NHKBSプレミアムで放送された番組「あなたも絶対行きたくなる!日本最強の城 明智光秀スペシャル」は
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日本の城の魅力を紹介する人気歴史エンターテイメント。今回は大河ドラマの主人公・明智光秀に関わる城を大特集! あなたも絶対行きたくなる最強の城に選ばれるのは!?
紹介するのは思わず写真に撮りたくなる「フォトジェニックな城」,敵を撃退するための仕掛けがすごい「守りの堅城」,そして運動不足になりがちな冬こそ訪ねたい「アウトドアにオススメの城」。
光秀が築いた福知山城に隠された謎とは? 天空の山城・黒井城の恐るべき防御力。そして戦国の城に革命をもたらした安土城のインパクト。今回も魅力あふれる名城が続々登場。これを見れば、大河ドラマが何倍も楽しめること間違いナシ!
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というのが紹介でしたが,私は,この番組で「黒井城」というものをはじめて知りました。しかし,まさか行くとは思いませんでした。
黒井城は別名を保月城といいます。氷上郡黒井にそびえる標高356メートルの山頂にあり,全山が要塞化しています。
建武年間に赤松貞範が築城し,赤松氏が5代にわたり約120年間この地を統治していたということですが,その後の経緯はわからず,戦国時代には赤井直正の居城となりました。
1579年(天正7年)赤井直義の時代,明智光秀の丹波攻めで唯一抵抗しましたが,4年もの歳月ののち落城しました。のち,斎藤利三が城主となり改修,山崎の戦いの後に堀尾吉晴が入城。関ヶ原の戦いの後には川勝秀氏が城主となりましたが,その後廃城となりました。
はじめの予定のように,大相撲大阪場所を見た後で,バスとJRを使って余部,豊岡,福知山と旅をしたならば,おそらく,この黒井城には行かなかったことでしょう。予定変更となって,車を利用したことから,行くことになりました。それでも,福知山城に着いたときには,まだ,黒井城まで足を延ばす予定はありませんでした。
福知山城にあったこの地方のパンフレットを見て,そうか,黒井城はそれほど遠くないのだなあ,と気づいて,寄り道をすることになったのです。そんな程度の動機だったので,やがて訪れる悲劇? に私は思いを寄せることもありませんでした。
福知山城から黒井城を目指して,舞鶴若狭自動車を走りました。春日インターチェンジを出て春日町に入ってからは,車がすれ違うこともできないほどの狭い道をたどりました。ほとんど標示もなく,行く人なんているのかと思っていると,やがて,黒井城の登り口にあった駐車場に到着しました。多くの車が停まっていて驚きました。ここに車を停めて登っていくのです。
私は,駐車場から簡単に山頂に行けるものだと思っていました。
ところがどうでしょう,ここは「雲海の城」。かなり大変でした。昨年,それもまた,自分だけなら決して登る気もなかったオーストラリアのエアーズロックに登ったよりも,はるかにめげました。エアーズロックに登るときは,はじめから登る支度をし,水の入ったペットボトルを2本も持って出かけました。しかし,黒井城は容易く登れるものだとばかり思っていたので,私が持っていたのはカメラだけで,途中で喉がからからになりました。しかも,服もたくさん着込んでいたので汗だらけになりました。登山道は緩やかに登るコースと急坂コースがあって,つねに緩やかに登るコースを選んだのですが,それでもたいへんでした。
実は,今回だけでなく,のちに書くことになるのですが,このあと行った様々な場所で,私はまったくその気もなかったのに,このときと同じようにまた毎回山登りをすることになってしまうのは,我ながら迂闊というか,懲りないというか…。
ともかく,へろへろになりながらどうにか山頂に到着しました。それでも,山頂からは雄大な景色が眺められたので,登ってよかったと思いました。それにしても,昔の人はこんな山に城を作って,しかも今のような服も靴もないのに,登るだけならともかく,ここで命がけの戦をしたなんて,軟弱な私にはまったく想像ができかねました。
