しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場・47都道府県を制覇し,南天・皆既日食・オーロラ,空の3大願望を達成した「不良老人」の日記

カテゴリ:日本国内 > 東海

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【Summary】
Shobata Castle in Aichi Prefecture was a strategic border stronghold of Owari. Built by Oda Nobusada, it is famous as Oda Nobunaga’s birthplace in 1534. Today, few remains exist, but monuments recall its role in regional defense and early Oda family history.

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 「豊臣兄弟!」にちなんで。
 名古屋周辺には多くの史跡があります。今日は,織田信長が生まれた場所といわれる勝幡城(しょばたじょう)です。
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 勝幡城は,尾張国中島郡勝幡(現在の愛知県愛西市)にあった戦国時代の城で,1534年(天文3年)5月12日,織田信長がここで生まれた地として知られています。築城は15世紀末から16世紀初頭とされ,築城者は織田信定,つまり,織田信長の祖父だと伝えられています。
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 勝幡は尾張の西端に位置し,木曽川の支流に囲まれた天然の要害だったので,美濃との国境を守る重要な拠点でした。とはいえ,当時の城は,多くの人がイメージするのとは違って,単なる田舎の地主の屋敷のようなものでした。
 2026年1月9日。天気がよかったので,ふらりと,この勝幡城址へ行ってみました。
 名鉄電車の津島線・勝幡駅からさほど遠くないところにありました。勝幡駅の周辺は,いかにも愛知県尾張地方の素朴な集落,といったところですが,駅前にはなんと「ドンキ」がありました。というか,それ以外に何もなく,ここは名古屋市のベットタウンでしかなく,観光地ではありません。遠くからこんな場所に来る人もまずないでしょう。

 勝幡城址には「織田信長公誕生地」の石碑が建っていただけでした。城の遺構はほとんど残っていないというか,発掘調査もしていないような雰囲気でしたが,調査しても石垣があるわけでもないから,何も出てこないような…。申し訳程度に,駅前には,織田信秀と土田御前に抱かれた織田信長の像と,城郭考古学者の千田嘉博さん監修の勝幡城のモニュメントがありました。
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 勝幡城は,1504年から1521年の永正年間に織田信定によって築かれたと伝えられています。
 織田信定は岩倉城主織田敏信の弟で,はじめ小口城主となり木下城主を兼ねましたが,ここに築城して居住し,享禄元年に没したといいます。
 織田信定の長子である織田信秀は,永正5年この城に生まれ,父の没後その後を継ぎ,尾張守護斯波氏の三奉行として,清須に勤仕しました。 規模・構造については「東西四十八間,南北七十間,大手口東西二重堀,四方に惣堀有,惣構の外南北百二十間,東西百十四間」と「尾陽雑記」にあります。
 勝幡城の城域は現在の愛西市と稲沢市に広がり,城の中心は稲沢市城之内付近と推定され,織田信長生誕地は城跡の南端部分と考えられます。 
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【Summary】
Komaki’s origins trace back to Oda Nobunaga’s Komakiyama Castle, built in 1563 with an early stone foundation and planned castle town. Though abandoned twice, the site later became a post town. After modern redevelopment and preservation efforts, Komakiyama is now a historic park with ongoing archaeological research and scenic views.

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 小牧市の前身である小牧宿の起源は,織田信長の小牧山城築城にさかのぼります。
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 1563年(永禄6年)に織田信長は居城を清須から小牧山へ移し,武士だけでなく,清須から商工業者を移住させ,小牧山の南麓は城下町として栄えました。
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と史料にあります。現在残る小牧山の城郭遺構の基礎はこのときに築かれたとみられ,石垣が発掘されたことから,はじめて石垣を積んだ城であることがわかりました。
 城下町は,南北1.3キロメートル,東西1キロメートルの範囲に展開,城下町西部には,商工業者が集住し,御園町,紺屋町,鍛冶屋町,新町,油屋町などが形成,城下町東部には,有力な家臣団の住む武家屋敷や寺院,下級武士団の住居が配置されました。しかし,わずか4年後の1567年(永禄10年)に信長が岐阜へ去り、小牧山城は廃城となってしまいました。

 1582年(天正10年)に織田信長が本能寺に倒れ,その後は,織田信長の子・織田信雄が尾張を領国とし支配していましたが,豊臣秀吉と対立し,小牧・長久手の合戦が起きました。
 1584年( 天正12年),織田信雄は徳川家康に援助を要請,豊臣秀吉軍の南下を阻止すると,小牧山城跡の大改修を開始し,ここにたてこもりました。長久手の合戦では徳川家康が勝利しましたが,その後は持久戦となり,最終的に和解が成立し,小牧山城は再び廃城となってしまいました。現在残る小牧山城は,この小牧・長久手の合戦の陣城跡です。
 江戸時代に入ると,尾張藩は木曽街道の整備に着手。清須から小牧山の西を通って犬山を経て中山道の鵜沼へと続いていたものを,小牧山の東を通ることになりました。これにともなって,尾張藩は,小牧の町を移転させることになり,1623年(元和9年)から1628年(寛永5年)に移動が完了し,小牧は街道沿いの宿駅として整備されました。

 明治維新で小牧山は政府の所有となり,一旦民間に払い下げられたのち,県が買い戻し,県立の「小牧公園」として一般公開されました。1889年(明治22年)に再び尾張徳川家の所有となり,尾張徳川家は小牧山を保護するため小牧山南麓に番人を置き,一定の制限を設けて公開し登山料を徴収しましたが,1930年(昭和5年)に尾張徳川家は小牧山を小牧町へ寄贈しました。
 戦争中は立ち入りが禁止されましたが,戦後になると,小牧中学校,青年の家,市役所本庁舎,小牧市歴史館(小牧城)というように,公共施設が史跡地内に建設され,これらの整備により、一部の遺構が失われていきました。
 1982年(昭和57年)になると,史跡地内に公共施設が存在すことを疑問とする声が上がり,公共施設を移転し,観光型の整備から自然環境や景観の保存へと転換され,今日に至ります。現在は,発掘調査が行われています。

 私は,まず,麓の小牧山城史跡情報館「れきしるこまき」を見学してから,山頂の小牧市歴史館(小牧城)へ登り,眺望を楽しみました。

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【Summary】
In January 2026, I revisited Komakiyama Castle to see the relocated grave of Tokugawa Munetika, the ninth lord of Owari. Munetika led successful political, economic, and educational reforms and is regarded as the domain’s restorer. I laments the postwar destruction and dispersal of many Tokugawa graves.

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 2026年1月8日,小牧山城に行きました。
 愛知県は,JR東海道線と,JR中央線が通るところにある一宮市,稲沢市,刈谷市,岡崎市,豊橋市,春日井市は交通の便がいいのですが,それ以外の名鉄沿線にある,津島市,小牧市,犬山市,豊田市,半田市などの都市は,それに比べると,どこもアクセスが便利ではありません。特に,小牧市は,小牧線が名古屋市の地下鉄平安通駅から味鋺駅までたった1駅の盲腸線があって,味鋺駅が始発です。そこで,車で行くならさほどの距離はなくとも,公共交通を使ってまでわざわざ行こうという気にはなりません。そんなわけで,私も,自宅からさほど遠くないのに,ほとんど行ったことがないのです。
 一度は、ということで足を運んだのが,2020年7月11日のことでした。今回再び足を運んだのは,そのとき見落とした尾張徳川家9代藩主・徳川宗睦(むねちか)の墓が小牧山にあると知って,それを見にいきたかったからです。
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 名古屋市内にある建中寺は,初代尾張藩主徳川義直の菩提を弔うため,2代藩主・徳川光友が創建した寺院で,以降,尾張徳川家代々の菩提寺となりました。創建当初,建中寺の境内地は約5万坪(165,000平方メートル)の広大な敷地でした。
 1945年(昭和20年),太平洋戦争の名古屋大空襲で,7代藩主・徳川宗春の墓に焼夷弾が命中して損傷したものの,建物の被害はありませんでした。しかし,戦後の1953年(昭和28年),名古屋市は戦災復興都市計画における区画整を行い境内の規模が縮小したことで,歴代藩主の墓は、徳川光友の墓「源正公廟」のみを残し,残りは処分し,遺骸は荼毘に付して遺骨とし,初代藩主・徳川義直廟「源敬公廟」がある瀬戸市の定光寺にある徳川家納骨堂に納め,平和公園内に整備された建中寺墓地に徳川宗春の墓碑だけが移され,同時に,郷土史家の津田応助の嘆願で9代藩主・徳川宗睦の墓碑が小牧山に移されました。
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 以前,尾張徳川家の歴代藩主の墓について書いたことがあります。その時点では調べきれませんでしたが,その後,こうしたことを知りました。つまり,現在,尾張徳川家の歴代の藩主の墓(墓碑)が残っているのは,定光寺の初代・徳川義直,建中寺の2代・徳川光友,平和公園の7代・徳川宗春,そして,小牧山の9代・徳川宗睦のみで,無残にも,それ例外の墓石は,霊を抜き戒名を削り取り,だれの墓であったか不明となり,再利用されてしまったということです。
 いくら区画整理とはいえ,そりゃないぜ,と私は思いました。戦火に遭ったわけでもなく,1953年までは存在していたのです。現在も大切に徳川将軍の墓が保存されている上野の寛永寺とまではいかなくとも,せめて,戦火に遭った芝の増上寺のように,一角にまとめて墓碑を保存するくらいはできたのになあ,と残念に思いました。そう考えると,以前,芝の増上寺にある将軍の墓をみすぼらしいと書いたのはある意味間違いで,そのような形で残せたことは意義があると思いなおしました。また,私自身は墓には価値観をもっていないとも書きましたが,歴史上の遺産として立派にあったものを破壊するというのとは意味が違います。
 なお,建中寺に今も残る尾張徳川家の御霊屋と徳川光友の「源正公廟」は非公開ですが,11月に一般公開されているようです。

 小牧山の麓に着きました。駐車場があったので,車を停めました。
 大手口から入って北に大手道を登ると,標高86メートルの山頂にある小牧山歴史観(いわゆる小牧城)に至るのですが,徳川宗睦の「亞相正二品天祥院殿釜譽峻徳源明公尊儀」と刻まれた墓碑は大手口からすぐの左手にありました。
 墓碑は,以前行った平和公園の徳川宗春の「贈亞相二品章善院殿厚譽孚式源逞大居士尊儀」と刻まれた墓碑とおなじような感じでした。
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 徳川宗睦は,1733年(享保18年)高須藩主・松平義淳(のちの8代藩主・徳川宗勝)の次男として生まれ,1761年( 宝暦11年)に跡を継ぎ,9代藩主となりました。才能に優れ,山村良由や樋口好古らを登用して藩政改革に乗り出し,新田開発や殖産興業政策,治水工事の多くで成功を収めました。また,役人の不正を防止するため,代官制度の整備も行ない,さらに,農村の支配強化によって徴税の確実性を務めました。
 文化的にも,藩校・明倫堂(現在の愛知県立明和高等学校)を創設して藩の教育普及に努めました。 
 1800年(寛政11年)に67歳で死去。法号は天祥院。徳川宗睦は名古屋藩の「中興の祖」といわれています。
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【Summary】
Sekigahara is famous for the decisive 1600 battle. Visiting the modern Gifu Sekigahara Battlefield Memorial Museum, I learned especially about the dramatic “Shimazu no nokiguchi,” a daring enemy breakthrough retreat that saved the Shimazu clan from destruction and shaped later Japanese history.

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 関ヶ原というところは,関ケ原の戦いであまりにも有名です。そんな場所なので,昔から,関ケ原ウォーランドや関ヶ原鍾乳洞など,古きよき昭和時代の観光施設がありました。子供のころ行ったことがあります。そして,これらの施設は今も健在らしいです。
 とはいえ,日本各地,地方自治体が主体となった,立派な博物館や,史跡の整備が進んでいる今の時代なので,ここもまた,民間の観光施設だけでなく,史跡には案内板が設置され,県が運営する岐阜関ヶ原古戦場記念館が造られ,今まで以上に楽しみが増しました。
 このところ,自宅から近いがゆえにこれまで行ったことがなかった場所を巡りはじめているのですが,そのひとつとして,2025年10月28日には,伊吹山に登りました。その折り,関ヶ原古戦場を通りましたが,そこで見つけたのが関ヶ原古戦場記念館でした。このときは時間がなく行くことができなかったので,別の機会に行ってみたいと思っていたのが,12月18日に実現することができました。
 関ヶ原の戦いに関する史跡は,これまで,山中の大谷吉継の陣跡,松尾山の小早川秀秋の陣跡,笹尾山の石田三成の陣跡などにはすでに行ったので,これが総まとめ,という感じでした。

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 関ヶ原の戦いをテーマにした歴史ミュージアムである岐阜関ケ原古戦場記念館は,2020年,関ヶ原の戦いからちょうど420年の節目に合わせてオープンしました。岐阜県の直営施設で,「歴史を活かした地域づくり」の一環として整備したものです。
 関ヶ原の戦いの背景,戦況,その後の日本の歴史への影響を映像や展示で体感できる施設です。特に人気なのは,まるで戦場のど真ん中にいるような臨場感が味わえる巨大スクリーンで再現される「戦いのシアター」です。また,東軍,西軍の布陣図や武将たちの甲冑,戦略の解説など,充実した展示があります。
 さらに,屋上の展望台からは実際の古戦場を一望できます。
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 初冬の平日,ということもあって,とても空いていて,私には好都合でした。というか,空いているときを狙ってやってきたのですが…。この日は天気もよく,最高のコンディションでした。
 併設してレストランとみやげ物コーナーもあっったので,まず,そこで昼食をとりました。食事後,「戦いのシアター」をみてから,展示コーナー,そして,最後に展望台に行きました。
 新しい施設なので,とてもきれいで,気持ちよく過ごすことができました。
 資料は,本物は少ないのですが,さすがに県の施設だけあって,詳しくわかりやすい説明でためになりました。また,とかく,歴史というのは権力者側から語られることが多く,それに泣いていた人々の姿が語られることが少ないことに,私は,子供のころから疑問でしたが,ここでは,庶民から見た関ヶ原の戦いというビデオを見ることができたのがよかったです。
 
