフライトで出た食べものを載せておくことにする。
デルタ航空では,ソフトドリンクはコカ・コーラが提供しているし,コーヒーはスターバックスが提供している,というように,きわめてアメリカ的である。
食事も量が多く,デザートも充実している。飲み物と一緒にお菓子が出るのも,私は普通のことだと思っていたが,フィンランド航空などでは出ないから,普通のことではない,ということを知った。
このお菓子だが,1番目の写真のように,近頃,量が多くなった。一度,乗客のなかにピーナッツアレルギーの人がいて,その便に限りピーナッツの提供がなくなってがっかりしたことがある。
私はほとんどアルコールは飲まないので,機内でもワインやビールは頼まないのだが,アルコールの好きな人というのはいるもので,乗ってから降りるまで無料をいいことにいお酒ばかりを飲んている人を見かける。しかし,アルコールなんてトラブルの元だから,私は,何も飛行機の機内までアルコールなんて出さなくてもいいと思うのだけれど,そうもいかないものらしい。
◇◇◇
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2018夏アメリカ旅行記-さあ,日本に帰ろう。③
●レンタカーがなかなか返せない。●
☆7日目 2018年7月1日(日)
帰国の日が来た。
寝るだけが目的だった,もちろんモーニングサービスなど存在しないモーテルなので,早朝にチェックアウトをした。このモーテルは,うたい文句とはまったく違ってWifiが通じなかったし,お湯も出なかったからシャワーすらできず,さらに,周囲の雰囲気が悪かったので散々だった。これまでに私が泊まった数多いホテルの中でも最低であった。まあ,安価だったし寝るだけが目的だったからよしとしよう。
しかし,毎回,アメリカを旅行したとき,最終日の宿泊先をさがすのには苦労させられる。空港から遠いと意味がないし,寝るだけで1万円以上の部屋は必要がない。
モーテルを出発して,あとはレンタカーを返して,フライトのチェックインをし,ラウンジで朝食をとってから帰国便に乗るだけだった。
モーテルの近くにジャンクションがあってすぐにインターステイツに乗ることができたが,空港に行くのにどこで降りればいいのかがよくわからなかった。というか,空港に行く道筋ははわかるのだが,レンタカー会社の場所がよくわからなかったのだ。
ロサンゼルスの空港の周りはとにかく広すぎるのだ。レンタカー会社も,空港の周りにたくさんあって,それぞれの会社がものすごく広い敷地をもっている。おまけに,私はロサンゼルスはめったに来ないから土地勘がない。
ここらあたりだろうと見当をつけてインターステイツを降りて一般道に入ったところで,完全にわからなくなった。レンタカーリターンの道路標示は走る道筋のいたるところにあったが,その標示の下にレンタカー会社の名前がずら~と書いてあって,走っているスピードでは判読できないので,私の借りたハーツがどれかよくわからない。しかも,道路の車線が多くて,レンタカー会社が道路の右側にあるか左側にあるかで走る車線を選ばなければならない。
迷いに迷っているうちに空港に着いてしまった。もとにもどろうと思ったが,今度は空港から出る道路がわからない。どうにかしてやっと出たら,さらにどこを走っているのか訳がわからなくなって,ついには空港の周りをさまようはめになった。
それでもまあ,最終的には何とかなって,レンタカーを返し,カーナビを係りに渡して,すべてが終了した。
あとはキャリーバッグをもってレンタカー会社のシャトルバスに乗って,空港へ向かうだけであった。空港でのチェックインもすんなりと終わり,ラウンジで帰国便の搭乗時間までを過ごすのは,アメリカに来たときのいつものパターンであった。
それにしても,アメリカに来るたびに思うのは,これだけの人が空港を利用していて,ごった返しているのに,この人たちすべてをチェックインし,セキュリティチェックをし,預けた荷物を目的地ごとに飛行機に運んでさばくというそのエネルギーがすごいということである。その量は,日本の空港とはまるで比較にならないほど多い。
利用する側としては,なるべく快適に空港を利用したいが,そのためにはかなりの工夫や知恵がいる。
私はずっとアメリカの空港ばかりを利用していたので知らなかったが,聞くところによるとドイツのフランクフルトの空港もものすごい人でごった返しているという。
さらにまた,アメリカの空港は離着陸する飛行機の数も日本とは桁違いに多いものだから,離陸待ちの時間がどんどんと長くなっている。滑走路のわきにこれから離陸する飛行機がずらりとならんで順番を待つのだが,それが30分を越えるのもざらである。
私はまだまだ海外旅行はしたいのだが,だんだんとこうした混雑する空港を利用することがめんどうになってきた。しかし,現在でさえこうなのだから,将来はどうなってしまうのだろう。空港に限らず,あふれかえる車などを見ても,地球上のすべてが限界のように感じる。地球温暖化だの自然破壊だのということは話題になるが,地球上のクルマの数やら空港のキャパシティの限界やらが話題になることは少ない。しかし,そうしたこともまた,もう,限界のような気がする。
2018夏アメリカ旅行記-さあ,日本に帰ろう。②
●人生の大問題●
私の宿泊していたのはロサンゼルス国際空港から東に20キロメートルのところにあるリンウッド(Lynwood)という町であった。この町がどういう場所かわからないが,新興住宅街でないことは確かだろう。というより,下町のようなところであった。夕食をとろうと出てみたが,徒歩圏内にあったのはメキシコ料理のレストランだけだった。
帰国してから調べてみると,そこから10キロメートルほど東に行ったところになんと吉野家があったから,それを知っていたら行ってみたのにと後悔した。ロサンゼルスで吉野家に行ったなんて,けっこう話のタネになるだろうに。
さらに調べてみると,アメリカの吉野家はメニューが日本とは全く異なることがわかった。なんと吉野家はアメリカに1975年に進出して以来現在は100店舗以上あるのだそうだ。私は吉野家の株主だけれど,そんなことも知らないとは迂闊であった。ウェブサイトによると,
・・・・・・
必ず「牛丼」は販売していますが、各国の風土や文化,嗜好に合わせ,メニュー開発は独自で行っているため異なります。また,「牛丼」という商品名は各国で異なり,「Beef Bowl」(アメリカ),中華エリアでは一部地域で日本語の「牛丼」をそのまま使用していますが,通常は「牛肉飯」という商品名で販売しています。
・・・・・・
ということであった。こんなことを知ると,ぜひ一度行ってみたくなった。次にロサンゼルスに行ったときは絶対に行ってみよう!
さて,私が見つけたのはメキシコ料理店だけだったので,しかたなくその店に入ってみたが,私はメキシコ料理というものがよくわからないし苦手である。メキシコ料理店は,アメリカに行くと現地の友人によく連れて行ってもらうのだが,愛着がないのでメニューが覚えられない。知っているのはメキシコ版お好み焼きである「タコス」だけだ。そこで,今回もよくわならいままタコスとコーラを注文してテイクアウトした。
帰国してから調べてみると,私が行ったメキシコ料理店はキング・タコ・レストラン(King Taco Restaurants)というところであった。このレストランチェーンはロサンゼルスに31店舗もあった。
私は行ったことがないが,沖縄にも同じ名前のキングタコスという有名な店がある。この知る人ぞ知る通称「キンタコ」にはタコライスという定番メニューがあるそうだが,どうやら,ロサンゼルスのキング・タコ・レストランと沖縄のキングタコスはまったく別物であるらしい。
やはり世界は驚きに満ち満ちている。
日本でもそうなのに,アメリカでは当然入ったことがない店のシステムはさっぱりわからない。私もためらいつつ,人の動きを見ながら見様見真似でレジでタコスを注文してお金を払った。そこで待っていると出来上がったときに番号を呼ばれる,らしい…。
しかし,その呼ばれる番号は英語でなくスペイン語! に私は聞こえたからパニックになった。そしてまた,なにやらケチャップとかマスタードのようなものがいくつほしいかなどということを店員がスペイン語で聞いているらしかった。このように,知らない店に入るとこんなどうでもいいことが人生の大問題となって発生するのである。
さて,私の番になった。すると,番号が英語! で呼ばれた。人を見て判断しているらしい。店員は当然日本語はわからないから,日本人にも英語になる。やはり,私にも,ケチャップやらなにやらが欲しいかと言われたようだが,訳がわからなかったので,適当に答えたら,いくつかの得体のしれないものを一緒に袋に入れてくれた。モーテルに持って帰って,わびしくタコスを食した。しかし,いっしょにくれた得体のしれないものは,私には辛すぎたので,そのままゴミと化したのだった。
2018夏アメリカ旅行記-さあ,日本に帰ろう。①
●場末の安モーテルに泊まる。●
7回を投げ終え,100球を越えたので,前田健太投手は降板するだろうと,私は,セブンスイニングストレッチが終わったところでドジャースタジアムを後にした。最後まで見ると,その後,あの広い駐車場から車を出すだけでも大変なのである。
メジャーリーグベースボールのゲームを数多く見ると,ゲームの結果というのは単なる手段で,ベースボールもまた,映画とかコンサートのようなエンターテイメントにすぎないということがよくわかる。そして,見にくる人もそれを承知で人生の暇つぶしをしている。というよりも,アメリカの人たちにとって,生きていることのすべてがゲームなのである。つまり,ルールを決めて,そのルールの中で技を競い合っているだけだ。
このことを理解すると,アメリカではずいぶんと楽な生き方ができる。それに対して,日本人は,何をしてもそれだけが人生のすべてになる。議論をしてもそれが議論上のことにとどまらず相手の人格を否定することになるし,仕事をすることが全身全霊の奉公になってしまうわけだ。
私は,カーナビで今日の宿泊先のモーテルの名前を入力して検索し,ドジャースタジアムを後にした。ドジャースタジアムからはすぐにインターステイツに入ることができるし,私の目指す今晩のモーテルは空港の近くだから,そこもやはり,インターステイツのジャンクションを降りてすぐらしいので,わかりやすく,また,あっという間に到着するはずであった。
宿泊先は,ひと晩寝ることができればいい,というだけの条件で選んだ空港の近くの安モーテルであったが,これが予想以上にひどかった。
まず,モーテルの場所が悪かった。
アメリカの町はその場所ごとに風紀が決まっていてわかりやすいのだが,寝るだけだからいいやと思って予約したモーテルのあった場所というのは,いわゆる結構「ヤバそう」なところであった。周りにある店はどこも鉄格子がかかっていたし,古臭い家ばかりだったからだ。
モーテルのフロントもまた,鉄格子に覆われていて,わずかの隙間から会話をしてチェックインした。以前,ニューヨークのブルックリンで宿泊した,これもまた「ヤバそう」な場所のモーテルに似た雰囲気であった。
モーテルの経営者はインド人であった。
私は,こうしたアメリカによくあるチェーン店でない個人経営のモーテルというのがどういう仕組みになっているのか全く知らないが,おそらく,食事の用意もないから,部屋を貸すだけで成り立っているのだろう。部屋の掃除は,おそらくそれを専門とする会社に委託しているのであろう。そして,その会社に雇われた下層の人たちが派遣されて機械的に部屋を片付けるだけなのだろう。
だから,ホテルとしては,チェックインのときに宿泊代さえ払ってもらえればそれで仕事は用済みなのである。そこには,いわゆる日本人が自慢する自称「おもてなし」の「お」の字さえ存在しない。
それでもまだ,アメリカのモーテルは経営者の顔が見えるからマシであった。それは,この旅のあと,8月に行ったアイスランドのことである。そこで泊まったモーテルは本当にひどかった。チェックインすらなく,入口にダイヤルキーのついた箱があって,そこに宿泊する部屋のキーが入っていた。そのダイヤルキーの番号を事前にメールで連絡してきただけだった。最後まで経営者の姿すらみたことがなかった。
そんなことを考えると,日本のカプセルホテルというのは画期的なシステムであるかもしれない。
なにはともあれ,私は車をモーテルの駐車場に停めてチェックインをし,部屋に入った。安価なモーテルの常で,部屋はかび臭かったが,テレビだけはまともに写った。シャワーはあったがお湯が出なかった。おまけに,フリーWifi完備とあったのは嘘で,Wifiなどまったくつながらなかった。
2018夏アメリカ旅行記-再びロサンゼルスへ戻る。⑪
●メジャーリーガーの矜持●
この日の私は,前田健太投手を見る,ということだけが目的であったから,ゲームの開始前にはブルペンの投球練習を食い入るように眺め,ゲームがはじまってからは相手チームの攻撃のときだけ前田投手のピッチング凝視して,ドジャース攻撃のときはゲームを見ないでボールパーク内を歩き回った。そして,前田投手が降板した時点でボールパークを後にした。ゲームの結果にはまったく興味がなかった。
最初にメジャーリーグでプレイをした日本人は,当時大阪にあった南海ホークスという球団に所属し野球留学した村上雅則投手である。それからずいぶんと時間を経て,野茂英雄投手がドジャースに入団し活躍をしたのが,実質的には日本人大リーガーが脚光を浴びたはじめである。それ以降,ずいぶんと多くの選手がメジャーリーグに入団したが,予想以上に活躍した選手もいれば,失意のなかで帰国した選手も少なくない。
日本のプロ野球で活躍するのも並大抵なことでないのに,メジャーリーグでプレイをするなどというのは途方もないことに違いない。しかし,さらにそこで活躍するとなると,それは実力以上に,異文化になじめるかどうか,そしてまた,どのチームに属するか,といった要因が大きいように思う。日本もそうであろうが,アメリカはそれ以上に都会の個性が強いからである。そうしたことを知らないでアメリカに渡っても,おそらくは,異文化に溶け込めないに違いない。
