しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国50州 > アリゾナ州

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☆☆☆☆☆☆
 今日は,フラグスタッフにあるローウェル天文台について紹介しましょう。
  ・・・・・・
 フラグスタッフ(Flagstaff)はアリゾナ州北部に位置する小さな都市で,人口は約5万人です。コロラド高原の南西端に位置し,標高が2,000メートルを超えます。このように,フラッグスタッフは高地に位置し,かつ,乾燥しています。冬を除いては概ね温暖で,青空が広がる日が多いところですが,冬の寒さは厳しいものです。標高が高いために,同じ州の標高330メートルのフェニックスに比べて夏の最高気温は10度以上も低く,摂氏27度ほどです。しかし,乾燥しているため,夜になると夏でも摂氏10度ほどまで下がって冷え込みます。また,冬は日中こそ摂氏4度から摂氏5度ほどであるものの,夜になると氷点下10度を下回ることもあります。
 7月や8月には夕立がよく起きます。年間降雨量は約570ミリメートル,降雪量は270センチメートルほどです。
  ・・・・・・
 1855年,エドワード・フィッツジェラルド・ベール(Edward Fitzgerald Beale)は,ニューメキシコ州リオグランデからカリフォルニア州フォートテホンへの道を調査していましたが,その道中でこの場所の東端にキャンプを張りました。エドワード・フィッツジェラルド・ベールとその部下は,すぐ側に立っていた松の木から枝を折って取り除き,星条旗を掲げるための旗竿としました。
 市の名まえであるフラグスタッフは1876年にアメリカ合衆国独立100周年を記念して立てられた旗竿に由来しますが,フラッグスタッフに最初の移民が住みついたのは1876年のことです。
 1880年代に入ると市は成長をはじめ,鉄道産業が栄えました。こうして,1886年ごろには、フラッグスタッフはアルバカーキと西海岸との間では最も大きな都市になりました。

 ローウェル天文台(Lowell Observatory)は,パーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)によって,1894年に標高の高さと視界のよさからフラグスタッフに設立された天文台です。
 私も見ることができた歴史的記念物に指定されている口径61センチメートル屈折望遠鏡は今も現役で,一般公開されています。61cm屈折望遠鏡は,1896年に20,000ドルの費用をかけて,アルヴァン・クラークによってボストンで製造され,アリゾナまで列車で運ばれたものです。
  ・・
 1900年代のはじめ,ウィリアム・ヘンリー・ピッカリング(William Henry Pickering)とパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)は,天王星の軌道における摂動の分析からその存在が予測され発見された海王星と同じように,海王星の軌道もまた他の未発見の惑星「惑星X」によって乱されていると推測し,そのような惑星が存在する可能性のある天球座標をいくつか提唱しました。
 1905年,ローウェル天文台ではこの「惑星X」を捜索するプロジェクトを開始,プロジェクトはパーシヴァル・ローウェルが1916年に死去するまでの11年間続けられましたが,見つけることはできませんでした。
 ローウェルの死後の1929年,プロジェクトが再開されることになって,当時の天文台長であったヴェスト・スライファー(Vesto Melvin Slipher)がクライド・トンボーにこの仕事を預けました。クライド・トンボーは,ローウェル天文台の口径33センチメートルの天体写真儀で空の同じ区域の写真を数週間の間隔を空けて2枚撮影し,その画像の間で動いている天体を探すという方法で捜索を行いました。そして,撮影した膨大な写真を丹念に精査した結果,ついに,1930年2月18日,同年の1月23日と1月29日に撮影された写真乾板の間で動いていると思われる天体を見つけました。これが冥王星です。

 私はフラグスタッフというところにぜひ行ってみたかったことと,できればローウェル天文台を見てみたいとずっと思っていたのですが,2019年,やっとその念願がかないました。これもまた,今ではかなり幸運なことでした。それは,1年遅れていたら行くことができなかったからです。
 行くまでは,いろいろ調べても,ローウェル天文台がどのように公開されているのか,行けば見学できるものなのか,まったく見当がつかなかったのですが,気軽に中に入って,思う存分見学し,夜は天体観測会にも講演にも参加できるものでした。ここは,市民のための天文台でした。
 私は,冥王星を発見した望遠鏡に,何と,触れることまでできたのが,今では夢のような出来事です。
 星好きにはたまらない素朴な田舎町であるフラグスタッフは,私が住んでみたいアメリカの数少ない町のひとつです。


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 オクラホマシティ(Oklahoma City)からアリゾナ州までのテキサス州とニューメキシコ州のルート66はほとんど走ったことがありません。
 唯一,サンタフェ(Santa Fe)あたりだけは,ルート66の標示を見つけて,こんなところを通過するのだと驚いたことがあります。
 その先,アリゾナ州のルート66はなかなかすばらしいところです。私が行ったのはフラグスタッフ(Flagstaff)で,インターステイツ40に並走してルート66が続いています。インターステイツ40を走っているとき,私が借りた車のカーナビの画面にはずっとルート66とかかれた道路が表示されていて,横を見ると,確かに,何度か写真でみたような風景があるのにうれしくなりました。

 フラグスタッフから東には,このブログに何度か書いたバリンジャー隕石孔(Meteor Crater National Landmark)と化石の森国立公園(Petrified Forest National Park)があって,私はインターステイツ40を走ったのですが,ずっとルート66が並走していました。
 また,その逆に,フラグスタックから西へもルート66が一部インタ―ステイツ40と交わりながらも,ほぼ並走し,ウィリアムズ(Williams),セリグマン(Selogman)といった,ルート66通には有名な町を通っています。
 その中心にあるフラグスタッフは,私はその町で1日を過ごすのをずっと夢見ていたのですが,その夢を2019年に実現させることができました。このことも別のブログに書きましたが,私のこころに残る町の中でも,特に大きな意味をもっているところです。

 ウィリアムスは古きよきルート66をほうふつとさせる町。多くの観光客で賑わいを見せています。
 観光地といえば確かに観光地化しすぎているのですが,それなりにおもしろいところ,日本でいえば高山のようなところです。
 その一方で,セリグマンは小さな町で,あっという間に町を過ぎてしまうのですが,ここには有名なお土産屋さんがあるのです。それにしても不思議なのは,こんな小さな町なのに,私は,偶然,そこに2度も訪れたことです。こんな奇跡的なことがあるのでしょうか?
  ・・
 そんなわけで,フラグスタッフのあたりのルート66は,ルート66の制覇ができなくとも余りあるすばらしいところでした。

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◇◇◇
月,木星,土星,水星,
レナード彗星。

日没後の快晴の西の空。
月齢3.6の月の周りの惑星,そして,レナード彗星。
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 「ルート66」はイリノイ州シカゴからカリフォルニア州サンタモニカを結ぶ全長2,347マイル,3,755キロメートルの道路で,1926年「メイン・ストリート・オブ・アメリカ」の愛称のもと完成しました。
 「ルート66」の名前は,①国道番号を偶数とすること②番号を60からはじめることの2点に基づき,さらには「覚えやすい,言いやすい,聞きやすい」の三拍子が揃うという理由から「66」が割り当てられたということです。
  ・・
 1930年代後半,カンザス州,オクラホマ州にかけて大規模な砂嵐が頻発し,難民と化した農家の人々は明るい未来を求めてルート66を通って温暖なロサンゼルスへ向かって脱出を図ったのですが,作家ジョン・スタインベック(John Ernst Steinbeck)はその模様を小説「怒りの葡萄」(The Grapes of Wrath)で描き,小説の中で「ルート66」を「マザーロード」とよんだことでその名が現在主流となりました。
 翌年には映画化されて,「ルート66」の名前は一躍世界に知れ渡ることとなりました。
 また,「怒りの葡萄」とは関係がありませんが,テレビドラマ「ルート66」も放映されました。

 1956年,アメリカ国内に高速道路交通網(インタ―ステイツ)の建設を目的とした法案ができたことで「ルート66」の衰退がはじまり,1984年,アリゾナ州ウィリアムズでインターステイツ40の最終部分が完成したことによって「ルート66」は廃線となりました。
 現在は,往年の「ルート66」がそのまま残っているところや,近くにインターステイツが走っていることで寂れてしまったところ,あるいは,途中でインターステイツに吸収されてしまったところなどがあるのは,日本の旧街道とおなじです。
 そんな「ルート66」ですが,これもまた,日本の旧街道同様,昔を懐かしむ人たちで,再び保存がはじまって,その道を走破しようと夢見ている人が私を含めて大勢いるというわけです。
  ・・
 私は,66歳に「ルート66」を制覇したいという夢があったのですが,このご時世ではできそうにありません。
 しかし,振り返れば,これまでずいぶんと「ルート66」を走ったことに気づきました。
 そこで,これまでに走った「ルート66」を振り返ることによって,走ったつもりになることにしました。

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◇◇◇
木星,月,土星,金星とISS。
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 これまで,2020年の夏に行く予定だったアメリカ旅行の幻の旅行記を書いてきましたが,今日がその締めとなります。
 ここ数年,アメリカに限らず,その他の国も,はたまた国内も,気が向くまま旅をしていただけに,それができないとなると,一抹の寂しさを感じずにはいられません。
 私の救いは,コロナ禍の前までに,子供のころから行ってみたかったところ,やってみたかったことのほぼすべてを成し終えていたことです。しかし,どこに出かけるにも,それなりの最も楽な方法を身につけ,便利な小道具などもすべて手に入れて,いつでも次の旅ができるようになっていただけに,それらを活用することがなくなったのが今は残念なことですし,使い慣れたキャリーバッグも部屋で眠っています。
 
 それにしても,地球,というか,この世というか,人類はこんなにも狭いところで生きているのかということを実感しました。コロナ禍のように,何かが起きれば,逃げ場などないのです。それなのに,依然として,権力争いやら覇権やらと,何と人類はバカで醜いのでしょう。ワクチンをわずかな期間で作り上げるだけの英知をもっているというのに,情けない限りです。
 私の親の世代は,最も多感な年代を戦争で無にしたために,それを一生背負って,社会をやっかんで生きていました。私も,早期に退職をせず,やりたいこともせずにここ10年あまり生きていたら同じだったことでしょう。この時期にやっと退職して,さあ,これからはやりたいことを,そしてまた,行きたいところに行こうと思っていた人たちは,その夢がすべて無になってしまったのは,耐え難いことでしょう。
 数年前は当たり前だった旅が再びできるようになる日が果たして訪れるのでしょうか。


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 アリゾナ州には多くの天文台があるので,幻になってしまった2020年のアメリカの旅では,そのなかからいくつか行ってみようと思っていました。しかし,実際に行ってみるとすれば,事前にしっかり調べる必要がありそうですが,調べる前にキャンセルになってしまったわけです。
 今,改めて調べていくと,こりゃ大変だという気がしてきました。前々回,前回に紹介した国立公園同様に,あまりに多くのおもしろそうなところがあるからです。
 今では,もし旅が実現していたとしても,行けなかったのではないか,また,この先も行くことができるのだろうか,複雑な気持ちがしています。
 いずれにしても,ここ数年のアメリカ旅行は,毎年,少しずつ行きたいところに行ってみようというくらいで,さほど想い入れがあったわけでもなく,単なる避暑気分の旅をしていたのでした。それもできなくなってしまいました。
 そんなこんなで,今日は天文台について紹介します。