 今回,私の無知でこれまで知らなかった,いまも語り草となっているという「島津の退き口」(しまづののきぐち)というものを知ったのが収穫でした。
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 「島津の退き口」は,関ヶ原の戦いにおいて島津義弘率いる島津勢が,退却時にとった敵中突破,前進退却のことです。
 1600年(慶長5年)9月15日午後,関ヶ原の戦いで西軍が総崩れになったのち,北国脇往還に布陣していた1,500人の島津勢でした。島津義弘は,死を覚悟して徳川家康本陣に突入して討死しようとしました,副将格だった島津豊久らの進言を受けて帰国を決断,追っ手に対して小部隊を残しながら本隊を退却させる捨て奸(すてがまり)あるいは座禅陣と称される戦術が用いられ,膨大な犠牲を出しながら,島津義弘の矜持を守り,無事,薩摩に帰りついたというものです。薩摩に帰還できた将兵は80人ほどでだったそうです。
 島津勢は,福島正則勢を突破したのち,徳川家康本陣をかすめながら南下。その際,島津義弘は川上忠兄を口上の使者として徳川家康の下に遣わし,薩摩に帰国することと,帰国後に謝罪することを告げさせたとされます。
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 こういう話は,教科書にもなく,なかかな歴史ドラマでも取り上げられません。
 薩摩への帰還は諸説ありますが,保月-多賀-水口-関-拓殖-上野-信楽宿-奈良-平野-住吉- 堺と進んで,海路で日向細島を経て帰還したとされます。今考えてもすごい距離です。現在,鹿児島県日置市では,小中学生が島津勢の退陣退路を2日間かけて踏破する「関ケ原戦跡踏破隊」が実施されていて,2024年(令和7年)で65回目となるそうです。

 「島津の退き口」は,島津家を滅亡のふちから救った奇跡の撤退戦でした。
 関ヶ原で西軍が敗れたあと,多くの大名は改易や切腹に追い込まれましたが,島津家だけは本領安堵されました。島津家が救われた理由は島津義弘が生きて帰ったことと,徳川家康が,九州の強大な勢力である島津を無理に潰すより懐柔して味方につけた方が得策だと考えたことによると考えらます。島津軍の戦いぶりは,敵ながらあっぱれと徳川家康もその武勇を認めていたといわれます。
 「島津の退き口」により,島津家は江戸時代を通して薩摩藩として生き残り,明治維新では西郷隆盛や大久保利通を輩出したと考えると,歴史の偶然と幸運を思わずにはいられません。

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【Summary】
Before Tokugawa-era Battle of Okehazama has several proposed sites, including Toyoake’s “Legendary Battlefield,” believed to be Imagawa Yoshimoto’s final camp. Visiting on December 1, I found a solemn atmosphere. Nearby Kōtoku-in Temple, relocated from Mt. Kōya in 1894, preserves Yoshimoto’s grave. Its autumn scenery and quiet setting were deeply calming.

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 2025年11月11日に,現在の名古屋市緑区にある桶狭間古戦場公園に行ったことはすでに書きました。
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 有名な桶狭間の戦いは,1560年(永禄3年)に起きた,戦国時代を代表する大逆転劇。
 この戦いで,尾張の若き武将・織田信長が,2万5千人ともいわれる大軍を率いて攻めてきた駿河の大名・今川義元を,わずか数千の兵で迎え撃ち,奇襲によって討ち取った戦いで,この勝利で,織田信長は天下統一への第一歩を踏み出すことになりました。
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 この桶狭間の戦いの古戦場は,複数の候補地があって,定まっていません。
 このうちで,もっとも有力だとされているのが,前回私が行った桶狭間古戦場公園で,「信長公記」の記述や地形的な考察から,こちらを本戦場とする研究者も多くいます。もうひとつが,豊明市の桶狭間古戦場伝説地です。ここは,今川義元の本陣跡とされる場所です。1938年(昭和13年)に国の史跡に指定され,地元では今川義元終焉の地として大切にされています。
 そこで,今回,12月1日に,こちらの場所に行ってみました。桶狭間古戦場公園と違って,厳かな雰囲気がただよっていました。

 有名な桶狭間の戦いがあったところということならば,立派な博物館でも作れば観光資源になるのに,そうなっていないところが,愛知県らしいというか。その理由のひとつは,桶狭間古戦場公園は名古屋市で,桶狭間古戦場伝説地は豊明市,ということもあるのでしょう。いずれにしても,公共交通機関で行くとすると,この辺りは,狭間という名にふさわしく,土地の起伏がかなり激しくて坂ばかり。ということで,歩くのが大変だし,車で行くとなると,今度は,まったく駐車場が整備されていません。来れるものなら来てみろ,という感じがします。
 まあ,この素朴さがいいともいえます。私は,歴史学者でもなければ,研究者でもなく,単に,暇な不良老人が1日を愉快にすごせる人の少ない場所を探しているにすぎません。

 桶狭間古戦場伝説地から道路をへだてて,高徳院という立派な寺がありました。
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 高徳院は,高野山真言宗に属する由緒ある寺です。
 もともとは,高野山上にあった寺院で,高貴徳王菩薩を本尊として創建されたのがはじまりです。弟子の智泉大徳に与えられたと伝わっています。明治時代,高野山の寺院整理の流れの中で廃寺の危機なり,東京・遍照院の諦念和尚(ていねんおしょう)が法縁をもって現在の豊明市に本尊や仏具を移し再興,1894年(明治27年)に現在の地へ移転したものです。
 この場所は桶狭間の戦いで今川義元が本陣を構えたとされる地ということで,境内には今川義元の仏式墓所や重臣・松井宗信の墓碑もあります。 竹林と紫陽花の名所として人気ということで,この時期は,紅葉がとても美しく,こころが和みました。

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【Summary】
I visited historic sites including Kiyosu Old Castle Park and the Okehazama Battlefield Park, exploring places linked to Oda Nobunaga. After touring nearby landmarks such as forts and memorials, I stopped by Odaka Ryokuchi, where the “Dino Adventure Nagoya” attraction features life-size animatronic dinosaurs, though it mainly appeals to children.

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 2025年11月20日,ふらりと清州城址へ寄ってみました。
 この地は,清須と清洲,ふたつの書き方があります。清須は現在の市名で,2005年に清洲町,新川町,西枇杷島町が合併して誕生したとき,清須市となりました。清洲は歴史的な表記で,江戸時代以降,城や地域名に清洲が使われるようになりました。しかし,戦国時代までは清須が主流だったようです。
 織田信長は1555年(弘治元年),清洲は尾張の中心地で交通の要衝でもあったことからから、那古野城から清洲城へ本拠を移しました。1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いに出陣したのも清洲城からでした。
 織田信長の時代の清洲城には天守は存在しておらず,織田信長の次男・織田信雄が城主になり,1586年(天正14年)に大改修が行われ,大天守,小天守,書院などが整備されたという記録があるそうでう。 その後,名古屋城の築城にともない,清洲城の建材は解体,移築されてしまいました。天守の一部は名古屋城の清須櫓に転用されました。
 現在の清洲城は,1989年(平成元年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して建てられた模擬天守で,鉄筋コンクリート製の3重4階建ての望楼型天守です。また,建っている場所も,本来の城跡とは少しずれていて,五条川を挟んだ対岸にあります。
 私が行きたかったのは清洲古城跡公園でした。ここは,織田信長の時代にあった清洲城跡に広がる公園で,春には桜が満開になり,この季節は紅葉が美しいところです。織田信長と濃姫の銅像もあります。

 ということで,次に紹介するのは,桶狭間古戦場公園です。
 ここは,11月11日に行ってきました。すでに1度行ったことがあるのですが,今回は,近くにある大高緑地に行ったついででした。
 織田信長が今川義元の大軍を奇襲し劇的な勝利を収めた桶狭間の戦いの主戦場とされる場所は,現在,桶狭間古戦場公園となっていて,織田信長と今川義元の銅像や今川義元の墓碑,戦いの様子を再現したジオラマがあります。
 桶狭間の戦いの舞台は広範囲にわたっていて,古戦場跡や伝説地が点在しています。桶狭間古戦場公園以外にも,豊明市には桶狭間古戦場伝説地があります。また,信長が奇襲のために出陣したとされる善照寺砦跡,戦死者を弔う戦人塚(いくさびとづか)などがあります。そうした場所は,現在,特に何がある,というわけではありませんが,それでも,歩くだけで当時の気配が感じらて,楽しいものです。

 これらの史跡を巡ったあと,大高緑地に行ってみました。ここに何があるかというと,恐竜が動く探検型アトラクション「ディノアドベンチャー名古屋」が存在します。
 「ディノアドベンチャー名古屋」は,全長約900メートルの森の中を歩きながら,22種類の実物大恐竜に出会えるというものです。恐竜はセンサーの反応で,人が近づくとリアルに動いて鳴きます。おそらく,子供たちには人気でしょう。とはいえ,これだけ手の込んだものは管理が大変そうです。
 私が行ったのは平日だったので,私以外に来ている人はいませんでした。
 噂では,2025年の夏に沖縄県にできた「「ジャングリア沖縄」(JUNGLIA OKINAWA)」は,新感覚ジャングル×恐竜テーマパークで,最新のアニマトロニクス技術を使ったリアルな恐竜が登場して太古のジャングルを探検しているような体験ができるといいます。私は興味ないけど。

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【Summary】
I visited Ichinomiya Museum’s special exhibition on the Gifu Kaidō, a historic route once used to deliver ayu sushi to the shogunate. I also toured the Kiso River Museum, learning about local Sengoku-era figures such as Yamauchi Kazutoyo and the lost Kuroda Castle, whose sites and memorials remain in Ichinomiya.

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 2013年11月13日,脇本陣跡・旧林家住宅へ行ったその前,一宮博物館に寄りました。
 一宮博物館は,1987年(昭和62年),奇しくも11月13日に開館しました。一宮市の歴史や文化を伝えるため,妙興寺の境内に隣接する場所に建っています。これまで,数回,行ったことがあります。
 今回訪れたのは,特別展「岐阜街道」を見るためでした。
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 岐阜街道は「御鮨街道」と言われたのか?
 岐阜街道は美濃路の四谷追分(現在の稲沢市井之口)からわかれ,一宮,笠松を通り,中山道加納宿,岐阜に通じる約26キロメートルにわたる街道でした。
 御三家筆頭・尾張徳川藩から将軍家に献上される長良川の鮎の押し寿司(鮎鮨)を運ぶために「御鮨街道」「鮎鮨街道」と称されるようになりました。
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 前回書いたように,中山道と東海道を結んだ街道には美濃路がありましたが,もうひとつ,岐阜街道がありました。岐阜街道は,将軍上洛の道として利用され,尾張藩主の岐阜御成,江戸との聞を行き来する諸藩の通行など,鮎鮨以外にも様々な通行がありました。
 街道は,一宮宿などの宿場町が整備され,尾張藩主の徳川継友は,地蔵寺で休憩したという記録もあります。 現在では旧街道の面影を残す場所も少なくなっていますが,一宮市の本町通りや一里塚跡などにその痕跡を見つけることができます。
 というように,普段通る場所でありながら,このような歴史があることをこれまで知りませんでした。思った以上に,江戸時代は成熟した社会でした。

 さらに,11月22日,一宮市木曽川資料館に行きました。
 木曽川資料館は,この地で生まれた山内一豊を中心に,浅野長政,兼松正吉,奥村永福など一宮市ゆかりの戦国武将たちを紹介した展示があります。 建物は1924年(大正13年)建築の旧木曽川町会議事堂です。展示室は2006年にリニューアルされ,戦国時代の史跡散策のガイドにもなるように工夫されてるいます。
 木曽川町は,もともとは黒田村や玉ノ井村などが合併してできた町で,2005年(平成17年)に一宮市と尾西市と合併して,現在は,一宮市木曽川町になりました。
 1490 年ごろの明応年間に,五藤源太左衛門光正が黒田城を築きました。現在もこの地には五藤姓が多くあります。その後,山内一豊の父・山内盛豊が城主を務め,山内一豊は1545年にこの城で生まれました。1557年(弘治3年),織田信長に攻められて落城。黒田城での夜襲で長男・山内十郎は討死し,山内盛豊は1559年(永禄2年)に岩倉城落城時に亡くなったとされています。そして,山内一豊はこの地を離れることになりました。江戸時代には廃城となりました。現在,遺構は残っておらず,黒田小学校の北東に城門が再現され,「一豊立志像」が建てられています。
 また,法連寺には,山内盛豊と山内十郎の墓が本堂北側にあります。墓石は江戸時代中期に建てられたものです。境内には「山内一豊出生地」の碑もあります。

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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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【Summary】
I visited the former Hayashi Residence in Ichinomiya to enjoy quiet autumn foliage away from crowds. Located on the historic Minoji route, the estate once served as a sub-honjin and ferry administrator. Its early-20th-century stroll garden, with pond and stonework, offered a peaceful, beautifully turning landscape.

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 2025年11月13日。
 やっとやってきた秋。多くの場所で紅葉がきれいです。とはいえ,有名なところはどこも混雑していて,こころ休まるものではありません。そんなわけで,どこか,人のほとんどいない紅葉を楽しむところがないかと考えて,一宮市にある旧林家住宅にある旧林氏庭園に行ってみることにしました。自宅からさほど遠いところではないのですが,逆に近いが故,これまで,紅葉の時期に行ったことがありませんでした。

 美濃路は,江戸時代に整備された脇往還(わきおうかん)のひとつで,東海道の宮宿と中山道の垂井宿を結ぶ約58キロメートルの街道でした。地図を見るとよくわかるように,江戸から京へ行くとき,宮宿から七里の渡しを越え桑名宿を通ると,険しい伊賀越えをしないといけません。それに対して,琵琶湖の東岸を通る中山道のほうが容易に歩けるように思えます。しかし,東海道と中山道はつながっていないので,どこかで,中山道へ移動する必要があります。そのひとつが美濃路でした。
 私は,これまで,旧東海道,旧中山道,そして,旧美濃路をずいぶん歩いたので,そういった状況がとてもよくわかります。
  ・・・・・・
 美濃路は,古代の東山道の一部が起源で,尾張から美濃へ向かう重要なルートでした。東海道の七里の渡しは伊勢湾を船で渡る必要があって,馬と一緒に移動できない不便さがあったため,陸路で移動できる美濃路が重宝されました。
 美濃路のルートは,今の東海道本線や名神高速道路などの交通網となっています。
  ・・・・・・

 起宿は,木曽川沿いに位置する旧美濃路の宿場町で,尾張と美濃の国境にあたる交通の要所だったところです。江戸時代には将軍の上洛や朝鮮通信使の通行のために,270艘以上の船をつないだ長さは約850メートルの日本最大級の船橋が架けられたこともあります。今では,脇本陣跡にある旧林家住宅が保存・公開され,隣接する一宮市尾西歴史民俗資料館では宿場の歴史や美濃路の資料を見ることができます。
 林家は,1720年(享保5年)から明治維新まで起宿の脇本陣と木曽川の渡船を管理する船庄屋を務めていました。現在の建物は,1891年(明治24年)の濃尾地震で倒壊した脇本陣跡に再建されたもので,主屋は1913年(大正2年)に建てられました。さらに,昭和初期に江戸時代の屋敷構えを意識した裏座敷が増築され,脇本陣の格式を感じさせる造りになっています。
 春のドウダンツツジや秋の紅葉など,四季折々の風景が楽しめる旧林氏庭園は,10代目の林幸一が昭和初期に約10年かけて作庭した回遊式庭園で,心字池や全国から集めた石を使った石組みが見どころです。
 ほとんど来る人もいなかったので,色づきはじめた静かな庭園をこころ置きなく鑑賞することができました。

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【Summary】
I visited Asuke Town after exploring Asuke Castle. The town retains its Edo-period layout with fire-resistant plastered houses built after the 1775 fire. Walking along its two-kilometer street, especially the scenic Manrin Alley, felt like stepping into history. Asuke hosts seasonal events like the spring hina festival and autumn maple festival at Korankei, though I preferred its current quiet charm.

