しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:日本国内 > 滋賀

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【Summary】
Kyorinbo Temple, located in Azuchi, Shiga Prefecture, was founded in 605 by Prince Shōtoku and is known as the "Temple of Stones." Its name derives from the prince’s teachings in a forest, and its sacred site includes a cave housing the main deity and the "Sermon Rock." Believed to grant wishes after two visits, it is rarely open, with limited periods in spring, autumn weekends, and daily during the autumn foliage season, including evening light-ups from November 1 to December 15. Its moss-covered grounds and gardens attributed to Kobori Enshū evoke profound tranquility.

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 石山寺の帰りに教林坊に寄って,ライトアップされた紅葉を堪能しました。
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 教林坊は,605年(推古13年)に聖徳太子によって創建されたと伝わります。
 寺名の教林とは聖徳太子が林の中で教えを説いたことに由来し,境内には太子の説法岩という大きな岩と本尊を祀る霊窟が残され「石の寺」とよばれています。
 詠歌に「九十九折れたずねいるらん石の寺 ふたたび詣らな法の仏に」と詠われるように,どんな困難な願い事も2度詣でれば叶うという「再度詣りの観音さま」として信仰されています。
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ということなのですが,私はこの寺をまったく知りませんでした。
 また,通常は公開されておらず,4月から6月と10月は土日祝のみ公開,また,紅葉の時期11月1日から12月15日の毎日はお昼間に加えて,午後5時30分から午後7時までライトアップでも訪れることができるそうです。
 こんな隠れた名刹があるのです。

 場所は安土で,安土といえば織田信長ですが,教林坊は織田信長とは関わりがありません。それよりもむしろ,織田信長による戦国時代の騒乱に巻き込まれて衰亡してしまっていたようです。
 1585年(天正13年)に再興したものの,1975年(昭和50年)ごろから1995年(平成7年)までは無住の寺で荒廃していましたが,復興しました。
 境内の地面は至るところで苔生して古刹然としていて,小堀遠州作と伝わる庭には苔生した庭石,巨石が点在。この様を白洲正子は著書「かくれ里」で,紹介しています。 また,庭園に面した書院,土蔵,山門は江戸時代の茅葺きで,庭園と相まって侘びさびの風情を醸し出し,特に,書院からの眺めは「掛け軸庭園」とよばれ,四季折々に移り変わる山水画となります。
 訪れたのは日曜日だったからかもしれませんが,駐車場には多くの車が停まっていて,多くの人が訪れていました。それにしても,どこでこうした場所を知るのでしょう。

 紅葉真っ盛りの石山寺と美しくライトアップされた教林坊。最高の1日を過ごすことができました。

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【Summary】
On December 1, 2024, under clear skies, I visited Ishiyamadera and Kyōrinbō with a group of six, including a young girl. We traveled by van, and despite concerns about crowds due to autumn foliage, the trip was smooth. At Ishiyamadera, the autumn leaves were stunning, and the Taiga Drama Museum was much busier than in spring but still manageable. I also saw the "Genji Room," where Murasaki Shikibu began writing The Tale of Genji inspired by Lake Biwa’s moonlit scenery—something I couldn’t see during my spring visit due to repairs.

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 2024年12月1日快晴の1日,石山寺と教林坊に行きました。
 私にも,大切にしている思い出やこれまでの出会いがあります。そうした人たちが日帰り旅行をしようと誘ってくれたので,とても楽しみにしていました。当日は,総勢5人と年長さんの女の子ひとり。ワゴン車で出発しました。
 はじめの目的地であった石山寺は大河ドラマ「光る君へ」の舞台で,大河ドラマ館があります。私は番組がはじまった当初はさほど関心のなかった「光る君へ」だったのですが,それでも,ドラマが佳境に入るときっと混むだろうと,今年の春2024年2月27日から2月28日まで,1泊2日で琵琶湖1周の旅をしてきたときに,石山寺に行きました。そのときのことはすでに書いたのですが,今回は紅葉まっさかりということで,どのくらい混雑しているのだろうと,少し心配でした。

 新名神高速道路を走りましたが,日曜日だったのにまったく渋滞していませんでした。昔よりも道路がたくさんできたのも理由なのでしょうが,もうひとつは,夏が暑かったために紅葉の季節が遅くなり,すでに12月,ということもあったかもしれません。
 それでも,石山寺の駐車場には多くの車がいました。ただし,石山寺では,臨時の駐車場が確保されていて,しかも無料,ということで,まったく問題はありませんでした。
 山門からの石山寺の紅葉は予想以上にすばらしいものでした。
 大河ドラマ館は,私が春に来たときとは比べものにならないほどの人がいましたが,それでも,頭ばかりで何も見えない,というものとは違いました。また,春には展示されていなかったものも存在しました。

 石山寺で有名なのは,紫式部が「源氏物語」の構想をねったという「源氏の間」。
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 「源氏の間」は,石山寺の本堂の相の間にある部屋です。
 1004年(寛弘元年)8月15日,石山寺に参籠中だった紫式部は,中秋の名月が琵琶湖に映る美しい景色を見て,蟄居を余儀なくされた在原行平(光源氏のモデルのひとり)の須磨での日々を重ねあわせながら,「須磨」「明石」の両巻から書きはじめたのだといいます。
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 「源氏の間」には,紫式部の人形が存在しているのですが,これは2024年3月18日まで修理のため観覧不可だったということで,この春に来たときには見ることができなかったものです。

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【Summary】
Kumagawa-juku, a historic post town on the old Wakasa Highway, retains its Edo-period charm due to minimal redevelopment. The 1.1 km walk along the preserved traditional buildings, waterway, and cultural sites was serene. The area, popular for its quiet atmosphere, has no vacant houses but faces harsh winters.

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 2024年2月27日から2月28日まで1泊2日で琵琶湖1周の旅をしたことはすでに書きました。石山寺と三井寺に行き,そこから,朽木渓谷に入りました。このときの私の目的は,奥琵琶湖だったので,国道367号線から道なりに国道303号線を東に向かいました。
 帰宅してから,国道303号線を西に行くと,熊川宿に出ることを知りました。熊川宿は,江戸時代の面影残るすてきなところのように思えて,どうして寄らかなったのか,と後悔しました。そこで,今回,金沢市に行ったあと,奥能登に行こうか,熊川宿に行こうか,ずいぶんと迷った結果,結局,その両方に行くことができました。
 奥能登から東北自動車道,舞鶴若狭道と走って,若狭三方インターチェンジで降りて,国道27号線を南下,さらに国道303号線に入ると,ほどなく,熊川宿に到着しました。熊川宿の西の入り口にあった駐車場に車を停めました。

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 熊川宿は若狭と京都を結ぶ旧鯖街道の宿場でした。
 室町時代に沼田氏が山城を築いた地にあり,1589年に小浜城主・浅野長政が近江と若狭を結ぶ鯖街道(若狭街道)の宿場町として整備しました。
 近江との国境近く,小浜と今津のほぼ中間点に位置し,江戸時代を通して鯖街道随一の宿場町として繁栄しました。
 近代以降は鉄道の開通やモータリゼーションの影響で旧街道は衰退し,そのため逆に再開発されることなく古い町並みが残りました。
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 私は,西の端から東の端まで1.1キロメートルをのんびりと歩きました。
 ほとんど観光客がおらず,なかなかいい雰囲気でした。瓦葺き,真壁造または塗籠造の伝統的建築物が多数残っていて,旧街道に沿って前川という水量豊かな水路が流れ,石橋や「かわと」という水利施設など歴史的景観を見ることができました。
 途中に,若狭鯖街道熊川宿資料館があったので,入りました。ぱらぱらと歩いていた観光客は,こうした施設に入らないのが私には不思議です。館内の係の人からいろいろな話を聞くことができました。
 いつもこんなに静かなところなのだろうか,と思ったのですが,やはり,週末などは,けっこう多くの観光客がやってくるのだそうです。また,インバウンで混みあう京都にいや気がさして,京都に住む人がやってきたりするのだそうです。また,近江今津駅まで出れば,京都に近く,この地は,住むのに人気があって,空き家はないということです。
 それにしても,冬は雪が多く,寒そうだな,と思いました。

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 前回「相川のこいのぼり一斉遊泳」を見たのが2024年3月27日でした。それから10日余り過ぎた4月7日,桜が満開になったので,再び行ってみることにしました。「相川のこいのぼり一斉遊泳」の場所は,JR東海道線の垂井駅から北に5分ほど行ったところなので,今回は列車にしようと思いました。
 この日は日曜日。私は休日は避けることにしているのですが,その後あまり天気がよくないようだったので,やむを得ず,しかし,人が来る前に出かけようと,早朝6時過ぎに家を出ました。しかし,JRの車内は,早朝とはいえ,すでにずいぶん多くの人が乗っていて驚きました。休日しか休みのない人には,今年の桜はこの日がラストチャンスです。そこで,おそらく,そのほとんどの人は,在来線で京都へ行く人たちのようでした。
 JRの最悪なのは,名古屋駅から京都駅に在来線で行こうとすると,まず,大垣駅で乗り換え,次に米原駅で乗り換える必要があるものがほとんですが,その乗り換えが不便なことです。まず,大垣駅では,乗り換えるためには別のホームに陸橋を渡る必要があって,座席をとろうと我勝ちに競い合うので,大混乱をするのです。同じホームの両側に停めるくらいのことができないものなのでしょうか。米原駅も同様の状況となります。いやなら新幹線に乗れ,と言わんばかりです。

 私は,大垣駅の次の垂井駅で降りるのだから,まあ,そういう争いとは無縁で,ゆっくりと乗り換えましたが,それでも座れました。垂井駅で降りたのは私くらいのものでした。桜の季節。どこも混雑してるのですが,こういう穴場があるものです。観光客はほとんどおらず,地元の人たちが子供を連れてきて写真を撮っているくらいだったので,満足できました。前回とは違って,桜咲く中で,こいのぼりを見ることができたのですが,今回は,残念ながら風がなく,泳いでいるこいを見ることができず,干物のように垂れ下がっていました。
 目的は達成したので,これで帰ろうと思ったのですが,帰りは大垣駅まで,旧美濃路に沿って歩くことにしました。JR垂井駅はJR大垣駅の次なのですが,距離は4キロメートルほどもあり,歩くと1時間ほどかかりました。午前9時ころに大垣にたどり着いたのですが,すでに多くの観光客がいました。大垣でも満開の桜を堪能し,大垣名物の「水まんじゅう」を買って,午前中に帰宅しました。

 ところで,垂井町は「竹中半兵衛公の里」でもあり,JR垂井駅前に竹中半兵衛の像があります。
 私は,司馬遼太郎の「国盗り物語」で竹中半兵衛を知って,かっこいいなあと思いました。
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 豊臣秀吉の軍師としてその名も高い竹中半兵衛。1544年(天文13年)大御堂城主・竹中重元の子としてうまれました。若いころ,難攻不落といわれた稲葉山城を主従18名で奪取し「美濃に半兵衛あり」とその名が全国津々浦々に知れわたりました。
 豊臣秀吉が三顧の礼を以て半兵衛を訪ね「信長公に御味方なさる様」懇願したので,説得に応じ信長に仕え,命により豊臣秀吉に属し与力の謀臣となり,智恵袋として活躍。竹中半兵衛の名は天下に響きわたりました。
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 とはいえ,これまで,垂井町にどのような竹中半兵衛ゆかりの場所があるのか知らなかったので,家に帰って調べてみました。
 竹中氏陣屋跡,天保年間に旗本竹中氏が建てた道場で約100点の竹中氏ゆかりの品や当時の資料が展示されてている菁莪記念館(せいがきねんかん), 竹中家の菩提寺である禅憧寺(ぜんどうじ),竹中半兵衛公の居城であった菩提山城跡,竹中家が領主を務め、竹中半兵衛公屋敷跡があった旧西福村 などがあるということなので,また,時間があるときに行ってみたいと思っています。

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 松尾山,不破の関資料館にいくことができたので,あとは帰るだけだったのですが,そこで,思い出したことがありました。それは,2019年1月,中山道の垂井宿に行ったとき,その近くにあった美濃国国分寺跡に行かなかったことです。そのときのブログに次のように書きました。
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 垂井町というところは,旧中山道の宿場というだけでなく,それ以外にも歴史的にとてもおもしろいところです。そのひとつは,最初に書いたように,雨宮大社があることです。そして,もうひとつは,竹中半兵衛重治の生まれたところということです。さらにまた,奈良時代に国分寺がおかれていたところでもあり,今も美濃国分寺跡とその北に現在の国分寺が整備されています。
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 そこで,今回,帰る途中で行ってみることにしました。

 養老律令に基づいて設置された日本の地方行政区分を律令国といい,明治時代初期まで日本の地理的区分の基本単位でした。令制国の行政機関を国衙といい,これは県庁のようなもの。そして,国衙を中心とする都市域を国府といい,いわば現在の官庁街です。国府には,国衙のほかに,国分寺,国分尼寺,総社が置かれました。
 国分寺へ行く途中に,美濃国府跡があったので,まず,寄ってみました。
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 1957年(昭和32年)に安立寺付近が美濃国府跡として町の史跡となりましたが,その後の調査で,そこから少し離れた場所に,東西約67メートル,南北は最大約74メートルで,国府の中心である国衙施設として,正殿,正殿前の細長い建物の西脇殿,東脇殿の3棟の建物跡が発見され,2006年(平成18年)に国の史跡に指定されたものが,この美濃国府跡です。
 調査によって,8世紀前半に創設され,2度の建て替えを経て,10世紀中頃には廃絶したということがわかりました。また,北の部分には南宮御旅神社があり,これが美濃国総社でした。
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 美濃国府跡から東に4キロメートルほどいったところに美濃国分寺跡がありました。
 国分寺は,律令制度の崩壊と共に平安の中期以後次第に機能を失い、鎌倉・室町時代を経て廃絶しました。その後は顧みる者もない有様でしたが,国分寺の本尊であった薬師如来は土中に埋もれたままとなっていました。1615年(元和元年)真教上人が土中の本尊を発見し,美濃国分寺跡の北側に草ぶきの小堂を建て,その像を安置し,現在の国分寺が作られました。
 美濃国分寺は,1968年(昭和43年)から発掘調査がはじまり,伽藍全体が史跡公園として整備されました。非常に広いもので,これだけの場所が保存されているのが驚きですが,これは,垂井町の市街地から離れた田んぼばかりの場所だったからでしょう。美濃国府跡に隣接して,歴史民俗資料館があって,国分寺跡から発掘された貴重な出土品と判明した寺跡の全貌が公開されていました。
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 また,国分尼寺は,美濃国分寺跡の西2キロメートルほど行った場所にあったようですが,こちらは石碑があるだけです。なお,美濃国では,一宮は以前訪れたことがある南宮大社,二宮が伊富岐神社(いぶきじんじゃ),三宮が岐阜市の伊奈波神社と養老町の多岐神社だそうですが,行ったことはありません。