●キットピーク国立天文台(Kitt Peak National Observatory)
 アリゾナ州ツーソン郊外の赤茶けた風景の中にキットピーク国立天文台は建っています。ここにある研究用望遠鏡群は世界最大級の規模と多様性を誇るといいます。
 日中は,敷地内を自由に見学したり,ガイド付きのプログラムや VIP プログラムに参加することができまるそうです。
 さすが,アメリカです。今は変わりつつありますが,かつては,日本では何か研究者は特権階級のように思っていて,一般の人を格下にみて謝絶する雰囲気がありました。
 キットピーク国立天文台では,夜もまた,一般用の観測プログラムがあって,遠方からも多くの参加者があるそうです。それらの中には,ゆっくりと楽しめるダーク・スカイ・ディスカバリー(Dark Sky Discovery)やナイト・オブ・マーベラス・ムーン(Night of Marvelous Moon)といったプログラム,また,オーバーナイト・テレスコープ・オブザービング・プログラム(Overnight Telescope Observing Program)では,専門家の指導の下で遥か遠い宇宙の天体を観察できるほか,3日間のアストロフォトグラフィーワークショップ(Astrophotography Workshop)で夜空の写真を撮影するための基礎を学ぶことができるそうです。
 さらに,トホノオオダム国立文化センターと博物館(Tohono Oodham National Cultural Center & Museum)が近くにあって,この地のアメリカ先住民の文化を学ぶこともできます。また、アリゾナソノラ砂漠博物館(Arizona-Sonora Desert Museum)の植物園では,アリゾナ州の自然史を学べます。
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●マクドナルド天文台(McDonald's Observatory)
 テキサス州西部のデイビス山脈(Davis Mountains)の奥地にあるマクドナルド天文台からは,アメリカ大陸で最も暗い空を見ることができます。起伏に富み,かつ,美しい風景に囲まれた展望台にはビジターセンターがあり,1年を通して見学できるといいます。また,毎週行われるスターパーティーでは,周囲の山々のシルエットを眺めながら満天の星を堪能できます。
 近くにはデイビスマウンテンズ州立公園(Davis Mountains State Park)があって,そこではハイキングやバックパッキング,乗馬などのアドベンチャーが楽しめるということです。また,フォートデイビス国定史跡(Fort Davis National Historic Site)では,開拓軍の駐屯地をガイドなしで見学できます。
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 そのほかにも,テキサス州には,レモン山スカイセンター天文台(Mt. Lemmon SkyCenter), グラハム山インターナショナル天文台(Graham International Observatory),フレッドローレンスウィップル天文台(Lawrence Whipple Observatory)などがあります。


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 2020年に行こうと思っていた旅では,さらに,これまで私が行っていないキャニオンデシェイ国定公園とメサベルデ国立公園にも行ってみたいと思っていました。
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●キャニオンデシェイ国定公園(Canyon de Chelly national Monument)
 キャニオンデシェイとはスペイン語で「岩の渓谷」を意味します。高さ300メートルの垂直な断崖が42キロメートルの長さにわたって続いていて,グランドキャニオンを小型にしたような感じだといいます。ここはナバホ族の居住地で,国定公園でありながら国有地がまったくないそうです。
 かなり辺鄙な場所にあるのですが,2019年,私が化石の森国立公園などに行ったとき,あと数日あれば行くことができたのに,と今では後悔しています。あのころは,いつでも行けると思っていたのに…。
  ・・
●メサベルデ国立公園(Mesa Verde National Park)
 メサベルデ国立公園は,今から1400年ほど前にこの地に住んだ先住民の遺跡です。
 今からおよそ1,400年前「緑のテーブル」とよばれるこの独特な地形であるこの地域に住んでいた人々は,高度な文明をもち繁栄していたのですが,約700年のちの14世紀に忽然と姿を消してしまったそうです。
 アメリカにはこんな歴史もあるのです。

 これらの国立公園を巡りながら,そのついでにフォーコーナーズにも寄ってみるつもりだったというのが幻になってしまった2020年の旅でした。
 今日の写真は,化石の森国立公園で写したものですが,このような遺跡がこの場所にもあるということでしょう。
 アリゾナ州というのは,知らないだけでずいぶんと奥が深い場所のように思われます。しかし,今では簡単に行くことができるところでなくなってしまったのが残念です。


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 2020年に行くはずだったアメリカ旅行でしたが,具体的な予定をたてる前にキャンセルとなってしまったわけです。この旅でなんとなく行きたいと思っていたのが,アリゾナ州の南部にある天文台と国立公園,そして,アリゾナ州の東部からニューメキシコ州にかけての国立公園,そして,フォーコーナーズモニュメントでした。これらの場所は,すべて行くことができるような,または,行けないような,微妙な距離にあります。
 とはいえ,それはいつものことで,もし,この旅が実現できていたとすれば,私は無理やりでもおそらくそのすべてに行っていたことでしょう。アメリカの距離感は日本とはまったく違います。しかし,道路は整備され,交通量も多くないので,かなりの距離が走れるのです。
 では,上記に書いた,行きたかった場所について,順に紹介することにします。

 今日はアリゾナ州の南部にあるサワロ国立公園とチリカワ国定公園です。
 地図を見ると,ともにインターステイツ10に近く,私は,以前,テキサスから西に,エルパソまでインターステイツ10を走ったことがあるので,もう少しだけ西へ走っていたらそのときに行くことができたのにと,今更ながら後悔しています。
  ・・
●サワロ国立公園(Saguaro National Park)
 サワロというのはハシラサボテンのことで,アメリカ最大のサボテンです。
 いわゆる,日本人が想像する西部劇にでてくるようなサボテンですが,10メートルを越えるような大きさに成長するのは4000万個のうちの1個ほどだといいます。
 こうしたサボテンは,フェニックスの郊外にも時折みられますが,フェニックスから南に行ったツーソンという町の西側と東側にあるサワロ国立公園に行くと,地平線のかなたまでサボテンだらけなのだそうです。
 そんなサボテンの林を見るだけ,といえばそれだけの国立公園なのでしょうが,しかし,アメリカの他の国立公園同様,行ってみたら期待を裏切ることはないでしょう。
 と書いてたら,ますます行きたくなってきました。
 なお,世界最大のサボテンというのはメキシコのカリフォルニア半島に育つカルドン(Cardon)というサボテンです。根元から腕が伸びるのが特徴で,高さは20メートルに達し,重量は25トンになるといいます。
  ・・
●チリカワ国定公園(Chiricahua National Monument)
 ここは,地平線まで広がる砂漠に忽然と緑濃い小さな山並みが見えてくるのだそうです。それは2,700万年前の巨大な火山の噴火の跡で,その際にできた火山岩が浸食されて奇怪な尖塔の群像になったものだといいます。まるで岩の墓場のような不気味な表情は独特なものということですが,訪れる人もほとんどなく,静けさに支配されている… と知れば,これはいつか行くしかないでしょう。 

 以下,次回に続きます。


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 幻となってしまった2020年夏のアメリカ旅行は,その1年前2019年夏のアメリカ旅行同様,フェニックスまで行くことにしていました。フェニックスでレンタカーを借りて自由に旅をするのです。
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 フェニックス(Phoenix)はアリゾナ州にある都市で,砂漠の中心にあります。愛称は「太陽の谷」(Valley of the Sun)。
 1867年に灌漑事業と共に創設され,開拓者が都市を創設しました。 20世紀前半からはニューディール政策によるコロラド川の電源開発,ルーズベルトダム,フーバーダム,クーリッジダムの開発によって無尽蔵の電力を供給,軍事産業に関わる航空機産業や電器機械工業が発展していって,今日では半導体などのエレクトロニクス産業,また,観光都市としても発達しています。
 安価な労働力と広大な土地,安い税金,そして,精密機械製作には好適な温暖で乾燥した気候,大消費地への近さという条件があいまって,急速に発展しました。
  砂漠気候に属し,年間を通して温暖で,夏は摂氏40度を超え、非常に暑いのですが乾燥しています。冬は摂氏20度を超える気温となり,摂氏4度以下に下がることはほとんどないので保養都市となっています。
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 私がフェニックスにはじめて行ったのは2000年のことでした。そのころはまだまだ素朴な町でした。
 2019年に再び行ってその発展に驚きましたが,空からみた町は当時の面影がありました。
 空港はアメリカの多くの空港の中でも乗客が多いと聞きましたが,そんな雰囲気はまったく感じられず,思ったよりも静かでした。
 私は都会には興味がないので,レンタカーを借りて,ともかくフェニックスの市街地から早く脱出したいと思いましたが,インターステイツがきちんと整備されていたので,予想以上に順調に走ることができました。フェニックスから郊外に出ると,あたりにはサボテンをたくさん見ることができました。
 また,近くには西部開拓時代の面影を残すような小さな町がたくさんあって,気に入りました。
  ・・
 そこで,2020年の旅もまた,1年前と同様に,フェニックスで車を借りて,とにかく一刻も早く町から出て,あとは,アリゾナ州の大自然をドライブするのを楽しみにしていたのですが,実現することができず,残念に思います。
 これを書きながら,もし,将来再び行くことができるようになったなら,やはり,このコースの旅がしてみたいと強く感じるのです。


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 「特別編・2020夏幻のアメリカ旅行LIVE②」を載せたのが8月11日で,その後中断して,この旅でも行く予定だったアメリカの国立公園のうち,これまでに出かけたところについてずっと紹介してきましたが,それも終了したので,再び「2020夏幻のアメリカ旅行LIVE」を続けます。

 日本からは,アメリカに行くのもヨーロッパに行くのもオセアニアに行くのも,どこも9時間程度のフライトなので,少し余分にお金を出して座席をちょっぴりグレードアップすれば,きわめて快適に行くことができることを知ったのですが,今ではこれも夢のように思えます。  
 2,3年前の私は,このようにしてエコノミークラスから少なくともエコノミーコンフォートに変更して,さらに優先搭乗をし,トランジットする空港ではラウンジで過ごしていました。また,座席も事前にネットで予約をするというように,ずいぶん旅慣れていました。
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 実は,空港の手続きがもっとも面倒なのは,今ではIT後進国となってしまった日本です。これもまた,いつものやったふり社会で,意味のない書類が多すぎて,本当に必要なことが何なのかさっぱりわかりません。出国と入国も自動でできるようになったのにかかわらず,以前のようなスタンプが欲しい人は別の窓口に行くとか,そんなものはきっぱりとやめてしまえばいいのに,そういうことがつねにどっちつかずなのです。

 さて,現地に到着したら,入国審査があるのですが,これもまた,アメリカではキオスクという装置で簡単に済みます。こういう場所での人の流れの方法は,お国によってずいぶんと違います。
 ここまで手続きをストレスなく終えるコツは,荷物をできる限り少なくすることです。仕事ならともかく,私のような単に観光で海外旅行をする場合は,特に,持ち物をなるべく少なくすることが楽に旅をする秘訣なのです。
 そんなこともあって,カメラなど,軽くて小さいものに限るのですが,さらに,荷物はできる限り預けずに機内持ち込みにするようになっていました。
 アメリカに到着して入国手続きが終われば,その先は,国内線への乗り換えになるわけで,そうなればあとは国内旅行をするのと変わらなくなります。私もすっかりアメリカ人になったつもりで行動をすることにしていました。

 それにしても,行くたびに思ったのですが,日本とアメリカでは航空路線というものの考え方がずいぶんと違います。
 アメリカでは航空路線というは日本の鉄道のようなものです。よくもあれほどの人が利用して,あれだけ多くの路線があるものだと感心するくらいです。そしてまた,実際はどれだけ間違いがあるのか,私は一度も間違えられたことがないのでわかりませんが,預けられた多くのカバンがほぼ確実に振り分けられること自体が奇跡のように思います。
 旅をしていると,いろいろと不思議なことに出会います。

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●アリゾナ大隕石孔国定記念物(Meteor Crater National Landmark)
 アリゾナ大隕石孔国定記念物は,英語では「Barringer Crater」「Meteor Crater」「Canyon Diablo Crater」 と表記されていて,日本語では「バリンジャー隕石孔」「バリンガー隕石孔」「バリンジャー・クレーター」「バリンガー・クレーター」「アリゾナ隕石孔」「メテオ・クレーター」「メテオール・クレーター」「ミーティア・クレーター」などと書かれていますが,すべて同じものです。個人の所有であることが正式名称が定まっていない原因でしょう。知らないとずいぶん多くの隕石孔があるようにも思えます。
 アリゾナ大隕石孔国定記念物は厳密にいえば国立公園ではないのですが,「地球の歩き方」の「アメリカの国立公園」編に載っているので,ここで取り上げることにします。
  ・・
 私は,国立公園巡りを目的としてアメリカ旅行をしていたわけではないのですが,結果的に「地球の歩き方」の「アメリカの国立公園」編に載っている国立公園はほとんどのところに行ったことになって,こうなったら載っている国立公園を全部行ってみようと思っていたころにコロナ禍が起きました。とはいえ,残るのは2,3の場所で,それらの場所に2020年に幻となったアメリカ旅行で行く予定をしていたわけです。そんな動機にすぎなかったので,残っている場所に特に想い入れがあるわけではありませんでした。
 しかし,2019年の夏に行くことができたこのアリゾナ大隕石孔は,子供のころからぜひ行ってみたいところだったので,これもまた行くことができたのは,とても幸運なことだったと今では思います。
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 場所はアリゾナ州フラッグスタッフの中心部から東南東37マイル,約60キロメートルに位置しています。フラグスタッフからアリゾナ大隕石孔と化石の森国立公園を巡る日帰りツアーバスがあるようですが,それ以外の手段はなく,ツアー以外には車がなければ行くことができないところです。
 オールドルート66に並行して走るインターステイツ40はアリゾナ州の大平原を走っていきます。オールドルート66の写真集に出てくる,いつか見たようなところを右手に見ながらほとんど車の通らないインタ―ステイツ40を走っていって,マイルマーカー233のところを右折します。
 右折するあたりにモーテルがありました。もし,今度来ることがあるのなら,ぜひここに泊まって満天の星が見たいものだと思ったことでした。それは,アリゾナ大隕石孔を借景にした星空の写真を撮ってみたいと思っていたのですが,深夜にフラグスタッフからわざわざそこに出かけることが危険なのかどうなのか,私にはまったく判断がつかなかったからです。なにせ,何もない砂漠のど真ん中なのです。
 それはともかく,このアリゾナ大隕石孔,延々と続く大平原のその先左前方に少し盛り上がった場所があったのですが,それが目的地でした。あまりに遠いので,小さく見えただけで,近づくに従ってその巨大さがわかってきました。到着して車を停めました。ビジターセンターがあって,入場料を払って中に入りました。
 隕石孔があるだけ,といえはそれだけのところですが,私はやっと念願がかない,とてもうれしかったという記憶があります。隕石孔の説明などはすでにブログに書きましたので,それをご覧ください。

◇◇◇


◇◇◇
Sturgeon Moon.