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こうして,私の余部鉄橋を見てこようというだけの動機で出かけたドライブは,わずか1日で,思った以上にいろんな経験をすることができました。日本が狭いこともまた悪くないなあと思ったことでした。
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山陰を行く⑥-福知山城。大阪場所に行けなくなったので…
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豊岡でコウノトリが飛んでいるのを見てから,次に福知山にやってきました。
京都府や兵庫県といっても,私は内陸側(という表現が正しいのかどうかわかりませんが)のことはほとんど知りません。綾部,福知山,丹波篠山,朝来,豊岡… など,名前だけは聞くのですが,どんなところなのか見当がつきません。しかし,特に福知山というところは立派なお城があって明智光秀が平定した場所だということは昔から知っていて,一度は行ってみたいと思っていました。
何度も書いていますが,NHK大河ドラマ「麒麟がいく」のブームに乗ってかっているのではないのですが,なんだか,それにつられはじめてしまっているような気がしないでもありません。
ともかく,私は,福知山城に来ました。お城の周りはきれいに整備されていて,このお城がこの町の観光の目玉商品として重きを置いていることがよくわかりました。広い駐車場はなんと無料で,係員がいて,誘導をしてくれました。
閉館かなと少し心配でしたが,開館していました。ただし,3月11日からは閉館されてしまったようです。
駐車場からは高台にある見事なお城がそびえているのがよくながめられました。早咲きの桜がきれいでした。
お城マニアの人がずいぶんといるようなのですが,私は特に城マニアではありません。しかし,日本国内を観光しようとすれば,どこへ行ってもまずお城です。そこで,これまで結構多くのお城に行きました。
ここ数か月の間だけでも,高知城やら和歌山城に行きました。こうした都会にある城は町おこしの観光拠点となっています。
その一方で,小高い山の上にある,いや,あった城跡もまたたくさんあります。ある人が,日本の標高500メートルくらいまでの山登りをすると,どこも大概山頂に城がある,と言っていました。
しかし,お城といっても,形だけの「なんちゃって城」も多いものです。たとえば,清州城,墨俣城,小牧城,岐阜城のようなものです。それらは当時あった城とはまったく異なるもので,実際は城という名の博物館です。それは,お城のイメージがみな天守閣であったころに企画されて作られたもので,今となっては考えが古いと言わざるをえません。その一方で,実際にあったころのお城の外観であっても,実際は戦禍などで失われ,再建された鉄筋コンクリートのものがあります。名古屋城でも,新たに昔のように木造で作り直そうという機運が生まれても,なかなかそれを実現するには難しい問題がたくさんあるようです。
現存12天守といって,昔のままの状態を残しているものが日本には12あるそうですが,それらもまた,本当に当時のままの状態ではないものが少なくありません。そもそも,作ったものが何百年もその状態を維持することなど不可能なので,それを補修しながら維持することもなかなか難しいことです。
さて,城マニアではなく不勉強な私が誤解していたのは,福知山城が鉄筋コンクリートのものであったということでした。これだけは残念でした。
福知山城の御殿では,2018年11月24日から25日にかけて第31期将棋「竜王戦」の第4局が行われたそうで,そのときの記念品が飾られてありました。対局者は羽生善治竜王と広瀬章人八段で,最後まで勝負の行方が分からない熱戦の末,広瀬章人八段が羽生善治竜王に勝利しました。
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福知山城は平安時代末期の甲斐国の武将である,弓馬術礼法「小笠原流」の祖
