【Summary】
Ige-no-yama Kofun is the largest keyhole-shaped burial mound in the Otokuni area of southern Kyoto, built in the early 5th century. Later linked to Akechi Mitsuhide’s camp at the Battle of Yamazaki, it is now preserved as a park with reconstructed haniwa rows.
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JRで京都駅から伊丹駅に向かう途中,車内から埴輪の並んだ古墳が見られたので,興味をもちました。そして,伊丹駅からの帰りに寄ってみることにしました。調べてみると,それは,恵解山古墳(いげのやまこふん)というところでした。
最寄りの駅は長岡京駅ということで,ここは,2025年6月20日に勝竜寺城へ行こうと降りた駅でした。ならば,そのときに行けばよかったのですが,その時点では,恵解山古墳など全く知りませんでした。いつもこんなことばかりです。まあ,こういう無駄足はわるくありません。と強がるのですが…。
長岡京駅から南に歩いていくと前回行った勝竜寺城があり,その先に,勝竜寺城の名前のもととなった勝竜寺があり,さらに歩いていくと,長岡京市立長岡第三中学校。恵解山古墳はその先でした。
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恵解山古墳は, 京都盆地から大阪平野に通じる狭隘部で,桂川,宇治川,木津川の合流点東北の平野部に位置する長岡京市勝竜寺久貝にある京都府南部の乙訓地域最大前方後円墳で,全長約128メートル,後円部直径約79メートル,高さ約10メートル,前方部幅約79メートル,高さ10メートル。幅30メートルの周濠をもちます。5世紀の前半の築造と推定されています。
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小高い丘で,後円部には墓がありました。後世,この部分を墓地にしてしまったようです。
今の時代,さまざまなところにある古墳は調査が進んでいますが,おそらく,以前は,単なる小山のようなものだと思われていたのでしょう。
恵解山古墳で有名なのは,本能寺の変の後,豊臣秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いにおいて明智光秀の本陣が置かれた可能性がある,ということでしょう。古墳から西には天王山を見ることができます。明智光秀が,山崎の戦いに敗れ,琵琶湖畔の坂本城へ落ち延びる途中に通過したとされる場所です。明智光秀はこの先の小栗栖で名もなき男の槍に刺されて落命しますが,恵解山古墳ではいかなる心境であったのでしょうか。歴史の悲哀を感じます。
恵解山古墳が築かれた当時,斜面全体に石がふかれ,平らなところには埴輪が立て並べられていたということです。また,古墳に葬られた人物の名前は記録に残っていませんが,古墳の大きさなどから,少なくとも乙訓地域の全域を支配した実力者の墓であったと考えられます。
1980年(昭和55年)に,鉄製の武器など約700点を納めた武器埋納施設が発見されましたが,京都府内でもこのように大量に出土した例はなく,全国的にも珍しく貴重な古墳ということです。2003年(平成15年)から2013年(平成25年)まで調査及び保存整備が行われ,2014年(平成26年)に恵解山古墳公園となりました。現在は,開園する際に復元された埴輪列を間近で見ることができます。
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