しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:ヨーロッパ > エストニア

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 それにしても不思議なのは,2017年というから,今からわずか4年前まで,私は,ヨーロッパに興味がなかったことです。若いころに,歳をとってアメリカをドライブするのがたいへんになったら,ヨーロッパを鉄道で旅しようとおぼろげに夢見ていただけでした。
 私が今のように,オーストリアやフィンランドを身近に感じられるようになったのは,わずかここ3年のことでした。この間にずいぶんとヨーロッパを旅行したのです。しかも,2020年以降は海外旅行もできなくなってしまったから,本当に,たくさん旅をしておいてよかったものです。
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 ヨーロッパに興味を向けたそのきっかけはアラスカへ行ったことでした。
 2017年8月21日アメリカ横断皆既日食がありました。私はそれをアイダホ州で見たのですが,その帰路に立ち寄ったのがアラスカでした。幸運にもアラスカで思いもよらずオーロラを見ることができてすっかりはまってしまい,ならば,ということで,翌年2018年2月に冬のオーロラを見にフィンランドへ行きました。これでヨーロッパに行くことを覚えました。
 さらに,NHKEテレの「旅するドイツ語」という番組でオーストリアを取り上げていたのを見て,かなり感化されてオーストリアへも行き,そしてまた,なぜかアイスランドにも行き,さらに,フィンランドのヘルシンキへ行き,そのついでにエストニアのタリンに足をのばした,という流れなのでした。
 そもそも,私がアイスランドやエストニアに行くとは自分でも思いませんでした。エストニアに行った動機ののひとつには,NHK交響楽団の首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィさんがエストニアの出身ということもありました。しかし,私がエストニアに行ったといっても,単なる日帰り旅行であり,しかも,行った先は,首都タリンの歴史地区だけですから,これでは,本当のエストニアの姿を知っているとは到底いえません。

 2021年は「日・エストニア友好100周年」ということで,これを記念して,NHK交響楽団の6月公演でパーヴォ・ヤルヴィさんが久しぶりに指揮をしました。そこで,これを機会に,エストニアについて調べてみることにしました。
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 エストニアは1918年にロシアからの独立を宣言し,日本は1921年にエストニアを国家として承認しました。しかし,エストニアは1940年に再びソ連に併合されます。1990年にやっとソ連からの独立回復を宣言し,日本は1991年にエストニアを改めて国家承認しました。
 エストニアには,こうした悲しい歴史があるのです。
 日本は植民地にこそなりませんでしたが大国ロシアのとなりである条件は似たようなものです。フィンランドもまた同様です。しかし,それにしては,日本人は,こうした諸国のことをあまりに知りません。

 今,多くの日本人がエストニアに関して知っていることといえば「電子国家」だそうです。私は民放をまったく見ないので知らなかったのですが,民放の番組か何かで取り上げていたそうです。
 私は,半日ほどタリンの観光地を巡っただけなのでクレジットカードしか使わなかったのですが,エストニアを歩き回ろうとすれば,まずは,空港に着いたときに,真っ先にコンビニ「R-kiosk」に行って,Suicaのようなものを買ってチャージしないと不便なのだそうです。タリンの市民はIDカードを持っていて,このIDカードだけで公共交通機関に乗ることができて,電車だと改札もなく,乗っていると車掌さんが来て,ひとりひとりIDカードをピッとして回るそうです。
 観光客は当然IDカードがないので,こうしたカードを購入する必要があるわけです。しかし,チャージするためには「R-kiosk」の店舗に行かないとダメで,自動券売機はないし,「R-kiosk」の店員さんは冷たく英語もしゃべらないとか。カードを自分でガシャッと入れて暗証番号を打つというのは,ほかの国でも同じですが,旅行者にとれば思ったほど「電子国家」という感じはしません。とはいえ,エストニアの国民には「電子国家」は身近な存在です。

