しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ: 悼む

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【Summary】
Actor Shohei Hino passed away on November 14. I first knew him from Kunitori Monogatari and later grew fond of him through Kokoro Tabi, feeling his presence in places I visited across Japan. Despite the physical toll of his bike journeys, the joy of encounters seemed to bring him happiness. May he rest in peace.

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 2024年11月14日,火野正平さんがお亡くなりになりました。
 
 私が火野正平さんを知ったのは,NHK大河ドラマ「国盗り物語」で豊臣秀吉を演じたときでした。1973年(昭和48年)に放送された「国盗り物語」は,群雄割拠の戦国時代に一介の浪人から身を起こし美濃の国の大名にまで上りつめた斎藤道三と天下制覇を夢見ながら野望半ばに倒れた道三の意志を継いだ信長と光秀。その乱世を生きた人々の激しい葛藤を描いたものでした。
 番組を見たときは,およそ威厳のあるようには見えなかった火野正平さんでしたが,なぜか印象に残りました。

 その後は,別にファンでもなかったので,NHKBS「にっぽん縦断こころ旅」がはじまったときは,何この汚らしいおじさん,どうしてこの人を抜擢したの?と思いました。
 ところが,次第にこの番組は,私の癒しとなりました。そして,私も日本中を旅するようになると,どこに行っても,火野正平さんと何か関わりのあるところばかりだったのは驚きました。
 青森県の象岩に行けば,その岩に腰かけて火野正平さんが手紙を読んだとか,壱岐島の神社では火野正平さんが店員の女性を口説いたとか,佐渡島の民宿に泊まれば,宿の女将さんとのツーショット写真を撮ったりとか,あるいは,この道を走ったとか,そういう痕跡があるのでした。青森県の野辺地駅では,交換したお守りが飾ってありました。
 私が残念だったのは,家の近くを通ったこともあったのに,実際に走っている姿を見ることができなかったことでした。

 おそらく,自転車で旅をするのは,身体にはかなりの負担となっていたのでしょうが,その土地での人々との出会いは,それに勝る喜びだったに違いありません。そんな出会いは,なかなかできるものでなく,幸せな時間だったことでしょう。
 ご冥福をお祈りします。

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【Summary】
Kitanofuji, my childhood idol, passed away on November 20, 2024. As a boy, I admired his sumo skills and often watched him train near my home during Nagoya tournaments. His humor and kindness left a lasting impression. Decades later, I met him again in 2021, recalling the autograph he gave me 50 years earlier. Rest in peace.

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 2024年11月12日,現役のころから大好きだった北の富士さんがお亡くなりになりました。

 私が中学生のころ,学校でお相撲の好きな友達が多く,いつも盛り上がっていました。
  ・・
 横綱大鵬の引退は1971年(昭和46年)。そして,大鵬の晩年は,横綱北の富士,横綱玉の海の三つ巴の戦いが見ものでした。また,名古屋場所,横綱北の富士の所属していた九重部屋が私の住んでいた家の近くだったこともあり,テレビ中継が終わり,30分ほどすると,車で戻ってきて,宿舎のお寺の縁側にどかっと座って一休みするのです。そして,今がチャンスと,色紙を持って行ってサインをしてもらったのです。「坊,いくつか」と言って話しかけられました。
 稽古のときの迫力もすごいものでした。これほどやらないと強くなれないんだな,と実感しました。でありながら,相手の若い力士に顔をひっかかれたときには,「おい,俺は顔がウリなんだ。今日からテレビにでるんだぞ」というような冗談を言っては笑わせていました。

 やがて,好敵手だった横綱玉の海が急死し,それ以降は精彩がなくなってしまいました。
 引退は1974年(昭和49年)の名古屋場所でした。私の家の周りには多くの報道機関の車が停まり,お寺の本堂で記者会見が行われていました。私も本堂に上がって記者会見を聞いたのですが,翌日の中日スポーツの1面には,横綱北の富士の横の私の顔もありました。
 ときは過ぎ,2021年(令和3年)の名古屋場所千秋楽。解説を終えて帰るところだった北の富士さんと会いました。「50年前にサインをいただいたことがあります」というと「えっつ,50年前!」と言われました。
 ご冥福をお祈りします。