それよりも私は,メジャーリーグでプレイができなくなった選手が再び日本に帰ってきてプレイをすることが好きになれない。それはひとつには,メジャーリーグで使い物にならなくなっても日本ならなんとかなるという(それは事実だが)日本を「なめている」ことにあるし,もうひとつは,メジャーリーガーの矜持はどこにいったのか,ということである。それとともに,彼らの人生には野球しかないのだろうか? というのもある。
ニューヨーク・ヤンキースのディレック・ジーター選手は,まだ現役で十分に通用するのに,ベースボールをプレイすることが「楽しくなくなった」と言って引退した。本当のメジャーリーグの一流プレイヤーは引き際も美しいのである。彼らの人生は人間としての人生であり,ベースボールをすることが人生ではないのである。
私は,これまでに多くの日本人メジャーリーガーをアメリカで見る機会があったが,残念ながら,わざわざ彼らを見る目的でアメリカまで行ったのに見ることができなかったのが青木宣親選手と上原浩二投手であった。だからと言って,今,日本でプレイする彼らの姿を決して見たいとは思わない。
異論があろうが,私には,メジャーリーガーとしてプレイする日本人選手が美しいのである。そしてまた,彼らがメジャーリーグのワールドシリーズで輝いていた姿を忘れたくないのである。
2018夏アメリカ旅行記-再びロサンゼルスへ戻る。⑩
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![IMG_5924](https://livedoor.blogimg.jp/i_love_montana/imgs/6/d/6d3dad5c-s.jpg)
●「スキヤキ」…再びドジャースタジアム●
幸せな気分でウィルソン山からロスアンゼルスのダウンタウンに戻ってきた。今回の私のアメリカ旅行もいよいよ最終章である。結局,一番の目的だったパロマ天文台の望遠鏡は見ることができなかったが,それ以外は思った以上に成果のある旅となった。明日ロサンゼルス国際空港から帰国するので,この日はロサンゼルスの空港の近くに宿泊先を予約してあった。あとは翌日のフライトに間に合えばいい。
この日,早朝サンディエコからロサンゼルスに戻り,ウィルソン山天文台へ行ったことはすでに書いた。このあとの予定は,ロサンゼルス・ドジャースのナイトゲームを見に行くことであった。前回見たゲームの最中にこの日のゲームの先発が前田健太投手であることを知って,チケット購入しておいたのだった。
私はロサンゼルス・ドジャースというチームには特に思い入れはないのだが,生まれてはじめて見たMLBがこのロサンゼルス・ドジャースのゲームだったことと,このチームには,以前,野茂英雄投手が日本の野球から決別して入団し,大成功を収めたことから,他の多くのチームよりも親しみがある。
今ほど日本でMLBを見る機会がなかった昔のこと,読売新聞が主催して,数年に一度,シーズンの終了後にMLBからひとつのチームが日本に物見遊山でやってきて,日本のプロ野球チームとエクスビションゲームをした。中でもよく来日したチームがロサンゼルス・ドジャースであった。そのころのロサンゼルスは,今よりもずっと日本には身近な都会であった。
野茂英雄投手が活躍していたころのロサンゼルス・ドジャースの監督はトミー・ラソーダであった。
トミー・ラソーダ(Thomas Charles Lasorda)はペンシルベニア州出身の投手であった。1944年にフィラデルフィア・フィリーズに入団,1949年にブルックリン・ドジャースに移籍し,1954年にメジャーデビュー,1956年にはカンザスシティ・アスレチックスに移籍したが,メジャーでは3シーズンしかプレーせず,通算成績は0勝4敗と1勝もできなかった。 しかし,ドジャースのフロントは,面倒見のいい彼をマイナーチームのコーチに就任させ,1977年にドジャースの監督になった。その後,1996年に健康上の不安を理由に自ら辞任するまで,なんと20年にもわたってドジャースの監督を務めた。「私の体にはドジャーブルーの血が流れてるんだ」という言葉は有名である。
監督としての通算成績は1599勝1439敗。地区優勝8回,リーグ優勝4回,ワールド・シリーズ優勝2回を誇る。
1995年にメジャーリーグに挑戦した野茂英雄投手をドジャースが契約して以来,ドジャースの監督として日本でも有名になり,幾度となく来日して日本製品のCMに出演するなどした。「長嶋茂雄と星野仙一は私の兄弟。野茂英雄は私の歳の離れた息子」と豪語したという。
ドジャースタジアム内を歩くと,今もなお,野茂英雄投手の足跡がたくさん残っているのが私にはうれしいことだった。私はその当時はアメリカに行くことが今のように簡単でなかったから,一度は見たいと思っていた野茂英雄投手のドジャースタジアムでのマウンドで投げる姿は,ついに見ることはできなかったが,なんとかセントルイスまで追っかけていって,登板するまで滞在し,投げる姿を見ることは実現したのが,今となってはよい思い出として残っている。その代り,今回,前田健太投手をドジャースタジアムで見ることが実現した。
当時,野茂英雄投手がマウンドに上がるときに流れたのが「スキヤキソング」とアメリカでは呼ばれる「上を向いて歩こう」であったが,このゲームで前田健太投手がマウンドに向かうときにもまた「スキヤキソング」が流れたのには身震いがした。私はついに長年の夢が実現したようで,思わず泣けてきたのだった。
2018夏アメリカ旅行記-再びロサンゼルスへ戻る。⑨
●ウィルソン山天文台の観測装置●
フッカー望遠鏡のドームを出たところにも博物館があった。私はそれを危うく見逃すところだったが,ボランティアの係りの人が教えてくれたので助かった。
先に見たウィルソン山天文台の博物館は天文台の歴史についての貴重な資料が展示された博物館であったが,ここは天文台がどういう研究をしているかということを中心とした展示がされていたもので,私にはとても興味深かった。
この日の特別公開は,この天文台にある施設のほとんどが公開されていたので,この次に私は小さな望遠鏡のあるドームに行ってみた。その中にあったのは年代物の屈折望遠鏡であった。この望遠鏡の整備をしていた人がいたので聞いてみたが,望遠鏡については詳しくは知らないということであった。
現在の天文台というのは,もはやこうした望遠鏡を覗くという一般の人が抱く天文台のイメージとはかけ離れてしまっていえるから,このようなクラシックな機器を見るとほっとするが,こうした望遠鏡は素人に惑星を見せたりする以外,学問的に活躍する用途はない。私はこの望遠鏡なら欲しい。
最後に太陽望遠鏡を見た。
ウィルソン山天文台には3基の太陽望遠鏡があり,そのうち2基が現在も学術目的で使用されている。そのうちの1基,60フィート(18メートル)塔望遠鏡は1908年に,また,150フィート (46メートル) 塔望遠鏡は1912年に完成した。もうひとつのものは,1904年に建設されたスノー太陽望遠鏡で,こちらは教育・実演目的で使われている。
ウィルソン山天文台には,こうした望遠鏡のほかに,ISIとCHARAふたつの干渉計がある。ウィルソン山の非常に安定した大気は干渉法観測に非常に適している。干渉法は複数の視点からの観測データを組み合わせることで分解能を上げ,恒星の直径のように天体の微細なサイズを直接測定する方法である。かつて,マイケルソンは1919年にフッカー望遠鏡を使って天文干渉法の歴史上初めて他の恒星の測定を行なった。
ISI (Infrared Spatial Interferometer) は中間赤外域を観測する3基の65インチ (1.7メートル)望遠鏡のアレイである。これらの望遠鏡は最大70メートル離して配置して,これによって口径70メートル相当の分解能を得ることができる。望遠鏡で受光した信号はヘテロダイン回路を通して電波の周波数に変換され,電波天文学から流用した技術を用いて電気的に合成される。基線を最大の70メートルに伸ばした場合,分解能は波長11マイクロメートルにおいて0.003秒角に達する。このISI はカリフォルニア大学バークレー校の一部門によって運用されている。
また,CHARA(Center for High Angular Resolution Astronomy)は,6基の望遠鏡を3本の軸上に配置した干渉計で,最大基線長は330メートルである。この装置では光線は真空管を通って光学的に合成される。合成された画像は赤外域で0.0005秒角を分解可能である。 CHARAはジョージア州立大学によって運用されている。
2018夏アメリカ旅行記-再びロサンゼルスへ戻る。⑧
●当時の苦労がしのばれる。●
今もし,この望遠鏡をくれると言われても私は困る。それは,こうした機器を維持しその性能を発揮させることはものすごくたいへんだからである。
この望遠鏡ができたころは,今のようにコンピュータすらないから,何事につけてもマニュアルで行う必要があった。ドームに入ると,当時使われたマニュアルの機器がたくさんあって,私にはとても興味深かった。望遠鏡というのは星を「見る」ものではなく写真を写すもの,つまり巨大なカメラに過ぎない。そうした写真を写すために必要なことは,まず第一にピントが合っていることであり,第二に星の動きにつれて正確に望遠鏡を動かすことができることである。
今は,アマチュアの使うような望遠鏡でさえもオートフォーカスやオートガイダーというものが利用されるようになってきたが,当時は,こうした大型の機器にもそうしたものはなかった。 そして,もっとも重要なのは,デジタルカメラでなく,フィルムやガラス板に露光剤を塗ったものを使用していたことであった。写真を写すにはそれだけ多くの技術が要った。
さらにまた,反射望遠鏡というのはガラス板にメッキをして鏡としているから,このメッキを数年に1度行わなければ次第に曇ってくるという欠点がある。この望遠鏡の鏡の部分には,前回いつメッキが行われたかが書かれてあった。このように、この望遠鏡は今も現役で居続けるためにはこうした維持作業が必要なのである。
ボランティアの説明員は,そうしたことを来館者にていねいに説明していて,興味のある人が真剣に聞いていた。私には知っていることばかりだったが,実際にそうしたことが行われているまさに実物を見ることができたのが,とても有意義であった。そこで改めて思ったのは,この望遠鏡は,そうした困難な作業をこれまでずっと続けながら歴史に残る多くの業績を上げた,まさにその本物だということだった。
今回の旅で,私はパロマ天文台で望遠鏡を見ることはできなかったが,このウィルソン山天文台でフッカー望遠鏡を見ることで,それに余りある貴重な体験ができたのが,とても嬉しかった。アメリカに来てよかったと思った。
何時間いても飽きることがなかったので,私は,このドームの中を何度も歩き回った。ドームはスリットも開けられていて,明るい日差しが中に入って,重厚な望遠鏡はさらに輝きを増していた。それは,私がこれまでにみた望遠鏡の中で,最も美しいものであった。
2018夏アメリカ旅行記-再びロサンゼルスへ戻る。⑦
●念願のフッカー望遠鏡●
60インチヘール望遠鏡を,見るだけでなく触れることまでできて,私は望外の喜びにあふれていた。
私が天文台へ望遠鏡を見にいくと言うと,望遠鏡で星を見にいくことだと思った友人がいたが,私は望遠鏡の姿そのものが見たいのである。これはクラシックカメラやクラシックカー好きの人と同様だが,望遠鏡の場合は,歴史に名を刻んだ世界でたったひとつしかないそのものである,というところが私には魅力的なのである。そしてまた,その機能美というものがたまらなくいい。特に古い時代の望遠鏡がいい。たとえばハワイ島マウナケアにあるすばる望遠鏡のような現代の望遠鏡は大きすぎて精密機械というよりもまる造船所の機械のようになってしまっているから,古式豊かな望遠鏡としての美しさに欠けるし,まして,電波望遠鏡など単なるアンテナである。
さて,次に見にいったのが100インチ(2.5メートル)のフッカー望遠鏡であった。早朝,すでにガラス越しにその巨体を見ることができたが,今度は,さらに,ドームのなかに入って,目の前でこの望遠鏡を直に見ることができるのだ。これは私には信じられない出来事であった。まさかガラス越しでなく直に見られるとは思っていなかっただけに,その喜びはさらにひとしおであった。
開放されていた入口を入ると長い階段があった。それもまたこの望遠鏡の歴史を物語っていて,私は興奮した。そこには当時の電話機やら様々な計器やらがそのままの状態で残されていた。この階段をハッブルさんも上ったかと思うと,感慨を覚えた。
エドウィン・ハッブルさんが宇宙膨張を発見したのが,この100インチフッカー望遠鏡なのである。
60インチ望遠鏡を建設したヘールさんは,次に,より大口径の望遠鏡の建設に着手した。カーネギー協会とともに資産家で慈善家のジョン・D・フッカーが必要な資金の大半を援助して,1906年,ミラーブランクの鋳造に再びサンゴバン社が選定された。鏡の製造にはかなりの困難があったもののついに1908年に完成し,それを組み込んで,1917年11月にこの100インチ望遠鏡は完成し,ファーストライトを迎えた。
1919年には,このフッカー望遠鏡にアルバート・マイケルソン(Albert Abraham Michelson)によって開発された光学干渉計が取り付けられた。天文学でこの種の装置が使われたのはこれが初めてだった。マイケルソンはこの干渉計を使って,ベテルギウスのような恒星の正確な直径と距離を測定した。さらに,ヘンリー・ラッセル(Henry Norris Russell)はフッカー望遠鏡を使った観測を元にして,恒星の分類システムを考案した。
しかし,何といってもこの望遠鏡での最も偉大な業績は,エドウィン・ハッブルが100インチ望遠鏡での観測を元に歴史的に重要な計算を行なったことである。彼は,星雲が実際には我々の天の川銀河の外にある銀河であると結論した。また,ハッブルと助手のミルトン・ヒューメイソン(Milton Lasell Humason)は,宇宙が膨張していることを示す赤方偏移の存在を発見した。