小笠原長清の末裔とされる塩見頼勝が掻上城を築城したのがはじまりとされます。塩見頼勝は後に姓を横山に改め,城名は横山城となりました。
織田信長より丹波平定の命をうけた明智光秀が1578年(天正6年)横山城を攻めます。塩見頼勝の子・塩見信房とその弟塩見信勝は防戦したが破れ,これによって,福山地方に属していた国人衆は明智光秀に降伏し,福知山の平定がなりました。明智光秀は横山城を福智山城と改名し,近世城郭へと修築しました。1582年(天正10年)の本能寺の変ののち,山崎の戦いで明智光秀は破れ,明智光秀の在城期間はわずか3年間だけでした。
福知山城は,その後は羽柴秀勝,杉原家次,小野木重勝と城主が代わり,豊臣秀吉の没後,
関ヶ原の戦いの論功行賞により福知山城に入城したのは有馬豊氏でした。その後,岡部長盛,稲葉紀通,松平忠房とめまぐるしく城主が代わりますが,1669年(寛文9年)に朽木稙昌が入部してからは1869年(明治2年)に至る約200年間,朽木氏が統治しました。
1871年(明治4年)に廃城となり,福知山城は解体, 時は過ぎ,1984年(昭和59年)に再建を決定し,1985年(昭和60年)に小天守と続櫓,1986年(昭和61年)に大天守が完成しました。これが現在のものです。
山陰を行く⑤-豊岡。大阪場所に行けなくなったので…
餘部駅のひとつ手前,つまり京都方面に鎧駅があります。この駅に行くには国道を離れて海岸にむかって急坂を降りていく必要があるのですが,この道路,ガードレールがなく,よそ見していると崖から落ちます。おそらく,こんな道路を通るのは地元民くらいなのでしょう。
この急坂,私は,ハワイ島の西海岸カイルアコナから海岸線にそって進む州道11号線から海岸に落ちていく道路を思い出しました。
ところで,鎧駅は1日の利用客が平均8人ほどだそうです。餘部駅が50人ほどなのですが,ずっと昔は餘部駅はなく,余部の人たちは線路を通ってこの鎧駅まで歩いたということです。鎧駅から餘部駅の方向を見ると,すぐにトンネルがあります。鎧駅の標高で余部まで行くと,余部鉄橋が必要なだけの標高差があるということになります。こんな過酷な自然環境に鉄道を走らせる必要があったわけで,そりゃ,計画された当時は大変な難題だったことでしょう。
鎧駅から国道に戻らず,そのまま海岸線を進むと,その手前の,つまり,京都方面に平地がひらけます。そこが香住(かすみ)という集落でした。海と山に囲まれ,町の中央部に矢田川が流れているけっこう活気のある町に見えました。日本海に面していて漁業が盛んで,香住港などで水揚げされる香住ガニを求めて観光客が大勢来るので,民宿や旅館が立ち並んでいました。
私ははじめ列車で余部鉄橋に来る計画を立てたとき,いろいろ調べるうちに,余部に近い香住という町におおくの宿泊施設があることを知りました。しかし,どこもけっこう宿泊代が高価でした。
こうして実際に,余部,鎧,香住と通ってみると,この地方の様子がとてもよくわかります。やはり,旅をしてみないことには,いくらインターネットや書物で情報を集めてもその百分の一もわかりません。
いつか,香住の民宿にでも泊まって日本海に沈む夕日でも眺めたいものだと思いました。少し前に行った岩手や福島,そして高知などのあまり有名でない場所に,私がまた行きたくなるような,いい意味でひなびた,そして,何か落ち着くようなところが日本にもけっこうたくさんあるものだとこの頃思います。
さて,次に目指したのが豊岡です。ここはコウノトリで有名なところだそうですが,実際コウノトリが飛んでいる姿が見られるのかどうかは知りませんでした。
ところで,私は,トキが飛んでいるところが見たいものだとずっと思っていたのですが,それはまだかなえられていません。佐渡島に行けばだれでも簡単に見られるのでしょうか? 何度か行こうと思ったのですが,そのころ,金沢のいしかわ動物園にもトキがいると聞いて,行ってきました。そのことはすでにブログに書いたのですが,檻のなかではありましたが,私はわずかながらトキが飛ぶのを見ました。ということで,一応見たことにして,今は満足しています。
では,コウノトリはどうなのでしょうか?
