しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:日本国内 > 東京近郊

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【Summary】
I traveled to Kofu, visiting sites such as Kofu City Hall, Yamanashi Modern People’s Museum, and Koshuyumekoji, before returning home on the Azusa and Shinano limited express trains. Despite missing out on a planned station bento dinner, they enjoyed conversing with a fellow passenger. The recent journey reflects their interest in exploring places they once wanted to visit, aiming eventually to relax in secluded hot springs away from tourist spots.

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 私には望外の太宰治の足跡をたどることもできて,すっかり満足して甲府駅に戻ってきました。
 この日は,甲府駅午後4時27分発の特急「あずさ」に乗って,午後5時27分に塩尻駅で降り,塩尻駅午後6時3分発の特急「しなの」に乗り換えて,午後8時7分に名古屋に着くことにしていました。まだ時間が早かったので,10階に展望ロビーがあるということなので,甲府市役所に行ってみることにしました。それほど高い場所ではかなったけれど,ともかく景色を堪能することができました。甲府市役所で降りて,北に行くと山梨県庁の昔の建物がありました。まだ,一部は県庁として機能しているようでしたが,ここに山梨近代人物館があったので,入ってみました。とはいえ,山梨県には,意外なほど有名人がいないのでした。
 最後に,甲府駅の北口にあった甲州夢小路というところでジェラードを味わって,これで旅は終わりました。

 予定通り,「あずさ」「しなの」と乗り継いで帰宅しました。
 最後に後悔したことは,甲府駅で「あずさ」に乗る前に駅弁を買わなかったことでした。塩尻駅で買えばいいと思っていたのが甘い考えでした。塩尻駅は思った以上に小さく,売店も1軒しかなく,弁当はすでに売り切れでした。仕方がないので,適当にパンを買って,これを夕食代わりにすることにしました。せっかく,「しなの」の車内で楽しく駅弁の夕食を,と思っていた思惑がはずれてしまいました。
 この日は日曜日で,狭い塩尻駅のホームには,帰宅する登山客で一杯でした。彼らは自由席に座ろうと並んでいたのですが,松本駅からやってきた「しなの」の自由席は乗る前からすでに満席でした。気の毒に…。
 私はもちろん指定席でしたが,隣に座っていた松本駅から乗ってきたという女性と気が合って,ずっとおしゃべりをしているうちに,あっという間に名古屋駅に着きました。

 97歳のブロムシュテットさんが指揮をするというNHK交響楽団の定期公演を聴くために東京へ行くついでに,その前に秋田県へ行き,東京からの帰りに山梨県へ行く,というまったく脈絡のないふたつの場所を旅しましたが,ともに天守のない城跡だけが見どころで,町もそれほど活気がないことなど,秋田市と甲府市はけっこう似ていました。しかし,意外な発見があったりと,楽しい旅になりました。
 このごろ,これまで一度は行ってみたかったけれど行く機会がなかった場所を次々と旅しているのですが,行く機会がなかったということは,結局,行こうと思うほどの魅力がなかったということだから,こんな感じになってしまいます。
 私は,まだ,行きたかったけれど行くことができていない場所が数々あります。早くそうしたところの旅を終えて,つまり「雑念」というか「煩悩」をなくして,そのあとは,時間を忘れ,ゆったりと,人の少ない,見どころもないような,ひなびた温泉にでも旅したいものだというのが,このごろの気持ちです。

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【Summary】
I, a casual Dazai Osamu fan, began visiting places connected to him, starting with Tenka Chaya and Shayokan in Aomori. This led me to other sites, including his grave in Mitaka and his wife's. Surprised to find a related site in Kofu, I visited, enjoying local soba and learning about Dazai's brief residence and landmarks like Seiunji Temple and Kiku-no-Yu Onsen. I also discovered Chiba Sana's grave here, once a fiancée of Sakamoto Ryoma. Travel in Japan brings unexpected encounters, making each journey more enjoyable.

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 にわか太宰治ファンの私は,ろくに太宰治の作品も読んでいないのに,学生時代に「国語便覧」に載っていた「富嶽百景」ゆかりの天下茶屋と青森県金木の斜陽館がなぜか気になって,いつかそこを訪ねてみたいという動機だけで行ってみたことから,それ以外の太宰治の足跡も訪ねるようになりました。そして,旅のついでに,小説「津軽」の舞台となった場所に行ってみたり,三鷹市の太宰治の墓を詣でたり,最後に,妻だった山崎富栄の墓を探し当てて,これで太宰治ゆかりの地めぐりも終わりと思っていたのですが,なんと,甲府市に,まだ,ゆかりの場所が残っていたのには驚きました。
 その地を訪ねる途中で,昼食をとろうと,おそば屋さんに入りました。おいしいおそばでした。
 おそば屋さんで聞いてみると,地元の人には,当然,太宰治がこの地に住んでいたというのは有名なことでした。

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 29歳の太宰治は,荒んだ20代を清算し「思いを新たにする覚悟で」,1938年(昭和13年)9月13日から御坂峠の天下茶屋に滞在していました。その時期,井伏鱒二たちが「太宰をいつまでも独り身にしておくのは危険である」という配慮から,太宰治の結婚相手探しをはじめ,候補に浮上したのが石原美知子でした。
 9月18日,太宰治は,井伏鱒二の付添いで石原家を訪問し,石原美知子と見合いをし,石原美智子と婚約後,住まいを甲府市の寿館に移し,大晦日まで過ごしました。
 年が明けた1月8日,杉並区の井伏鱒二宅で結婚式を挙げ,寿館から歩いて10分ほどの甲府市御崎町に新居を構えました。
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 新居のことは,のちに津島(石原)美知子が次のように書いています。
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 この家の間取りは八畳,三畳の二間,お勝手,物置。八畳間は西側が床の間と押入,隅に小さい炉が切ってあった。東側は二間ぜんぶガラス窓,その外に葡萄棚,ゆすら梅の木,玄関の前から枝折戸を押して入ると,ぬれ縁が窓の下と南側にL字型についている。この座敷の南東の空には御坂山脈の上に小さく富士山が見えた。
 太宰治は,毎日,午後3時ごろまで机に向かい,それから近くの喜久之湯に行く。その間に支度しておいて,夕方から飲みはじめ,夜9時ごろまでに,六,七合飲んで,ぶっ倒れて寝てしまうのである。
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 翌年1939年(昭和14年)9月,太宰治夫妻は,三鷹市に転居しましたから,この町には8か月間住んでいたことになります。その後,1945年(昭和20年)東京がしばしば空襲を受けるようになって妻・美智子さんの実家に疎開しますが,この地でも空襲を体験,太宰一家は,太宰の実家のある金木へ疎開しました。
 現在,津島美知子は,三鷹市の太宰治の墓の隣にある石原家の墓で眠っています。

 これで,奇しくも,私がかつて訪れた金木の疎開した家につながりました。
 甲府駅近くにあった石原家は,1945年(昭和20年)の空襲で全焼し,今はありません。
 太宰治僑居(きょうきょ=仮妻い)跡は,私が食べたおそば屋の近くに,その碑がありました。また,通ったという創業1934年(昭和9年)の喜久乃温泉は改築されましたが,道路を隔てたところに今も営業していました,
 寿館跡は,路地を入ったところにその面影だけが存在していましたが,その路地の先にある清運寺の,太宰治も踏みしめたという敷石は境内の藤棚の下に移されて,今もあります。
 なお,清運寺には,坂本龍馬の婚約者とされる千葉さな子さんの墓もありました。私は,坂本龍馬の馬はお龍さん(楢崎龍=ならさきりょう)だと思っていたので,???でしたが,調べてみると,次のようでした。
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 坂本龍馬がお龍さんと出会う以前に,千葉さな子(左奈,佐那)という婚約者がいました。千葉さな子は坂本龍馬が師事した北辰一刀流桶町千葉道場の創設者・千葉定吉の次女として1838年(天保9)年に誕生し,10代で北辰一刀流小太刀の免許皆伝となり長刀の師範でもあった女性でした。
 千葉さな子が剣術修行中の坂本龍馬と出会ったのは16歳のころで,婚約したのは1858年(安政5年)ということです。しかし,坂本龍馬は剣術修行を終えると故郷・土佐藩へ帰ってしまい,そのまま疎遠になってしまいました。
 1867年(慶応3年)11月15日,坂本龍馬は京都・近江屋で暗殺されてしまいました。その後も,千葉さな子は坂本龍馬のことを思い続け一生を独身で過ごしたと伝えられています。
 晩年,千葉さな子は千葉灸治院を開き生計を立てていましたが,そこへ通院していたの山梨の自由民権運動家である小田切謙明・豊次夫婦で,親交を重ねました。1896年(明治29年)千葉さな子は千住で亡くなり谷中谷中霊園に埋葬されましたが,無縁仏になるのを恐れた小田切豊次がこの地にお墓をつくったのではないかといわれます。
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各地を旅していると,日本各地で意外なことに遭遇し,ますます旅が楽しくなってきます。

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【Summary】
After walking from Kofu Station to Takeda Shrine, I explored historical landmarks along the way, including the Fujimura Memorial Museum and the Takeda Clan Historic Site Museum, which displays artifacts from the Sengoku period. At Takeda Shrine, dedicated to Takeda Shingen, I learned it has become a community hub, despite historical ambivalence about his legacy. On the return trip, I visited Takeda Shingen's cremation mound, a quiet spot with various locations attributed to his burial, reflecting the enduring legends around his death and burial.

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 再び甲府駅まで戻ってきました。次の目的地は甲府市の北側にある武田神社です。歩くと2キロメートルくらいで,バスがあるということでしたが,町の様子を知るにはできるだけ歩くほうがいいので,そうすることにしました。JRの線路を越えて甲府駅の北口まで来ると,変わった形の建物が見えました。興味をもったので行ってみると,そこは藤村(ふじむら)記念館でした。
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 藤村記念館は,1905年(明治8年)に現在の甲斐市亀沢に睦沢学校(むつざわがっこう)校舎として建てられたものです。1969年(昭和44年)から郷土の民俗,歴史,教育,考古資料の展示館となっていましたが,1990年(平成2年)に教育資料館に展示替えを行いました。さらに,2010年(平成22年)現在の甲府駅北口に移転し,交流ガイダンス施設として開館しました。
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 少しの時間,展示を見学しました。こうした明治時代の建物は日本の各地で保存されていますが,こうした建物を見ると,いつもこの時代の人々の矜持を感じます。

 さて,武田神社まで歩きます。
 戦国時代,この地を治めた武田家は,現在武田神社のある場所に躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を築造し,城下町の整備を行いました。歩くのは苦になりませんが,北に行くほど標高が高くなっていったことだけが誤算でした。
 途中に山梨大学がありました。甲府の町を見下ろすところで,いい環境だと思いました。
 30分ほど歩いて武田神社まで来ました。神社の手前にあったのが武田氏館跡歴史館でした。私は,武田神社よりもむしろこちらのほうが興味があったので,さっそく中に入りました。
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 武田氏館跡歴史館は,2019年(平成31年)に開館しました。武田氏の歴史や文化を学び活用しつつ,新たな賑わい創出の拠点となるよう図っていくことを目的としています。
 武田三代の歴史,城下町の構造や変遷,発掘調査による出土品で明らかになった歴史資料など,戦国時代の歴史や文化を中心に展示・紹介する特別展示室と,武田氏三代をはじめとする武田氏館跡に関連した人物の移り変わり,戦国時代に栄えた甲府盆地の様子などを展示,紹介する常設展示室で構成されています。
 また,昭和初期に建てられた近代和風建築の「旧堀田家住宅」と「堀田古城園」と名付けられた木戸門,主屋,長屋棟,離れ,茶室があります。
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 なぜか,この地に太宰治の名前が…。その理由はあとでわかります。

 武田氏館跡歴史館を出て,武田神社に行きました。
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 武田家滅亡後,躑躅ヶ崎館の跡は「古城」「御屋形跡」と呼称されている荒れた場所となっていましたが,明治期になると史跡保存運動が起き,古城地の公園化と「機山公霊社」を建設する運動となりました。幾三(きざん)とは武田信玄のことです。つまり,武田信玄を神格化しようというわけでした。しかし,武田信玄に対する評価がさまざまで,その機運は盛り上がりませんでした。
 1899年(明治32年)になると,信玄祭祀神社建設運動が再燃し,1919年(大正8年)に社殿が竣工しました。これが武田神社のはじまりです。
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 私は,武田信玄というのは郷土の誇りだとばかり思っていたのですが,歴史的には必ずしもそうでもなかったのです。しかし,現在,武田甚神社は,結婚式,お宮参り,七五三などで非常な賑わいをみせていて,甲府に住む人々のこころのよりどころとなっている場所だと感じました。
 境内には宝物殿がったので,入ってみました。太刀「吉岡一文字」や信玄公の軍扇,武田二十四将図などの武田家ゆかりの貴重な品々を見ることができました。

 甲府駅に戻る途中,武田信玄火葬塚があったので,寄ってみました。
 1572年(元亀3年)に天下をめざして西への侵攻を開始した武田信玄は,徳川家康の浜松城の防衛拠点である二俣城を落とし,三方ヶ原の戦いで家康を破り,三河へ進軍しましたが,野田城を包囲中の陣中で病に倒れ,甲斐へ撤退しました。甲府へ帰る途中,伊那谷で死去しました。
 甲府の土屋昌続邸に埋葬され,遺言により3年の間武田信玄の死は秘匿とされ,1576年(天正4年)に土屋昌続邸で荼毘に付された後,恵林寺で葬儀が行われ埋葬されたと伝えられます。武田信玄火葬塚はその場所にひっそりとありました。しかし,これは歴史の物語で,武田信玄火葬塚はそれ以外の場所にも多々あります。
 また,武田信玄火葬塚の近くには,武田家の滅亡後に織田信長が甲斐の地を与えた家臣の河尻秀隆の首塚もひっそりと存在していました。河尻秀隆は本能寺の変ののち,武田遺臣によって殺害されました。

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【Summary】
With a strong association of Kai with Takeda Shingen, I knew little about its later history. After the Takeda clan's fall in 1582, Kai changed hands under the Oda, Tokugawa, and Toyotomi clans, eventually becoming a Tokugawa shogunate domain. Today, Maizuru Castle Park preserves part of Kofu Castle, offering panoramic views of Kofu city and, on clear days, Mt. Fuji.

