しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:日本国内 > 北陸

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【Summary】
Wajima City, a historic port town and a key hub of Oku-Noto, is famous for Wajima lacquerware and its morning market. Its historical and economic significance stems from maritime access, underscoring the importance of recovery in disaster-hit areas like Wajima, which still struggles to rebuild even 11 months after an earthquake.

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 能登島大橋を渡り,再び「のと里山海道」に戻りました。ここから輪島市に向かいます。
 「のと里山海道」はところどころ工事中だったりしたのですが,それでも,かなり復旧しているようでした。多くの車が走っていて,驚きました。そうした車のほとんどは途中の穴水インターチェンジで降りていきました。ここから能登半島の先端の珠洲市へ行くことができるようでした。
 ほとんど車のいなくなった「のと里山海道」をさらに走っていくと,道路は終わりとなり,その先は一般道を走るように道路標示がありました。その道路標示に従って進んでいくと,ついに輪島市に着きました。どうしてこんなに遠いところに町があるのか,私にはずっと不思議でした。

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 輪島市は奥能登の中核となる都市で,現在は,輪島塗や朝市などで知られています。
 古くから港町として知られ,中世には三津七湊(さんしん・しちそう)という日本を代表する港のひとつとなり,北前船の寄港地とされました。三津七湊というのは
 ●三津:安濃津 (三重県津市),博多津(福岡県福岡市),堺津(大阪府堺市)または坊津(鹿児島県南さつま市)
 ●七湊:三国湊(福井県坂井市),本吉湊(石川県白山市),輪島湊(石川県輪島市),岩瀬湊(富山県富山市),今町湊(直江津),土崎湊(秋田湊),十三湊(青森県五所川原市)
です。
 歴史的には,室町時代に国人の温井景信(ぬくいかげのぶ)が天堂城を築城し,それ以降,城下町として栄えました。
 輪島市は,輪島塗や朝市といった豊富な観光資源により多くの観光客が訪れていました。また,漁業も盛んで,暖流と寒流が交わる沖合の天然礁の好漁場となっています。
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 ということで,地上から行くにはたいへんでも,海上交通で考えると,輪島の地は重要な拠点だったのです。

 それにしても,私は車で行ったから容易にアクセスできたのですが,公共交通で行くにはバスしかありません。
 それが,地震に見舞われて,11か月過ぎるというのに,未だに復興もままならず,多くの被災者用住宅が立ち並んでいました。また,まだ,街中には多くの崩れた住宅があったり,道路が陥没したりしていました。
 日本中,新しい新幹線や道路が作られていますが,明日の生活がままならないこうした場所の復旧が先だろう,と強く感じました。

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【Summary】
On January 1, 2024, a magnitude 7.6 earthquake struck the Noto Peninsula, causing severe damage. During a trip to Kanazawa on November 10, I decided to explore parts of the peninsula. I visited Noto Island via the Noto Satoyama Kaido and enjoyed a brief drive on Chirihama Nagisa Driveway. Noto Island’s scenic coastline contrasted with its mountainous interior, but some roads remain inaccessible. Notably, the Nakano Noto Farm Road Bridge was closed, requiring a return via the Noto Island Bridge.

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 2024年1月1日,能登半島地震が起きました。地震の規模はМ7.6で,輪島市と羽咋郡志賀町で最大震度7を観測しました。それ以前,私は,能登半島を1周ドライブしてみたいと思っていたのですが,それができなくなりました。今はもう復興の邪魔にはならないだろうと,今回,金沢市に行った折りに,能登半島まで足をのばしてみることにしました。とはいえ1周は無理なので,行ける所だけ行ってみることにしました。

 2024年11月10日。距離感がわからずずいぶん迷ったのですが,能登半島の行けるところまで行ってみようと,午前6時にホテルをチェックアウトしました。
 まず目指したのが,能登島(のとじま)でした。能登島は七尾湾を塞ぐ形で浮かぶ面積46.78平方キロメートル(東京ドーム1,000個ほど),周囲長71.9キロメートルの島で,能登島大橋が南側の屏風瀬戸に,中能登農道橋が西側の三ヶ口瀬戸に架かっていて,車で行くことができます。
 金沢市街から能登半島の西海岸に沿って,「のと里山海道」を走りました。「のと里山海道」はもともとは有料道路だったそうですが,現在は無料です。まったく信号機がないので,あっという間に長い距離を走ることができました。途中で少しだけ「千里浜なぎさドライブウェイ」を走りました。「千里浜なぎさドライブウェイ」は砂浜を車でドライブできるということで有名なところです。車が砂浜に沈まないのは砂の粒子が細かく海水を含んで引き締まっているからということです。
 天気もよく,風もなく,最高でした。まさか走る日が来るなんて思っていなかったので,幸運でした。

 予想より早く,七尾市街に着きました。七尾市街には和倉温泉があります。
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 和倉温泉は,能登半島随一の規模の温泉街です。1,200年前にシラサギが沐浴しているのを村人が見て,温泉を発見したといいます。こんこんと湯が湧き出すことから「湧浦」とよばれ地名になりました。近代的な旅館やホテルが海沿いに林立していて,和倉温泉シーサイドパークもあります。
 カキ,寒ブリ,ナマコなど新鮮な魚介類が食膳を飾ります。
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 ということだったのですが,現在は,21軒ある旅館のうち17軒が休館していて,営業再開旅館は4軒。
 また,休館している旅館のうち災害復旧業者や自治体応援職員,災害ボランティアなどを受け入れている旅館があるということです。

 能登島大橋を渡りました。
 地図で見る限り,能登島は風光明媚な場所だと思っていたのですが,海岸線沿いは景色がきれいでしたが,山が多く,私が思っていたところとは少し違いました。のとじま水族館があって,現在は営業をしていますが,私は行きませんでした。また,この島にはゲストハウスや民宿が数軒あって,営業を再開しています。
 島の道路は,一部まだ走ることができません。その中で,ほとんど崩れてしまっている悲惨な状況を見ることができました。
 私は,能登島から中能登農道橋を渡ることにしていましたが,この橋は通行することができず,来るときに渡った能登島大橋まで戻る必要がありました。

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【Summary】
After attending the Orchestra Ensemble Kanazawa concert, I checked into a nearby hotel and visited Kanazawa Castle and Kenrokuen's weekend light-up event. Though crowded and poorly managed, I explored the area out of curiosity. After a quick visit to Higashi Chaya District, I returned to the hotel for the night.

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 井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢の演奏会が終わって,今日宿泊する東横イン兼六園香林坊にチェックインしました。ホテルからお昼間に行った金沢城はほど近い場所です。いつものように,夜は特にすることもありません。私はテレビをつけることもないし,温泉旅館で夕食をとるとき以外は,旅先で出歩いたりお酒を飲むこともありません。
 金沢城と兼六園の一帯は,週末だけライトアップをしているということだったので,夕食を兼ねて行ってみることにしました。まず,近くにあったデパートの階上のレストランに行きました。空いているだろうと思ったからでしたが,やはりそうでした。
 話は逸れますが,今や,私が若いころの価値観は完全に崩れていて,オワコン化してしまったものも少なくありません。新聞や雑誌はもちろんのこと,テレビ,デパートなども同様です。こうした泥舟からはさっさと撤退したものがビジネスで生き残るのでしょう。

 その一方で,ライトアップはすごい人でした。これはこれで,何か対策をしなければ,単に人の頭を見るだけに終わります。東京の美術展なども同じで,コロナ禍のころが懐かしいです。立ち止まるな,という係員の声が聞こえるのですが,ライトアップを見にきて,立ち止まらないで何を見るというのでしょうか? あほみたいな話です。
 私は,そんなことは承知で,どういうものか興味半分で来てみたのですが,予想通りでした。お昼は有料の兼六園ですが,どういうわけかライトアップは無料です。入園料を2,000円くらいとってみれば,もっと優雅なライトアップになると思われますが,それはそれで,今や,夢の国でなく,金持ちだけの国と化したディズニーランドと同じことになります。とはいえ,金持ちなのに,ディズニーランドごときに行くこと自体,その人が成金のような気がしますけれど…。
 せっかく,時雨亭で,オーケストラ・アンサンブル金沢の原田智子さんがヴァイオリンの演奏をしていたのに,音楽を味わえるものでもなく,気の毒な限りでした。
 そんなライトアップもほどほどに,私は,散歩がてら,ひがし茶屋街まで足をのばして,そうそうに引き上げて,ホテルに戻って寝ました。

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【Summary】
Honda-no-Mori Park, established in 1978, spans 5.9 hectares on the former site of the Honda family's samurai residences during the Kaga Domain era. It features cultural institutions such as museums, a Noh theater, and is known for its serene and lush environment.

