しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場・47都道府県を制覇し,南天・皆既日食・オーロラ,空の3大願望を達成した「不良老人」の日記

カテゴリ:日本国内 > 東京近郊

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【Summary】
I drove back to Ueno via the Tokyo Bay Aqua-Line and stopped at Umihotaru, a unique parking area built on an artificial island between the tunnel and bridge. Originally planned to improve access between Kanagawa and Chiba, the route opened in 1997. I enjoyed clam soba and beautiful panoramic views over Tokyo Bay.

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 鋸山を出発して,上野駅に戻ります。
 カーナビは,東京湾アクアラインを経由する道路を示していて,こりゃいいわ,と思いました。まさか,自分が東京湾アクアラインを通ることが起きるなんで,想像ができなかったからです。無計画な旅は,こういう幸運があるのです。
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 東京湾アクアラインは通称アクアラインといいます。
 かつて,神奈川県と千葉県を行き来するには,東京湾を周回するか,フェリーを使うしかなかったので,物流や通勤に時間がかかっていてたので,東京湾を挟んで向かい合う神奈川県と千葉県の交通アクセスを劇的に改善したいという長年の構想がありました。
 そこで,1960年代から「東京湾横断道路構想」が浮上し,1970年代には本格的な調査がはじまりました。しかし,海底トンネルを掘るのは大変で,技術的にも資金的にも大きな挑戦でした。最終的に,川崎側はトンネル,木更津側は橋というハイブリッド構造で建設されることになり,1997年に開通しました。
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 東京湾アクアラインの途中には「海ほたる」というパーキングエリアがありました。私は驚きました。東京湾のど真ん中に,まさか,パーキングエリアがあるなんて。しかし,これがなければ,このすばらしい景観を見る場所するないわけで,粋なことをするわい,と感動しました。実際は,「海ほたる」は浮いているわけではなく,トンネルと橋の接続点にある人工島で,観光スポットとしても人気だそうです。 
 東京湾アクアラインは,川崎側から海底トンネル(=アクアトンネル)が続いき,そのトンネルの終点に「風の塔」という換気施設があって,そこから先は海上橋(=アクアブリッジ)になる,という構造で,その切り替え地点に「海ほたる」があるのです。
 私は,千葉県側から走ってきたので空いていましたが,神奈川県側からは多くの車が走っていて,「海ほたる」に駐車したい車が列をなしていました。

 せっかく来たので,「海ほたる」に車を停めて,ここで昼食をとることにしました。
 レストランもあったし,フードコートもありました。どの店もあさりに関したメニューがあって,どうやら,ここの名物はあさりのようでした。私もあさりをのせたそばを注文しました。
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 「海ほたる」の名物は「あさり」です。「あさりまん」や「あさり焼きそば」がなどが有名です。
 「海ほたる」がある場所は,もともとあさりの名産地・木更津沖に位置していて,このあたりの干潟は,昔からあさり漁が盛んな場所で,特に,春から初夏にかけてはぷっくりと太ったあさりがたくさん獲れるそうです。そこで,「海ほたる」のパーキングエリアでも地元の味を活かした「あさり料理」が名物になっています。また,木更津の潮干狩りも人気で,春になると家族連れでにぎわいます。
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 昼食後,「海ほたる」からの景色を楽しみました。

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【Summary】
I visited Mount Nokogiri, once a filming location for the NHK historical drama Hikaru Kimi e. I saw the Great Buddha at Nihon-ji and climbed to the summit, enjoying impressive views despite missing Mount Fuji. Later, I learned the actual filming site was deeper in the mountains, near Komagiriyama.

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 NHK大河ドラマ「光る君へ」のロケ地のひとつだった鋸山,おそらく,そういうことを知らなければ行くこともなかったでしょう。とはいえ,鋸南町(きょなんまち)という標示は頻繁に出てくるのに,鋸山という標示が見当たず,とまどいました。
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 鋸南町は鋸山のふもとに広がる町で,温暖な気候と海の幸に恵まれ,春には水仙や菜の花が咲き誇る花の名所としても知られています。
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ということなので,鋸南町は,鋸山と関係があるのでした。
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 鋸山は,富津市と鋸南町の境にある標高329.4メートルの山で,その名の通りのこぎりの刃のようなギザギザした稜線が特徴です。かつては房州石の採石場として栄え,今でもその切り立った岩肌が残っていて,独特の景観が楽しめます。
 山頂付近には「地獄のぞき」とよばれる断崖絶壁の展望スポットがあって,そこから東京湾や三浦半島,天気がよければ富士山まで見渡すことができます。
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 私は,まったく予備知識もなくやってきて,ともかく,鋸山日本寺の大仏を見ることができました。当初は,ここから山頂の展望台まで,歩く気になっていたのですが,自分の歳をわすれていました。そんなわけであきらめて,再び,駐車場に戻りました。山頂に行くには,車で国道127号線をもう少しだけ北上すると,有料道路があって,それを登れば,山頂の近くまで行くことができるということだったので,そうすることにしました。
 有料道路を登ると,広い駐車場があったので,車を停めました。ここから山頂までは容易,ということでしたが,いやいや,そこからがまた大変でした。
 途中,道がわかれました。左手には百尺観音(ひゃくしゃくかんのん)がありました。
  ・・・・・・
 百尺観音は鋸山にある巨大な観音像で,高さが約30メートル(=百尺)ありました。戦没者の慰霊と世界平和を祈って昭和初期に彫られたもので,鋸山の石切場跡の岩壁に直接彫り込まれているものです。
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 ここで行き止まりとなったので,わかれ道まで戻って,今度は右手に山頂を目指しました。

 想像以上の石段を登り,やっとのことで山頂に到着しました。すばらしい景色が広がっていました。登った甲斐があるというものです。残念ながら,霞んでいて,富士山は見えませんでした。
 駐車場まで戻ると,今度は,左手にローブウェイで登ることができる別の展望台に行く道があったのですが,さすがにまた同じような石段を登る気にならず,断念しました。
 鋸山,なかなかのところでした。
 ところで,大河ドラマ「光る君へ」のロケ地ですが,一向にそのような場所がありませんでした。帰ってから調べると,鋸山からさらに山深く1時間ほど歩くと標高約200メートルほどの小鋸山(こまぎりやま)があって,鋸山から縦走ルートで行くことができるようです。また,石切り場のロケ地は,普段は立ち入り禁止の場所だった可能性もあります。
 千葉県も奥が深いものだ,と思いました。

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【Summary】
I stopped at Mount Nokogiri and visited Nihon-ji Temple. It was not a suspicious new religion but an ancient temple founded in 725 by Gyoki. I was amazed by the huge stone Great Buddha and the dramatic cliffs overlooking Tokyo Bay. The site’s long history and magnificent scenery deeply impressed me.

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 念願の九十九里浜海岸に行くことができたので私は満足しました。白子温泉は,活気ある温泉観光地,ということもなかったのですが,のどかなところで,すっかり気に入りました。
 この日は,夕方までに東京へ戻り,レンタカーを返却して,夜,サントリーホールで名古屋フィルハーモニー交響楽団の東京特別公演を聴きます。ということで,この後,どういうコースで東京へ戻ろうかと考えましたが,何の計画もありませんでした。はじめは,千葉県の中央部に何かあるのでは? と思って検索してみたのですが,特に何も見つかりませんでした。しかし,後日,改めて調べてみると,マザー牧場,養老渓谷,清水公園,東京ドイツ村などが点在するようなので,機会があれば,行ってみたいと思っています。
 そこで,私が思い出したのが鋸山(のこぎりやま)でした。

 NHK大河ドラマ「光る君へ」の第35回のことです。あらすじは
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 藤原道長は中宮・彰子の懐妊祈願のため,息子の藤原頼通と共に御嶽詣(みたけもうで)へ向かう。しかし,険しい行程と悪天候に悩まされ,目的地である金峯山寺への到達に手こずっていると,藤原伊周(これちか)が武者を引き連れ,不穏な動きを見せる。
 そのころ,まひろの書く物語に興味を持った一条天皇が,まひろに物語の真意を尋ねては,自身の境遇を重ね…。さらにまひろは彰子の本心を知り…。
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なのですが,ここで,御嶽詣とは,身を清めて吉野の金峯山(きんぷせん)へ参詣しに行くことをいいます。平安時代の人々が切なる願いをかなえるためにおこなったもので,藤原道長は,御嶽詣で娘・彰子の懐妊を祈願しようと考えたのです。
 金峯山には金峯山寺があります。これは,奈良県吉野郡吉野町吉野山にある金峯山修験本宗の総本山の寺院で,山号は国軸山(こくじくざん),開基は役小角(えんのおづね)と伝えます。かつては「山下の蔵王堂」とよばれていました。本尊は巨像として著名な蔵王堂に安置される蔵王権現立像3躯で,中尊は約7メートルもあり,普段は非公開であることから「日本最大の秘仏」とも称されます。
 なお,金峯山寺仁王門の金剛力士立像2体は,2025年5月16日,奈良国立博物館で「超国宝-祈りのかがやき-」が行われたとき,見ました。
 「光る君へ」で御嶽詣と想定したロケ地が鋸山だと聞いたことがあって,かねてから行ってみたかったのです。とはいえ,鋸山がどういうところかは,まったく知りませんでした。

 GoogleMaps がいうままに走っていくと,内房の海岸線に出ました。後で確認すると,おそらく首都圏中央連絡自動車道(圏央道),京葉道路と走り,鋸南保田インターチェンジで降りて,国道127号線を北に走ったものと思われます。そのうちに鋸山日本寺という案内板がありました。無料駐車場とあったので,とりあえず車を停めました。駐車場にはほとんど車はいませんでした。
 日本寺,あまりに仰々しい名前で,いかがわしい新興宗教なのか,と疑問に思いましたが,とりあえず石段を登っていくと,鋸山日本寺の料金所がありました。聞いてみると,鋸山一帯が日本寺というところで,散策には1時間ほど,ということだったので,拝観料を払って,さらに進むと,それはまあ見事な巨大な仏像が目の前に登場しました。鋸山日本寺の大仏は薬師瑠璃光如来像で,高さ約31メートルあり,奈良の大仏が約15メートル,鎌倉の大仏が約13メートルなので,それよりもかなり大きいものです。江戸時代に造られましたが,風化や地震で損傷し,1969年(昭和44年)に修復されたものです。
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 鋸山日本寺は,日本一大きな石仏「大仏様」や、断崖絶壁に突き出た「地獄のぞき」があり,山の上からの眺めも最高で、晴れた日には東京湾や富士山まで見えることもあります。
 鋸山日本寺は,725年(神亀2年),聖武天皇の勅願を受けて,行基によって開かれました。開山当初は法相宗に属し,その後,天台宗や真言宗を経て,江戸時代の徳川家光の時代に曹洞宗になり今に至ります。最盛期には七堂十二院百坊を備えた大寺院で,良弁,空海(弘法大師),円仁(慈覚大師)といった名僧たちが滞在した記録も残ります。空海はここで100日間護摩を焚いて石造の大黒天を彫ったと伝ええられています。さらに,源頼朝もこの寺に立ち寄って武運を祈願し,自ら蘇鉄(そてつ)を植え,今も境内に「大蘇鉄」として残っています。
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 いかがわしい新興宗教ではありませんでした。

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【Summary】
I stayed at Shiroko New Seaside Hotel, which looked old at first, but it had excellent hot springs and delicious meals. I enjoyed a private rooftop bath under the stars and a quiet early morning bath. Although I missed the exact sunrise time, I saw the sun briefly through clouds and enjoyed the peaceful ocean view.

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 ほかに手ごろなところがないというだけで選んだ「白子ニューシーサイドホテル」は,外見が古く,第一印象はがっかりでした。しかし,宿泊客が多く,どうしてなのか,不思議でした。その理由が宿泊してみてわかりました。ここはいい。旅先の宿泊は,混んでいない温泉があって,食事がおいしい,というのが二大条件です。少なくとも私には。ここには,そのふたつが完璧にありました。

 まず,温泉ですが,何と,屋上に,個室の露天風呂がありました。45分限定で予約制。チェックインしたときに時間を決めます。天気がよかったこともあって,月や星を眺めながら温泉につかることができました。露天風呂というのは,どんなに寒くても,お湯につかっているときは大丈夫ですが,出たとたんに地獄になります。これを避けるには,体の水分を完璧にとればいいのですが,それが大変です。しかし,ここは,暖房が効いていて,まったくそういう心配もありませんでした。
 館内には大浴場もあって,こちらは,多く温泉旅館にあるように,宿泊客でなくとも時間限定で利用できます。しかし,宿泊客のみが利用できる時間帯があるので大丈夫です。早朝5時からということだったので,私は,その時間に利用しました。ほかにだれもおらず,これもまた,最高でした。

 次に食事です。夕食は,量,質とも問題がなく,今回もまた,地酒を飲みながら,楽しい時間を過ごしました。私は,普段はまったく飲まないのに,旅先では,その土地の酒を飲むのを楽しみにしています。旅先で,どこでも飲めるビールを選ぶ人が私には理解ができないわけですが,まあ,ひとそれぞれでしょう。
 朝食はビュッフェ形式でしたが,混雑することもなく,これもまた,問題はありませんでした。
 せっかくこれだけのサービスがあるのだから,古びた設備やら外装をお金をかけてこまめに手入れすればいいのに,と残念に思いました。

 さて,せっかく九十九里浜海岸に来たからには,日の出が見たいわけです。天気は微妙でした。晴れていても,地平線付近に雲があったのです。
 日の出は午前6時35分ごろだと,私のiPhoneに入れたアプリがいうので,午前6時20分ごろに部屋を出て,海岸に向かいました。しかし,私はここで大きな失敗をしていたのです。千葉県は,私の住む愛知県よりも東にあり,日の出の時間がもっと早かったのです。とはいえ,海岸に着いたときは地平線付近は雲が邪魔をしていて,海から昇る太陽は見えなかったのが幸いしました。そのうち,なんとなく東の空を見ていたら,雲の隙間から太陽が見えはじめました。まだ時間は午前6時25分ごろで,意外に感じたのですが,この時にはじめて私が思っていた日の出時間が違っていたことに気づきました。
 太陽が見えていたのは,このときからわずか15分程度で,また,厚い雲の中に隠れてしまいました。
 そんなわけで,海から昇る太陽こそ見ることができませんでしたが,幻想的な早朝の日の出を波の音を聴きながら鑑賞することができました。

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【Summary】
I arrived at Shirako Onsen near the southern end of Kujukuri Beach and found a quiet resort town with iodine-rich hot springs. Although it was off-season and nearly empty, I enjoyed the peaceful atmosphere. The beach was beautiful at sunset, even without the famous ocean view.