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 2024年2月17日,大西順子さんが愛知県の東海市芸術劇場大ホールでソロピアノコンサートを行うというので,聴いてきました。客席は満員でした。

 惜しくも,2024年2月6日に亡くなった小澤征爾さんですが,私が今でも印象に残っているのが,2013年に行われたサイトウ・キネン・フェスティバルです。
 2013年のサイトウ・キネン・フェスティバルは,8月12日から9月7日まで10公演が行われたのですが,その最終日9月6日を飾ったのが, 小澤征爾さんが指揮をしたガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」を,サイトウ・キネン・オーケストラと大西順子トリオが共演したものです。これは,2012年夏,突然の引退宣言をした大西順子さんでしたが,小澤征爾さんの猛烈な誘いに負け,一夜限りの復活とし出演を決めたものです。そして,小澤征爾率いるサイトウ・キネン・オーケストラと大西順子トリオの共演は,大きな話題となりました。
 小澤征爾さんは,2010年に大病を患ったのですが,この公演は,その後に行われたものです。
 私は,公演の様子をテレビで見ましたが,それはそれはすばらしいものでした。そして,そのときに私が知ったのが,大西順子さんでした。今回のコンサートの中で,大西順子さんがそのときの共演についても話していたのですが,観客の中で何人がそれを知っていることか?
  ・・・・・・
 1967年生まれの大西順子さんは,ジャズ・ピアニストです。渡米し,ボストンのバークリー音楽院に学び,その後,ニューヨークに移り,アップタウンのジェシー・デイヴィス・クインテットのレギュラー・ピアニストとして活動しました。
 日本へ帰国後は,バークリー時代の仲間とトリオを結成,ニューヨークの名門ジャズ・クラブヴィレッジ・ヴァンガードに,日本人としてはじめて自分のグループを率いて出演しました。
 以降,活動中止や再開を繰り返し,2015年に,何度目かの活動再開をしました。
  ・・・・・・

 私は,ジャズには疎く,また,大西順子さんも,先に書いたサイトウ・キネン・フェスティバルの放送でしか知らないので,これはまさに,将棋のルールも知らないのに,藤井聡太八冠の将棋を観戦するのと同様に,「豚に真珠」「猫に小判」「馬の耳に念仏」でした。はじめのうちは,現代音楽を聴いているような感じに思えて,正直かなり苦痛でした。
 しかし,次第にわかってきて,楽しくなりました。
 クラシック音楽のピアノとは違って,ジャズのピアノは,即興を旨とするのですが,それは,ベートーヴェン以前,協奏曲のカデンツァを演奏者が即興で演奏していたのを拡大したようなものです。そこで,オリジナルをどのように奏者が変化させ創作するのか,というのが腕の見せどころとなるわけで,いかにして聴き手を引き込んでいくのかが聴かせどころです。
 残念ながら,私は,そのオリジナルをも知らないのだから,話にならないのですが,それでも,次第に,次にどう来るか,ワクワクして聴けるようになってきました。そして,こりゃすごい,と思うまでになりました。大西順子さんは偉いものです。
 今回もまた,私が長年味わうことがなかった感動をひとつ手に入れることができました。

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 2024年2月6日,「世界のオザワ」と評された指揮者の小澤征爾さんが亡くなりました。88歳でした。
 私は,今から43年前,ボストン,ニューヨーク,ワシントンDCをひとり旅しました。そのとき,小澤征爾さんはボストン交響楽団の音楽監督でした。ボストンのコンサートホールに大きな小澤征爾さんのポスターを見て,誇らしく思ったものです。当時,アメリカでもっとも有名な日本人,といわれていたと聞きました。
 私が小澤征爾さんの指揮をコンサートホールで聴いたのは,残念ながらたった一度でしたが,私は,小澤征爾さんが憧れで,また,音楽が聴けるのを楽しみにしていました。

 著書「ボクの音楽武者修行」にこうあります。
  ・・・・・・
 スクーターを唯一の財産として神戸から貨物船に乗り込み,マルセイユからパリまでたどりつき,フランス国内,アメリカ,ドイツ,そしてふたたびアメリカへと回って,いよいよ約二年半ぶりになつかしい日本へ帰ることになった。
 4月24日午前10時,JALのニューヨーク・フィル特別機で羽田に着いた。ハッチが開けられると,メンバーの連中がみんな
「セイジ,お前が最初に降りるんだ!」
と言って,ぼくを先頭にしてくれた。
  ・・
 突然,バーンスタインが,ぼくの首っ玉にとびついて来た。ぼくは危うく倒れるところだった。
「セイジ! セイジ! よかったな,よかったな!」
  ・・・・・・
 私は,この文章がずっと頭に残りました。おそらくこのときが小澤征爾さんの人生で最高の瞬間。