 垂井町は,四季折々の美しい自然と風光明媚な風景でも知られていて,「相川こいのぼり一斉遊泳」は春の風物詩です。私は,この「相川こいのぼり一斉遊泳」を知らなかったのですが,車で走っている途中で見つけて,折からの強風で,多くのこいのぼりが旗めいていて感動しました。
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 毎年3月中旬から5月初旬にかけて開催される「相川こいのぼり一斉遊泳」の歴史は古く,2024年で38回目を迎えます。
 このイベントでは,相川に約350匹ものこいのぼりが一斉に泳ぎ,その美しい様子はまるで川面が彩られた絵画のようです。青空に映えるこいのぼりの色と風に舞う姿は,訪れる人々の心を和ませます。
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 関ヶ原に行ったもうひとつの目的は,不破の関にある博物館に行くことでした。
 不破の関とは異なりますが。逢坂の関というものがありました。これを知ったのは子供のころに遊んだ「小倉百人一首」でした。
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  これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関
    蝉丸
  名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで 来るよしもがな
    三条右大臣
  夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
    清少納言
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 このころ学校で,江戸時代の5街道について学んでいたので,箱根の関とか新居の関について知りました。そこで「小倉百人一首」で出てきた逢坂の関というのは何なのか,と思いました。逢坂の関は,それより古い時代のものだと聞いて,そんな昔から関所があったこと,そして,どうして江戸時代には逢坂の関がなくなっていたのか,など,多くの疑問が湧いてきました。
 このことに限らず,私は,小学校のころ,学校で何かを学ぶと,それに関連していろんな疑問が湧いてくるのに,学校ではその疑問のほとんどを答えてくれないのが不満でした。

 さて,不破の関ですが,このあたりはよく通るので,場所は知っていました。そして,現在は,不破の関があったところに博物館があって,大きな道路案内があるのですが,これまで行ったことがなかったのです。一度は行ってみようと思いつつもかなわなかったので,今回,意識して行ってみたというわけです。
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 不破の関は,古代の東山道の関所でした。810年(弘仁元年)には,すでに逢坂の関,鈴鹿の関と併せて三関のひとつとなっていたそうです。
 672年の壬申の乱で,大海人皇子(後の天武天皇)が美濃国出身の舎人である村国連男依に命じ「不破道」を塞ぎ,これが大きな勝因となったことから,壬申の乱以後,律令体制のもとで都の警護のために,不破の関が整備されました。
 789年(延暦8年)に三関停廃の詔が出され,廃止されました。
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 1982年(昭和57年)に開館した不破関資料館は,国道21号線を関ヶ原に向かって進んでいくと冠木門があって,その門をくぐった先にあります。
 館内はさほど広くはないのですが,関所跡から出土した貴重な土器類,壬申の乱に関する解説パネル,関所全景を復元したジオラマなどが展示されていて,なかなか興味深いものがありました。長年の疑問が解決したように思えて,満足しました。
 昔の人は今よりもっと自由に生きていた,と子供のころは思っていたのですが,さにあらず。今よりずっと窮屈な社会だったのだなあ,と,歴史の資料館を訪れるたびに,ため息がでます。

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 2024年3月27日。前日までの雨が上がり,いい天気になったので,思い立って,日帰りで関ヶ原に行ってみました。今回の目的のひとつは,松尾山に登るということでした。
 去る2020年8月18日に関ヶ原の古戦場巡りをしたのですが,その折に,小早川秀秋が陣を敷いた松尾山の登山口を見つけました。しかし,猛暑の8月,さすがに登頂するのをためらって,また後日,ということで帰宅しました。そのときのことを書いたブログに
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 松尾山の登山口からは,小早川秀秋が陣を置いた山頂まで40分ほどの登山道が続いていました。松尾山城は相当な山城で,登山道には土塁や曲輪が残っているということです。
 さすがに,この猛暑では,笹尾山すら登る気のなかった私は,当然,40分もの山道を登るわけもなく,今回はここに登るのも断念して,また,涼しくなったら来てみようと思って関ヶ原を後にしました。
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とあって,それをふと思い出したからです。
 西軍だった小早川秀秋は,この松尾山城から戦況を見守ったすえ,結局裏切り,東軍の一員としてその勝利に貢献しました。徳川家康が江戸に幕府を開くことができたのは,小早川秀秋のおかげともいえるわけで,いわば,今日の日本を作った場所です。ただし,歴史は,こうした「裏切者」が,そののち,幸せになったことはありません。裏切るという行為でその人物に信用がなくなるからです。
 裏切り西軍を瓦解させたことが卑怯な行為として世間の嘲笑を受けた小早川秀秋は,関ヶ原の戦いののち,備前,美作,備中国東半にまたがる岡山に加増,移封されましたが,1602年(慶長7年)に,わずか22歳で死去し,小早川家は無嗣断絶により改易されてしまいました。

 今日は登るぞ,と決心してやってきたので,覚悟して登りはじめたのですが,これがまあ,思ったよりきついものでした。2022年4月7日,明智光秀が本能寺の変を起こす前日に必勝を祈願して登ったという京都の愛宕山に,これもまた,今登らねばその機会がないと意を決して登ったときかなりへばって,もう二度と山には登らないと決めたのに,この様です。しかし,松尾山城も,今登らないときっともう無理だと思ったので,なんとか足を先に動かして,ついに標高293メートルの山頂に到達しました。
 戦国時代の史跡は,多くの場合標高が400メートルほどの山城です。当時の人が,防具をつけて,草鞋を履いて,こんな山に登っていたのが,私には信じられません。それに,登るのだけでも大変なのに,そこに城を築いたり戦をしたりと,どうしてそんなことができるのだろうか,と考えてしまいます。そもそも,戦なんて,トイレはとどうしていたのだろう,とか,風呂はどうしていたのだろう,という疑問が私には先にあって,こりゃ同じ人間ではないなあ,と思ってしまうわけです。本当にどうしていたのだろう?

 さて,松尾山の山頂からの景色はすばらしいものでした。
 徳川家康の陣も,石田三成の陣も一望です。つまり,関ヶ原の戦いをライブ中継するなら,この場所にカメラを据えるのが最適,そんなところでした。そんな,まさに関ヶ原の戦いの最重要ポイント,特等席に若輩の小早川秀秋が布陣できたのか? というのが,私にはもっとも関心のあるところでした。
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 松尾山には,南北朝の時代から山城が築かれていたとされ,関ヶ原の戦いの当初,松尾山城には西軍の伊藤盛正が布陣していました。伊藤盛正の居城であった大垣城を,石田三成が本陣にしたいという要請を受けて明け渡し,松尾山城に移動し本戦に備えていたのです。
 そして,小早川秀秋が,関ヶ原決戦の前日に大軍を率いて伊藤盛正の陣を襲撃し,松尾山城を奪取し,陣を敷いたのです。
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とあります。
 そもそも,西軍であるはずの小早川秀秋が,どうして,前日に同じ西軍の伊藤守正を襲撃して重要ポイントである松尾山城を奪うことができたのか,この時点ですでに裏切りではないのか,と思えます。それとも,石田三成にとれば,味方だと思っていた小早川秀秋なら,伊藤盛正よりいいか,と思ったのか,あるいは,徳川家康にとれば,小早川秀秋が裏切るという工作をしてあるから,小早川秀秋が松尾山城に布陣すれば好都合だと思ったのか,などなど,私は,こうした疑問を抱くのですが,調べても
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 小早川秀秋は,当初,1600年(慶長5年)7月18日から8月1日の伏見城の戦いでは西軍として参戦していた。その後は近江や伊勢で鷹狩りなどをしてひとり戦線を離れていたが,突如として決戦の前日にあたる9月14日に,1万5,000の軍勢を率いて,関ヶ原の南西にある松尾山城に,伊藤盛正を追い出して入城した。
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とあるだけで,そんなことが可能であった理由が詳しく書かれたものがありません。

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 たびたび書いていますが,「月刊天文ガイド」に触発されて,子供のころは天文に夢中でした。とはいえ,何をしたというわけでもなく,雑誌に書いてあったことがすべて憧れだったにすぎません。
 当時は,天体望遠鏡といっても,手に入るのは子供向けのおもちゃのようなものばかりで,本格的なアマチュア天文愛好家は,自作をしていました。そこで,反射鏡を磨くということに憧れていたわけです。
 私は憧れていただけで,実際には何もしなかったのですが,本だけは買いました。その本の名前は「反射望遠鏡の作り方」。内容は,望遠鏡の作り方とはいっても,反射鏡の作り方がほぼすべてを占めていた本でした。そして,著者は木辺茂麿という人でした。変わった名前だなあ,と思いました。
 このように,当時は,アマチュアの天文愛好家には,それぞれの分野に神様のような大人がいたのですが,そうした人たちが実際はどういう人なのだろうと,ずいぶん謎でした。それが55年も過ぎて,やっとわかってきたのです。ということで,私にとっての子供のころの伏線回収,今回は,木辺茂麿さんがどういう人だったか,です。

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 1912年(明治45年)に木辺派本山錦織寺に生まれ,1990年(平成2年)に亡くなった木辺成麿さんは,京都帝国大学文学部を卒業し,1969年に真宗木辺派21代門主に就任した浄土真宗の僧侶・木辺宣慈 (きべせんじ)さんでした。また,光学技術者でもあり,レンズ磨きの名人として知られ「レンズ和尚」とよばれました。
 子供のころ,京都帝国大学花山天文台初代台長の山本一清博士がはじめた天文同好会に参加し,教えを受けました。天文学者になりたかったのですが,お寺を継がなくてはならず,許されませんでした。住職修業の傍ら,戦争中陸軍航空技術研究所の嘱託となり,後に滋賀県出身の天文学者・中村要さんに出会ったことがきっかけで,日本でも数少ない天体望遠鏡の反射鏡磨きの大家になりました。
 戦前から1970年代ころまでの口径30センチメートル以上の西村製作所の大口径反射鏡には木辺成麿研磨のものが多く使われていて,現在でも「木辺鏡」として天文愛好家にとっては垂涎の鏡となっています。
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 そこで,今回,琵琶湖1周の旅の途中で,前回書いた山本天文台に続いて,錦織寺にも行ってみようと思っていました。木辺茂麿さんもまた,山本一清さんと深いつながりがあって,2022年7月14日に放送されたNHKBSP「コズミックフロント」の「アマチュア天文学の父・山本一清」にも描かれています。
 錦織寺は,思った以上に大きくて立派な寺で驚きました。木辺茂麿さんは,亡くなって34年にもなり,もう,お寺では,歴史上の人物のひとりです。

 木辺茂麿さんは,京都大学花山天文台のために多くの鏡を作成しました。それらは
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 1 太陽館の口径70センチメートルシーロスタットの2枚の平面鏡
 2 太陽館の50センチメートル凹面鏡
 3 ザートリウス(SARTORIUS)社の口径18センチメートル屈折望遠鏡に同架した口径12.5センチメートル屈折望遠鏡
 4 口径60センチメートルシュミット鏡
 5 現在飛騨天文台にある口径60センチメートル反射望遠鏡
  ・・・・・・
ということです。
 口径60センチメートル反射望遠鏡は,最初は花山天文台に設置され,月面地図つくりの国際共同観測に活躍しました。また,1968年の飛騨天文台開設に合わせて飛騨に移設され,飛騨天文台最初の望遠鏡として、月・惑星観測に活躍しました。
 現在は,突発天体観測用としてよみがえり,再び活躍の場が与えられているようで,この望遠鏡で観測されたガンマ線バーストの可視測光データが雑誌「Nature」の論文に発表されたということです。

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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 私は,子供のころ,創刊間もない「月刊天文ガイド」でアマチュアの天文に関する知識を得ていました。当時の「月刊天文ガイド」は,今とは違って「子供の科学」を天文に特化した子供向けの雑誌だったので,東亜天文学会という,本格的なアマチュア天文愛好家を対象としたものとは異なっていました。そこで,「月刊天文ガイド」に東亜天文学会が登場することもなく,したがって,その存在すら知りませんでした。私より10歳から20歳ほど上の人たちがアマチュア天文愛好家の先駆けとして東亜天文学会の会員の中枢だったわけで,そのような先人たちとは年代が少し離れていたからです。
 風のうわさで,東亜天文学会という名前を聞き,何か敷居の高い高度なことをしている集まりのように思えて,それが何なのか? という好奇心が芽生えましたが,私には,その存在は謎でした。

 その時代,本格的なアマチュア天文愛好家のリーダー的な役割を果たしたのが,京都帝国大学教授の山本一清(いっせい)さんでした。山本一清さんがアマチュアのためにと発足したのが東亜天文学会であり,機関誌「天界」でした。その後,さまざまな曲折があって,山本一清さんは京都帝国大学教授を退役し,活動の場として建てたのが山本天文台であり,インターネットなどがなかった時代に,その地から新彗星などの情報を知らせたのが山本速報でした。
 そのようなわけで,私は,東亜天文学会には縁もゆかりもなかったのですが,噂で聞いていた山本天文台というものが,いったい何であったのか,どこにあったのか,謎解きを試みようとしました。しかし,何分50年も前のことで,調べてもなかなか情報が出てきませんでした。