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 海も見えないし,時折ある海水浴場も大したことないし,期待外れだったなあ,と思いながらだらだらと走っていくと,やがて,私が宿泊する白子温泉に到着しました。ところがどうでしょう。これまでとは打って変わって,白子温泉のあたりは,すてきな温泉街,というか,観光地だったのです。
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 白子温泉は。千葉県長生郡白子町,九十九里浜の南端近くに広がる温泉地です。温泉の最大の特徴は,ヨウ素を豊富に含むナトリウム・塩化物強塩泉で,全国的にも珍しい泉質。ほんのり黄色いことから「黄金の湯」ともよばれていて,美肌効果や保湿効果,冷え性や疲労回復にもよいとされています。
 もともとは,昭和30年代に農業用の井戸を掘っていて偶然発見されたもので,その後,1989年に本格的に温泉地として開湯しました。
 白子町は夏は海水浴やサーフィン,春は桜,さらに,「テニスの町」としても有名で,海沿いにはテニスコートやリゾートホテル,民宿がたくさん並んでいます。
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 とはいえ,東京都心からは近くなく,また,シーズンオフだったこともあって,閑散としていて,私好み。いつものこととはいえ,幸運でした。

 宿泊先の「白子シーサイドホテル」は,外見は古びていて期待外れだったのですが,ものすごく広い駐車場があって,明日が平日なのに多くの車が止まっていて驚きました。これは何か理由があるのでは… と思いました。チェックインして,さっそく,海岸に行くことにしました。海岸まではすぐでした。海岸沿いは桜まつりが行われていて,早咲きの桜が満開でした。早咲きの桜は,伊豆の河津さくらと同じ品種だそうです。
 海岸に着きました。ここからの眺めは最高でした。これぞ,私が想像していた九十九里浜海岸でした。ちょうど日が沈むころでしたが,九十九里浜海岸は東向き,つまり,夕日よりも日の出,です。実際,太陽は東側の山のほうに沈んでいくところでした。なのに,いつのように,Copilotのアクア君がいうには,九十九里浜海岸は夕日美しい名所,だとか。その理由を聞いてみました。
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 九十九里浜の南端に近い白子町や一宮町あたりでは,海岸線が少し南東向きになってる場所があって,季節や天候によっては,太陽が沈むときにちょうど海の方に傾いて見えることがあります。特に,冬場は太陽が南寄りに沈むから,水平線に沈む夕日が見えるチャンスが増します。それに加えて,海面に反射する夕焼けの光や空のグラデーションがとても幻想的で,まるで海が夕日を抱きしめているような光景になります。
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ということでした。
 この日はそんな景色は見られませんでしたが,ほとんど人もいない静かな海岸は,とても美しいものでした。

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【Summary】
On February 23, 2026, I rented a car at Ueno Station and drove toward Kujukuri Beach with no clear plan. Expecting scenic coastal views like Australia’s Gold Coast, I instead found ordinary roads and limited ocean scenery. When I finally reached the beach, I felt rather disappointed.

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 2026年2月23日午後1時,上野駅の日産レンタカーで車を借りました。これから九十九里浜海岸を目指して走ります。到着してからの予定はまったくの白紙でした。というより,何があるのかまったくわかりませんでした。
 はじめは,銚子市まで行って,そこから九十九里浜海岸に沿って南西南に走るつもりで,カーナビに従って,東関東自動車道路を走っていきました。カーナビなどなかった時代を過ごした私のような古い人間は,地図を参考にして走るのに慣れています。現在に比べて不便だったのですが,確実にどこを走っているのかを把握していました。今は,走った後も,一体,どこを走ったのか,まったくわかりません。それに,アメリカの道路事情とは異なり,日本の道路事情は複雑で高速道路と一般道が入り混じり,地図を見ても,何が何だかわかりません。インバウンドで,日本でレンタカーを利用する外国の人がいるようですが,そもそも,日本人でもわかりにくいこの国で,運転ができるとは思えません。


 できれは,九十九里浜海岸に着く前に,いくつかおもしろそうなところに寄ろうかと考えていたのですが,延々と走っても,成田国際空港にさえ着かず,えらく遠いものだ,と実感しました。こんな調子で走っていては,夕食までに白子温泉に着けません。以前,頻繁に成田国際空港を利用して海外旅行をしたいたころは,東京駅から定期バスを利用して成田国際空港まで往復していたのですが,成田国際空港がこんなに遠いとは思いませんでした。やがて,やっと成田国際空港まで来ました。見慣れた景色でした。東関東自動車道路は,成田国際空港までは時速120キロメートル制限で片側3車線でしたが,成田国際空港を過ぎると2車線となり,制限速度も下がりました。突然田舎になりました。

 このまま銚子市まで行ったら,この日宿泊する白子温泉に到着するのが予定よりもずいぶんと遅くなるとあせってきたので,方針を変えて,銚子市まで行かずに,東関東自動車道路の最終地点の潮来から南下することにしました。この先は一般道でしたが,さすがに茨城県と千葉県はアメリカの道路のように道幅が広く,車も少なく,とても走りやすいものでした。そうこうするうちに,どうやら九十九里浜海岸に至ったようでした。とはいえ,海岸沿いに走る県道30号線は海の見える海岸線に沿って走っているわけでもなく,両側に民家が続く単なる一般道で,がっかりしました。しかも,左手はすぐ先が海岸なので道路がないから県道30号線は十字路がほとんどなく,したがって,信号もなく,延々と道路が続いていました。これは完全に期待外れでした。

 何とか海が見たいものだと思っていたら,いくつか,〇〇海岸という道路標示があって,そういうところは夏は海水浴場となるところらしく,十字路と海岸に向かう道路があったので,何度か左折してみました。そうすると,駐車場があって,車を停めると,その先が堤防で,そこを登ると,海を見ることができました。オーストラリアのゴールドコーストのような海岸線が続いているのかと期待したのですが,それほどでもなく,私は,この時点では,かなりがっかりでした。

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【Summary】
Visiting Jogashima, I enjoyed a tuna–whitebait bowl at a quiet local restaurant before walking east toward the Hakushū Kitahara monument. Reflecting on his life, I recalled visiting his birthplace in Yanagawa and learning that he wrote “Rain on Jogashima” in 1913, inspired by the island’s misty scenery during a period of personal turmoil.

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 もっと長い距離だと思ったのですが,あっという間に城ケ島の西端に着きました。ちょうどお昼だったので,食事をしようと,お店を探しました。四つ角に「いけだ」という店があって,人が並んでいました。私は,並ぶ店には入りません。その右隣に「倉吉丸」という店があって,店内にだれもいませんでした。私は,躊躇なく「倉吉丸」に入りました。
 何がおすすめ,と聞くと,マグロシラス丼と即答。そこで,マグロシラス丼を注文しました。
 ワンオペで少し時間がかかりましたが,とてもおいしいマグロシラス丼でした。
 帰宅後,ネットで調べると,「いけだ」の口コミ点数3.8,「倉吉丸」は4.2でした。

 おなかを満たし,城ケ島を今度は東に,北側の道路を歩きました。
 目的地は白秋碑でした。
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 北原白秋(きたはら はくしゅう)は,詩人・歌人・童謡作家。本名は北原隆吉。
 1885年に熊本県で生まれ,福岡県柳川市で育ちました。詩は繊細な感情や自然の描写に満ちていて,音楽的なリズムが特徴的です。童謡の世界でも,「この道」「からたちの花」「雨ふり」などの作品があります。
 若いころから文学に熱中して中学を中退。早稲田大学に進学するも途中で辞めて詩作に没頭しました。
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 と,ここまで書いてきて,私は,2023年の春,柳川市の北原白秋の生家と「北原白秋記念館」に行ったことを思い出しました。そして,そのとき,北原白秋が城ケ島に住んだことがあると知りました。
 そうです。北原白秋の代表作のひとつに「城ケ島の雨」があるのです。
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 「城ヶ島の雨」は,三崎町に移り住んでいた北原白秋が対岸の城ヶ島を題材に詠んだ詩で,1913年(大正2年)に発表されました。
 北原白秋は,当時,姦通罪で訴えられ収監されるというスキャンダルに見舞われ,世間から非難を浴びました。そんな失意の中で移り住んだ三崎の地で,雨にけぶる城ヶ島の風景に自らの心情を重ねてこの詩を書きました。
 舟がゆっくりと進む描写や忍び泣きのような雨音が静かで切ない情景を浮かび上がらせているこの詩にメロディがつけられ,芸術座の音楽会で発表されたとき,作曲者の梁田貞自身が独唱をしました。
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 この詩を刻んだ碑が海岸にありました。

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【Summary】
I explored Jogashima expecting lava plateaus but found coastal cliffs shaped by marine erosion. After visiting the cormorant lookout—where only kites appeared—I continued to the “Umami-no-se Dome,” the island’s natural sea arch. Walking along the shoreline revealed scenic wave-cut terraces and a clear view of Mt. Fuji.

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 城ケ島といって,私が知っているというか,よく写真で紹介されているのが,ハワイ島のような溶岩台地の写真です。しかし,城ケ島大橋を渡っても,それらしきところはなくて,単なる漁港でした。いったい,私がイメージしていた景色はどこにあるのか? そう思いながら歩きはじめました。観光館内所でもらった地図を見ると,島の北側の海岸線は舗装された道路が続いていて,南側は海岸に沿ってハイキングコースとなっているようでした。そこで,南側を歩くことにしました。
 まず見つけたのが,ウミウの生息地と展望台でした。
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 城ケ島はウミウの越冬地として有名です。
 毎年11月ごろから翌年4月ごろにかけて,約2,000羽ものウミウが渡ってきて,島の断崖で羽を休めます。その姿はまるで黒い波が岩にとまっているようで圧巻です。ウミウ展望台からは,群れで過ごすウミウの様子を見ることができます。
  ・・・・・・
 ということだったので,展望台に行ってみたのですが,飛んでいるのは,どうやらウミウではなく,トンビのようでした。11月とはいえ暖かく,未だ,ウミウはやって来ていないように思えました。それとも,私が見つけられたなかったのか?
 よく似た風景を,アイスランドで見たことがあるのを思い出しました。そこに群れていたのは,ニシツノメドリ((Puffin)という鳥でした。アイスランドのパフィンウォッチングの期間は6月から9月まで。ちょうどそのシーズンに行ったことになります。

 さらに歩いていくと,「馬の背洞門」(うまのせどうもん)と書かれた標識を見つけました。それに従って階段を海岸に降りて行くと,そうそう,そこが,私がイメージしていた城ケ島だったのです。
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 馬の背洞門は城ケ島南岸の赤羽根崎にある壮大な自然のアーチで,長い年月をかけて波や風の浸食によって形成された海食洞穴です。洞門の上部が馬の背中のような形をしていて自然が彫刻したようになっています。軟岩で亀裂が入っていて崩落の危険があるため,上部への立ち入りは禁止されています。 
 この洞門は,三浦層群三崎層という約1,200万年前の堆積岩が波に削られてできたもので,地震による隆起も関係し,実際,関東大震災のときに城ケ島は約1.7メートル隆起した記録もあるということです。
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 犬の散歩をしていた人が,ずっと先まで歩くことができると言ったので,そこから海岸を歩きました。実は,城ケ島の大地は溶岩台地ではなく海食台地でした。
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 城ケ島は,溶岩台地というより,海食によって形成された海食台地(海食崖)です。
 城ケ島の地質は主に三浦層群とよばれる堆積岩でできていて,およそ300万年前から100万年前の新第三紀から第四紀にかけての地層です。
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 天気がよく,遠くには富士山もきれいに見えました。

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【Summary】
I visited Tokyo on November 14, 2025, for an NHK Symphony concert and decided to explore Jogashima in the morning. After taking the Keikyū Line to Misakiguchi and a crowded bus across the bridge, I walked through Jogashima Park to Awazaki Lighthouse, enjoying the clear weather and views of Mount Fuji.

