しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:日本国内 > 紀伊半島

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 今回の旅も,帰りに駅弁を買って列車の中で食べることにしていたのですが,JR尾鷲駅にあったのは自動販売機だけで,売店すらなく,当てが外れました。時刻は午後4時過ぎ。尾鷲市街地の見どころはすべて見終えました。そこで,地図には街歩きを楽しもう,と書かれてあったので,夕食を取る場所をさがしながら,市街地をまわることにしました。
 ところがどうでしょう。食事をする場所もありません。「海の見えるこじゃれたレストラン」はとうの昔にあきらめ,どこでもいいやと,グルメ案内の地図ももらったので,それを頼りに街中を歩いてみたのですが,地元の人しか行かないような喫茶店,小さな居酒屋やカラオケと書かれたスナック,あるいは,高級そうなお寿司屋さんが2,3軒,くらいあるだけでした。しかも,そのほとんどは閉まっていました。それよりも目についたのは,廃墟化した空き家や,昔は店だった,と思わせる看板があるだけで今は人が住んでいないあばら家ばかりでした。

 お寿司屋さんは午後5時になれば開くようだったので,待っていればよかったのでしょうが,お昼に魚を食べてしまったので気が進まず,何とか見つけたのが1軒だけあった中華料理店だったので,そこで夕食を取りました。そして,JR尾鷲駅に戻りました。
 駅の時刻表を見てもわかるように,JR尾鷲駅を発着する列車は,1時間に1本もありません。次に来る列車を待っていたのは,車を持たない高校生ばかりのようでした。
 名古屋から尾鷲まで,今は,高速道路ができているので,車で行くなら2時間程度です。また,尾鷲市にも,国道42号線沿いには,全国チェーンの牛丼屋とかスーパーマーケットが1軒ずつあるので,車を利用する限り,不自由はありませんが,国道42号線を利用する車のほとんどは尾鷲市に寄ることもなく,目的地をめざして通り過ぎていきます。
 しかし,こうした姿は,尾鷲市だけのことではありません。日本という国は,大都会以外は,どこもこのような感じです。私は,こんな侘しい旅は嫌いでないのですが,もし,尾鷲市に住んでいたなら,3日で飽きるだろうなあ,と思いました。これでは,ますます,若い人は大都会に出て行ってしまいます。
 帰りの特急「南紀」8号は2両編成でした。

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CSS.

2024年1月8日午後6時10分。
中国宇宙ステーション「天空」が南の空を通りました。
New1ax


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 「三重県立熊野古道センター」から尾鷲市街地に戻ります。観光案内所でもらった地図に「正面に通称ムーミン島が見えるで」と書かれてあったので,どんなものかと,尾鷲港に行ってみました。
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 尾鷲湾の湾頭にある佐波留島(さばるじま)は,尾鷲市の行野浦から1キロメートル弱の距離に位置し,広さは4.65ヘクタールというから,46,500平方メートルなので,縦横200メートル強の広さです。
 島全域が暖帯性の常緑樹林に覆われていて,アオサギ,ゴイサギ,クロサギ,シロサギなどが数多く生息しています。
 佐波留島は,ムーミンが仰向けに寝ているように見えることから「ムーミン島」ともよばれています。
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ということですが,思ったよりも大きな島で,すぐにわかりました。
 しかし,私には,ムーミンというより,うつぶせに寝たスヌーピーのように見えました。

 次に行ってみたのは,尾鷲市天文科学館でした。場所は,標高50メートルの中村山の山頂にあって,「ふるさと創生事業」の1億円で作ったそうです。「ふるさと創生事業」というのは,1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)にかけて,国が各市区町村に地域振興と称して1億円をばらまいたバブル期の政策で,正式名称を「自ら考え自ら行う地域づくり事業」といいます。この国は無節操に税金を集めることにも熱心ながら,哲学もなくお金をばらまくことにも熱心です。昔から。
 このお金で金の延べ棒を買って顰蹙をかったところもあるそうですが,尾鷲市は市民からアイデアを募り,天文科学館を作り,口径80センチメートルのアスコ(旭精光研究所)製の反射望遠鏡を納入しました。しかし,こういう施設は,作ることはいいのですが,維持し続けることが大変です。実際,現在,天文台は週末だけ公開しているということですし,管理運営をしている人も次第に高齢となっているということです。特に,反射望遠鏡というのは,再メッキなどのメンテナンスが必要ですが,そうした費用は市の予算からは捻出できないと思います。また,今はアスコは望遠鏡事業から撤退してしまいました。
 天文科学館の中に入ることはできませんでしたが,高台にあるので,尾鷲市街地と尾鷲港が一望できました。

 最後に行ったのが,尾鷲神社でした。
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 尾鷲神社は,伝承では,701年から703年の大宝年間に,播磨国広峰山の広峯社より須佐之男命(すさのお)を勧請したのが創祀としています。また,紀伊続風土記では,伊勢神宮の神領で,、遷宮の際に豊受大神宮(=外宮)の神職が神事を執り行ったとあります。
 1707年(宝永4年)の宝永地震にともなう津波で尾鷲神社の本殿が流出したのですが,本殿の脇に立っていた大楠は生き残り,1966年(昭和41年)には腐った大樟の幹の空洞に火が入り、3日間燃え続けたのですが大樟は無事だったとあります。
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 尾鷲神社の樹齢100年以上の大樟は三重県屈指の巨樹で,夫婦楠とよばれ,幹回り10メートルの雄樟と幹回り9メートルの雌樟の巨木が5メートルほどの間隔で並んでいて,枝が重なり合ってひとつの樹冠を形成しています。
 雌楠の瘤こぶに触ると子を授かるという言い伝えがあって子宝授けなどの神木として親しまれています。
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 また,尾鷲神社本殿内の獅子殿には,総高33センチメートル,面長46センチメートルの木彫の獅子頭が安置されていて,「ヤーヤ祭」の最終日に御獅子出御の儀式で使用されるとありました。
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 「ヤーヤ祭」というのは,白装束の男衆が狭い通りで激しくぶつかり合う「奇祭」として知られる例祭で,豊漁と豊作を祈願するものです。300年以上前から続くといわれるこの例祭は2月1日から5日にかけて開催されます。
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 神の国日本では,こうした奇祭がいたるところにありますが,それぞれ少しずつ違うのが興味深いです。旅に出たとき,その土地に根づく祭りを調べるのも一興かもしれません。

 ところで,私が地方都市を旅するときにいつも興味があるのが,江戸時代にその町を治めていた殿様のことです。しかし,尾鷲市にはそれらしい形跡すらなく,殿様がだれなのかもわからず,城跡もありませんでした。そこで「三重県立熊野古道センター」に行ったときに聞いてみたら,この場所は紀州藩,ということでした。「あの和歌山城を居城とする徳川御三家の紀州藩だって!」紀州藩ってえらく広いのだなあ,と驚きました。「広いといっても山ばかりですからね」と言われました。
 紀州藩,侮れず。

ムーミンスヌーピー

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 「土井竹林」を見終えて,次は昼食です。尾鷲市は港町だから,おいしい魚が食べられると期待しました。イメージしていたのは,海岸沿いにあるこじゃれたレストランだったので,私は,そんな,空想上のレストランをめざして,国道42号線沿いを信号のある交差点まで歩いていました。信号を渡って,尾鷲市の市街地に行くつもりでした。が,信号の手前に「お魚いちば・おとと」という店を見つけました。
 「お魚いちば・おとと」は,いわゆる道の駅のようなところで
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 2013年(平成25年)の紀勢自動車道の延伸を見据え,2011年(平成23年)に名称に変更し店舗の改装を果たした尾鷲の玄関口にある「おわせお魚いちば・おとと」は,「地場の産品を提供し地域の皆さんに気軽に立ち寄ってもらえるお店」「地元に根ざしたものづくりを強く願う生産者を応援」「地元の観光・物産スポットと連携して情報を発信」の3つのコンセプトを掲げます。
 「おわせお魚いちば・おとと」は,水産会社「尾鷲物産」の直売所で,鮮度抜群の魚介類がお値打ち価格で並んでいます。「売り場に並ぶ魚はその日の海の気分しだいです」ということです。また,店内奥にある「おわせ魚食堂」もオススメ! で,とれたて地物魚介類や季節の日替わり惣菜,尾鷲物産自慢の魚が食べられるセルフスタイルの食堂が人気です。
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だったのですが,この時点では,そんなことはまったく知りませんでした。
 尾鷲市内には,もっとすてきなレストランがあるのでは? ここでいいのかな? という迷いがありましたが,これまでの旅の経験から,こういう機会を逃すとあとで後悔すると思ったので,食事ができるのならここですまそうと,海岸沿いにある(かもしれない)こじゃれたレストランのイメージを頭から消して,中に入りました。そして,「お魚いちば・おとと」の建物の一角にあった「おわせ魚食堂」で,一番いいものをと「地魚どんDX(デラックス)」を注文していただきました。
 これだけのものを,もし,お寿司屋さんで食べたら,かなりの値段です。こうして,新鮮な魚の食事を,今回もまた,期せずして食べることができたのですが,この選択は大正解でした。というのは,尾鷲市内には,海岸沿いのこじゃれたレストランどころか,このような昼食が食べられる店すら1軒もなかったのでした。

 昼食を終えて,尾鷲市街地に向かいました。市街地の中心に観光案内所があって,そこでレンタサイクルを借りることができることだけは調べてありました。観光案内所までは結構な距離がありましたが,歩いて向かい,中に入ると,私と同年代の女性の係員がいました。電動レンタサイクルを借り,地図をもらい,見どころを教えてもらいました。
 尾鷲市内には何もないけれど,ということで,すすめられたのが「三重県立熊野古道センター」でした。尾鷲市街地からは自転車で10分くらいかかりました。県立の施設ということもあって,立派でした。
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 木造建築等断面集積木材構造という世界初の技術で建築されたセンターの常設展示室には,熊野古道と周辺の歴史,自然,文化などの特徴や概要がわかりやすく展示されています。
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 私は,野本宮大社,熊野速玉大社,熊野那智大社の熊野三山はすべて車で訪れたことがありますが,熊野古道というのは,名前だけは知っていても,旧東海道や旧中山道,また,四国霊場八十八箇所のようなわかりやすさとは異なって,漠然としていて,あまり興味がありませんでした。また,ものすごく距離が遠く,しかも,坂道や登山道のようで,歩いてみようと思ったこともありませんでしたし,今もそうです。

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 古代から中世にかけて,熊野本宮大社,熊野速玉大社,熊野那智大社の熊野三山の信仰が高まり,多くの人々が熊野を参詣しました。現在では,田辺から熊野本宮大社に向かう「中辺路」(なかへち),田辺から海岸線沿いに熊野那智大社,熊野速玉大社へ向かう「大辺路」(おおへち),高野山から熊野本宮大社へ向かう「小辺路」(こへち)が「熊野参詣道」として世界遺産に登録されています。
 それ以外の熊野古道である「伊勢路」(いせじ)は,伊勢神宮から熊野三山へ通じる参詣道です。伊勢神宮から熊野速玉大社までの総距離は170キロメートルあります。
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というように,一概に熊野古道といっても多くの道があり,それらは,和歌山県,奈良県,三重県にまたがっていることから,それぞれの県が独自に自分の県にある熊野古道の案内をしていることもあって,私は,これまで,なかかなその全貌がつかめないのでした。
 今回訪れた「三重県立熊野古道センター」も,熊野古道センターとはいえ,ほとんどは,三重県に属する「伊勢路」に関する情報だけを提供している施設でした。そして,尾鷲市は「伊勢路」を歩く際の中継地点となっている町でした。しかし,「三重県立熊野古道センター」で解説映像や展示を見て,熊野古道全体についてもかなり理解ができたし,短い距離なら歩いてもいいかな,と思いはじめました。さらによかったのは,係の女性がとても親切だったことです。たくさん質問をしたのですが,わかりやすく教えてもらうことができました。

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 「土井竹林」は,JR尾鷲駅から直線距離ではほど近い国道42号沿いの西側にあります。
 紀勢本線は単線で非電化ですが,JR尾鷲駅のところは複線になっていて,駅舎は駅の東側,つまり,海側のみにあります。また,線路の西側,つまり山側には,線路に平行に国道42号線が走っています。そこで,「土井竹林」に行くには,まず,紀勢本線の線路を渡り,さらに,国道42号線を渡らなければなりません。しかし,線路を渡る踏み切りは駅舎から結構な距離があり,また,国道42号線を渡る信号もさらに遠い場所にあるので,かなり遠回りすることになります。
 おまけに,近くまで来ても,「土井竹林」へは,国道42号線に面した巨大なパチンコ屋の駐車場の奥にある狭い道に沿って行くことになるのですが,その道がきわめてわかりずらいものでした。なお,GoogleMapsで表示される近道は間違いで,通行止めになっていて行くことができません。
 パチンコ屋の駐車場を歩いて横切って,やっとのことで道を見つけて,その狭い道をしばらく進んでいくと,その先に手掘りのトンネルがありました。トンネルをくぐると,ついに「土井竹林」が出現しました。

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 「土井竹林」は,江戸時代からの林業家「土井家」が薩摩から移植した孟宗竹などの見事な竹林です。約4,000平方メートルにも広がる竹林には,直径30センチメートルはある大きな竹が林立し,静寂に包まれて,厳かな雰囲気を感じることができます。
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と,尾鷲市のホームページにあります。
 私には,子供のころの思い出の伏線回収。とはいえ,せっかく行ったのに,これ以上の感想をもち合わせませんでした。感動した,わけでもなければ,そこで感慨にふける,でもなかったのです。推理小説を読んで,犯人がわかったわけでもなければ,謎が解けたわけでもない,という感じなのです。というのも,尾鷲市には数少ない観光資源なのに,行き方が難しく,せっかく着いたこの場所は,荒れるに任せて…,という感じがしたことと,柵があるので,竹林を外から眺めることはできても,ドラマ「旅路」のように,中に入ることができなかったことで,寂しく,侘しくなってしまったからです。
 先日,偶然行った愛媛県大洲市の「おはなはん」のロケ地とは雲泥の差でした。当時,「旅路」は前作の「おはなはん」と同じくらいの人気を誇った朝の連続テレビ小説だったのですが,なぜか,いろいろな意味で冷遇されています。これでは,主役の日色ともゑさんがかわいそうです。