このように,フッカー望遠鏡は長い間世界最大の望遠鏡として君臨していたが,1948年にカリフォルニア工科大学(California Institute of Technology)とワシントン・カーネギー協会の共同事業体がウィルソン山から150キロメートル南のパロマ山に200インチ(5メートル) 望遠鏡を完成したことでその座を明け渡すことになった。
ついに1986年に100インチ望遠鏡は運用を終了した。しかし,1992年に補償光学システムを装備することで再び使用が開始され,望遠鏡の分解能は 0.05 秒角を達成,その後約2年間にわたってフッカー望遠鏡はハッブル宇宙望遠鏡を含めて世界中で最もシャープな望遠鏡装置に再び返り咲いたのだった。
フッカー望遠鏡は今でも20世紀の傑出した科学装置のひとつなのである。
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●60インチヘール望遠鏡●
ウィルソン山にある望遠鏡のうちでもっとも古いのは口径60インチ(1.5メートル)の「ヘール望遠鏡」(Hale Telescope)である。
天文台を見学に行くと,一般の人がガラス越しに見ることができるのはその天文台で最も大きな望遠鏡だけということがほとんどなので,ウィルソン山天文台もまた,私は口径100インチの望遠鏡だけがそうであると思っていたが,この日は天文台の特別公開で,このヘール望遠鏡も見ることができたのは思いがけない幸運であった。
岡山の天体観測所にも,188センチの大望遠鏡の他に,ニコン(当時の日本光学)の作った91センチの反射望遠鏡があって,私はむしろその望遠鏡を見たいと思っているが,そちらのほうは公開されていないのが残念である。
このヘール望遠鏡のいわれは次のようである。
1896年,ジョージ・エレリー・ヘール(George Ellery Hale)さんは父のウィリアム・ヘールからの寄贈品としてフランスのサンゴバン社が鋳造した口径60インチのブランクミラーを受け取った。このブランクミラーは厚さ7と1/2 インチ(191ミリメートル),重量1,900ポンド(860キログラム)のガラス円盤であった。しかし,1904年にヘールさんがカーネギー協会から資金を得るまで天文台の建設を待たなければならなかった。
1905年にやっと反射鏡の研磨がはじまったが完成まで2年を要した。また,望遠鏡の架台と構造物はサンフランシスコで建造され,1906年の地震にも何とか耐えた。当時は天文台へ道が未整備であり,資材の運搬はラバなどが用いられていたが,望遠鏡に使われる分割できない大型の部品を運ぶために特製の電動トラックが開発された。
この完成当時世界最大の望遠鏡のファーストライトは1908年12月8日であったが,観測がはじまると,天文学の歴史上最も多くの成果を挙げて成功した望遠鏡のひとつとなった。その優れた設計と集光力によって,分光分析や視差測定,星雲の写真観測や写真測光といった新たな技術の先駆けとなったのだ。
完成の9年後には,口径で,この後で書くことになるフッカー望遠鏡に追い越されたが,その後も数十年間にわたってヘール望遠鏡は世界中で最もよく使われる望遠鏡のひとつだった。
1992年,60インチ望遠鏡に大気補正実験装置(Atmospheric Compensation Experiment=ACE) と呼ばれる初期の補償光学システムが取り付けられた。この69チャンネルのシステムによって、望遠鏡の分解能は0.5から1.0秒角だったものが0.07秒角にまで改善された。
ACE は,もとは軍隊使用のための新技術開発および研究を行うアメリカ国防総省の機関である国防高等研究計画局(Defense Advanced Research Projects Agency=DARPA )によって戦略防衛構想(Strategic Defense Initiative=SDI)システムのために開発された装置であったが,国立科学財団が出資して民間に転用された。
今日,この60インチ望遠鏡は一般向け用途に使われていて,焦点部には観測装置に代わって接眼レンズが取り付けられている。一般の人々が自由に覗くことができる望遠鏡としてはおそらく世界で最も大きな望遠鏡のひとつである。一般の人がグループで借りることもできるのだが,これもまた,アメリカ人の考えそうなアイデアである。
日本にもこのようなサイズの公開望遠鏡は結構あるが,そのほとんどは機材を持て余していると私は思う。
口径が30センチから50センチ程度の望遠鏡をもつ地方自治体は少なくないが,国や地方自治体の補助金やらなにやらでそれを導入したときは,そういうことに熱心な所員がいたりして運用をはじめても,そうした人は公務員だからやがて移動になったり出世したりしていなくなり,また,予算が削減されたりして,望遠鏡の存在が負担になっていくのである。屈折望遠鏡ならともかくも反射望遠鏡というのは数年に一度,反射鏡の再メッキをしなくてはならないし,そうしたほかにも維持費がずいぶんかかるのだが,そのお金がないのである。役人というものは,そうしたことにお金がかかることを理解しない。これもまた,何度も書いたように,ハコモノを作るのは一生懸命でもそ,それを維持をすることにもお金がかかるという認識が不足しているからである。日本は何ごともそうである。そしてまた,こうした機器を一般に貸し出すということに,さまざまな条件をつけ敷居を高くするから,結局,だれも活用しないままになっていくのである。一方アメリカでは,ここウィルソン山の望遠鏡を一例として,こうして一般の人に貸し出したり,募金をしたりしてお金を集めその維持を行っているわけである。
なお,パロマー天文台にある,私がこの旅で見損ねた200インチ望遠鏡もまた「ヘール望遠鏡」の名で呼ばれている。
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●ウィルソン天文台とハッブル●
博物館は質素なものであったが,とても落ちつくことができる場だった。ちょうど開館したばかりで,博物館には私しかいなったから,職員の人と少しお話をすることができた。
私が思っていたように,ウィルソン山は今ではロサンゼルスの灯りの影響がかなりあるようで,逆に,霞んでいたり,地上近くに雲が出ていたりするときのほうが星がきれいだと笑っていた。
アメリカは日本とは比較にならず大自然が多いので,日本とは違って満天の星空をどこでもだれもが見ていると思う人もあるだろうが,都会に住んでいる人は日本と同じように星空を見たことがない。それに,日本とは違って,「田んぼのあぜ道」というものがなく,また,私有地は全て鉄条網で囲われているから,郊外に出かけても星を見るような場所はないのである。
キャンプ場に出かければ,晴れていさえすれば,日本では手に入らないほどの星空を見ることができるかもしれないが,しかし,都会の市街地が日本よりも広いから,その光害の影響から離れるには,ロッキー山脈の山の中まで行く必要があろう。
この博物館には,さまざまな当時の写真や手紙のホンモノが展示されていた。私が子供のころに読んだ図鑑にはアメリカの巨大望遠鏡がたくさん載っていた。しかし,こんなものを頼みもしないのに国が買ってくれるわけもなく,こうした施設の多くはアメリカの大金持ちが寄付をして作られたのである。
それにしても,天文学に限らず芸術の分野でも,得た富をこうした方法で社会に還元するというのがすてきなことではないか。そしてまた,そうして還元されたものを有効に利用することができる人材がいるというのもまた,アメリカの国力を表している。
歴史的な使命を終えたこのような施設であっても,今度は文化遺産として有志による寄付によっていつまでも維持され,大切に保存されているのがすばらしいのだ。日本ならおそらく,ともかく世界遺産とかいうものに認定してもらって,しかしそれは歴史的遺産としての価値は表向きのことで,本音は単に金儲けの手段として,客寄せ金儲けの手段として活用するか,それができなければ老朽化して廃墟となっていくであろう。
スペースステーションで打ち上げられた宇宙望遠鏡「ハップルテレスコープ」に名を残すエドウィン・パウエル・ハッブル(Edwin Powell Hubble)は,我々の銀河系の外にも銀河が存在することや,それらの銀河からの光が宇宙膨張に伴って赤方偏移していることを発見した現代を代表する天文学者のひとりである。
ハッブルはミズーリ州で保険会社役員の家に生まれた。シカゴ大学に入学し,数学と天文学を主に学んで1910年に卒業したが,父親の反対で天文学の分野には進めず,その後,イギリスのオックスフォード大学で法学を学び,アメリカに戻って法律事務所に勤めた。
第一次世界大戦で軍隊に入隊し,戦争が終わると父の死もあってシカゴ大学のヤーキス天文台で天文学の研究に戻った。
ハップルは,1919年,このウィルソン山天文台の創設者で台長でもあったジョージ・ヘールからウィルソン山天文台職員の職を紹介され,その後の一生をこの天文台で過ごした。
ハッブルがウィルソン山天文台職員となった1919年にちょうど100インチフッカー望遠鏡が完成したので,1923年から1924年にかけてフッカー望遠鏡で行なった観測によって,それまで小さな望遠鏡での観測から我々の銀河系内の天体ではないかと考えられていた「星雲 (nebula)」と呼ばれるぼんやりした天体の中に,我々の銀河系の外にある銀河そのものが含まれていることをはっきりさせた。
また,1929年には,ハッブルとミルトン・ヒューメイソンは銀河の中にあるセファイド変光星を観測し,セファイド変光星の明るさと変光周期の関係を使って銀河の赤方偏移と距離の間の経験則を定式化した。これが「赤方偏移を後退速度の尺度と考えればふたつの銀河の間の距離が大きくなるほど互いに離れる相対速度も距離に比例して大きくなる」という,ハッブルの法則である。この発見が後にビッグバン理論につながっていく。
この博物館には,ハッブルやヘールの本物の書簡が展示されていて,私には非常に興味深いものであった。
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●今度は幸運に恵まれた。●
駐車場の先に小高い丘があって,そこに至る階段を登ったところに休憩所があった。ここに売店があって駐車場のパスを購入できる。ここではコーヒーや簡単な食べ物も売っていた。
ウィルソン山に登る道路は多くのオートバイやサイクリン自転車が走っていることはすでに書いたが,ここはまた,歩いて登ってくる人もいて,ここが絶好の休憩所となっているわけだ。
私は事前に調べておいたから,この日がヘールさん生誕150周年,いや,厳密には生誕150周年は昨日なのだが,今日が土曜日だということで,様々なイベントが行われることを知っていた。そこで,私は,この山頂が混雑していたらどうしようかようという別の心配をしていたのだが,そんな心配をしなくても,ここの駐車場はものすごく広かった。
私が到着したのはかなり早い時間だったので,ほとんどだれもいなかった。天文台の公開はまだ始まっていなかったが,博物館が今まさに開館するところだったので,まず,その博物館に行くことにした。博物館の様子は次回書くことにしよう。
博物館を見終わてから,この天文台で最も大きく,かつ,最も有名な100インチ望遠鏡のドームまで歩いていった。私は,この望遠鏡を見るのが目的だったから,その姿をひとめ見られればそれで充分だった。
私は来るまで,ウィルソン山の望遠鏡は週末だけ見ることができると思っていたのだが,それは間違っていて,望遠鏡を見るだけなら年中無休であった。それは,日本の岡山の188センチメートル望遠鏡も木曽の100センチメートルシュミット望遠鏡も,そしてまた,オーストラリアのサイデンスプリング天文台の250センチメートル望遠鏡も,さらには,ハワイ島マウナケアのケック望遠鏡もみな同様で,ガラス張りになった小部屋からガラス越しに望遠鏡本体を見ることができるのである。
そこで,私は,ドームの小部屋に行って,待望の望遠鏡と対面することができて。すっかり満足して,これで帰ろうとさえ思った。
そこで再び休憩所に戻ると,天文台の望遠鏡を見学する有料ツアーのチケット販売がはじまるところだった。私が週末だけ公開しているのと思っていたのは,この望遠鏡見学ツアーことであった。しかし,私が調べたことには,この週末はヘールさんの生誕150周年イベントのために通常の望遠鏡見学ツアーは中止で,そのかわり,ウィルソン山天文台の設備がすべて公開されていて自由に見学できる,ということであったから,私はあれ~違うなあと思ったが,ともかく,チケットを購入した。
数十人の人たちがその見学ツアーのチケットを購入したところで,責任者らしき人がやってきて,このツアーの有料チケットの販売は間違いで,今日は自由に見学ができるからお金を返却するという声がした。
そこで,お金を返金してもらって,あとはご自由に見学してください,ということになった。このいい加減さもまたアメリカらしきことである。
今度は,お金を返してもらったほかの人たちについて,再び望遠鏡のドームに歩いて行った。
望遠鏡のドームは早朝とは違って見学の準備がすっかりできていて,どのドームも見学者用の小部屋に入る入口ではなくメインの入口が解放されていた。私は自由に自分で見学するものだと思っていたのだが,さにあらず,中に入るとボランティアの人がいて丁寧な解説をきくことができて感動した。
年中無休だと思っていたパロマ天文台がお休みで見ることができなかったその反対に,ウィルソン山天文台では特別公開というめったに体験できないものに遭遇した。つまり,この日を選んだことが最高だったわけだ。
私はウィルソン山天文台で解説をしていた人に,パロマ天文台の公開がお休みだったことを話すと,だからウィルソン山のほうがずっといいだろうと自慢されたのだった。
2018夏アメリカ旅行記-再びロサンゼルスへ戻る。③
●システムの「塩梅」がよくわからない。●
私は,インターステイツ5でロサンゼルスのダウンタウンを抜けてからは,カーナビの指示に従って走っていったから,どの道を走ったのかは今になってはさっぱりわからないが,地図によれば,インターステイツ210でパサディナを越えてからウィルソン山に登る道路は州道2しかないから,それを走ったのであろう。
