しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:日本国内 > 信州

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 元善光寺を出て,中央自動車道に入りました。この日は木曽駒高原のゲストハウスに1年ぶりに行くことになっていたのですが,まだ時間が早かったので,松本城に寄ってみようと思いました。松本城はずっと昔に行ったことがあるだけでした。しかし,松本城に着いてみると,駐車場はどこもいっぱいで,すごい人でした。いくら春休みの時期とはいえ,これには驚きました。そんな人混みの中に行きたくなかったので,松本城はあきらめて,そのまま木曽駒高原に行きました。

 私が,毎年のように木曽駒高原に行くのは,満点の星を見るのが目的でした。この場所は閉鎖されたスキー場にあって,人もすくなく,のんびりできるのが魅力でした。この日も天気がよく,満点の星を見ることができました。
 しかし,さびれていたゲレンデは,オートキャンプ場に変身していて,これまで人がいないことが魅力だったのに,平日とはいえ,人と車だらけでした。私がいつも星の写真を撮っていた場所も,車が行きかうようになりました。
 ここももうだめだな,とがっかりました。

 その翌日,4月2日。特に行きたいところもなかったので,どうしようなと思ったのですが,御岳山がきれいだったので,開田高原を通って,そのまま西へ行き,これまで走ったことのない道を,下呂市,郡上市と経由して帰ることにしました。
 途中,鈴蘭高原とか和良町とか,知らなかったところを通りました。いろんなところがあるのだなあと思いました。
 今回の旅は,「秘境駅」を巡るという目的だけで,あとは,何の計画もなく過ごしたのですが,それはそれでおもしろいものになりました。

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 「天空の里ビーポイント」から下りて駐車場に戻りました。
 この先は,飯田市を経由して,木曽駒高原に行くことにしました。
 国道152号線をさらに北上していくと,右手に「平成おちんの神」というものがあったので,なんじゃこれは? ということで,寄ってみました。
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 現地の案内看板によると,この蛇が住むといわれる蛇岩は,1868年(明治元年)の豪雨で沢を転がって落ちてきたもので,直下にある上村川までもう少しのところで止まったことから落ちないということばの飯田弁で「おちん岩」とよばれていたということです。
 この岩の前に,2年ほど前から祀られるようになった「平成おちんの神」。
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 かつて,お神酒を供えないと無事に通れないといわれた場所だった蛇岩。この岩の前に祀ったのが「おちんの神」です。しかし,実は,「おちんの神様」は,ここの地主さんが,工事の解体で出たゴミの中から出てきたものをきれいに洗って会社に置いたら,来る人がおもしろがって触ったり,賽銭箱を置いたらそこに賽銭が結構入ったりしていた,という代物です。
 とはいえ,会社に置いてあったころ,掃除係の人が病気になって,もう来られなくなるといってこの神様をきれいに拭いて力をもらったら,余命まで告げられていた病気が治ってしまったということから,神がかりの岩に昇格したわけです。これだけのものでした,

 どこかで昼食をと思いながら,国道152号線をさらにさらに北上していくと,そば処「村の茶屋」という店があったので,入りました。まだ,お昼時には少し早かったので,ほかにお客さんはいませんでしたが,私には,これが落ち着きます。 私は,旅をしているとき,こういうのにもっとも幸せを感じるのですが,なかなかこうしたお店がないのです。
 そば御前というものを注文して,おいしくいただきました。

 そば処「村の茶屋」の先,国道152号線は,やがて通行止めになってしまいます。その先,北に行こうとすると,険しい林道を走らなければなりません。
 しかし,その手前で西に向かって,建設中の三遠南信自動車道が通行できるようになっていて,飯田市につながっています。ただし,三遠南信自動車道は途中までしか通行ができず,その先は,これもまた,険しい県道251号線を通る必要があります。

 南信濃を走っていると,建設が難航している三遠南信自動車道がところどころ開通して通行できるようになっていたり,その反対に,一般道が災害などで通行止めになっていたりと,どこを走ればいいのかわならなくなります。今回も,この道路で正しいのかな,と疑心暗鬼になりながら,何とか,飯田市までたどり着きました。

 飯田市といって,思い出したことがあります。それは,飯田市には有名な元善光寺があるのですが,これまで,そこに行ったことがないということでした。そこで,今回,行ってみることにしました。
 元善光寺に向かって走っているのですが,元善光寺という道路標示はなく,座光寺とありました。私は,元善光寺に向かって走ってるのに,どうして座光寺? と思いました。
 実は,座光寺というのは寺のことではなく,元善光寺のある場所の地名でした。
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 座光寺とよばれる場所は,1万年以上前から人が住んでいたところなので,史跡が数多く存在しています。また,律令制では,ここに,伊那郡の役所である郡衙(ぐんが)が置かれていました。郡衙というのは政治の中心のことですが,文化の中心地でもありました。当時,近くには,座光寺という地名のもとになった寂光寺(現在は廃寺)もありました。
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 広い駐車場があったので,車を停めました。座光寺が寺のことだと思っていた私は,この駐車場は座光寺の駐車場だとばかり思っていましたが,寺だと思った建物は,旧座光寺麻績学校校舎(おみがっこうこうしゃ)でした。
 麻績学校校舎は,1873年(明治6年)に開校した,現在残っている学校校舎としては県内最古のものです。校舎の1階は人形芝居や歌舞伎を行うための舞台で,2階が学校の校舎として使うために造られた建物です。
 どうして学校に舞台があるの? と思うのですが,それは,次のような理由からでした。
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 今のような娯楽が少なかった時代,この地に住む庶民が夢中になったのは歌舞伎や人形浄瑠璃だったので,座光寺では,歌舞伎舞台を造ることが村中の願いでした。しかし,当時の座光寺は、天竜川の治水対策の費用が負担となっていて,舞台を建設することができませんでした。
 1872年(明治5年)明治政府が「学制」を発布し,学校建設をすすめました。座光寺では元善光寺を学校代わりに使っていましたが,手狭なために,新たに学校を建設する機運が高まり,この機に学校と舞台と両方を建てることにして,歌舞伎舞台としても使える学校を造ったのです。
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 そんな経緯など知らず,私は単に元善光寺を訪ねただけだったのに,旧座光寺麻績学校校舎にあった満開の桜に魅了されていました。ここには,石塚桜と舞台桜という,有名な2本の桜の木があるということなのですが,そんなことを全く知らなかった私は,偶然,そんな有名な桜の満開時期に遭遇したということになります。
 麻績神社の石の鳥居をくぐり,150メートルほど坂を上がると,城のような石垣があって,階段を上がると,旧座光寺麻績学校校舎に出ました。旧座光寺麻績学校校舎の城のような石垣の階段を上ったところにあるのが舞台桜。その手前左側にある古墳の上に咲くのが石塚桜です。
 石塚桜は,推定樹齢250年で,種類はしだれ彼岸です。樹高は15メートルと高く,古墳を覆うように枝を垂らしています。
 舞台桜は,花びらの枚数が花ごとに違う珍しい桜で,2005年(平成17年)に新種と断定され「オミノサトブタイザクラ」と品種登録されたものです。こんもりと盛られた土の上に幹が半分欠けながらも,太さが4メートルある桜が太い根で踏ん張り,添え木をあてられながらも四方八方に太い枝を張り巡らせています。
 
 そこから歩いて元善光寺に行きました。
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 元善光寺は,今から1400年ほど前の601年(推古天皇10年)に,本多善光(ほんだよしみつ)が建立した寺です。国司の供で奈良の都へ出かけ本多た善光が,難波の堀に沈んでいた一光三尊の仏像を拾い,如来のお告げに従って,信州麻績(おみ)の里の自宅へ持ち帰ったのがはじまりといわれています。
 その後,ふたたび如来のお告げで仏像が長野に移されることになった際,本多善光は自分の名前をとって新しい寺を「善光寺」,麻績の里に元々あった寺を「元善光寺」と名づけました。長野市の善光寺仏像は「えんぶだごん」という金属でできていて,元善光寺の仏像は,本多善光が木彫で同じ形の仏像を作り残したといわれていますが,秘仏のため見た人はいません。
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 「龍泉閣」で1泊したのち朝食を済ませ,今日は,木曽駒高原まで行って行きつけのペンションに宿泊します。そこで,せっかくここまで来たのだから,どういう経路で木曽駒高原まで走ろうかと考えて思いついたのが,富山村(とみやまむら)でした。
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 富山村は愛知県北設楽郡にあった「離島以外の市町村の中で最も人口が少ない村」で,2005年(平成17年)の人口は218人でした。
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 しかし,現在は,豊根村へ編入されたので,「離島以外の市町村の中で最も人口が少ない村」ではなくなってしまったのですが,愛知県の最も北東にあって,あえて行こう思わなければ,行くこともないところなので,これもまた,好奇心だけで,行ってみようと思ったわけです。
 地図で見ると,平岡から県道1号線をひたすら南に天竜川に沿って走れば行くことができそうでした。要するに,飯田線が天竜川の東岸を走り,西岸を県道1号線が走っているわけですが,県道1号線もまた「酷道」に匹敵する道路でした。
 以前,日本3大酷道のことを書いたことがあります。中でも,紀伊半島を走る国道425号線は知らずに走ってえらい目にあったし,四国を走る国道439号線は覚悟して走ったのですが,この道も同じようなものでした。それと同等のものでした。
 やっと到着した旧富山村でしたが,こういうところだったのか,というだけの感想でした。カフェの1軒もないし,見晴らしのいい展望台もありませんでした。何が楽しみでこういうところで暮らしているのだろう? と思いました。

 次に向ったのが「天空の里」でした。
 南信濃のパンフレットを見ていたら
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 遠山郷に下栗の里があって,その集落は「天空の里」とよばれています。それは,山の上の展望台から集落を見下ろすと,まさに,集落が天空にあるように見えるからです。
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とあって,それが,ものすごく魅力的に思えたからです。
 それにしても,遠山郷って,どこなのだろう? 「天空の里」って何なのだろう?
 私は,それさえ知らず確かめず,GoogleMapsのいうままに走りました。しかしまあ,私はどこまでおバカなのでしょう。遠山郷へ行くには,国道1号線を再び平岡まで戻って,そこから北東に国道418号線を進み,さらに国道152号線を北上しなければならなかったのです。つまり,富山村は,木曽駒高原に行く途中だったわけでなく,単に平岡から往復しただけのことでした。
 とはいえ,旧富山村というところは,どこかに行く途中に立ち寄るようなところには位置していないので,こうでもしなけらば,行く機会などなかったことでしょう。
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 遠山郷という響きだけにつられて,そこに行こうと走っているのが道152号線でした。しかし,国道152号線は,昨年,これもまた,一度は行ってみたいと,わざわざやってきたしらびそ高原へ向かったときに走った道路でした。「天空の里」はしらびそ高原の途中にあったのです。
 国道152号線の走る南アルプスの麓のあたりは,かなりの難所です。
 道路を造るのも大変だし,観光をするのも並大抵なことではありません。しかし,だからこそ楽しいともいえます。おそらく,私が知らないだけで,まだまだ魅力的なところや,泊まって楽しい宿が存在するような気がします。
 何か惹かれるところがあるので,また,研究してみよう。

 遠山郷へ行く途中で見かけたのが,旧木沢小学校でした。来てね! と書かれた看板に導かれるように,寄ってみました。
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 遠山郷木沢地区は,上町,下栗,和田を結ぶ秋葉街道の要所に位置する宿場町で,かつては,遠山森林鉄道の起点として栄えました。
 その木沢地区の中心的存在であった木沢小学校は,廃校となって以来,昔ながらの木造校舎が保存され,住民手作りの展示施設,交流拠点として活用されています。
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 ということで,廃校になった小学校を村おこしの拠点として活用しているところでした。

 旧木沢小学校を出て,さらに北に走っていくと,やっと下栗の里の到着しました。
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 南アルプスの峰々が間近に迫る山岳地帯,標高800メートルから1,000メートルの地に浮かぶように広がるのが遠山郷にある下栗の里です。最大傾斜38度の急斜面に畑や民家が寄り添うようにあり,
その間をぬうようにつづら折りの坂道が走る独特の風景は,度見たら忘れることのできない絶景です。
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 つづら折りの坂道を抜けると,下栗の里駐車場に到着しました。しかし,展望台は,ここからさらに遊歩道を20分ほど歩く必要がありました。へこたれながらやっと到着したのが展望台「天空の里ビューポイント」でした。展望台やそこまでの道のりは住民が総出で整備したということです。
 やっとたどり着いたなあ,という感じでした。

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 平岡村,現在の天龍村平岡は,盆地に固まるように1,000人程度の人が住んでいます。このようなところにも集落があるのが私には驚きでした。しかし,主な産業である林業の長期凋落が原因で深刻な過疎化が進んでいるそうです。なお,村内には信号機がひとつも設置されていません。
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 天龍村は,東の熊伏山を最高峰にして,四囲が800メートル級の山に囲まれた純山村で,長野県で最も温暖な土地で,いち早く梅や桜が開花するので「信州に春を告げる村」をキャッチフレーズとしています。
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 確かに暖かく,桜まつりを目前に,すでに,花が咲きはじめていました。 
 平岡駅周辺にスーパーマーケットや図書館がありましたが,それ以外に何があるというものでもなく,私が思ったとおり,外食ができる場所も「龍泉閣」の1階にあるレストランだけでした。