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 2025年11月14日,NHK交響楽団の定期公演を聴きに東京へ行ったのですが,定期公演は夜なので,午前中どこへ行こうか考えました。当初,きっと紅葉が美しいだろうから,奥多摩へ行ってハイキングをしようと思ったのですが,周囲が口々に,クマが出るからやめろ,というので,考えを変えました。そこで,以前から,一度行ってみたいと思いつつ,なかなか行くことができなかった城ケ島を目指すことにしました。
 私は,房総半島,三浦半島,伊豆半島,能登半島,男鹿半島などなど,〇〇半島というところ,つまり,とがっているところに行ってみたいと思っていて,これまで順にほとんど制覇していきました。ただし,三浦半島は,その途中に,金沢文庫,横須賀港,浦賀港といった歴史的に有名な場所が数多くあり,まずそうした場所に行くことになって,なかかな三浦半島の先端まで行くことができずにいました。しかも,三浦半島の公共交通の詳細を知らなかったので,はじめはJRを利用していたのですがえらく時間がかかり,三浦半島は京急電鉄のほうが便利だということを知りました。ただし,京急電鉄の乗り心地の悪さは特筆ものです。また,三浦半島の先端に行くには,終点の三崎口駅まで行っても,その先がけっこう大変だということもわかりました。

 まあしかし,その程度の知識しかもち合わせていないのでした。
 この日は快晴。名古屋から東京に来るときの新幹線からは,美しい富士山がきれいに見えました。品川駅で降りて,京急電鉄に乗り換えました。京急電鉄の品川駅は,愛知県を制覇する名鉄電車の名鉄名古屋駅のように混とんとしていて,よそ者にはよくわからないものです。駅員さんに聞いたらとても親切に教えてもらえて,言われた通り赤色の線が引かれたところで列車を待つと,ほどなく久里浜駅行きの特急がやって来たので乗り込みました。
 やがて,久里浜駅に着いて,そこで乗り換えて,三崎口に到着しました。駅前に観光案内所があったので聞いてみました。三浦半島の先端には,三崎港があって,食事やショッピングをするならそこまでバスで行くといいと言われましたが,私は,食事やショッピングには興味がなく,その先の城ケ島の自然を見たいと思っていたので,改めて聞いてみると,ならば,城ケ島に渡ったところにある白秋碑前というバス停で降りて,城ケ島を歩いて観光するといい,と言われました。
 私は,レンタサイクルがあるということは事前に知っていたので,レンタサイクルを借りるつもりだったのですが,坂ばかりだからやめておいた方がいいと強く言われました。どういう理由かは知らねど,とても貸したくなさそうでした。どうしてだろう? まあ,詳しい人にそう言われるのならと,城ケ島行きのバスに乗り込みました。平日なのに,バスは観光客で異常に混んでいましたが,三崎港に着くと,ほとんどの乗客が降りていきました。

 私はそのまま乗り続け,城ケ島大橋を渡りきると,白秋碑前に着きました。
 まず,ここから東に,城ケ島公園,そして,先端の安房埼灯台を目指して歩きました。けっこうな距離でした。先日行った宮古島を思い出しました。快晴が幸いし,展望台から美しい富士山を見ることができました。紅葉はなかったけれど,その代わり,(おそらく)シャクナゲが咲いていました。

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【Summary】
I traveled to Kofu, visiting sites such as Kofu City Hall, Yamanashi Modern People’s Museum, and Koshuyumekoji, before returning home on the Azusa and Shinano limited express trains. Despite missing out on a planned station bento dinner, they enjoyed conversing with a fellow passenger. The recent journey reflects their interest in exploring places they once wanted to visit, aiming eventually to relax in secluded hot springs away from tourist spots.

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 私には望外の太宰治の足跡をたどることもできて,すっかり満足して甲府駅に戻ってきました。
 この日は,甲府駅午後4時27分発の特急「あずさ」に乗って,午後5時27分に塩尻駅で降り,塩尻駅午後6時3分発の特急「しなの」に乗り換えて,午後8時7分に名古屋に着くことにしていました。まだ時間が早かったので,10階に展望ロビーがあるということなので,甲府市役所に行ってみることにしました。それほど高い場所ではかなったけれど,ともかく景色を堪能することができました。甲府市役所で降りて,北に行くと山梨県庁の昔の建物がありました。まだ,一部は県庁として機能しているようでしたが,ここに山梨近代人物館があったので,入ってみました。とはいえ,山梨県には,意外なほど有名人がいないのでした。
 最後に,甲府駅の北口にあった甲州夢小路というところでジェラードを味わって,これで旅は終わりました。

 予定通り,「あずさ」「しなの」と乗り継いで帰宅しました。
 最後に後悔したことは,甲府駅で「あずさ」に乗る前に駅弁を買わなかったことでした。塩尻駅で買えばいいと思っていたのが甘い考えでした。塩尻駅は思った以上に小さく,売店も1軒しかなく,弁当はすでに売り切れでした。仕方がないので,適当にパンを買って,これを夕食代わりにすることにしました。せっかく,「しなの」の車内で楽しく駅弁の夕食を,と思っていた思惑がはずれてしまいました。
 この日は日曜日で,狭い塩尻駅のホームには,帰宅する登山客で一杯でした。彼らは自由席に座ろうと並んでいたのですが,松本駅からやってきた「しなの」の自由席は乗る前からすでに満席でした。気の毒に…。
 私はもちろん指定席でしたが,隣に座っていた松本駅から乗ってきたという女性と気が合って,ずっとおしゃべりをしているうちに,あっという間に名古屋駅に着きました。

 97歳のブロムシュテットさんが指揮をするというNHK交響楽団の定期公演を聴くために東京へ行くついでに,その前に秋田県へ行き,東京からの帰りに山梨県へ行く,というまったく脈絡のないふたつの場所を旅しましたが,ともに天守のない城跡だけが見どころで,町もそれほど活気がないことなど,秋田市と甲府市はけっこう似ていました。しかし,意外な発見があったりと,楽しい旅になりました。
 このごろ,これまで一度は行ってみたかったけれど行く機会がなかった場所を次々と旅しているのですが,行く機会がなかったということは,結局,行こうと思うほどの魅力がなかったということだから,こんな感じになってしまいます。
 私は,まだ,行きたかったけれど行くことができていない場所が数々あります。早くそうしたところの旅を終えて,つまり「雑念」というか「煩悩」をなくして,そのあとは,時間を忘れ,ゆったりと,人の少ない,見どころもないような,ひなびた温泉にでも旅したいものだというのが,このごろの気持ちです。

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【Summary】
I, a casual Dazai Osamu fan, began visiting places connected to him, starting with Tenka Chaya and Shayokan in Aomori. This led me to other sites, including his grave in Mitaka and his wife's. Surprised to find a related site in Kofu, I visited, enjoying local soba and learning about Dazai's brief residence and landmarks like Seiunji Temple and Kiku-no-Yu Onsen. I also discovered Chiba Sana's grave here, once a fiancée of Sakamoto Ryoma. Travel in Japan brings unexpected encounters, making each journey more enjoyable.

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 にわか太宰治ファンの私は,ろくに太宰治の作品も読んでいないのに,学生時代に「国語便覧」に載っていた「富嶽百景」ゆかりの天下茶屋と青森県金木の斜陽館がなぜか気になって,いつかそこを訪ねてみたいという動機だけで行ってみたことから,それ以外の太宰治の足跡も訪ねるようになりました。そして,旅のついでに,小説「津軽」の舞台となった場所に行ってみたり,三鷹市の太宰治の墓を詣でたり,最後に,妻だった山崎富栄の墓を探し当てて,これで太宰治ゆかりの地めぐりも終わりと思っていたのですが,なんと,甲府市に,まだ,ゆかりの場所が残っていたのには驚きました。
 その地を訪ねる途中で,昼食をとろうと,おそば屋さんに入りました。おいしいおそばでした。
 おそば屋さんで聞いてみると,地元の人には,当然,太宰治がこの地に住んでいたというのは有名なことでした。

  ・・・・・・
 29歳の太宰治は,荒んだ20代を清算し「思いを新たにする覚悟で」,1938年(昭和13年)9月13日から御坂峠の天下茶屋に滞在していました。その時期,井伏鱒二たちが「太宰をいつまでも独り身にしておくのは危険である」という配慮から,太宰治の結婚相手探しをはじめ,候補に浮上したのが石原美知子でした。
 9月18日,太宰治は,井伏鱒二の付添いで石原家を訪問し,石原美知子と見合いをし,石原美智子と婚約後,住まいを甲府市の寿館に移し,大晦日まで過ごしました。
 年が明けた1月8日,杉並区の井伏鱒二宅で結婚式を挙げ,寿館から歩いて10分ほどの甲府市御崎町に新居を構えました。
  ・・・・・・
 新居のことは,のちに津島(石原)美知子が次のように書いています。
  ・・・・・・
 この家の間取りは八畳,三畳の二間,お勝手,物置。八畳間は西側が床の間と押入,隅に小さい炉が切ってあった。東側は二間ぜんぶガラス窓,その外に葡萄棚,ゆすら梅の木,玄関の前から枝折戸を押して入ると,ぬれ縁が窓の下と南側にL字型についている。この座敷の南東の空には御坂山脈の上に小さく富士山が見えた。
 太宰治は,毎日,午後3時ごろまで机に向かい,それから近くの喜久之湯に行く。その間に支度しておいて,夕方から飲みはじめ,夜9時ごろまでに,六,七合飲んで,ぶっ倒れて寝てしまうのである。
  ・・・・・・
 翌年1939年(昭和14年)9月,太宰治夫妻は,三鷹市に転居しましたから,この町には8か月間住んでいたことになります。その後,1945年(昭和20年)東京がしばしば空襲を受けるようになって妻・美智子さんの実家に疎開しますが,この地でも空襲を体験,太宰一家は,太宰の実家のある金木へ疎開しました。
 現在,津島美知子は,三鷹市の太宰治の墓の隣にある石原家の墓で眠っています。

 これで,奇しくも,私がかつて訪れた金木の疎開した家につながりました。
 甲府駅近くにあった石原家は,1945年(昭和20年)の空襲で全焼し,今はありません。
 太宰治僑居(きょうきょ=仮妻い)跡は,私が食べたおそば屋の近くに,その碑がありました。また,通ったという創業1934年(昭和9年)の喜久乃温泉は改築されましたが,道路を隔てたところに今も営業していました,
 寿館跡は,路地を入ったところにその面影だけが存在していましたが,その路地の先にある清運寺の,太宰治も踏みしめたという敷石は境内の藤棚の下に移されて,今もあります。
 なお,清運寺には,坂本龍馬の婚約者とされる千葉さな子さんの墓もありました。私は,坂本龍馬の馬はお龍さん(楢崎龍=ならさきりょう)だと思っていたので,???でしたが,調べてみると,次のようでした。
  ・・・・・・
 坂本龍馬がお龍さんと出会う以前に,千葉さな子(左奈,佐那)という婚約者がいました。千葉さな子は坂本龍馬が師事した北辰一刀流桶町千葉道場の創設者・千葉定吉の次女として1838年(天保9)年に誕生し,10代で北辰一刀流小太刀の免許皆伝となり長刀の師範でもあった女性でした。
 千葉さな子が剣術修行中の坂本龍馬と出会ったのは16歳のころで,婚約したのは1858年(安政5年)ということです。しかし,坂本龍馬は剣術修行を終えると故郷・土佐藩へ帰ってしまい,そのまま疎遠になってしまいました。
 1867年(慶応3年)11月15日,坂本龍馬は京都・近江屋で暗殺されてしまいました。その後も,千葉さな子は坂本龍馬のことを思い続け一生を独身で過ごしたと伝えられています。
 晩年,千葉さな子は千葉灸治院を開き生計を立てていましたが,そこへ通院していたの山梨の自由民権運動家である小田切謙明・豊次夫婦で,親交を重ねました。1896年(明治29年)千葉さな子は千住で亡くなり谷中谷中霊園に埋葬されましたが,無縁仏になるのを恐れた小田切豊次がこの地にお墓をつくったのではないかといわれます。
  ・・・・・・
各地を旅していると,日本各地で意外なことに遭遇し,ますます旅が楽しくなってきます。

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【Summary】
After walking from Kofu Station to Takeda Shrine, I explored historical landmarks along the way, including the Fujimura Memorial Museum and the Takeda Clan Historic Site Museum, which displays artifacts from the Sengoku period. At Takeda Shrine, dedicated to Takeda Shingen, I learned it has become a community hub, despite historical ambivalence about his legacy. On the return trip, I visited Takeda Shingen's cremation mound, a quiet spot with various locations attributed to his burial, reflecting the enduring legends around his death and burial.