ウィルソン山はロサンゼルスから1時間というから,もっと街中なのかと思っていたが,完全な山の中であった。日本に例えれば,東京から中央道を走って山梨を越え,八ヶ岳に向かうような感じだろうか。それほどの山奥なのである。
ウイルソン山に登る道路はサイクリング自転車やらオートバイやらが頻繁に行き来している道で,車はそれらをかき分けて走る必要があり,けっこう大変だった。この道は,おそらくロサンゼルスに住む若者の絶好のサイクリングロードなのであろう。
私は夜に行かなかったからわからないが,それほどの山奥であっても,おそらく,夜になればロサンゼルスの灯りがけっこうな影響をもっているに違いない。なにせ,あの,天文台群のあるハワイ島マウナケア山頂であっても,オアフ島ホノルルの灯りが見えるのだ。
そうこうするうちに,私はウィルソン山天文台に到着した。山頂には広い駐車場があった。私がネットで調べたものには駐車場は無料とあったが,この駐車場は無料ではなかった。日本と違って,海外では有料だからといってゲートがあったり係員がいたりするわけではなく,すべては自己責任であることが多いから,どのように料金を払うのか,そのシステムがわからずたいへんなのだ。ずるをする気もないのだが,うっかりお金の支払いを忘れて,あとでペナルティを受けるという面倒が起きかねないのである。
こういうこときは聞くしかない。とはいえ,聞きたくとも人がいない。わからないまま,私はともかく駐車場に車を停めて天文台に歩いて行った。天文台に差し掛かったら,ちょうど職員の若者がいたので聞いてみると,カフェで駐車料金を払うのだという。そういえば,途中にカフェがあったのを思い出した。そこでカフェまで戻って店員に話をして料金を払うと,駐車パスをくれた。これを車のフロントに掲示すればよいということらしい。
駐車場に戻って言われたように車にパスを掲示して車を出ると,駐車場の端に控えめな掲示板を見つけた。そこにそうした説明が書いてあった。
海外では列車のチケットも同じようなもので,それを購入してホームに向かっても改札があるわけでもなく,列車に乗っても,途中で検札がくるでもないということがとても多い。噂では時折突然検札が来て,その時点でチケットを持っていないと大変なことになるという話だ。この旅でもまた,以前書いたが,デスバレー国立公園の入園料が同じようなものであった。私は機械で支払ったが,それを見せたこともなければ,検札があったわけでもない。
こういうことは,こちらの人にとっては当たり前のことらしく,ほとんどの人は正直にそれを支払っているが,これが日本人には信じられないことなのである。
街中の駐車場もまた,2時間無料とか,あるいはパーキングメーターは午後6時をを過ぎればチェックが来ないから停め放題だとか,そうしたことがいろいろあるのだが,その2時間無料だって,それを厳密に調べているわけでもなさそうだし,パーキングメーターの場合は,先に自分が停める時間を決めてお金を入れるというシステムなので,何かの都合でその時間を越えてしまっても言い訳が聞かないらしい。逆に,その時間よりも早く車がいなくなった場所なら次の車はそこに無料で停められるということもある。
ともかく,ずるをする気はないが,こうした日本とは異なるシステムの「塩梅」というのが,私には何度旅をしてもよくわからないのである。そもそもがいい加減な,しかし,えらく厳格な一面のあるアメリカという国の人たちだから,万事が適当であるにもかかわらず,ペナルティには妥協がないのがまた,それをさらにわかりにくくしているのある。というより,日本のスキのない必要以上の厳密さが,つまらない仕事を大量に作っているのだろう。
2018夏アメリカ旅行記-再びロサンゼルスへ戻る。②
●天文台は「夜景の絶景ポイント」⁈●
ジョージ・エレリー・ヘール(George Ellery Hale)は1868年6月29日にシカゴで生まれ,1938年2月21日に亡くなった天文学者である。私がウィルソン天文台を訪れたのは6月30日だったから,生誕150年というのは昨日で,パロマ天文台に行ったときだったのだ。
ウィルソン山天文台では,生誕150年を記念して特別に天文台の公開を行っていたのだが,反対に,パロマ天文台は工事のために閉鎖していたというのはなんという皮肉であろうか。
後で書くが,ヘールはパロマ天文台を作ろうとして,その完成を見ずして世を去ったから,生誕150年だからといって何のこだわりもなくパロマ天文台が公開を中止していたのかもしれない。それはそれとして,私もまた,ヘールさん同様に,パロマ天文台を見ることができなかったと考えることとしよう。
さて,ヘールさんは,太陽の観測にためのスペクトロヘリオグラフを発明し太陽の磁場を発見したほかに,天文学の重要な発見を行うことになるヤーキス天文台やウィルソン山天文台などの建設を主導したという功績があった。
父はエレベーター製造で財をなしたウィリアム・ヘールであった。少年時代から自宅の屋上に据え付けられた天体望遠鏡で天体観察に没頭し,マサチューセッツ工科大学で学び,1890年に学位を取得した。
大学の卒業後は自宅の敷地内に12インチの屈折望遠鏡を備える天文台を建設し太陽の観測を行ったが,そのときの望遠鏡には彼が発明したスペクトロヘリオグラフ(=単色太陽光分光写真儀)が組み込まれていて,太陽光からカルシウムの特性スペクトルに単色化し,史上初めて太陽の紅炎(プロミネンス)の撮影に成功し,この成果によって太陽研究における一大権威と見做されるようになり,24歳でシカゴ大学天体物理学講座の助教授に就任した。
1897年,シカゴの実業家チャールス・ヤーキスの資金を得て40インチ(101センチメートル)屈折望遠鏡を備えるヤーキス天文台を建設した。そして,1904年には,カーネギー研究所の寄付を得て,その当時世界最大となった100インチ(257センチメートル)反射望遠鏡を備えるウィルソン山天文台を建設し,初代台長になった。ヘールさんは,さらに,ロックフェラー財団から寄付を受けて,パロマー天文台の建設に着手するが,その完成を見ることなく死去した。
私が訪れたウィルソン山天文台( Mount Wilson Observatory=MWO)は,ロサンゼルスの北東,パサデナ郊外のサン・ガブリエル山系にある標高1,742メートルのウィルソン山頂に置かれている。ウィルソン山は北アメリカの中では最も大気が安定した場所のひとつで,天体観測,特に干渉法観測を行なうのに理想的な環境である。
今は,ロサンゼルス周辺のいわゆるグレイター・ロサンゼルス地域の人口増加によって,この天文台で深宇宙観測を行う能力は限られてきたが,依然としてこの天文台は新旧の観測装置を用いて多くの科学研究成果を挙げている。
初代所長だったヘールさんはヤーキス天文台から40インチ望遠鏡を移設した。完成当初はウィルソン山太陽観測所(Mount Wilson Solar Observatory) と呼ばれ,天文台創設2年後の1904年にワシントン・カーネギー協会から出資を受けた。この財団が現在でも天文台の主要な援助団体となっている。
天文台までは道路も整備されていて,皮肉にも,現在は「夜景の絶景ポイント」としても多くの人が訪れるとこととなっている。2007年10月のカリフォルニア州南部で発生した山火事で一時閉鎖されていたが,現在は復旧している。
2018夏アメリカ旅行記-再びロサンゼルスへ戻る。①
●ウィルソン山に向かう険しい道●
☆6日目 2018年6月30日(土)
今日が最終日で,明日の朝帰国の途に着くことになる。
長年行きたかったセコイア国立公園と一度は行ってみたかったデスバレー国立公園,そして,口径5メートル反射望遠鏡のあるパロマ天文台とフッカー望遠鏡のあるウィルソン山天文台,さらには,新設のサンディエゴ・パドレスのホームグランドであるペトコパークに加えてしばらくぶりのドジャースタジアムと,盛りだくさんの場所を巡ってこようと旅に出た。その中で最も行きたかったパロマ天文台には振られてしまったが,その代り,この日はすてきな出来事が起きる。
早朝サンディエゴを出発して,私はロサンゼルスに向けてインターステイツ5を北上した。サンディエゴに向かうときにわかったことは,インターステイツ5は,ロスアンゼルスからサンディエゴ間は多いところでは8車線もあるのに,ロスアンセルスに近づくにしたがって車線が減り,ついには2車線にまでなってしまうから,渋滞しないわけがないということだった。これはシアトルでも同様だが,悪しき日本の道路のようなものだ。
アメリカでは,大都市のインターステイツ網が先に完成して郊外に伸びていった。やがて,車が増えるにしたがって,郊外では車線が拡張したのに,都会では拡張する土地がないものだから取り残されてしまい,慢性的な渋滞が解決できなくなっている。もはや飽和状態なのである。そこで,都会に流入する車を減らそうと,ニューヨークではマンハッタンに入るだけで通行税を取るといった対策を講じているといわれる。
私は渋滞を避けてできるだけ早くロサンゼルスに到着しようと早朝に出発したわけだった。
今日の予定はウィルソン山天文台に行くことと,その後にドジャースタジアムで前田健太投手を見ることであった。今晩は寝るだけだからロサンゼルス国際空港近くの安価なモーテルを予約してあった。
ウィルソン山天文台はロサンゼルスから北東にあるウィルソン山の山頂にあって,ロサンゼルスのダウンタウンからは1時間ほどのところだ。天文台がロサンゼルスからそんな近くにあっては天文台としての機能はすでに終わっていると思うが,ここは歴史的にはパロマ天文台など比較にならないほどの老舗なのである。
事前に調べたところでは,公開しているのは週末のみということであったから,私はこの旅で唯一の週末であるこの日に行くことにはじめから決めていた。その反対にパロマ天文台は年中無休ということであったが,それがとんでもないことになってしまったわけだった。
パロマ天文台のように突然の公開中止ということもあるとまずいので,私は前日の夜,事前にウィルソン山について調べてみた。すると,この週末は「スペシャルウィーク」ということで,毎週末に実施している天文台の公開ツアーが中止となっているではないか! 私は一瞬己の再びの不幸を嘆いた。しかし,よく読んでみると,それは大いなる誤解であって,この週末はウィルソン山天文台を造った偉大なるヘールさんの生誕150年祭で,天文台すべてを無料で公開するとあった。
これはすばらしい偶然であった。この日を選んで来たわけでもないのに,まさに最高の日であったわけだった。それにしても,パロマ天文台だって同じく偉大なるヘールさんの生誕150年記念の日である。その日を休みにしていいものだろうか。一体何を考えているのだろうか,と不思議に思った。
そんなわけで,旅は人生と同じ,よからぬこともあれば,その分よいことも起こる。これは私にとってパロマ天文台に行くことができなかった代償として有り余るものであった。
渋滞する前にロサンゼルスのダウンタウンに差しかかったが,週末ということもあり,まわりは閑散としていた。私は一旦インターステイツ5を降りてマクドナルドで朝食をとった。この旅ではマクドナルド以外のハンバーガーショップに行くことにしていたが,一旦行ってみたインアンドアウトバーガーが土曜日ということで早朝やっておらず,それ以外にもおもしろそうなハンバーガーショップも見つからず,しかたがなくこの日だけマクドナルドに行ってみたわけだ。しかし,マクドナルドに入ってそのなじみのある雰囲気にもホッとしたのもまた,おかしなことだった。
その後,ロサンゼルスのダウンタウンを抜け,ウィルソン山に向かった。ウィルソン山に向かう道路は,想像以上に険しい山道であった。
2018夏アメリカ旅行記-「サンディエゴ・サンセット」⑧
●「サンディエゴ・サンセット」,今。●
サンディエコ・パドレスのホームグランドであるペトコパーク(Petco Park)は2004年のシーズンにオープンした新しいボールパークである。
以前は1967年にNFLチャージャーズと共有のクアルコムスタジアム(Qualcomm Studium)を本拠地としていて,私は見にいったことがある。コンクリート丸出しの悪名名高きクッキーカッター型のスタジアムであった。駐車場がやたらと広かったが,ただだだっぴろくて,ゲームが終わると車は車道も駐車帯もなく走り去っていくので取り残された車が猛スピードの洪水の中にぽつんと存在していたりして,とんでもない恐怖を感じたものだった。
他の都市と同様に,1990年代倉庫街で治安の悪かったエリアがほぼ更地状態にされて,新しいボールパークとコンベンションセンターに生まれ変わり,その周りには最新のホテル,ガラス張りのコンドミニアム,レストラン街に生まれ変わった。
レフト後方にウェスタンメタルサプライ社と書かれたレンガ造りの建物がボールパークに取り残されたように建っているが,この1909年に建てられたこの建物は市の歴史的建造物で壊すことができず,それを逆手にとって,ボールパークのデザインに組み込んでしまったというものである。この建物,外観は当時のままだが,内装はすっかり作り変えられていて,スウィートルームやレストランになっている。
このボールパークの粋なところは,センター後方の道路を隔てた場所に公園があって,ゲームがはじまる4時間前からはここもまたボールパークの内部扱いとされるのだが,なだらかな芝芝生の丘となっていて,そこに寝転ぶと大型ビジョンがゲームの様子を映し出すのを見ながら,寝転んで,あるいは芝生で遊びながらゲームの観戦ができるというものだ。
ここにはまた,子供用のミニグランドもあって,子供たちはそこで遊びながら,あるいは,カップルはビールでも飲みながら,美しいボールパークを楽しむことができるようになっていて,こんな趣向があるボールパークはここ以外にはないから,私はそれに感動してしまった。
また,丘の上には8度首位打者に輝いたパドレスの英雄グウィンが1981年から2007年に殿堂入りするまでの足跡が刻まれたブロックと銅像がある。
このように,このボールパークは気候がよいことも手伝って,すばらしい夜を過ごすことができる場所となって,まさに,「サンディゴ・サンセット」の魅力を発揮しているのであった。