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 「甲斐=武田信玄」というイメージが先行し,その後の甲斐がどうなっていたのか,私は知りませんでした。そこで,今回,行ってみたのを機に,調べてみました。
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 現在の山梨県である甲斐は,戦国時代,武田家によって国内統一され,現在武田神社のある場所に躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)が築造され,館を中心とした城下町の整備が行われました。そして,武田信玄の時代に領国を拡大させ,甲府城下町も拡張しましたが,武田勝頼期が長篠の戦いでの大敗を契機として,1582年(天正10年)に織田・徳川連合軍の侵攻により滅亡しました。
 武田家の滅亡後,織田信長が家臣の河尻秀隆に甲斐を与えましたが,本能寺の変で織田信長が横死すると武田遺臣による一揆で河尻秀隆が殺害され無主状態に陥りました。
 やがて,徳川家康の支配となり,家臣の平岩親吉に命じて一条小山に甲府城を新たに普請させ,豊臣秀勝,加藤光泰,浅野長政・浅野幸長父子などの豊臣系大名が入国しました。
 関ヶ原の戦いの論功行賞で浅野幸長が紀州藩へ移封され,徳川家康の八男・徳川仙千代が入りましたが夭折,徳川家康の九男・徳川義直が入りました。徳川義直は尾張徳川家へ移封され,代わって徳川秀忠の三男・徳川忠長が甲府藩主となりましたが,素行の悪さから改易され,その後,甲斐は幕府直轄領となりました。
 1651年(慶安4年)に3代将軍徳川家光の三男・徳川綱重が甲斐を拝領し,甲府藩が成立しました。徳川綱重が死去したのち,長男の徳川綱豊が甲府藩の跡を継ぎました。 徳川綱豊が徳川家宣と改名して6代将軍となって江戸に移ったのち,側用人の柳沢吉保が入りました。 柳沢吉保の隠居後,長男の柳沢吉里が甲府藩主を継ぎました。
 1724年(享保9年)享保の改革の折り,柳沢吉里は大和の郡山藩に移封され,甲府藩は再び幕府直轄領化されました。
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 武田家の時代は躑躅ヶ崎館を中心とする武田城下町が造成されましたが,武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川氏や豊臣系大名は甲府城を築城して新たに甲府城下町が整備されました。天守台に天守が建てられていたかは不明です。
 明治時代,甲府城は県庁主導の殖産興業政策において建物などの破却が行われ,内堀が埋め立てられて官業施設化されたり,甲府駅の開業によって城跡が分断されたりしましたが,現在は,本丸・天守曲輪及び天守台・稲荷曲輪・鍛冶曲輪の石垣,堀の一部が残り,舞鶴城公園として,甲府城跡の一部が公園として開放されています。
 舞鶴城というのは白壁が重なり合うその優雅な姿から「鶴が羽根を広げたような城郭」という意味でよばれた甲府城の別名のひとつです。
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 舞鶴城跡の天守台はけっこうな高さでしたが,天守台に上ると甲府の街並みを一望することができました。晴れていれば富士山も望めるようですが,この日はあいにく雲に覆われていました。
 現在は,私が若いころのように,赤穂事件がドラマ化されることもほどんどなく,今の若い人は「忠臣蔵」などという言葉を知らないのでしょうが,もし,将来,また,この時代が大河ドラマにでもなったら,甲府市内に大河ドラマ館ができることになるのかな?

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【Summary】
On October 20, 2024, I checked out from Toyoko Inn and explored Kofu. After storing my luggage at Kofu Station, I visited the iconic Takeda Shingen statue. I walked through the shopping streets, which felt deserted yet showed signs of renewal. The district was extensive, hinting at its past prosperity. Moving further south, I came across an entertainment area, with nightlife establishments starting their day. Having explored Kofu’s shopping scene, I headed north to my next destination, Maizuru Castle Ruins.

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 2024年10月20日。東横インをチェックアウトして,甲府の町に出ました。まず,甲府駅に行って,荷物をコインロッカーに入れて,そのあと,観光案内所に行き,地図などをもらって,説明を受けました。
 甲府といえば甲府駅前にある武田信玄像(=信玄公像)です。そこで,まず,その像まで行って,写真をとりました。
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 信玄公像は、武田信玄公奉賛会が信玄公の遺徳をしのび,県内外の有志1,080人から集めた浄財で建設されました。1968年(昭和43年)に建設を開始し,翌年の信玄公の命日4月12日に完成しました。
 かつては甲府駅前の噴水の南側にありましたが甲府駅前広場の整備に伴い,現在の場所に移設されました。
 信玄公像は川中島の戦いの陣中における姿を模したもので,右手に軍配,左手には数珠を持ち,床几にどっかりと腰をおろしています。
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 甲府の市街地は駅から南に広がっています。私は甲府はさびれた街だという先入観をもってやってきたのですが,東横イン甲府駅南口1のある駅前は,まったくそんなことはありませんでした。さらに南に行くと,甲府城跡,別名舞鶴城跡がありました。私が昨晩宿泊した東横イン甲府駅南口2は舞鶴城跡の裏手でした。
 舞鶴城は武田信玄の時代の城ではなく,江戸時代の城,ということでした。
どうも,私には「甲府=武田信玄」というイメージが強すぎるので間違えたのですが,戦国時代の武田家は武田信玄の子・武田勝頼の時代に滅んでいて,江戸時代の甲府の町は武田家とは関係はありません。

 こうして,私は,甲府駅から,再び,昨晩宿泊した東横インまで戻ってきました。昨日は深夜だったのでよくわからなかったから,このあと,さびれた商店街を探訪します。
 朝早いからか,つねにそうなのか,商店街はシャッター街となっていたのですが,ところどころ,新しい店があったり,建築中の建物があったりしました。荒れるまま放置,ということではないようでした。
 日本各地の都会の商店街はどこもそんな感じでさびれているので,特に甲府の商店街がさびれている,という感じはもちませんでした。私の地元の近くの一宮市の商店街のほうがむしろさびれています。ただ,甲府の商店街,ものすごく広いのです。おそらく,昔はかなり栄えていたのでしょう。ということで,私は,破壊されたデトロイトのダウンタウンみたいなところだと期待? したのにもかかわらず,日本各地のどこにでもある商店街にすぎなかったので,変な意味で落胆しました。
 さらに商店街を南に向かって歩いていくと,今度は飲み屋街と風俗街になりました。日本の都会はどの町の同じようなものだなあ,と思いました。私が歩いている時間は午前8時30分過ぎでしたが,甲府の風俗店は午前9時開店という看板があったりして,ちょうど,働く女性が続々と出勤するところに出くわして,びっくりしました。
 私は,甲府の商店街がどんな様子なのか見る,という,わざわざ甲府市にやってきた目的を達成したのでこれで満足して,ここで,進路を北に変えました。次に目指すのは舞鶴城跡でした。

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【Summary】
On October 19, 2024, I opted to return from Tokyo via the Chuo Main Line to explore Kofu in Yamanashi, where I stayed overnight. I enjoyed traveling on the E353 series train, finding it sleek for a non-bullet train. Staying at Toyoko Inn Kofu Station South 1, I saw firsthand the quiet, aged shopping district I'd heard about.

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 2024年10月19日,NHK交響楽団の定期公演終了後,いつものように,そのまま東海道新幹線で名古屋まで帰ってもよかったのですが,このところ,東海道新幹線が事故や台風で不通になったことが度重なって,そのとき,中央線経由で迂回できる,といったことが知られるようになり…,というような理由で,今回,興味本位で,中央本線,中央西線と回って帰ることにしました。
 そんなことを考えたのは,私は,これまで,山梨県の甲府市に行ったことがなく,何でも噂では甲府市の商店街がさびれたと聞いていたので,これもまた,興味本位でそれを見てみたかったということもありました。
 まず,10月19日は,午後10時新宿駅発の中央線の特急「かいじ」で甲府駅まで行って,甲府前の東横インに宿泊することにしました。特急「かいじ」の車両はE353系というものでした。
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 E353系は,JR東日本の直流特急形電車です。
 1993年(平成5年)から中央本線の特急「スーパーあずさ」に使用されていたE351系の老朽化と,2001年(平成13年)から中央本線の特急「あずさ」「かいじ」を中心に使用されていたE257系0番台の老朽化で置き換えられた185系からの転用のために2014年(平成26年)に新造が発表され,2017年(平成29年)から営業運転を開始した新型車両です。
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 私は鉄道ファンではないのですが,このところ,日本国内を鉄道で旅するようになって,興味が出てきたのです。それまで私が鉄道で知っていたのは,国鉄時代の,ほぼ日本中どこも変わらない列車だったのですが,今は,日本各地でさまざまな列車が走っているので,おもしろいです。
 E353系は,在来線の特急とは思えないあか抜けた車両でした。
 現在,日本各地で新幹線が走るようになったことで,これまでの在来線との整合性などでさまざまな問題が起きています。私は,すでに書いたように,北海道新幹線は函館駅を終点として,北海道内は在来線特急でいい,北陸新幹線は金沢駅を終点として,その先は,大阪駅までは特急「サンダーバード」,名古屋駅までは特急「しらさぎ」でいい,秋田新幹線と山形新幹線は不要で,盛岡駅からと福島駅から在来線特急をはしらせればいい,と思っています。
 実際に利用してみると,私が思っていたことで何の問題もないように感じます。
 私には,新幹線よりも,むしろ,今回利用したような中央本線の「かいじ」「あずさ」や,先日立山黒部アルペンルートに行ったときに利用した高山線の特急「ひだ」,また,紀伊半島を1周したときに乗った特急「南紀」「くろしお」はとても楽しいものでした。

 深夜12時近くに甲府駅に到着しました。
 この日宿泊するのは東横インで,駅からその建物がそびえているのが見えました。しかし,それは私が宿泊する東横インではありませんでした。甲府駅前の東横インには,甲府駅南口1と甲府駅南口2のふたつがあって,私の予約したのは甲府駅南口1だったのです。甲府駅南口2のほうが駅に近く,甲府駅南口1は10分以上も歩く必要があって,失敗したな,と思いました。
 しかし,私は甲府市の商店街がさびれたようすを見たいとしてやってきたわけですが,甲府駅南口1はまさに,そうした商店街の中にあったのでした。

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 念願の尾瀬を歩き終えて,尾瀬戸倉から沼田駅行きのバスに乗り,途中の中町で降りて,再び,ホテルサンルート沼田に戻ってきました。
 このホテルには,大浴場とレストランがあったので,これがとてもよかったです。
 まず,大浴場で体を休めて,そのあとで,ゆったりと夕食を楽しむことにしました。これこそが,海外旅行では味わうことができない日本の旅のよさです。こんな楽しみを覚えてしまうと,海外旅行をする気がなくなってしまいます。

 2024年6月8日。
 翌朝はホテルで朝食をとりました。朝食の時間は午前7時からでしたが,その5分前にはすでに数人が列を作っていました。広い食堂でしたが,私が食べ終わるころには列はすごい長さになっていました。東横インもそうですが,朝食の無料バイキングというのはよし悪しです。朝から憂鬱になります。
 朝食後チェックアウトして,沼田駅に向かいました。ホテルのある市街地から沼田駅までは下り坂なので楽です。来たときは,失敗した,この先どうなるかと心配でしたが,結局,沼田駅から坂を上ったのは着いたときだけでした。状況がわかったので,次回尾瀬に来ることがあれば,また,同じホテルに泊まるかもしれません。あるいは,沼田駅から尾瀬戸倉の間には,老神温泉(おいがみおんせん),片品温泉(かたしなおんせん)があるし,戸倉にも旅館があるので,もし,そうした場所の旅館が安価ならばそこに宿泊するという方法もありますが,さほど時間は違いません。
 この日は土曜日。私が沼田駅に着くと,昨日私が尾瀬戸倉まで乗ったバスにのるために多くの観光客が並んでいました。旅は,週末にするものではないなあと思いました。
 私は,沼田駅から高崎駅まで行き,そこで,上越新幹線に乗り換えて,東京へ向かい,東京でNHK交響楽団の定期公演を聴いたのち,帰宅します。NHK交響楽団の定期公演のことはすでに書きました。

 高崎駅は,上越新幹線と北陸新幹線が合流する駅です。上越新幹線には,新潟駅始発の「とき」と,途中の越後湯沢駅始発の「たにがわ」があります。また,北陸新幹線には,敦賀駅始発の「かがやき」「はくたか」と,途中の長野駅始発の「あさま」がありますが,「かがやき」は高崎駅は通過します。
 東海道新幹線には「のぞみ」「ひかり」「こだま」があって,私にはその区別がつくのですが,上越新幹線と北陸新幹線のことはなじみがないのでその区別がわかりません。そこで,ほとんどの駅を通過する列車なのか,たくさん停車駅がある列車かを区別するために「LEVEL1」「LEVEL2」とか,「Grade1」「Grade2」,もっと単純に(新幹線の)「特急」「急行」いった名称を通称のあとにつければいいのに,と思います。たとえば「-LRVEL1ーとき」「-LRVEL2ーたにがわ」とか「特急とき」「急行たにがわ」といった感じです。
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 私は,高崎駅午前10時39分発東京駅午前11時28分着の「とき」314号の座席指定券をもっていたから,列車が来るまでずいぶん時間がありました。早い列車に座席指定を変更すればよかったのですが,めんどうだったので,そのまま待ちました。しかし,それまでに,いくらでもがらがらの列車が来て自由席に座ることができたのに,新潟駅からやってきた「とき」はすごく混んでいました。高崎駅から「とき」に乗るのは最悪の選択でした。実際は,座席指定券など購入せず,自由席でよかったのです。いい経験になりました。

