しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:東北旅行LIVE > LIVE・2022春

アラスカ州のアンカレッジやニュージーランドのクイーンズタウン,ハワイ州モロカイ島の空港のような,小さな「おいしい山形空港」に着きました。レンタカーを返却して,後は帰るだけです。帰りの便は午後4時20分発でした。
2020年7月に北海道に行ってから2年ほどこうした旅をしていなかっただけなのに,とても新鮮でした。そして,旅の楽しさを思い出しました。
それにしても,日本は狭いです。「おいしい山形空港」を離陸したと思ったらあっという間に県営名古屋空港に着いてしまいました。名古屋と山形の飛行時間は,ハワイ州オアフ島のホノルルからハワイ島のコナまでとさして変わりません。コーヒーとともに,帰りは行きと違って,パンではなくケーキが出ました。
そんなわけで,私にとれば,飛行機を利用した国内旅行なんてちょっとそこまで,という感じで,旅行のうちにも入らないのですが,それでも,山形は別世界,期待以上のところでした。
県営名古屋空港も空いていて利用しやすかったし,FDAは快適でした。
また,気軽に何度も来てみたいと思ったことでした。

飛行機も北海道以来,久しぶりでした。
日本の国内線は,行きは後部座席,帰りは前のほうが快適だということが利用してみてわかりました。それは,行きは,混雑防止のために後部座席から搭乗案内がされることや後部座席のほうが空いていること,帰りは,早く降りられることが理由です。なんか話が矛盾しているように思うでしょうが,利用してみるとこの理由の意味がわかることでしょう。
また,わずか1時間程度なので,窓際のほうが景色が見られるのでいいのですが,気をつけないといけないのは主翼の横に座ると,せっかく窓際の席であっても景色がみられないということです。
  ・・
帰りは,期待に反して,ずっと曇りでした。
さすが晴れ男。私が滞在していた間はずっと天気がよく,帰るころになると曇ってきたわけです。もし,この旅が天気に恵まれていなかったら,私の印象はずいぶんと違っていたことでしょう。
ということで,北アルプスを見たいと思っていたのに,帰りの機内からは残念ながらずっと雲しか見ることができませんでした。
やがて,少しずつ雲が切れて,眼下に地上が見えてきました。ここはどこなのだろうと思いました。
すると,雪を被った標高の高い山が…。
それは御嶽山に違いないと思いました。そして家に帰ってから確かめると,やはり御嶽山でした。
行きは会津磐梯山が見え,帰りは御嶽山を見ることができました。
こうして,とても楽しい2泊3日の旅は終わりました。
次はどこに行こか? 外国人が日本にやってくる前の今こそ,落ち着いた旅をする絶好の機会です。

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山形と聞くと誰しもが思うのが佐藤錦というブランドのさくらんぼです。
山形空港のあたりは,ほんとうにさくらんぼ畑ばかりなのに驚きました。
さくらんぼ,とても高価なのです。さくらんぼ1個がリンゴ1個ほどの値段がします。
  ・・・・・・
「おうとう」からもぎとられた果実が「さくらんぼ」。
「おうとう」はバラ科サクラ属の果樹で,日本に渡来したのは1868年,山形県へは1876年に入りました。全国で試作されましたが,山形県以外ではほとんどが失敗しました。山形県でうまくいったのは,霜害と台風被害が少なかったことが理由でした。
その後「さくらんぼ」栽培は山形県内で普及し,現在は,全国生産量の約7割を占めるようになりました。
  ・・
「さくらんぼ」の中で,味も人気もナンバーワンの品種が「佐藤錦」です。
佐藤錦の生みの親は,東根市の篤農家・佐藤栄助さんでした。それまでは,「日の出」「珊瑚」「若紫」などの「さくらんぼ」を栽培していたのですが,収穫しても日持ちが悪くて,腐らせたり出荷の途中で傷んでしまったりと悩みが多いものでした。
1912年,佐藤栄助さんは,日持ちはよくないが味のいい「黄玉」と酸味は多いが固くて日持ちのいい「ナポレオン」をかけ合わせました。それが実を結びました。
こうして育った果実から,選び抜いて種をとり…,を繰り返すことで,16年もの苦労で,最終的に1本にしぼられた原木。これこそが最高品種でした。
山形生まれの比類なきこの品種を命名する際,はじめは「出羽錦」という案でしたが,「発見者の名前を入れた佐藤錦がいい」ということになったそうです。
「佐藤錦」の特長は,見た目がきれいな鮮紅色で光沢があり,甘みが多く,食味が良好であるということで,重さは1粒7グラムから8グラムですが,近年は12グラムから13グラムの大玉も多く出まわっているということです。
  ・・・・・・

最上川の舟下りを終え,昼食をとりました。これで,今回の旅も終わりです。
途中,新庄市,尾花沢市,東根市,天童市などを経由しながら,山形空港に向けて走りました。
山形は思っていたよりずっとすばらしいところでした。また,わずか2泊3日の旅なので,来るまでは,立石寺と天童市へ行くことができればいいと思っていたのですが,山形県のほぼすべての場所に行くことができました。
  ・・
唯一の心残りは「さくらんぼ」を食べることができなかったことでした。
「さくらんぼ」の旬は6月。まだ,少し早かったのです。そして,私は,この「さくらんぼ」にときめいてしまって,片時もわすれられなくなってしまったのです。
家に帰ってから「さくらんぼ」に関する多くのニュースを耳にするようになりました。それは,私が気にしているから耳に入るのか,はたまた,今がその季節なのか…。
そんなわけで,私は,さくらんぼを目当てに,山形市にふるさと納税をしてしまったのでした。

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私が乗った最上川舟下りの出発は午前10時50分でした。
予約なしで個人で行って,その場でチケットを買えば乗ることができるようでした。こんな時期でなければもっと混み合うのでしょうが,人が集まるだけ船が出るような感じでした。
私が最上川舟下りの乗り場である戸沢藩船番所着いたころは,学生で一杯でした。おそらく修学旅行なのでしょう。彼らは早々に集合して,チャーターされた船に乗船して出発していきました。
また,私が乗る時間には,団体ツアー客がいたので,やだな,と思いましたが,彼らもまた一般客とは別のチャーター船だったので,まったく問題はありませんでした。
個人旅行で最もいやなのは,こうした場合に団体客と一緒にされることです。
  ・・
私は,この最上川舟下りで,アラスカのフェアバンクスで乗った外輪船クルーズを思い出していました。アラスカの外輪船クルーズの方がはるかにスケールが大きいのですが,まあ,雰囲気だけは似ていました。

あまり期待もしていなかったのですが,さすがに人気アトラクションでした。船頭さんの案内がすばらしく,楽しいものでした。
途中で下車することはなく,船から景色を楽しみます。
見どころは次のようなものでした。
  ・・・・・・
●馬爪岩は義経の馬を休憩させてくつわを洗ったとされる場所で,岩には馬の足跡が…。
●弁慶のつぶ手石は弁慶があやしい人影めがけて投げた石がめり込んで残っています。
●仙人堂は義経の従者であった海尊(かいそん)が一行と別れたあと山伏修行ののちに仙人になったとされますが,その海尊を祀る神社です。
●白糸の滝は白糸のように一筋に落ちていく高さ123メートルの美しい滝です。義経の妻であった北の方が「最上川瀬々岩波堰き止めよ 寄らぞ通る白糸の滝」と詠んだといわれています。
  ・・・・・・
最上川の北岸は橋も道もなく,今はまったくの無人だということでした。まだ日本にもそんな場所があるのです。
最上川は穏やかでしたが,途中,何か所か,水の流れが早いところがあって,波が白くなっていました。しかし,狭く岩だらけの急流を迫力満点で進む京都の保津川下りとはまったく違うものでした。

舟下りがおわり,川の駅「最上峡くさなぎ」で下車,ここで,しばらくお土産タイムがあって,帰りは戸沢藩船番所まで路線バスに乗るというシステムでした。
最上川舟下り義経ロマン観光のものは,こうしたこともなく,同じ場所に戻るということなので便利ですが,コースがかなり短いものです。
この季節は新緑が美しく,また,幸い,天気がよかったので,十分に楽しむことができました。おそらく,もう少し早い季節なら桜が,また,秋には紅葉が,そして,冬であれば雪景色が美しいだろうと思いました。
  ・・
川の駅「最上峡くさなぎ」でバスを待つ間,さくらんぼ味のソフトクリームを食べました。
戸沢藩船番所まで戻って,ちょうどお昼。ここにあった「芭蕉庵」というおそば屋さんでざるそばを食べました。今度は板そばではありませんでした。

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山形に来るまでどうなっているのかわからなかった最上川の舟下りでしたが,実際は,最上峡芭蕉ライン観光と最上川舟下り義経ロマン観光の2社が運航していて,どちらも直接乗り場へ行けば利用できるということがわかりました。
最上峡芭蕉ライン観光は,戸沢藩船番所というドライブインのようなところから出発して,川の駅「最上峡くさなぎ」までの約12キロメートル1時間の船旅を楽しむものでした。また,最上川舟下り義経ロマン観光は,JR高屋駅前にある乗船所を起点として,途中,対岸にある仙人堂に上陸して立ち寄るのが目玉で,こちらもまた約1時間の周遊ののち,同じ場所に戻るというものでした。
どちらにしようかまよいましたが,結局,最上峡芭蕉ライン観光のものを利用することにしました。こちらの方が距離が長いし,ホームページが充実していて会社が大きいように思えたからです。

私は,早朝の参詣を終え,羽黒山から降りて,最上川舟下りの乗り場のある戸沢藩船番所に向かいました。途中はのどかな田舎道でした。やがて,最上川に沿った堤防道路に出ました。
最上川は,米沢市の吾妻山付近に源を発し,酒田市で日本海に注ぐわけだから,西に向かって流れています。しかし,お恥ずかしい話ですが,堤防道路を走るまでは,最上川の上流と下流がどちらなのかわかっていませんでした。
少し道を迷いながら上流方向の戸沢藩船番所に着いたのは,まだ午前9時30分ごろのことで,午前10時50分発の舟下りには十分間に合う時間でした。さっそくチケットを購入しました。
まだ乗船までは時間がたっぷりあったので,先ほど走った最上川の堤防道路を下流に向かって再び走ってみることにしました。20分くらい走っていくと,集落のある小さな町が見えてきました。その一角に松尾芭蕉の像があって,そのあたりが博物館のようになっていたので,降りてみました。
そこは清河というところでした。清川とも書きます。というか,地名は清川でした。

  ・・・・・・
清河の地は,出羽三山へと至る「いのりの道」のスタート地点で,ここで上陸して,人々は出羽三山へと旅を続けました。江戸時代には交通の要所であるこの地に関所があったとされ,現在も「舟つなぎの榎」や井戸跡が残っています。
  ・・・・・・
という説明がありましたが,これではわからないので,補足が必要のようです。
その昔,最上川流域に道はなく,本合海(もとあいかい)という,新庄の西にあたる河岸から清河までは最上川を運行する舟だけが唯一の交通手段でした。そこで,清河に上陸というのは,新庄のほうからやって来た人々が舟で最上川を下り,ここ清河で降りたということです。
松尾芭蕉もまた,曾良とともに,立石寺から最上川沿いの大石田に逗留したあと,羽州街道を北上し,猿羽根峠を越え,本合海から清河まで最上川を舟で下りました。
かつて,清河は最上川舟運で栄えた宿場町でした。
江戸時代にこの地にあった関所跡が観光の拠点として整備されていて,「舟つなぎの榎」や井戸跡が残っています。松尾芭蕉の像があったのも,この場所でした。
清河は,また,源義経の伝説や,戊辰戦争と明治維新の魁といわれる清河八郎を輩出した所として,源義経一行が一夜を明かした御諸皇子神社や,戊辰戦争で庄内藩と新政府軍が戦った古戦場「御殿林」などの遺構が残っていました。
残念ながら,観光をする時間がなかったので,関所跡で松尾芭蕉を偲んだのち,この小さな町を車で一周しただけで最上川舟下りの乗り場である戸沢藩船番所へ引き返しました。