 この日宿泊する「龍泉閣」,宿泊客は私を含めてふたりだったように思います。「龍泉閣」で最高だったのは,温泉でした。
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 「龍泉閣」の温泉は,同じ天龍村にある天龍温泉おきよめの湯から運ばれた天然温泉を利用しています。泉質はアルカリ性単純温泉で,肌触りが柔らかく,癖がなく肌への刺激が少ないのが特徴で,入浴すると肌が「すべすべ」する感触があるのが特徴です。
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 私が入浴したときは,ほかに人がおらず,温泉を独り占めでした。途中で入ってきた地元の人に聞くと,午後8時を過ぎると,多くの人でにぎわうよ,ということでした。温泉がこの村で一番の娯楽なのでしょう。

 ただし,問題だったのは夕食でした。
 「龍泉閣」の宿泊プランは,会席料理プラン,天龍御前プラン,ビジネスタイプのお料理プラン,そして,素泊まりとあるのですが,会席料理プラン,天龍御前プランは,2人以上限定だったので,私は,夕食と朝食の2食つきビジネスプランでした。しかし,ビジネスプランの夕食は,これだけ? というほどすごく量が少なく,こりゃ,失敗したな,と思いました。むしろ,朝食のほうが量が多く立派でした。
 素泊まりであれば,1階のレストランで好きなものを注文できたようですが,この晩,レストランは都合でお休みでした。とはいえ,この村には,ほかに食事ができるところもありません。せめて,幕の内弁当程度のものが手に入るのなら,とてもよい宿泊先となるのに…。 温泉がすばらしかっただけに,これが本当に残念でした。

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 「天竜ライン下り」では,つつじ橋というつり橋や,JR飯田線の鉄橋や,三遠南信自動車道の天龍峡大橋をくぐりました。
 つつじ橋を渡ってみたかったことと,天龍峡大橋は橋桁の下部に「そらさんぽ天龍峡」という遊歩道があって,人が歩いて渡れると聞いたので,ライン下りを終えたのち,行ってみることにしました。

 天竜峡を周回するように遊歩道があります。飯田線の天竜峡駅前にかかる姑射橋(こやきょう),つつじ橋,天龍峡大橋の「そらさんぽ天龍峡」を結び,天竜川の両岸を歩く1周1時間ほどのものです。1周するのは次回ということにして,今回は,つつじ橋と天龍峡大橋の「そらさんぽ天龍峡」を渡ることにしました。まず,天竜川東岸の龍角峯(りゅうかくほう)が見えるという天竜峡遊歩道展望台に行ってみました。近くに駐車場があったので,そこに車を停めて,天竜峡遊歩道展望台まで歩きました。
 確かに,天竜峡遊歩道展望台から龍角峯を見ることはできました。しかし,案内板にはここからつつじ橋に行くことができるようにあったのですが,通行止めでした。つまり,天竜峡遊歩道は,つつじ橋を渡ることはできないのでした。
 仕方がないので,車に戻り,姑射橋まで行って,そこで天竜川を渡り,天竜峡にそって西岸を南に進みました。駐車場があったので車を停めました。その駐車場から歩いてつつじ橋まで行くことができたのですが,その途中にあったのが,天竜峡温泉「ご湯っくり」という日帰り温泉でした。
 やっと,念願のつつじ橋に着きました。
 つつじ橋からは,奇岩巨岩の渓谷美を楽しむことができました。この季節,まだ桜には少し早かったのですが,ミツバツツジがきれいでした。おそらく,秋の紅葉や冬の雪景色はもっとすばらしいことでしょう。

 つつじ橋の対岸は,通行止めになっているわけだから,再びつつじ橋を戻ります。そして,次に,天龍峡大橋の「そらさんぽ天龍峡」を目指しました。天龍峡パーキングエリアがあったので,車を停めました。
 2008年(平成20年)に三遠南信自動車道の天竜峡ICが完成し,中央道飯田山本インターチェンジから天龍峡インターチェンジが開通しました。それまでは,中央自動車道の飯田インターチェンジから天竜峡までがわかりづらかったので,それが原因で観光客が減少してしまったそうですが,三遠南信自動車道がができたことで,観光客が戻ってきました。さらに,2019年(令和元年)天龍峡と千代地区を結ぶ天龍峡大橋が完成したので,天龍峡インターチェンジから龍江インターチェンジまでが開通し,それと同時に,天龍峡パーキングエリアという50台以上停められる駐車場ができました。それが私が停めた駐車場で,ここから天竜峡大橋「そらさんぽ」へ行くことができます。
 私は車で来ましたが,歩くと,天竜峡から「そらさんぽ」までは,約3キロメートルの遊歩道でつながっています。
 天龍峡大橋は,高さが80メートルもあるので,ずいぶんと高いところから天竜川を見渡すことができます。そこで,1時間に1本しか通らない飯田線を同時に写せたら, 飯田線と天竜川と天竜峡大橋,という素晴らしい写真になるのですが,それを待つ忍耐がありませんでした。

 このように,天竜峡は,飯田線の天竜峡駅付近はさびれ感満載でしたが,新しくできた駐車場付近はとても近代的でした。こうして,天竜峡が何モノなのかわかってくると,なかなかいいところだなあ,と思うようになったので,また次の機会を作って,今度は,適当な温泉宿でも探して,ゆっくりしてみたいと思ったことでした。

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 「天竜ライン下り」まで時間が少々あったので,付近を散策しましたが,気の利いたカフェの1軒もなく,さびれたところだなあ,というのが第一印象でした。やがて,「天竜ライン下り」に乗船しました。ほかに6,7人が乗り込みました。
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 天竜峡は,諏訪湖を水源とし伊那谷を貫いて太平洋に注ぐ天竜川の流域の中で,両岸に聳え立つ大岸壁や奇岩により山水画を彷彿とさせる奇勝絶景の名勝地です。1847年(弘蚊4年),漢学者の阪谷郎盧 (さかたにろうろ)が「天竜峡」と命名しました。
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ということですが,天竜峡には「天竜峡十勝」というものがあるそうです。これは,1882年(明治15年)に,書道家の日下部鳴鶴(くさかべめいかく)が天竜峡を訪れたとき,10の岩峰を選び,岩面に自筆の文字を刻んだもの,ということです。それらは
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●垂竿磯(すいかんき)
 仙人が苔むした岩に腰をおろし好んで釣り糸をたれたとされる。
●烏帽石(うぼうせき)
 仙人がこの幽峡で酒宴をし,酔って烏帽子を忘れ去ったところから出現した岩。
●歸鷹崖(きようがい)
 仙郷に住む仙人が鷹狩りをした際の岩。
●姑射橋(こやきょう)
 「荘子」に記されている不老不死の神仙郷藐姑射山にちなむ。
●烱々潭(けいけいたん)
 崖下の深渕には巨龍が棲み水底より烱々と光る龍の眼光が見られる。
●浴鶴厳(よくかくがん)
 水面で鶴の群がその縞模様の羽を美しく水浴させていたところ。
●仙牀磐(せんじょうばん)
 仙人たちが不老不死の金丹を練った場所と伝えられる千畳敷の岩。
●樵廡洞(しょうぶどう)
 仙人や樵人(そまびと=木こり)が雨露をしのいだとされる洞状の岩。
●龍角峯(りゅうかくほう)
 天竜川の深渕に棲む龍が天に昇ったとき,その崖に突然できた龍の化身。
●芙蓉洞(ふようどう)
 岩面の白い縞模様から富士山と富士の巻狩り場面の絵図が偲ばれたところ。
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 天竜ライン下りは,こうした岩を見ることができたり,鳥や魚を眺めたりしながら,天竜峡を眺める舟旅で,それなりにおもしろく,なかなかのものでした。
 しかし,それより,この天竜ライン下りを行っている会社の性質なのか,儲かっていないからなのか知らねど,チケット売り場も,舟に乗船する待合所も,舟を降りた唐笠港の建物も,さらには,舟自体も,整理整頓がまったくなされておらず,ゴミ屋敷みたいなのが,とても気になりました。
 天竜峡という観光地は,この「天竜ライン下り」が最大のウリだと思うのですが,これではいただけません。どのくらい集客力があるのかは知りませんが,観光地らしい清潔感や,プチリッチ感がほしいものです。
 川下りを終わると,船頭をしていた人が今度はドライバーになって,ワゴン車で乗船した場所まで送ってくれます。その途中の道すがら見えたのが「スーパーさかや」で,この家はタレントの峰竜太さんの実家だということでした。そしてまた,「スーパーさかや」はそれをウリにしているようでした。峰竜太というタレントさんがどれほどのものかは興味がないから知らねど,おらが村さの英雄なのでしょう。
 このように,天竜峡は,まったくあか抜けない,場末の観光地でした。しかし,私は,こういうの,きらいじゃありません。

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Big Sun Spot.

大きな黒点が見えます。
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 飯田線の「秘境駅」の代表格である小和田駅がどういうところか納得した私は,「秘境駅」巡りを終えて,平岡駅に戻ることにしました。
 小和田駅のホームに出ました。ホームには私ひとりでした。列車を待っていると,特急「伊那路」がが恵那峡駅方面に通過していきました。これが特急か,と思いました。日曜日,この列車に乗って,ビールでも飲みながら景色を見て,きままな日帰り旅行を楽しんでいる人も少なくありませんでした。特急が通過したころ,ひとりの若者がホームにやってきました。彼が小和田駅の駅舎に自転車を置ていた本人でした。彼が乗ろうとするのは私と同じ天竜峡行きの列車でした。
 やがて,列車が来たので乗り込み,私は彼と別れて,平岡駅で降りました。こうして,私の「秘境駅」巡りは,わずか半日で終わってしまいました。

 私は,今晩は,この平岡駅の併設する旅館「龍泉閣」に宿泊するのですが,まだお昼前。この先どうしようか? と思いました。とりあえず,1階にレストランがあったので,そこで昼食をとることにしました。平岡の町で外食ができるのは,この店くらいのものらしく,しかも,この日は日曜日だったので,店内は家族連れなどでほぼ満員でした。私が注文したのは,この地方の名物「清流丼」というヤマメの唐揚げがのった丼でした。ヤマメは1枚と2枚があったのですが,1枚で十分だと言われたので,そうしました。
 食事をしながら,隣にいた家族連れにこのあたりにどこか行くところがないか聞いてみると,天竜峡に行くといいと言われたので,午後は天竜峡へ行くことにしました。

 食事を終えてレストランを出て,車に乗り込みました。なお,「龍泉閣」には大きな駐車場があり,また,駅前にも無料駐車場があるので,平岡まで車で来ても,心配はありません。
 平岡からは,天竜川に沿って,県道1号線を北上することになるのですが,天竜峡までは車で約40分でした。飯田線の天竜峡駅が見えてきて,その手前に「天竜ライン下り」という大きな看板がありました。
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 天竜川は,長野県から愛知県,静岡県を経て太平洋へ注ぐ一級河川で,幹川流路延長は213キロメートル,流域面積は5,090平方キロメートルです。
 「続日本紀」に「麁玉河」「荒玉河」(あらたまがわ)とあり,平安時代には「広瀬川」,鎌倉時代には「天の中川」,その後「天竜川とよばれるようになったといいます。この名前がついたのは,天竜川の水の流れが速く,竜が天に昇っていくかのように見えるからとか,天竜川の流れ出る諏訪湖の近くにある諏訪大社に祭られている竜神から取ったからとかいうことだそうです。
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 天竜川の水は,飯田線の車内から見たときもそうでしたが,天竜峡から見ても,緑色に濁っていました。聞いてみると,いつもそうだということでした。雨が多いのも原因のひとつで,川は澄まないそうです。

 私は,これまで,天竜峡という名前だけは知っていましたが,それがどこのことをいうのかとらえどころがなく,これまで行ったことがありませんでした。天竜峡に川下りがあることも,知ってはいましたが,乗ったことはありませんでした。
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 天竜峡は,天竜川が切り開いた絶壁が続く渓谷で,新緑や紅葉による風光明媚な景色と天竜峡温泉がウリです。
 1975年に中央自動車道の飯田インターチェンジが供用開始され,また,このころ,昼神温泉の湧出もあり,天竜峡を訪れる観光客が増加しました。さらに,1989年の天竜峡温泉の湧出によって,観光客は60万人に達したが,それがピークで,現在は低迷しています。おそらく,リピーターがいないのでしょう。
 2008年に,三遠南信自動車道の部分開通にともなって天龍峡インターチェンジが供用開始となったことを機会として「天龍峡再生元年」と位置づけて「天龍峡百年再生プロジェクト」の開始が宣言され,「竜」の字を「龍」表記に戻す運動が進められています。
 また,2019年には,天龍峡大橋と橋桁下遊歩道「そらさんぽ天龍峡」が整備されました。
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 現在は,魅力ある観光地としての道半ば,というところだと見受けられました。
 まず,「天竜ライン下り」の看板のある場所を通り過ぎて,「あざれあ」という農産物直営所までいってソフトクリームを食べました。そして,せっかく来たので川下りをすることにして,「天竜ライン下り」という看板まで戻って,広いい駐車場に車を停めてチケットを購入して,乗舟することにしました。川下りのことは,次回書きます。