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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 実際に歩いてみて,ようやく尾瀬というところがわかった私でした。
 何の準備もなくやってきたので,今回はこれで帰ることにしました。危惧していたのとは違って,尾瀬は人だらけではありませんでしたが,午後になって,次第に人が増えてきました。平日の午前中にやってきたのが正解だったようです。
 まず,竜宮十字路から山ノ鼻まで戻りました。至仏山の裾が鼻のように突き出ているところから名づけられた山ノ鼻には,レストランがあったので,ここでおそばを食べました。
 来たときは,何も知らなかったので,期待に胸を膨らませて坂道を下りましたが,帰りが大変です。山ノ鼻から鳩待峠まで,5キロメートル以上の距離,標高200メートルほど坂を上らないといけません。尾瀬ヶ原の雄大な景色を見るには,誰しも,この試練を乗り越える必要があるのです。

 私は,急ぐ旅でもないので,ゆっくりと歩いていましたが,周りでは,難儀をしている初老の女性たちが大勢いました。団体ツアーで観光バスに乗って尾瀬戸倉まで来るのは簡単ですが,その先は誰しも自力で行くしかないのです。
 次第に空が暗くなってきて,やがて小雨が降ってきました。
 朝方はとてもよい天気だったので,山ノ鼻の案内所で,午後は雷雨になるかもしれない,と聞いたときは,まさか,と思いましたが,その通りになってきました。
 私の持っていた傘が役立ちました。山ノ鼻から鳩待峠までは,坂とはいえ,登山ではないから,傘をさして歩けないほどではないのです。傘を持たず,ビニール製のカッパを持っていた人が多くいたのですが,それを着たら暑くて歩けないのです。この人たちは,雑誌にのっているような服装をして,重い荷物を背負っていても,肝心なものを持参していないわけです。
  ・・・・・・
 快適な登山にするためにはレインウェア選びが大事です。登山用のレインウェアは「防水性」だけ優れているわけではなく,運動をするときと同じように長時間の登山はたくさんの汗をかくので,【安価で販売されているビニールカッパなどは「防水性」は優れていますが汗を発散させる「透湿性」が備わっていないから,汗を外部に放出できず衣服の中がムレ,汗だくの状況で登山することになると大変危険なのです】。
 そこで,登山では,「防水性」はもちろんですが高性能な「透湿性」も兼ね備えた「ゴアテックス」素材のレインウェアを選ぶことが大切です。
  ・・・・・・
ということなのです。

 私は,何とか,小降りのうちに鳩待峠まで着くことができました。ちょうど出発時間だったので停まっていたシャトルバスに乗りこんで,尾瀬戸倉のバス停で降りました。ここでバスを乗り換えて,沼田市内まで戻ります。時刻は,まだ午後2時くらいでした。
 バスを待っていると,朝出会ったスペインから来た女性がやってきて,再び合流しました。彼女は私が乗ってきた次のシャトルバスに乗ってきたようです。そのころ,尾瀬の方向を見ると,真っ黒な雲が立ち込めて雷音がたなびきはじめました。午後に尾瀬を歩きはじめた人たちは,今ごろどうなっているのだろう? と心配になりました。大平原では逃げ場がありません。ここでもまた,強運な私は,事なきを得たのです。
 やがてバスが来ました。
 沼田駅に行く途中で,スペインから来た女性とはお別れをして,私は,沼田駅の3つ手前の中町バス停で降りました。いくらいい加減な私でも,このころには,ここで降りればいいということは調べがついていました。中町のバス停からはホテルルートイン沼田はわずかな距離で,ここで降りれば,沼田駅まで行って坂道を登らなくてもすむのです。中町で降りたときは,雨は降っていませんでした。どうやら,尾瀬のあたりだけの雷雨だったようでした。
 こうして,私のはじめての尾瀬歩きが終わりました。次回があるなら,今度は,会津口から尾瀬沼を目指したいものだと思いました。

 ここからは余談になります。
 こうした山歩きで不安になるのはトイレです。
 アメリカでは,こうした山歩きやキャンプ場では,水洗トレイはありませんが,どこもとてもキレイでした。清潔さを保つための特別な薬品があるようでした。それに対して,従来,日本では,登山やキャンプ場では,利用する気にならないような,悪臭漂う不衛生なものが多かったから,尾瀬でもそれが心配でした。しかし,尾瀬では,有料でしたが,どのトイレも水洗でとてもきれいでした。こうしたことだけでも,尾瀬を大切にしている多くの人がいるのだと感謝しました。
 それにしても,日本は,何事も,やらないところは徹底的にひどく,やるとなると,今度は,行き過ぎるくらいにやる国だと,いつも思います。

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 分岐がありました。私は,ここが竜宮十字路だと思いましたが,実際は,その手前の牛首分岐でした。牛首分岐から,ほとんどの人は竜宮十字路に向かって歩いていきます。私もその予定でしたが,地図で確認すると,ここから左手に行くと,ヨッピ吊橋へ至り,そこから竜宮十字路に行くことができるのを知りました。ちょうど直角三角形のような感じです。
 直接竜宮十字路へ行けば約40分,ヨッピ吊橋を経由すると約80分です。迷ったのですが,せっかく来たのだからと,ヨッピ吊橋を経由することにしました。
 思ったより遠く,次第にめげてきたころに,やっとヨッピ吊橋に到着しました。ヨッピ吊橋は思っていたような,山の中のつり橋ではなく,鉄製のどおってことない橋だったので,がっかりしました。何せ,私は,つい1週間ほど前に,奥大井のこわ~いつり橋をふたつも渡ってきたところだったのですから。

 ヨッピ吊橋からさらに東に進むと,東電分岐に至り,その先には平滑ノ滝があり…,というように,尾瀬はどんどんと深みにはまっていきます。こうなると,果てしがありませんが,これこそが尾瀬の魅力なのでしょう。山登りも,上るときよりも,どこかで中断して引き返すことのほうが難しいといいます。
 私は,何の準備もなく時間も限られていたからそんな深みにははまらず,竜宮十字路へ向けて歩きはじめました。ヨッピ吊橋から竜宮十字路までは単調な道が続いていました。竜宮十字路では,多くのがお昼を食べていました。
 私の歩いたような初心者向けの半日コースでは,このあたりでお昼を食べて帰る,というのが楽しみだったのです。もちろん? 私は,お昼ご飯など持っていませんでした。竜宮十字路から少し行ったところに竜宮小屋があって,そこで昼食がとれるようでしたが,ここでおなかをいっぱいにしてしまうと,歩くのが大変になりそうだったので,やめました。
 それにしても,こうした山小屋に物を運ぶのは大変そうです。尾瀬ヶ原を歩いていたときも,背中に20キログラム以上の荷物を担いだ人とすれ違いました。

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 私は,この時点でも,まだ,尾瀬というところがよくわかっていませんでした。よく写真で見る尾瀬のミズバショウ咲く大平原は,いい加減な私には縁遠く,今回ちょっと歩いたくらいでは見ることはできないだろう。だから,尾瀬というところがどこにあって,どのくらいの人が来ているのか,ということがわかればいいや,と思っていました。そもそも,尾瀬を歩くような恰好をしてきたわけでもなく,持ち物といっても,帽子と財布と念のための傘と汗拭きタオルが入ったナップザックを背負っているだけでした。
 私は,バスで知り合ったスペインから来たという女性と,山ノ鼻まで,何となく一緒に歩いてきました。山ノ鼻に案内所があったので中に入って,まず地図をもらい,半日くらいで歩けるコースを聞きました。驚くことに,私がイメージしていたミズバショウ咲く尾瀬の大平原は,もうこのあたりから少し歩くだけで見られるとのこと,そして,そのあとはずっと同じような景色が続くだけだから,適当なところまで行って帰ってくればいいと言われました。さらに,午後は雷雨になるかもしれないという話を聞き,これには驚きました。

 こうしたことを伝えて,スペインから来たという女性とはここで別行動をとることにしました。彼女のほうが若いし,わたしよりずっとたくさん歩くつもりだったからです。私は,適当なところまで行って引き返すことにしました。
 こうして,尾瀬を歩くことになって,帰ってから改めて調べてみると,尾瀬は,西側の尾瀬ヶ原と東側の尾瀬沼があって,その周りを山が囲んでいる場所だということがわかりました。そして,初心者が歩くには次のふたつのコースがあるのでした。
①沼田口から来て尾瀬ヶ原を歩くコース
 これは私が今回歩いたコースで,ミズバショウ咲く尾瀬というのは,この場所のことでした。そして,まさに今がハイシーズンだったので,初心者が尾瀬を歩くにはもっとも的確なコースでした。
②会津口から入って尾瀬沼を歩くコース
 もうひとつがこのコースで,①のコースより若干きついようです。こちらは,ミズバショウではなくニッコウキスゲの花が咲くところで,シーズンは7月中ごろ,ということです。

 案内所でもらった地図に従って,山ノ鼻から歩きはじめました。山ノ鼻からはずっと平原で,どれだけでも歩けるように思いました。
 山ノ鼻から竜宮十字路まで約4,200メートル,1時間30分ほどということだったので,そこまで歩いて引き返すことにしました。
 すばらしい風景でした。アメリカの国立公園のような,日本にこんな広大ですばらしいところがあるのも驚きでした。ちょうどミズバショウが咲いていたことで,感動はさらに増しました。私がこの時期にやってきたのは,ミズバショウが咲いているから,ではなく,そんなことは全く知らず単なる偶然なのでした。また,ミズバショウ以外にも,小さな黄色いリュウキンカをはじめとして,ヒメシャクナゲ,ミツガシワなど多くの花々を見ることができました。幸い,条件がよければ燧ケ岳(ひうちがたけ)がきれいに池に映って見えるという「逆さ燧」(さかさひうち)も見ることができました。
 それにしても,開発という名目で自然破壊が大好きな日本人なのに,よくぞこれだけの湿原を残してくれたものだと感謝しましたが,これには,平野長蔵さん,平野長英さん,平野長靖さんといった平野家三代をはじめとする先人たちの偉大な努力があったからこそ,ということを知りました。
 歩きはじめて約40分で途中の牛首分岐というところに着きました。

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 沼田駅から尾瀬戸倉までバスで1時間23分もかかり,到着は午前8時43分でした。
 途中で,外国人の女性が乗り込んできました。そのまえに,バスには沼田市内から再び高校生が乗り込んできていて,やっとふたりが座れる狭いふたり掛けの席はそれぞれひとりずつが座っていて満員でした。一番後ろの席に座っていた私の横だけが空いていたので,彼女はそこに座りました。しばらくして,片言の日本語で,「このバスは尾瀬戸倉に行きますか」と聞いてきました。日本語で答えてわからないと面倒だったので,英語で答えると,彼女は安心したように英語で話しかけてきて,打ち解けました。彼女が話しかけてきたのが私で幸運だったと思いました。彼女は,スペインからひとり旅で日本にやってきて,各地を回っているのだそうだそうです。
 沼田市内から乗り込んだ高校生たちはいったいどこの高校に行くのだろうとずっと思っていたのですが,一向に降りる気配がありませんでした。バスは次第に山の中に入っていきます。どうして都会からこんな辺鄙な学校に通っているのか不思議でした。
 高校生たちが降りたのは,乗車して40分くらいして到着した尾瀬高校でした。あえて尾瀬高校を選ぶ理由があるのでしょうか。

 高校生たちが降りてしまうと,乗客は,私と,同じく沼田駅で乗った尾瀬へ行くと思われる若者と,スペインから来た女性の3人になりました。
 尾瀬戸倉に着きました。降りたのは,私とスペインから来た女性のふたりでした。若者は,大清水まで行くようでした。
 尾瀬の入り口は,南側の沼田口,東側の会津口,北側の越後口とあります。このうち,沼田口から尾瀬に行くには,私のように,尾瀬戸倉で降りてシャトルバスに乗り換えて鳩待峠まで行きそこから歩くか,大清水で降りてそこから歩くか,の2通りになります。鳩待峠からコースがもっとも初心者向けで,大清水からのコースはかなりきつい上り坂となります。
 さて,尾瀬戸倉で降りたことはいいのですが,そこから出るシャトルバスの乗り場がわかりません。乗ってきたバスの運転手に聞くと,橋を渡った先だと教えてくれました。もし,私がいなかったら,スペインから来た女性はここで困ったことでしょう。
 尾瀬は,マイカー規制があって,自家用車で来ても尾瀬戸倉から先は行くことができません。そこで,私と同じように,尾瀬戸倉からはシャトルバスを利用することになります。観光バスで来ても同様です。そこで,尾瀬戸倉には広い駐車場があります。また,新宿から尾瀬戸倉まで直行するバスもあるようです。
 シャトルバスは,一応,時刻表がありますが,人が集まり次第バスが出るようで,さほど待ち時間もなく乗ることができました。シャトルバスに揺られて約30分,やっと,鳩待峠に着きました。

 少し歩いたところに鳩待峠休憩所があって,そこが尾瀬の入口でした。
 多くの人が,雑誌に出てくるような恰好をして,屈伸運動をしたりして,これから歩く準備をしていました。そのほとんどは,私くらいの年齢の人たちでした。私は,とても山歩きだとは思えない普段通りの恰好をしていました。旅の荷物は当然ホテルに置いてきたから,この日は,カメラを肩にかけ,スマホをズボンのポケットに入れ,小さなナップザックに帽子と財布と念のための傘と汗拭きタオルが入っているだけでした。山登りをする上級者は別として,たかが尾瀬歩き。みなさん,なんと大げさな,と思いました。スポーツジムも自然散策も格好から入るのですな。家の近くでもこんな格好をして散歩してる人を見かけます。
 まず,山ノ鼻というところまで約1時間,3キロメートルほどの山道を,標高1,591メートルから1,400メートルまで,標高差約200メートルほど下ります。下りなので楽でした。しかし,歩きながら,帰りはこれを登ることになるのだ,ということに気づき,ゾッとしました。
 だれしも,尾瀬といえば,広々とした湿原に木でできた歩道が続き,ミズバショウが咲いている景色を思い浮かべることでしょう。私も,そんな景色見たさに尾瀬に来たわけですが,しかし,そんな景色はどこにもありません。単に山道が続いているだけでした。やがてミズバショウが咲いている場所に来て,少しは尾瀬を感じはじめたころ,山ノ鼻に到着しました。そこには,ロッジやレストラン,観光案内所があって,多くの人でにぎわっていましたが,私が想像していたあこがれの尾瀬の景色は果たしてどこにあるのだろうか?