8月の満月はスタージェンムーン。
チョウザメ(キャビア・フィッシュ)の成熟期で漁猟量が増える時期です。
しかし,雲でまったく見ることができず,翌々日午前4時。やっと晴れました。
次の満月は中秋の名月です。
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 行くことができず幻となってしまった2020年の国立公園と天文台を巡ろうとしたアメリカ旅行を紹介していく前に,私がこれまでに行ったアメリカの国立公園を順に紹介しています。

●化石の森国立公園(Petrified Forest Nationa Park)
 化石の森国立公園はアリゾナ州フラグスタッフからインターステイツ40を東に120マイル,192キロメートルほど行ったところにあります。
 私が2019年にフラグスタッフに行ったのは,ローウェル天文台と,次回紹介するアリゾナ大隕石孔国定記念物に行くのが目的だったのですが,アリゾナ大隕石孔の先にこの化石の森国立公園があったので,寄ってみたのでした。
 私が「化石の森」という訳から想像する化石というのは生物の化石だったので,そんな化石が博物館に展示されているのかと,別に興味もなかったのですが,行ってみて,それがまったくの誤解であることを知りました。
 ここは,その昔太古の時代に森林だった場所が風化して,無数の丸太が化石化した広大な平原でした。さらに,古代先住民の住居跡やら,オールドルート66の遺構やらと,けっこう興味深いところがたくさんありました。
 アメリカの国立公園を見くびってはいけません。
  ・・
 国立公園はインターステイツ40の北側と南側に広がっています。多くの国立公園のように,森の中でキャンプをするとかトレイルを歩くというような,そういった楽しみをする場所ではなく,周回道路があって,そこを走りながら,見どころで車を停めて見学する,というところでした。
 化石に興味のある人や,アメリカの古代の様子を知りたい人,さらに,オールドルート66を巡る旅をする人にはおもしろいでしょう。
  ・・
 私が最も思い出に残っているのは,この国立公園のビジターセンターにあった広いレストランでのんびりと食事をとったことです。
 …が,それはこの化石の森国立公園だけのことではなく,しばらく海外旅行に行けなくなったこのごろ思い出すのは,なぜか,レストランやカフェでのんびりと食事をしたことばかりです。
 どうしてだろう?

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 レイクパウエルでの見どころは,前回紹介したグランキャニオンダム,レインボーブリッジ,ホースシューベント,アンテロープキャニオンということです。
 レインボーブリッジというのは穴のあいた岩のことです。私は車で簡単に行くことができると思っていたのですが,実は,ツアーに参加して,ボートでレイクパウエルを2時間半ほどかけて行かないと見ることができないと知りました。しかも,このツアーは人気があるので,事前に予約が必要ということだったので,あきらめました。私は見ていません。

〇ホースシューベンド(Horseshoe bend)
 ホースシューベンドやアンテロープキャニオンはよく紹介されているのですが,行ったことがないなあと,ずっと思っていました。それがどこにあるかを知って,行くことにしたのが2019年の旅でした。ページという町からグランキャニオンダムをすぎ,さらに進むと,ホースシューベンドの広い駐車場がありましたが,そこはただの平原で,その先にそんなものがあるとは思えないところでした。
 駐車場から小高い山のほうに15分くらい歩いて行くと,そのさきにホースシューベンドがありました。忽然と,という感じでした。行きの飛行機の中で隣に座った人に,ホースシューベンドは行ってみると想像しているのと違うよ,と言われた意味がこれでわかりました。
 ホースシューベンドはコロラド川が馬蹄形に急カーブを描く場所,一部の場所を除いて手すりもなく,すごい景観でした。
  ・・
〇アンテロープキャニオン(Antelope canyon)
 グレンキャニオンダムに戻り,今度はアンテロープキャニオンに向かいました。
 アンテロープキャニオンはグレンキャニオンダムから車でわずか20分くらいのところに,その案内所がありました。到着したのは単なる広場でした。そこに建物があって,ナバホ族が経営するアンテロープキャニオンへのツアーのチケットを売っていました。
 そこでツアーの申し込みをしてから,駐車場の先に停まっていた荷台にイスを装備した改造トラックに乗り込んで出発となります。トラックは水のない渇いた川底を2マイル,3.2キロメートルほど進んでいくのですが,運転手は走り慣れた道をすごいスピードで走っていきます。アンテロープキャニオンの入口に到着すると,そこでトラックを降りて,ガイドツアーに参加することになります。
 渓谷内はせまく,空がのぞく隙間に光がさすのがお昼の数時間だけということだったのですが,私は運よくその時間にツアーに参加することができました。アンテロープキャニオンは大雨が降ったときだけ現れる川の鉄砲水が作った場所なので,雨でも降って一旦鉄砲水が流れてきたら危険な場所だということでした。
 幻想的な風景がずっといつまでも続いていたのはかなりの衝撃でした。
 渓谷は多くのツアー客で一杯でした。


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 グランドサークルにある国立公園を引き続き紹介します。
 前回書いたように,2000年に私は知人に誘われて,ロサンゼルスから車でラスベガスを経由してグランドキャニオンとモニュメントバレーを旅しました。そのころの私はまだアメリカについてあまり知らず,そのときにこのあたりの国立公園はすべて行った気になっていました。行ってもいないのに,レイクパウエルあたりにあるグランキャニオンダムもレインボーブリッジもホースシューベンドもアンテロープキャニオンも,てっきり行ったものだと思っていました。
 しかし,実際はそのどこも行っていなかったのです。
 次第にそんなことも知るところとなったのですが,その後,私はロサンゼルス近郊に行かなくなってしまったので,縁遠くなっていて,まさか行けるとは思ってもいませんでした。

 2018年,念願だったロサンゼルス郊外のパロマ天文台に行くことにしましたが,結果として行くことができなかったということはすでに何度も書きました。そして,その翌年2019年に再びロサンゼルスに行って,ついにパロマ天文台を訪れて,ついでに,アリゾナ州のフラグスタッフまで足をのばしました。    
 しかし,このときもまた日程の関係もあって,グランキャニオンダムもレインボーブリッジもホースシューベンドもアンテロープキャニオンも,行くことができるとは思っていませんでした。また,のちの機会にでも,と考えていました。ところが,このときの旅は思った以上に順調で,1日を残して事前に準備したところにはすべて行ってしまい,1日余ったので,夜,明日はどこに行こうかと旅先のモーテルで調べていたら,それらの場所がそれほど遠くないことがわかり,急に行くことになったのでした。
 これもまた,非常に幸運なことでした。本当に冗談のようにここ数年,そうした偶然が重なって,念願を果たしたのです。こうして,何度も書いているように,私は2020年のコロナ禍以前のわずか2年間に,それまで行きたくとも行く機会を逸していた世界中のさまざまなところに,それもどこへも奇跡的に行くことができたということになります。

●レイクパウエルとレインボーブリッジ国定公園(Lake Powell & Rainbow Bridge National Monument)
 宿泊先のモーテルを出発して国道89を北上していくと,ページ(Page)という都会に着きました。かなりの距離ですが,このころにはそれくらいの長距離ドライブは何ということもなくなっていました。
 ページのあたりは,もし2000年のころにこの場所に来ていたら,もっと素朴なところだったでしょう。
 アメリカはどんどんと発達していて,10年もすればすっかり様変わりしています。ここもまた,グレンキャニオンダムができて観光客が集まるようになって大都会が出現したようでした。
 ページで食事をとったあと,まず,ぜひ行きたかったホースシューベントに行って,その次にグレンキャニオンダム,そして,最後にアンテロープキャニオンに行きました。私は,旅先では行きたい順に行くのです。
 ここでは逆にグレンキャニオンダムを先に書いて,ホースシューベンドのことは次回書くことにします。
  ・・
〇グレンキャニオンダム(Glen Canyon Dam)
 グレンキャニオンダムは想像を絶する巨大なダムでした。堤高216メートル,堤幅475メートルで,黒部ダムがそれぞれ186メートル,492メートルなので同程度です。しかし,山の中にある黒部ダムとちがって,大平原にこんなものが忽然とそびえてしまっていると,恐ろしさとスケール観に圧倒されます。
 アメリカの他の公共施設のように,グレンキャニオンダムにも大きな立派なビジターセンターがありました。アメリカにはどこもこうして税金を投入した施設には,その詳しい説明が展示してある施設があって,ひろく一般に公開しています。どこぞやの国のように,国民に何も語らず公開せず,というのとはまったく違います。あるいは,その反対に,観光地になると,今度は金儲けを主目的とした施設が作られ,いっぱいみやげを売っていたりするのですが,それとも違います。
 1936年,コロラド川をせき止めて下流にフーバーダム(Hoover Dam)が建設され,レイクミード(Lake Mead)ができましたが,コロラド川には予想以上の大量の土砂を運んできてレイクミードを埋める心配がでてきたので,さらに上流に作られたのがこのグレンキャニオンダムでした。
 このダムによってグレンキャニオンは姿を消し,そのかわりにレイクパウエルが出現したのです。


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 前回書いたグランドキャニオン国立公園は友人とふたりで行ったのですが,その友人がグランドキャニオン国立公園で「行きたかったのはここでなく,西部劇で出てくる岩山のそびえるところなんだなあ」というので,それはどこだろう? と調べて,ああここだとグランドキャニオン国立公園からさらに行ってみたのがモニュメントバレーでした。そのころの私の知識はそんなものでした。しかし,行ってみて本当によかったと思います。おそらくそのとき行かなかったら,その後に行く機会はなかったかもしれません。
 それにしても,知らないというのは怖いもの知らずのすごいことです。オーストラリアのエアーズロックもそうだったのですが,誘われなかったら,私はそんな遠いところには縁がないと思って,行く機会はなかったと思うのです。
 コロナ禍で夢となってしまいましたが,2年前まで狂ったように海外旅行をしていた私は,半ば冗談に半ば本気で,残るは,エジプトのピラミッド,ボリビアのウユニ塩湖,そして,チリのイースター島だけ,と言っていました。実際にはひとりではまったく行く気はありませんでしたが,だれかに誘われれば行ったと思います。誘われなくてむしろよかったのかもしれませんが…。