 ネットで何かないかとずいぶん探していたら,やっと,次のようなブログを見つけました。
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 「京都新聞」を読んでいると,見たことのない不思議な建物のカラー写真に目がとまりました。写真につけられたキャプションには「山本天文台第二観測室」とありました。
 山本天文台? 大津市?  「星空の開拓者たち」というタイトルのその記事によると, 京都帝国大学の花山天文台の初代台長・山本一清さんは, 大学退官後,見晴らしのよい大津市上田上桐生辻の自宅を改築し,1942年に開いたのがこの天文台だとあります。当時,東洋一の大きさである英国カルバー製46センチメートルの反射望遠鏡を置くなど,施設も本格的でした。
 「官僚育成の特色があった」東京帝国大学に対し,京都帝国大学は 「高い知識をもつアマチュア天文学家をネットワーク化」することで広範なデータ収集するために,その育成に力を注ぎ,私設のこの天文台も「アマチュア天文家の根拠地」にすべく構想されたとのことです。
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 私の好奇心は,山本天文台がどこにあったのか,ということが満たされればよかっただけなのですが,大津市上田上桐生辻という場所だといっても,現在の地名でなかったし,正確な場所がわかりませんでした。載っていた写真と,当時訪ねたという人が正心寺の近くだったと書いていた別の情報だけを手掛かりに,GoogleMapsのストレートビューで探して,何とかその場所を見つけ出しました。大津市上田上桐生辻は大津市桐生という地名に変わっていたし,正心寺というのは間違いで正休寺でした。
 で,今回,琵琶湖一周の旅のついでに行ってみました。GoogleMapsで見る限り,そのあたりは,道路が狭く,車を停める場所というか,車が通れる道すら危うかったのですが,桐生キャンプ場の駐車場を見つけ出したので,そこに車を停めて,30分ほど歩いて,目的の場所に到着しました。
 現在,山本天文台は跡形すらなくなっていて,そこにあったのは,おそらく,山本一清さんのご子息の家だと思うのですが,門だけが写真で見たままでした。その場所は,いまでも結構のどかな地だから,当時なら満天の星を見ることができたことでしょう。
 なお,山本天文台にあった英国カルバー製46センチメートルの反射望遠鏡は,現在,四国の天体望遠鏡博物館にあります。

 私の謎解きはこれだけのことで,ゆかりの人に話を聞いたとか,資料を見せてもらったとかいうものではないのですが,私には,子供のころの伏線が回収できて,十分満足でした。
 山本一清さんのことは,2022年7月14日に放送されたNHKBSP「コズミックフロント」で「アマチュア天文学の父・山本一清」として放送されました。植物学界の牧野富太郎博士が朝の連続テレビ小説「らんまん」の主人公だったのなら,天文学界の山本一清博士もその波乱万丈の人生は主人公がやれそうです。しかし,すでに「まんてん」という題名の連続テレビ小説はあるし,はたして,どんな題名がいいか?

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 私が小学校の高学年のときに習った国語の教科書に,瀬田に住む子の作文が載っていて,そこに
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 私が住む町は「瀬田の唐橋唐金擬宝珠 水に映るは膳所の城」で有名なところです。
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とありました。
 私は,小学生のころは,4月のはじめに国語の教科書をもらったらすぐに全部読んでしまうような,今とは違ってとてもまじめな子供でした。やらされていたのではなく,自発的にやっていたことだったから,興味のあったことは,今になってもしっかりと覚えています。そのなかで,強烈な印象として残っているのが,ここに書いた瀬田の唐橋の小学生の作文と,アメリカ・カリフォルニア州のセコイア国立公園で車が通るために穴の開いたセコイアの木,そして,「池谷薫さん新彗星発見」という新聞記事を読む教材なのです。
 アメリカ・カリフォルニア州のセコイア国立公園は,長年の夢がかない,実際に現地に行くことができました。また,池谷薫さんはお会いしたことはないのですが,今住んでいる静岡県の森町には行ってみました。そして,今回,瀬田の唐橋を訪れることができました。ということで,これもまた,私の伏線回収の旅のひとつなのです。

 瀬田の唐橋は,瀬田川に架かる橋です。瀬田川というのは琵琶湖の南岸から流れ出す川で,今は,それよりも北に,近江大橋,さらに,琵琶湖大橋がありますが,江戸時代は,東海道・中山道方面から京都へ向かうには,近江八景のひとつ「矢橋の帰帆」で知られたように,草津市の琵琶湖畔・矢橋から白い帆をかけて船で大津の石場港へ至るか,あるいは,瀬田川を渡る必要がありました。そこで,1889年(明治22年)まで,瀬田川に架かる唯一の橋であった瀬田の唐橋は,交通の要衝であり京都防衛上の重要地でした。
 瀬田の唐橋は,京都の宇治橋,山崎橋とならんで日本三大橋のひとつであり,「近江八景」のひとつ瀬田の夕照として知られています。
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  露時雨 もる山遠く 過ぎ来つつ 夕日のわたる 勢田の長橋
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 現在の瀬田の唐橋は,大橋が172メートル,小橋が52メートルで,全長224メートルありますが,かつて架けられていた橋は,丸木舟を横に何艘も並べフジの木を利用しその蔓を絡めた橋で「搦橋」(からみばし)と称され,これが「から橋」に転訛したことと中国や朝鮮半島の様式を模した唐様が取り入れられたことで,唐橋となったといわれます。

 瀬田の唐橋をめざして車で大津から南に走っていくと,左手にあったのが膳所城址の公園でした。
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 徳川家康は,1601年(慶長6年)に東海道の押さえとして,藤堂高虎に,大津城を排して膳所の地にに城を築かせ,大津城主だった戸田一西を入城させ,膳所藩が成立しました。最終的には,本多俊次が入城し,13代220年の間,本多氏の居城となり明治維新を迎えました。
 江戸時代の膳所城は水城で,長野県の高島城,島根県の松江城とともに日本三大湖城のひとつであり,大津城,坂本城,瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」のひとつともいわれ,4重4階の天守がありましたが,明治期に廃城となり,解体されました。
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 この場所は「近江八景」の粟津の晴嵐といわれる風光明媚なところです。
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  雲払ふ 嵐につれて 百船も 千船も浪の 粟津に寄する
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 さらに行くと,めざす瀬田の唐橋が見えてきました。もっと観光地なのかと思っていたのですが,日常の交通量の多い橋にすぎず,なかなか駐車場も見つかりませんでした。ずいぶん遠いところに車を停めるしかありませんでしたが,何とか歩いて瀬田の唐橋まで行って,橋を渡ってみることができました。
 また,この橋を見ながら食事でも,と思っていたのですが,そうした場所もなかなか見つから,結局,近くにあったモールのフードコートで焼きそばを食べることになりました。
 ということで,単なる侘しい経験でしたが,私は,念願がかない,大満足でした。

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粟津瀬田

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 一度は行ってみたかった金ケ崎がどういうところか納得して,次に私が行きたかったのは瀬田の唐橋でした。
 琵琶湖の西岸は,湖岸に沿っても道路がありますが,国道161号線はバイパス化していて山の中を走っているので,時間は稼げますが景色は物足りません。しかし,近江高島を過ぎると,湖岸を走るようになります。そして,湖中に朱塗りの大鳥居を見ることができます。また,国道161号線をはさんで社殿が鎮座します。これが「白鬚さん」「明神さん」の名で親しまれ,また,近江の厳島ともよばれる創建以来2,000余年の歴史を誇る近江最古の大社・白髭神社で,祭神は猿田彦(さるたひこ)です。猿田彦は,天孫降臨の際に天照に遣わされた邇邇芸(ににぎ)を道案内した国津神です。

 白鬚神社を通り過ぎさらに進むと,右手に雪を被った比良の山々が見えます。これが「近江八景」の比良の暮雪です。
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  雪はるゝ 比良の高根の 夕くれは 花のさかりに すくるころかな
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 国道161号線は,再び,山の中を走るようになって,琵琶湖が望めなくなりますが,琵琶湖畔は,このあたりに,雄琴温泉,そして,堅田の浮御堂があるはずです。堅田の浮御堂は「近江八景」の堅田の落雁として位置づけられているところです。
 国道161号線をさらに進んで,比叡山延暦寺の玄関口である坂本に着きました。この場所は「近江八景」の唐崎の夜雨として描かれているところです。
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  夜の雨に 音をゆづりて夕風を よそに名たつる から崎のまつ
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 ここもまた,明智光秀ゆかりの西教寺などがあって,2022年6月に来たことがあるのですが,そのころに比べて,ずいぶんと観光客が増えました。

 今回は,この地にある慈眼堂に南光坊天海の廟所があるということで興味をもったので寄ってみることにしましたが,近くに駐車場がなく,車を停めるのに苦労しました。
 以前,東京の上野に行ったときにも書いたのですが,南光坊天海は
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 徳川家康の側近として,江戸幕府初期の政策に深く関与した南光坊天海は,1643年(寛永20年)に100歳以上の長命で亡くなった天台宗の大僧正です。
 生まれは,将軍足利義澄落胤説やら,姿を変えて生き残った明智光秀やらという説があり,生年も前半生もよくわかりませんが,一説では,福島県会津美里町の龍興寺にて出家した後,天台宗を学び,比叡山延暦寺や園城寺,興福寺などで学を深めたといいます。
 1588年(天正16年)に現在の川越市にあった無量寿寺北院に移り,天海を名乗ったあたりから,足跡が明瞭となっています。
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ということです。 
 また,会津美里町観光協会のホームページには
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 南光坊天海は,陸奥大沼郡高田(現在の会津美里町高田)の出身で,父はこの地の土豪・舟木景光,母は会津領主葦名氏の出自。幼いころに天台宗の龍興寺で得度したのち、各地を遍歴して修学を重ねました。
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とあります。会津美里町は,南光坊天海をこの町の観光の目玉にしようというわけです。会津美里町は,私が先日乗った只見線の会津高田駅にあります。
 南光坊天海に限らず,歴史上の偉人が,私が訪れた日本各地のさまざまなところで,糸がもつれるように関係しているのがとても不思議な感じがします。
 慈眼堂の建立は「天台座主記」などによると,1646年(正保3年)ころの建立であると考えられます。 慈眼堂は,南光坊天海(慈眼大師)の廟所であり,木造慈眼大師坐像を祀っています。南光坊天海は,1607年(慶長12年)比叡山南光坊に住し,織田信長の焼き討ちによ り荒廃した延暦寺の再興に尽力しました。また,日光東照宮・輪王寺や東叡山寛永寺などを 創建するなど,多くの業績を残しました。

 坂本は,穴太衆(あのうしゅう)という,古墳築造などを行っていた石工の末裔で安土桃山時代に活躍した寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団の住んでいた場所です。
 穴太衆は,安土城の石垣を施工したことで,織田信長や豊臣秀吉によって城郭の石垣構築に携わるようになり,江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣を手掛けました。先日行った会津若松城の古い石垣もまた,穴太衆が作ったという説明を聞いたことがあって,これもまた,私が訪れた日本各地のさまざまなところで,糸がもつれるように関係していて,とても不思議な感じがします。
 現代でも,坂本の町に多数立ち並ぶ「里坊」(さとぼう)とよばれる延暦寺の末端の寺院群は,穴太衆の組んだ石垣で囲まれ,町並みに特徴を与えています。

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比良唐崎


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 この旅は石山寺と三井寺へ行く以外は出たとこ勝負だったのですが,これまで,一度は行きたいと思いながら行く機会がなかった琵琶湖周辺の場所にできるだけたくさん行きたいものだと思っていました。そこで,朽木谷に行き,奥琵琶湖の湖畔に宿泊しました。奥琵琶湖パークウェイが通行止めだったために偶然行った菅浦の湖岸集落と民宿でみつけたポスターで知ったメタセコイアの並木道は望外の収穫でした。
 ここまで来たからには,さらに「金ケ崎の退(の)き口」まで足を延ばしてみようと思うようになったのですが,結構遠そうだったので,どうしようか迷いました。しかし,こんな機会はこれからあるかどうかわからないから,行ってみることにしました。いったいどこなのだろう? と調べてみると,それは敦賀市でした。

 メタセコイアの並木道を出て,琵琶湖を背後に国道161号線を北上しました。天気が悪いと雪が積もり,険しい道になるのですが,幸い,この日は快晴で,すぐに敦賀市に着きました。金ヶ崎城址は敦賀市の港の近くで,私が想像していたような山の中ではなく,市街地にあるのに驚きました。
 広い駐車場は,私の車以外に車が駐車しておらず,閑散としていました。ここに車を停めて,小高い山を登っていきました。そこにあったのは,金ケ崎宮という神社で,傍らに道があり,それをさらに上ると,金ケ崎城址,一の門跡,曲輪跡,堀切,虎口などを見ることができました。そこからの眺めがよく,敦賀港が一望できました。桜の名所としても知られているそうなので,春になると,多くの人で賑わうことでしょう。
 こうして,今回もまた,子供のころから謎だった場所の伏線回収ができました。

 ここで,時間が飛びます。
 この旅は,その後,さらに,琵琶湖周辺を巡ることになるのですが,それは次回にすることにして,今日は,浅井家にちなんで,最後に行った小谷城戦国歴史資料館について書くことにします。
 浅井家の本拠であった小谷城の麓に小谷城戦国歴史資料館があります。小谷城はすでに2度行ったことがあるのですが,いずれも,小谷城戦国歴史資料館は休館で,入ることができませんでした。今回こそは行ってみようと思っていたのですが,調べてみると,何と火曜日が休館ということでした。そこで,昨日行くのはやめて,この日水曜日に行くことにしたのです。3度目の正直となりました。
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 小谷城戦国歴史資料館は,戦国時代に北近江を支配した浅井氏とその居城である小谷城をメインテーマにしています。
 第1展示室は浅井氏三代にスポットを当て,浅井長政,浅井長政夫人のお市の方,2代浅井久政らゆかりの人物の肖像画を展示するとともに,小谷城跡から出土した遺物を紹介しています。
 第2展示室は小谷城をテーマに,小谷城址保勝会所蔵の絵図や曲輪復元イラストからは小谷城の詳細な構造を知ることができます。
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 という,だだっ広い駐車場に派手な外見とは裏腹のこじんまりとした博物館でした。
 なお,小谷城戦国歴史資料館の運営母体はどこにも書かれれていないので民営かと思ったのですが,長浜市です。

 織田信長を裏切ったことで,その後,浅井家は滅ぼされてしまいますが,浅井長政と正室の市との間に生まれた3人の娘,長女の茶々は豊臣秀吉,二女の初は京極高次,そして,三女の江は徳川秀忠の妻となりました。こうして,浅井家の血は徳川将軍家につながるという数奇なことになるのです。歴史の不思議さを感じます。
 長浜市浅井支所前には,浅井長政,市,そして,浅井三姉妹と嫡男の万福丸,総勢6人の像があります。また,浅井の町中の徳勝寺には浅井三代の墓があります。徳勝寺は,応永年間(1394から1428)に通峰真宗和尚(つうほうしんしゅうおしょう)を開基として創立され,浅井氏の菩提寺となりました。

