しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:オーストリア旅行LIVE > LIVE・2019秋

今回の4泊6日のウィーン旅行はこれで終わりです。今回もまた,来るまえに思っていたよりずっと充実した旅になりました。しかし,昨年に比べると何かひとつ物足りません。それは,昨年は雪が降ったのでウィーンもザルツブルグもすっかり雪景色,今年はその美しさがないのでした。
朝,いつものように,6時30分にホテルで朝食をすませました。今回宿泊したホテルは昨年と違ってそれほど豪華なところではありませんでしたが,昨年泊ったホテルは部屋が豪華だっただけで朝食もついておらず,今年のホテルのほうがずっと居心地もよく朝食も豪華で快適でした。この夏に泊ったヘルシンキのホテルによく似ていました。数年前にニュージーランドのテカポ湖で宿泊したホテルは部屋だけはとても豪華でしたがWifiも別料金だったし,豪華なホテルというのは値段が高いだけで,実は最悪,何の意味もないものに余分なお金を払っているだけなのかもしれません。
食事を終えて一旦部屋に戻り帰る準備をして,ホテルをチェックアウトして,地下鉄,ジェットトレインと乗り継いで,ウィーン国際空港に向かいました。空港に行くには自動販売機で空港までチケットを購入すればいいので簡単です。

ウィーン国際空港のラウンジは,セキュリティを過ぎた後,進行方向と反対側にあって標示もほとんどないので場所がわかりにくく,そのために空いていました。なかはとても豪華でした。
やがて搭乗時間になったのでラウンジを出てターミナルに向かい,飛行機に乗り込んでトランジットをするヘルシンキに向かいました。行きで懲りたので,今度は早めに乗って,キャリーオンのカバンを収めるスペースを確保しました。ウィーンからヘルシンキまでの機内は,隣に,母娘ふたり連れの日本の人が座っていて,お話をしていたら,あっという間にヘルシンキに到着しました。
帰りはヘルシンキでのセキュリティもなく,ただ,帰国に際してコンコースの途中のゲートでEUシュンゲン圏から出るために顔認識をしてパスポートにスタンプを押してもらうだけです。ヘルシンキのヴァンター国際空港では,EUシュンゲン圏内乗り換えターミナルだけでなく,国際線ターミナルにもラウンジがあるのですが,そちらのラウンジは意外と知らないので,すごく広いラウンジはほとんど空いていて,とても快適でした。
ヴァンター国際空港のすばらしさは搭乗システムにあります。日本の空港のような,やたらとやかましい放送が一切なく,優先搭乗とかで延々と搭乗を待つ人の列もできません。ここのシステムは,まず,共通の広い待合室から,優先搭乗者と一般搭乗者が搭乗券をチェックして別々の待合室に三々五々入っていって,やがて搭乗時間になるとそれぞれの待合室の出口がそっと開くだけです。こういうシステムひとつをみても,日本人のやたらとうるさく騒ぎ立てるだけで非合理で無駄なことばかりをする思考能力が実感できます。
帰りもまた,エコノミーコンフォートの最前列の窓際をとってあったのですが,行きと同じエアバスA350なのに行きとは別の機体のようで,エコノミーコンフォートの最前列が3席ありました。フィンエアーのA350ではエコノミーコンフォートの最前例だけは通常2席なのです。室内のディスプレイに機体の外についているカメラから機体の外観が映し出されていたのでそれを見たら,この飛行機は幸運にも「マリメッコジェット」でした。2席であればとなりが空いていることも多いのですが,今回は3席ということで,ひとつとなりは空席でしたが通路側の席にはトヨタ自動車に勤めているというドイツ人の男性が座りました。

離陸前に,機体の主翼に付いた氷を溶かすために防徐雪氷液(ADF=Anti-/De-icing Fluid)が噴射されました。窓からそれを見ていてその迫力に圧倒されました。
やがて離陸。眼下にはヘルシンキの夜景がきれいに見えました。夕食を食べ終えて,コーヒーを待っていたら寝てしまい,目覚めたときはすでに眼下に愛知県の知多半島が見えて,着陸態勢に入っていました。おかげて,朝食を食べ損ねました。帰りもまた,400ユーロほど追加するとファーストクラスという勧誘があったので,少し迷いましたがパスしました。しかし,飛行中ずっと寝ていただけなので,これならファーストクラスにしなくて本当によかったと思ったことでした。このように,ホテルも飛行機も要は寝るだけだから,別にそれほど贅沢などしなくても,快適に旅はできるのです。
こうして私は日本に帰国したのですが,ヨーロッパに行っても東京へ行ってきたとさほど変わらず,私には日常のようになってしまいました。それよりも何よりも,海外に行かず世界を知らない人は未だに日本を先進国だと絶賛していますが,何度もこうして海外に足を運ぶようになると,それとともに,本当に,政治も教育もハイテク技術もすべて,めっちゃくちゃでぐっちゃくちゃでぼろぼろで,老朽化し形骸化し硬直し,モノを買うときにいつもわずらわしく思うその会計手段の複雑さを含めて,完全に世界から取り残されていることを私は強く実感します。そしてまた,公共交通に乗ればうるさく意味のない,だれも聞いていない放送が始終かかるのに,遅延したときには必要な情報は一切伝わらない,そうした日本の,マニュアルでしか行動できない人の姿など,要するに,責任を取りたくない金儲けがしたいというだけが本音の,本当にもう救いようがない国になってしまったと思っていたのですが,そうした気持ちが今は確固たる確信に変わってきました。

◇◇◇
帰国の日,フィンランドのヴァンター国際空港のコンコースをサンタクロースさんが歩いていました。何かの宣伝かと思って通り過ぎたのですが,日本に帰ってから,私の乗った名古屋行きのフィンランド航空便の2分後に出発した成田行きのフィンランド航空便にそのサンタクロースさんは搭乗し,来日したといういうことを知りました。つまり,私が出会ったサンタクロースさんは本物のサンタクロースさんだったのです。

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Farewell 2019

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世界遺産であるハルシュタットは,風光明媚なザルツカンマーグート地方の中でも特に美しいといわれる岩塩採掘の町です。「世界の湖岸で最も美しい町」ともいわれ,映画「サウンド・オブ・ミュージック」の撮影にも使われました。
ハルシュタット(Hallstatt)というのは「塩の場所」という意味なのです。船着場に塩を運んでいる人の石像がありました。2002年,この地で古くから使われている塩坑から世界最古の木製の階段が発見されたことで,この地の人々は昔から岩塩を洞窟から掘り出して生計を立てていたのではないかと推測されるようになりました。また, 靴や衣服の切れ端,塩を運び出すのに使われていた道具も見つかりました。塩漬けのハムが盛んに作られていた痕跡も見つかっています。この,今から7,000年も前から行われていたという塩の採掘は現在も続いています。
海のないハルシュタットで塩が採れる理由は,約2億5,000万年前,この地域には海があったからです。地殻変動で海が山の間に取り残され塩湖が造り出され,その塩湖の水を,太陽が長い時をかけて蒸発させ,天然の塩が作られました。そこに土砂やマグマが流れ込み,塩の層は山の奥底に追いやられましたが, 人類が塩辛い水が山から流れ出ているのを見つけたことで,塩を掘り出すようになったのです。

船着場から湖沿いにゼー通りを歩いて行くと,マルクト広場に着きました。この先さらに歩いて行こうとすると,なんと通行止めになっていました。実は,この日,ハルシュタットには火災が発生していたのです。以下は新聞記事です。
  ・・・・・・
【AFP=時事】
国連教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産(World Heritage)に登録されているオーストリアの湖畔の町ハルシュタット(Hallstatt)で,11月30日,火災が発生した。複数の建物が焼けたものの,消防隊の活躍により,さらなる延焼は防がれた。
  ・・・・・・
ということで,偶然,こんな事件のあった日にハルシュタットに行ったわけですが,このあたりの家が哀れににも丸焦げでした。仕方がないので高台に続く坂道に迂回しました。そのまま歩いて行くとハルシュタットの町のはずれの最も見晴らしのよい場所まで行ったので,そこで写真を撮ってから引き返すことにしました。
帰る途中,高台にカトリック教会がありました。土地の狭いハルシュタットでは墓地の場所が十分にとれないので,埋葬後10年ほどすると遺骨を取り出して次の遺体を埋めるという風習があったそうです。取り出した遺骨はバインハウスという教会の裏手にある納骨堂に収めらていて,それを見ることができるということだったので見てきました。

船着場に戻る途中で軽い夕食をとりました。バスの集合時間は午後4時10分。ウィーンに帰るのは午後9時ということだったので,腹ごしらえです。しかし,帰る途中でドライブインで30分ほどの休憩があって,その時間に夕食がとれるのでした。
帰りのバスは行きとは異なり,飛ばしに飛ばし,4時間30分ほどでウィーンに戻りました。こうして私は念願のハルシュタットに行くことができたのです。
ニュージーランドでミルフォードサウンドに行ったときと同様,バスの運転手はこのコースを走りなれているようで,手慣れたものでした。それにしても,仕事とはいえ,こんな長距離を毎日のように走っていることに感心しました。しかし,往復10時間,運転手ひとり。日本なら問題になるのでは? とも思いました。