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 金沢城,兼六園と続く,さらに南東の地区に,本多の森公園(ほんだのもりこうえん)があります。
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 本多の森公園は石川県営の都市公園で,多くの文化施設が整備されています。公園開設は1978年(昭和53年)で,敷地面積は5.9ヘクタール(約5ヘクタールがプロ野球のグランド程度)。本多の森公園は加賀藩期の家老本多家の武家屋敷が軒を連ねていたところで,戦後は金沢美術工芸大学の用地でしたが,現在は,石川県立美術館,石川県立歴史博物館,加賀本多博物館,石川県立能楽堂,石川県立伝統産業工芸館,石川護国神社,国立工芸館などがあります。
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 公園内には常緑広葉樹林が多く散歩道が整備され,とても心落ち着くところでした。金沢城,兼六園と観光客でごった返していたのですが,この場所は一転して,ほとんど人のいないすばらしい場所でした。
 私は,休日の東京の様を連想して,レストランはどこも激混みだと思って,この場所にあったキッチンカーでカレーを買って,そのあたりのベンチで昼食をとりました。その後,石川県立歴史博物館へ入りました。
 なかなかすばらしい場所でした。もし,金沢市に住んでいたら,この場所はお気に入りになっていることでしょう。

 さて,こうして金沢市の観光を終えて,そろそろコンサートの時間が近づいてきたので,金沢駅に戻ることにしました。
 金沢市の中心街を香林坊(こうりんぼう)といいます。変わった名前で,どこかの寺ではないのかとはじめて来たときは戸惑いました。
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 町名の由来は,戦国時代,比叡山の僧であった香林坊が還俗してこの地の町人向田家の跡取り。向田香林坊(むこうだこうりんぼう)となり,以来目薬の製造販売に成功して「香林坊家」として繁栄したという説が有力です。
 江戸時代には商店街として共に発展,明治時代になり金沢城に旧制第四高等学校が開校したことから学生向けのカフェや映画館などが集積することとなり,北陸最大の繁華街となりました。
 一時期衰退しましたが,現在は,若者の街から大人の街へと変貌しつつあります。
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 この日は土曜日ということもあり,昼食をとるところもないのでは,と私はキッチンカーのお世話になったのですが,金沢市街は,意外や意外,食事をとる場所はいくらでもあるのでした。
 確かに,現在の金沢市は外国人観光客でごった返しているのですが,彼らのほとんどは,行く場所が限られていて,そこを少し外すと,昔の小京都金沢がまだいくらでも残っているのでした。

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【Summary】
Kenrokuen Garden, created in 1676 by the Maeda clan, was later restored and opened to the public in 1874. Though crowded, it felt more relaxing than Kanazawa Castle. However, I found Seisonkaku Villa, built in 1863 as a retirement residence, more appealing, especially its serene "Tsukushi Veranda Garden."

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 金沢城の南東に百間堀通りを隔てて,広さが約12ヘクタール(約5ヘクタールがプロ野球のグランド程度)の兼六園があります。以前行ったことがあると思うのですが,全く記憶にありませんでした。
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 1676年(延宝4年)加賀藩5代藩主・前田綱紀が金沢城に面する傾斜地にあった藩の御作事所を城内に移し,その跡地に別荘「蓮池御殿」(れんちごてん)を建ててその周りを庭園化したのが兼六園のはじまりです。
 1759年(宝暦9年)宝暦の大火で焼失しましたが,15年後の1774年(安永3年)から1776年(安永5年)にかけて,10代藩主・前田治脩(はるなが)によって再興され,庭園が整備されました。
 また,1822年(文政5年)11代藩主・前田斉広(なりなが)の依頼に応じて,白河藩主松平定信が兼六園と命名しました。
 明治時代になって,1874年(明治7年)から正式に一般公開されました。
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 かなり混雑していたのが難点でしたが,張りぼてだと感じた金沢城に比べたら,くつろげる場所でした。

 とはいえ,私は,兼六園の庭園以上に,成巽閣(せいそんかく)に興味をもちました。ここは入館料が必要なので,観光客がぐっと減るのが,また,よいのでした。
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 現在,歴史博物館として一般公開されている成巽閣は,1863年(文久3年)に加賀藩12代藩主・前田斉泰が母・真龍院の隠居所として建てれらたものです。
 金沢城から見て巽の方角(東南)にあること,京都の鷹司家が辰巳殿とよばれていた事にちなんで, 建築当時は巽御殿(たつみごてん)とよばれていましたが,後に成巽閣と改められました。
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 成巽閣は,武家書院造と数寄屋風書院造をひとつの棟の中に組み入れた巧みな様式をもつ建造物で,また,大名正室の御殿ということで,優しい様相を呈しているといわれます。
 私が落ち着いたのは,御居間である「蝶の間」に面した「つくしの縁庭園」でした。
 京都などには多くの庭園がありますが,ここの庭園はそれに勝るとも劣らないものでした。

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【Summary】
On November 9, 2024, I visited Kanazawa Castle before attending an Orchestra Ensemble Kanazawa concert. Though I had been disappointed by its use as a university in my youth, I was surprised by the castle’s vast grounds after the university’s relocation. However, much of it is a recent reconstruction, feeling like a mere tourist attraction that lacks genuine charm, appealing more to foreign visitors seeking an idealized "Japan."

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 2024年11月9日,金沢市に行って,オーケストラ・アンサンブル金沢(Orchestra Ensemble Kanazawa)第487回定期公演マイスター・シリーズを聴きましたが,その折に,1泊2日で金沢市と能登半島を旅することにしていました。
 まず,11月9日は,金沢市を観光することにしました。金沢市に着いたのが午前9時ころで,午後2時からのコンサートだったのですが,すでに石川県立音楽堂の駐車場に車を停めることができたので,そこに駐車して,歩いてまわることにしました。
 私はすでに,数回,金沢市に来ています。そして,金沢駅,近江町市場,ひがし茶屋,長町武家屋敷跡,兼六園など,金沢市の主だった観光地にも行っています。ということで,ほとんどの場所は知っているのですが,何か,消化不良だという気持ちが残っているのです。
 さらに,若いころ,金沢城にも行っているのですが,その時分は,石川門をくぐるとそこは金沢大学で,がっかりした思い出があります。そこで,私は,金沢城は見どころでない,と思って,ずっと敬遠していたのですが,それは昔のことで,今は,金沢大学は移転して,金沢城として観光地化したということを聞いたので,今回行ってみたいと思ったこともあります。
 とはいえ,現在の金沢市は外国人観光客ばかり,近江町市場もまた,外国人目当ての観光地となってしまい,地元の人は寄りつかない場所になってしまったということも聞いていたので,行きたいという気持ちも減退していましたが,どうしてそんなに外国人が集まるのだろう,という謎を解きたいとも思いました。

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 「加賀百万石」というように,外様大名である前田家の領地・加賀藩の実際の石高は119万5000石に上り,領地は加賀,能登,越中3か国のほぼ一円でしたが,1639年(寛永16年)3代当主前田利常が隠居の際に富山(10万石),大聖寺(だいしょうじ)(7万石)を分藩したため,加賀藩は102万5000石となりました。
 また,前田家は徳川将軍家とも姻戚関係が深く,2代将軍徳川秀忠の娘・珠(たま)が3代藩主前田利常(としつね)に嫁ぐなど,徳川家から多くの正室を迎えたことで,家格も別格扱いで「御三家並み」に位置づけられ,将軍に拝謁する際は御三家等が控える大廊下詰が許され,松平姓と葵紋の使用も許されていました。7代藩主前田宗辰(むねとき)以降は早世が相次ぎ,また,加賀騒動とよばれるお家騒動も勃発しましたが,14代藩主前田慶寧(よしやす)まで,加賀藩は維持されました。
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 金沢城は加賀前田家の居城でした。
 すでに書いたように,若いころ,さぞかし立派だろうと思って行ってみた金沢城が大学であったことに落胆した私でしたが,その様変わりを見るために,まず,金沢城に向かいました。
 石川県立音楽堂のある金沢駅前から金沢城までは近江町市場を経由して歩いたら30分程度ということでした。外国人だらけの金沢駅前から,バスに乗る気も起きず,観光案内所で聞いた道筋に従って,金沢城に向かいました。
 途中の近江町市場は外国人目当ての「インバウン丼」があふれ,地元の人は寄りつかなくなったと聞いていたので,敬遠しました。
 金沢城に着きました。今回,再び行ってみて,大学の去った城内の広さには驚きました。とはいえ,この城は,従来からあった石川門あたり以外は,近年復元されたもので,いわば,張りぼてに過ぎず,要するに,単なるテーマパーク。私は何の魅力も感じませんでした。つまり,アメリカに憧れる日本人がディズニーランドに行ってアメリカを感じるようなものと同じですが,これを見て,外国人は日本を感じるのだろう,だからやってくるのだろうと納得しました。

加賀百万石

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 紫式部公園に隣接して,紫式部と国府資料館「紫ゆかりの館」がありました。私は,来るまで,ここが「光る君へ 越前 大河ドラマ館」だと思い込んでいました。
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 「紫ゆかりの館」は,紫式部が越前国の国府の国司に任命された父とともに,この地で1年余りをすごしたことを知り理解を深めていただくために,2021年4月にオープンした資料館です。
 当館では,紫式部が過ごした時間を体験できる展示と,国府のころより脈々と生き続けている丹南地域の伝統工芸品の展示,販売をしていいます。
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 ということで,午前9時開館だったのですが,それよりも15分ほど前に入ることができたので,見学しました。なかなかすばらしい場所で,気に入りました。しかし,先に書いたように,ここが「光る君へ 越前 大河ドラマ館」だと思っていた私は,このとき,どうも違うなあ,と気づきました。そこで,係の人に聞いてみると,この場所から北に行ったところの武生中央公園に大河ドラマ館はある,ということでした。そこで,駐車場に戻って,急いで向かいました。何せ,この時点では,大河ドラマ館は混雑していると思っていたから,なるべく早く行きたかったのです。

 武生中央公園は,子供用の遊具施設や図書館などがある立派な施設でした。その一角に倉庫のような建物があって,大河ドラマ館はそこで開催されていました。午前9時を少し過ぎていたのですが,人気げがなく,入口が暗く,やっているのかな? と思ったくらいでした。
 中に入りました。この日来たのは,私が一番乗りということでした。混雑していたらいやだな,と思っていたのですが,予想に反して,うれしい誤算でした。その後,ぱらぱらと人が入ってきました。
 展示されているのは,これまでに見た大河ドラマ館と同じように,ドラマで実際に使って,お役御免になった小道具や衣装でした。人が少ないこともあって,とても楽しく見学することができて,大いに満足しました。係の人ともいろいろな話ができました。