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 足助城址のあと,足助町の町並みを歩いてみました。ここもまた,これまで歩いたことはありませんでした。
 足助町の街並みは,戦国時代に原型ができて,江戸時代の初期には現在の町割りが完成しました。
 1775年(安永4年)に大火があって,それ以降は,防火を意識して漆喰で塗り固めた「塗籠造り」の町家が並ぶようになりました。これが,今も,独特な景観となっています。
 足助町の街道筋は,約2キロメートルにわたって細長く,街道を挟んで,「妻入り」や「平入り」の家々が続いていて,なかなかのものです。なかでも,「マンリン小路」とよばれるあたりは,黒い板壁と白い漆喰のコントラストが美しく,絵巻物の中を歩いているような感じになります。また,「足助八幡宮」は,足を助ける神様として親しまれていて,本殿は1466年再建のものです。

 足助町では,季節ごとに町全体が物語の舞台のように変化するイベントがあるそうです。
 春には,中馬のおひなさんが行われます。これは,江戸から明治の宿場町の家々に,衣装びなや土びなが飾られるイベントです。また,香嵐渓の北西斜面に広がるカタクリの群生があって,7年から8年かけて一斉に花が咲き,紫の絨毯のようになります。さらに,足を助けると書いて足助,ということから,足助八幡宮で足健康祭が行われます。
 秋は,紅葉の名所ということで,香嵐渓もみじまつりが行われます。約4,000本のモミジが巴川沿いに色づき,夜はライトアップもされます。今年のテーマは「秋思ふ」だそうです。
 私が歩いた時期は,ほとんど人もおらず,地元の人曰く,静かすぎる,ということだそうですが,もう1,2週間もすれば,多くの観光客でごった返すことでしょう。
 私は,こんな静かな山里のほうが,何もなくても心が落ち着きつきますが…。

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明け方のビーバームーン。

明け方に晴れましたが,次第に雲が増えて「月にむら雲」となりました。
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レモン彗星とUFO。

薄雲の中,何とかレモン彗星を捉えましたが,ずいぶん暗くなっていました。
近くを飛行機らしき物体が通過しましたが,ひょっとしてUFOか?
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【Summary】
I visited Asuke Castle in Aichi, a reconstructed Sengoku-period mountain fortress on Mayumiyama. They admired its detailed wooden structures, peaceful atmosphere before the autumn crowds, and the view over Asuke’s historic town.

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 以前,頻繁に三河地方へ星を見にいっていたころ,足助町は単なる通過地点でした。
 有名なのは,足助町にある香嵐渓で,秋の紅葉の季節はとても混み合いますが,私は,深夜星を見て,朝に帰るので,交通渋滞とは反対の方向へ走ることがよくありました。
 一度だけ,香嵐渓へ紅葉を見にいったことがありました。私のいつもの常で,早朝に出かけて,多くの人が来るころには帰宅しました。ともかく,観光と投資は人の反対をするのが大切です。
 さて,そんな足助町ですが,ここは,戦国時代の山城跡が整備されて,当時の城が復元されていると聞いたので,2025年10月27日に行ってみました。
 まずは,ちょうどお昼時だったので,うどん屋さんに入って腹ごしらえをしました。その後,カーナビに従って,足助城址を目指しました。かなり高い山の上だったのですが,上まで車で登ることができました。広い駐車場あったので,車を停めました。見上げると,すばらしい景観でした。江戸時代の城址が保存あるいは再建されているところは多くあるのですが,戦国時代の山城が再建されているのは珍しいそうです。

  ・・・・・・
 足助城は,足助町・真弓山(まゆみやま)の山頂にある戦国時代の山城で,現在は「城跡公園足助城」として整備されています。発掘調査に基づいて,高櫓や長屋,物見矢倉,厨(くりや)などが忠実に復元され,さらに,竹を干して作った塀など,細部までこだわって再建されていて,見学することができます。
  ・・・・・・
 私がきらいな人混みですが,この日は,まだ,紅葉の時期でなかったので,ほとんど来ている人もおらず,ホッとしました。また,真弓山の標高301メートルの山頂からは足助町の町並みを一望できました。
 それにしても,ほとんどが木材でつくられているので,作ったはいいけれど,維持するのが大変そうです。木造建築は経年劣化や腐朽・蟻害のリスクがあるので,定期的な点検や補修が必要です。特に,屋外に露出している部分は雨風や紫外線で傷みやすいので,防腐処理や塗装の再施工も必要になります。そこで,設計段階から「どうやって長持ちさせるか」を考え,木材の露出を減らす工夫,通気性を確保して湿気を逃がす設計,点検しやすい構造にすることなどが行われているということです。
 現在はとてもいい時代で,日本各地に昔の建物跡などが再建されています。考えてみれば,それらは同じ時代に存在したものではないから,あるものは弥生時代,また,別のあるものは平安時代,また,戦国時代,そして,江戸時代というように,「さまざまな時代の姿を同時に見られる,ということになるわけです。

 鎌倉時代から南北朝時代にかけて,この地は足助氏が治め,「足助七屋敷」とよばれる城塞群を築いて,地域の防衛を固めていました。戦国時代になると,足助鈴木氏が真弓山に足助城を築いて拠点とし,代々この地域を支配していました。最初は独立勢力でしたが,1525年(大永5年),徳川家康の祖父である松平清康に攻められたことで松平清康に従属。その後も,今川や武田との間で離反と服属を繰り返しながら,最終的には徳川家康の家臣として三河の戦いに参加するようになるというように,時代に翻弄されました。
 1590年(天正18年),足助鈴木康重は徳川家康の関東移封に従って足助城を離れ,その後,徳川家康から離れて浪人になったと伝えられています。やがて,江戸時代になると,足助は「足助村」「今朝平村」「中之御所村」の三つの村にわかれ,幕府の支配下で穏やかな農村地帯となり,街道の宿場町として栄え,現在,町並みは「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。

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ビーバームーン。

これはもう,いい加減すぎて笑うしかない。
4月13日の最遠の月(マイクロムーン)が曇りで撮れず,
4月16日にやっと写した月と,
11月5日に曇り空の中でなんとか形だけ写した最近の月(スーパームーン)を
無理やり比べた写真です。
月と地球の距離は,
スーパームーンは約35万800キロメートル,
マイクロムーンは約40万6,000キロメートルでした
タイトルなし


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【Summary】
I strolled around Nishio for over three hours, exploring temples, historic streets, and the traditional “Hato Miso,” before returning to Nishio Station—a charming town walk, still untouched by mass tourism.

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 西尾市の市街地を時計回りに散策しています。伊文神社を出て,さらに南に歩いていくと,西尾駅に戻ることになります。
 このあたりのあるのが,唯法寺(ゆいほうじ)。そして,順海町(じゅんかいちょう)通りです。
  ・・・・・・
 唯法寺は,真宗大谷派で山号は頂谷山。創建は1502年(文亀2年)と,500年以上の歴史をもつ地域の記憶を抱いた寺です。江戸時代,11世住職・順海が竹藪を切り開いて現在の順海町通りを拓いたということで,町の名も住職の名前に由来しています。
 火災や再建を経て,18世紀には境内の整備が進み,明治期には,24世・観順が仏教学者として活躍し,唯法寺に私塾「破塵館」を開き,北海道から九州まで約480人の僧侶が学びに来たといいます。
  ・・・・・・
 順海町通りは,西尾市の中でもひときわ風情のある場所でした。唯法寺と崇覚寺の間にある細い路地で,江戸時代の城下町の面影がそのまま残っています。電柱がなく,石垣と板塀が両側に続いています。
 西尾市の写真でよく取り上げられているところです。

 そこから南に向かって歩いていくと,古い家並みの続く場所に出ました。そこには「はと味噌」とありました。
  ・・・・・・
 「はと味噌」は,西尾市にある老舗の味噌醸造元はと屋が作っている伝統的な豆味噌のことです。
 はと屋は1861年(文久元年)創業で,150年以上の歴史を持つ味噌屋。こだわりの素材と昔ながらの製法で,麹菌がのびのび働ける環境を整え,自然と人の力でおいしい味噌を作っています。
  ・・・・・・
 工場のあるところは「みそぱーく」という味噌のテーマパークになっていて,味噌蔵の見学や味噌料理が楽しめるレストラン,体験教室もありました。
 豆味噌の粒感を生かした,三河産本みりんやきび砂糖,はちみつを使った安心素材で作られている味噌だれも人気ということです。
 味噌業界は「八丁味噌」といったブランドが強く,「はと味噌」は全国的な知名度はあまりなくて,私も知りませんでした。それが逆に魅力で,地元・西尾では根強い人気があるそうです。

 こうして,3時間余り散策して,西尾駅に戻ってきました。
 駅の近くには,手ごろな食事処がなかったのが残念でした。西尾駅前にあったアピタの中にフードコートがあったので,冷やし中華を食べました。残り3食と言われました。おそらく,この夏の食べ治めでしょう。
 西尾市は,歩いて回れるすてきな町でした。インバウンドに浸食されつつある日本ですが,まだまだこうした穴場があります。

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【Summary】
Ibun Shrine, West Nishio’s guardian shrine with over 1,150 years of history, enshrines Emperor Montoku, Susanoo, Okuninushi, and Sayorihime. Revered by local lords and townspeople, it hosts annual rituals like the “Chinowa” ceremony. Its grounds contain the 19th-century Gisōgura (granary for famine relief) and a stone lantern donated in 1908 by Iwase Yasuke, founder of the Iwase Bunko, symbolizing his wish to share knowledge with future generations.

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 岩瀬文庫で開催されている「江戸の出版文化と蔦屋重三郎」後期展を見てから,今度は,東に向かいました。そこにあったのが,伊文神社(いぶんじんじゃ)でした。
  ・・・・・・
 伊文神社は西尾市伊文町に鎮座する西尾の総鎮守で,創建から1,150年以上の歴史を持つ古社です。
 祭神は,55代文徳天皇(もんとくてんのう),素戔嗚(すさのお), 大己貴(おおなむち),狭依姫(さよりひめ)です。
  ・・・・・・
 55代文徳天皇は,在位850年から858年までという平安時代の天皇で,54代仁明天皇の第1皇子です。伊文神社が文徳天皇を祭神として祀っている理由は,文徳天皇の皇子または弟とされる八條院宮(はちじょういんのみや)の関わりによるものということです。八條院宮は朝廷の命を受け,三河・吉良の地に根を張っていた兼光・兼盛という逆徒を討伐するために西尾へ赴きました。その際,八條院宮が屋敷の東西に祀っていた現在の伊文神社である天王社と御劔八幡宮をこの地に移して祀ったのがはじまりとされていることによります。
 また,伊文神社に素戔嗚,大己貴,狭依姫が祀られているのは,この出雲系の神々が,自然・社会・人のつながりを守る神々ということで,古くから港や流通の要所として栄えてきた場所にちなんで選ばれたということらしいです。要するに箔着けです。

 素戔嗚は須佐之男(すさのお),大己貴は大国主(おおくにぬし)のことです。古事記によると
  ・・・・・・
 伊耶那岐(いざなき)は,黄泉国に行ってしまった伊耶那美(いざなみ)を連れ戻すため,黄泉国へと出向きましたが,蛆がたかり,躰の八箇所に恐ろしい雷神を生じている伊耶那美の姿を見てしまい,驚き恐れ逃げ出しました。逃げ帰った伊耶那岐が禊をすると,左の目から天照(あまてらす)が,右の目から月読(つくよみ)が,鼻から須佐之男が出現しました。 伊耶那岐は,須佐之男に海原を統治するように命じましたが,自分は亡き母・伊耶那美のいるもとに行きたいと言って泣いてばかりいたので,伊耶那岐の怒りを買い,追放されてしまいました。
 追放された須佐之男が姉・天照のいる高天原にやってきたとき「弟はこの国を奪いに来たに違いない」と疑ったので,須佐之男は,自らの潔白を証明するために「宇気比」(うけひ=占い)をして子神を生もうと提案しました。
 お互いの持ち物である須佐之男の剣と天照の玉を交換し,口に含んではき出した息の中から,須佐之男は五柱の男神を,天照は三柱の女神を出現させました。
 このときの三柱の女神のうちの一柱が狭依姫です。狭依姫は「神霊が依り憑く場所」「船が寄る場所」という意味があるとされていて,巫女的な神格や港の守護神としての性格をもちます。
  ・・
 櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚した須佐之男は,出雲の須賀に宮を作り,子神を誕生させました。子神はさらに次々に次代の子神を生んでいき,須佐之男の6世孫として誕生したのが大国主でした。
 大国主は,兄神たちと一緒に八上比売(やがみひめ)に求婚に出かけ,その途中で素兎(しろうさぎ)を助けました。素兎から「あなたが八上比売を得るでしょう」と予言され,そのとおりに八上比売から求婚の承諾を得ましたが,兄神たちの恨みを買い,命を狙われてしまいました。このままでは本当に殺されてしまうと危惧した母神は,大国主に,須佐之男のいる根の堅州国(黄泉国)へ行くようにと指示しました。 根の堅州国(黄泉国)に出かけた大国主は,そこで須佐之男の娘,須勢理毘売(すせりびひめ)と出逢って結婚し,地上世界を治めることになりました。八上比売は正妻となった須勢理毘売を畏れ,自分の生んだ子を木の俣に挟んで因幡に帰ってしまいました。
  ・・・・・・
 西尾城主たちも代々崇敬してきたこの神社は地域の人々のこころのよりどころとなっていて,毎年6月には「茅の輪神事」が行われ,無病息災や家内安全を願う人々で賑わうそうです。

 伊文神社の境内に義倉蔵(ぎそうぐら)がありました。
 義倉蔵が 建てられたのは1857年(安政4年)から1859年(安政6年)ごろで,間口6.3メートル,奥行10.8メートルの木造瓦葺のしっかりした構えをしています。義倉蔵は「西尾義倉会」が飢饉時の救済を目的に設立した組織で,城下の御用商人たちが寄付した米を貯蔵していました。
 また,伊文神社境内には岩瀬弥助が奉納した石灯籠もありました。
 この石灯籠は,岩瀬文庫の創設者・岩瀬弥助が文庫設立を記念して1908年(明治41年)に奉納したものです。灯籠には「之を身にも人にも施し,且つ之を不朽に伝えんと欲す」と刻まれていて,これは「知を人々に施し未来へ残す」という志が込められているということです。

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【Summary】
Walking north from Nishio City History Park, I visited historic temples such as Sei’unji, Enshin-ji, and Seigan-ji—linked to the Matsudaira clan and noted for its unique layout—before reaching the quiet Iwase Bunko Library.