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昨年行ったザルツブルグとは違い,私は,ハルシュタットで何をしたいということもなく,だた美しい景色が見たかっただけでした。そこで,ハルシュタットがどういうところかも,どこにあるのかさえも,正確には知りませんでした。
昨年オーストリアに来たときはもっと何もわからず,しかし,結局,ザルツブルグにも行くことができて,しかも,ザルツブルクの市内観光どころか祝祭劇場の見学までしたのですが,ウィーンに到着するまで,まさかザルツブルグに行けるなどとは思ってもいませんでした。この夏にフィンランドに行ったときもまた,ムーミンワールドなんてそんな遠いところに行けるのかしら,と思っていましたが,結局,行くことができました。近頃は,というよりも,私の旅はこれまでもいつもそんなものです。
このように,旅はいくら事前に調べたところで,実際に現地に行ってみないとその状況がよくわからないのですが,それでも比較すると,海外のほうが日本よりもずっと旅行がしやすいのです。実際めんどうなのは日本国内の旅行で,必要のない情報は山ほどあれど,JRの複雑怪奇なチケットの購入方法をはじめとして,言葉がわかるから何とかなるものを,こんなわけのわからない国はほかに知りません。
話は逸れますが,そもそも,モノひとつ買うのに,どうしてあんなにたくさんの支払い方法があるのでしょう。何事につけて,日本は本当にばかげた国だと,海外旅行の経験が増すにつれて,ますます,あほらしく感じるようになってきました。
さて,話を戻します。ハルシュタットで,私がおぼろげながら知っていたのは,船で湖を渡らなければ着けない町であることと,例のごとく「自撮り棒をもって黒いレンズの入ったサングラスをかけやたらと声のでかい」某国の団体さんばかりがあふれている,ということでした。その,某国の団体さんと聞いただけで行く気が失せるというもので,私はハルシュタットの風景は見たくても,それを知ってテンションも下がり,まったく期待をしていませんでした。

やがて午後2時,バスはハルシュタットに到着しました。
ウィーンを出発してから途中アドモントに寄ったのでさらに時間がかかり,結局6時間のバス旅でした。先に書いたように,私は,ハルシュタットは船でなければ行けないと思っていたので,バスを降りて,どこで船に乗り替えるのだろうと思っていたのですが,そうではなく,列車で行ったときにバルシュタットの最寄りの駅がハルシュタットとは湖の対岸にあって,そこからハルシュタットに行くには湖を船で渡る必要があるというだけで,バスであればハルシュタットの町の船着き場の前の広場まで行くのでした。
ハルシュタットでの滞在時間は2時間ということでした。すべて自由行動だったのですが,バスのガイドさんがバスを降りるまえに3,4つの観光モデルコースを説明してくれました。そのなかにはハルシュタット塩孔へ行くケーブルカーもありましたが,途中の展望台までで,塩孔までは時間がないから行かないで,と言われました。私は自由行動といわれても困ってしまいます。ケーブルカーに乗ろうとも思いましたが,往復するだけで時間がすぎてしまいそうだったので断念しました。狭い街でもあり,きままに歩こうかな,と思っていると,なんとなく,同じツアーにいた中国人の女性ふたりと歩くことになったのでした。
予想通り,ハルシュタットは「自撮り棒をもって黒いレンズの入ったサングラスをかけやたらと声のでかい」某大国の団体さんばかりでした。それはニュージーランドのテカポ湖も,日本の馬籠やら京都やらもまた同様な状況です。それでもハルシュタットの町の美しさはそれを凌駕するものでした。

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私は高速道路の道路標示から地名を調べて,地図でどこを走っているかを調べていたのですが,はじめのうちはグラーツという地名が頻繁に出てきて,やがて,リンツに変わりました。午前8時に出発して,もうお昼の12時をすぎようとしているのに,めざすハルシュタットはまだまだ先でした。一体何時に着くのだろう,と心配になってきました。
やがて,バスは高速道路を降りて,いよいよかと思ったとき,ハルシュタットは確か,高速道路を降りた先西に向かわなければならないのに,東に進路を変えました。
このツアーでは,ハルシュタットに行く前に,アドモンドという町に寄るのでした。しかし,私は,ハルシュタットへ行くことだけはわかっていても,途中の行程を知らなかったのです。予約したサイトにも,具体的なことは書かれてありませんでした。
やがて,アドモンドという小さな美しい街に着きました。その街にある教会の駐車場にバスは停まりました。ここで,30分程度,教会にある図書館を見学するということでした。そのときまで,私は,見学することになった図書館のことも当然まったく知りませんでしたが,実は,この図書館を見たさにわざわざ日本から出かける人もいるというとても有名なところだったのです。

それは,世界で最も美しい図書館といわれるアドモント修道院図書館(The library of Admont Abbey)でした。思わず息を飲み込むほど美しい白亜の図書館は,アルプスのふもとに立つ修道院図書館としては世界最大のライブラリーで,約20万冊を収める70メートルにも及ぶ内部ホールは建築家ヨーゼフ・フーバーがバロック後期様式で1776年にデザインしたものです。天井には学問や宗教,芸術についてのフレスコ画が描かれていました。2008年に改修が終了したばかりで,創設時代の美しさがよみがえったそうです。ちょうどウィーンで見た国立図書館を新しくしたような感じでした。
さあ,図書館の見学を終えて,バスはハルシュタットをめざして,アルプスのふもとの片側1車線の道を走っていきます。この風景を見ただけでも,来た甲斐があるというものでした。やがて,道路はエンス川にそって進み,急坂になって,森の中を越えるとついにハルシュタット湖が見えてきました。

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ウィーンからハルトシュタットへ日帰り観光をするのは,東京から京都へバスで日帰り観光するようなものです。つまり遠いのです。
昨年,ニュージーランドへ行って,クイーンズタウンからミルフォードサウンドへ日帰り観光をしたのとシチュエーションが似ています。クイーンズタウンからミルフォードサウンドへも片道5時間以上かかりましたが,個人でこれほどの時間運転するのも大変だったので,私にはバスによるツアー以外に選択肢がありませんでした。このときは数人の日本人が参加したグループが現地ツアーに入り込むような形になっていて日本人だけを対象としたガイドがいましたが,この日本人グループに参加していたのは私以外には日本からのそれぞれ別の団体ツアーで参加した人たちのオプショナルツアーでした。このように,日本からの団体ツアーで海外旅行をしても,オプションでは別に現地ツアーに参加させることも多いのです。なかには現地ツアーに日本からの団体ツアー客が大挙して参加しているということもあります。そんなんだったら,私は,個人で旅をして,現地ツアーに自分で申し込んだ方が安いのに,と思いますけれど…。
今回のウィーンからハルシュタットもまた,ウィーンから往復するには片道5時間以上かかるので,ハルシュタットの近くに宿泊するのならともかく,ウィーンから日帰りで個人で行くのはほぼ不可能でしたが,現地ツアーを見つけたおかげで,幸い行くことができました。

集合時間は午前7時50分,集合場所はウィーン国立歌劇場裏の観光案内所で,私が到着したときにはまだほかに参加者はおらず,どのくらいの参加者がいるのかなと思ったのですが,大型の観光バスがやってきたので,結構多くの参加者がいるんだなと思いました。私は早めに集合場所に着いたおかげでバスの最前列に座ることができたので,ずっとバスの中から景色を見ることができました。
ほぼ午前8時の出発時間どおりにバスは動き出して,ウィーンからまずオーストリアを南に,高速道路を走っていきました。ハルシュタットはウィーンから西南西の方向にあるので,私ははじめ西のザルツブルグに向かって走ると思っていたのですが,そうではなく,南のグラーツの方向に進みました。やがては右折して西に向かっていくはずです。このツアーのガイドさんは英語とドイツ語を交互に使い分けていて,バスの後ろの方に座っていた人がすごいねと言っていました。私は最前列に座っていたからわかったのですが,実際はマニュアルを読んでいました。日本語ツアーでないこともあって日本からの団体ツアー客はおらず,この現地ツアーに参加していた中にいたアジア人は,私以外に2人ほどの個人旅行の日本人と,中国からきた中国人のひとり旅の女性,そして,オーストラリアに住むひとり旅の中国人の女性でした。
しばらくするとドライブインで昼食休憩になったのですが,ゆっくり昼食をとる時間もないのは想定済みでした。私は昼食をとる余裕はないだろうと,朝食のときにホテルに置いてあったシリアルバーを持ってきたのが正解で,飲み物だけを購入しました。長年旅行をしていると,こういうことができるようになるのです。
車窓からみるオーストリアの風景はなかなか興味深いものでした。きれいな国です。山岳地帯になると雪が降っていましたが,それもやんで,あたりは次第にアルプスの風景になってきました。

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昨年は5泊7日でしたが,今年は4泊6日のオーストリアの旅なので実質3日,その3日目最終日はハルシュタットへのツアー旅行です。

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私のように,ひとりできままに海外を旅していると,いろんな人に出会います。ヨーロッパへ行く便にも,さまざまな人が乗っています。ヨーロッパに住んでいるという日本の人が意外と多いのも私にはおどろきです。
行きのセントレア・中部国際空港で搭乗を待っていたときにお話をした男性はヘルシンキに住むという芸術家でしたし,すでに書いたように,機内ではお隣にパリに住んでいるという女性が座りました。
そうした旅慣れた人たちとは別に,ヨーロッパ便では団体ツアー客が多いのも特徴です。今回も,ツアーでウィーンに行くという中年の女性たち(男性はほとんどいない)は,ウィーンでウィーンフィルを聴くんだ,とか言っていましたが,あの人たちは,ウィーンに行けばウィーンフィルが聴けるものだと思っているようでした。こうした人たちは,雑誌やテレビ番組などで得た情報だけは豊富ですが,まあ,要するにミーハーです。
以前ニュージーランドに行ったとき,これまで星も見たことがなく知識もないのにテカポ湖の星空観察ツアーに参加して,北極星を探している人がいましたし,アラスカでは,オーロラ見たさにそれが肉眼でどう見えるかも知らずにやって来て想像とは違ってがっかりしていた人がいました。さらには,ウユニ塩湖に行って,満月が反射して美しかったという人の話も聞きました。ウユニ塩湖の星空は月明かりがないからこそだと私は思うのですが…。また,日本の美術展にはフェルメールの絵画を見るために殺到しても,現地では目の前にそれがあるのに素通りする人など。
まあ,何事も人それぞれなのでかまわないのですが,観光業というのはそうした無知な人たちをお得意様として存在しているようです。そしてまた,オーバーツーリズムを支えている(?)のもそうした人たちです。
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そこで,きままに旅行をするには,そうした集団とは一線を画すことがいかにできるかということが知恵の見せ所となるわけですが,それもまた難しいのです。私はそうしたツアーに参加してもストレスがたまるだけだから個人で旅行し,空港では歩き回らず搭乗時間までラウンジで過ごし,滞在先のホテルもなるべく団体ツアーの泊らない小さなところを探し,現地での行動も車を借りるか公共交通を利用するようにしています。
しかし,そうしようとしても,ニュージーランドのミルフォードサウンドなどのように個人ではアクセスすることが難しい場所もあって,そこに行くことは個人ではたいへんです。そこで,そうした場合は現地ツアーをさがすことになりますが,個人旅行者の寄せ集めである現地ツアーは参加してとてもよかったというものが決して少なくありません。
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今回の旅では,ハルシュタットに行きたかったのですが,まさに,このハルシュタットが難物でした。私は公共交通機関を利用すれば簡単に行けるものだと思っていたのですが,それは間違いでした。行くのをあきらめていたのですが,どうにか現地ツアーを探し出すことができて予約をしたというわけでした。
さて,どんな旅になるでしょうか? 期待が半分,不安が半分,でも,念願のハルシュタットに行くことができるのは喜びであり楽しみでした。