 その後,小澤征爾さんの足跡を探すかのように,私は,ボストン交響楽団の夏の避暑地であるタングルウッドを訪れました。そして,そこに,セイジオザワホールがあるのに,再び感動しました。
 ああ,この人は,こういうところで活躍していたんだな,と思いました。
 残念ながら,大きな病気をしてからは,活躍もままならなくなってしまったのがとても残念でしたが,これほど偉大で,しかし,偉ぶらず,多くの人に感動を与えた人もありますまい。
 すばらしい人生でした。ご冥福をお祈りします。

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 1994年に木星に衝突したことで有名なシューメーカー・レビー第9彗星(D/1993F2 Shoemaker-Levy9)は,1993年3月24日にパロマ天文台で観測中のユージン・シューメーカー,キャロライン・シューメーカー夫妻とデイヴィッド・レヴィさんによっておとめ座に発見された彗星です。
 1917年に土星に接近し軌道が変わり,木星に捕獲され核が砕けていたので,発見当時,彗星の核は棒状に見えました。
 彗星の分裂核は,1994年7月16日から7月22日までの間に相次いで木星の大気上層に衝突しましたが,これは史上はじめて人々が目撃した地球大気圏外での物体の衝突でした。
  ・・
 この彗星の発見者のひとりキャロライン・シューメーカー(Carolyn Jean Spellmann Shoemaker)さんが8月13日に亡くなりました。
 私は2019年にカリフォルニア州のパロマ天文台を見学したとき,シューメーカー・レビー第9彗星を発見したという望遠鏡を博物館で見て,ここで発見したということをはじめて知って感動したこともあって,この訃報は感慨深いものがありました。

 彼女は1929年ニューメキシコ州ギャラップ(Gallup)生まれの天文学者で,32の彗星と800を超える小惑星を発見して,個人での彗星の最多発見記録をもっています。
  ・・
 1980年,51歳のときから、パロマ天文台で地球近傍小惑星や彗星の観測をはじめ,1980年代から90年代にかけてパロマー天文台で撮った広域写真を立体視することにより、恒星に対して移動している星を探しました。
 1997年に,オーストラリア・アリススプリングス(Alice Springs)で,乗っていた車の衝突事故によって夫ユージン・シューメーカー(Eugene Merle Shoemaker)さんを失い,彼女も肋骨を折る重傷を負いました。アリススプリングスといえば,私が2018年にオーストラリアのエアーズロックに行ったときに途中で飛行機を乗り替えた砂漠のど真ん中の町です。

 彼女はもともとは科学に興味がありませんでしたが,夫ユージン・シューメーカーさんが地質学の経験を与えたことで夢中になりました。学校の教師として結婚生活をはじめましたが,その職業は退屈でした。3人の子供を育てたのち,地球に脅威を与える可能性のある小惑星を探すための新しいプログラムに参加することを提案します。パロマ天文台の口径18インチ・シュミット望遠鏡を使用して,異なる時間に同じ位置を撮影した2枚のフィルム画像を同時に見ることができる実体顕微鏡を使って小惑星を見つけるという方法で開始し,すぐに専門家になりました。また,同じようにして彗星を発見するようになりました。
  ・・
 ある夜のこと,パロマ天文台の北の地平線から4本のオーロラが昇っているのを見たといいます。
 北緯33.3度のパロマ天文台からオーロラが見られるのは非常にまれなことです。
 キャロライン・シューメーカーさんにとって,オーロラのきらめく光は,彼女が夜空を愛した理由と世界有数の天文台で夜空を探索する威厳を思い出させたことでしょう。