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 西尾市歴史公園から北に向かって歩きます。広い通りが北に向かって続いていました。そして,多くの古刹がありました。

 まずあったのが,立派な山門の聖運寺(せいうんじ)でした。
 聖運寺は真宗大谷派の寺で,もともとは宝光坊とよばれ,真言宗でした。山門は1919年(大正8年)建立の重層式で,入母屋造・本瓦葺の八脚楼門です。
 境内には,樹高15メートル,幹周2.45メートルのイブキの巨木が鎮座していました。
 その北には,縁心寺(えんしんじ)がありました。 
 山門は四脚門で,控え柱に「転び」がついてる珍しい造りということです。
 境内の西側に巨大な地蔵菩薩像がありました。この像は,戦時中に供出された地蔵像を1982年に信徒たちが再建したものだそうです。
 さらに北に歩いていくと,盛巌寺(せいがんじ)がありました。
 盛巌寺は曹洞宗の寺で,創建は1590年(天正18年)。松平家6代・松平家乗が父祖の供養のために現在の群馬県伊勢崎市に建立したのがはじまりで,その後,松平家の転封に伴って寺も山形・岩村・浜松・館林・唐津・鳥羽・亀山・淀・佐倉などを転々とし,1764年(明和元年)にこの地に移されました。
 この寺は,松平家の菩提寺で,歴代の霊室があり,特に14代・松平乗全の墓が有名です。
 通常,寺は,棟側が正面ですが,この寺は「殿様が雨に濡れないように」という配慮から妻側が正面となっています。三河三十三観音霊場の第30番札所で,本尊は聖観音菩薩です。

 第2次世界大戦で,周辺地域には,軍需工場や交通拠点が狙われて激しい爆撃がありましたが,西尾市自体は比較的戦火を免れました。そこで,こうした大きな古刹が今も残っているのでしょう。
 人とまったくすれ違うこともない静まり返った街中をこうして北に向かって歩いていくと,ついに岩瀬文庫に到着しました。

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【Summary】
During a walk in Nishio, I visited the Ishikawa Tairei Martyrdom Monument and Tsukonhi, then explored Nishio Castle Historical Park with the former Konoe Residence, the reconstructed turret, and the museum showcasing the domain’s history and Shin Buddhism art.

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 尚古荘を出て,次に向かったのが石川台嶺殉教記念碑でした。しかし,なかなか見つからず,本町通りに出てしまいました。そこにあった真言宗大谷派の浄賢寺という寺と道を挟んで,みどりのポストがありました。抹茶の名産地・西尾ならではの「おもてなし・まごころポスト」だそうですが,これは,かつて西尾市内で丸型ポストが製造されていたという歴史からもくるものだそうです。
 その後,何とか,石川台嶺殉教記念碑を見つけました。
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 石川台嶺殉教記念碑は,「大浜騒動」(おおはまそうどう=別名・鷲塚騒動,菊間藩一揆)に関わった僧侶・石川台嶺(いしかわたいれい)を讃えるために建立されたものです。
 大浜騒動は,1871年(明治4年)に三河地方で起きた宗教的な民衆騒動です。明治政府が進めた神仏分離令や寺院統廃合政策で,浄土真宗の信徒たちは寺院の合併や廃止に強く反発し,三河護法会という僧侶たちの団体が結成され,菊間藩の宗教政策に抗議するために行動を起こし,民衆の不安と怒りが爆発し,役人が殺害される事件に発展しました。その結果,石川台嶺は死罪となり,多くの僧侶や門徒が投獄されました。
 なお,菊間藩というのは,1868年(明治元年)に成立し,わずか数年で廃藩となった現在の千葉県市原市に陣屋を置いて成立し,越後や三河にも飛地領をもっていた藩です。
  ・・・・・・
 石川台嶺殉教記念碑のそばに,西尾の女工哀史を弔う「吊魂碑」(ちょうこんひ)もありました。これは,1890年(明治33年)に一宮市の織布工場で起きた火災事故で亡くなった31人の女工たちを弔うために建てられたものですが,そのうち20人が西尾市出身だったことから、この地に建立されたものということです。
 なお,「吊魂碑」は,亡くなった人々の魂を弔うために建てられた石碑で,一般的に「慰霊碑」や「忠魂碑」と同様の意味で使われます。

 さて,ここから歩いて西尾市歴史公園に向かいました。
 途中にあった西尾小学校の校門には,かつて,西尾城の東の丸に存在した太鼓門跡がありました。これは,西尾城の惣構えの一部だったとされています。
 やがて,西尾城の一部を復元して整備された西尾市歴史公園に到着しました。そこには,旧近衛邸,西尾神社,本丸丑寅櫓(うしとらやぐら),西尾市資料館が立ちなんでいました。
 旧近衛邸(きゅうこのえてい)は京都から移築された数寄屋風の邸宅で,書院と茶室があり,私は利用しませんでしたが,抹茶をいただくことができるということでした。西尾神社は,第2次世界大戦で亡くなった西尾出身の約620人を祀る1955年(昭和30年)に創建された新しい神社です。本丸丑寅櫓は,高さ10メートル,3層構造の木造櫓で,西尾城の本丸北東隅にあった隅櫓を復元したものです。
 西尾市資料館に入ってみました。西尾市資料館は,西尾城の姫丸跡に建てられたもので,建物は城郭風の入母屋造りで、常設展示として,西尾藩の歴史や三河真宗の美術品,安祥城と安城松平氏の関係資料などが紹介されていました。

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【Summary】
I was surprised by the crowded Nishio Line, then visited Shokoso near Nishio Station. Exploring its early-Showa garden and history, I enjoyed insightful guidance from the caretaker.

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 午前8時ころに名鉄の新安城駅に着きました。ここで西尾線に乗り換えます。
 ここで私はびっくりしました。西尾線のホームは,電車を待つ高校生で一杯で,ホームから落ちそうな状態だったのです。
  ・・・・・・
 名鉄西尾線は,新安城駅から吉良吉田駅までを結びます。
 元々は碧海電気鉄道と西尾鉄道という別々の会社が敷設した路線で,戦前に合併して名鉄西尾線になりました。新安城と西尾間は混雑が激しいのですが,単線と旧式信号で柔軟性がなく,列車の本数も増やせず,追い越しもできない状況です。激混みなのに4両編成となっています。
  ・・・・・・
 要するに,私のような暇人がこんな時間に乗る列車ではなかったのです。それにしても,こんな状態の列車で毎日通学をする高校生が気の毒です。動くこともできなかった車内でしたが,次第に空いていき,愛知県立西尾高等学校や西尾東高等学校のある,途中の桜井駅でほとんどが降りてしまい,西尾駅に到着するころは,ゆったりとした状態になりました。

 西尾駅で降りました。駅前は閑散としていました。
 さて,ここから,西尾市の散策です。
 見どころは駅周辺で,ゆっくり歩いて見てまわって,3時間ほどということでした。まずは,駅から西に進み,第一の目的地は,西尾市歴史公園でした。そこは,西尾城のあったところ,ということでした。
 その手前に,尚古荘(しょうこそう)という家を見つけました。自由にお入りくださいとあったので,中に入りました。
  ・・・・・・
 尚古荘は,昭和初期の京風庭園付き別荘で,西尾城の東の丸跡を活かして造られた趣深い場所です。
造営者は地元の米穀商・岩崎明三郎で,西尾城への思いから,古を尚ぶ荘=尚古荘と名づけました。
 庭園は名古屋の庭師・足立代三郎が1931年(昭和6年)から6年もの歳月をかけて造られた回遊式庭園で,敷地は約1,000坪もあり,広々とした空間に,30畳の大広間,茶室「不言庵」(ふげんあん),待合,東屋,門などが配置されています。
 西尾城の丑寅櫓跡を活かした高台から庭園が一望で,特に紅葉の季節はみごとです。
  ・・・・・・
 ということですが,管理をしている人から,いろいろな説明を聞くことができて,とても楽しい時間になりました。

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【Summary】Nishio City, known as “Little Kyoto of Mikawa,” is famed for Nishio Castle and matcha culture. Its economy spans agriculture, fisheries, and auto industry, while its feudal lords included the Honda, Ii, Doi, and Matsudaira families.

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 西尾市がどんなところなのか,行く前に調べてみました。
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 三河の小京都とよばれている西尾市は風情のある町です。
 西尾城の城下町として栄えた歴史から,今も西尾市歴史公園では本丸丑寅櫓や鍮石門などが復元されています。旧近衛邸は京都から移築された数寄屋造りの邸宅で,茶室では抹茶を楽しむことができます。また,尚古荘という京風庭園は,昭和初期に作られた静かな空間で,西尾城東の丸の遺構を活かしています。
 西尾市は抹茶の町としても有名で,緑色のポストがあります。
 西尾祇園祭は約400年の歴史を持つ伝統行事で,神輿の渡御や大名行列が城下町を彩ります。
 このように,歴史と文化が詰まった町なので,歩くだけで江戸の空気が感じられます。
  ・・・・・・
 ということだったので,ずいぶん期待しました。

 そんな西尾市ですが,現在の産業や財政もまた,第1次産業から第3次産業までバランスよく揃っているようです。財政力指数は0.94で,全国平均の0.51を大きく上回っています。
 農業では,特に「西尾の抹茶」として有名で,全国シェアの約20パーセントを占めています。
 漁業では,「一色のうなぎ」が名物で,国産養殖うなぎの約20パーセントを占めるほどの一大産地となっています。
 工業では,デンソーやアイシンの工場が立地し,自動車部品の製造が盛んで,製造品出荷額は県内6位の1.7兆円に達します。
 観光では,佐久島のアートや西尾城跡,抹茶スイーツなど地域ブランドを活かし,見どころが多くあります。  

 江戸時代の西尾藩は,多くの大名家が入れ替わりで治めていました。
  ・・・・・・
1本多康俊(ほんだやすとし) 1601年に2万石で入封しました。西尾藩の立藩者です。
2松平成重(まつだいらなりしげ) 板橋藩から転封されました。
3本多俊次(ほんだとしつぐ) 本多康俊の子で,膳所藩から再入封しました。
4太田資宗(おおたすけむね) 城下町の整備に尽力しました。
5井伊直好(いいなおよし) 井伊直政の孫で,西尾城を改築しました。
6増山正利(ますやままさとし) 徳川家綱の教育係で,姉は家綱の母・お楽の方です。
7土井利長(どいとしなが) 老中・大老を務めた土井利勝の3男です。
8三浦義理(みうらよしまさ)
9松平乗祐(まつだいらのりすけ) 1764年に山形藩から入封しました。
  以降,松平家が続きます。
10松平乗完(のりさだ) 松平乗祐の4男で,老中に就任しました。
11松平乗寛(のりひろ) 松平乗完の長男で,寺社奉行や老中を歴任しました。
12松平乗全(のりやす) 松平乗寛の長男で,大坂城代や老中を務めました。
13松平乗秩(のりつね) 松平乗寛の4男で,松平乗全の養子です。明治維新後は西尾藩知事となりました。
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【Summary】
During the Edo period, present-day Aichi Prefecture was ruled not only by the powerful Owari Tokugawa clan but also by many smaller domains governed by fudai and shinpan lords, such as the Matsudaira, Honda, and Doi families. Castles and jin’ya (administrative residences) dotted the region, including Nagoya, Okazaki, Nishio, and Kariya, reflecting a highly fragmented yet strategically important political landscape.