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 沼田駅からえらく苦労してやっと到着したホテルルートイン沼田でした。バイキング形式の朝食がついていたのですが,翌日は出発が早いので,せっかくの朝食を取ることができないから,まず,ホテルの近くにあったコンビニで朝食を買ってから,ホテルにチェックインしました。
 このホテルは,東横インとは比べるべくもないデラックスなホテルでした。ホテルにはレストランもあって,夕食もとれます。また,大浴場もついていました。チェックイン後,まず大浴場に行って,汗を流して,早々に寝ました。

 2024年6月7日。
 尾瀬に行くためには,まず,坂を下って沼田駅まで行って,午前7時20分のバスに乗ることになります。実は,私の乗る沼田駅発のバスは,私が昨日歩いてきた坂を上り,沼田市街を抜けていくのでした。つまり,沼田駅まで行かずとも,ホテルに近い中町というバス停で待っていればよかったのです。
 私は,昨日,チェックインするときに,ホテルのフロントで最寄りのバス停を聞いたのです。しかし,フロントにいた女性は,何も知らず,尾瀬に行くバスに乗るには沼田駅へ行けというだけでした。ホテルルートイン沼田,ホテルは立派でもフロント係は失格でした。
 さて,私は,早朝,大浴場に入ってから,部屋で買っておいた朝食を取り,朝6時過ぎにホテルを出ました。せっかく来たので,沼田駅に行くまえに,少しだけ,沼田市街を散策することにしたのです。

 沼田市は中心にあった沼田城跡が広い公園になっていました。
  ・・・・・・
 さかのぼること約400年,名だたる戦国武将が争奪戦を繰り広げた沼田を治めたのが真田氏でした。市内には至るところに真田時代の痕跡が今でも数多く残っています。
 沼田城は,1532年(天文元年)に沼田万鬼斎顕泰(ぬまたばんきさいあきやす)が3年の年月をかけ築城しました。その後,真田昌幸が入城し,1590年(天正18年)に真田昌幸の嫡子真田信之が城主となり,5代91年間の真田氏の居城となりました。また,1597年(慶長2年)には五層の天守が建造されました。
 1681年(天和元年)5代城主真田信利が江戸幕府に領地を没収され,翌年,幕府の命により完全に破却され,その後再建はされませんでした。
  ・・・・・・
 沼田というのは,何とまあ味わい深いところだなあ,と思いました。
 もっと見たかったのですが,今回は沼田市の観光に来たのではないから,このくらいにしました。

 さて,昨日は,車道に沿ってかなり遠回りをして登ってきましたが,調べてみたところ,歩行者だけが通ることができる階段やら狭い坂道があることがわかったので,さほど時間をかけずとも,沼田駅に到着できました。しかし,この狭い坂道と階段,下るのは楽でも登るのはたいへんです。
 私が沼田駅に着いたとき,尾瀬に行くらしい身なりの若者がひとりバスを待っていました。バスに乗るのはその人と私のふたりくらかな,と思ったのですが,さにあらず。この日は平日。ちょうど通勤通学まっさかりで,列車が着くたびに,乗り降りする学生や通勤客でごった返して,バス停にも高校生の列ができました。
 やがてバスが来ました。バスの行先は大清水で,私の目的地は,そのひとつ前の尾瀬戸倉です。バスは,多くの高校生でいっぱいになりましたが,そのほとんどは,途中の沼田高校というバス停でで降りていき,そのあとは,数人の乗客だけが残りました。尾瀬の沼田口からのアクセスルートはこのバス一択なのに,これでは,尾瀬は私が懸念していたほど人混みではないのかな,と安心しました。しかし,それは,私が行ったのが金曜日だったから,ということが翌日判明しました。
 翌日の土曜日,私が尾瀬歩きを終えて,沼田駅から東京駅へ帰るために上越線に乗るとき,けっこうな人が駅で尾瀬に行くバスを待っている姿を目撃したのです。

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 高崎駅ではさほど待ち時間もなく,午後6時57分発の上越線に乗って午後7時47分に沼田駅に着きました。沼田市ははじめて行きましたが,一見,以前行った会津若松駅や会津田島駅のような感じでしたが,沼田駅は,会津若松駅や会津田島駅とはどこか違っていました。駅前だというのに商店街もなく,一体,繁華街はどこ? という感じだったのです。駅弁を食べておいてよかったと思いました。
 駅の真正面に小高い山があって,どうやらそこが沼田城のようでした。私が予約をしておいたホテルルートイン沼田は,地図で見る限りは,沼田城の近くで駅からさほど遠いところではないと思っていたのに,まったく見当たりません。
 私は,旅に出るとき,2食つきの小さな温泉宿に泊まるか,さもなければ,東横インに泊まるか,と決めています。東横インは,いろいろと不満はありますが,安価で駅から近いところにあるからです。しかし,沼田市には東横インがなく,唯一見つけたシティーホテルがホテルルートイン沼田だったのです。

 私は,とんでもないことに気づきました。それは,ホテルルートイン沼田は,あの小高い山の向こうではなかろうか,ということでした。いくら旅の荷物が少ない私としても,2泊分の着替えを入れたリュックサックを背負っていました。この小高い山を越えるのか,そして,毎日,駅まで往復するのか,と思ったら,気が滅入りました。失敗したな,と思いました。
 あとで,徒歩の場合は小高い山を越えるための階段や歩道があったのを知ったのですが,このときはそんなこともわからなかったから,車道をぐるりと遠回りすることになってしまいました。
 沼田駅を出発して,20分は歩いただろうか。汗まみれになりながら,やっと小高い山を越えました。すると,沼田市の繁華街が広がっていました。そして,そこにホテルルートイン沼田が存在しました。
 そうです。沼田という町の繁華街は,沼田駅付近ではなく,小高い山の向こうだったのです。しかし,私が事前に調べておいたGoogleMapsでは,そんなことはわかりません。帰宅してからストリートビューを見て,やっとその事実がわかりました。なんというおかしな町なのでしょう! この時点では,沼田「なんて」2度と来るものかと思いました。これでは,尾瀬を歩く前にくたばってしまいます。しかし…。

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 2024年6月7日,ついに尾瀬を歩きました。
 以前から,一度尾瀬に行きたいと思っていたのですが,ずっとその機会がありませんでした。6月8日の夜,NHK交響楽団の定期公演があったので,その機会を利用して,尾瀬に行ってみることにしました。

 2024年6月6日。
 午前中は用事があったので,それを済ませて,午後に家を出て尾瀬に向かい,翌日6月7日の朝から1日尾瀬を散策して,6月8日に東京へ行くことにしました。
 とはいえ,どのように行けばいいのか見当がつかず,また,尾瀬付近に適当な宿泊場所がなかなか見つからず,尾瀬を歩くには,尾瀬の山小屋に宿泊するのがいいと書かれてあっても,行ったこともないので,さすがにその勇気が起きず,と困り果てていました。
 今となっては,どうして沼田市に宿泊しようということにしたのかは思い出せないのですが,沼田市というところに,ホテルルートイン沼田を見つけ,沼田駅前から尾瀬の沼田口へアクセスできる尾瀬戸倉まで行くバスがあることがわかったので,東京駅経由で上越新幹線の高崎駅まで行って,そこから在来線に乗り換えて沼田駅へ,そして,6月6日と6月7日ホテルルートイン沼田に2泊し,6月8日に逆コースで東京へ行く,ということにしたのでした。

 さすがに何も調べずに行くのは無謀だと思ったので,事前に「るるぶ情報版・尾瀬」というガイドブックを買ったのですが,本で見るだけでは,1日で広い尾瀬のどこまで歩けるのか,険しいのか,どういう服装ならいいのか,などなど,わからないことだらけでした。そこで,とにかく,今回はお試しということで,細かいことは調べずに出かけることにしました。一度行けば,本など読むより多くのことがわかるに違いありません。とはいえ,すべては天候次第でした。ところが,そのころはまったく気づいていなかったのですが,私が尾瀬に行こうと思っていたときは,尾瀬にミズバショウが咲き乱れるハイシーズンだったのです! 何という幸運,だったことには違いないのでしょうが,すごい人だという風のうわさ…。人混みの嫌いな私は,楽しみを越えて憂鬱になってきました。
 ということで,テンションも上がりませんでしたが,ともかく,尾瀬に出かける日を迎えました。心配だった天気は,幸い,予報では晴れ! ということでした。名古屋駅午後2時43分発の「ひかり」510号に乗って東京駅午後4時42分着。「のぞみ」に乗らず「ひかり」に乗るのは,ジパング倶楽部を利用しているからです。東京駅のホームで駅弁を買って,事前に調べてあった午後5時52分発高崎駅午後6時49分着の「たにがわ」405号に乗りました。「たにがわ」405号はすべて自由席ということでしたが,車内は空いていました。おいしく駅弁を食べているうちに高崎駅に到着しました。

 私は,東京駅から先のことがよくわかっていなかったのですが,北海道新幹線,東北新幹線,秋田新幹線,山形新幹線,上越新幹線,そして,北陸新幹線,そのすべては,東京駅から出発して,途中の大宮駅で北海道新幹線,東北新幹線,秋田新幹線,山形新幹線と上越新幹線,北陸新幹線が別れ,さらに,高崎駅で上越新幹線と北陸新幹線が別れるわけです。そこで,高崎駅まで行くには,上越新幹線と北陸新幹線のどの列車でも,高崎駅を通過するものでなく自由席があるものなら乗ればよかったのです。そんなことすら知らないものだから,ホームで,何度かの新幹線を見送って,私が乗ることに決めていた「たにがわ」405号を待っていたのでした。アホですな。

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 日光橋から東南東へ,国道119号線に沿って歩いていくと,東武日光駅に戻ることができます。20分ほどかかりますが,ずっと下り道なので楽です。道路は,はじめの3分の1程度は工事中でした。完成すれば,東武日光駅から日光橋まで,美しい街並みができあがることでしょう。
 予定よりも早く日光観光を終えたので,時間がありました。来るときはわき目も振らず日光橋まで行って,どこも見なかったので,のんびり散策することにしました。

 まず,右手に見えた美しい建物は,旧日光市庁舎本館でした。訪日外国人旅行者を対象としたホテルとして大正時代に建築されたものですが,ホテルとして営業したことはなく,寮や市役所として利用されたそうです。現在は,建物の周辺は公園として整備され,2022年(令和4年)に旧日光市役所記念公園の名称で開園しました。耐震基準を満たさないため,建物の内部に入ることはできません。
 さらに進んでいくと,日光郷土センターがありました。ここには,観光案内所,江戸時代に作られたとされる弥生祭本家体,日光彫,日光下駄などの伝統工芸品を紹介するコーナー,日光の歴史を紹介するコーナーなどがあって,観光客が立ち寄ることができるのですが,一見,敷居が高そうで,あまり活用されていない状況でした。私は,駐車場に停まっていたキッチンカーでフルーツを買って,日光郷土センターの休憩所で食べました。
 さらに歩いていくと,仁右衛門という変わった名前の陶芸店に併設されたカフェを見つけたので,アイスコーヒーを飲みなら休憩しました。この店に「1,000円札が不足しています」と書かれてあったので,その理由を聞くと,手数料が高いのでクレジット払いはやっていないので,現金が必要だけれど,外国人観光客がATMでお金をおろすと10,000円札と2,000円札!ばかり出てくるので,おつりに大量の1,000円札が要る,という話でした。

 やがて,東武日光駅に着きました。
 まだ時間が早かったので,そこから歩いて,JR日光駅まで行ってみました。JR日光駅は,明治のロマネスクの香りを残す駅舎でした。1890年(明治23年)開業の木造建築の駅で,夜になるとライトアップによって,白亜の駅舎が幻想的な姿で浮かび上がるそうです。
 待合室にはたくさんの外国人観光客が列車を待っていました。東京から日光までは,私のように,東武浅草駅から特急に乗って東武日光駅に行くのが所要時間も51分でもっとも簡単ですが,東京駅から東北新幹線で宇都宮駅まで行き,JR日光線でJR日光駅まで行くと約1時間50分,また,安価で行くなら,東京駅からJR宇都宮線で栗橋駅で乗り換え,東武日光線で東武日光駅に行く約3時間コースもあります。多くの外国人がJR日光駅で列車を待っているのは,おそらく,JAPAN RAIL PASSを使うからだと思われます。


 JR日光駅から東武日光駅の間には松並木があります。そこを歩いて,東武日光駅に戻りました。
 もともとは,午後5時24分東武日光駅発の「リバティけごん」44号で帰る予定でしたが,時間が早かったので,午後4時22分東武日光駅発の「リバティけごん」40号に変更しました。簡単に変更できたのですが,その後,予約をした乗客が多かったらしく,出発時点では,満席でした。
 列車の中で食べようと,東武日光駅の売店で「宮の釜めし」という駅弁を購入しました。駅弁には「宇都宮・駅弁発祥の地」とありました。
  ・・・・・・
 日本初の駅弁として定説となっているのは,1885年(明治18年)7月16日,日本鉄道から依頼を受けて「白木屋」という旅館が販売した駅弁です。この日に開業した日本鉄道宇都宮駅で販売され「おにぎり2個,たくあん2切れ」を竹の皮に包んで5銭という内容でした。
  ・・・・・・ 
 そうそう,駅弁に気持ちがいってしまい,コインロッカーに預けてあった荷物を取ることを忘れていたことに,列車に乗る直前に気づきました。危うく大変なことになるところでした。