  ・・・・・・
最上川のらんと,大石田と云所に日和を待。
爰に古き俳諧の種こぼれて,忘れぬ花のむかしをしたひ, 蘆角一声の心をやはらげ,此道にさぐりあしゝて,新古ふた道にふみまよふといへども,みちしるべする人しなければと,わりなき一巻残しぬ。
このたびの風流,爰に至れり。
最上川は,みちのくより出て,山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て,果は酒田の海に入。左右山覆ひ,茂みの中に船を下す。
是に稲つみたるをや,いな船といふならし。
白糸の 滝は青葉の隙々に落て,仙人堂,岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし 。
  五月雨をあつめて早し最上川
   「奥の細道」松尾芭蕉
  ・・
最上川を舟で下ろうと大石田というところで日和を待った。
「ここには古くから俳諧が伝えられていて,いまも俳諧隆盛の昔を慕って「蘆角一声」の田舎の風流を楽しんで,今日まで,この俳諧の道を手探りで来たけれど,新しい句風に進むか古い工夫を守るか教えてくれる先達もいないから」と言うので,断り切れず俳諧一巻を残した。
この旅はこんな風流にまで至ってしまったのである。
最上川は,米沢を源流とし,山形を上流とする。碁点や隼などという恐ろしい難所のある川だ。板敷山の北を流れて,最後は酒田の海に入る。
川の左右が山に覆われているので,まるで茂みの中を舟下りするようなことになる。
この舟に稲を積んだのを稲舟というらしい。
白糸の滝は青葉の木々の間に落ち,仙人堂は河岸に隣接して立っている。水を満々とたたえて舟は危うい。
  ・・・・・・
この紀行文の中にある「蘆角一声」ですが,蘆角(ろかく)というのは葦の葉でつくった笛で,「一声」はそれを鳴らすことなので,そういう侘しいところでささやかに風流を楽しんでいると表しているように感じます。田舎者のたしなみ,みたいな謙遜した雰囲気です。
  ・・
「舟あやうし」とあるので,今はのどかに見える舟旅も,この時代は結構危険なものであったようです。
有名な話ですが,この松尾芭蕉の句の初案は「あつめて涼し」だったのですが,推敲ののち「あつめて早し」と替えられたということです。実際に乗ってみて,最上川の涼しさよりも流れの早さを実感した松尾芭蕉は「あつめて早し」と表したくなったのでしょう。
また,エンジンのなかった当時,川船は下るときは流れに任せればよかったのですが,上るときは帆を立てて,何か月もかけてゆっくりと引き返したのだそうです。

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私は,意図したわけでもないのですが,松尾芭蕉が「奥の細道」で訪れたところを追って旅をしているようです。
羽黒山にも,松尾芭蕉の像と句碑がありました。
  ・・・・・・
六月三日,羽黒山に登る。
図司左吉と云者を尋て,別当代会覚阿闍梨に謁す。
南谷の別院に舎して,憐愍の情こまやかにあるじせらる。
四日,本坊にをゐて俳諧興行。
  有難や雪をかほらす南谷
五日,権現に詣。当山開闢能除大師は,いづれの代の人と云事を知らず。
延喜式に「羽州里山の神社」と有。
書写,「黒」の字を「里山」となせるにや。
「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。
出羽といへるは,「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。
月山,湯殿を合て三山とす。
当寺武江東叡に属して,天台止観の月明らかに,円頓融通の法の灯かゝげそひて,僧坊棟をならべ,修験行法を励し,霊山霊地の験効,人貴且恐る。繁栄長にして,めで度御山と謂つべし。
   涼しさやほの三か月の羽黒山
   「奥の細道」松尾芭蕉
  ・・
陰暦六月三日、羽黒山に登る。
図司左吉を訪ね,彼を通じて羽黒山別当代会覚阿闍梨に会うことができた。
南谷別院を宿舎として与えられるなど,別当代の好意,その情こまやかに温かくもてなしてくれた。
四日,別当代の本坊において俳諧興行。
五日,羽黒神社に参詣した。
この神社を開いた能除大師については,何時の時代の人かさえ分からない。
延喜式には「羽州里山の神社」という記述がある。
書き写すときに,「黒」という字を「里山」と書き誤ったのではないか。
羽黒山というのは,羽州の黒山の「州」の字を省略して羽黒山というのではないだろうか。
出羽というのは,「鳥の毛羽を此国の貢物に献る」と風土記に書いてあるというから,そこから名づけられたものであろう。
羽黒山に月山と湯殿山を加えて出羽三山という。
この寺は,江戸の東叡山寛永寺に属し,天台宗の摩訶止観の教義は月明かりのように暗闇を照らし,円満にして偏らず,速やかに成仏するという「円頓融通」の法灯を掲げて発展し,僧坊は軒を並べて林立。
修行が盛んで,霊場としての霊験はあらたか。
よって人々の畏れと尊崇を集めている。
その繁栄は永遠で,実にめでたい御山というべきである。
  ・・・・・・
ここでは,羽黒山の部分だけを載せましたが,松尾芭蕉は,私の行くことができなかった月山にも登っています。この時代の人たちの健脚さには驚かされます。また,松尾芭蕉が生きていたころ,この場所の風景はどんなものだったのだろうかと想像します。

松尾芭蕉は,1644年(寛永21年)に伊賀上野の下級武士の次男として生まれました。本名は松尾甚七郎といいました。1682年(延宝10年)深川のほとりの草庵に転居したとき,芭蕉の株を贈られたことから松尾芭蕉と名乗るようになったといいます。
芭蕉が俳人として最後の旅に出て編んだのが「奥の細道」で,これは平安時代の歌人西行法師の足跡をたどった枕歌巡りの旅でした。
「奥の細道」のルートは,江戸から宮城県の松島,岩手県の一関,山形県の鶴岡を経て,日本海側を進み,福井県の敦賀から岐阜県の大垣までの全行程2,400キロメートル,150日間の旅でした。
  ・・
このうち,東北地方を巡ったのが,松島から平泉,鶴岡にかけてのルートです。
現在の暦で7月上旬に山形県の尾花沢を訪れて,立石寺へ行き,大石田から最上川を下り,出羽三山に7日間滞在。ここで祓川や五重塔,羽黒権現,そして,残雪残る月山に登頂し月山権現にも参拝しました。
そこで,私がこの旅で立石寺,出羽三山,最上川と巡ったのは,まさに,松尾芭蕉の足跡をたどった枕歌巡りの旅となったわけです。

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羽黒山の五重塔から駐車場に戻ってきたのが午前7時すぎでした。
山頂に至る有料道路は午前8時からということだったので,まだ,ずいぶん時間がありましたが,ダメ元で行ってみると,すでに係の人がいて,「登れますか?」というと「いいよ」ということだったので,料金を払って,有料道路に入りました。
やがて,山頂近くの広い駐車場に着きましたが,当然のこと,まだ私以外にだれもいませんでした。
2日前に行った立石寺もそうなのですが,普通はすごい観光客なのだそうです。しかも,コロナ禍以前ならインバウンドで外国人観光客だらけだったことでしょう。
  ・・
静まり返った境内でした。
私は,車で登ってしまったのですが,少しは参道を徒歩で登ってきた気持ちになろうと,参道の石段を少し降りて,再び登ってみました。出迎えてくれたのは朱の鳥居でした。
この場所には,もともとは江戸講中より寄進された青銅の鳥居があったのですが,第2次世界大戦で供出されてしまい,その跡に,庄内の生徒や学童の寄付によって新たに建立された鳥居ということでした。また,鳥居の手前の坂を十五童坂といって,坂の左には一山の貫主の住んだ執行寺跡,右に本社のかぎを取り扱った鍮取役という一生不犯の清僧修験の住んだ能林院が在ったということです。

  ・・・・・・
参道脇には杉並木が広がっています。これは江戸時代初期に羽黒山中興の祖と言われた天宥法印が植林したものだそうです。植林した杉は樹齢が300年以上で,幹径が1メートルを越えるものが184本,総数では445本あるとされます。
  ・・
羽黒山の山頂にある三神合祭殿は,古くは大堂,本堂,本殿,本社などとも称されていて,羽黒修験の根本道場でもありました。その内陣は三戸前の扉にわかれていて,正面中央に月読命,右に伊氏波神,左に大山祇命,大己貴命,少彦名命を祀るものです。
三神合祭殿は807年(大同2年)の建立以来,度々造替を行ないました。
再度の炎上に,1813年(文化10年)荘厳院覚諄を別当に任じて再建に当たらせ,1818年(文政元年)年に完成したものが現在のものです。建設当時は赤松脂塗でしたが,開山1,380年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われて,現在の朱塗りとなったということです。
三神合祭殿は合祭殿造りで,高さ28メートル,桁行24.2メートル,梁間17メートルで,内部は総朱塗りで,屋根の厚さが2.1メートルもある萱葺きの豪壮な建物です。
  ・・・・・・
月山と湯殿山は冬季の参拝や祭典を執行することができないので,この時期は,三山の年中恒例,また,臨時の祭典は,すべて羽黒山頂の三神合祭殿で行われるということです。

三神合祭殿の右手に鐘楼堂がありました。
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鐘楼堂は1618年(元和4年),最上源五郎家信が寄進したもので,五重塔に次ぐ古さを誇っているそうです。境内は豪雪地帯であるにもかかわらず,柱が基礎石から直接立ち上がっている古式を継承しているために,柱の下部は何度か改修されています。
鐘楼堂に釣り下がる梵鐘は「建治の大鐘」とよばれ,鎌倉時代の蒙古襲来の際,羽黒の龍神に祈祷を捧げたところ神風が吹き元軍を撤退させる事ができた事から,執権北条時宗が寄進したものとされるというから,すごい話です。「建治の大鐘」は1275年(建治元年)に鋳造されたもので,口径1.68メートル,高さ2.86メートルで,東大寺,金剛峯寺に次ぐ大きさです。
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また,私はこの場所に皇族の墓があって驚きました。蜂子(はちのこ)皇子の墓でした。
蜂子皇子が出羽三山を開いたというから,このほうがもっとすごい話です。このことについて,次のように伝わっています。
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蜂子皇子は562年(欽明天皇23年),崇峻天皇の第3皇子として生まれました。
592年(崇峻天皇5年),蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺します。崇峻天皇は,臣下により暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇です。
危機を感じた蜂子皇子は聖徳太子の助けをかりて脱出し,日本海を北上し出羽国由良八乙女浦に辿り着きました。
蜂子皇子が八乙女浦の絶景にこころ打たれていると美しい歌声が聞こえてきたので,近寄ってみると大きな洞窟が現れ,8人の女性が舞を舞っていました。蜂子皇子は,そのうちの恵姫と美凰の案内によって上陸を果たし,その洞窟で身を隠しながら修行を行い,霊力を身につけました。
やがて,蜂子皇子は霊山を目指し登拝を試みたのですが,山が険しく道を見失ってしまいました。そのとき,観音菩薩に念じると,突然,八咫烏が出現し,導かれて山頂に登りつくと,観音像が現れました。その霊験を聞きつけた出羽国の国司が羽黒山寂光寺を開き,観音像を本尊とした観音堂を造営しました。
蜂子皇子は,修行を重ね,今度は月山に登拝すると,阿弥陀如来が出現したので,月山を霊地と悟り,暮礼山月山寺を開山しました。さらに,月山から東に下ると,温泉が湧き出る霊地に大日如来が出現し,ここに湯殿山神社を創建しました。
蜂子皇子は641年(舒明天皇13年),享年80歳でこの世を去りました。
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3日目,2022年5月19日木曜日。
最終日になりました。
しばらく旅行らしい旅行をしていなかったのですが,次第に感覚が戻ってきました。やはり,旅はいいものです。
この旅では,来る前は予想もしていなかったほどいろいろなところに行くことができました。最終日は,羽黒山と最上川の舟下りです。まさか羽黒山に行くとは,最上川の舟下りをするとは思ってもいかなったので,大慌てで計画を立てました。
最上川の舟下りは午前10時50分と午前12時50分の2便ありました。乗船時間は約1時間です。午後4時20分の飛行機で帰らなければならないので,午前10時50分のものに乗船することにしました。予約をせず直接行って乗ることができるものなのかなあ,と心配したのですが,ホームページやパンフレットによれば大丈夫そうでした。
舟下りの乗船時間に間に合うように,早朝,まずは羽黒山へ行かなければなりません。
羽黒山は標高が414メートルです。思ったほど高くありませんでした。山頂までは石段が246段あって,片道1時間半ほどらしいということでした。以前行ったことがある兵庫県の黒井城が標高356メートルだったので,それと同じような感じかな,と思いました。
そこで,歩いて往復しようとも思ったのですが,時間が微妙でした。
幸いなことに,羽黒山には有料道路があって,これを使うとわけなく山頂まで行くことを知っておどろきました。この有料道路が利用できるのは午前8時からとありました。これなら何とかなりそうでした。ただし,羽黒山の登山道の途中に有名な国宝の五重塔があって,有料道路を使ってしまうと行くことができないので,これは別に徒歩で登らないと行くことができないとありました。
わからないことだらけだったのですが,ともかく行ってみることにしました。