 ともかく,この旅の目的は達成できました。
 さて,この後は,帰りの特急「南紀」の出発時間まで6時間余りをきままに過ごすだけですが,はじめて来た尾鷲市がどういうところだろうかと,この時点では期待しました。
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 ところで,国道42号線を渡るときに通った十字路のもうひとつの道は私がトラウマになっている国道425号線でした。
 国道425号線といえば,通称「死にゴー」といわれる道です。国道425号線は,「ヨサク」といって親しまれて? いる国道439号線,国道418号線とともに,「日本三大酷道」とよばれているものです。国道439号線は四国地方にあって,私は,祖谷のかずら橋に行ったときに覚悟して走りましたが,思ったほどではありませんでした。また,国道418号線は頻繁に通るのですが,この道のほとんどは一般の舗装道路にすぎず,酷道とよばれるのは八百津あたりだけのことです。しかし,国道425号線は違います。全線が酷道なのです。
 私は,国道425号線が酷道といわれているとはつゆ知らず,以前,十津川村に行ったとき,地図上で見ると,近畿地方の山の中から海岸に出る近道と誤解して,何と,雨の日の夜にこの道を走り,恐怖におののいたことがあります。そのときは,結局,途中の下北山村で断念して国道169号線に進路を変えたので事なきを得たのですが,もし,そのまま走っていたら,無事に尾鷲市のこの場所に着いていたのならいいのですが,途中でどうかなっていたかわかりません。
 このくちゃくちゃこそが,海外旅行では決して味わえない日本を旅する底知れぬおもしろさだと,今の私は思っていますけれど,やはり,山奥を走るには下調べが必要だと痛感しました。

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 もう,一昨年のことになりますが,2022年10月20日から10月22日まで四国へ旅行をしたとき,高知市で開催されていたさくらサーカスを見損ねた,ということで,昨年2023年1月10日に,日帰りで再び高知市に行って,さくらサーカスを見てきました。
 そして,その1年後,今度は,2023年12月7日から12月9日まで紀伊半島1周の旅をしたのですが
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 すべてがうまくいった2泊3日紀伊半島1周の旅でした。しかし,ただひとつ,やり残したことができました。それは…。
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ということになりました。やり残したこと,それは尾鷲市で途中下車をしなかったことなのです。
 尾鷲市で行きたかったのは竹林でした。
 1967年に放送された,平岩弓枝作のNHK朝の連続テレビ小説「旅路」のロケ地であった竹林が長年私には強く印象に残っていて,「尾鷲=竹林」という伏線ができていたのですが,これまで行ったことがありませんでした。ロケ地であった竹林が「土井竹林」というところであることを知ったのは,最近のことでした。そこで,このところ,人生の伏線回収の旅を続けている私は,こりゃできるだけ早く行くしかない,という思いが募り,2023年12月27日水曜日に日帰りで行ってきました。
 なるべく早く,と思いながら日程と天候を調べていて,年末最後のジパング倶楽部が有効である平日で,しかも,予報では晴れてとても暖かな1日,というこの日に決めたのでした。

 紀伊半島1周をする前は全く無知であった列車事情にも,めっぽう詳しくなりました。
 今回は特急「南紀」で往復するのですが,特急「南紀」は通常1日に4往復しか運行しないので,行きは,JR名古屋駅午前8時2分発,JR尾鷲駅10時46分着の特急「南紀」1号,帰りは,JR尾鷲駅18時18分発,JR名古屋駅着20時49分の特急「南紀」8号の一択になります。この予定だと,尾鷲市滞在が7時間30分とたっぷりあるのですが,私の目的地は「土井竹林」だけだったので,あとは,予定も立てず,着いたら考えよう,というのんびりしたものでした。旅はこうでなきゃ。こういう旅は楽しいものです。
 数日前に家の近くのJTBに出かけて,ジパング倶楽部を利用して切符を買いました。特急の座席を指定するときわかったのですが,この日の特急「南紀」は,行きは4両編成,帰りは2両編成でした。2両編成でも空席だらけなのに,4両編成にして乗る人がいるのかな? と私は思いました。

 早朝,JR稲沢駅からJR名古屋駅まで向かいました。JR稲沢駅のホームで日の出を見ました。天気予報どおり,いい天気になりそうでした。
 JR名古屋駅で特急「南紀」1号に乗り込みました。前回同様,ほとんど乗客のいない車内は快適でした。特急「南紀」は,JR四日市駅までは関西本線を走り,そこから第3セクターの伊勢鉄道に入り,JR津駅でJR紀勢本線につながります。伊勢鉄道を借りて走らなければ,線路は「く」の字になって,「く」の字の頂点にあるJR亀山駅で進行方向を変えて走る必要があるので,ショートカットをする伊勢鉄道を間借りしているのです。私は通しの切符を持っているので問題ないのですが,そうでない場合,この区間だけ料金体系が複雑なので,車内で車掌さんが検札にきます。また,JR津駅から南はICカードも使えないというように,昭和時代のままの世界があります。
 東京や大阪などの大都会がどんどん発展しているのとは雲泥の差があります。日本は,都市圏を離れると,突如,発展途上国以下になります。
 やがて,定刻にJR尾鷲駅に着きました。尾鷲市は,想像以上に寂れたところでした。

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 「アドベンチャーワールド」を出て,バスに乗って午後3時30分ごろにJR白浜駅に戻ってきました。午後4時20分発の特急「くろしお」28号に乗って大阪に向かいます。この日宿泊するのは天王寺の東横インなので,JR天王寺駅で降りることになります。もともとは天王寺で食い倒れることにしていたのですが,人混みが嫌いので,夕飯は駅弁で済ますことにして,JR白浜駅で駅弁を買いました。
 午後4時ころに,私の乗る「くろしお」がホームに来ました。「くろしお」28号はJR白浜駅始発です。
ホームに行くと,停車していたのは,パンダのデコレーションをした列車でした。また,座席のヘッドカバーもパンダでした。
 私は,さすが白浜,特急「くろしお」はパンダ仕様なんだ,とそのときは思いましたが,家に帰って調べてみて驚きました。それは「くろしお」がパンダ仕様なのはレアだったのです。しかも,パンダ仕様の「くろしお」は,通常「くろしお」26号なのです。どうして私の乗る28号がそうだったのかは今もってわからないのですが,私は,こうして,何も知らず,また,それまで興味もなかったのですが,「鉄ちゃん」なら憧れるパンダ仕様の「くろしお」に偶然乗ることができる,という幸運に恵まれました。
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 パンダ「くろしお」は「Smileアドベンチャートレイン」といいます。
 JR西日本が2017年で発足30周年,「アドベンチャーワールド」が2018年で開園40周年を迎えたことをきっかけに,パークのさまざまなシーンをデザインしたラッピング列車・パンダ仕様の「くろしお」「Smileアドベンチャートレイン」が運行中です。
 ラッピングコンセプトを「旅に「ときめき」を」とし,車体前頭部をパンダフェイス,車体にはパークで躍動する動物たちのさまざまなシーンをデザインしています。見る人、乗る人全てが旅することに「ときめき」を感じ,スマイル広がるラッピング列車を運行しています。
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 こうして,私は,白浜へ来るときはハイブリッド仕様の2両連結の特急「南紀」,白浜からはパンダ仕様の特急「くろしお」に乗って,紀伊半島を1周することができたのです。
 紀伊半島1周では,海岸をながめながら旅をしようと,海側の座席をとってあったのですが,誤算は,特急「南紀」では,ずっと太陽が当たる席だったということです。当たり前の話ですが…。そして,白浜から先は,線路のほとんどは海岸沿いでないので海が見えず,また,思ったよりも日が沈むのが早いので,暗闇で景色も見られない,ということでした。
 これは失敗したなあと思ったのです。ところが…。
 JR白浜駅を出て,しばらくすると,わずかな間だけ,海岸に沿って列車が進むのです。そして,なんという偶然か,その時間に太陽が海に沈んでいったのです。これまた,あり得ぬ幸運でした。ということで,すばらしい夕日を堪能することができました。
 JR天王寺着は午後6時32分なので,私は,午後5時30分をすぎたころに,車内で駅弁の夕食をとりました。
 特急「くろしお」は,JR和歌山駅を出るころには乗客が増えてきて,空席がほとんどなくなり,和歌山市は大阪の通勤圏だということを自覚しました。が,幸いなことに,私のとなりの席は,JR天王寺駅で降りるまで空席でした。

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 「アドベンチャーワールド」で,パンダ,サファリパークと楽しんだあとは昼食です。せっかく来たのだからパンダ尽くし,ということで,フードコート内の「マルシェ」で「特盛パンダカレー」を食べました。そして,昼食後に行ったのが,海獣館でした。
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 海獣館では「アドベンチャーワールド」に暮らす8種類のペンギンやアシカがいきいきと暮らしています。 センタードームの流れる滝の前にはレストラン・ショップが並び、ちょっとした休憩時間にご利用ください。
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 8種類のペンギンというのは,エンペラーペンギン(皇帝ペンギン),キングペンギン(王様ペンギン),アデリーペンギン,ヒゲペンギン(アゴヒゲペンギン),ジェンツーペンギン,ケープペンギン(アフリカペンギン),キタイワトビペンギン,フェアリーペンギンのことですが,種類もさておき,それぞれのペンギンの数の多さにも圧倒されました。また,水槽を横から眺めることもできて,泳いでいるペンギンを写真に収めようと夢中になりましたが,それにしても泳ぐのが早いこと!

 小腹が空いたので,「パンダクッキーサンドアイス」を食べつつ向かったのが,ビッグオーシャンでした。ここは,イルカがピーディーでダイナミックなパフォーマンスを繰り広げる「マリンライブ・Smiles」の会場です。
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 「マリンライブ・Smiles」は,人とイルカが繰り広げる笑顔溢れるパフォーマンスで,ビッグオーシャンを舞台に,バンドウイルカ、カマイルカ、ハナゴンドウ、オキゴンドウとトレーナーが共演する大迫力のライブパフォーマンスです。
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ということですが,私は,ずいぶん前にカリフォルニア州サンディエゴで,シーワールド・サンディエゴ(SeaWorld San Diego)に行ったことがあって,そのスケールに圧倒されたものだから,それと比べてしまうのがいけません。
 それよりも気になるのが,イルカショーの是非です。
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 【日本でイルカショーは禁止になるか?】
 欧米ではイルカショー廃止の流れが加速しています。スイスやイギリスなどではイルカの飼育施設自体が存在しませんし, 欧米ではイルカを飼育することが自体が倫理に反すること,ましてやショーを行うことは虐待に等しいという考え方が主流になりつつあります。
 イルカショーが廃止されている理由は倫理的な問題からです。
 太地町の追い込み漁で,イルカを入り江に追い込み,食肉用にナイフで解体する様子が「コーヴ」という映画で公開され,世界的な注目を集めました。そして,食肉用に使われなかったイルカが水族館に売られていたというのです。
 2004年に「世界動物園水族館協会」(WAZA)が「追い込み漁により捕獲されたイルカを受け入れてはならない」という決議を採択したことで,2015年に追い込み漁からのイルカ導入が禁止されました。その結果,イルカの展示が厳しくなっている水族館が増えているそうです。
 また,水族館でのイルカの繁殖の成功率が低いという問題もあり,出産の際にオスとメスを水槽を入れ替えマッチングさせる時点での身体的負担が問題視されているといいます。
 そんな中で,日本でイルカショーが存続するのか? という問いに対して,答えは少なくともあと10年は大丈夫ということだそうですが,その後のことはわかりません。
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 家で飼われている犬や猫などは家畜として生まれたからと肯定され,また,料理で食べる魚や牛や豚やニワトリも人間に食べられるものとして生まれたから当然とこととされておきながら,イルカやクジラはそれと同様に考えていけないという欧米的な割り切った考えもまた日本人の価値観とは異なります。かといって動物を人間の愛玩物として扱うことがいいともいえず,それが虐待につながっているとしたら素直に受け入れることもできず,というように,これは根深い問題です。

 最後に「アニマルアクション」を見ました。
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 「アニマルアトラクション」は,
  動物たちが大集合!
  楽しいパフォーマンスが盛り沢山!!
 カリフォルニアアシカやハリスホーク,ミニブタからイヌまで,「海,空,陸」のさまざまな場所に暮らす動物たちが魅力を活かして元気いっぱいのパフォーマンスを披露する,動物たちの本来の力,知られざる能力に驚きと笑いが止まらない誰もが笑顔になれるライブです。
  ・・・・・・
とあったのですが,このショー,動物が失敗したり,人間の思い通りに行動しないなど,内容がかなり緩く,むしろ楽しめました,動物ショーはこの程度でいいんじゃないの,と私は思いました。

 とまあ,これだけいろいろと楽しんで「アドベンチャーワールド」を堪能したので,そろそろ帰ることにしました。

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 1978年にオープンした営利団体「アドベンチャーワールド」は,「人間(ひと)と動物と自然とのふれあい」をテーマにした動物園,水族館,遊園地が一体になったテーマパークで,丸末という会社の関連会社・株式会社アワーズ(AWS)が運営しているそうです。ジャイアントパンダの飼育展示,広大な敷地に放し飼いにされた動物たちの中をケニア号が進むサファリツアー,イルカやアシカのショーや動物の食事タイムなど,自然界を代表する動物が総覧できるようになっているということで,私は,パンダの次に見にいきたいと思ったのが,サファリゾーンでした。
 サファリゾーンは,1周約1,500メートルの列車型牽引バス「ケニア号」,自転車,2階建てバス,ゴルフ用カートやジープなどの乗物を使って周遊します。また,徒歩でも1.5キロメートルほどのコースを自由に散策することができます。

 私は始発の「ケニア号」に乗り込みました。住み家がとても広く,悠々と多くの動物が闊歩しているのを見ることができました。とはいえ,私は,もっと巨大なこうした施設に行ったことがあります。それは,アメリカ・サンディエゴ郊外にある非営利団体の「サンディエゴ動物園サファリパーク」です。
 「サンディエゴ動物園サファリパーク」は場内を周回する列車に乗って見学します。
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 「サンディエゴ動物園サファリパーク」は,2010年まで「サンディエゴ野生動物公園」とよばれていました。カリフォルニア州サンディエゴのエスコンディード(Escondido)近くのサンパスクアルバレー(San Pasqual Valley)地域にある1,800エーカー(730ヘクタール)の動物園です。公園には,アフリカ大陸,アジア大陸,ヨーロッパ大陸,南北アメリカ大陸,オーストラリア大陸の種を含む多数の野生動物や絶滅危惧種が生息しています。
 広大なアフリカトラムでは,フリーレンジの囲いがあって,アンテロープ,キリン,バッファロー,ツル,サイなどの動物が生息しています。毎年200万人が訪れる公園には,2,600種以上の動物と3,500種の植物が生息しています。
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 それに比べれば,「アドベンチャーワールド」はかなりスケールは劣りますが,それでも,私がよく行く地元の名古屋市立東山動物園と比べたら,住居環境は段違いで,名古屋市立東山動物園に飼われている動物がかわいそうになってしまいます。