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 2025年10月3日,岩瀬文庫で開催されている「江戸の出版文化と蔦屋重三郎」後期展に行った折り,かねてから気になっていた西尾市を散策しました。
 愛知県の地図を見るとよくわかりますが,名鉄本線が通る安城市,岡崎市といったところの南側に,岡崎平野といわれる広大な平地があるのですが,なかなかそこへ行く機会がないのです。だから,そこに何かがあるのか? 住んでいる人以外には,あまり知らないところだったりします。
 そもそも,車を使っても,近年,やっと全線が開通した国道23号線ですが,そこから南には便利な道路も少なくいつも渋滞し,また,公共交通機関も,名鉄本線とは違い,単線で,本数も少なく,あえて行こうと思わなければ,乗らないところです。西尾市は,そんな場所にあるので,私も,行ったことがありませんでした。しかし,6月24日,車で岩瀬文庫に行ったとき,遠いところだ,と思った半面,三河の小京都とよばれる場所であることを知り,ゆっくりと散策してみたくなっていたのです。
 近ごろ,こうした理由で,各地を歩いてみると,日本というのはその長い歴史ゆえ,なんとまあ奥の深いところなのか,と実感します。掘っても掘って底が見えません。そして,そこにある多くのことを知ると,これまで,そのほとんどをまったく知らずにいたんだなあ,と今にして思うわけです。

 では,今日は,西尾市について語る前に,この地のあった愛知県は,江戸時代,いったい誰が治めていたのか,を調べてみました。
 愛知県と言えば,江戸時代は尾張と三河,そして,尾張は徳川御三家の尾張徳川家であり,三河は徳川家康の生まれた岡崎藩に譜代・本多家が治めていた,くらいしか,私には認識がありませんでした。
 それがそれが…。実際は,そんな簡単なものではありませんでした。
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●尾張藩(親藩) 尾張徳川家61万9,500石 名古屋城
 尾張及び美濃や三河,信濃の一部を領しました。徳川御三家の筆頭格にして最大の藩で,諸大名の中でも最高の家格を有しました。
●犬山藩(維新後立藩) 成瀬家3万5,000石 犬山城
 尾張徳川家の付家老成瀬家が維新後に新政府の命によって立藩したものです。
  ・・
●刈谷藩(譜代) 土居家2万3,000石 刈谷城
 藩主家の交替が相次ぎ定着しませんでしたが,土井家による支配で定着しました。
●西尾藩(譜代) 大給松平家6万石 西尾城
 藩主家の交替が相次ぎ定着しませんでしたが,大給松平家による支配で定着しました。
●挙母藩(譜代) 内藤家2万石 挙母城
 三河国北西部を領しました。安中藩(上野=現在の群馬県安中市)より転封した内藤家が治めました。
●岡崎藩(譜代) 本多家5万石 岡崎城
 三河国東部を領しました。本多忠勝以来の名門本多平八郎家が治めました。
●西大平藩(譜代) 大岡家1万石 西大平陣屋
 額田郡西大平に陣屋を置きました。大岡家は大岡越前を祖とします。藩主家は江戸に居住して参勤交代をしない定府大名でした。
●三河吉田藩(譜代)大河内松平家7万石 吉田城
 吉田藩に入封することは幕閣になるための登竜門のひとつといわれ,幕末には大河内松平家が治めました。
● 田原藩(譜代) 三宅家1万2,000石 田原城
 三河の名門である三宅家が治めました。
●西端藩(譜代)本多家1万石 西端陣屋(碧南市西端町)
 元治元年に,大身旗本(旗本の中でも石高が多く格式が高かった旗本)であった本多忠相(ただすけ)が江戸警備の功績により大名となり立藩しました。
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中秋の名月2025。

天気予報では曇りでしたが,見ることができました。
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【Summary】
Gyoki-ji, a Jodo sect temple founded on a site linked to the monk Gyoki, later became the family temple of the Takasu clan. Built on a mountainside, its fortress-like stone walls and halls once served as a hidden stronghold. From the main hall and study rooms, visitors can overlook the Nōbi Plain, while the “Moon-Viewing Room” and the elegant strolling garden offer seasonal beauty, making the temple famous for autumn foliage and moonlit views.

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 今回の本来の目的地は行基寺(ぎょうきじ)でした。 ここに行きたかったのは,行基寺が高須藩の菩提寺だったからです。
  ・・・・・・
 行基寺は,海津市南濃町にある浄土宗の寺院で,山号は臥龍山, 別名を月見寺,隠れ城,お月見の寺といいます。本尊は阿弥陀如来。行基入定の地という伝承があります。養老山地の中腹にあって,本堂,大書院,小書院,庫裡,松平家廟を有し,高い石垣を持つ城郭風の伽藍です。一説には,緊急時には高須藩の城としての機能を有していたといい,そのため,寺院というより城の御殿のようです。
  ・・・・・・
 何度も国道258号線は走ったことがあります。
 かねてから行ってみたかったのですが,行基寺に行くには,国道258号線から西に折れて,しばらく走ると,狭い未舗装の狭い急な山道になって,その山道を登りきったところにある,とあったので,ためらっていたのです。木曽三川輪中ミュージアムで聞いてみると「大丈夫だよ,行けるよ」と言われたので,行くことに決めました。
 確かに,細い急な山道でした。その麓に駐車場があって,そこに停めて,歩くこともできるようでした。よほど,そうしようと思いました。しかし,そんな山道,私は歩いて登る気にはなりませんでした。実際は,登っている人をひとり,帰りがけに目撃しました。意を決して車で登ることにしました。確かに細い山道でしたが,未舗装というのはわずか数メートルのことで,そのほとんどは舗装されていました。
 登りきったところに広い駐車場がありましたが,車は行基寺のものと思われるものが1台停まっているだけでした。しかし,海津市のコミニティバスの停留所があったので,コミュニティバスを利用しても行くことができるようでした。
 拝観料を払って,中に入りました。ほかに来ている人はいませんでした。

  ・・・・・・
 行基寺は,744年(天平16年),地方を巡っていた行基がこの地の洪水による被害を目の当たりにし,聖武天皇に懇願し人々のために建立したといいます。行基は,668年(天智天皇7年)に生誕し,749年(天平21年)に菅原寺で81歳で入滅し,生駒市の竹林寺に埋葬されたとされていますが,行基寺の伝承によれば,677年(天武天皇6年)に生誕し,757年(天平宝字元年)にこの地で入滅し,埋葬されたとあります。
  ・・・・・・
 1336年(延元元年)に,結城友定の手により焼失しましたが,正平年間に再建されました。また,1702年(元禄15年)に,高須藩藩主・松平義行が行基寺を菩提寺とし,大規模な改修工事に着手。1709年(宝永6年)に改修工事が完了しました。さらに,1820年(文政3年)には山門が建立されました。
 現在の本堂は1832年(天保3年)の再建で, 明治維新になるまでは一般の人々が参拝することが禁止されていたそうです。

 静まり返った行基寺に入りました。気持ちが洗われました。
 行基寺は山の中腹にあります。空け放されていて,庫裡にある月見の間から,濃尾平野が一望できました。これがすばらしかった。また,1705年(宝永2年)に造られた美しい回廊式庭園があって,しばらく見とれていました。
 お月見の日。夜開放されているのかどうかは知りませんが,ここからさぞかし美しい月が見られるこ とだろうと思いました。また,紅葉の季節は,多くの人が訪れるということでした。
 それにしても,現代でもたとりつくのが大変なのに,古のころ,こんな場所に寺を作るなんて,すごいことだと思いました。

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【Summary】
The “Takasu Four Brothers,” sons of the 10th lord Matsudaira Yoshitatsu, were key figures at the end of the Edo period. Two (Tokugawa Yoshikatsu, Tokugawa Mochinaga) sided with the new government, while two (Matsudaira Katamori, Matsudaira Sadayasu) supported the shogunate. Divided by politics yet reunited in 1878 for a group portrait, their descendants link to the present Tokugawa head family.

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 では,次に,高須藩主について簡単にまとめます。
 高須藩は,藩政としては特筆すべきものはほとんどありませんが,尾張藩2代藩主・徳川光友(みととも)の3男松平義行(よしゆき)により立藩した支藩として,宗家に嗣子が絶えたときこれを相続する役割を果たしました。
  ・・・・・・
●松平義行(よしゆき)
 初代藩主。尾張藩2代藩主・徳川光友の3男。
 はじめは,信濃国内で3万石を与えられましたが,1,500石を美濃国内に交換し,高須に陣屋を構えました。
 尾張藩3代藩主・徳川綱誠(つなのぶ)が没し,幼少の徳川吉通(よしみち)が尾張藩4代藩主となり,その補佐をしました。
 跡を継ぐ男子が次々と早世したので,徳川綱誠の15男・松平義孝(よしたか)を養子に迎えました。その後,実男子として誕生した松平武雅(たけまさ)は6代将軍・徳川家宣の弟・松平清武(きよたけ)の養子となりました。
●松平義孝(よしたか)
 2代藩主。尾張藩主・徳川綱誠の15男。実男子はありません。
●松平義淳(よしあつ)
 3代藩主。川田久保家の祖・松平友著(ともあき)の長男。のち,尾張藩8代藩主・徳川宗勝となります。
 川田久保家は,尾張藩2代藩主・徳川光友の11男松平友著が江戸の川田窪に屋敷を与えられて分家し1万石を与えられたことにはじまります。松平義淳が高須家に入ったことで絶家しました。
●松平義敏(よしとし)
 4代藩主。3代藩主・松平義淳の3男。
 父・松平義淳が尾張藩を相続し,徳川宗勝となったため相続しました。
●松平義柄(よしえ)
 5代藩主。松平義敏の長男。のち,尾張藩主・徳川宗睦の養子となり徳川治行(はるゆき)と改名しましたが,尾張藩主に就く前に没しました。
●松平義裕(よしひろ)
 6代藩主。4代藩主・松平義敏の2男。5代藩主の兄・松平義柄が尾張藩に養子入りしたため相続しました。
●松平勝当(かつまさ)
 7代藩主。3代藩主で尾張藩8代藩主の松平義淳(徳川宗勝)の7男。
 6代藩主・松平甥義裕に子がなかったため相続しました。
●松平義居(よしすえ)
 8代藩主。8代将軍・徳川吉宗の孫であり11代将軍・徳川家斉の実父・一橋治済(はるさだ)の6男。
●松平義和(よしより)
 9代藩主。徳川光圀からつながる水戸藩6代藩主で水戸藩中興の祖・徳川治保(はるもり)の2男。つまり,これ以降,高須藩の藩主は水戸徳川家の流れを汲んでいるということになります。
  ・・・・・・

 さて,次の10代藩主・松平義建(よしたつ)は子だくさんでしたが,その子たちが,「高須四兄弟」として,歴史上で不思議な縁をもたらします。そして,現在の徳川宗家にまでつながるのは,奇遇というか…。
  ・・・・・・
●松平義建(よしたつ)
 10代藩主。9代藩主・松平義和の2男(長男は早世)。
 長男・源之助,4男・整三郎,9男は早世。2男は尾張藩14代藩主・徳川慶勝(よしかつ)。3男・松平武成(たけしげ)は水戸徳川藩初代藩主・徳川頼房(よりふさ)からつながる浜田藩2代藩主・松平武揚(たけおき)の養子。5男は11代藩主の松平義比(よしちか)で,のち,尾張徳川家第15代藩主であり,一橋徳川家の第10代当主となった徳川茂徳(もちなが)。6男・松平容敬(かたたか)は会津藩 6代藩主松平容住(かたおき)の養子となり,のち会津藩8代藩主。戊辰戦争で戦死。7男は会津藩8代藩主・松平容敬(かたたか)の養子となり,のち,会津藩9代藩主となった松平容保(かたもり),そして,8男が桑名藩13代藩主・松平定敬(さだあき)です。
 そのうち,2男・徳川慶勝,5男・徳川茂徳,7男・松平容保,8男・松平定敬が「高須四兄弟」とよばれます。
●松平義比(よしちか)
 11代藩主。10代・松平義建の5男。のち,尾張藩15代藩主・徳川茂徳。
 高須藩主だったが,尾張藩14代藩主・徳川慶勝が隠居謹慎となったため尾張藩を相続し15代藩主。のち隠居。その後,15代将軍に就任した徳川慶喜に代わって一橋家10代藩主となり,徳川茂栄(もちはる)と名乗りました。
●松平義端(よしまさ)
 12代藩主。徳川茂徳の長男。わずか1歳で美濃高須藩を相続しましたが,享年3歳。
●松平義勇(よしたけ)
 13代藩主。10代藩主・松平義建の10男。わずか2歳で美濃高須藩を相続し,12歳で病気を理由に隠居。享年33歳。
●松平義生(よしなり)
 高須藩最後の14代藩主。武田勝頼の重臣・伊丹康直(やすなお)の流れをくむ丹波園部藩主・小出英教(ふさのり)の2男が松平義勇の養子となり家督を相続しました。
  ・・・・・・

 「高須四兄弟」は,戊辰戦争では,2男・徳川慶勝と5男・徳川茂徳が新政府側,7男・松平容保と8男・松平定敬が幕府側というように,幕末期には敵味方になってしまいましたが,明治維新後の1878年(明治11年)に再会し,銀座の二見朝隈写真館で4人が一緒に写真撮影をしました。
 なお,戊辰戦争という名前は,戦争がはじまった年である1868年(慶応4年)の干支が戊辰(つちのえ・たつ)だったことに由来します。
  ・・
●徳川慶勝
 2男・徳川慶勝は,尾張徳川家14代藩主でしたが,3男で,尾張徳川家16代藩主・徳川義宜が18歳で没したため,再び,尾張徳川家の家督を再相続し,17代となりました。 
 徳川慶勝の11男・徳川義恕(よしくみ)は男爵家初代となり,その子・徳川義寛(よしひろ)は昭和天皇の侍従をつとめ,終戦前に「玉音放送」の録音盤を守り通した人として知られます。そして,1880年(明治13年)に57歳で隠居し,60歳で亡くなりました。
  ・・
●徳川茂徳
 5男・徳川茂徳は,尾張徳川家第15代藩主であり,一橋徳川家の第10代当主にもなりました。
 尾張藩主時代は徳川茂徳,一橋家当主時代は徳川茂栄(もちはる)と名乗りました。
 1858年(安政5年)に,兄・徳川慶勝が安政の大獄で隠居・謹慎となったため,尾張藩主に就任しました。隠居後は,徳川義勝の子・徳川義宜に家督を譲り,一橋家を継ぎました。
 明治維新後,一橋藩を立藩しましたが,版籍奉還により廃藩となりました。1884年(明治17年)に54歳で亡くなりました。
  ・・
●松平容保
 「高須四兄弟」のもうひとりである7男・松平容保は,12歳で会津藩7代藩主・松平容敬の養子となり,のち,会津藩8代藩主となりました。幕末,京都守護職に任命され,尊王攘夷派の取締りを行いました。そのため,会津藩は戊辰戦争で新政府軍の標的とされました。会津藩は会津若松城に籠城し抵抗しましたが敗れ,松平容保は謹慎処分となり,長男・松平容大(かたはる)に相続が許され,斗南藩に改易処分となり,不毛の地での生活は困窮を極め,会津藩士たちは苦難の道をたどることとなりました。
 松平容保は,和歌山藩に預け替えとなり蟄居生活ののち,斗南藩に移住を許されましたが,すぐに東京に戻ってしまいました。その後,蟄居を許されましたが,家は困窮していました。やがて,日光東照宮,上野東照宮の宮司となり,1893年(明治26年)に59歳で亡くなりました。
 子供は7男2女で,6男・松平恒雄は,初代参議院議長を務めました。東京銀行会長となった松平恒雄の長男・松平一郎の妻が徳川宗家16代・徳川家達の子で徳川宗家17代・徳川家正(いえまさ)の長女・豊子でした。松平一郎の次男・徳川恒孝は徳川家正の養子となって,徳川宗家を継ぎ,18代となりました。そして,徳川恒孝の子の徳川家広(いえひろ)が現在の徳川宗家19代です。
  ・・
●松平定敬
 松平定敬は,桑名藩主であり,京都所司代として幕府を支えました。
 1859年に桑名藩主・松平定猷が死去し,14歳で松平定猷の娘・初姫と婚約を結び,婿養子として家督を継ぎました。京都所司代に任命され,兄・松平容保とともに京都守護体制を築き,一橋慶喜(徳川慶喜),会津藩主・松平容保,桑名藩主・松平定敬による政治体制「一会桑政権」の一角を担いましたが,戊辰戦争で鳥羽・伏見の戦いに敗れ,朝敵とされ,江戸,越後,会津,仙台,箱館と転戦し,最後は上海へ逃亡しましたが,資金難で帰国しました。
 明治維新後赦免され,アメリカ人宣教師ブラウンに英語を学び,渡米も果たすなど,明治期には国際的な視野を持った人物に変貌し,晩年は日光東照宮の宮司に就任しました。
 1908年(明治41年)に61歳で亡くなりました。

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【Summary】
People in Nagoya admire the “three local heroes” and the Owari Tokugawa family, yet know little about their history beyond Lord Muneharu. Visiting Kaizu, I explored Owari lords’ succession, conflicts, tombs, and shifting authority, revealing unexpected links with the Takasu domain.