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ウィーン国立歌劇場の裏手からテゲトフ通りがはじまります。そのデゲトフ通りを隔てて,観光案内所とアルベルティーナがあります。テゲトフ通り沿いにカプティーナ教会があって,その地下がハプスブルグ家皇帝の納骨所です。デゲトフ通りに平行に1本東を走るのがケルントナー通りで,どちらの通りも,やがてウィーン旧市街中心のシュテファン大聖堂に行き当たります。
ケルントナー通りは東京の銀座のようなところで,多くの観光客であふれています。通りに面して高級ブランド店が立ち並んでいます。世界中どこに行ってもこういう場所にたむろしているのが「声が大きく,自撮り棒をもち,やたらと色の黒いサングラスをかけて」群れている某大国からやってきた団体観光客です。
ウィーンもまたその例に漏れないのですが,ウィーンという街は,そうした彼らさえ埋没させるほどの美しさと魅力があります。そしてまた,ウィーンには,音楽と美術と歴史を知らない人には理解できない深さがあります。つまり,そうした教養のない人には,ウィーンはさほど魅力のある街ではないです。そこで,彼らは,オペラなど見たこともないのに有名だというだけで国立歌劇場の立ち見席に現れはしても飽きて10分もすれば帰っていき,ガイドブックにある「カフェ・モーツアルト」には列を作っても,地元の人の愛するカフェにはひとりで入らない(入れない)し,路地には行かない(行けない)ので,結局,ケルントナー通りの土産物屋や高級ブランド店の前で右往左往しているのです。
昨年はテゲトフ通り沿いもケルントナー通り同様に楽しい散歩道でしたが,今年はあいにくデゲフト通りは工事中で掘り返されているので車の通行が禁止されていて,かろうじて端っこを歩行者が通れるだけになっていました。

私ははじめケルントナー通りを北に向かって歩きながら,途中でどこか見つけて夕食をとって,ホテルに戻ることにしていましたが,ケルントナー通り沿いの店は先に書いたようにどこも混雑していて,とても入る気になりませんでした。しかし,シュテファン大聖堂まで行きついて西に折れ,リング通りを渡って市庁舎を過ぎてしまうと,ホテルの付近にはお店もなくなるので,そのまえにどこかないかなと折り返し,今度はデゲフト通りの狭い歩道を歩いていると,1件のカフェが開いていたのを見つけたので,なかに入ってみました。
入ってみると期待以上。そこは落ち着いたカフェで,観光客もおらず,長い時間いても大丈夫なお店でした。私はそこでカレーを頼みました。カレーといっても日本のものとはまったく違うし,お米は洋米です。
こうしてゆっくりと夕食をとることもできて,今回のウィーン滞在3日目,実質2日目の観光を終えました。昨年来たときにウィーンのすばらしさにひとめぼれをして,毎年この時期はウィーンに来ようと決めました。そして,今年,何の迷いもなく半年前にウィーンに来るための航空券とホテルを手配しました。しかし,次第にそのことを忘れてしまい,来るころには昨年の感動はどこかにいってしまい,一体ウィーンに行って何をするのだろう,とさえ思うようになっていました。しかし,やってきたら昨年の思いがよみがえりました。
やはり,ウィーンは毎年来てもいい街です。おそらく私は来年もまた,この通りを歩いていることでしょう。

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明日はハルシュタットに行くので,今回のウィーンでの観光はわずか2日。その2日目もそろそろ終わりです。ホテルに帰るまえ,観光の最後にアルベルティーナに行くことにしました。
アルベルティーナ(Albertina)は,マリア・テレジアの娘の夫アルベルト・フォン・ザクセン・ティッシェン公の名前からとったアルべルティーナ宮殿のなかにある美術館です。
ウィーンでは,このアルベルティーナ宮殿,ベルヴェデーレ宮殿のように,昔の宮殿が今は美術館となっている場所が数多くあります。アルベルティーナはウィーン国立歌劇場の裏にあって,これまで何度も通った場所ですが,なかに入ったことがありませんでした。

入場券を購入して,なかに入りました。まずは美術館というより,シェーンブルン宮殿と同じような大広間が続いていました。こうした宮殿がその目的を果たしていた時代は,日本でいえば江戸時代のころなので,宮殿というのは日本のお城にある御殿のようなものですが,その豪華さはずいぶんと違いがあります。日本と西洋は,簡単に木の文化と石の文化の違いといいますが,そもそも,今の時代はこうした文化の違いに根ざしているものだということを考えると,奥が深く,いろいろ考えさせられるものがあります。
さらに進むと,多くの絵画が展示されている部屋に着きました。ここからが美術館です。この美術館に収蔵されているものは,ルーベンス,ブリューゲル,レンブラント,モディリアーニ,ムンクなどなどですが,なかでも,多くのピカソやミロの絵画が見ものでした。私はミロの絵画がことのほか好きなのです。

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結局,ドナウタワーで2時間ほどの時間を過ごして,ウィーンの中心部に戻ってきました。
ウィーンの繁華街のど真ん中にあるカプツィーナー教会の地下には,ハプスブルグ家の歴代12人の皇帝を含む150体あまりの柩が安置されているということだったのですが,昨年はまったく興味がなくただ通り過ぎました。しかし,世界史を学んだ1年後,私は興味がわいて,行ってみることにしました。
間違えて教会の入口を入ると,ちょうどミサの最中でした。その荘厳な雰囲気は私のようなキリスト教の信者でないものが入ることを許されない雰囲気がしました。皇帝納骨堂への入口はその右手の建物でした。入場料を払って地下に降りて,私は驚きました。地下の巨大な空間には,延々と柩が横たわっていました。そのなかのひときわ巨大で豪華な柩はマリア・テレジアとその夫フランツ・シュテファンのものです。そして,さらに進んだ部屋に3体並んでいたのがフランツ・ヨーゼフ,エリーザベト,ルドルフの柩でした。さらに,出口近くには近ごろ収められた柩がありました。
ハプスブルグ家の習慣で,埋葬するときに内蔵と心臓は取り払い,内臓はシュテファン寺院に,心臓はアウグスティーナ教会に収められているのだそうです。こういうものを見るのは,キリスト教を知らない私には,正直耐えがたいものでした。そしてまた,本の上での歴史が目のまえの現実となっていて生々しく感じました。

マリア・テレジア (Maria Theresia)はオーストリア・ハプスブルグ家の直系で神聖ローマ帝国皇帝かつオーストリア皇帝カール6世の娘で,ハプスブルク=ロートリンゲン朝の皇帝フランツ・シュテファンの皇后です。16人の子供を産み,零落の兆しの見えはじめたハプスブルグ家をささえた実質的な「女帝」として知られます。
それまでハプスブルク家は男系相続を定めていましたが,マリア・テレジアの兄が夭折して以後男子が誕生せず男系が途絶え,マリア・テレジアの子供たちのからは,夫の家名ロートリンゲンとの二重姓で,ハプスブルク=ロートリンゲン家となります。
ロートリンゲン家は第2次ウィーン包囲においてオスマン帝国を敗走せしめた英雄カール5世の末裔でハプスブルク家にとって深い縁があったことから,マリア・テレジアはカール5世の孫であるフランツ・シュテファンと婚約し,フランツ・シュテファンが皇位に就くことになります。
しかし,マリア・テレジアの父カール6世が突然崩御しマリア・テレジアが相続すると,周辺諸国は,国本勅諚の「ハプスブルク家の領地は分割してはならない」を公然と無視し,マリア・テレジアの相続を認めず領土を分割しようと攻め込んできました。これを「オーストリア継承戦争」といいます。西側を包囲され四面楚歌の状況にあって,マリア・テレジアは東方のハンガリーに救いを求めますが,美しく力強い女王の姿は好印象を与え,ハンガリーは資金と兵力を差し出しました。こうして,国家の緊急事態に際して,マリア・テレジアが諸国の侵攻に屈しなかったことは彼女の評価を大いに高らしめました。
さらに,皇帝の守護を名目としてプロイセンが侵攻しますが,プロイセンは軍事力と野望が表面化して孤立,皇帝選挙でマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンを帝位に就けることに成功します。