●モニュメントバレー(Monument Valley)
 ということで,モニュメントバレーは国立公園ではありませんが,ここで紹介します。
 おそらく,当時,グランドキャニオン国立公園のノースリムから州道160を延々と2時間ほど走ったらしいのですが,そのときは,えらく距離があるなあ,と思ったことが記憶に残っています。また,州道160沿いはナバホ族居留地で,これもまた,当時の私にはとても珍しい風景に見えました。
 モニュメントバレーが近づくと,よく写真に出てくる赤茶けた大地にまっすぐな道路が続き,その先に巨大な岩山がそびえ,それはそれは感動しました。
 到着するとビジターセンターがあって,モニュメントバレーで撮影された数々の映画の紹介などもあったように記憶していますが,当時の私は西部劇にも興味がなかったので,さっぱりわかりませんでした。今では「バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3」(Back to the Future Part III)でこの場所が出てくると当時のことを思い出します。また,ときどき西部劇を見ていると,この場所がよく出てきます。
 モニュメントバレーでは,怖いもの知らずで,バレー内のダートロードも走ってきました。
 今,これを書くために地図を見ていて,とても残念に思うのは,もう少し先まで行けば,私が行きたくてまだ行くことができていない数少ない場所のひとつであるフォーコーナーズに到達できたのにということです。
 そんなこと,2000年の私には考えが及びませんでした。そもそもフォーコーナーズを知りませんでした。旅行にはこうした後悔がつきもので,つくづく,罪作りなものだなあと思います。

●フォーコーナーズモニュメント(Four Corners Monument)
 という次第で,行っていないのですが,フォーコーナーズモニュメントもここで紹介します。フォーコーナーズモニュメントは幻に終わった2020年のアメリカ旅行で行こうと思っていたところのひとつです。
 アメリカの50州の中で,4州の境界線が十字に交わっている唯一の場所が「フォーコーナーズ」とよばれるところです。4州はコロラド州,ユタ州,アリゾナ州,ニューメキシコ州です。
 この場所にプレートがあって,そのまわりに土産物店があるというのがフォーコーナーズモニュメントだそうですが,行かなくてもだいたい想像がつきます。こうした土産物店はサンタフェにも同じようなところがありました。
 ただそれだけのところです。おそらく,行ってみると,私は,写真と同じだ,と思うだけのことでしょう。わざわざ何時間もかけて行くほどの魅力があるような場所とも思えません。が,これを書きながら,行こうと思っていながら行っていないことに今になって悔しさがこみ上げてきました。ああ,書かなきゃよかった。

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 2020年の夏に私が行こうとしていたアメリカの旅の目的地は,アリゾナ州やコロラド州にかけてのいくつかの国立公園とアリゾナ州にあるいくつかの天文台でした。
 これまでに,国立公園も天文台も,私が行きたかったところはおよそすべて行ったので,この旅で行こうとしていたところはおまけみたいなものでした。そこで,行けなかったからといっても,それほど残念には思っていないのですが,それでも,行ってみたかったということには変わりません。
 しかし,この先,コロナ禍がもし収まったとして,果たして行くことができるでしょうか。そもそも,私は,このごろ,コロナ禍がこれからも永久に続くような気もしてきました。また,旅行をする気力がなくなってきました。そこで,「2020夏幻のアメリカ旅行LIVE」を続ける前に,私がこれまでに行った国立公園と天文台を振り返って,ここで紹介することにします。旅行ガイドではなく,あくまで私が行ってきたときの感想を書きます。

 まずは国立公園からです。
 なお,国立公園(National Park)とともに,自然景観や科学的・歴史的に価値がある地域がナショナルモニュメント(National Monument)に指定されていて,これを日本語で国定公園や国定史跡などと訳しています。このブログでは国定公園と記述し,国立公園と同様に扱うことにします。
 アメリカの国立公園は日本とはまったく違っていて
  ・・・・・・
①原生自然景観の維持と保全
②人が平等に利用できる施設の運営
③利用者が自然への理解を深めること
  ・・・・・・
が目的となっています。
 多くの国立公園は入園料が必要であり多くの厳しい決まりがありますが,園内には充実したビジターセンターがあり,また,ゴミひとつ落ちておらず,すばらしい景観が保たれています。
 とってもいいのは写真だけ,残していいのは足跡だけ,といわれます。
  ・・
 ユタ州とアリゾナ州の境にレイクパウエルという人造湖があり,ここを中心とした半径230キロメートルの円のなかに8つの国立公園と16の国定公園があって,この地域をグランドサークル(Grand Circle)といいます。このグランドサークルにある公園からはじめます。

●グランドキャニオン国立公園(Grand Canyon National Park)
 だれしもがあこがれるグランドキャニオン国立公園はアメリカの国立公園巡りの入門編です。
 私もかつてあこがれました。
 私がグランドキャニオン国立公園に行ったのは2000年の5月のことでした。当時はまだアメリカをドライブすることには慣れておらず,今とは違って,多くのことを知りませんでした。国立公園の知識もありませんでした。
 ロサンゼルスで車を借りて,グランドキャニオンまで,ラスベガスを経由して走りました。よくもまあ行ったものだと今では思うのですが,知らないが故の楽しさもときめきもありました。
 前日,サウスリムの近くのモーテルに泊って,サウスリムで朝日を見たのか夕日を見たのか,その両方を見たのか昔過ぎてはっきりしないのですが,その後,それからはるばるコロラド川を越えて,ノースリムまで行きました。ノースリムにはまだ雪が残っていました。
 ほとんどのことはもう忘れてしまいましたが,今,はっきりと記憶にあるのは,雄大なグランドキャニオンの風景と,ノースリムへ行ったときに宿泊した素朴なカフェ兼モーテルです。思えばよき時でした。

☆ミミミ
今年は8年ごとのペルセウス座流星群の観測好機だったのですが,あいにく天気が悪く星がみられませんでした。上の写真が午前2時ころの北の空,〇で囲った部分がペルセウス座です。そして,下の写真が1990年に写したレビー彗星と流星です。

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 私はアメリカに行くとき,しばらくの間ロサンゼルスを経由することがありませんでした。それは2001年にアメリカに行ったとき,帰国する日の朝ロサンゼルス・ハリウッドのマクドナルドで朝食をとっているときに置き引きに遭ってえらい目して以来,ロサンゼルスがすっかり嫌いになってしまったというのが理由でした。
 しかし,2018年にロサンゼルス郊外のパロマ天文台に行こうと仕方なくロサンゼルスに行って以来,羽田国際空港発ロサンセルス国際空港行きのデルタ航空便がとても快適で便利なことを知ってしまい,その翌年の2019年もまた利用することになりました。2019年のときはさらにロサンゼルスで乗り換えて,アリゾナ州のフェニックスまで行きました。
  ・・
 前回書いたように,2020年もまた,フェニックスに行くことにしていました。当然2019年のときと同じ旅程だと思い込んでいました。しかし,これを書いている段階で,プリントしておいた予約票に,帰りの便は確かにロサンゼルス乗り換えだったのに,行きの便がロサンゼルスではなくシアトル経由であったのに気づいて驚いたのです。まあ,経由地がそうだったということだけで,最終目的地は同じなのでさしたる問題があるわけでもなかったのですが…。

 日本からはアメリカに限らず,オセアニアやヨーロッパに行くにもみな9時間程度の時間がかかります。日本はどこに行くにも中途半端に遠いのです。
 若いころはいいとしても,このごろは次第に体力も落ち,エコノミーシートで9時間はたまらなくなってきました。ということで,少しだけ贅沢をすることにしていました。
 飛行機の座席はエコノミーシートとファースト(ビジネス)クラスという分類です。また,エコノミーシートの上にエコノミーコンフォートシートというエコノミーシートより少しだけ広い席があります。私はデルタ航空のゴールドステイタスなので,これまでも,最悪でも無償でエコノミーコンフォートに,そして,アメリカの国内線はファーストクラスにグレードアップされていたのですが,国際線では,かねてから,エコノミーコンフォートとファーストクラスの中間のランクにあたるシートがあればいいのになあ,と思っていました。
 その念願がかない,デルタ航空では,アメリカ本土までの便にプレミアムエコノミーシートという設定ができました。これは,座席はエコノミーの1.5倍くらいあって広く,食事はファーストクラス並み,というのものでした。そこで,試しに,2019年に,少しだけマイレッジを使ってこのプレミアムエコノミーシートにグレードアップして利用してみました。
 それが今日の写真です。
 ファーストクラスよりかなりお値打ちであって,かつ,快適だったので,こりゃいいや,と思いました。そして,これからはずっとこの席にしようと思いました。
 というわけで,2020年の旅もまた,事前にマイレッジを使って,プレミアムエコノミーシートにグレードアップがしてあったのですが,結局,この旅は行くことができず,残念ながらキャンセルとなってしまったわけです。

☆ミミミ
昨日の夕方写した月齢1.5の月と金星と新幹線です。月の下には火星がいるはずなのですが…。

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 2020年,突然のコロナ禍で海外に出かけることができなくなりました。この時点で私はこの年3度の海外旅行を計画していて,それらをキャンセルしなくてはなりませんでいた。
 それにしても,3つも海外旅行をキャンセルした人がどれほどいたことでしょう。
 それまで,当たり前のように年に6回から8回海外旅行をしていて,そのころは,どこに行くか,何をするか,どのように行くか,などがほぼ定跡化していたので,半年以上前に予約が済んでいたからでした。
 キャンセルした旅行のうち,3月のオーストラリア旅行,7月のフィンランド旅行については,すでに幻の旅行記を書きました。そして,最後に残った,8月に行く予定をしていたアメリカ旅行についての幻の旅行記を,今日から書いていきます。
 今回もまた,これまでに出かけたときに写した写真とともにご覧ください。

 この旅は,次の旅程で航空便が予約してありました。
 行きは,2020年8月19日水曜日の午後4時45分,羽田国際空港発のデルタ航空166便で出発して,同日午前10時3分シアトルのタコマ国際空港着,そして,11時20分タコマ国際空港発のデルタ航空1262便で14時12分アリゾナ州フェニックス着でした。また,帰りは,8月25日火曜日午前6時3分フェニックス発のデルタ航空4078便で午前7時35分ロサンゼルス国際空港着,そして,午前10時30分ロサンゼルス国際空港発のデルタ航空7便で翌日8月26日水曜日午後2時30分羽田国際空港着でした。
 予約をしてあったのは,航空便だけでした。3月の時点では夏には行くことができるかな,という感じで様子見だったのですが,その後,さらに事態は悪化して,7月21日にキャンセルしました。
 今,これを書くために改めて調べていて,予約してあった行きの便がシアトル乗り換えであったことに驚きました。私は,ずっと行き帰りともロサンゼルス乗り換えだとばかり思っていたからです。いい加減な話です。


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●離陸の順番待ち●
 搭時間になった。今回もまたファーストクラスへのアップグレードだったので,先に乗り込んだ。アメリカの国内線のファーストクラスは国際線とは違って,イスが大きいことと,ガラスのコップで飲み物が出てくることと,軽食が配られることくらいしか特典はないが,なぜかうれしい。
 わずか1時間程度のフライトだから,窓際席にした。

 フェニックスの空港は,スカイハーバー国際空港(Phoenix Sky Harbor International Airport)という。フェニックスの市内,中心部よりやや南東4.8キロメートルにある。
 この空港はアメリカ南西部にある大きな空港のうちのひとつで,グレイトレイクス航空とUSエアウェイズのハブであるほか,フロンティア航空とサウスウェスト航空の焦点都市となっていて,北アメリカ,カナダ,メキシコ,中央アメリカ,ヨーロッパの各都市間を15のキャリアが運航しているので,アメリカで利用者数の多い空港のトップ 10 に入るということだが,私にはそんな印象はまるでなく,小さな空港であった。
 スカイハーバー国際空港には3つのターミナルがあるが,ターミナルの番号は2,3,4となっている。ターミナル1が1990年に取り壊されたからである。

 どの空港もそうだが,フライトの離陸は,同じ時刻に設定された複数のフライトがあって,それらは要するに「早いもん順」に離陸するのである。つまり,離陸の順番は事前に決まっているわけでなく,離陸準備のできた飛行機から滑走路の手前に陣取り離陸にそなえ,順番がくると滑走路に入り飛び立つわけだ。それらの調整を担うのが管制塔である。
 大概の空港は滑走路が1~2本で,同じ滑走路を離陸も着陸も使うので,着陸してくる飛行機があると,離陸する飛行機はしばらく待たなけれればならない。そうして,いよいよ離陸の番になると,しずしずと滑走路に向かうことになる。
 今日の4番目の写真がまさにそれで,こんな感じで飛び立つ飛行機がずらりと並んで離陸の順番待ちをしている姿はまさに壮観なのであるが,これは窓際席でなければ見られない姿である。大概の乗客は離陸までどうしてこんなに時間がかかるのだろうなどと思いながら,機内でその時間をすごすことになる。
  ・・
 私の乗った飛行機もこうしていよいよ離陸する順番になった。このころは,海外旅行ばかりしていたので,離着陸で1回のフライトと考えると,私は,1年で平均30回は飛行機に乗っていた勘定になるが,それもまた,今では懐かしい。こんな当たり前だった旅がまたいつかできる日が来るのだろうか?