 そもそも,動物園というのは,動物という生き物を「人間の見世物として」飼っているわけだから,賛否両論があり,また,さまざまな問題が存在しています。
 三省堂の「新明解国語辞典」(新解さん)に
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 どうぶつえん【動物園】
 鳥獣・魚類などを(自然に近い状態で)飼い,観覧者に見せる公園風の施設。(初版から第3版)
 生態を公衆に見せ,かたわら保護を加えるためと称し,捕らえてきた来た多くの鳥獣・魚虫などに対し,狭い空間での生活を余儀無くし,飼い殺しにする人間中心の施設。(第4版)
 捕らえて来た動物を,人工的環境と規則的な給餌とにより野生から遊離し,動く標本として都人士に見せる,啓蒙を兼ねた娯楽施設(第5版)
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という記述があったことから,多くの議論をよびました。
 とはいえ,野生のままにしておいたら絶滅してしまう動物もあり,人間が環境を破壊せずとも,弱肉強食の世界では生き延びることができない動物もあり,簡単に結論が出るような問題ではありません。
 しかし,われわれ人間社会でもそれは同じで,国によっては,個人の自由がなかったり,権力者の思いのまま国民の生命が扱われていることもあります。また,動物も,牛や豚やニワトリのように,人間が食料とするために飼育されている場合もあるというようにと,何も,動物園だけが問われる問題ではありません。
 ということで,私は動物園に行くと,こんなことを考えてしまって,こころから楽しめないのですが,それでも,「アドベンチャーワールド」では,広い園内で多くの動物が生き生きと生活している姿を見ると,その迫力に圧倒されました。

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 「アドベンチャーワールド」に到着しました。すでにチケットは購入してありました。「アドベンチャーワールド」もまた,シニア割引がありました。本当に,名古屋市民のみ割引があるという名古屋市とシニア割が70歳以上という浜松市はどうかしています。
 到着したのは午前9時30分過ぎでした。開園は午前10時だったからか,まだ,人も少なく,駐車場もがらがらでしたが,開園後も空いていました。私は,もともと,人が少ないであろうという時期を選んで旅をしているのですが,目論見どおりになりました。開演時間まで入園口で少し並んだのですが,近くにいる人とおしゃべりをしていたら,まもなく時間になりました。
 この日の予定は「アドベンチャーワールド」だけだったので,気の向くまま,のんびりと園内をまわることにしていたのですが,お目当てのパンダは例外です。ということで,まずは,パンダのいる場所に直行しました。
 「アドベンチャーワールド」では,現在,パンダは母親と3頭の娘,合計4頭いて,入口近くの「パンダラブ」というところに3姉妹の1番若い「楓浜」と年長の「結浜」,奥まったところにある「ブリーディングセンター」に母親の「良浜」と「彩浜」がいます。
 「パンダラブ」の屋外にいた「楓浜」はとても活発で,多くの観光客を集めていました。そのとなりの室内にいたのが「結浜」でした。「結浜」は午前中は動いていましたが,午後は寝ていました。また,「ブリーディングセンター」にいた2頭のパンダは,ともに,木の上で寝ていました。

 「アドベンチャーワールド」には,パンダは最近まで7頭いたのですが,3頭中国に渡り,現在はメスばかり4頭います。「アドベンチャーワールド」では,これまで多くのパンダが生まれたのですが,父はすべて「永明」でした。「永明」は,現在は人間でいえば80歳を越す高齢で,余生を送るために中国に帰ってしまい,今いるのは母親と娘の3頭だけであり,すべて血のつながったメス。コロナ禍で3年ほどのブランクもあり,早く相性のよいオスが来ないと,この先が心配です。
 「アドベンチャーワールド」でこれまでに飼育されたパンダは次の20頭です。
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●「蓉浜」(ようひん)=メス
 1992年9月4日中国成都動物園生まれ,1994年9月6日「永明」とともに来園。
 子孫を残さず,1997年7月17日永眠したので系図には記載なし。
●「永明」(えいめい)=オス
 1992年9月14日中国北京動物園生まれ,1994年9月6日蓉浜」とともに来園。2023年2月中国へ。
 「梅梅」との間に「雄浜」「隆浜」「秋浜」「幸浜」「愛浜」「明浜」,「良浜」との間に「梅浜」「永浜」「海浜」「陽浜」「優浜」「桜浜」「桃浜」「結浜」「彩浜」「楓浜」誕生。
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●「梅梅」(めいめい)=メス
 1994年8月31日中国成都繁育研究基地生まれ,2000年7月7日中国で「哈蘭」(はーらん)との間に「良浜」を宿したまま来園しアドベンチャーワールドで出産。2008年10月15日永眠。
 「永明」との間に「雄浜」「隆浜」「秋浜」「幸浜」「愛浜」「明浜」誕生。
◎「良浜」(らうひん)=メス
 2000年9月6日アドベンチャーワールド生まれ。父は「哈蘭」,母は「梅梅」。
 「永明」との間に「梅浜」「永浜」「海浜」「陽浜」「優浜」「桜浜」「桃浜」「結浜」「彩浜」「楓浜」誕生。
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●「雄浜」(ゆうひん)=オス
 2001年12月17日アドベンチャーワールド生まれ。2004年6月中国へ。
●「隆浜」(りゅうひん)=オス/●「秋浜」(しゅうひん)=オス:双子
 2003年9月8日アドベンチャーワールド生まれ。2007年10月中国へ。
●「幸浜」(こうひん)=オス
 2005年8月23日アベンチャーワールド生まれ。2010年3月中国へ。
●「愛浜」(あいひん)=メス/●「明浜」( めいひん)=オス:双子
 2006年12月23日アドベンチャーワールド生まれ。2012年12月中国へ。
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●「梅浜」(めいひん)=メス/●「永浜」(えいひん)=オス:双子
 2008年9月13日アドベンチャーワールド生まれ。2013年2月中国へ。
●「海浜」(かいひん)=オス/●「陽浜」(ようひん)=メス:双子
  2010年8月11日アドベンチャーワールド生まれ。2017年6月中国へ。
●「優浜」(ゆうひん)=メス
 2012年8月10日アドベンチャーワールド生まれ。2017年6月中国へ。
●「桜浜」(おうひん)=メス/●「桃浜」(とうひん)=メス:双子
 2014年12月2日アドベンチャーワールド生まれ。2023年2月中国へ。
◎「結浜」(ゆいひん)=メス
 2016年9月18日アドベンチャーワールド生まれ。
◎「彩浜」(さいひん)=メス
 2018年8月14日アドベンチャーワールド生まれ。
◎「楓浜」(ふうひん)=メス
 2020年11月22日アドベンチャーワールド生まれ。
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 バスが来る時間が近づいたので,「白浜館」をチェックアウトして,バス停に向かいました。バス停の手前にあったのが,白浜薬師堂でした。
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 湯治客が病気平癒を祈願するため,湯治場には薬師堂があります。
 白浜薬師堂は,1966年(昭和41年),薬師寺管主の橋本凝胤上人が薬師寺の薬師如来を勧請して建立したといわれます。
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 バス停の裏側に公園がありました。そこで見つけたのが「津々浦々歩き旅」とかかれたリヤカーと若い男の人と女の人でした。何でも,ゴミを拾いながらリヤカーで日本一周をしているとかでした。
 帰ってから調べると,instagramとXに情報がありました。
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 日本一周∞ふたり歩き -2022年2月2日兵庫県西脇市出発-
 歩いて日本一周リアカー「難苦郞」を連れてワラーチを履いて外周をぐるっと一周中。何かできることをしながら旅したいという想いから「ゴミ拾い」をしながら歩いています。
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 日本国内や海外を多く旅しているといろいろな人に出会います。人生一度っきり。私のモットーは「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」というわけで,やりたいことがあればやったほうが後悔しないと思っているのですが,それでも,私にはこれはマネできませんし,しようとも思いません。

 定刻にバスが来たので乗り込みました。
 バスに乗っていたのは4,5人でしたが,途中で停まった白浜空港で,多くの人が乗ってきました。
 この日は金曜日で,これから週末にかけての旅行なのでしょう。そもそも,すでに書いたように,白浜の観光施設のほとんどが木曜日が休み,というのがいけません。だから,私も金曜日に旅をすることになってしまうのです。
 白浜空港の次のバス停は,空港口,展望台下,エクシブ白浜,アドベンチャーワールドとなります。白浜空港で乗り込んだ人たちのほとんどはアドベンチャーワールドで降りるだろうと思います。この多くの人たちと同じに降りることになるわけです。ということで,私は,ひとつ手前のエクシブ白浜で降りて,少し歩くことにしました。
 「エクシブ白浜」というのは会員制のリゾートホテルの名前です。
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 温暖な気候と温泉,そして,自然が織りなす景観の美しさで,古くから親しまれてきた伝統のリゾート南紀白浜。太平洋を見晴らす丘陵地に建つ「エクシブ白浜」は,その伝統が育んだホスピタリティと南欧の高級リゾートにも似た優雅さを兼ね備えたホテルです。
 恵まれた山海の幸と一流の技が絶妙な味のハーモニーを奏でる海鮮中華ダイニングやフランス料理レストランで,あるいは南国の陽光きらめくプールサイドでリゾートの真髄をお確かめください。
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というのがウリです。私は,リゾートというもの自体にまったく興味がないのですが,これが魅力的に写る人が多いのでしょう。

 エクシブ白浜のバス停からアドベンチャーワールドまではずっと坂を下る感じになるので,歩くことに問題はありませんでした。それよりも,エクシブ白浜のバス停で降りてよかったと思ったのは,高台で,白浜の町が一望できることと,もうひとつは,白浜の別荘地の中を歩けたことでした。
 白浜の別荘地は「白浜クリスタルタウン」といって,1,666区画の全棟温泉つき戸建て住宅です。私は,ああ,ここがそうなのか,と思いました。
 白浜は,中部地方からは遠いのですが,大阪からは近く,また,東京からも空路で来ることができる便利な場所です。景色がよく温暖で,しかも,温泉つき,となれば,お金持ちの別荘として,あるいは,老後の住み家として,魅力的なのでしょう。とはいえ,別荘といったところで,限りある時間,どれだけ来ることができるのやら。それに,大きな病院もなく,大型スーパーもなく,車がなければ移動も難しいし,別荘を持ってしまえば,他のところに行けなくなる,などと問題も多く,別荘なんて持たないほうがいい,というのが私の持論です。そんなお金があるのなら,さまざまなところを旅するほうがいい,と私は思います。
 また,老後の住み家として,では,一体何年住むことができるのやら…。亡くなった後で困るのが遺族です。売るに売れず,住むに住めず,遺産というより負債となります。実際,今でも,売りに出されているところや,廃墟化しているところが少なくありませんでした。こうして,また,この風光明媚なところがゴミだめになっていくのでしょう。日本各地にはこんなところがざらにあります。

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 2023年12月8日。紀伊半島1周の旅の2日目の朝です。
 「白浜館」は朝食がついていないので,昨日の晩,コンビニでペットボトルのコーヒーとサンドイッチを買っておきました。それで軽く朝食を済ませたあと,外に出ました。
 今日の予定は,この旅の目的地であるアドベンチャーワールドですが,私がいる白良浜からアドベンチャーワールドに行くには,午前8時51分のバスしかありません。それまでずいぶんと時間があるので,海岸を散歩することにしました。今日も快晴。白砂の広がる海岸はすばらしい景色でした。
 白良浜の片隅に,エディ・タウンゼント(Eddie Townsend)さんの碑がありました。
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 エディ・タウンゼントことエドワード・タウンゼント(Edward Townsend)さんは,1914年に生まれ,1988年に亡くなったハワイ出身のボクシングトレーナーです。
 ガッツ石松や井岡弘樹など6人の世界チャンピオンを育て上げた「名トレーナー」で,ボクシングに興味のない私でも,名前だけは知っています。
 エディ・タウンゼントさんは,11歳からボクシングをはじめました。1932年にハワイのアマチュア・フェザー級チャンピオンになりましたが,太平洋戦争でジムが閉鎖されたことで現役を引退し,指導者に転身しました。
 1962年に力道山に招請されて「日本からヘビー級のボクサーをつくる」ため,リキジムでトレーナーを務めましたが,1963年に力道山が急死してしまい,その後はさまざまなジムから招かれて選手の育成指導を続けました。
 ポール・タケシ・藤井(藤猛)を世界チャンピオンへと導いたことで注目され,それ以降,海老原博幸,柴田国明,ガッツ石松,友利正,井岡弘樹という6人の世界チャンピオンと赤井英和,カシアス内藤などの名ボクサーを育てました。
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 この碑が白良浜にあるのは,エディ・タウンゼントさんが生前好きな場所だったからだそうです。

 さらに歩いて行くと,1件の喫茶店があって,朝食が食べられました。私はすでに軽い朝食を済ませていたのですが,なかなか雰囲気がよかったので,中に入って,朝食を食べ直しました。
 この喫茶店,海が見えたらもっといいのになあ,と思いました。
 喫茶店を出て,「白浜館」に戻る途中で見つけたのが熊野三所神社でした。
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 白良浜の北端にある熊野三所神社は,伊弉冊尊(いざなみ),速玉男命(はやたまのお),事解男命(ことさかのお)を祭神とします。
 伝承によれば,658年(斉明天皇4年)に,斉明天皇が弟の有間皇子の勧めにより牟婁の湯(むろのゆ=白浜温泉)に行幸した際,腰を掛けた石を磐座として祭祀をはじめたとされ,後に熊野三所権現を観請して社殿を整えました。
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 境内は,それはそれは美しいいちょうの黄葉に包まれていて,幻想的でした。
 また,この場所には,古墳もありました。

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 京都大学白浜水族館を出て,海岸線を歩いて白井浜まで来ました。今晩の旅館は白井浜にある「白浜館」というところでした。選んだ理由は,単に宿泊代金が安かったというだけでした。
 私は,この1年,日本国内のさまざまな行ってみたかったところを旅してみて,日本国内を旅するときの宿泊の相場,というものがわかってきました。海外,特にアメリカでは,全国チェーンのモーテルがあって,ほとんどは,素泊まりか,申し訳程度の朝食がついているだけですが,どこもほぼ同じ仕様で当たり外れがなく,部屋には必ずバスとトイレがあります。
 日本では,都会のビジネスホテルはどこも同じようなものですが,観光地の日本風旅館だと,豪華な夕食と朝食がついていて,部屋にバスとトイレがあるものから,素泊まりでバスとトイレが共同,というものまで,非常にさまざまです。また,温泉があったりなかったり。そしてまた,値段もいろいろです。
 私は,高級な旅館や団体のツアー客が泊るような大きなところは,はじめから選択肢から外れるので,泊るところを選ぶのが大変です。私が旅をするのは,ほぼシーズンオフなので,どこも空いていて,快適な場合が多いですし,予想以上のところだと,とてもラッキーだと思うわけです。白浜は,2食つきだとどこもかなり宿泊料金が高くなるので,素泊まりにして,どこかで食事をすることにしました。