また,主にイギリスとフランスの間で続行していた戦争はアーヘンの和約によってようやく終結し,これにより,マリア・テレジアのハプスブルク家相続は承認されましたが,領地シュレージエンを失ってしまいました。マリア・テレジアは,シュレージエンを奪還する目的で内政改革や軍改革を行い,フランスに接近。フランス国王ルイ15世を懐柔し,べルサイユ条約をもってオーストリアとフランスは遂に同盟を結びます。また、ロシア帝国のエリザヴェータ女帝とも交渉し,プロイセン包囲網が出来上がります。これを「3枚のペチコート作戦」といいます。
やがて,プロイセンがザクセンに侵攻して戦端を開き,七年戦争が勃発します。はじめは,フランスやロシアとの同盟をえたオーストリアが優勢に戦争を進め,圧倒的な勢力差からプロイセンは窮乏し徐々に追い詰められていきましたが,オーストリアもまた資金難に陥って,ついに,フベルトゥスブルク条約でシュレージエンのプロイセンによる領有が固定化してしまいました。
しかし,こうしたオーストリア継承戦争と七年戦争を経て,結果的にオーストリアとプロイセンの両国は近代国家としての制度を整備し,その後の発展の礎を築きました。
やがて,夫フランツ・シュテファンが崩御しますが,息子のヨーゼフ2世は混乱もなく帝位に就きました。そののち,マリア・テレジアは散歩の後に高熱を発し,約2週間後,ヨーゼフ2世とミミ夫妻,独身の娘たちに囲まれながら崩御しました。病の床ではフランツ・シュテファンの遺品であるガウンをまとっていたといいます。

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スノーグローブも購入して,昨年行くことができず今年ぜひ行ってみたかった場所ややってみたかったことは,ほとんどに行くことができましたしすることができました。さて,これからどうするか? です。
思いついたのは,今のウィーンを見たいということでした。私はこれまで,ウィーンの街といってもヨーロッパでよくいわれる旧市街しか歩いていないわけで,新市街をまだ知らないのです。ウィーンは歴史の街であるとともに,現在は国連などの建物がある新しい街でもあるのですが,それがどこにあるのかさえ知りませんでした。そこで,行ってみることにしました。
新しい街のある場所は町の北東,ドナウ川を越えたところでした。国連の内部は見学コースがあって,見学できるのは午後2時からということでした。何とか間に合いそうだったので,地下鉄に乗って急ぎました。やがて,もよりの駅に着きましたが,到着したときは午後2時にはあと10分というところでした。建物に入るにはセキュリティがあって煩わしく,やっとセキュリティを抜けたときには,すでに午後2時を過ぎていて,間に合いませんでした。受付で聞いてみると,次は午後3時30分からで,そのときにまた来てください,ということでした。
しかし,小さな土産物屋しかないような場所で1時間以上の時間を過ごすのもばからしく,あきらめて外に出ました。この近くに何かないかとさがして見つけたのがドナウタワーでした。

国連の建物の北側にドナウ公園が広がっていて,そのはるか向こうにタワーがありました。ドナウタワーまでは歩いて15分ほどということだったので,公園を通って行ってみました。展望台に行って引き返せば1時間くらいだろう,それなら国連の次の見学ツアーの時間に間に合うだろうと思いました。
ドナウタワーは高さが252メートル,地上150メートルのところに展望台があって,さらにその上には,カフェ,またその上にはレストランがあるということでした。タワーに向かう観光客らしい人もおらず,一見,閑散としているように見えました。
チケットを買ってエレベータに乗りました。エレベータはものすごいスピードで昇って行きました。展望台からはウィーンが一望できました。確か東京・押上のスカイツリーの高さは640メートルほど,また,東京・芝の東京タワーは333メートルだから,ドナウタワーはそれよりずっと低いのですが,どう考えても,東京のスカイツリーより,ずっとこのドナウタワーのほうが見晴らしがいいなあと思いました。周りは広い公園で,タワーだけがそびえているからです。
どうも結果的に今回の旅では遠くが一望できる場所ばかりを訪れているようです。一休みしようと,1階上のカフェに行きました。ところが,カフェが大混雑していました。座るところもないような状況でした。わかったことに,カフェを独占していたのは何かの老人グループでした。昨年行ったレストランもそうでしたが,ウィーンでは老人が団体でこうしたところにやってくるようです。要するに,日本でバスに乗ってカニの食べ放題とかに行くのと同じようなものです。行ったタイミングがわるかったわけです。
ウィーンのカフェやレストランは,勝手に空いている席に座っているとそのうちに注文を取りに来る,というシステムです。なんとか席を見つけて座りました。しかし,めちゃくちゃ混雑していて,いくら待ってもオーダーをとりに来ないわけです。まあ,急いでるわけでもないからしばらく待っていると,やがて,その団体が帰って行きました。やっとカフェに静寂が訪れました。
私は,モーツアルトトルテとメランジェを注文しました。このカフェは回転するのです。そこで,360度の風景が楽しめるわけです。このころには,もう国連の見学などどうでもよくなって,ドナウタワーでゆったりとした時間を楽しみました。
国連の見学時間に間に合わなくて逆によかったと思ったことでした。

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日本でスノードームとよばれるスノーグローブ(Snow globe)とは,球形やドーム形の透明な容器の中を水やグリセリンなどの透明な液体で満たし,人形・建物などのミニチュアと雪に見立てたもの等を入れて,動かすことで雪が降っている風景をつくる物です。日本では大変高価です。
19世紀末,ウィーンの手術用機械技師であったエルヴィン・ペルツィーさんによってはじめてのスノーグローブが発明されました。エルヴィン・ペルツィーさんはこれまでより明るい手術用ランプを開発しようと電球にガラスの破片を入れて反射させるなどの実験を繰り返す途中に,スノーグローブのアイディアを思いついたとされています。エルヴィン・ペルツィーさんはすぐさま「雪の降るガラス球」として特許を取得し,1900年に兄弟とともに店舗を出し,数年後には皇帝にも表彰されるほどになりました。
その後,現在に至るまで改良に改良を重ねられ,ウィーンでは時代を超えて愛され造られ続けています。黒い台座に「ウィーンからのご挨拶」(Gruß aus Wien)と書いてあるのがホンモノです。
ここのスノーグローブは雪の量が多い点が特徴です。土産物屋で売っているスノードームに比べて3倍ぐらい雪が降っているように見えます。

私は,このウィーン発祥のスノーグローブのことを昨年は知りませんでした。帰国後に知って,ぜひ今年はそのお店に行ってみようと思っていました。
お店は,市街地から少し離れていて,不便な場所にありました。私の泊っているホテルから歩いていけないほどの場所ではないのですが,ウィーンの市街地の反対,西の方向でした。美術史博物館から西に向かってしばらく歩いて行くと,ちょうど路面電車が来たので乗ることにしました。もよりの停留所で降りて,北に向かってさらに10分程度,このあたりだと思った場所に着いても,お店が見つかりません。ネットで調べて,ようやく位置を把握して歩いていくと,小さなお店がありました。
扉を開けて中に入りました。以前は1階がミュージアムになっていて2階がショップだったようですが,私が行ったときは,1階のミュージアムにショップが併設されていました。
店内に入ると,若い女性の店員が2人いました。私はたくさんのスノーグローブを見て,そのなかから2個選んで購入したら,おまけに日本語で書かれた豪華な本をくれました。帰りぎわ,一緒に写真を写しました。よいお土産ができました。
なお,スノーグローブのなかは液体なので,大きなものは旅客機の機内に持ち込めない恐れがあると書かれたブログがありますが,真相は知りません。私が購入したのは小さなものだったので,まったく問題はありませんでしたけれど。

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王宮を出て,私が次に目指したのが,美術史博物館でした。ここは昨年も行ったのですが,昨年はちょうとブリューゲル展が開催されていました。
美術史博物館,つまりこの美術館の有名な絵画としてあげられるのがブリューゲルの作品で,通常は一般料金だけで見ることができるブリューゲルの作品が,ブリューゲル展の特別料金をさらに払わないとこのときは見られないのでした。しかし,私は,その料金がもったいなかったわけではなく,別料金だということを知らずに一般料金だけで中に入って,結局見ることができなかったのです。後でそれを知って翌日の夕刻に再び行ってみたのですが,今度は,ブリューゲル展の入場制限にかかって入れませんでした。さらに,この美術館の2階にすてきなカフェがあるのですが,そこもまた満員で入れませんでした。そこで,今回の目的は,ブリューゲル作品を見ることと,カフェに入ることでした。

王宮から美術史博物館まで行く途中にフォルクス庭園があって,そこに王妃エリーザベトの像があります。「シシィ」(Sisi)の愛称で知られる絶世の美女エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ(Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach)はオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后でした。ドイツ語表記ではエリーザベトが正しいのですが,日本ではエリザベートとも表記されています。日本でも見ることができるミュージカルも「エリザベート」となっていますが,これはエリーザベトのことです。
バイエルンのヴィテルスバッハ家ではエリーザベトの姉のヘレーネとフランツ・ヨーゼフ1世を結婚させることが決められていたのですが,フランツ・ヨーゼフ1世がエリーザベトに一目惚れをして,妹のほうがウィーンに嫁ぐこととなったのです。しかし,エリーザベトはウィーンの宮廷文化が肌に合いませんでした。このエリーザベトはジュネーブでルイジ・ルッケーニによって心臓を刺されて帰らぬ人となります。フォルクス庭園にある高さ2.5メートルの大理石のエリーザベト像は,彫刻家Hans Bitterlichによって作られ,フランツ・ヨーゼフ1世が置かれる場所を定めたといいます。

フォルクス庭園を越え,美術史博物館に着きました。この美術館の前には巨大なマリア・テレージア像があります。マリア・テレージアのことはまた後日書きます。
美術館ではカラヴァッジョとベルニーニ展が開催されていましたが,昨年のブリューゲル展のようには混雑しておらず,少し拍子抜けでした。実は,この時期,この美術館が展示するハプスブルグ家に関する作品は東京で開催中の「ハプスブルグ展」で展示されているので日本にあり,ウィーンでは見ることができないのです。私はそれらの作品は昨年すでにここで見たのでそれを承知で来たのですが,そのことを知らない日本人観光客がけっこう来ていました。
私の目的だったブリューゲルの作品は,今年は,何の問題もなく見ることができました。
ブリューゲルに加えて,私がこの美術館で気に入っているのがフェルメール作品「絵画芸術」ですが,ここでは,フェルメールを独占して見ることができます。昨年とは違う場所に展示されてありました。もしこの作品が日本に来るのなら,黒山の人だかりとなることでしょう。その黒山の人だかりとなる日本人も,このウィーン美術史博物館では,フェルメール作品があるということを知ってか知らずか,興味もなく通り過ぎていったりするのがまた,日本人らしき教養のなさを表しているのを見るようで皮肉です。フェルメールは Vermeer と記述するのでわからないのかもしれません。
見たかった多くの作品を見終えて,私は,これもまた,念願だったカフェに入りました。カフェもまた空いていて,ゆっくりとメランジェを味わうことができました。