アメリカのこうしたボールパークが最新式に作り替えられていくころ,つまり,アメリカの1990年代はまさに繁栄の極大値であった。そのころの日本が「失われた10年」と言われ,いまもまだそこから脱していないのとは対照的であった。しかし,その絶頂期に911が起き,その後のアメリカは,閉鎖的で暗く,そして,やたらとセキュリティに厳しい国となってしまったのが私には残念である。
こうして,私はサンディエコの2日目の夜を過ごした。
2018夏アメリカ旅行記-「サンディエゴ・サンセット」⑦
●絶品のハンバーガーとオニオンリング●
お昼間の予定であったパロマ天文台には行くことができなかったが,その代わりに動物園にいくことができた。そして,夜はこれもまた楽しみにしていたベースボールの観戦である。
前日に下見をしておいたので,わけなくボールパークに到着した。
旅行者がアメリカの大都市にあるボールパークでナイトゲームを見る場合,ゲームの終了後の治安が一番の注意点となる。ここサンディエゴは治安も悪くなく,また,泊っているホテルとボールパークの間は徒歩でわずか15分程度であったから,私は,ホテルから歩いて往復することにした。
これまでにアメリカのすべてのメジャーリーグチームのボールパークを見たことはあるが,それ以後新しく作られたり移転したりしているから,私はそのすべてに行ったわけではない。たとえばアトランタ・ブレーブスはダウンタウンにあるアトランタオリンピックで使用した陸上競技場を改装したターナー・フィールドを使用していたが,突然移転を表明して郊外に新しいボールパークを作って移転してしまった。
近頃は郊外のボールパークをダウンタウンに移転するのが流行りだったのに,アトランタではその流れと逆行するようで私は不思議な気がしたが,それはそれで,なんらかの理由があるのだろう。しかし,今の私に改めてアトランタの新しいボールパークを訪れるような情熱はもはやないから,将来もまたそこに行くことはないであろう。
このサンディエゴもまた,私が前回来たときとは違って,ボールパークはダウタウンに移転していたが,私は,新しいボールパークに行く予定もなければ行く意欲もなかったのだが,今回,期せずして行くことになった。
結論から言うと,さほど期待もしていなかったこの新しいボールパークは予想に反してとてもすばらしいところであった。ただし,ボールパークはすばらしくとも,このチームにはたいして見たいと思うプレイヤーがいるわけでもなかったから,ゲーム自体にはまったく興味がなかった。私は,単に,新しいボールパーク自体を見たいというだけだったので座席などどこでもよかった。
以前書いたことがあるが,アメリカのボールパークのチケットは,昔と違って,異常なほどの高値になってしまっているが,とにかく中に入ってしまえばどうにでもなるから,最も安価なチケットを買って,最上段の席で見ることをお勧めする。ゲームも後半になればもう無法地帯で,どこか空いている席をさがして座ってしまえばいいのだ。
要するに,アメリカでのベースボールというのは,日本で仕事帰りに一杯やったりするように,ボールパークに行ってわいわいするところであって,ゲームの勝敗なんてどうでもよいのである。
私は来てみて,このボールパークをとても気に入ったが,そのなかでも最も好感が持てたのは食事であった。
今回の旅ではさまざまなハンバーガーの食べ比べをしているのだが,このボールパークで食べたハンバーガーは絶品であった。そもそもボールパーク内のファーストフードはどこも量が少なく高いだけであるが,ここのハンバーガーはそれとは一線を画していた。その絶品のハンバーガーというのは「Hodad's」という店の提供するものであった。「Hodad's」というのはサンディエゴに3件あるハンバーガー店で,そのうちの1件が,このボールパークに入っている。ハンバーガーはもちろんのこと,オリオンリングがかなりの美味であった。
2018夏アメリカ旅行記-「サンディエゴ・サンセット」⑥
●「人間中心の施設」?!●
すでに書いたように,サンディエコ動物園はすごく広い。日本の動物園を想像するとまったく違う。そして,広いだけでなく,日本の各地の動物園で「ウリ」とされている様々な動物がここにはみんな揃っているのだ。
だから日本の動物園でパンダを見るために上野動物園で早朝から並んだり,名古屋の東山動物園にコモドドラゴンを入れよう,などと騒いているのが馬鹿らしく思える。そんなもの,サンディエゴ動物園へ行けばみんな見られるからだ。
話がそれるが,私はなぜかアメリカへ行くと,特に行きたいわけでもないのに動物園というところに足を運ぶ。だから,ほとんどの都市の動物園に行ったことがある。アメリカではちょっとした都市には科学館,美術館,博物館,動物園などが揃っているが,そのなかでも,動物園というのは敷居が低い。
しかし,私はやっていることと考えていることが別物で,動物園に行くといつも悲しくなるのだ。「新解さん」として有名な三省堂の「新明解国語辞典」の第4版で「動物園」の項を引くと,
・・・・・・
生態を公衆に見せ,かたわら保護を加えるためと称し,捕らえて来た多くの鳥獣・魚虫などに対し,狭い空間での生活を余儀無くし,飼い殺しにする,人間中心の施設。
・・・・・・
とある。第4版では辛辣で毒のあった「動物園」の説明は,版を重ねるごとに柔らかくなってしまったが,この第4版の説明こそが動物園の「本音」を言いえているような気する。
さて,サンディエゴ動物園では,「ウリ」のなかでもやはり一番の「ウリ」はジャイアントパンダであろう。これを見るには列に並ばなければならない。日本の動物園には現在パンダが合計9頭いるそうだが,アメリカ国内には13頭ほどいるらしい。そして,そのうちの3頭がこのサンディエゴにいる。それらはメスのバイユン(白雲=Bai Yun),オスのガオガオ(高高=Gao Gao),そして,その子のシャオ・リー・ウー(小礼物=Xiao Liwu)である。今日の1番目の写真はシャオ・リー・ウーである。バイユンは寝ていたが,ガオガオはどこにいるかわからなかった。
その下2番目の写真はレッサーパンダである。レッサーパンダは別名をレッドパンダという。
1825年西洋人がヒマラヤで発見したこの動物の名前を現地人に訪ねたところ「竹を食べる者」と言う意味の「ネガリャポンヤ」だと答え「ポンヤ」が「パンダ」に変わったとされる。このように,レッサーパンダが「パンダ」と呼ばれていたのだが,後にジャイアントパンダが発見されて有名になると「パンダ」がジャイアントパンダを指すようになって,それまでのパンダがレッサーパンダとなった。
現在はレッサーは蔑称の意味があるのでレッドパンダを使う。中国語ではジャイアントパンダは「大熊猫」(dàxióngmāo=ターショォンマオ),レッサーパンダは「小熊猫」(xiăoxióngmāo=シャオショォンマオ)と呼ばれる。
3番目の写真がコアラであるが,私は3月に本場オーストラリアでコアラをさんざん見てきたので,アメリカまで来てコアラに出会って,なにかとても不思議な気がした。
そして最後,4番目の写真がコモドドラゴン,つまり,コモドオオトカゲ(Varanus komodoensis)である。
インドネシアのギリダサミ島,ギリモタン島,コモド島などに生息する最大全長313センチメートル,最大体重166キログラムにもなるというこの生意気そうなトカゲは 非常に危険な爬虫類として知られている。口には鋭い歯が並び,のこぎり状になっており,肉は簡単に切り裂かれてしまう。しかもその歯の間に毒管があり,唾液を介して血液の凝固を妨げる毒を獲物に流し込む。血液が固まらなくなってしまうため失血によるショック状態に陥り敢え無くコモドドラゴンの餌食になってしまうという。
ところで,名古屋の東山動物園がこのコモドドラゴンを飼育しようとしているが,赤道直下のインドネシアは日中の気温が30度を下ることは少なく,コモドドラゴンは寒さに弱いために空調が完備された大型の獣舎や水温調整が可能なプールを新設する必要があり,数億円規模とされる個体のレンタル料に加えてこうした特殊な施設整備にも巨費がかかるということだが,そこまでお金をかけてまで借りてくる必要なんてないんじゃないの,と私はこのトカゲを目にして思ったことだった。
2018夏アメリカ旅行記-「サンディエゴ・サンセット」⑤
●ベースボールなんて見ている場合か!●
この旅で最も行きたかったパロマ天文台がお休みであったのは衝撃的であった。もう1日早く訪れれば見られたのだ。ドジャースタジアムでベースボールなんか見ている場合でなかった。まあ,どうにもならないことは諦めて,また来いよ,と言われていると解釈することにした。
そんなわけで,1日予定がぽっかりと空白になった私は,サンディエゴに戻ってきた。今日することがなくなってしまった私は次の手を考えなくてはならない。サンディエゴにはすでに一度来たことがあるし,私はアメリカの都会は,というよりも,世界中,都会にはほとんど興味がないので,何をしようかと考えたあげく,サンディエゴ動物園に行くことにした。
サンディエコ動物園は2か所ある。そのひとつはダウンタウンにあるサンディエゴ動物園で,もうひとつはダウンタウンから北に50キロメートル行ったところにあるサファリパークである。
私はサファリパークには行ったことがある。そこはものすごく広い動物園で,まるでアフリカのサバンナに行ったようなところであった。しかし,逆に,ダウンタウンにあるサンディエゴ動物園のほうには行っていないことを思い出したのだった。
サンディエゴのダウンタウンの北,私の泊まっているホテルから歩いて行けるくらいのところに,バルボアパーク(Balboa Park)がある。ここは約5平方キロメートルもある総合公園で,園内には動物園,自然史博物館,航空宇宙博物館,美術館,日本庭園などがある。そのなかでも最も豪華なのが動物園で,約800種,4000頭以上の動物を飼育している。
歩いて行けないこともないが,公園自体がものすごく広く,かつ,この日もまた,暑い日だったので,私は車で行くことにした。いくら広く,かつ,駐車場もたくさんあるとはいえ,アメリカはどこも車が多すぎるから,停めるスペースがあるかしらと心配であったが,なんとかスペースを見つけ車を停めて,そこから動物園の入口まで歩いて行った。
アメリカに行ったことがない人は動物園というと上野動物園ごときを想像するだろうが,そんなものと比較してはいけない。アメリの動物園は日本とは決定的に広さが違うのだ。
日本で野球を見たり,ちっぽけなキャンピングカーを買って道の駅あたりで駐車してキャンプを気取ったり,バーベキューセットを買って名ばかりのキャンプ場で楽しんだりしている人がいるが,それは,アメリカでのそうしたホンモノのレジャーを知らないからこそできることであって,その事実を知ってしまうと,もはや,そんな行為はママゴトであり,走る道もない日本で高級車で渋滞に巻き込まれている滑稽な日本人同様に,私には哀れとしか思えない。
こういうのを知らぬが花,という。
そんなわけで,この広大な動物園も,すべてをまわるには1日では不十分だが,私は,ほどほどに楽しむことにした。
まず,園内に入ったところに,園内を1周する電車があった。その乗り物の料金は入園料に含まれているということだったので,それに乗って,園内の様子を知ることにした。さらに,入園料には園内を走る二階建てバスも乗車できるということだったので,次にそのバスに乗って,今度は高い場所から園内を1周した。
その後で私は昼食をとることにした。お昼に食べるものは野菜に限る。この国ではサラダと言っても,日本とは大きさが全くちがうから,サラダとジュースで十分に昼食としての目的を達することができるのだが,どこの売店もけっこう並んでいて,食事にありつくのがたいへんだった。
2018夏アメリカ旅行記-「サンディエゴ・サンセット」④
●天文台のゲートが開かない●
☆5日目 2018年6月29日(金)
この旅の目的はパロマ天文台行くことであった。事前に調べてみると,パロマ天文台の口径5メートル大望遠鏡は年中無休で公開されているということだったので,行けば見られると思っていから,それ以上の情報を調べていなかった。そして,その後でロサンゼルスに戻ってその近くにあるウィルソン山天文台へも行こうと思っていた。この旅で国立公園とMLBの観戦はその付録であった。
そこで,私は今日の朝,もっとも行きたかったパロマ天文台に向けてホテルを出た。約1時間ほど走れば目的地に到着できそうであった。
パロマ天文台の口径5メートル余りの反射望遠鏡は,しばらくの間世界で最も口径の大きな望遠鏡であったから,星に興味がない人でもおそらくその写真を見たことがあろるだろう。しかし,私も含めて,どこにあるのかということまで知っている人は多くない。
私は子供のころにこの望遠鏡のことを知って,アメリカはなんとすごい国だろうかと思ったが,実際はアメリカがすごいのではなく,アメリカに住んでいる人がすごいのである。この望遠鏡はアメリカが国の予算で作ったのではなく,アメリカに住む金持ちロックフェラーの寄付で作ったのである。
パロマ天文台(Palomar Observatory)はサンディエゴから北東60マイル,約100キロメートルのところにあるパロマ山に作られた「私設」の天文台で,現在,天文台はカリフォルニア工科大学に所属している。
天文台には有名な口径200インチ(5.08メートル)通称「ヘール望遠鏡」(Hale Telescope)や,48インチ(1.22メートル)通称「サミュエル・オシン望遠鏡」(Samuel Oschin Telescope)などの施設がある。ヘール望遠鏡は天文学者ジョージ・ヘール(George Hale)の名前にちなんで命名された。この望遠鏡はロックフェラー財団から600万ドルの資金援助を得てカリフォルニア工科大学によって1948年に建設されたもので,エドウィン・ハッブルが完成当時世界最大だったこの望遠鏡を最初に使用し,百を越える小惑星を発見した。
サンディエゴから州道163を進み,パウマバレー(Pauma Valley)という新興住宅地を越えると,やがて山のくねくね道を進むようになった。