 「白浜館」は,場所は申し分ないところでした。また,部屋は,バストイレ付きで,しかも,とても広く,ベッドが3つもありました。ベランダには足湯もありました。とはいえ,かなり古い建物でした。おそらく,その昔は,夕食,朝食つきの高級な旅館だったのだと思います。それを,建て替えるでもなく,そのまま営業を続けているかのようでした。
 到着したのは,ちょうど太陽が沈むころでした。
 「白浜館」から道路を隔てたところに,白良浜(しららはま)という白砂が広がる海岸でした。
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 白浜という地名は,この白良浜に由来します。白良浜は,石英の砂からなる白い浜辺と白浜温泉で知られます。もともと,白良浜の白い砂がどうやってここに堆積したのかについては,はっきりしていないそうです。
 明治から大正にかけては,ガラスの原料として白良浜の砂が採掘されて大阪に運ばれていましたが,ガラス製造方法の変化で採掘されなくなりました。現在は,近畿地方屈指の海水浴場であり,夏は海水浴客で賑わい,60万人を超える客が訪れます。
 砂浜の砂は波によって流出し,開発により背後地からの砂の供給が途絶えたため,近年,目立って砂浜が痩せるようになりました。そこで,白浜町は,1982年より,冬季間の飛砂を防止するため防風ネットの施工をはじめたほか,1989年からはオーストラリア・パース付近の砂漠の砂を投入していますが, 砂の流出自体は止まっていないといいます。
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 部屋にカバンを置いて,夕日を見ようと,早々に海岸に行きました。
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  波寄する しららの浜の からすがひ拾ひやすくも 思ほゆるかな
      西行「山家集」
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 ほとんど雲のない,また,風もないすばらしい夕方で,美しい夕日を沈むまで楽しむことができました。

 「白浜館」に戻って,温泉に入りました。広い温泉はすばらしく,かつ,温泉には私だけ,という快適さでした。旅をするのは,シーズンオフに限ります。
 温泉から出て,夕食を食べようと,外に出ました。
 ところが,白浜の市街地には,気の利いた食事処がまったくないのでした。あるのは,焼き肉屋とか小料理屋とか,お寿司屋さんくらいのものでした。仕方がないので,というか,私は,旅先での食事は,豪華にするか,安価に済ますかの二択なので,今回は,安価に済ませることにして,ラーメン屋に入りました。このラーメン屋さん,一昨年に来たときもここで夕食をとったところです。つまり,白浜にはここしか選択肢がないのでした。前回は「和歌山ラーメン」を食べたので,今回は「白浜ラーメン」にしました。「和歌山ラーメン」は豚骨醤油味で,「白浜ラーメン」は鯛のダシを使用したあっさり塩味だそうです。
 しかし,翌日の早朝,海岸線を南に散歩していたら,おいしそうな炉端焼き屋さんを見つけたので,そこまで歩いてきたら,何とかなったのかもしれません。

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 白浜駅に着いて,心配だったのは交通でした。
 一昨年行ったときは車だったので,問題はなかったのですが,今回はバスに頼る必要があったからです。しかし,白浜町を走るのは明光バスという会社でしたが,白浜駅前にバス停があって,時間さえ調べておけば,特に問題なく移動することができました。ただし,ICカードは使えません。とはいえ,何とPayPayが使えたのです。PayPayは,降りるときにQRコードを読み取って金額を入力するというシステムでしたが,これでは,もしバスが混雑していたらすごく時間がかかりそうな気がしました。
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 白浜町は人口が約2万人で,古くはすでに奈良時代から温泉街として有名だったといいます。町は 観光業と農業,水産業が中心で,かつては,白良浜(しららはま)などの海水浴場付近を中心に,リゾート施設や別荘,保養所が集まっていました。また,熊野古道の大辺路ルートが2本通っています。
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 ということなのですが,現在は,白良浜から南のほうに行った海岸線に沿って大きな観光旅館がたくさんあって,白良浜の中心部はむしろ寂れた感がありました。まあ,私には,このほうがずっと快適ですが…。また,白浜は,私が翌日行くことになるアドベンチャーワールド目当ての観光客が多く,温泉地としては,斜陽のような雰囲気でした。
 ただし,私がそう感じたのはシーズンオフだからで,おそらく,夏は海水浴客で賑わっているのでしょう。

 白浜駅前に「さくらサーカス」のポスターがありました。この冬は和歌山市で公演をしているということです。昨年の今ごろは高知市で公演をしていて、私はそれが見たさに、日帰りで高知市まで行ってきました。早いもので、あれから1年です。その間、様々なところに行ったものです。
 さて、私は,白浜駅前から私がこの日宿泊するホテルのある白良浜までバスに乗ったのですが,途中で気が変わり,白良浜のひとつ手前の白浜バスセンターという停留所で降りました。ホテルに向かう前に,白良浜の北にある番所山公園に行こうと思ったからです。番所山公園は小高い山になっていて,南方熊楠記念館と京都大学白浜水族館があるということでした。
 なお,白良浜の南には,千畳敷と三段壁洞窟という見どころがあるのですが,これは一昨年行ったので,今回は行くのをやめました。
 白浜バスセンターの停留所から番所山公園まで,海岸線に沿って,けっこうな距離があったのですが,歩くことにしました。歩くというのは,その土地の空気が味わえるので,旅として,最高の贅沢なのです。しばらくしたら,円月島(えんげつとう)が見えてきました。
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 円月島は通称で,正式には高嶋(たかしま)といいます。
 国の名勝で,白浜のシンボルのひとつです。島の大きさは南北130メートル,東西35メートル,高さ25メートルで,島の中央に海蝕による直径約9メートルほどの円月形の洞が開いていて,春分,秋分の時期に,中心部の穴を通して夕日が見えるということで人気です。
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 この時期は,当然,太陽は中心部の穴を通して見ることはできないのですが,沈みゆく太陽と円月島がいい塩梅で調和して海岸線にあったので,インバウンドやらでやってきた中国人の乗った観光バスから多くの人が降りてきて,写真を撮っていました。

 番所山公園に着きました。私のお目当ては南方熊楠(みなかたくまぐす)記念館でした。
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 南方熊楠は1867年に生まれ,1941年に亡くなった生物学者です。
 言動や性格が奇抜で,人並み外れたものであるため,後世に数々の逸話を残しています。
 柳田國男からは「日本人の可能性の極限」と称され,「知の巨人」との評価もあるといいます。
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 これまで,南方熊楠はまったく知らなかったのですが,NHK朝の連続テレビ小説「らんまん」で登場して,興味をもちました。私は,今年,「らんまん」にちなんだところを多く旅してきましたが,まさか,白浜にもあるなんて! と思ったのが,わざわざ南方熊楠記念館までやってきた理由です。
 ところが,事前に調べてこなかったのが災いしました。南方熊楠記念館は休館だったのです。私が明日行くことになるアドベンチャーワールドが木曜日が休みであることは調べてきたのですが,白浜の観光施設は,アドベンチャーワールドだけでなく,どこも木曜日が休みなのでした。このところ,私が行った福井恐竜博物館も,境港市の水木しげる記念館も,行った日に限って休館でした。何かのツキに見放されているようです。まあ,「また来いよ!」と天の声に言われているのだと私は解釈しています。
 南方熊楠記念館については,入ることができなかったので,これ以上,書くことがありません。
 そこで,余談です。
 南方熊楠ファンは牧野富太郎が嫌いなのだそうです。それは次のような理由からということです。
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 南方が死んだとき、それは1941年の年末でしたが、牧野富太郎は「文藝春秋」に追悼文を書きました。これが南方熊楠ファンにはすこぶる評判が悪いのです。曰く、南方熊楠は植物学者として大変な大物だと思われているようだが,そんなことはない。文学者としては偉大だったが,植物学者としてはそんなにたいしたものではなかった,という内容でした。牧野富太郎は本心からそう思っていたのでしょう。
 牧野富太郎はフィールドワークの人であり,南方熊楠は書斎の人でした。
 南方熊楠は,ロンドンにいたときには大英博物館に,日本に戻ってからは和歌山の田辺に「籠もって」とても狭い範囲で生きていたのですが,このことが,牧野富太郎のような,身体を動かすタイプの研究者には相容れなかったのです。
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 しかたがないので,ふもとにある京都大学白浜水族館に入りました。ここは,当てつけのように「年中無休」という大きな看板が掲げられていました。期待していなかったのですが,すばらしい水族館でした。民間の営利主義の水族館は多々あれど,ここは大学の付属施設ということで,純粋に,来館者に水族館の楽しさを味わってもらおうという工夫がいたるところにありました。
 南方熊楠記念館が休館でなかったらおそらく行っていなかったと思います。これもまた,塞翁が馬というものでしょうか。
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 通称・京都大学白浜水族館,正式名称は京都大学フィールド科学教育研究センター瀬戸臨海実験所水族館は,白浜町にある水族館で,京都大学フィールド科学教育研究センター瀬戸臨海実験所の付属施設です。1922年に開所した京都帝国大学理学部附属瀬戸臨海研究所の水槽室を,京都大学理学部附属瀬戸臨海実験所水族館の名称で,1930年から一般に公開している,日本の国立大学法人のもつ臨海実験所で博物館法による博物館相当施設の指定を受けている唯一の施設です。
 白浜町周辺に生息する水族を常時約500種展示していて,無脊椎動物は年間451種6349点と国内有数を誇ります。
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◇◇◇ 無題


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 午前11時56分,那智勝浦駅に着きました。那智勝浦の温泉に泊るというのもひとつの案ですが,今回の紀伊半島1周の旅の大きな目的は白浜のアドベンチャーワールドへ行くことだったので,私のこの日の宿泊地は白浜にしました。そこで,那智勝浦駅で乗り換えて白浜駅まで行く必要がありました。
 那智勝浦駅で一旦途中下車して観光をするという方法もありますが,特に行きたいところもなかったので,そのまま先に進むことにしました。那智勝浦駅から白浜駅までは,特急「くろしお」ならば1時間20分ほどで行くことができるのですが,特急「くろしお」22号は那智勝浦駅11時48分発と,わずか8分前に出てしまっていて接続が悪く,その次の特急「くろしお」26号は13時46分発ということで,2時間近くも待ち時間があるというように,まさに,「乗れるものなら乗ってみろ」といった旧国鉄時代をほうふつとさせるダイヤでした。
 そんな理由もあって,私は,特急「くろしお」26号を待つこともなく,12時9分発の普通電車に乗り換えました。この普通電車にゆられること2時間弱で白浜駅に着くのです。那智勝浦駅から白浜駅までは紀伊半島の最南端を通っていくので,景色は抜群ですが,なぜか,JR西日本だというのに,列車の座席がお得意のクロスシートでなく,ロングシートなのでした。この区間が混雑するとも思えず,ロングシートにする必要もないわけで,不思議な気がしました。せっかく景色がよいのに,これでは十分にそれを味わうことができません。窓から外を見るために絶えず体をねじっている必要がありました。

 一昨年,このあたりを車で走ったことがあります。そして驚きました。海岸線にそって,不思議な形をした岩が点在して,それはそれはすばらしい風景でした。その中でももっとも有名なのは橋杭岩(はしぐいいわ)というものでしょうか。
  ・・・・・・
 橋杭岩は和歌山県東牟婁郡串本町にある奇岩群です。串本町の大字鬮野川(くじのかわ)小字橋杭の海岸から紀伊大島方面へ大小約40の岩が南西1列におよそ850メートルもの長きにわたって連続してそそり立っています。直線上に岩が立ち並ぶ姿が橋の杭のように見えることから橋杭岩とよばれています。
  ・・・・・・
 橋杭岩は車窓からちらりと見ることができました。
 やがて,列車は串本駅に到着しました。串本からさらに南に行くと,潮岬灯台があって,そこが本州最南端です。こうして,紀伊半島の先端をぐるりとまわって,列車は向きを変えました。私はちょうど太陽が動く方向にむかって進んでいることになるので,ずっと太陽を見ながらの旅となります。また,ずっと海岸線を眺めて進むことになりますが,列車の乗客がどんどん少なくなってきました。列車は2両編成のワンマンカーですが,1車両に載っているのはわずか数人になりました。
 14時7分,ついに白浜駅に到着しました。

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 今日の写真は,特急「南紀」の車内から写したものです。私は,このごろ,ガラスに景色が反射するのを避けるためにカメラのレンズにPLフィルタを常用しているのですが,これが失敗でした。
 ガラスの反射を消すどころか,ガラスによって,光が屈折して虹のようになってしまいました。いくら使ってみても,カメラはむずかしいものです。

 さて,私は,海が見える側を選んでチケットを購入したので,紀伊長島駅を過ぎたころから,車内から美しい海を眺めることができるようになりました。紀伊長島駅は紀北町というところにあります。
  ・・・・・・
 三重県の南に位置する紀北町。特にこれといったものはないけれど,紀北町へ来ると世界遺産熊野古道を歩けます。マンボウが食べられます。朝揚がった魚の海鮮丼がお値打ちに食べられます。
 おいしい干物が買える。日本農業遺産に認定された“尾鷲ヒノキ”の匂いがする。
  紀北町に来たらいいことあるかも!
  紀北町へ来たらこんなもの食べれます!
  紀北町へ来たらこんなもの見れます!
  紀北町へ来たらこんなところ泊まれます!
  紀北町へ来たらラブめし食べられます!
 たまには知らない遠い田舎に来てみませんか?
  ・・・・・・
 私は,紀伊長島について調べていて,大いなる勘違いをしていたことを悟りました。それは,これまで,戦国時代,長島の一向一揆が起きた場所がこの紀伊長島だとばかり思いこんでいたことです。
 学生時代,私が知っていた長島という地名は,現在,長島スパーランドのあるところだけだったのですが,確か,長島の一向一揆が起きた長島というのは,そこではなく,別の長島だと習ったように記憶していて,だから,紀伊長島だと思っていたのです。しかし,実際は,長島の一向一揆が起きたのは長島スパーランドのあるところで,学生時代に私が思った場所で間違いはなかったのです。どうして,このような誤解をしていたのだろう?