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昨年は,はじめてウィーンに来て,さっぱり様子がわからなかったし,私は世界史をほとんど習わなかったので,ハプスブルグ家というものすら知りませんでした。そもそも,ウィーンという国自体今は小国なので,かつて歴史上大きな存在の国だったとも思いませんでした。それが来てみて,非常に多くの歴史的な遺産や文化があって,たいへん驚きました。
昨年は,市内を一応観光するために,まず半日の現地ツアーに参加したのですが,そのときに,マリア・テレジアとエリーザベトについて詳しい説明を聞くことができましたし,シェーンブルン宮殿にガイドつきで入ることができました。しかし,王宮は外から見ただけで,中に入る機会がありませんでした。そこで,昨年行くことのできなかった場所を重点的にまわっている今年の旅では,この日はまず,王宮に入ってみることにしていました。
王宮の開館は9時。少し前にチケット売り場に並んで,一番先に中に入りました。
まず並んでいたのが多くの食器類でした。これらは,王宮での晩餐で使われたものです。日本は木の文化,西洋は石と金属の文化,その違いで,西洋では古いものがそのままの形でずいぶんと残っています。
このところ,名古屋城の天守閣の再建問題で名古屋市はかまびすしいのですが,こうした過去の財産をどう残すのかということに対して,日本人自体に共通の知恵がなさすぎます。要するに,日本では,そうした歴史的遺構を文化として将来も大切に保存することやそれをいかに公開するかということよりも,それを観光資源として利用して金儲けの手段にしようという本音がミエミエなのです。
多くの食器類が並んでいた部屋を抜けると,次が,エリーザベト,通称シシィに関する博物館と,皇帝の部屋が再現された場所でした。王宮の部屋はシェーンブルグ宮殿と同じようなものでしたが,シシィに関する博物館は彼女の人生を詳しく知ることができて,なかなかの見モノでした。残念ながら,王宮内は写真撮影ができなかったので,写真はありません。

王宮を出て,次に行ったのが国立図書館プルンクザールでした。
ここは世界一美しい図書館といわれる場所で,かつて王宮図書館だったところです。大理石の柱と天井画が優美な空間に膨大な蔵書が壁一面に収められているのですが,それらはまるで絵のようでした。本もまた,日本のように,和紙であれば虫が食い,こうした保存は不可能です。現在は,ここにある蔵書はインターネットで公開されているそうです。
王宮にはこのほかにも多くの博物館などがあるし,また,スペイン乗馬学校など,私が訪れたところ以外にも見どころがたくさんあるのですが,今回はそれらを見る機会がありませんでしたので,また,それは,次の機会を楽しみにしたいと思います。
私は40歳になったころから京都に凝りはじめ,ずいぶんと通いました。今のようなオーバーツーリズムもなく,シーズンを避ければ,京都の深い文化に溶け込むことができました。そして,行けば行くほど奥が深いと感じたものです。しかし今は,ウィーンこそが,外国人観光客であふれかえりすっかり魅力のなくなった京都に代わり,京都以上に奥が深いところだと,しみじみ思うのです。

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旅の3日目です。さすがに今回の4泊6日というのは短く,5泊7日か6泊8日というのが今の私にはベストだと思うのですが,短いながらも充実した旅となりました。4泊6日という日程で最も驚いたのは荷物が少ないということで,ただでさえ小さい私のキャリーバッグですがそれでも半分は空でした。
さて,今日はウィーン市内の王宮がメインでした。その後は,美術館などで1日を気ままに過ごすことにしていました。
昨日と同様に,午前6時30分,ホテルでたっぷりの朝食をとって,朝食後ホテルを出発しましたが,王宮の見学コースが開くにはずいぶんと時間があったので,その前に行きたかった3つのお店のうちのふたつに行くことにしました。
ホテルを出たところにあるのが市庁舎で,リンク通りを隔てて,ベルグ劇場があります。昔は城壁だったリング通りに沿って歩道を歩いていくと国会議事堂があるのですが,そこは現在修復工事中です。昨年来たときよりはずいぶんと修復が進んでいるようでした。また,ピアノのスタインウェイのショールームもありました。そのあたりを散歩しながら,先に進みます。

はじめに目指したのはチョコレート店です。私の行きたかったのは Wiener SchokoladenKoenig というお店でしたが,まだ開店していないことは承知で,外から見ることにして行ってみました。このお店はかつて皇室ご用達だったボタン店の内装を生かしたところで,店内にぎっしりとチョコレートが並んでいるという,いわばチョコレートの王様,ここのチョコレートを作っているのは製菓マイスターであるレシャンツさんだそうです。外から見ただけでも,その豪華さがわかりました。次に来るときは,ぜひ,店内に入ってみようと思いました。
その次がパン屋さんです。私が行きたかったのは Bäckerei Arthur GRIMM というお店でした。ここは1900年創設というウィーン最古のパン屋です。もう開店していて,中で食事もできるので,店内には多くの人がいました。私は,外で少し様子を見てから,中に入って Semmel という定番のパンを1個買いました。日本のテレビで紹介していましたよ,と言ったら,店員さんが嬉しそうでした。

王宮が開く時間が近づいてきたので,王宮の見学コースのチケット売り場に向かいました。王宮の手前にあるのが聖ミヒャエル教会で,中に入ってみました。聖ミヒャエル教会はウイーンの最古の教会のひとつです。また,ロマネスク建築の建造物としても現存する数少ないものです。
聖ミヒャエル教会は「ミヒャエラーグルフト」(Michaelergruft)と呼ばれる広大な地下墓地をもっていて,気候条件に恵まれ温度変化が少ないために保存状態のよい遺体が4,000体以上あり,ミイラ化した遺体が,あるものは葬儀の衣装や鬘をつけられ,あるものは開いた棺の中で花や髑髏で飾られ,またあるものはバロック絵画やヴァニタスの象徴で飾られながら展示されていて,それらは教会右手の建物から入ると見ることができるということを,私は,帰国後に知りました。

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シェーンブルン宮殿の奥,グロリエッテの丘に上って,またひとつ念願がかないました。はじめの予定は,来たときの反対に,シェーンブルン宮殿のもよりの地下鉄の駅にもどって,どこかで夕食でも,と思ったのですが,グロリエッテの丘から下る途中で気が変わって,右に曲がってシェーンブルン宮殿の東出口から出て,東に向かって歩いて行くことにしました。
私はWifiルーターを持参して歩いているので,どこでもネットにつなげて地図を見ることができるのですが,Wifiルーターの電源を入れるのも面倒になったので地図も見ないで知らない町を歩くことにしたのです。こうして知らない町を歩くことが嫌いでないのが難点? です。
東,つまり,ウィーンの市街地に向かって歩いて行けば,どこか知らない繁華街にでられるのでは,というまったく根拠のない考えでした。しかし,遠くに明かりは見えても住宅地があるだけでした。それでも懲りずに1時間近く歩いて行くと繁華街に出ました。そこはたくさんの店があってにぎわっていたのですが,なぜかレストランらしきものがありませんでした。やっと,300メートル先にマクドナルドがあるという看板をみつけたので,そこで手を打つことにしました。マクドナルドのある場所はウィーン・マイドリンク駅でした。私がバーデンから路面電車で戻ってきて地下鉄に乗りかえた場所です。
マクドナルドはものすごく混み合っていました。席もほとんど埋まっていのですが,なんとか座る場所を確保して夕食をとりました。

さあ,これでホテルに戻ればいいのですが,私には,もうひとつ行きたい場所がありました。それはプラター公園の観覧車でした。この観覧車はずいぶん遅くまでやっているのです。そこで,ホテルに戻る途中で,プラター公園の最寄り駅であるプラターシュテルン駅で途中下車することにしました。
プラター公園は,昨年来たときに観覧車を外からだけ見たことがあります。昨年はちょうど雪が降った後で,とても美しかった記憶があります。
プラターシュテルン駅に着きました。昨日ウィーンに到着したときにもプラターシュテルン駅で乗り換えたのですが,そのときはすでに夜8時過ぎだというのに,多く人が公園に向かっていく姿を見ました。この日は,昨日よりは早い時間でしたが,プラターシュテルン駅はやはり大賑わいでした。駅舎にはなんと「running sushi」なるレストランもありました。おそらくこれは回転寿司でしょう。
プラター公園まで歩いていって,中に入りました。公園の入場料は不要です。プラター公園の観覧車は映画「第三の男」で有名になったものですが,こんな観覧車にだれが乗るのだろうと思っていました。遠くから見ていても観覧車が回っている感じもありませんでした。ところが,観覧車のチケット売り場は満員でした。
観覧車は12人乗りだから客車のようなものです。しかもおもしろいのは,それぞれのゴンドラに趣向があって,あるものはミーティングルームのようになっているし,あるものはレストランになっていて,一組のカップルが食事をしていました。
私は,5月にオーストラリアのブリスベンで,そして,8月にはフィンランドのヘルシンキで観覧車に乗りました。どうやらこのところ観覧車づいています。しかし,海外では,観覧車は日本の観覧車のように停まらずにゆっくり回転するのではなく,降り口で一旦停車をします。停車をして順々にゴンドラに客を乗せていって,すべてのゴンドラに乗客が乗り終わったら今度は止まらず何周も回転するのです。この観覧車の場合は,レストランになっているゴンドラは地上に着くたびにボーイが中に入って片付けをし,新しい料理を運び込んでいました。なんと水も継ぎ足していました。私は一般のゴンドラに乗りましたが,この観覧車の最上階からは思ったよりずっと眺めがよくて,ウィーンの夜景を十分に楽しむことができました。
ウィーン滞在2日目,実質滞在1日目は,こうして順調に,昨年行くことのできなかった場所に次々と訪れることができたのでした。