道路には天文台のマークがあって,いやが上にもムードが盛り上がってきた。道路が天文台に進む最終地点で道路の脇に「Close」と書かれた表示板があったが,それはおそらく天文台が公開される午前9時よりも早いという表示だと私は思った。
私は,この数か月前に長野県の木曽観測所にシュミット望遠鏡の見学に行ったが,このとき,木曽福島から木曽観測所に向かう狭い山道を思い出し,その差に愕然としたのだった。アメリカに行くと,施設だけでなく,こうした施設に向かう道路の整備だけでも,その金のかけ方の違いにいやになる。ハワイ島のマウナケアなどは,それに加えて,天文台の環境を守ろうという意識さえもが日本とはまったく異なっている。
本当に日本というはなさけない,かつ,貧しい国だと,改めて思うわけである。
やがて,山の間にドームが見えてきて,これが夢にまで見た天文台だと感激した。そうこうするうちに,天文台の入口に到着した。天文台の公開開始時間よりも30分も早かったので,私は入口に車を停めて,ゲートが開くのを楽しみに待った。
時折,天文台の職員が車で登って来ては,右側の関係者のゲートから中に入っていくようになった。彼らは私の車に手を振ってくれた。しかし,9時を過ぎて,いつまで待ってもゲートが開かなかった。
中で何やら工事をしている人がいたので,大声で叫んでゲートまで来てもらって訳を聞くと,今週は駐車場の工事だから公開はお休みだと言うではないか。こんなことってあるのだろうか! よほど無理を言ってせめて望遠鏡くらい見せてもらおうと思ったが,誰ももうゲートには来なかった。
2018夏アメリカ旅行記-「サンディエゴ・サンセット」③
●デンバーのような都だった。●
私はアメリカに限らず,都会にはほとんど興味がないから,都会で何をしたらいいのかがよくわからない。ショッピングといったって,欲しいものがまったくない。それに,今は世界中どこに行っても売っているものはそれほど変わるわけでもない。
そもそも断捨離を心掛けてみると,「モノを買う=ゴミを作る」という行為であると思うようになった。したがって,サンディエゴのダウンタウンに出かけても,単に散歩をするくらいしか時間のつぶしようがないのだ。
食事もまた,栄養価がちゃんとあってお腹を満たせればいいと思うのだし,酒は飲まず興味もないから,レストラン巡りをする気もない。
空港では免税店が並んでいるけれど,一体全体,どうしてあんなものが売られていて,それを観光客がお土産とかで買っているのか,私にはまったく理解ができないのだ。
そんなわけで,私はわざわざサンディエコまでやってきて,しかも2泊したのだが,この町でやったのはMLBのゲームを見ただけであった。
いや,すでに書いたように,本当はちゃんとした目的があった。しかし,次回詳しく書くように,その目的が破たんしてしまったのだから,私のこの2泊はMLBを見たという以外に何も残らなかったのだった。
チェックインを済ませてホテルを出た私が大きな間違いをしていたのは,目指すサンディエゴ・パドレスの新しいホームグランドがホテルの近くにあると誤解していたことだった。私の持っていた地図にボールパークとあったから,私はそれが目的地であると思っていたのだが,行ってみたら,それは大学の野球場であった。
改めて調べなおすと,サンディエゴ・パドレスのペトコパークはホテルからは少し遠く,徒歩で20分くらいであった。それでも歩けない距離ではなかったので,私はダウンタウンを歩いて抜けて,ともかく明日のゲームを見る下見にと,ボールパークまで行ってみた。
この日はなにかしらの催しものをやっていて中に入ることはできなかったが,外観からしてボールパークは想像以上に立派であった。
前回来たときに行ったクアコロム・スタジアムというNFLと共有の古臭いボールパークはダウンタウンのはるか北にあって,車がなければ行くことができなかったが,2004年にホームグランドがダウンタウンに移ってきて,徒歩圏内になった。
それはそれでいいのだが,サンディエゴもまたアメリカのほかの都会と同じような感じになってしまった。アメリカの多くの都市は,再開発でそれまで治安の悪かったダウンタウンに商業施設が並び,そこにボールパークができる。それはセントルイスもミネアポリスも同じようなものだ。今回来てみて,サンディエコはデンバーそっくりだと思った。
ただし,サンディエゴにはホームレスがやたらと目についた。温暖な気候がそうさせるのであろう。しかし,このホームレスたちは恵まれていて,バルボアパークの一角にホームレスを支援するキャンプがあって,そこで食事が賄ってもらえるらしい。そこで,バルボアパークにホームレスが列を作っていた。
はじめてアメリカを訪れるのなら珍しい景色も,私には今や珍しくもなく,だから好奇心もなくなってしまったので,日本のどこにでもある都会を歩くようにしてこの町を歩いた。しかし,レストランに入ったところでさして大したものがあるわけでもなく,でも食事は高くさらにチップが必要だから,そうしたアメリカのシステムには飽き飽きしているので,今日もまた,適当なファーストフード店に入ってそれを夕食にしようと,ホテルの近くにあったバーガーキングでテイクアウトをした。
バーガーキングは日本にもあるハンバーガーチェーンだが,バーガーキングはたいして特徴のない店である。ハンバーガーが取り立てておいしいわけでもないし,変わった種類のものがあるわけでもない。フラドポテトもまた,あげたポテトに塩味がついているだけのものである。他に選択肢があれば私は入らない。客層もまたいいとはいえない。
食事は日本が一番とは思うが,それでも,考えてみれば,それほど変わったものががあるわけではない。さらに,今はどこもチェーン店になってしまっていて,そこに新たなチェーン店を進出させるには,既設店殿差別化を図る意味と採算性を考えて,やたらと値段が高いだけの店ができてきた。
2018夏アメリカ旅行記-「サンディエゴ・サンセット」②
●サンディエゴに来たわけは●
サンディエゴ(San Diego)はカリフォルニア州でロサンゼルスに次いで人口が多く,約130万人。ちなみに,ロスアンゼルスは約380万人である。
1542年にポルトガル生まれのスペインの探検家フアン・ロドリゲス・カブリージョ(Juan Rodríguez Cabrillo) ージュアン・ルドリゲシュ・カブリーリュ(João Rodrigues Cabrilho)ともいうー がスペイン船でロマ岬(Point Loma)に到着し,この地を「サン・ミゲル(San Miguel)と名づけた。1602年,植民地開拓に来たスペイン人のセバスティアン・ビスカイノ(Sebastián Vizcaíno)が「サン・ディエゴ・デ・アルカラ」の祭りの日に「サン・ミゲル」から「サン・ディエゴ」に町の名前を変更し,これ以来この都市の名前となった。
私はロサンゼルスには全く魅力を感じないが,サンディエゴはゆっくりと過ごしてもよい町だと思っている。この町のダウンタウンはデンバーやオレゴン州のポートランドなどと同じような,アメリカの大都市にしては歩いて観光ができるすてきな場所であるから,若き日の八神純子さんがほれ込むのも無理はない。
そしてまた,現在,アメリカの大都市はどこも宿泊代が高いが,私が予約したサンディエゴのダウンタウンのホテルは安価で,しかも,過ごしやすいところであった。
インターステイツを降りたところにそのホテルはあった。ホテルの前の道路は一方通行で,アクセスする方法が少しわかりにくかったが,それが逆に車が通らないというメリットとなっていた。
チェックインをして部屋にキャリーバッグを入れ,さっそく町に出てみた。
今回,サンディエゴに2泊したが,夕方に到着して出発の日は早朝なので,サンディエゴの滞在はその中日のわずか1日であった。私はその日にサンディエゴを観光する気持ちはなかった。今回,私がサンディエゴに来た理由は,パロマ天文台に行くためであったからだ。しかし,この,私がサンディエゴに来た理由は消滅してしまう。それは後で詳しく書くことになるが,パロマ天文台に行くことができなかったからである。
ただし,私がサンディエゴに来たのは,パロマ天文台に行くということに加えて,MLBサンディエゴ・パドレスの新しいボールパークに行ってみたいという理由もあった。
私が前回サンディエゴに来たのは7年前のことであった。このときもサンディエゴ・パドレスのゲームを見たが,そのとき行ったのは古いボールパークであった。
サンディエゴ・パドレスは1969年に創設された比較的新しいチームで,創設以来,クアルコム・スタジアム(Qualcomm Stadium)をホームグランドにしていた。このクアルコム・スタジアムはNFL(アメリカンフットボール)のサンディエゴ・チャージャーズと兼用する,クッキーカッター型の,コンクリート丸出しで代表的な不人気ボールパークであった。
そのときのゲームはサンディゴ・パドレスとニューヨーク・メッツが対戦し,ニューヨーク・メッツには新庄剛志選手がいた。そして,サンディエコ・パドレスではメジャーリーグを代表するセーブ投手のトレバー・ホフマン(Trevor William Hoffman)が登板した。
今から思えばよき昔のことである。
2018夏アメリカ旅行記-「サンディエゴ・サンセット」①
●アメリカは人も車も多すぎる。●
ドジャースがリードしたまま,クレイトン・エドワード・カーショウ投手は5回で降板した。このままいけば勝利投手であった。これでお勤めご苦労さんといった平凡なゲームであった。
最後までゲームを見届ければ帰るときに駐車場はごった返すし,私はこのあとサンディエゴまで行かなければならないので,いつものように,7回表まで見て,7thイニングストレッチが終わったところでボールパークを後にしたが,後で知ったことには,このゲームは終盤にドジャースは大逆転を食らって負けた。
ドジャースタジアムからはすぐにインターステイツに入ることができる。ロサンゼルスからサンディエコまではインターステイツ5を南に向かって走るだけだった。私は以前走ったときの印象から,このロサンゼルスからサンディエゴまではやたらと車が多いだけでまったく面白みのない道路だということしか印象になかった。
八神純子さんに「サンディエゴサンセット」という歌がある。
・・・・・・
ハッピーエンドの映画のように
あなたと旅に出たけど
こんなに遠くまで来たのは
彼女を忘れるためなのね
どうぞ触れてみて
あなたを愛するこの髪に
夢のサンディエゴ哀しいほど
あなたが好きなの
夢のサンディエゴサンセット今だけは
私を見つめて
・・・・・・
から歌詞がはじまる。
彼女は若いころアメリカに憧れ,こうした「アメリカ大好き」曲をたくさん作った。そして,念願かなって結婚してアメリカに住んだが,子育てが終わったら,再び日本で活動を再開した。
これは私の推測だが,彼女は若き日の夢から醒めてしまって,今や,日本のほうが好きなのだろうと思う。それとは違うかも知らないが,私は(も)アメリカ50州を制覇したら,アメリカには夢も興味もなくなった。だから,今はアメリカに住んでいる人をまったく羨ましいとも思わないし,住みたいとも思わない。
確かに40年くらい前のアメリカには夢がたくさんあった。それは自分が若かったことも多分にあるのだろうが,しかし,当時に比べて,今のアメリカは人も車も多すぎるし,やたらとセキュリティにうるさくピリピリしている。それでも,のどかなロッキー山脈のふもとならまだましだが,大都会なんて御免である。
ロサンゼルスからサンディエゴまではこのときもまた慢性的な渋滞であった。渋滞の一番の原因は,ロサンゼルスの市内から郊外に出るまでの間,インターステイツ5の車線が少ないということであった。一旦郊外に出れば少なくても片側6車線,多いところは8車線もあるのに,ロサンゼルス近郊は3車線しかない。やっと今,それを拡張する工事をしていた。車線が少ないことに加えて,工事中というのもまた渋滞に輪をかけていた。
渋滞の中を延々と走っていや気がさしてきたころ,やっと,左手に,テレビで大谷翔平選手が活躍するのを日本で頻繁に見るロサンゼルス・エンジェルスの本拠地「エンジェルス・スタジアム・オブ・アナハイム」(Angels Atadium of Anaheim)が見えてきた。このあたりはディズニーランドもあるオレンジ郡とよばれるところだ。昔はのどかな田舎であったはずだが,今はここもまた一大リゾートタウンだ。
やがて,やっと車線が増えて,車も順調に走ることができるようになってきたら,そのうちにサンディエゴの摩天楼が遠くに見えてきた。そうしたら,ふたたび道路が渋滞しはじめた。
何度でも書くが,いまやアメリカは車の洪水である。もう,この国は完全な飽和状態だと言っても過言でない。
◇◇◇
ニューヨークの想い②-貧しきものよ,この国においで。
2018夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻ろうと⑧
●われらが英雄「ヒデ~オ,ヒデ~~オ」●
ロサンゼルス・ドジャーズといえば,野茂英雄投手を忘れることはできない。野茂英雄投手がいなければ松井秀樹選手もイチロー選手も大谷翔平選手もいない。彼はMLB日本人選手の高見山関である。
今でもドジャースタジアムにはこの野茂英雄投手の足跡を見ることができるが,これは,シアトルのセイフコフィールドにイチロー選手の足跡を見ることがでできるのと同様に,私にはとてもうれしいことである。
野茂英雄投手は大阪市出身。「トルネード投法」と呼ばれる独特なフォームから繰り出されるフォークなどで三振を量産した。現在はサンディエゴ・パドレスのアドバイザーをしている。
日本のプロ野球,近鉄バッファローズに所属していた1994年の契約更改で,数年契約と代理人交渉制度を希望したが,球団はそれを拒否し,この際に「君はもう近鉄の顔ではない」と言い放たれたという。そして,球団は野茂が近鉄でプレーする意思を表明しない限りトレードや自由契約ではなく「任意引退」として扱おうとまでした。さらに,同じ投手出身の監督であった鈴木啓示との確執もあり,野茂英雄投手は近鉄を退団し,メジャーリーグに挑戦した。当時,任意引退による球団の保有権は外国の球団にまでは及ばなかったことから,メジャー球団と契約することが可能だったのだ。