豊岡には「兵庫県立コウノトリの郷公園」というのがあるそうなので,ともかくも行ってみることにしました。しかし,駐車場に車を停めて入口まで行ったのですが,このご時勢で,「兵庫県立コウノトリの郷公園」は閉園していました。ちょうど来ていた幼稚園の園児たちががっかりして集まっていました。しかし,公園のまわりにひろがる田園にコウノトリが何羽もエサをつついているのが遠くから見えました。するとそのうち,数羽のコウノトリが羽を広げて飛び立ちました。いつも見ることができるのかどうかは知りませんが,こうして,私は,幸運にもにコウノトリが飛ぶのを見ることができたのです。
赤ちゃんを運んでくるというコウノトリですが,実際のコウノトリは湿地生態系の頂点に君臨する鳥で,大型の淡水魚をはじめとする水生動物からヘビやバッタのような陸生動物まで多様な餌を食べる肉食の鳥。現在では極東に2,000羽あまりしか生息していない絶滅危惧種です。
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山陰を行く④-タラコ。大阪場所に行けなくなったので…
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余部に着きました。
私が余部鉄橋を見たかったのは40年ほど前の思い出をなぞるためだけでした。私は,こんな不便なところまで鉄橋をわざわざ見にくるような人がそれほどいるとは思えず,行くのも恥ずかしかったのですが,予想に反して? 余部鉄橋を見にくる観光客がかなりいるようでした。道の駅があったのですが,そこにはかなりの広さの駐車場がありました。
現在,建て替えられた余部鉄橋は,餘部駅のホームへ行くためにエレベータが作られていて,朝6時から使用できました。
私が到着したのは午前8時15分ごろでしたが,まだ,道の駅の売店は開いていなかったので,広い駐車場にはほとんど車はありませんでした。道の駅の駐車場に私は車を停めて,まず,餘部駅のホームに行こうと外に出ました。
道の駅に鉄道の時刻表が張ってあったのでちらりと見ると,8時17分発の列車があるのに気づきました。今まさにちょうど8時17分でした。この列車を逃すと,次の列車は9時台にはなく,10時過ぎにしか時刻表には数字がありませんでした。それ以上のことをしっかり確認する余裕もなく,慌ててエレベータのある所まで走って行って,エレベータに乗りました。しかし,鉄橋の上に到着したときには列車はすでに行ってしまったところで,とても残念に思いました。せめてあと2,3分早く来ればよかったと後悔しました。
気を取り直して,鉄橋の上の展望台を散策することにしました。
新しいほうの余部鉄橋は,当然現役なので,レールがトンネルまで続いています。それと並行に,昔レールがあったほうが餘部駅に向かう通路兼展望台となっていて,その歩道を新しい橋に沿って西側に歩いて行くと展望台は終わり,そこに,無人の餘部駅がありました。
待合室に時刻表があったので改めて確認してみると,私が道の駅で時刻表で見た8時17分の列車は東に向かう上りで,なんと下りの列車が8時38分にありました。何度も見直しました。なんという幸運! うれしくなりました。しかも,下り列車なので,列車は東側のトンネルから出て鉄橋を渡ってホームにやってきます。
これを逃すと,その次の列車は11時5分でした。わざわざせっかく遠い道のりを走ってここに来たのだから,列車が通る姿をぜひ見たいものだと思っていたのが実現しました。
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しばらく待っていると,トンネルから列車の灯りが見えてきました。列車は鉄橋を渡り,やがてホームに停車しました。列車には数えるほどの乗客しか乗っていませんでした。
もしコロナウイルスが流行しないで大阪で大相撲を見ていたら,私は大相撲を見たその翌々日に,大阪から足を延ばして,この時間の下り列車に豊岡から乗ってこのホームで降りて,次の10時43分の上り列車に乗って家に帰ることにしていたのを思い出しましたが,その時間を忘れていました。
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山陰本線に使用されている列車の色は鉄道マニアには「タラコ」とニックネームでよばれる朱色5号,慣用「柿色」のキハ35系です。この色はディジタルの16進表記では「#CA4F3C」です。
この色は塗装工程の簡略化を狙ったもので,1975年(昭和50年)に大宮工場で相模線のキハ10系に試験採用したのが最初です。首都圏の線区からはじまったことから首都圏色という通称でよばれていましたが,登場時期が国鉄末期と重なったこともあり,十分な車体洗浄がなされなかったことと色自体が褪せやすかったことで評判はよくなく,卑称として「タラコ」色とよばれ、退色がすすむと「焼きタラコ」と揶揄されました。やがて国鉄が民営化され,ローカル線のイメージアップのためにカラーリングが採用されるようになると,ほとんど姿を消しましたが,JR西日本の米子支社は今も使い続けています。