 閑話休題。
 さて,雲ひとつなく美しい海を見ながら,特急「南紀」は進んでいきます。私が夢見ていたとおりのすばらしい旅になりました。やがて,尾鷲駅に着きました。尾鷲という地名を知ったのは,1967年のNHK朝の連続テレビ小説「旅路」で,それ以来,尾鷲という場所が気になっていたら,天気予報で,いつも雨が多いところとしてこの地名が取り上げられるので,「尾鷲=雨の多いところ」というのが,私の尾鷲に関する連想となりました。
 さて,連続テレビ小説「旅路」は,私が最も印象に残るNHK朝の連続テレビ小説です。
  ・・・・・
 1967年に放送された,平岩弓枝作の連続テレビ小説「旅路」は,幼いころから鉄道にあこがれ,国鉄職員として生きた室伏雄一郎と妻・有里,愛情深い夫婦を中心にふたりをとりまく人々の群像を織り交ぜながら,北海道,東京,大阪,京都,三重を舞台にして,大正から昭和にかけた変動期を,素朴に力強く,平凡に生きることの幸せをつづったものです。
  ・・・・・・
 尾鷲にある竹林がドラマのロケ地だったのですが,しかし,そこがどこなのか,今まで知らず,確かめることもなく,しかし,ずっと気になっていました。そこで,今回,調べてみました。
  ・・・・・・
 尾鷲市の「土井竹林」は,トンネルを抜ければ大きな竹,別世界に来たようなところです。
 NHKのドラマ「旅路」で,雄一朗と有理がはじめて出会った場所として,また,戦死したという誤報のあった雄一郎が戦争から生きて戻ってきて涙の再会をした場所として,有名なところです。
 神秘的で行く人々を圧倒させる竹林は,約4,000平方メートルに広がり,直径30センチメートル以上の大きな竹は圧巻です。
  ・・・・・
 これまで,数度,尾鷲に行ったことがあるのに,竹林はどこなのかな,今でもあるのかな,と思いつつ,それ以上地元の人に聞くこともなかったのですが,この旅から帰って,その場所が「土井竹林」という場所であることをはじめて知りました。今も健在であるようなので,ぜひ,近々行ってみたいと思うようになりました。
 「旅路」は録画が存在しているようなのですが,アーカイブでわずか4分ほどのダイジェストを見ることができる以外は,なぜなのか,まったく放送もされず,メディア化もされておらず,今は見ることができません。とても残念です。

 特急「南紀」は熊野市駅を過ぎ,次は新宮駅です。このあたりは,ずっと海岸線に沿って進むので,すばらしい景色が続きます。新宮駅の手前で大きな川を渡ります。この川が熊野川です。熊野川の上流に「名勝・瀞峡」がある,という車内放送がありました。「名勝・瀞峡」は昨年2022年の夏に行ったところで,この車内放送で,そのときのことを鮮明に思い出しました。こうして旅をしていると,さまざまな想いがつながっていって,気分が盛り上がっていきます。旅は最高です!
 こうして,特急「南紀」での4時間はあっという間に過ぎ,やがて,終点の那智勝浦駅に到着しました。

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 念願だった紀伊半島1周の旅は,2023年12月7日から12月9日まで2泊3日でした。11月は旅のシーズンということでそれを避けて12月の初旬にしたのですが,心配だったのは天気だけでした。しかし,心配無用,3日とも快晴,しかも,初秋のような温かな日々でした。また,今回も,天候の他にも多くの幸運がありました。
 名古屋駅に着いたのは午前7時ごろでした。私が乗るのは午前8時2分発の特急「南紀」1号なので,まだ時間がありました。カフェでコーヒーでも,と思って探していたら,「Cafe Gentiane」と書かれた店を見つけました。店は空いていて,すぐに席に案内されました。
 メニューを見て驚きました。この店では「ぴよりん」を食べることができたのです。
 私は地元にいながら,今流行の「ぴよりん」を食べたことがなく,一度は食べたいものだとずっと思っていたのですが,私が知っている店はいつも行列ができていて,望みをかなえることができませんでした。それが,こんなふうに,期せずして実現するとは…。何という幸運なのでしょう。
  ・・・・・・
 「ぴよりん」は,愛知県の地元食材「名古屋コーチン」の卵を使ったプリンをバニラの香り豊かなババロアで包み込み,粉末状にしたスポンジをまとわせて,ふんわり「ひよこ」の形に飾りつけた生スイーツです。愛情たっぷり作るぴよりんは,ひとつずつ表情が異なってとってもキュート。ほんのり⽢くてなめらかなくちどけが特徴です。
 「ぴよりん」がブレイクしたきっかけは,藤井聡太八冠が,2021年当時,愛知県内の対局で「ぴよりん」をおやつとして食べたことです。そこから地元メディアがこぞって取材をして,全国区となったのですが,大変繊細で柔らかくて崩れやすいスイーツのために,搬送できないのです。
  ・・・・・・
 「Cafe Gentiane」。この店の名前は「ぴよりんステーション カフェ・ジャンシアーヌ」ということを後で知りました。そして,通常は,やはり,待ち時間が結構あるようで,私が待つこともなく入ることができたのは,朝7時という開店したばかりの早い時間だったから,ということがわかりました。
 お昼は列車の中で済まそうと,駅弁を買うことにしていたのですが,そこで見つけたのが新発売の「ぴよりん」弁当だったので,早々に購入しました。

 特急「南紀」1号に乗る時間が来たので,ホームに向かいました。
 私は「鉄ちゃん」ではないのですが,JRを利用して旅をするようになると,この国の複雑怪奇な鉄道を乗りこなすには,嫌でも詳しくなってきます。そして,詳しくなるにつれて,この列車に乗ってみたい,とかいう願望が湧いてくるので,まんまとJRの手口にはまってしまうわけです。
  ・・・・・・
 「南紀」は,JR東海,伊勢鉄道,JR西日本が,名古屋駅,新宮駅,紀伊勝浦駅間を,関西本線,伊勢線,紀勢本線経由で運行する特別急行列車です。
 1978年に紀勢本線の和歌山駅と新宮駅間の電化が完成したことで,従来,天王寺駅と名古屋駅間を紀勢本線経由で運転していた旧「くろしお」の運転区間を電化区間と非電化区間で分割することになり,旧「くろしお」の三重県内の運転は廃止され,名古屋駅と紀伊勝浦駅間に特急「南紀」を新設しました。
 1日に,名古屋駅と紀伊勝浦駅間に3往復,名古屋駅と新宮駅間に1往復の合計4往復が運転されています。停車駅は,名古屋駅,桑名駅,四日市駅,鈴鹿駅,津駅,松阪駅,多気駅,三瀬谷駅,紀伊長島駅,尾鷲駅,熊野市駅,新宮駅,紀伊勝浦駅です。
 2023年7月からはHC85系気動車が導入され,普通車のみの2両編成でそのうち1両が自由席となっています。HC85系気動車というのは,ハイブリッド式特急形気動車のことで,最高速度が時速120キロメートルと速くなり,また,曲線通過性能が向上したことで,スピードアップが実施されて,名古屋駅と那智勝浦駅を約4時間で結んでいます。
  ・・・・・・

 列車はガラガラでした。
 そもそも,三重県は近鉄全盛であって,JRの入り込むる余地がありません。「南紀」が走っているだけでもありがたいことです。私は,空いている,というだけでも非常に快適でしたが,それに加えて,天気もよく,思いがけず「ぴよりん」も食べられて,すばらしい旅のはじまりとなりました。
 午前11時過ぎ,いよいよ「ぴよりん」弁当の時間です。「ぴよりん」を形作っていたのが玉子焼きで,これはオムライスになっていました。

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 数年前までは,何があって,どうやって行けばいいのやらまったくわからなかった紀伊半島でしたが,車で何度か出かけて,今は,身近なところとなりました。しかし,それでも,私には,紀伊半島にもう一度行きたいという気持ちがずっとありました。
 その理由は,車で,紀伊半島を海岸沿いに走っていたときに見かけた列車に乗ってみたい,ということと,白浜にある「アドベンチャーワールド」に行ってみたいということでした。

 はじめに紀伊半島に行ったころは,日本の国内を列車で旅行する気はほとんどありませんでした。車のほうが便利だし,安価だった,というのがその理由でした。また,東北地方や四国地方,九州地方などの遠いところはFDAが飛んでいるので,FDAを利用して出かけて,現地でレンタカーを借りるという旅をしてきました。
 紀伊半島では,白浜に泊ったことがあるのですが,「アドベンチャーワールド」なんてまったく興味がなかったので,行くことはありませんでした。

 その後,ジパング倶楽部に入会したことで,列車の旅の魅力を覚えました。また,前回行かなかった「アドベンチャーワールド」が思っていたよりずっと魅力的なところだと知りました。そんなわけで,紀伊半島を列車で旅をして,途中,白浜で1泊して,「アドベンチャーワールド」に寄る,という旅をすることにしました。
 列車は名古屋市内から名古屋市内の片道だ,と思ってJRの窓口に出かけたのですが,その通りに切符を発券してもらえて,その知識は正解でした。私も,次第に「鉄ちゃん」になりつつあるようです。こうして,また,新たに興味が増えてきました。困ったものです。本当に,これまで散々海外旅行をして,旅慣れておいてよかったと思うこのごろです。
 国内旅行の最大の問題は,天候です。とにかく,天気が悪ければ,すべてが台なしですが,これは,自分の運を信じることにしましょう。

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 昨年冬に紀伊半島に行ったときは,谷瀬の吊り橋を渡ったころに雪が降りそうになって,慌てて帰宅するために近道しようと走ったのが,何と酷道425号線でした。
 何はともあれ,海外旅行に行くことができなくなった,かつ,行き飽きた私は,こうして紀伊半島を旅行することに目覚めたのですが,帰宅してからはじめて紀伊半島のガイドブックを買って改めて見てみると,行っていない不思議そうなところが多々あることを知り,次に行くときはぜひそんなところに,と思いました。その筆頭が今回行くことができた瀞峡でした。
  ・・
 前回も今回も,熊野本宮大社は,何度も行き来したけれど通り過ぎただけでした。それは,今から20年ほど前に行ったことがあったからですが,次回は,もう一度行ってみたいものです。よく名前だけは聞く有名な熊野古道,私は,なぜか興味がなく,これまで歩いたことがありませんでした。少し前まではどこにあるのかさえも知りませんでした。紀伊半島に行ってみて,やっとそれがどこのことなのかわかってきたのですが,前回行ったときは寒すぎ,今回は暑すぎ,という言い訳で,歩く気にはなりませんでした。そのうちに,きちんと計画して歩いてみたいものです。
 私は,子供ころ,地図を見るのが大好きでしたが,そのとき,三重県と奈良県の県境に和歌山県の飛び地があることを知って以来,どんなところなのかずっと気になっていました。それは北山村ということで,今回ぜひ行ってみようと思ったのですが,結局,瀞峡までは行ったものの,その後,国道168号線を経由して帰ったので,行くことができませんでした。
 また,前回,入園料が高いなあという理由で行かなかった白浜のアドベンチャーワールド。これもまた,帰宅してからずいぶんと魅力的なところだと知って,行ってみたくなったのですが,それもまだ果たしていません。

 というようように,紀伊半島は,まだ,私には行っていないところが多くあって,依然,謎に包まれているのですが,こうしてまだ「やり足りていない」ことが多々あることこそが,ふさわしいのではないか,と今では思うわけです。それは,容易にはリピートできない海外でもあるまいし,日本国内で行っていないところが多いというのは,また行きたくなるということで,だから,また行けるということにつながるからです。
 紀伊半島以外に,私が,今,行きたいと思っているのは,徳島県のかづら橋と佐渡島です。こうして,行っていないところが残っているほうが,張り合いがあるのです。
  ・・
 私は,数年前に,それまでずっと憧れだったハワイもアメリカもフィンランドも,行きたかったところはほぼ行ってしまったので,あえてまた行きたいと思わなくなってしまいました。そんなころにコロナ禍になって,行きたくても行けなくなったわけですが,今にしてみると,それはそれでよかったのです。しかし,日本国内でも行きたいところがないとすれば,本当にこの先,どこにも行く気がなくなってしまいます。
 だから「やり足りない」ということはとてもすてきなことです。旅は,目こぼしするほうがいいのです。


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 地図を見る限り,こんなところに人が住んでいるのか,道路があるのか,と長年思っていた紀伊半島でした。しかし,実際に走ってみて身にしみたことがあります。
 それは,とにかくいい加減にしてよ,と叫びたくなるほど,日本の道路に対する情報がひどいということです。アメリカなら地図だけを見て走れますが,日本では道路地図だけでは走れません。私がひどいというのは道路の状態よりも,地図で見ても,実際に走ってみなければその道路の様子がわからないということです。

 まず,高速道が有料なのか無料なのかがわからない,ということがあげられます。しかも,高速道といいながら片側1車線のところも多くありますし,山形県のように,高速道と一般道でほとんどその移動時間が変わらないから高速道を作る意味がわからないというところもあります。
 紀伊半島にも海岸沿いに次第に高速道が作られてきましたが,紀勢自動車道はまだ計画どおりつながっておらず,そのためか,東側は紀伊長島から南,西側は南紀田辺から南が無料区間なのだそうですが,そんなことわかるか! という感じです。また,東名阪道は無料で,西名阪道は有料です。これは知っていましたが,これだって,知らない人はわからないでしょう。
 アメリカでは有料なのか無料なのかは地図に示されている道路の色が違うので,すぐわかります。

 次に,国道といいながら,その国道が走りやすい道路なのか,通称「酷道」といわれているものなのかすらわからないということです。国道だから安心して走れる,と思うと,とんでもないことになる場合があります。また,走ってる道路に「国道〇〇号線」とか「県道〇〇号線」といった標示さえなかったりすることが少なくないし,行先を示す道路標示も,また,一貫した決まりがないので,途中で道に迷ってしまいます。カーナビもあてになりません。
 私が前回走ってから「日本3大酷道」のひとつだと知った通称「シニゴー」国道425号線をはじめとして,紀伊半島には「国道425号線よりはましだ」とネットに書かれていた国道480号線,さらには,急勾配・急カーブが続く国道308号線などもあるそうですが,これもまた,そんなこと知るか! です。
 ちなみに,「日本三大酷道」とは,国道425号線のほかに,徳島県を走る通称「ヨサク」として親しまれて? いる国道439号,岐阜県の木曽川沿いを走る国道418号があるそうです。こうした道路は,地図を見てもそんなことは書いていないから,よほどの通でなければ,地元民はどんな悪路か知っていても,走り慣れていない人にはそれがわからないというように,道路の状況に対する情報が完全に不足しているのです。道がつながっているというのと,安全に走ることができるというのはまったく違います。
 意味のない標語やら看板やらは山ほどあるのに,いつも肝心なことが完全に抜けています。まるで事故を誘発しているかのようです。これが日本という国の実態です。急ぎの電話をかけたら案内放送が延々とはじまった,みたいな感じです。
 まあ,私は,長年この国で生きてきて,もはや,日本には何も期待していないけれど,道路の場合,選択を誤れば命の危険さえあるのだから,こりゃないぜ! といつも思います。