 日本にも「マイナンバーカード」が導入されましたが,税金をとりっぱぐれないのが本音で,セキュリティにも疑念のある腹黒い日本のシステムではうまくいくわけがありません。
 一方,エストニアの「電子国家」の特徴は,「安全で信頼できる個人情報管理」ということだそうです。まあ,いろいろな国に行った私が思うに,日本だけがITに関していろんな面で諸外国と違うというか遅れている感じがします。日本では,個人情報やその認証を安全に電子化できていないことが問題なわけです。
 「安全で信頼できる個人情報管理」というのは,エストニアの国のもつ歴史から来るものということです。エストニアの個人情報銀行を支える技術は「X-Road」です。これは分散したデータベース間の情報共有を安全に行う技術で,エストニア科学学会(Academy of Science of Estonia)が設立した Cybernetics 研究所を前身とするエストニアの企業 Cybernetica が導入したものです。
 エストニアが独立を回復したときに,大きなデータベースを作るお金がなかったので,分散したデータベースを結合する方法をとったのがそのはじめということですが,作りがぞんざいだったために,独立した後もロシアからのハッキングに悩まされたそうです。これを教訓として,この「安全で信頼できる個人情報管理」が国としての安全性を高めているのです。

 1918年にロシア帝国から独立した2月24日はエストニアの独立記念日です。
 しかし,エストニアにはもうひとつの独立記念日があります。それは,再びソ連に占領され,1991年8月20日にソ連から独立を回復した日です。エストニア民族の歴史は凄惨なのです。この8月20日に毎年ラウルピドゥ(Laulupidu)というイベントが行われ,コイト(Koit=夜明け)という歌が歌われます。これは,自由を獲得したエストニア人のこころの叫びで
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 It's dawn, a royal blaze light's victory wakes the earth.
 The horizon is free, the first ray is falling to the ground.
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 それは夜明け,王の言霊。
 大地を呼び起こす勝利の光。
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と歌います。ロシアの圧政から逃れたフィンランドの「フィンランディア」のようなものでしょう。そしてまた,「電子国家」はエストニアが独立を守り抜くための知恵なのです。
 それにしても,大国ロシアの陰で,エストニアやフィンランドなど周辺の多くの国が,そしてまた,多くの人たちがその苦悩の中で生きてきたという歴史の重みは,私のこころを苦しめます。


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 まさに奇跡的な話です。
 新型コロナウィルスの流行で当分海外旅行ができなくなってしまいましたが,私は,ここ数年,何かにとりつかれたように年に6回も7回も海外旅行に行きまくり,行きたいなあと思っていたところにはすべて行くことができました。おまけに,この2年ほどは日本にも目が向いて,一度は行ってみたいと思っていたところに行きました。
 海外に出かけた最も近いところは,2020年2月に出かけたハワイ・モロカイ島でしたが,モロカイ島もまた,ぜひ行ってみたかったところだっただけに,ぎりぎり間に合いました。国内では,余部鉄橋や親不知海岸でしたが,これもまた,今年の春,行くことができました。
 この先もいろいろなプランはあったのですが,それらは,ある意味,特に行きたかったところというより,無理やり行くところを探していたような感じもあるので,行けなくて残念というほどの思いはありません。
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 ということなのですが,オーストラリアやフィンランドなどのヨーロッパ諸国にもここ2年ほど何度も行って,しかも,なぜかそれまで何の関心もなかったエストニアにも行きました。私が行ったのはエストニアの首都タリンですが,ここはおとぎ話に出てくるような町でした。アメリカやヨーロッパのウィーンなどに比べると,少し貧しい雰囲気がありましたが,それもまた素朴で,日本の田舎にいるような安らぎを覚えました。
 私がよく聴きにいくNHK交響楽団の現在の首席指揮者はパーヴォ・ヤルヴィさんですが,パーヴォ・ヤルヴィさんの住んでいるのがエストニアであるということすら,恥ずかしながら認識していませんでした。どうしてパーヴォ・ヤルヴィさんがドイツ音楽や北欧の音楽,さらにロシアの音楽までも精通しているのか不思議でした。しかし,実際行ってみると,エストニアという国は,バルト海を渡ればシベリウスの住んでいたフィンランドだし,ロシアとは国境を接しているし,その地理的な位置がヨーロッパのすべての文化の交流点のような場所であるということがとてもよくわかりました。