ただし,当時,日本では野茂英雄投手はまさに「国賊」的な扱いを受けた。日本らしい話である。
野茂英雄投手は,1995年ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだ。年俸は近鉄時代の1億4,000万円からわずか980万円になった。そして,5月2日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビューを果たし,村上雅則投手以来31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなった。
この年のシーズンは13勝6敗を記録した。そして,最多奪三振のタイトルを獲得し,チームの7年ぶりの地区優勝に貢献し,アメリカで「NOMOマニア」という言葉が生まれる程の人気を誇った。
NHKでは,野茂英雄投手が現役のときは特別扱いをし,登板のときは必ず放送してそれに報いたが,日本の野球界は最後まで冷淡な扱いをしている。
この日のドジャースの先発はクレイトン・エドワード・カーショウ(Clayton Edward Kershaw)投手であった。クレイトン・エドワード・カーショウ投手はテキサス州ダラス出身で,ロサンゼルス・ドジャースの押しも押されぬエースである。
2011年には最多勝利,最優秀防御率,最多奪三振の投手三冠を獲得した。また,2014年にはシーズンMVPに輝き,通算で3度サイ・ヤング賞を受賞している。
オーバースローから常時93マイル,約150キロ前後のフォーシームと80マイル,約140キロの切れ味鋭いスライダーが投球の8割超を占め,そこに縦に大きく割れる70マイル,約110キロのカーブを織り交ぜる。私は,この日の先発がこの大投手であったことに満足した。
この旅を計画したとき,大谷翔平投手の入団先は決まっていなかった。やがて,ロサンゼルス・エンジェルスに決まったとき,私はその幸運に驚いた。そして,この旅で大谷翔平投手を見ることができることを楽しみにした。ところがどうであろう,この旅行期間中,エンジェルスは地元を離れていて,私にはそれがかなわなかった。そこで,ドジャーズのゲームを見ることになったのだが,それが幸いして大投手カーショーを見る機会に恵まれたのだった。まあ,大谷翔平選手はまだ若いから,あせらずとも近い将来見ることができるであろう。
2018夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻ろうと⑦
●時代遅れのボールパーク●
日本人の多く住むロサンゼルスは日本からの観光客も多いので,生れてはじめてメジャーリーグを見るためにこのドジャースタジアムを訪れた人もかなりいると思うが,ここは意外と不便な場所で,個人で行くにはレンタカーがないと難しい。私がはじめてアメリカへ行ったのは今から38年前のロサンゼルスとサンフランシスコへのツアー旅行だったが,そのときは,ドジャースタジアムでゲームを観戦する高価なオプショナルツアーに参加した。
ドジャースタジアムは,そのころはできたばかりで立派なボール―パークだったが,今では「竹」レベルのボールパークとなってしまった。前回書いたように,現在の「松」レベルのボールパークの多くは大都市のダウンタウンにあって,大概はホテルから徒歩圏内である。あるいは,地下鉄などの公共交通で容易にアクセスできる。ドジャースタジアムのような,広い駐車場をもつモータリゼーション頼みのボールパークは,アメリカでは今や時代遅れなのだ。しかも,車以外で行けないのにもかかわらず駐車料金がかなり高いとなると,チケット代がその分だけ割高ということになってしまう。
1958年にドジャースがニューヨークのブルックリンからロサンゼルスに移動し,1962年にドジャースタジアムを建設したとき,この場所は荒地で,メキシコ人の集落があっただけだった。その場所にドジャースは「永遠のホーム」を完成させた。かつて,ウォルター・オマリー(Walter Francis O'Malley)オーナーが存命の時代は接客サービスを徹底させて人気になったがやがて低迷期が続いた。
現在の「松」クラスのボールパークに比べて設計が古く,ファールグランドが広かったので,2000年に大掛かりな改修工事が行われ,ファールグランドを狭くしてその場所にスタンド「ダッグアウトクラブ」を増設したことで,グランドの形態だけは新しい形のボールパークとなった。
しかし,私ががっかりしたのは,イスが汚く鳥の糞に汚れたままだったし,開始前というのに掃除が行き届いていないので,客席の下はすでにゴミだらけだった。これまでに私が行った多くのボールパークのなかでここは最悪であった。
グランドの周囲を歩いてみたが,ここもまた,カンザスシティのカウフマン・スタジアムと同じように,古くささはかくせなかった。ただし,カウフマンスタジアムよりマシだったのは,どの席でもフリーWifiが通じることであった。
食べ物はそれなりにいろんなものを売っていて,ハワイアンもイタリアンもあったが,日本食はなかった。
ボールパークに限ることでないが,このごろのアメリカは日本の影が薄い。というより,日本は世界の中で極めてマイナーな国になってしまったと痛感する。以前はテレビやオーディオ,そして車などの工業製品は日本製品ばかりだったが,いまや車以外には見る影もない。カメラは未だに日本製品ばかりだが,プロのカメラマン以外はスマホばかりになってしまって,カメラ自体を持っている人もほとんどいなくなった。
ここの食べ物の名物は「ドジャードッグ」というホットドッグだ。私はここでもホットドッグではなく,ハンバーガーを食べることにしたのだが,ここのハンバーガーは意外とおいしかった。
2016年,ドジャースタジアム近くの通りの名称が「ビン・スカリー通り」(Vin Scully)と改名された。ビン・スカリー氏は1950年からドジャースの専属実況アナウンサーとして活動し,2016年に引退した。1996年,野茂英雄投手のノーヒットノーランでも実況を担当した。 決まり文句や絶叫に頼らず,大記録達成時には歓声や拍手を聴かせるため沈黙に徹する手法が特徴で「20世紀で最も偉大なスポーツ・アナウンサー」「ドジャースの声」「ロサンゼルスの声」といわれた。
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You and I have been friends for a long time, but I know in my heart that I've always needed you more than you've ever needed me, and I'll miss our time together more than I can say. But you know what? There will be a new day and eventually a new year. And when the upcoming winter gives way to spring, rest assured, once again it will be "time for Dodger baseball." So this is Vin Scully wishing you a very pleasant good afternoon, wherever you may be.
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また,2017年4月にはデビュー70周年を記念してジャッキー・ロビンソン選手の銅像が建てられた。このボールパークの見ものというのはそれくらいのモノしかなかった。
2018夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻ろうと⑥
●ジャッキー・ロビンソン選手の銅像●
私がはじめてメジャーリーグベースボールを見たのは38年前のことで,それはこのドジャースタジアムだった。当時はドジャースタジアムはロサンゼルスのダウンタウンからはずいぶんと遠い郊外にあったような気がした。
2度目にドジャースタジアムに来たのは18年前の5月であった。そのころのドジャースは弱く,球場もぼろく,客席はガラガラであった。しかし,私がダウンタウンから遠いと思っていたのは誤解で,チャイナタウンからすぐの場所であるのに驚いた。ドジャースタジアムは有名な割に日本からの観光客にはアクセスが困難なボールパークで,観光客は結構高価なオプショナルツアーで来るか,レンタカーを借りて来る必要がある。わざわざゲームを見るだけのためにレンタカーを借りてやって来た日本人の若者と出会ったのもこのときだった。
あれから月日が経って,ドジャースは強くなった。ドジャースタジアム自体は場所も外形も変わっていなかったが,ボールパークの内部はずいぶんとリニューアルされたので,一度来てみたかった場所であった。
インターステイツ15をロサンゼルスに向かって走ってきて,ドジャースタジアムの道路標示にしたがってジャンクションを降りると,すぐにスタジアムの外周道路に出た。
ドジャースタジアムのまわりには広大な駐車場がある。以前は無料であったが,今回来てみると駐車場の入口にゲートがあって有料に変わっていてびっくりした。ドジャースよ,お前もか,という感じであった。
今とは違ってメジャーリーグが斜陽だったころはチケットも安く、何かしら退廃的なムードが漂っていて,私にはおもしろかったが,このごろは高級なレジャーに様ざわりしてしまった。チケットもその頃の何倍にも高くなって,5,000円出しても内野の上段か外野の席しか買うことができなくなった。約100年前に建てられたままのボストンとシカゴ以外はどこのボールパークも新しくなって豪華にはなったが,どこへ行ってもあまり変わりがえがなくなって,あえて行ってみたいと思うところが少なくなった。プレイヤーも小粒になってあえて見たいという選手が少なくなった。
この日のチケットは持っていなかったが,購入できないほど混んでいるとも思えなかったので,私は安くない駐車料金を払って車を停めて,チケットを買いに行った。
窓口でいくらぐらいのチケットが欲しいのかと聞かれたので50ドルと言って,適当な席のチケットを購入した。そんな見栄を張らずとも,一番安い席だと言えばよかったと後で後悔した。
まだゲームの開始には時間があったので,中に入る前にまわりを散策した。ドジャースタジアムは,同時期につくられたカンザスシティ・ロイヤルズのカウフマン・スタジアムと似ていた。メジャーリーグのボールパークは,シカゴ・カブスのリグレーフィールドとボストン・レッドソックスのフェンウェイパークはすでに歴史的建造物なので別格として,残りを「松」「竹」「梅」と分類すると,「梅」,つまり最低ランクにあたるのがオークランド・アスレチックスのコロシアムとタンパベイ・レイズのトロピカーナフィールドだが,ともに,ついに新しいボールパークを建設することが決まったらしい。そして「竹」にあたるのがカウフマン・スタジアムとドジャースタジアムである。はっきりいってボロいが,ともに新たに作りなおす気がなく改装したばかりだから,当分はこのボールパークのまま使われることになりそうだ。
ボールパークの外にはジャッキー・ロビンソン選手の銅像があった。ジャッキー・ロビンソン(Jack Roosevelt "Jackie" Robinson) 選手は黒人初のメジャーリーガーで,当時ニューヨークに本拠地を持っていたブルックリン・ドジャースのプレイヤーであった。ジャッキー・ロビンソン選手の生涯は2013年に公開された「42 世界を変えた男」という映画に描かれた。
◇◇◇
来年まで待とう-ロサンゼルス・ドジャース
「42 世界を変えた男」-ロビンソンからリベラへ
愛しきアメリカ-アメリカのボールパーク①
2018夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻ろうと⑤
●私の愛するアメリカの田舎道●
☆4日目 2018年6月28日(木)
私はこの日のことを,ずっと後悔することになる。
この日,私は泊まっていたイニョカーンからどんどん南下して,サンディエゴまで行くという予定であった。距離として230マイル,約370キロメートルなので,名古屋から東京くらいのものか? ともかく,日本と違ってずっと時速100キロメートルくらいで走れるからわずか4時間という距離だった。
この旅では,これまでの3日間は,はじめの計画からはいわば「おまけ」的な存在であった。今回の旅の1番の目的はサンディエゴ近郊のパロマ天文台とロサンゼルス近郊のウイルソン山天文台に行くことであって,そのついでに,このふたつの都市にあるメジャーリーグベースボールのゲームを見るというのが2番目の目的であった。その「おまけ」として,せっかく来たのだから,もし行けるのだったら,ロサンゼルスの北にあるセコイア国立公園とデスバレー国立公園に寄ろうと思ったわけだった。
これまでに書いたように,その「おまけ」は想定以上にうまくいったし,楽しかった。この時点では,本来の目的よりも,こちらのほうが旅の目的になってしまったようなものだった。
そんなわけで,いよいよ今日からが本来の目的である天文台巡りとベースボールの観戦であった。
帰国はロサンゼルスからなので,はじめにパロマ天文台のアクセス都市であるサンディエコまで行ってしまって,そこから順に戻ってくるという計画であった。
この日の夕刻にサンディエゴに着くことできればいいのだから,時間は十分にあった。そこで,サンディエコに行く途中で,ロサンゼルスでベースボールのゲームを見ることにした。メジャーリーグは金曜日から相手チームが変わるので木曜日のゲーム終了後に移動があるから,木曜日はデーゲームになることが多い。この日は木曜日で,これもまた好都合であった。ただし,残念だったのは,ロサンゼルスではドジャースのゲームはあったが,大谷選手の属しているエンジェルスのゲームがなかったことだった。ドジャースの先発ピッチャーはエースのカーショーと発表されていたから,大谷選手は見ることができなかったが,それでも私は今回も自分の強運に感謝した。