 越前市は,2005年に武生市と今立郡今立町が合併してできた,人口8万人程度の都市です。
 合併にあたり,新たな市の名称を巡って,少数意見の「越前市」が選ばれたことに批判があるということです。そもそも,北隣に越前町があり,南隣に南越前町があり,まぎらわしいのです。というか,私は,武生市と今立郡今立町が合併というより,こういうのは,武生市に今立郡今立町が吸収されたと考えて,そのまま武生市でいいのでは? と思ってしまうのですが,何か事情があるのでしょうか。
 高知県にも,四万十町と四万十市という紛らわしいものがあります。これもまた,以前中村市だったところが四万十市になったものです。
 越前市のある場所は,古くから拓けた土地で,越の国(こしのくに=令制国への移行に際して,越後,越中,能登,加賀,越前と分割)の国府が置かれていました。国衙跡は現在発掘中ですが,国分寺や国分尼寺の場所は不明だそうです。いかに,この地が激動の歴史をおくったかがわかるようです。
 今回は,大河ドラマ館だけが目的だったので,町の観光はしませんでしたが,車内から見た感じでは,中心市街地は,歴史的遺産を継承した古い町並や建物が残り,白壁の蔵が立ち並ぶ「蔵の辻」とよばれる一角もあって,とても風流な感じがしました。その一方で,駅前の商店街はシャッター街化してしまっていて,おそらく,これが,この町の問題なのだろうと推察しました。
 のんびりしたところなので,今度は,このあたりで適当な宿を見つけて,越前ガニでも食べながら1泊してみたいと感じました。

 帰路,道の駅「越前たけふ」に寄って,昼食をとりました。
 来るときは早朝だったのでさほどでもなかったのですが,その後,名神高速道路が工事渋滞をはじめていたので,少し遠回りして,中部縦貫自動車道から,一度走ってみたいと思っていた九頭竜ダム湖畔の国道158号線で郡上白鳥へ抜け,東海北陸道を走って帰宅しました。後で地図で確かめると,徳山湖のある国道417号線を通って,揖斐川町へ抜けるほうが距離的には短いと思いました。この地域は冬は豪雪地帯ですが,この時期は快適に走れます。朝は曇っていたのですが,このころはとてもいい天気でした。
 楽しい半日の旅になりました。

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 今年2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」。
 はじめは,何だ,貴族が政権争いをしているだけのドラマじゃないか,以前放送された「平清盛」に比べて,画像がきれいすぎてリアル感に欠けるな,と思っていたのですが,それがまあ,おもしろいこと! 史実がほどんどないのをいいことに,何でもあり,やりたい放題であることもすばらしいし,漢詩や和歌や大鏡,小右記など,昔,高等学校で学んだ漢文や古文がいたるところに出てきて,それが効果的で,そしてまた,見ているほうの教養をためされているようで,愉快です。
 ドラマはこうでなくてはいけません。
 ということで,いよいよドラマの舞台が越前になることもあって,込み合う前がいいだろうと,2024年5月21日,越前市の「光る君へ 越前 大河ドラマ館」に行ってくることにしました。

 我が家から越前市までは,名神高速道路と北陸自動車道を走れは,2時間もかかりません。朝6時すぎに家を出ました。ゴールデンウィーク後の平日だからと思うのですが,高速道路はいたるところで工事をしていて,1車線が閉鎖されている箇所が多かったのですが,渋滞することもありませんでした。唯一の誤算は,天気予報では晴れだったのに,深く雲が垂れ込んでいたことでした。
 ゆっくり走って,午前8時過ぎには越前市に着きました。
 越前市には紫式部公園というものがあって,私は,その公園の一角に「光る君へ 越前 大河ドラマ館」があるものだと勘違いをしていました。そこで,公園の駐車場に車を停めて,大河ドラマ館が開館する前に紫式部公園を見学することにしました。実際は,「光る君へ 越前 大河ドラマ館」は別の場所だったのですが,そのことは次回書きます。

 紫式部公園は,大河ドラマで紫式部が主人公になるということとは関係なく,それ以前に越前市が町おこしで作ったもののようです。
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 紫式部公園は,1981年(昭和56)に都市計画の決定を行い着手された,紫式部がこの地を訪れたことを記念して、文化的歴史的公園として整備したもので,施設としては紫式部像・紫式部歌碑・釣殿・泉池・自由広場・藤棚などがある寝殿造庭園の公園です。
 文化勲章受章者の圓鍔勝三が制作した金色に輝く紫式部像や,総檜造りの釣殿を自由に見ることが出来ます。
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 観光で来る私のようなものには,すばらしい公園ですが,地元の人には単なる散歩広場のようなものです。しかし,こんなすばらしい公園で毎日散歩できたらいいなあ,と思いました。でも,維持費が大変そうです。
 気ままに紫式部公園を歩きました。
 紫式部公園には「金色の紫式部像が池に映える姿が鑑賞できる場所が1か所だけあるので探してみてください」とパンフレットに書かれていました。その場所で写した写真が2番目のものです。

 紫式部像のまわりに3つの紫式部の詠んだ歌碑がありました。
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●春なれど 白嶺の深雪 いや積り 解くべきほどの いつとなきかな
 「年が明けたら唐人を見にそちらへ参ります」と言っていた藤原宣孝が,年が明け「春になれば氷さえ解けるもの。あなたの心もとけるものだとどうにか教えてあげたい」と言ってきたことへの返歌で,「春になりましたが,白山の雪はますます積もって解けるのはいつのことかわかりません」(春になっても私のあなたに対する気持ちは解けません)と詠んだものです。
 藤原宣孝は,紫式部が帰京した後に結婚する相手です。紫式部が父である藤原為時に同行して越前に赴いたのは,藤原宣孝の求婚から逃げるためだったという説があるそうです。
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●ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる
 越前に下向した紫式部がはじめて迎えた冬のこと。初雪が降った日,日野山に積もった雪を眺めながら,都にある小塩山の松を思い出して詠んだ歌です。日野山の杉は雪が降って埋もれんばかり。都の小塩山の松にも降り積もっているのだろうか。
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●身のうさは 心のうちに したひきて いま九重に 思ひみだるる
 これは,時が過ぎ,夫の藤原宣孝と死別したのち,藤原道長の娘で一条天皇の中宮である藤原彰子に仕えるようになったときに詠んだ歌です。
 わが身の辛い思いは心の中に寄ってきて,今,宮中で心が幾重にも乱れることだ。
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 白川郷に来たとき「白山白川郷ホワイトロード」という道路標示を見ました。どんなところか知らなかったけれど,せっかく来たので,行ってみることにしました。
 走ってみてわかったのは,この道路は,かつて「白山スーパー林道」とよばれたものだったのです。ならば,名前だけは知っていたけれど,まさか,この道路を走るとは思いませんでした。
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 「白山白川郷ホワイトロード」は,石川県白山市尾添と岐阜県大野郡白川村鳩谷を結ぶ延長33.3キロメートルの有料道路で,1977年(昭和52年)に開通した「白山スーパー林道」ですが,「林道」が未舗装や運転が難しいことを連想させるとして、2015年に名称を変更したものです。
 霊峰・白山の北側,ブナ原生林の樹海や高山植物などの景観に恵まれた山岳地帯を走る観光道路で,標高は600メートルから1,450メートルです。蛇谷渓谷の深いV字谷の断崖絶壁に沿って走っていて,県境の国見山や三方岩岳越えの区間は高度を稼ぐために大きく回り込むようにつづら折れの道路となっています。
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 白川郷側の馬狩料金ゲートから入って,終点の中宮料金ゲートまで行かずに途中でUターンすれば片道料金でいいといわれたのですが,どこでUターンをすればいいのかわかりませんでした。料金所でもらったパンフレットでは,①から➉までの見どころがかかれてあったので,その最後➉蛇谷大橋まで行くことにしました。道路は曲がりくねっていて,しかも,途中までどんどんと標高が高くなり,また,思った以上の距離でした。
 やっとのことで➉蛇谷大橋に着いたので,そこからUターンして,順に停車しながら戻りました。
 はじめのうちは滝が多く,それぞれ,見ごたえがありました。しかし,⑨親谷の滝・姥ケ滝は,駐車場から往復で30分以上,標高差のある道を歩く必要があったので,残念ながらパスしました。やがて,⑦とがの木台の展望台は標高が1,400メートルという最高地点であり,そこからは雪の残った美しい白山を見ることができました。
 ここから道路は下って行って,最後の③白川郷展望台にはできたばかりの展望デッキがあって,そこから眼下に白川郷の合掌集落がミニチュアのように眺められました。

 よほど雪深い道路らしく,先月までは通行できなかったということだったし,白川郷の合掌集落でうざったかった外国人観光客は来ておらず,また,標高が高いこともあってかなり涼しくて,とてもすばらしいドライブを楽しむことができました。
 いい選択でした。
 この後,東海北陸道を走って,帰宅しました。

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 コロナ禍以前,一度白川郷を訪れたことがあります。そのときは,あまりに多くの外国人観光客に,私はいやになりました。自撮り棒を振り回し,ソフトクリームを食べながら大声で闊歩し,秋のとても気持ちのよい時期だったと思うのですが,情緒もなにもあったものではありませんでした。
 今回,金沢市に行った帰りに,東海北陸道を経由して帰ることにして,再び,白川郷に行ってみました。さすがに前回ほどのことはないだろうと思ったのですが,さにあらず,やはり,多くの外国人観光客が大型バスで来ていました。それでも,まだ,前回よりはマシでした。