 ここからは,後日談です。
 帰宅後,天竜川の川下りに乗ってきたというと,多くの人が「天竜川の舟下りって,以前事故を起こしたでしょう」というので驚きました。どうりで,安全に留意としきりに歌っていた理由はそれだったのか,と思いました。私は,そんなことは何も知らなかったのです。そこで,調べてみました。
 私は,天竜川の川下りは,私が乗った「天竜ライン下り」だけかと思っていたのですが,実は,天竜川を下るアトラクションは,3種類あったのです。
●「遠州天竜舟下り」
 これが「以前事故を起こした」という川下りです。行われていた場所は,天竜峡から約80キロメートルも南で,天竜峡とは全く関係のないところでした。
 この船転覆死亡事故は,2011年8月17日に起きたもので,乗客など5人が死亡しました。この事故を機に,「遠州天竜舟下り」は廃止されました。
●「天竜ライン下り」
 私が利用したものです。飯田線の天竜峡駅からほど近い天竜峡温泉港から乗船して,50分の船旅を楽しみ,終点が飯田線の唐笠駅に接した唐笠港です。そこから送迎バスに乗って戻ります。
● 「天竜川和船下り」
 「天竜ライン下り」より上流,飯田線の天竜峡駅から徒歩40分程度歩いたリバーポート時又に集合して,まず,シャトルバスでリバーポート弁天まで行き,リバーポート時又まで約6キロメートルを35分かけて下るものです。
 コロナ禍以前は「天竜舟下り」というものがあったのですが,利用者が減り撤退し,新たに事業が引き継がれ,2023年春から「天竜川和船下り」の名で運航を再開しました。
 新しい和船は16人乗りで,全長約9メートルと以前のものより小型です。
 ホームページを見る限り,かなり魅力的に思えました。次の機会に利用してみたいものです。

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 どう表現すれば適格なのかわかりませんが,小和田駅は飯田線のほかの「秘境駅」とは異なり,見ものや話題が数多くある「飯田線の「秘境駅」はここだ!」という,いわば,「キングオブ秘境駅」をウリとする観光名所のようでした。
 駅舎から1本しかない坂道を1時間以上歩いていくと,最終的には塩沢集落に到着するということです。私は,1時間で戻ってこなくてはならないから,途中で引き返すことにして,歩きはじめました。
 まずあったのが,廃墟になった建物です。これは,かつて,小沢商店だったところのようでした。廃業から長い年月が経過していて損傷が激しいものでしたが,窓から内部を見ると,当時使われていたものがそのまま残されていました。
 また,ここでの最大の見もの? は,オート三輪「ミゼット」3台の廃車です。「ミゼット」は,ダイハツ工業が1957年(昭和32年)に販売したものです。おそらく,以前は,この場所までオート三輪が来ることができるほどの道路があったのでしょう。

 川に沿って,なだらかな遊歩道が続いていました。
 この川は,天竜川ですが,対岸には,かつて日本一小さい村といわれた富山村,現在の豊根村富山があります。豊根村富山,つまり,富山村のもよりの駅は,小和田駅のひとつ南の大嵐(おおぞれ)駅です。大嵐駅もまた,小和田駅と同じく,天竜川の対岸にあるのですが,大嵐駅と富山の集落とは長い橋が架かっているので,簡単に行くことができます。だから,小和田駅も,天竜川に橋さえあれば「秘境駅」ではなかったことでしょう。
 さて,道幅2メートルほどの遊歩道はコンクリートで舗装されていて歩くのに不便はありませんでした,進んでいくと,石積みの上に民家がありました。一見,今でも人が住んでいるように見えたのですが無人です。この民家は,かつて小和田駅を生活利用していた唯一の夫婦が暮らしていたということですが,近年,転居してしまいました。

 家屋を過ぎたところで山の中に入り,遊歩道も険しい山道となります。塩沢集落に行くには,ここを右側に沿って,山の稜線を行くのだそうですが,「この先崩土のために通行不可」とあって,行くことができませんでした。その代わり,左側に迂回路があるようでしたが,道があるのやらないのやらわからない状態でした。まだ時間の余裕はあったのですが,道に迷ったり,滑り落ちたりしたら大変なので,ここで断念して,引き返すことにしました。あるブログによれば,「この先崩土のために通行不可」でなかったころに,この先さらに山の稜線に沿って,さらに1時間以上かけてグングン登っていくと車道に出て,その先に塩沢集落があったということです。
 一度は行ってみたいものだ,という好奇心だけでやってきた,今回の飯田線「秘境駅」を巡る旅でしたが,率直にいって,何だこれだけのことか,というのが私の率直な感想です。

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 小和田駅着が午前10時11分でした。私は,小和田駅午前11時16分発の天竜峡駅行きに乗るので,この駅での滞在時間は1時間と少しと中途半端でした。何せ,ここから歩いていくことができる最も近い集落まで片道1時間強だから,行ってくることはできません。とはいえ,駅周辺だけでは,1時間あっても特にすることがないのです。
 仕方がないから,30分程度集落に向かって散策して,途中で戻ってくることにしました。

 ホームには「恋愛成就小和田」とありました。また,ホームから古びた駅舎に入ると,結婚式の写真がありました。さらに,駅舎から出て,少し下ると朽ちかけた展望台があって,そこには,だれも整備をしていないので汚くて座ることもできないハート形の椅子がありました。
 これらは,1993年(平成5年)現在の天皇が皇太子のとき,雅子さんとの結婚の折に,駅名が雅子さんの旧姓である小和田(おわだ)と同表記であるとして,恋愛成就にあやかろうとする人々で賑わったことからくるものです。当時,水窪町は,小和田駅の下にある広場で結婚式を開きたいカップルを募集し,挙式を行い,その結婚式を記念して設置されたものといいますが,そのままの状態なので,荒れるがままになっています。

 駅舎に新しい1台の折り畳み自転車がカバーに入れて置いてありました。おそらく,だれかがここに来て,自転車を置いて,散策しているようでした。しかし,それ以外には,人の空気はまったくありませんでした。
 これが噂の「秘境駅」か,と思いました。先に降りた金野駅とは異なり,趣と品格? がありました。しかし,私は,多くのブログに書かれているような最果てムードは感じませんでした。それは,これまで,私がアメリカのド田舎をドライブしたとき,これ以上に最果てを感じたところはたくさんあったし,ゴーストタウンも数多く見てきたからです。それに比べたら,列車を使えば簡単に来ることができるし,単に,今は人がいなくなって朽ちてしまった建物や機械が転がっている廃墟でしかありませんでした。

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 金野駅に戻りました。午前9時22分に列車がやってきました。
 私は,平岡駅から乗って金野駅で降り,付近を散策したのち,20分後にやってきたこの列車に乗って引き返しています。さすがにこの時間に上りに乗る人はそうはいないとみえ,車内は空いていましたが,この列車にも車掌さんが乗っていました。
 ちなみに,上りというのは東京駅に向かうもので,下りはその反対だと,子供のころに習いましたが,飯田線の場合,上りは豊橋駅に向かうもので,下りが辰野駅なので,感覚的には反対のような気がします。実際は,都会に向かうほうを上りというそうで,飯田線の場合,都会=豊橋市なのでしょう。
 今回は,車内で車掌さんから購入した乗車券はそのまま手渡されました。

 やがて,平岡駅まで戻ってきました。私は,この駅では降りず,小和田駅まで行きます。
 飯田線は,平岡駅から南に小和田駅まで,鶯巣(うぐす)駅,伊那小沢(いなこざわ)駅,中井侍(なかいさむらい)駅とあります。どこも1日の乗車人数は数人程度でしかありません。この中で,小和田駅が秘境駅ランキング3位,中井侍駅が10位ということです。中でも,小和田駅は飯田線の中では秘境駅ランキング1位です。
 そして,ついに,小和田駅に到着し,下車しました。ホームには,この列車に乗ろうと待っていた人が数人いて,私と入れ違いに乗り込みました。彼らば,小和田駅を散策したのち,帰るところなのでしょうか。
  ・・・・・・
 小和田駅は浜松市最北端の駅です。 駅前には何ら施設がなく,また,道路が通じていないため,自動車では訪問できないことから,鉄道ファンに「秘境駅」のひとつとして認知されています。秘境駅ブームの火付け役であり,「秘境駅へ行こう」の著書で知られる牛山隆信さんが最初に訪れた駅であり,牛山隆信さんが作成した秘境駅ランキングでは全国3位にランキングされています。
 開業当時の小和田集落は水窪の北西の玄関口で,大津峠を通って水窪市街地と奥三河・南信濃を結ぶ,街道上の要所となっていました。また,天竜川の川べりには筏だまりがあり,水運による木材輸送の中継地ともなっていました。しかし,1956年に完成した佐久間ダムにより,集落の川に近い部分は水没してしまい,今は,駅周辺に人家はなくなり,最も近い人家は,険しい山道を1時間ほど登った先にある塩沢地区の数軒のみとなっています。また,塩沢集落は,自動車が通行可能な道路が整備されたため,小和田駅を利用する住人はいなくなりました。
  ・・・・・・

 このところ,JRでは,駅の無人化が進み,また,廃線となるところも少なくないのに,どうして必要のない駅が廃駅とならないのか,私には解せません。飯田線の場合,やたらと駅が多いのですが,その多くは必要性のないもので,それらに停まらなければ,もっとスピードアップが可能になるのに,と思います。
 飯田線の「秘境駅」は,いわば,テーマパークのアトラクションなのでしょう。

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 飯田線の秘境駅巡りをしているブログが山ほどあるので,秘境駅について詳しく知りたい人はそれを読んでいただくとして,ここでは,私が何をしたかを書きます。それよりも,こうしたブログを読んで私がうんざりしたのは,急行「飯田線秘境駅号」の写真でした。人がうじゃうじゃ密になっていて,これでは渋谷駅前と変わりません。人はどうしてこうも群れたいのでしょう。秘境なんて,人がいないからこその秘境であって,あれでは単なる遠足です。とにかく,この国では,ブームとなると,何でも人が集まるのです。
 ということで,私は,急行「飯田線秘境駅号」の運行している日を避けて,ほとんど人の乗っていない列車で秘境駅巡りをしています。それでも,数人のカメラを持った若者が車内を動き回っては写真を撮っていました。そうです。うっかりしていました。この日は日曜日。「毎日が日曜日」の私は,曜日感覚を喪失していました。やはり,平日にすればもっと人が少なかったのに,と思いました。
 天気だけが心配でしたが,いつものとおり,今回もいい天気でした。しかし,意外だったのは,伊那路が名古屋より暖かいということでした。すでに桜がずいぶん咲いていました。それにくらべて,次の日に行くことになる木曽路は寒く,桜は,まだ,開花もしていませんでした。

 飯田線は,私が乗車した平岡駅から北に天竜峡駅まで,為栗(してぐり)駅,温田(ぬくた)駅,田本(たもと)駅,門島(かどしま)駅,唐笠(からかさ)駅,金野(きんの)駅,千代(ちよ)駅とあります。この中で,ある鉄道愛好家が作った秘境駅ランキングによると,為栗駅が13位,田本駅が5位,金野駅が6位,千代駅が20位ということでした。時間をかけてこれらの駅ですべて下車してもいいのですが,一旦降りると,次の列車が来るのに何十分も,あるいは,何時間も先になってしまいます。私はそこまでの趣味はありません。そこで,少し迷った末,金野駅で降りることにしたのです。
 降りてはみたものの,何があるでもなし。20分後に折り返しの列車が来るまで,道路があったので,少し歩いて見ることにしました。とはいえ,普通の道路が延々と続いているだけでした。要するに,金野駅を見るだけなら,車でも来ることが可能ということです。帰宅して,GoogleMaps のストレートビューで見たら,その先も延々と道路が続いていて,結局,最後は集落にたどり着くだけのことでした。こんなものは秘境とはいいません。
 それよりも,田本駅で降りるほうがよかったのです。ネットによると,田本駅には駅舎すらなく,まずは階段で駅の上まで登っていき,そこで絶景を眺め,その先は,断崖絶壁のウォーキングコースが続いているということで,秘境度という点では,金野駅よりずっとマシでした。おしいことをしました。

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 2024年3月31日から4月2日まで,2泊3日で飯田線の「秘境駅」を巡る旅に出ました。3月31日は日曜日なので,平日に行くと書いたこととは矛盾しますが,私の都合上,やむを得ず,こうなりました。今回もすばらしい天気でした。
 1日目は,前回書いたように,平岡駅に併設された旅館「龍泉閣」が予約してあったので,まず,車で平岡駅を目指しました。GoogleMapsによれば,自宅から平岡駅までは2時間程度ということだったので,午前6時ころに家を出ました。
 ところで,名古屋から塩尻までは,木曽谷と伊那谷があって,鉄道や道路は,そこを通ります。つまり,JR中央線や国道19号線は木曽谷を通り,中央自動車道と飯田線は伊那谷を通ります。
 ただし,地図を見るとわかるように,愛知県の北東部と静岡県の北西部は山ばかりなので,名古屋から伊那谷に出るのが大変なのです。飯田市以北の伊那谷は広い平地ですが,それ以南は平地がないのです。そこで,中央自動車道が伊那谷に入るには,中津川市を過ぎたあと,恵那山トンネルという8キロメートル以上もあるトンネルを抜けて飯田市に出て,伊那谷に入ります。
 JR飯田線は,豊橋駅を出発すると,宇連川(うれがわ)に沿って進み,鳳来峡からは,宇連川の支流である亀淵川沿い,そして,天竜川を北東に進んでいきます。しかし,佐久間ダムがあって行き場を失うので,水窪の方向へ迂回し,再び,天竜川沿いに戻るという複雑な経路をとります。その後は,天竜川に沿って進むのですが,このあたりの天竜峡までの山深い場所にあるのが,飯田線の「秘境駅」です。
 このようなわけで,車で平岡駅まで行こうとすれば,山の中の狭い道路を北上するか,あるいは,中央高速道路を走り,恵那山トンネルを抜けた後で,国道151号線を南東に進むことになります。国道151号線は交通量が少なく,快適なのですが,くねくね道が延々と続くので,運転がたいへんです。
 日本の山間部は,こうしたくねくね道ばかりです。現在は,道路工事によって,高架を造ることで直線道路に改良されていたり,山を貫く長いトンネルができている場所も少なくありませんが,そうした道路を走ると,よくもまあ,ほどんど車も通らないところに,すごいお金をかけて道を造るものだ,税金のむだ使いだ,と思ったりします。しかし,国道151号線のように,昔のままの道路を走っていると,今度は,何とかならないものか,と思ってしまう,身勝手な私に嫌悪感を覚えます。

