しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国旅行記 > 旅行記・2019夏

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●こんな旅さえできなくなった。●
☆7日目 2019年7月1日(月)
 機内で何をするでもなく時間を過ごし,日本に戻ってきた。羽田空港からセントレア・中部国際空港までは国内線を使ったが,国内線の搭乗時間まで少しあったので,夕食をとった。
 以前は,海外旅行をするとやたらとカレーライスを食べたくなったものだが近ごろはおそばである。ということで,今回もまた,おそばを食べた。

 東京と名古屋を飛ぶ国内線は,行きも帰りも北側が見られる座席に座れば富士山を見ることができるから,その座席を選ぶのだが,このところいつも天気が悪く,富士山を見たことがない。それは飛行機に限ることでなく,新幹線に乗って東京と名古屋間を移動しても,富士山をみたことがない。
 2019年の日本はずっと天気が悪かった。それにしても悪すぎる。そしてまた,ずっと暑い。こんな異常な天気を私は知らない。

 国内線は,いつものように,搭乗ゲートに来るまで3枚もの紙をくれる。書かれてあるのは,乗る飛行機の搭乗ゲート案内だったり,セキュリティを通ったという証明書だったりだが,これらはすべて何の意味もない書類である。
 先日,機内持ち込みのできないはさみを持ち込んでしまった乗客がいたために,乗客全員の保安検査をやり直したという事件があったが,こうしたときに,その証明書を持っていたところでまったく効力などないのだから,そんな書類をもらったところで意味がない。また,搭乗ゲート案内の書類には,実際の搭乗ゲートが変更されても,変更前のものが書かれているから,これもまた,まったく意味がない。
 要するに,こんな書類を渡す必要はまったくない。こういうムダなことばかりをするのが日本という,世界から遅れた滑稽な国なのだ。
 この国のやっていることの90パーセントは意味のないことなのである。こうして,何事も非効率に仕事をし,ブラックになり,生まれてから死ぬまで,90パーセントは無意味に働き続けているのであろう。

 私は,こうして,ふらっとアメリカを旅して,日本に帰ってきた。
 この旅では,パロマ天文台もフラグスタッフもローウェル天文台もバリンジャー隕石孔も大谷翔平選手も,見たいと思っていたものややりたいと思っていたことをすべて見,やることができた。とても幸運であった。
 本当に,2019年,この年にこの旅をしておいてよかった。もしこの旅が実現していなかったら,今,ものすごく後悔していることであろう。
 こんな旅なら何度やっていもいいなあ,とこの時は思ったが,今は,そんな旅さえできない。

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●CAのお仕事●
 離陸してからずっと外を見ていた。眼下に広大なアメリカの大地が見えた。ヨーロッパと違って,アメリカからの帰国便は飛行機が西に向かって飛ぶ。つまり,地球の自転と反対方向なのである。
 地球は半径が6,380キロメートル余りなので,地球の1周は,40,000キロメートルほどである。1日に1回転するから24で割ると,時速1,500キロメートルとなる。これが赤道にいるときの自転速度である。
 ロサンゼルスから東京に帰る飛行経路は円周がもっと短いから,時速はおよそ1,000キロメートルといったところである。飛行機の時速は800キロメートルから1,000キロメートルだから,自転よりほんの少しだけ遅い。ロサンゼルスからの帰国便では,地球の自転と飛行機の進む方向が反対だから,飛行機は飛びながらほんの少しずつうしろに下がっているということになるわけだが,およそほぼ同じ速さと考えることができる。したがって,機内ではずっと同じ時間のままということになる。
 だから,窓から見た太陽はずっと同じ場所にある。窓を閉め切っているからわからないだけで,要するに,乗っている間中ずっと昼間なのである。そして,太平洋の真ん中にある日付変更線を越えるときに,日にちだけが1日進み,行きに得した分を返還する,ということになるわけだ。

 その昔は飛行機に乗ると,客室の中央に大きなスクリーンがあって,乗客はみな同じ映画を見た。そんなのどかな時代だった。それが今はそれぞれの座席にモニターがあって,自分の好きなものを見ることができるようになった。これだけハードウェアが凝っているのに,ソフトウェア,つまり,コンテンツが固定されていたりして,なかなか好きなものがない。
 現在では,家にいても Amazon Prime などで映画が見られ,音楽を聴くことができるが,Amazon Prime の方がマシなプログラムが並んでいる。
 やろうと思えば何でもできる時代になったのに,そして,機内で10時間も時間を過ごすのに,ハードウェアは進化してもソフトウェアのほうは工夫がなさすぎるというわけだ。

 考えてみれば,日本で夜行の高速バスなどを利用して旅行をするときだって,6時間以上の長い時間を狭いバスの中で過ごすのだが,こちらの方は寝ていれば到着してしまうから,退屈する,ということはない。ところが,どうして飛行機の機内で同じようにくつろげないのかと考えると,それは,食事のせいだと思い当たった。機内では,食事が運ばれたり片づけられたりとあわただしく,そのために,ゆっくりと過ごせないのだ。そんなもの,乗るときに弁当とペットボトルでも配ってしまえばそれでいいように感じる。そうすれば,食べたいときに食べて,寝たいときに寝ればいいわけでわずらわしくないのだ。それぞれに,牛肉がいいか鶏肉がいいかなどと聞きながら食事を配っているから,時間もかかるし,煩わしい。
 飛行機に乗ると,非常時以外,客室乗務員の仕事は,食事を配って片づけることだけのような気がしてならない。かつてはスチュワーデスといった,それは憧れの花形職業だったように思うのだが,今日,それが CA とよばれるように変わったけれど,その仕事にさほど魅力があるとは私には思えない。ちなみにCAというのは cabin attendant の略称であるが,これはジャパニーズイングリッシュ。英語では cabin crew,もしくは flight attendant という。

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●航空会社で違うこと●
☆6日目 2019年6月30日(日)
 帰国する日になった。
 昨年はレンタカーを返却するときに場所がわからず苦労したので,今年はそういったことがないようにと,地図を頭にいれてきたのだが,道路標示に従って運転していくと何の苦もなくレンタカーリターンの場所にたどりついた。昨年戸惑ったのはどうしてだったのだろう?
 レンタカーを返すときは車にトラブルもなく旅が無事終わることでいつもほっとする時間である。
  ・・
 今回はわずか5泊7日の旅だったが,ロサンゼルスとフェニックスの2か所でレンタカーを借りた。フェニックスではトヨタのカローラ,ロサンゼルスではニッサンのセントラであった。
 私は今後もアメリカに来る機会があることを望んでいるが,こうして旅をしていると,アメリカはストレスがない国だとわかる。というか,アメリカの田舎は誠に旅がしやすいと感じる。しかし,アメリカの都会には興味がなくなったし,アメリカには住みたいとも思わなくなった。
 こうして旅を振り返っていると,いつも頭に浮かぶのがフラグスタッフののどかな町の風景であるのが不思議なことだ。というより,フェニックスに限らず,アメリカのさまざまな地方で泊まったモーテルをチェックアウトをしようと迎えた朝の景色ばかりなのである。
 そうしてモーテルを出発するときは,また,いつでもその場所に来ることができるだろうと思うのだが,再びその地に行くことはほとんどない。
 地球は狭そうで広く,人生は長いようで,かくも短い。

 ロサンゼルスでは事前にチェックインがしてあったし荷物はキャリーオンだったので,セキュリティを通って,そのままデルタ航空のラウンジに向かった。ここで朝食をとって,搭乗時間までゆっくりと過ごす,これもまたいつもと同じであった。こうしたラウンジもまた,日本の空港では味わえないゆったり感である。
 やがて,搭乗時間になったので,ラウンジを出て,ゲートに向かった。
 帰りもまた,行きと同じくプライムエコノミーの先頭席である。ファーストクラスやビジネスクラスのようなフルフラットにはならないが,席が広く,また,食事が豪華で,これなら長時間のフライトも苦にならない。

 飛行機も,以前はデルタ航空ばかり乗っていたのでわからなかったが,航空会社によってさまざまなことがずいぶんと異なる。それぞれ長所もあり短所もあるが,今回,デルタ航空であっても機体がヨーロッパ製のエアバスだったので,イヤホンのジャックの形状が異なっていて2口のものだったのには驚いた。
 USBコネクタは,もう,ずいぶんと前からデルタ航空の飛行機にはついていたが,フィンランド航空の飛行機には最近までなかったし,オーストラリアのカンタス航空だと,離着陸のときイヤホンやUSBのコネクタに接続しているとはずせと言われる。食事もまた,航空会社によってずいぶんと異なるのだ。
 少し前,ひさびさにシドニーからの帰国便でJALの国際線に乗ったが,トイレに歯ブラシが用意されていたのには驚いた。いつも思うのだが,日本人というのは,こうした過剰なサービスには気が回るのに,というか,飛行機のトイレで歯磨きなどされたら,混雑して仕方がないと思うのだが,その反面,街を歩いていてトイレで入っても,手拭きペーパーさえない。立派なコンサートホールのトイレでさえ,なにもない。
 なんか,やっていることがものすごくちぐはぐなのである。

 まあ,それが日本である,ということにしておこう。
 とまれ,広い機内では,いつものように,特にすることもなく,だらだらと時間をつぶすことになった。映画を見るも,本を読むも,何をするのも,歳をとると面倒になってきた。時間を忘れてわくわくできるような何かがないだろうか,といつも思うのだが,妙案がうかばない。将棋の棋士なら詰将棋でも解いていれば時間を忘れるのだろうが,無能な私は歳をとって頭を使う気にもならなくなった。地上の旅なら風景を見ているだけで何時間もすごせるのだが,空の上ではそうもいかない。
 ところで,アメリカからの帰国便は地球の自転の逆らった飛ぶので,太陽から見たらいつも同じところを飛んでいる,というより浮いているから,ずっと太陽は同じところにある。だから,座席は太陽の光が直接入ってこない右側に座るに限るのである。
 やがて,日付変更線を越えて,日にちだけが1日過ぎ,行きに徳をした分を回収されて,そのうちに日本の陸地が見えてくると着陸である。そういえば,行きは着陸前の食事がでてくるのが遅くて,離陸直前にはっちゃかめっちゃかになったことを思い出したが,帰りはそういうこともなく,食事が出てきた。
 これで旅も終わりである。この時は,この旅は旅をしたという高揚感もときめきもなく単に通勤をしているような気持ちになってしまっていたのがとても寂しかった。しかし,今は,そういう旅すらできなくなってしまった。それもまた,寂しい。

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●見える景色が違いすぎる。●
 パロマ天文台に至る登りの山道の手前に,レストランとギフトショップがある。昨年(2018年)来たときは早朝だったので,これらの店はまだ開いておらず,しかも,パロマ天文台の公開は中止だったので,早々に引き上げてしまったから,この店が開いている姿を見ることはなかった。
 そして,今年(2019年)もまた,早朝にパロマ天文台に向かったから,行くときは当然,開いていなかった。パロマ天文台の見学を終えた帰り道,私ははじめてこのレストランとギフトショップが開いているのを目撃することができた。そこで,このレストランで昼食をとることにした。

 アメリカに限らずオーストラリアなどでも,観光地には結構こうした気軽なレストランがあって,そこではハンバーガーをはじめとする手軽な食事を楽しむことができる。それはいわば,日本の観光地にあるおそば屋さんのようなものである。
 しかし,日本との違いは,どこも混雑していないので,とても精神的に落ち着く。私はここでサンドイッチセットを注文して,ゆっくりと食事を楽しんだ。時間が過ぎていくのが快適である。
 こうしてこの旅で,私は,来るまえにやりたいと思っていたことのすべてを実現することができた。あとは,ロサンゼルスのモーテルに戻り1泊して,帰国するだけだった。

 来た時とほぼ同じ道のりでロサンゼルスに戻った。ロサンゼルスといっても,私は,ダウンタウンには興味がない。今回もまた,空港に近く,かつ,安価なモーテルに宿泊をしているから,私の滞在している場所は,おそらく,多くの日本人のイメージするロサンゼルスとは異なっている場所だろう。
 3時間近く走ってモーテルに着いた。少し休憩してから,近くを歩いてみることにした。ついでにどこかで夕食を,と思ったが,結局,昨日と同じ店になってしまった。
 私の泊っていたあたりは治安も悪くなさそうな,ロサンゼルスの下町,というか,普通のアメリカ人が生活している場所であった。
  ・・
 若いころの私は,団体ツアーのような観光旅行でなく,アメリカなどの海外に住むことに憧れていた。結局,それはかなわなかったが,それでも,これまで海外に多く出かけ,時には,その地に住む人の家を訪問する機会もあったり,実際数日滞在したりして,そのまねごとを経験することができた。
 その結果,海外に住みたいという憧れはなくなってしまった。というか,結局,どこに住んでいても,それが日常であれば,結局はどこでも同じだということを知ってしまった。

 一言でいえば,それは,日常というのは,何も期待してはいけないということを知ってしまったということだ。とはいえ,電気やガス,水道などのインフラが完備されていて,治安がよいということが大前提であるが,残念ながら世界にはそういった大前提すらなかなかかなえられていないということは承知しているから,これは贅沢な話であろう。
 そうした大前提さえあれば,あとは,どこ国であっても,どんな大豪邸に住もうとワンルームマンションに住もうと,そうは違いがなく,誰しもが同じような日常生活があるだけだ。 
 特に,アメリカは,表面的には自由と平等がもっとも尊ばれる国ということにはなっているが,実際は,場所によって住んでる人も財産も治安も区別されているようなところがある。学校生活もまた,同じ人種のグループが出来上がっているという話を聞く。そんな国で生きるのは,結構大変なことのように私は思う。結局のところ,どこで生きるのも大変なのだ。
 生きるも地獄なら死ぬるも地獄とはよくいったものだ。

 そんなことを思いながら,町を歩いていた。
 バス停があり,ファーストフード店があり,スーパーマーケットがあり,学校がありという,ここにはアメリカの日常があった。住宅街を歩いていると,庭に,アマゾンからの届け物が置かれてあったりした。もし,私がここに住んでいたとしても,所詮は,日本で生きるのと同じように,毎日,通勤し,仕事をし,人間関係に,そして,近所づきあいに悩み,休日は,このあたりでショッピングをしたり,外食したりして,平凡に一生を送るのだろう。
 都会に住むというのは,アメリカでも日本でも,所詮,それだけのことのように思える。
 一方,都会の雑踏を離れ郊外に出れば,アメリカや,オーストラリアなどでは,日本にはない異なる姿を見ることができる。それは,雄大に広がる大地である。
 私は,荒野,というか原野で生きる術をまったくもっていないから,そうした場所で生きることはできないが,もし,そうした場所で生きる術を知っていたとしたら,と考える。それは,アメリカの農村地帯やらオーストラリアの大平原,そして,もっと厳しいフィンランドやアラスカの極寒の地を見てきて,私が感じることである。そうした厳しい自然tと向き合って生きることこそが,本来の人間の姿であるのだろう。
  ・・
 海外を旅するごとに,私はさまざまなことがよりわからなくなってくる。このような現実に直面してから日本に帰国すると,日本での価値観で生きている人との遊離をより一層感じるようになっていくのである。私が海外で見てきたものは,多くの日本人が見えている景色と違いすぎるのである。ああ。