 確かに,いいところであるとは思うのですが,これほどの外国人がやってくるのはどうしてなのだろうと,ChatGPTに聞いてみることにしました。
  ・・・・・・
 白川郷は,日本の岐阜県に位置する伝統的な農村地帯であり,外国人に人気がある理由はいくつかあります。
①伝統的な日本の風景
  白川郷は,美しい自然環境と伝統的な日本の風景が広がっています。その特徴的な景観は,伝統的な茅葺屋根の家屋や風情ある田園風景から成り立っており,外国人にとってはまるで絵画のような美しさと独特の雰囲気を感じることができます。
②文化的な魅力
 白川郷は,日本の伝統的な農村文化を体験できる場所としても知られています。訪れる人々は,伝統的な茅葺屋根の家屋や農作業の風景を見学したり,地元の伝統工芸品や食文化に触れることができます。外国人にとっては,このような文化的な要素が魅力的であり,日本の伝統や歴史を深く理解する機会となります。
③世界遺産の登録
 白川郷は,1995年にユネスコの世界遺産に登録されました。この認定により,白川郷の美しい景観と文化的な価値が国際的に認められ,多くの外国人観光客が訪れるようになりました。世界遺産の登録は,外国人にとって訪れる価値のある場所であることを示す重要な要素となっています。
④映画やメディアの影響
 白川郷は,いくつかの映画やテレビ番組のロケ地としても知られています。特に,アニメ映画「千と千尋の神隠し」や日本のドラマやバラエティ番組などで頻繁に登場しました。これらのメディアの影響により,多くの外国人が白川郷に興味を持ち,実際に訪れるようになりました。
  ・・
 これらの要素が組み合わさり,白川郷は外国人に人気がある観光地となっています。その美しい景観,伝統的な文化,世界遺産の価値,そしてメディアの影響によって,多くの人々が魅了されるのです。
  ・・・・・・

 ということだそうですが,のんびりと地元のおいしいものを食べたり,家の中の見学したり,といった感じではありません。おそらくそれは,団体客がほとんどであることが理由であろうと思われます。これでは,旧街道沿いの古い建物を訪ねるほうがずっといいなあ,と思ったことでした。
 想定されたこととはいえ,せめて,空いたお店でお昼でも,という予定は実現できそうになかったのですが,幸いにして,午前11時少し前,開いたばかりのお店を見つけたので,ほかにお客さんのいないひろい店内で,ゆっくりと昼食をとることができたのは幸いでした。

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 前回金沢市に来たのは,2017年10月に大相撲の金沢巡業を見に来たときでした。金沢市は私の住む愛知県からは車ならば3時間かからず来ることができるので,身近かというかなんというか,遠い感じはしないけれど,あまり来ることもありません。
 ずっと若いころに金沢城に行こうと思ってやってきて,お城に入ったら,そこが金沢大学でがっかりしたことがありました。これでは,天下の「加賀100万石」が台なしだと思いました。私の頭には,それ以来「金沢城=金沢大学=観光地でない」という図式がしっかりでき上がり,まったく行く気を失せていたのでした。
 今回はお城の近くのホテルに泊まったのにもかかわらず行かなかったのですが,調べてみると,現在は違うみたいなので,次回,また時間を見つけて来てみたいと思ったことでした。
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 現在は公園として整備され,観光客で賑わう金沢城公園ですが,実は,金沢城公園は整備されてまだ20年ほどしか経っていません。というのも,金沢城公園は,以前は金沢大学のキャンパスだったのです。
 城郭全域を大学のキャンパスにするのは大変珍しいものでした。
 明治時代,金沢城跡には陸軍第九師団司令部や歩兵第七連隊などが置かれていました。第2次世界大戦戦後は金沢大学の丸の内キャンパスとなりましたが,その後,角間地区に総合移転することが決定し,1995年に「お城のキャンパス」は完全に姿を消しました。
 1996年には石川県が金沢城跡を国から取得し,以降,金沢城跡は公園として整備され,今は,お城のキャンパスの面影はありません。
  ・・・・・・

 コロナ禍もどこかへ去り,金沢市には外国人観光客が戻ってきたようですが,今回は,金沢市を観光する気はなかったので,お昼間はいしかわ動物園に行き,夜はおいしいものを食べて,その後,金沢駅を経由して,武家屋敷まで歩き,次の日は,東海北陸道をドライブして帰ることにしていました。
 何を食べようかと調べていたら「採れたてで新鮮なお刺身がたっぷりのった海鮮丼は,鮮魚が集まる近江町市場ならではのマストグルメです。金箔があしらわれた華やかな丼や,ボリューム自慢の丼などのお店がたくさんあります」とあったので,金沢市の名物は海鮮丼だとわかりました。そこで,近江町市場の近くの海鮮丼のお店に入りました。店内には有名人の色紙が所かまわずならんでいて,店の主は話し好きで,地ビール「百万石」も飲んで,楽しい時間を過ごすことができました。
 その後,新幹線が金沢市を通ることで新たに整備された金沢駅を経由して,夜の長町武家屋敷跡を少しだけ散策しました。
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 長町武家屋敷跡は,加賀藩時代の上流・中流階級藩士の侍屋敷が軒を連ねていたところで,土塀と石畳の路地が続いていて,現在も藩政時代の情緒ある雰囲気を味わうことができます。
 長町の地名の由来には諸説あり,藩政期から武士の邸宅が並んでいて,この辺りが長い町筋であったことや前田家の重臣である長氏の屋敷があったことなどが挙げられています。
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 金沢市はとてもいいところですが,新幹線ができて首都圏からのアクセスが容易になったためか,最近私が行った青森県の弘前市などと比べて,外国人に限らず観光客が多すぎて,私にはなじめませんでした。

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 私がいしかわ動物園を知ったのは,すでに書いたように,佐渡島以外でトキを見ることができる動物園である,ということからでしたが,行ってみると,トキに限らず,ライチョウやホワイトタイガーなど珍しい動物が多く,また,都会から離れたすばらしい動物園だということを認識しました。広さは,北海道の旭山動物園くらいのものでしょうか。
 私は特に動物園マニアでもないように思っているのですが,よくよく思い出すと,これまでに,世界中の多くの動物園に行っています。フィンランドの北極圏近くにあるロヴァ二エミの動物園にも真冬に行ったことがあるし,アメリカでは,ノースダコタ州の州都であるビスマルクの小さな動物園から,カリフォルニア州サンディエゴの巨大な動物園まで行ったことがあります。当然,オーストラリアではコアラも抱いたし,ニュージーランドではキーウィも見ました。
 しかし,行く機会があったのにもかかわらず,なぜか見落としてしまってかなり後悔しているオーストリアのウィーンにあるシェーンブルン宮殿内にある動物園があるのですが,そこにはいつか行ってみたいものだと今でも思っています。
 これどほ世界中の動物園に行ったことのある人も多くはないかもしれませんが,そんな私が気に入ったのだから,いしかわ動物園はすばらしいところだというのがわかるというものです。

 この動物園,金沢市から結構な距離があって,どうしてこんな場所にあるのか疑問でした。
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 1999年(平成11年)10月に開園したいしかわ動物園は,石川県が設置し,一般財団法人「石川県県民ふれあい公社」が管理・運営を行っています。
 動物舎は,自然の地形を活かした中に植栽や岩,池などを配し,動物たち本来の生息環境に近い環境を再現していますし,動物が飛び越えられない幅の堀を巡らせる「モート方式」やガラス越しの観察によって,従来のコンクリートや鉄格子で仕切った狭い動物舎では見られない動物たちの生態が間近に観察できるよう配慮しています。 
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 もともとは,1958年(昭和33年)金沢市卯辰山に,演劇場・映画館・小遊園地,大浴場,宿泊施設を併設した民間施設「金沢ヘルスセンター 」の付属施設として開園したものです。しかし,「金沢ヘルスセンター 」は,入館者数の減少と施設の老朽化で1993年(平成5年)に閉園し,それとともに,動物園も幕を下ろすこととなりました。
 その後,石川県内唯一の動物園であること「動物園の公営化」の流れを受けて,石川県が施設全体を買収し,財団法人いしかわ動物園を設立しましたが,施設の狭小と老朽化を理由に金沢市から現在の地に移転しました。
  ・・
 トキの分散飼育は,ホオアカトキなどの近縁種の飼育に取り組んでいたいしかわ動物園の飼育・繁殖の実績が評価されたことで選ばれたもので,2010年に佐渡トキ保護センターからオス2羽,メス2羽の4羽がやってきてはじまりました。
 当初は一般に非公開のもとで飼育されてきましたが,2016年11月19日から一般公開を開始しました。
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 この日は,暑くもなく,寒くもなく,すずしい風が吹いていて,また,ほどほどの入場者で,食堂で待つこともなく昼食をとることもできて,楽しい時間を過ごすことができました。

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 私は,長年,トキが見たくて見たくて,佐渡島へ行こうとずっと思っていました。しかし,佐渡島は遠く,また,果たして,佐渡島へ行けばトキを見ることができるかどうかもわからず,おそらくムリだろうと,そうあきらめていたのですが,2016年に,石川県のいしかわ動物園で,トキが数羽,分散飼育をはじめたと聞いて,行ってきたことがあります。2016年12月3日のことでした。そのときのことはすでに書きました。その後,念願がかない,佐渡島で飛ぶトキを見ることができたことも,すでに書きました。
 今回,2023年5月25日から5月26日にかけて,1泊2日で金沢市に行くことができたので,その1日目,再び,かなざわ動物園に行って,トキを見ることにしました。