 北千住駅で降りて,地下鉄の千代田線に乗り換え,二重橋駅で降りて,東京駅からすでに購入してあった新幹線を変更して,予定より早く帰宅しました。
 北千住駅では,何と,東武電車と地下鉄の駅の間は改札口がなく,そのまま地下鉄のホームに出てしまい,「NIKKO MaaS」で旅をしていた私は戸惑いました。二重橋駅で地下鉄を出るときに有人の改札口だったので助かりましたが,無人だったら自動改札が出られませんでした。ICカード利用のときの利便性ばかりを追求し,駅の無人化を推進していますが,こうしたことまで考慮されていないことをいつも感じます。

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 私が行きたかったところはすべて見終えたので,昼食をとることにして,ちょうどいい場所に食事処があったので入りました。
 食事を終えて,まず,日光東照宮の宝物殿に行きました。
 日光東照宮の宝物館には,徳川家康の遺愛品をはじめとして,朝廷や将軍家や大名家からの奉納品,祭器具などを収蔵,展示公開していました。徳川家康着用の「南蛮胴具足」や名刀「勝光宗光」などの刀剣類,寛永の大造替に際して上棟祭に用いられた「大工道具及び箱」,「東照社縁起」,徳川家康の画像などを見ることができました。

 次に,日光山輪王寺へ行きました。
 日光山輪王寺は,勝道上人が四本龍寺を建てたのがはじまりです。天台宗総本山は比叡山延暦寺で,大本山は関山中尊寺,日光山輪王寺,東叡山寛永寺,定額山善光寺ということです。ここにある「三仏堂」は日光山最大の規模を誇る木造建造物で,千手観音,阿弥陀如来,馬頭観音という三体の巨大な金色の仏像が祀られていて,外国人観光客でごった返していました。
 また,日光随一の護摩祈願所として1998年に新築された大護摩堂があって,家内安全,身体健全,商売繁昌など現世利益を不動明王様の火炎によって祈願する護摩祈願が行われるところだったので,参列しました。護摩祈祷というのは密教の秘法で,火中に供物を投げ入れて供養し,その加護を願う儀式ということで,私は,はじめて見ました。
 護摩の焚き方は宗派や流派によってさまざまで,天台宗では,建立曼荼羅護摩儀軌(こんりゅうまんだらごまぎき),真言宗系では金剛頂瑜伽護摩儀軌(こんごうちょうゆがごまぎき)という仏様を供養する方法が書かれた本を基に行われるそうです。
 最後に,輪王寺の宝物殿と「逍遥園」という庭園に行きました。宝物殿では「家康公の遺宝と日光山」という展示が行われていました。おもしろかったのは,強飯式に関わる宝物でした。強飯式は,「日光責」の名で知られる全国でも稀な日光山を代表する古儀で,寺伝によると,山伏が入峰行(にゅうぶぎょう)の際,行場(ぎょうば)の本尊にお供えした御供(ごくう)をもち帰り,人々に与えたことがはじまりと云われています。
 また,「逍遥園」は江戸時代の日本庭園で,苔むした池泉回遊式の園内に,シャクナゲ,ツツジ,サツキなどが咲き,美しいところで,落ち着いたときを過ごすことができました。あれだけ人が混みあっていても,そのほとんどは団体客なので,こうした場所にはまず来ないのです。逆にいえば,団体ツアー旅行をしても,こうした場所には行くことができない,ということになります。

 これで帰ろうかと思ったとき,日光東照宮の五重塔が特別公開されていることを知って,戻りました。
 日光東照宮の五重塔は,酒井忠勝により1818年(文化15年)に建立されましたが,落雷のため一度焼失し,現在のものは,1818年(文政元年)に酒井忠進によって再建されたものです。高さは36メートルあります。
 日光東照宮の五重塔の特徴は,屋根からぶらぶらと吊るされている心柱です。この建築様式は東京スカイツリーでも採用されていて,その理由のひとつは,屋根は上から被せているだけなので屋根を固定するための重石がわりにしていること,ふたつ目は,地震が起きた際に,横揺れ,縦揺れを振り子のように揺れ,力を逃がす役割を果たしていることです。また,屋根は,屋根を支える柱の結合部分に杭や釘が使われおらず,上下の凹みに柱がはまり乗っているだけの作りになっていることで,地震が起きたとき,結合部分に柔軟性が生まれ,揺れの力を吸収するという仕組みになっています。
 一階部分の層には,東西南北の4つの面に,日光・富田宿の名工・後藤正秀が手掛けた「十二支の彫刻」があります。

 最後に,「神橋」を渡ることにしました。
 別名を山菅橋や山菅の蛇橋(じゃばし)という「神橋」は,二荒山神社の建造物で,日光山内の入り口にかかる木造朱塗りの美しい橋です。奈良時代の末に勝道上人が日光山を開く際,大谷川の急流に行く手を阻まれ神仏に加護を求めたところ,深沙王(じんじゃおう)が現れ,2匹の蛇を放ち,その背から山菅(やますげ)が生えて橋になったという伝説をもちます。
 現在のような朱塗りの橋になったのは1636年(寛永13年)の東照宮の大造替のときですが,1902年(明治35年)に洪水で流されてしまい,1904年(明治37年)に再建されたものです。日本三大奇橋のひとつで,夜間はライトアップを実施しているということです。

 こうして,私は,この日,日光2社1寺をすべて見て回ることができて,すっかり満足しました。

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 日光山輪王寺大猷院(たいゆういん)へ行こうと思ったのに,修学旅行生でごった返していたので,ひとまず二荒山神社に行きました。しばらく経って,空いただろうと思ったので,再び,日光山輪王寺大猷院へ向かいました。
 ちょうど修学旅行生が去ったところで,静寂に包まれていました。

  ・・・・・・
 大猷院は徳川家光の法号です。祖父である徳川家康を深く尊敬していた徳川家光は, 1651年(慶安4年)4月20日に若さで世を去りました。臨終に際して「死後も魂は日光山中に鎮まり東照公のお側近くに侍り仕えまつらん」と遺言,廟所は仏式で,荘厳は決して東照宮のそれを超えないようにと命じたと伝えられています。それに従って,4代将軍徳川家綱によって,この地に廟所が建造されました。
 建物は,本殿,相の間,拝殿に加え,壮麗な二天門,竜宮城を思わせる皇嘉門(こうかもん)からなります。また,大猷院の建物は日光東照宮の方角を向き,見守るように建っています。
  ・・・・・・
 徳川家光の墓所と宝塔は通常は非公開で,前回公開されたのは,350年目の命日である2000年だったそうで, 次の公開は400年目の命日である2050年になるそうです。今から26年先のことなので,私には,それを見ることは不可能です。
 これで,徳川将軍の墓所はすべて訪れることができましたが,徳川家光のものがもっとも豪華でした。

 大猷院の本殿,相の間,拝殿を見学することができました。
 ちょうど,説法が行われていて,龍神破魔矢(りゅうじんはまや)を勧めていました。私はテレビを見ないので知らないのですが,龍神破魔矢はテレビ番組で紹介して以来,入手困難なものとなっているそうです。
  ・・・・・・
 龍神破魔矢は,破魔矢発祥の烏摩勒伽(うまろきゃ)が持つ矢をかたどった物で, 昇り龍が彫刻してあり,一生まつれる破魔矢です。
 悪いものを祓い,願い事を叶える力があるといわれております。
  ・・・・・
という説明をしていました。
 大猷院には,日本でここにしか祀られていない東西南北を守護する阿跋摩羅(あばつまら),犍陀羅(けんだら),毘陀羅(びだら),烏摩勒伽(うまろきゃ)の四夜叉が鎮座しているそうです。
 私は,こうしたものには興味がないので,うまいこと商売しているなあ,と思っただけでしたが,人によっては,ありがたいものなのでしょう。

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 日光東照宮に徳川家康が祀られているのは知られていますが,3代将軍徳川家光の廟所が日光にあることは知らない人も多いと思われます。私も知りませんでした。そこで,今回,ぜひ行ってみようと思っていました。場所は,日光山輪王寺の離れにある日光山輪王寺大猷院(たいゆういん)です。
 日光東照宮の次に,そこへ向かいました。
 日光東照宮ではものすごい修学旅行生に迷惑をしていたのですが,さすがに,日光山輪王寺大猷院へは行かないと思っていたのが浅はかでした。ここもまた,大量の修学旅行生に占領されていました。もう少し後で行くことにして,その途中にあった二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)に寄ることにしました。
  ・・・・・・
 二荒山神社は式内社の論社,かつ名神大社(みょうじんたいしゃ)で,下野国の一宮です。
 律令の施行細則である延喜式によって官社に指定された神社の一覧(延喜式神名帳)に記載された神社を式内社といい,現在,それと同一もしくはその後裔と推定される神社のことを論社といいます。また,名神大社は,名神祭の対象となる神々を祀る神社のことで,ある神が名神と認められる条件は,官社に列し,大社に昇格している必要があるとされます。
 なお,下野国の二宮は不明です。
 日光三山を神体山として祀る神社で,男体山の山頂に奥宮(おくのみや),中禅寺湖のほとりに中宮祠(ちゅうぐうし),山内に本社がそれぞれ鎮座していて,境内は日光連山を含む3,400ヘクタールの広大な敷地で,神域には華厳滝やいろは坂も含まれます。
 神体とする男体山の古名が二荒山とされます。
  ・・・・・・

 祭神は大己貴(おおなむち),田心姫(たごりひめ),味耜高彦根(あじすきたかひこね)。大己貴は「日本書紀」に書かれた名で 「古事記」では大国主(おおくにぬし)。 田心姫は「日本書紀」に書かれた大己貴の妻で須佐之男の娘。味耜高彦根は「日本書紀」に書かれた子の名です。
 二荒山神社は,パワースポットとしても知られていて,二荒霊泉は日光二荒山神社の裏手にある恒霊山の洞窟の薬師の霊泉と日光二荒山神社の別宮である滝尾神社境内の酒の泉が流れ込んだ水で,飲むと眼病が治ったり若返ったりするといい伝えられているといいます。 さらに,縁結びのご利益でも有名で,滝尾神社の境内に生えている笹にお祈りをすると,恋愛だけでなく仕事や日常の人間関係でも良縁に恵まれるとされます。

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 まずは,日光東照宮です。
 私は,徳川家康が日光に葬られた以前,日光という地がどんな場所であったのか知りたかったので,まず,そこから調べてみました。
  ・・・・・・
●古代
 日光は,766年(天平神護2年)勝道(しょうどう)上人が男体山の登頂のために大谷川を渡って四本竜寺を創建したのがはじまりです。東の空に神々しい紫の雲が立ち昇るのをみて,この地に草庵を結び紫雲立寺と称したのが転じて「四本龍寺」となったといわれています。勝道上人が山頂を極めたのは16年後の782年(天応2年)でした。
 勝道上人は,男体山中腹の湖畔に神宮寺を創建し,のちに中禅寺として,山岳信仰の拠点となりました。
● 中世
 日光は,山岳信仰に神仏習合の信仰が加わって,二荒山(ふたあらやま=神が宿る山)と日光山(仏が護る山)の双方の名称を併用し,男体,女峰,太郎の三山にそれぞれ神(男体権現,女体権現,太郎権現)と仏(千手観音,阿弥陀如来,馬頭観音)が宿るという日光三所権現信仰が広まっていきました。さらに,関東における護(まもり)としての位置を築いていきました。
●近世
 1617年(元和3年),徳川家康の死後,その霊柩が久能山から日光へ移され,東照社が創建されたことで,日光は徳川家の霊地となりました。徳川家康の遺言を実行して日光に立派な社殿を造営し,東照大権現という神として祀った人物は南光坊天海です。1636年(寛永13年)3代将軍徳川家光の時代,「寛永の大造替」が行なわれ,豪華絢爛な社殿と結構美が整えられました。そして,日光山の最高責任者として法親王が迎えられるのが慣行となりこれが輪王宮として継承することとなりました。
●近代
 明治政府による神仏分離・廃仏毀釈によって,輪王寺宮は廃されましたが,保存運動もあって,一時は満願寺という寺号までまとめられた寺院組織は輪王寺の寺号が復活し,東照宮と二荒山神社の社格が定められ,2社1寺としてそれぞれ存立することになりました。
  ・・・・・・
 日本の多くの史跡は,第2次世界大戦で灰燼(かいじん)と化してしまいましたが,幸運にも日光がそれから守れられたことで,現在も当時の姿を見ることができます。

 私は,このところ,徳川将軍の霊廟のそのほとんどを見てきました。残るは,徳川家康と徳川家光ということも,今回日光を訪れた理由です。
 徳川家康の遺言によって,1周忌に2代将軍徳川秀忠によって造営されたのが日光東照宮の奥宮にある宝塔です。徳川家康の遺骸はこの中に葬られているとされます。宝塔は最初は木造,後に石造りになり,さらに1683年(天和3年)の大地震で破損したものを5代将軍徳川綱吉が現在の唐銅(からかね)製に造り変えたものです。私は,前回,日光に来たとき,ここを見逃したような気がしていたので,今回,長い険しい石段を歩いてやってきました。
 通説では,久能山から運ばれてきた家康の霊柩が日光に到着したとあり,徳川家康の遺体はこの地にあるとされます。しかし,それ以前,久能山に葬られた徳川家康の遺体は今も久能山にあり,日光には神霊だけが遷し祀られたはず,という説があります。
 ならば,私は,まだ行ったことがない久能山東照宮にも行ってみたい,と思ったことでした。
 日光東照宮は,外国人観光客ばかり,と聞いていたのですが,実際は,それよりも,中学生の修学旅行生だらけで,その人混みに私はげんなりしました。

