しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ: 北陸旅行LIVE

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【Summary】
I visited Fugan Canal Kansui Park in Toyama. A famous "world's most beautiful Starbucks" for its beautiful scenery in it. I took a cruise on the Fugan Suijo Line, passing through Nakajima Lock, a historical structure. After reflecting on past memories near Toyama Station, they boarded the limited express "Hida", a train popular among foreign tourists, and enjoyed the ride back to Gifu, concluding their trip along the Tateyama Kurobe Alpine Route.

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富岩(ふがん)運河環水公園は「とやま都市MIRAI計画」のシンボルゾーンとして富岩運河の牛島町(うしじまちょう)側の船溜まりを整備した公園で,面積は9.7ヘクタール(約5ヘクタールがプロ野球のグランド程度)あります。
1988年に工事がはじまり,1997年に船溜まり最上部のフロントデッキやプロムナードなどが完成しました。また,1999年には天門橋(てんもんきょう)が完成し,2007年には富岩運河環水公園内に小運河と人工島「あいの島」が完成しました。また,富岩運河環水公園から中島閘門間の両岸には遊歩道や休憩所が整備され,かつてのゴミ捨て場から市民の憩いの場所へと変わりました。
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公園内には「スターバックス富山環水公園店」がありました。かつて,スターバックスの社内コンテスト「ストアデザインアワード」で最優秀賞を受賞したことから「世界一美しいスタバ」といわれるほどの店ということでした。満員でした。
家の近くにこんな公園があったら最高だと思いました。

私の目的は,富岩水上ラインでした。
富岩運河を船で遊覧する富岩水上ラインは,3月下旬から11月下旬に定期運行されています。使用される船は,環境に考慮し太陽光を利用する定員55人のソーラー船「sora」(そら),「fugan」(ふがん),「kansui」(かんすい),それに,バッテリーとモーターで動く定員11人の電気ボート「もみじ」2019年3月23日に就航したソーラー船(定員55人)の4隻です。

また,運行コースも何種類かあり,閘門操作室の見学と乗船したまま水位2.5メートルの水上エレベーターといわれる高低差を実際に体験できる中島閘門を通過するコース,片道に富山ライトレールを併用し還水公園と岩瀬地区を往復するコースなどがありました。
私は,中島閘門を通過するコースに乗船しました。
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中島閘門は,総延長約5.1キロメートルの富岩運河河口側より約3.1キロメートル上流にあり,上流側標高が約2.7メートル,下流側標高約0.2メートルで,その水位差が約2.5メートルあるので,長さ86メートルのパナマ運河方式の複扉室(ふくひしつ)閘門をつくって,それを調節するために,1934年(昭和9年)に,富岩運河の掘削と同時に竣工しました。

建設後は,運河上流部沿岸の工場などへ原材料や資材・製品の運搬をする船を通すことで富山の工業発展に寄与しましたが,輸送手段が陸上運輸に変わり,近燐に住宅地が増え環境への配慮が必要になったり,水質の悪化などにより周辺の工場の縮小や撤退が進み運河交通自体が衰退したため,使われなくなりました。
1979年(昭和54年)に,富岩運河を埋め立て道路を建設する計画がありましたが,1984年(昭和59年)に方向転換し,水辺を生かした街づくりを目指し整備することになりました。
老朽化した中島閘門は,1997年(平成9年)より扉体等の原形復元修理を行い,1998年(平成10年)に復元修理工事が完了し,「富岩運河水閘施設」として国の重要文化財に指定されました。
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このように,現在,中島閘門は富岩水上ラインによる観光用のものとなっています。そこで,私の乗ったコースは,風景を堪能するというより,中島閘門を体験するというものでした。
私は25年ほど前,シカゴのミシガン湖クルーズで同じような,しかも,ずっと規模が大きいものを体験したことがあるので,珍しいものではありませんでしたが,これはこれでおもしろかったです。