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●夢にまで見た200インチ望遠鏡●
 宇宙の構造,宇宙の物質,星と宇宙の進化のなぞを解くことを目的とした口径200インチの反射望遠鏡を建設するため,1928年,ジョージ・エレリー・ヘールさんは600万ドルの寄付をロックフェラー財団に訴えた。建設場所として選ばれたのがパロマ山であった。
 しかし,直径200インチ反射鏡のガラス材をつくるには多くの困難があった。ニューヨークにあったコーニング・ガラス社で耐熱のパイレックスガラスの巨大な塊が何回もの失敗のあとでやっと鋳型に流し込まれたのが1934年の暮れであった。冷却炉の中で10か月もかかって焼きなましが終わった。
 ガラス材はパサディナのカリフォルニア工科大学の研磨工場に運ばれ,11年の歳月を費やして鏡は100万分の1センチメートル以下の誤差で磨かれた。こうして完成された反射鏡は,厚さが76センチメートルもあり,重さを減らすために裏側がハニカム構造になっていて,重さは約20トンに抑えられた。ガラスの表面は,たった30グラムのアルミニウムでメッキされた。
 望遠鏡の鏡筒は,長さ約18メートル,直径7メートル,重さ125トンで,300トン以上の支柱の中で油の入ったペアリングで鏡が支えられた。
 望遠鏡が完成したのは1948年であったが,ヘールさんは望遠鏡の完成を見ることもなく,1938年に亡くなった。

 この望遠鏡は現在も現役であるが,さすがに設計が古く,その維持が大変そうである。
 現在,1枚鏡の最大口径の望遠鏡は,ハワイ島マウナケア山頂にある日本のすばる望遠鏡であるが,現代の大望遠鏡のほどんとは,1枚の反射鏡ではなく六角形の多くの反射鏡を集めて大口径とし,それぞれの鏡が同じ場所に焦点を結ぶようにコンピュータで調整している。
 パロマ天文台の200インチ望遠鏡の1枚鏡は自重でたわまないように分厚いが,最新型のすばる望遠鏡は1枚鏡ではあるが非常に薄く,たわむことを逆に利用して,それをコンピュータで制御している。
 また,パロマ天文台の駆動装置は赤道儀式で,その欠点である天の北極あたりの視野が見られないという欠点を克服するために馬蹄形をしている。それに対して,スバル望遠鏡をはじめとして,現代の最新式の大望遠鏡は,大げさな赤道儀ではなく径儀台となっていて,コンピュータで制御し追尾を行っている。
 このように,パロマ天文台の200インチ望遠鏡は,コンピュータでの制御ができなかった時代のものなので,現代の大望遠鏡とは根本的に設計が異なっている。パロマ天文台の200インチ望遠鏡は,「1枚鏡の赤道儀」として最後の大望遠鏡である。

 見学ツアーは,まず,ドームの入口の前でこうした望遠鏡の歴史をレクチャーしてから,いよいよドームに入った。ドームの1階部分では反射鏡の再メッキができる工場があった。それらの装置の説明ののち,端にある階段を上って,ついに,望遠鏡のある2階に登ることができた。夢にまで見た望遠鏡との目の前での対面であった。
 ドームはものすごく巨大で,外観もピカピカ,今も現役の200インチ望遠鏡はしっかりと整備されていて,ドーム内もきちんと整理整頓がされていた。
 ツアーは私の期待をはるかに超えるものであった。私のような専門家でなく単に興味本位で見学に来た日本人に対しても質問すると十分に時間をとって丁寧に答えてもらえた。
 こうして私は,昨年のウィルソン山のふたつの歴史的な反射望遠鏡に続いて,この年は,フラグスタッフにあるローウェル天文台のふたつの歴史的な望遠鏡,そして,パロマ天文台の200インチ望遠鏡と,夢に見たアメリカの有名な望遠鏡たちを,それもすべて,ガラス越しでなく目の前で見て,さらには触れることができたのだった。

  ・・・・・・
 私はこの後日本に帰ってから木曽観測所のシュミット望遠鏡をこれもまたドームに入って目の前で見学する機会があった。そのときのことはすでにブログに書いた。木曽観測所のシュミット望遠鏡もまた設計は古いが,関係者のさまざまな努力で今も現役で使用されている。
 しかし,ドームの外観はさび,望遠鏡もテープで補修がしてあったりして痛々しかった。また,ドーム内はいかにも日本の研究施設然として,きちんと整理整頓がされておらず,使わなくなった機材なども無造作に置かれていた。また,パロマ天文台の200インチ望遠鏡のような再メッキ工場が1階部分にあるわけでもなく,ミラーを外して,外部にもっていかなけらばならないという話であった。
 私はこういうものを比較するたびに,本当に日本は学問や文化に金をかけない国だなあとつくづく情けなくなってくる。さらに,この4月には,日本の天文学に関する予算が減らされて,水沢観測所や野辺山観測所の研究が従来のように行えなくなったという話も聞いた。
  ・・・・・・

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●ついにあこがれの望遠鏡を見た。●
 幸運にも,土曜日に来たことで待望の口径200インチの反射望遠鏡をガラス越しでなく直に見ることができることになった。もし金曜日だった昨年パロマ天文台に来たとき,駐車場が工事中でなければ,私はガラス越しに望遠鏡を見ただけで満足していたことだろう。そして,その翌年に再びロサンゼルスに来ることもなかっただろうから,大谷翔平選手を見ることもなかったであろう。
 不思議なものだ。
  ・・
 ツアーがはじまるのが午前10時30分なので,それまでビジターセンターを見学して,それでもまだ時間があったので,ガラス越しでいいからと,ツアーの前に200インチ望遠鏡のドームに行って,ガラス越しに望遠鏡を見ることにした。
 ドームの一般者見学用の入口から中に入ると,そこにあったのは,ヘールさんの銅像であった。
 ジョージ・エレリー・ヘール(George Ellery Hale)さんのことはすでに書いたが,ここで再び紹介する。

  ・・・・・・
 ジョージ・エレリー・ヘールさんは,1868年にシカゴで生まれ,1938年に亡くなった天文学者である。1897年,シカゴの実業家チャールス・ヤーキスの資金を得て口径40インチ(101センチメートル)の屈折望遠鏡を備えるヤーキス天文台を建設した。さらに,1904年にはカーネギー研究所の寄付を得て,その当時世界最大となった口径100インチ(257センチメートル)の反射望遠鏡を備えるウィルソン山天文台を建設し初代台長になった。ヘールさんは,さらに,ロックフェラー財団から寄付を受けて,パロマ天文台の建設に着手するのだが,その完成を見ることなく死去した。
  ・・・・・・

 奇しくも,この日はヘールさんの151回目の誕生日であった。昨年のこの日は生誕150回目の輝ける記念日で,そのためにウィルソン山天文台は特別公開を実施していたのに,パロマ天文台はそんなことは知ったことでない,という感じであったように思えた。今日はヘールさんの誕生日だと,天文台のツアーのときに係の人に話したら,驚いていたので,まったくご存知ないようであった。
 ドームの一般者見学用の階段を上っていくと,他の多くの天文台同様にガラス越しに望遠鏡を見ることができるブースがあった。そのブースから,巨大な望遠鏡の姿をはじめて見ることができた。ヘールさんが生前見ることができなかったまさにその望遠鏡が,私の目の前にあると思うと感動した。
 これこそが,私が子供の頃から憧れた望遠鏡の実物であった。
 こうして,私は,またひとつ夢が実現したのだった。

 ガラス越しに念願の望遠鏡に対面して,それで私はすっかり満足して外に出た。
 やがて,ツアーの開始時間が近づいて,結構多くの人が集まってきた。ツアーの人たちの入口は先ほど私が入っていった一般者見学者用の入口の反対側にあって,その入口の前がツアーの集合場所であった。
 このときのツアーの参加者のなかにはひとりかなり専門的な人もいた。ツアーの説明をしてくれる人は4,5人もいて,どんな質問にも答えてくれるということだった。人が多いのは,そうした配慮の他に,不振者が混じっていたときの対策も兼ねていたのだろう。
 説明スタッフの中に親切そうな女性がいて,私に昨年も来たんですってね,といって,こそっと,私だけ特別に記念切手のお土産をプレゼントしてくれた。昨年入れなかったと受付で話したのが功を奏したようだった。とてもうれしかった。
 さあ,いよいよツアーの開始であった。

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●パロマ天文台のビジターセンター●
 アディソン・ホワイト・グリーンウェイ・ジュニア・ビジターセンター(The Addison White Greenway, Jr. Visitor Center)というのがパロマ天文台のビジターセンターの正式名称である。1947年,天文学愛好家とカリフォルニア工科大学の支援者であるケイト・ブルース・リケッツ(Kate Bruce Ricketts)によって彼の息子の記憶を称えるためにこの名前がつけられたということだ。
 ビジターセンターに入ると,まず,オリオン大星雲(M42)として知られる星形成地域をパロマ望遠鏡を通して見た写真が出迎えてくれた。
  博物館は大きなものではなかったが,パロマ天文台の歴史を初期のものから現在使われているものまでの望遠鏡をはじめとするさまざまな観測機器,そして,それを使用してなし得た科学的発見,天文学の世界の最新の発展についての充実した展示が並んでいた。
 アメリカの博物館の展示はどこもレベルが高い。
 そして,この博物館の中央に位置するのが口径18インチ(0.46メートル)のシュミット望遠鏡であった。18インチシュミット望遠鏡はパロマ天文台に置かれた最初の機器である。

 18インチシュミット望遠鏡の建設は,超新星として知られる爆発する星を探すために空の広い領域を効率的に撮影できる機器を必要としていたカリフォルニア工科大学の天文学者フリッツ・ツヴィッキー(Fritz Zwicky)によって提唱され,ロックフェラー助成金から資金提供を受け, 望遠鏡メーカーのラッセル・W・ポーター(Russell Williams Porter)によって設計された。
 シュミット望遠鏡は焦点面に写真フィルムが置かれるが, ミラーと補正プレートの直径はそれぞれ24インチ(61センチメートル)と18インチ(46センチメートル),焦点距離は36インチ(92センチメートル)で,F2という明るさをもっていた。視野の直径は8.75度,満月17個分もあった。
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 18インチシュミット望遠鏡で写真を撮るには,観測者はまず望遠鏡の暗室でフィルムカッター(「クッキーカッター」とよばれる)で6インチ(15.5センチメートル)の未露光フィルムを切り抜き,それを適切な球面曲率を適用したフィルムホルダーに取り付けて露光中にフィルム全体に焦点を合わせることになる。
 フリッツ・ツヴィッキーは,撮影した写真をカスタムメイドの顕微鏡を使用してスキャンをすることで,小惑星や彗星を探した。こうして,1937年に最初の超新星を発見,1942年第二次世界大戦によって検索プログラムが中断されるまで,合計19個の超新星を発見した。

 18インチシュミットは1936年に完成し,1949年までパロマ天文台唯一の運用可能な望遠鏡であったが,その後は,新しく作られた口径48インチのシュミット望遠鏡(Samuel Oschin Telescope)と口径200インチの反射望遠鏡(Hale Telescope)に役割を譲ることになった。
 しかし, 1970年代から90年代にかけても,この18インチシュミット望遠鏡は現役で,太陽系の小天体の体系的な探索に使わ,数百個の小惑星や数十個の彗星を撮影するなど,多数の小惑星と約50の彗星を含む多くの発見がもたらされた。そのなかでも特に有名なものが,キャロリン・シューメーカー(Carolyn Shoemaker)とデイビッド・レビー(David Levy)が1993年に発見し,のちに木星と衝突したシューメーカー・レビー第9彗星(Comet Shoemaker–Levy 9)である。…と聞くと,特別の感慨を覚える。
 18インチシュミット望遠鏡は,1990年代半ばにその役目を終えた。2013年に再び組み立てられ、現在は博物館に展示されている。

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●50年来の夢の実現●
 早く着きすぎたので,ふもとの,景色がよく見える広い場所でしばらく休憩して,午前9時少し前にパロマ天文台の入口に着いた。
 昨年来たときは9時を過ぎても決して開くことのなかったパロマ天文台の門だった。まだ,午前9時より少し早かったのにも関わらず,その私にとって「開かずの門」はそんな悪夢(=2番目の写真)はなかったかのように,難なく開いていた(=3番目の写真)。
 こうして,私の50年間の夢が実現したのだった。何事も苦労して手に入れたほうがずっと思いが深いものだ。
  ・・
 門を通り過ぎて天文台の構内の道路を入っていくと,その先に広い駐車場があって,すでに,2,3台の先客の車が駐車していた。車を降りると,駐車場の右手にビジターセンターがあった。私は,もっと大きなビジターセンターを想像していたので,正直少しがっかりした。
 ビジターセンターに入ると,そこにはこれまた小さな売店と展示があった。軽食をとることができるレストランなどもあると思っていたが,一般の見学者用にあったのはこの建物だけだった。このビジターセンターは土曜日と日曜日だけ開いているということだった。

 私は昨年,ロサンゼルス近郊のウィルソン山天文台と,サンディエゴ郊外のこのパロマ天文台を見ようとアメリカにやってきた。結局,昨年はパロマ天文台は構内に入ることができなかったが,ウイルソン山では特別公開を見ることができたことは,すでに何度も書いた。ウィルソン山天文台には軽食がとれるレストランや充実した展示室があった。
  ・・
 実は,私は無謀に旅をしているわけではなく,ちゃんと昨年(2018年)アメリカに来るまえに,このふたつの天文台の公開情報について調べてきたのだった。そのときの結論は,パロマ天文台は平日でも一般の見学ができ,ウィルソン山天文台は週末のみの公開ということであった。そこで,ウィルソン山天文台には週末に行くことにし,パロマ天文台には,奇しくも,ちょうど今年(2019年)と同じ6月29日(ただし昨年は金曜日だった)に行ってみたのだったが,何度も書くように,駐車場の工事をしていて臨時休館で入ることができなかった。
 そして,その1年後,どうしてもパロマ天文台が見たくて,またやって来た。この日に来たのは,週末だからではなく,単なる日程上の偶然だった。