この日もまた,早朝,昨日買っておいた朝食を部屋でとって,午前6時前には早々にホテルをチェックアウトしました。
山形市内を抜け,昨日と同じ国道112号線を走るルートで月山を通り過ぎ,酒田市を経由して羽黒山に向かいました。日本の道路はカーナビにはなじみません。道路が予想以上に狭かったり,走りにくかったしても容赦ないし,進路を工夫しないと,毎回信号で止められます。AIもまだまだです。さらに難儀したのは山形県の道路の案内標識です。案内標識示す進路が交差点の寸前にあるので,解読しているうちに案内標識が示す交差点を通り過ぎてしまうのです。
狭い道も多く,また,曲がらなければならない交差点を間違えたりして少し迷いましたが,目の前に巨大な鳥居が見えてきたときはホッとしました。この鳥居はかなりの威厳があって,さすがに有名な神社だけあると感心しました。この威圧感に多くの人は参っちゃうわけです。
さらに行くと町中になって,宿坊がたくさんありました。いわばここが門前町でしょう。この一角をすぎると,羽黒山の入口である随神門に着きました。近くに無料の駐車場があったので車を停めました。
朝早く,というより,早すぎて,まだ車は1台も停まっていませんでした。

歩いて随神門まで行くと案内板があって,五重塔は徒歩10分とありました。思った以上の近いことがわかったので,まずは五重塔に徒歩で行ってくることにしました。何事も案ずるより産むがやすしです。
随神門をくぐると石段になったのですが,この石段,登るのかと思いきや,なんと降るのです。この坂を継子坂というそうです。随神門から五重塔までは降り,その先が登りになるわけでした。
  ・・
継子坂を降り終えたところに,祓川が流れていました。かつては,この祓川で身を沈めて清めてから出羽三山に詣でたということです。祓川には赤い橋がかかっていて,橋の上から須賀の滝を見ることができました。須賀の滝というのは江戸時代に作られた人工の滝だそうです。
やがて,五重塔が見えてきました。深い森のなかにそれはありました。
  ・・・・・・
羽黒山の五重塔は,平安時代中期の930年代(承平年間),平将門の創建と伝えられています。
現存する五重塔は,1372年(応安5年)に羽黒山の別当職大宝寺政氏が再建したと伝えられます。
総高約29.2メートルで,屋根は杮葺き,様式は純和様の素木の塔です。
近世までは,塔内に聖観音,軍荼利明王,妙見菩薩を安置していましたが,神仏分離以後は大国主命を祭神として祀り,出羽三山神社の末社「千憑社」となっています。
・・・・・・

また,五重塔の近くに爺杉がありました。
このスギの巨木は,根周り10.5メートル,幹囲8.25メートル,高さ43メートルで,推定樹齢1,000年以上といわれていて,羽黒山で最大にして最古の巨木ということでした。かつて,付近に婆杉があったということですが,1902年(明治35年)の暴風で倒れたと案内板には書かれてありました。
実際は,暴風で倒れたときには,どちらが爺でどちらが婆か定まらず,残った方を「親杉」とよぶことにして決着をつけたそうですが,国指定の天然記念物としては「羽黒山の爺杉」の名称で登録されているということです。
私は,数年前に行ったカリフォルニア州のセコイア国立公園で見た「シャーマンの木」というセコイアの巨木を思い出していました。
早朝だったので,このあたりには私のほかには誰もおらず,荘厳な雰囲気を満喫しました。

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明日はまず羽黒山に行って,その後で,最上川の船下りをすることにしていました。
山形県には出羽三山といわれる聖地があります。そこがどのようになっているのか,私はほとんど知りませんでした。想像していたのは,険しい山が三つあって,そのどれもよほどの覚悟がなければ登ることができないということでした。
昨日,山形駅の観光案内所で「出羽三山のうちで月山と湯殿山は雪が深いのでまだ登れず,羽黒山だけが参詣できる」と聞きました。羽黒山がもっとも北にあるのにどうしてだろうとそのときは思ったのですが,それは羽黒山の標高がもっとも低いからでした。
また,羽黒山の参詣は1時間もあれば,と言われたのには驚きました。半日はかかると思っていたからです。ならばということで,羽黒山に行くことにしたのですが,明日は,閉鎖されていようといまいと,湯殿山や月山の方に行く時間はありません。

5月に旅行をすると日が沈むのが遅いので,この日は上山の観光を終えても,まだずいぶんと時間がありました。そこで,このあと,明日は行く時間がない月山のほうまで足をのばすことにしました。登ることができないのは承知の上で,単に,出羽三山の月山や湯殿山のあたりがどうなっているのかが知りたくて行って見ようと思ったわけです。
  ・・・・・・
出羽三山とは,月山,羽黒山,湯殿山の総称で,開山から1,400年の歴史を誇る山岳信仰の霊場のことをいいます。
三山にはそれぞれ役割があり,月山で死後の極楽浄土を,羽黒山で現世の幸せを,そして,湯殿山で功徳を積み再びこの世に生まれるという意味をもちます。
  ・・・・・・

上山から方向を西に変えて,国道112号線を南から月山を目指しました。
山形県にも高速道路が走っているのですが,「一般道を走っても,信号もほとんどないので,高速道路を使う意味がないからだれも使っていないよ」。この旅に出かける前,そんなことを聞いたのを思い出したのですが,確かにそうでした。当然,私も一般道をひた走ることになりました。
遠くにめざす雪を被った月山を見ながら山の中を通る国道を走っていくと,やがて,左手に月山湖というダム湖が現れました。
さらに行くと,右手に折れる有料道路がありました。道路は開通していましたが,しかし,ここもまた,料金所は無人でした。
それを登ると,月山の八合目まで行くことができるということでした。
思ったより狭く,すれ違うのがやっという狭くカーブが多い道路がずっと続いていたのですが,登っていくのは私の車だけで,その反対に多くの車が降りてきてすれ違いました。どうしてだろうと思いながらさらに走っていくと,やがて,八合目の広い駐車場に着きました。駐車場は多くの車が停まっていましたが,帰る車が多く駐車するスペースもけっこうあったので,車を停めました。
あたりは,旅館が立ち並んでいて,昔よく行った新潟県や長野県のスキー場のある温泉町のような感じでした。
月山の八合目は,スキー場だったのです。まだ雪がたくさんありました。そこで,多くのスキーヤーが楽しんで,帰り支度をしていたわけです。スキーをする目的もないのにここに来てしまったのは私くらいのものでした。
後で知ったのは,雪が解けるのはまだ1か月後。7月になると,この場所から,往復で6時間ほどかけて標高1,984メートルの月山の山頂にある月山神社に登ることができる,ということでした。
先日行った京都の愛宕神社と同じようなものだと思いました。こりゃ,もし雪がなかったとしても私には無理だ,と納得しました。

登ってはみたものの何もすることもないので,早々に下山することにしました。
国道112号線にもどったのですが,さらに,湯殿山はどうなっているのだろう,と思って,先に進んでみることにしました。
しばらく走っていくと,右手に,湯殿山方向にいく道路がありました。その狭い道路をしばらく走っていくと,広い場所に出て,そこが湯殿山に登る有料道路の入口になっていたたのですが,当然のこと,閉鎖されていたので,納得してそこで引き上げました。有料道路は6月1日から登ることができるということでした。
湯殿山の標高は1,504メートルで,湯殿山神社はその中腹の標高1,100メートルのところにあります。
有料道路を登った先に駐車場があって,そこから連絡専用バスに乗り替えて大鳥居のある神社の参籠所まで行くことができるということです。湯殿山は俗世間と切り離された御山なのでそこでお祓いを受けなくては参拝できないということすが,そこから本宮まではわずか徒歩5分ということでした。雪がないときなら,湯殿山は月山にくらべて容易に行くことができるでしょう。
こうして,出羽三山のうち,明日行くことになる羽黒山以外の,月山と湯殿山がどのようなところなのかがわかって納得した私は,山形市のホテルに引き上げました。
昨日夕食を食べるところをさがすのに苦労した私は,この日は,スーパーマーケットでパック寿司を購入することにしました。山形市内のイオンモールでパック寿司の夕食と明日の朝食を買いました。以前,アラスカ州のフェアバンクスに行ったとき,同じようにスーパーマーケットでお寿司を買って夕食にしたのを思い出しました。
ホテルに戻ってお寿司を食べようと思ったら,しょうゆが入っていないのに気づきました。単に入れ忘れたのか,それとも,山形の人はお寿司に醤油をつけないのか…。
ホテルの部屋の窓から見た山形市の夕景がきれいでした。

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私が「かみのやま」に寄ったのは,斎藤茂吉記念館に行きたかったこととともに,上山には天守閣があると聞いたからでした。昨日,山形駅の観光案内所で「東北地方には四国地方と違って天守閣がないですね」という話をしたら,「上山にはありますよ」と言われたのが事の発端です。
しかし,これは完全な誤解でした。
  ・・・・・・
上山は羽州街道の要衝で,温泉宿場町として早くから繁栄を遂げていました。もともとは最上家が支配し,戦国時代には伊達家と最上家がこの地をめぐって争いました。1600年(慶長5年)には,上杉景勝の家臣直江兼続が2万5,000を数える大軍でわずか1,000の兵が守る上山城に大敗を喫しました。
しかし,最上家は家督争いが絶えず,1622年(元和8年)に改易され,上山には松平重忠が4万石で入り、上山藩を立藩しました。
しかし4年後に摂津三田藩へ転封となり,その後は,蒲生忠知,土岐頼行,土岐頼殷,金森頼旹と続き,ついに,松平信通が入ることで,藩主家が安定しました。
幕末になると幕府に重用され,戊辰戦争がはじまると奥羽越列藩同盟に参加しましたが,米沢藩が新政府に恭順すると恭順し,版籍奉還を迎えました。
  ・・・・・・