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 今から10数年前のこと,奈良の岡寺に行ったとき,岡寺へ至る坂を登りながら,ここはこれまでに何度も来たことがあるのを思い出しました。
 私は,京都も好きですが,それ以上に奈良というところに懐かしみを感じます。とりわけ,飛鳥,あるいは明日香といわれる地は,古の日本を想像するだけでもワクワクします。
 であるのにもかかわらず,私は,奈良というところが何度行っても把握できないのです。京都なら地図を見なくてもほとんど場所は歩けるのに,奈良はどこがどうなっているのか,どこに行ったことがあるのかないのか,何度足を運んでも理解できないのです。
 そんなわけで,頭の中にはいろんな風景が浮かぶのに,それがどこだったのか,さっぱり思い出せなくて,行ってみて,ここも来たことがある,と思うのです。
 しかし,そうした想いのほうがむしろずっといつまでも心に残り,そして,再び出会ったときに懐かしいと感じるのでしょう。私にとって,ちびまる子ちゃんんという作品もまた,それと同じものかもしれません。

 ちびまる子ちゃんの作者,さくらももこさんが先日,若くして亡くなりました。
 私も年齢を重ねて,これまで数多くの人が生き,そして亡くなっていく様を見てきました。現代では,健康に恵まれると,人は80歳くらいまでは元気で生きられます。そして,少なくとも75歳くらいまでは旅をしたりしたいことができるという,いわゆる健康年齢であり得ます。だから,80歳よりも早く亡くなってしまうと,若いのに残念だったという気持ちになりますし,おそらく,本人もまだやりたかったことがたくさんあったであろうと思います。
 さくらももこさんもまた,若くして亡くなられたのでとてもお気の毒でしたが,彼女は,ちびまる子ちゃんをはじめとする多くの作品やエッセイを通じで,人を幸せにした人生でした。

 私は,以前,そんな彼女の人柄を知ることができる温かみのある絵が描かれた色紙を,奈良のあるお寺の門前にあった茶店で見たようなことをふと思い出しました。そして,先日の朝日新聞の夕刊に,私が見たのと同じ絵が載っていたことから,私の淡い思い出が明確によみがえってきました。
 そうそう,それは岡寺の門前にある,いや,あった坂乃茶屋というところでのことだったのです。この古びた風情のお茶屋さんはとても趣があって,入口を入ると所かまわず一杯色紙が飾ってありました。その色紙はこのお店に来た若い人たちが記念に書いたものでした。それを見て,私も,若い人たちに囲まれてわいわいと騒いでいるような気持ちになれて,とても元気がでました。
 新聞の写真でそのことを思い出して,今もそのお茶屋さんは当然あるものだと思ったから,この秋にでもまた行ってみようと思ったことでした。
 しかし,新聞の記事を読んでみると,そのお茶屋さんは火事で燃えてしまって,お茶屋さんどころか,さくらももこさんの書いた色紙もこの世から姿を消してしまったということを知って,私は涙が出てきました。こんなショックなことはありませんでした。
 形あるものはいつかはなくなるとはわかっていても,それに直面すると,そんな冷静なことはいってはいられないものです。

 そんなことを感じていると,そういえば,すっかり忘れていましたが,静岡県の清水にもちびまる子ちゃんの博物館があって,以前そこに行ったことがあるのを思い出しました。
 私の記憶にはほとんど残っていなかったその想いだったのですが,このとき,新たにそのときのことが蘇ってきました。
 清水にあるちびまる子ちゃんの博物館は,正しくは「ちびまる子ちゃんランド」といいます。それがある場所は静岡市清水区のレジャーセンターの一角です。さくらももこさんが,現在は静岡市清水区となった当時は清水市であった入江地区で少女時代を過ごしたことから,この場所に作られたものでしょう。
 この「ちびまる子ちゃんランド」は,中に入るや否や,ちびまる子ワールドの世界に舞い降りて,幸せな気持ちになれるという,まさに,「ちびまる子ワールド」と名づけられただけのことはある場所なのです。

 そういえば,日曜日,ちびまる子ちゃんに続いて,今もなお放映されているサザエさんの作者長谷川町子さんゆかりの場所が,福岡市と東京にあります。そのうちのひとつが東京・桜新町です。ここには長谷川町子美術館があって,生前長谷川町子さんが所蔵していた多くの作品が展示されています。そして,東急田園調布線の桜新町の駅から長谷川町子美術館に至る通りが「サザエさん通り」となっています。
 この駅を降りてその界隈を歩くと,まるで,サザエさんのアニメの中に舞い降りたような気持ちになって,これもまた,とても幸せな気持ちになれるものです。
 このように,どうやら,人は実は現実よりもずっと思い出の中で生きていて,そうした思い出は,ふとしたことで蘇り,現実に浮き出てくるようなのです。つまりずっと生きているのです。そんなことからも,形あるものがなくなったとしても,さくらももこさんの人生は,これからもずっと,多くの人の心のなかに生き続けていくのでしょう。