 6月7日にNHK Eテレで,今年3月に行われたNHK交響楽団のヨーロッパ公演でのエストニアでの演奏会が放送されていました。私は,それを見て,とても懐かしくなりました。今も目をつぶるとエストニアのタリンの様子が浮かんでくるようです。
 NHK交響楽団がヨーロッパ公演を行っていた時期は,日本で新型コロナウィルスが問題となりはじめていたころだったのですが,まだ,ヨーロッパではほとんど他人事のような時期で,そのため,NHK交響楽団のメンバーの人たちが twitter で,ヨーロッパで写した多くの写真を発信しているのを見て,あらまあ,と思っていました。そして,メンバーが公演を終えて日本に帰国したときには,まだ浦島太郎状態,日本での深刻さがわかっていなかったようで,成功裡に終わった公演の余韻がたくさんアップロードされていました。
 であるのに,何ということでしょう。NHK交響楽団の演奏会は,このときの公演をもって,それ以降は,今もすべて中止となっています。ヨーロッパ公演がぎりぎり間に合ったことは幸いで,今ではそれは「奇跡の公演」とまでいわれているのです。

 こうしたさまざまなことがあったので,今,エストニアでのすばらしい演奏会をテレビで見ると,いろんなことを思い出します。ふつうに海外旅行をしふつうにコンサートに行くことがこれほど幸せなことだったのか,ということを,そんなふつうなことさえできなくなった今になって,強く感じます。
 1日も早く,再び,海外に出かけたり,コンサートを聴きにいったり,そんなあたりまえだったことが何の憂いもなくできる日がきますように。

日帰りのエストニア観光もまた,思った以上に楽しいものとなって,私は,ヘルシンキに戻ってきました。偶然,エストニアで出会った人と親しくなって,タリンではちみつ入り黒ビールを飲んでいたときに,ヘルシンキに戻ったら飲みに行こうという話になりました。こんな幸運なことはありません。ヘルシンキというのは個性派バーでのナイトライフが有名だとかいう話ですが,それだけはひとり旅の私に無縁のものだと思っていました。それが,望外なことに実現するのです。
調べてみると,アテリエ・バーというのが有名だとか。そこで,そこに行くことにして,夜の9時に待ち合わせをしました。フェリーを降りて,急いで待ち合わせ場所に急ぎました。

アテリエ・バーは地上14階建ての高層ホテル「ソロ・ソコス・ホテル・トルニ」の屋上にあって,そこからはヘルシンキの夜景が一望できるという話でした。
エレベータに乗って最上階をめざしました。エレベータを降りると,バーはさらにその上でしたが,この上にバーがあるとは思えないほどの非常階段のような急な階段がありました。疑心暗鬼で上っていくと,上り切ったところにバーがありました。とはいえ,日本の都会にあるようなデラックスなラウンジではなくて,単なる喫茶店のような感じで,室内はさほど広くありませんでした。カウンタで飲み物を注文して,それを受け取って座席に行きます。外に出ることもできて,確かにそこからはヘルシンキの夜景が一望でした。
とはいえ,日本のような夜景とは違って,というより,日本の夜景が異常なのですが,白い街灯が続いているだけのものでしたけれど,私はこうした夜景のほうがずっと落ち着きます。はじめにビールを飲んで,その次に,このバーお勧めのカクテルを飲みました。
こうして,今回のフィンランドの旅は何から何まで思っていた以上の時間を送り,最後の夜が終わりました。

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帰りのフェリーの時間が近づいてきたので,フェリー乗り場に向かうことにして,旧市街を来るときは通らなかった道を急ぎました。もう夕方だったので,来たときの混雑もなくなって,また,別の姿を感じることができました。美しい旧市街がこれだけ便利な場所にあれば,世界中から観光客が増えてくるというものです。そして,帰国してから,エストニアはいいところだったよ,と話すから,これが口コミとなって,さらに観光客が増す,ということになります。行くなら今のうちでしょう。
しかし,外国から日本に来る人も,京都に惹かれてやってきても,その深い歴史や文化にに詳しい人は多くないことでしょう。それと同じように,私は,タリンの歴史や文化を習ったことがないので,よく知りませんでした。私は来てみて,もっといろんなことを知りたいなあと思いました。そうすれば,そのよさをもっと理解できたのに,残念なことでした。