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 2024年5月13日から5月14日まで1泊2日で行った日光への旅を書いています。
 旅の2日目。宿泊していた湯元温泉から,午前7時33分のバスに乗りました。このまま,東武日光駅まで行きますが,1時間16分かかります。
 今回,日光の旅をするにあたり,私としてはめずらしくガイドブックを買ったのですが,位置関係やどのくらいの距離があるのかなど,ガイドブックを見ても,全く把握できませんでした。
 実際は,多くの人が日光といってイメージするのは日光東照宮ですが,このあたりには,2社1寺といって,日光東照宮,日光山輪王寺(りんのうじ),二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)があって,これらは,東武日光駅から,バスもありますが,歩いても20分程度で行くことができて,半日あれば,見て回ることができます。また,華厳の滝というのが,次にイメージするものだと思いますが,華厳の滝は中禅寺湖の湖畔にあって,先に書いた2社1寺からバスに乗って50分ほど西に行ったところにあります。その途中で通るのが,いろは坂です。そこで,2社1寺と華厳の滝で浅草から1日コースとなります。
 私が泊まった湯元温泉は,中禅寺湖からさらに北西に,戦場ヶ原を越えて行くことになります。湯元温泉と戦場ヶ原,そして,中禅寺湖を観光しようとすれば,1泊以上必要ですが,これは,車で行かないと不便です。私は,今回,車でなかったから,戦場ヶ原も中禅寺湖もバスの車内から見るだけだったのが残念でした。

 さて,この日はとてもいい天気でした。早朝のバスは空いていて,戦場ヶ原,中禅寺湖を眺めながら,景色を楽しみました。
 やがて,いろは坂を越えて,バスは,日光市内に入ってきました。観光シーズンだと,このあたり,大渋滞することは容易に予想できますが,朝早かったこともあるのか,車は少なく,助かりました。これなら,心配していた人混みもなさそうだと,期待しました。
 やがて,東武日光駅に到着したので,バスを降りました。
 ちなみに,東武日光駅とJR日光駅は,歩いて5分ほどです。
 私が,途中で降りず,東武日光駅まで行ったのは,コインロッカーに荷物を預けるためでした。
 東武日光駅に観光案内所があったので,どういうコースで回ればいいかを聞いて,地図をもらいました。2社1寺までは歩けるということだったので,歩きだしました。東武日光駅からの道路は整備しなおしている途中でした。すべてがなだらかな上り坂でしたが,行きが上りで帰りが下りだから救われます。20分ほど歩いて,2社1寺の手前まで到着しました。

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 翌朝は,いい天気になりました。私はとても早起きなので,この日も,早朝起床して,朝食の時間まで,湯ノ湖畔を1周することにしました。
  ・・・・・・
 湯ノ湖は,北東にある三岳火山の噴火によってつくられた堰止湖で,湖畔にある日光湯元温泉からの湯も流れ込んでいます。標高1,478メートルで,面積0.32平方キロメートル,最大水深12メートルで,1周約3キロメートルあって,遊歩道が完備されています。
  ・・・・・・
 1時間ほどで歩くことができるというので,散歩を楽しみました。
 まだ朝早いので,ほかにだれもおらず,鳥の音も聞こえて,とても気持ちがよい時間を過ごすことができました。

 湯ノ湖の南側に湯滝があります。
  ・・・・・・ 
 湯滝は,高さ70メートル,最大幅25メートルで,華厳の滝,竜頭の滝と並んで奥日光三名瀑のひとつです。また,華厳の滝,竜頭の滝,裏見滝,霧降の滝で日光五名瀑のひとつともされています。
  ・・・・・・
 私は,湯ノ湖の周りを歩いていたので,湯滝は,上からしか見ることができなかったのが残念でしたが,すごい迫力でした。
 湯滝を流れ落ちた水は,戦場ヶ原を流れる湯川となり,竜頭の滝を下って中禅寺湖へ流入します。
 滝の側面には遊歩道が設けられていて,落ち口,滝壺,側面の三面から滝の姿を鑑賞することが可能ということなので,次回来ることがあれば,訪れてみたいものだと思いました。この日は天気がよかったので,通り過ぎただけで,少しもったいない気がしました。
 なお,湯滝という名前ですが,流れ落ちるのは,湯ではなく水です。

 旅館に戻って,朝食をとりました。
 湯元温泉から東武日光駅に向かうバスは午前7時33分で,これを逃すと,次が午前8時25分だったので,早々に朝食を済ませてチェックアウトをして,バス停に向かいました。

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 華厳の滝を見終えて,次のバスが来るまでの間,栃木県立日光博物館に行きました。そこで聞いてみると,ここはコロナ禍のころは,自然がたくさんあるということで人気だったということです。今は逆に来る人が減ったという意外な話でした。中禅寺湖のあたり,とてもいいところでした。魅力的でした。ただし,先に書いたように,ここに来るには,いろは坂を走らなければならない,というのが最大の問題です。

 さて,日光といってもどこがどこかわからなかったので,ネットで適当に調べて,ここなら安価だし食事もついているし温泉だし感じがよさそうだったから,というだけの理由で予約したのが,湯元温泉の「奥日光万蔵」という旅館でした。バスの終点,湯元温泉で降りると,その目の前に目指す旅館がありました。こりゃ便利だと思いました。
 旅館は,古いものでしたが,食事もおいしく,なにより,温泉が最高でした。
 旅館の周りを歩いてみました。
 湯元温泉もまた,すばらしいところでした。私が理想とする場所のひとつだ,と感じました。日本にこんなところがあるんだなあ,と思いました。

  ・・・・・・
 788年(延暦7年),四本龍寺(紫雲立寺)を建立した勝道によって発見されたのが発端の湯元温泉は,冬の寒さが厳しいため,昭和の初期までは夏だけの湯治場でした。
 湯ノ湖畔に約23軒のホテルや旅館がありますが,歓楽色はありません。湯には湯の花が浮かび,温泉街には温泉地ならではの硫黄臭が漂います。
 源泉地は温泉街のはずれの湯ノ平湿原にあり,ここの源泉が日光湯元の各旅館への配湯だけでなく,近くの光徳温泉や中禅寺温泉まで分湯されています。また,源泉地の隣にある日光山輪王寺別院の温泉寺にも温泉が引かれていて,参拝客は男女別の共同浴場として利用できます。
  ・・・・・・

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 わたらせ渓谷鐵道に乗ってみたい,ということからはじまって,ついでに日光へ行こう,となって,そして見つけた「NIKKO MaaS」でした。私は「相老・赤城ルート」というもので旅をしているのですが,ここで,ふたつの大いなる誤算に気づきました。
 そのひとつは,わたらせ渓谷鐡道の最終地点である間藤(まとう)駅,足尾駅,通洞(つうどう)駅から,東武日光駅までの区間は,東武鉄道が発行しているサービスであるにもかかわらず,東武バスには乗ることができない,ということでした。この区間は,本数の少ない,日光市営バスしか乗ることができないのです。
 ふたつめは,私が予約した旅館があるのが,奥日光で,それは承知していたのですが,奥日光までも「NIKKO MaaS」の「相老・赤城ルート」では利用できない,ということでした。
 どうやら,「NIKKO MaaS」の「相老・赤城ルート」は,わたらせ渓谷鉄道を使ったのちは,日光市営バスに乗って,直接,東武日光駅まで行くのであればいいのですが,今回の私のように,奥日光で1泊して,翌日,日光を観光しようという目的にはそぐわないのでした。しかし,それでは
   ・・・・・・
 「MaaS」(マース=Mobility as a ServiceMaaS)は,公共交通を含めた自家用車以外の全ての交通手段による移動をひとつのサービスとして捉え,シームレスにつなぐ移動の概念,また,それを目的としたサービスのことです。
  ・・・・・・
という目的にはほど遠いものです。

 さて,私は,この日に日光観光をして,翌日に奥日光を観光するか,その反対にするか迷っていたのですが,この日は,直接,奥日光に行くことにしました。そこで,わたらせ渓谷鐡道を通洞駅で降りて,足尾銅山観光をしたのち,日光市営バスに乗って,途中の清滝で降りました。清滝から奥日光に向かう東武バスに乗り換えることになります。
 足尾銅山で昼食を食べそこねた私は,清滝は乗り換えができるようなバス停だから,その周りにレストランがあるだろう,そこで昼食を,と思っていたのが間違いでした。たった1軒あったのが,焼きそば専門店で,日光まで来て焼きそば? と思ってやめました。しかし,このあたり,この店のほかにも,焼きそば専門店があったから,焼きそばは,日光のソウルフードなのでしょうか。
 やがて,バスが来たので乗り込みました。
 けっこう多くの人が乗っていました。
 私がめざすのは,奥日光の湯元ですが,その途中の中禅寺湖で降りることにしました。目的は華厳の滝です。以前来たときに行った覚えがあります。このあたり,華厳の滝以外にも,中禅寺湖畔に何かありそう,戦場ヶ原も楽しそう,と思ったのですが,今回はどういうところかわからないので,パスしました。
 中禅寺湖に行く途中に走ったのが,いろは坂でした。前回来たときもバスでこの坂を通って,そのときに,これが有名ないろは坂か,と思ったことを思い出しました。
  ・・・・・・
 毎年紅葉シーズンになると全国各地から多くの人がドライブで訪れるいろは坂。下り専用の「第一いろは坂」と上り専用の「第二いろは坂」であわせて48のカーブがあるので「いろは48音」になぞらえてこの名前がつけられたとされています。道の全長は15.8キロメートル,標高差は440メートルあります。
  ・・・・・・
 標識に,実際「い」「ろ」… と表示されていて,「ん」を見ると感動しました。
 奥日光に行くには,西の沼田市から,冬には閉鎖になるくねくね道を通る以外は,いろは坂を走るしか方法がありません。こんな急カーブを走るのは,観光目的ならともかく,毎日と考えると,憂鬱になります。湯元も中禅寺湖も戦場ヶ原もいいところですが,この道を走らないと行けないと考えると,次回行くには二の足を踏みます。
 
 やっと坂を上りきって,中禅寺湖に着きました。
 ここでバスを降りました。バスターミナルのあたりに,2,3軒の食堂があったので,その1軒に入りました。湯波そばがおすすめということだったので,それを注文しました。私は無知だったのですが,日光では湯波そばが名物でした。
  ・・・・・・
 ゆばは,豆乳を煮つめたときに表面にできる被膜をすくい取ったものです。
 京都府と日光市が産地として有名で,京都府では湯葉と表記されますが、日光市では湯波とされます。
 京都では,端から引き上げるため1枚の葉になるから湯葉,日光では,真ん中から引き上げるため2重になって全体に波のようなシワができるので湯波。
  ・・・・・・
だそうです。

 やっと昼食をとることができたので,華厳の滝に向かいました。少し歩くと,華厳神社と広い駐車場があって,それを超えると,華厳の滝のまわりのみやげ物店が見えてきました。
 華厳の滝は,歩いて展望台に行くこともできるようでしたが,エレベータを使えば,滝を下から見上げることができる,とあったので,躊躇なく,それに乗りました。実際,エレベータを使わないと,高い所から遠くにある華厳の滝を見ることになり,エレベータを使うと,真下から迫力ある華厳の滝を見ることができるようでした。
 エレベータの到着を待っていると,やがて扉が開いて,定員以上の大量の中学生が降りてきて驚きました。彼らと一緒にならなくてよかったと思いました。ゴールデンウィーク後のこの時期,観光地はどこも空いているのですが,強敵はインバウンドの団体,旅行社のツアーに加えて,修学旅行生です。中でも,修学旅行生は,主体的に来ているわけではないので,最大の難敵です。
 あまり雨が降っていないので,滝は迫力に欠けましたが,それでも,水が落ちていただけマシだったというか…。後でネットで見たら,台風のあとの華厳の滝はものすごい迫力のようでした。

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 足尾銅山は,1550年(天文19年)に発見されたと伝えられ,1610年(慶長15年)に百姓ふたりが鉱床を発見し,江戸幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されました
 江戸時代の足尾の町は「足尾千軒」といわれる発展を見せました。
 その後,一時は採掘量が極度に減少し,幕末から明治初期にかけてはほぼ閉山状態となっていましたが,古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し,1881年(明治14年)に有望鉱脈を発見し,20世紀初頭には日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長しました。
 しかし,足尾山地の樹木が伐採されたり,鉱石を製錬する工場から排出される煙が大気汚染を引き起こしたりという広範囲な環境汚染を引き起こし,足尾鉱毒事件が起きました。
 1973年(昭和48年)2月27日をもって採鉱を停止し,銅山としての歴史を閉じました。
  ・・・・・・
 現在は,銅山の歴史を伝える施設である足尾銅山観光が1980年(昭和55年)に開業し,トロッコで坑道に入り見学することができます。また,近隣には,古河足尾歴史館があるのですが,開館しているのは土曜日,日曜日,祝日のみなので,私が行った日は閉まっていました。

 わたらせ渓谷鐡道の通洞駅から足尾銅山観光まで歩いて5分ほどということでした。おそらくそこにレストランでもあるだろうから,お昼を食べて,3時間程度を過ごせばいいか,と何となく思い,ともかく,行ってみることにしました。
 駅を出て右手に向かって進むと広い駐車場があって,その向こうに,入口がありました。ここは,鉱山として観光用に開放している施設としては国内有数の規模だそうです。入抗料金を払って中に入ると,15分ごとというトロッコがすぐに出発したのは,幸運でした。乗っていたのは5,6人でした。
 トロッコは3両編成の人車の前にバッテリーロコがついた編成で,出発して100メートルほど程進むとバッテリーロコは切り離されてバッテリーとモーターを内蔵した人車で,さらに100メートルほど坑内に進んで行って終点です。そこから順路に従って徒歩で坑内を観て行くものでしたが,江戸時代,明治時代,昭和時代と,古い時代から順を追って作業の様子や施設の状況を人形や音声を用いて紹介しています。
 300メートル程の坑内を見終えると坑外に出て,そこに削岩機やバッテリーロコ,ロッカーショベルが展示されていました。そこから出口に至るまで,一旦屋内に入ると展示がありましたが,そこには,小学生がいっぱいでうんざりでした。
 一応,レストランらしきものがありましたが,やっているのやら,いないのやらでした。