 私は,口径200インチ(508センチメートル)の反射望遠鏡はガラス越しに見ることができるものだと思っていたのだが,なんと,ドーム内に入って間近に見ることができるツアーが週末のみ実施されているということを到着してから知った。ツアーが実施されるのは週末の午前10時30分からと午後0時30分からと午後2時からの3回であった。
 チケットはビジターセンターの売店で購入できるとあったので,さっそく午前10時30分のツアーを購入して,用紙に名前を書いた。その時に「昨年も来たのですがお休みでした」と告げたのだが,それがこのあとで幸運をもたらすことになる。
 この時点では,午前10時30分のツアーの申し込み者は私ひとりだったから,いったい何人参加するのやら… と思った。ここは別に新しい観光地でもないし,私のような望遠鏡を見たいというオタクがそれほど多いとも思えなかった。しかし,帰国後,ネットを見ていたら,50年来の夢がかなってパロマ天文台に行くことができたといった,まるで私が書いたようなブログを多数発見して驚いたものだった。

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●今年もまたここにやって来た。●
☆5日目 2019年6月29日(土)
 5日目になった。明日は帰国するだけなので実質上最終日である。この旅は5泊7日だが,1日中観光ができるのは途中の4日間,つまり,海外旅行では,旅行する日にちマイナス3日ということになる。だから,最低限6日,つまり4泊6日はないと満足な海外旅行はできないことになる。
 この旅はそれより1日多い7日間だったが,過ぎてしまえばあっという間であった。毎日まったく無駄なく旅を楽しめたのは,慣れているからだろう。
  ・・
 昨年(2018年)の旅で,私は,子供の頃からの念願だったパロマ天文台を訪れた。パロマ天文台は年中無休で公開されているということだったのだが,私が訪れたちょうどその日は天文台構内の駐車場の工事をしていて,公開が中止となっていて中に入れなかったということは,これまで何度かこのブログに書いた。
 そこで,今年(2019年),再び来ることになったのだが,パロマ天文台に再訪するためだけにアメリカまで行くのは... ということで,今年は,フラグスタッフやバリンジャー隕石孔などを旅程に加えた。それらの場所は,いつかは行ってみたとと思っていたところばかりであった。しかも,期せずして,大谷翔平選手まで見ることができた。
 昨年パロマ天文台の中に入れなかったから,こうして,それ以外の長年の夢もかなったのだった。もし,この旅をしていなかったら,コロナ禍でしばらく海外旅行ができなくなった今,ものすごく後悔していたことだろう。そう考えると,本当に幸運であった。

 が,幸運はそれだけではなかった。
 パロマ天文台を訪れたこの日が土曜日というのが,まさに奇跡であった。私は,曜日すら考慮しないで,偶然,土曜日にやってきた。私が見たかったパロマ天文台の200インチ反射望遠鏡は,通常はガラス越しにしか見ることができないのだが,ドームの中に入って見学できるツアーというものが,なんと,土曜日と日曜日のみ実施されていたのだった。
 つまり,昨年(2018年)はゲートが閉まっていてせっかく来たのに中に入れなかったが,入れなかったからこそ,今年(2019年)再びパロマ天文台にやって来て,それが偶然土曜日だったから,今年はドームの中まで入れたというわけだった。
 しかし,昨年はパロマ天文台に入ることができなかった代わりに,偶然,ウィルソン山天文台を訪れたその日が特別公開であった。そして,今年もまた,偶然,パロマ天文台のツアーに参加できたのだから,結果的にこれでよかったわけだ。

 昨年は,パロマ天文台へはサンディエゴから往復した。パロマ天文台はサンディエゴからのほうがはるかに近いということに加え,サンディエゴにも行ってみたかったからであった。サンディエコに行きたかったのは,MLBのサンディエゴ・パドレスの新しいボールバークでゲームが見たいというのが理由であった。
 今年は,サンディエコに行く理由がなかったので,ロサンゼルスから往復することになった。そこで,昨年とは経路が異なっていた。
 ロサンゼルスからパロマ天文台までは120マイル(約200キロメートル)あって,片道2時間以上と結構時間がかかるので,アメリカに来るまで気が重かった。しかし,この旅では,この日以前に,フラグスタッフまで行ってみたり,さらに,ホースシューベンドまで遠出したりして,すでにもっと長距離を走ったので,このころには,パロマ天文台への2時間の往復くらいどおってことなくなっていた。要するに気持ちの問題なのだった。
  ・・
 パロマ天文台は午前9時に門が開く。早朝6時すぎに,時間が惜しいので朝食抜きでモーテルを出発した。モーテルからは昨日ロサンゼルス・エンジェルスのゲームを見にいったときに通ったのと同じ国道91を走り,アナハイムを過ぎて,さらに東に進んでいってインターステイツ15に入る。そして,インターステイツ15を南東に進んでいって,テメクラ(Temecula)という町でインターステイツ15を降り,州道76に入る,という経路で走っていった。
 テメクラからは一般道である。このあとはわずか36マイル(約60キロメートル)なのだが,州道76は一般道かつ山道なので,まだそれから1時間程度かかる。パロマ天文台を目指して日本の山道のようなところを走っていくと,やがて,リンコン(Rincon)という数件の家がある小さな町に着いた。リンコンにはアメリカにはめずらしいロータリーがあった。このロータリーがこの小さな町のただひとつの交差点というわけであった。このロータリーの角によろずやがあったので,車を停めて中に入って,菓子パンと冷たい飲み物を買ったが,これが結果的に今日の朝食となった。この時点では,パロマ天文台にカフェくらいはあるだろうからそこで朝食を,と思っていた。

 リンコンから先は昨年走ったのと同じ道であった。昨年と今年,たった2度走っただけだが,なんども来たような気がしてすごく懐かしかった。途中でシカの親子が横切った。数年前,ワシントン州で巨大なシカが私の車にぶつかってきた記憶がよみがえったが,今回のシカは小さくおとなしかった。
 さらに山道を走っていくと,やがて,昨年も見たパロマ天文台の口径200インチ反射望遠鏡の巨大なドームが見えてきた。昨年はここで感激したが,今年は,果たして昨年開かずだった門は時間通り開くのだろうかと,少しだけ不安な気持ちになった。

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●ベースボール観戦は楽し。●
 ロサンゼルス・エンゼルスのこの日のゲームの開始は午後7時7分だった。
 どうして午後7時と遅いのか,という質問の答えは夏時間だから,である。また,どうして7分か,というのは,テレビ放送のためである。この細かい開始時間はチームによって異なり,5分というものもあれば11分というものもある。
 アメリカでは,スポーツはテレビ中継のコンテンツなのである。すべてが金なのだ。そこで,オリンピック中継もアメリカの時差に合わせて行われるし,時期が夏なのもまた,秋に行うとアメリカのスポーツシーズンに影響するからである。それにつき合わされるスポーツ選手はたまったものではない。
 未だにスポーツマンシップだとかきれいごとを言う人があるが,そんなものは虚構であって,オリンピックは巨額な金を生む単なる打ち出の小づちなのである。だから,日本の猛暑にオリンピックをするなどというバカげたことになるのだが,そのことを問題視しないマスコミもまた,金儲けのためにすぎない。高校野球もまた同類である。
 アメリカははじめっから,ビジネス,だから金,と割り切っているからそれで問題ないのだが,日本では,そこに,やれスポーツマンシップだとか青春の美談だとか,そういった建前を並べるから,私は嫌いなのだ。日本はいつも「やったふり」なのである。
 アメリカはそういう国なので,ペットボトル1本持ちこめないボールパーク内ではペットボトル1本を3ドル50セントで売っているのだ。そこに遠慮も忖度もない。これは善悪ではなく,アメリカではすべてが金次第の国ということの反映にすぎない。
 その一方で,弱者に対した寄付や慈善などもまた,日本とは違って徹底している。レストランでは金持ちはチップを弾む。これはキリスト教の影響といわれるが,おそらくは,いつもマネーゲームをしている罪悪感から逃れるためであろうと私は今思う。
 それに対して,日本では,建前はおもてなし,本音は金儲けである。これもまた,善悪でなく,これが日本なのだ。世の中は甘くない。見せかけの笑顔のうらには何が潜んでいるのか,これこそが建前と本音が異なる日本なのである。生徒のためと称して,本音は学校の進学実績というのもまた,これが日本なのである。
 
 アメリカのボールパークは開場がその2時間前だから,私は午後4時過ぎにモーテルを出て,ロサンゼルス・エンゼルスの本拠地であるエンゼルスタジアムに向かった。インターステイツ105からインターステイツ710,そして,国道91,国道55と進み,駐車場に着いた。事前に駐車場を予約しチケットを購入してあったので,係員の指示に従って車を停めたが,その近くには球団関係者の高級車がずらりと停まっていた。
 開場にはまだ時間があったので,いつものように,ボールパークの周りを散策していると,ハネムーンやツアー客など多くの日本人がいたので,しばし雑談を楽しんだ。
  ・・
 やがて,ゲームがはじまった。MLBのゲームは40回以上は見ているから,もう,珍しくもなんともない。今回の私の目的は大谷翔平選手の写真を写すことだけだった。歩き回っていい場所を探しておいて,大谷翔平選手の打順になったらそこに行って写真を写せばいいのだから,私の座席なんてあってないようなものだった。そこで,もっとも安価な座席のチケットを買ったのだが,このゲームで,私は,自分の座席に座ったことは一度もなかった。どこなのかもわからなかった。
 幸い,この日,大谷翔平選手は3番指名打者で出場して,ヒットを3本打った。私は大谷選手が出場するときだけゲームに集中して,それ以外の時間は大谷選手をどこで写真に収めるかを探すためにボールパーク中を歩き回っていた。適当な場所でカメラを構えていると係員がやって来て「ここで立ち止まって写真をとっていてはいかん」とか言うので,日本からわざわざミスター・オータニの写真を写しに来たのからちょっとだけごめんね,とか適当なことをいって仲良くなると,快く許してくれるのもまた,アメリカらしいおおらかさである。そこでチップでも出すと,もっといい場所まで連れ行ってくれるのかもしれない。
 ナイトゲームは,終了後,数千台,もしくは数万台の車が一斉に駐車場から出ていくことになるから大渋滞を引き起こす,交通制限もかかるから,道に迷う。そこで,私は毎回,ゲーム終了前に早々ボールパークを後にする。ゲームの勝敗なんてまったく興味がない。
 8回になる前,ボールパークを後にした。こうして,私は今回の旅で,大谷翔平選手も見ることができて,目的をまたひとつ果たした。これで,今後またアメリカにいくことがあっても,心置きなく,MLBのスケジュールにまどわされることもなく,行きたいときに行きたい場所に出かけて観光ができることであろう。…が,その日はまた来るのであろうか?

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●エンゼルスの大谷翔平選手●
 2018年大谷翔平選手がロサンゼルス・エンゼルスに入団した。
 私はMLBでこれまで数多くの日本人メジャーリーガーを見る機会があったが,ぜひ見たいと思ったのは,何といってもロサンゼルス・ドジャースに入団した野茂英雄投手であった。本拠地ではなかったが,遠征先のミズーリ州セントルイスでの先発を見る機会があって,何とかその夢を実現した。次に見たかったのはイチロー選手だったが,幸い,イチロー選手の属したすべてのチームで見ることができた。
 新庄剛志選手,城島健司捕手,ダルビッシュ有投手,前田健太投手なども,偶然も手伝って目の前で見ることができた。松井秀樹選手は現役時代に見ることはできなかったが,ニューヨークのヤンキースタジアムに行ったとき,偶然,引退試合を見ることができた。
 そのころの私は,まだMLBにずいぶんと関心があり,しかも情熱があって,思えばよき時であった。

 今の私にはまったくMLBに想い入れもなく,わざわざ見にいきたいとも思わなくなってしまったし,普段,テレビでMLBのゲームを見ることもなくなってしまったが,それでも,なぜか大谷翔平選手(投手?)だけは見てみたいものだと思っていた。
 昨年(2018年),私がロサンゼルスへ行くという計画をしたときには大谷翔平選手の入団は決まっていなくて,ロサンゼルス・エンゼルスに決まったときは,また私は運がいいなあと思ったものだが,このときは,運悪くエンゼルスは遠征中で,見ることができなかった。
 今年(2019年),別にロサンゼルス・エンゼルスの日程は知らなかったが,旅行の日程が決まった後でロサンゼルス・エンゼルスの日程を調べたら,偶然,私がロサンゼルスに滞在するころはホームゲームが続いていた。しかし,昨年のシーズン末に手術をして,復帰できるかとうか,というところであった(らしい)。「(らしい)」と書いたのは,私はMLBにほとんど興味がなくなっていたので,詳しい情報を知らなかったからである。私は,見にいく予定のゲームに大谷翔平選手は果たして出場するのかしらん? とかなり懐疑的であった。まあ,見ることができれば幸運だ,程度に思っていた。

 大谷翔平選手は1994年生まれというから25歳である。私がこの旅のあとで行った奥州市の出身で,投手でありかつ打者,つまり,このふたつを本格的に両立する「二刀流」である。「二刀流」などという居合抜きのようなプレイヤーを私はこれまで知らないから,どうやってやるんだろうと思っていた。 
 高校生時代は,甲子園の通算成績は14回を投げ防御率3.77,16奪三振。野手としては2試合で打率.333,1本塁打ということである。
 日本のプロ野球だけでなくメジャーリーグ球団からも注目され,本人は高等学校卒業後にメジャーリーグへの挑戦を表明したことは知っていた。しかし,北海道日本ハム・ファイターズがドラフト会議で1位指名をすると公表し,私はイランことをするバカな球団だと思った。何を言おうがどんな事情があろうが,北海道日本ハム・ファイターズの自分勝手,金儲けの口実にすぎない。そんなことは,野茂英雄投手が裏切り者同然で日本の野球界を去ったことを思えばわかる。みんな自分勝手なだけだ。北海道日本ハム・ファイターズの会議室で重役やスカウトたちが何を話していたか絵に描いたようにわかる。
 いろんな条件をつけて言いくるめ,その結果,かわいそうに,大谷翔平選手は,2013年から2017年までの5年間を日本のプロ野球でおくることになってしまった。私は日本のプロ野球にはまったく興味がないので,この5年間のことはまったく知らない。

 2017年末,大谷翔平選手は,ポスティングシステムを利用してメジャーリーグに挑戦する事を表明した。そして,ロサンゼルス・エンゼルスと契約合意に至ったと発表され,背番号は「17」と発表,マイナーリーグ契約を結んだ。2018年スプリングトレーニングに招待選手として参加,オープン戦では投手として2試合で先発登板,打者としても指名打者で11試合で起用されたが,防御率27.00,打率.125,本塁打なしと不振だった。それでもメジャー契約を結びアクティブ・ロースター入りし,開幕戦のオークランド・アスレチックス戦で「8番・指名打者」で先発出場し初打席初球初安打を記録。さらに,オークランド・アスレチックス戦で初登板初勝利した。
 この年は打者として104試合(うち代打22試合)に出場し,打率・285,22本塁打,61打点,10盗塁。投手としては10試合に先発登板し4勝2敗,防御率3・31の成績を残し,メジャー史上初の「10登板20本塁打10盗塁」を達成しシーズンを終了した。
 私が見にいったのは,その翌年2019年のことである。