 
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ああ,はしだのりひこさん。-「風」の小径は私の原風景

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 はしだのりひこさんが12月2日に亡くなりました。
 はしだ のりひこさんは日本のシンガーソングライターでありフォークシンガーでした。
 「帰ってきたヨッパライ」で有名な「ザ・フォーク・クルセダーズ」の一員として活躍したのち,「はしだのりひことシューベルツ」や「はしだのりひことクライマックス」,「はしだのりひことエンドレス」のリーダーを務めたのちソロに転向しました。

 1969年「はしだのりひことシューベルツ」時代に作られた「風」は私が最も好きな曲のひとつであり,当時,レコードを買った曲です。
 私がこの曲で思い出す,というか思い抱くのは,なぜか今日の写真にある三鷹の東京天文台(現在の国立天文台)の65センチ屈折望遠鏡のあるドームにいたる小径なのです。それがどうしてかはまったくわからないのですが,そしてまた,その小径がプラタナスの小径でもないのですが,その小径を冬の風の強い日にコートの襟を立てて歩く自分の姿に重なるのです。どうやらこれが私の原風景のようなのです。
 私は「風」を聴くとき,いまもあの頃に戻れます。

 はしだのりひこさんは私が大学生のときに大学祭でコンサートがありました。そのころはすでにソロ歌手だったと思うのですが,時間が来ても終わらず,いつまでもいつまでも歌い続けていたという思い出だけが残っています。
 2017年4月23日,KBS京都開局65周年企画「京都フォーク・デイズ ライブ~きたやまおさむ~と京都フォークの世界」にゲスト出演したのが最後となりました。

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 バルカン(Vulcan)星は,19世紀に水星の内側に存在しているとされた想定上の惑星です。
 水星の軌道が当時考えられていたニュートン力学だけでは説明できない動き(水星の近日点移動)だったために,1846年,パリ理工科大学の天文学講師ユルバン・ルヴェリエは,さらに内側に未知の惑星があると提唱しました。
 20世紀になって,水星の近日点移動は,アインシュタインの一般相対性理論によって説明できることが示唆されて,日食の観測でそれが検証されると,バルカン星の仮説は否定されてしまいました。
 バルカン星は,水星よりも更に太陽に近い軌道であればその表面は非常な高温であると考えられたため,ギリシア神話で鍛冶の神であるヘーパイストスに対応するローマ神話の火の神ウゥルカーヌスに因んで命名されたものです。惑星の名前は,ローマ神話からつけられています。
 国際天文学連合(IAU)は,2011年と12年に発見された冥王星の新たなふたつの衛星を,すでに名前がつけられていた三つの衛星と同様,ギリシャ神話にちなんでケルベロス(Kerberos),ステュクス(Styx)と命名しました。愛好家はバルカンの命名を主張しましが,惜しくも選ばれませんでした。この命名をめぐってネットで実施した人気投票ではバルカンはトップだったのですが,太陽系の仮想惑星の名前に用いられたことがあるのに加え,ギリシャ神話でなくローマ神話の火の神の名前であるというのがその理由でした。

 というのが,現実社会のバルカン星のお話ですが,一般に,バルカン星といえばご存知「スタートレック」(Star Trek)です。
 アメリカの俳優であり映画監督であったレナード・ニモイ(Leonard Simon Nimoy)さんが,さる2月27日にお亡くなりになりました。ニモイさんは,アメリカのSFテレビドラマシリーズ「スタートレック」に登場するバルカン星人,Mr.スポック役の俳優として,あまりに有名でした。
 レナード・ニモイさんはボストン生まれ。1950年ごろハリウッドに移って映画デビューし,1966年に始まった「スタートレック」(当時の邦題は「宇宙大作戦」)でブレークし,「スパイ大作戦」にも出演しました。その当時,日本では「スパイ大作戦」(Mission Impossible)という番組が先に人気があって,「宇宙大作戦」は,それにあやかって名づけられたのだと思いますが,私は,レナード・ニモイさんは,Mr.スポックよりも,「スパイ大作戦」のアメージング・パリス役で知りました。