 以前,佐渡の金山に行ったことがあるので,私には新鮮なものでもありませんでしたが,足尾銅山がどういうものかわかって,納得しました。足尾銅山に寄ることができるかどうかわからなかったので,行くことができて満足しました。
 時間を見ると,午前11時7分に通洞駅前にやってくる日光市営バスに間に合いそうだったので,駅に戻ることにしました。ということで,バスに乗ることができましたが,せめてあと30分あれば,もっとゆっくりできたのに,と思いました。

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 わたらせ渓谷鐡道は,始発から終点まで,約44キロメートルで,1時間30分ほどです。私の住む地方には,樽見鉄道というものがあって,これは約35キロメートルなので,同じような感じですが,樽見鉄道の場合は,終点の樽見駅まで行っても,結局は戻るしかなく,それに比べれば,わたらせ渓谷鐡道は,終点の間藤駅まで行ったとき,バスで日光へいくことができるだけ,救いがあります。
 ちなみに,先日乗った只見線は約135キロメートルあって,4時間45分かかるので,それよりはずいぶん短いです。
 こうした地方鉄道は,住民の足であれば,必要不可欠なものですが,どこかへ観光で行くついでに,となると,けっこう不便です。本数も少ないから,1日かけて,単に列車の旅を楽しみ,沿線の景色を楽しみ,途中下車を楽しむ,と割り切ったほうがよいのかもしれません。

 わたらせ渓谷鐡道の魅力は,風景でしょう。だから,桜の時期とか紅葉の時期に,トロッコ列車に乗るのが正当な観光なのでしょう。しかし,私は,人混みはきらいなので,わざわざ混雑すると思われる時期を外してやってきたことに加えて,雨が降っていたので,乗客はたったふたりでした。途中で,みやげ物を売りに来たのですが,何せ,私が買わねばだれが買う,という状況に追い込まれてしまったので,普段はまったくみやげ物は買わない私ですが,やむを得ず,1品購入することになってしまいました。
 ちょうど半分くらいすぎたところに神戸(ごうど)という駅がありました。この駅には,列車のレストランというものがあって,昼食をとったり弁当を購入することができます。ただし,私の乗っている列車が神戸駅に着いたときは,午前10時前,ということで,それもままならず,そのまま過ぎました。
 神戸駅を過ぎると,渡良瀬川には草木ダムがあって,列車は長い草木トンネルに入ります。草木トンネルは長さが5キロメートル以上もあって,体感ではもっと長い距離のような気がしました。やっとトンネルを抜けると,沢入(さわいり)駅で,このあたりが,わたらせ渓谷鐡道でもっとも景色が美しいところだそうです。また,沿線にサルが出没する,という話でした。

 そうこうするうちに,列車は通洞(つうどう)駅に到着しました。終点のふたつ前の駅です。
 このあたりにあるのが,足尾銅山で,最寄りの駅は,この通洞駅です。せっかく来たのだから,足尾銅山を見学したいものだと思ったのですが,わたらせ渓谷鐡道は本数も少ないので,次の列車までの時間をどう過ごせばいいのかわかりません。また,ここからは日光市営バスに乗り換えることもできるのですが,その本数も少ないので,どうしようかと迷っていました。
 通洞駅に到着したのが午前10時21分で,通洞駅から接続する日光市営バスの時間が午前11時7分,そして,その次が午後1時17分です。午前11時7分では,40分程度しかなく,その次の午後1時17分になると,今度は,3時間もあるのです。せめて2時間後なら,と思いました。
 何かねえ,これでは「MaaS」の意味がありません。
 あれこれ迷いつつ,通洞駅で下車してしまいました。

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 世の中がコロナ禍に毒される数か月前の2019年11月22日。私は,東武鉄道を使って,日帰りで大内宿へ行きました。列車は行きも帰りもガラガラで,東北地方はとても素朴で,楽しい旅になりました。
 私が東武鉄道に乗るのは,それ以来のことです。
 あのときも,東武浅草駅から乗ったものだと思っていたのですが,調べてみたら,北千住駅からでした。

 さて,今回の旅で,私が乗る「リバティりょうもう」1号の前に出発した午前6時30分発の「リバティけごん」1号は日光へ向かうので,外国人の旅行客が多く乗っていました。しかし,私の乗る列車は,ガラガラでした。わたらせ渓谷鐡道に乗ることを目的とするような旅人は私以外にはいませんでしたし,日光に向かうものではないから,観光用ではなさそうでした。
 実際,途中から,仕事に向かうらしい人が大勢乗ってきて,車内は,けっこう埋まりました。しかし,そのほどんどは,太田駅でおりてしまい,それ以降は,また,乗客は私だけになりました。
 私にははじめて乗る区間だったので,これはなかなか興味深いものでした。館林,足利なんて,行ったこともなければ,これからも無縁のところでしょう。
 そうこうしているうちに,約2時間後,相老駅に到着しました。ここで,わたらせ渓谷鉄道に乗り換えます。わたらせ渓谷鐵道の始発駅は,相老駅ではなく,そのふたつ前の桐生駅ですが,東武鉄道は通りません。相生駅から乗ろうとすれば,東京駅からJR宇都宮線で小山駅まで行き,小山駅からJR上毛線で桐生駅まで2時間30分程度かかります。

  ・・・・・・
 この地にある愛宕神社に,根元がひとつで,地上2.5メートルのところから2本にわかれる,樹齢は300年も経つという黒松と赤松の縁起のよい木があって,「相生の松」と命名されたことで,相生という地名が生まれました。しかし, 相生駅は他県にもあるため,共に老いるということで,相生にある駅だけは相老駅と命名されたということです。
 相生駅は,東武鉄道とわたらせ渓谷鐵道の共同使用駅で,改札口を共用しています。
  ・・・・・・
 ということですが,私は,勝手がわからず,陸橋を渡って,とりあえず,改札口を出ました。
 実際は,改札口を出なくても,別のホームに降りて待てば,そのままわたらせ渓谷鐵道に乗り換えることができたようです。
 相老駅に到着したのが午前8時47分で,わたらせ渓谷鐵道がやってくるのが午前9時ちょうどでした。やがて列車がやってきたので,乗り込みました。わたらせ渓谷鐵道は,現在,気動車9両,客車4両,ディーゼル機関車2両の計15両を有しているということですが,今回乗ったのは,その中でが最も古い「わ89-300形気動車」でした。
 乗客は,私を含めてふたりでした。
 壊れるんじゃないか,というほどガタガタいいながら,渡良瀬川に沿って,列車は進みました。
  ・・・・・・
 渡良瀬川(わたらせがわ)は,利根川の支流,流路延長107.6メートル,流域面積2,621平方キロメートル。上流にある足尾町の渡良瀬という地名に由来し,日光を開山した勝道上人が川を渡ろうとしたところ,渡るのにちょうどよい浅瀬があったので渡良瀬と名づけたといいます。
  ・・・・・・

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 2024年5月11日,5月12日と東京でクラシック音楽のコンサートをはしごしたのち,2024年5月13日から5月14日まで,1泊2日で,日光へ行きました。以前,ブログに「今度どこへ行きたいのか」として書いた,わたらせ渓谷鐵道に乗ることが目的でした。
 わたらせ渓谷鐵道は,どこで乗って,どこで降りたらいいのか? など調べていくうちに,「NIKKO MaaS」というものを見つけました。いったい「MaaS」とは何か,知らないのは私だけか。
  ・・・・・・
 「MaaS」(マース=Mobility as a ServiceMaaS)とは,公共交通を含めた自家用車以外の全ての交通手段による移動をひとつのサービスとして捉え,シームレスにつなぐ移動の概念,また,それを目的としたサービスのことです。
  ・・・・・・
 それにかこつけて企画された「NIKKO MaaS」は,日光周辺を東武鉄道やバスなどが乗り放題のモバイルチケットのことで,その中に「相老・赤城ルート」というものがありました。これは,浅草から相老まで東武鉄道で行き,相老からわたらせ渓谷鐵道,日光市営バスと乗り継いで,東武日光まで行き,浅草に戻る,という2日間有効の周遊コースでした。

 日光は,確か,40年ほど前に一度行ったことがあります。陽明門が思ったより小さいなあ,と思ったことと,バスに乗っていろは坂を走ったこと,そして,華厳の滝を見たことは覚えているのですが,どうやって行ったか,というようなことはまったく記憶になかったので,今回,改めて調べてみたのですが,位置関係とか,どのくらいの時間がかかるのか,など,見当がつきませんでした。
 そこで,ゴールデンウイーク後の,おそらく空いているだろうという,この時期の平日を利用して,「NIKKO MaaS」の「相老・赤城ルート」に従って,ともかく行ってみることにしました。
 そこで,まず,浅草駅から相老駅,東武日光駅から浅草駅までの東武鉄道の特急の座席指定券と,日光で1泊する旅館を予約しました。
 とはいえ,いろいろなことがよくわかっていなかったのが災いして,行ってみたその結果,ずいぶん誤算がありました。しかし,災い転じて福となしたことも多く,また,この旅で,私は,日光周辺のことや,「NIKKO MaaS」のしくみがとてもよくわかりました。

 5月12日も,田原町の東横インに泊まりました。
 田原町に泊まったのは,早朝,東武浅草駅から東武鉄道に乗るためでした。心配だった天気ですが,晴れ男の私には珍しく,あいにく,5月13日は小雨でした。ただし,この日は,鉄道とバスでの移動が主だったし,それほど雨が降ったわけではなかったので,助かりました。
 5月13日早朝。昨日買っておいた適当な朝食を部屋でとって,午前6時にホテルチェックアウトしました。当初は,東武浅草駅まで歩くつもりでしたが,雨だったので,田原町から1駅だけ地下鉄に乗りました。地下鉄の浅草駅から東武浅草駅は地下でつながっていました。そして,6時48分発の「リバティりょうもう」1号に乗りました。
  ・・
 ところで,私がずっと疑問だったのは,「リバティ」とは何ぞや? ということでした。東武鉄道では,同じ行先の特急でも,「リバティりょうもう」と「りょうもう」というように,「リバティ」という名前のついたものとついていないものがあるのです。
 駅員さんがいたので聞いてみると,私の質問を勘違いして,「リバティ」の意味を語りだしたのですが,私が知りたかったのはそんなことではありません。で,やっと聞き出したことは,「リバティ」(Revaty)は,東武鉄道500系の特急形車両の愛称だということでした。そこで,その車両を用いて運行する特急が「リバティ〇〇」なのでした。
 東武鉄道は,「リバティ」のほかにも,「スペーシアX」というものもあって,こちらは,「東武鉄道のフラッグシップ車両」だそうで,観光特急としての快適さや豪華さを追求しているということなので,「リバティ」よりも室内が豪華です。
 いずれにしても,「リバティ」にしせよ「MaaS」にせよ,こういう固有名詞は,わけ知った人だけのひとりよがりで,一般の人には,何のことかわかりません。パンフレットにも説明がありません。むしろ,この特別感からただようのは,「リバティ」とか「スペーシアX」に乗るときは,別に料金がかかるのではないか? といった不安だけです。

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 横須賀市どころか,私には川崎市というところも謎につつまれた街だったので,昨年2022年の秋に行ってみたので,今回は2度目でした。どうして川崎駅前の東横インに泊ったかというと,近ごろ,やたらと何でも高くなって,それは東京都内のホテルもまた例外ではなく,そこで,ちょっと外れたところを選んだということと,この日,当初は三浦半島をめぐる予定だったというのが理由でした。結局,横須賀港に行先を変更したのですが,いずれにしても,川崎駅から電車に乗ればいいのだから,そのまま宿泊しました。
 12月16日,NHK交響楽団の定期公演を聴き終えて,ごったがえす渋谷を人をかき分けかき分け,どうにかJR渋谷駅に着いて,山手線,京浜東北線と乗り継いで,夜10時過ぎに東横インにチェックインしました。

 それ以後の予定は,翌日の午後2時開始の「駒テラス忘年会」に間に合うように東京に戻るということだったので,その前に,昼食として「川崎家」でラーメンを食べることにしました。
 「川崎家」というのは,藤井聡太八冠の兄貴分であり,ライバルの永瀬拓也九段のお父さんがやっているというラーメン屋さんです。調べてみると,「川崎家」というのは,本店と榎町店があって,本店は前回川崎市に来て散策した川崎球場だったところの近くで,榎町店は私の泊っている東横インの近くでした。どちらの店なのか,さらに調べてみると,私の目的とするのは榎町店のほうで,行ってきたというブログがけっこうありました。永瀬拓也九段はラーメン屋さんの宣伝に一役も二役も買っているようです。かくいう私もその影響を受けたひとりということです。

 すでに夕食はNHK交響楽団の定期公演の前に食べたのですが,夜食でも,ということで,外に出て,ついでに,「川崎家」がどこにあるか行ってみることにしました。
 川崎市は,JR川崎駅と京急川崎駅が少しだけ離れていて,JRと京急は平行に東京に向かって多摩川を渡ります。そして,京急電鉄に沿って,旧東海道があります。旧東海道は,1600年(慶長5年)に,徳川家康により六郷川 -これは多摩川の下流の別名で上流を丹波(たぱ)川というのですが- に六郷大橋を架けられ,それ以来,修復やかけ直しが行われましたが,1687年(元禄元年)の大洪水で流されたあとは架橋をやめ,明治に至るまで船渡しとなりました。渡船は,当初は江戸の町人が請け負っていましたが,1709年(宝永6年)以降は川崎宿が請け負うことになったことで,渡船収入が宿の財政を大きく支えたということです。
 東横インのある場所のひとつ西側の通りが旧東海道なので,散歩を兼ねて,六郷の渡し跡まで行ってみることにしました。そこには,現在は,川崎側に渡船跡の碑と明治天皇六郷渡御碑が建ち,欄干に渡船のモニュメントがあります。
 そこから東に少し行くと,国道15号線があります。旧東海道と国道15号線の間が,川崎堀之内として名高い川崎の風俗街で,近ごろは,風俗街といっても,客引きもいないから,興味本位で歩いているとそれなりにおもしろいので,そこを通り抜けて,国道15号線まで出て,道路を渡ったところに,「川崎家」を見つけました。