上山藩は,ダイコンの漬物である「沢庵漬け」で名を知れた沢庵宗彭と関りがあります。
紫衣事件は江戸時代初期における江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件です。
紫衣とは紫色の法衣や袈裟のことで,朝廷が賜る僧,尼の尊さを表す物でした。これに対して,江戸幕府は,朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じたのですが,後水尾天皇が従来の慣例通り幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えたことが事件の発端です。
幕府の逆鱗に触れて,大徳寺住職であった沢庵宗彭は出羽国上山に流罪となりました。57歳のことでした。
配流先である上山藩主の土岐頼行は,沢庵の権力に与しない生き方と「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ,厚く遇しました。沢庵はその草庵を春雨庵と名づけ、こよなく愛したといわれています。

上山城は,本丸西側に西内堀が残り,この他,土塁や石垣の一部と庭園が現存しているだけでした。
天守閣というのは,二の丸跡に望楼型の模擬天守が建てられたもののことで,これが資料館となっていたわけです。
ただし,城のあった裏手には数件の武家屋敷が今も残り,城下のいい雰囲気を醸し出していました。
また,城跡の近くには,上山藩の藩校であった「明新館」の跡地に碑が建っていました。
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上山藩の藩校は1809年(文化6年),上山藩7代藩主松平信行によって開かれ,当初は広福寺の境内に学問所を設け「天輔館」と称していました。そこでは,伊藤仁斎,萩生祖来なども藩士の教育に当たっていました。1840年(天保11年),8代藩主松平信宝はさらなる学問所の充実を図り,現在の跡地である場所に移して単独の建物として藩校を造営しこれを「明新館」と名づけました。
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米沢市から山形市に戻る途中で,私は,上山市にあった斎藤茂吉記念館に寄ることにしました。
私は,斎藤茂吉の次男である作家・北杜夫に若いころから興味があって,ずいぶん多くの作品を読みました。そして,斎藤茂吉を知りました。
しかし,どうして山形県の上山に? ということがわかりませんでした。
私は昔,斎藤茂吉は山形出身だとこのブログに書いたことがあるのです。それをすっかり忘れていたのは,その当時,山形というところにまったく想い入れがなかったことにあるのでしょう。
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斎藤茂吉は1882年(明治15年)に,守谷伝右衛門熊次郎の三男として,山形県南村山郡金瓶村,現在の上山市金瓶に生まれ,1953年(昭和28年)に亡くなった歌人であり精神科医でした。
守谷家は経済面の余裕がなく,守谷茂吉は,東京・浅草で跡継ぎのなかった同郷の精神科医・斎藤紀一の家に養子にいき,斎藤茂吉となったわけです。
斎藤茂吉が精神科医として青山脳病院の院長を務めたことは,北杜夫の小説「楡家の人々」に描かれています。
長男は精神科医の斎藤茂太さんです。
妻の斎藤輝子さんの晩年は,オペラで世界中を駆け回った人として数々のエッセイを残したので有名でした。私も強く記憶に残っています。
  ・・・・・・
ということで,斎藤茂吉が生まれたのが上山市だったのです。

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上山市にある斎藤茂吉記念館は,開館当時は大久保傳藏元山形市長の個人コレクションを中心に茂吉の遺族らから寄贈品も受け展示を行いました。その後,収蔵資料の充実が図られ,現在は斎藤茂吉が残した業績に関連する資料や斎藤茂吉の生活を伝える書画などを展示しています。
2003年に斎藤茂吉没後50周年記念として展示設備を新たにし,2018年には開館50周年を記念してリニューアルオープンしました。
斎藤茂吉記念館は,明治天皇が東北巡幸に際に小休止したことに因む「みゆき公園」に位置し,公園内には斎藤茂吉が箱根山荘勉強部屋とよんだ箱根の別荘の離れが移築されているほか,歌碑,明治天皇が小休所した環翠亭が復元されています。
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このような博物館や美術館は各地にありますが,できたときはすばらしくとも,維持に困っている様がうかがわれるところも少なくありません。これもまた,日本らしいというか…。
しかし,斎藤家はかなりのお金持ちらしく,この記念館が今も美しく維持されているのは,おそらく,斎藤家のバックアップがあるからでしょう。

国道13号線を南から北に走っていくと,上山市街を越えたあたりの交差点で斎藤茂吉記念館の道路標示がありました。標示にしたがって左折してしばらく走ると,広い駐車場に着きました。
車を停めてさて行こうと思ったら,あいにく水曜日は休館でした。
いろいろツキにめぐまれることが多い私ですが,たまにはこういうことがあります。しかし,おそらく,私は,近いうちにまたここに来ることになりそうです。いつもそんな塩梅で,結局は行くことになるのです。
休館ではありましたが,建物の外観や建物のある「みゆき公園」にあった箱根の別荘の離れや,歌碑,明治天皇が小休所した環翠亭は見ることができました。
また,「みゆき公園」は高台にあるので,遠くの景色を眺めることができました。
斎藤茂吉記念館はすばらしい環境の場所にありました。
斎藤茂吉記念館はJR奥羽本線の「茂吉記念館前駅」の近くで,鉄道でも簡単にアクセスできます。

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かつて,19世紀のイギリス人女性旅行家イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird)は,美しく壮大な自然と豊かな大地の実りから,山形県南部地方を「東洋のアルカディア」と讃えたそうです。
雄大な山々に囲まれて空は広く,さくらんぼ畑の緑は美しく,私は,山形県にアメリカのモンタナ州を思い出しました。日本にもこんなところがあるのか,と思いました。

今回の旅は,わずか2泊3日の日程で,どういうところかもわからず,とにかく行ってみようとやって来ただけだったので,温泉にも宿泊せず,おいしいものを食べる予定もありませんでした。
それでも,少しは当地のグルメを,ということで,今日の昼食に米沢らーめんを食べました。
  ・・・・・・
米沢らーめんは,大正時代,中国人の屋台でのらーめん売りがはじまりでした。大正末期には上海軒,米々軒,朝日軒などが開業しました。現在「米沢らーめん」を提供する飲食店は,米沢市内に100軒以上あるということです。米沢らーめんスープの基本は鶏ガラと煮干しで,毎日食べても飽きのこない,あっさりとした後味のよいスープといいます。麺は「多加水」とよばれる製法で,小麦粉を捏ねるとき通常より多くの水を加えながら練り上げたストレートに切り出した麺に「手揉み」をかけ,ちぢれ細麺ができあがります。
  ・・
また,有名な米沢牛は,明治のはじめ,米沢の洋学舎に赴任した英語教師のC・H・ダラス(Charles Henry Dallas)によって日本中に知られることとなったもので,1年中寒暖の差が大きい気象条件と澄んだ空気,きれいな水が特上の霜降り肉を作るということです。
  ・・・・・・
米沢牛を食べるほどお金もないので,私は,米沢らーめんとともに米沢牛コロッケで我慢しました。

さあ,これで米沢市の観光もおわり,北に向かって,上山市を経由して,宿泊している山形市に戻ることにしました。
その途中,変わった建物を見ました。
それは,1910年(明治43年)3月,東京,大阪,京都,名古屋,熊本,仙台に続いて,全国7番目の高等工業学校として開設された米沢高等工業学校の建物でした。1944年(昭和19年)4月に米沢工業専門学校と改称され,さらに1949年(昭和24年)5月の学制改革で山形大学工学部に改組されました。
この建物はルネッサンス様式の木造二階建で,現在は国指定重要文化財ということです。
明治時代の建物の多くは,とてもモダンなものが多いと思います。

せっかくなので,JR米沢駅を通って帰ることにしました。
しかし,JR米沢駅は米沢市街からかなり遠いところにありました。その理由はよくわかりませんが,鉄道がひかれたころ,市街地を通ることに反対したのではないかな? と思いました。
列車で米沢観光をするには,JR米沢駅を降りても名所まで歩いて行くには不便でしょう。
JR米沢駅に乗り入れている路線は,奥羽本線と米坂線です。奥羽本線に関しては,ミニ新幹線である山形新幹線の停車駅となっています。
建物はかなりモダンでした。先に見た旧米沢高等工業学校本館を模したものということです。

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上杉家廟所を出て,次に米沢城跡に行きました。ここが米沢市の観光のメインとなっているところです。
米沢には「偉人」とよばれる人がたくさん輩出しています。

●伊達政宗
 米沢はかつては伊達家の領地でした。伊達政宗は米沢城に生まれ,24歳で豊臣秀吉の命により仙台岩出山城に移封されるまでの青年期を米沢で過ごしました。松岬公園内に「伊達政宗生誕の地」の碑があります。
  ・・
●直江兼続
 直江兼続は米沢藩初代藩主・上杉景勝に生涯に渡って仕え,米沢の城下町を作り上げた武将です。
 直江兼続は1560年(永禄3年)現在の新潟県南魚沼郡六日町で坂戸城主長尾政景の家臣樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれました。
 聡明さが上杉謙信の実姉である仙桃院の目にとまり,上杉景勝の小姓としてつかえることになりました。そして,上杉謙信の養子となった上杉景勝に従って直江兼続も春日山城に入りました。
 1578年(天正6年),上杉謙信が亡くなると跡目争いが起きましたが,直江兼続がその才気を発揮し見事勝利し,上杉景勝が上杉家の家督を相続しました。
 豊臣政権時代に上杉景勝は五大老になり,直江兼続は軍師として活躍しました。
 1598年(慶長3年),豊臣秀吉が死去すると石田三成と懇意にあった直江兼続は徳川家康との対立を決意しました。1600年(慶長5年),徳川家康は会津征伐のために動きはじめましたが,石田三成が家康打倒の兵をあげたので,徳川家康は急遽兵を西に向かわせました。このとき直江兼続は,徳川家康軍を追撃することを上杉景勝に進言します。上杉景勝は「謙信公の義の教えをもってすれば上杉家に退却する敵を追い討ちする戦法はない」と許しませんでした。この決断が上杉家を救うことになります。
 関が原の戦いは東軍が勝利しました。
 直江兼続は上杉家存続のために和議の交渉をし,見事な戦略で上杉家存続が許されました。それは,会津征伐の際に上杉景勝が家康軍を追撃しなかったことよるともいわれています。しかし,上杉家は会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封となりました。
 直江兼続は早急に町づくりに取り掛かり,短時間のうちに骨格を作り上げました。
 また,町づくりとともに,鉄砲製造にも着手します。この鉄砲は「大阪冬の陣」で大活躍しました。  1614年(慶長19年),直江兼続は上杉軍を引き連れて「大阪冬の陣」に参戦し,武功を挙げます。そして,天下は徳川幕府のもと本当に安泰な時代を迎えました。
 1619年(元和5年)直江兼続は60年の生涯を閉じました。
  ・・
●上杉鷹山
 「なせば成るなさねば成らぬ何事も,成らぬは人のなさぬ成りけり」で有名な上杉冶憲は米沢藩9代藩主です。
 1751年(寛延4年)に高鍋藩主の秋月種美の次男として生まれ,1760年(宝暦10年)に米沢藩8代藩主上杉重定の娘幸姫の婿養子となりました。
 17歳で家督を相続したとき,米沢藩は莫大な借財をかかえていました。上杉鷹山は、1767年(明和4年)に大倹約令を発令し,並行して農業開発を実施しました。また,特産品であった青苧を使い,武士の婦子女に内職として機織りを習得させたり,桑の栽培と養蚕を奨励することで絹織物を米沢織として全国的に知らせました。さらに,1776年(安永5年)には,藩校「興譲館」を創設し,学問は単なる考証や漢文を読めることではなく現実の政治や経済に役立つ「実学」でなければならないとしました。
 1785年(天明5年)家督を上杉冶広に譲り隠居しましたが,その後も「寛三の改革」や,農業用水「黒井堰」の完成,玉川の水を白川に引水するという大工事などを行い,1822年(文政5年)72歳でこの世を去りました。