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 再び甲府駅まで戻ってきました。次の目的地は甲府市の北側にある武田神社です。歩くと2キロメートルくらいで,バスがあるということでしたが,町の様子を知るにはできるだけ歩くほうがいいので,そうすることにしました。JRの線路を越えて甲府駅の北口まで来ると,変わった形の建物が見えました。興味をもったので行ってみると,そこは藤村(ふじむら)記念館でした。
  ・・・・・・
 藤村記念館は,1905年(明治8年)に現在の甲斐市亀沢に睦沢学校(むつざわがっこう)校舎として建てられたものです。1969年(昭和44年)から郷土の民俗,歴史,教育,考古資料の展示館となっていましたが,1990年(平成2年)に教育資料館に展示替えを行いました。さらに,2010年(平成22年)現在の甲府駅北口に移転し,交流ガイダンス施設として開館しました。
  ・・・・・・
 少しの時間,展示を見学しました。こうした明治時代の建物は日本の各地で保存されていますが,こうした建物を見ると,いつもこの時代の人々の矜持を感じます。

 さて,武田神社まで歩きます。
 戦国時代,この地を治めた武田家は,現在武田神社のある場所に躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を築造し,城下町の整備を行いました。歩くのは苦になりませんが,北に行くほど標高が高くなっていったことだけが誤算でした。
 途中に山梨大学がありました。甲府の町を見下ろすところで,いい環境だと思いました。
 30分ほど歩いて武田神社まで来ました。神社の手前にあったのが武田氏館跡歴史館でした。私は,武田神社よりもむしろこちらのほうが興味があったので,さっそく中に入りました。
  ・・・・・・
 武田氏館跡歴史館は,2019年(平成31年)に開館しました。武田氏の歴史や文化を学び活用しつつ,新たな賑わい創出の拠点となるよう図っていくことを目的としています。
 武田三代の歴史,城下町の構造や変遷,発掘調査による出土品で明らかになった歴史資料など,戦国時代の歴史や文化を中心に展示・紹介する特別展示室と,武田氏三代をはじめとする武田氏館跡に関連した人物の移り変わり,戦国時代に栄えた甲府盆地の様子などを展示,紹介する常設展示室で構成されています。
 また,昭和初期に建てられた近代和風建築の「旧堀田家住宅」と「堀田古城園」と名付けられた木戸門,主屋,長屋棟,離れ,茶室があります。
  ・・・・・・
 なぜか,この地に太宰治の名前が…。その理由はあとでわかります。

 武田氏館跡歴史館を出て,武田神社に行きました。
  ・・・・・・
 武田家滅亡後,躑躅ヶ崎館の跡は「古城」「御屋形跡」と呼称されている荒れた場所となっていましたが,明治期になると史跡保存運動が起き,古城地の公園化と「機山公霊社」を建設する運動となりました。幾三(きざん)とは武田信玄のことです。つまり,武田信玄を神格化しようというわけでした。しかし,武田信玄に対する評価がさまざまで,その機運は盛り上がりませんでした。
 1899年(明治32年)になると,信玄祭祀神社建設運動が再燃し,1919年(大正8年)に社殿が竣工しました。これが武田神社のはじまりです。
  ・・・・・・
 私は,武田信玄というのは郷土の誇りだとばかり思っていたのですが,歴史的には必ずしもそうでもなかったのです。しかし,現在,武田甚神社は,結婚式,お宮参り,七五三などで非常な賑わいをみせていて,甲府に住む人々のこころのよりどころとなっている場所だと感じました。
 境内には宝物殿がったので,入ってみました。太刀「吉岡一文字」や信玄公の軍扇,武田二十四将図などの武田家ゆかりの貴重な品々を見ることができました。

 甲府駅に戻る途中,武田信玄火葬塚があったので,寄ってみました。
 1572年(元亀3年)に天下をめざして西への侵攻を開始した武田信玄は,徳川家康の浜松城の防衛拠点である二俣城を落とし,三方ヶ原の戦いで家康を破り,三河へ進軍しましたが,野田城を包囲中の陣中で病に倒れ,甲斐へ撤退しました。甲府へ帰る途中,伊那谷で死去しました。
 甲府の土屋昌続邸に埋葬され,遺言により3年の間武田信玄の死は秘匿とされ,1576年(天正4年)に土屋昌続邸で荼毘に付された後,恵林寺で葬儀が行われ埋葬されたと伝えられます。武田信玄火葬塚はその場所にひっそりとありました。しかし,これは歴史の物語で,武田信玄火葬塚はそれ以外の場所にも多々あります。
 また,武田信玄火葬塚の近くには,武田家の滅亡後に織田信長が甲斐の地を与えた家臣の河尻秀隆の首塚もひっそりと存在していました。河尻秀隆は本能寺の変ののち,武田遺臣によって殺害されました。

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【Summary】
With a strong association of Kai with Takeda Shingen, I knew little about its later history. After the Takeda clan's fall in 1582, Kai changed hands under the Oda, Tokugawa, and Toyotomi clans, eventually becoming a Tokugawa shogunate domain. Today, Maizuru Castle Park preserves part of Kofu Castle, offering panoramic views of Kofu city and, on clear days, Mt. Fuji.

######
 「甲斐=武田信玄」というイメージが先行し,その後の甲斐がどうなっていたのか,私は知りませんでした。そこで,今回,行ってみたのを機に,調べてみました。
  ・・・・・・
 現在の山梨県である甲斐は,戦国時代,武田家によって国内統一され,現在武田神社のある場所に躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)が築造され,館を中心とした城下町の整備が行われました。そして,武田信玄の時代に領国を拡大させ,甲府城下町も拡張しましたが,武田勝頼期が長篠の戦いでの大敗を契機として,1582年(天正10年)に織田・徳川連合軍の侵攻により滅亡しました。
 武田家の滅亡後,織田信長が家臣の河尻秀隆に甲斐を与えましたが,本能寺の変で織田信長が横死すると武田遺臣による一揆で河尻秀隆が殺害され無主状態に陥りました。
 やがて,徳川家康の支配となり,家臣の平岩親吉に命じて一条小山に甲府城を新たに普請させ,豊臣秀勝,加藤光泰,浅野長政・浅野幸長父子などの豊臣系大名が入国しました。
 関ヶ原の戦いの論功行賞で浅野幸長が紀州藩へ移封され,徳川家康の八男・徳川仙千代が入りましたが夭折,徳川家康の九男・徳川義直が入りました。徳川義直は尾張徳川家へ移封され,代わって徳川秀忠の三男・徳川忠長が甲府藩主となりましたが,素行の悪さから改易され,その後,甲斐は幕府直轄領となりました。
 1651年(慶安4年)に3代将軍徳川家光の三男・徳川綱重が甲斐を拝領し,甲府藩が成立しました。徳川綱重が死去したのち,長男の徳川綱豊が甲府藩の跡を継ぎました。 徳川綱豊が徳川家宣と改名して6代将軍となって江戸に移ったのち,側用人の柳沢吉保が入りました。 柳沢吉保の隠居後,長男の柳沢吉里が甲府藩主を継ぎました。
 1724年(享保9年)享保の改革の折り,柳沢吉里は大和の郡山藩に移封され,甲府藩は再び幕府直轄領化されました。
  ・・
 武田家の時代は躑躅ヶ崎館を中心とする武田城下町が造成されましたが,武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川氏や豊臣系大名は甲府城を築城して新たに甲府城下町が整備されました。天守台に天守が建てられていたかは不明です。
 明治時代,甲府城は県庁主導の殖産興業政策において建物などの破却が行われ,内堀が埋め立てられて官業施設化されたり,甲府駅の開業によって城跡が分断されたりしましたが,現在は,本丸・天守曲輪及び天守台・稲荷曲輪・鍛冶曲輪の石垣,堀の一部が残り,舞鶴城公園として,甲府城跡の一部が公園として開放されています。
 舞鶴城というのは白壁が重なり合うその優雅な姿から「鶴が羽根を広げたような城郭」という意味でよばれた甲府城の別名のひとつです。
  ・・・・・・

 舞鶴城跡の天守台はけっこうな高さでしたが,天守台に上ると甲府の街並みを一望することができました。晴れていれば富士山も望めるようですが,この日はあいにく雲に覆われていました。
 現在は,私が若いころのように,赤穂事件がドラマ化されることもほどんどなく,今の若い人は「忠臣蔵」などという言葉を知らないのでしょうが,もし,将来,また,この時代が大河ドラマにでもなったら,甲府市内に大河ドラマ館ができることになるのかな?

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【Summary】
On October 20, 2024, I checked out from Toyoko Inn and explored Kofu. After storing my luggage at Kofu Station, I visited the iconic Takeda Shingen statue. I walked through the shopping streets, which felt deserted yet showed signs of renewal. The district was extensive, hinting at its past prosperity. Moving further south, I came across an entertainment area, with nightlife establishments starting their day. Having explored Kofu’s shopping scene, I headed north to my next destination, Maizuru Castle Ruins.

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 2024年10月20日。東横インをチェックアウトして,甲府の町に出ました。まず,甲府駅に行って,荷物をコインロッカーに入れて,そのあと,観光案内所に行き,地図などをもらって,説明を受けました。
 甲府といえば甲府駅前にある武田信玄像(=信玄公像)です。そこで,まず,その像まで行って,写真をとりました。
  ・・・・・・
 信玄公像は、武田信玄公奉賛会が信玄公の遺徳をしのび,県内外の有志1,080人から集めた浄財で建設されました。1968年(昭和43年)に建設を開始し,翌年の信玄公の命日4月12日に完成しました。
 かつては甲府駅前の噴水の南側にありましたが甲府駅前広場の整備に伴い,現在の場所に移設されました。
 信玄公像は川中島の戦いの陣中における姿を模したもので,右手に軍配,左手には数珠を持ち,床几にどっかりと腰をおろしています。
  ・・・・・・
 甲府の市街地は駅から南に広がっています。私は甲府はさびれた街だという先入観をもってやってきたのですが,東横イン甲府駅南口1のある駅前は,まったくそんなことはありませんでした。さらに南に行くと,甲府城跡,別名舞鶴城跡がありました。私が昨晩宿泊した東横イン甲府駅南口2は舞鶴城跡の裏手でした。
 舞鶴城は武田信玄の時代の城ではなく,江戸時代の城,ということでした。
どうも,私には「甲府=武田信玄」というイメージが強すぎるので間違えたのですが,戦国時代の武田家は武田信玄の子・武田勝頼の時代に滅んでいて,江戸時代の甲府の町は武田家とは関係はありません。

 こうして,私は,甲府駅から,再び,昨晩宿泊した東横インまで戻ってきました。昨日は深夜だったのでよくわからなかったから,このあと,さびれた商店街を探訪します。
 朝早いからか,つねにそうなのか,商店街はシャッター街となっていたのですが,ところどころ,新しい店があったり,建築中の建物があったりしました。荒れるまま放置,ということではないようでした。
 日本各地の都会の商店街はどこもそんな感じでさびれているので,特に甲府の商店街がさびれている,という感じはもちませんでした。私の地元の近くの一宮市の商店街のほうがむしろさびれています。ただ,甲府の商店街,ものすごく広いのです。おそらく,昔はかなり栄えていたのでしょう。ということで,私は,破壊されたデトロイトのダウンタウンみたいなところだと期待? したのにもかかわらず,日本各地のどこにでもある商店街にすぎなかったので,変な意味で落胆しました。
 さらに商店街を南に向かって歩いていくと,今度は飲み屋街と風俗街になりました。日本の都会はどの町の同じようなものだなあ,と思いました。私が歩いている時間は午前8時30分過ぎでしたが,甲府の風俗店は午前9時開店という看板があったりして,ちょうど,働く女性が続々と出勤するところに出くわして,びっくりしました。
 私は,甲府の商店街がどんな様子なのか見る,という,わざわざ甲府市にやってきた目的を達成したのでこれで満足して,ここで,進路を北に変えました。次に目指すのは舞鶴城跡でした。

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【Summary】
On October 19, 2024, I opted to return from Tokyo via the Chuo Main Line to explore Kofu in Yamanashi, where I stayed overnight. I enjoyed traveling on the E353 series train, finding it sleek for a non-bullet train. Staying at Toyoko Inn Kofu Station South 1, I saw firsthand the quiet, aged shopping district I'd heard about.