列車を見終えて,地上に降りました。
次に海に向かいました。この季節の日本海は非常に波が高く,恐ろしいほどでした。このあたりはカニ漁で有名なところです。この小さな集落のすこし東には香住(かすみ)という町があって,そこはカニ料理で有名な旅館がたくさんあります。
関西では香住漁港にだけ水揚げされるベニズワイガニを「香住ガニ」とよびます。
養分が豊富な海洋深層水で育ったカニは身が詰まり甘味が強くみずみずしいので,茹でガニだけでなく鍋,焼きガニ,カニ刺しなど松葉ガニ同様さまざまな調理法で味わえます。また, 松葉ガニに比べて9月から翌年の5月までと漁期が長いのが特徴です。 香住ガニは,生息域が800メートルから1,500メートルと深く,底引き網が届かないため,餌を入れたかごを海底に沈めるカニかご漁で獲られます。
私は,この海を見ながら,先日行った高知県の足摺岬を思い出しました。ともに漁港ですが,どう考えても,温暖な高知県のほうが住みやすそうに思えました。いろんなところに行ってみると,どんなに自然が過酷でも,それなりに人が住んでいるのが不思議でなりません。ハワイのモロカイ島もまたそうでしたし,アイスランドもそうでした。しかし,高知県は温暖だといっても,夏になると台風が襲うし,どこに住むのが優れているということは一概にはいえません。どこに出かけても,人が生きるって大変だなあと,いつも考えさせられてしまいます。
海を見てから,道の駅が開くにはまだ少し時間があったので,近くあった地元の古びた喫茶店に入りました。そこには常連客のおじさんたちがたむろしていて,めったに外来の人なんて入らない雰囲気でした。私の入りこむ余地はありませんでしたが,私はこういうところは嫌いではありません。お金を払う段になると,レジが壊れていてなかなか会計ができません。こんな一元さんなんて滅多に来ないのでしょう。
喫茶店を出ると,道の駅のレストランが開店していたのでお店に入って,朝食を兼ねて香住カニバーガーを注文しました。私はこうして,40年前に一度渡った余部鉄橋のかかる,念願の余部という集落の土を踏むことができたのでした。
山陰を行く③-道の駅。大阪場所に行けなくなったので…
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余部(あまるべ)鉄橋は正式には余部橋梁といいます。兵庫県美方郡香美町香住区余部,JR西日本の山陰本線鎧駅 と餘部駅間にある単線の鉄道橋です。
初代の橋梁は鋼製トレッスル橋 -末広がりに組まれた橋脚垂直要素を多数短スパンで使用して橋桁を支持する形式の橋梁- でした。1912年(明治45年)3月1日に開通し,2010年(平成22年)7月16日夜に運用を終了しました。現在のものは2代目。エクストラドーズドPC橋 -あらかじめ応力を加えたコンクリート材=プレストレスト・コンクリート(Prestressed Concrete=PC) を使用した橋梁のうち主塔と斜材により主桁を支える外ケーブル構造による形式のもの- で,2007年(平成19年)3月からの架け替え工事を経て,2010年(平成22年)8月12日から使用がはじまりました。
私が40年ほど前に鉄道に乗って通ったのは,古いほうの橋梁です。
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余部鉄橋は,日露戦争後,山陰本線の東側の区間を全通させるために作られました。香住と浜坂の間は山が海に迫っていて海岸沿いに線路を通すことが不可能で,香住と浜坂の両方から桃観峠を頂点として登っていくしかなく,その途中の余部に300メートルあまりの長く深い谷間があったとしてもそれを回避するわけにはいかず,この谷間を越えて線路を通す必要があったのです。
1986年(昭和61年)ということなので,私がこの橋を渡った後のことですが,12月28日,香住駅より浜坂駅へ回送中の客車列車が日本海からの最大風速毎秒約33メートルの突風にあおられ,客車の全車両が台車の一部を残して橋梁中央部付近より転落しました。転落した客車は橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を直撃し,工場は全壊,民家は半壊し,工場の従業員だった主婦5人と列車に乗務中の車掌1人が死亡するという痛ましい事故でした。この事故もひとつの契機となって,新しい橋梁がつくられたわけす。
このニュースを聞いたとき,私はどうやって古い橋梁から新しい橋梁に入れ替えたのだろうという疑問を持ちましたが,今回行ってみて,道の駅の一部にあった博物館ににそのときの工事の様子が説明されていて,その謎がやっと解けました。
かつて余部鉄橋が完成した当時は,余部には駅が存在していませんでした。近隣の住民は,最寄の鎧駅まで列車の合間を縫って,橋梁,トンネル,線路を歩いて向かわなければなりませんでした。