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●リニューアルした古いボールパーク●
 ロサンゼルス・エンゼルス(Los Angeles Angels)はメジャーリーグベースボール(MLB)アメリカンリーグ西地区所属のプロ野球チームである。2015年まではアナハイム・エンジェルスと称していたが,2016年に球団創設時の名称に戻した。
 2010年には全盛期を過ぎた松井秀喜選手が入団,また2018年からは大谷翔平選手が入団して日本での知名度が増した。
 本拠地球場はエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム(Angel Stadium of Anaheim)で,場所はロサンゼルスの東南,ディズニーランドの近くなので,日本人が観光で訪れるには最高の場所であろう。

 1957年,ニューヨークにあったふたつの名門チーム,ナショナルリーグのブルックリン・ドジャースがロサンゼルスに,ニューヨーク・ジャイアンツもサンフランシスコに移転し,西海岸にMLBの球団が誕生し,ロサンゼルス・ドジャースとサンフランシスコ・ジャイアンツは初年度から多くの観客を集め,興行的に大きな成功を収めた。
 そのため,アメリカンリーグでも西海岸に球団を置くことが検討され,1961年のアメリカンリーグの球団拡張計画に基づき,ロサンゼルスにおける新球団の設置が決定した。新球団の名前はロサンゼルスの地名の由来である「天使=angel」から採られた。
 初年度はロサンゼルス・リグレー・フィールドを使用していたが,2年目からはドジャースの本拠地球場であるドジャー・スタジアムを間借りし,1966年にはついにアナハイムにアナハイム・スタジアムが完成した。

 こうして1961年,アメリカンリーグの球団拡張によって誕生したロサンゼルス・エンゼルスは,1979年に初の地区優勝を果たし,1982年と1986年にも地区優勝を遂げた。そして,2002年にはワイルドカードでプレーオフに進出し,初のワールドチャンピオンに輝いた。
 1997年から2003年までウォルト・ディズニー社が経営に携わっていて,2002年のワールドシリーズ初制覇の優勝パレードはディズニーランドで行われた。
 2003年にヒスパニックの実業家であるアルトゥーロ・モレノがオーナーに就任した。モレノはチケット,ビールの値下げ,家族向けの低価格帯グッズの販売などを展開し,ファン層の拡大にも力を注いだ。また,2003年以降は大規模な補強により,2004年以降の6年間に5度の地区優勝を果たしたが,その後は低迷気味である。
 昨年2018年は開幕15試合で12勝3敗という好成績を挙げ,1979年以来39年ぶりの球団タイ記録となる好スタートを切ったが,その後チームは故障者続出もあり地区4位に低迷,ポストシーズン進出を逃した。

 2019年2月25日,ロサンゼルスタイムズ電子版がエンゼルスの本拠地の移転候補としてロングビーチ市が名乗りを上げていると報じた。その一方で,2020年で現在の本拠地とのリース契約が終了した後もアナハイムに残る選択肢も検討しているという。
 私はMLB30チームすべてのボールパークに行ったことがあるが,ロサンゼルスに本拠地をもつ,ナショナルリーグのドジャースとアメリカンリーグのエンゼルスは,ともにボールパークが古い。さすがにリニューアルをしてはいるが,もともとの設計が古いことは変えることができないから,ほかの新しいボールパークに比べたらかなり見劣りするので,本拠地の移転が考えられるのも当然だろう。
 このふたつのチームのボールパークは,ボールパークとしてわざわざ訪れるような魅力もないし,私がここで特質することもない。

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●都会のなかの天文台って?●
 ロサンゼルスでは,レンタカーを借りてレンタカー会社の駐車場から出ると,すぐにジャンクションがあって,インターステイツ105に入ることができる。
 ロサンゼルスの市街地はものすごく広く,はじめて走るとつかみどころがない大都市である。インターステイツを走っているだけだと,まったくこの町の様子が把握できないのだ。
 インターステイツ105はロサンゼルスのダウンタウンよりかなり南にある空港から東に向かって走っていて,やがてはダウンタウンから南東に走るインターステイツ5と合流する。インターステイツ5はアメリカの南北を北はシアトルから南はサンディエゴまで続く主要道路である。また,アメリカのインターステイツの3ケタ番号はわかりやすくつけれていて,下2ケタの主要道路にやがては吸収される。
  ・・
 私は,今回の旅では帰国まえの2晩をロサンゼルスで過ごし2泊することになっているが,ロサンゼルスの市内観光をする予定はまったくなかった。この旅の計画では,この日の夜はディズニーランドのあるアナハイムでMLBロサンゼルス・エンジェルスのゲームを見ること,そして,明日は待望のパロマ天文台に行くことであった。そこで,空港とボールパークとパロマ天文台のどこに行くにも便利で,しかも快適で,かつ安価なモーテルを探していて,リンウッドという町に宿泊することにしたのだった。東京でたとえれば,空港が成田でアナハイムが浦安,パロマ天文台が埼玉県の堂平山,そして,宿泊するのが千葉,みたいな感じだろうか。

 インターステイツ105を東に走って,途中でインターステイツ710(この道がインターステイツ10の支線であることは番号からわかる)に乗り換え,少し北にいったところでジャンクションを降りて,一般道を西に数マイル行ったところに私の予約したモーテルがあった。
 昨年来たときはは少し節約しすぎて,散々なモーテルに宿泊することになってしまったので,今年は昨年よりは宿泊代の少し高いモーテルにしたのだが,改めて調べてみると場所は昨年宿泊したところとさほど離れていなかった。しかし,ずいぶんと町の雰囲気は異なっていて,昨年より断然雰よさそうな場所だった。
 予約してあったモーテルは期待通りきれいなところで,インド人のオーナーはとても親切そうな人だった。建物の外観やら,部屋の様子などから,オーナーの性格が几帳面なのがよくわかった。
 駐車場に車を停めてオフィスに行って予約してあることを告げると,チェックインの時間は午後3時からであり,私が到着したのが午後2時で,まだ少し早かったが,空き部屋があったので,幸いチェックインをすることができた。
 部屋で一休みをしてから,近くにあった「カールズジュニア」というバーガー店まで歩いていってそこで昼食をとることにした。
 ハンバーガーチェーンの「カールズジュニア」(Carl's Jr.)は私がおすすめする店である。昨年(2018年)アメリカに来たとき,半分冗談でアメリカのハンバーガーチェーン店巡りをしたことはすでにブログに書いたが,そのなかでも「カールズジュニア」のハンバーガーはおいしかった。日本にもかつて進出したことがあるということだが撤退した。近年,再び進出して関東地方に数店舗店を出しているということだ。

 ロサンゼルスはアメリカ西海岸にあって太平洋に面している。
 空港から北西に州道1を走ると,マリーナデルレイというヨットハーバーがあり,その北西にはサンタモニカがあるというように,有名な地名が続く。サンタモニカからは州道2を北東に行くとビバリーヒルズ,ハリウッド,そして,グリフィス天文台というように,ロサンゼルス観光の入門コースが続いている。また,その南がロサンゼルスのダウンタウンでりあり,ダウンタウンの北側にはチャイナタウンとリトルトウキョウ,そして,ドジャースタジアムがある。
 こうした場所がいわゆる日本人の知るロサンゼルスという場所であるが,ロサンゼルスの観光地は決して治安のいいところでない。私は,ハリウッドのマクドナルドで置き引きにあったこともあり,いい思い出はないので,今は行きたいとも住みたいとも思わない。
 グリフィス天文台というのは,19年前に一度,ロサンゼルスの町が一望できる,夜景の美しい場所ということで,行くでもなく行ったことがあるが,ここは「理由なき反抗」「チャーリーズ・エンジェル」といったハリウッド映画のロケ地として有名である。実際は,天文台というより科学館とでもいうべき一般向けの場所であるから,世界中の天文台巡りを趣味とする私には特に興味がない。そもそも,星空の美しい場所ならともかく,夜景が美しい天文台って,一体なんだろうと思ってしまう。
 グリフィス天文台は,メキシコの銀鉱で財産を作った資産家のグリフィス・ジェンキンス・グリフィス(Griffith Jenkins Griffith )が1896年にクリスマス・プレゼントとしてロサンゼルス市に寄付したもので,広さ3,015エーカー(約12平方キロメートル)ある公園である。グリフィスがヨーロッパを視察した際に、整備された公園に感激しロサンゼルス市民の憩いの場所として贈ったのが発端である。…と,ここまではいいのだが,グリフィスは,のちにウィルソン山天文台を見学して感激したことで,公園に天文台の建造を企画した。グリフィスが殺人未遂を起こしたため一度は保留になったのだが,のち,グリフィスが遺言で天文台と劇場の建設の寄付を書き残し,グリフィスの死後,1935年に完成したものだ。しかし,そもそも大都会に天文台を寄付するって,何かひとつおかしい気がする。

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●不人気車は売れ残る。●
 ロサンゼルスのダウンタウンが眼下に見えてきた。大きな学校があった。おそらく高等学校だろう。それにしても豪華だ。専用のフットボール競技場やベースボールスタジアムがある。
 こういうのを比較すると,常にいわれるのは,日本は狭いから,という言い訳である。しかし,土地があるかどうかというような問題ではないだろう。日本は教育に金をかけなさすぎるのだから,もうどうしようもない。と,こういう景色を見るといつも思い,絶望的になる。
  ・・
 やがて,定刻ロサンゼルス国際空港に着陸した。
 ロサンゼルスに戻ってきた。
 この旅では,来たときはロサンゼルスに到着して,そのまま乗り換えてフェニックスに行ったので,ロサンゼルスの町に降りるのはこれが最初だった。しかし,昨年もロサンゼルスには来たので,昨年は少し戸惑ったが,もう,すっかり勝手がわかっていて,空港ビルを出て,レンタカー会社のシャトルバス乗り場に行った。
 そういえば,19年前,知ったかぶりでロサンゼルスに着いた私は,そのときは空港ビル内のターミナルにレンタカー会社のカウンタがあるものと思い込んでいたから,それが見つからず,空港で困り果てた。どうすればレンタカーオフィスに行くことができるかさっぱりわからなかった。仕方なくビルの外に出たが,案内標示もなく,しばらく途方に暮れたのを思い出した。
 忘れていることも多いのに,こうした困ったことだけはずっと覚えているのはどうしてだろう?

 レンタカー会社のシャトルバスに乗り込んだ。乗ったときは空いていたが,このシャトルバスは,空港のターミナルを巡回して,それぞれのターミナルで客を乗せていくので,次第に混雑してきた。こういうシステムは,知ってしまえば当たり前なのだが,はじめて行ったときはずいぶんと心細いものだろう。
 隣に乗り合わせた男性が話しかけてきた。日本と違って,見ず知らずの人とも隣り合うと雑談を交わすのがアメリカ流といったところだ。彼はこれまで78か国に仕事で行ったと言っていた。すごいものだ。もちろん日本も行ったことがあるということだった。
 私が行ったことがあるのは…,そう,考えてみると,せいぜい11か国でしかない。

 ロサンゼルス国際空港はめちゃくちゃ混んでいたが,これは,空港のターミナルビルが工事中であることと,ターミナルのアクセス道路が空港の中央部分にすべて集まっていて,これもまた工事中であることが原因であろう。これは,2028年に開催されるオリンピックの準備である。
 シャトルバスは,やっと空港エリアを出て,まもなくレンタカー会社の駐車場に到着した。ロサンゼルスは空港の周りにそれぞれのレンタカー会社の敷地が別々にあるので,自分の借りたレンタカー会社のある場所を覚えておかないと,返すときにパニックになる。これもまた,昨年学んだことだ。
 レンタカー会社のゴールドエリアには多くの車が並んでいて,そのどれを選んでもいいというのもまた,昨年知った。借りるときにインターネットで選んだ車の車種など全く無関係で,車のランクが同じならどれを借りてもいいわけだ。オプションでカーナビを借りたときは,別途出口で受け取ることになる。
  ・・
 昨年借りたときは車のほとんどがカローラだったので今回もそれを期待したが,カローラは1台しかなかった。それにしようと思ったが,ほかの車も見てみようと物色しているわずかの間に私が借りようと思ったカローラはとられてしまい,後悔した。仕方がないのでニッサンのアルティナにした。
 レンタカーもこのようなシステムにすると,自分で車を選べるので便利だし,レンタカー会社もまた手間がかからないからウィンウィンである。しかし,このシステムは車の人気投票という事実を呈する。まず売れ行きがいいのは故障のない日本車である。最後まで残ってしまうのは不人気車であるが,それはいつもヒュンダイであった。

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●アメリカの高速道路は美しい。●
 窓際の座席を選んで座ったので,晴れ渡る窓の外にはフェニックスの町がよく見えた。
  ・・
 すでに書いたように,19年前,私はロサンゼルスから車でインターステイツ15を北東にラスベガスを経由して,国道93を南東にキングズマンへ出て,そこからインターステイツ40でセリグマン,ウィリアムズと東に向かってに走り,ウィリアムズで北上してグランドキャニオン国立公園のサウスリムにたどり着いた。
 古いことなのでほとんど記憶にないが,ロサンゼルスからグランドキャニオン国立公園がえらく遠かったことと,ウィリアムズから北に向けて走っていたとき,こんな大草原の向こうにグランドキャニオンという大渓谷が本当にあるのだろうかと思ったことだけは覚えている。
 その後,橋のないコロラド川を延々と迂回して対岸のノースリムへ行き,さらに,その先のモニュメントバレーまで行った。そして,南西へ引き返し,フラッグスタッフを経由して,フェニックスへ着いたのだった。
 その時の旅では,フェニックスからロサンゼルスまでも車で帰るつもりだったが,さすがに力尽き飛行機を利用した。
 当時のフェニックスの見どころは,お昼間は動物園くらいのものであったが,夜はMLBダイヤモンドバックスのゲームを見た。先発はあの有名なランディ―・ジョンソン投手であった。私はいつもツイているのだ。
 そのときのフェニックスの印象は,ものすごく暑かったことと,1泊したあと,目覚めたらすでに午後で,こんなに寝てしまったことは人生で後にも先にもなかったということだ。私が当日探して泊った場所は,結構「ヤバい」ところで,周りは古びた家だらけで,昼間から怖そうな男がふらふらしていた…,と当時は思ったが,今考えるとそうでもない普通のアメリカの普通の場所だったかもしれない。
 当時はまだアメリカのことは今ほど知らず,なにもかもが怖かった。であるのに,行動は今よりずっと大胆であった。