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 2024年10月19日,NHK交響楽団の定期公演終了後,いつものように,そのまま東海道新幹線で名古屋まで帰ってもよかったのですが,このところ,東海道新幹線が事故や台風で不通になったことが度重なって,そのとき,中央線経由で迂回できる,といったことが知られるようになり…,というような理由で,今回,興味本位で,中央本線,中央西線と回って帰ることにしました。
 そんなことを考えたのは,私は,これまで,山梨県の甲府市に行ったことがなく,何でも噂では甲府市の商店街がさびれたと聞いていたので,これもまた,興味本位でそれを見てみたかったということもありました。
 まず,10月19日は,午後10時新宿駅発の中央線の特急「かいじ」で甲府駅まで行って,甲府前の東横インに宿泊することにしました。特急「かいじ」の車両はE353系というものでした。
  ・・・・・・
 E353系は,JR東日本の直流特急形電車です。
 1993年(平成5年)から中央本線の特急「スーパーあずさ」に使用されていたE351系の老朽化と,2001年(平成13年)から中央本線の特急「あずさ」「かいじ」を中心に使用されていたE257系0番台の老朽化で置き換えられた185系からの転用のために2014年(平成26年)に新造が発表され,2017年(平成29年)から営業運転を開始した新型車両です。
  ・・・・・・

 私は鉄道ファンではないのですが,このところ,日本国内を鉄道で旅するようになって,興味が出てきたのです。それまで私が鉄道で知っていたのは,国鉄時代の,ほぼ日本中どこも変わらない列車だったのですが,今は,日本各地でさまざまな列車が走っているので,おもしろいです。
 E353系は,在来線の特急とは思えないあか抜けた車両でした。
 現在,日本各地で新幹線が走るようになったことで,これまでの在来線との整合性などでさまざまな問題が起きています。私は,すでに書いたように,北海道新幹線は函館駅を終点として,北海道内は在来線特急でいい,北陸新幹線は金沢駅を終点として,その先は,大阪駅までは特急「サンダーバード」,名古屋駅までは特急「しらさぎ」でいい,秋田新幹線と山形新幹線は不要で,盛岡駅からと福島駅から在来線特急をはしらせればいい,と思っています。
 実際に利用してみると,私が思っていたことで何の問題もないように感じます。
 私には,新幹線よりも,むしろ,今回利用したような中央本線の「かいじ」「あずさ」や,先日立山黒部アルペンルートに行ったときに利用した高山線の特急「ひだ」,また,紀伊半島を1周したときに乗った特急「南紀」「くろしお」はとても楽しいものでした。

 深夜12時近くに甲府駅に到着しました。
 この日宿泊するのは東横インで,駅からその建物がそびえているのが見えました。しかし,それは私が宿泊する東横インではありませんでした。甲府駅前の東横インには,甲府駅南口1と甲府駅南口2のふたつがあって,私の予約したのは甲府駅南口1だったのです。甲府駅南口2のほうが駅に近く,甲府駅南口1は10分以上も歩く必要があって,失敗したな,と思いました。
 しかし,私は甲府市の商店街がさびれたようすを見たいとしてやってきたわけですが,甲府駅南口1はまさに,そうした商店街の中にあったのでした。

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 念願の尾瀬を歩き終えて,尾瀬戸倉から沼田駅行きのバスに乗り,途中の中町で降りて,再び,ホテルサンルート沼田に戻ってきました。
 このホテルには,大浴場とレストランがあったので,これがとてもよかったです。
 まず,大浴場で体を休めて,そのあとで,ゆったりと夕食を楽しむことにしました。これこそが,海外旅行では味わうことができない日本の旅のよさです。こんな楽しみを覚えてしまうと,海外旅行をする気がなくなってしまいます。

 2024年6月8日。
 翌朝はホテルで朝食をとりました。朝食の時間は午前7時からでしたが,その5分前にはすでに数人が列を作っていました。広い食堂でしたが,私が食べ終わるころには列はすごい長さになっていました。東横インもそうですが,朝食の無料バイキングというのはよし悪しです。朝から憂鬱になります。
 朝食後チェックアウトして,沼田駅に向かいました。ホテルのある市街地から沼田駅までは下り坂なので楽です。来たときは,失敗した,この先どうなるかと心配でしたが,結局,沼田駅から坂を上ったのは着いたときだけでした。状況がわかったので,次回尾瀬に来ることがあれば,また,同じホテルに泊まるかもしれません。あるいは,沼田駅から尾瀬戸倉の間には,老神温泉(おいがみおんせん),片品温泉(かたしなおんせん)があるし,戸倉にも旅館があるので,もし,そうした場所の旅館が安価ならばそこに宿泊するという方法もありますが,さほど時間は違いません。
 この日は土曜日。私が沼田駅に着くと,昨日私が尾瀬戸倉まで乗ったバスにのるために多くの観光客が並んでいました。旅は,週末にするものではないなあと思いました。
 私は,沼田駅から高崎駅まで行き,そこで,上越新幹線に乗り換えて,東京へ向かい,東京でNHK交響楽団の定期公演を聴いたのち,帰宅します。NHK交響楽団の定期公演のことはすでに書きました。

 高崎駅は,上越新幹線と北陸新幹線が合流する駅です。上越新幹線には,新潟駅始発の「とき」と,途中の越後湯沢駅始発の「たにがわ」があります。また,北陸新幹線には,敦賀駅始発の「かがやき」「はくたか」と,途中の長野駅始発の「あさま」がありますが,「かがやき」は高崎駅は通過します。
 東海道新幹線には「のぞみ」「ひかり」「こだま」があって,私にはその区別がつくのですが,上越新幹線と北陸新幹線のことはなじみがないのでその区別がわかりません。そこで,ほとんどの駅を通過する列車なのか,たくさん停車駅がある列車かを区別するために「LEVEL1」「LEVEL2」とか,「Grade1」「Grade2」,もっと単純に(新幹線の)「特急」「急行」いった名称を通称のあとにつければいいのに,と思います。たとえば「-LRVEL1ーとき」「-LRVEL2ーたにがわ」とか「特急とき」「急行たにがわ」といった感じです。
  ・・
 私は,高崎駅午前10時39分発東京駅午前11時28分着の「とき」314号の座席指定券をもっていたから,列車が来るまでずいぶん時間がありました。早い列車に座席指定を変更すればよかったのですが,めんどうだったので,そのまま待ちました。しかし,それまでに,いくらでもがらがらの列車が来て自由席に座ることができたのに,新潟駅からやってきた「とき」はすごく混んでいました。高崎駅から「とき」に乗るのは最悪の選択でした。実際は,座席指定券など購入せず,自由席でよかったのです。いい経験になりました。

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 実際に歩いてみて,ようやく尾瀬というところがわかった私でした。
 何の準備もなくやってきたので,今回はこれで帰ることにしました。危惧していたのとは違って,尾瀬は人だらけではありませんでしたが,午後になって,次第に人が増えてきました。平日の午前中にやってきたのが正解だったようです。
 まず,竜宮十字路から山ノ鼻まで戻りました。至仏山の裾が鼻のように突き出ているところから名づけられた山ノ鼻には,レストランがあったので,ここでおそばを食べました。
 来たときは,何も知らなかったので,期待に胸を膨らませて坂道を下りましたが,帰りが大変です。山ノ鼻から鳩待峠まで,5キロメートル以上の距離,標高200メートルほど坂を上らないといけません。尾瀬ヶ原の雄大な景色を見るには,誰しも,この試練を乗り越える必要があるのです。

 私は,急ぐ旅でもないので,ゆっくりと歩いていましたが,周りでは,難儀をしている初老の女性たちが大勢いました。団体ツアーで観光バスに乗って尾瀬戸倉まで来るのは簡単ですが,その先は誰しも自力で行くしかないのです。
 次第に空が暗くなってきて,やがて小雨が降ってきました。
 朝方はとてもよい天気だったので,山ノ鼻の案内所で,午後は雷雨になるかもしれない,と聞いたときは,まさか,と思いましたが,その通りになってきました。
 私の持っていた傘が役立ちました。山ノ鼻から鳩待峠までは,坂とはいえ,登山ではないから,傘をさして歩けないほどではないのです。傘を持たず,ビニール製のカッパを持っていた人が多くいたのですが,それを着たら暑くて歩けないのです。この人たちは,雑誌にのっているような服装をして,重い荷物を背負っていても,肝心なものを持参していないわけです。
  ・・・・・・
 快適な登山にするためにはレインウェア選びが大事です。登山用のレインウェアは「防水性」だけ優れているわけではなく,運動をするときと同じように長時間の登山はたくさんの汗をかくので,【安価で販売されているビニールカッパなどは「防水性」は優れていますが汗を発散させる「透湿性」が備わっていないから,汗を外部に放出できず衣服の中がムレ,汗だくの状況で登山することになると大変危険なのです】。
 そこで,登山では,「防水性」はもちろんですが高性能な「透湿性」も兼ね備えた「ゴアテックス」素材のレインウェアを選ぶことが大切です。
  ・・・・・・
ということなのです。

 私は,何とか,小降りのうちに鳩待峠まで着くことができました。ちょうど出発時間だったので停まっていたシャトルバスに乗りこんで,尾瀬戸倉のバス停で降りました。ここでバスを乗り換えて,沼田市内まで戻ります。時刻は,まだ午後2時くらいでした。
 バスを待っていると,朝出会ったスペインから来た女性がやってきて,再び合流しました。彼女は私が乗ってきた次のシャトルバスに乗ってきたようです。そのころ,尾瀬の方向を見ると,真っ黒な雲が立ち込めて雷音がたなびきはじめました。午後に尾瀬を歩きはじめた人たちは,今ごろどうなっているのだろう? と心配になりました。大平原では逃げ場がありません。ここでもまた,強運な私は,事なきを得たのです。
 やがてバスが来ました。
 沼田駅に行く途中で,スペインから来た女性とはお別れをして,私は,沼田駅の3つ手前の中町バス停で降りました。いくらいい加減な私でも,このころには,ここで降りればいいということは調べがついていました。中町のバス停からはホテルルートイン沼田はわずかな距離で,ここで降りれば,沼田駅まで行って坂道を登らなくてもすむのです。中町で降りたときは,雨は降っていませんでした。どうやら,尾瀬のあたりだけの雷雨だったようでした。
 こうして,私のはじめての尾瀬歩きが終わりました。次回があるなら,今度は,会津口から尾瀬沼を目指したいものだと思いました。

 ここからは余談になります。
 こうした山歩きで不安になるのはトイレです。
 アメリカでは,こうした山歩きやキャンプ場では,水洗トレイはありませんが,どこもとてもキレイでした。清潔さを保つための特別な薬品があるようでした。それに対して,従来,日本では,登山やキャンプ場では,利用する気にならないような,悪臭漂う不衛生なものが多かったから,尾瀬でもそれが心配でした。しかし,尾瀬では,有料でしたが,どのトイレも水洗でとてもきれいでした。こうしたことだけでも,尾瀬を大切にしている多くの人がいるのだと感謝しました。
 それにしても,日本は,何事も,やらないところは徹底的にひどく,やるとなると,今度は,行き過ぎるくらいにやる国だと,いつも思います。

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 分岐がありました。私は,ここが竜宮十字路だと思いましたが,実際は,その手前の牛首分岐でした。牛首分岐から,ほとんどの人は竜宮十字路に向かって歩いていきます。私もその予定でしたが,地図で確認すると,ここから左手に行くと,ヨッピ吊橋へ至り,そこから竜宮十字路に行くことができるのを知りました。ちょうど直角三角形のような感じです。
 直接竜宮十字路へ行けば約40分,ヨッピ吊橋を経由すると約80分です。迷ったのですが,せっかく来たのだからと,ヨッピ吊橋を経由することにしました。
 思ったより遠く,次第にめげてきたころに,やっとヨッピ吊橋に到着しました。ヨッピ吊橋は思っていたような,山の中のつり橋ではなく,鉄製のどおってことない橋だったので,がっかりしました。何せ,私は,つい1週間ほど前に,奥大井のこわ~いつり橋をふたつも渡ってきたところだったのですから。

 ヨッピ吊橋からさらに東に進むと,東電分岐に至り,その先には平滑ノ滝があり…,というように,尾瀬はどんどんと深みにはまっていきます。こうなると,果てしがありませんが,これこそが尾瀬の魅力なのでしょう。山登りも,上るときよりも,どこかで中断して引き返すことのほうが難しいといいます。
 私は,何の準備もなく時間も限られていたからそんな深みにははまらず,竜宮十字路へ向けて歩きはじめました。ヨッピ吊橋から竜宮十字路までは単調な道が続いていました。竜宮十字路では,多くのがお昼を食べていました。
 私の歩いたような初心者向けの半日コースでは,このあたりでお昼を食べて帰る,というのが楽しみだったのです。もちろん? 私は,お昼ご飯など持っていませんでした。竜宮十字路から少し行ったところに竜宮小屋があって,そこで昼食がとれるようでしたが,ここでおなかをいっぱいにしてしまうと,歩くのが大変になりそうだったので,やめました。
 それにしても,こうした山小屋に物を運ぶのは大変そうです。尾瀬ヶ原を歩いていたときも,背中に20キログラム以上の荷物を担いだ人とすれ違いました。

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 私は,この時点でも,まだ,尾瀬というところがよくわかっていませんでした。よく写真で見る尾瀬のミズバショウ咲く大平原は,いい加減な私には縁遠く,今回ちょっと歩いたくらいでは見ることはできないだろう。だから,尾瀬というところがどこにあって,どのくらいの人が来ているのか,ということがわかればいいや,と思っていました。そもそも,尾瀬を歩くような恰好をしてきたわけでもなく,持ち物といっても,帽子と財布と念のための傘と汗拭きタオルが入ったナップザックを背負っているだけでした。
 私は,バスで知り合ったスペインから来たという女性と,山ノ鼻まで,何となく一緒に歩いてきました。山ノ鼻に案内所があったので中に入って,まず地図をもらい,半日くらいで歩けるコースを聞きました。驚くことに,私がイメージしていたミズバショウ咲く尾瀬の大平原は,もうこのあたりから少し歩くだけで見られるとのこと,そして,そのあとはずっと同じような景色が続くだけだから,適当なところまで行って帰ってくればいいと言われました。さらに,午後は雷雨になるかもしれないという話を聞き,これには驚きました。