フェリー乗り場は,ヘルシンキに戻る人で一杯でした。日帰りでヘルシンキから観光で来た人に加えて,物価の安いエストニアに,特にアルコールを買いに来るフィンランド人がたくさんいるそうです。やがて,フェリーの乗船時間になったので乗り込みました。帰りはビュッフェを予約してありました。
ビュッフェが開くのを少し待って,ビュッフェに入りました。入口で,ビュッフェの予約チケットを持っている人と持っていない人で列がふたつあったのですが,どちらの列がそうなのか,表示がフィンランド語だけでよくわかりません。私のうしろにならんでいたのがマレーシアから来たという家族連れで,彼らも戸惑っていました。そうしたら,その家族のなかの高校生の女の子がスマホを取り出して,翻訳ソフトで解読をしました。こういうことをさりげなくすることができるのが日本との教育の違いだなあ,と私は思いました。彼女は,今はスマホがあれば何でもできるよ,と言っていました。
ビュッフェは予想に反して空いていて,並ばなくても,いくらでも座席も食べ物もありました。
来るときはずっとラウンジにいたので船内の様子もしらなければ,外の景色を見ていませんでした。そこで私は,食事を終えてから,まず,船の中を探検しました。船内にはカジノもあり,ショーをやるステージもあり,個室もありました。一般席はやはり込み合っていました。
やがて,夕日が沈みかけているのが見えたので,甲板に出てバルト海のはるか彼方に夕日が沈んでいくのを眺めていました。やがて,海の対岸にヘルシンキの街並みが見えてきました。

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タリンの旧市街は城郭のなかにあって,徒歩圏内,歩いてまわることができるくらいの広さでした。旧市街の中心に広場があって,その向こうがお城の高台になっていて,そこに登ると市街地を見渡せます。なにせ私は,タリンの旧市街が美しいということを聞いてやってきただけで,タリンの歴史も見どころも何も知らないので,外見からほんとうにすてきな町だなあと思って歩いただけで,その町の本当のところがわかりませんでした。
常日頃,日本の旅はこころでするものだといいながら,海外に出かけてこんなことでは情けないありさま。これでは真逆です。それは,昨年ウィーンに行ったときも同様で,私は学生のころ世界史をほとんど勉強しなかったので,ウィーンの歴史も何もわかりませんでした。私にとって唯一の救いはクラシック音楽に詳しかったことでした。しかし,ウィーンに行ってみて,ヨーロッパの歴史にとても興味がわいたので,その後,ずいぶんと本を読んだおかげで,詳しくなりました。エストニアもまた同様で,帰国後にその歴史を調べることとなりました。

この日は,旧市街をくまなく歩きまわり,見どころと思える場所に順に入ってみました。ある教会の塔に登っていると,後ろから背の高い日本の人が急ぎ足で上がってきました。話をしてみるとなんと日本人。帰りの船の時間が迫っているので急いでいたということでした。その場で少しおしゃべりをして一緒に写真を撮って別れました。
私はその後,塔を降りて引き続き旧市街を歩いていると,今度は日本大使館がありました。現在,NHK交響楽団の首席指揮者であるパーヴォ・ヤルヴィさんがこのタリンの出身で,また,大相撲の大関だった把瑠都関も現在故郷のエストニアで国会議員をしているとかいう話で,エストニアという国はとても日本になじみがあるのです。
しゃれたお店でお昼をたべてしあわせな気分でさらに歩いていると,再び,先ほど教会の塔で会った人に再び会いました。タリンが思ったよりもすてきな町だったので,帰りの船を変更したという話でした。再会を祝し,これも何かの縁だと祝杯を挙げることにして,一緒にカフェに行って,はちみつ入り黒ビールなるものを飲みました。こうして,思いがけない場所で,あるひとりの日本人と意気投合して話し込んでいるうちに,タリンでの時間があっという間に過ぎて行きました。

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今日はエストニアの首都タリンについてです。

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タリン(Tallinn)はエストニア語で「デンマーク人の城」という意味だそうです。人口約42万人で,中世にはハンザ都市のひとつとして栄えた港湾都市です。「ハンザ」とは古高ドイツ語(Althochdeutsch=古ドイツ語のうち第二次子音推移が生じた地域のドイツ語)で,現代のドイツ語の 「ハンゼ」(Hanse)のことで,「団体」を意味します。もともと都市の間を交易してまわる商人の組合的団体を意味します。「ハンザ=同盟」なので世界史で習う「ハンザ同盟」はおかしな訳となり,二重表現となります。
中世のヨーロッパでは,都市同盟が重要な役割を果たしました。周辺の領主に対抗するため独立意識の高い諸都市が連合し皇帝や国王も都市連合を意識して権力を行使しなければならなかったわけです。そのなかでも,いわゆる「ハンザ同盟」は規模と存続期間において群を抜いていました。