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●ここは砂漠のど真ん中●
 予想通り,フェニックスの市街に近づくにつれて車が多くなって道路は混んできたが,それほどの渋滞に巻き込まれることもなく,午前8時過ぎにはレンタカーセンターに到着することができた。
 車を返してから少しだけレンタカーセンターの建物のなかを散歩した。建物のなかにはずらりとレンタカー会社のカウンタが並んでいたが,朝早いこともあって,人がほとんどおらず,閑散としていた。
 その昔,アメリカの空港は,ターミナルのなかにレンタカー会社があって,外に出るとレンタカー会社の駐車場があった。今でも多くの地方都市はそうである。
 大都市では,やがて空港が手狭になってくると,空港の近くにレンタカー会社が移動するようになった。新しく作られた都市だと,フェニックスのように,レンタカー会社が集められてひとつの建物に入っているところもあるが,古い町では,それぞれの会社がバラバラになっていてわかりにくいところもある。さらにまた,大きな建物にレンタカー会社が集めれているにもかかわらず,そこに入り切れなくなった新興のレンタカー会社だけ別の場所にオフィスがあって,それがわからず混乱することもある。私はニューヨークのJFKでその被害? にあった。
 建物を出たところに,空港までのシャトルバスの乗り場があったのでバスに乗り込み,やがて空港に着いた。

 フェニックス(Phoenix)はアリゾナ州最大の都市かつ州都である。愛称は「太陽の谷」(Valley of the Sun)。日本語では不死鳥のフェニックスから慣フェニックスと表記されるが英語の発音はフィーニクスのほうが近い。
 フェニックスは1867年に灌漑事業と共に創設され,開拓者が都市を創設した。 20世紀前半からニューディール政策によるコロラド川の電源開発,ルーズベルトダム,フーバーダム,クーリッジダムの開発によって、無尽蔵の電力を供給,軍事産業に関わる航空機産業や電器機械工業が発展していき,今日では半導体などのエレクトロニクス産業,また観光都市としても発達している。
 当初はロサンゼルスやシリコンバレーに後れを取っていたが,1990年頃から安価な労働力と広大な土地,安い税金,精密機械製作には好適な温暖で乾燥した気候,大消費地への近さという条件があいまってカリフォルニア州から大量の半導体,エレクトロニクス産業が流入してきたことで急速に発展した。シリコンデザート(砂漠)とよばれる。
  ・・
 年間を通して温暖,というより年中暑く,夏は日中は摂氏40度を超える。ただし,非常に暑いが乾燥しているので,日本より過ごしやすい。逆に,フロリダは湿度が高いので,夏にフロリダに行くというとアメリカ人にバカにされる。なら,日本の夏なんてもっともっとバカにされそうだ。冬は日中摂氏20度を超える気温となり,朝晩でも摂氏4度以下に下がることはほとんどないため,保養都市として注目を浴びている。
 最高気温記録は1990年6月26日の摂氏50度で,最低気温記録は1913年1月7日のマイナス8.8度ということだ。

 この町は砂漠のど真ん中に形成された人口都市である。私はこの町にはじめて来たのは19年前のことだったが,その当時,こんな砂漠のど真ん中にむりやり水を引いて草木を植え,緑の都会を作り上げるアメリカってとんでもない国だと思ったことを思い出す。
 そのころはまだ素朴さも多く残っていた。今回はフェニックスの町は通り抜けただけで,その風景は空から見ただけだったが,町はさらに巨大化し,アメリカのほかの大都市と変わらない様相を呈していた。

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●絶品の夜明け●
☆4日目 2019年6月28日(金)
 この旅も4日目となった。
 チコちゃんではないけれど,ふだんボーっと生きていると1週間は何もせず終わるけれど,旅に出るとわずか数日間でも,それまで長年ずっと思い焦がれていた経験はすべてできるし,そのときに成しえた思い出はずっと生き続ける。
 旅をしないできた人は,そうした蓄積がないから,歳をとったとき,思い出もなく生きるしかない。そんな人の話にば奥行きがない,退屈な話しかできない老人は,そのような体験の少ない人なのであろう。

 さて,今日は,フラッグスタッフからフェニックスまで戻って,フェニックスからロサンゼルスへは空路,そして,ロサンゼルスで再び車をレンタルして,夜はMLBロサンゼルス・エンジェルスのゲームを見るという予定であった。
 フラッグスタッフからフェニックスまで車でほぼ2時間かかる。フェニックスからのフライトは10時過ぎの出発なので,朝はフェニックスを午前7時くらいに出発すればいいかな,と思っていたのだけれど,来るときにフェニックスの市街地が思った以上に渋滞していたことと,この日は週末でなく金曜日だから朝の通勤時間と重なること,そして,来るときにインターステイツで事故渋滞があったことなどを考えると,もっと早く出発するほうがいいと思いなおし,朝は午前5時に起床し,朝食をとって午前6時にはチェックアウトすることにした。
 昨晩買って冷蔵庫に入れておいたビックマックをレンジで温めて朝食代わりにした。チェックアウトといってもキーをフロンのある建物の外にあるキーボックスに返すだけ,ほったらかしのモーテルである。

 まだ夜が明けきらず暗いフラッグスタッフのヒストリック・ルート66を,インターステイツ17のジャンクションに向かって走った。
 インターステイツ17に入ると,周囲は真っ暗で,自分の車のヘッドランプだけを頼りに走ることになるが,こういうとき,アメリカの道路はとても走りやすい。
 私は,よく星を見にいくので,深夜の道路を走ることが少なくないが,日本の道路のひどさは,暗いときとか雨のとき,霧のときに顕著になる。そうした悪条件をまったく考慮しないで整備されているのである。反対に,アメリカの道路は,悪条件になるほど,安全に走行できるように整備されている。これが日本人の「発想の限界」である。

 やがて東の空が白んできた。アメリカの大自然は,このときが最も美しい。日本では決して見られない風景が広がってくる。フラッグスタッフからフェニックスまでは緩い坂を下ることになるから,来るときはよくわからなかったが,眼下に広がる景色は想像以上にすばらしいものだった。
 順調にフェニックスのダウンタウンに近づいてくると,あたりはサボテンだらけになる。
 アリゾナといえばサボテンであろうが,そうした風景がどこで見られるかといえば,すぐには思い浮かばない。19年前,はじめてアリゾナ州に来たときにこの「サボンのある景色」を追い求めてあてもなく走ったことを思い出したが,そのときにどの道を走ったのかは記憶にない。しかし,それほどの道路があるわけでもないから,そのときは,インターステイツでは景色が見られないと思ってそのあたりの一般道をふらふら走ったのだろう。しかし,そんなことをしなくても,実は,インターステイツからとてもよく「サボテンのある風景」は見ることができたのだった。それをこの日知った。

 やがて,太陽が昇ってきた。どこかで日の出の写真を写そうと走っていて,ブラックキャニオンシティという田舎町を見つけたので,そこで,一旦ジャンクションを降りた。
 ブラックキャニオンシティはインターステイツ17にそった一般道の周りに家が数件あるだけの田舎町だったが,なかなかいい雰囲気であった。こういう町に着くと,いつかこんなところに泊ってみたいものだといつも思うのだが,実際泊ってみると,こうした町には何もなく,夕食をとろうと1軒のレストランを探すのすら苦労することも,私は,これまでの経験ですでに知ってしまっている。

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●電子レンジだけは存在した。●
 ルート66,インターステイツ40と走って,フラッグスタッフに戻ってきた。これをもって,今回の旅でフラッグスタッフの3泊の滞在は終わりである。
 私が滞在したモーテルは,ルート66沿いということだったので,もっとフラグスタッフのダウンタウンに近いところなのかと思っていたが,歩くと30分程度もかかる場所であった。安価なモーテルだからそれは仕方がないとして,このモーテルはベッドメイキングがなく,タオルの交換もないのが気に入らなかった。
  ・・
 これまではそんな経験がなかったが,昨年の秋に行ったニュージーランドのテカポ湖畔のモーテル,ハワイ島ヒロのモーテルと,このところ,ベッドメイキングすらないモーテルに私は立て続けに泊っている。それでもまだいいほうで,2017年の秋に泊ったカウアイ島のコンドミニアムは,ベッドメイキングも掃除もしてくれないのに,宿泊代以外にクリーニング代とかいう法外な料金を別途1万円ほども請求された。パーキング代が宿泊料金とは別途の必要で,しかもそれがずいぶんと高かったオーストラリア・ブリスベンのホテルもあった。
 近頃,エクスペディアやブッキングコムではホテルの宿泊料は安く表示してあっても,実際に宿泊するにはそれ以外の法外な料金が必要なホテルが存在するようになってきたので,ホテルの予約にはかなり注意が必要である。
 経験上,1泊15,000円以上出せば,そのようなおかしなホテルはほとんどないが,値段の安いホテルには何が潜んでいるかわからない。そこで,少し割高であってもきちんとしたホテルを予約したほうが結局は安上がりで,「見かけ上だけ」の安価なホテルは予約したほうがいいと思う。

 この日はフラグスタッフ滞在の最終日で,私は,マクドナルドに行ってサラダを食べることにした。
 まったくの余談だが,春にオーストラリアに行って毎日ステーキを食べて贅沢したり,アメリカでハンバーガーばかりを食べていたせいか,今年の健康診断で中性脂肪値が異常に高くなってしまった。やはり日本人には,ハンバーガーとコーラなどより,寿司とお茶というほうがふさわしいのかもれない。 
 寿司といえば,アメリカ人も寿司好きのようで,こちらのスーパーマーケットでもパック寿司なら大概売っているのだが,常にワサビが別となっている。聞くところによると,アメリカ人はみなワサビが苦手だという。
 しかし,私はワサビが苦手なのではなく,ワサビのつけかたを知らないのではないかと考える。ホットドッグにマスタードとケチャップをかけるようにワサビを使っては,そりゃ大変であろう。
 この日私は,サラダとともにビッグマックを買って,それをテイクアウト(アメリカでは「to go」といい「take out」とはいわない)してきた。これは夕食ではなく,明日の朝の朝食にしようというわけであった。泊まったのはサービスの悪いモーテルであったが,部屋には電子レンジは存在したので,これを利用しようというわけであった。

 いつも書いているが,アメリカのレストランは,たとえファミリーレストランでもチップがいるので,とてもばからしいのである。そんなところへ行くくらいなら,近くにモールがあれば,モールのフードコートで食事をすれば十分だし,フードコートがなければ,そこらにある全国チェーンのハンバーガー屋ですませばいい。アメリカに行って食事にこだわっても,どうせ大したものが食べられるものではないからである。ヨーロッパを旅行するようになって,増々そう思うようになった。
 今回,私が密かに狙っていたのはロサンゼルスで吉野家に行くことであった。ロサンゼルスには吉野家が数店舗あるので,一度試してみようと思っていたからである。結局今回は行くことができなかったけれど。
 アメリカに住む日本の人に聞くと,どうも日本の経営者はアメリカでレストランを開くとき,考え違いをしているようだという。ステーキというのは贅沢品だからよいのであって,値段が安いからといっても客は来ない。だから,いきなりステーキをニューヨークで開店してもうまくいかないし,吉野家もどうも評判がよくない(らしい)。また,人種によって,ずいぶんと食事に偏りがあるようなのだ。これはメキシコ人の食い物だからといって白人は見向きもしないものとか,そういうことが多くあるらしい。
 しかし,日本人は,そういった,アメリカ人の現実について,知っているようでまったく知らない。余談だが,現在のアメリカの大統領は価値観のすべてが金なのだ。だから日本的な忖度をしても仕方がない。しかし,日本の政治家はそんなことすら知らない。トランプにゴマをすったところで,何も見返りはない。儲け話をしてやればいいのである。