 やっと,午前8時過ぎに平岡駅に着きました。平岡は,想像以上に開けた大きな町であることに驚きました。一体,この町でどのような仕事をして暮らしているのだろう? と思いました。何せ,都会へ出るには,国道151号線,国道418号線といったくねくね道しかアクセス道路がないからたいへんだし,産業といっても工場もなければ田んぼもなく,いったい何があるの? という感じなのです。
 「竜泉閣」は平岡駅に併設されていて,駅の待合室が旅館のフロントでした。旅館の人がいたので聞いてみると,午前8時32分発の列車に乗れば,午前中に「秘境駅」を全部巡ることができる,というではないですか。私が事前に調べたとおりですが,簡単にそういう返事をされて驚きました。
 つまり
  ・・・・・・
 平岡駅から,午前8時30分発の豊橋駅行きがありますが,これに乗ってしまうと,接続が悪く,戻ってくるのが大変です。しかし,午前8時32分発の天竜峡駅行きに乗れば,金野(きんの)駅着午前9時2分。20分後の午前9時22分発に中部天竜駅行きがやってくるので,それに乗れば折り返すことができて,平岡駅を通り過ぎて,小和田(こわだ)駅まで行くと,小和田駅着が午前10時11分。そして,1時間5分後の午前11時16分発の天竜峡駅行きに乗れば,午前11時36分に平岡駅に戻ってくることができるのです。
  ・・・・・・
 これだけのことなのです。
 「秘境駅」巡りのやり方とかいって,ごちゃごちゃとスケジュールを書いているブログのあるのですが,実はとても簡単な話でした。こうすれば,飯田線の「秘境駅」巡りなど,自宅から日帰りコースだったのです。大仰に平岡に1泊などしなくても半日で私の好奇心は満たされたのですが,先に「龍泉閣」の予約をしてあったので,せっかくだから泊まることにしました。

 では,話を戻します。
 平岡駅のホームにはすでに列車が停まっていましたが,これは午前8時30分発豊橋行きだから,乗ってはいけません。やがて,反対方向から列車がやってきて,これが午前8時32分発の天竜峡行きで,これに乗り込みます。
 事前に調べたところでは,飯田線はワンマンカーということで,乗り方も予習してきたのですが,さにあらず,ちゃんと車掌さんがいて,これにもがっかりしました。とはいえ,後日 -すでにブログには書いたのですが- 天童駅から羽前千歳駅で乗り換えて仙台駅に行ったとき,天童駅から羽前千歳駅までの列車がワンマンカーだったので,予習した成果が出て助かりました。
 私は,ついこの前,「これぞ秘境」という,雪深い只見線に乗ってきたばかりなので,それに比べたら,天気がよかったことも手伝って,飯田線は単なる山間を走る列車の旅だと思えました。
 ほとんど乗客のいない車内でした。車掌さんがやってきて,切符を買いました。目的地を聞かれて,だれも降りないような金野駅で降りると言うのが物好きに見られるようで恥ずかしいくらいでしたが,お金を払うと,無人駅だから切符は預かります,と言われて,さらに驚きました。車掌さんが覚えることができるほど乗客が少ないのです。
 天竜峡沿いの景色を見ていたら,それなりに楽しかったけれど,期待していたような秘境感はまるでありませんでした。ほどなく金野駅に到着したので,列車を降りました。

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 JR飯田線は,豊橋駅と辰野駅を結ぶ鉄道路線で,周囲に人の気配がなく利用者もほとんどいない「秘境駅」が多数あることで有名です。そこで,一度そうした駅に行ってみたいものだと思っていたのですが,勝手がわからず,実行できませんでした。
 これまでやっていないことをわざわざやってみよう,というこのごろの私の楽しみのひとつとして,ぜひ「秘境駅」巡りを実行してみようと,情報を収集することからはじめました。いつもは,出たとこ勝負なのですが,列車の本数も少なく,行き当たりばったりでは帰れなくなるおそれがあったからです。
 JR東海も「秘境駅」がウリになることを知って,近年は,豊橋駅と飯田駅間に,急行「飯田線秘境駅号」なるものを月に3回ほど運転しています。「飯田線秘境駅号」というのは,鉄道マニアのために,本来,特急「伊那路」では通過する「秘境駅」に数十分間特別に停車する列車で,その見返りは急行料金です。しかし,群れることが嫌いな私は,鉄道マニアであふれると思われる,そうした列車に乗る気も起きず,ほとんど人がいないと思われる平日に,自力で巡ろうと思ったわけです。

 まず,「秘境駅」はどこなのか? からです。
 調べていくと,小和田(こわだ)駅,田本駅,金野(きんの)駅の3駅が「秘境駅」の中でも代表的な「秘境駅」だということがわかりました。
 次に,JR時刻表から,この3つの「秘境駅」に停車する,そして,出発する時間がわかるようにまとめてみました。なお,この表で↓↑と入力してある駅は通過するという意味ではありません。単に,列車の進行方向を示しているだけです。この表を作ったのは,列車の本数の少ない飯田線では,一度降りてしまえば,次の列車が来るのが2時間後,などということもざらにあるから,逆方向の列車に乗って,行ったり来たりすれば何とかなるかもしれない,と思ったからですが,それには,JR時刻表のように,上りと下りが別々ではわかりにくいのです。
 そして,私のまとめた表に従って,どこで乗ってどこで降りたらいいのかな,と考えて,日程を立てはじめたのですが,そのとき,「秘境駅」である小和田駅と田本駅,金野駅の中間にある平岡駅に「竜泉閣」という旅館が併設されていることを知りました。平岡駅周辺は町らしいので,何と,そこまでは車で行くことができるのです。

 これらのことから,はじめは,自宅から列車で豊橋駅に行き,豊橋駅から飯田線に乗って,そのまま「秘境駅」を巡りながら北上して,天竜峡駅や飯田駅の近くで宿泊しようと思っていたのが,平岡駅まで車で行って,平岡駅から北にある田本駅,金野駅,南にある小和田駅という「秘境駅」へ行ったり来たりすればいい,ということがわかったので,さっそく「竜泉閣」を予約をしました。
 残る問題は天気だけでしたが,晴れ男の私なら,きっと大丈夫でしょう。

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 午後5時,木曽駒高原のゲストハウスヒルトップに到着しました。さすがに気温が低いところだけあって,ちょうど,満開の桜が迎えてくれました。到着したときは快晴だったのですが,夕食のころには曇ってしまい,せっかく星見を楽しみにやってきたのにと,少しがっかりして,早々に寝ました。このごろは何事にも執着心がなくなってしまいました。しかし,すでに書いたように,深夜になって晴れ上がり,今回もまた,すばらしい星空を見ることができました。
 私は,このペンションでの晴天率が異常に高く,ほぼ毎回,星をみることができます。
 翌日も朝から晴れ上がったので,朝食後,早々にチェックアウトして,雲ひとつない御嶽山を見ようと,開田高原へ急ぎました。

 開田高原の木曽馬の里では,ちょうど,コブシの花が満開でした。
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 コブシ(Magnolia kobus)は,モクレン科モクレン属に属する落葉高木の1種で,早春に葉が展開する前に他の木々に先駆けて白い大きな花をつけます。花は3枚の萼片,6枚の花弁,らせん状についた多数の雄しべ・雌しべをもちます。
 コブシの名前の由来は,つぼみの形を握りこぶしに見立てたとする説や,つぼみが開花する様子を握りこぶしが開く様子に見立てたとする説,でこぼこした果実の形を握りこぶしに見立てたとする説などがあります。コブシがそのまま英名の基となっています。また,漢字では辛夷と書きますが,中国では辛夷(しんい)はモクレンのことなので,中国でコブシは日本辛夷と書きます。
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 私がコブシといって思い浮かぶのは千昌夫さんの歌った「北国の春」という歌です。
「コブシ咲くあの丘北国のああ北国の春」なんですが,私は,コブシという花をこれまで知りませんでした。

 さて,帰りもまた,国道19号線を下るのではなく,権兵衛トンネルを抜けて,国道153号線を南下して,奥三河を経由することにしました。とはいっても,あまり時間もなかったし,日曜日でどこも人がいっぱいそうだったので,地図で目についた四谷の千枚田というところにに行ってみることにしました。こんなところなら,ほどんど人もいないだろうなあと思いました。
 国道153号線から途中で国道257号線,そして,県道389号線,県道32号線と進みます。このあたりも行ったことがなかったので,どんなところかと好奇心もありました。
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 鞍掛山の斜面に広がる山間集落に,約400年前に開墾された美しい棚田が広がっています。
 標高220メートルから420メートルにかけて連なる石積みの棚田では,今でも20戸の農家が約420枚の田を耕作していて,先人たちが残した偉大な財産を風化させることなく,地域の人々が主体となって使命感をもって守り続けています。
 山の中腹からこんこんと湧き出る澄んだ水は,大雨が降っても濁ることがありません。水と緑にあふれた棚田は様々な動植物の住処にもなり,まるでおとぎ話のワンシーンのように人と自然が共生する日本の原風景が脈々と息づいています。
  ・・・・・・
 ということで,これまで多くの千枚田を訪れたのですが,ここが最も広く,きれいでした。こんなとところだれが来るのかと思っていたのですが,帰ってから知ったことに,「JAF MATE」の2023春号に載っていて,それが理由かどうかは知らないけれど,予想以上に人が来ていました。
 千枚田の下に数台車が停められるスペースががあって,そこに車を停めて見上げている人が多くいたのですが,それを過ぎて,さらに中腹まで行ったところにも駐車場と展望台があって,そこでは週末限定で地元の人が五平餅を売っていました。お昼を食べ損ねていたので,というか,お昼が食べられるところは道の駅くらいしかなく,そのどこも混雑していたので敬遠していたので,ここで,お昼代わりに五平餅を食べながら,おばちゃんたちとしばし雑談をしました。そして,さらに一番上まで登れる道を教えてもらうことができました。

 こうして,今回もまた,思いがけない情報を手に入れて,数多くの知らなかった場所に行くことができました。
 奥三河といっても,私は,これまで,足助とか茶臼山とか鳳来寺といった,だれもが知る場所しか行ったことがなかったので,愛知県内にもこんなおもしろいところがあるなら,一度,ゆっくり泊りがけで来てもいいなあ,と思ったことでした。
 四谷の棚田を見たあとは観光客だらけの足助を経由して,猿投グリーンロードという,勝手知ったる道を通って帰宅しました。

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 走ってきた国道151号線は飯田市で終点なので,そこからは国道153号線を北上すると書きましたが,私は,飯田市で道を間違えてしまいました。国道153号線は,国道151号線と立体交差をしていて,自然に入ることができないのが原因です。日本の道路事情と道路標示はアメリカに比べてまことにわかりにくいといつも思います。多くの道路が交差していると,もはやカーナビを見ていても間違えます。
 複雑な立体交差で曲がるのを忘れてそのまま直進して飯田市内の西のJR飯田駅まで来てしまいました。そこで,国道153号線に平行に北上する伊那南部広域農道を走ることにしましたが,そこに入るまで市街地の道路は,信号のタイミングがかなりひどく,数メートルごとにある交差点に差し掛かるたびに,直進をしているのに,まるで嫌がらせのように赤に変わるという有様で,全く進まず非常に腹立たしいものでした。これだけでも,飯田市には住みたくないと思いました。
 さて,どうにかこうにか,ずいぶんとバカに時間を浪費したあげく伊那南部広域農道に入りました。その後は信号もなくなったので,延々と北上して,なんとか権兵衛トンネルのある国道361号線までやってきました。その途中,木曽山脈がきれいに見えました。

 権兵衛トンネルができたおかげで,伊那路から木曽路へは塩尻まで北上しなくてもすむようになったのです。
  ・・・・・・
 江戸時代,塩尻市出身の古畑権兵衛は,ウシを使った物資の輸送で生計を立てていました。当時の木曽谷は道路事情が悪く,物資の輸送が困難で,米価の変動が激しかったことから住民の生活が安定しませんでした。伊那谷の交通に着目した古畑権兵衛は,有力者を説得して峠道の改良に着手させることに成功し,1696年(元禄9年)に姥神峠,鍋懸峠を越える街道の整備が完成。峠には権兵衛の名が冠せられました。
  ・・
 権兵衛トンネルは,国道361号が木曽山脈を貫いて結ぶ,全長4,467メートルのトンネルです。冬期は通行止となる既存の権兵衛峠に代わり,伊那と木曽とを結んでいます。1993年(平成5年)に工事が開始されましたが,もろい地質などで難工事となり,2003年(平成15年)にようやく貫通し,2006年(平成18年)に供用を開始しました。
  ・・・・・・

 この日宿泊するゲストハウスに着く前,ちょうど夕日が沈む時間の少し前だったので,キビオ峠に寄ってみました。
 キビオ峠からは,標高3,067メートルの御嶽山まで直線で26キロメートルもあるのですが,手前に遮る山がなく,美しい御嶽山の雄姿を眺めることができるのです。また,御嶽山だけでなく,乗鞍岳も全貌を望むことができるし,さらに右手には,ほんの少しだけですが,前穂高岳も顔をのぞかせています。キビオ峠から見える前穂高岳は,山頂が尖がっているので,一見,槍ヶ岳の様に見えるのですが,正真正銘,前穂高岳です。
 この日のキビオ峠は,ほかにだれもいなかったので,そんな景色をひとり占めすることができました。