 この時期は梅雨なので,天気が最も心配だったのですが,未だ,晴れ男の強運は冷めておらず,2日ともとてもよい天気でした。しかも,蒸し暑くもなく,時折吹く涼しい風が最高でした。また,日曜日なので,動物園は混雑しているのでは,という心配がありましたが,これもまた,ほどほどの人出で,大丈夫でした。
 いしかわ動物園に到着したのは午前11時ころで,入園して,まず,一目散にトキのケージを目指しました。私は,すでに,佐渡島で飛ぶトキを見たので,あのころの願望はなかったのですが,それでも,目の前にいるトキをまた見てみたいという気持ちがありました。それは,佐渡島では,実際に飛んでいるトキは空高く,それほど近くで見ることはできません。また,トキを見ることができる観光用の施設もあるのですが,それは意外と遠く,また,金網のケージ越しだったので,むしろ,かなざわ動物園のほうがトキを近くで見ることができるのです。

 はじめのころは,エサを啄む姿と,木に止まっている姿だけで,飛ぶどころか,羽根も広げることがなく,少し物足りなく感じました。しばらくいると,飛ぶ姿や羽根を広げる姿を見ることできて,感動しました。
 聞いてみると,現在,いしかわ動物園で公開されているトキは,つがいと,生まれてまもない3羽の合計5羽のトキでした。2016年のときはもう少したくさん公開されていたような気がするのですが,実際は,そのときもまた,5羽でした。
 いずれにせよ,令和8年に,能登半島でトキの放鳥が決定したという話を聞いてうれしくなりました。能登半島の空をトキが舞うのも,それほど遠いことではなさそうです。そうしたら,また,見に来たいと思います。
 なお,ネットに,いしかわ動物園でのトキの飼育についてのデータが掲載されていて,2022年7月で,産卵数240個,佐渡島への返還数75羽,佐渡島での放鳥数70羽に達しているということでした。

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 今回出かけた丸岡城も,当然戦国時代の遺構ですが,「麒麟がくる」とは直接の関わりはなく,私が福知山城と丸岡城がごっちゃになっていたので,単に丸岡城が見たかっただけでした。
 しかし,丸岡城に行ってみて,せっかく福井県まで来たのならば,一乗谷朝倉氏遺跡が近いのではないかと気づきました。実際調べてみると,やはり丸岡城からはかなり近いところにあることがわかりました。そこで,帰りに寄ってみることにしました。
 一乗谷朝倉遺跡はもちろん「麒麟がくる」に大いに関わりのある場所ですが,私がこの場所を知ったのは,「麒麟がくる」ではなく,今から40年以上前に放送された大河ドラマ「国盗り物語」でです。それ以来,わざわざ行ってみることはなかったのですが,気になっていました。そこで,今回,せっかく近くに行ったのだから寄ってみることにしました。
 一乗谷朝倉遺跡に関してほ,将棋の駒が出土したという程度の知識しかありませんでした。

 Google Maps の道路案内に従って走っていくと,福井市の市街地をはなれ,山間の谷間に入って行きました。その奥が一乗谷でした。1本道をさらに進んでいくと,昔の屋敷が再現された場所があって,その奥に広い駐車場がありました。ここもまた,ほとんど車は停まっていませんでした。
 さっそく入館料を払って中にはりました。
 一乗谷朝倉氏遺跡は福井市城戸ノ内町にあって,戦国時代に一乗谷城を中心に越前とよばれたこの地方をを支配した戦国大名朝倉氏の遺跡で,谷に広がる城下町と周りの山に作られた城からなっています。
 現在の福井市街から東南に約10キロメートルもはなれている一乗谷川沿いの谷あいにあります。朝倉氏が勢力をもっていたときはずいぶんと栄えた場所ですが,のち忘れ去られました。それが辺境であったために幸いにして遺構が残り,今になって発掘され整備されたというわけです。

 日本各地のほかの城下町とは違い,こうした谷に町をつくったというのが私にはおもしろく,これで防御ができるのだろうかと思ったのですが,それは将棋でいえば穴熊のようなもので,谷に攻め込んだ敵方を袋のネズミにしてしまうような感じだったのでしょう。
 いずれにしても,こうして日本の様々な場所に行ってみると,この国は今も戦国時代の遺構がいたるところに残っています。400メートルくらいの小高い山のほとんどには砦が築かれているし,国中が勢力争いをしていたのだなあということを実感します。まるで,高いところに城を作る競争をしていたみたいです。そのために,おそらく庶民は年中駆り出されて,土木工事ばかりをしていたのでしょう。
 今の政治家もハコモノ作って名を遺すのが生きがいだと思っているから,同じようなものでしょう。
 一乗谷は東西約500メートル,南北約3キロメートルという狭い場所で,北陸道や美濃街道,朝倉街道などが交わる交通の要衝にありました。谷の周辺の山峰に城砦や見張台が築けばすべてが見渡せる広大な要塞となっていました。

  ・・・・・・
 朝倉氏はすでに南北朝時代に一乗谷を本拠にしていました。足利将軍家の分家である鞍谷公方なども住んでいたことから,応仁の乱により荒廃した京から多くの公家や高僧,文人,学者たちが避難してきたために一乗谷は飛躍的に発展し,華やかな京文化が開花しました。以前行った高知県の中村(四万十市)も応仁の乱を避けて避難した有力者が作った町だったのですが,一乗谷も同じだったのでしょう。
 4代朝倉孝景のころに全盛期を迎え,人口は1万人を超え,越前の中心地として栄えていました。
 明智光秀の計らいで,1567年(永禄10年)に5代朝倉義景が足利義昭を安養寺に迎えたことから,戦国時代に大きな関りをもつことになり,それが原因として,朝倉氏が滅ぶことになったのは皮肉です。
 1573年(天正元年)に織田信長の軍勢によって火を放たれ,一夜にして一乗谷は灰燼に帰してしまいました。織田信長が越前一向一揆を平定したあと,この地を与えられた柴田勝家は本拠地を水運・陸運に便利な北ノ庄に移したために,一乗谷は田畑の下に埋もれていったのです。
   もろともに月も忘るな糸桜 年の緒長き契と思はゞ  足利義昭
  君が代の時にあひあふ糸桜 いともかしこきけふのことの葉  朝倉義景
  ・・・・・・

 朝倉館跡正面の堀に幅2.3メートルの唐破風造り屋根の門・向唐門が当時のまま残っていました。これは朝倉氏の遺構ではなく,のちに建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わり,江戸時代中期頃に再建されたものですが,これはこれでこの遺跡のシンボル的な存在となっています。
 朝倉館は幅約8メートル,深さ約3メートルの堀で囲まれていて,三方の土塁にはそれぞれ隅櫓や門がありました。館内は常御殿を中心として,主殿や会所,庭園などがありました。
 また,朝倉義景の墓は,1663年(寛文3年)に福井藩主松平光通が建立したものです。
 庭池と石組の豪壮な林泉庭園から砂礫と立石,伏石の枯淡な枯山水庭園まで多くの庭園が遺存していました。これらの庭園は室町時代の様式をよく伝えていて,朝倉義景時代の作庭と考えられています。 
 朝倉屋敷と道を隔てて,町並が再現されていました。100尺(約30メートル)を基準に計画的に町割がなされ,京都のように整然とした町並み作られていて,1995年(平成7年)に,発掘結果や史料等を参考に200メートルにわたって当時の町並みが復元されました。また,小規模な建物が細く並んでいた町屋も10軒ほどが復元され,裏庭、井戸、厠なども再現されていました。
 戦国時代に舞いもどったようで,不思議な気がしました。帰りに博物館に寄って,一乗谷を後にしました。

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 私が丸岡城に行ったのは3月の半ばのことなので,わずか2か月ほど前のことなのですが,ずいぶんと昔に思えます。この時期あたりまでは新型コロナウィルスによる事態はさほど深刻でなかったのですが,偶然なのか故意なのか,3月24日に東京オリンピックの延期が決まった日から急に感染者が激増してしまいました。
  ・・
 さて,東尋坊から再び丸岡城に戻ってきました。早朝に来た時と同じ場所に車を停めて,丸岡城に行きました。
 駐車場からは城郭はみえず,城までは坂道を少し登る必要がありました。すぐに美しい天守が見えてきました。城はそれほど高い場所にあるのではなく,丘の上にある少し大きな家のようで,ちょっとイメージとは違うなあと思いました。
 このときはまだ城は公開していました。城の外にあった受付のような場所で入館料を払う必要があったので,そこでお金を払ってお城に向かいました。私のほかに来ていたのは一組の夫婦連れだけで,静かな時間を過ごすことができましたが,これもまた,今では遠い昔のことのように思えます。

 1階には若干の展示と昔の城下町のジオラマがありました。城内は昔のままで,上の層に登るためのあまりにも急な階段におどろきました。この階段にはロープがつけてありましたが,もしそれがなければ険しすぎて登れないか,あるいは足をふみはずしてしまうか,といった感じでした。
 もともと,天守はシンボル的存在であって,そこで城主が暮らしていたわけでもなく,おそらくは倉庫のようなもので,頻繁に登る必要もなかったのでしょう。
 最上層に登ると,そこからはちいさな丸岡の町がよく見えました。
 降りるときも階段がまるで崖のようで苦労しました。天守の外に出ると,私が行ったときはまだ桜が咲く季節ではなかったのですが,それでも早咲きの桜が少しだけ咲いていたので,桜と天守が一緒に収まる場所を探して写真を撮りました。