こうした人たちの遺構がここには数多くありました,また,米沢城のあったあたりには,多くの旧跡もありました。
●上杉神社
 上杉神社は1876年(明治9年)に上杉謙信,上杉鷹山を祭神として,米沢城本丸跡に建立されました。1902年(明治35年)に別格官幣社(国に尽力した人物を祀る神社)に指定されると,祭神は上杉謙信のみとなり,上杉鷹山は松岬神社に祀られました。
 1919年(大正8年)の米沢大火で類焼しましたが,1923年(大正12年)に現在の神社が完成しました。境内には上杉氏ゆかりの文化財を多数収蔵する稽照殿があります。
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●松岬神社
 1902年(明治35年)に上杉鷹山が分祀された神社で, 敷地は,上杉景勝の御殿であった場所です。
 1923年(大正12年)には上杉景勝が合祀され,1938年(昭和13年),新たに直江兼続を配祀しました。境内には上杉鷹山の伝国の辞の石碑があります。

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米沢市に到着しました。
道路標示に上杉家廟所とあったので,まず,そこに向かうことにしました。
上杉家廟所は,米沢市にある米沢藩歴代藩主の墓所です。
  ・・・・・・
上杉謙信が現在の新潟県である越後春日山城で没すると,その遺骸は漆を塗り甲冑を着せて埋葬されました。後継者の上杉景勝は豊臣秀吉の臣下となり,会津へ移動。それに伴い,上杉謙信の霊柩も越後から会津に移され安置されました。
1601年(慶長6年)の関ヶ原の戦いで西軍に属した上杉景勝ですが,上杉家は取り潰しを免れ,上杉家は米沢藩30万石に移動を命じられ,上杉謙信の霊柩も再び移動しました。上杉景勝は米沢城本丸に御堂を建立し,謙信の霊柩をそこに安置しました。
1623年(元和9年)に上杉景勝が他界すると,現在の上杉家廟所のある米沢城址の北西に位置に埋葬され,それ以後12代藩主までがここに埋葬されました。なお,1664年(寛文4年)米沢藩は15万石まで減封されてしまいました。
明治政府の廃城令に伴い米沢城が解体されるとともに,上杉謙信の霊柩も移動することになって,そのときに現在の廟所に移されました。現在は上杉謙信霊廟を中央にして,その左右に歴代藩主の霊廟が立ち並んでいます。
2代上杉景勝から8代上杉重定までは火葬での埋葬が行われ,御堂は入母屋造りとなっていますが,9代治憲から12代斉定までは土葬となり,御堂が宝形造りと変わりました。
また,明治以後に死去した13代上杉斉憲からは東京都港区白金の興禅寺に墓所があります。
  ・・・・・・

入口で拝観料を払って,まず,小さな博物館に行きました。ここで,この廟所の歴史を知りました。そして,廟所に行きました。
これまで,日本各地の少なからぬ藩士の廟所に行ったことがありますが,これほど厳かで,かつ立派なところを見たのははじめてでした。
静かな時間が流れていきました。
  ・・
日本はどこも江戸時代の藩が現在の地方の基礎となっています。
江戸幕府というのは,徳川家ファーストで,徳川家の存続こそがすべて。そこで,日本各地の藩主は,徳川家の都合だけで,その地方に縁もゆかりもない人材が落下傘のように降り立ったわけです。そんなわけだから,藩主は,能力がないと,あるいは,人望がないと,与えられた領地を支配するのにたいそう苦労しました。たとえば,土佐藩の山内一豊は,それまでの土地の権力者を根絶やしにしました。
今,地方に行くと,江戸時代にその土地の藩主が慕われていたかどうかがとてもよくわかるのです。
たとえば,熊本に行くと,今でも慕われているのは細川家でなく加藤清正です。また,山形藩のように藩主が頻繁に変わったところでは,文化が育たず,おらが国の領主様には誇りがもてず,その一方で,この米沢藩のように,最後まで上杉家が続いたところでは,領主様の上杉家は今でもその土地の誇りとなっているわけです。
私は旅で訪れると,まず,そういったことから,その土地の領主様の能力が今の姿に反映されているのを,そして,その土地の領主様の評判を測るのを,とてもおもしろく感じています。

このことは,今でも,専門性をリスペクトしないこの国の,官庁や学校の人事にも同じことがいえます。
各省の大臣は,重要な省以外は,当選何回という基準で論功行賞のように選ばれているだけで,ときに,縁もゆかりもない人,そして,その省の仕事をまったく知らないような素人が抜擢されるわけです。であるから,そんな大臣など,単なるお飾りとして,自分の言葉で語ることもできず,お役人が作った文章を国会で読み上げているだけです。要するに「裸の王様」。そうまでして大臣になりたいのかなあ,はずかしいなあ,と私は思ってしまいます。
学校の校長もまた同じようなものです。4月,その学校とは縁もゆかりもないような人が突然人事異動で赴任してくると「今度は誰が来たんだ」と教員たちは陰でこそこそ。ひややかに見ているわけです。で,おとなしくしているのならともかくも,偉ぶってこれまでの伝統をぶち壊すようなことをして学校を引っ掻き回すだけの人も少なくないのです。
未だにそんなことをしていても,お互いが不幸になっているだけで,組織には何の利ももたらさない。今や,そんな旧時代的な,江戸時代の殿様の国替えのようなことをしている場合ではないのですが…。

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山形県の観光パンフレットで見つけたのが白川湖の水没林でした。
  ・・・・・・
1か月限定! 神秘的な春景色
 -4月中旬から5月中旬の雪解け時期に見られる-
春の満水時,白川湖で見られる不思議な景色。
朝霧に包まれた早朝や,新緑が湖面に映り込む無風時は一層幻想的。
カヌーやSUP も楽しめる。
  ・・・・・・
とありました。ちなみにSUPとは「Stand Up Paddleboard」のことです。
しかし,この白川湖というものがどこにあるのかがわかりません。
こういったパンフレットの最も悪いことは,地図がないことです。あるいは,地図があっても,そこに行くにはどのくらい時間がかかるか,そして,現地に駐車場があるのかがわからないということです。それでは行くことができるのかどうか,想像がつきません。
調べてみると,私がめざしている米沢市から西に険しそうな山の中をずいぶん走るらしいことがわかりました。また,地図には,白川湖というより白川ダムという記述だったので,白川湖というのはダム湖なのでしょう。
この日は絶好の天気。行きたいなあ,と思ったのですが,果たして,この時期にまだ見られるかどうかもわかりませんでした。で,あきらめていました。

蔵王から降りて国道13号線に戻ったとき,まだ時間がかなり早かったので,ダメ元で行って見ることにしました。
私は,国道13号線を走りながら,このとき,なぜか,ロサンゼルスからパロマ山天文台に行ったときのことを思い出していました。アメリカに比べて道路は狭く,人も車も多くと,ずいぶん違うのでしょうが,主要道路から山に向かって道を変えて,すると急にカントリーらしく… という感じが似ていたからです。
日本らしくない,オーストラリアの田舎を走っているかのような優雅なカントリーロードは,ほとんど車も走っていなかったので,予想以上に早く白川ダムに着きました。
湖面にはまったく波がなく,山々が反射して,ものすごく美しい姿が見えました。
しかし,ダム湖は水が満ち,このどこに水没林など見られるのだろう,と思いました。
私は,白川湖のほとりの道を北から南に向かって走っていくことにしました。
やがて,白川湖の南まで来ました。そこにあったのは,日本にしてはものすごく広い桃源郷のような白川ダム湖岸公園でした。そこにはオートキャンプ場も併設されていました。このあたりで湖面をみると,確かに水没林が見られるのでした。
  ・・・・・・
白川ダムは山形県西置賜郡飯豊町の最上川水系・置賜白川(おきたましらかわ)に建設された直轄初の高さ66メートル,総貯水容量50,000,000トンのロックフィルダムです。置賜白川及び最上川の治水と山形県置賜地方への利水,そして,山形県企業局による公営水力発電を目的とした特定多目的ダムです。
ダムによって形成された人造湖は白川湖と命名されました。
白川湖周辺は公園となっていて,四季折々に様々な風景を見せます。公園が作られたのは,1994年(平成6年),当時の建設省が「地域に開かれたダム事業」をダム管理の主要業務のひとつとして定めた開放事業によるものでした。この公園は,イベントの定期開催などが功を奏して,年間35万人の観光客が訪れ,県南地域の観光地として成長しました。
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天気がよかったこともあり,想像以上にすばらしいところでした。
少し,時期が遅かったのですが,水没林を見ることができました。

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2日目,2022年5月18日水曜日。
若いころ,スキーに夢中になったことがあって,長野県や新潟県では飽き足らず,北海道にも何度か行きました。
そのころに知ったのが「蔵王の樹氷」で,一度は行ってみたいと思っていたのですが,果たして蔵王は遠く,しかも,蔵王という漠然としたところがどこなのかあまりよくわかりませんでした。知っていたのは,宮城蔵王と山形蔵王があるということくらいでした。で,これまで行くことはありませんでした。
今回山形に行くことになっても,やはり,蔵王は遠い世界で,まさか蔵王まで足をのばすとは思っていませんでした。
昨日,山形駅の観光案内所で,「蔵王,近いですよ」と言われて驚きました。山形市からは30分程度で行くことができるのです。そして,蔵王というのはひとつの山ではなく,蔵王連峰全体のことだと知りました。
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さて,2日目と3日目,どちらの日に南と北,どちらに行こうかずっと迷っていました。
明日2日目の予報では,とても天気がよいということと,帰りの「おいしい山形空港」が山形市より北にあることで,2日目は蔵王を含めて南に行って,3日目は空港に近いから北に行くことに決定しました。
ということで,2日目の早朝6時前にホテルを出て,まず,蔵王に向かいました。

ところで,私が宿泊している東横インですが,サービスで朝食がついています。今回のホテルでは朝6時30分からでした。
これまでにも数多く日本各地の東横インに泊まっていますが,概して,この朝食,混み合うのです。そして,まったくもって楽しくなく,むしろストレスが溜まるのです。
東横インの欠点は,エレベータが1基しかないので急いでいる朝に限ってなかなか階下に降りられないことと,決して広くない食堂での朝食です。私はかねてから,東横インの朝食は有料にして,必要のない人は安価にすべきだと思うのですが,それはそれとして,たかが数百円…。
そんなわけで,このごろは,東横インで朝食は食べないことにしました。それくらいなら近くの吉野家にでも寄って朝食を食べたほうがずっと快適なのです。
今回は,ホテルを出発する時間が午前6時前なので,昨晩買っておいた朝食を部屋で食べました。