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 名古屋,およびその周辺に住む人たちは,織田信長,豊臣秀吉,徳川家康のいわゆる「郷土三英傑」は,名古屋まつりで行列が行われるように,大好きで,また,金鯱で有名な名古屋城は街のシンボルであり,徳川美術館にもなじみがあって,尾張徳川家が徳川御三家の筆頭であったということにも誇りをもっています。
 しかし,江戸時代にこの地を治めた尾張徳川家については,多くの人は徳川御三家の筆頭ということ以外,ほとんど何も知りませんし,習いません。歴史の教科書にもほとんど出てきません。知っていることがあるとすれば,おそらく,徳川吉宗の質素倹約に反発して,名古屋の町を反映させたという7代藩主・徳川宗春だけでしょう。だから,現在の岐阜県海津市を拠点としていた,尾張徳川家の分家である高須藩松平家のことなど,まったくといっていいほど知りません。私もそうでした。だから,白虎隊で有名な会津藩と高須藩につながりがあると知って,私は,びっくりしました。
 ということで,海津市に行ってみました。とはいえ,私の住んでいるところからは車でわずか30分程度です。

 では,まず,尾張徳川家の治めた尾張藩の歴代藩主について,簡単にまとめます。
  ・・・・・・
●徳川義直(よしなお)
 尾張徳川藩初代藩主。徳川家康の9男。
●徳川光友(みつとも)
 2代藩主。初代藩主・徳川義直の長男。
●徳川綱誠(つなのぶ)
 3代藩主。2代藩主・徳川光友の次男ですが,正室の子なので長男とされます。長男の松平義昌(よしまさ)は陸奥国梁川藩の初代藩主。
●徳川吉通(よしみち)
 4代藩主。3代藩主・徳川綱誠の十男ですが,兄たちが全員早世したため藩主となりました。しかし,25歳で亡くなりました。
●徳川五郎太(ごろうた)
 5代藩主。4代藩主・徳川吉通の長男でしたが,相続から2か月後に3歳で早世しました。
  ・・・・・・
 将軍家では竹千代がそうだったように,尾張徳川家では,五郎太というのが幼名でした。
 早世した7代将軍徳川家継のように,はじめの数代は順調に相続をしていくのに,このころになると,幼年で後継ぎがなくなってしまい,血筋が途絶えてくるのはどうしてでしょう? 
 続けます。

  ・・・・・・
●徳川継友(つぐとも)
 6代藩主。3代藩主・徳川綱誠の11男。
 徳川継友は,後継ぎのなかった7代将軍・徳川家継の後継者候補でしたが,紀伊徳川家から徳川吉宗が8代将軍になりました。これは,尾張徳川家の重臣たちが「尾張は将軍位を争うべからず」に基づいて積極的に徳川継友の将軍位就任運動をしていなかったというのが表向きの理由ですが…。
●徳川宗春(むねはる)
 7代藩主。3代藩主・徳川綱誠の20男。実男子はすべて早世しました。
●徳川宗勝(むねかつ)
 8代藩主。2代藩主・徳川光友の11男・松平友著(ともあき)の長男で,高須藩3代藩主でした。
●徳川宗睦(むねちか)
 9代藩主。8代藩主徳川宗勝の次男。長男は早世しました。中興の名君といわれます。実男子は早世しました。
  ・・・・・・
 このころになると,藩の財政が行き詰まり,そのころに藩政を改革した藩主が現れてのちに名君とよばれるのも,また,多くの藩と同様です。歴史は繰り返します。
 藩主に実子がなく,この後,子だくさんだった11代将軍・徳川家斉の血筋の藩主が続くことで,反発が生まれ,藩内が乱れます。

  ・・・・・・
●徳川斉朝(なりとも)
 10代藩主。11代将軍・徳川家斉の弟・徳川治国の長男。
●徳川斉温(なりはる)
 11代藩主。11代将軍・徳川家斉の19男。21歳で早世。病弱のため江戸藩邸に常住し尾張藩領内に一度も入ることがありませんでした。
● 徳川斉荘(なりたか)
 12代藩主。11代将軍・徳川家斉の12男。
 12代藩主には,尾張藩士には高須藩主・松平義建(よしたつ)の次男・徳川慶勝(のちの14代藩主)を望む者が多く,徳川斉荘の尾張徳川家への養子入りは幕府の一方的な命令によるもので,藩内に大きな反発を生み,藩士が「金鉄組」を結成し,これが幕末の反幕・尊皇攘夷派への流れとなりました。実男子はいません。
●徳川慶臧(よしつぐ)
 13代藩主。田安徳川家3代藩主・徳川斉匡(なりまさ)の10男。
 徳川斉荘の娘と婚約し尾張藩主となりましたが,尾張藩士は幕府のたび重なる押しつけ養子に憤慨しました。
●徳川慶勝(よしかつ))
 14代藩主。高須藩10代藩主・松平義建の次男で「高須四兄弟」のひとり 。
 1858年(安政5年)の日米修好通商条約の調印に際し,大老・井伊直弼に抗議,安政の大獄により隠居謹慎を命じられました。
●徳川茂徳(もちなが)
 15代藩主。高須藩10代藩主・松平義建の5男「高須四兄弟」のひとり。高須藩11代藩主でした。
 墓所は上野寛永寺にあります。
●徳川義宜(よしのり)
 尾張徳川藩最後の16代藩主。14代藩主・徳川慶勝の3男。15代藩主・徳川茂徳の養子となり,徳川茂徳が隠居したため家督を継ぎました。
  ・・・・・・
 このように,将軍家や他藩同様に,幕末期になると,藩論が2分し,後継ぎ問題も複雑化し,激動の世に突入します。尾張藩は,徳川将軍家への反発もあって,反幕・尊皇攘夷派が台頭することになりました。

 つぎに,尾張徳川家の歴代藩主の墓について書きます。
 瀬戸市の定光寺のあたりをたいへん気に入っていた初代藩主・徳川義直の墓所は,本人の強い希望によって,定光寺にあります。定光寺は臨済宗建長寺派の古刹で,1336年(建武3年)に創建された歴史ある寺院で,徳川義直の墓所「源敬公廟」は,儒教式の霊廟建築で,帰化した陳元贇(ちんげんぴん)が設計したとされていて,中国風の意匠が見られます。 
 2代藩主・徳川光友が父・徳川義直の菩提を弔うために名古屋市内に建中寺を建立し,尾張徳川家の菩提寺は名古屋市内の建中寺となり,ここに,歴代藩主の立派な墓が設けられていました。
 しかし,太平洋戦争の空襲は焼失を免れたものの,戦後の名古屋復興計画で,建中寺だけでなく,市内にある寺の墓が平和公園に移されたことに伴って,現在は,藩主の墓もなくなり,その存在がよくわからなくなってしまいました。いろいろと調べてみたのですが,建中寺にあった墓はすべて掘り起こされて,遺骸は荼毘に付されたという文献はあったのですが,位牌は建中寺にあれど,当時造られた立派な墓石がどうなったかがわかりません。平和公園に移されたらしいというので行ってみたのですが,7代藩主・徳川宗春の「贈亞相二品章善院殿厚譽孚式源逞大居士尊儀」と刻まれた墓碑だけは平和公園に案内板がありました。また,徳川宗春の墓碑のまわりに,墓石らしきものがたくさん集まっていましたが,まったく案内板もなく,そこにあるのがそれなのかさえよくわかりませんでした。また,郷土史家・津田応助の嘆願で,9代藩主・徳川宗睦の「亞相正二品天祥院殿釜譽峻徳源明公尊儀」と刻まれた墓碑だけは小牧山に移転されています。「亞相正二品」は権大納言の官位を表す唐名だそうです。
 会津藩松平家の歴代藩主の墓,米沢藩上杉家の歴代藩主の墓,松江藩松平家の歴代藩主の墓,岩国藩吉川家の歴代藩主墓,さらには,薩摩藩島津家家老の種子島家が治めた種子島にある「御拝塔」など,江戸時代の殿様の菩提寺には,今でも立派な墓があるところが少なくありません。また,徳川御三家の紀伊徳川家と水戸徳川家の歴代藩主の墓は,今も,壮大な敷地に存在しています。それにくらべて,徳川御三家筆頭であった尾張徳川家の歴代藩主の墓の現在があまりにも粗雑なことが,私には意外でした。名古屋市の市街地ではなく,定光寺あたりに菩提寺あったのなら,また,話は違ったかもしれません。徳川家は浄土宗,定光寺は臨済宗なので,宗派が違うかもしれませんが…。
 高須藩については次回。

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【Summary】
The Kiso Sansen Waju Museum in Kaizu City, renewed in March 2025, introduces local history, flood control, and the Takasu clan, an important Owari Tokugawa branch. Exhibits include a restored Takasu residence, Noh stage, and displays on the famed “Takasu Four Brothers,” plus outdoor demonstrations of historic water management.

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 地元でありながら,徳川御三家筆頭の尾張徳川家のことをほとんど知らなかったことを恥じて調べているうちに,高須家の存在に行きつきました。また,会津藩主・松平容保(かたもち)が高須家の出であるということに驚きました。その高須家が,岐阜県海津市にあったということに再び驚いて,こりゃ,行ってみるしかない,と思いました。
  ・・・・・・
 高須家は,尾張徳川家の分家として非常に重要な役割を果たした名門で,特に幕末期には「高須四兄弟」とよばれる傑出した人物たちを輩出しました。
 木曽三川輪中ミュージアムには,彼らの足跡をたどる展示も充実していて,訪れる価値があります。
  ・・・・・・
ということだったので,高須家の遺構を訪ねるまえに,木曽三川輪中ミュージアムに行ってみることにしました。
 これもまた
  ・・・・・・
 暑くても大丈夫なところはないか,と考えて,そうだ,博物館めぐりをしようと,思いつきました。
  ・・・・・・
の第5弾です。

 木曽三川輪中ミュージアムは,ずいぶん前に一度行ったことがありますが,そのころは,まったく高須家には興味がなかったので,そんな展示があったことすら記憶にありません。こうした博物館は訪れる人も少ないのですが,存在価値があります。
 木曽三川輪中ミュージアムにはレストランがないので,行く途中にあった「ベニーレーン」という喫茶店で昼食をとりました。お昼時なのに空いていました。今では都会にはなくなってしまった昔ながらの喫茶店で,懐かしい気がしました。このごろは,チェーン店ばかりで,どこも,バイトを雇えばだれでもつくれるようなものしか提供されなくなってしまい,昔ながらの喫茶店とかうどん屋というものがなくなって,残念に思っています。
 私が行ったのは,2025年8月28日のお昼すぎでしたが,広い駐車場はほとんど車が停まっていませんでした。中に入ると,閑散としていました。
  ・・・・・・
 木曽三川輪中ミュージアムは,海津市にある歴史と文化を体感できる施設で,かつての海津市歴史民俗資料館が2025年3月にリニューアルオープンしたものです。
 3階建てで,1階は「土地の記憶」として,貝塚や古墳の出土品から,海津市の古代の暮らしを紹介,2階は「輪中のくらし」として,治水工事と水との共生の歴史,3階は「武士たちの軌跡」として, 高須藩や尾張徳川家の歴史を映像で紹介,御館の一部を復元し,能舞台も設置されています。
  ・・・・・・

 高須家は1700年,尾張徳川家2代藩主・徳川光友の次男・松平義行によって創設され, 石高は,美濃国高須に1.5万石,信濃国に1.5万石の合計3万石で,江戸では四谷に屋敷を構えたので「四谷松平家」ともよばれました。幕末,高須藩10代藩主・松平義建の子どもたちのうち,徳川慶勝(よしかつ),徳川茂栄(もちなが),松平容保,松平定敬(さだあき)は,政局に深く関わったので「高須四兄弟」といわれます。
  ・・・・・・
 徳川慶勝は尾張徳川家14代,17代藩主となった人物です。安政の大獄で失脚し,復権。戊辰戦争では官軍側につき,長州征伐の総督になりました。徳川茂栄は一橋家当主として徳川家を代表して新政府と交渉。さらに,尾張徳川家15代藩主となりました。松平容保は,会津藩9代藩主で,京都守護職となり新選組を率いて治安維持に尽力,戊辰戦争では白虎隊の悲劇を引き起こし,最後は「朝敵」とされた,高等学校の歴史の教科書にも載っている人物です。松平定敬は桑名藩主となり維新戦争では五稜郭で抵抗を続けました。
  ・・・・・・
 「高須四兄弟」が郷土の誇りということで,木曽三川輪中ミュージアムに,関連した展示があるわけです。高須藩の御殿を再現した御書院の間には,義建の書「大心海」などが展示されていました。さらに,山吹の間には,私的空間が再現され,ここは,令和天皇夫妻が皇太子時代に休憩された場所でした。
 能舞台は,実際に利用可能な本格的な舞台として設けられていますが,これは,高須藩松平家の御館の一部を復元した空間の中にあって,格式と文化の香りが漂う特別な場所ということです。高須家は尾張徳川家の分家として格式が高く,教養や芸術にも力を入れていました。能舞台の設置は,そうした文化的伝統を現代に伝える試みです。
 さらに,屋外には「堀田」とよばれる低湿地農法の復元,明治期の排水機や樋門の展示から治水技術の歴史が学べるようになっていました。

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【Summary】
In the midst of the extreme summer heat, I visited the Toyota Automobile Museum as my fourth destination. It systematically showcases world-famous cars and automotive culture, and despite being a weekday, it was bustling with many visitors.