 天守の下に博物館があって,そこで丸岡藩と丸岡城について詳しく知ることができました。
  ・・・・・・
 丸岡城は丸岡藩の居城でした。
 丸岡藩は,戦国時代,織田信長の配下柴田勝家の養子であった柴田勝豊が治めていました。柴田勝豊が賤ヶ岳の戦いののち病死すると,豊臣秀吉の家臣であった青山宗勝・青山忠元父子が丸岡藩に入りましたが,関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易され,代わって入ったのは結城秀康の重臣・今村盛次でした。しかし,今村盛次は福井藩重臣による内紛に巻き込まれて流罪とされ,その次に徳川家康に仕えた本多重次の子・本多成重が入りました。
 本多成重と子の本多重能,そして孫の本多重昭の3代は藩政の確立に尽力しましたが,本多重昭の子の本多重益は無能の上,酒色に溺れ,それがもとで家臣の本多織部と太田又八の間で内紛が起こり,幕命により改易されてしまいました。
 このように,丸岡藩の藩主は災難続きでしたが,戦国時代,キリシタン大名で有名な有馬晴信の曾孫・有馬清純が越後糸魚川藩から入部し,やっと落ち着きました。その次の藩主である有馬一準の時代には外様から譜代へ格上げされ,第5代藩主の有馬誉純は若年寄,第8代藩主の有馬道純は老中という幕府の要職に就任しました。
 明治維新ののち,有馬道純は版籍奉還により丸岡藩知事となり,さらに廃藩置県によって丸岡藩は廃藩となりました。
  ・・・・・・

 丸岡城は,日本に現存する12の天守のひとつです。合戦時に大蛇が現れて霞を吹き城を隠したという伝説により,別名を「霞ケ城」といいます。
 城はもともとは安土桃山時代に建造されたと推定されることから現存最古の天守とよばれ,犬山城の天守との論争がありました。それは,1576年(天正4年)に柴田勝豊が建造したものであるという説と,建築史の観点で慶長期の特徴を多く見ることができるから本多成重が入城した1596年(慶長元年)以降の築造もしくは改修という説なのですが,調査の結果,使われている部材に伐採年代が1620年代以降と推定されるものが多いことがわかって,現在では,天守は1624年の寛永期に藩主本多成重によって整備されたと考えられています。
 丸岡城は天守のみ残っていて,櫓はありません。また,聞いてみると,城下町の風情の残る場所も残念ながらありませんでした。それは,1948年(昭和23年)の福井地震でこの町自体がほとんど壊滅的な被害を受けたためだそうです。そして,この地震で天守も倒壊してしまい,現在の天守は,1955年(昭和30年)に部材を70%以上再利用して組み直して修復再建されたものだそうです。
  ・・
 風情のある天守でしたが,思いのほか小さなお城でした。見学をしたあと,駐車場の場所にあったレストラン「一筆啓上茶屋」で地元産の越前おろしそばを食べました。客は私ひとりでした。
 私はグルメではないのですが,その土地に行けばその土地の名物を食べるようにしています。福井県の嶺北地方では,冷たいそばにたっぷりの大根おろしと削り節,刻みネギをのせて食べる越前おろしそばが有名だそうです。
 越前おろしそばは,今から400年以上前の1601年(慶長6年),府中(現在の越前市)の領主としてやってきた本田富正が京都の伏見からそば職人の金子権左衛門を連れてきたことがはじまりです。城下の人々に戦や災害に備える救荒食としてそばの栽培を奨励し,健康面でもプラスになるように大根おろしと一緒に食べるそばを考案したのが越前おろしそばの由来だといわれているとのことです。
 おいしくおそばをいただいて,わずかな時間の滞在でしたが,丸岡城を後に帰宅することにしました。

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 東尋坊はずいぶん昔に行ったことがあるという記憶だけですが,どういうところだったかはまったく覚えがありませんでした。知っているのは,そこが自殺の名所,あるいは「サスペンスドラマの聖地」とかいう噂だけです。しかし,もちろん私はそういうものではなく,単に時間つぶし,そして,東尋坊がどういうところかを確認することだけが目的でした。

 世界的にも珍しい断崖絶壁の絶景が臨めるという東尋坊は,その荒々しさや迫力からサスペンスドラマのラストシーンで多く使用されていて,ドラマでは,ここで犯人が自供するシーンがたびたび現れます。
 東尋坊は「輝石安山岩の柱状節理」という珍しい奇岩で構成されている海食崖です。こうした奇岩が大規模に広がっているのは朝鮮半島の金剛山とスカンジナビア半島のノルウェーの西海岸,そして東尋坊しかないそうです。
 崖は1キロメートルにわたり,最も高い場所で25メートルもの垂直の崖です。東尋坊は今から約1,200万年前から1,300万年前の新生代第三紀中新世に起こった火山活動でマグマが堆積岩層中に貫入して冷え固まってできた火山岩が日本海の波による侵食を受け地上に現れたものとされています。

  ・・・・・・
 昔,福井県東部の山間「奥越」に「平泉寺」という大きな寺に,東尋坊という極悪非道の僧侶がいました。東尋坊は暴れ出すと手がつけられないほどの怪力の持ち主で,悪事を重ね近隣の民を苦しめていました。東尋坊にはあや姫という思い人がいて,恋敵である真柄覚念という僧侶といがみ合っていました。
 平泉寺の僧侶たちが東尋坊を海辺見物に誘い出し,崖の上で酒盛りをしていたとき,真柄覚念が泥酔した東尋坊を絶壁から突き落としてしまいました。すると,東尋坊が海に沈むやいなや,それまで晴天だった空に俄かに暗雲が立ち込め,豪雨と雷が地上を襲い,ついに東尋坊を突き落とした真柄覚念も絶壁の底へと落ちていき,それ以降49日間にわたって東尋坊の無念により海は大荒れとなりました。
 それ以降,崖が広がる一帯が東尋坊と呼ばれるようになったということです。
  ・・・・・・

 公共の駐車場は有料らしかったのですが,東尋坊に続く道の一番手間にあるお店が無料駐車場の看板をかかげていました。商売上手で,駐車してもらって,帰りにその店で食事をしたり土産を買ってもらおうということのようでした。私もそこに車を停めると,さっそくどこからか店員さんが出てきて,お店の中を通ると東尋坊まで近道だと案内してくれました。
 私はずうずうしいので何も買わずに店を通りぬけ,東尋坊に向かいました。お寺の参道のようにまわりに多くのお店が並んでいて,いかにも昔からある日本の観光地でした。しかし,なにせ,朝早すぎてまだほとんどのお店は準備中でした。そうした参道のような道を過ぎると,海岸に出ました。そこが東尋坊でした。
 もっと雄大なのかと思っていたので拍子抜けをしたのですが,それは,私が海外でとんでもない風景を見慣れているからでした。私以外に観光客もおらず,写真を撮ってもらうにも頼む人がいませんでしたが,かろうじて若者がひとりやってきたので,写真を撮ってもらいました。
 太平洋岸は晴れていたのに,この日の日本海側は天気が悪く,それがまた日本海らしいというか…。
 短い時間でしたが,東尋坊がどういうところなのかわかったので納得して,丸岡城に戻ることにしました。
 帰りも親切なお店の中を何も買わずに通り抜け,車に乗ってそのまま丸岡に戻りました。

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 3月6日,余部鉄橋を見にいった帰りに福知山城と黒井城に寄ったことはすでに書きました。福知山城は明智光秀の居城だったところで,その美しい姿に一度は見たいものだと思っていたのですが,実際行ってみると,そこは鉄筋コンクリートのお城であることを知って,がっかりしました。そして,どうやら,私は,福知山城と丸岡城をごっちゃにしていることに気づきました。私は城マニアでないので,知識はその程度のものです。
 そこで,「一度は行きたかったでもわざわざ行かなくては行かれない場所に行ってみよう」という計画の続きでいろんなところに日帰りドライブ旅行をしている一環として,丸岡城に行ってみることにしました。丸岡城もまた,どこにあるか,まったく知りませんでした。調べてみると,福井市の北にあるようでした。福井市は以前,仕事で行ったことがあります。そのとき,交通費を節約して高速バスを利用したのですが,福井市が名古屋からずいぶん近いことに驚きました。そして,大都市が近くにない福井市の人は用事があると気軽に名古屋に来るということを知りました。

 よい天気でした。今回もまた,早朝6時に自宅を出て,名神高速道と北陸自動車道を乗り継いで日帰りでドライブすることにしました。これまで行った余部や親不知に比べたら,比較にならないほど近いところで,わずか2時間,あっという間に福井インターチェンジに着いてしまいました。福井インターチェンジを過ぎると,やがて左前方に町が広がり,その中心付近に小さなお城が見えました。丸岡城は山城ではなく,町の真ん中にあって,家々と馴染んでいました。
 ただ,誤算は天気でした。自宅を出たときは晴れていたのですが,日本海はまったくそうではなく,曇天,しかも,とても寒い日でした。
 丸岡インターチェンジで降りて,Google Maps のナビゲーションに従って走っていくと,ほどなくお城の駐車場の着きました。丸岡城は坂井市にありました。坂井市は思った以上に小さな町でした。そしてまた,小さな城郭でした。広い駐車場がありましたが,1台も車は停まっていませんでした。時間はまだ午前8時前。ちょっと早すぎるなあ,と思って,どこか近くに寄る場所でもないかなあと地図を見ると,東尋坊まで25分でした。そこで,まず,東尋坊まで足を延ばすことにしました。
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 というわけで,3月17日の朝8時すぎ,出かけるときに行くとも思わなかった,そして,私以外に誰もいない寒さ震える東尋坊で,私は日本海を眺めていたのでした。

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 駐車場を出て国道8号線を東に進んでいくと,やがて道の駅に着きました。このあたりが子不知だそうです。
 ここで難所も終わり,先には平地が見えてきました。昔の旅人はほっとしたことでしょう。さらに行くと姫川があって,橋を越えると糸魚川市です。糸魚川市といえば,東北日本と西南日本の境目となる中央地溝帯・フォッサマグナです。小学校で習いました。
 本来なら,私は列車に乗ってこの糸魚川市に着いて,ここから西に親不知海岸に列車で目指す1泊2日の旅をするはずでした。
 車で走っていると,乗るはずだった1両編成の列車が走っているのが見えました。しかし,こうして車であっという間に来てみると,これでは旅情もへったくれももなく,ただ来たというだけのことでした。
 目的は親不知海岸を見てみたいということだけだったので,ここらあたりで引き返すことにしました。目的を達成できて,これはこれで満足しました。
 帰りの途中,市振の集落に差し掛かったので,一旦国道8号線を降りて集落の細い道に入りました。