1955年(昭和30年)から繰り返された陳情の結果,1959年(昭和34年)に駅の設置が決定され,余部に駅ができましたが,1930年(昭和5年)に開業した姫新線に「余部」(よべ)という名前の駅がすでにあって,名前の重複を避けるために,駅の名前だけが「餘部」(あまるべ)となっているのです。
山陰を行く②-餘部駅。大阪場所に行けなくなったので…
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そんなことで,予定が空いてしまいました。しかし,家にいても手持ち無沙汰です。だからといって,電車に乗る気持ちにもなりません。もともと私は人混みが嫌いだし,スポーツジムにもライブハウスにも無縁です。楽しみは,人のいない場所で星を見たり,観光地ではない旧街道を歩くこと。そこで,いつもなら車で日本国内の旅などしたくないのですが,この時期に限っては,車で遠出をすることになりました。
ということで,天気がよいという予報だった3月6日,私は,取りやめにした余部への旅を車で日帰りですることにしました。自宅から余部までは車で300キロメートル,4時間30分ほどかかるようでしたが,おそらく,今の時期は道路もさほど渋滞はしていないように思いました。
私は,アメリカやオーストラリアを長距離ドライブすることに慣れていて,1日に1,000キロメートル走るくらいどおっていうことはありません。ただ,日本を走っても楽しくないと思っているだけですが,今は例外です。片道4時間30分ということなら,早朝午前4時に出発すれば,午前9時前には到着できます。帰りに豊岡と福地山へ寄っても,日帰りで行ってくることができそうでした。そこで,午前4時に家を出ました。
早朝の道路はトラックばかりですが,これも,星見に行くときに走るので慣れっこです。そのまま東名高速道路を走り,米原から北陸自動車道に入りました。唯一心配だったのは雪でしたが,この日は大丈夫そうでした。敦賀からは舞鶴若狭自動車道に入れば舞鶴まで自動車専用道路があるようでした。
私は日本で長距離を運転することもほとんどないので,新しくできた道路がどうなっているのか皆目見当がつきません。そのわかりにくさに輪をかけているのが,道路の名前のつけ方であり,工事中の道路です。どこまでできているのか,どこがどうなっているのかさっぱりわからないのです。カーナビもまったくあてになりません。アメリカならインターステイツの番号だけで簡単に走れるのに,これもまた「能力と発想の限界」きわめて日本らしき姿です。もっともあてにできるのが iPhone にインストールした GoogleMaps なので,それを信じて走っていきました。
こうして私は予定通り,4時間余りで余部に到着しました。
山陰を行く①-余部鉄橋。大阪場所に行けなくなったので…
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新型コロナウィルスの流行がさまざなな影響を及ぼしています。
私は2020年大相撲大阪場所の10日目のチケットを手に入れたので,今年もまた,大阪場所を観戦するのを楽しみにしていましたが,それもなくなってしまいました。
今年は,大阪場所を観戦したあとで,念願だった余部鉄橋を見にいくことにしていました。これは,このところ実行している「一度は行きたかったでもわざわざ行かなくては行かれない場所に行ってみよう」という計画のひとつでした。
以前,このブログに次のように書きました。
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私は,大学3年生の秋,はじめてひとり旅をしました。目的は山陰地方一周でした。
当時は,もうJRだったかまだ国鉄といっていたか覚えていませんが,のどかな時代で,周遊券というものがありました。
まず,名古屋からJRだか国鉄だかの電車に乗って,単線の山陰本線を西に西にと進みました。そして,名所ごとに降りて,その地方の観光をし,ユースホステルに宿泊していくのです。そのなかで私が最も印象に残っているのは,余部鉄橋というところでした。
私は,余部鉄橋なるものをこのときはじめて知りました。鉄橋に差し掛かると案内放送がかかりました。車掌さんがこんなサービスをすることも知りませんでした。そして,こんなところがあるのかと驚きました。電車の窓から見ると,かなり危険なところのように思えました。後で知ったことに,やはり,この鉄橋ではそれまでいろんな事故が起きていたようです。
今は新しい鉄橋に建て替えられたようですが,それ以来一度もそこに行ったことがありません。
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私が余部鉄橋を通ったと帰ってから当時存命だった父親に話したら「あそこは危険だ事故が起きている」と言ったのでそう覚えていて「いろんな事故が起きていたようです」と書いたのでが,実際は私が通った40数年まえまでは,事故は起きていませんでした。
この余部(あまるべ)というところに行ってみたくなったのです。