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この日は昨日の市庁舎前のクリスマスマーケットに続いてバーデンとカーレンベルグの丘のふたつの念願がかなって,その次に私が目指したのは,シェーンブルン宮殿の裏手のグロリエッテの丘でした。
カーレンベルグの丘からハイリゲンシュタット行きのバスに乗りました。ハイリゲンシュタットまで行って,そこで昼食でもとって,そのあとで地下鉄でシェーンブルン宮殿に行こうと思っていました。「地球の歩き方」にはハイリゲンシュタットの周辺の地図だけは載っていて,それを見ていると,バスはグリンツェングを通ることがわかりました。グリンツェングには墓地があって,そこにはグスタフ・マーラーが眠っています。昨年,私は,ハイリゲンシュタットへ行ったときにその墓地のことを知って,墓地まで歩きました。ものすごい距離でした。グスタフ・マーラーはなんと不便なところに眠っているものだと思いました。この墓地には,グスタフ・マーラーの妻だったアルマ・マーラーの墓も斜め後ろにあるということだったのですが,探しても見つからず,それだけが心残りだったのです。
不便だと思った場所は,カーレンベルグからバスに乗ってグリンツェングで降りれば,さほど不便な場所でもないようでした。来るときもグリンツェングは通ったのですが,気づきませんでした。そこで,グリンツェングでバスを降りふたたび墓地に行って,アルマ・マーラーの墓を探すことにしました。

バスを降り,墓地まで歩きました。まさかまた今年グリンツェング墓地に来るとは思いもしませんでした。墓地に着くと,グスタフ・マーラーの墓の近くの墓に墓参りに来ていた人がいました。そこにいた人に,アルマ・マーラーの墓がどこにあるかを聞くと,ついておいで,というポーズをとって,連れていってくれました。それは,グスタフ・マーラーの斜め後ろではなく,少し離れた場所にありました。聞かなければ,今回もまた見つからなかったことでしょう。ここに,アルマ・マーラーは,グスタフ・マーラーの死後に再婚したヴァルター・グロピウスとの間にもうけた娘で早世したマノンと眠っています。
グスタフ・マーラーとアルマ・マーラーは生前,不仲でした。アルマ・マーラーは31歳で未亡人となって以来,華麗な恋愛遍歴ののち,1964年に85歳の生涯をニューヨークで閉じました。どうしてニューヨークで亡くなったアルマ・マーラーの墓がウィーンにあるのか調べてもわかりません。アルマ・マーラーの生涯については多くのブログがあるのですが,どれもみな人のブログから引用しあっているだけで,同じことしか書いてありませんでした。さらに調べたら,唯一,ウィキペディアの英語版に次のように書かれているのを見つけました。
  ・・・・・・
Alma Mahler-Werfel died 11 December 1964 in New York City. She was buried on 8 February 1965 in the Grinzing Cemetery of Vienna, in the same grave as her daughter Manon Gropius and just a few steps away from her first husband Gustav Mahler.
  ・・
アルマ・マーラー・ヴェルフェルは1964年12月11日にニューヨークで亡くなりました。 彼女は1965年2月8日にウィーンのグリンツィング墓地に,娘のマノン・グロピウスと同じ墓に,そして最初の夫グスタフ・マーラーからほんの数歩離れたところに埋葬されました。
  ・・・・・・
つまり,アルマ・マーラーはグスタフ・マーラーと同じ墓地に眠っているというよりも,娘のマノン・グロピウスのもとに眠っているということなのでしょう。
以下は以前私がこのブログに書いたアルマ・マーラーに関することの再掲です。
  ・・・・・・
アルマ・マーラー,つまり,アルマ・マリア・マーラー・ヴェルフェル(Alma Maria Mahler-Werfel)はオーストリアの作曲家グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)の妻でしたが,華麗な男性遍歴で知られます。彼女は作曲家アレクサンダー・ツェムリンスキー(Alexander von Zemlinsky)に入門し歌曲の作曲を開始しましたが,アレクサンダー・ツェムリンスキーより前にグスタフ・クリムトと深い仲にあったといいます。
そののち,アルマはグスタフ・マーラーと知り合い,グスタフ・マーラーからの求愛に応えて結婚を承諾しました。当初こそマーラーを支えることに愛を見いだしたアルマでしたが,夫婦中は冷えきりました。やがて,未亡人となったアルマは,画家のオスカー・ココシュカと関係を深めながらもヴァルター・グローピウス(Walter Adolph Georg Gropius)と再婚,ヴァルター・グロピウスとの間にもうけた娘がマノン(Manon Gropius)でした。そして,マノンのことをことのほかかわいがったのがアルバン・ベルクでした。
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こうして,私は,アルマ・マーラーの墓を訪れるという念願がかないました。そしてまた,昨年この墓地を訪れたあと,マノンの死を偲んで作曲したというアルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲をNHK交響楽団の定期公演で聴いてきたというのも手伝って,偶然とはいえ,この地にアルマとマノンが眠っていることを知った私には,深くこころに染み入るものがありました。

さて,次の目的地シェーンブルン宮殿へ急ぎます。
昨年は,はじめてのウィーンということで,現地ツアーに参加して,シェーンブルン宮殿には入りました。しかし,私が行きたかったシェーンブルン宮殿裏手のグロリエッテの丘には行くことができなかったのです。路面電車,地下鉄と乗り替えて,シェーンブルン宮殿に着きました。少し雨が降ってきましたが,歩くには支障がなさそうでした。
着いた頃にはすでに日が沈んでいましたが,このころからシェーンブルン宮殿に行く人でいっぱいでした。この宮殿はこの時間に入るほうが空いているようです。私は,宮殿内部は昨年見たので,行先はグロリエッテの丘でした。この丘,30分ほど坂を登る必要があるのです。坂の途中で登りたくなくなった幼児が座り込んでダダをこねていました。しかし,登りきったところからのウィーンの景色は最高でした。
中腹にシェーンブルン動物園の入口がありました。私は,うかつでした。このシェーンブルン宮殿に動物園があるのは知っていましたが,きっと大した動物園でもあるまいと,まったく気にも留めていませんでした。帰国してから,偶然,NHKBSプレミアムでこのシェーンブルン動物園を放送していて,これがまあ,世界でも有数の動物園だったのです。
私は,今年動物園を見損ねたばかりに,来年もまたウィーンに行くことになってしまうのです。

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ベートーヴェンの小径とベートーヴェンハウスに行ったので,私はバーデンに堪能して,ウィーンに戻ることにしました。なにせ,4泊6日の旅,実質観光できるのは3日,しかも,最終日はハルシュタットへ行くので,2日間しかありません。その2日で昨年行くことのできなかった場所に行こうというのだから,急ぎの旅になってしまいます。
私が次に目指したのはカーレンベルグ(Kahlenberg)の丘でした。カーレンベルグの丘というのは,ウィーンの北側にあって,昨年行ったハイリゲンシュタットからさらに北の山の上です。昨年知っていれば行ったものの,すっかりその存在を忘れていました。この丘からウィーンが一望できるということだったのですが,なにせ,ハイリゲンシュタットからはバスの便しかありません。日本の感覚だと,バスなんて1時間に1本か2本と思うし,まして,そんな山の上の展望台にシーンオフのこの時期に行く人なんているのだろうか,と思いましたが,ともかく,行ってみなくてはわかりません。

行きと反対に,バーデンから代替バスに乗って,途中で路面電車に乗り換えます。バス停はすぐに見つかってほっとしました。来るときにわかったのですが,ウィーン歌劇場から路面電車に乗らなくても,ウィーン市内に入ったら途中の駅で地下鉄に接続しているから,そこで地下鉄で帰った方がずっと早いのです。バーデンはウィーンの南,そして,これからめざすカーレンベルグの丘はウィーンの北側ですが,地下鉄に乗りさえすれば,ハイリゲンシュタットはすぐです。
思った通り,順調に,ハイリゲンシュタットに着きました。ここでバスに乗り換えるのですが,カーレンベルグの丘に行くバスは 38A,地下鉄の駅を出ると,なんと,そこにバスがいたので,慌てて乗り込みました。しかし,38A のバスの行先は終点がWagenwiese まで,Cobenzl Parkplatz まで,カーレンベルグ(Kahlenberg)まで,さらに,レオポルツベルグ(Leopoldsberg)までと,4種類もあると「地球の歩き方」に書いてありました。しかし,この4か所のバス停の位置関係がさっぱりわかりません。いずれにせよ,38Aには違いがないので,ともかく乗り込んだのですが,運悪く,乗ったバスはWagenwiese 行きでした。
乗ってからわかったのですが,Wagenwiese は一番手前で,その次のバスの終点 Cobenzl Parkplatz はカーレンベルグのひとつ手前の展望台のある場所,そして,レオポルツベルグはカーレンベルグのさらに先でした。カーレンベルグの先のレオポルツベルグにも展望台があって,そこからカーレンベルグまで戻るのが絶好のハイキングコースということでした。であるなら,レオポルツベルグまで行ってみたいものだと思いました。ともあれ,私の乗ったバスの終点であった Wagenwiese はカーレンベルグよりはるかはるか手前だったし,そこからカーレンベルグまでは急坂でもあり,歩いて行ける距離でもありませんでした。そこで,Wagenwiese でバスを降ろされても次に来るバスを待つしか方法はありませんでした。ハイリゲンシュタットで慌ててバスに乗る必要もなかったのです。
しかし,次の,今度はカーレンベルグ行きのバスが来るまでの待ち時間は時刻表で確かめるとわずか10分程度だったので,ほっとしました。私と一緒に降りたのは地元に住む初老の女性で,バスを待つ間なんとなくおしゃべりとなったのですが,彼女は英語がからっきしわからず,私はドイツ語がほとんどわからないという状況,それでも会話がはずむというのが不思議なのですが,夏に行ったフィンランドでも,フィンランド語しかわからない初老の男性と話がはずんだということもあり,言葉というのは気持ちだけでも何とかなるということを実感しました。まあ,たわいもないことを話しているだけだから問題はないのです。日本でもほとんど何を言っているのかわからない老人と話をしていたりすることがあるのですが,それと同じようなものです。