1050年,今日トームペア(Toompea)と呼ばれるタリンの中心部の丘に最初の要塞が建設されました。トームペアとはドイツ語で「聖堂の立つ丘」を意味します。13世紀初頭,この場所はドイツ騎士団とデンマーク王らによる北方十字軍によりロシアとスカンディナヴィア結ぶ軍事戦略地点として着目され,また,ノヴゴロドと西欧を結ぶ中継貿易で繁栄を築きました。1219年,デンマーク王バルデマー2世が十字軍を率いて侵攻し,ここにトームペア城(Toompea loss)を築きました。これが「タリン」の名の由来となったのもです。1285年にハンザ同盟に加わりましたが,タリンはハンザ同盟都市としては最北に位置します。
第二次大戦後独立を果たしたエストニアは,ソビエト連邦の崩壊後資本主義社会へ移行し,EU加盟などを機に経済は大きく変貌を遂げています。とりわけ,隣国フィンランド企業のタリンへの進出が盛んで,百貨店のストックマンがショッピングモールを開業させたり,北欧資本のホテルの開業も相次いでいます。IT産業の盛んなエストニアで,タリンは「バルト海のシリコンバレー」ともよばれ,実際に,タリンはカリフォルニア州のシリコンバレーの都市ロス・ガトスと姉妹都市になっています。

旧市街は下町のローワータウン(Lower Town)と山の手のトームペアから成ります。
ローワータウンは、城壁など欧州でも最も保存状態の良い旧市街地のひとつです。そこにあるのは, ラエコヤ広場,旧市庁舎,市議会薬局,聖ニコラス教会,聖霊教会,グレートギルド会館,聖オラフ教会,太っちょマルガレータ(1529年に建てられた砲塔),三人姉妹の家,聖ミカエル修道院などです。
また,山の手のトームペアは石灰岩でできた丘で,トームペア城,アレクサンドル・ネフスキー聖堂,トームキリク,キーク・イン・デ・キョクの塔(Kiek in de Kök)など歴史的建造物が多い地域です。
タリンへは,ヘルシンキ,オーランド諸島,ストックホルムなどからフェリーの定期便が運行されています。

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今回エストニアの首都タリンに行くまで,この国のことなどまったく知りませんでした。NHK交響楽団の首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィさんがこの国の人だということすら,最近知ったばかりでした。さらに,この国は大相撲の大関だった把瑠都関も出身なのですが,そのこともまったく興味がありませんでした。
この国を訪れるのに,そんなことも知らないのは失礼なので,調べてみました。それにしても,まさか,私がエストニアに行くとは思ってもみないことでした。そしてまた,こうした歴史ある国のことをあまりに知らないわが身を恥じました。

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エストニア共和国(Eesti Vabariik)は,面積が九州の1.23倍,人口132万人。エストニア,ラトビア,リトアニアという「バルト3国」のひとつで,欧州連合(EU),北大西洋条約機構(NATO),経済協力開発機構(OECD)の加盟国です。通貨はユーロなので便利です。首都タリンへは,ヘルシンキからバルト海をフェリーで渡るだけで,とても便利なところにあります。
エストニアの公用語はエストニア語で,フィンランド語と同じくウラル語族の言語です。ウラル語族は英語とはまったく異なることばですが,フィンランド同様英語た通用したので大丈夫でした。
フィンランド同様,この国もロシアと陸路国境を接していて,さまざまな問題を今も抱えています。日本もロシアのとなりですが,海を隔てています。領土問題も深刻で,国民はロシア嫌い。こうした問題は日本だけでなく,ロシアと国境を接する国共通のようです。もっと日本人はエストニアやフィンランドのことを知る必要があります。