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●まさか再びこの町に来るとは…●
 ウィリアムズを出て,さらに西にインターステイツ40を4マイル(6.4キロメートル)ほど走ると,次のセリグマン(Seligman)という町に着いた。私はインターステイツ40をそのまま走っていったのだが,実は,途中で一度はインターステイツ40に吸収されたルート66が,セリグマンに行く途中でふたたび分岐して,インターステイツ40に沿った形で平行にその北側を走っていたのだった。
 いずれにしても,私はインターステイツ40をセリグマンの町に差し掛かったところで降りたので,再びルート66に合流できた。
  ・・
 セリグマンは人口約500人の小さな町である。チノバレーの北部にあるビッグチノウォッシュと並んで標高が5,240フィート(1,600メートル)という高地にある。
 この町が有名なのは,なんといっても今でもルート66が町のメインロードとなっていて,かつての時代のままの町が残っていることにある。
 フラグスタッフやウィリアムズは,かつてのルート66をはさんだあたりこそその時代の風情を残しているが,その外側には新しい街が出来ている。しかし,セリグマンにはそれがない。そこがいい。

 私は今から19年前,グランドキャニオンに行こうと,ロサンゼスからインターステイツ15を走ってラスベガスを経由し,ラスベガスからはインターステイツ40でキングズマン,セリグマン,ウィリアムズと走って,そこから北上してグランドキャニオン国立公園に行ったことがある。
 今思うと,ロサンゼルスから目的地のグランドキャニオンに行くのなら,なにも遠回りになるラスベガスなど通らずとも,ロサンゼルスからそのままインターステイツ40を走ればよかったのだが,おそらくそのときの私は,ラスベガスにも行きたかったからに違いない。そうして遠回りをしたがために,そのときセリグマン行くことができた。
 そのときはまだルート66のことは今ほど知らなかったのだが,それでも少しは知識があった。
 セリグマンで車を停めた。そこで1軒のみやげもの屋を見つけたので,中に入った。そこは,みやげもの屋を兼ねた床屋であった。で,その店で出会ったのが有名人のエンジェル・デルカディーロ(Angel Delgadillo)さんであった。出会った瞬間,この人テレビの番組で見たことあるぞ! と思った。そして,お話をして一緒に写真を撮った。今にして思うに,それはなんという幸運だったのだろうか。会いたくても会えない人が大勢いるというのに,私は,意識して会いに来たわけでなかったのに,,偶然出会い,話をし,一緒に写真まで写すことができたのだった。
 私は,今回の旅で,再びセリグマンに来るまで,かつて,エンジェル・デルカディーロさんに会った町がセリグマンだということすら忘れていたが,町に来て,そうだ,あのときの町はここだったのか! という驚きととともに,人生の不思議さを思った。まさか,またこの地に来るとは思わなかった。

  ・・・・・・
 かつて,ルート66は50年以上もの間セリグマンに繁栄をもたらした。しかし,1978年9月22日,インターステイツ40の開通によって,それまで1日に何千台と通過していた車が一切通らなくなった。それは,セリグマンの生活とビジネスが一瞬にして消え去った出来事だった。それによってセリグマンの人々は厳しい生活を強いられることになり,ビジネスは朽ち果て人々は引越し町は荒廃していった。
 そんなとき,セリグマンで床屋を経営していたエンジェル・デルガディーロさんは,アリゾナのルート66沿いの町の代表を集め,ルート66を「ヒストリック・ルート66」にする会議を開き,1987年に「ヒストリック・ルート66」協会を設立し,会長となった。そして,ルート66の土産品を販売,それが現存する最初のルート66ギフトショップとなったのだった。
 その後,アリゾナ州政府はセリグマンからキングマンまでのルート66を「ヒストリック・ルート66」と命名,こうして,人々のルート66へ対する関心を駆り立て,ついに人々は再びルート66に訪れるようになっていった。
  ・・・・・・

 あいにく,この日,エンジェル・デルカディーロさんは外出中でお会いすることはできなかった。このことだけが今でも心残りである。
 今,このことを書きながら,私はおそらく将来,再びセリグマンに行くことも,エンジェル・デルカディーロさんに会うこともないだろうと思うと,つらくかなしくなる。夢は実現するとうれしいが,しかし,また,実現した過去を振り返ると,切なくもなる。
 ルート66はさらに進むとロサンゼルスまで続いていくが,私は,この日,セリグマンを最後に,ルート66を巡るドライブを終えて,フラグスタッフに戻ることにした。セリグマンからの帰路,インターステイツ40に合流するまで,来るときは通らなかったルート66を,いつまでも懐かしみながら走ったのだった。

◇◇◇
「Route66~愛と哀しみのマザーロード~」では,番組の最後に,The Notting Hillbillies の Feel Like Going Home が流れます。たとえ思いが遂げられず疲れ果てても,安らぎのわが家が待っているよ,帰っておいで,と。アメリカのこころ!
Lord I feel like going home.
I tried and failed and I 'm tried and weary.
Everything I ever done was wrong.
And I feel like going home.

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●古きよきアメリカの町●
 ウィリアムズ(Williams)は人口約3,000人,ヒストリック・ルート66とインターステイツ40とアムトラック鉄道が通る町である。グランドキャニオンにアクセスする南端でもあるので,ハイシーズンには多くの観光客が訪れる。
  ・・
 インターステイツ40のジャンクションを降りて南に行くとダウンタウンに到着するのだが,私は間違えて,グランドキャニオンにアクセスする北に向かって進んでいったので,どんどんと町から離れてしまったようだった。やがてウィルアムズの古い町並みとはまったく違う新しいリゾートタウンに到着したので,そこでやっと気づいて慌てて引き返すことになった。
 このリゾートはグランドキャニオンへのゲートウェイで,エリアには湖があり山があり,そこで,山登りやスキー,トレイルなどが楽しめる。一方,歴史地区であるウィリアムズのダウンタウンは,1950年代から60年代の全盛期を彷彿とさせる古きよきアメリカ西部の雰囲気が今も残り,それがルート66の哀愁とよく似合っているので,多くの観光客がやってきて,散歩をしたり,カフェでくつろいだりしていた。

 1881年に設立されたこの町は,著名な貿易商であり開拓者だったウィリアム・シャーリー ”オールドビル” ウィリアムズ(William Sherley "Old Bill" Williams)にちなんで名づけられた。彼の像は市の西側にあるモニュメントパークにある。 また,すぐ南にある大きな山は,ビルウィリアムズマウンテンとよばれている。ウィリアムズに今もルート66が残ったのは,インターステイツ40が市内に建設されないようと郊外にバイパスを作ったからである。
 私は,この町の中心にあった無料の駐車場に車を停めて,しばらく町を散策した。西部劇で出てくるような町の様子は,私が昔あこがれた「栄光と哀しみのマザーロード」で出てきた町そのものであった。この町を歩きながら,そのころはすっかり忘れていた40年前の私のアメリカへの想いが再びよみがえってきて,私は感傷に浸って,すっかり参ってしまったのだった。
 ウィリアムズはいい町だった。ああ,これこそが私の夢見たアメリカだよ。そう思った。泣けた。

◇◇◇
「route66~愛と哀しみのマザーロード~」では,番組の冒頭で,Eagles の Desperado  が流れます。
  ・・・・・・
 But you only want the ones that you can't get.
 It may be raining but there's a rainbow above you.
  ・・
 たとえ夢がかなわなず
 雨が降ったとしても,空には虹が輝くよ
  ・・・・・・

2019夏アメリカ旅行記-なつかしのルート66① の続きです。
◇◇◇
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●栄光と哀しみのマザーロード●
 この旅をしたのは,今から1年ほど前のことであるが,何か,今では遠い宇宙に行ってきたような気がする。
 では,宇宙から? の旅行記を再開しよう。
 この旅を計画したころは,フラグスタッフに3泊して,滞在2日目と3日目の2日間で,まず,念願だったバリンジャー隕石孔とローウェル天文台に行き,そのあとは,フラグスタッフをはじめとするこの付近のルート66を走ってみようと何となく思っていた。
 滞在2日目は,思いのほか予定がはかどって,念願だったバリンジャー隕石孔とローウェル天文台にともに行くことができた。
 フラグスタッフからは,ホースシューベンドとアンテロープキャニオンが近いということを知って,3日目は来るまで予定になかったが,フラグスタッフを離れて,ホースシューベンドとアンテロープキャニオンまで遠出することができた。そして,フラグスタッフに戻ってきても,まだ時間がずいぶんあったので,このあとの時間は,フラグスタッフを越えて,ルート66を巡ってみることにした。
  ・・
 6月下旬というのは,アメリカ旅行をするのに最適な季節である。それは,夏休みには早くそれほど混雑していないことと,夏至に近いので昼が長いことである。
 唯一の心配は暑さであったが,来てみると意外なほど涼しかった。

 ずいぶんと前,アメリカに憧れていたころ,私はアメリカに関するテレビ番組をほとんど見ていた。そのなかに,CSの旅チャンネルで放送されていた「Route66~栄光と哀しみのマザーロード~」というシリーズものに興味をもった。
 当時の私は,ルート66というものが何モノかも知らず,ただ単に,この番組で出てくる広大なアメリカのまっすぐにのびる道と田舎町に魅了され,この道をいつか行ってみたいなあ,と思いながら見ていただけだったが,ルート66がこれほどアメリカ人にとって想い入れのある道だとは思わなかった。
 その後,私は,ルート66を目指したわけでもなかったが,アメリカ50州制覇をめざして,カリフォルニア州,アリゾナ州,ニューメキシコ州,オクラホマ州,ミズーリ州といった場所を旅していると,いつも「ヒストリック・ルート66」と書かれた場所にずいぶんと出会うようになった。そして,そのたびに,何か哀愁を感じるようになってきた。
 そんなわけで,計画したわけでもないのに,これまでの旅で,私はルート66のおおよそのところはすでに走っているのである。
 日本でマザーロードといえば,江戸時代の旧街道のことになるであろう。日本の旧街道は江戸時代,徒歩で行き交う道であったが,それに対して,ルート66は,アメリカのモータリゼーションの発達とともにできた道なので,車で行き交うためのものである。

 日本の宿場町のように,ルート66にも道路沿いに町が点在していて,それらの町は,日本の宿場町のようにどこもプライドがあって,それぞれ趣向を凝らしこの歴史的な雰囲気を保存しようとさまざまな工夫をしている。
 そうした古きよき時代を今でも最も残すのが,フラグスタッフの周りの小さな町である。そこで,この日は,フラッグスタッフから西の方向にあるこれらの町をいくつか訪ねてみることにした。
  ・・
 フラッグスタッフのダウンタウンをルート66は当時より車線を広げて走っている。ルート66だったその道をそのまま西に走っていくと,道はインターステイツ40・ビジネスという,インターステイツ40に平行して北側を走る道路になった。ほとんどの車は信号のないバイパス道路であるインターステイツ40を走るので,ビジネス道路はほとんど車が通らない。
 アメリカの道路でビジネスと名づけられたものは,市街地を通る,バイパスができるまでは主要道路だった,いわゆる旧道のことなのである。アメリカでは,名前のつけかたに明確なルールがあってわかりやすい。
 私は,急ぐ旅でもなく,ルート66の余韻を味わうために,このインターステイツ40・ビジネスをそのまま走っていったのだが,やがて,インターステイツ40に吸収されてしまった。しかたなくその先は無味乾燥のインターステイツ40を西に走っていくと,ベルモント(Bellemont)という町に到着した。
 昔の道が残っていないかと,ベルモントでインターステイツ40を降りてみたが,ベルモントには残念ながらルート66らしき道路の痕跡もなかったので,再びインターステイツ40に戻った。さらにそのまま西に進んでいくと,次の町の入口にヒストリック・ルート66の案内標示があったので,その町でジャンクションを降りた。そこはウィリアムズ(Williams)という町であった。
 ウィリアムズはインターステイツ40がバイパスとなっていて,ヒストリック・ルート66はそのままの形で残っていた。古きよき町並みが,往年の面影を残していて,うれしくなった。
 私は,町の中心にあった無料の駐車場の車を停めて,しばらく町を歩くことにした。
無題