やがて,カーレンベルグ行きと表示されたバスが来たので乗り込みました。しかし,実際は,そのバスはその先のレオポルツベルグまで行くのでした。私には願ったりかなったりで,そうなら終点のレオポルツベルグまで行こうと思いました。バスはかなりの坂を登って行きました。私と一緒に乗り込んだ初老の女性はカーレンベルグのひとつ手前のバス停で降りました。カーレンベルグのバス停にあった駐車場には結構多くの車が停まっていたので,こんな季節でも人は来るのだと思いました。そこでまばらだったにせよほとんの乗客は降りてしまい,バスは私だけが残った気がしたのですが,まだ,あとふたり乗っていました。そこからさらにバスは少し坂を登って終点のレオポルツベルグに着きました。バスを降りたのは,私の他には若いふたり連れの女性だけでしたが,その女性たちもまた,レオポルツベルグからカーレンベルグまでハイキングを楽しみに来たのでした。
レオポルツベルグの丘には古城があって,中には入れないのですが,古城のほとりにあった広場からはウィーンが一望できました。それはカーレンベルグの丘からよりずっとすばらしい景色でした。あいにく天気が悪かったのですが,それでもドナウ川を見ることができました。
そのあと,カーレンベルグの丘まで30分ほどのハイキングを楽しみました。

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バーデンはウィーンの南約26キロメートルに位置していて,古代ローマ時代から良質な硫黄泉で知られた温泉地でした。19世紀初頭にハプスブルク家の夏の離宮が置かれたことから急速に発展し,その後は王侯貴族や芸術家たちが集まる華麗な高級保養地となりました。
ベートーヴェンは引っ越し魔でした。22歳になる直前にドイツのボンからオーストリアのウィーンに移り住んで以来,亡くなる56歳まで70回とも80回とも言われている引っ越しをしました。
それは,夏の間はハイリゲンシュタットなどの郊外で過ごし,夏が終わるころにウィーン市街地に戻ってくるというライフスタイルをとっていたことに加えて,近隣住民とのトラブルが絶えなかったことが原因ということです。気難しく不作法だったと伝えられているベートーヴェンはトラブルが絶えなかったらしいのです。
そんなベートーヴェンは,保養のためにバー デンを定期的に訪れていました。当時,皇帝フランツ1世とその家族の夏の避暑地であったこの町には,皇室を取り巻く貴族と高級市民たちが集まり,ベートーヴェンの後援者たちがいました。
現在ベートーヴェンハウスとなっている家は,ベートーヴェンが滞在していたころはパン屋で,その後銅の鍛錬所となっていましたが,2014年の秋から博物館「ベートーヴェン・ハウス」として開設されました。改装工事中にベートーヴェンの夏用アパートのオリジナルの壁絵が見つかり公開されています。それが,私が訪ねた今は博物館となっているべートーヴェンハウスです。開館は午前10時,私は,開館の時間に入ったので,ほかに訪れる人もなく,静かなときを過ごすことができました。

ベートーヴェンがシラーの詞「歓喜に寄す」にいたく感動し,曲をつけようと思い立ったのは1792年のことでした。それは当時22歳でまだ交響曲第1番も作曲していない時期でした。ただし,この時点ではこの詞を交響曲に使用する予定はなかったといわれます。
交響曲第7番から3年を経た1815年ごろから交響曲第9番の作曲に取りかかりました。さらに,1817年ロンドンのフィルハーモニック協会から交響曲の作曲の委嘱を受け,これをきっかけに本格的に作曲を開始しました。ベートーヴェンは第5番と第6番の交響曲,また,第7番と第8番の交響曲を作曲したときと同じように2曲の交響曲を並行して作曲する計画を立てていましたが,最終的には交響曲をふたつ作ることを諦めて現在のような形となりました。第4楽章の歓喜の歌の旋律が作られたのは1822年ごろのことで,はじめに第9番として作曲していた合唱のない第4楽章は,弦楽四重奏曲第15番の第5楽章となりました。
第9番は1824年に初稿が完成し,その後何度か改訂され1824年5月7日に初演されました。

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私が昨年,今年と2回オーストリアに行って,最もよかったことは,ハイドン,モーツアルト,ベートーヴェン,マーラー,ブルックナーなどの作曲家の足跡をたどることができたことでした。また,こうした場所は,オーバーツーリズムに代表されるうざったい観光客がいないのも,私にはストレスがなく,快適でした。その結果,ますますそうした音楽が好きになりましたし,聴き方も変わってきました。この日,バーデンに行ったのも,ベートーヴェンが交響曲第9番を作曲した場所を見たかったからです。
代替バスを降りて,とりあえず,土地勘ができるまでバーデン市内を散策です。30分もすればわかってくるのですが,到着したばかりのときは,どこへ行ってもはじめてのところは戸惑います。
バーデンは広くないので,歩いてまわることができますが,道が入りくねっていて,なかなか土地勘がつかめませんでした。それでもどうにか,ベートーヴェンハウスを見つけることができました。開館は10時で,今は博物館になっているベートーヴェンハウスはまだ開館していませんでした。そこで,先に,ベートーヴェンの小径とよばれる,ベートーヴェンが散歩をした小道を歩いてみることにして,北に向かって行きました。

この夏に行ったフィンランドも同様ですが,ヨーロッパではこうした郊外の小さな町はどうしてこんなに美しいのでしょう。日本とはえらい違いです。
まず,見つけたのは,モーツアルトホフという建物でしたが,ここは非公開でした。モーツアルトの妻コンスタンテェが療養で滞在した場所で,ここで妻の世話意をしたバーデンの合唱団の指揮者シュトルさんにモーツアルトが「アベ・ベルム・コルプス」を贈ったのだそうです。さらに進むとシュテファン教会がありました。シュテファン教会はモーツアルトゆかりの教会で「アベ・ベルム・コルプス」が初演された場所です。
さらに進むと,ベートーヴェンの小径にたどり着きました。この小径,延々とウィーンの森まで続いているので,途中で引き返しました。高台からはバーデンの風景が美しく眺められました。
再び,街中に戻ると,ベートーヴェンハウスが開館していました。

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旅の2日目。今日は,昨年行くことのできなかったウィーン郊外の温泉保養地バーデンへ行くことにしました。私がこの町の名前を知ったのはベートーヴェンで,今回バーデンへ行くのも,温泉に入るためではなく,べートーヴェンの足跡を探しに,でした。昨年泊ったのはウィーン国立歌劇場ちかくのホテルでしたが,国立歌劇場の前からはバーデン行きの路面電車が出ていて,何度もそれを見ました。今年はぜひ,それに乗りたいと思っていました。
宿泊していたホテルでは朝食が午前6時30分からでした。この夏に宿泊したヘルシンキでもそうでしたが,ホテルの朝食が予想以上だったのがうれしい誤算でした。食事がまるで餌でしかないアメリカとはえらい違いです。そしてまた,日本の私の宿泊する東横インのように,朝食がすし詰め状態で,しかも,ご飯に味噌汁,コーヒーは紙コップ,というようなお粗末なものではなく,非常に充実し,しかも空いていたのが最高でした。
私はゆっくり朝食をとって,ホテルを出ました。バーデンもまたウィーン市内でないので,別にチケットが必要です。乗り場にはチケット売り場があったので,窓口でチケットを購入したのですが,市内の範囲はもっていた2日有効乗り放題チケットが使えて,郊外の部分だけの往復チケットが購入できました。ウィーンでも観光地は英語で何とかなるのですが,購入したチケットがドイツ語しか書いてないのが難点です。しかし,今は,iPhoneの翻訳アプリを起動してかざすと翻訳してくれるので助かります。

やがてきた電車に乗りました。
ウィーン市内は結構混んでいて,時間もかかりましたが,街中を出ると,電車は路上から架線に変わって,周囲ものどかな風景に代わりました。
あとは到着するだけだなあと思いながら,車窓からの景色を楽しんでいると,目的地でもないのに,すべての乗客が降ろされました。とまどっていると,一見こわもての,しかし親切なおじさんが私に,この先はバスに乗り換えだ,といかいう意味のことをドイツ語で言いました。そして,バス停の場所を教えてくれました。彼の助けで救われました。このおじさん,大声で指を指しながら私に向かって「ブス,ブス」と叫んでいるので,はじめはいったい何を言っているんだろうと思ったのですが,ドイツ語の「ブス」が英語の「バス」だと気づいて私はやっと納得したというわけですが,要するに,線路の工事をしていて,その先が不通になっていて,代替バスが出ているのです。
私はこうした経験を以前ニューヨークのブルックリンの地下鉄で経験しているのですが,こうしたことが旅で起きると,ほんとうのパニックになります。電車のチケットを買うときに教えてくれなかったのか,教えてくれたのにわからなかったのか,ともかく,何か標示はあったのでしょうが,うかつでした。代替バスはほぼ線路に沿って走っていくので,それぞれの駅の近くで停まっては乗客が乗り降りします。しかし,いくつかの駅はスキップするようで,もし,そうした駅で降りるということだったら,ずいぶん戸惑ったことでしょう。
このように,なんやかやとあったのですが,こうした思いがけない出来事こそが旅の醍醐味。無事,終着のバーデンに到着して,駅前で降りることができました。