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 奥琵琶湖の西湖岸道路は風車街道と名づけられています。
 このあたり,マキノサニービーチ,オートキャンプ場,海水浴場があって「琵琶湖で一番美しいところ」という歌い文句で観光客を集めています。奥琵琶湖は水がきれいで淡水なので,海で泳ぐようなベタつきもなく,人気があります。おそらく,夏場はすごい人でしょう。
 私は,人が少ないところ,または,人気があってもシーズンオフの場所を探しては旅をしています。ここもまた,この時期は閑散としていました。これがいい。
 さらに,晴れ男の私です。朽木谷を通ったときは雪混じりであったけれど,奥琵琶湖まで来ると回復して,すばらしい天気になりました。

 今回1泊した民宿は,琵琶湖畔にあり,オートキャンプ場と接していました。私は異常なほどの早起きなので,今回も,夜明け前に起床しました。朝食まで時間があったので,海岸を散歩することにしました。
 これがまた,ものすごく美しく,すばらしい景色でした。やがて,日の出を迎え,太陽の光が湖面に光り,最高でした。私は寒さには強いので大丈夫ですが,放射冷却ですごく寒い朝でした。
 シーズンオフのキャンプ場に,ただ1組の年配の夫婦が,この寒さの中でキャンプをしていました。
 私は,アメリカでキャンプをしたこともあり,アメリカやオーストラリアのオートキャンプ場を知っていて,それに比べて,日本のオートキャンプ場はあまりに貧弱で魅力がないか,または,キャンプというのは名ばかりで,至れり尽くせりだったりするから,日本でオートキャンプをしたり,キャンピングカーを買うことにまったく興味がありません。むしろ,他の国の様子も知らず,狭い日本でこうしたことに浪費している人を哀れんでしまうのですが,ここでもまた,どうしてこんな時期に? こんなところで? とむしろ気の毒に思ってしまいました。
 彼らは,せっかくの美しい夜明けの風景を見るでもなく,朝食の準備をはじめました。近くにしゃれたカフェがあるから,何もこんなところで自炊しなくても,とも思いました。まあ,人それぞれですが…。

 時間になったので,民宿に戻り,朝食を食べました。
 食堂にポスターが貼ってありました。それは,メタセコイアの並木道でした。そういえば,このあたりにそんなところがあるということだけは,いつか聞いたことがありましたが,すっかり忘れていました。せっかく来たのだから行ってみようと,正確な場所をGoogleMapsで検索して,民宿をチェックアウトしたのち,車を走らせました。
 それがまあ,見事な風景で,想像以上でした。日本のこうしたところは,実物は写真以下の場合が多く,スケールも小さいことがほとんどですが,ここは違いました。また,この日は平日でもあり,早朝でもあり,シーズンオフでもあったため,ほとんどだれもいなかったことが幸いしました。おそらく,ここもまた,ハイシーズンだとすごい人になることでしょう。
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 農業公園マキノピックランドを縦貫する県道小荒路牧野沢線には,延長約2.4キロメートルにわたりメタセコイアが約500本植えられ,遠景となる野坂山地の山々とも調和し,マキノ高原へのアプローチ道として,高原らしい景観を形成しています。
 この並木は,1981年(昭和56年)に,学童農園「マキノ土に学ぶ里」整備事業の一環としてマキノ町果樹生産組合が植えたのがはじまりで,春の芽吹き,新緑,夏の深緑,秋の紅葉,冬の裸樹,雪花と四季折々に訪れる人々を魅了します。
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 これもまた,このときはまったく知らなかったのですが,2022年に放送されたNHKのプレミアムドラマ「グレースの履歴」のオープニングで,この並木道を赤いスポーツカーで走るシーンがあります。 
 「グレースの履歴」は日本の美しい風景を舞台に,夫のこころの旅路を妻の愛車でたどるロードムービーで
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 妻を突然の事故で亡くした希久夫に残されたものは,妻の愛車「グレース」。日常から遠く離れた場所ばかりカーナビ履歴に残されていたことを知り,妻の不貞を疑った希久夫は謎を解くため履歴をたどる旅に出ます。往年の名女優グレース・ケリーと伝説のエンジニアのエピソードを乗せて,人々に引き継がれていく名車の存在は,希久夫の人生に意外な展開を及ぼしていく。
 原作,脚本,演出は「京都人の密かな愉しみ」などで日本人の心を細やかに描きだす源孝志です。
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ということで,私は,今回の旅で,この地を訪れたことでこのドラマを知り,家に帰ってから,NHKオンディマンドで夢中になって見てしまいました。「グレースの履歴」で写されたのはもっと青葉が茂っている時期ですが,今回のような,枯れた姿の方がきれいだな,と思いました。

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 国道367号線は,旧秀隣寺足利庭園と朽木陣屋を過ぎると終わりを告げて,国道303にぶつかります。国道303号線を東(右)に走れば琵琶湖へ,西(左)に走れば鯖街道で小浜市街に通じています。このときの私は,朽木谷というところがわかればそれでよかったのですっかり満足して,右折して琵琶湖を目指しました。しかし,あとで調べてみると,左折してさらに行くと,中山道奈良井宿のような,鯖街道の熊川宿というすばらしいところがあったのです。惜しいことをしました。
 こうして,また,行きたいところが増えていくのです。

 私は国道303号線を東に進んで,奥琵琶湖まで来ました。このあたりの地名を高島町マキノといいます。今回は,マキノの琵琶湖畔にある湖魚民宿「吉平」というところが予約してありました。安価で,おいしい夕食を食べてのんびりできそうな宿泊先を探して見つけたものでした。
 予約してあった民宿までやって来たのですが,まだ時間が早かったので,そのまま通りすぎて,琵琶湖の北岸を少し走っていくことにしました。
 奥琵琶湖というところは,理由なくときめくのです。奥琵琶湖は琵琶湖畔に沿って進んでいくと奥琵琶湖パークウェイに入ります。あとで知ったのですが,でないと,周回できなかったのです。しかし,冬の時期は積雪のため奥琵琶湖パークウェイは通行止めでしたが,湖畔に沿ってさらに道路が続いていたので,そちらを走ることにしました。右手に琵琶湖が見え,すばらしい景色で,大満足でしたが,行き交う車はほとんどありませんでした。
 ずいぶん走ると,菅浦の湖岸集落という場所に到達して,そこで道路は行き止まりになってしまいました。

 私は,この集落の名前だけは聞いたことがあるのですが,特に興味があるわけでもなかったのでそれ以上調べなかったので,この時点ではほとんど何も知りませんでした。集落の入口に観光客用とに思われる案内地図があったので少しときめいたのですが,駐車場がありません。むしろ,どこかしこに,道路は駐車するな,と書いてあって,ものすごく排他的な嫌な感じがしました。よそ者は来るな,集落に入るなという雰囲気が漂っていました。
 しかし,せっかく来たのでと,道路をかなり引き返し,やっとみつめた駐車スペースに車を何とか停めて,そこから歩きました。集落の中をしばらく歩いていたのですが,住んでいる人に何か言われそうで,途中で怖くなって引き返しました。
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 菅浦の湖岸集落は,琵琶湖の北端より南に突き出て岬状となる葛籠尾崎(つづらおざき)の西側の入り江に位置します。天皇に供える食物を献上する贄人(にえびと)が定着したのがはじまりとされます。
 かつて,菅浦は険しい山に囲まれていたため,水運主体の隔絶された集落でした。そこで,早くから惣村(そうそん)が形成され,自検断(=公権力でない私的集団がその内部のメンバーで刑事裁判権や警察権をもつこと)を行使し,集落の東西には境界となる「四足門」があって,部外者の出入りを厳しく監視していました。
 やがて,1966年(昭和41年)に県道513号線が開通し,1971年(昭和46年)には奥琵琶湖パークウェイも開通し,自動車でのアクセスが可能となると,中世の伝統をとどめる地域として脚光を浴びるようになりました。現在は,57世帯103人が暮らしています。
  ・・
 高嶋之 足利湖乎 滂過而 塩津菅浦 今香将滂
 高島の 阿渡の湊を 漕ぎ過ぎて 塩津菅浦 今か漕ぐらむ
 たかしまの あとのみなとを こぎすぎて しほつすがうら いまかこぐらむ
 高島の 阿渡の港を漕ぎ去っていって 塩津菅浦のあたりを 今は漕いでいるだろうかあの船は
    「万葉集」巻9・1734 小弁
  ・・・・・・
というところだったのです。

 私は,早々にここを出て,今日宿泊する民宿に戻りました。
 民宿の建物はとても新しくきれいでしたが,こんな時期に来る人はほかにはおらず,宿泊客は私ひとりで閑散としていました。食事もおいしかったけれど,やっている人が初老の無口の男の人ひとりだったので,お話が弾むこともなく,単に宿泊するだけで少し物足りなかったことが残念でした。

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 2024年2月27日から2月28日まで,1泊2日で琵琶湖1周の旅をしました。
 石山寺と三井寺についてはすでに書いたので,今日からはその続きです。家からさほど遠くない琵琶湖なので,これまで何度も行ったところがある反面,行ったことがない場所が少なからずあって,ずっと気になっていたのですが,なかなか行く機会がありませんでした。そこで,NHK大河ドラマ「光る君へ」にちなんだ石山寺と三井寺に行ったあとに,そうした場所を1泊することで時間を作って,すべて行ってみよう,というのが,この旅の目的でした。

 まず向かったのが,朽木谷でした。
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 1570年(永禄13年)4月,織田信長は,若狭の守護・武田家を討伐するためという口実で京を出陣しました。このころの武田家は内乱が続いていて,これを平定した朝倉義景が実質上若狭を支配していたので,織田信長は,若狭攻めを口実に,越前の朝倉家討伐を目指していたのです。
 織田軍は,港を押さえる金ヶ崎城の攻略を開始しました。このころ,金ヶ崎城主の朝倉景恒(かげつね)と朝倉義景との関係が悪化していたために援軍が遅れ,あえなく落城。朝倉景恒は降伏しました。こうして敦賀一帯を制圧した織田信長は,朝倉家の本拠・一乗谷に向かって兵を進めようとしました。
 ところが,木ノ芽峠にさしかかったところで,同盟関係にあった,義弟・浅井長政の裏切りを知ります。このままでは朝倉軍と浅井軍の挟み撃ちにあうことを悟り,織田信長はすぐさま撤退することを決め,豊臣秀吉,明智光秀らに殿(しんがり)を命じて,金ヶ崎城を守らせ,自らは朽木谷を越え,京へ逃げかえりました。
 このときの織田信長の退却戦が「金ヶ崎の退(の)き口」「金ヶ崎崩れ」,そして,この撤退が,「信長の朽木越え」と後世伝えられる出来事です。
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 その「朽木越え」というのがどこのことなのだろう? ということが,子供のころから私にはずっと気になっていて,一度,行ってみたいと思っていたのですが,なかなか実現できませんでした。
 それとは別に,京都やその周辺の庭園について調べていたとき,旧秀隣寺庭園というのを知りました。京都市内の有名な庭園のように今も造園をくり返した現役のものとは違って,寂れた庭園の写真を気に入っていました。また,先日,この庭園が「ブラタモリ」でも紹介されました。旧秀隣寺庭園は朽木谷にあるのでした。

 私は,三井寺から北上し,国道477号線から国道367号線を走り,旧秀隣寺庭園を目指しました。
 その途中で,融(とおる)神社に出会いました。
  ・・・・・・
 融神社は,寛平年間(889年から898年)に,源融(みなもとのとおる)が閑居を設け一面の鏡を埋めたものを伊香立の荘官が掘り出して神璽とし,源融を才人として祀ったのがはじまりとされます。
 源融は平安時代初期の公卿で,源氏物語の光源氏のモデルともいわれます。「小倉百人一首」にも,河原左大臣として歌があります。
  みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに みだれそめにし我ならなくに
    河原左大臣「小倉百人一首」
  ・・・・・・
 私は「光る君へ」ゆかりの場所を旅しているわけだから,融神社も知っていましたが,この旅で行こうとしている朽木谷からは遠い場所だと思っていたので,行くのをあきらめていました。それがこの場所だっとは! ということで,驚きましたが,これもまた幸運。期せず,融神社にも行くことができたのです。

 融神社を出ると,国道367号線は比良山地を通ります。次第に雲行きが怪しくなり,それまで快晴だったのに,雪が降ってきました。いやがうえにも,朽木という場所がたいへんなところだと認識させられました。私の車はノーマルタイヤなので,これ以上雪が強くなったら引き返そうと考えながら,おそるおそる走っていたのですが,幸い,それほどのこともなく,やがて,安曇川に沿ったのどかな風景を堪能できるようになりました。
 国道367号線はかつては鯖街道といい,古くは奈良,京都の皇室に食材を贈り届けるための近道であり,近代は京都の料理人に鯖や食材を運んでいる道です。そこで,現在も,ここは鯖がウリになっていて,鯖寿司を食べることができる店がたくさんありました。
 やがて,目的地の旧秀隣寺庭園のある,興聖寺に到着しました。広い駐車場があって,そこに車を停めました。 
  ・・・・・・
 興聖寺は,僧・道元が,近江の守護・佐々木信綱に建立を勧めたのがはじまりといわれる寺院です。もともとは安曇川の対岸の上柏村指月谷にありましたが,江戸時代に大火に遭い,かつて朽木氏ゆかりの秀隣寺のあった現在地に移ってきました。
 秀隣寺は,朽木宣綱が1606年(慶長11年)に正室の菩提を弔うために建立した寺院で,朽木家の菩提所でした。1528年(享禄元年)に,12代将軍・足利義晴が京都の兵乱を避け,朽木稙綱を頼って,3年間この地に身を寄せました。朽木稙綱は将軍のために岩神館を造営し,そこに設けられられたのがこの庭園でした。
 庭園は, 安曇川の清流とその背後に横たわる蛇谷ヶ峰を借景とする池泉鑑賞式のもので,左手の築山に組まれた「鼓の滝」から流れ出た水が池に注ぎます。曲水で造り上げた池泉には石組みの亀島,鶴島を浮かべ,中央付近には見事な自然石の石橋を架けます。作庭したのは,管領・細川高国と伝えられています。
  ・・・・・・