 こうしたことを伝えて,スペインから来たという女性とはここで別行動をとることにしました。彼女のほうが若いし,わたしよりずっとたくさん歩くつもりだったからです。私は,適当なところまで行って引き返すことにしました。
 こうして,尾瀬を歩くことになって,帰ってから改めて調べてみると,尾瀬は,西側の尾瀬ヶ原と東側の尾瀬沼があって,その周りを山が囲んでいる場所だということがわかりました。そして,初心者が歩くには次のふたつのコースがあるのでした。
①沼田口から来て尾瀬ヶ原を歩くコース
 これは私が今回歩いたコースで,ミズバショウ咲く尾瀬というのは,この場所のことでした。そして,まさに今がハイシーズンだったので,初心者が尾瀬を歩くにはもっとも的確なコースでした。
②会津口から入って尾瀬沼を歩くコース
 もうひとつがこのコースで,①のコースより若干きついようです。こちらは,ミズバショウではなくニッコウキスゲの花が咲くところで,シーズンは7月中ごろ,ということです。

 案内所でもらった地図に従って,山ノ鼻から歩きはじめました。山ノ鼻からはずっと平原で,どれだけでも歩けるように思いました。
 山ノ鼻から竜宮十字路まで約4,200メートル,1時間30分ほどということだったので,そこまで歩いて引き返すことにしました。
 すばらしい風景でした。アメリカの国立公園のような,日本にこんな広大ですばらしいところがあるのも驚きでした。ちょうどミズバショウが咲いていたことで,感動はさらに増しました。私がこの時期にやってきたのは,ミズバショウが咲いているから,ではなく,そんなことは全く知らず単なる偶然なのでした。また,ミズバショウ以外にも,小さな黄色いリュウキンカをはじめとして,ヒメシャクナゲ,ミツガシワなど多くの花々を見ることができました。幸い,条件がよければ燧ケ岳(ひうちがたけ)がきれいに池に映って見えるという「逆さ燧」(さかさひうち)も見ることができました。
 それにしても,開発という名目で自然破壊が大好きな日本人なのに,よくぞこれだけの湿原を残してくれたものだと感謝しましたが,これには,平野長蔵さん,平野長英さん,平野長靖さんといった平野家三代をはじめとする先人たちの偉大な努力があったからこそ,ということを知りました。
 歩きはじめて約40分で途中の牛首分岐というところに着きました。

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 沼田駅から尾瀬戸倉までバスで1時間23分もかかり,到着は午前8時43分でした。
 途中で,外国人の女性が乗り込んできました。そのまえに,バスには沼田市内から再び高校生が乗り込んできていて,やっとふたりが座れる狭いふたり掛けの席はそれぞれひとりずつが座っていて満員でした。一番後ろの席に座っていた私の横だけが空いていたので,彼女はそこに座りました。しばらくして,片言の日本語で,「このバスは尾瀬戸倉に行きますか」と聞いてきました。日本語で答えてわからないと面倒だったので,英語で答えると,彼女は安心したように英語で話しかけてきて,打ち解けました。彼女が話しかけてきたのが私で幸運だったと思いました。彼女は,スペインからひとり旅で日本にやってきて,各地を回っているのだそうだそうです。
 沼田市内から乗り込んだ高校生たちはいったいどこの高校に行くのだろうとずっと思っていたのですが,一向に降りる気配がありませんでした。バスは次第に山の中に入っていきます。どうして都会からこんな辺鄙な学校に通っているのか不思議でした。
 高校生たちが降りたのは,乗車して40分くらいして到着した尾瀬高校でした。あえて尾瀬高校を選ぶ理由があるのでしょうか。

 高校生たちが降りてしまうと,乗客は,私と,同じく沼田駅で乗った尾瀬へ行くと思われる若者と,スペインから来た女性の3人になりました。
 尾瀬戸倉に着きました。降りたのは,私とスペインから来た女性のふたりでした。若者は,大清水まで行くようでした。
 尾瀬の入り口は,南側の沼田口,東側の会津口,北側の越後口とあります。このうち,沼田口から尾瀬に行くには,私のように,尾瀬戸倉で降りてシャトルバスに乗り換えて鳩待峠まで行きそこから歩くか,大清水で降りてそこから歩くか,の2通りになります。鳩待峠からコースがもっとも初心者向けで,大清水からのコースはかなりきつい上り坂となります。
 さて,尾瀬戸倉で降りたことはいいのですが,そこから出るシャトルバスの乗り場がわかりません。乗ってきたバスの運転手に聞くと,橋を渡った先だと教えてくれました。もし,私がいなかったら,スペインから来た女性はここで困ったことでしょう。
 尾瀬は,マイカー規制があって,自家用車で来ても尾瀬戸倉から先は行くことができません。そこで,私と同じように,尾瀬戸倉からはシャトルバスを利用することになります。観光バスで来ても同様です。そこで,尾瀬戸倉には広い駐車場があります。また,新宿から尾瀬戸倉まで直行するバスもあるようです。
 シャトルバスは,一応,時刻表がありますが,人が集まり次第バスが出るようで,さほど待ち時間もなく乗ることができました。シャトルバスに揺られて約30分,やっと,鳩待峠に着きました。

 少し歩いたところに鳩待峠休憩所があって,そこが尾瀬の入口でした。
 多くの人が,雑誌に出てくるような恰好をして,屈伸運動をしたりして,これから歩く準備をしていました。そのほとんどは,私くらいの年齢の人たちでした。私は,とても山歩きだとは思えない普段通りの恰好をしていました。旅の荷物は当然ホテルに置いてきたから,この日は,カメラを肩にかけ,スマホをズボンのポケットに入れ,小さなナップザックに帽子と財布と念のための傘と汗拭きタオルが入っているだけでした。山登りをする上級者は別として,たかが尾瀬歩き。みなさん,なんと大げさな,と思いました。スポーツジムも自然散策も格好から入るのですな。家の近くでもこんな格好をして散歩してる人を見かけます。
 まず,山ノ鼻というところまで約1時間,3キロメートルほどの山道を,標高1,591メートルから1,400メートルまで,標高差約200メートルほど下ります。下りなので楽でした。しかし,歩きながら,帰りはこれを登ることになるのだ,ということに気づき,ゾッとしました。
 だれしも,尾瀬といえば,広々とした湿原に木でできた歩道が続き,ミズバショウが咲いている景色を思い浮かべることでしょう。私も,そんな景色見たさに尾瀬に来たわけですが,しかし,そんな景色はどこにもありません。単に山道が続いているだけでした。やがてミズバショウが咲いている場所に来て,少しは尾瀬を感じはじめたころ,山ノ鼻に到着しました。そこには,ロッジやレストラン,観光案内所があって,多くの人でにぎわっていましたが,私が想像していたあこがれの尾瀬の景色は果たしてどこにあるのだろうか?

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 沼田駅からえらく苦労してやっと到着したホテル「ルートイン沼田」でした。バイキング形式の朝食がついていたのですが,翌日は出発が早いので,せっかくの朝食を取ることができないから,まず,ホテルの近くにあったコンビニで朝食を買ってから,ホテルにチェックインしました。
 このホテルは,「東横イン」とは比べるべくもないデラックスなホテルでした。ホテルにはレストランもあって,夕食もとれます。また,大浴場もついていました。チェックイン後,まず大浴場に行って,汗を流して,早々に寝ました。

 2024年6月7日。
 尾瀬に行くためには,まず,坂を下って沼田駅まで行って,午前7時20分のバスに乗ることになります。実は,私の乗る沼田駅発のバスは,私が昨日歩いてきた坂を上り,沼田市街を抜けていくのでした。つまり,沼田駅まで行かずとも,ホテルに近い中町というバス停で待っていればよかったのです。
 私は,昨日,チェックインするときに,ホテルのフロントで最寄りのバス停を聞いたのです。しかし,フロントにいた女性は,何も知らず,尾瀬に行くバスに乗るには沼田駅へ行けというだけでした。ホテル「ルートイン沼田」,ホテルは立派でもフロント係は失格でした。
 さて,私は,早朝,大浴場に入ってから,部屋で買っておいた朝食を取り,朝6時過ぎにホテルを出ました。せっかく来たので,沼田駅に行くまえに,少しだけ,沼田市街を散策することにしたのです。

 沼田市は中心にあった沼田城跡が広い公園になっていました。
  ・・・・・・
 さかのぼること約400年,名だたる戦国武将が争奪戦を繰り広げた沼田を治めたのが真田氏でした。市内には至るところに真田時代の痕跡が今でも数多く残っています。
 沼田城は,1532年(天文元年)に沼田万鬼斎顕泰(ぬまたばんきさいあきやす)が3年の年月をかけ築城しました。その後,真田昌幸が入城し,1590年(天正18年)に真田昌幸の嫡子真田信之が城主となり,5代91年間の真田氏の居城となりました。また,1597年(慶長2年)には五層の天守が建造されました。
 1681年(天和元年)5代城主真田信利が江戸幕府に領地を没収され,翌年,幕府の命により完全に破却され,その後再建はされませんでした。
  ・・・・・・
 沼田というのは,何とまあ味わい深いところだなあ,と思いました。
 もっと見たかったのですが,今回は沼田市の観光に来たのではないから,このくらいにしました。

 さて,昨日は,車道に沿ってかなり遠回りをして登ってきましたが,調べてみたところ,歩行者だけが通ることができる階段やら狭い坂道があることがわかったので,さほど時間をかけずとも,沼田駅に到着できました。しかし,この狭い坂道と階段,下るのは楽でも登るのはたいへんです。
 私が沼田駅に着いたとき,尾瀬に行くらしい身なりの若者がひとりバスを待っていました。バスに乗るのはその人と私のふたりくらかな,と思ったのですが,さにあらず。この日は平日。ちょうど通勤通学まっさかりで,列車が着くたびに,乗り降りする学生や通勤客でごった返して,バス停にも高校生の列ができました。
 やがてバスが来ました。バスの行先は大清水で,私の目的地は,そのひとつ前の尾瀬戸倉です。バスは,多くの高校生でいっぱいになりましたが,そのほとんどは,途中の沼田高校というバス停でで降りていき,そのあとは,数人の乗客だけが残りました。尾瀬の沼田口からのアクセスルートはこのバス一択なのに,これでは,尾瀬は私が懸念していたほど人混みではないのかな,と安心しました。しかし,それは,私が行ったのが金曜日だったから,ということが翌日判明しました。
 翌日の土曜日,私が尾瀬歩きを終えて,沼田駅から東京駅へ帰るために上越線に乗るとき,けっこうな人が駅で尾瀬に行くバスを待っている姿を目撃したのです。

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 高崎駅ではさほど待ち時間もなく,午後6時57分発の上越線に乗って午後7時47分に沼田駅に着きました。沼田市ははじめて行きましたが,一見,以前行った会津若松駅や会津田島駅のような感じでしたが,沼田駅は,会津若松駅や会津田島駅とはどこか違っていました。駅前だというのに商店街もなく,一体,繁華街はどこ? という感じだったのです。駅弁を食べておいてよかったと思いました。
 駅の真正面に小高い山があって,どうやらそこが沼田城のようでした。私が予約をしておいたホテル「ルートイン沼田」は,地図で見る限りは,沼田城の近くで駅からさほど遠いところではないと思っていたのに,まったく見当たりません。
 私は,旅に出るとき,2食つきの小さな温泉宿に泊まるか,さもなければ,東横インに泊まるか,と決めています。「東横イン」は,いろいろと不満はありますが,安価で駅から近いところにあるからです。しかし,沼田市には「東横イン」がなく,唯一見つけたシティーホテルがホテル「ルートイン沼田」だったのです。

 私は,とんでもないことに気づきました。それは,ホテル「ルートイン沼田」は,あの小高い山の向こうではなかろうか,ということでした。いくら旅の荷物が少ない私としても,2泊分の着替えを入れたリュックサックを背負っていました。この小高い山を越えるのか,そして,毎日,駅まで往復するのか,と思ったら,気が滅入りました。失敗したな,と思いました。
 あとで,徒歩の場合は小高い山を越えるための階段や歩道があったのを知ったのですが,このときはそんなこともわからなかったから,車道をぐるりと遠回りすることになってしまいました。
 沼田駅を出発して,20分は歩いただろうか。汗まみれになりながら,やっと小高い山を越えました。すると,沼田市の繁華街が広がっていました。そして,そこにホテル「ルートイン沼田」が存在しました。
 そうです。沼田という町の繁華街は,沼田駅付近ではなく,小高い山の向こうだったのです。しかし,私が事前に調べておいたGoogleMapsでは,そんなことはわかりません。帰宅してからストリートビューを見て,やっとその事実がわかりました。なんというおかしな町なのでしょう! この時点では,沼田「なんて」2度と来るものかと思いました。これでは,尾瀬を歩く前にくたばってしまいます。しかし…。

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 2024年6月7日,ついに尾瀬を歩きました。
 以前から,一度尾瀬に行きたいと思っていたのですが,ずっとその機会がありませんでした。6月8日の夜,NHK交響楽団の定期公演があったので,その機会を利用して,尾瀬に行ってみることにしました。

 2024年6月6日。
 午前中は用事があったので,それを済ませて,午後に家を出て尾瀬に向かい,翌日6月7日の朝から1日尾瀬を散策して,6月8日に東京へ行くことにしました。
 とはいえ,どのように行けばいいのか見当がつかず,また,尾瀬付近に適当な宿泊場所がなかなか見つからず,尾瀬を歩くには,尾瀬の山小屋に宿泊するのがいいと書かれてあっても,行ったこともないので,さすがにその勇気が起きず,と困り果てていました。
 今となっては,どうして沼田市に宿泊しようということにしたのかは思い出せないのですが,沼田市というところに,ホテル「ルートイン沼田」を見つけ,沼田駅前から尾瀬の沼田口へアクセスできる尾瀬戸倉まで行くバスがあることがわかったので,東京駅経由で上越新幹線の高崎駅まで行って,そこから在来線に乗り換えて沼田駅へ,そして,6月6日と6月7日ホテル「ルートイン沼田」に2泊し,6月8日に逆コースで東京へ行く,ということにしたのでした。