JR富山駅に戻ってきました。駅の近くに「インテック」という会社がありました。ここは,私が大学4年生のときに内定をもらったことがある会社です。結局縁はなかったのですが,懐かしさを感じました。ひょっとしたら,私は富山市に住むことになっていたのかもしれないなあ,と思うと,不思議が気がしました。これもまた,私の伏線回収でした。
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私がJR富山駅から乗るのは午後5時17分発の特急「ひだ」20号でした。
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特急「ひだ」は,名古屋駅 - 高山駅,あるいは,富山駅間,および,大阪駅 - 高山駅間を運行します。
1958年に名古屋駅 - 富山駅間を運転する準急列車として運転を開始し,高岡駅まで運転区間が延長され,1966年には急行列車に格上げされました。さらに,1968年から特急列車に変更され金沢駅まで運転区間を延長しましたが,1985年3月14日に飛騨古川駅 - 金沢駅が廃止されました。そして,JR発足後は,一部列車が富山駅まで運転されるようになりました。
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特急「ひだ」なんて誰が乗るのだろう,がらがらだろうと思っていたのですが,実際は,2010年代以降,インバウンドの急増で利用客も増えているということでした。今回も,乗客のほとんどは外国人でした。聞いてみると,イタリアから来た,とか,スペインから来た,とかで,ヨーロッパ人ばかりでした。彼らは,特急「ひだ」に乗って,高山をめざしているということでした。つまり,東京から北陸新幹線で金沢に行き,金沢から高山,そして,京都,広島に行くらしいのです。
列車は先日私が紀伊半島1周したときに乗ったのとおなじハイブリッド式の新型車HC85系でした。
私の座席は7号車の指定席でした。編成が7両もないのにどうして7号車かと乗務員の人に聞くと,高山で1号車から4号車までを接続するということでした。そんなに乗るか,と思ったのですが,実際,高山駅で多くの人が乗車してきました。
私はいつもの楽しみで車内で駅弁を食べようと思っていたのですが,JR富山駅には駅弁というものがなく,というか,駅弁という概念がないらしく,みやげ物売り場にあったお持ち帰り弁当を買いました。値段は,東京で駅弁を買うよりもずっと安くてびっくりしました。
特急「ひだ」で楽しく列車に揺られるうちに,岐阜駅に到着して,私は下車しました。
はじめての立山黒部アルペンルートの旅も,こうして終えることができました。

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【Summary】
I was recommended several tourist spots in Toyama, and for lunch, I found a sushi restaurant called "Naniwa Sushi" on the 7th floor of the Daiwa Department Store. Afterward, I walked to Fugan Canal Kansui Park to take a sightseeing boat but took a break due to the heat, discovering the Taki Rentarō Memorial. After cooling off, I continued walking and arrived at the park.

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私が富山市街の見どころとして観光案内所で紹介されたところはこれですべてでした。
ちょうどお昼になったので,富山といえばお寿司でしょう,ということで,どこかないかと探していたのですが,あいにくの土曜日,どこも混雑しているようで,なかなか見つかりませんでした。やっと見つけたのが富山市ガラス美術館の近くにあった大和百貨店7階の飲食店フロアにあるお寿司屋さんでした。名前を「浪花鮨」といいました。開放的な店舗内の中の真ん中にカウンター,そしてテーブル席が沢山囲んでいました。職人さんが寿司を握っていました。握りのコースをいただきました。

私は午後5時14分発の特急「ひだ」で帰るので,まだ時間がありました。
さて,この後どうしよう? と地図を見ると,JR富山駅の反対側(北側)に富岩(ふがん)運河環水公園があって,そこで,富岩水ラインという遊覧船に乗ることができることがわかりました。松川遊覧船に乗れなかったこともあって,ここで遊覧船に乗ることにしました。
ということだったのですが,富岩運河環水公園へ行く交通機関がありません。仕方がなく歩くことにしたのですが,あまりの暑さに,小休止することにしました。歩いていると,富山城の東端,松川遊覧船乗り場に喫茶のできる店を見つけたので,中に入って,かき氷を食べました。
このお店の中に滝廉太郎記念館がありました。
旅をしていると,意外なものに遭遇します。ここでもまた,なぜここに滝廉太郎? と思いました。
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23歳10か月という短い人生だった滝廉太郎は,小学校1年生の途中から3年生の途中までの約2年間を富山で過ごしたのです。
富山県尋常師範学校附属小学校は,富山城内の富山藩の藩校・広徳館の跡にあり,滝廉太郎の父・滝吉弘が富山県の書記官(今の副知事)に任ぜられ,非職になって富山の地を離れるまで,滝廉太郎は、この学校に通っていました。
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ということでした。

さて,少しだけ体が涼しくなって,気力が回復したので,私は歩きはじめました。
歩くこと約30分,鉄道の高架を越えました。JR富山駅の北側は再開発中のようで,広い道路や新しいビルが立ち並んでいました。さらに歩いていくと,スポーツ施設のあるコンプレックスがあり,それを過ぎると,やっと,富岩運河環水公園が見えてきました。

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【Summary】
I visited Toyama, starting at JR Toyama Station and touring the city. They explored Toyama Castle, learning its history as the residence of the Maeda family. Afterward, I visited a city observation tower and the Toyama Glass Art Museum, which showcases the city's glassmaking heritage. Lastly, I visited Ikedaya Yasubei Shoten, a traditional medicine shop, and saw a demonstration of Toyama’s famous medicine-peddling business, which started in the Edo period.