 旧秀隣寺庭園をしばらく鑑賞したのち,再び車を走らせて,さらに北上すると,朽木の町に着きました。
 ここに,朽木陣屋跡や藁ぶきの家などが保存された場所があったのですが,博物館は閉鎖されていました。私は,中途半端に寂れたところだなあ,というのが実感でした。
  ・・・・・・
 かつてこの地を治めていたのは,朽木家でした。
 朽木家は,六角家の傘下でありながら,足利将軍家と独自のパイプを持ち,諸勢力から一目置かれる勢力でした。1560年(永禄3年)六角家が浅井長政に敗れると,このときの藩主・朽木元綱は,浅井家への臣従を誓いながらも,程よい距離感を上手く取り,独立した勢力を保ちました。
 そして,1570年(元亀元年)。
 浅井長政の裏切りで挟み撃ちにあった織田軍は,「信長の朽木越え」で,京へ帰還することを決意します。このとき,織田信長にとって,朽木元綱は味方か否かが問題でした。織田信長は朽木元綱が味方してくれるか,同行していた松永久秀に確認して説得してもらう間は朽木谷の北にある洞穴に隠れていました。これが,現在も残る「信長の隠れ岩」です。
 結局,朽木元綱は織田信長を保護して京都までの道案内を務めました。この決断が朽木家を救うことになりました。 その後,関ヶ原の戦いで,朽木元綱ははじめは西軍として参戦するも,小早川秀秋とともに寝返りました。その結果,徳川家康から朽木谷を安堵され,朽木家は,激動の歴史の中を綱渡りのようにして,明治維新までこの朽木陣屋を拠点として続きました。
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 弁慶の引摺り鐘を過ぎてさらに進むと,村雨橋を通ります。
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 中興の祖である智証大師・円珍がこの橋の上に差しかかったとき,自分が長安で学んだ青龍寺が火事で焼けているのを感知して,真言を唱え閼伽水を撒くと,橋の下から一条の雲が巻き起こり,西の方に飛び去りました。後日,青龍寺から礼状が届き,火事を消してもらったお礼が書かれていたということです。そこで,ムラカリタツクモノハシ=村雨橋と名づけられました。
  ・・・・・・
という説明が書かれた案内板がありました。
 村雨橋を渡ると,右手に唐院がありました。唐院は,園城寺の開祖である智証大師・円珍和尚の廟所を中心とする寺域で,灌頂堂,大師堂,三重塔で構成されています。唐院という名称は,智証大師が唐に渡って修行を積み,持ち帰った経典類を収めたことに由来しています。
 そこをすぎて,石段をあがると,観音堂に着きました。

 観音堂は,西国三十三所観音霊場の第14番札所です。琵琶湖と大津市街を一望する景勝地にあり,古くから文人墨客に親しまれてきました。
 観音堂は,南院札所伽藍の中心建築で,後三条天皇の病気平癒を祈願して,1072年(延久4年)に創建されたと伝えられています。その後、移築や焼失を経て,1689年(元禄2年)に再建されました。本尊の如意輪観音坐像は33年ごとに開帳される秘仏です。
 本尊をまつる正堂と外陣に相当する礼堂を合の間で繋ぐ本瓦葺の大建築で,堂内には元禄期の華やかな意匠を施しています。

 谷際には,謡曲「三井寺」に出てくる観月舞台があります。
  ・・・・・・
 現在の静岡県にあたる駿河国・清見ケ関の女性が,子買いにさらわれたわが子を捜し訪ねて,京都の清水寺参籠の霊夢で三井寺へ参れと告げられます。
 ときはあたかも中秋の名月。三井寺では,僧侶が弟子・千満らを連れて講堂の庭での月見に出ます。そこへ,子を失った哀しみに心を乱した女性が現れ,名月に浮かれ,龍宮から持ち帰ったと伝わる名鐘を,龍女成仏にあやかって自分も撞きたいと近づきます。僧侶は制止しますが,女性は中国の古詩を持ちだして,詩聖でさえ名月に心を狂わせて高楼に登り鐘を撞くというのに,ましてや狂女の私がと、鐘を撞き舞います。
 弟子の千満に促されて,僧侶は狂女に素姓を尋ねます。千満・狂女の応対があって,狂女は千満がわが子と知り,母子は再会をはたすのです。
  ・・・・・・

 今回,久しぶりに三井寺に来て,どうも疑問に思うことがありました。それは,以前来たとき,上るのも大変な長い石段があって,こりゃ,もう少し歳をとったら,三井寺には来ることもできなくなるのだなあ,としみじみと思ったのです。しかし,今回,三井寺に来て,そんな大変な石段など存在しませんでした。私の記憶は三井寺でなかったのかな? と思ったのです。
 どうやら,前回来たときは,今回とは違って,電車を使ったので,駅から歩くと,この観音堂の下から三井寺に上ることになるのだと,あとでわかりました。

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 石山寺の次は三井寺です。その前に,三井寺からわずかに行ったところに大津市歴史博物館があったので,寄ってみました。時刻は午前11時を過ぎ,おそらく館内にあるであろうレストランで昼食をと思ったのです。
 実際,レストランがありました。そこで注文したのが,「光る君へ」にちなんだオリジナルメニュー「7食限定・紫式部スペシャルランチセット」でした。紫式部を想い,まん丸の近江牛コロッケを満月にみたてたもの,ということでした。
 食事を終えて,大津市歴史博物館で開催されている特別展示「源氏物語と大津」を見ました。

 そして,三井寺に向かいました。
 この日は天気がすぐれず,三井寺もほとんど人がいませんでした。望外の幸運でした。
  ・・・・・・
 三井寺は,天台寺門宗の総本山で,正式名称は長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)といいます。
 667年に天智天皇は都を近江に移しました。672年に天智天皇が亡くなると,大友皇子と大海人皇子(天武天皇)が皇位継承をめぐって争う壬申の乱が起きました。 壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子・大友与多王(よたのおおきみ)が父の霊を弔うために 田園城邑(じょうゆう=土地)を寄進して寺を創建し,天武天皇から園城という勅額を賜わったことが園城寺のはじまりとされています。
 三井寺とよばれるようになったのは,天智天皇,天武天皇,持統天皇の三帝の誕生の際に産湯に用いられたという霊泉(現在,金堂西側にある「閼伽井屋」から湧き出ている清水)があり御井の寺とよばれていたものを,後に智証大師円珍が当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いたことに由来します。
 本尊は身丈三寸二分の弥勒菩薩ですが,絶対の秘仏となっているために見る事はできません。
    ・・・・・・  

 三井寺は梵鐘で有名ですが,現在,梵鐘は三井晩鐘と弁慶の引き摺り鐘のふたつがあります。
  三井晩鐘とよばれる梵鐘は,1602年(慶長7年)当時の三井寺の長吏・道澄(どうちょう)の発願によって弁慶の引き摺り鐘を模鋳したもので,姿の平等院,銘の神護寺,勢の東大寺とともに,声の園城寺として,天下の三銘鐘(プラス1)のひとつです。
  ・・・・・・
 村の子供らにイジメられる1匹の蛇を助けたことで, 里の漁師は竜宮の王女をめとることになります。 ふたりの間には子どもが産まれますが,自分が竜女であることを知られた女は琵琶湖底によび戻されてしまいました。残された子どもは母親を恋しがり,毎日,激しく泣き叫びますが,母親にもらった目玉をなめると泣きやむのです。 しかし,その目玉も小さくなり,ついに竜女の両方の目玉はなめ尽くされてしまいました。
 盲になった竜女は,漁師に,三井寺の鐘をついてふたりが達者でいることを知らせてくれるように頼みます。 鐘が湖に響くのを聴いて,竜女はこころを安らがせたといいます。
  ・・・・・・
 また,弁慶の引き摺り鐘は,平安時代,田原藤太秀郷が近江の三上山の大ムカデ退治をしたお礼にと,三井寺に琵琶湖の龍神より頂いた鐘を寄進したのですが,比叡山延暦寺との争いで武蔵坊弁慶が攻め入ったとき,この鐘を奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると「イノー・イノー」(帰りたい)と響いたので,弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったというものです。
 さらに,観音堂にも1814年(文化18年)に建立された鐘楼があって,童子因縁之鐘とよばれた鐘が釣られていましたが,第2次世界大戦の金属類供出令で失われてしまいました。
  ・・・・・・
 この鐘を鋳造するとき,大津の町々を托鉢行脚し,ある金持ちの家に立ち寄り勧進を願ったところ,その家の主人は「うちには金などない。子供が沢山いるので子供なら何人でも寄進してやろう」と断ったことがありました。
 鐘が出来上がると,不思議にもその鐘には3人の子供の遊ぶ姿が浮かび上がり,同じころ,かの金持ちの子供3人が行方不明になっていました。
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 三井晩鐘は「近江八景」のひとつです。
  ・・・・・・
  思うその 暁ちぎる はじめとぞ まづきく三井の 入あひの声
  ・・・・・・

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三井


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 石山寺は,奈良時代より霊験あらたかな観音霊場として信仰を集めていましたが,平安時代になると石山詣が流行し,多くの貴族や女流文学者が訪れました。
 「石山寺縁起絵巻」には,次のようにあります。
  ・・・・・・
 「なにか物語を書いてちょうだい」と仕えている中宮彰子に命じられた紫式部は,石山寺に7日間滞在し,観音に「まだ誰も読んだことのないような物語を書かせてください」と祈りました。そして,琵琶湖に映る中秋の名月を見たとき,紫式部の脳裏に一人の貴公子が思い浮かび「源氏物語」の須磨の巻を書きはじめました。
  ・・・・・・

  ・・・・・・
 月のいとはなやかにさし出でたるに,今宵は十五夜なりけりと思し出でて,殿上の御遊び恋しく,所々眺め給ふらむかしと思ひやり給ふにつけても,月の顔のみまもられ給ふ。
「二千里外故人心」
と誦じ給へる,例の涙もとどめられず。入道の宮の,
「霧や隔つる。」
とのたまはせしほど,言はむ方なく恋しく,折々のこと思ひ出で給ふに,よよと,泣かれ給ふ。
「夜更け侍りぬ。」
と聞こゆれど,なほ入り給はず。
  見るほどぞしばし慰むめぐりあはむ月の都は遥かなれども
  ・・
 月がたいそう明るく美しく出たので,今夜は十五夜であったなあとお思い出しになって,宮中での管弦の遊びを恋しく思い,方々は(同じようにこの月を)眺めていらっしゃるだろうよとお思いになるにつけても,月の顔ばかりをじっとお見つめになられます。
「二千里外故人心」
と声に出して唱えられ,(周りの人々は)いつものように涙を止めることができないでいます。入道の宮が,
「霧や隔つる」
とおっしゃられたことが,言いようもなく恋しく,その時その時のことを思い出しなさると,おいおいと,お泣きになります。
「夜が更けて参りました」
と(従者が言うのが)聞こえますが,やはり(寝室には)お入りになられません。
 見ているうちはしばしの間ですが気がまぎれます
 再び出会うであろう月の都は遥か遠くにあるけれど
   「源氏物語」須磨
  ・・・・・・

 石山寺を1周したところで,午前9時になったので,「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」へ行きました。私の後に,ばらばらと訪れる人がいましたが,懸念したような人込みではありませんでした。また,せっかくこの時期に石山寺に来たのに「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」を素通りする人も少なくありませんでした。
 私は,このところ,「鎌倉殿の13人」「どうする家康」などの大河ドラマ館にも行ったのですが,それらにに比べて,思ったよりも小さな規模でした。
 館内には,主人公まひろと名づけられた紫式部が第4回「五節の舞姫」で着た衣装の実物が展示されていましたが,それ以外に,特に見るべきものもありませんでした。大河ドラマ館は,ドラマの撮影で使用し終えたものが展示されるので,ドラマがはじまったばかりでは,展示するものもあまりないのでしょう。ちょっとがっかりでした。

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 とりあえず,今回の旅で行きたかったのが石山寺で開催されているNHK大河ドラマ「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館 」でした。石山寺はこれまで数回行ったことがあるので,珍しくなかったのですが,ずいぶん前に行ったので,これを口実に再び行ってみようと思ったのです。ただし,私の嫌いなツアー客が大勢押しかけていると嫌なので,平日のしかもまだ寒い時期に,さらに,早朝1番に行くことにしました。
 石山寺は午前8時開門で,「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館 」は午前9時開館だったので,まず石山寺へ行って,帰りに「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館 」へ寄ることにしました。天気予報ではこの日は晴れということだったのですが,予想に反して,晴れ男の私には珍しく,寒く,しかも,雨混じりでした。しかし,これが幸いして,がらがらでした。午前8時に中に入りましたが,訪れていたのは私だけでした。

  ・・・・・・
 石山寺は,東寺真言宗の大本山の寺院です。山号は石光山。本尊は如意輪観音です。如来になる前の修行者を菩薩といい,如意輪観音は観音菩薩の変化身(へんげしん)のひとつです。
 聖武天皇は,東大寺大仏の表面に金メッキを施すために大量の黄金を必要としていました。そこで,東大寺開山・良弁に命じて,黄金が得られるようにと吉野の金峯山に祈らせました。すると,良弁の夢に,吉野の金剛蔵王が現れ「近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩が現れる土地があるから,そこへ行って祈るがよい」と告げられます。747年(天平19年),お告げにしたがって石山の地を訪れた良弁は,比良明神の化身である老人に導かれて,巨大な岩の上に如意輪観音像を安置して,草庵を建てたところ,陸奥国から黄金が産出されました。しかし,どうしたことか,如意輪観音像が岩山から離れなくなってしまったので,如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創といいます。
  ・・・・・・
 境内は広く,東大門から入って,観音堂,毘沙門堂,蓮如堂,本堂,多宝塔,月見亭と上り,梅園,紫式部像とぐるりと歩くと,約1時間かかりました。
 戻ってきたころ,やっと,10人程度の団体ツアー客がやってきました。

 月見亭の位置からの景色が「近江八景」の石山秋月です。ここから瀬田唐橋や琵琶湖は真北にあるので,歌川広重の描いた画は創作です。また、江戸時代初期の公家・近衛信尹(このえのぶただ)の画賛にはつぎのようにあります。
  ・・・・・・
  石山や 鳰の海てる 月かげは 明石も須磨も ほかならぬ哉
  ・・・・・・