 さすがに何も調べずに行くのは無謀だと思ったので,事前に「るるぶ情報版・尾瀬」というガイドブックを買ったのですが,本で見るだけでは,1日で広い尾瀬のどこまで歩けるのか,険しいのか,どういう服装ならいいのか,などなど,わからないことだらけでした。そこで,とにかく,今回はお試しということで,細かいことは調べずに出かけることにしました。一度行けば,本など読むより多くのことがわかるに違いありません。とはいえ,すべては天候次第でした。ところが,そのころはまったく気づいていなかったのですが,私が尾瀬に行こうと思っていたときは,尾瀬にミズバショウが咲き乱れるハイシーズンだったのです! 何という幸運,だったことには違いないのでしょうが,すごい人だという風のうわさ…。人混みの嫌いな私は,楽しみを越えて憂鬱になってきました。
 ということで,テンションも上がりませんでしたが,ともかく,尾瀬に出かける日を迎えました。心配だった天気は,幸い,予報では晴れ! ということでした。名古屋駅午後2時43分発の「ひかり」510号に乗って東京駅午後4時42分着。「のぞみ」に乗らず「ひかり」に乗るのは,ジパング倶楽部を利用しているからです。東京駅のホームで駅弁を買って,事前に調べてあった午後5時52分発高崎駅午後6時49分着の「たにがわ」405号に乗りました。「たにがわ」405号はすべて自由席ということでしたが,車内は空いていました。おいしく駅弁を食べているうちに高崎駅に到着しました。

 私は,東京駅から先のことがよくわかっていなかったのですが,北海道新幹線,東北新幹線,秋田新幹線,山形新幹線,上越新幹線,そして,北陸新幹線,そのすべては,東京駅から出発して,途中の大宮駅で北海道新幹線,東北新幹線,秋田新幹線,山形新幹線と上越新幹線,北陸新幹線が別れ,さらに,高崎駅で上越新幹線と北陸新幹線が別れるわけです。そこで,高崎駅まで行くには,上越新幹線と北陸新幹線のどの列車でも,高崎駅を通過するものでなく自由席があるものなら乗ればよかったのです。そんなことすら知らないものだから,ホームで,何度かの新幹線を見送って,私が乗ることに決めていた「たにがわ」405号を待っていたのでした。アホですな。

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 日光橋から東南東へ,国道119号線に沿って歩いていくと,東武日光駅に戻ることができます。20分ほどかかりますが,ずっと下り道なので楽です。道路は,はじめの3分の1程度は工事中でした。完成すれば,東武日光駅から日光橋まで,美しい街並みができあがることでしょう。
 予定よりも早く日光観光を終えたので,時間がありました。来るときはわき目も振らず日光橋まで行って,どこも見なかったので,のんびり散策することにしました。

 まず,右手に見えた美しい建物は,旧日光市庁舎本館でした。訪日外国人旅行者を対象としたホテルとして大正時代に建築されたものですが,ホテルとして営業したことはなく,寮や市役所として利用されたそうです。現在は,建物の周辺は公園として整備され,2022年(令和4年)に旧日光市役所記念公園の名称で開園しました。耐震基準を満たさないため,建物の内部に入ることはできません。
 さらに進んでいくと,日光郷土センターがありました。ここには,観光案内所,江戸時代に作られたとされる弥生祭本家体,日光彫,日光下駄などの伝統工芸品を紹介するコーナー,日光の歴史を紹介するコーナーなどがあって,観光客が立ち寄ることができるのですが,一見,敷居が高そうで,あまり活用されていない状況でした。私は,駐車場に停まっていたキッチンカーでフルーツを買って,日光郷土センターの休憩所で食べました。
 さらに歩いていくと,仁右衛門という変わった名前の陶芸店に併設されたカフェを見つけたので,アイスコーヒーを飲みなら休憩しました。この店に「1,000円札が不足しています」と書かれてあったので,その理由を聞くと,手数料が高いのでクレジット払いはやっていないので,現金が必要だけれど,外国人観光客がATMでお金をおろすと10,000円札と2,000円札!ばかり出てくるので,おつりに大量の1,000円札が要る,という話でした。

 やがて,東武日光駅に着きました。
 まだ時間が早かったので,そこから歩いて,JR日光駅まで行ってみました。JR日光駅は,明治のロマネスクの香りを残す駅舎でした。1890年(明治23年)開業の木造建築の駅で,夜になるとライトアップによって,白亜の駅舎が幻想的な姿で浮かび上がるそうです。
 待合室にはたくさんの外国人観光客が列車を待っていました。東京から日光までは,私のように,東武浅草駅から特急に乗って東武日光駅に行くのが所要時間も51分でもっとも簡単ですが,東京駅から東北新幹線で宇都宮駅まで行き,JR日光線でJR日光駅まで行くと約1時間50分,また,安価で行くなら,東京駅からJR宇都宮線で栗橋駅で乗り換え,東武日光線で東武日光駅に行く約3時間コースもあります。多くの外国人がJR日光駅で列車を待っているのは,おそらく,JAPAN RAIL PASSを使うからだと思われます。


 JR日光駅から東武日光駅の間には松並木があります。そこを歩いて,東武日光駅に戻りました。
 もともとは,午後5時24分東武日光駅発の「リバティけごん」44号で帰る予定でしたが,時間が早かったので,午後4時22分東武日光駅発の「リバティけごん」40号に変更しました。簡単に変更できたのですが,その後,予約をした乗客が多かったらしく,出発時点では,満席でした。
 列車の中で食べようと,東武日光駅の売店で「宮の釜めし」という駅弁を購入しました。駅弁には「宇都宮・駅弁発祥の地」とありました。
  ・・・・・・
 日本初の駅弁として定説となっているのは,1885年(明治18年)7月16日,日本鉄道から依頼を受けて「白木屋」という旅館が販売した駅弁です。この日に開業した日本鉄道宇都宮駅で販売され「おにぎり2個,たくあん2切れ」を竹の皮に包んで5銭という内容でした。
  ・・・・・・ 
 そうそう,駅弁に気持ちがいってしまい,コインロッカーに預けてあった荷物を取ることを忘れていたことに,列車に乗る直前に気づきました。危うく大変なことになるところでした。

 北千住駅で降りて,地下鉄の千代田線に乗り換え,二重橋駅で降りて,東京駅からすでに購入してあった新幹線を変更して,予定より早く帰宅しました。
 北千住駅では,何と,東武電車と地下鉄の駅の間は改札口がなく,そのまま地下鉄のホームに出てしまい,「NIKKO MaaS」で旅をしていた私は戸惑いました。二重橋駅で地下鉄を出るときに有人の改札口だったので助かりましたが,無人だったら自動改札が出られませんでした。ICカード利用のときの利便性ばかりを追求し,駅の無人化を推進していますが,こうしたことまで考慮されていないことをいつも感じます。

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 私が行きたかったところはすべて見終えたので,昼食をとることにして,ちょうどいい場所に食事処があったので入りました。
 食事を終えて,まず,日光東照宮の宝物殿に行きました。
 日光東照宮の宝物館には,徳川家康の遺愛品をはじめとして,朝廷や将軍家や大名家からの奉納品,祭器具などを収蔵,展示公開していました。徳川家康着用の「南蛮胴具足」や名刀「勝光宗光」などの刀剣類,寛永の大造替に際して上棟祭に用いられた「大工道具及び箱」,「東照社縁起」,徳川家康の画像などを見ることができました。

 次に,日光山輪王寺へ行きました。
 日光山輪王寺は,勝道上人が四本龍寺を建てたのがはじまりです。天台宗総本山は比叡山延暦寺で,大本山は関山中尊寺,日光山輪王寺,東叡山寛永寺,定額山善光寺ということです。ここにある「三仏堂」は日光山最大の規模を誇る木造建造物で,千手観音,阿弥陀如来,馬頭観音という三体の巨大な金色の仏像が祀られていて,外国人観光客でごった返していました。
 また,日光随一の護摩祈願所として1998年に新築された大護摩堂があって,家内安全,身体健全,商売繁昌など現世利益を不動明王様の火炎によって祈願する護摩祈願が行われるところだったので,参列しました。護摩祈祷というのは密教の秘法で,火中に供物を投げ入れて供養し,その加護を願う儀式ということで,私は,はじめて見ました。
 護摩の焚き方は宗派や流派によってさまざまで,天台宗では,建立曼荼羅護摩儀軌(こんりゅうまんだらごまぎき),真言宗系では金剛頂瑜伽護摩儀軌(こんごうちょうゆがごまぎき)という仏様を供養する方法が書かれた本を基に行われるそうです。
 最後に,輪王寺の宝物殿と「逍遥園」という庭園に行きました。宝物殿では「家康公の遺宝と日光山」という展示が行われていました。おもしろかったのは,強飯式に関わる宝物でした。強飯式は,「日光責」の名で知られる全国でも稀な日光山を代表する古儀で,寺伝によると,山伏が入峰行(にゅうぶぎょう)の際,行場(ぎょうば)の本尊にお供えした御供(ごくう)をもち帰り,人々に与えたことがはじまりと云われています。
 また,「逍遥園」は江戸時代の日本庭園で,苔むした池泉回遊式の園内に,シャクナゲ,ツツジ,サツキなどが咲き,美しいところで,落ち着いたときを過ごすことができました。あれだけ人が混みあっていても,そのほとんどは団体客なので,こうした場所にはまず来ないのです。逆にいえば,団体ツアー旅行をしても,こうした場所には行くことができない,ということになります。

 これで帰ろうかと思ったとき,日光東照宮の五重塔が特別公開されていることを知って,戻りました。
 日光東照宮の五重塔は,酒井忠勝により1818年(文化15年)に建立されましたが,落雷のため一度焼失し,現在のものは,1818年(文政元年)に酒井忠進によって再建されたものです。高さは36メートルあります。
 日光東照宮の五重塔の特徴は,屋根からぶらぶらと吊るされている心柱です。この建築様式は東京スカイツリーでも採用されていて,その理由のひとつは,屋根は上から被せているだけなので屋根を固定するための重石がわりにしていること,ふたつ目は,地震が起きた際に,横揺れ,縦揺れを振り子のように揺れ,力を逃がす役割を果たしていることです。また,屋根は,屋根を支える柱の結合部分に杭や釘が使われおらず,上下の凹みに柱がはまり乗っているだけの作りになっていることで,地震が起きたとき,結合部分に柔軟性が生まれ,揺れの力を吸収するという仕組みになっています。
 一階部分の層には,東西南北の4つの面に,日光・富田宿の名工・後藤正秀が手掛けた「十二支の彫刻」があります。

 最後に,「神橋」を渡ることにしました。
 別名を山菅橋や山菅の蛇橋(じゃばし)という「神橋」は,二荒山神社の建造物で,日光山内の入り口にかかる木造朱塗りの美しい橋です。奈良時代の末に勝道上人が日光山を開く際,大谷川の急流に行く手を阻まれ神仏に加護を求めたところ,深沙王(じんじゃおう)が現れ,2匹の蛇を放ち,その背から山菅(やますげ)が生えて橋になったという伝説をもちます。
 現在のような朱塗りの橋になったのは1636年(寛永13年)の東照宮の大造替のときですが,1902年(明治35年)に洪水で流されてしまい,1904年(明治37年)に再建されたものです。日本三大奇橋のひとつで,夜間はライトアップを実施しているということです。

 こうして,私は,この日,日光2社1寺をすべて見て回ることができて,すっかり満足しました。

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 日光山輪王寺大猷院(たいゆういん)へ行こうと思ったのに,修学旅行生でごった返していたので,ひとまず二荒山神社に行きました。しばらく経って,空いただろうと思ったので,再び,日光山輪王寺大猷院へ向かいました。
 ちょうど修学旅行生が去ったところで,静寂に包まれていました。

  ・・・・・・
 大猷院は徳川家光の法号です。祖父である徳川家康を深く尊敬していた徳川家光は, 1651年(慶安4年)4月20日に若さで世を去りました。臨終に際して「死後も魂は日光山中に鎮まり東照公のお側近くに侍り仕えまつらん」と遺言,廟所は仏式で,荘厳は決して東照宮のそれを超えないようにと命じたと伝えられています。それに従って,4代将軍徳川家綱によって,この地に廟所が建造されました。
 建物は,本殿,相の間,拝殿に加え,壮麗な二天門,竜宮城を思わせる皇嘉門(こうかもん)からなります。また,大猷院の建物は日光東照宮の方角を向き,見守るように建っています。
  ・・・・・・
 徳川家光の墓所と宝塔は通常は非公開で,前回公開されたのは,350年目の命日である2000年だったそうで, 次の公開は400年目の命日である2050年になるそうです。今から26年先のことなので,私には,それを見ることは不可能です。
 これで,徳川将軍の墓所はすべて訪れることができましたが,徳川家光のものがもっとも豪華でした。