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●クルーズコントロール●
 予定通り,ホースシューべンドとアンティロープキャニオンを巡ることができた。これから再び2時間かけて,フラグスタッフまで戻る。
 私は車には全く興味がない。動けばいいと思っている。日本のようないつも渋滞して走ることもままならないような国では車なぞに凝ったところで仕方がない。マナーも悪いから必要がない限り乗りたくない。よって,日本より海外で運転することのほうが多いくらいだ。
 左ハンドルと右ハンドルの違いは大した問題ではないが,どう比較しても,海外,といってもアメリカやオーストラリア,そして,ニュージーランドくらいしか知らないが,これらの国にくらべると,日本の運転マナーが一番悪いし,道路標識やら道路整備がひどいから,海外で乗るほうがずっと楽である。日本人は車に乗ると人格が変わるというか,人の目があるときは猫を被ったように消極的なくせに,人が見ていないときや車に乗ると突然狂暴になる。制限時速などあってないようなものだし,制限時速を保って走っていると,ほとんどの場合後ろから煽ってくる。さらに,道路は狭く渋滞ばかりなのに,そこに自転車が走っていて,多くの自転車乗りはさらに傍若無人だし,こんな国で高価な車を買って自慢したり猛スピードを出して走る人の気が知れない。

 しかし,アメリカやオーストラリア,ニュージーランドのような,ほとんど信号すらない道を長い間乗るには,SUVのようなそれなりの大きな車のほうが安心だからそれを借りる。走りたいだけ走れるこうした国での運転はすごく楽だが,問題はスピードを一定に保つのが簡単でないことだ。知らず知らずスピードが出てしまうので,絶えずスピードメータを見て制御するのは疲れる。そこで一定のスピードで自動走行する装置であるクルーズコントロールが役にたつ。日本でもクルーズコントロールの装備された車があるようだが,そんなものがあっても日本ではどこで使うのかと思う。しかし,海外では必需品である。ただし,道路が凍結していたりするときには決して使ってはいけない。道路の状況も考えずに加速するからである。
 私は,この日,クルーズコントロールをONにして,ずっと同じ速度で走っていたが,私の後ろを,決して煽るという感じでなく,ずいぶん車間距離をとって,ずっと同じ車がついて走っていた。それはそれでいいのだが,背後の車は,フラグスタッフの市街地に入って車線が多くなり,それとともに車が増えてきたら,その車のドライバーはまるで人格が変わったかのように追い越し車線に出て,私をさっそうと抜いていった。私は,一番右の車線を,相変わらず車の流れに従ってのんびり走っていた。
 そのうちに,渋滞になったが,それは自然渋滞ではない雰囲気であった。どうやら,その先の交差点で多くの車が事故に巻きこまれてしまったようだった。私を追い抜いていった車がその事故に巻き込まれたかどうかは知らないが,心配になった。そういえば,以前,オーストラリアで,私をさっそうと追い越していったトラックが市街地に入ったところでスピード違反で捕まっているのを目撃したこともある。車は安全運転が一番であると,改めて思ったことだった。

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●ナバホ族の居留地●
 アンティロープキャニオンはナバホ族(Navajo)の居留地にある。
 ナバホ族はアメリカの南西部に先した「ネイティブアメリカン」で,アサバスカ諸語(Athabaskan languages=カナダおよびアメリカ合衆国に住むネイティブアメリカンの言語)を話す「ディネ」(Dene=アサバスカ語族を話す人達の自称)の一族である。また 「ナバホ」とはテワ語で「涸れ谷の耕作地」という意味である。 「ネイティブアメリカン」は,コロンブスがアメリカ大陸に到達する以前から住んでいたアメリカ先住民のことを指す。「ネイティブアメリカン」は,領土の侵略を続けたヨーロッパからの入植者と数多くの戦争を経験し,多くの犠牲者が出た。そして,敗戦後もともと住んでいた肥沃な土地を奪われ,Reservationとよばれるインディアン居留地へ隔離された。やがて,1968年に施行された「インディアン人権法」(Indian Civil Rights act)で市民権を獲得したが,今でもインディアン居留地に住んでいる「ネイティブアメリカン」がほとんどである。 
 ナバホ族は,アリゾナ州の北東部からニューメキシコ州にまたがるフォー・コーナーズの沙漠地帯に居留地(Reservation)を領有している。

 アリゾナ州のナバホ族居留地はほとんど開拓されておらず,地平線を見渡せるほどの大地が広がっている。インディアン居留地は,いわゆるド田舎で,徒歩圏内に店はひとつもなく,車がないと生活は成り立たない。車で20分走るとコンビニがあるが閑散としていて,商品に埃が溜まっているという。コミュニティの中心街には必要最低限の店はあるが,しゃれた洋服を売っているような店はない。
 また,乾燥砂漠地帯なので慢性的な水不足に悩まされている。モンスーンの季節(季節風がもたらす雨季のことで6月15日から9月30日)以外はめったに雨が降ることがない。そして厄介なのが砂嵐で,結構な頻度で発生するので,インディアン居留地では高級車を所有している人はいないという。
 ナバホ族の食べ物としてあげられるのが「フライ・ブレッド」である。「フライ・ブレッド」は,小麦粉,ベーキングパウダー,水,塩をこねて薄く広げたものをキツネ色になるまで揚げたものである。外側はサクサク,中はモチっとしていて,そのままちみつをつけて食べる。それ以外には,タコスのフライ・ブレッドバージョンである「ナバホ・タコ」がある。フライ・ブレッドに,ひき肉,豆,玉ねぎ,レタス,トマトを乗せた料理である。また,羊肉を使用した「ナバホ・シチュー」は,羊肉,ハラペーニョ,ジャガイモ,玉ねぎ,にんじん,コーン等を鍋に入れて,3時間ほど煮立たせ,そこに塩で味つけする料理である。

 ネイティブアメリカンで有名なキャラクター「ポカホンタス」で,彼女が身に着けているジュエリーが「ターコイズ」である。ネイティブアメリカンにとって「ターコイズ」はイメージカラーで,コミュニティの結束を固くする石として大事にされている。
 「ターコイズ」は 「幸せ」「幸運」「健康」をもたらすと言われている。インディアン居留地のフリーマーケットで「ターコイズ」ジュエリーを購入すると,驚くほどの安価で購入できる。日本では2万円から3万円で売られているネックレスが25ドルほどで手に入るという。

 ネイティブアメリカンのコミュニティで定期的に開催されるのが伝統舞踊の「パウワウ」(PAW WOW)で,無料でだれでも入場,見学,参加することができる。ダンスは女性と男性に分かれて,それぞれテーマに沿った衣装で踊りる。各々手作りの羽や鈴をつけた華やかな衣装を身にまとっている。
 男性のダンスでは,羽をクジャクのごとくふんだんに使った華やかな衣装を身にまとって踊る「ファンシー・ダンス」が人気,一方,女性は「イーグル・ダンス」とよばれる,羽織ったブランケットをイーグルのように振り回して踊るダンスや,「ジングル・ダンス」とよばれる衣装に鈴をつけたダンスが華やかで見ごたえがある。
 「ネイティブアメリカン」のコミュニティにも社会問題が存在する。それは貧困である。インディアン居留地には十分な仕事がないので,働きたくても働けない人が多い状況であり,また,貧困から派生するドラッグやアルコール中毒患者も少なくない。未だにギャング活動が活発な地域もあり,日中もカーテンを閉め切っている家がほとんどなのである。

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●アンティロープキャニオンの集団行動●
 申し訳ないが,このブログは旅のガイドではないので,アンティロープキャニオンに行く参考としてこれを読まれても,あまり意味がない。あくまで私の旅の日記である。
  ・・
 さて何だかさっぱりわからなかったが,多くの観光客がそうしていたから決してぼったくの怪しげなツアーではないだろうと,適当にツアーチケットを購入して,言われるままに車の荷台に乗り込んだ。荷台には私を含めて10人程度が乗っていたが,私以外は同じ仲間であった。話している言葉は英語でなかったし,何語かもわからなかったから,フランス語やスペイン語やドイツ語でなかった。東洋人でもなかった。入り込めなかったので,話しかけることもなく,その意味ではとてもつまらなかった。ひとり旅ではこういうこともままあるが,よいことは,たとえ満員であっても,ひとつくらいは余裕があるので,何とかなってしまうことが少なくないということだ。

 乗り込んだ車はなかかな出発しなかった。順番待ちをしているらしい。15分くらいだろうか,そのまま待機して,やっと動き出した。しかし,アンティロープキャニオンまでがまた遠かった。土の河原の上を延々と進んでいく。風でかぶっている帽子は吹き飛ばられそうだったし,揺れるし,まったくもって快適でなかった。
 車の走る通路もまた秩序がなく,前を走る車の後方をなぞるわけでもなく,かなり適当であったが,すごい勢いで飛ばしていた。運転手は毎日ここを走っているのだろう。そのうち,ようやく洞窟の入口に到着した。そこには,乗ってきたのと同じような車が数多く停まっていた。
 ここで車を降りた。この先は運転手のガイドに従って,集団で行動をするといわれた。

 アンテロープキャニオン(Antelope Canyon)はナバホ族の土地に位置するスロットキャニオン(幅の狭い渓谷)である。アンテロープキャニオンは2つの岩層から成り,個々にアッパーアンテロープキャニオンとロウワーアンテロープキャニオンと名づけられている。
 アンテロープキャニオンは,周囲の砂岩(ナバホ砂岩)の侵食によりできた何百万年にも及ぶ地層を形成していて,これは主として鉄砲水のほか,風成の侵食によってできた。特に,モンスーンの時期に降る雨水はアンテロープキャニオンの一部である谷間を流れ,より狭い通路を流れるにつれ水は加速して砂を拾いあげる。その後長い時間をかけて通路が侵食されると狭い通路は更に広くなり岩の鋭さはより滑らかにされて,岩の「流れる」ような特徴を形作る。こうして独特の岩の通路が完成された。
 夏の期間,アンティロープキャニオン頭頂の開口部から直接入射する太陽光の光芒が美しく見られる。観光客はそれを見たくてこの地を訪れるのだが,私は,何の想い入れもなく,何の計画もなく,ただ気ままにやってきて,この絶景に出会うことができた。いつもながらの幸運であった。

 モンスーンの時期には,思いがけず降る雨がすぐにキャニオンを水浸しにしてしまうので危険である。
 キャニオン近く及び真上から降る雨が激しい鉄砲水になるのではなく,キャニオンの「上流」となる数十マイル離れた場所で降る雨が突然キャニオンへ注ぎ込んでくるのだ。1997年8月12日,ロウワー・アンテロープ・キャニオンを訪れていた11人の観光客が鉄砲水の犠牲となる事故が発生したが,その日キャニオンにはほとんど雨は降っていなかったということだった。

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●ここは東南アジアか?●
 グレンキャニオンダムは国の重要なインフラなので,ビジターセンターのセキュリティが厳しく,金属探知機,ボディチェックがあり,カメラも持ち込めないと,私の持っている古い「地球の歩き方」の国立公園編に書かれてあったが,まったくそうしたことはなく,普通のビジターセンターだった。ダムの見学ツアーがあって,その呼び出しがはじまっていたし,遠く眺めたダムには人が集まっていたが,私は参画する気もなかったので,景色だけを見て,早々に引き上げた。
 再び橋を渡ってペイジの町に戻り,道路標示に従ってアンティロープキャニオンに向かった。私のイメージではずいぶんと奥深い場所にあるように思えたのだが,道路を走っていくと,その先の広場が,アンティロープキャニオン観光をする車の駐車場であった。

 私はどこに行くにも適当な目的地を決めているだけで,ほとんど下調べのようなことをしない。到着してから考えるという無謀な旅行をしていることが多い。さすがに事前に現地ツアーを予約しないと難しいときだけ,VELTRAで予約をしていく。
 これまでいろいろな現地ツアーに参加してわかったが,ツアーなど参加しないほうが自由度があることも多く,下調べやら考えすぎは意味のないことがほとんどである。行けば大概はなんとななるのである。このアンティロープキャニオンも,私は何の予備知識も持たず現地に着いたが,あとで「地球の歩き方」のアンティロープキャニオンを読んでみると,事前の予約が必要であるように思えてくる。また,ツアーがペイジの中心にあるパウエル博物館から出発していると書かれてあったが,私はそんなことも知らず,道路標示に従って,駐車場に行っただけであった。