 飛行機の窓から見ていると,そんなことを思い出してきた。
 おそらく飛行機はインターステイツ10に沿ってその上空を飛んでいたのだろうが,フェニックスの町を過ぎると,眼下にはオーストラリア大陸の荒涼とした大地のような,砂漠の荒野が広がってきた。どの国でもそうだが,空から見るとそんな景色であっても,地上を走ると結構人が住んでいたりするのが不思議だ。それにしてもいつも思うのだが,地球というのは広いのやら狭いのやら…。新型コロナウィルスのようなたわいもないものが発生するだけで,地球上のすべてがパニックになり,人間の作ってきたシステムはすべて台無しとなり,逃げ場所すらない。
 いずれにしても,未開の地などというものはもはや地球上のどこにも存在せず,人間は地球をぐっちゃぐちゃにしすぎた。地球の代わりになるものはないのだから,やがては破壊しつくして地球をぶっ潰してしまうのだろう。それも近い将来…。人類の滅亡も近いかもしれない。そして,人類に代わる新しい生物がまた登場して,同じ愚を繰り返すのだろう。
 やがて,ロサンゼルスの広大な市街地が見えてきた。大自然をぶっ潰して作ったアメリカの大都市はどこも高速道路がとても美しく見える。ジャンクションの幾何学的な模様には,いつもほれぼれする。

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☆ミミミ
6月21日は,夏至であり,台湾では金環日食,日本では部分日食が見られましたが,残念ながら曇り空でした。雲を通して,なんとか写真を写せました。
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●離陸の順番待ち●
 搭時間になった。今回もまたファーストクラスへのアップグレードだったので,先に乗り込んだ。アメリカの国内線のファーストクラスは国際線とは違って,イスが大きいことと,ガラスのコップで飲み物が出てくることと,軽食が配られることくらいしか特典はないが,なぜかうれしい。
 わずか1時間程度のフライトだから,窓際席にした。

 フェニックスの空港は,スカイハーバー国際空港(Phoenix Sky Harbor International Airport)という。フェニックスの市内,中心部よりやや南東4.8キロメートルにある。
 この空港はアメリカ南西部にある大きな空港のうちのひとつで,グレイトレイクス航空とUSエアウェイズのハブであるほか,フロンティア航空とサウスウェスト航空の焦点都市となっていて,北アメリカ,カナダ,メキシコ,中央アメリカ,ヨーロッパの各都市間を15のキャリアが運航しているので,アメリカで利用者数の多い空港のトップ 10 に入るということだが,私にはそんな印象はまるでなく,小さな空港であった。
 スカイハーバー国際空港には3つのターミナルがあるが,ターミナルの番号は2,3,4となっている。ターミナル1が1990年に取り壊されたからである。

 どの空港もそうだが,フライトの離陸は,同じ時刻に設定された複数のフライトがあって,それらは要するに「早いもん順」に離陸するのである。つまり,離陸の順番は事前に決まっているわけでなく,離陸準備のできた飛行機から滑走路の手前に陣取り離陸にそなえ,順番がくると滑走路に入り飛び立つわけだ。それらの調整を担うのが管制塔である。
 大概の空港は滑走路が1~2本で,同じ滑走路を離陸も着陸も使うので,着陸してくる飛行機があると,離陸する飛行機はしばらく待たなけれればならない。そうして,いよいよ離陸の番になると,しずしずと滑走路に向かうことになる。
 今日の4番目の写真がまさにそれで,こんな感じで飛び立つ飛行機がずらりと並んで離陸の順番待ちをしている姿はまさに壮観なのであるが,これは窓際席でなければ見られない姿である。大概の乗客は離陸までどうしてこんなに時間がかかるのだろうなどと思いながら,機内でその時間をすごすことになる。
  ・・
 私の乗った飛行機もこうしていよいよ離陸する順番になった。このころは,海外旅行ばかりしていたので,離着陸で1回のフライトと考えると,私は,1年で平均30回は飛行機に乗っていた勘定になるが,それもまた,今では懐かしい。こんな当たり前だった旅がまたいつかできる日が来るのだろうか?

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●ここは砂漠のど真ん中●
 予想通り,フェニックスの市街に近づくにつれて車が多くなって道路は混んできたが,それほどの渋滞に巻き込まれることもなく,午前8時過ぎにはレンタカーセンターに到着することができた。
 車を返してから少しだけレンタカーセンターの建物のなかを散歩した。建物のなかにはずらりとレンタカー会社のカウンタが並んでいたが,朝早いこともあって,人がほとんどおらず,閑散としていた。
 その昔,アメリカの空港は,ターミナルのなかにレンタカー会社があって,外に出るとレンタカー会社の駐車場があった。今でも多くの地方都市はそうである。
 大都市では,やがて空港が手狭になってくると,空港の近くにレンタカー会社が移動するようになった。新しく作られた都市だと,フェニックスのように,レンタカー会社が集められてひとつの建物に入っているところもあるが,古い町では,それぞれの会社がバラバラになっていてわかりにくいところもある。さらにまた,大きな建物にレンタカー会社が集めれているにもかかわらず,そこに入り切れなくなった新興のレンタカー会社だけ別の場所にオフィスがあって,それがわからず混乱することもある。私はニューヨークのJFKでその被害? にあった。
 建物を出たところに,空港までのシャトルバスの乗り場があったのでバスに乗り込み,やがて空港に着いた。

 フェニックス(Phoenix)はアリゾナ州最大の都市かつ州都である。愛称は「太陽の谷」(Valley of the Sun)。日本語では不死鳥のフェニックスから慣フェニックスと表記されるが英語の発音はフィーニクスのほうが近い。
 フェニックスは1867年に灌漑事業と共に創設され,開拓者が都市を創設した。 20世紀前半からニューディール政策によるコロラド川の電源開発,ルーズベルトダム,フーバーダム,クーリッジダムの開発によって、無尽蔵の電力を供給,軍事産業に関わる航空機産業や電器機械工業が発展していき,今日では半導体などのエレクトロニクス産業,また観光都市としても発達している。
 当初はロサンゼルスやシリコンバレーに後れを取っていたが,1990年頃から安価な労働力と広大な土地,安い税金,精密機械製作には好適な温暖で乾燥した気候,大消費地への近さという条件があいまってカリフォルニア州から大量の半導体,エレクトロニクス産業が流入してきたことで急速に発展した。シリコンデザート(砂漠)とよばれる。
  ・・
 年間を通して温暖,というより年中暑く,夏は日中は摂氏40度を超える。ただし,非常に暑いが乾燥しているので,日本より過ごしやすい。逆に,フロリダは湿度が高いので,夏にフロリダに行くというとアメリカ人にバカにされる。なら,日本の夏なんてもっともっとバカにされそうだ。冬は日中摂氏20度を超える気温となり,朝晩でも摂氏4度以下に下がることはほとんどないため,保養都市として注目を浴びている。
 最高気温記録は1990年6月26日の摂氏50度で,最低気温記録は1913年1月7日のマイナス8.8度ということだ。

 この町は砂漠のど真ん中に形成された人口都市である。私はこの町にはじめて来たのは19年前のことだったが,その当時,こんな砂漠のど真ん中にむりやり水を引いて草木を植え,緑の都会を作り上げるアメリカってとんでもない国だと思ったことを思い出す。
 そのころはまだ素朴さも多く残っていた。今回はフェニックスの町は通り抜けただけで,その風景は空から見ただけだったが,町はさらに巨大化し,アメリカのほかの大都市と変わらない様相を呈していた。

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●絶品の夜明け●
☆4日目 2019年6月28日(金)
 この旅も4日目となった。
 チコちゃんではないけれど,ふだんボーっと生きていると1週間は何もせず終わるけれど,旅に出るとわずか数日間でも,それまで長年ずっと思い焦がれていた経験はすべてできるし,そのときに成しえた思い出はずっと生き続ける。
 旅をしないできた人は,そうした蓄積がないから,歳をとったとき,思い出もなく生きるしかない。そんな人の話にば奥行きがない,退屈な話しかできない老人は,そのような体験の少ない人なのであろう。

 さて,今日は,フラッグスタッフからフェニックスまで戻って,フェニックスからロサンゼルスへは空路,そして,ロサンゼルスで再び車をレンタルして,夜はMLBロサンゼルス・エンジェルスのゲームを見るという予定であった。
 フラッグスタッフからフェニックスまで車でほぼ2時間かかる。フェニックスからのフライトは10時過ぎの出発なので,朝はフェニックスを午前7時くらいに出発すればいいかな,と思っていたのだけれど,来るときにフェニックスの市街地が思った以上に渋滞していたことと,この日は週末でなく金曜日だから朝の通勤時間と重なること,そして,来るときにインターステイツで事故渋滞があったことなどを考えると,もっと早く出発するほうがいいと思いなおし,朝は午前5時に起床し,朝食をとって午前6時にはチェックアウトすることにした。
 昨晩買って冷蔵庫に入れておいたビックマックをレンジで温めて朝食代わりにした。チェックアウトといってもキーをフロンのある建物の外にあるキーボックスに返すだけ,ほったらかしのモーテルである。

 まだ夜が明けきらず暗いフラッグスタッフのヒストリック・ルート66を,インターステイツ17のジャンクションに向かって走った。
 インターステイツ17に入ると,周囲は真っ暗で,自分の車のヘッドランプだけを頼りに走ることになるが,こういうとき,アメリカの道路はとても走りやすい。
 私は,よく星を見にいくので,深夜の道路を走ることが少なくないが,日本の道路のひどさは,暗いときとか雨のとき,霧のときに顕著になる。そうした悪条件をまったく考慮しないで整備されているのである。反対に,アメリカの道路は,悪条件になるほど,安全に走行できるように整備されている。これが日本人の「発想の限界」である。

 やがて東の空が白んできた。アメリカの大自然は,このときが最も美しい。日本では決して見られない風景が広がってくる。フラッグスタッフからフェニックスまでは緩い坂を下ることになるから,来るときはよくわからなかったが,眼下に広がる景色は想像以上にすばらしいものだった。
 順調にフェニックスのダウンタウンに近づいてくると,あたりはサボテンだらけになる。
 アリゾナといえばサボテンであろうが,そうした風景がどこで見られるかといえば,すぐには思い浮かばない。19年前,はじめてアリゾナ州に来たときにこの「サボンのある景色」を追い求めてあてもなく走ったことを思い出したが,そのときにどの道を走ったのかは記憶にない。しかし,それほどの道路があるわけでもないから,そのときは,インターステイツでは景色が見られないと思ってそのあたりの一般道をふらふら走ったのだろう。しかし,そんなことをしなくても,実は,インターステイツからとてもよく「サボテンのある風景」は見ることができたのだった。それをこの日知った。

 やがて,太陽が昇ってきた。どこかで日の出の写真を写そうと走っていて,ブラックキャニオンシティという田舎町を見つけたので,そこで,一旦ジャンクションを降りた。
 ブラックキャニオンシティはインターステイツ17にそった一般道の周りに家が数件あるだけの田舎町だったが,なかなかいい雰囲気であった。こういう町に着くと,いつかこんなところに泊ってみたいものだといつも思うのだが,実際泊ってみると,こうした町には何もなく,夕食をとろうと1軒のレストランを探すのすら苦労することも,私は,これまでの経験ですでに知ってしまっている。

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●電子レンジだけは存在した。●
 ルート66,インターステイツ40と走って,フラッグスタッフに戻ってきた。これをもって,今回の旅でフラッグスタッフの3泊の滞在は終わりである。
 私が滞在したモーテルは,ルート66沿いということだったので,もっとフラグスタッフのダウンタウンに近いところなのかと思っていたが,歩くと30分程度もかかる場所であった。安価なモーテルだからそれは仕方がないとして,このモーテルはベッドメイキングがなく,タオルの交換もないのが気に入らなかった。
  ・・
 これまではそんな経験がなかったが,昨年の秋に行ったニュージーランドのテカポ湖畔のモーテル,ハワイ島ヒロのモーテルと,このところ,ベッドメイキングすらないモーテルに私は立て続けに泊っている。それでもまだいいほうで,2017年の秋に泊ったカウアイ島のコンドミニアムは,ベッドメイキングも掃除もしてくれないのに,宿泊代以外にクリーニング代とかいう法外な料金を別途1万円ほども請求された。パーキング代が宿泊料金とは別途の必要で,しかもそれがずいぶんと高かったオーストラリア・ブリスベンのホテルもあった。
 近頃,エクスペディアやブッキングコムではホテルの宿泊料は安く表示してあっても,実際に宿泊するにはそれ以外の法外な料金が必要なホテルが存在するようになってきたので,ホテルの予約にはかなり注意が必要である。
 経験上,1泊15,000円以上出せば,そのようなおかしなホテルはほとんどないが,値段の安いホテルには何が潜んでいるかわからない。そこで,少し割高であってもきちんとしたホテルを予約したほうが結局は安上がりで,「見かけ上だけ」の安価なホテルは予約したほうがいいと思う。

 この日はフラグスタッフ滞在の最終日で,私は,マクドナルドに行ってサラダを食べることにした。
 まったくの余談だが,春にオーストラリアに行って毎日ステーキを食べて贅沢したり,アメリカでハンバーガーばかりを食べていたせいか,今年の健康診断で中性脂肪値が異常に高くなってしまった。やはり日本人には,ハンバーガーとコーラなどより,寿司とお茶というほうがふさわしいのかもれない。 
 寿司といえば,アメリカ人も寿司好きのようで,こちらのスーパーマーケットでもパック寿司なら大概売っているのだが,常にワサビが別となっている。聞くところによると,アメリカ人はみなワサビが苦手だという。
 しかし,私はワサビが苦手なのではなく,ワサビのつけかたを知らないのではないかと考える。ホットドッグにマスタードとケチャップをかけるようにワサビを使っては,そりゃ大変であろう。
 この日私は,サラダとともにビッグマックを買って,それをテイクアウト(アメリカでは「to go」といい「take out」とはいわない)してきた。これは夕食ではなく,明日の朝の朝食にしようというわけであった。泊まったのはサービスの悪いモーテルであったが,部屋には電子レンジは存在したので,これを利用しようというわけであった。

 いつも書いているが,アメリカのレストランは,たとえファミリーレストランでもチップがいるので,とてもばからしいのである。そんなところへ行くくらいなら,近くにモールがあれば,モールのフードコートで食事をすれば十分だし,フードコートがなければ,そこらにある全国チェーンのハンバーガー屋ですませばいい。アメリカに行って食事にこだわっても,どうせ大したものが食べられるものではないからである。ヨーロッパを旅行するようになって,増々そう思うようになった。
 今回,私が密かに狙っていたのはロサンゼルスで吉野家に行くことであった。ロサンゼルスには吉野家が数店舗あるので,一度試してみようと思っていたからである。結局今回は行くことができなかったけれど。
 アメリカに住む日本の人に聞くと,どうも日本の経営者はアメリカでレストランを開くとき,考え違いをしているようだという。ステーキというのは贅沢品だからよいのであって,値段が安いからといっても客は来ない。だから,いきなりステーキをニューヨークで開店してもうまくいかないし,吉野家もどうも評判がよくない(らしい)。また,人種によって,ずいぶんと食事に偏りがあるようなのだ。これはメキシコ人の食い物だからといって白人は見向きもしないものとか,そういうことが多くあるらしい。
 しかし,日本人は,そういった,アメリカ人の現実について,知っているようでまったく知らない。余談だが,現在のアメリカの大統領は価値観のすべてが金なのだ。だから日本的な忖度をしても仕方がない。しかし,日本の政治家はそんなことすら知らない。トランプにゴマをすったところで,何も見返りはない。儲け話をしてやればいいのである。