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 国道151号線を北上しています。
 このあたり,根羽村,売木村,平谷村,阿南町と,地図で見ると,何だか星がきれいに見られそうな場所がたくさんあって,昔は憧れていましたが,これまで行くこともありませんでした。それは,山深く,空が開けたところがどこかよくわからなかったことと,それ以上に,私の住むところからは2時間以上もかかり,わざわざそんな時間をかけてまで行く気にもならなかったことが理由です。
 今は,星見は木曽駒高原で十分なので,あえて知らないほかの場所に行く気もないのですが,手ごろな温泉つきの宿泊施設でもあれば,平日の人の少ないときに出かけて,のんびりしてくるのも悪くないなあ,と思っているのですが,さて,どうなることか。

 などと思いながら走っていると,新井展望公園という道路標示を見つけました。しらびそ高原あたりは天気が悪かったのですが,このあたりになると青空ものぞいていたので,展望ということばに惹かれて行ってみることにしました。
 展望公園に行く途中に,吉岡城がありました。
 吉岡城は15世紀後半の文明年間に,小笠原政康の子孫である下条康氏によって築城されたものだそうですが,この時代は,こうした標高が500メートルくらいの小山はどこも砦になっていたわけで,ここもそのひとつだったのでしょう。1587年(天正15年)廃城となり,現在は吉岡城址公園となっています。
 狭い道路を思った以上に登って行くと,新井展望公園に着きました。駐車場という特別な場所はなかったのですが,駐車するスペースがあったので,そこに車を停めて展望台に行きました。この展望公園は「伊那谷最南端の絶景の地!」ということで, 中央に果てしなくのびる伊那谷,左手には中央アルプス,右手には南アルプスを望むことができる場所で,すばらしい景色が広がっていました。
 この展望公園には,ベンチやテーブル,東屋,トイレが整っていました。
 ほかにだれもいなかったのが幸いで,ひとり静かに展望を楽しんでいたのですが,しばらくすると,私の嫌いなライダーたちがやってきたので,去ることにしました。ひとりやふたり連れならともかく,どうして,この人たちは群れたがるのでしょう。どんな狭いところにもやってくるので,雰囲気台なしです。

 このあたりは下條村といいます。山林が約7割を占める下條村は,タレントの峰竜太さんのふるさとだそうです。私はまったく知らなかったのですが,2000年代半ば,下條村は「奇跡の村」として注目されたといいます。それは,少子高齢化の時代に,わずか10年で総人口の1割近い人口増を達成したという話題があったからです。しかし、それから10年以上がたった今は,人口も減少に転じ,今度は逆に多くの問題が山積しているということです。
 それはともかく,下條村の観光協会のホームページを見ると,旅をするにはなかなか魅力的なところに思えます。それほど遠くもないので,このあたりで1泊するのもいいかな,と思いはじめました。
 下條村を過ぎると,今度は,天竜峡という道路標示があったので,行ってみました。
 駐車所が菜の花が美しい場所にあって,そこから天竜峡を見ることができました。天竜峡にはライン下りが運行されていて,私は利用したことがないので,一度,利用してみてもいいかな,と思いました。
 このあたり,伊那路も奥が深い。まだ,知らないいいところがたくさんあります。

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 しらびそ高原から国道152号線に戻ってきました。
 今回は,ここから国道152号線を南に走り,途中で国道151号線に通じる国道473号線に右折して,今度は国道151号線を北上して飯田市までまで行き,国道153号線でさらに北上して,国道361号線に左折して権兵衛トンネルを越えて,国道19号線に出て南下,目的地の木曽駒高原に行くことにしました。こんなバカげたジグザクの遠回りをするのは,平行する国道152号線,国道151号線と国道153号線,そして,国道19号線がそれぞれ,杖突街道,伊那谷,木曽谷と,別の谷を通っていて,その間に険しい山脈があって,ほとんど東西を結ぶ道路がないことと,これまで走ったことがないところがどうなっているかを知りたかったことにありました。
 特に,長野県上田市から八ヶ岳や南アルプスの山間部を縦断して,静岡県の天竜川や支流の水窪川に沿って浜松市街に下る国道152号線は車両通行不可能な分断区間が2箇所に渡って存在し,赤石山脈沿いの山岳路では自動車1台分の道幅しかありません。また,地蔵峠と青崩峠には車道は通じていないので,峠を越えるためには登山道を徒歩で登っていくか,林道で迂回する必要があるなど,「酷道」のひとつに数えられているということで,これまで私は地図で見ただけで,どんな山の中かと思っていたのです。
 しかし,走ってみて驚きました。山の中を狭い道路だけが続いているのかと想像していたのに,結構多くの民家があったからです。こんな不便なところに住んで,一体何を生業としているのか,私には謎でした。日本では,どこまで山奥に行っても人が住んでいます。それはそうと,中央構造線があったり,広く快適だった道路が突然狭くなり工事中だったりと,走っていて飽きることはなかったものの,これまで,四国地方や紀伊半島を走ったときに,日本の山の中は今もこんな感じなんだ,と衝撃を受けたのですが,まさか,中部地方でも同じだということをこれまで知りませんでした。
 ちなみに,国道152号線は三遠南信道という100年後も完成しないといわれる高速道路に準じた道路が作られる計画があるのですが,それが一部開通していたり,あるいは,工事中だったりしています。

 ところで,私が国道151号線を走ったのには,また,別の理由がありました。それは,東栄町御園というところに行ってみたかったからです。
 まず,国道151号線沿いに,「レストハウス東栄」という食堂があったので,おすすめの「旬のランチの定食」を注文しました。おそばだけでも十分なほどすごい量でしたが,なかなかおいしい食事ができてすっかり満足しました。ここの女将さんはとてもいい人でした。
 さて,東栄町の町から北に山の中を入って行った御園という集落には,かつて,御園天文科学センターがありました。金子式プラネタリウムを開発した豊橋向山天文台の金子功さんが,豊橋市内では星が見られなくなって山の中に引っ越して作った施設・御園天文台を拡張したものでした。学生のころ,満足に星を見たことがなかった私は,ここならきれいな星空が見られるだろうと憧れていたところでした。当時は車をもっていなかったので,国鉄といったころの飯田線に豊橋駅から乗って東栄という駅で降り,1日に数本しかないというバスに乗り損ねたので2時間くらい歩いて御園まで行って,金子功さんにお会いしたのが今から45年前のことでした。
 金子功さんは2009年に90歳で亡くなったということなので,当時59歳だったのです。初老のすてきな人で,アポイントもなく行ったのですが,暖かく迎えてくれました。廃校になった御園小学校の旧校舎を利用したところで,金子式プラネタリウムと口径30センチメートルの天体望遠鏡が備えられていました。ミカンを食べながら話が弾み,ここに住んでみないかと言われたのですが,当時は,まさか,と思いました。弟子入りすればよかったのに,惜しいことをしました。しかし,もし,そんなことをしても,こうした田舎で私が生きていけたとは思えません。

  ・・・・・・
 当時,金子功さんは,御園天文科学センターを単なる天体観測施設ではなく,所有していた天文機材のほとんどを町に寄付し,つぎのような「文教の里づくり構想」を打ち出しました。
 1.天然自然に恵まれた地域の特性を生かした「天の利」
 2.土地の生産力を高め経済力をつけるための「地の利」
 3.数々の施設を中心とした文化活動を通じての「人の和」
 しかし,この構想はこの地の人には理解されませんでした。
 行政側は施設建設さえ終わってしまえばあとはさして関心を示すこともなく,天文施設は町のお飾りになってしまったのです。 行政側からは「天文台を自分のもののように勝手に運営している」だとか「何を企んでいるのか信用できない」という声が上がりはじめ,悲嘆に暮れる日々が続くようになりました。 結局,田舎自治体の保守的・封建的な考え方が金子功さんの自由な発想に追いつけなかったわけです。
  ・・・・・・
 その後,御園天文科学センターは廃止されて,町主導で新しく作られたのがスターフォーレスト御園でした。私も一度行ったことがあるのですが,何か金子功さんの意思とは違うなあと,あまりいい印象は持ちませんでした。また,私は,こうした一般の人を対象とする施設は嫌いなので,それ以後は行っていません。
 今はどうなっているのかな,と思って今回寄ってみたのですが,御園天文科学センターは使われないまま未だ存在し,スターフォーレスト御園は健在でした。昔話でもしようとスターフォーレスト御園を訪ねてみたのですが,田舎の排他的な空気を感じ,特に星好きでもなさそうな職員の人のお役人的対応にすっかり気分が悪くなりました。夢から覚めた気持ちでした。
 私は,ここで星見をする気もなく,過去の自分の足跡をたどる,というか,曖昧になってきている記憶を書庫にいれるような旅をしているだけなので,何方道(どっちみち),もう来ることはないけれど。

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 2023年4月22日から4月23日,1泊2日で木曽駒高原に出かけた途中でまず寄ったのがしらびそ高原でした。
  ・・・・・・
 しらびそ高原は長野県飯田市上村にある標高1918メートルの高原です。「しらびそ」とは高原付近の植生であるマツ科モミ属の樹木であるシラビソに由来します。
 矢筈トンネル東出口から市道上村1号線を登ったところにあって,日本三百名山の奥茶臼山の登山口でもあるしらびそ峠の南方徒歩10分ほどの場所に,高原の中核施設となる宿泊施設のしらびそ高原天の川があります。
 高原からは南アルプスの山並みが一望でき,天気がよければ北アルプス,中央アルプス,御嶽山や恵那山まで見渡せます。また,本州有数の天体観測スポットとして知られています。
  ・・・・・・
 今から40年ほど前,しらびそ高原は星がきれいだということで知りました。
 そのころは,どこで美しい星空が見られるのかを知らなかったので,そんなところならぜひ行ってみたいものだと思ったのですが,地図で見るとあまりに遠く,そもそも,しらびそ高原に行くには,国道152号線という,南アルプスの西側の山麓を南北に走り,しかも,途中で国道がなくなってしまうという道路を越える必要があって,そんなえらい山の中に行くのはたいへんだと,なかなか行く機会がありませんでした。星を見るために3時間も遠征するのもどうかと思ったのです。
 今の私は,日本国内だけでなく,ハワイやオーストラリア,ニュージーランドで満天の星を見てきたこともあり,日本国内で星見をするには,今回も行った木曽駒高原で十分だと思っているし,もともと晴天率の低いこの国で星見を目的にそんなに遠くに行くのはリスクが大きすぎるので,まったく魅力を感じないのですが,それとは別に,今私がやっている「一度は行ってみたいと思っているところは今行かねばきっともう一度も行くことはないだろう」の一環として,好奇心だけで思い切って行ってみたわけです。

 それにしても遠いところでした。
 国道153号線,国道418号線と山の中を東に東に走りました。途中,ものすごく立派な道になったり,あるいは,すれ違うのもやっとという道になったりと,この国のどこにもある道路事情と同じだったのですが,最短に走って約3時間かかりました。
 この日,家を出たときはとても天気がよく,木曽谷まではその状態だったのに,伊那谷を越すと曇りになってしまったのがとても残念でした。こんなに遠いのか,と思いながら,やっと到着したしらびそ高原には,「天の川」というとても立派なホテルがあったのに驚きました。そして,週末だからか,多くの宿泊客がいました。私は,もっと何もない山奥だとばかり思っていました。
 確かに,ここなら,視界が広いので,晴れてさえいれば,とても美しい星空が見られることでしょう。しかし,こんな立派な宿泊施設があっては多くの人が来るだろうから,落ち着いて星見をすることができそうにないので,私向きではないなあ,と思いました。また,宿泊施設の部屋の明かりでせっかくの暗い空が台なしです。以前,しらびそ高原に星見を目的で行った人が期待外れだったと言っていたのですが,その理由がわかりました。
 観光が目的で宿泊するにはよさそうなところですし,普段,星を見たこともない人が単に満天の星を見るにはいいところなのかもしれません。しかし,ここに泊まっても,次にどこに行く,というところもなく,それにしても遠いから,拡張性はありません。

 今回は,せっかく行ったのに,霧が出ていて,あまり南アルプスの雄大な景色が見られなかったのが残念でしたが,まあ,一度は行ってみたかったしらびそ高原というところがどんなところかわかったので,満足でした。

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 こうして,私は,信州への小旅行を終えて自宅に戻ってきました。さて,これからどうしよう?
  ・・
 2020年のころは,コロナ禍が落ちついたらインバウンドが再びはじまる前に日本一周旅行をしようと思っていました。しかし,2年前,Go To Travel 政策で,コロナ禍が落ち着く以前にすでに旅が再開されはじめるという現実を知って以来,私の思っていたことは所詮夢だとわかりました。投資と同じように,世間はせっかちだったのです。
 それでも,今はまだ,インバウンドは起きていないし,地域割りなどで場所を選べば安価に旅ができるので,とてもいい時期です。
 私は,もともと人混みは嫌いだし,人の少ないところにしか行かないし,飛行機の利用以外はほぼ車だし,ということで,世間の諸事情とはあまり関係ありません。また,後日書くことになると思いますが,この秋から月に1回程度東京へ行くことを予定しているのですが,このときに使う新幹線はグリーン車と決めています。