 ニモイさんは今週初めには死期を悟り,「スタートレック」のバルカン星人式のあいさつとして有名な「長寿と繁栄を」(Live long and prosper)の文言をツイートしました。オバマ大統領もこの日,ホワイトハウスから公式声明を発表し,2007年に対面したレナード・ニモイさんとこの「長寿と繁栄を」のあいさつを交わしたことを振り返った上で,「私はスポックを愛していた」とコメントしました。NASAも公式ツイッターで,レナード・ニモイさんが,スペースシャトルの「エンタープライズ」の前に立った1976年の写真をアップし,「安らかに眠れ,ニモイ。我々の多くが,スタートレックに触発された」と追悼しました。
 原文は次の通りです。
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 Leonard Nimoy was an inspiration to multiple generations of engineers, scientists, astronauts, and other space explorers. As Mr. Spock, he made science and technology important to the story, while never failing to show, by example, that it is the people around us who matter most. NASA was fortunate to have him as a friend and a colleague. He was much more than the Science Officer for the USS Enterprise. Leonard was a talented actor, director, philanthropist, and a gracious man dedicated to art in many forms. Our thoughts and prayers are with his family, friends, and the legions of Star Trek fans around the world.
  ・・・・・・

 なお,「スパイ大作戦」では,「例によって,君もしくは君のメンバーが捕えられ,あるいは殺されても,当局は一切関知しないからそのつもりで。成功を祈る」というセリフが有名でしたが,当時は吹き替えしかなかったので,英語でどういうセリフだったか知らない方もおられると思いますので,こちらも紹介しておきましょう。
  ・・・・・・
 Good morning, Mr. Phelps. Your mission Jim, should you decide to accept it. As always, should you or any of your I.M. Force be caught or killed, the Secretary will disavow any knowledge of your actions. This tape will self-destruct in five seconds. Good luck, Jim.
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 戸井十月(といじゅうがつ)さんが7月28日に亡くなったというニュースには,びっくりしました。享年64歳でした。
 彼は,作家でルポライターでした。私は,その作品を読んだことはないのですが,NHKBSで放映していた「戸井十月 ユーラシア横断3万キロの旅」という番組で知りました。
 戸井さんは,この2009年のユーラシア大陸をはじめ,1997年に北米大陸一周,1998年にオーストラリア大陸一周,2001年にアフリカ大陸縦断,2005年には南米大陸横断と,五大陸をバイクで走破しました。
 私は,ほぼ,アメリカ合衆国しか知らず,無謀な旅行はせず,というあまちゃんで,彼のように,日程を決めず,宿泊先を決めず,バイクで大陸を走破するということとは,ほど遠いのですが,旅を愛する者の端くれとして,テレビ番組の中で,彼が語るような,旅に対する思いには,たいへん共感するところがありました。

 私は,歳をとるにつれて,若いころに,人生はこうでなくてはならないとか,社会で生きるにはこういうことが大切だ,と教えられた多くのことに,疑問を持つようになってきました。そうしなければならない,というその理由も知らず,それを強制する人もたくさんいますが,そういう人たちこそ,自分の行っている行為が矛盾に満ちていたり,昔はそうでなくてはならなかったのに,今では,全く逆の価値観がまかり通っている多くのことを知るにつけ,素直になれなくなってきたのです。
 もちろん,大切なことはたくさんありますが,それにも増して,世界には多くの異なる考えや価値観があって,それらを理解したり尊重することのほうがずっと大切だと思うのですが,いかがでしょうか。

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 悪戦苦闘の挙げ句にささやかな,しかし確かな真実と希望とに出会う体験こそが旅である。
  ・・・・・・

 彼は,バイクで世界の空気に直に触れようとしたのだと思います。そして,一人でも多くの世界の人と接したかったのだと思います。こういう行為を好ましく思わない人もいるとは思いますが,私は,こうした価値観を支持します。
 彼は,若くし逝ってしまったけれど,心の中は,満足で一杯であったことでしょう。幸せな人生だったと思います。

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