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●まさか再びこの町に来るとは…●
 ウィリアムズを出て,さらに西にインターステイツ40を4マイル(6.4キロメートル)ほど走ると,次のセリグマン(Seligman)という町に着いた。私はインターステイツ40をそのまま走っていったのだが,実は,途中で一度はインターステイツ40に吸収されたルート66が,セリグマンに行く途中でふたたび分岐して,インターステイツ40に沿った形で平行にその北側を走っていたのだった。
 いずれにしても,私はインターステイツ40をセリグマンの町に差し掛かったところで降りたので,再びルート66に合流できた。
  ・・
 セリグマンは人口約500人の小さな町である。チノバレーの北部にあるビッグチノウォッシュと並んで標高が5,240フィート(1,600メートル)という高地にある。
 この町が有名なのは,なんといっても今でもルート66が町のメインロードとなっていて,かつての時代のままの町が残っていることにある。
 フラグスタッフやウィリアムズは,かつてのルート66をはさんだあたりこそその時代の風情を残しているが,その外側には新しい街が出来ている。しかし,セリグマンにはそれがない。そこがいい。

 私は今から19年前,グランドキャニオンに行こうと,ロサンゼスからインターステイツ15を走ってラスベガスを経由し,ラスベガスからはインターステイツ40でキングズマン,セリグマン,ウィリアムズと走って,そこから北上してグランドキャニオン国立公園に行ったことがある。
 今思うと,ロサンゼルスから目的地のグランドキャニオンに行くのなら,なにも遠回りになるラスベガスなど通らずとも,ロサンゼルスからそのままインターステイツ40を走ればよかったのだが,おそらくそのときの私は,ラスベガスにも行きたかったからに違いない。そうして遠回りをしたがために,そのときセリグマン行くことができた。
 そのときはまだルート66のことは今ほど知らなかったのだが,それでも少しは知識があった。
 セリグマンで車を停めた。そこで1軒のみやげもの屋を見つけたので,中に入った。そこは,みやげもの屋を兼ねた床屋であった。で,その店で出会ったのが有名人のエンジェル・デルカディーロ(Angel Delgadillo)さんであった。出会った瞬間,この人テレビの番組で見たことあるぞ! と思った。そして,お話をして一緒に写真を撮った。今にして思うに,それはなんという幸運だったのだろうか。会いたくても会えない人が大勢いるというのに,私は,意識して会いに来たわけでなかったのに,,偶然出会い,話をし,一緒に写真まで写すことができたのだった。
 私は,今回の旅で,再びセリグマンに来るまで,かつて,エンジェル・デルカディーロさんに会った町がセリグマンだということすら忘れていたが,町に来て,そうだ,あのときの町はここだったのか! という驚きととともに,人生の不思議さを思った。まさか,またこの地に来るとは思わなかった。

  ・・・・・・
 かつて,ルート66は50年以上もの間セリグマンに繁栄をもたらした。しかし,1978年9月22日,インターステイツ40の開通によって,それまで1日に何千台と通過していた車が一切通らなくなった。それは,セリグマンの生活とビジネスが一瞬にして消え去った出来事だった。それによってセリグマンの人々は厳しい生活を強いられることになり,ビジネスは朽ち果て人々は引越し町は荒廃していった。
 そんなとき,セリグマンで床屋を経営していたエンジェル・デルガディーロさんは,アリゾナのルート66沿いの町の代表を集め,ルート66を「ヒストリック・ルート66」にする会議を開き,1987年に「ヒストリック・ルート66」協会を設立し,会長となった。そして,ルート66の土産品を販売,それが現存する最初のルート66ギフトショップとなったのだった。
 その後,アリゾナ州政府はセリグマンからキングマンまでのルート66を「ヒストリック・ルート66」と命名,こうして,人々のルート66へ対する関心を駆り立て,ついに人々は再びルート66に訪れるようになっていった。
  ・・・・・・

 あいにく,この日,エンジェル・デルカディーロさんは外出中でお会いすることはできなかった。このことだけが今でも心残りである。
 今,このことを書きながら,私はおそらく将来,再びセリグマンに行くことも,エンジェル・デルカディーロさんに会うこともないだろうと思うと,つらくかなしくなる。夢は実現するとうれしいが,しかし,また,実現した過去を振り返ると,切なくもなる。
 ルート66はさらに進むとロサンゼルスまで続いていくが,私は,この日,セリグマンを最後に,ルート66を巡るドライブを終えて,フラグスタッフに戻ることにした。セリグマンからの帰路,インターステイツ40に合流するまで,来るときは通らなかったルート66を,いつまでも懐かしみながら走ったのだった。

◇◇◇
「Route66~愛と哀しみのマザーロード~」では,番組の最後に,The Notting Hillbillies の Feel Like Going Home が流れます。たとえ思いが遂げられず疲れ果てても,安らぎのわが家が待っているよ,帰っておいで,と。アメリカのこころ!
Lord I feel like going home.
I tried and failed and I 'm tried and weary.
Everything I ever done was wrong.
And I feel like going home.

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●古きよきアメリカの町●
 ウィリアムズ(Williams)は人口約3,000人,ヒストリック・ルート66とインターステイツ40とアムトラック鉄道が通る町である。グランドキャニオンにアクセスする南端でもあるので,ハイシーズンには多くの観光客が訪れる。
  ・・
 インターステイツ40のジャンクションを降りて南に行くとダウンタウンに到着するのだが,私は間違えて,グランドキャニオンにアクセスする北に向かって進んでいったので,どんどんと町から離れてしまったようだった。やがてウィルアムズの古い町並みとはまったく違う新しいリゾートタウンに到着したので,そこでやっと気づいて慌てて引き返すことになった。
 このリゾートはグランドキャニオンへのゲートウェイで,エリアには湖があり山があり,そこで,山登りやスキー,トレイルなどが楽しめる。一方,歴史地区であるウィリアムズのダウンタウンは,1950年代から60年代の全盛期を彷彿とさせる古きよきアメリカ西部の雰囲気が今も残り,それがルート66の哀愁とよく似合っているので,多くの観光客がやってきて,散歩をしたり,カフェでくつろいだりしていた。

 1881年に設立されたこの町は,著名な貿易商であり開拓者だったウィリアム・シャーリー ”オールドビル” ウィリアムズ(William Sherley "Old Bill" Williams)にちなんで名づけられた。彼の像は市の西側にあるモニュメントパークにある。 また,すぐ南にある大きな山は,ビルウィリアムズマウンテンとよばれている。ウィリアムズに今もルート66が残ったのは,インターステイツ40が市内に建設されないようと郊外にバイパスを作ったからである。
 私は,この町の中心にあった無料の駐車場に車を停めて,しばらく町を散策した。西部劇で出てくるような町の様子は,私が昔あこがれた「栄光と哀しみのマザーロード」で出てきた町そのものであった。この町を歩きながら,そのころはすっかり忘れていた40年前の私のアメリカへの想いが再びよみがえってきて,私は感傷に浸って,すっかり参ってしまったのだった。
 ウィリアムズはいい町だった。ああ,これこそが私の夢見たアメリカだよ。そう思った。泣けた。

◇◇◇
「route66~愛と哀しみのマザーロード~」では,番組の冒頭で,Eagles の Desperado  が流れます。
  ・・・・・・
 But you only want the ones that you can't get.
 It may be raining but there's a rainbow above you.
  ・・
 たとえ夢がかなわなず
 雨が降ったとしても,空には虹が輝くよ
  ・・・・・・

2019夏アメリカ旅行記-なつかしのルート66① の続きです。
◇◇◇
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●栄光と哀しみのマザーロード●
 この旅をしたのは,今から1年ほど前のことであるが,何か,今では遠い宇宙に行ってきたような気がする。
 では,宇宙から? の旅行記を再開しよう。
 この旅を計画したころは,フラグスタッフに3泊して,滞在2日目と3日目の2日間で,まず,念願だったバリンジャー隕石孔とローウェル天文台に行き,そのあとは,フラグスタッフをはじめとするこの付近のルート66を走ってみようと何となく思っていた。
 滞在2日目は,思いのほか予定がはかどって,念願だったバリンジャー隕石孔とローウェル天文台にともに行くことができた。
 フラグスタッフからは,ホースシューベンドとアンテロープキャニオンが近いということを知って,3日目は来るまで予定になかったが,フラグスタッフを離れて,ホースシューベンドとアンテロープキャニオンまで遠出することができた。そして,フラグスタッフに戻ってきても,まだ時間がずいぶんあったので,このあとの時間は,フラグスタッフを越えて,ルート66を巡ってみることにした。
  ・・
 6月下旬というのは,アメリカ旅行をするのに最適な季節である。それは,夏休みには早くそれほど混雑していないことと,夏至に近いので昼が長いことである。
 唯一の心配は暑さであったが,来てみると意外なほど涼しかった。

 ずいぶんと前,アメリカに憧れていたころ,私はアメリカに関するテレビ番組をほとんど見ていた。そのなかに,CSの旅チャンネルで放送されていた「Route66~栄光と哀しみのマザーロード~」というシリーズものに興味をもった。
 当時の私は,ルート66というものが何モノかも知らず,ただ単に,この番組で出てくる広大なアメリカのまっすぐにのびる道と田舎町に魅了され,この道をいつか行ってみたいなあ,と思いながら見ていただけだったが,ルート66がこれほどアメリカ人にとって想い入れのある道だとは思わなかった。
 その後,私は,ルート66を目指したわけでもなかったが,アメリカ50州制覇をめざして,カリフォルニア州,アリゾナ州,ニューメキシコ州,オクラホマ州,ミズーリ州といった場所を旅していると,いつも「ヒストリック・ルート66」と書かれた場所にずいぶんと出会うようになった。そして,そのたびに,何か哀愁を感じるようになってきた。
 そんなわけで,計画したわけでもないのに,これまでの旅で,私はルート66のおおよそのところはすでに走っているのである。
 日本でマザーロードといえば,江戸時代の旧街道のことになるであろう。日本の旧街道は江戸時代,徒歩で行き交う道であったが,それに対して,ルート66は,アメリカのモータリゼーションの発達とともにできた道なので,車で行き交うためのものである。

 日本の宿場町のように,ルート66にも道路沿いに町が点在していて,それらの町は,日本の宿場町のようにどこもプライドがあって,それぞれ趣向を凝らしこの歴史的な雰囲気を保存しようとさまざまな工夫をしている。
 そうした古きよき時代を今でも最も残すのが,フラグスタッフの周りの小さな町である。そこで,この日は,フラッグスタッフから西の方向にあるこれらの町をいくつか訪ねてみることにした。
  ・・
 フラッグスタッフのダウンタウンをルート66は当時より車線を広げて走っている。ルート66だったその道をそのまま西に走っていくと,道はインターステイツ40・ビジネスという,インターステイツ40に平行して北側を走る道路になった。ほとんどの車は信号のないバイパス道路であるインターステイツ40を走るので,ビジネス道路はほとんど車が通らない。
 アメリカの道路でビジネスと名づけられたものは,市街地を通る,バイパスができるまでは主要道路だった,いわゆる旧道のことなのである。アメリカでは,名前のつけかたに明確なルールがあってわかりやすい。
 私は,急ぐ旅でもなく,ルート66の余韻を味わうために,このインターステイツ40・ビジネスをそのまま走っていったのだが,やがて,インターステイツ40に吸収されてしまった。しかたなくその先は無味乾燥のインターステイツ40を西に走っていくと,ベルモント(Bellemont)という町に到着した。
 昔の道が残っていないかと,ベルモントでインターステイツ40を降りてみたが,ベルモントには残念ながらルート66らしき道路の痕跡もなかったので,再びインターステイツ40に戻った。さらにそのまま西に進んでいくと,次の町の入口にヒストリック・ルート66の案内標示があったので,その町でジャンクションを降りた。そこはウィリアムズ(Williams)という町であった。
 ウィリアムズはインターステイツ40がバイパスとなっていて,ヒストリック・ルート66はそのままの形で残っていた。古きよき町並みが,往年の面影を残していて,うれしくなった。
 私は,町の中心にあった無料の駐車場の車を停めて,しばらく町を歩くことにした。
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●クルーズコントロール●
 予定通り,ホースシューべンドとアンティロープキャニオンを巡ることができた。これから再び2時間かけて,フラグスタッフまで戻る。
 私は車には全く興味がない。動けばいいと思っている。日本のようないつも渋滞して走ることもままならないような国では車なぞに凝ったところで仕方がない。マナーも悪いから必要がない限り乗りたくない。よって,日本より海外で運転することのほうが多いくらいだ。
 左ハンドルと右ハンドルの違いは大した問題ではないが,どう比較しても,海外,といってもアメリカやオーストラリア,そして,ニュージーランドくらいしか知らないが,これらの国にくらべると,日本の運転マナーが一番悪いし,道路標識やら道路整備がひどいから,海外で乗るほうがずっと楽である。日本人は車に乗ると人格が変わるというか,人の目があるときは猫を被ったように消極的なくせに,人が見ていないときや車に乗ると突然狂暴になる。制限時速などあってないようなものだし,制限時速を保って走っていると,ほとんどの場合後ろから煽ってくる。さらに,道路は狭く渋滞ばかりなのに,そこに自転車が走っていて,多くの自転車乗りはさらに傍若無人だし,こんな国で高価な車を買って自慢したり猛スピードを出して走る人の気が知れない。

 しかし,アメリカやオーストラリア,ニュージーランドのような,ほとんど信号すらない道を長い間乗るには,SUVのようなそれなりの大きな車のほうが安心だからそれを借りる。走りたいだけ走れるこうした国での運転はすごく楽だが,問題はスピードを一定に保つのが簡単でないことだ。知らず知らずスピードが出てしまうので,絶えずスピードメータを見て制御するのは疲れる。そこで一定のスピードで自動走行する装置であるクルーズコントロールが役にたつ。日本でもクルーズコントロールの装備された車があるようだが,そんなものがあっても日本ではどこで使うのかと思う。しかし,海外では必需品である。ただし,道路が凍結していたりするときには決して使ってはいけない。道路の状況も考えずに加速するからである。
 私は,この日,クルーズコントロールをONにして,ずっと同じ速度で走っていたが,私の後ろを,決して煽るという感じでなく,ずいぶん車間距離をとって,ずっと同じ車がついて走っていた。それはそれでいいのだが,背後の車は,フラグスタッフの市街地に入って車線が多くなり,それとともに車が増えてきたら,その車のドライバーはまるで人格が変わったかのように追い越し車線に出て,私をさっそうと抜いていった。私は,一番右の車線を,相変わらず車の流れに従ってのんびり走っていた。
 そのうちに,渋滞になったが,それは自然渋滞ではない雰囲気であった。どうやら,その先の交差点で多くの車が事故に巻きこまれてしまったようだった。私を追い抜いていった車がその事故に巻き込まれたかどうかは知らないが,心配になった。そういえば,以前,オーストラリアで,私をさっそうと追い越していったトラックが市街地に入ったところでスピード違反で捕まっているのを目撃したこともある。車は安全運転が一番であると,改めて思ったことだった。