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石山


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 2024年2月27日から2月28日まで,1泊2日で琵琶湖1周の旅をしてきました。
  ・・
 今とは違って,私が大学生のころは,卒業旅行などという習慣はありませんでした。また,就職試験の解禁も4年生の10月1日でした。そこで,4年生の夏休みは遠いこところに出かける機会がなく,そこで,思い立ったのが,日帰りの琵琶湖1周旅行でした。現在のJRは当時国鉄といったのですが,サービスは最悪で,乗れるものなら乗ってみろ状態でした。そこで,列車で琵琶湖1周をしようと思っても,琵琶湖の北の近江塩津駅での接続が悪く,どうにもならなかったのです。
 今となっては,どう工夫をしたのかまったく記憶にないのですが,ともかく,東海道線で米原駅まで行って,そこから反時計周りで琵琶湖を1周しました。旅の終盤戦,湖西線で堅田駅あたりまで来たとき,通勤客が大勢乗ってきて,現実に戻されたことだけが記憶にあります。
 それ以来,何度も琵琶湖周辺は行きましたが,ほとんどの場合は車だったし,日帰りで,彦根とか長浜とか,どこか一か所を見てきただけでした。
 私は,滋賀県が好きです。滋賀県の人に言わせれば,他府県の人は滋賀県といっても琵琶湖以外に思い当たる場所がなく,常に京都に押されれているという劣等感があるのだそうです。しかし,私には,滋賀県はとてもいいイメージしかありません。
 今回,大河ドラマ「光る君へ」に乗じて,石山寺や三井寺に行こうと思い立ったのですが,それ以外にも行きたいところや行っていないところが結構あるので,ならば,適当なところに泊まって,1泊2日で旅をすることにしたのです。

 先日行った神奈川県にも「金沢八景」がありましたが,滋賀県にも,琵琶湖にちなんで「近江八景」があります。「金沢八景」でも書きましたが「〇〇八景」というのは,中国湖南省の洞庭湖および湘江から支流の瀟水にかけてみられる典型的な水の情景を集めて描いた「瀟湘八景図」になぞらえて,日本の名勝を集めたものです。
 「近江八景」は,室町中期の1500年(明応9年),近江に滞在した元・関白の近衛政家が,当地にちなんでの和歌八首を詠んだ,という説があるのですが,どうやらそれは正しくなく,戦国末期の関白・近衛信尹(のぶただ)が書き表した「近江八景和歌巻子」を,江戸後期の歌人・伴蒿蹊(ばんこうけい)が知人のもとで観覧したときその奥書に「近江八景」の名所と情景が紹介されていた,と書いたことから,「近江八景」の成立は,近衛信尹によるものとする見方が有力ということです。
 「近江八景」は
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  石山秋月(いしやまのしゅうげつ)=石山寺
  勢多(瀬田)夕照 (せたのせきしょう)=瀬田の唐橋
  粟津晴嵐(あわづのせいらん)=粟津原(現・大津湖岸なぎさ公園)
  矢橋帰帆(やばせのきはん)=矢橋(現・矢橋帰帆島公園)
  三井晩鐘(みいのばんしょう)=三井寺
  唐崎夜雨(からさきのやう)=唐崎神社
  堅田落雁(かたたのらくがん)=浮御堂
  比良暮雪(ひらのぼせつ)=比良山系の雪景色
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です。
 今回の旅では,これに関したところを多く訪れることができたので,これから順に紹介していきます。

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西教寺は,標高843メートルの比叡山の南東山麓に大きな寺域を持つ天台真盛宗の総本山です。
聖徳太子が創建し,のちに天智天皇から西教寺の勅願を賜わり,平安時代には,延暦寺中興の祖良源が,続いて横川の源信が庵を結んで修行道場としたと伝えられている古刹です。
その後荒廃していましたが,室町時代末期に真盛が入寺して再興しました。
真盛は,戒律の厳守と称名念仏の励行を唱え,以来,西教寺は戒律と念仏の道場となりました。
荘厳な風格を誇る本堂や伏見城の遺構を移したという客殿,内部には狩野派による人物や花鳥襖絵などがあります。また,庫裏南側,客殿西側,書院南側,書院北側にれぞれに趣が異なる庭園があって見ごたえがあります。
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私は,西教寺もまた,以前訪れたことがありますが,ほとんど記憶がなかったので,今回,堅田の浮御堂とともに行ってみました。私の目当ては一昨年の大河ドラマ「麒麟がくる」でも紹介された明知一族の墓でした。
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1571年(元亀2年)織田信長による延暦寺焼き討ちで災禍を被った西教寺,その復興に貢献したのが明智光秀でした。明智光秀は焼き討ち直後に坂本城の城主となり,西教寺の檀徒になりました。
総門は坂本城城門を移築したもので,また,かつて,鐘楼堂の鐘は陣鐘を使用していました。
1582年(天正10年)にこの世を去った明智光秀は,西教寺に正室の熙子や明智一族の墓とともに祠られています。

熙子の墓の左側に,松尾芭蕉の句碑があります。
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 月さびよ明智が妻の咄せむ
 寂しい月明りのもとですが明智光秀の妻の昔話をしてあげましょう。
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高さ140センチメートル,幅80センチメートルの自然石からなるこの句碑の筆跡は作家の中島道子さんです。
松尾芭蕉46歳のときの「真蹟懐紙」に
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将軍明智が貧のむかし,連歌会いとなみかねて,侘びはべれば,その妻ひそかに髪を切りて,会の料に供ふ。明智いみじくあはれがりて「いで君,五十日のうちに輿にものせん」と言ひて,やがて言ひけむやうになりぬとぞ。
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また,「俳諧勧進牒」に
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伊勢の国又幻が宅へとどめられ侍る比,その妻,男の心にひとしく,もの毎にまめやかに見えければ,旅の心を安くし侍りぬ。彼の日向守の妻,髪を切りて席をまうけられし心ばせ,今更申し出でて
  ・・・・・・
とあり,そのあとに,この句がかかれてあります。
伊勢の神職で蕉門の又幻は神職間の勢力争いに敗れ,この頃,貧窮のどん底にありました。
松尾芭蕉は「奥の細道」の旅を終えて伊勢の遷宮参詣の折りに又幻宅に止宿しました。貧しさにもかかわらず又幻夫婦の暖かいもてなしを受けた松尾芭蕉が感激して贈ったのがこの句です。
引用したのは,明智光秀の若き日,妻熙子が長い黒髪を切り,売った費用で立派な連歌会を営み夫の面目を保ったという逸話からです。この句で,あなたのその心掛けは必ず報いられる日が来ますよ,と又玄の妻を讃えたものです。

1973年のNHK大河ドラマ「国盗り物語」では,中野良子さんが明智光秀の妻,このときは熙子ではなく槙(まき)を演じ,病気で薬を買うこともできない貧しい夫のために黒髪を売って朝鮮人参を手に入れるという設定のシーンがありました。
また,2020年の「麒麟がくる」では,妻熙子が亡くなる第39回の番組の最後の「紀行」で西教寺が紹介されていました。

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浮御堂はいろいろな書物にその写真が載っているので,行ったことはなくとも知らない人はほとんどいないことでしょう。琵琶湖に突き出たお堂が写真映えするのです。浮御堂のある場所は,琵琶湖の西岸,琵琶湖大橋を越えて南に行った堅田というところです。しかし,道が狭く,お堂にたどり着くまでがけっこうたいへんです。
私は,かなり以前に一度訪れたことがありますが,ほとんど記憶がなかったので,今回,大津市にある義仲寺の松尾芭蕉の墓に行ったとき,浮御堂まで足をのばしてみました。
浮御堂は,臨済宗大徳寺派海門山満月寺にある仏堂です。近江八景の「堅田の落雁」に描かれていることで有名になりました。
  ・・・・・・
  峰あまた こへて越路に まづ近き 堅田になびき おつるかりがね
  ・・・・・・

1934年(昭和9年)に室戸台風で倒壊してしまったので,現在の浮御堂は,1937年(昭和12年)に再建されたものですが
  ・・・・・・
10世紀ごろのこと。
源信(恵心僧都)が比叡山横川から琵琶湖を眺めると,毎夜,その光明の赫々たるを怪しんで,網でこれを掬いとらせると,それは1寸8分,約5センチの小さな黄金の阿弥陀仏像でした。そこで,魚類殺生供養のためにと,ひとまわり大きな阿弥陀仏像1体を造り,その体内にこれを納め,さらに,1,000体の阿弥陀仏像をも奉安し,創建したとあります。
一時荒廃しましたが,江戸時代,第115代桜町天皇によって能舞台をたまわり再興しました。
  ・・・・・・
1934年(昭和9年)に室戸台風で倒壊してしまったので,現在の浮御堂は,1937年(昭和12年)に再建されたものです。

ここもまた,松尾芭蕉ゆかりの地です。
1691年(元禄4年),48歳の松尾芭蕉は近江の門人たちに俳諧を教えながら,義仲寺境内の「無名庵」で暮らしていました。
中秋の名月が美しい夜,門人たちが無名庵に集まり,句会を催しました。
句会に集まった向井去来,野沢凡兆をはじめとする門人たちとともに,その翌日,松尾芭蕉は琵琶湖に漕ぎ出ます。やがて,海に張り出した小さなお堂が見えてきました。それが浮御堂でした。
浮御堂のほとりに舟を止め,浮御堂に渡ります。
住職が浮御堂に渡ってきて,お堂の錠を開きました。
錠を開くと,お堂の中に十六夜の月の光が差し込みました。
  ・・・・・・
 錠あけて 月さし入れよ 浮御堂 やすやすと出でて いざよふ月の雲
  ・・・・・・
松尾芭蕉が亡くなったのはこの3年後のことでした。
そして,未完だった「奥の細道」は,松尾芭蕉没後の1702年(元禄15年),京都・井筒屋から刊行されました。

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◇◇◇
堅田


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先日,NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の紀行で紹介されたことがある義仲寺へ行ってきました。
ずいぶん前にも1度行ったことがあるのですが,ほどんど記憶から飛んでいました。
義仲寺のある場所は大津市ですが,道が狭く,わかりにくく,カーナビを使っても迷いました。やっと到着したのに,今度は車を置く場所すらありませんでした。再びさまよった挙句,ずいぶんと遠くにコインパーキングを見つけて駐車して,そこから歩きました。
義仲寺は小さな寺でしたが,テレビの影響は強く,訪れる人が少なからずいました。
  ・・・・・・
大津市は,木曾義仲が源頼朝軍と戦い,討ち死にした地です。
義仲寺(ぎちゅうじ)は,木曾義仲を弔うために建てられました。 義仲寺の本堂には,聖観世音菩薩が祭られていて,その隣に木曾義仲の木像が安置されています。
義仲寺は,木曾義仲の死後,愛妾であった巴御前が木曾義仲の墓所近くに草庵を結び「われは名もなき女性」と称し,日々供養したことにはじまると伝えられます。
戦国時代に荒廃しましたが,1553年(天文22年)ごろ,近江守護の六角義賢によって再興されました。義仲寺の墓は,もともとは今のようなものではなく,室町時代の終わりに近江国守の佐々木六角がこの地を見て 「源家大将軍の御墳墓荒るるにまかすべからず」と再建したものです。
また,木曾義仲の墓の横には巴御前の供養塔があります。
  ・・
なお,義仲寺の木曾義仲の墓は首から下の胴塚で, 首塚は京都の八坂神社近くの法観寺にあります。法観寺は八坂塔として知られている臨済宗建仁寺派の寺院です。八坂塔は1440年(永享12年)に室町幕府第6代将軍足利義教によって再建されたもので,他の伽藍は応仁の乱で全て焼失し,五重塔だけが残りました。
義仲寺は,江戸時代になり再び荒廃しましたが,17世紀末貞享年間に,浄土宗の僧・松寿により木曾義仲の塚の上に新たに宝篋印塔の義仲の墓を建立し,小庵も建立して義仲庵と名づけて再建が行われ,1692年(元禄5年)に寺名を義仲寺に改めました。
  ・・・・・・

ということなのですが,私の目的は,松尾芭蕉の墓でした。
木曾義仲の生涯に熱い思いを寄せていた松尾芭蕉が,「奥の細道」の旅の途中で,木曾義仲について詠んだ句があります。
  ・・・・・・
  義仲の 寝覚めの山か 月悲し
  ・・・・・・
この句は「奥の細道」にはなく,松尾芭蕉が,1689年(元禄2年)8月14日,等哉を同道して木の芽峠から敦賀に入り出雲屋という旅宿に泊まったとき,その夜に15句詠んだと伝えられている「芭蕉翁月一夜十五句」に収めらているものです。
松尾芭蕉は,40歳のときにはじめて大津を訪問し,それから亡くなるまでの10年間に8回も大津に足を運び,必ず義仲寺に泊まりました。義仲寺にはこじんまりとした資料館があって,そこに数々の芭蕉の遺留品が残っていて,見学することができました。その中で,私が最も興味をもったのが杖でした。この杖は松尾芭蕉が実際に使用していた「椿の杖」です。椿は強い木で松尾芭蕉は旅をする時この杖を使ったということです。
1694年(元禄7年)に大阪で亡くなった芭蕉は 「骸は木曾塚に送るべし」と遺言し,義仲寺に着きました。亡くなった松尾芭蕉は,遺言に従い,木曾義仲の墓の隣に埋葬され,今もなお木曾義仲に寄り添っています。義仲寺の境内の一番奥にある茅葺の建物が翁堂で,ここに芭蕉がお祀りされています。
正面奥に芭蕉の坐像があり,その周りに36人の門人の肖像画があるそうです。
  ・・
義仲寺は蕉門俳諧の人々によって護持されていましたが,その後またも荒廃してしまいましたが,1769年(明和6年)に京都の俳僧蝶夢法師が数十年の歳月をかけてようやく中興しました。
さらに,1896年(明治29年)に琵琶湖大水害で被害を受たり,太平洋戦争後に再び荒廃壊滅の危機に瀕したりしました。しかし,一個人の篤志家に寄進で,1965年(昭和40年),園城寺の三門跡のひとつ円満院となっていた義仲寺は円満院から買い取られ独立・再興し,単立の寺院となりました。

 なお,大津市は,近江八景のひとつ「矢橋の帰帆」で知られています。
 江戸時代,東海道で京へ上るとき,瀬田の唐橋を経由するより,草津市の琵琶湖畔・矢橋から白い帆をかけて船で大津の石場港へ至るほうが短くてすむことから旅人に重宝されました。これが現在の近江大橋につながります。「矢橋帰帆」は,この矢橋港から帰港の途につく帆船を中心に描いたものです。
  ・・・・・・
  真帆ひきて 八橋に帰る 船は今 打出の浜を あとの追風
  ・・・・・・