 コロナ禍であろうとなかろうと,海外旅行での出国や入国が楽になろうとそうでなかろうと,そんなこととは別に,異常な円安で海外での滞在費と飛行機の燃料代が高くなってしまったことと,ウクライナ情勢のためにシベリア上空を飛行できなくなったことでヨーロッパに行くのに倍近い時間がかかることで,当分は海外に行くことができません。それに,ぜひ行きたいと長年思っていたところは,すべて行きつくしました。
 そこで,しばらくは日本を旅することに決めました。これまでにも,国内の旅はこころでするものだと書いているように,私にとって,ほとんどの名所・旧跡は,とりあえず一度見ておけばそれで十分で,日本国内で,落ち着いて楽しい時間を過ごせるのは,なるべく人の少ないところしかないと確信しました。そんなわけで,今は,Google Maps からそうした名もなき場所の小さな温泉宿を探してはそこに行こうと思いを巡らすのが最も楽しい時間なのです。
 狙っているのは,北海道は別格として,東北,紀伊半島,四国,そして,佐渡,石垣島のような離島です。ただし,日本は,夏はどこへ行っても暑いこと,秋は台風の心配があること,冬は雪,そして,春は黄砂と,なかかなよい季節がないのが最大の欠点です。幸い私は晴れ男なので,これまでどこに行っても天気に恵まれたのでよかったのですが,天気が悪いと楽しさが半減してしまいます。
 まあ,当分,そんなことを考えながら,少しでも楽しい旅ができるようにいろんな計画を立てているのです。


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 1泊2日の旅。
 1日目は,上田,小諸と観光して,宿泊先であるいつもの木曽駒高原へ行って,ゲストハウスで楽しい夕食と朝食をとりました。残念だったのは晴れなかったことで,星空をほとんど見ることができませんでした。
 さて,2日目は,木曽谷でなく伊那谷を通って帰ることにしていました。これまで,伊那谷を通る中央高速道路は何度も走ったことがあるのですが,走っただけで,伊那谷はほとんど知りませんでした。一度は,と思っていても,その機会がこれまでなく,そろそろ,本当に,一度は,というのを今実現しないともう行くこともないと思うようになったので,今回は,伊那谷を通る一般道である国道153号線を走ることにしたのです。

 昨日のように,朝,木曽駒高原から国道19号線を少し北上して右折,木曾山脈を貫く国道361号線を多くのトンネルをくぐりながら越して,伊那谷に行きました。そして,国道153号線に出て,南に走っていきます。
 高遠,駒ケ根,松川,飯田までは中央高速道路のインターチェンジにその名があるので親しみのある地名ですが,その南の阿智村,平谷村,根羽村,売木村あたりのことがわかりません。
  ・・
 私の持っているガイドブック「信州」にも載っていません。このあたりも確かに長野県なので すが,ガイドブックはこの場所を信州と認めていないようです。
 また,昔,愛知県の三河地方の山の中に星がきれいなところがないかと探したことがあったのですが,そのとき,東栄町,茶臼山といったあたりまでは行っても,その北側まで行くことはありませんでした。
 また,近ごろは,阿智村が「星空日本一」といって売り出しているのですが,私は,そうした一般向けの観光地に行く気はないのです。

 伊那谷は木曽谷とは違って,飯田市までは日本離れした,というか北海道のような,というか,そうした高原ムード満載のところだったのですが,やがて飯田市の市街地に到着すると,思った以上の都会で,道路も広く,車も多く,私は,げんなりしました。私がめざしているのは,こんな場所ではないのです。
 国道153号線はのろのろと車の多い飯田の市街地を越えると,急に山が深くなりました。そうして走っていくと,やがて,阿智村に着きました。阿智村もまた,思ったより家が多く,ここが本当に星空がきれいなところなのかなあ,と思いました。阿智村の街中を越えて再び山の中に入ると,治部坂高原スキー場がありました。どうやらここが「星空日本一」の場所らしいのですが,今年の夏のように,ほとんど晴れないようでは開店休業といったことろでしょう。
 ニュージーランドのテカポ湖とは違い,あまりに天気の悪い日本では星空を観光資源にしても,なかなか根づかないことでしょう,私のまわりにも阿智村に星を見にいったという人は少なくないのですが,晴れていて星空を堪能した,という人はほとんどいません。

 私の密かな目的地は売木村でした。それは,この村が山村留学の場所として知っていたことと,この村こそ星がきれいだと聞いていたので,昔から気になっていたからです。しかし,売木村は国道153号線沿いにはないので,平谷村で左折して,さらに国道418号線を進むことになりました。
 国道418号線のくねくね道を越えると,やがて売木村が見えてきました。
  ・・・・・・
 売木村は信州最南端の村のひとつで,愛知県最高峰の茶臼山北麓に位置します。4つの峠に囲まれた小さな盆地は「ふるさとの原風景」という表現がぴったりののどかさなところで,村の面積の88パーセントを森林が占め,人口は約500人の,まさにうるおう木の村です。
  ・・・・・・
 というのがこの村のアピールですが,私は,この村,とても気に入りました。まさに,私が探していた日本の原風景でした。
 一応,ここも長野県なので,朝,木曽駒のゲストハウスでもらった2,000円分の県民割のお土産券を使って,道の駅で昼食をとることができました。もし私がもっと若かったら,この村の移住・定住促進にのっかって住んでみたいほどのところでした。温泉や宿泊施設がいくつかあるようなので,そのうち,ぜひ,この村に滞在してみようと考えています。私は,観光地よりも,今は,こうしたところに魅力を感じるのです。

 すっかり売木村に魅入られましたがそろそろお別れです。
 売木村から,さらに,国道153号線を通り,愛知県に入って,稲武町を経由して帰宅しました。
 稲武町の道の駅には多くの観光客や車が停まっていて,夢から醒めました。
 伊那谷には,飯田から南に国道152号線,さらに,南アルプスの西側山麓を走る国道151号線があるので,次回はぜひ,それらの道を走ってみようと思います。
 コロナ禍でも起きなかったら,おそらくこの夏も海外のどこかに行っていて,こんなところを走ることはなかったことでしょう。これもまた,まさに塞翁が馬です。どこへ行っても,旅はいいものです。

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 上田を出て小諸に向かうとき,ちょうどお昼になりました。
 信州でお昼といえば定番はおそはでしょう。ということで,手ごろで,おいしそうで,かつ,空いているおそば屋さんを探しながら走っていくと,小諸に着いてしまいました。
 懐古園の駐車場のわきにおいしそうなおそば屋さんがあったので,迷わず入りました。前回,安曇野に行ったときは,ワサビ園の中にもおそば屋さんがあったのですがとても混雑していて,私は,その前に空いていたおそば屋に入ったのが正解でした。
 後で知ったことには,懐古園の中にもおそば屋さんがあって,そちらのほうが空いていたので,今回はその反対になってしまいました。おそばはおいしかったのですが,おそば屋やさんはごった返していて,それだけが残念でした。
 私は,コロナ禍とは一切関係なく,常に,混雑するところは嫌いです。どんなにおいしかろうと,並んでまでして食べる気にはなりません。

 懐古園の駐車場もまた混雑していました。なにせ,この日は夏休みでもあり日曜日でもありました。
 すでにこの時点で嫌になったのですが,何と意外ななことに,懐古園の中は空いていました。一体,あの,ごった返していた観光客はどこに行ってしまったのでしょう。不思議な話でした。
  ・・・・・・
 小諸城は1487年(長享元年)に大井光忠によって築城されました。戦国時代は武田信玄の東信州経営のための縄張りとされ,現在残っている城跡の元になったのは,武田信玄の軍師であった山本勘助の縄張りだと言い伝えられています,
 安土桃山時代から江戸時代にかけて近世城郭に改修され,現在のような構えとなったのは仙石秀久の改修によるものです。
 明治維新後,城跡は,1880年(明治13年)に旧小諸藩士らが払い下げを受けて取得し,1926年(大正15年)に,当時の小諸町が園地の拡張を行い,史跡の自然景観を活用した公園としました。
 現在は市営公園小諸城址懐古園として整備,公開されています。園内には小山敬三美術館,小諸市立郷土博物館,藤村記念館などがあります。また,懐古園の入口は旧三の門を利用していて,徳川家16代徳川家達の筆による「懐古園」の扁額が掲げられています。
 懐古園の敷地の多くは宗教法人の懐古園保存会が小諸市に賃貸することで賃借料を得ていることで,このことが,宗教上の問題となっている,という指摘があるそうです。
  ・・・・・・

 私は,岡山の後楽園のようなところを思い浮かべていたのですが,懐古園は私が想像していたような感じとは少し違いました。
 懐古園はコスプレが流行っているみたいで,ウェブページや twitter にもそれが奨励されているかのような記述があります。この日もまた,入口によくわからないコスプレの人たちがいました。博物館,美術館,藤村記念館といった施設とはちょっと異なる趣で,何をターゲットにしているのかよくわかない話だと思いました。
 私は,落ち着いた場所を望んでいたのですが,懐古園自体は静かで,人も少なかったので,その点はとてもよかったです。しかし,猛暑で,これには参りました。
 一休みして何か飲み物でもと園内を歩いていて,私が見つけたのが,さびれた茶店でした。そこにあったのはかき氷。このお店のかき氷は昔懐かしい手動の氷かき器で作られるもので,これには感動しました。私が注文したのは宇治金時。お皿の底にはおいしい小豆が詰まっていました。
 インバウンドの去った今こそ,日本らしい日本を静かに味わう旅をするチャンスです。今は静かな懐古園も,おそらく数年前なら,海外からの観光客でごった返していたことでしょう。

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 小諸には小山敬三美術館とアトリエを一部移築した建物もありました。小山敬三は,小諸市に生まれた西洋画家で,浅間山や白鷺城をモチーフとした作品群が代表作として知られています。
  ・・・・・・
 小山敬三は1897年(明治30年)に,江戸時代から味噌・醤油の醸造業を営む裕福な商家でうまれ,1987年(昭和62年)に亡くなりました。画家を目指していましたが,父が反対し,やむなく慶應義塾大学理財学科に進学します。しかし、画家になるために慶應義塾大学を中退,洋画家の藤島武二に師事しました。
 1920年(大正9年)にフランスに留学,1928年(昭和3年)に日本に帰国し, 茅ヶ崎にアトリエを建てて数々の作品を制作しました。
  ・・・・・・

 小山敬三の作品を見ていて,私は,地元の荻須高徳という西洋画家を思い浮かべました。
 荻須高徳の地元である現在稲沢市には,現在,美術館があって,館内にはアトリエも再現されています。
  ・・・・・・
 荻須高徳は1901年(明治34年)に地主の子として生まれ,1986年(昭和61年)に亡くなりました。東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学し,1926年(大正15年)に卒業と同時に渡仏[しました。1939年(昭和14年)に戦況悪化のため一時帰国を余儀なくされましたが,1948年(昭和23年)に再びフランスに渡り,亡くなるまで滞在しました。
  ・・・・・・
 小山敬三と荻須高徳はほとんど同時期の画家であり,同じころにフランスにいたことになるのですが,このふたりの画家に接点があったのかどうかは,調べてもよくわかりませんでした。

 また,稲沢市のお隣の一宮市には,三岸節子記念美術館があり,ここもまたアトリエが再現されています。
  ・・・・・・
 三岸節子は1905年(明治38年)現在の一宮市)に織物工場を営む裕福な家生まれ, 1999年(平成11年)に亡くなりました。 1921年(大正10年)年に上京し,洋画家・岡田三郎助のもとで洋画を学び,1924年(大正13年)に洋画家・三岸好太郎と結婚しますが,1934年(昭和9年)に夫と死別します。1954年(昭和29年)にははじめて渡欧し,それ以降はヨーロッパに赴いて風景画を多数手がけました。1989年(平成元年)に84歳で帰国し,以後は神奈川県大磯町の自宅兼アトリエにて制作を続けました。
  ・・・・・・

 明治時代の名士は,画家に限らず,作家も学者もそうですが,裕福な家に生まれ,恵まれた環境の中で,もともと才能のあってその能力を開花した人が多く,いわば,育ちがいい,という点で,独特な雰囲気があります。それは,否定的な話ではなく,現在のような過当な競争社会,利益優先の社会とは違って,ゆとりというか,大きさを感じます。
 こうした美術館などで時間を過ごすと,何か自分も少し賢くなった気がするのが不思議です。
 この時代,留学を経験すると,絵画の場合も音楽の場合も,日本の文化と西洋の文化のはざまで壁にあたってしまう,というのが常でした。小山敬三もまた同様で,これを,日本の城を描くことで克服したといいます。城やダムといった巨大な建物が多く描かれています。中でも「浅間山」や「白鷺城」は、小山敬三の二大モチーフとして知られています。小山敬三の画風として特長的なのは、独特な構図とダイナミックな輪郭線、そして油彩の良さを最大限に引き出した独自の色彩表現です。「寡黙な色彩」と評されるように、画面からは圧倒的な密度と重さが感じ取れます。

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 小諸といって私が思うのは千曲川。千曲川といって思うのは島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」です。
  ・・・・・・
 小諸なる古城のほとり
 雲白く遊子悲しむ
 緑なすはこべは萌えず
 若草も藉くによしなし
 しろがねの衾の岡辺
 日に溶けて淡雪流る
  ・
 暮れ行けば浅間も見えず
 歌哀し佐久の草笛
 千曲川いざよふ波の
 岸近き宿にのぼりつ
 濁り酒濁れる飲みて
 草枕しばし慰む
  ・・
 小諸の古い城跡のほとりで
 雲は白く旅人は哀しい気持ちでたたずんでいる
 緑に色づいたハコベはまだ伸びておらず
 若草の上に座ることはできないほど
 目の前の山の背に雪が銀色に光っているが
 陽に溶けて淡き雪も溶け流れている
  ・
 日暮れになれば浅間山も見えず
 草笛の音が切なく聞こえる
 千曲川の
 岸に近い宿屋で
 ひとり濁り酒を飲みながら
 旅愁を慰めることよ
  ・・・・・・