 その一方で,国道の全面的改良を! といった看板が至る所にあります。そのおかげか,あるいは,議員の力なのか,一部の区間だけ,突然,道路が改良されて,川の上を高架で貫いていたり,長い橋がかけられていたりとものすごいお金をかけて,必要以上の改良がなされていて驚くことも少なくありません。また,作られたばかりのトンネルが山の中を延々と貫いていたりします。それらもまた,異常なほどの金のかけ方です。しかも,ほどんど車は通っていません。そこまでせずとも,というほどのオーバースペックです。いわば「昔のままのところは軽トラで,新しいところはジェット機」みたいなもので,普通の乗用車レベルの道路がないのです。しかも,途中だけデラックスでも,そこに行くための道路がチープでは仕方がありません。
 いったいどうなっているのでしょう。
 こんな建設をしていては,いくらお金があっても足りません。教育や大学の研究費が世界の中でも低い水準であるその理由がわかるというものです。しかも,整備が必要な道路は山ほどあるから,こんな具合に果てしなく作っていっても,この先,それらを維持していくことができるのでしょうか? 今架かっている橋の70パーセントは老朽化といわれていますし,この先も将来にわたって延々と少子高齢化が続くので,国の成長など期待できません。
 日本を走っていると,いつも,何か,絶望的な気持ちになります。
 これでは,奥さんが,日々,キャベツ1個の値段にこだわって5円でも10円でも節約している端から,旦那さんが,50万円のカメラや500万円の車を毎年買い替えているようなものです。


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 すでに書いたように,私が奈良県の十津川温泉に宿泊したのは,割引があったからです。
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 奈良県の県内旅行を割引支援するのが「【全国版】いまなら2022プラス」。実施時期は7月1日から翌年の2月28日で,その内容は,最大50パーセントの割引(交通付宿泊は上限8,000円,宿泊は上限5,000円)と地域クーポンが平日最大3,000円分,ただし,県外在住者の休日宿泊に限り最大2,000円分です。
  ・・・・・・
 ということで,わが愛する奈良県は,何度でも旅をしたくなるところとなりました。

 さて,私は平日に旅行をしたので,宿泊が5,000円引きになった上に,地域クーポンを3,000円分もらいました。長野県に行ったときも同じでしたが,この地域クーポン券を使うのには頭が要ります。そのひとつはどの店で使えるのかがよくわからないことです。ネットで調べると小さな文字で書かれた一覧表が出てくるのですが,地名が書かれてあっても,その土地に住んでいない旅行者にはそれがどこなのかさっぱりわかりません。もうひとつは,宿泊した翌日,チェックアウトのときにもらっても,その有効期限は1日限りであり,しかも,その県でしか使えないので,県をまたいでしまえば,無駄になってしまうことです。

 長野県に行ったときは,私は,岐阜県を通って帰ることにしていたので,県境を越える前に使おうとお店を探すのに苦労しました。
 今回もまた,はじめは,瀞峡から新宮へ出て,三重県を通って帰るつもりだったのですが,そうすると,地域クーポンが無駄になってしまうので,奈良県を北上することにしたわけです。
  ・・
 まず,昼食に使おうと思いましたが,どの店で使えるのかがわかりません。十津川村観光案内所があったので入っていって聞いてみると,ここで使えるという話でした。
 観光案内所の2階に食堂があったので,まず,そこで地域クーポンを使って昼食としておそばを食べました。食事のあと,1階にお土産売り場があったので,残りはそこで使うことにしましたが,要らないお土産を買うのもためらわれました。私は土産を買う習慣がありません。で,私が買ったのは,なんとノースランドレッドメロンでした。
 子供のころ,メロンはかなり贅沢なくだものでした。今はどうなのでしょう? テレビドラマ「ドクターX」で「メロンです」などというセリフがあるから,今でも高級品なのでしょうか。私は,今までメロンを1個買った経験がないので,これを機にメロンを買ってみることにしました。奈良県の地域クーポンで北海道のメロンを買って帰るなんて,なんとすばらしいことか,と自画自賛しました。

 帰宅して2,3日部屋に置いていたら,いい香りがしてきました。メロンがちょうど食べごろになったのです。食べてみると,それがまあ,おいしかったこと。
 というわけで,すっかりメロンにはまってしまった私は,山形県に行ったときに魅力的だったさくらんぼ「佐藤錦」を買わずに手に入れようと,山形市にふるさと納税をしたことを思い出して,メロンの種類は違いますが,今度は,返礼品のアールスメロンを楽しみに,再び,山形市にふるさと納税をしたのでした。
 私が奈良に行ってもっとも得をしたのは,やはり,今回も山形市だったようです。

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 日本一長い吊り橋として有名な十津川村の谷瀬の吊り橋は,昨年12月に十津川村を通ったときに渡りました。
 今回,瀞峡の川舟を楽しんでいて見つけたのが山彦橋という吊り橋でした。谷瀬の吊り橋よりはずっと短いのですが,雰囲気のよい場所にあります。奈良県側から対岸の三重県側に渡り,再び引き返します。
 何事も奥が深いというか,極めるには大変というか,今日の話題である山彦橋という吊り橋のことを調べようとウェブページを見ていたら,日本中の至る所の吊り橋を渡るのを楽しみにしている吊り橋マニアの人が作っているブログを見つけました。いろいろな楽しみがあるものだと思いました。
 私は,別段吊り橋マニアでもないのですが,そこに楽しそうなことがあればチャレンジすることを旨としているので,今回も,こんなすてきな吊り橋を見てしまっては,渡ってみたくなるというものです。

 山彦橋は新しく,だから,とても安全そうだったのですが,2015年3月に架け直されたものでした。それは,瀞ホテルのとなりにある吊り橋と同じく2011年の水害で壊れてしまったからです。
 なお,調べていてわかったことですが,昨年の今ごろは,この吊り橋は渡ることができませんでした。それは,スズメバチの巣が確認させて,実際に刺された人が数人いたことで,安全のために通行禁止となっていたからです。
 せっかく渡りにきて通行禁止ではがっかりしますが,今年は幸い大丈夫でした。数日前までの雨という天気予報が一転して晴れ。当然,私は,吊り橋を意気揚々と渡ることができました。

 山彦橋を渡っていたとき,私がかねてからぜひ挑戦してみたいと思っている祖谷のかずら橋を思い出しました。
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 四国にある大歩危渓谷・祖谷にかかるかずら橋は,冬場の厳寒な山野で採取した自生の「シラクチカズラ」を編み連ねて創られています。以前は大切な生活路として祖谷川各所に架けられていたそうですが,現存するのは西祖谷山村の「祖谷のかずら橋」と東祖谷の「奥祖谷二重かずら橋」だけです。かずら橋は,祖谷に巡行した弘法大師が困っている村人のために作ったという説や,追っ手から逃れる平家の落人が楽に切り落とせるようシラクチカズラで作ったという説などがあるそうです。
 「祖谷のかずら橋」は日本3奇橋のひとつとして知られていて,長さは45メートル,幅2メートルで,水面上14メートルです。また,「奥祖谷二重かずら橋」は祖谷のかずら橋からさらに山間に車で約1時間ほど行ったところにあり,男橋と女橋の二本の橋の総称です。男橋は昔の生活道にかけられた橋を復元したもので,女橋は男橋よりも小さく,上流側にかけられています。ただし,「奥祖谷二重かずら橋」へ行くには,日本三大酷道のひとつである国道439号を走る必要があります。
  ・・・・・・
 人が少ない今こそ,ぜひ行って,渡ってみたいと思っているのですが…。

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 今日は船からの眺めを紹介しましょう。
 船が通っている場所は「瀞八丁」というのですが,「瀞八丁」というのは,山,岩,水,いづれも郡を抜いた美しさが,口八丁,手八丁の語から引用されたものらしいということです。八というのは,多いということです。
 また,瀞峡の「瀞」は,古文書では「泥」という漢字をあてて書かれていましたが,1968年(明治元年)に,水溜まりの最も深い処を意味する「瀞」と改められました。溜,漂,淵,瀞という順に深くなるのだそうです。日本語は難しいです。船頭さんの話では,瀞峡は深いところで20メートルほどあるそうです。
  ・・
 熊野本宮大社,熊野速玉大社,熊野那智大社の三社を熊野三山といいます。これもまた,山形県の羽黒三山に似ています。日本人の考えることはどこでも一緒です。
 熊野三山は和歌山県の南東部にそれぞれ20キロメートルから40キロメートルの距離を隔てて位置していて,熊野古道の中辺路によって結ばれています。これら三社は個別の自然崇拝に起源があるのですが,三社の主祭神を相互に勧請し熊野三所権現として信仰されるようになりました。

 海抜1,100メートルの高峰に,周囲4丈,樹齢3,000年の老杉に囲まれたのが,第10代崇神天皇が創建した熊野三山の奥の宮である玉置神社で,その御手洗池こそが瀞峡であるといわれています。
 瀞峡は,今から7,000年ほど前の太古,いくつもの大滝があったのが次第に後退消滅し,滝壺の連続して出来たものだそうです。現在も,今日の1番目の写真のように,岩と岩の割れ目から水が落ち,次第に浸食をしていて,将来,新たな渓谷になるのだそうですが,おそらく,そのころには人間はいないでしょう。
  ・・
 瀞峡からは,吊り橋である山彦橋,ライオンの顔の形をした獅子岩,ふたつの寄りそう巨石からなる夫婦岩,川に落ちたように見える墜落岩,首に縄をかけた狛犬岩,カメの形をした亀岩,そして,母子滝などが見られました。
 また,岩面には川さつきや岩千鳥などの花が咲いています。
 四季折々,美しい姿を見せますが,何といっても,今の新緑のころが最も美しいということです。

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 2日目のこれまでの行程を振りかえってみましょう。
 紀伊半島はアクセスが容易でないだけに,日本なりに秘境といわれる場所があるものです。
 私は昨年の12月に,何も知らずに紀伊半島にはじめて来て,国道,いや,酷道425号線などというどうしようもない道を走ったものだから,この瀞峡に行くにも,また,そうした道路を走る必要があるのでは,と恐れていました。
 十津川村から国道168号線を南に進み,熊野本宮大社を越え,熊野川に沿っていくと,西からつながる国道311号線と合流し,しばらく国道168号線と国道311号線の共用区間を瀞峡へと進みます。ここまではよかったのです。
 やがて,熊野川と北山川が合流する地点で,国道168号線と国道311号線は分岐します。
 国道168号線はそこから南へ,新宮市へ向けてつながっていています。前回,私は新宮市からこの道を逆に十津川村に向けて走って来たことになります。また,国道168号線は国道311号線と分岐した後,少し行ったところにドライブインがあって,そこが,かつて就航していたというウォータージェット船の乗り場だったようです。一方,国道311号線は瀞峡の方向へ,北山川沿いを進み,最終的には熊野市までつながっています。

 私は瀞峡をめざしていたので,この日は,国道311号線に進路を変え,熊野川にかかる橋を渡って北に進むことになりました。
 国道311号線をしばらく行くと,今度は,国道169号線との分岐点がありました。まっすぐ行くと国道311号線で,左に折れると国道169号線です。実は,瀞峡に行くには,国道169号線を進まなければならなかったのですが,私の頼っていた Google Maps が示したのが,そのまま国道311号線を進むと,再び北山川を渡る橋があって,その橋を渡ったところに左折する道があるので,そこを進むようにとあったのです。これが失敗の原因でした。私は,この道をしばらく進んだのですが,そこは私の目的とする場所でなかったので引き返したことは,前回書きました。
 再び国道311号線に戻りました。
 国道311号線は,そのまま東に進んでも当然瀞峡には行けませんが,最終的には熊野市までつながっています。私が戻ってきた地点から国道311号線を少し東に行ったところに集落があって,集落の中の道を左折して狭い道路を進むと丸山千枚田へ行くことができるのでした。このこともまた,すでに書きました。そこで,私が丸山千枚田に寄ってから,再び国道311号線を引き返し,瀞峡という道路標示を見つけて右折したのが国道169号線だったというわけです。
 なお,この国道169号線は,かつては酷道だったようですが,今は改良工事が進んでいるということです。国道169号線は瀞峡を過ぎると,和歌山県の飛び地と三重県の県境である北山川沿いに進み,その後,北に進路を変えて,私が昨年走った酷道425号線を跨ぎ,さらにさらに北上して,奈良県吉野町を越え,橿原市に達するというすごい道です。

  ・・・・・・
 瀞峡(どろきょう)は,和歌山県・三重県・奈良県を流れる熊野川水系の北山川にある峡谷で,吉野熊野国立公園の一部です。瀞峡は,大台ヶ原周辺から流れを発した川が滝を形成し,侵食作用によって滝つぼが後退して形成されたものです。瀞峡の「瀞」は「深い淀み」を意味します。
 上流から,奥瀞,上瀞,下瀞とよばれていて,下瀞が,瀞八丁の名で知られる,巨岩,奇岩,断崖が続く圧倒的な渓谷なのです。 
 北山川は,1965年(昭和40年)ころに車道ができるまで人々の交通手段として利用されてきました。瀞峡は美しい景観ながら古くは訪れる人は少なく,1884年(明治17年)ごろに紀伊地方の外からの来訪者が現れるまでは地元の人にだけ愛される場所でした。訪れる人が少なかったのはアクセスのし難さが理由でした。
 かつて,この周辺地域の人々の暮らしは,瀞峡を含む北山川に深く根ざしていました。
 海から深く入った森林で伐採された材木は「団平船」とよばれる帆船や材木を組んで作られる筏の形で北山川を下り,港へと運ばれました。今年の5月に行った山形県の最上川と同じような感じです。
 また,瀞ホテルは,こうした筏師たちのための宿でした。
  ・・
 瀞峡は,1920年(大正9年)にプロペラ船が導入され,昭和に入り国立公園に指定されます。1965年(昭和40年)にプロペラ船に変わってウォータージェット船が就航すると徐々にアクセスは改善し,観光客が増えていきました。
 ウォータージェット船は熊野観光開発が開設したものですが,2011年の紀伊半島での水害で北山川への流入土砂が増加したことで航路維持の負担が大きくなっていたところ,作業員の高齢化や人手不足,そして,新型コロナウイルスの流行が決定的なダメージとなって,ついに2021年に運休となりました。
 今日の2番目の写真にあるように,現在,瀞峡の南側は土砂が堆積していて,この先は渓谷でなくなります。
 なお,2011年の水害では,瀞ホテルの高さまで水に漬かり,さらに,和歌山県(飛び地)と瀞ホテルのある奈良県にまたがってかかっていた吊り橋が壊れてしまい,今もそのままです。
  ・・・・・・