 松尾芭蕉は「奥の細道」で,次のように書いています。
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 今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て,つかれ侍れば,枕引よせて寐たるに,一間隔て面の方に,若き女の声二人計ときこゆ。
 年老たるおのこの声も交て物語するをきけば,越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて,此関までおのこの送りて,あすは古郷にかへす文したゝめて,はかなき言伝などしやる也。
 白浪のよする汀に身をはふらかし,あまのこの世をあさましう下りて,定めなき契,日々の業因,いかにつたなしと,物云をきくきく寐入て,あした旅立に,我々にむかひて,「行衛しらぬ旅路のうさ,あまり覚束なう悲しく侍れば,見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。
 衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と,泪を落す。不便の事には侍れども,「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護,かならず恙なかるべし」と,云捨て出つゝ,哀さしばらくやまざりけらし 。
  一家に遊女もねたり萩と月
 曾良にかたれば,書とヾめ侍る。
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 このときに松尾芭蕉が泊ったという宿の跡が残されていました。
 ここはまた,市振の関所があった場所です。市振の関所は1614年(慶長19年)に設けられたものといわれ,加賀藩最大の関所でした。越後に通じる親不知の難所を控え,交通の要所を押さえるように国境に設置されたものです。
 加賀藩はこの地を直轄地とし国境警備に重点をおいたので,ここは全国でも最大級の規模をもつ関所でした。関所には,海辺や海上渡航改めをする浜関所,街道通行改めの関所,海上や山中を不法越境するものを見張る御亭,藩主が宿泊した御旅屋,射撃場,牢屋,役人の長屋などがありました。
 現在は,静かな漁港となっています。

 さて,これで帰宅です。
 せっかく来たので,立山やら黒部やらまで足を延ばしてもいいのですが,特に行くための準備もしていなかったので,立山の姿だけを遠くから見て,行きと同じ東海北陸自動車道で引き返すことにしました。
 立山は雪を被った姿がよく見えました。若いころは,妙高,赤倉,栂池,白馬,八方尾根など,数多くのスキー場に通ったものです。改めて地図を見ると,今回私が来たところは,そうしたスキー場からとても近い場所であることに驚きました。しかし,当時は,こんなことにはまったく興味もなく,朝から晩までスキーをしていただけでした。思えばもったいないことをしたものです。

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 駐車場に戻ってきました。駐車場から海岸に降りることができる階段がありました。帰りにこの階段を登ることを心配しながら急な階段をずいぶん降りると,海岸まで行くことができました。
 私はこのところ,年甲斐もなく,思いのほか高い山に登ったりこうした階段を降りたりしています。この日も懲りずに登ったり降りたりでした。
 この海岸は「芭蕉も歩いた道」という触れ込みでした。海岸には崖が迫っているので,この先を歩こうとすれば,潮が引いて浅瀬になったときに海の上を歩くほかはありませんでした。冬の日本海は過酷で波も高いので,多くの犠牲者が出たそうです。
 この階段を降りる途中に,不気味なトンネルがありました。しかも,このトンネルはどうやら歩けるようでした。このトンネルを抜けた先が,先に歩いた道路の行きつく先であるようでした。冬場は向こう側のトンネルの先にある展望台が閉鎖されているために,道路の先からトンネルに降りることはできなかったのですが,こちらの階段の途中からはトンネルの向こうまでは行けるのでした。

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 このトンネルは親不知レンガトンネルといいます。1905年(明治38年)帝国会議で敷設が決定され,1906年(明治39年)に富山・直江津間 の実測が始まり,1907年(明治40年)に両端から工事がはじまりました。神戸市の稲葉組が現在の金額換算で約120億円で請け負ったそうです。地質が非常に硬い安山岩であったため,手掘りでは1日平均約58センチメートルしか掘り進められなかったとされています。全長は667.82メートル,幅員4,572メートル,高さ4,700ミリメートルのトンネルは黒姫山の石灰石が北陸一帯に輸送され地域の近代化に貢献しました。
 1965年(昭和40年)の複線化に伴い廃線となり,1974年(昭和49年)に日本国有鉄道から現在の糸魚川市に無償で譲渡され,地域の近代化に貢献した貴重な鉄道遺産として,2014年(平成26年)に土木学会選奨の「土木遺産」に認定されました。このトンネルが歩けるようになったのは2016年(平成28年)ということなので,私は長年来たいと思っていてそれがかなわず,今来ることができたのは幸運だったように思いました。
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 こわごわ中に入りました。ところどころに灯りがあったのですが,暗く,入口に懐中電灯が置いてありました。しかし,今はスマホがあれば懐中電灯は不要です。
 トンネル内の足元はぬれておらず,何の問題もなく歩くことができました。それにしても,ほぼ無人の状態でこんなトンネルが開放されているのが驚きでした。興味本位でやってきて,なかでわいわい騒ぐような不届きモノがいても大丈夫なのでしょうか? もしアメリカでこうした施設があるのなら,おそらく,入口にビジターセンターがあって,結構なお金を取って,時間を決めてガイドツアーが実施されたりするのでしょうが,日本でそうしたツアーをやっても,人が集まらないでしょう。多くのブログに,行って来たぞのようなものがたくさんあるので,興味ある人は探してみてください。 
 暗いトンネルの中にときどき灯りがともされていて,そこにレンガの積み方の解説などがかかれた展示があって,私にはけっこう興味深いものでした。
 トンネルを抜けた先に展望台があるようでしたが,先に書いたように,展望台は冬の間閉鎖されていて景色もたいしたことはなく,結局,トンネルを歩いて抜けたというだけのことでした。
 私は再びトンネルを歩き駐車場に戻り,さらに先に向かいました。

 

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 ヒスイ海岸あたりはまだ海岸線はずっと平地で,この先に本当に断崖絶壁があるのだろうか,という雰囲気でした。
 日本海の海岸にそって地元道をくねくねと富山県から新潟県に入ると,急に山が迫ってきます。アメリカの州境も日本の県境も同様ですが,あとで地図で線を引いたような場所はともかく,歴史的に自然に境ができたところは,やはりそれなりに理由があるものだなあというのを実感します。

 新潟県に入るころには一般道は国道8号線に吸収されました。県境を越えたところに市振という集落がありました。この集落はその先の難所を控えた宿場だった場所ですが,いつものとおり私はともかく目的地に到達するのが第一なので,この場所で停車することもなく先を急ぎました。この集落は帰りに寄ってみたので,そのときにまた書きたいと思います。
 市振を過ぎると,突然,海岸線は崖になりました。高台には高速道路が走っていますが,私は,高速道路を走る予定はなく,ずっと一般道の国道8号線を走ることにしていました。
 海岸にそって走る国道8号線は海の迫ったこの場所では日本海の荒波が直に打ち付ける場所で,塩害が強く,走っていると,道路は絶えず補修をしたり,作り直されたりしていることがよくわかりました。断崖絶壁である数十メートルの区間は切り立った断崖をトラバースします。国道8号線は総延614キロメートルにも及ぶ日本海側の大動脈で,多くの車が行き交っていました。覆道あるいはトンネルは多くのトラックが走っていてカーブになるとオーバーハングしてくるので,油断のならない道路でした。
 この場所が断崖絶壁なのは,日本列島の大地溝帯フォッサマグナが南端である静岡県焼津市大崩海岸から続く北端にあたる部分で,北アルプスの山塊が日本海に潜り込む場所だからです。
 車中から眺められる豪快な海岸線はまさに絶景なのですが,よそ見をする余裕はなく,景色を見るのは展望台までお預けでした。
 
 やがて,ようやく待ち望んだ展望台に到着したので,駐車場の車を停めて外に出ました。
 海岸線に続く,車の通行禁止の道路があったので,まず,そこを歩きました。いつものように,私はほとんど下調べをしないで来たので,この場所がどうなっているのかは到着してのお楽しみでした。このときわかったのは,今のような国道8号線ができる前,この展望台のはるか下の海岸線近くに鉄道のトンネルが掘られたということで,今は廃線となったそのトンネルは歩いて抜けることができるのでした。
 ただし,私が今歩いている道路は,トンネルの西の端の入口に続いているのですが,冬場は徒歩でもトンネルの入口へは通行できないということで,途中で引き返すしかありませんでした。
 それにしても,想像以上にすごい風景でした。
  

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 東海北陸自動車道で終点の富山まで行って,北陸自動車道に入りました。
 私はこれまで富山県というところに行ったことがありませんでした。おそらく,石川県に行ったときに県境は越えたことがあるかもしれませんし,あるいは,若いころスキーをするために北アルプスには行っているので,そのときも県境は越えたかもしれませんが,わざわざ富山県を目的地として旅行をしたことはありません。
 私の思う富山県の印象は,冬寒く夏暑いというところです。しかし,大学を卒業して就職をするときに,結局は行きませんでしたが富山県のある会社に内定をもらっていたので,世が世なら富山県に住んでいたかもしれないのです。
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 富山県というのは有数の観光地で,黒部渓谷や立山,そして,蜃気楼,ホタルイカなどが有名なのですが,私は,それを目的にわざわざ行くこともこれまでありませんでした。どうしてなのでしょう? しかし,近い将来,富山県に夢中になる可能性もあるかもしれません。というのも,今回行ってみて,いいところだと思ったからです。