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 2025年,異常な暑さが続いた夏でした。
  ・・・・・・
 暑くても大丈夫なところはないか,と考えて,そうだ,博物館めぐりをしようと,思いつきました。
  ・・・・・・
ということで,第3弾の京都鉄道博物館に続いて,今日はその第4弾,トヨタ博物館です。
 私がトヨタ博物館へ出かけたのは,これで2度目ですが,前回のことは全く記憶にありません。残暑きびしい2025年9月9日に行きました。
 1989年(平成元年)に,トヨタ自動車創立50周年記念事業として設立されたトヨタ博物館です。長久手市にある自動車の進化と文化をテーマにした博物館で,車好きにはたまらないスポット,ということですが,私は車は金の無駄遣い,高級車なら空が飛べるというわけでもないし,普通の機能があればいい,と思っているので,あまり興味がありません。

 トヨタ博物館は,クルマ館と文化館からなっていました。
 クルマ館では,世界の名車といわれる車が約150台が展示されていて,壮観でした。
 展示の特徴として,トヨタ車だけでなく,フォード,ベンツ,シトロエンなど世界中の名車が勢ぞろいしているほか,19世紀末から現代までの自動車の歴史を体系的に紹介されていました。また,展示車両の多くは動態保存されていて,実際に走行できる状態なのだそうです。中には,1886年製のカール・ベンツ初のガソリン車など,歴史的価値の高い車も展されていました。
 さすがトヨタ。よくももこれだけのものを集めたものだ,と思いました。
 文化館では,自動車にまつわる文化資料約4,000点が収蔵されていて,その多くを見ることができました。また,文化館には,自動車関連書籍が充実し,ミュージアムショップもあって,ミニカーやグッズが豊富にそろっていました。
 レストラン「Aview」もありましたが,私が行ったのはちょうどお昼時で,レストランは待ち時間がありました。そこで,先に展示を見てから,午後1時ごろに再び行ってみたら,空いていたので,ゆっくりと食事を楽しむことができました。博物館オリジナルの「トヨタ博物館カレー」が人気ということでした。

 日本には,こうした博物館は少なく,とても貴重な施設です。
 トヨタ博物館があるのは,長久手丘陵で,今は,ジブリパークとして知られている愛・地球博記念公園の近くです。こんな田舎に誰が来るの? と思ったのですが,夏休み後の平日だったのにもかかわらず,多くの人でにぎわっていました。
 車の博物館といえば,私は,アメリカ・デトロイトのヘンリーフォード博物館に行ったことがあります。ヘンリーフォード博物館は,グリーンフィールドビレッジという名のテーマパークに隣接していて,そこは一大レジャーセンターになっていました。
 トヨタ博物館も,愛・地球博記念公園と一体化すれば,ともにもっと活気が出るのに,と思うのですが,こういう発想に至らないのが,まあ,日本らしいというか…。

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【Summary】
Izumi Shikibu, a Heian poet famed for her romances and legends, has graves and memorials across Japan—from Kyoto and Gifu to Iwate and Kyushu—reflecting diverse local traditions about her life, death, and enduring legacy.

######
 2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」で泉里香さんが演じた和泉式部があまりに魅力的だったので,和泉式部に興味をもち,2025年5月17日,木津川市に和泉式部の墓を訪ねました。また,京都市内新京極通りの誠心院の境内に,和泉式部の墓とされる宝篋印塔があったので,そこにも寄りました。そのときのことを
  ・・・・・・
 私は,今回,木津川市に和泉式部の墓があると知って,京都駅からJR奈良線に乗って木津川駅で降り,そこから歩いて行ってみました。わかりにくい場所でしたが,和泉式部が晩年を過ごしたとされる場所に小さな墓がありました。
 このとき,和泉式部の墓は,それ以外にも全国各地にあると知りました。そのひとつが,先に書いた歌碑のある誠心院ということなので,木津川市に行った帰りに寄ってみました。誠心院の境内に,和泉式部の墓とされる宝篋印塔がありました。
  ・・・・・・
と書きました。また
  ・・・・・・
 それ以外には,岐阜県可児郡御嵩町に廟所があるそうです。そこは,和泉式部が旅の途中で病に倒れ,鬼岩温泉で湯治したものの亡くなったと伝えられているという場所で・・・そのうちに行ってみようと思っています。
  ・・・・・・
と書いたのですが,2025年8月26日,ついにその場所に行くことができました。

  藤原道長に「うかれめ」と揶揄された和泉式部は,越前守・大江雅致(おおえのまさむね)と越中守・平保衡(たいらのやすひら)の娘を母に生まれ,和泉守・橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚し,儲けた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を示しました。しかし,橘道貞との婚姻は破綻し,冷泉天皇の第3皇子・為尊親王(ためたかしんのう)との熱愛が世に喧伝されましたが,身分違いの恋であるとして親から勘当を受けました。
 紫式部は,和泉式部を評して「和泉式部という人こそおもしろう書きかはしける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ」と「紫式部日記」に記されています。
 為尊親王の死後、今度はその同母弟である敦道親王(あつみちしんのう)の求愛を受けました。敦道親王は和泉式部を邸に迎えようとしたことが,正妃である藤原済時の娘が家出する原因となりました。 敦道親王の召人として子・永覚を設けましたが,敦道親王は1007年(寛弘4年)に早世し,のち,一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕し,1013年(長和2年),藤原彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し夫の任国・丹後に下りました。
 1025年(万寿2年)に娘の小式部内侍が早世してしまいました。このときの愛傷歌は胸を打つものがあります。
  ・・・・・・
 暗きより暗き道にぞ入りぬべき 遙かに照らせ山の端の月
  ・・
 山の端を照らす月のような悟りよ より困難な状況に入っていく私を導いてほしい
  ・・・・・・

 「うかれめ」揶揄され,「千人斬り」といわれた和泉式部。
  ・・・・・・
 実は,あるときから,和泉式部は神様の声が聞こえるようになって,その神から,両親はもうすぐ亡くなる運命だけど,それを防ぐにはいろんな男性と交わることで,失恋,未練,嫉妬,後悔,執着などいろんな思いをもっている男性を救いなさいといわれたというのです。しかし,美人で,歌人で,身分も高い教養人である和泉式部にそんなことができません。しかし,神の声はしつこく,和泉式部は両親の命を助けるために,それを実行したそうです。
  当然,両親にも周辺にもそんなことは理解してもらえず,和泉式部は両親に勘当され,周辺の人達からも非難されてしまったのです。とはいえ,和泉式部によって救われた人たちがたくさんいて,それが噂として広がり,多くの病人の人達も家族に連れられて和泉式部を訪ねてくるようになりました。
 和泉式部のからだは,いくら歳をとってもまったくおとろえず,いつまでも若いままだったそうです。これが,「うかれめ」として,千人の男性を救ったことから「千人斬り」という伝説が生まれたそうです。
  ・・・・・・
 今回行くことができた岐阜県御嵩町の廟所は,和泉式部が旅の途中で病に倒れ,鬼岩温泉で湯治したものの亡くなったと伝えられているという場所で
  ・・・・・・
 ひとりさえ渡れば沈むうき橋に あとなる人はしばしとどまれ
  ・・
 ひとりで渡れば沈んでしまう浮き橋のように 私が去った後に残る人はしばらくここに留まってください
  ・・・・・・
という歌碑が,道端にひっそりとありました。

 さらに調べてみたら,それ以外にも,全国各地に多くの和泉式部に関する遺構や逸話が残っていました。
 まず,岩手県北上市和賀町竪川目に墓所があります。付近が出生地あるいは没地と伝えられ,ここが和泉式部伝説の北限とされます。また,早世した小式部を哀れんだ隣人が五輪塔を建てたという伝説に準えて,五輪塔なども奉献されているそうです。
 福島県石川町には,この地方を治めた豪族・安田兵衛国康の子・玉世姫(たまよひめ)が和泉式部であるといういい伝えが残り,和泉式部が産湯を浴びた湧水を小和清水(こわしみず),13歳でこの地を離れた和泉式部との別れを悲しんだ飼猫「そめ」が啼きながら浸かり病を治したといわれる霊泉が猫啼温泉として現存します。
 長野県諏訪市の温泉寺にも和泉式部の墓があるそうで,私は近くを通ったことがあるのですが,知りませんでした。
 堺市西区平岡町には,居宅跡である「和泉式部宮」があります。また,岸和田市の阪和線下松駅周辺には和泉式部にまつわる池や塚などが存在します。
 伊丹市の旧西国街道・伊丹坂の上,旧北村字村畑にも和泉式部の墓所があるということです。これまで2度も近くへ行っているのですが知りませんでした。惜しいことをしました。今度また,行ってみよう。
 京都市右京区太秦には,太秦和泉式部町という地名がありますし,亀岡市の稱名寺(しょうみょうじ)にも和泉式部の墓所があると伝えられます。
 山口県山陽小野田市小埴生にも和泉式部の墓所があります。ここもまた,最近,近くを通ったばかりですが,行きそびれました。ああ。
 さらに,和泉式部は,佐賀県嬉野市白石町の福泉禅寺で生誕し大黒丸夫婦に育てられたとされるいい伝えがあり,福泉禅寺には故郷を偲んで詠んだとされる和歌の掛け軸が伝わっていて,境内には歌碑と供養塔が建立されているといいます。
 これらをすべて訪ねるのはたいへんそうですし,ニアミスしていたところもあるのですが,今度は見逃さず,きちんと調べてから行ってみたいと思います。恋した男が多ければ,それだけ墓も多いわけだ。ほかにもあるかも。

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【Summary】
After enjoying a meal, I walked around Himakajima, which took just over an hour. The weather was perfect—cool and sunny at times. The island's scenery and simple lifestyle were charming. It exceeded my expectations.

######
 食事を終えたので,島を1周することにしました。この日は雨の予報が一転して,涼しく,蒸し暑くなく,時折雲の間から日差しがのぞく最高の天気でした。日間賀島の周囲は約5.5キロメートルなので,徒歩で1時間と少しで1周することができます。レンタル自転車を借りようかとも思ったのですが,歩きで十分でした。
 日間賀島は西港と東港があって,どちらの場所にもタコのモニュメントがあります。また,西港にある駐在所がタコの形になっているというのが有名です。
 西港のあたりには,食事処やお土産屋さんがありました。ここで高速船を降りて食事をして帰る,という団体さんもいるようです。また,若い人たちのグループは,ここでレンタサイクルなどを借りて島を1周する,ということでしょうか。
 私は, 西港から,時計回りに気ままに歩きました。

 特に何が,というものがあるわけでもないのですが,景色もよく,素朴な島の生活の一端を感じながら歩くのは悪くないものです。おそらく,この日の天候がよかったのでしょう。小雨ならともかく,強く雨が降っていたり,あるいは,蒸し暑い日に来ていたら,まったく違う印象をもったにちがいありません。
 海岸にトンビがたくさん飛んでいました。
  ・・・・・・
 トンビはタカ科に属する猛禽類で,人間の約7倍の視力をもっているので,上空から獲物を見つけると急降下に降りてきます。 普段は,上昇気流を利用して空中をゆったりと旋回しながら飛んでいて,その姿に圧倒されます。人間の食べ物を奪うこともあるので,要注意です。
  ・・・・・・
 思った以上に早く島を1周できました。
 帰りの高速船が来るまで,近くのカフェで休憩しました。
 日間賀島は期待以上でした。

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【Summary】
I enjoyed a luxurious lunch at the Japanese inn "Uwamisou" on Himakajima, known for its fresh seafood. While not staying overnight, I savored seasonal octopus and delicious flathead sashimi, said to rival fugu, alongside chilled sake.

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 食事をするのは,「上海荘」(うわみそう)でした。
  ・・・・・・
 「上海荘」は日間賀島にある和風旅館です。漁師でもある主人が三河湾で獲れた旬の海の幸を提供していて,特に冬のふぐ料理が絶品と評判です。春の潮干狩りや夏の海水浴にも利用できる宿で,島ならではの温かいおもてなしが魅力です。館内は木造2階建てで,全室和室となっています。
  ・・・・・・
 ということですが,今回は宿泊せず,昼食のみです。
 私は,日本中のさまざまなところでこうした宿に泊まっているのですが,もし,日間賀島が私の家から遠いところなら,ここに宿泊するのもいいなあ,と思いました。
 結局,旅を重ねて行って,一度は行ってみたい,というところもなくなってくると,旅の最大の楽しみは食事と温泉,というところに落ち着くのですが,そうであれば,何も遠いところに行く必要もない,と考えるようになってきました。

 さて,この時期は,ふぐの季節ではないので,料理の目玉はタコということになります。新鮮なタコは最高でした。それ以外に,コチの刺身が出ました。
  ・・・・・・
 コチ(鯒)は海底に腹ばいになって生活する海水魚の総称です。
 体が平たく,大きなひれをもっているのが特徴で,砂地に擬態して身を守る習性があります。「マゴチ」は高級魚として知られ,夏が旬の美味しい白身魚です。
 刺身や天ぷら,煮つけなどさまざまな料理に使われます。その味はフグに匹敵するといわれます。
  ・・・・・・
 冷酒を呑みながら,こんなぜいたくな食事ができて,堪能しました。

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【Summary】
I visited Himakajima, a small island in Aichi Prefecture, on May 30, 2025, using a Meitetsu travel package. Despite a rainy forecast, the weather turned out sunny and pleasant. The island was quiet, and I enjoyed the scenery and a lunch at a ryokan.