 上田から小諸に向かって進んでいくと,やがて,千曲川が見えてきて感動しました。また,小諸の懐古園の高台からも千曲川が眺められました。
  ・・・・・・
 島崎藤村は,1872年(明治5年)に馬籠に生まれました。1881年(明治14年)に上京し泰明小学校に入学。1887年(明治20年)に明治明治学院大学に入学しました。卒業後,明治女学校の教師として赴任しますが。恋愛感情に苦しみ,退職します。
 1893年(明治26年)に雑誌「文学界」の創刊に参加,「若菜集」「一葉舟」「夏草」「落梅集」などの詩集を刊行して,浪漫派詩人としての地位を確立していきました。 
 1899年(明治32年)には小諸町の小諸義塾に国語と英語の教師として赴任し,翌年「旅情」(小諸なる古城のほとり)を文芸雑誌「明星」創刊号に発表,また「千曲川のスケッチ」を書き記しはじめました。
  ・・・・・・
 懐古園の中に藤村記念館がありました。
 藤村記念館には,小諸時代を中心とした作品,資料,遺品が多数展示されていて,とても興味深いものでした。藤村記念館は,1952年(昭和27年),小諸義塾及び女子学習舎の関係者で組織された藤村会と小諸町が設立を決定し,1957年(昭和32年)に竣工し,翌年に開館したものです。

 なお,千曲川は長野県での呼称で,新潟県に入ると信濃川となり新潟市で日本海に注ぎます。総じて信濃川と称し,日本で一番長い川ですが,これは小学校で習います。
 千曲川の名前の由来については,川が千の数ほど曲がっている様子から,狭窄部が連続し両岸が崖状の地形を呈していて「チク(崖)マ(袋状の湿地)の川」というから,大昔・高天原に住む神々の間で大きな戦いがあってこの時に流された血潮があたり一面隈なく流れたことにより「血隈川」というから,などという諸説があるそうです。
 また,懐古園には富士見展望台があって,そこから何とか富士山を見ることができました。

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 上田の次に行ったのが小諸です。上田より,私は小諸に行ってみたかったのですが,この小諸については後日書くことにして,今回は寅さんです。
 どうしてか?
 それは,小諸に黄金の寅さん像があったからです。帰ってから調べると,小諸は寅さんのロケ地で,1988年の12月に公開された第40作「男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日」の舞台でした。家に帰って見てみました。現在「男はつらいよ」は全作品FODで見ることができます。

 あらすじは
  ・・・・・・
 信州小諸駅前で知り合った鈴木光枝さん演じるお婆さんの家に泊まり,昔語りを聞く寅さんでした。翌朝,三田佳子さんの演じる医師・原田真知子が,お婆さんを病院に入院させるためにやってきます。重病のお婆さんは,寅さんの説得でなんとか入院し,真知子は寅さんを御礼にと家に招待します。
 やがて,くるまやに帰った寅さんは,満男の大学受験の下見ということで,三田寛子さんの演じる真知子の姪・由紀を早稲田大学に訪ねます。さらに,真知子も息子に会うために東京へやってきて,寅さんにとって幸福な日々が続くのですが…。
 俵万智さんのベストセラー短歌集「サラダ記念日」を原作にした短歌文学の香り豊かな作品です。
  ・・・・・・
 この作品では,寅次郎が早稲田大学で講義を受ける場面があるなど「サラダ記念日」の世界を反映した内容となっていて,他の作品とは少し趣が異なっています。
 期待した小諸での風景はほとんどなくて,むしろ,早稲田大学でのロケが多く,それもまたいいもので,私には印象に残りました。この映画の時代はちょうど私が大学生のころで,当時の大学の様子,そして,学生たちの姿がとても懐かしく思い出されたからです。撮影では,実際の早大生がエキストラとして出演しているそうですが,今の大学生に比べてずっと大人っぽい感じです。
 この作品には,俵万智さんの歌が随所に使われています。
  ・・・・・・
 寅さんが早稲田の杜にあらわれて やさしくなった午後の教室
 愛人でいいのと歌う歌手がいて 言ってくれるじゃないのと思う
 寅さんが「この味いいね」と言ったから 師走六日はサラダ記念日
  ・・・・・・

 なお,小諸には「寅さん会館」もあったのですが,残念ながらこの日はお休みでした。
 これもまた,家に帰ってから調べてみると,1995年に開館した「寅さん会館」は映画にまつわる写真や資料など約1,700点を所蔵,また,寅さんを演じた渥美清さんの国民栄誉賞の盾なども展示し好評を得ていたのですが,2013年に閉館してしまったようです。つまり,お休みだったのは私が行った日だけではなく,ずっとお休みだったわけです。
  ・・
 その昔1960年ごろから,渥美清さんは,小諸市の名士・井出勢可さんと意気投合した仲だったそうです。ある日,地域活性化のために小諸市を映画の舞台にできないかと渥美清さんに相談し,その思いが実ったのが「男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日」でした。
 ロケ誘致の成功後,井出勢可さんは私財をつぎ込み「渥美清こもろ寅さん会館」を完成させます。最盛期は10万人以上が訪れていたのですが,2004年に市長が代わったことで補助金がなくなったり,2011年には井出勢可さんが脳梗塞で倒れたりと,徐々に運営が難しくなっていき,それが原因で閉館してしまったということです。
 再開を前提に施設を小諸市に譲ったのですが,小諸市は再開をする予定はないということです。これは,渥美清さんが「第2のふるさと」といった小諸市のむごい仕打ちではありませんか。
 奇しくも今日8月27日は「寅さん」の日。1969年のこの日に映画「男はつらいよ」の第1作が公開されました。

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 さえない2022年の夏でした。いつも天気が悪く,暑く,コロナ禍は終わらず,政治はむちゃくちゃ。そんな長い夏,車が新しくなったので慣らし運転をしたかったことと,県民割が8月末までであることと,しばらくどこにも遠出していなかったことなどが理由で,8月21日と22日,1泊2日で,再び木曽駒高原へ行きました。
 前回木曽駒高原へ行ったのが7月1日,2日だったので,あれからもう2か月近くになるのが夢のようです。海外旅行ができないこの夏,一体,その間,私は何をしていたのでしょう? そうだ,思い出しました。大阪でフェルメールを見て,十津川温泉へ行ったのです。あれは楽しかった…。

 話を戻します。
 前回は安曇野に寄ったのですが,今回は,前回行くことができなかった上田と小諸に足をのばすことにしました。
 長野県は,若いころに毎冬スキーでさまざまなところに行ったので,地名だけはよく知っていました。栂池,岩岳,白馬八方尾根,これらはJR大糸線にそったスキー場で,松本から北に安曇野を越えて,新潟県の糸魚川市に至る山麓です。黒姫,妙高,赤倉は,長野市から北に,新潟県上越市に至る山麓です。その東側が志賀高原,野沢温泉のある湯田中温泉郷です。
 当時は,スキーがやりたいだけで,現地まではほとんどが深夜バスだったので寝ていて何も覚えておらず,今さらながら,地図で見るとこんなに遠かったのかと驚きます。
 また,蓼科高原,霧ヶ峰,美ヶ原,軽井沢,浅間山,さらには,八ヶ岳,清里,小淵沢などは,子供のころに,避暑として,また,夏の林間学校で行ったことがあるので,それらの場所も珍しいとも思わなかったので,今,あえて行くこともありませんでした。

 しかし,これまでの私は,安曇野,小諸,上田,松代,さらに,立山・黒部,といったところには行ったことがなかったのです。盲点になっていました。そこで,今になって,それらの場所がどんなところなのか興味が湧いてきました。そんなわけで,その中で,前回は安曇野に行ったので,今回は,上田と小諸に行くことにしたわけです。
 前回行った安曇野はいいところだったけれど,もっとのどかなところだと思っていたので少し残念でした。考えてみれは,そもそも日本です。私が思い描くようなのどかで悠久の大地が広がる平原などあるわけがありません。
 そこで,今回の上田と小諸ということになるのですが,正直いって,観光客と車ばかりなのに落胆しました。この日が夏休みの日曜日だったということのあるのでしょうが,ここもまた,というか,安曇野以上に,しっかり,日本の観光地でした。
 それはそれとして,ともかく,私は,念願だった上田と小諸がどんなところなのかはわかったので,好奇心は満たされて,目的は達成できました。

 まずは,上田に行きました。経路は,名古屋から国道19号線を走り,途中,国道361号線で伊那谷に出て,そこから伊那路を北上しました。有料道路はほとんと利用しませんでした。
 上田市の千曲川右岸の旧市街は戦国時代に真田氏が築いた上田城を中心とする城下町で,ここが観光の名所です。また,千曲川左岸の塩田は鎌倉時代の執権北条氏の一族塩田北条氏の所領で,多くの文化遺産が残されていて「信州の鎌倉」といわれます。さらに,上田市街地から北に向かうと真田氏発祥の地とされる真田郷があります。
 そんな上田市ですが,何といっても,上田で有名なのは,真田幸村です。
  ・・・・・・
 戦国時代の1583年(天正11年),真田幸村の父・真田昌幸が尼ヶ淵城を改修して上田城としました。
 1585年(天正13年)には,徳川家康がさしむけた真田討伐の大軍をむかえ打ちこれを撃退せしめました。また,1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いのときに,真田昌幸と真田幸村が徳川秀忠が率いる大軍を完全に阻止し,そのため秀忠が関ヶ原の戦期を失うに至ったことで名高いわけです。
 関ヶ原の戦いののちは,真田昌幸は次男である真田信繁とともに紀州高野山に幽閉され,のち,九度山に移されます。上田は,徳川家康の女婿となっていた真田昌幸の長男・真田信之が藩主になりました。
 1611年(慶長16年)に真田昌幸は死去しましたが,その翌年から起こった大坂の陣で豊臣方に招かれた真田幸村は,徳川家康の本陣まで攻め込んだ活躍で「日本一の兵」と評されるなど戦国最強の武将とされ,今でも多くの人に愛され続けているわけです。
 さて,上田では,1622年(元和8年)に真田信之が松代に移り,その後は仙石氏が3代85年,1706年(宝永3年)からは松平氏が7代164年間,この地を納めました。
  ・・・・・・
 ということなのですが,現在は,上田城は往年の堅固な平城というイメージとは程遠く,単なる公園でした。また,真田郷にも行って見ましたが,道路が狭く,走るのも大変でした。
 もともと私は,真田幸村にはまったく興味がないので,行ってはみたものの何の感想ももちあわせていません。


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 木曽駒高原の「ゲストハウスヒルトップ」で食事と星空を堪能した私でした。
 2日目の7月2日も猛暑でした。上田,小諸などに寄りながら帰ろうと思っていたのですが,気が変わりました。結果的に気が変わったのはよかったわけで,この日,小諸は日本最高気温を達成していました。
 気が変わった私は,開田高原から高山を経由して帰ることにしました。それは,天気がよくて,御嶽山がきれいに見えそうだったからです。
 開田高原は私の好きなところで,木曽駒高原に行ったときは毎回行くのですが,これまで,開田高原から西に高山に向かって走ったことはありませんでした。一度行って見ようと思ったことがあったのですが,その時は国道361号線が不通で通ることができませんでした。

 まず,開田高原まで行きました。
 ここにある木曽馬の里は,広々としていて,しかも,御嶽山が一望にできるすならしいところです。この日もまた,木曽馬の里に行ってみましたが,期待通り,御嶽山は,背後に雲がありましたが,山頂まで見ることができました。
 ここの観光案内所で聞いてみると,やはり国道361号は不通だということでしたが,迂回路があって,高山までいくことは可能でした。国道361号線の途中に御嶽山の展望台があって,そこまでは通行できるということだったので,とにかく行ってみることにしました。 
 たしかにその先は通行止めとなっていましたが,展望台からの御嶽山はすばらしいものでした。

 現在,信州割というものがあって,宿泊代の補助とともに金券がもらえます。そんなわけで,この旅はものすごく安価で,出費は,まさにガソリン代くらいのものでした。
 帰る途中で金券を使ってお昼をとることにしていました。しかし,まだ時間が早く,おそば屋さんはどこも開いておらず,しかし,このまま迂回路を走って高山に向かうと,長野県を越えてしまうので,金券が使えなくなってしまいます。そこで,展望台から一旦開田高原に戻りました。
 開田高原のおそば屋さんで昼食をとって,再び出発しました。
 帰りは,御嶽山を反時計回りにぐるりと周回することになるのですが,それがまあ,すばらしかったこと。想像以上でした。これは,オーストラリアの片田舎に匹敵するほどののどかさでした。
 日本にもこんなところがあるんだと思いました。
 おそらく,そんな好印象を持ったのは天気がよかったからでしょう。
 やがて,長野県と岐阜県の県境を越えて,岐阜県に入りました。
 しかし,どうしたことでしょう。岐阜県に入ると,視界がせまくなり,まわりは木々ばかりになりました。どうやら,御嶽山の北側は長野県の県境までが風光明媚であるようでした。

 それ以後は,国道41号線をひた走り,帰宅しました。
 国道41号線はさすがに車が多く,それまでのすばらしさはまったくなくなって,すっかり現実に戻されました。ちょっとしたいい夢を見ていたような感じでした。