 現在,運航している観光船は次のふたつです。
 そのひとつは「瀞峡めぐり川舟」。これは私が乗り場まで行ってみたものですが,私が船で観光しているときにすれ違ったから,この日も運航していたわです。そして,もうひとつが私が予約なしに乗ることができた「川舟観光かわせみ」でした。ともに本来は予約制です。
 なお,かつて運航していたウォータージェット船は運賃が4,000円ほどだったそうですが,「瀞峡めぐり川舟」は3,000円,「川舟観光かわせみ」は2,000円です。
  ・・
 これらの情報は私が帰宅してから調べてわかったことです。これでやっと謎が解けましたが,そんなことはまったく知らずやってきて,しかも,川舟観光をしてしまったわけだから,我ながらその強運に驚きます。
 瀞峡観光は,ウォータージェット船が運休になる前の情報が未だにウェブ上に多く存在しているし,ここ数年前のガイドブックの情報もまったくあてになりません。そこで,何を調べても,それが現状なのかどうかさえ,さっぱりわからないのです。
 その一方で,もし,私がコロナ禍以前にこの地を観光していたら,インバウンドでやってきた多くの外国人観光客がウォータージェット船で今はのどかな瀞峡の河川敷にどっと押しかけて,うんざりして二度とくるものか,と思っていたかもしれません。今は静まりかえって秘境感満載の瀞峡ですが,そこにに多くの観光客が溢れている様を考えるだけでもいやになります。
 ほとんど観光客いない現在だからこそ,私が理想とするのどかな秘境観光を堪能できたことになるのですが,現実問題,観光業者はたいへんなことでしょう。
 いずれにせよ,現在,この場所にアクセスするには,自家用車がなければ不可能に近く,また,時節柄,営業しているのかいないのかさえ行ってみないことには不明なのです。そこで,予約もせず,何も知らなかった私が,こうして川舟に乗ることができて,満足のいく瀞峡観光ができたことは,まさに奇跡的なことでした。

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 目的地は瀞峡だったのですが,そこがどのようになっているのか,皆目見当がつきませんでした。また,想像もできませんでした。
 その理由は,情報が少なすぎることに加えて,探しだした情報が間違っていたり古かったりと,何が何だかわからなかったことにあります。 
 朝,十津川温泉の旅館をチェックアウトしたき,女将に「今日は瀞峡を観光します」と言ったら「ウォータージェットは休止してしまったから…」と言われました。
 これを聞いたときの私は,かつて瀞峡にウォータージェットが運航していたことすら知らなかったのですが,そうか,さびれてしまっているんだなあ,と思ったこともあって,せめて景色だけでもみることができれば,という感じで期待もせずに向かったわけです。

 ガイドブックに写真の載っている「瀞峡」というのが漠然としすぎていて,どこのことを指しているのか地図で見てもよくわかりませんでした。帰宅してから改めて調べると,瀞峡は和歌山県の飛び地にありました。
 このときの私は iPhone の Google Maps で「瀞峡」と入力して表示された案内に従って走ったのですが,案内された道路が正しくなく,山の中に迷い込んでしまうありさまでした。
 迷い込んだ狭い道路に一瞬だけ展望の効くところがあって,そこからかろうじて川を見ることができました。それが今日の1番目の写真なのですが,瀞峡はこの程度のところか,と思いました。
 しかし,迷い込んだ道路をさらに進んでも,その先は行けども行けどもは何もなく,私が期待していた瀞峡のイメージとはまるで違っていたので,あきらめて引き返しました。

 そこで,ひとまず,前回書いた丸山千枚田へ寄ることになったわけです。
 瀞峡に行くのはあきらめて帰ろうと思って引き返す途中で,先に私が参考にしていた Google Maps の指示する道路と全く反対側に「瀞峡 Dorokyo Gorge」と書かれた大きな道路標示を見つけました。
 ダメもとでそれに従って進んでいくと,今度は,右手に瀞峡めぐり船下りというのぼりをたくさん見つけたので,そののぼりにしたがって脇道に逸れて,その脇道を延々と下りました。やがて河川敷に出ました。しかし,そこにあったのは渓谷ではなく,単なる船の乗り場でした。確かにそこは瀞峡めぐりの船の乗り場でしたが,看船に船は予約制と書かれてあって,人影もなく,その場所からは瀞峡の景観もまったく見えませんでした。
 あきらめて再び国道に戻ってさらにしばらく進んでいくと,ついに,瀞峡の展望がきく駐車場に着くことができたのです。私が偶然着いた場所は瀞八丁という場所でした。瀞八丁こそ,瀞峡が一望できる展望台でした。展望台から瀞峡の美しい景色をみることができました。しかも川にはちょうど船がくだってきて,とてもいい写真が撮れたので,私はすっかりそれで満足しました。

 そんな具合で,苦労したあげく,途中で丸山千枚田に寄るというおまけまでついて,なんとか瀞峡が展望できる場所にたどり着くことができたのですが,ここで,何と信じられない奇跡が待っていたのです。これまで迷ったことがすべて吉と出たのです。それは,今考えても,いくら私が運がいいとはいっても,これはあり得ないほどのあまりの強運だったのです。
  ・・
 展望台があった下にはガイドブックに載っていた瀞ホテルがありました。もう宿泊はできないそうですが,喫茶が楽しめ,事前に予約をすれば昼食が食べられるとガイドブックにありました。しかし,瀞ホテルは閉まっていました。
 ちょうど瀞ホテルの方からやって来た人がいたので聞いてみると,この展望台の先は河川敷まで下りることができる道があるということでした。そこで,とりあえずその道を河川敷まで下ってみました。すると,そこにテントがあって,川岸にさきほどの船が停まっていて,乗っていた人が降りるところでした。そこは「川舟観光かわせみ」が運航している瀞峡観光の川船の乗り場で,次に出発する船に乗るために集まった4人の観光客と出船の準備をしている船頭さんがいました。
 私は,当然,船の予約はしていないから,彼らが乗り込むのを見ていただけだったのですが,すると「乗りますか」と声をかけられました。この,意外な,というか,望外な成り行きに自分でも驚きました。断る理由などありません。料金は2,000円ということだったので,お金を払って乗り込みました。これで乗客は私を入れて5人となりました。聞いたところでは,定員は7人で,それに満たなければ予約なしでも乗れるということでした。
 もし,私がこの場所に来るのがあと5分でも遅く,船が出てしまっていたら,あるいは,5分早く,まだ船が着いていなかったら,そんなことは起きていなかったわけです。そもそも私は「川舟観光かわせみ」を知りませんでした。しかし,この川舟観光は,この旅でもっと楽しく,かつ,思い出に残るものになったのでした。


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 旅の2日目。
 朝7時に「温泉宿の朝食」をとってチェックアウトしました。今日は瀞峡というところに行くことにしていましたが,心配だったのは天気でした。
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 紀伊半島にはさまざまな見どころがあるのですが,それぞれが離れていることや,その場所がよくわからないことが多く,回るのに骨が折れます。アメリカでもユタ州のあたりに多くの国立公園があって,それぞれがすごく離れていて移動がたいへんなのですが,それぞれのスケールが紀伊半島のそれとは格段に違います。
 私はこの旅では,何となく,あらぎ島と瀞峡に行くことができればいいなあと思っていたのですが,あらぎ島は1日目に行くことができました。2日目に行こうと思っていた瀞峡ですが,幸い,2日目も天気はよく,大いに期待しました。
 しかし,瀞峡がどこなのか,どこに行けばその雄大という姿がみられるのか,さっぱりわかりませんでした。
 このことは次回,詳しく書きますが,ともかく,瀞峡に行こうと走っていたのに道に迷い,なかなか着きません。道に迷っていた途中で丸山千枚田という道路標示を見つけたので,ともかくも,まずはそこに行って見ることにしました。

 私は雑誌の類を読まないし,民放はドラマしか見ないのですが,それはコマーシャルのないFODか,録画したものはコマーシャルを飛ばしてしまうので,丸山千枚田が雑誌やコマーシャルで取り上げられているとしても全く見たことがありません。だから,丸山千枚田がどういうところなのか知りませんでした。
 国道311号線沿いの山の中に,まるでアメリカの小さな町のような感じの集落があっておどろいたのですが,小さな案内標示に従って左折して狭い道を結構登っていくと,忽然とすばらしい風景が広がりました。そこが丸山千枚田でした。
  ・・・・・・
 丸山千枚田は、三重県熊野市紀和町丸山地区にある標高736メートルの白倉山の南西斜面を利用した棚田群です。 千枚田といっても,現在は,高低差160メートルの谷合に約1,340枚もの棚田があります。その中で最も小さい田は0.5平方メートルしかなく,それはわずかイネ二束です。棚田の法面は城の石垣にある野面積みを主とした石積みです。
 浅野幸長が紀伊に移封された1610年(慶長6年)にこの地で検地が行われたときには,既に約2,000枚の棚田があったとされるそうです。往年,棚田は近くの銅鉱を中心とした鉱山での労働との兼業によって維持されていたのですが,やがて鉱山が閉山したり,後継者不足に高齢化,さらには,減反政策やコメの価格低迷,機械化が難しいことなどで耕作放棄が進みました。
 そうした折,この歴史的遺産を残そうと,1993年(平成5年)に当時の紀和町長が支援を表明し,「丸山千枚田保存会」が結成され,棚田オーナー制で観光への活用が図られたことなどで,現在の状況が維持されているそうです。
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 私が行ったときは天気がよかったこともあって,ここはまるで桃源郷のような景色でした。また,ちょうど農作業の休憩時間だったらしく,作業する人たちが楽しそうに雑談をしていました。


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 今の季節になるときまって思い出すのが,映画「男はつらいよ」です。それは,この季節に毎年新作が発表されてそれを見にいっていたからです。
 以前,このブログにこう書いたことがあります。
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 人の最高の生き方というのは,まさに「寅さん」だったということに思い当たりました。「寅さん」は的屋という仕事をしているので無職ではありませんが,自由気ままという感じが私には無職のように思われます。端的にいえば,「住所不定・無職」,そして偉ぶらず「人にやさしい」ということこそが,最高の幸せの姿であるわけなのです。それこそが,実は多くの人が望んでいるにもかかわらず,最も得ることが困難な生き方なのです。
  ・・・・・・
 ということなのですが,この映画に出てきた,旅に出た「寅さん」が田舎の小さな旅館に宿泊しているシーンが大好きでした。

 車で気ままに旅をするのが最も簡単な国はアメリカです。どんなところでも,モーテルがあって,予約をしなくても宿泊できます。広い駐車場に車を停めて,チェックインして宿泊代を払えば,あとは自由です。
 それに比べて,日本を旅するためには,都会にはビジネスホテルがありますが,郊外に出ると,事前に宿泊場所を決めないと,当たり外れが大きすぎたり,あるいは泊るところがなかったりと,結構難儀をします。さらに,複数人での宿泊が基本で,ひとり旅では宿泊できなかったり,割高だったりすることも少なくありません。また,女性のひとり旅お断りなどというところも以前は少なくありませんでした。それは,旅が日常であるアメリカと旅は特別なものであった日本との違いでしょうか。
 その一方で,日本の旅館では,通常,豪華な夕食と朝食が提供されたり,広い温泉があったりと,うまくいけば,アメリカにはないよさがあります。
 私は海外旅行ばかりをしていたので,日本でそうした旅館に泊まることもあまりなかったのですが,このごろになって,そのよさに目覚めました。

 私のこだわりは,団体客が宿泊しないようなとにかく小さな旅館であること,和室であること,そして,朝食がバイキングでないこと,さらには,できるだけさびれていて,平日ならほかに宿泊客がいないようなところであること,などです。でないのなら,私が通常都会で宿泊する東横インでいいのです。
 しかし,これを見つけだすのが,結構難儀なのです。
 今回もずいぶんと探して見つけた十津川温泉でしたが,結果は,私の希望通りでした。
 そんなわけで,おいしい夕食をたらふく食べて,何度も温泉につかって,翌朝はまず温泉からはじまって,朝食を食べて,と,満足しました。

 今回の紀伊半島も,5月に出かけた山形県をはじめとする東北地方も,そしてまた四国も,車で走っていると,〇〇温泉というところがずいぶんとあります。それらに中には,名の通った有名なところでなく,こんなところにおもしろそうな場所があるんだ,というところが決して少なくありません。
 そんな場所で,先に書いたような,私が理想とする旅館を探して,何も予定なく,気ままにひと夜を過ごす,そんな贅沢こそが日本を旅する最大の醍醐味ではなかろうかと,このごろ思うのです。

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 はじめて見たとき,今日の写真の場所がどこかは知らねども,日本にもこんなところがあるのかと思いました。これはまるでアメリカのホースシューベンド(Horseshoe Bend)の日本版ではなかろうか? まったくスケールは違うけれど…。
 ということで調べてみると,それはあらぎ島というところでした。しかし,その位置をさらに調べると,それがまたえらく不便な場所にありました。
  ・・・・・・
 あらぎ島は蘭島と書き,和歌山県有田郡有田川町清水にある棚田の通称名です。本来のなまえは嶋新田だそうです。
 「日本の棚田百選」「関西自然に親しむ風景100選」「和歌山県朝日夕陽百選」に選定されているところです。有田川がΩ字に曲がりくねった穿入メアンダー地形の内側が舌状の台地となっていて,全体の面積は約 24,182平方メートル,大小の水田54枚が階段状の扇形に形成されています。
 最上段の「天井田」で収穫された米や餅米でついた餅は秋篠宮夫妻や悠仁親王に献上されているということです。
 江戸時代の初期,1655年(明暦元年)に地元の庄屋・笠松左太夫の資金提供と指導のもと,地元の農民によって上湯用水工事が開始され,それと平行して水田の開墾が行われたものです。
  ・・・・・・

 この旅で十津川温泉に宿泊することだけは決まっていましたが,それ以外は未定でした。それは,出発する前,大阪からどこに寄ってから十津川村に行こうか,また,十津川村からどこに寄ってから帰ろうかと地図を眺め,さらに,昨年の冬に紀伊半島を半周した後で購入した旅行ガイドブックを読んでも,要領がつかめなかったので,当日成り行きにまかせようと,調べるのをやめてしまったからです。
 理由はふたつあります。
 そのひとつは,紀伊半島がやたらと広いだけでなく,紀伊半島についての詳しいガイドブックを探しても,結局は,和歌山県の白浜や熊野古道,そして,伊勢志摩などの人気の観光地が重点的に載っているだけで,それ以外の場所については詳細に記述したものが少なかったことです。
 もうひとつは,山また山の紀伊半島は,道路が山の中をくねくねと走っていて,しかもその道路が果たして実際に楽に走れるものかどうかすらわからなかったので,どこを走ったらいいのか決めかねたことです。それは,実際,昨年,そんなことととは知らず走った国道425号線というのが,国道とは名ばかりで,通称「日本三大酷道」のひとつといわれるほどひどく,悲惨だった経験があるからです。
 私は,アメリカは走り慣れていても,日本の山岳道路がこれほどひどいものだとは知りませんでした。しかも,あらぎ島は地図上の距離では十津川村とさほど離れていないのに,そこにアクセスするにはずいぶんと迂回しなければ道路がないので,どうしたら行くことができるか見当がつきませんでした。アメリカの道路地図は,道路が1車線なのか2車線なのかという表示も載っています。しかし,日本の地図は,国道といっても名ばかりだったりするし,道路の状況は走ってみなければわからないのです。おまけに,工事で不通になっていたり,やたらと片側交互通行だったり,道路標示が途中でなくなったりといったことが頻発するのです。