調べてみると,余部鉄橋のある兵庫県美方郡香美町香住区余部は,日本海側にあって,もう少し西に行くと鳥取市です。私は,もっと京都に近いと思っていただけに,意外と遠いところだなあ,と思いました。どうやって行けばいいのだろうとずいぶん考えましたが,どうやら大阪から行くのが近そうでした。そこで,大相撲大阪場所にいく機会を利用しようと考えたわけです。
折しも,NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で,明智光秀ゆかりの地が脚光を浴びていますが,今回もまた,私は,だからというわけではなく,偶然,明智光秀の居城だった福知山城にも,一度行ってみたいと思っていたので,余部に行く途中のこの福知山にも寄ってみることにしました。
さらに調べてみると,大阪難波から福知山までバスがあることがわかりました。また,福知山から余部までの間に豊岡というコウノトリで有名なところがあることも知りました。そこで,大阪場所が終わった日,夕食後に難波から福知山までバスに乗り,福知山で1泊,翌日は福知山を半日観光してからJRに乗って豊岡に行き,コウノトリを見てから豊岡で1泊,最終日の朝余部へ行って,余部からJRを利用して京都経由で帰宅するという計画を立て,難波から福知山までのバスと福知山と豊岡のホテルを予約したのでした。
しかし,この2泊3日の旅行の計画も,大相撲の一般観戦中止に伴って,意味がなくなってしまったのです。
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山陰地方を周遊する-すばらしきひとり旅の思い出
昨年の秋は,いつまでも残暑が厳しく,突然寒くなって,過ごしやすい時期が全くありませんでした。それに比べて,今年は9月のはじめからずっと気持ちのよい時期が長く続きました。,台風以外はとてもよい天気です。
こんな季節に思い出すのは,今から40年近く前,大学2年だったか3年だったかの秋に,生まれて初めてひとり旅をした時のことです。
現在の大学は,7月に前期試験があって,8月9月と夏休みというところが多いのですが,当時は9月に前期試験があって,そのあとで,1週間程度の秋休みがありました。
話は逸れますが,高等学校の教育がおかしくなってしまった最大の原因は共通一次試験です。
共通一次試験,現在はセンター試験と名を変えましたが,これもまた日本らしい話で,名前を変えて問題をごまかすわけです。ともかく,その試験のために,高校は1月以降は授業にならず,学校祭や体育祭はもっともふさわしい10月や11月から暑い9月のはじめに移され,スポーツに芸術に一番充実した秋という季節を秋らしく過ごせなくなってしまいました。そして,大学もそのとばっちりを受けて2月以降は講義もできなくなるなど,さまざまな日程が変わってしまいました。
共通一次試験などなかったころに大学生だった私は,そうした弊害もなく,秋休みがあったとうわけです。
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その気持ちのよい秋に,一念発起して,生まれてはじめてのひとり旅に出ました。それは,アメリカをひとり旅する今の自分から考えると,なんと初々しいことでしょう。
当時は周遊券というのがあって,これを使うと,周遊券の範囲内で普通電車なら乗り降り自由で,ある一定の期間旅行ができました。そこで,私が目指したのは,中国地方の周遊でした。
まず,私が住んでいた名古屋から出発して,天橋立まで行きました。そのあとは,山陰地方を鳥取,松江,出雲,萩と巡りました。
その旅で,余部鉄橋というものをはじめて知りました。鳥取砂丘も行きました。大山は山頂まで登りました。宍道湖に沈む絶品の夕日に感動しました。出雲大社にも参詣しました。萩の指月城をサイクリングしました。そして,秋吉台では,観光地でない洞窟の探検もしました。
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山陰本線は単線で,普通電車は駅に着くたびに特急に追い越されるためにずいぶんと長い時間停車しました。泊ったのはユースホステルでした。いろんな人と知り合いました。失業中で日本を放浪している若者と仲よくなりました。また,ふたり連れで旅をしていた若い女性と仲よくなって一緒にヒッチハイクもしました。一見こわもてのおにいちゃんのオートバイにも乗せてもらいました。
山口の近くの湯野温泉というところでは,民家のようなユースホステルに泊り,宿泊先の家庭の人たちと一緒に夕食をとりました。
帰路は,広島から旅で余ったお金を払って贅沢に新幹線に乗って名古屋まで戻りました。このとき,ほとんど指定席が売り切れていて,やっと手に入れた座席は,おばさんたちの団体のど真ん中でした。
今から考えると,たわいもない旅でしたが,当時の私には,地球の裏側に行くようなそんな冒険でした。今,本当に地球の裏側まで自由に旅をするようになっても,このときの旅は一生の思い出であり,私の宝物としてずっと心に残っています。
若者よ旅に出よ! こうしたちょっとした冒険が,人生の宝物になるのです。
秋になると今でも思い出すとてもすばらしい経験でした。