私は,まだほとんど車の走っていない早朝,山形市から国道13号線を南に走って,まもなく蔵王エコーラインに入りました。
蔵王エコーラインは山形県と宮城県を結ぶ道路で,昭和37年に開通。全長40キロメートルで,この道が蔵王連峰最高峰にあるお釜を通るということでした。また,お釜を見るには,蔵王刈田リフトに登るか,蔵王エコーラインから蔵王ハイラインという有料道路に入る必要があることをパンフレットで知りました。
まあ,行ってみればどんなところかわかるでしょう。その程度のいい加減さでした。
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蔵王連峰は,東北地方の中央を南北に連なる奥羽山脈の中にあって,宮城県と山形県の両県南部の県境に位置する連峰で,奥羽山脈で繰り返された火山活動によって形成された複合火山群です。
蔵王連峰は山々の集まりの総称で,蔵王山という単独峰があるわけではありません。
蔵王連峰の中で,宮城県側の部分が「宮城蔵王」,山形県側の部分が「山形蔵王」ともよばれます。また,お釜などがある部分を中央蔵王とし,ここに1,841メートルの熊野岳と1,758メートルの刈田岳があります。
蔵王山の名称は蔵王権現がこの山に祀られた事に由来します。
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道路は次第に標高を高くしていって,走りながら,私はこれまでに行ったアメリカのいくつかの国立公園を思い出していました。モンタナ州のグレーシャー国立公園もこんな感じだったなあ,コロラド州のロッキー山脈国立公園はもっと雄大だったなあ,などと…。
しかし,根本的に何かが違う。
それが何なのか考えていました。そして,思いあたりました。
アメリカには国立公園法があって,こうした場所はどこも厳格に自然が守られていて,民間の売店やら食堂やらはまったくないのです。ゴミを捨てることもゆるされません。それに比べて,日本では,民間のレストランやら何やらがあって,それもまた,あるだけならともなく,潰れて廃墟になっていたりして,日夜,自然破壊にいとまがありません。
まったくもって,こうしたことが日本の自然に汚点を残しているんだなあ,と痛感しました。
それはそれとして,雄大な景色は,日本の景観としてはそれなりにすばらしく,一応,私は満足しました。というか,このご時世,満足せざるをえません。

お釜に接続するリフトの乗り場あたりは,まだ雪がたくさんありました。まだ時間が早く,リフトは動いていなかったので,お釜を見ることをほぼあきらめました。
リフト乗り場を通り過ぎたところからが宮城県です。
このあたりで引き返そうと思ったころ,有料道路の蔵王ハイラインの入口がありました。
まだ朝早く,有料道路のゲートは無人で,でも,閉鎖されていることもなく,結局,お金は払おうにも払えず,つまり,必要ありませんでした。ここから蔵王ハイラインを走ると,お釜まで行くことができるらしいのです。
やがて駐車場に到着しました。
私ひとりかと思ったら,すでに結構な車が停まっていました。これから登山とか縦走をする人たちのようでした。この景色,なんとなく,ハワイ・マウイ島のハレアカラ山頂に至るビジターセンターの駐車場を思い出しました。蔵王の方が標高が1,200メートルも低いですが…。
車から出ると,とても寒く,防寒具を必要としました。昨日登った立石寺は暑くて大変だったし,今日は寒くて大変です。昨日とは気温差30度もありました。寒さの中を少し歩くと,お釜を見ることができるビュースポットに到着しました。
お昼間ならすごい人なのだろうと思いました。大自然と親しくするには,ほとんど人のいない早朝6時までが勝負です。
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お釜は,蔵王連峰の刈田岳,熊野岳,五色岳に囲まれた火口湖で,周囲が約1キロメートル,直径が325メートル,水深が27メートルです。エメラルドグリーンの湖面は季節や気候,太陽光線の角度によって色を変えるので「五色湖」とよばれています。
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ということで,長年の夢だった蔵王も,お釜も,期せずして,この旅で来ることができたのでした。

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山形旅行について書いていたのですが,興味がふくらんで横道に逸れてきました。それは,山形の歴史をこれまでほとんど知らなかったことに加えて,幕末のこの地方の複雑さや置かれた立場,そして,多くの悲劇を知ることになったからです。
そこで,今回,幕末の山形の各藩のことをまとめておくことにします。
これこそが,旅をすることの意義のひとつだと思うからです。

●庄内藩=鶴岡市・鶴ケ丘城:酒井家17万石【幕府側】
 1868年(慶応3年),上山藩などとともに江戸薩摩藩邸への討ち入りを命ぜられて実行,戊辰戦争の口火を切るとともに,この焼き打ちが新政府軍による徳川家武力討伐の口実や,奥羽鎮撫総督による庄内藩攻撃の口実ともなりました。
 戊辰戦争で,松平権十郎を中心とする派閥が新政府軍を攻撃し藩論を幕府側の佐幕派へ統一し,会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中心勢力のひとつとなりました。さらに,会津藩と庄内藩との間で会庄同盟が締結され,新政府軍と対峙することを誓いました。戊辰戦争では,新政府軍に与した新庄藩や久保田藩領内へ侵攻を開始,新庄城などを落としました。
 庄内藩は酒田の豪商・本間家の莫大な献金を元に最新式兵器を購入し軍事力強化に努め,各地の国境において新政府軍を退け連戦連勝でした。さらに北進し,久保田城へと迫りますが,新政府軍が最新兵器で武装した佐賀藩兵を援軍として投入したために戦線は膠着状態となりましたが,米沢藩が降伏したため,軍の撤退を決意。さらに,会津藩が降伏したことを受けて庄内藩も恭順しました。
 1868年(明治元年)領地を没収されますが,本間家を中心に藩上士・商人・地主などが明治政府に多額の献金をして,1870年(明治3年)酒井家は念願の庄内領へ復帰しました。
 庄内藩が比較的軽い処分で済んだのは,西郷隆盛の意向があったといわれ,この後,庄内地方では西郷隆盛が敬愛され明治初期には薩摩藩へ留学生を出すまでに至りました。
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●新庄藩=新庄市・新庄城:戸沢家6万石【幕府側⇒新政府側⇒幕府側⇒新政府側】
 1867年(慶応3年)の薩摩藩邸焼討に派兵しました。
 戊辰戦争では,新政府軍と共に庄内藩領内へ攻め込みますが,逆に迎撃され惨敗しました。
 奥羽越列藩同盟が締結されるとこれに参加,庄内藩に協力して新政府軍を圧倒しましたが,秋田久保田藩が新政府軍へ寝返ったことを機に,奥羽越列同盟から離脱しました。
 新政府軍を国境で防いでいた庄内藩はこの離脱に激怒し,新庄藩に攻撃を加え城を攻め落としました。城下町の大半が焼失し,藩主・戸沢正実は秋田久保田藩へ落ち延びました。
 廃藩置県で新庄藩は廃藩となり新庄県となり,同年,山形県に編入されました。
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●天童藩=天童市・天童城:織田家2万石【新政府側⇒幕府側】
 1868年(明治元年),藩主・織田信学は新政府から上洛の命を受けますが織田信学は病床にあったために,嫡男の織田信敏が代理として参内しました。このとき,新政府から奥羽鎮撫使先導に任じられ,天童藩重臣の吉田大八が奥羽鎮撫副総督・澤為量を先導として庄内藩と戦いましたが大敗を喫し,天童城下は庄内藩により焼き払われました。
 奥羽越列藩同盟が結成されると天童藩も同盟軍として参戦せざるを得なくなり,吉田大八は切腹させられました。新政府軍が会津藩を降伏させて侵攻してくると天童藩は降伏。廃藩置県により天童藩は天童県となり,同年,山形県に編入されました。
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●山形藩=山形市・山形城:水野家5万石【新政府側⇒幕府側】
 奥羽越列藩同盟に加わりましたが,米沢藩,仙台藩が降伏すると山形藩も1868年(慶応4年)に新政府軍に降伏しました。
 藩主・水野忠弘が13歳と若年だったため,26歳の家老・水野三郎右衛門元宣が一切の責任を負って処刑されました。以後,新政府軍直轄の天領となったため,山形藩は廃藩となりました。
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●上山藩=上山市・上山城:松平家3万石【幕府側】
 戊辰戦争が始まると奥羽越列藩同盟に参加,また,北越戦争にも巻き込まれ派遣しましたが,米沢藩が新政府に恭順すると軍を引き上げ降伏恭順しました。
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●米沢藩=米沢市・米沢城:上杉家14万7千石【幕府側⇒新政府側】
 保科正之の旧恩があるとして幕府側となり,藩主・上杉斉憲,嗣子・上杉茂憲は京都警衛の功績により知行高は19万石近くまで増加しました。
 戊辰戦争がいよいよ東山道に波及しはじめると,米沢藩は新政府軍と会津藩の間に立って仲介に努めますが,その行動が新政府側から疑いの目を向けられると奥羽越列藩同盟の盟主となり,新政府軍に敵対しましたが,苦戦し,東山道先鋒総督府から恭順を薦める書状によって,米沢藩は降伏。その後は新政府軍の先鋒となりました。

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山形市の市街地,アメリカならいわゆるダウンタウンですが,そこを歩いていたときに目に留まったのは,水野三郎右衛門元宣の像でした。この像の説明を読んでいて山形市の歴史に興味をもったので調べてみました。
山形市の歴史は次のようでした。
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1356年(延文元年)に斯波兼頼が羽州探題として入部し,その子孫が最上郡の名称をとって最上氏を名乗るようになりました。
1601年(慶長6年)に最上家11代目当主の最上義光が山形を拠点に最上・村山地方を統一し,現在の基礎となる山形城と城下町の町割を整備しました。ときに57万石とも,実質は100万石ともいわれる藩でした。
1622年(元和8年)最上義俊のとき,最上騒動とよばれるお家騒動で改易となり,旧領には新庄藩,上山藩,本荘藩,鶴岡藩など様々な藩が立藩され,山形藩はこのときわずか20万石となりました。鳥居忠政が山形藩主となりましたが世継ぎがいなかったりと,それ以後は藩主が定着せず,幕末まで,保科家,松平家など複数の領主の入れ変わりが続きました。
1767年(明和4年)に秋元家涼朝が入部し,以降,秋元家が4代78年間と最も長く在封しましたが転封されました。
1845年(弘化2年),天保の改革に失敗した水野忠邦が失脚したことによって、子の水野忠精が山形藩に左遷され,版籍奉還まで水野家が続くことになりました。最終的には,山形藩は5万石の小藩でした。
  ・・・・・・
このように,山形藩は領主が頻繁に入れ替わり,また,領地も歴代領主の飛び地領などが入り組んで石高が減少するなど,大藩のような城下町的な文化は育ちませんでした。

また,水野三郎右衛門元宣については,つぎのように書かれてありました。
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水野三郎右衛門元宣は1843年(天保14年)浜松に生まれ,4歳のときに水野忠精の国替えにより山形に移住しました。
やがて戊辰戦争が勃発し,藩主は山形を離れて京都や江戸で軟禁され,弱冠26歳であった家老・水野三郎右衛門元宣が指揮をとり,山形藩の保全を守り切りました。
最初は新政府側として庄内藩と戦いましたが,その一方で,京都に拘束されていた藩主・水野忠精は老中だったので,山形藩は「山形藩は本当に新政府側か? 寝返るのではないか?」と常に疑いの目で見られていました。新政府軍の攻撃がはじまったとき,仙台藩や米沢藩などの大藩の間にあって,山形藩は苦渋の決断で,新政府側から寝返って奥羽越列藩同盟に加盟することになりました。
奥羽越列藩同盟は,はじめは優勢でしたが,離脱した各藩が次々に新政府軍に降参。ついに山形藩も降参しました。
戦争後、新政府から反逆首謀者を問われた際,水野三郎右衛門元宣は「山形藩の責任はすべて自分ひとりにあり」との嘆願書を提出。その結果,水野三郎右衛門元宣が首謀者として罪人となりました。
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このような犠牲の上で山形藩を守った水野三郎右衛門元宣の功績が,山形市を県庁所在地としたということです。