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 佐渡島,隠岐諸島,壱岐島,種子島,宮古島,石垣島などの離島めぐりを楽しんでいるとある人に話したら,愛知県の離島にも行ったことないのに,と冗談で言われました。
 愛知県の離島といえば,日間賀島,篠島,佐久島です。私は,佐久島には行ったことがありますが,日間賀島と篠島には行ったことがありませんでした。近いとむしろ行かないのです。そこで,今回,日間賀島に行ってみることにしました。おそらく,遠いところに住んいれば,むしろ1泊して,日間賀島と篠島の両方に行くのでしょうが,近いがゆえに,日間賀島に日帰りの旅です。篠島は,そのうち,気が向いたら行くかもしれません。いつでも行けそうですし。

  ・・・・・・
 日間賀島は愛知県の三河湾にある離島で,知多半島の南端から約3キロメートル東に位置しています。美しい海と豊かな自然が魅力で,「タコとフグの里」として知られています。
  ・・・・・・
 名物「タコ料理」は1年中楽しめますが,フグは冬の食べ物です。
 観光スポットとしては,イルカと触れ合えるドルフィンビーチ,縁結びの安楽寺,子宝の呑海院,安産の長心寺などの神社仏閣があるそうですが,私には無縁です。
 また,星空観察もできるそうですが,私は,普段から知多半島の先端で星見をしているので,その実態はよくわかります。確かに南の空はきれいですが,北の空は名古屋の明かりでだめです。また,釣り体験やシーカヤック,潮干狩りなども盛んですが,これもまた,こうしたことが苦手な私には無縁,ということで,景色を見ておいしいものを食べることが目的となりました。
 問題は天気でした。

 出かけたのは,2025年5月30日。
 車で知多半島の最南端である師崎港まで行って,そこから高速船で10分,というのが定番らしいですが,今回は,名鉄観光の旅行パックというものを利用しました。。名鉄電車で河和駅まで行って,河和港まで7分ほど歩き,そこから高速船で20分ということでした。島には多くの食堂があるようですが,旅館での昼食がついている旅行パックにしました。
 平日なので空いているだろう,と思ったのですが,天気が心配でした。1週間以上前から毎日天気予報とにらめっこしていたのですが,日に日に予報が悪くなって,ついに,雨,ということになってしまいました。ところがどうでしょう! 雨どころか,時折雲の間から太陽がのぞく,しかも涼しいとてもよい天気になりました。天気予報の影響なのか,午前10時5分,私が乗り込んだ高速船には乗客がほとんどいませんでした。
 日間賀島には西港と東港があって,島の集落があるのが西港です。高速船は20分の航海で,西港に到着しました。

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【Summary】
The Nirayama Reverberatory Furnaces were built in the late Edo period to cast cannons. Originally planned in Shimoda, construction moved to Nirayama in 1854. They operated from 1857 to 1864 and were preserved despite weathering, becoming a UNESCO World Heritage Site in 2015.

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 思ったよりも楽しかった,念願だった伊豆半島1周の旅もいよいよ最終段階になりました。
 最後に,来るときに知った韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)に寄ることにしました。
  ・・・・・・
 韮山反射炉(Nirayama Reverberatory Furnaces)は,築造当時の形で現存する反射炉の遺跡で,高さ15.6メートルの連双2基,合計4炉で構成されています。 日本に現存する近世の反射炉は,韮山反射炉と萩反射炉のみということですが,萩反射炉は試験炉で,実用炉は築造されなかったといわれ,実際に鋳鉄の溶解が行われた反射炉としては世界で唯一現存する遺構とされていて,2015年,「明治日本の産業革命遺産・製鉄,製鋼,造船,石炭産業」として登録されました。
  ・・・・・・
 施設自体は,それほど大きなものではないのですが,さすが世界遺産というだけのことはあって,充実した資料館もあり,きちんと整備されていました。幕末から明治のころの日本は,こうした,今考えても途方もないようなことが行われていたことに,私は,感動しました。

 1840年(天保11年)のアヘン戦争に危機感を覚えた韮山代官の江川英龍は,海防政策のひとつとして,鉄砲を鋳造するために必要な反射炉の建設を建議,1853年(嘉永6年)の黒船来航を受けて,江戸幕府直営の反射炉として築造が決定されました。
 1853年(嘉永6年)に下田で築造開始し,翌1854年(安政元年)に下田に入港したペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入したため,築造場所が現在の場所に変更されました。
 1855年(安政2年)江川英龍が死去すると跡を継いだ息子の江川英敏が築造を進め,1857年(安政4年)に完成しました。
  1857年から1864年まで稼働し,1864年に閉鎖されたのち,風化が進みましたが,1908年(明治41年)に韮山村有志が反射炉敷地を買い陸軍省に献納したことにより,韮山反射炉保勝会が維持・管理を行ってきました。
 よくも残ったものだ,と思いました。

 こうして,予想以上に楽しかった伊豆半島の旅を終えて,三島駅まで戻ってきました。レンタカーを返して,駅弁を買い,新幹線に乗って帰宅しました。

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【Summary】
After leaving Cape Irozaki, I drove north along Route 136, passing scenic spots like Kumomi Beach, Dogashima, Koganezaki, and Lover’s Cape, each offering stunning views of Mt. Fuji and Suruga Bay. I also passed Toi Gold Mine, once a major gold producer in Japan.

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 石廊崎を出て,その先は,伊豆半島の西海岸沿いに国道136号線を北上します。
 国道136号線は,雲見海岸までは交通量も少なく,道路もカーブが多いところでした。遠回りなので,観光目的でなければ走ることもないところなのでしょう。そこで,私には,素朴ないい感じのところでした。
 雲見海岸まで来ました。雲見海岸は 海水も透明感があり美しい海岸で,富士山が美しく見られることで人気な場所でした。幸い,ずっと天気がよく,この先,ずっと富士山を眺めながら走ることができました。

 やがて,堂ヶ島に着きました。
 伊豆半島の中でも,景勝地として知られる堂ヶ島です。そういえば,「堂ヶ島の雨」という有名な歌があります。この辺りまで来ると,かなりの観光客で,旅館もたくさんありました。奇岩や景勝地が多彩に並ぶ堂ヶ島には,天窓洞や三四郎島,トンボロなど目を見張るスポットが多く,また,海に目を向けると不思議な形をした島や岩があって,その間を遊覧する船で小さな船旅を楽しむことができるということです。また,駿河湾に沈む夕陽は言葉を失うほどの美しさ,ということですが,私は,ここで楽しむ時間がなく,また次回,ということにしました。

 さらに進むと,黄金崎。ここもまた,駿河湾と富士山の眺望のすばらしさ,夕陽を浴びて黄金色に輝く美しい岩肌で知られる景勝地で,岬全体が公園になっていて,「富士見の丘」,三島由紀夫の文学碑などがあります。
 そして,その先にあったのが「恋人岬」でした。
 車を停めて,岬まで歩きましたが,思ったより距離がありました。岬の先端にある展望デッキは180度以上のパノラマが拡がって,富士山や駿河湾を一望できました。また,展望デッキにある愛の鐘「ラブコールベル」を3回鳴らしながら愛しい人の名をよぶと愛が実るといわれていることから伊豆の恋愛パワースポットとなっています。

 「恋人岬」を出発して,さらに北上すると,土肥(とい)金山に着きました。
 天正年間に発見され,幕府直轄の金鉱として佐渡金山と並び採掘された金銀は慶長大判小判の地金となり幕府を支えました。17世紀のはじめの慶長年間に繁栄を極め,幕府公許の妓楼が連なり,土肥港は金鉱石を運ぶ葵定紋の千石船で賑わったといいます。土肥金山は1965年(昭和40年)に閉山し,現在は,一部を整備して当時の採掘の様子を電動人形で再現するなど,坑道出口に土肥金山の歴史と金山に関する資料を展示する「黄金の館」があるということです。かなり観光客でにぎわっていましたが,私は佐渡金山にいったこともあり,通過しました。

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【Summary】
Irozaki, once a major honeymoon destination, saw visitor decline, leading to the 2003 closure of its botanical garden. Redeveloped as Irozaki Ocean Park in 2019, it features a scenic walkway to the lighthouse and shrines. The coast showcases volcanic rock formations and Tafoni. A sightseeing boat operates routes based on wind conditions.

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 石廊崎(いろうざき)に着きました。広い駐車場があったので車を停めました。ここは,石廊崎オーシャンパークという場所で,ここから先端までは遊歩道がありました。
 1950年代から1960年代にかけて,石廊崎は「新婚旅行のメッカ」とよばれ,1994年には年間100万人の来客があったということです。ところが,2019年には観光客数は10分の1以下に下落してしまい,1969年に開園した石廊崎ジャングルパークという熱帯植物園は,入園者数が減少し,2003年に閉園してしまいました。南伊豆町が再開発を行って,2019年に石廊崎オーシャンパークとして再オープンさせ,奥石廊崎の愛逢岬にあったジオパーク・ビジターセンターをオーシャンパーク内の休憩棟に移転したのが現在のものです。
 時刻はちょうどお昼だったので,食事ができたらいいなあ,と思っていたら,絶好のレストランがありました。ほとんど観光客もおらず,最高でした。ここで肉チャーハンを食べました。

 食事を終えて,石廊崎の先端まで歩くことにしました。
 石廊崎に一面にひろがる岩は海底に噴出した溶岩流で,溶岩が水中に噴出すると急激に冷やされて砕けた岩片の集合になります。また,蜂の巣のようにたくさんの窪み「タフォニ」(Tafoni)があって,これは,水に溶けていた塩が水分の蒸発にともなって結晶になり,その結晶の成長によって岩石が壊されてできると考えられています。
 石廊崎には灯台と,その先に崖に面して石室(いろう)神社があって,最突端には熊野神社の祠がありました。1871年(明治4年)にできた石廊埼灯台は高さ11.38メートル,7月と11月のうち1日だけ一般公開されるということです。なお,灯台の名称は石廊「埼」灯台です。
 石廊崎の沖は古くは難所で,昔,江戸へ向かう商船が沖合で大波にあい,石廊権現に「帆柱を捧げるので波をおさめてください」と頼み,無事に江戸に到着できたという言い伝えがあるそうです。 この帆柱は断崖に建つ石室神社の社殿に今も使われています。

 石廊崎港から遊覧船が出ているということですが,それは,石廊崎の東方にある石廊崎港が発着地点ということで,気づきませんでした。気づいたとしても乗らなかったことでしょうが,遊覧船「伊豆クルーズ」は,風向きによって西方の奥石廊崎を周るコースと,石廊崎港より東方にある蓑掛島を周るコースのどちらかを運行するということです。

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【Summary】
Ryugu Cave is a large sea cave with a collapsed ceiling, creating a striking skylight. Visitors can explore it from below or view its heart-shaped formation from above. Nearby is the Tōji Sand Ski Area, a natural sand dune formed by strong winds, maintaining a constant slope for sand skiing.

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 下田を出た私は,伊豆半島の西海岸沿いに北上して,帰ることにしました。下田は伊豆半島の最南端ではありません。最南端は石廊崎というところです。そこで,まず,石廊崎を目指すことにしました。その途中のあったのが竜宮窟でした。
  ・・・・・・
 波が海岸に打ちつけると崖の柔らかい地層や断層などが削られていって洞窟ができます。これを海食洞(かいしょくどう)とよびます。田牛(とうじ)の龍宮窟(りゅうぐうくつ)は,海食洞の天井が一部崩れて,直径40メートルから50メートルほどの天窓が開いたものです。
 龍宮窟の天窓は伊豆の各地にあるものの中で最大級です。
  ・・・・・・

 駐車場があったので,車を停めました。そこから竜宮窟へ歩いていくようでした。
 コースはふたつあって,ひとつは,竜宮窟に下っていくもの,そして,もうひとつは,竜宮窟を上からひと回りするものでした。
 私は,まず,下っていきました。これは,道路沿いの入口から洞窟を通って天窓の下まで行くものです。竜宮窟の天窓は海食洞の天井の落盤でできたもので,その後何度も起こった落石によって広がってきていて, 現在,落石等の危険があるため竜宮窟内の奥深くまでは入ることができませんでした。それでも,圧倒的な迫力で,洞窟の壁に海底火山から噴出した黄褐色の火山れきが美しく層をなし,天窓の底を満たす青い海水とのコントラストが神秘的な場所でした。
 次に,元いた場所にもどって,竜宮窟の周りを歩きました。遊歩道が整備されていて,上からの神秘的な海食洞をみることができました。竜宮窟は,上から見るとハート型の地形となって出現するので,ハートスポットととしても注目を集めているそうです。
 また,木々の間からは遠く伊豆諸島を見ることもできました。

 竜宮窟の西側には,田牛サンドスキー場があります。これは,強い風によって吹き寄せられた砂が積みあがってできた天然のもので,風の強い冬場には海岸から丘に向かって砂が吹き上げられていく様子も見られるといいます。
 吹き上げられた砂は斜面の途中にたまったり,背後の崖に吹きつけられて落ちてきたりします。 やがて,砂の丘が高くなってくると砂つぶは斜面にとどまっていることができなくなり,転がって落ちてきます。こうしてできる砂の丘は,約30度よりも急角度になることはできないので,サンドスキー場はいつも同じような角度の滑り台になります。

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【Summary】
Perry Road in Shimoda is a historic cobblestone path where Perry’s entourage marched to Ryosenji for treaty negotiations. Nearby, the Ketsubōjo supplied essentials to foreign ships under restricted trade. Yoshida Shōin, after his failed stowaway attempt, was detained at Chōmei-ji before being moved to Hirarame Prison.

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 おそらく下田市といって,最も有名な景色はペリーロードでしょう。
 今日の1番目の写真はペリーロードで,伊豆半島の観光案内でよく目にします。とはいえ,私は,この場所は,修善寺温泉の温泉街だとばかり思い込んでいました。それは大間違いでした。
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 幕末,黒船で来航したペリー一行が了仙寺で日米和親条約付録下田条約締結のために行進したのが,「出船入船三千隻」とうたわれた下田の花柳界の面影を残している,平滑川(ひらなめがわ)沿いの石畳の道でした。 ペリー艦隊と幕府側との最初の会見の日,ペリー一行は,祝砲を響かせバッテーラを連ねて上陸し,大砲4門を先頭に曳き,軍楽隊の高らかな奏楽の下,剣付鉄砲の水兵の列を率いてペリーロードを行進し,了仙寺へ乗り込んだといわれています。 
  ・・・・・・
 了仙寺から狭い道を歩いていくと,この風景に出会うことができました。
 ペリーロードでは,総延長約500メートル石畳,石欄干とガス灯が周囲の古い建物との調和のとれた風情を創出しています。夕刻になると,ガス灯の独特の明かりによって幻想的な光景を楽しむことができるようですが。

 再び了仙寺まで戻って,西に向かって歩くと,まず,欠乏所跡という案内板がありました。
 下田が開港され,下田条約が締結されても,幕府は貿易を拒否し,航海上必要な薪,炭,水,食料などの欠乏品のみの供給を認めていました。しかし,実質上の貿易が欠乏品の名目の下で行われていたというのが,いかにも建前だけの日本の姿でした。
 欠乏所は,最初,浦方御用所を拡張しておかれていましたが,安政東海地震による大津波で,同心町に新しく建設されました。現在,欠乏所跡には「平野屋」が古民家で営業されていて,開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ,ステーキやコーヒーを味わうことができるそうです。
 さらに進むと,吉田松陰拘禁之跡という案内板がありました。現在は下田市立中央公民館のある場所ですが,当時は長命寺でした。ペリー艦隊に便乗して海外渡航の企てに失敗した吉田松陰と金子重輔は,柿崎村名主の平右衛門に自首し,この長命寺に一時拘禁されて取り調べを受け,平滑の獄に移されました。

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