 北陸自動車道を目的地の親不知まで走っていってもおもしろくないので,早々に一般道に降りて,日本海に沿って走ろうと,魚津インターチェンジで降りました。こここから海岸線に沿って,目的地である親不知子不知に向かうのです。
 おそらく,この日の天気が悪かったらまったく別の印象をもったかもしれませんが,私は晴れているからこそ今日来たので,日本海がそれはそれは美しく眺められました。
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 蜃気楼の見えるところという看板が至る所にありました。
 蜃気楼というのは上暖下冷の空気層の間で光が屈折して観察者の目に届き風景が伸びたり反転した虚像が見える現象だそうです。これまでは,富山湾に流れ込む冷たい雪解け水が大気の下部を冷やして上暖下冷の空気層を作ると考えられてきましたが,最近の調査では,下層が冷やされるのではなく,蜃気楼発生時にはむしろ上層に陸地から暖気が流れ込んでくる現象ということです。
 富山湾で蜃気楼が見られるということは知っていたのですが,どのくらいの確率で見られるのかは全く知りませんでした。これを機会に調べてみると,蜃気楼が見られるのは春から初夏の3月下旬から6月上旬にかけてで,2,3日晴天が続き気温が高く海岸で穏やかな北北東の風が吹く日に発生しやすいとされていて,短いもので数分,長ければ数時間にもわたって幻想的な姿を見せるのだそうです。
 オーロラ同様,蜃気楼予報などというものがあるので,これを頼りに出かければひょっとして見ることができるかもしれません。富山など車ではしればすぐそこです。いやいや,また,余分な? ものに興味をもってしまいそうなのでこれ以上興味を深めるのはやめておきましょう。オーロラ,皆既日食などと同様,こういうものは見ようと思って見れらないとトラウマになってしまいます。
 海岸線を走っていると,確かにいかにも蜃気楼が見られそうな海岸でした。

 さらに進むと,今度はヒスイ海岸というところにたどり着きました。
 ヒスイ海岸という通称は,このあたりの海岸線でヒスイの原石を拾うことができることに由来します。ヒスイ海岸ではヒスイ以外にもルビーやサファイアなども見つかるらしいです。ヒスイは,山から姫川や青海川などの流れによって海まで運ばれてきたという説やフォッサマグナでのヒスイを含んだ蛇紋岩層が糸魚川市から富山県朝日町にかけての海底にも分布していて波の撹拌作用によってヒスイが海岸に打ち上げられるという説が存在するそうですが,実際のところはよくわかっていません。昔はたくさんみつかったそうですが,今は,河川の上流から流れ下ってくるヒスイは川に設置されたたくさんの砂防堰堤に遮られて海岸に到達しにくくなり,海岸に置かれた無数のテトラポッドがヒスイ探しの障害となっていて,海岸で1日かけて探しても数個のヒスイを拾うことができるくらいのものだそうです。
 それにしても,美しい海岸でした。私は,オーストラリアのゴールドコーストを思い出しました。

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 新型コロナウィルス騒動でもなければ,私は,ここにもJRで行こうと考えていました。考えていたルートは次のものでした。
 まず,名古屋から中央本で塩尻まで行きます。そこで大糸線に乗り替えて糸魚川まで行くのです。この行程だと6時間くらいで行ける感じでした。そして,糸魚川の確か2,3駅手前に,ひなびた温泉宿を見つけました。そこは雪を見ながら温泉に入れるという触れ込みでした。ならば,雪の深い季節のほうよさそうだなあ,いつ行こうかなあと考えていました。そこで1泊して,翌日,糸魚川からは日本海に沿って「あいの風とやま鉄道」とかいう第3セクターの列車で親不知駅で降り,親不知海岸を散策して,再び親不知駅から列車に乗って富山まで行き,富山からは高速バスで帰ってくるのです。
 今年の冬まで待って,このコースを実現してもよかったのですが,去る3月6日に車で片道4時間以上かけて日帰りで余部鉄橋を見にいった結果,親不知子不知のほうが余部よりずっと近いではないかと思うようになり,ならばついでに行っちゃえということで,すぐに行動に移したのです。
 今回のドライブコースは,東海北陸自動車道を一直線北に終点の富山まで行って,富山からは北陸自動車道でどこから適当なところまで行ってそこで一般道に降りて,日本海沿いを走るというものでした。これまで東海北陸自動車道は郡上八幡のあたりまでは使ったことがあるのですが,その先を走ったことがなかったので,一度利用してみたかったということもありました。そしてまた,富山という町にも行ったこともなかったので,けっこうこの計画は魅力的に思えました。

 ところで,今,この文章を書いていて気づいたのですが,東海北陸自動車道と北陸自動車道って,名前のつけ方がかなり紛らわしいです。知らない人にはわかりません。混乱します。道路に限らず,日本では名前のつけ方に全体を見渡す配慮がなさすぎます。
 話は脱線しますが,政党の名前も同類です。自由民主党と国民民主党,立憲民主党,さらには,前にあった民主党っていう名前も,考えてみれば意味不明です。みんな民主党のあたまに2文字つけただけではないですか。なのに,どうして自由民主党だけ略称が自民党となるのでしょう? ならば,国民民主党は国民党だし,立憲民主党は立民党です。選挙で民主党と書いたら票数は3等分するのでしょうか? 自由民主党だって,そもそも,もともとは自由党と民主党が合併してできた政党です。
 同じように,東海北陸自動車道だって,北陸自動車道と名前が被っています。
 少し話はずれますが,これまで何度も書いたことがあるように,京都に行って名古屋や東京方面のJRに乗ろうとしても,東海道線というものがありません。京都の人は東海道線を「琵琶湖線」とよぶのですが,こんなもの,名古屋や東京の人にはわかりません。それなのに,東海道新幹線はそのままです。京都の人でも琵琶湖新幹線とはいいません。

 話を戻します。
 早朝自宅を出て,東海北陸自動車道に乗りました。あとはずっと北上するだけでした。ずっと以前に走ったときはほとんどの範囲が片側1車線でしたが,今回走ってみて,おおよそすべての区間が2車線に拡張されていたのにおどろきました。
 このごろ日本国内を車で走ってみたら,私が知らないうちにやたらと道路ができていたのに驚きました。確かに早くて便利です。どこへもすぐに行くことができます。こうして車で走ってみると,私はここ10年以上だだっ広いアメリカばかりをドライブしていたので,それに比べて日本の狭さが身に染みます。車を使えばすぐに日本横断なんてできてしまいそうです。
 これまで,列車を使ってちんたらちんたら旅をしていたのでけっこう広い国だと思っていたのですが,列車で旅をすることがすごく非効率なことだと感じます。これでは,私のような,時間つぶしで旅をする人以外にはローカル線もローカルバスも乗らなくなるはずです。
 しかし,こんなにたくさん道路を作ってしまって,そうした道路の維持がこれからもできるのでしょうか? 日本はこの先急激に人口が減ります。そして,しばらくは年寄りだらけになります。福祉の予算もかかるし,労働者が激減します。現状を保つことすら困難になってくるのです。しかし,依然として,国土を壊し,高速道路を作り需要もなさそうな新幹線を建設しています。そんなことをして,この先維持できるわけないじゃないかと心配になってしまいます。

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 今日からは「一度は行きたかったでもわざわざ行かなくては行かれない場所に行ってみよう」という計画の続編で,3月9日に日帰りで日本海の「親不知子不知」に行ったときのお話です。
 行ってからすでにひと月あまりの時間が過ぎました。その間,世界の情勢はさらに悪化し,いつ終わるともわからない不安が増幅してしまいました。わずか数か月前の人が行き交っていた世界が夢のようです。
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 3月6日の金曜日に余部鉄橋の行ったことはすでに書きました。人混みがきらいで週末はあまり出歩きたくないので自宅で過ごし,週明けの3月9日の月曜日,今度は新潟県の「親不知子不知」海岸に車で行くことにしました。雪が心配だったのですが,ぽかぽか陽気で,その心配もなさそうでした。

 私は,長年,ずっと「親不知子不知」海岸に行ってみたいと思っていました。
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 誰もいない(中略)聞えるものは波音だけ。泌み入るようなさみしさである」
  深田久弥「親不知・子不知」より
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というように,北アルプスが日本海に鋭く落ち込み作り出した断崖絶壁に面したわずかな渚である高尾の場所は,明治のはじめまで,そこは越後と越中を結ぶ最短路であり,かつ,旅人が命がけで歩いた道でした。

 また,この場所は,参勤交代をする加賀藩にとっても,最大の難所でした。
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 金沢から江戸に参勤交代するコースは,金沢から北陸道の越後高田を通り,北国街道の信濃追分から中山道を通り江戸へというコースでした。 このコースでは,江戸までの距離は百十九里(約480キロメートル),所要日数は12泊13日なので,1日あたり十里(40キロメートル)を歩いたわけです。旧街道歩きを楽しむ私には実感がわきます。加賀藩の参勤交代行列の人数は最大で4,000人程度,通常は2,500人から3,500人で,日本一大規模なものでした。かかった費用は現在のお金に換算すると5億円とも7億円ともいわれます。
  日本海の荒波が断崖下の道に迫っている親不知は参勤交代道中の中で最大の難所でした。500人から700人の「波除け人足」が麻縄を持ち,人垣を造って藩主を護り,馬は荷物を付けたまま通ることができないので人間が馬に代わって荷を担ぎ,馬は空荷で通しました。そして, 渡り終えると江戸と加賀に注進の特使を飛ばし,難所を無事に通過したことを知らせたそうです。
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 私が「親不知子不知」海岸のことを知ったのは,こうしたものからですが,古より,これだけの困難を強いた場所があれば,そこがどんなところかと一度は見ておきたいと思っていたのでした。

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