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●ナバホ族の居留地●
 アンティロープキャニオンはナバホ族(Navajo)の居留地にある。
 ナバホ族はアメリカの南西部に先した「ネイティブアメリカン」で,アサバスカ諸語(Athabaskan languages=カナダおよびアメリカ合衆国に住むネイティブアメリカンの言語)を話す「ディネ」(Dene=アサバスカ語族を話す人達の自称)の一族である。また 「ナバホ」とはテワ語で「涸れ谷の耕作地」という意味である。 「ネイティブアメリカン」は,コロンブスがアメリカ大陸に到達する以前から住んでいたアメリカ先住民のことを指す。「ネイティブアメリカン」は,領土の侵略を続けたヨーロッパからの入植者と数多くの戦争を経験し,多くの犠牲者が出た。そして,敗戦後もともと住んでいた肥沃な土地を奪われ,Reservationとよばれるインディアン居留地へ隔離された。やがて,1968年に施行された「インディアン人権法」(Indian Civil Rights act)で市民権を獲得したが,今でもインディアン居留地に住んでいる「ネイティブアメリカン」がほとんどである。 
 ナバホ族は,アリゾナ州の北東部からニューメキシコ州にまたがるフォー・コーナーズの沙漠地帯に居留地(Reservation)を領有している。

 アリゾナ州のナバホ族居留地はほとんど開拓されておらず,地平線を見渡せるほどの大地が広がっている。インディアン居留地は,いわゆるド田舎で,徒歩圏内に店はひとつもなく,車がないと生活は成り立たない。車で20分走るとコンビニがあるが閑散としていて,商品に埃が溜まっているという。コミュニティの中心街には必要最低限の店はあるが,しゃれた洋服を売っているような店はない。
 また,乾燥砂漠地帯なので慢性的な水不足に悩まされている。モンスーンの季節(季節風がもたらす雨季のことで6月15日から9月30日)以外はめったに雨が降ることがない。そして厄介なのが砂嵐で,結構な頻度で発生するので,インディアン居留地では高級車を所有している人はいないという。
 ナバホ族の食べ物としてあげられるのが「フライ・ブレッド」である。「フライ・ブレッド」は,小麦粉,ベーキングパウダー,水,塩をこねて薄く広げたものをキツネ色になるまで揚げたものである。外側はサクサク,中はモチっとしていて,そのままちみつをつけて食べる。それ以外には,タコスのフライ・ブレッドバージョンである「ナバホ・タコ」がある。フライ・ブレッドに,ひき肉,豆,玉ねぎ,レタス,トマトを乗せた料理である。また,羊肉を使用した「ナバホ・シチュー」は,羊肉,ハラペーニョ,ジャガイモ,玉ねぎ,にんじん,コーン等を鍋に入れて,3時間ほど煮立たせ,そこに塩で味つけする料理である。

 ネイティブアメリカンで有名なキャラクター「ポカホンタス」で,彼女が身に着けているジュエリーが「ターコイズ」である。ネイティブアメリカンにとって「ターコイズ」はイメージカラーで,コミュニティの結束を固くする石として大事にされている。
 「ターコイズ」は 「幸せ」「幸運」「健康」をもたらすと言われている。インディアン居留地のフリーマーケットで「ターコイズ」ジュエリーを購入すると,驚くほどの安価で購入できる。日本では2万円から3万円で売られているネックレスが25ドルほどで手に入るという。

 ネイティブアメリカンのコミュニティで定期的に開催されるのが伝統舞踊の「パウワウ」(PAW WOW)で,無料でだれでも入場,見学,参加することができる。ダンスは女性と男性に分かれて,それぞれテーマに沿った衣装で踊りる。各々手作りの羽や鈴をつけた華やかな衣装を身にまとっている。
 男性のダンスでは,羽をクジャクのごとくふんだんに使った華やかな衣装を身にまとって踊る「ファンシー・ダンス」が人気,一方,女性は「イーグル・ダンス」とよばれる,羽織ったブランケットをイーグルのように振り回して踊るダンスや,「ジングル・ダンス」とよばれる衣装に鈴をつけたダンスが華やかで見ごたえがある。
 「ネイティブアメリカン」のコミュニティにも社会問題が存在する。それは貧困である。インディアン居留地には十分な仕事がないので,働きたくても働けない人が多い状況であり,また,貧困から派生するドラッグやアルコール中毒患者も少なくない。未だにギャング活動が活発な地域もあり,日中もカーテンを閉め切っている家がほとんどなのである。

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●アンティロープキャニオンの集団行動●
 申し訳ないが,このブログは旅のガイドではないので,アンティロープキャニオンに行く参考としてこれを読まれても,あまり意味がない。あくまで私の旅の日記である。
  ・・
 さて何だかさっぱりわからなかったが,多くの観光客がそうしていたから決してぼったくの怪しげなツアーではないだろうと,適当にツアーチケットを購入して,言われるままに車の荷台に乗り込んだ。荷台には私を含めて10人程度が乗っていたが,私以外は同じ仲間であった。話している言葉は英語でなかったし,何語かもわからなかったから,フランス語やスペイン語やドイツ語でなかった。東洋人でもなかった。入り込めなかったので,話しかけることもなく,その意味ではとてもつまらなかった。ひとり旅ではこういうこともままあるが,よいことは,たとえ満員であっても,ひとつくらいは余裕があるので,何とかなってしまうことが少なくないということだ。

 乗り込んだ車はなかかな出発しなかった。順番待ちをしているらしい。15分くらいだろうか,そのまま待機して,やっと動き出した。しかし,アンティロープキャニオンまでがまた遠かった。土の河原の上を延々と進んでいく。風でかぶっている帽子は吹き飛ばられそうだったし,揺れるし,まったくもって快適でなかった。
 車の走る通路もまた秩序がなく,前を走る車の後方をなぞるわけでもなく,かなり適当であったが,すごい勢いで飛ばしていた。運転手は毎日ここを走っているのだろう。そのうち,ようやく洞窟の入口に到着した。そこには,乗ってきたのと同じような車が数多く停まっていた。
 ここで車を降りた。この先は運転手のガイドに従って,集団で行動をするといわれた。

 アンテロープキャニオン(Antelope Canyon)はナバホ族の土地に位置するスロットキャニオン(幅の狭い渓谷)である。アンテロープキャニオンは2つの岩層から成り,個々にアッパーアンテロープキャニオンとロウワーアンテロープキャニオンと名づけられている。
 アンテロープキャニオンは,周囲の砂岩(ナバホ砂岩)の侵食によりできた何百万年にも及ぶ地層を形成していて,これは主として鉄砲水のほか,風成の侵食によってできた。特に,モンスーンの時期に降る雨水はアンテロープキャニオンの一部である谷間を流れ,より狭い通路を流れるにつれ水は加速して砂を拾いあげる。その後長い時間をかけて通路が侵食されると狭い通路は更に広くなり岩の鋭さはより滑らかにされて,岩の「流れる」ような特徴を形作る。こうして独特の岩の通路が完成された。
 夏の期間,アンティロープキャニオン頭頂の開口部から直接入射する太陽光の光芒が美しく見られる。観光客はそれを見たくてこの地を訪れるのだが,私は,何の想い入れもなく,何の計画もなく,ただ気ままにやってきて,この絶景に出会うことができた。いつもながらの幸運であった。

 モンスーンの時期には,思いがけず降る雨がすぐにキャニオンを水浸しにしてしまうので危険である。
 キャニオン近く及び真上から降る雨が激しい鉄砲水になるのではなく,キャニオンの「上流」となる数十マイル離れた場所で降る雨が突然キャニオンへ注ぎ込んでくるのだ。1997年8月12日,ロウワー・アンテロープ・キャニオンを訪れていた11人の観光客が鉄砲水の犠牲となる事故が発生したが,その日キャニオンにはほとんど雨は降っていなかったということだった。

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●ここは東南アジアか?●
 グレンキャニオンダムは国の重要なインフラなので,ビジターセンターのセキュリティが厳しく,金属探知機,ボディチェックがあり,カメラも持ち込めないと,私の持っている古い「地球の歩き方」の国立公園編に書かれてあったが,まったくそうしたことはなく,普通のビジターセンターだった。ダムの見学ツアーがあって,その呼び出しがはじまっていたし,遠く眺めたダムには人が集まっていたが,私は参画する気もなかったので,景色だけを見て,早々に引き上げた。
 再び橋を渡ってペイジの町に戻り,道路標示に従ってアンティロープキャニオンに向かった。私のイメージではずいぶんと奥深い場所にあるように思えたのだが,道路を走っていくと,その先の広場が,アンティロープキャニオン観光をする車の駐車場であった。

 私はどこに行くにも適当な目的地を決めているだけで,ほとんど下調べのようなことをしない。到着してから考えるという無謀な旅行をしていることが多い。さすがに事前に現地ツアーを予約しないと難しいときだけ,VELTRAで予約をしていく。
 これまでいろいろな現地ツアーに参加してわかったが,ツアーなど参加しないほうが自由度があることも多く,下調べやら考えすぎは意味のないことがほとんどである。行けば大概はなんとななるのである。このアンティロープキャニオンも,私は何の予備知識も持たず現地に着いたが,あとで「地球の歩き方」のアンティロープキャニオンを読んでみると,事前の予約が必要であるように思えてくる。また,ツアーがペイジの中心にあるパウエル博物館から出発していると書かれてあったが,私はそんなことも知らず,道路標示に従って,駐車場に行っただけであった。

 多くの国立公園がそうであるように,私は,駐車場の入口にゲートがあって,そこで入場料を払うものだと思っていたが,そんなことはまるでなく,係員が空いた駐車スペースへ案内していただけだった。私もそれに従って車を停めた。
 駐車場のかどにバラック小屋があって,そこでアンティロープキャニオンまで行くツアーのチケットを売っていた。混雑していたので,売り切れになると困ると思って,説明も読まず,ともかくチケットを購入することにした。
 いくつかの業者があるように思えたが,一番奥のものは中国人相手のもののように思えたので,一番手前の窓口に行った。お昼のツアーは売り切れと書かれていた。そうえいえば,アンティロープキャニオンはお昼の太陽が高いときだけ谷底に光が届くのでこの時間に行くべきだとあったのを思い出した。まあ,別にそれでなくてもいいや,と思ったが,購入したチケットの時間は11時出発とあった。11時ならツアーが1時間30分かかるから,ちょうどお昼じゃないか,これでいいじゃないかと思った。ツアー料金がいくらかなんていうこともチェックしなかったが,みんな参加するからぼったくりでもないだろうとは思った。いくらか忘れたが高いなあ,とびっくりしたのは覚えている。が,ここまできて行かないという選択肢はなかった。チケットの購入はクレジットカードで行ったが,今の時代,クレジットカードの番号を手で書き写していたのにはたまげたものだった。これもまた,後で知ったことだが,ガイドブックにはクレジットカードが使えない,とあった。しかし,ちゃんと使えたのだった。
 待っていると,11時発の人は車に乗ってくれ,という声がかかったので,乗り込んだ。車というのは,荷台を改造して座席をつけただけのものであった。興味がないので行ったことはないが,なんだかアメリカというより東南アジアのような感じであった。次第にわかってきたことに,アンティロープキャニオンはどうやらナバホ族が仕切っているようであった。つまり,この観光資源はナバホ族の資金であった。

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●何だ,この巨大なダムは!●
 アメリカの観光といえば,ニューヨークとかサンフランシスコとかの大都会とグランドキャニオンのような大自然であろう。私は,今から40年ほど前にそうしたところに出かけたが,当時のアメリカはどこものどかであった。
 飛行機に乗るのも,セキュリティなんてあったのかなかったのかほとんど覚えがないけれど,今のように空港がごった返していることもなかった。当時,飛行機の機内は映画館のようなもので,中央に大きなスクリーンがあって,乗客がみな同じ映画を見た。帰りの機内では,配られる日本の新聞を取り合った。
 しかし,アメリカの大都会のダウンタウンはどこも腐敗し,犯罪の巣窟で危険だった。古びたレンガ造りの建物や壊れた水道管から水があふれていたり,ニューヨークの地下鉄は落書きだらけだった。それでも,観光するには今のような混雑もなかったから,その日のツアーに朝申し込んで,そのまま自由の女神に登ることもできた。ワシントンDCへ行けば,ホワイトハウスに入ることもできた。「思い出は美しすぎて」という八神純子さんの歌のように,まさに,よき時代であった。
 それに比べたら,今は,どこに行っても人と車だらけ。しかも,いつも書いているように「自撮り棒を持って黒色のガラスの入ったサングラスをかけて大声を出す」某国の観光客の一団がバスで大挙して観光地にやってきてお金を使いまくるという状況が世界中に見られるのだから,昔のようなのどかな海外旅行は望むべくもない。これから旅をしようと考えている若者には気の毒な限りだ。

 私がこの日観光をしているのはグランドキャニオンとモニュメントバレーの間にあるレイクパウエルという場所だったから,いわば,アメリカ大自然観光の初心者コースである。だから,どこへ行っても人と車だらけであった。
 はじめてアメリカの大自然を見にきたのならそれでも感動するだろうが,私は,混雑がたまらなく嫌いなので,この日に行こうと思っていたのは,まだ来たことのなかったホースシューべンドとアンティロープキャニオンだけで,それ以外の場所に行く情熱はもはやなかった。 
 アンティロープキャニオンは太陽の光が谷底に届くお昼間に来るのがよいということだったが,まだそれには時間が早かったのと,途中にグレンキャニオンダム(Glen Canyon Dam)があるというので,アンティロープキャニオンに行く前に寄ってみることにした。
 ホースシューベンドを出て北に向かって走っていくと,ペイジ(Page)という変わった名前の町に着いた。こんな場所にこれほどの大きな町があるのは意外であった。この町はグレンキャニオンダム関係者の居住区としてできたところだという。

 朝食をとっていなかったので,まず,交差点の角にあったマクドナルドに入って朝食をとった。
 マクドナルドを出て,グレンキャニオンダムへ向かった。コロラド川にかかった巨大な橋を越えたところにビジターセンターがあった。ビジターセンターのなかに全面ガラス張りの窓があって,そこからグレンキャニオンダムが一望できた。
 それにしても,何という巨大なダムであろうかと思った。このダムは,高さ216メートル,幅475メートルで,1956年から1964年にかけて作られた。私は日本の観光地には興味がないので行ったことがない(観光客だらけでうんざりするのは行かなくても想像できる)黒部ダム(通称「黒四」=黒部川第四発電所ダム)は,グレンキャニオンダムと同時期の1956年に着工され1963年に完成したが,高さが186メートル,幅492メートルだから,それと同規模である。アメリカ大恐慌の対策として1936年に作られたラスベガスの東にあるフーバーダム(Hoover Dam)には予想以上の土砂が含まれていてこれがレイクミードの湖底に沈殿してしまった。そこで上流につくられたのが,このグレンキャニオンダムであった。
 しかし,「グランドキャニオンより美しい」と称えられたグレンキャニオン渓谷は,このダムの建設によって,地上から姿を消してしまったのだった。