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 安曇野ちひろ美術館ですばらしい時間を過ごした私は,念願のおそばを食べにいくことにしました。とはいえ,おそば屋さんに「当て」があったわけではありません。私のイメージしていたおそば屋さんは,前回書いたNHK連続テレビ小説「おひさま」に出てきたようなお店でした。しかし,それは物語上の架空の存在です。
 車を走らせていくと,1軒のお店を見つけました。いろり懐石「釣人」という名前のところでした。
 ちょっと私の思っていたイメージとは違っていましたが,そばと書かれてあったので,入ることにしました。このお店は,手打ちそばとともに,新鮮な魚がウリの店のようでした。
 おすすめの品を注文してしばらく待つと,出てきたのは写真のものでした。
 それがまあ,おいしかったこと。
 私は,お昼少し前に入ったので,まだほかにお客さんはいなかったのですが,食べている間に多くのお客さんが来ました。繁盛しているようでした。
 こうして,またひとつ,私のやりたかったリストを成し遂げることができたのです。

 私は,めずらしく「楽楽信州」という長野県のガイドブックを持参していました。しかし,いつものとおり,旅の前に念入りに下調べをしないので,安曇野についてもまったく不案内でした。いつも私は旅のガイドブックは,行ったあとで読むのです。
 この日はあまり時間がなく,おそばを食べる以外は,特に何も予定はありませんでしたが,はじめに行った安曇野ちひろ美術館はとてもすばらしかったし,念願だったおそばも満足のいくものでした。おそばを食べてからはじめてこの本のガイドブックを少しだけ見ていると,安曇野にはわさび農場と多くの美術館があるということでした。このあと木曽駒高原に戻る途中で,わさび農園と美術館のひとつに寄ってみることにしました。
  ・・
 まず,大王わさび農場というところに行きました。しかし,私の思っていたところとはまったく違い,ここはまさにテーマパークでした。駐車場にはたくさんの車が停まっていて,人であふれていました。ここは農場というより,レストランやら土産物屋さんが軒を並べていました。また,ちょうどお昼どきだったので,レストランには列ができていました。当然おそば屋さんもありましたが,こうした団体さんご用達の観光地は私は好きでないので,早々に農園を出ました。ちょっと失望しました。
 次に向かったのが,北アルプス展望美術館でした。
 ここは,北アルプス連峰と安曇野の広大な景観が一望できる丘があるというので期待しました。美術館は安曇野にみせられた芸術家の作品が展示されているとありました。たしかに展望はすばらしかったのですが,美術館は展示替えとかで休館だったので,がっかりしました。きっと美術館にはカフェがあるだろうから,そこでコーヒーでも,という思惑もはずれてしまいました。
 気を取り直して,木曽駒高原に向かいます。

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 7月1日と2日,1泊2日で木曽駒高原へ行きました。
 いつも木曽駒高原に行く折には,その途中でさまざまなところに足をのばすことにしているのですが,今回は,1日目,到着する前に安曇野へ行きました。私は,安曇野にあこがれているのです。

 2011年に放送されたNHK連続テレビ小説「おひさま」。
  ・・・・・・
 病気の母との最期を家族で過ごすため,安曇野にやって来た少女・陽子は母と見たそば畑一面の白い花と「おひさまのようにいつも笑って世界を明るく照らす」という約束を胸に少女時代を過ごします。
 やがて世の中が戦争へと向かう時代に女学校へ,そして,陽子は念願の教師になります。
 教師を続け,夫唱婦随で家業と子育てに泣き笑いの日々。
 混乱した世の中で,かつての教え子たちの消息を知り,その笑顔を取り戻すため,陽子は第2のステージを歩き出します。畑を取り戻し,教え子たちと心を込めてそば作りをはじめます。
 小さなそば屋はやがて人々を明るく照らす希望の場所となり,安曇野のそば屋を訪れた主婦・房子は陽子の笑顔に引き込まれるのです。
  ・・・・・・
 ということで,私は,この日,安曇野へおそばを食べにいったのです。

 まだ,お昼前だったので,おそばの前に,以前一度行ったことがある安曇野ちひろ美術館に寄ることにしました。いわさきちひろは1918年に生まれ,1974年に亡くなった,子供の水彩画に代表される日本の画家であり,絵本作家です。生涯「子どもの幸せと平和」をテーマとしました。
  ・・・・・・
 東京にちひろ美術館がありますが,1997年にちひろ美術館の20周年を記念して建てられたのが安曇野ちひろ美術館です。画家のいわさきちひろの両親の出身地・信州は,いわさきちひろのこころのふるさとでした。
 周囲に広がる53,500平方メートルの公園には「窓ぎわのトットちゃん」の世界を再現したトットちゃん広場があって,トットちゃん広場には「窓ぎわのトットちゃん」で紹介されたトモエ学園の電車教室が再現されています。
  ・・
 トモエ学園は,かつて,東京都目黒区自由ヶ丘に存在した私立幼稚園・小学校で,音楽を手段として基本的な音楽能力だけでなく一般教養や子どもたちが個々にもつ「潜在的な基礎能力」の発達を促すというリトミック教育を日本ではじめて実践的に取り入れた学校でした。
 トモエ学園出身の黒柳徹子さんが著したベストセラー「窓ぎわのトットちゃん」でその名が全国に知れ渡りましたが,「絵本・窓際のトットちゃん」の絵はいわさきちひろが描いたものです。
  ・・・・・・
 この広大な敷地は別世界でした。あたり一面に広がる美しい風景は,とてもすばらしいところでした。私は,今や,あれこれ名所旧跡をあくせくと訪ねることよりも,こうしたすてきな場所で,カフェでコーヒーでも飲みながらゆったりと時間を過ごす旅を求めているのです。
 まさにここは理想的なところでした。

 さだまさしさんの作った歌に「歳時記」(ダイアリイ)があります。その中の歌詞に
  ・・・・・・
 花の名前を呼び乍ら 無事だった朝涙ぐんで
 すてきな水色に 君は笑った
 そんなちひろの子供の絵の様な 君の笑顔がとても好きだった
  ・・・・・・
とあります。この歌で私は,歌の詞だけでなくメロディーにも,いわさきちひろという人のあたたかさが重なって,ほのかな安らぎを感じるのです。
 この日の午前過ごした安曇野ちひろ美術館では,このようないろいろな想いが重なりながら静かな時間が流れていって,とてもすてきなひとときを過ごすことができました。

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 10月14日,15日と1泊2日で出かけた秋の小旅行,2日目の朝は快晴でした。
 今年はずっと天気が悪かったので,2日間とも天気にめぐまれたことが,まず幸運でした。
 日本の秋に人混みは似合いません。しかし,この狭い国で,なかなか私の理想にかなう場所がありません。みやげ物屋さんが並ぶ観光地や観光バスがやってくるところなど論外です。
 そこで,どこに寄りながら帰ろうかと何となく思いながら車を走らせていたのですが,この国は,高速道路も一般道も,走っていてまったく楽しくないのです。それは,車も多いし,道路は狭いし,意味のない道路標示やわけのわからない道路の設備やらが多すぎて,景観悪すぎなのです。それに,この夏の災害で道路が崩れていて,片側交互通行の場所がやたらと多く,走りながら,アメリカやニュージーランド,オーストラリアが懐かしくなってきます。
 そんな中で,何とか日本らしいところはないかと考えて,2箇所だけ選びました。

 ひとつは,木曽馬の里でした。
 ここが無料だとは信じられない施設ですが,開田高原で私の最も好きな場所です。ここから見る御嶽山は最高です。特にこの日は雲ひとつない晴天だったので,景色を楽しみにしていました。
 まだ雪がなく,意外にも雲が山頂あたりに少しだけかかっていましたが,それでもこころがいやされました。
 お昼に行けば,ここのレストランでおそばを食べるのが楽しみなのですが,この日は朝早かったので断念しました。

 もうひとつは「農村景観日本一の地」でした。どこにあったのか忘れてしまっていたのですが,以前通ったときにその標示を見つけて気になっていたのです。
 走っていて思い出したのは,岩村の近くだということです。
 恵那市あたりで岩村に向かう道路を見つけたのでその方向に進路を変えました。途中,岩村の町中を通りましたが,そこは観光地なので,多くの人がいてパスしました。さらに進むと,目的地がありました。私の予想では広い高台で,そこから田園が見渡せるというものだったのですが,実際は,汚らしく壊れたような狭い道の上に古くさい展望台があったっきりでした。きわめて日本らしいチープさです。おそらく,作ったときに予算がついて,それっきりなのでしょう。
 ともかく狭い急坂を登って,さらに展望台を上がってみると,先客がいました。三脚にカメラを装備していました。聞いてみると,このはるか先に電車が通るのだとか。聞かなければ知らなかっただけに幸運でした。
 展望台からはたしかに美しい景観を見ることができました。稲刈り前だと思っていたのですが,すでにイネは刈り取られていてそれだけが残念でしたが,遠くに走る明智鉄道も写真に収めることができました。

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Hunter’s Moon.

10月の満月です。DSC_7940bs


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 さまざまなところで紹介されている天下茶屋ですが,調べても,場所がよくわかりませんでした。検索すると大阪市にある地名が出てきたりと,私は混乱しました。また,峠の茶屋というものもあって,こちらとも混乱しました。
 太宰治の「富獄百景」に出てくる天下茶屋は,創業は1934年(昭和9年)。旧137号線沿いのトンネルの手前にあります。河口湖と富士山を一望できる景勝地で古くから富士見三景のひとつでした。
 「富士見茶屋」「天下一茶屋」などとよばれていたこの茶屋は,徳富蘇峰が「天下茶屋」として紹介して以来,その名で知られるようになったそうです。1938年(昭和13年),井伏鱒二に連れられて太宰治がここに滞在し「富嶽百景」を書いたことで,さらに有名となりました。
  ・・
 御坂峠は甲府から東海道に抜ける鎌倉往還の要衝でしたが,1967年(昭和42年)に新御坂トンネルが完成したことで交通量は減少し,天下茶屋も休業となっていたのですが,1978年(昭和53年)から営業を再開しました。
 
 2階が太宰治文学記念室となっていて,食事の準備ができるまで,まず,記念室を見学しました。
 太宰治文学記念室とは,かつて太宰治が逗留していた部屋が天下茶屋の2階にあって,富士山と河口湖を一望できる6畳間でした。現在は復元されて,太宰治が使用した机や火鉢などが置かれています。床柱は初代の天下茶屋のものがそのまま使用されているということです。
 「富獄百景」「斜陽」「人間失格」などの初版本や「太宰治」「斜陽館」などのパネル,「太宰治文学碑建設趣意書」「のれん」などが展示されていました。
 見学を終えて,井伏鱒二や太宰治も愛したというほうとうを食べました。
 若きころ,私はほうとうなる食べ物を知らず,山梨県へ行ったときに,それは何だろうと思った記憶があります。ほうとう(餺飥)というのは山梨県を中心とした地域で作られる郷土料理で,小麦粉を練りざっくりと切った太くて短い麺をカボチャなど野菜と共に味噌仕立ての汁で煮込み,熱いうちに提供される料理ということですが,名古屋生まれの私には,味噌煮込みのほうが舌にあいます。かつて山梨では「ほうとうをうてないと嫁に出せない」という文化もあったそうです。

 そうこうするうちに雲が切れてきて,富士山の山頂付近がよく見えるようになってきました。  
 いつもながら,運のいい私です。
  ・・・・・・
 「おや,月見草」
 さう言つて,細い指でもつて,路傍の一箇所をゆびさした。さつと,バスは過ぎてゆき,私の目には,いま,ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ,花弁もあざやかに消えず残つた。
 三七七八米の富士の山と,立派に相対峙あひたいぢし,みぢんもゆるがず,なんと言ふのか,金剛力草とでも言ひたいくらゐ,けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は,よかつた。
 富士には,月見草がよく似合ふ。
   太宰治「富獄百景」
  ・・・・・・  

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 しばらく旅に出ることもなかったのですが,気持ちのよい秋になったので,1泊2日でドライブに出かけることにしました。
 天気を見て,10月14日から15日なら晴れそうだと見当をつけて,いつもの定宿である木曽駒高原に予約を入れました。
 といっても,どこに行くかという目的もなく,いつものように中山道を歩くという気持ちも起きず,さらに,今の私には列車で行くという選択肢もないので,かねてから行ってみたかった太宰治が「富獄百景」を書いたという天下茶屋に寄ることにしました。

 「富獄百景」のあらすじは次のようです。
  ・・・・・・
 昭和十三年の初秋,かばんひとつ提げて旅に出た「私」は,師の井伏鱒二が滞在する甲州御坂峠の天下茶屋に身を寄せる。そこは嫌でも向き合わなければならないほど富士がよく見える場所であった。
 しかし,あまりに「おあつらえ向き」だと富士にあまりよい印象を抱かなかった「私」だったが,旅先での出会いや自己との対話を通し,富士への思いを変えてゆく。
 やがて,甲州を去る前に見た富士は,これまで見ていた富士とは違った。
  ・・・・・・

 私は文学青年でもなかったし,あまり多くの作品を読んでいません。しかし,私が育った時代はまだ昭和初期の人たちが活躍していた時代だったので,夏目漱石,森鴎外,志賀直哉,芥川龍之介,そして,太宰治などの小説は,国語の授業とか,ましてや受験などとは関係なく,身近なものとしてありました。
 そんな中でも,太宰治は不思議な魅力があり,さらに,富士山を望む天下茶屋はさまざまなところで取り上げられているので,一度は行ってみたいところでした。しかし,バスの便は非常に悪く,また,自宅から車で行くとなっては,かなり遠いこともあり,なかかなか機会がありませんでした。今回は,意を決して,午前5時前に家を出て,東名高速道路を走り,御殿場インターチェンジから北上することにしました。その後,甲府,諏訪と経由して,木曽谷を戻るというルートです。
 富士五湖のひとつ西湖を通り,午前10時少し前に,念願だった天下茶屋にやっと到着しました。
 ちょうど天下茶屋が開く時間だったのですが,晴れるという予想とは違って小雨模様,富士山がどこにあるのかさえ定かではありませんでした。

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