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矢橋


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 2022年4月4日,鏡神社へ行ったことはすでに書きました。その帰り道,旧中山道の宿場を南から北に,つまり,京から江戸の方向へ順々に戻ったのですが,そのとき,少し脇道にそれて行ったのが近江八幡でした。 
 ずいぶん前に一度近江八幡に行ったことがあるのですが,今とは違って,町歩きの楽しさを知らなかったので,つまらない町だなあと思ったことを覚えています。若気の至りです。そこで,そのリベンジ? を兼ねてです。
 この日は,幸運にも桜満開でした。すばらしい町で,なぜ,あのとき,そんな失礼な印象をもったのかと思いました。

  ・・・・・・
 近江八幡という地名のもととなったのは「日牟禮八幡宮」ですが,「八幡」だけでなく「近江」を冠しているのは,市制施行時に福岡県八幡市が存在したため,ということでした。ただし,福岡県の八幡市は「やはたし」と読み,「はちまんし」ではありません。
 安土桃山時代の1585年から1590年,豊臣秀次が八幡山に城を築き、碁盤状の城下町を建設するとともに,織田信長が築いた安土城の城下町の人々を八幡城下に移したことでこの町ははじまりました。 豊臣秀次の楽市楽座等による商工業の発展政策はその後の近江商人の活躍の原動力となりました。
 1590年(天正18年)に豊臣秀次が移封(国替え)され,京極高次が城主となりましたが,そのわずか5年後の1595年(文禄4年)には廃城となり,城下町商人としての特権は失われました。
 しかし,その後も,船や街道を利用して多くの人や情報,文化が入ってくる地の利を活かし,先進性と自立的な商法により八幡を本店として江戸や大坂に出店を設けるなど活躍していきます。
  ・・・・・・
 今なお碁盤目状の整然とした町並みが旧市街地に残されていて,特に新町や永原町にはかつての近江商人本宅の家々が立ち並び,八幡堀に面した土蔵群は往時の繁栄を偲ばせます。すてきな町です。
  ・・
 私が行ったとき,桜満開の近江八幡の歴史地区の八幡堀あたりは,多くの観光客で賑わっていました。桜景色は美しかったけれど,私は,こうした人混みが嫌いなので,八幡堀あたりの散策はほどほどにして,歴史地区の町並みに逃げました。少し離れるだけで,ほとんど人がおらず,落ち着いた時間を過ごすことができました。
 それにしても,まあ,どうして人は群れたがるのでしょう。
 インバウンドが去って,少しは静かになるのかと思ったのですが,何も変わりません。
 聞くところによると,京都も,インバウンドでコロナ禍以前は外国人観光客のマナーが問題となっていたのですが,そうでなくても,まったく同じなのだそうです。そういえば,その昔,外国人観光客ほとんどいなかった日本の観光地がマナーがよかったかといえば,そんなことはまったくなかったことを思い出しました。
 私は,そうした賑わいとは少しはなれたところにあったレストランで近江牛丼を食して,静かな春の時間を過ごしました。

 なお,近江八幡市には昔「メンソレータム」という薬で有名だった近江兄弟社と,近江兄弟社グループのヴォーリズ学園という幼稚園・保育園・小学校・中学校・高等学校があります。近江兄弟社とヴォーリズ学園の創立者は,ともに,ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories)と夫人の一柳満喜子です。
 1905年(明治38年),ウィリアム・メレル・ヴォーリズは,キリスト教の伝道を志して,近江商人の士官学校・県八幡商業学校に英語教師として赴任したのですが,宗教的な対立で教師の職を解かれ,その後,近江八幡でキリスト教伝道師としてさまざまな事業展開を行いました。
 それらが「近江兄弟社」の前身であり,ヴォーリズ学園となりました。
 私が子供ころ「メンソレータム」という薬は有名だったのですが,近江兄弟社は,創業者ヴォーリズの亡きあと経営が苦しくなり,メンソレータムの販売権を失ってしまい,ロート製薬のものとなりました。そこで,新たに「メンターム」という商品を販売し,再興したということです。

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4惑星+月

4月25日早朝4時30分。
東の空に,4惑星と月が並んで,幻想的でした。

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 念願だった愛宕山でした。
 ヘロヘロになりながら6時間で往復した私は,まだ,午後1時だというのにもうどこにも行く気がなくなり帰宅することにして,車を走らせました。京都の名所旧跡に寄る気持ちが失せていたのです。しかし,時間は有り余るほどあるので,高速道路で帰る必要もなく,一般道を走ることにしました。
 大津から琵琶湖の東岸を走ってもいいのですが,せっかく来たのだから,いつもと違った道を,ということと,明智光秀にちなんだ愛宕神社に行ったからには,ということで,大津から琵琶湖の西岸を走り,明智光秀の居城があった坂本を通り,琵琶湖大橋を渡ることにしました。

  ・・・・・・
 坂本城は,近江国滋賀郡坂本,現在の大津市下阪本に存在した,明智光秀の居城として築かれた平城です。現在は市街地化によりほぼ消滅しています。
 西側には比叡山の山脈があり,東側は琵琶湖に面しています。また,琵琶湖を経て,織田信長の居城のあった安土と近く,豊臣秀吉の居城のあった長浜を合わせると琵琶湖の西岸と東岸で三角形を成すという,きわめて,戦略的にすぐれた場所となる要塞でした。
 また,坂本は,白鳥道と山中道のふたつの街道が,中世,近世において頻繁に利用され,比叡山の物資輸送の港として交通の要所でもありました。
  ・・
 比叡山焼き討ちの後,明智光秀はこの地を与えられて,築城しました。坂本城は,宣教師ルイス・フロイスの表した「日本史」に「安土城につぐ天下第二の城」と評された豪壮華麗なものだったということですが,築城がはじまったのが1571年(元亀2年)で,黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に収めて,1580年(天正8年)には亀山城の城主となり,1582年(天正10年)の本能寺の変以後の山崎の戦いで敗れ,焼失したということなので,存在したのは,わずか11年だったように思われます。
 それ以降,丹羽長秀が城を再建し,後に杉原家次,浅野長政が城主となり,そのころに今の町が形成されたようですが,1586年(天正14年)には丹羽長政は大津城を築城して居城を移したので,城は廃城になりました。
  ・・・・・・

 琵琶湖の西岸を走る国道161号線を北に進むと,坂本城址公園があって,桜が美しく咲いていました。駐車場に車を停めて,外に出ました。
 実際に坂本城の本丸があった場所は,坂本城址公園から北150メートルのところにあるキーエンス社の保養所の沖ということで,何もなく,また,入ることもできません。この坂本城址公園は城外にあたるそうですが,おそらくは,観光資源として,何もないわけにもいかないから,適当なところを探して整備したのでしょう。公園には明智光秀の石像や説明板がありました。公園からは琵琶湖に面した風景が見られて,坂本城からの景色がこうだったんだなあという感じがしたので,当時をしのぶことができました。
 本丸跡は湖底に石垣が沈んでおり、普段は水面下ということですが,昨年2021年の11月に琵琶湖の水位が下がり,坂本城跡の石垣が露出したというニュースがありました。坂本城の遺構はほぼ残っていないのですが,琵琶湖に沈んだ石垣は今も存在しているのです。
 このように,何も残っていない,というのが,非業の死を遂げた明智光秀らしいというか,哀愁を誘います。それにしても,戦国時代末期,安土城にしても坂本城にしても,実際に存在した期間はわずか10年足らずなわけなので,現在伝わるような立派な城が本当にあったのかな,実際はどのようなものだったのかな,ということを,いつも私は思います。そしてまた,そんなものを作るために,どれだけ多くの人がその人生を捧げたのかな,と考えると,権力のもつ恐ろしさに震えます。


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 すっかり春らしくなった3月18日,人のいないところをハイキングしようと,佐和山城に向かいました。
 昨年の今ごろは「麒麟がくる」の影響も手伝って,近場の山城にずいぶん登りました。その多くは標高400メートルほどでしたが,けっこう大変でした。しかし,ほとんど人もいないので,快適な気分になれました。今年も同じ気持ちを味わいたくなったのです。
  ・・
 国道8号線を西に走って米原を過ぎ,彦根に向かうとき,彦根市内の手前のところにトンネルがあります。トンネルを抜けた左手に奇妙な廃墟となった建物が見えてくるので,昔から気になっていました。
 そこは,知る人ぞ知る「佐和山遊園」です。地元の建築業者である泉巌さんが佐和山城を模したテーマパークを構想し,1976年(昭和51年)に着工したものだそうです。
 泉巌さんの父・惣一さんは能を近所の方に指導していた方で,石田三成の伝承を聞いて育った巌さんは佐和山城をいつか再建することを自分の夢とし,建築業と飲食業を営む傍ら佐和山山麓にドライブインを開業,並行して佐和山築城に着手したといいます。
 しかし,泉巌さんは2013年(平成25年)他界され,佐和山遊園は未完となりました。

 私がこのあたりが石田三成の居城であった佐和山城があった場所だということをこれで知ったわけですが,実際の佐和山城は山こそ見えても,どこから登るものなのかさっぱりわからず,ずっと気になっていました。
  ・・・・・・
 この地は,畿内と東国を結ぶ要衝であり,軍事的にも政治的にも重要な拠点でした。16世紀の末には織田信長配下の丹羽長秀,豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし,関ヶ原の合戦後は井伊家が一時的に入城しましたが,彦根城を作ってのちは廃城となりました。
 石田三成が佐和山城主に任じられて北近江4郡を与えられたのは1595年(文禄4年)で,当時荒廃していた佐和山城を大改修して,山頂に五層の天守を築き,「三成に過ぎたるものがふたつあり 島の左近と佐和山の城」といわしめたといいます。ただし,城内の作りは極めて質素で,城の居間なども大抵は板張りで壁はあら壁のまま,庭園の樹木もありきたりで手水鉢も粗末な石だったといいます。
 佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に城割されたため,今は何も残っていません。名残をとどめているのは,石垣の一部,土塁,堀,曲輪,千貫井戸跡や西ノ丸にある焔硝櫓跡,塩櫓跡です。
  ・・・・・・

 現在,城跡は麓の清凉寺や龍潭寺の所有する山で,龍潭寺の駐車場に車を停めて,そこから山門をくぐり,寺の脇の墓地を通り過ぎて登ることになります。数か月前に行ってみたときは。早すぎて山門が閉じられていたので,再び来てみたわけです。 
 この日は,午前9時過ぎの到着だったので,山門は開いていました。
 ここから結構急な坂を上ることになります。1番高いところで標高が233メートルということだったので,甘く考えていましたが,結構大変でした。齢のせいか,このごろ足がもつれます。もうだめです。それでも,なんとか登頂しました。
 山頂にある高台は,天守のあとで,ここから彦根市内や琵琶湖が一望できました。400年以上前に石田三成も同じ景色を見たのでしょうか。


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 湖東三山は紅葉が美しいところだということはずっと以前から知っていました。しかし,どうしても,秋に紅葉となると,京都まで足をのばしてしまい,これまで行く機会がありませんでした。
 何事も塞翁が馬,今年だからこそできることを探すと,それなりに楽しく毎日がすごせます。私はこうして春から過ごしてきました。そして,今回出かけた湖東三山,それに,知らなかった永源寺も加えて,最高の紅葉狩りとなりました。

 最後が西明寺です。
  ・・・・・・
 西明寺もまた天台宗の寺院で,山号は龍応山。834年(承和元年)琵琶湖の西岸にいた三修上人は,対岸の山に紫の雲のたなびくのを見て神通力で対岸に渡ると,山の中の池から紫の光がさしていたので祈念すると,池から薬師如来,日光菩薩,月光菩薩,十二神将が出現しました。仁明天皇はこの話を聞いてその地に勅願寺として寺を建立するように命じ,創建されたものだといいます。
 そこで,「西明寺」の寺号は紫の光が西の方へさしていたことによります。
 現存する本堂,三重塔は鎌倉時代の本格的な建築で,とても美しいものです。1571年(元亀2年),延暦寺を焼き討ちした織田信長は,比叡山傘下の天台寺院も焼き払うことを命じます。しかし,寺僧の機知により,山門近くの房舎を激しく燃やして全山焼失のように見せかけたために,本堂や三重塔は焼失をまぬがれたのです。
 兵火の後は荒廃していましたが,江戸時代,天海,公海や望月友閑が再興させ,さらに徳川将軍家などの庇護を受けて徐々に復興しました。
  ・・・・・・

 境内は名神高速道路によって分断されているために,名神高速道路にかかる狭い橋をわたったところに駐車場があります。以前ここを通った記憶がよみがえり,来たことがあると思いました。
 参道を歩いた先に二天門が建っていました。二天門を入ると,正面に本堂,右手に三重塔が建ち,また,参道の途中左側には池泉回遊式庭園をもつ本坊がある,とても立派な寺です。
 この寺で私がおもしろいと思ったのは重要文化財の二天門でした。入母屋造,杮(こけら)葺きの八脚門で,部材のひとつに1407年(応永14年)の墨書があるそうです。西明寺の二天門には,向って左に増長天,右に持国天が安置されています。増長天像は阿形の像,持国天像は吽形の像です。このように,門の左右に安置される像は二体一対で,二王とも称され,口を開けたのが阿形,口を閉じたのが吽形,「阿吽の呼吸」の語源ともなっていますす。 
 実際は,寺の入口にある門には仁王門と二天門のふたつの種類があり,仁王門は仏教の守護である阿形と吽形の金剛力士像を左右に安置したもので,二天門は門の左右に持国天,増長天,広目天,多聞天のうち二天像を安置したものという区別あるそうですが,私は詳しくは知りません。
 また,百済寺と同じく,大きな草鞋が吊るされていましたが,これは七難即滅を願う信仰からきたものです。七難とは,太陽の異変,星の異変,風害,水害,火災,旱害,盗難のことで,世の中の七つの大難が消滅することを念じ,その願いがかなえば七福が生ずることから七福神の信仰が産まれたのだそうです。人は古より,こうした災いに恐れをなして生きてきたわけです。