では,ここからは,前回書いた「県名と県庁所在地名が同じ県とそうでない県があるのはなぜか?」の話題の続きです。
明治新政府が廃藩置県を行ったとき,新政府側(=官軍)に属した藩と幕府側(=賊軍)に属した藩をひとめでわかるようにと,新政府側は県名と県庁所在地名を一致させ,幕府側は不一致としたという説があるのですが,山形県は幕府側だったのにもかかわらず,県名と県庁所在の地名が一致しているのです。
それは,山形県最大の城下町であった米沢を故意に県庁所在地名から外すことで県勢を分散させようとしたというのが理由だそうです。
また,「ブラタモリ」で,日本の中心といわれた山形県の海側にある酒田市がなぜ県庁所在地でないのか?  という話題が2018年9月29日の放送でありました。
酒田はかつて「西の堺,北の酒田」とまで称された町でした。酒田は最上川の水運の集積地であり,山形県の内陸部が主産地の紅花の主要輸出地でした。さらに,酒井のあった庄内藩は天領の米を守る任務をもっていました。
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幕末,新政府側の薩摩と長州は東北諸藩を征討する目的で奥羽鎮撫使を派遣し,天領米を接収しようとして庄内藩との戦いに発展しましたが,そのときに新政府軍の奥羽鎮撫使先導代理のを務めたのが天童藩の家老であった吉田大八守隆でした。結局,庄内藩は賊軍として朝敵となり,その結果,県庁所在地になることができなかったというのです。
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なお,幕府側であった福島県の県庁所在地がなぜ福島市なのか? このことはここでは書きませんが,これもまた調べてみるとさまざまな説があって興味深いものです。

調べれば調べるほど興味深くなってきました。そしてまた,こうした歴史を知れば知るほど,日本は陰険な国だと実感します。
私は,幕末,東北地方の多くの悲劇をこれまで知らなかったわが身を恥じました。
歴史は「勝てば官軍」で,こうした真実が隠れてしまいます。学校でもほとんど学びませんし,NHK大河ドラマの幕末もまた「勝てば官軍」側からのものがほとんどです。そして,坂本龍馬の活躍だけがいつも目立つわけです。
幕府側から描いたNHK大河ドラマとしては,新選組を主題とした2004年の「新選組!」が印象に残っています。また,奥羽越列藩同盟を描いたものとしては,2013年の「八重の桜」で会津が舞台となったことがあったのですが,当時の私は興味がなく見ませんでした。
そんななかでも,私が強く記憶に残っているのは1977年に放送された「花神」です。この作品では,当時33歳の高橋英樹さんが演じた奥羽北越同盟を画した越後・長岡藩の河井継之助の悲劇的な最期が描かれていました。

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私が山形に行くというと,多くの人がどうして? と聞くのです。それは,私の住む愛知県からそれほど山形県というのはなじみがないからなのです。行ったという人もほとんど知りません。
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さて,ここで少し話が逸れます。
山形県の県庁所在地は山形市,現在の人口は約25万人です。
実は,日本海側にある府県で、海側に県庁所在地がないのは京都府を除き山形県のみなのです。 
県名と県庁所在地名が同じ県とそうでない県があるのはなぜか? という疑問を子供のころに思ったことがあるのですが,それ以来忘れていました。今回調べてみると,その理由は明治政府の意地悪だということがわかりました。
1871年(明治4年),明治新政府が廃藩置県を行ったとき,新政府側(=官軍)に属した藩と幕府側(=賊軍)に属した藩をひとめでわかるようにと,新政府側は県名と県庁所在地名を一致させ,幕府側は不一致としたという説があるのです。それが真実ならきわめて日本らしい陰険さでしょう。
しかし,山形県は福島県とともに,幕府側だったのにもかかわらず,県名と県庁所在の地名が一致しているのです。
…このことの続きは次回。

さて,天童市から南に,私は車で山形市に向かっています。
やがて山形市の市街地が見えてきました。駅前は新しそうでした。それは,山形新幹線ができたときに整備されたからでしょう。
私の宿泊先である東横インは山形駅の西側にあって,その途中に山形城があったので寄ってみました。四国地方とは違って,東北地方は幕末の動乱のときに新政府側でなかったので,根絶やしにされ,どこもほとんど城郭は残っていないのですが,山形城もまた同じでした。
城跡を少し散策をして,車に戻り,ホテルに行きました。
車を停め,チェックインを済ませ,市内歩きがてら夕食をとることにしました。
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山形駅に観光案内所があったので,そこでいろいろと情報を集め,明日からの予定を決めることにしました。なにせ,行きたかった立石寺も天童市もすでに行ったので,このあと何をするかまったくわからなかったからです。
親切な係の人がいろいろと教えてくれました。
そこでわかったのは,県内,どこも思ったほど遠くないということでした。南の方は,蔵王はすぐそこだし,米沢市も遠くない,しかも,その途中に上山市もある。北西に行けば,最上川の舟下りもできるし,羽黒山まで足をのばすこともできるということでした。
幸い,というか,私は晴れ男なので,明日からの2日間はもちろん天気がよく,そのふたつの地域をどの順で行くか,ということだけが課題として残りました。最後に山形市内の様子を聞いて,観光案内所を出ました。

山形市の繁華街は駅の東側ということだったので,駅を越えて,そこまで歩きました。
それなりの都会の繁華街で,とてもいいところでした。夕方は散歩に最適です。
しかし,問題は,適当な食事をするところがないということでした。あったのはおそば屋さんとラーメン屋,そして,飲み屋ばかりでした。そういえば,山形県はラーメンの消費量が日本一らしいと聞きました。おそばはお昼に食べたので,また,という気にはなりませんでした。また,私は酒は強いのですが,旅先で酒を飲む習慣はありません。
ということで,適当な食事をするところもなく引き返し,ついに,駅の構内にあったラーメン屋で中華料理を食べることになってしまったのでした。
私が泊まる東横インの道路を隔てた向こう側にマックスバリューがありました。この最強のスーパーマーケットがあったのが幸いでした。そこで,ホテルに戻る前に,飲み物と明日の朝食をマックスバリューで買いました。

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人間将棋は天童市の「天童桜まつり」で毎年4月に催されるイベントです。
将棋を戦国時代の戦に見立てて,戦国時代の兵士や腰元に扮した人間が巨大な将棋の駒となって将棋盤を模した「戦場」で相手の軍と戦うものです。戦の指揮はゲストとして招待されたプロ棋士や女流棋士が務めます。 
江戸時代,将棋駒の生産で知られた天童藩ですが,近年は将棋駒の約95パーセントががこの地域で生産されていることから,将棋による町おこしの一環として,その目玉イベント人間将棋が行われるようになりました。
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人間将棋は毎年春に行われるので,春に忙しい棋士は出場できません。
藤井聡太竜王が順位戦A級になったことで,来年の春には,名人戦の挑戦,そして,名人位獲得となれば,この先名人戦の行われる春は日程の都合がつかなくなる,ということで,今年2022年4月17日に行われた人間将棋では,最後の機会かも,ということで藤井聡太竜王が対局者として出演することになったそうです。
そこで,これまでは誰しも見ることができたのですが,観戦者が殺到するといけないからと,予約制となりました。
観覧者600人の応募枠に1万人超の応募が殺到したということです。私も勢いで応募をしたのですが,当然,落選しました。当選するとは思わなかったのですが,応募しなかったことで後悔したくないという理由で応募してみたのです。
しかし,もし当選したとしても,応募したころは,どうやって天童に行くのかもまったく知りませんでした。当選したらどうしようと思っていました。
実際は,先に書いたように,名古屋から山形まではFDAでわずか50分,また,空港から会場までも近く,日帰りが十分可能でした。今回,私が人間将棋の1か月後に天童に行ったのは,落選したからではなく,その前から行くことを計画していたからです。

立石寺に行ったあと,再び天童を通って宿泊する山形市のホテルまで行くことにしました。
その折に,将棋まつりの会場に寄ってみました。
将棋まつりが行われる場所は,天童市の南の舞鶴山山頂に整備されたところということでした。思ったよりけわしい舗装された山道を車で登ると,広い駐車場,そして,その向こうに開けた場所があって,そこに人間将棋のための将棋盤と観覧できるような階段状の高台がありました。
舞鶴山は,昔,天童古城があったところで,今は山全体が公園として整備されていました。
人間将棋が行われるころは一面桜が咲き誇ります。今度はぜひ,そのころに来てみたいと思いました。
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山を下りて,天童の町に車を停めて,少し歩いてみました。
天童の町は,歩道に詰将棋が書かれてあったり,橋に将棋の駒をかたどったモニュメントがあったりしました。
私が思うに,いくら将棋がブームとはいえ,将棋人口は知れています。そして,何があるかといっても,将棋駒作成の実演をやっているお店があったり,天童駅前に将棋資料館があったり,土産物として将棋駒があるくらいのものなので,将棋による町おこしには限界があるように感じました。この町は,天童温泉としても有名なので,それも加えて,もう少しなんらかの工夫があるといいなあ,と感じました。

再び車に戻って,山形市に向かうその途中に,天童織田の里歴史館があったので寄ってみました。
この建物は1879年(明治12年),東村山郡役所として作られた洋風建築で,現在は資料館となっています。また,この辺りは美しい町並みが続いていて,とても魅力があるところでした。
今年の将棋まつりをニコニコ動画で見て知ったのですが,天童藩は織田家2万石です。私の住む愛知県からこんなに遠いのに,織田信長ゆかりの町だということが驚きであり,不思議な縁を感じました。
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織田信長が1582年(天正10年)の本能寺の変で自害しのち,次男の織田信雄が織田家の跡を継ぎました。織田家は現在の群馬県にあった小幡藩や,現在の山形県にあった高畠藩を治めたのち,1831年(天保2年)に,高畠藩主だった織田信美が天童に入り,織田家の天童藩が成立しました。
織田信美は,わずか2万石の天童藩の財政再建には苦労し,うまくいかなかったそうですが,当時流行していた将棋の駒を武士達に作ることを推奨し,これが現在の「将棋の町・天童」の基礎となりました。
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立石寺もまた,日本の観光地,温泉街のようなものと同じでした。
私は「おいしい山形空港」から天童市を通り立石寺にたどり着きましたが,立石寺はJR仙山線の山寺駅から簡単にアクセスできます。地図で見るとよくわかるのですが,山形市の緯度は仙台市と同じほどです。福島市からY字のようにして,北西に行くと山形市があり,北東に行くと仙台市があります。そして,仙台市と山形市が仙山線で結ばれているのです。
そこで,東京から立石寺に行くには,山形新幹線で山形まで行ってそこで仙山線に乗り替えて山寺駅へ行くこともできますが,東北新幹線で仙台まで行ってそこで仙山線に乗り替えて山寺駅へ行く方法もあります。電車なら,山寺駅から門前町までは5分ほど歩くと着きます。
山寺駅には改札を入らなくても行くことができる展望台があって,そこに登ると立石寺の五大堂や開山堂が眺められということだったので行ってみたのですが,それがどこかわかりませんでした。すると,地元の人が親切に教えてくれました。山形の人はみなとても親切です。

さて,車でやってきた私は,先に立石寺に登ってから,下山して車を停めたところにあったおそば屋さんで板そばを食べました。
板そばは山形名物ということです。
板そばは,昔,大きな長い板や木箱にそばを盛りつけ,農作等の共同作業や集会後に振舞ったのが由来とされていて,本来は,大きな木箱に盛られた山形風田舎そばを分けあって食べられていたそうです。
これは,一緒に食べた人との,仕事や人間関係のご縁が,水がこぼれ落ちる「ざる」ではなく,早く「板」につきますように,そしてまた,細く長くそばに居られますように,といった縁起を担いで振舞われたというように,縁起のいい締めの食べ物とされているそうです。
山形そばは二八そばで,私が普段食べているざるそばとは少し違いました。山形そばは,少し固く太く,そこで,噛めば噛むほど味が出ます。つゆは薄めの味つけでそば全体をそばつゆに漬けて食べるということです。

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立石寺はどこにもあるような,いわゆる日本の観光地でした。
麓の門前町にあった駐車場はどこも500円だったので,適当に車を停めて,まずは山頂までの登山です。車を停めたところにあったおそば屋さんで地図をもらい,簡単な説明を聞きました。
奥の院まで行って,そこからさらに歩くと五大堂というところがあって,そこからの見晴らしが一番だといわれました。