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●もっと山の奥かと思ったが…●
 ホースシューベンド(Horseshoe Bend)はコロラド川が蹄鉄(horseshoe)の形に穿入蛇行している場所の名前である。この場所から眺めて,川の左手つまり南に行ったところがグランドキャニオンで,右手つまり北に行ったところがグレンキャニオンである。
 ホースシューベンドはグレンキャニオンダムとパウエル湖から下流に5マイル(8.0キロメートル),グレンキャニオン国立レクリエーションエリア内のページという町からは南西に約4マイル(6.4キロメートル)行った場所に位置している。見落としは海抜4,200フィート(1,300メートル),コロラド川は海抜3,200フィート(980メートル)である。岩の形が馬の蹄鉄の形に似ていることからそうよばれている。
 ホースシューベンドの展望台に行くアクセス道路の入口には駐車場こそあるが,特にビジターセンターがあるわけでもない。以前は道路際に看板すらなかったため,知る人ぞ知る秘境の地だったというので期待したが,今は,南から走ってくると,州道64にはちゃんと道路標識があるので見過ごすこともないし,駐車場は大賑わいで観光地化されてしまっていて落胆した。

 有料の広場のような駐車場に車を停めて,道路とは反対の小高い山のほうに向かって歩いたが,一向に何も見えなかった。広がっているのは360度の平原だけで,このさきに目指す目的地があるのかと疑問になるほどだった。15分くらい進むと一番高いところまできて,そのはるか先に多くの人が集まっている場所があった。どうやらそこがホースシューベンドらしいのだが,周りが広すぎて遠くからではよくわからなかった。写真ではホースシューベンドだけがアップになっているから巨大に思えるし確かに巨大なのだが,それよりも平原が広すぎるのだ。私は,もっと山の中の峠のような場所だと思っていたから拍子抜けした。というより,イメージと違いすぎた。
 行ったことはないから本当のことは知らないが,噂では,ケニアのマサイマラ国立公園や,エジプトのピラミッドも,写真では大自然のなかにある雄大な構図ばかりだが,その反対方向を見ると町があったり遠くにビルが立ち並んでいてがっかりするという話だ。
 さらに進んでいくと,ホースシューベンドが見えてきた。
 展望台があった。いろんな本には何も柵はないと書いてあったが,実際は金網の柵があった。おそらくその昔は何もなかっただろう。そのころは気を許すと崖から谷底に落ちるのも困難なことではなかっただろう。

 しかし,柵があるのは展望台だけで,展望台から離れると柵はなくなり,しかも,係員もいないので,飛び込もうと駆け下りようとどうしようと本人次第であるのがまた,アメリカらしいというか。もうこれ以上は行けない! と思うような先端の限界に寝そべってポーズをとっていた中国人の女性がここにもいて,さらにその女性を写すカメラマンがいて,それをはやし立てる観光客がいたりした。
 私が行ったときは見られなかったが,はるか下を流れるコロラド川に小さなボートを見かけることがあるという。それはコロラド川の半日ラフティングツアーで,そのツアーに参加すると下からホースシューベンドを見上げて眺めることができるそうだ。さらには,上空からホースシューベンドを見下ろすヘリコプターツアーもあるという。
 まったく対象は違うが,昨年の春3月に行ったオーストラリアのエアーズロックを展望台から眺めるのとよく似た感じであった。
  ・・
 多くの観光客がいたが,私が到着したころは,それでも落ち着いた雰囲気だった。しかし,そのうち,例のおなじみの「自撮り棒をもってサングラスをかけ声のでかい,そしていつも集団でやってくる」某国のツアー客が大挙して現れて,雰囲気が一変してしまったのが残念なことだった。

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●「どんな写真で見ても実物は違う」●
 ホースシューベドもアンテロープキャニオンも,具体的にどこにあるのかよく知らなかったが,ともかく,フラグスタッフから北に走っていけば着くらしいから,昨日で目的を達成した私は,足をのばしていってみることにした。
 羽田からロサンゼルスの飛行機で隣の席になったのは,ロサンゼルスの住んでいるという女性であった。私は若いころは海外,特にアメリカに住むことに憧れたから,こういった女性がとてもうらやましかったが,いろいろな場所を旅するうちに,そういった憧れはまったくなくなった。
 さて,その女性に,ホースシューベンドに行くと話したら,彼女は「どんな写真で見ても,それと実物は違う」と妙なことを言ったので,それがずっと気になっていた。
 
 早朝宿泊先のモーテルを出発してフラグスタッフのダウンタウンを走るオールドルート66を東に走り,町の外れでインターステイツ40と合流するオールドルート66と別れて,国道89を北上していくことになった。国道89に入ると片側1車線になった道路はのどかな森の中を進んでいくことになった。
 途中にキャメロン(Cameron)という町があって,そこの交差点を左折して州道64に行けばグランドキャニオン国立公園のサウスリムなのだ。だから,このときもグランドキャニオンに寄ることもできたわけだが,この時の私の頭にはホースシューベンドとアンティロープキャニオンに行くことしかなかったから,グランドキャニオンは通り過ぎた。
 帰国してから改めて位置関係を調べると,グランドキャニオン国立公園のサウスリムとノースリムはコロラド川の対岸にあるのだが,橋が架かっているわけではないからそこに行くためには大きく迂回する必要があるわけで,私は19年前にこの道を走ったことがあるのだった。
 道の両側にナバホ族の開いている売店があったり,ナバホの人たちの家が続いていた。この日は,キャメロンをそのまま北北上して,ビッタースプリングス(BitterSprings)まで来た。そこで,道が二股に分かれて,左側に行くとグランドキャニオン国立公園のノースリム,右に行くと私のめざすホースシューベンドなのであった。それにしても,このビッタースプリングスというのは不可解な町で,ほとんど車も通らないのに道が片側2車線になるし,2車線になったのに,制限速度が遅くなった。

 ビッタースプリングスを過ぎるとそれまで平原だった道が山道になった。私は Google Map をナビゲーターにして走っていたから道に迷うことはなかったが,以前のように地図を頼りに走っているのと違って,どこをはしっているのかさっぱりわからなかった。
 やがて,左手に駐車場が見えてきた。そこがホースシューベンドの駐車場であった。入口で料金を払って車を停めた。それほど混雑していなかったが,こんな広い駐車場のある場所にホースシューベンドがあるなんてとても信じられないないようなところであった。
 車を停めて,その先の小高い山を登っていった。ずっと進んでいっても,依然としてあるのは道だけ,そのさきにホースシューベンドがあるとはとても思えなかった。私は朝早く来たので大丈夫だったが,日差しがきつく,それこそ真夏に来たらたいへんな場所だろうと思ったことだった。

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●けっこう行くのが大変なのだ。●
 19年前の2000年。当時は今ほど知識がなくインターネットも普及していなかったから,海外旅行といえば,旅行会社へ行って航空券を買ったりホテルを予約したり,あるいは,現地で宿泊地を探したりしたから,今から思うと雲泥の差があった。それでも私は旅慣れていると思っていたから,レンタカーを借りて,ロサンゼルスからラスベガスを経由してグランドキャニオンのサウスリム,ノースリム,さらには,モニュメントバレーまで行った。
 そして,5年前の2014年。今度はアイダホ州のマウンテンホームからユタ州のザイオン国立公園,ブライスキャニオン国立公園,キャニオンランズ国立公園,アーチーズ国立公園へ行った。
 この2回のドライブで,私はアメリカの主だった国立公園はすべて知ったような気になっていたのだった。ところがその後,テレビの旅番組や雑誌の特集でこの地域のことが取り上げられると,ホースシューベンドやらアンテロープキャニオンやらと,私が行ったことがない場所が出てくるではないか。そこで私はまだ知らないところがあることを認識して,そうした場所に何とか行ってみたいと思ったが,以前ほどの情熱もなくなっていた。この旅でフラグスタッフに行くと決めたとき,行ってみたいと思っていたホースシューベンドやアンテロープキャニオンがフラグスタッフから車でわずか2時間足らずで行くことができることを知ったのだが,それでも行くと決めていたわけではなかった。

 ところで,「ザ・ウェーブ」(The Wave)というところがある(らしい)。「ザ・ウェーブ」の写真を見ていると,アンテロープキャニオンと似ているので,私はこのふたつを同じものだと思っていた。私がこの「ザ・ウェーブ」を知ったのは,以前サウスダコタ州に行ったときに1日観光を世話してくれた日本人のガイドさんが,後日「ザ・ウェーブの抽選が当たった!」とブログに書きこんだのを読んでからだった。しかし,調べてみても,この「ザ・ウェーブ」というのがどの国立公園のことなのかさっぱりわからなかった。そこでよく似たアンテロープキャニオンを「ザ・ウェーブ」だと混同してしまったということであった。
 そこで,今回もまた話は横道に逸れるが「ザ・ウェーブ」について書いておくことにする。

  ・・・・・・ 
 「ザ・ウェーブ」というのは,ラスベガスから300キロメートルほど行ったアリゾナ州バーミリオン・クリフ国定公園(Vermilion Cliffs National Monument)のコヨーテ・ビュート(Coyote Buttes Permit Area)にある砂岩の層のことである。世界一の絶景といわれる。
 「ザ・ウェーブ」が秘境中の秘境といわれるのは,その圧倒的な造形美だけでなく,1日当たりの立ち入り人数が20人に制限されているということにある。手に入れるのが困難であればあるほど欲しくなる,という相乗効果を生んでいるわけだ。渦まく波のような砂岩の層「ザ・ウェーブ」は,砂丘が固まってできた岩を鉄砲水がえぐり,鉄を多く含む地層が露出することでできた。この大自然に刻まれた不思議なグラデーションはここが地球と忘れてしまうほどの神秘的な空間だという。
  ・・
 許可証を取得するには,1日10人を選び出すオンラインと現地の10人の抽選がある。この合計20人限定の許可証が取得できたとしても,実際に行くのがまた大変だ。最寄りの街から舗装された道路を30分から60分走ったのち,さらに未舗装道路を30分から60分走る。そして,そのあとは往復3時間のトレッキングが待ち受けているという次第なので,簡単に辿り着けるところではないのだ。また、天気によっては辿り着けないこともあるという。1月から2月は20人も応募がないそうだから穴場であるが,ハイシーズンの5月,10月は競争率5倍の100人近くになるという話である。
 未舗装道路というのは厄介で,レンタカー会社によっては禁止されているし,4WDが推奨されているそうだ。また,ガイドを雇うと1人当たり100ドル以上するそうだから,私のようなひとり旅では行くのが難しい話である。
  ・・・・・・

 そんなわけで,私は今回行くアンテロープキャニオンを「ザ・ウェーブ」だと思って行ったことにしようと自分を納得させることにした。
 2019年3月に行って偶然登頂できたオーストラリアのエアーズロックといい,むりやり4,200メートルを車で登ってしまったハワイ島のマウナケア山頂といい,旅というのは,行きたいと思い込んでしまってもそれを実現するのは大変なのである。

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●懐かしのヴァリグ・ブラジル航空●
☆3日目 2019年6月27日(木)
 この旅で,フラグスタッフには3泊するが,到着した日は夕方で出発の日は朝が早いので,実質,観光ができるのは2日間である。その1日目であった昨日,フラグスタッフに来た目的,つまり,バリンジャー隕石孔とローウェル天文台,そして,フラグスタッフの町の散策は昨日にすべて実現した。そこでこの日は,フラグスタッフから北に,ホースシューベントとアンテロープキャニオンに行くことにした。それを決めたのは,この旅に来る少し前のことで,もともとはそんな予定はなかったのだった。

 19年前のゴールデンウィークのことである。
 ちょうどその年は2000年問題とかでかまびすしく,フライトの予約がなかなかできないという年であったし,しかも,ゴールデンウィークの旅行ということで,今よりずっと旅行費が高くついたが,それでも,往復15万円程度の名古屋とロサンゼルスのヴァリグ・ブラジル航空の往復航空券をHISで手に入れて,知人に誘われて,ロサンゼルスから車でラスベガスを経由してグランドキャニオンとモニュメントバレーを旅したことがあった。今とは違って,ネットで旅行の手配などできなかったし,名古屋にはセントレア・中部国際空港もなかったが,今より便利だったのは,小牧にある名古屋空港とロサンゼルス間にヴァリグ・ブラジル航空の直行便があった。
 …ということだが,これを書いていて当時のことが懐かしくなったので,ここからは余談を書く。そのころは何の知識もなかったが,今調べてみると結構興味のある話がたくさんあるものだ。そして,歳をとってみると,こうした懐かしい思い出をたくさんもっているのは,「仕事人間」でなかった私のもつ財産だとしみじみ思う。

  ・・・・・・
 ヴァリグ・ブラジル航空(Viação Aérea Rio-Grandense S/A)は「かつて」ブラジルに存在していた航空会社である。1927年創業のブラジル最古の国際航空会社で,ブラジル国内のみならず南アメリカで長年の間最大規模も誇っていた。「Viação Aérea」は航空会社を意味し「Rio-Grandense」はヴァリグの発祥地である「リオグランデ・ド・スル州(Rio Grande do Sul)の」という意味であった。
 日本への乗り入れは1968年からで,サンパウロ発リオ・デ・ジャネイロ,リマ,ロサンゼルス経由で羽田空港まで運航された。その後,リオデジャネイロよりサンパウロ,ロサンゼルス経由で週4便を成田国際空港に,週3便を名古屋空港に乗り入れていた。1往復するだけで2万マイルを超える世界有数の長距離路線であった。
 ヴァリグ・ブラジル航空は,拡大路線により1990年代前半まではブラジルの国内線で1位のシェアをもっており,国際線においてもオセアニアを除くすべての大陸にその路線網を広げていた。しかし,2001年に発生したアメリカ同時多発テロ以降ブラジル人にアメリカのトランジットビザ取得が義務付けられたことから乗客数が激減し,2004年には名古屋線から撤退,その後,成田線も乗客が激減したことで撤退した。さらに,ヨハネスブルグ経由香港線やバンコク線,コペンハーゲン線など採算の悪い長距離路線を燃料効率の悪いボーイング747-400などの大型機で運航するほか,激しい労働組合活動による高コスト体質を改善できなかったことや国内の幹線にローカル航空会社や格安航空会社が次々と参入してきたことから,2005年に倒産してしまった。

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