 午前11時前,次第に人が増えてきたので,私は帰宅することにしました。
 思った以上に楽しい1日,いや,半日となりました。

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 百済寺を出て,次に向かったのが金剛輪寺でした。百済寺からさほど距離のないところにありました。
 広い駐車場がありましたが,まだほどんど車はありませんでした。車を停めて山門に向かいました。山門までの間に,結構な土産物屋さんが軒をならべていて,観光地らしい雰囲気がありましたが,できの悪い観光客である私は全くモノを買う習慣がありません。観光地にとっては迷惑な客でしょう。

 この日,私は湖東三山と永源寺の4つの寺に行きました。永源寺は湖東三山とは趣が異なり,山の中の静かな場所にある寺でとても立派でした。また,湖東三山の中では,どう表現していいかわからないのですが,金剛輪寺が一番きちんとした,というか寺らしい寺でした。というのも,紅葉の美しい広い,そして,変化に富んだ庭があったからです。
  ・・・・・・
 金剛輪寺も天台宗の寺院で,山号は松峯山です。松尾寺ともいいます。聖武天皇の勅願で奈良時代の僧・行基の開創とされ,創建は737年(天平9年)と伝えられます。
 平安時代前期に天台宗の僧・慈覚大師によって再興され,寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残っています。
 本堂は近江守護・六角頼綱によって建立されたものです。織田信長の兵火で金剛輪寺は被害を受けますが,本堂,三重塔は焼失をまぬがれました。
 江戸時代以降は衰微しましたが,明治時代の廃仏毀釈を乗り越え,現在は「血染めのもみじ」で有名な紅葉の名所となっています。
 この寺の本尊は聖観音菩薩です。聖観音菩薩は,別名を観音菩薩いい,人々を常に観て救いの音があれば瞬く間に救済する仏として多く信仰されてきました。苦しんでいる者を救うとき,千手観音や十一面観音などの六観音や三十三観音など,様々な姿に身を変えて救いの手を差し伸べます。
  ・・・・・・

 私が最も感銘を受けたのは庭園でした。本坊である明寿院に,桃山時代,江戸初期,江戸末期と,時代の異なる3つの庭園があります。
 桃山時代と推定されている南庭の小池には出島が造られています。出島には3石の自然石を連ねた橋が架けられているなど,安土桃山時代らしい自然石を使った意欲的なものとなっています。
 茶室「水雲閣」を挟んで江戸時代初期とされる東庭では,山畔の左右にそれぞれ枯滝石組が造られています。左手の枯滝石組は垂直型で,小堀遠州によって作庭された彦根市の龍潭寺の書院東庭「鶴亀蓬莱庭園」と似ていることから,作庭家は小堀遠州と推測されるそうです。さらに,北庭は江戸末期の庭です。

 時刻も午前9時を過ぎて,人が少しずつ増えてきました。駐車場に戻ると,多くの車が来るところでした。今年は避けましたが,京都の嵐山や高尾といった紅葉で有名な混雑するところも,朝一番で行けばなんとかなります。
 今回行った場所は,寺の開門時間が午前8時から8時30分だったので,それより早く行っても入ることができなかったのは残念でしたが,それでも,開門時間に行けば,このように,静寂の紅葉が味わえます。おそらく,せっかくの紅葉を見ずにこの秋を終えたら,ずいぶんと後悔したことでしょう。その意味でも,天候にも恵まれ,行った場所も正解で,よい秋の1日,いや,半日となりました。
 最後に,湖東三山最後の寺・西明寺に行って,帰宅しようと思いました。

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 思った通り,京都の嵐山や神奈川県の箱根はすごい人だったようです。どうしてこの時期にそんなところに行くのか,理解に苦しみます。
 私は穴場を求めて,静寂の中で秋の紅葉を味わおうと,連休前平日の早朝,湖東三山を目指しました。しかし,いつもの常で,事前に調べることもなく,どこにあるかも正確に知らず,ともかく,湖東三山という名神高速道路のインターチェンジ付近まで,自宅から,高速道路ではなく一般道を走ってきました。
 そこで見つけたのが百済寺という道路案内標示でした。その標示を頼りに南に走っていくと,百済寺より先に,永源寺と書かれた道路案内標示を見つけました。恥ずかしながら,私はそのとき,永源寺も湖東三山の寺のひとつだと思ったので,先に行ってみたのですが,永源寺は湖東三山のひとつではありませんでした。しかし,幸いなことに,永源寺は湖東三山に勝るとも劣らない紅葉の美しい寺でした。このことは前回書きました。
 永源寺の案内所で改めて湖東三山の地図をもらい,次に向かったのが,百済寺でした。

  ・・・・・・
 百済寺(ひゃくさいじ)は天台宗の寺院で山号は釈迦山。開基は聖徳太子とされ,金剛輪寺,西明寺とともに「湖東三山」のひとつして知られます。
 606年(推古天皇14年)聖徳太子の建立で,朝鮮半島百済(くだら)の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と号したといいます。
 平安時代には比叡山延暦寺の勢力下に入り,天台宗となりました。1498年(明応7年)の火災で本堂とその近辺が焼け,さらに,六角高頼と伊庭貞隆との争いに巻き込まれてほとんど焼失しました。
 その後回復し,戦国時代には宣教師ルイス・フロイスが「地上の楽園」とその書簡に書いていますが,織田信長に抵抗した六角承禎の味方をしたため,織田信長の焼き討ちに遭い全焼してしまいました。やがて,江戸時代を迎え,1617年(元和3年)将軍徳川秀忠より寺領100石を安堵され復興しました。
 本堂をはじめ現在の建物はすべて近世以降の再建です。
  ・・・・・・

 無料の駐車場に車を停め,寺に入りました。まだ,午前9時前で,ここもやはりほどんど来ている人がおらず,うれしくなりました。
 まず,庭から巡りますが,はじめのうちは,先に行った永源寺に比べて紅葉は思ったほど鮮やかでなく,少しがっかりしました。
 百済寺は東の山を借景とし,大きな池と変化に富む巨岩を配した池泉廻遊式ならびに観賞式の庭園として名高い「喜見院の庭園」でも知られていて,喜見院の庭園は別名「天下遠望の名園」とも称されているそうです。池泉を廻って庭園から連なる高台の「遠望台」へと向かっていくと,ついに,見事な紅葉が見られるようになりました。また,遠望台からの平野が眼下に展開する景色は琵琶湖をかすめ,さらに55キロメートル先の比叡山まで見ることができて,実に見事でした。
 「百済寺は山城の最後の形,安土城は平城の最初の形」といわれるように,その先,本堂に向かう参道は,まるで登山でした。長い坂道を歩いていくと仁王門と大草鞋が見えてきました。仁王門の正面に吊り下げられた大草鞋は,触れると身体健康・無病長寿のご利益があるといいます。
 仁王門をくぐり,さらに行くと本堂に到着しました。1650年(慶安3年)に再建された現在の本堂は,この春に行った京都の醍醐寺の奥の院に似ていましたが,この辺りまで来ると,まったく紅葉もなくなってしまいました。
 今回訪れた4つの寺の中で最も紅葉は地味でしたが,逆に,観光客が少なく,落ち着くところでもありました。坂が多いので,足の不自由な人には辛いかもしれません。

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 すっかり外国人がいなくなって静寂を取り戻した京都へ,毎日のように桜を見にいった2020年の春から半年が過ぎました。
 テーブルの上に酒を並べておいて酔っぱらうな,とか,ゲーム機を与えておいて勉強しろ,といっているような,そんな迷走を続けているこの国です。せっかく秋も人のいない静寂の京都に紅葉を見にいこうと思っていたのに,Go To Travel とかで混み合っているという話です。
 おそらく,春先,自粛警察とやらをやっていたような御仁と To Go Travel で観光バスに乗って集団で旅をはじめた御仁は同じ人たちなのだろうと私は推察します。投資も,買いだというときに買い,売りだというときに売り,いつも損をする人たちです。要するに,自分がなく,群れて何かをしたいだけなのです。
 もともと,宴会嫌い,会議嫌い,群れることが大嫌いで,人のいない旧街道を散策するか,深夜にひとりで星を見ることが趣味の私が,やっと認めらたようでなぜかうれしいこのごろですが,この秋は,人の多い京都は避けて,平日の早朝,人のすくないところに車で出かけて,紅葉を楽しもうと考えました。
 そこで,11月19日,これまでは京都へ行くので通り過ぎるばかりだった滋賀県の名刹を訪ねることにしました。朝早く車で出かけて,観光バスが到着する前には帰ろうという計画でした。

 もっとも遠いところから順々に寺を巡りもどってくることにして,まずたどり着いたのが永源寺でした。私はうかつにも永源寺という寺自体を知らず,これまで行ったことがありませんでした。
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 永源寺は愛知川右岸にある臨済宗永源寺派の大本山です。南北朝時代,近江の領主であった佐々木氏頼が寂室元光禅師を開山に迎えて伽藍を建立したのがはじまりで,その後,佐々木氏の庇護のもと盛時には2000人もの修行僧を擁したといいます。
 戦国時代に兵火で衰えたのですが,江戸時代に一絲文守禅師が住山し,後水尾天皇や東福門院らの帰依を得,さらに彦根藩井伊氏の庇護によって諸堂が整えられました。
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 普段は駐車場は無料だということですが,この時期は閉鎖されていて,近くの有料駐車場に車を停めました。車は1台だけ停まっていて閑散としていました。開門は午前8時30分で,その時間に中に入りました。まだ来ていたのは数人だけでした。辺りは紅葉で真っ赤に染まっていました。
 けっこう長い石段の参道を登ると,右手に愛知川があって,朱色に塗られた橋の欄干と紅葉がこころ休まりました。また,参道の左手の石崖には十六羅漢の石仏などが並んでいました。参道一帯のモミジやカエデが見事でした。
 山門をくぐると,境内には庫裡,鐘楼,方丈,法堂,禅堂,開山堂などが建ち並んでいました。また,境内の奥の含空院の方丈前庭は鈴鹿の山々を借景に望み,苔と皐月に枯滝が配された築庭で,紅葉の美しさがいっそう際わ立っていました。
 私の,静寂の中で秋の紅葉を楽しもうという計画,まずは大成功の幕開けとなりました。

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 国道365号線沿いは,かつて1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いのあった場所で,石田三成陣地跡をはじめとして,多くの史跡があります。私の家からさほど遠くはないのですが,これまで,それほど興味があったわけでもないので,古戦場を巡ったことはありませんでした。
 子供のころ,学校で関ヶ原の戦いについて習ったときに行ってみたいと思ったのですが,私が連れていってもらったのは,関ヶ原ウォーランドというところでした。
 そして,そのとき,この場所(だけ)が関ヶ原の戦いのあった場所だと思ったのがかなり浅はかなことでした。そこは,関ヶ原の戦いを題材としたテーマパークでした。
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 関ヶ原ウォーランドは関ケ原町にある博物館です。1964年(昭和39年)に開館しました。 敷地は約30,000平方メートルあって,関ヶ原の戦いを200体以上の戦国武将のコンクリート像で再現しています。また, 屋内には武具甲冑資料館もあります。
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 実際に戦いの起こった場所は,当然,もっと広範囲に及びます。
 先日,関ヶ原から草津まで旧中山道を歩いたとき,西軍の大谷吉継陣跡に通りかかったので,寄り道して行ってみました。それ以来,関ヶ原の古戦場に興味がわいてきました。そこで,この日,木之本からの帰り道,国道365号線を走っていると,石田三成陣跡という道路標示があったので,寄ってみることにしたのです。
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 決戦の当日,東軍の総大将である徳川家康が最初に布陣したのは主戦場から東に離れた桃配山の中腹でした。桃配山はJR関ヶ原駅から東へ2キロメートほど離れたところにあり,すぐ近くには山内一豊の陣跡もあります。
 開戦からしばらくして,徳川家康は本陣を前進させ,笹尾山から約600メートル離れた平地まで近づきます。現在,その地は陣場野公園とよばれていて「徳川家康最後陣跡」の碑が建っています。この場所は前方には笹尾山,背後には毛利秀元隊が3万ほど布陣していた南宮山があり,関ヶ原古戦場の中心地となりました。 
 笹尾山こそ,この日私が行った西軍のリーダー・石田三成の本陣があったところす。ここには現在,合戦当日の様子を再現した馬防柵が設けられています。
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 笹尾山の石田三成陣跡のふもとに広い駐車場があったので,車を停めて外に出ました。ふもとからは関ヶ原一帯を見渡すことができました。笹尾山は小高い丘のような要塞で,簡単に登ることができるのですが,さすがに猛暑,軟弱な私は登るのは次回ということにしました。
 前回行った大谷吉継の陣跡は,この笹尾山から直線距離では1キロメートル程度のところにあります。石田三成の盟友として名高い大谷吉継は,東軍への内通が疑われていた松尾山城の小早川秀秋陣を見張るような形で,この地に布陣しました。
 合戦の当日,疑いどおり裏切って松尾山を下った小早川勢は,真っ先に大谷勢を襲撃します。大谷勢は幾度か小早川勢を押し返し,奮闘を見せたのですが,ついに抗しきれず崩れます。自害した大谷吉継の首は陣より北側の山の中に家臣の手で葬られました。現在,その地には墓碑が建てられています。
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 関ヶ原の戦いの勝敗の行方を大きく左右した小早川秀秋が布陣した松尾山城は,大谷吉継の陣からさらに南へ行ったところです。石田三成陣跡を出て,家に帰ろうと国道365号線を名神高速道路をくぐって走っていたら,この松尾山の登山口への道路表示を見つけたので行ってみました。
 しばらくその道路を進むと,登山口が見つかりました。この登山口からは,小早川秀秋が陣を置いた山頂まで40分ほどの登山道が続いていました。松尾山城は相当な山城で,登山道には土塁や曲輪が残っているということです。もともと,ここには南北朝時代から城が築かれていて,西軍はこれを改修して陣にしていたのですが,合戦前日に小早川秀秋の軍勢が乗り込んで,すでに陣をひいていた西軍の守備隊を追い出して布陣してしまったといいます。そして,小早川秀秋はこの松尾山城から戦況を見守ったすえ,結局裏切り,東軍の一員としてその勝利に貢献したというわけです。
 さすがに,この猛暑では,笹尾山すら登る気のなかった私は,当然,40分もの山道を登るわけもなく,今回はここに登るのも断念して,また,涼しくなったら来てみようと思って関ヶ原を後にしました。
 涼しい秋になったら,また行ってみたいところがたくさん増えました。

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