午前中にロサンゼルスまで行くことができればゲームに間にあうから,朝は比較的遅く出発した。
チェックアウトをしようとフロントに行くと,そこには朝食用のパンケーキがおいてあったから,これをいくつかもらって朝食にした。そして,途中のガソリンスタンドで冷たい水を買った。
これで準備終了である。
イニョカーンという小さな町は特に何があるというわけでもなく,モーテルも単なる田舎のモーテルだったし,暑いところだったが,きっと,私にはずっと忘れられない場所になるであろうと思われた。
アメリカに限らず,私は,今や,人と車だらけの大都市には全く魅力を感じない。むしろ,こうした何もないような田舎で何をするでもない1日を過ごすことに憧れるのだ。
とりあえずはロサンゼルスまで南下である。イニョカーンからロサンゼルスに行くには南向きに道が二股に分かれていて,南南東に行くのが国道395で,南南西に行くのが州道14である。このうち,州道14は来るときにジャンクションが工事中でイニョカーンで降りられなかったほうの道路である。イニョカーンからはすぐに国道395に入ることができるし,カーナビもその道を示したので,私は国道395南下することにした。
アメリカの道路は地図を見ながら想像するのと,実際に走ってみるのとでは大違いである。
イニョカーンを出て私がロサンゼルスに向かって走ったのは今日の1番目の写真のような道であった。地図ではわからないが,このあたりは,こんな景色が延々と続いているのだった。ロサンゼルスからさほど遠くないのに,まるでユタ州のような風景であった。
そのうち,2番目の写真のように,道路際に小さな集落があったりしたが,その家々を見ると,ずいぶんと貧しそうなところであった。さらに進むと,クラマージャンクション(Kramer Junction)という交差点があって,そのあたりは道の駅のような感じで,それまで少なった車両が急に増え,コンボイも行き交っていた。その交差点でほとんどの車が右折をした。私はもともとは直進してさらに南向きに走る予定であったが,私の走ろうと思っていた道路は交差点をすぎると狭くなっていくように見えたので,道を間違えたと思って,私も右折をしてしまった。しかし,それはロサンゼルスに向かう道路でなくて,1日目に泊まったベーカーズフィールドを経由しサンノゼからサンフランシスコに行く道路であった。私はしばらく走ってやっとそのことに気づいて,途中でUターンをして,再び先のジャンクションに戻って,今度こそ南下を続けた。
道路が狭いと思ったのは間違いで,単に道路を2車線に拡張する工事中であった。
さらに南下をしていくと,やがて,へスペリア(Hesperia)という町に出た。この町まで来ると,そこはもうロサンゼルスのベッドタウンで,辺りは広大な分譲住宅が建設中であった。その町を過ぎると,これまで走ってきた国道395はついにインターステイツ15と合流した。
いよいよこの先が片側6車線あっても慢性的に渋滞するロサンゼルスの都市圏であった。
2018夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻ろうと④
●アメリカのハンバーガーチェーン●
日本にはマクドナルド,ロッテリア,そして,モスバーガーというハンバーガーチェーンがある。こうしたハンバーガチェーンで売られているハンバーガーが,日本人にハンバーガーに対する間違ったイメージを構築していると,私は思う。
アメリカではハンバーガーというのは日本でいうおにぎりのようなものだし,高級なハンバーガーはパンとビーフとサラダを一緒に食べることができるきわめて合理的な食べ物である。
そこで,今回の旅では,日本にないハンバーガーチェーン店に入ることをひとつの楽しみとした。
アメリカを走ってみると,日本で有名なものから無名なものまで,ハンバーガーチェーン店が数多くある。ここでは,それらのうち,よく目につく私が気になっているものをいくつかあげてみよう。
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●「マクドナルド」
まずはご存知「マクドナルド」(McDonald's)である。アメリカでのファーストフード店の店舗数は14,000店以上あって,第2位の,ハンバーガーチェーンではないが,サブウェイとは3倍ほどの差がある。どの町に行っても,マクドナルドさえ見つけることができれば,腹をすかすことはないであろう。
●「バーガーキング」
「バーガーキング」(Burger King)はフロリダ州のマイアミ・デード郡に本部があるが,これもまた数は多くないが日本にもある。アメリカのハンバーガーチェーンではマクドナルドに続いて第2位の規模をもつ。
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これ以降は,日本にはないか少数の店舗しかないが,アメリカではよく見かけるチェーン店をあげる。
●「ウェンディーズ」
「ウエンディーズ」(Wendy's)は1969年にオハイオ州の州都コロンバスに誕生した。日本では六本木と表参道にあるだけだが,アメリカでは第3位の規模をもつ。赤毛,三つ編み,そばかすの女の子が目印である。
●「カールズ・ジュニア」
「カールズ・ジュニア」(Carl's Jr.)は,アメリカで私のお気に入りのチェーン店である。ここのハンバーガーはおいしい。このチェーン店は1941年にカリフォルニア州のカーピンテリアに誕生した。現在,アメリカ西部を中心に1,349店舗を展開しているが,西部では「Carl's Jr.」,東部では「Hardee's」という別の名前になっている。可愛い☆のマスコットが描かれていてよくわかる。
●「アービーズ」
「アービーズ」(Arby's)は1964年にオハイオ州のヤングスタウンに誕生した。全米で3,400店舗以上を展開する。ローストビーフがメインで,看板にはテンガロンハットをかたどったマークが目につく。
●「ジャック・イン・ザ・ボックス」
「ジャック・イン・ザ・ボックス」(Jack in the Box)は1951年にカリフォルニア州のサンディエゴに誕生した。主にアメリカ西部やアメリカ南部の21州にある。
●「ワッターバーガー」
「W」をあしらったトレードマークの「ワッターバーガー」(Whataburger)は1950年にテキサス州のコーパスクリスティに誕生した。アリゾナ州からフロリダ州にかけて南部を中心に740店舗を展開していて,私はテキサスを走っているときによく目にした。
●「インアンドアウトバーガー」
今回行こうと思って結局行きそびれた「インアンドアウトバーガー」(In-N-Out Burger)は1948年にカリフォルニア州のボールドウィンパークに誕生した。カリフォルニア州を中心に281店舗を展開する。味にこだわっていておいしい…らしいが,食べたことがないからわからない。ここは裏メニューで有名だという。
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●「クラシックバーガー」
そして,この晩私が入ったのが「クラシックバーガー」(Classic Burger)であった。ここのハンバーガーもまたなかなかおいしかった。
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日ごろ日本ではほぼマクドナルドしか行かない私だが,こうして今回の旅でさまざまハンバーガーチエーンに行ってみて,ハンバーガーは捨てたものではないということを認識したのだった。
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2,000 times Anniversary of uploaded this blog today.
ブログをはじめて67か月。
今日2,000回目の更新を迎えました。
いつも読んでいただいて,
どうもありがとうございます。
2018夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻ろうと③
●マウントホイットニーを望むために●
マウントホイットニー(Mount Whitney)はシエラネヴァダ山脈にある山で,標高は4,418メートル,アラスカ州を除くアメリカ本土で最も高い山であることはすでに書いた。1860年ごろにカリフォルニアの地質学調査に来ていたハーバード大学の地質学教授ジョサイア・ホイットニー(Josiah Whitney)によって命名された。
1873年,チャールズ・ベゴーレ(Charles Begole),A・H・ジョンソン(A. H.Johnson),ジョン・ルーカス(John Lucas)がはじめて登頂に成功した。現在は,マウントホイットニーへの指定区域内への入山は日帰り登山の人数制限があり,1日100人と定められている。
マウントホイットニーはセコイア国立公園の東側にあるのだが,セコイア国立公園からは山がじゃまをして見ることができない。この山を一番美しくみることができるのが州道395沿いのローンパインなのである。
州道395の西側にそびえる国内有数の高い峰々はどれも美しいが,なかでも,マウントホイットニーは思わず目を奪われる迫力がある。
頂上付近が角のようになったこの花崗岩の山はその圧倒的な巨大さとまったく木が生えていないゴツゴツした岩山や尖った峰が見えるが,実際は驚くほど歩きやすく登山が可能なのだそうだ。
片道17.1キロメートルのコースは日帰りで往復することもできるという。
ほとんどのバックパッカーはコンサルテーション湖にテントを設営し,そこに重い荷物を置いて山頂までの最後の山道に続くジグザグの急坂に挑むという。
ローンパイン湖までは許可証不要のハイキングができるが,それはホイットニーポータルから出発することができる。ということで,私はローンパインのダウンタウンを抜けて,ホイットニーポータルを目指して,車で山道を登っていった。
ホイットニーポータルは標高2,552メートルということなので,ハワイ島マウナケアのオニヅカビジターセンターと同じような標高であった。
山道を走っていた間はまったく車とすれ違わなかったが,到着してみると,駐車場は車で一杯であったので,停める場所を探すのにずいぶん苦労した。
ここには松林に囲まれた美しいキャンプ場と土産が買えるショップがあった。
野生のクロクマに狙われる可能性があるので,食べ物や他の注意すべき物は片づけて捨てるようにと説明している警告があった。日本に限らずここでもクマが出ることに,私は怯えたのだった。しかし,わざわざ登っていったのに,このホイットニーポータルからは木々と別の山並みが邪魔をして,ホイットニーを見ることはできず,むしろ,ローンパインからのほうがずっと眺めがよく,私はがっかりした。
2018夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻ろうと②
●ローンパインは西部劇の聖地●
ローンパインは南に位置するロサンゼルスと北に位置するサンフランシスコの間を通る「パノラマ街道」とよばれる州道395沿いにあるが,サンフランシスコのベイエリアからローンパインへ行けるのは夏の間だけと限られている。それは,州道395が西のシエラネバダ山脈と東のロッキー山脈の間の谷あいにあるからで,冬の間,この州道395に通じるほとんどの道は深い雪が降るので,スキー場のあるあたりまでがやっとで,その先の峠の手前で封鎖されてしまうからだ。
そのため,ローンパインは夏の短い観光シーズンだけで細々と生き続けてきた小さな田舎町なのである。
しかし,厳しい冬には旅行をしない私のような旅人には,こうしたアメリカの田舎町は悪くない。これぞ,子供のころに夢にまで見たアメリカの原風景だからである。アメリカ好きの人の多くは,アメリカのこうした風景見たさに足を運ぶのであり,決して,ニューヨークやらサンフランシスコやらロサンゼルスに行きたいわけではないのである。
このローンパインの町は,UFO好きが一度は行ってみたいニューメキシコ州の田舎町ロズウェルと同じように,西部劇ファンにとっては一度は足を運んでみたい聖地である。
かつて,西部劇がハリウッド映画の主流だったころ,西部劇は大規模なロケーションを行って撮影されたものだった。
思い出せば,「真昼の決闘」(High Noon)で有名なモンタナ州ヘレナ出身のゲーリー・クーパー(Gary Cooper),西部劇映画の代表作「シェーン」(Shane)で主役のシェーンを演じたアーカンソー州ホットスプリングス出身のアラン・ラッド(Alan Walbridge Ladd),「駅馬車」(Stagecoach)に主演した「マジソン郡の橋」(The Bridges of Madison County)で有名なアイオワ州ウィンターセット出身のジョン・ウエイン(John Wayne),そして,その「マジソン郡の橋」で主演したカリフォルニア州サンフランシスコ出身のクリント・イーストウッド(Clint Eastwood)など西部劇出身の俳優は数え出したらきりがない。
西部劇の華やかなりしころ,ハリウッド映画のほかに,テレビの番組にも西部劇は多かった。
「ローンレンジャー」(The Lone Ranger),「ローハイド」(Rawhide),「ララミー牧場」(LARAMIE),「幌馬車隊」(The Outriders), 「ガンスモーク」(Gunsmoke),「拳銃無宿」(Wanted Dead or Alive),「ボナンザ」(Bonanza)などがそうであった。
そうした西部劇の多くが撮影されたのがここローンパインであった。
それにしても,あの時代につけられたこれらの作品の日本語の題名はなんとひどいものであろう。原題のほうがよほどよく理解できる。
撮影場所となっていたのはローンパインの街外れにあるアラバマヒルズ(Alabama Hills)であった。ここには,マウントホイットニーをはじめとする高山がひしめき合うシェラネバダ山脈を背景として巨大な岩がゴロゴロしている。それらの岩の前で,あるいは横で,上で下で,俳優が悪漢との撃ち合いを演じていたのだ。
ああ,書いているだけで私はワクワクしてくる。古きよきアメリカがそこにはあった。