 大阪市美術館を出て,あらぎ島に行くか行かないか決めかねながら,とりあえず,大阪市から橋本市まで走りました。
 橋本市に着いて,まずは橋本市にあったコンビニで軽い昼食を買いました。まだ午前中だったし,天気もよかったので,だめなら引き返せばいいやと,あらぎ島へ行くのを決行することにしました。それがまあ,思った以上に遠かったこと。
 私が進む道は山の中へ向かっているのに,結構な車が走っていました。延々とくねくねの山道を走っていったら,何と高野山に着きました。多くの車は高野山に向かうものだったのです。高野山は私はこれまで行ったことがなかったのですが,有名な高野山はこんなに遠いのかと驚きました。高野山を過ぎたら,走っているのは私の車だけになりましたが,あらぎ島はまだ先でした。
 さらに走って,なんとかあらぎ島に到着したのですが,今度は,駐車場が,また,あらぎ島の展望台から結構遠いところにありました。でも,駐車場があっただけましというべきか。
  ・・
 あらぎ島は,帰宅後に調べたら,結構な人気スポットで,多くの観光客が訪れるところだったようです。時期によっては,広い空き地にあった駐車場が満車になることもあるとか。幸い,私が行ったときはほかにだれもおらず,あらぎ島の展望台からは美しい田園風景を見ることができました。
 という次第ですが,今日は,私の写したあらぎ島とホースシューベンドの写真をご覧ください。

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 2022年1月15日に放送されたNHK総合の「ブラタモリ」のテーマは和歌山でした。
 私の住む愛知県から和歌山県というのは,縁遠い場所です。あえて行こうと思わないとなかなか行くことができないところです。その和歌山県の県庁所在地和歌山市へ,あえて行ってみようと,2019年に出かけたことはすでにこのブログに書きました。
 現在の和歌山県,江戸時代の紀州藩は,徳川御三家のあったところです。立派な城があり,私はぜひ行ってみたかったところでした。実際に行って,和歌山市というのは,言葉は悪いのですが,さびれた都会でした。現在は大阪市のほうに目が向いてしまい,発展する要素があまりないように感じました。また,江戸時代の御三家のひとつである紀州藩の城が平城というよりもけっこう険しい丘の上の城であったことにも驚きました。
 私は,江戸時代にどうしてこの地が重要だったのか,ということに疑問をもって,和歌山城に行ったときに,そのことを聞いて納得した覚えがあります。
 そしてまた,この1か月前,私は,紀伊半島を1周する旅に出て,今度は紀の川を下ってみました。番組で説明していたように奈良から平地を南に下ると簡単に紀の川に出られるし,紀の川を使って紀伊山地から木材を運搬していたこともまた,実際に川の姿を見て納得しました。
 「どうして和歌山に御三家が置かれたのか?」 それが今回のテーマだったので,私は興味をもってこの番組を見ました。番組の紹介は次のように書かれてありました。
  ・・・・・・
 江戸時代に御三家のひとつだった紀州藩。江戸から離れていながら全国有数の大都市となった秘密をタモリさんがブラブラ歩いて解き明かす!
 「ブラタモリ#195」で訪れたのは和歌山県・和歌山市。紀伊国で旅のお題「和歌山に御三家が置かれた鍵は?」を探る。
 ▽紀の川で和歌山の立地の秘密を解き明かす!
 ▽カギは中央構造線?
 ▽豊臣秀吉がたった3か月で和歌山城をつくることができた理由とは!?
 ▽結晶片岩の石垣で考える。和歌山には巨大な砂丘があった?
 ▽その成り立ちとは?
 ▽梅干し・みかん…
 ▽徳川頼宜が和歌山にもたらしたものは?
 ▽そして,徳川家康と頼宜・父子の絆。
  ・・・・・・

 実際に歩いてみると,この番組で説明されていたことがとてもよくわかりますし,和歌山城がどうして平城というよりも小高い丘の上の城だったのかということも納得できました。
  ・・
 水は高い所から低いところに流れる。
 これが人間の築いた歴史のすべてです。だから,地図帳を眺め,そして,その地に行ってみれば,私の抱いてた疑問はすべてわかるのです。すべては,必然のなせる業なのです。だから,紙の上で学ぶ知識よりも,体験することのほうがずっと重要だということを身にしみて感じるわけです。
 先月行った和歌山で,丘の上のいたるところにミカン畑があるのも,とても自然に思える風景でした。南を向いて日当たりがよく,しかも,平地が少ないから,そこにミカン畑を作るというのは当然の成り行きだったのでしょう。しかし,今は,ミカンだけでなく,白桃もたくさん作られているようで,「ミカン,桃」と書かれた販売所がたくさんありました。
 桃のほうが高額なので経済効率がいいからなのかな?
 このことに関連して,話は飛躍しますが,ニュージーランドでは,近年,需要の少なくなった羊を飼うことより,馬や牛を飼うことに移行しつつあるというのもまた,実際に行って見てくるとわかることです。これもまた「和歌山=ミカン」「ニュージーランド=羊」などと参考書から丸暗記したところでわからない現実の姿なのです。
  ・・
 今,日本は共通テストやらの真っ最中。新聞に載っている問題の量を見るだけでめまいがします。
 今どきコンピュータを使えば簡単にわかる情報や過去の入試問題の解き方を,貴重な若者の高等学校の3年間という時間を費やして覚えさせた結果がこれ。これでは日本がさらに劣化します。人と比べたり点数争いばかりをさせれば,若者の精神が病むはずです。
 体験のない知識は絵にかいた餅以下です。

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 ついに十津川村までやってきました。思ったよりも家が多いのに驚きました。とはいえ,十津川村で何をするという予定もなく,確か長い吊り橋があったと思うになあ,と考えていると谷瀬の吊り橋という道路標識があったので,そこに向かうことにしました。
 ところが,それまでよかった天気が突然崩れはじめ,雨まで降ってきました。吊り橋は思ったよりも遠い所でした。しかし,せっかく来たので,吊り橋まで来て,駐車場に車を停めました。傘をさして,カメラを持って渡った吊り橋は迫力満点でした。
 十津川村観光協会のホームページに次のような説明がありました。
  ・・・・・
 今では十津川村を代表する観光名所になった「谷瀬吊り橋」はもともとは生活用のためのつり橋としてかけられたんじゃよ。
 今から約60年も前の1954年(昭和29年),戦後の復興期のことじゃ。 谷瀬の人々らは川に丸木橋を架けて行き来しておったんじゃが,洪水のたびに流されとった。そこで谷瀬集落の人々は1戸当たり20万円から30万円という大金を出しあい,当時としては思い切った800万円もの大吊り橋を村の協力を得て完成させたんじゃのら。当時の教員の初任給が7,800円で米10キログラムが765円の時代じゃよ。
 今のように物が豊かでなかった時代じゃが,谷瀬の吊り橋私財を投じた先人はお互いを助け合いとても心は豊かじゃった。
  ・・・・・・

 ということで,念願だった十津川村まで来たことだし,吊り橋も渡ったことだし,雨が雪になるまえに帰宅することにしました。
 地図で見ると,ここから海岸に出るには国道425号線で尾鷲市まで行くのが近そうだったので,そこを通ることにした… というのが大きな間違いでした。私は知らなかったのですが,この国道425号線というのは「日本三大酷道」のひとつといわれていて,こんな道路はいくら距離が短くとも,観光で走るような道ではなかったのです。しかも,雨。日も暮れ,あたりは真っ暗でした。この道路は通行止め区間だったのですが,この日は,運よくというか悪くというか通行止めが解除になっていたので走ってしまったのでした。もし,この道路を走る目的でやって来て通行止めだったらそれもまた残念だろうし,私のような無知な状態で走ったというのも,なんというか,不思議なものでした。

 そもそも,私は,国内をドライブするよりも海外をドライブしたことのほうが多いくらいですが,海外にこんな過酷な道路はないので,すっかり油断していたわけです。国土交通省を信頼しすぎていました。アメリカでこんな国道があって事故でも起きれば国を相手に損害賠償請求訴訟が起きることでしょう。勝手のいいときだけ「自己責任」といい,法にないことをぬけぬけと強制しておいて従わなければ名前を公表するとかいういじめをするくせに「お願い」とやらで煙に巻いたりと,名ばかり法治国家の日本には私の知らないことが数多くあって,驚くばかりです。
 途中,何度もこころが折れながら,しかし,途中でやめるわけにもいかず,とにかく走り通しましたが,落石やがけ崩れがなかったのが幸いでした。やっと下北山村まで着いて,この先尾鷲市までさらに国道425号線を走る気力もなくなったので予定を変更して国道169号線,さらに,国道309号線で熊野市に向かい,国道42号線を経由して熊野市に着いて,最後は東名阪自動車道で帰宅しました。
 こうして,無計画な旅は,結局,一度は行きたかった紀伊半島を,海岸線も山の中もほぼ体験することができて終わりを告げました。
  ・・
 ちなみに,「日本三大酷道」とは,国道418号線,国道425号線,国道439号線だそうです。


◇◇◇
レナード彗星。

12月25日,クリスマスの晩。
空が澄んでいて,双眼鏡でもよく見えました。
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 潮岬を越えて,さあ,これからどうしようかと考えながら走っていましたが,そのうちに眠気が襲ってきました。
 眠くなったときの対策は冷たいものを飲むしかありません。それは私が長年アメリカの大地をドライブして覚えたことです。アメリカだとマクドナルドに行って,氷を大量に入れたソフトドリンクを購入すればいいのですが,私の走っているところには,マクドナルドの1軒すらありません。自動販売機で売っているような飲み物ではさほど冷たくないのでダメなのです。
 そのうち,道の駅を見つけたので,車を停めてアイスクリームを買いました。その場所にあったのは橋杭岩という観光地でした。
 日本にもこんな場所があるんだなあと思いました。

 今回の無計画な旅は,走ったことがない紀伊半島・和歌山県の海岸線がどうなっているか,ということが関心事で,この先はこれまで何度か行ったことがあるので,那智勝浦も熊野三山も行く気がありませんでした。
 はじめに考えたのは,志摩半島です。志摩半島もまた何度も行っているのですが,大王崎灯台などはずいぶんと前にいっただけだったので,行く価値はあるように思えました。いずれにせよ,私が行きたいのは人の少ない雄大なところなのです。しかし,日本には期待はしても実際はそんなところはほとんどないのです。
 ところで,私は,紀伊半島は海岸線だけでなく,山間部もまた,どうなっているかずいぶんと気になっていました。何もなさそうで,ありそうで。なかでも,ずっと昔から気になっていたのは十津川村ですが,これはまた別の機会にも,と思っていました。

 走りながらそんなことを考えているうちに,せっかくここまで来たのだし,また来るかどうかわからないから,いっそのこと,今回,十津川村へ行こうという気になってきました。
 地図を見ると,新宮市で左折して山の中に入って行けばよさそうです。途中に熊野本宮大社があるので,道路も整備されているようでした。
 やがて,新宮市に着いたので,左折して,国道168号線にはいると,急にまわりは山だらけになりました。これが紀伊半島なのだなあと思いました。
  ・・
 古来より,この地は霊地でした。奈良から近いのに,山深く,古人にとっては,現生ではない場所だったのでしょう。
 今でも山深く,広い道もほとんどないのに,その時代,どうやってこの山の中に入っていったのでしょう。そしてまた,そのような場所に熊野三山というお社を建てたのでしょう。
 今は熊野古道といって,観光地になっているとはいえ,あまりに広く,また,険しく,旧街道を散策するのとはわけが違い,私には雲をつかむような場所でした。
  ・・
 であったのに,今回の旅は,このあと,意外なことになってしまうのです。

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「しない・させない・させられない」とは
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 ついに潮岬までやってきました。本州最南端だそうです。
 私はこれまで,ハワイ島のアメリカ最南端,フロリダ州キーウエストのアメリカ本土最南端に行ったことはあるのですが,本州最南端に来たのは,おそらく,というのは,子供のころに来たことがあるのかもしれませんがまったく覚えがないので,これがはじめてのことでした。
 ずいぶん前に北海道の松前半島にある白神岬へは行きました。また,数年前には念願だった高知県で足摺岬へ行ったことがあります。潮岬は足摺岬と雰囲気がよく似ていました。
 これで北海島と本州と四国の最南端へは行ったことになるのですが,しかしまだ,鹿児島県の佐多岬,つまり,九州最南端へは行ったことがありません。

 季節が冬なのか,平日なのか,あるいは,まだ,朝早かったからなのかはわかりませんが,潮岬には観光客はほとんどいませんでした。
 昨晩宿泊したゲストハウスで簡単な朝食というか,小さなパンが2個とコーヒーは頂いたのですが,それだけだったので,海でも見ながら朝食をと思っていたのですが,そんなカフェというかレストランの1軒すらないのに落胆しました。たった1軒,古びた喫茶店がありました。中をのぞくと,タバコの煙が充満していました。今時,これはありません。日本には,まだまだ昭和時代のような場所があります。これで私の潮岬の印象は最悪になりました。
 潮岬灯台は中に入ることができました。私のほかに1台も車が停まっていない駐車場に車を停めて,少し歩くと灯台がありました。
 中に入ると急な階段があって,それをぐるりと昇ると,最後は梯子段,あまり急だったので注意して昇りきるとそのが最上階でした。外に出ることができたのですが,強風に立っているのもやっとという状態でした。
 灯台の最上部から見渡すのは太平洋,この先に陸地はありません。かなり波があったのですが,これがいつものことなのかこの日が特別なのかは知りません。

 潮岬灯台を出て,次に紀伊大島に行きました。せっかくここまで来たので,寄ってみることにしたのですが,この紀伊大島,何でも1890年(明治23年)にオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号 (Ertuğrul Fırkateyni) がこの紀伊大島樫野埼東方海上で遭難し,500人以上の犠牲者を出した事件があったところだそうで,このとき,樫野埼灯台下に流れ着いた生存者約10人が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりつき,住民たちが総出で救助と生存者の介抱に当たったといいます。この結果,69人が救出され生還に成功したのです。
 この事件で,紀伊大島の村民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられ,当時のオスマン帝国の人々は遠い異国である日本と日本人に対し,好印象を抱いたといわれているということですが,それにちなんだ記念碑やら博物館がありました。
 ということで,ちょっと異国情緒ただよう場所でもありました。
  ・・
 帰りがけ,1軒の地元の漁協がやっているという食堂を見つけたので,やっと食事をとることができました。せっかく紀伊半島に来たので,伊勢エビを。

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