当時のソビエト連邦に占領されていた歴史があり,独立後,エストニア国籍を持たないロシア人が15%を占めていて,彼らはロシア語を話しますが,看板・広告等でのロシア語表記は制限されています。反露感情の強い国民性なので,ロシア語系住民との融和が大きな課題としてのしかかっているそうです。また,宗教はキリスト教圏ですが,国民の信仰は比較的薄いということです。現在のエストニア軍は1991年の再独立にともなって再創設されたもので,徴兵制度があります。これはフィンランドも同様です。
エストニアの経済状況はバルト3国で最も良好。産業は,外国のIT企業の進出も多くソフトウェア開発が盛んで,最近では「eストニア」とあだなされているほどです。政府が発行する個人IDカードがあって,15歳以上のエストニア国民のほとんどがそれを持っていて,行政サービスのほとんどが個人端末から済ませることが可能,また,早期のIT教育や国際学力調査で欧州の上位国としても知られるなど,日本よりずっと情報先進国です。というより,日本は世界からずっと遅れています。
フィンランドからフェリーで近いので,世界遺産に登録された首都タリンの歴史地区を背景として観光産業が発達し,年間の観光客数は500万人を超えています。

この国の歴史は,ロシアに翻弄されつづけています。
13世紀以降,デンマーク,ドイツ騎士団,スウェーデン,ロシア帝国などの支配を経て,ロシア帝国が崩壊した1918年に独立を宣言。ソビエト連邦やドイツ帝国の軍事介入を撃退して独立を確定し,1920年のタルトゥ条約でソ連から独立を承認され,1921年には国際連盟にも参加しました。
しかし,1940年にソビエト連邦に占領され,1941年から1944年まではナチス・ドイツに占領され,第二次世界大戦末期の1944年には,再びソビエト連邦に占領・併合されました。
ソビエト連邦崩壊直前の1991年に独立回復を宣言,国際連合に加盟し,その後西欧諸国と経済的政治的な結びつきを強固にしていきました。しかし,2007年のタリン解放者の記念碑撤去事件を機に「青銅の夜」と呼ばれるロシア系住民による暴動が起こりロシアとの関係が悪化,同時にロシアからの大規模サイバー攻撃を受け,エストニアのネット機能が麻痺しました。これを契機として,NATOサイバー防衛協力センターが首都のタリンに創設され,将来の大規模サイバー攻撃や国土への武力侵攻に備えて2018年には「データ大使館」をNATO加盟国であるルクセンブルクに設置しました。
2014年エストニアとロシアの領有権問題についてソ連時代の国境線を追認する形での国境画定条約に合意しましたが,その後ロシア側がエストニアの「反露感情」に抗議を繰り返し,現在も条約の批准ができないでいます。

6日目。明日は帰国するので,今日が終日自由になる最後の日。そこで,この日は出発するまえからエストニアに遠出することにしてフェリーの予約がしてありました。私は今回ヘルシンキへの旅を計画するまで,エストニアという国がそんなに近いという認識がありませんでした。そもそも,エストニアという国自体,名前以外に何も知りませんでした。地図を見ると,バルト海を渡るだけでエストニアに行くことができるのを知って驚きました。それは,昔あった青函連絡船で青森から函館へいくよりも近いのです。それに,エストニアの首都タリンは古城の残る美しい小さな街で,ヘルシンキから日帰りで十分に行き来できるところでした。

ヘルシンキとエストニアのタリンを往復するにはフェリーを使います。当日にチケットを購入すればいいようでしたが,行ったこともないので混雑しているのかどうかなど,さっぱり見当がつきません。そこで,BELTRAで事前にチケットを購入してきました。行きは午前9時発。帰りは午後6時30分発。口コミを読んて,さらに,行きはラウンジ,帰りはビュッフェを付けました。
いつものようにホテルで朝食を済ませ,港に急ぎました。フェリー会社のカウンタはまだ空いていなかったので少し並んで待ちましたが,開いたのでバウチャーを見せてチケットと交換しました。ここで行きも帰りもチケットに交換できました。あとは乗船するだけでした。
やがて,搭乗時間になったので乗り組みました。
フェリーは想像以上に大きくて,まるで太平洋を航海するような感じでした。中はものすごく豪華でした。私はラウンジだったので,そこに入ると,空港のラウンジと同じようになっていて,食事も自由にできました。ラウンジは人数制限もあって座る場所がないということはなくとても落ちつくところでしたが,外の景色を見ることができませでした。これは帰りの楽しみとすることにして,ラウンジでゆっくりしました。
やがてタリンの港に到着しました。外に出ると,向こうに旧市街が広がっていました。

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