 大猷院の本殿,相の間,拝殿を見学することができました。
 ちょうど,説法が行われていて,龍神破魔矢(りゅうじんはまや)を勧めていました。私はテレビを見ないので知らないのですが,龍神破魔矢はテレビ番組で紹介して以来,入手困難なものとなっているそうです。
  ・・・・・・
 龍神破魔矢は,破魔矢発祥の烏摩勒伽(うまろきゃ)が持つ矢をかたどった物で, 昇り龍が彫刻してあり,一生まつれる破魔矢です。
 悪いものを祓い,願い事を叶える力があるといわれております。
  ・・・・・
という説明をしていました。
 大猷院には,日本でここにしか祀られていない東西南北を守護する阿跋摩羅(あばつまら),犍陀羅(けんだら),毘陀羅(びだら),烏摩勒伽(うまろきゃ)の四夜叉が鎮座しているそうです。
 私は,こうしたものには興味がないので,うまいこと商売しているなあ,と思っただけでしたが,人によっては,ありがたいものなのでしょう。

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 日光東照宮に徳川家康が祀られているのは知られていますが,3代将軍徳川家光の廟所が日光にあることは知らない人も多いと思われます。私も知りませんでした。そこで,今回,ぜひ行ってみようと思っていました。場所は,日光山輪王寺の離れにある日光山輪王寺大猷院(たいゆういん)です。
 日光東照宮の次に,そこへ向かいました。
 日光東照宮ではものすごい修学旅行生に迷惑をしていたのですが,さすがに,日光山輪王寺大猷院へは行かないと思っていたのが浅はかでした。ここもまた,大量の修学旅行生に占領されていました。もう少し後で行くことにして,その途中にあった二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)に寄ることにしました。
  ・・・・・・
 二荒山神社は式内社の論社,かつ名神大社(みょうじんたいしゃ)で,下野国の一宮です。
 律令の施行細則である延喜式によって官社に指定された神社の一覧(延喜式神名帳)に記載された神社を式内社といい,現在,それと同一もしくはその後裔と推定される神社のことを論社といいます。また,名神大社は,名神祭の対象となる神々を祀る神社のことで,ある神が名神と認められる条件は,官社に列し,大社に昇格している必要があるとされます。
 なお,下野国の二宮は不明です。
 日光三山を神体山として祀る神社で,男体山の山頂に奥宮(おくのみや),中禅寺湖のほとりに中宮祠(ちゅうぐうし),山内に本社がそれぞれ鎮座していて,境内は日光連山を含む3,400ヘクタールの広大な敷地で,神域には華厳滝やいろは坂も含まれます。
 神体とする男体山の古名が二荒山とされます。
  ・・・・・・

 祭神は大己貴(おおなむち),田心姫(たごりひめ),味耜高彦根(あじすきたかひこね)。大己貴は「日本書紀」に書かれた名で 「古事記」では大国主(おおくにぬし)。 田心姫は「日本書紀」に書かれた大己貴の妻で須佐之男の娘。味耜高彦根は「日本書紀」に書かれた子の名です。
 二荒山神社は,パワースポットとしても知られていて,二荒霊泉は日光二荒山神社の裏手にある恒霊山の洞窟の薬師の霊泉と日光二荒山神社の別宮である滝尾神社境内の酒の泉が流れ込んだ水で,飲むと眼病が治ったり若返ったりするといい伝えられているといいます。 さらに,縁結びのご利益でも有名で,滝尾神社の境内に生えている笹にお祈りをすると,恋愛だけでなく仕事や日常の人間関係でも良縁に恵まれるとされます。

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 まずは,日光東照宮です。
 私は,徳川家康が日光に葬られた以前,日光という地がどんな場所であったのか知りたかったので,まず,そこから調べてみました。
  ・・・・・・
●古代
 日光は,766年(天平神護2年)勝道(しょうどう)上人が男体山の登頂のために大谷川を渡って四本竜寺を創建したのがはじまりです。東の空に神々しい紫の雲が立ち昇るのをみて,この地に草庵を結び紫雲立寺と称したのが転じて「四本龍寺」となったといわれています。勝道上人が山頂を極めたのは16年後の782年(天応2年)でした。
 勝道上人は,男体山中腹の湖畔に神宮寺を創建し,のちに中禅寺として,山岳信仰の拠点となりました。
● 中世
 日光は,山岳信仰に神仏習合の信仰が加わって,二荒山(ふたあらやま=神が宿る山)と日光山(仏が護る山)の双方の名称を併用し,男体,女峰,太郎の三山にそれぞれ神(男体権現,女体権現,太郎権現)と仏(千手観音,阿弥陀如来,馬頭観音)が宿るという日光三所権現信仰が広まっていきました。さらに,関東における護(まもり)としての位置を築いていきました。
●近世
 1617年(元和3年),徳川家康の死後,その霊柩が久能山から日光へ移され,東照社が創建されたことで,日光は徳川家の霊地となりました。徳川家康の遺言を実行して日光に立派な社殿を造営し,東照大権現という神として祀った人物は南光坊天海です。1636年(寛永13年)3代将軍徳川家光の時代,「寛永の大造替」が行なわれ,豪華絢爛な社殿と結構美が整えられました。そして,日光山の最高責任者として法親王が迎えられるのが慣行となりこれが輪王宮として継承することとなりました。
●近代
 明治政府による神仏分離・廃仏毀釈によって,輪王寺宮は廃されましたが,保存運動もあって,一時は満願寺という寺号までまとめられた寺院組織は輪王寺の寺号が復活し,東照宮と二荒山神社の社格が定められ,2社1寺としてそれぞれ存立することになりました。
  ・・・・・・
 日本の多くの史跡は,第2次世界大戦で灰燼(かいじん)と化してしまいましたが,幸運にも日光がそれから守れられたことで,現在も当時の姿を見ることができます。

 私は,このところ,徳川将軍の霊廟のそのほとんどを見てきました。残るは,徳川家康と徳川家光ということも,今回日光を訪れた理由です。
 徳川家康の遺言によって,1周忌に2代将軍徳川秀忠によって造営されたのが日光東照宮の奥宮にある宝塔です。徳川家康の遺骸はこの中に葬られているとされます。宝塔は最初は木造,後に石造りになり,さらに1683年(天和3年)の大地震で破損したものを5代将軍徳川綱吉が現在の唐銅(からかね)製に造り変えたものです。私は,前回,日光に来たとき,ここを見逃したような気がしていたので,今回,長い険しい石段を歩いてやってきました。
 通説では,久能山から運ばれてきた家康の霊柩が日光に到着したとあり,徳川家康の遺体はこの地にあるとされます。しかし,それ以前,久能山に葬られた徳川家康の遺体は今も久能山にあり,日光には神霊だけが遷し祀られたはず,という説があります。
 ならば,私は,まだ行ったことがない久能山東照宮にも行ってみたい,と思ったことでした。
 日光東照宮は,外国人観光客ばかり,と聞いていたのですが,実際は,それよりも,中学生の修学旅行生だらけで,その人混みに私はげんなりしました。

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 2024年5月13日から5月14日まで1泊2日で行った日光への旅を書いています。
 旅の2日目。宿泊していた湯元温泉から,午前7時33分のバスに乗りました。このまま,東武日光駅まで行きますが,1時間16分かかります。
 今回,日光の旅をするにあたり,私としてはめずらしくガイドブックを買ったのですが,位置関係やどのくらいの距離があるのかなど,ガイドブックを見ても,全く把握できませんでした。
 実際は,多くの人が日光といってイメージするのは日光東照宮ですが,このあたりには,2社1寺といって,日光東照宮,日光山輪王寺(りんのうじ),二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)があって,これらは,東武日光駅から,バスもありますが,歩いても20分程度で行くことができて,半日あれば,見て回ることができます。また,華厳の滝というのが,次にイメージするものだと思いますが,華厳の滝は中禅寺湖の湖畔にあって,先に書いた2社1寺からバスに乗って50分ほど西に行ったところにあります。その途中で通るのが,いろは坂です。そこで,2社1寺と華厳の滝で浅草から1日コースとなります。
 私が泊まった湯元温泉は,中禅寺湖からさらに北西に,戦場ヶ原を越えて行くことになります。湯元温泉と戦場ヶ原,そして,中禅寺湖を観光しようとすれば,1泊以上必要ですが,これは,車で行かないと不便です。私は,今回,車でなかったから,戦場ヶ原も中禅寺湖もバスの車内から見るだけだったのが残念でした。

 さて,この日はとてもいい天気でした。早朝のバスは空いていて,戦場ヶ原,中禅寺湖を眺めながら,景色を楽しみました。
 やがて,いろは坂を越えて,バスは,日光市内に入ってきました。観光シーズンだと,このあたり,大渋滞することは容易に予想できますが,朝早かったこともあるのか,車は少なく,助かりました。これなら,心配していた人混みもなさそうだと,期待しました。
 やがて,東武日光駅に到着したので,バスを降りました。
 ちなみに,東武日光駅とJR日光駅は,歩いて5分ほどです。
 私が,途中で降りず,東武日光駅まで行ったのは,コインロッカーに荷物を預けるためでした。
 東武日光駅に観光案内所があったので,どういうコースで回ればいいかを聞いて,地図をもらいました。2社1寺までは歩けるということだったので,歩きだしました。東武日光駅からの道路は整備しなおしている途中でした。すべてがなだらかな上り坂でしたが,行きが上りで帰りが下りだから救われます。20分ほど歩いて,2社1寺の手前まで到着しました。

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 翌朝は,いい天気になりました。私はとても早起きなので,この日も,早朝起床して,朝食の時間まで,湯ノ湖畔を1周することにしました。
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 湯ノ湖は,北東にある三岳火山の噴火によってつくられた堰止湖で,湖畔にある日光湯元温泉からの湯も流れ込んでいます。標高1,478メートルで,面積0.32平方キロメートル,最大水深12メートルで,1周約3キロメートルあって,遊歩道が完備されています。
  ・・・・・・
 1時間ほどで歩くことができるというので,散歩を楽しみました。
 まだ朝早いので,ほかにだれもおらず,鳥の音も聞こえて,とても気持ちがよい時間を過ごすことができました。

 湯ノ湖の南側に湯滝があります。
  ・・・・・・ 
 湯滝は,高さ70メートル,最大幅25メートルで,華厳の滝,竜頭の滝と並んで奥日光三名瀑のひとつです。また,華厳の滝,竜頭の滝,裏見滝,霧降の滝で日光五名瀑のひとつともされています。
  ・・・・・・
 私は,湯ノ湖の周りを歩いていたので,湯滝は,上からしか見ることができなかったのが残念でしたが,すごい迫力でした。
 湯滝を流れ落ちた水は,戦場ヶ原を流れる湯川となり,竜頭の滝を下って中禅寺湖へ流入します。
 滝の側面には遊歩道が設けられていて,落ち口,滝壺,側面の三面から滝の姿を鑑賞することが可能ということなので,次回来ることがあれば,訪れてみたいものだと思いました。この日は天気がよかったので,通り過ぎただけで,少しもったいない気がしました。
 なお,湯滝という名前ですが,流れ落ちるのは,湯ではなく水です。

 旅館に戻って,朝食をとりました。
 湯元温泉から東武日光駅に向かうバスは午前7時33分で,これを逃すと,次が午前8時25分だったので,早々に朝食を済ませてチェックアウトをして,バス停に向かいました。

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 華厳の滝を見終えて,次のバスが来るまでの間,栃木県立日光博物館に行きました。そこで聞いてみると,ここはコロナ禍のころは,自然がたくさんあるということで人気だったということです。今は逆に来る人が減ったという意外な話でした。中禅寺湖のあたり,とてもいいところでした。魅力的でした。ただし,先に書いたように,ここに来るには,いろは坂を走らなければならない,というのが最大の問題です。

 さて,日光といってもどこがどこかわからなかったので,ネットで適当に調べて,ここなら安価だし食事もついているし温泉だし感じがよさそうだったから,というだけの理由で予約したのが,湯元温泉の「奥日光万蔵」という旅館でした。バスの終点,湯元温泉で降りると,その目の前に目指す旅館がありました。こりゃ便利だと思いました。
 旅館は,古いものでしたが,食事もおいしく,なにより,温泉が最高でした。
 旅館の周りを歩いてみました。
 湯元温泉もまた,すばらしいところでした。私が理想とする場所のひとつだ,と感じました。日本にこんなところがあるんだなあ,と思いました。

  ・・・・・・
 788年(延暦7年),四本龍寺(紫雲立寺)を建立した勝道によって発見されたのが発端の湯元温泉は,冬の寒さが厳しいため,昭和の初期までは夏だけの湯治場でした。
 湯ノ湖畔に約23軒のホテルや旅館がありますが,歓楽色はありません。湯には湯の花が浮かび,温泉街には温泉地ならではの硫黄臭が漂います。
 源泉地は温泉街のはずれの湯ノ平湿原にあり,ここの源泉が日光湯元の各旅館への配湯だけでなく,近くの光徳温泉や中禅寺温泉まで分湯されています。また,源泉地の隣にある日光山輪王寺別院の温泉寺にも温泉が引かれていて,参拝客は男女別の共同浴場として利用できます。
  ・・・・・・

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