まずは門前町をずっと歩いていって,登山口に着きました。
この日はツアー旅行客や修学旅行生で一杯でした。私が着いたのは午前11時過ぎでした。多くの観光客や修学旅行生はもっと早く来るようで,幸い,ほとんどの人はすでに降りるところだったら,すれ違いになりました。私が降りてきたお昼を過ぎには,もう,ほとんど人はいなくなりました。
登山口から少し登るとあったのが根本中堂でした。
根本中堂は1356年(延文元年)の再建だそうで,堂内には比叡山延暦寺から移されたという法灯が千年以上にわたって燃え続けていました。
そこから登山がはじまります。
山門をくぐると,この先は極楽という浄土口です。その場所に姥堂がありました。かつては,ここで参拝者は身を清め,白装束に着替えたのだそうです。
その先にあったのがせみ塚。松尾芭蕉が誰しもが知るあの句をしたためた短冊を納め,石塚を立てたと伝えられる場所です。そこから急坂になって,見上げると1848年(嘉永元年)に再建された仁王門がありました。さらに石段を上り詰めると,奥の院,大仏堂に到着です。大仏殿の本尊は5メートルほどの金色の阿弥陀如来像です。

さて,ここから右手に少し下ったところにあるのが,写真にある有名なお堂なのですが,それは本殿ではなく開山堂とその左の小さな納経堂でした。しかし,多くの本に載る立石寺の写真だけからは,この開山堂こそが本殿のように誤解をしてしまうわけです。私は謎が解けた気持ちでした。
そして,開山堂からさらに細い道を通って着いたのが五大堂でした。五大堂は五大明王を安置し天下泰平を祈る道場として建てられたという舞台式のお堂で,この舞台からの眼下の眺めが絶景でした。
というわけで,私が憧れて,やっと行くことができた立石寺もまた,行ってみなくては本当の姿はわからないのでした。
登るのがたいへんかな,と来るまえは心配したのですが,それはまったくの杞憂に終わりました。

ところで,この立石寺,有名なトリビアがあります。
実は,立石寺の山頂から麓まで,40年前には滑り台があったそうです。行きはたいへんでも帰りは楽に滑り台で,とかいう発想で作られたもので,奥の院から山麓までムシロのようなものをお尻の下に敷いて下りることができたということです。しかし,けが人続出で死者まで出て,すぐに閉鎖になってしまったといいます。
その滑り台の残骸が今も残っているということで,それを探した人のブログがあります。
私が先日行った京都愛宕山のケーブルカーの廃墟といい,日本人はこういう,神仏に手を合わせればあとは傍若無人,あほなことをしては自然を破壊することが得意な民族なのです。

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山形領に立石寺と云山寺あり。
慈覚大師の開基にして,殊清閑の地也。
一見すべきよし,人々のすゝむるに依て,尾花沢よりとつて返し,其間七里ばかり也。
日いまだ暮ず。
麓の坊に宿かり置て,山上の堂にのぼる。
岩に巌を重て山とし,松柏年旧,土石老て苔滑に,岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。
岸をめぐり,岩を這て,仏閣を拝し,佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。
  閑かさや岩にしみ入る蝉の声
   「奥の細道」松尾芭蕉
  ・・
山形に立石寺という山寺がある。
慈覚大師の創建した寺で,とりわけ清く静かな地である。
一度見るほうがよいと人々が勧めるので,尾花沢から逆戻りした。その間は七里ぐらいの距離であった。
日がまだ暮れていなかった。
麓の宿坊に宿を借りて,山上の堂に登る。
岩に岩を重ねて山となっており,松や柏などが樹齢を重ねて,土石も古びて苔が滑らかに,岩山の上の支院は扉を閉じていて物音が聞こえない。
断崖を巡り,岩をはい,寺院を参詣すると,景観はひっそりとしていて心が澄んでいくことがわかる。
  ・・・・・・

このだれしもが知っている立石寺ですが,教科書や参考書などに載っているが,今日の1番目の写真です。そこで,立石寺のイメージができあがるわけです。
私もこの写真をみて憧れました。
とほうもない岩山を登るとこの写真のようなお堂があって,それこそが立石寺だと。
私はずっとそう思い込んでいました。そこで,なんとか体力があるうちに一度は登ってみたいものだと長年思っていました。
そんなわけで,この春,京都の愛宕山とともに立石寺に行くことにしたのですが,すでにこのブログに書いたように,愛宕山はとても大変だったので,はたして立石寺に登ることができるかどうか心配になりました。しかし,さらに調べると,愛宕山に比べれば,立石寺はわけないようだったので,安心してむかうことにしたのです。

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立石寺は山形市にある天台宗の仏教寺院です。山寺の通称で知られていますが,詳しくは宝珠山阿所川院立石寺といいます。本尊は薬師如来です。
寺伝では860年(貞観2年)に清和天皇の勅命で慈覚大師が開山したとされています。
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1689年(元禄2年)に松尾芭蕉が旅の途中で訪れたことで,あまりに有名です。現在この寺が栄えているのも,松尾芭蕉の功績が非常に大きいのでしょう。
私も,そうでなければ今回行くことはなかったに違いありません。

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小さな「おいしい山形空港」でした。まるで,アメリカの小さな町の空港のよう。
私にはモンタナ州ビュートの空港ほどに思えましたが,多くの人はビュートなんていっても知らないだろうから,これではたとえになっていませんな。しかも,山形県自体もまた,私の大好きなモンタナ州みたいなところでした。
私は,こうして空港でレンタカーを借りて自由気ままに旅をするのはアメリカでは慣れているのですが,日本ではまれなので,どうしてもアメリカと比べてしまいます。
人混みの嫌いな私にはストレスのないすばらしい旅になりそうな予感がしました。
空港内にレンタカー会社のカウンタがありました。私が借りたのはオリックスレンタカーでした。理由は安かったことで,たいして期待もしていなかったのですが,ほぼ新車でした。新型コロナワクチン3回接種だと1,000円分のQUOカードがもらえました。ワクチン接種証明がはじめて役立ちました。
いよいよ出発です。

私がこの旅で行きたかったのは天童市と立石寺だったので,まずはそのふたつの場所をめざすことにしました。また,今回2泊するのは山形駅近くの東横インだったのですが,これもまた安かったから選んだだけのことで,私は,その位置関係すら知りませんでした。まあ,「おいしい山形空港」を使うのだから,山形市のホテルなら便利だろうと,それだけでした。
ところが,「おいしい山形空港」から山形市までは意外と遠く,その間に天童市と立石寺があるのには驚きました。ということで,まず,天童市に行くことにしましたが,天童市の町中にはすぐに到着しました。
天童市内を走っていると,いろんなところで将棋の駒の形をした看板があったりして,将棋が町おこしをしている様がよくわかりました。
とにかく,どこかに車を停めなければならないのですが,天童市将棋資料館という道路標示を目当てに適当に走っていくと,JR天童駅に着きました。天童市将棋資料館はJR天童駅にあるのでした。
駅の右手に駐車場があって,1時間無料だったので,そこに車を停めました。

ホームページには次のようにあります。
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天童市将棋資料館は,全国の将棋の9割以上を生産する将棋のまち天童のシンボルとして1992年にオープンしました。小さな将棋駒には大きな歴史とロマンと伝統と技術が息づいています。伝統の技と将棋のルーツ,将棋の歴史,天童がなぜ将棋駒のまちになったのか,人間将棋の開催,タイトル戦の歴史を学ぶことができる資料館です。
天童将棋駒は平成8年国の伝統的工芸品の指定を受けています。
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日本のこういった博物館は,アメリカのそれとは違って,概して期待はずれに終わるものですが,天童市将棋資料館はなかなかのものでした。

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1日目,2022年5月17日火曜日。
2年ぶりに飛行機に乗りました。行先は「おいしい山形空港」です。
私の行きたいところリストの残りも少なくなってきたのですが,その中で現在最も行きたいと思っていたのが山形県。その目的のひとつは山寺といわれる立石寺,そして,もうひとつは将棋のふるさと天童市でした。
数年前までは旅は日常茶飯事だったのですが,しばらく遠ざかっていたら,そうした感覚を忘れてしまったようで,いろいろと戸惑いました。しかも,海外の旅行は慣れていたけれど,国内の旅行は逆に不慣れでよくわからないことも多く,ガイドブックを見ても距離感がつかめないので,日程が決まりません。そこで,何をするかは行ってから考えることにして,とりあえず2泊3日と決めて,レンタカーと宿泊するホテルを予約しました。

これまで山形県は行ったことがありませんでした。また,どうやって行くかもわかりませんでした。
はじめは自宅から車で行こうとも思ったのですが,さすがに遠すぎてやめました。列車を使うには東京を経由しなければならず,かなり時間もお金もかかります。
調べて行くと,FDAという格安航空が県営名古屋空港から「おいしい山形空港」まで運行していることがわかりました。しかもかなり安かったので,それを利用することにしました。
セントレア・中部国際空港ができて以来,それまでの名古屋国際空港からほとんどすべての航空会社は移ってしまいました。そして,名古屋国際空港は県営名古屋空港と名前を変えました。しかし,セントレアまでは結構遠く,国際線ならともかく,国内線を利用するだけなら,県営名古屋空港のほうがずっと便利です。しかも,空港はすいていて,駐車場も余裕があります。
現在はFDAだけが県営名古屋空港から,私の利用する山形をはじめとして,青森,花巻,新潟,出雲,高知,福岡,熊本といった,名古屋から列車では不便なところに運行しています。なかなかいい行先を設定しています。私が日本国内で旅したいところ,リピートしたいところは,東北地方と四国地方。なので,FDAは最高です。これから贔屓にします。

定刻の午前9時15分に6割程度の乗客を乗せて旅立った飛行機は曇り空をずっと飛行しました。途中,飲み物とパンが出ました。わずか50分のフライト,「おいしい山形空港」に着陸する少し前雲が切れて,眼下に会津磐梯山と猪苗代湖がきれいに見えました。いつものごとくとてもついています。
やがて着陸しました。
山形の空港は,名称を「おいしい山形空港」といいます。名前の由来はホームページに次のように書かれてありました。
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我が県は四季の変化があざやかで,冬の雪はやがて豊かな湧き水となって肥沃な土壌を潤し,年間・昼夜の温度差が大きいことで,米をはじめとする農産物の栽培に適した条件を備えた地として広く知られております。
(中略)
「おいしい」という言葉には「味がよい」という意味だけではなく,「好ましい」「見事だ」という意味があります。「食,景色,祭り,温泉などすべてがおいしい」そんな思いを込めて愛称を「おいしい山形空港」に決定しました。
  ・・・・・・
なかなかいいセンスです。すてきな名前です。

FDAは「フジドリームエアラインズ」(Fuji Dream Airlines Co., Ltd.)が会社名です。
2007年,静岡市の地場物流関連企業「鈴与」が単独で参入して,2009年から運航を開始したということです。
今回はじめて利用しましたが,スタッフも親切だし,とても感じのよい航空会社でした。
私がこれまで利用した格安航空会社はスカイマークとジェットスターでした。スカイマークは今回のFDA同様とても感じがよくこれからも機会があれば利用したいと思っているのですが,ジェットスターにはいい思い出がありません。やたらと遅れるし何やかやと別料金が発生するしサービスは悪いしスタッフの対応も悪いし,私は使いたくない航空会社です。
それにしても,FDAを利用して名古屋から山形に行くのが,新幹線で名古屋から東京へ行くより運賃は安く所要時間が短いのにはおどろきました。
今まで,山形がこんなに身近なところだったとは知りませんでした。これもFDAのおかげです。

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