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富山地方鉄道の電鉄富山駅とJR富山駅は隣接していました。
JR富山駅もまた,それ以前の姿は知りませんが,北陸新幹線の開通に従ってリニューアルしたようで,立派な駅でした。
まず,コインロッカーに荷物を預けてから,いつものように観光案内所に行って,夕方までの見学コースを聞いて,地図をもらいました。私はまず富山城に行くことにしました。歩いても行くことができる距離でしたが,この日も暑かったので,観光案内所でのアルバイスによって,路面電車に乗りました。
おもしろかったのは,路面電車の乗り場が富山駅から吹き抜けでつながっていたことでした。つまり,電車が駅に突入するような感じです。
電車はアメリカの地方都市の路面電車のようでした。現在,再び,こうした路面電車が見直されているようで,階段で地下に降りたり地上にのぼったりする労力を考えると,地下鉄よりも路面電車のほうがずっと楽です。景色を楽しむこともできますし。
路面電車はけっこう混雑していました。国際会議場前駅が富山城の最寄りの駅ということだったので,そこで下車しました。

私は,富山藩のことも富山城のことも全く知りませんでした。富山城は単なる鉄筋コンクリートの建物で,実際は,郷土博物館でした。
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富山城は,神通川(現在の松川)の流れを城の防御に利用し,水に浮いたように見えたことから浮城といわれました。江戸時代は加賀前田家の分家であった越中前田家の居城でした。
時代をさかのぼって,戦国時代,富山城に拠点を構えた佐々成政は,本能寺の変ののち,羽柴秀吉と敵対し,1585年(天正13年)大軍に城を囲まれ降伏し,恩賞で越中三郡を得た前田家は,前田利長にこの地を任せました。関ケ原で東軍についた前田利長は,関ヶ原の戦い以後,富山城を再建し隠居城としました。
1639年(寛永16年)加賀藩の3代藩主・前田利常が次男の前田利次に10万石を与えて分家させ,富山藩が成立しました。そして,1661年(万治4年)に富山城を本格的に修復し,城下町を整え,それ以後,富山前田家13代の居城として明治維新まで続きましたが,1858年(安政5年)の飛越地震で富山城は被災しました。
明治維新後,富山城のあった場所は,様々に活用されていましたが,1933年(昭和8年)に富山城址が都市計画風致地区に指定され,1940年に富山公園として開園しました。そして,1954年(昭和29年)に富山城跡の敷地一帯で富山産業大博覧会が開催されたのに際して,鉄筋コンクリート構造による模擬天守が記念に建てられることとなり,1953年(昭和28年)に着工,翌1954年(昭和29年)に完成し,富山市郷土博物館として運営がはじまりました。
また,1961年(昭和36年)に城跡敷地内に佐藤美術館(のちの佐藤記念美術館)が開館しました。
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ということで,富山藩の歴史がよくわかりました。また,佐藤記念美術館にも行きました。
富山城の外堀に松川遊覧船があるとガイドブックにはあったので,楽しみにしていたのですが,堀の石垣が崩れていて,遊覧船は運休していました。

次に行ったのが富山市役所の展望塔でした。地上70メートルで,ここから富山市が一望できました。
確か,奈良県庁や静岡市役所,豊橋市役所にも展望台があって,上ったことがあります。アメリカでも,こうした展望台はいろいろなところにあって,街全体が見渡せるので,なかなかいいものです。
ただし,富山市街には特に見るべきものはありませんでした。おそらく,立山が雪を被った時期であれば,美しい景色をみることができたことでしょう。
富山市街で,このほかに人気の観光施設として,富山市ガラス美術館を勧められたので,興味がなかったのですが,とにかく行って見ることにしました。
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富山の売薬で知られる富山市は,明治以降,薬のガラス瓶工場が相次ぎ操業しました。
太平洋戦争後に廃れたガラス産業を再興しようと,富山市民大学ガラス工芸コースや富山市立富山ガラス造形研究所を開設したり,富山ガラス工房を整備したりしました。
2001年(平成13年)に策定したガラス美術館基本構想によって,2005年(平成17年)3月に富山市民プラザにトヤマグラスアートギャラリーを開設,さらに,松川べりや市内中心部の道路脇などに県内外のガラス作家の作品を展示してきました。
そして,「ガラスの街とやま」を目指したまちづくりの集大成として,2015年(平成27年)にTOYAMAキラリ内に富山市ガラス美術館が開館しました。
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TOYAMAキラリにはすばらしい図書館もありました。