 さて,翌日。
 私にはめずらしく,のんびりと朝食を東横インのサービスでとって,そのあと,部屋に戻って,前日の晩に放送されたという「ローカル路線バス乗り継ぎの旅W」をTVerで見てから,午前10時にホテルをチェックアウトしました。今の時代,ホテルで泊まってもテレビをつけることもなく,必要ならばスマホでことたりるので,もはやテレビはまったく必要ないです。
 それから旧東海道の「東海道かわさき宿交流館」とか,宗三寺の遊女供養塔など,川崎宿にちなんだいくつかのお寺などをめぐりながら,開店時間午前11時の「川崎家」にその5分前に到着しました。
 私は,開店時間に行ったのですぐに中に入れましたが,そのあと,外に行列ができていました。

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 それまで行ったことがなく,どういうところか知りたくて,2023年5月13日に行ってみた横須賀市でした。そのとき,「YOKOSUKA軍港めぐり」に乗ったのですが,アメリカの原子力空母「ドナルド・レーガン」がちょうどその前日に出航してしまったと聞いて,とても残念に思いました。ぜひ,今度来たときは見てやろうと,それ以来,ずっと思い続けていました。政治的にはさまざまな問題があるそうですが,私は,単に見てみたいという好奇心だけの理由です。
 調べてみると,毎年,11月下旬ころにやってきて,翌年の5月ごろに出航するようだったので,そうであるなら,12月ころがチャンス,と思っていたところ,11月19日に寄港したということがわかったので,2023年12月16日,NHK交響楽団の定期公演で東京に行くついでに,午前中,「YOKOSUKA軍港めぐり」に乗ることにして,午前12時の便を予約しました。

 横須賀海軍施設(U.S. Fleet Activities Yokosuka FAC3099)は,横須賀市にある在日アメリカ海軍の基地で,通称「横須賀ベース」とよばれています。アメリカ海軍の仮想敵国と太平洋及びオセアニア諸国への前方展開拠点,および,修理・補給基地で,アメリカ海軍司令部や極東海軍施設部隊が置かれています。第7艦隊に所属する原子力航空母艦「ロナルド・レーガン」が,アメリカ国外で唯一の空母の母港としています。
  ・・・・・・
 「ロナルド・レーガン」(USS Ronald Reagan, CVN-76)は,ニミッツ級空母艦(排水量10万トンを超える世界最大,世界初の量産型原子力空母)の第9番艦です。
 1998年にニューポート・ニューズ造船所で起工,45億ドルが費やされ,2001年に進水,2003年に処女航海を行いました。
 なお,改修をを行うために,「ロナルド・レーガン」は2024年春に出港したのちは,「ジョージ・ワシントン」が代わりに入港する予定です。
  ・・・・・・

 天気だけが心配でした。せっかく左側の席を取ったのに,曇っていて,新幹線の車窓からは富士山を見ることができませんでした。しかし,東京に近づくにつれてとてもよい天気になりました。私が東京に滞在した12月16日と12月17日の2日間はともに快晴で暑いほどでした。
 やがて,JR品川駅に着きました。この日は川崎駅に近い東横インに宿泊するので,東海道線に乗り換えてJR川崎駅まで行きました。そして,東横インに荷物を預けて,今度は,京急電鉄に乗りました。わずか半年ほど前のことなのに,当時は,横須賀市に行くには,JRよりも京急電鉄のほうが便利で安価だということも知りませんでした。
 横須賀港は,横須賀中央駅よりもそのひとつ前の汐入駅のほうが近いです。私が乗ったのが特急だったので,汐入駅は停まらないので,金沢八景駅で乗り換えました。列車で旅をするといつも思うのですが,私鉄は,会社によってシステムが違っていて,わかりにくいのにもかかわらず,はじめに利用するとそれがわかるような表示がほどんどないのが不思議です。それはたとえば,特急は別に料金が要るとか要らないとか,また,普通とか急行,特急というのはなんとなくわかるのですが,快速とか快急とかいわれると,意味不明です。

 ともあれ,11時過ぎには汐入駅に着いたので,そのまま「YOKOSUKA軍港めぐり」のチケット売り場に行って,12時の予約を11時に変更してもらい,乗船しました。
 私の目的は,「ロナルド・レーガン」を見ること1点でした。多くの船が港から見ることができるのですが,「ロナルド・レーガン」は奥まったところに寄港していて,「YOKOSUKA軍港めぐり」で沖に出ないと見られませんでした。姿が見えてきました。あまりに巨大で陸のようでした。
 目的が果たせたので,あとは,ゆっくりと船旅を楽しみました。
 その後は,海軍カレーを食べたり,ドブ板通りを散歩したりして,昼過ぎに東京に戻りました。
 もともと,この日は,三崎口駅まで行って,三浦半島をめぐるつもりだったのですが,このように,「ドナルド・レーガン」を見るために横須賀湾に変更したので,次回来るときは,三浦半島めぐりをしたいものだと思いました。

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 館山駅で降りたら,茫然としていた観光客が数人いました。要するに,ここ,来てはみたものの,何もないので,どうしようか? という感じでした。
 時刻は午前11時ころでした。私の目的は,外房線と内房線に乗る,ということだけだったので,千葉県の最も南の駅まで来たことで満足していたことと,雨ももうすぐ止みそうだったので,心配していた豪雨もなんとか切り抜けたことですっかり安心して,館山駅の近くで昼食をとろうと考えました。
 駅の改札口からは駅前の風景が見られて,一見,お店がたくさんあるように思えたのですが,実際はそうではなく,はっきりいって,さびれていました。ただ1か所,駅の近くにイタリア料理店とお寿司屋さんがありました。ネットで調べてみると,イタリア料理店もお寿司屋さんも午前11時15分開店とあったので,贅沢してお寿司を食べることにしました。
 開店時間に店内に入って,おすすめのお寿司を注文しました。このくらいのプチ贅沢が幸せなのです。店の人と会話を楽しみながら食事を済ませたころ,雨がすっかり止みました。そこで,館山市の見学に出かけることにしました。

 何か見どころは? ということで,唯一見つけた館山城へ行くことにしました。館山城までは徒歩で20分ほどでしたが,海岸に沿って歩いて行くとなかなか楽しいものでした。私は,こうした観光客があまりいないところのほうが落ち着きます。
 やがて,館山城へ着きました。私はこの地については何の知識ももち合わせていなかったのですが,「南総里見八犬伝」ゆかりの地とか。これには驚きました。そうなのです。南総というのは南房総のことなのです。そして,里見というのは,戦国時代にこの地を治めていたのが里見氏だったのです。
  ・・・・・・
 館山の由来は,現在の城山(=根古屋山)の名前でした。山の上に領主の館が建っていた,つまり,館の山です。平安時代末期には,沼ノ平太こと平判官貞政という豪族がこの地を治めていました。
 戦国時代になると,上総にいた里見義頼が,戦のための城よりも政治経済のための城の必要性を感じ,陸上,海上の要衝だった館山の港の整備などに着手しましたが,病死し,その子の里見義康の時代になり移転が実現。1590年(天正18年)に館山城を築きました。
 しかし,この地に外様大名がいてはまずい,ということで,1614年(慶長19年),里見忠義は徳川家康により改易を命ぜられます。そして,館山城は破壊され,堀もすべて埋められてしまいました。里見氏改易後の館山は北条藩となり,屋代氏,水野氏がそれぞれ藩主を務め,幕末には船形藩が立藩しましたが,大きく発展することもなく,やがて明治維新を迎えました。
  ・・
 「南総里見八犬伝」は,曲亭馬琴によって,江戸時代後期,1814年(文化11年)から28年をかけて完結した,全98巻,106冊の長編小説です。
 室町時代後期を舞台に,安房里見家の姫・伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八人の若者(=八犬士)を主人公とする長編伝奇小説で,共通して「犬」の字を含む名字を持つ八犬士が,それぞれに辛酸を嘗めながら因縁に導かれて互いを知り,里見家の下に結集する,というものです。
  ・・・・・・

 こうして,館山城へ行って,少しだけ旅の気分を味わい,途中下車もできたことで,再び館山駅に戻ってきた私はすっかり満足して,定刻よりもかなり遅れて出発した内房線に乗って,蘇我駅で,しなくてもいい途中下車をしたのち,東京駅に戻りました。こうして,私の房総半島を途中下車しながら1周する,という念願をかなえることができました。もう2度とやらないけれど…。

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 2023年10月15日。このところずっと天気がよいのに,この日に限って雨。しかも,房総半島は豪雨ということで,途中で列車が止まって帰ることができなくなったらどうしよう? と思い悩んでいたけれど,まあ,何とかなるわい,と予定通り,あらかじめ指定席券を購入してあった特急「わかしお1号」に東京駅から乗り込みました。
 「わかしお1号」の終点の勝浦駅まで行って,そのあとはまったく予定も立てず,行ってみて決めることにしていました。毎度のこと,いいかげんなものです。実際は,次回書きますが,雨のために何度も途中下車をする状況ではなく,ただ1か所,館山駅で途中下車しただけの旅になってしまいましたが,それでも,いろいろなことを知って,ためになりました。

 房総半島は,愛知県に住む多くの人には無縁のところです。わざわざ行く気にならなければ,行くこともありません。しかし,首都圏に住んでいたら,それなりに見どころはありそうです。そこで,帰ってから少し調べてみました。
  ・・・・・・
●鵜原理想郷
 太平洋から打ち寄せる波の浸食によって形成された典型的なリアス式海岸で,勝浦市鵜原の明神岬一帯を指します。自然豊かな景勝地で,古くから文人墨客たちに愛され、特に与謝野晶子が多くの歌を詠んだことで知られているところです。
●勝浦の朝市
 勝浦駅から徒歩10分ほどにある中央商店街周辺で行われる朝市で,1591年(天正19年)までさかのぼる長い歴史を誇ります。季節の農産物や新鮮な魚介類,加工品や工芸品など,様々な商品が並びます。
●八幡岬公園
 勝浦市浜勝浦にある公園で,勝浦湾の東端に位置し,勝浦城があった城址を公園として整備したところです。お万の方の像があります。
●かつうら海中公園海中展望塔
 沖合60メートルに位置する高さ約24メートル,水深8メートルの海中展望塔。
●鴨川シーワールド
 16のエリアを持つ大きな水族館で,シャチやイルカの迫力あるパフォーマンスが人気です。
●鴨川松島
 鴨川市貝渚にある荒島,弁天島,鵜島,雀島,波涛根島,猪貝島,海獺島の7つの島が美しい景観を成している名勝。
●魚見塚展望台
 海抜約110メートルに位置する鴨川市貝渚にある展望台。頂上に立つ女神像「暁風」は展望台のシンボルです。
●城山公園と館山城
 戦国時代の武将・里見氏の居城跡を整備した城跡公園には,館山市立博物館やかつての天守閣を再現した館山城,日本庭園があり,歴史に触れながら散策を楽しむことができます。
 館山城は,三層四階天守閣形式の建物で,曲亭馬琴作「南総里見八犬伝」に関する読本や絵草紙,錦絵などの資料展示を行っています。
●洲埼灯台
 房総半島の南西端に位置する高さ15メートルの灯台。
 灯台周辺にはマーガレットや菜の花が植えられていて,「マーガレット岬」ともよばれています。
●野島崎と野島埼灯台
 房総半島の最南端に位置し,白鳥の灯台と言われる日本で二番目に古い野島埼灯台があります。
  ・・・・・・
 実際,JRの駅からはどの見どころも近くはなく,車を使わずに観光ができるような場所ではないのです。

 列車に乗ってから次第に雨が強くなってきて,はじめは勝浦駅で途中下車をする予定でしたが,その気もなくなり,勝浦駅で特急「わかしお1号」から降りると,駅で連絡していた列車に乗り換えて,次の安房鴨川駅まで行くことにしました。
 また,次の安房鴨川駅でも,また,途中下車をする気が失せて,これもまた,連絡していた列車に乗り換えて,館山駅まで行ってしまいました。途中下車をしないのなら,こんな切符を作ってもらう必要もなかなったのに…。 とだんだん自分が嫌になってきたので,雨は降り続いていましたが,館山駅で途中下車をすることにしました。
 と書くと,いかにもいい加減に聞えますが,実は,この雨は午前11時過ぎには止むことがわかっていたので,館山で雨が止むまで食事をして,その後,観光をすることにしていました。 
 がしかし…。
 私が外房線を乗り切って,内房線の安房鴨川駅から館山駅に着いた後,安房鴨川駅から館山駅間は運転が見合わせになってしまい,代行バスによる運行がはじまっていました。館山駅で駅員さんに聞いてみると,内房線の館山駅から木更津方面は,多少は遅れているけれど走っているとか。このあと雨も止むことだし何とか東京に戻ることはできそうで,安心しました。
そもそも,内房線は1時間に1本の列車しかないし,ひとつ間違ったらこれでは…。危惧していたことが現実になって,ついていたのやらいないのやら…。
まあ,これまでにも,ニューヨークで地下鉄が不通になってしまったり,フィンランドのヘルシンキで列車が豪雨で動かなくなってしまったり,などということも経験してきた私には,大したことでもなく,たかが日本,むしろ,こうしたハプニングのほうが思い出に残るものではありますが…。

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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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