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部屋に荷物を置いて,外に出ました。昨年ウィーンに来たときに,主だった場所には行ったのですが,うかつにも市庁舎前のクリスマスマーケットとスケートリンクに行けなかったので,まず,そこからです。ホテルからは歩いてわずか5分程度の場所です。
クリスマスマーケット(ドイツ語でWeihnachtsmarkt)というのはドイツやオーストリアの都市の広場で「アドベント」に行われるイベントで,ドイツ圏ではほぼ全ての都市で行われています。「アドベント」(Advent)というのはキリスト教西方教会においてイエス・キリストの降誕を待ち望む期間のことで,11月30日の「聖アンデレの日」に最も近い日曜日からクリスマスイブまでの約4週間,最も早い年で11月27日,遅い年でも12月3日にはじまりますが,クリスマスマーケットは11月25日ごろから12月22日くらいまで行われます。なお,西方教会(Western Christianity)というのは,西ヨーロッパに広がり成長したキリスト教の諸教派(ローマ・カトリック教会,聖公会,プロテスタント,アナバプテストなど)の総称です。
広場の中心にクリスマスタワー(クリスマスピラミッド)とよばれる大きな仮設の塔が置かれ,ここでホットワインやホットチョコレートが売られていて,その周囲に出店が並び,簡単な食事や土産物が売られています。出店は日本のようなテントではなく,木造の家屋のような作りになっていて,華やかなライトアップで飾られます。
私が11月末にウィーンに行くのは,こうした華やいだ街であることと,12月の冬休みシーズンよりも早いので比較的空いていることにその理由があります。
哲学も文化も宗教も思想のかけらもない日本では,単に金儲けの手段として,クリスマスもハロウィーンも,そして,節分も,その本質とはかけ離れて存在していますが,逆に,歴史と文化に根差した京都の行事は,オーバーツーリズムによって台無しとなっています。私はそうしたものにはまったく興味もなく,また,なくなり,行く気も失せました。そこで,実際のヨーロッパに出かけて,クリスマスマーケットを心から味わうのです。
こうして,今年のウィーン旅行の1日目は,楽しく更けていくのでした。

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ヘルシンキからウィーンまでの機内はほぼ満席でした。国際線と違って,荷物を機内に持ち込む乗客が多くて,乗るのが遅くなった私は,荷物を入れる場所に苦労しましたが,なんとかなりました。2時間30分程度のフライトで時差が1時間,定刻,ウィーンに到着しました。昨年はじめてきたときはウィーンの国際空港からウィーン市内まで行く電車に乗るのに少し戸惑いましたが,今年も同じでした。ウィーン国際航空からはCATという高速鉄道とS7という近距離電車があって,時間はほとんど同じですが,CATのほうが運賃が倍ほどかかります。ホームは並んでいて,はじめて行った人にはとてもわかりにくいです。ホームに降りる途中に,案内所があって,昨年はそこにあった自動販売機で並んでチケットを購入したのに,そのあとホームに降りて行ったら,そこに多くの自動販売機があったのでがっかりした経験があって,今年は案内所をそのまま通り過ぎて,たくさん並んでいた自動販売機でチケットを購入しました。
自動販売機の表示はドイツ語と英語が選べるのですが,これもまたわかりにくいのです。ウィーン市内は一律料金なのですが,ウィーン国際空港のある場所は,ウィーン市内からわずかばかり出ているので,郊外の部分だけ余分にチケットを購入しないといけません。ウィーン国際空港からウィーン市内までというチケットを買うことにしていたのですが,間違えて,ウィーン国際空港から市内の境界までの片道チケットを買ってしまったようでした。わずか数百円とやけに安かったので,買ってからその失敗に気づきました。そこで,改めて,市内までのチケットを買ったのですが,今度は間違えて48時間有効の市内エリア乗り放題可能というチケットを買ってしまいました。しかし,それが後で功を奏します。

ウィーンでは公共交通は改札がありません。チケットを買っても,検札が来なければ,ただ持っているだけです。
今度はホームに降りると,どの列車に乗ればいいのかがわかりません。S7というのに乗ればいいのですが,その表示がないのです。それでも何とか確かめて,正しい列車に乗り込んで約20分,ウィーン市内のプラターシュテルン(Praterstern)駅で降りて,地下鉄U2に乗り換えました。このころから,昨年のことを思い出してきました。
今年予約したのは市庁舎近くのホテルでした。そこで,ラザウス(Rathaus)駅で降りて,地上に出ました。
ホテルの場所は調べてあったので,そこから5分ほど歩いていってホテルを見つけました。
昨年はなんと豪華な五つ星ホテルだったのですが,今年予約してあったホテルは古びたビルで,第一印象はがっかりしました。部屋も,普通の下宿屋のような感じでした。しかし,このホテル,第一印象とはまったくちがって,とても居心地のよいところでした。

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私がオーストリアに行くには,いつものように,セントレア・中部国際空港からフィンランドの首都ヘルシンキのヴァンター国際空港でトランジットして,ウィーン国際空港まで,フィンランド航空を利用します。アメリカに行くときに比べて,行きが西向きなので,お昼に出発して夕刻に到着し,そのままホテルでチェックインしたあとで休むことができるから,時差ボケもなく,非常に楽です。
これもまた,いつものように,セントレアまでの名鉄が遅延することも考えて,3時間前に到着するように自宅を出ましたが,定刻に空港に到着できました。事前にフライトのチェックインも済ませてあって,荷物も機内に持ち込める大きさと重さに収めてあるので,そのままセキュリティを越えて,搭乗時間までラウンジで過ごしました。
今回の旅で最も苦労したのが持っていく服でした。昨年はコンサートとオペラにも行ったので,別の意味で大変でした。スーツとネクタイ,そして,靴もスニーカーでなく,用意する必要がありました。今回はそうした予定はなかったので,いつも出掛けるようなカジュアルなものでよかったのですが,現地の気温がよくわかりません。ウィーンはさほど寒くないようでしたが,3日目にいくハルシュタットが問題でした。結局,日本を出発するころに日本も急に寒くなったので,それに合わせて用意して,さらに,ハルシュタットに行く日だけ以前フィンランドでオーロラを見にいったときに購入した厚手のダウンジャケットを持っていくことにしたのですが,結局,それで完璧でした。年に6回も7回も海外旅行をしていると,慣れたもので,持ち物が非常に少なくなってきます。今回は機内に持ち込んだキャリーバッグは半分空の状態でした。

定刻にセントレアを離陸しました。
これもまたいつものように,座席はエコノミーコンフォートの最前列の窓際でした。機内は空いていて,6割程度でした。最新式のエアバスA350 のエコノミーコンフォートは最前列だけが窓際は2席です。最前列は前が広いので通路に出るのに支障がないから私は窓際をとりますが,いつも隣はあいています。予想に反して,今回は隣が空席でなく,パリに住んでいるという女性が座りましたが,いろいろお話を伺って楽しい時間となりました。フランスはこのごろ若者が自爆テロを起こしたり,デモがあったと,住んでいてもいつも人が信用できずストレスが溜まるのだそうです。

ところで,利用するたびにいつも思うのですが,フィンランド航空は少し値が張りますが,ストレスがなく,快適です。食事が2回,途中,窓からは眼下にシベリアの雪景色がきれいに見えました。西向きに飛ぶときは機内で寝る必要もないので,ずっと映画を見ていました。映画を4本見たら,飛行機は着陸体勢に入りました。
やがて,緯度が高く,お昼すぎたばかりだというのにすでに暗くなったヘルシンキのヴァンター国際空港に到着しました。天気は雨でした。
ヴァンター国際空港は,現在,拡張工事中ですが,8月に行ったときよりずいぶん完成していて,トランジットのためのセキュリティはすごく広くなって,ガラガラで,あっという間に通り過ぎました。以前は,このセキュリティが混んで大変だったのがストレスでしたが,それも解消されました。
さあ,あとはウィーンに行くだけです。次の便の搭乗時間まで1時間,ヴァンター国際空港のEUシュンゲン圏内乗り換えゾーンのラウンジで過ごしましたが,ラウンジはすごく混んでいました。

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昨年に続いて,今年も同じ時期にオーストリアに行くことにしました。
2016年にEテレで放送していた「旅するドイツ語」の舞台がオーストリアで,それまでまったく興味のなかったその場所に行きたくなりました。そこで,昨年,航空券とホテルを予約して,何の知識もなく出かけました。ところが,出かけてみると,それが思った以上にすばらしいところで,コンサートもオペラも多くの絵画も見て,さらに,行くことができないと思っていたザルツブルグまで足を延ばせました。そして,これは毎年この時期はウィーンだと思ったのでした。
ウィーンに限らず,ヨーロッパを楽しく旅するには,音楽と美術,そして世界史を知っていることが必要だと知りました。そこで,私は,この1年をかけて,世界史と美術の本をずいぶんと読みました。そして,さらに興味が増しました。そうしたわけで,今年も当然のごとくウィーンに行こうと,昨年のように,航空券とホテルを予約しましたが,日程の都合でわずか4泊6日,到着は夜,帰りは朝なので,実質3日間の観光ということになりました。

今年は,なんとなく,昨年行くことができなかったウィーン郊外の保養地バーデンとハルツシュタット,そして,チェコのプラハまで足を延ばそうと思っていました。ところが,バーデンはともかく,ハルシュタットはあまりに遠く,とても日帰りで行くことができそうにありませんでした。ハルシュタットは,昨年行ったザルツブルグのように列車で行くことができると思っていたのですが,ザルツブルグからさらに乗り換えていかねばならないのです。さらに,プラハなどもっと遠くて論外でした。このように,思っていた場所に行くことができず,次第にテンションが下がってきて,行ってもいったい何をするのだろうと思うようになってきました。
それに代わる何か現地ツアーがないかと探してみると,ウィーンからハルシュタットまでの日帰りツアーを見つけました。それもわずか13,000円程度だったので,それを予約しました。これで,念願のハルシュタットには行くことができることになりました。結局,1日目はバーデンに行き,2日目はアイゼンシュタットに行き,3日目はハルシュタットに行く,ということになりました。出発が近づいてきたので細かい予定を調べていくと,なんと,アイゼンシュタットの主だった観光地はこの時期は開いていないということがわかって,愕然としました。毎度のこと,私の旅はこんないい加減な計画なのです。結局,アイゼンシュタットはあきらめ,1日目は2日目のどちらかでバーデンに行き,後の時間は,昨年行くことのできなかったウィーンのさまざまなところを散策することにしました。
では,出発です。

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