 多くの国立公園がそうであるように,私は,駐車場の入口にゲートがあって,そこで入場料を払うものだと思っていたが,そんなことはまるでなく,係員が空いた駐車スペースへ案内していただけだった。私もそれに従って車を停めた。
 駐車場のかどにバラック小屋があって,そこでアンティロープキャニオンまで行くツアーのチケットを売っていた。混雑していたので,売り切れになると困ると思って,説明も読まず,ともかくチケットを購入することにした。
 いくつかの業者があるように思えたが,一番奥のものは中国人相手のもののように思えたので,一番手前の窓口に行った。お昼のツアーは売り切れと書かれていた。そうえいえば,アンティロープキャニオンはお昼の太陽が高いときだけ谷底に光が届くのでこの時間に行くべきだとあったのを思い出した。まあ,別にそれでなくてもいいや,と思ったが,購入したチケットの時間は11時出発とあった。11時ならツアーが1時間30分かかるから,ちょうどお昼じゃないか,これでいいじゃないかと思った。ツアー料金がいくらかなんていうこともチェックしなかったが,みんな参加するからぼったくりでもないだろうとは思った。いくらか忘れたが高いなあ,とびっくりしたのは覚えている。が,ここまできて行かないという選択肢はなかった。チケットの購入はクレジットカードで行ったが,今の時代,クレジットカードの番号を手で書き写していたのにはたまげたものだった。これもまた,後で知ったことだが,ガイドブックにはクレジットカードが使えない,とあった。しかし,ちゃんと使えたのだった。
 待っていると,11時発の人は車に乗ってくれ,という声がかかったので,乗り込んだ。車というのは,荷台を改造して座席をつけただけのものであった。興味がないので行ったことはないが,なんだかアメリカというより東南アジアのような感じであった。次第にわかってきたことに,アンティロープキャニオンはどうやらナバホ族が仕切っているようであった。つまり,この観光資源はナバホ族の資金であった。

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●何だ,この巨大なダムは!●
 アメリカの観光といえば,ニューヨークとかサンフランシスコとかの大都会とグランドキャニオンのような大自然であろう。私は,今から40年ほど前にそうしたところに出かけたが,当時のアメリカはどこものどかであった。
 飛行機に乗るのも,セキュリティなんてあったのかなかったのかほとんど覚えがないけれど,今のように空港がごった返していることもなかった。当時,飛行機の機内は映画館のようなもので,中央に大きなスクリーンがあって,乗客がみな同じ映画を見た。帰りの機内では,配られる日本の新聞を取り合った。
 しかし,アメリカの大都会のダウンタウンはどこも腐敗し,犯罪の巣窟で危険だった。古びたレンガ造りの建物や壊れた水道管から水があふれていたり,ニューヨークの地下鉄は落書きだらけだった。それでも,観光するには今のような混雑もなかったから,その日のツアーに朝申し込んで,そのまま自由の女神に登ることもできた。ワシントンDCへ行けば,ホワイトハウスに入ることもできた。「思い出は美しすぎて」という八神純子さんの歌のように,まさに,よき時代であった。
 それに比べたら,今は,どこに行っても人と車だらけ。しかも,いつも書いているように「自撮り棒を持って黒色のガラスの入ったサングラスをかけて大声を出す」某国の観光客の一団がバスで大挙して観光地にやってきてお金を使いまくるという状況が世界中に見られるのだから,昔のようなのどかな海外旅行は望むべくもない。これから旅をしようと考えている若者には気の毒な限りだ。

 私がこの日観光をしているのはグランドキャニオンとモニュメントバレーの間にあるレイクパウエルという場所だったから,いわば,アメリカ大自然観光の初心者コースである。だから,どこへ行っても人と車だらけであった。
 はじめてアメリカの大自然を見にきたのならそれでも感動するだろうが,私は,混雑がたまらなく嫌いなので,この日に行こうと思っていたのは,まだ来たことのなかったホースシューべンドとアンティロープキャニオンだけで,それ以外の場所に行く情熱はもはやなかった。 
 アンティロープキャニオンは太陽の光が谷底に届くお昼間に来るのがよいということだったが,まだそれには時間が早かったのと,途中にグレンキャニオンダム(Glen Canyon Dam)があるというので,アンティロープキャニオンに行く前に寄ってみることにした。
 ホースシューベンドを出て北に向かって走っていくと,ペイジ(Page)という変わった名前の町に着いた。こんな場所にこれほどの大きな町があるのは意外であった。この町はグレンキャニオンダム関係者の居住区としてできたところだという。

 朝食をとっていなかったので,まず,交差点の角にあったマクドナルドに入って朝食をとった。
 マクドナルドを出て,グレンキャニオンダムへ向かった。コロラド川にかかった巨大な橋を越えたところにビジターセンターがあった。ビジターセンターのなかに全面ガラス張りの窓があって,そこからグレンキャニオンダムが一望できた。
 それにしても,何という巨大なダムであろうかと思った。このダムは,高さ216メートル,幅475メートルで,1956年から1964年にかけて作られた。私は日本の観光地には興味がないので行ったことがない(観光客だらけでうんざりするのは行かなくても想像できる)黒部ダム(通称「黒四」=黒部川第四発電所ダム)は,グレンキャニオンダムと同時期の1956年に着工され1963年に完成したが,高さが186メートル,幅492メートルだから,それと同規模である。アメリカ大恐慌の対策として1936年に作られたラスベガスの東にあるフーバーダム(Hoover Dam)には予想以上の土砂が含まれていてこれがレイクミードの湖底に沈殿してしまった。そこで上流につくられたのが,このグレンキャニオンダムであった。
 しかし,「グランドキャニオンより美しい」と称えられたグレンキャニオン渓谷は,このダムの建設によって,地上から姿を消してしまったのだった。

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●もっと山の奥かと思ったが…●
 ホースシューベンド(Horseshoe Bend)はコロラド川が蹄鉄(horseshoe)の形に穿入蛇行している場所の名前である。この場所から眺めて,川の左手つまり南に行ったところがグランドキャニオンで,右手つまり北に行ったところがグレンキャニオンである。
 ホースシューベンドはグレンキャニオンダムとパウエル湖から下流に5マイル(8.0キロメートル),グレンキャニオン国立レクリエーションエリア内のページという町からは南西に約4マイル(6.4キロメートル)行った場所に位置している。見落としは海抜4,200フィート(1,300メートル),コロラド川は海抜3,200フィート(980メートル)である。岩の形が馬の蹄鉄の形に似ていることからそうよばれている。
 ホースシューベンドの展望台に行くアクセス道路の入口には駐車場こそあるが,特にビジターセンターがあるわけでもない。以前は道路際に看板すらなかったため,知る人ぞ知る秘境の地だったというので期待したが,今は,南から走ってくると,州道64にはちゃんと道路標識があるので見過ごすこともないし,駐車場は大賑わいで観光地化されてしまっていて落胆した。

 有料の広場のような駐車場に車を停めて,道路とは反対の小高い山のほうに向かって歩いたが,一向に何も見えなかった。広がっているのは360度の平原だけで,このさきに目指す目的地があるのかと疑問になるほどだった。15分くらい進むと一番高いところまできて,そのはるか先に多くの人が集まっている場所があった。どうやらそこがホースシューベンドらしいのだが,周りが広すぎて遠くからではよくわからなかった。写真ではホースシューベンドだけがアップになっているから巨大に思えるし確かに巨大なのだが,それよりも平原が広すぎるのだ。私は,もっと山の中の峠のような場所だと思っていたから拍子抜けした。というより,イメージと違いすぎた。
 行ったことはないから本当のことは知らないが,噂では,ケニアのマサイマラ国立公園や,エジプトのピラミッドも,写真では大自然のなかにある雄大な構図ばかりだが,その反対方向を見ると町があったり遠くにビルが立ち並んでいてがっかりするという話だ。
 さらに進んでいくと,ホースシューベンドが見えてきた。
 展望台があった。いろんな本には何も柵はないと書いてあったが,実際は金網の柵があった。おそらくその昔は何もなかっただろう。そのころは気を許すと崖から谷底に落ちるのも困難なことではなかっただろう。

 しかし,柵があるのは展望台だけで,展望台から離れると柵はなくなり,しかも,係員もいないので,飛び込もうと駆け下りようとどうしようと本人次第であるのがまた,アメリカらしいというか。もうこれ以上は行けない! と思うような先端の限界に寝そべってポーズをとっていた中国人の女性がここにもいて,さらにその女性を写すカメラマンがいて,それをはやし立てる観光客がいたりした。
 私が行ったときは見られなかったが,はるか下を流れるコロラド川に小さなボートを見かけることがあるという。それはコロラド川の半日ラフティングツアーで,そのツアーに参加すると下からホースシューベンドを見上げて眺めることができるそうだ。さらには,上空からホースシューベンドを見下ろすヘリコプターツアーもあるという。
 まったく対象は違うが,昨年の春3月に行ったオーストラリアのエアーズロックを展望台から眺めるのとよく似た感じであった。
  ・・
 多くの観光客がいたが,私が到着したころは,それでも落ち着いた雰囲気だった。しかし,そのうち,例のおなじみの「自撮り棒をもってサングラスをかけ声のでかい,そしていつも集団でやってくる」某国のツアー客が大挙して現れて,雰囲気が一変してしまったのが残念なことだった。

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●「どんな写真で見ても実物は違う」●
 ホースシューベドもアンテロープキャニオンも,具体的にどこにあるのかよく知らなかったが,ともかく,フラグスタッフから北に走っていけば着くらしいから,昨日で目的を達成した私は,足をのばしていってみることにした。
 羽田からロサンゼルスの飛行機で隣の席になったのは,ロサンゼルスの住んでいるという女性であった。私は若いころは海外,特にアメリカに住むことに憧れたから,こういった女性がとてもうらやましかったが,いろいろな場所を旅するうちに,そういった憧れはまったくなくなった。
 さて,その女性に,ホースシューベンドに行くと話したら,彼女は「どんな写真で見ても,それと実物は違う」と妙なことを言ったので,それがずっと気になっていた。
 
 早朝宿泊先のモーテルを出発してフラグスタッフのダウンタウンを走るオールドルート66を東に走り,町の外れでインターステイツ40と合流するオールドルート66と別れて,国道89を北上していくことになった。国道89に入ると片側1車線になった道路はのどかな森の中を進んでいくことになった。
 途中にキャメロン(Cameron)という町があって,そこの交差点を左折して州道64に行けばグランドキャニオン国立公園のサウスリムなのだ。だから,このときもグランドキャニオンに寄ることもできたわけだが,この時の私の頭にはホースシューベンドとアンティロープキャニオンに行くことしかなかったから,グランドキャニオンは通り過ぎた。
 帰国してから改めて位置関係を調べると,グランドキャニオン国立公園のサウスリムとノースリムはコロラド川の対岸にあるのだが,橋が架かっているわけではないからそこに行くためには大きく迂回する必要があるわけで,私は19年前にこの道を走ったことがあるのだった。
 道の両側にナバホ族の開いている売店があったり,ナバホの人たちの家が続いていた。この日は,キャメロンをそのまま北北上して,ビッタースプリングス(BitterSprings)まで来た。そこで,道が二股に分かれて,左側に行くとグランドキャニオン国立公園のノースリム,右に行くと私のめざすホースシューベンドなのであった。それにしても,このビッタースプリングスというのは不可解な町で,ほとんど車も通らないのに道が片側2車線になるし,2車線になったのに,制限速度が遅くなった。

 ビッタースプリングスを過ぎるとそれまで平原だった道が山道になった。私は Google Map をナビゲーターにして走っていたから道に迷うことはなかったが,以前のように地図を頼りに走っているのと違って,どこをはしっているのかさっぱりわからなかった。
 やがて,左手に駐車場が見えてきた。そこがホースシューベンドの駐車場であった。入口で料金を払って車を停めた。それほど混雑していなかったが,こんな広い駐車場のある場所にホースシューベンドがあるなんてとても信じられないないようなところであった。
 車を停めて,その先の小高い山を登っていった。ずっと進んでいっても,依然としてあるのは道だけ,そのさきにホースシューベンドがあるとはとても思えなかった。私は朝早く来たので大丈夫だったが,日差しがきつく,それこそ真夏に来たらたいへんな場所だろうと思ったことだった。

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