最後に,これもまた,観光案内所で勧められた池田屋安兵衛商店に行きました。池田屋安兵衛商店は,昔ながらの座売りを行っている薬種問屋で,2階は薬膳料理を出す食堂もありました。
薬を丸める実演をしてもらいました。
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富山の売薬は,富山藩2代藩主・前田正甫が江戸城で急病になった大名を薬で救ったことをきっかけにはじまり,江戸時代中期以降に全国的に広まった商法です。
まず薬を消費者の家庭に預け置き,次回の訪問時に使われた分の薬代を集金し,さらに薬を補充するという「先用後利」(せんようこうり)という販売システムです。
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私の子供のころ,母親の実家には,富山の薬売りがやってきました。おまけに紙のふうせんをもらいました。こうした薬売りは今もほそぼそと存在しているようです。

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【Summary】
On September 7, 2024, I traveled the Tateyama Kurobe Alpine Route, a trip I had long been curious about. Despite concerns over typhoon-related delays, I was able to secure a reservation, discovering that early September is a good time to go if weather forecasts are favorable. Although it wasn't peak season, it was still unexpectedly crowded. I traveled from Tateyama Station to Toyama and planned to return via the express train "Hida." The Toyama Chihou Railway, while quiet early in the morning, became busy as the day progressed.

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3日目。2024年9月7日土曜日。
今日は,立山駅から富山地方鉄道で電鉄富山駅に行き,富山で観光して,夕方の特急「ひだ」に乗って帰ります。2日目に帰宅することもできたのでしょうが,ゆとりがあったほうがいいし,富山に行ったこともなかったし,特急「ひだ」に乗ってみたかったので,こうした日程にしました。
今回は,ずっと気になっていた立山黒部アルペンルートが,どこにあって,どのようにしてまわるのか,そして,どのくらい混雑しているのか,といったことを知りたくて,試行錯誤をしながら旅に出ました。台風が来たので直前まで日程の調整がたいへんでしたが,とてもよい旅をすることができました。台風のおかげで日程を変更したりといった結果,9月のはじめのころなら,天気予報で晴れということが予想されるときになって,直前に旅館を予約しても空きがある,ということもわかったので,次に来るときは,慌てず,まず,天気予報から晴れる可能性の高い日に行くことを決めればいいということを知りました。ただし,9月のはじめであっても,立山黒部アルペンルートは,ハイシーズンのように,予想以上に混雑していました。


私の宿泊した旅館「千寿荘」にはおいしい朝食がついていました。立山駅から電鉄富山駅まで行く富山地方鉄道は,1時間に1本程度,ということだったので,午前7時21分発に乗ることにして,朝食後,早々にチェックアウトしました。
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富山電気鉄道は,富山県東部を基盤とする中規模私鉄で,1943年に,富山県内のすべての私営,公営の鉄軌道,バス会社を合併して発足しました。富山市内を走る電車やバスも含まれますが,巨額の赤字をかかえているようです。
なお,立山黒部アルペンルートは,立山黒部貫光という会社が行っています。
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こんな早い時間に立山駅から電鉄富山駅に行く人はほとんどいないと思いましたが,私が思った通りでした。電車を待っていたのはわずか3人でした。

立山駅に電車がやってきました。
電車は,この日に立山黒部アルペンルートを縦断する人で満員でした。そうした人たちが東京のラッシュアワーのように,続々と電車から降りてホームを出て行ったのですが,駅には駅員のひとりもおらず,電車の運転手さんひとりで,すべてをさばいていました。切符を買わずに途中の無人駅から乗った人たちは降りる時点で運賃を払うのですが,お釣りの必要な人がけっこういて,運転手さんは大忙しでした。私は,事前に運賃がいくらかははわかるから,手間のかからないように,どうしてお釣りのないように準備しておかないのかな,と思いました。
やっとすべての乗客が降りると,運転手さんは,今度は,出発の準備に大忙しでした。
やっと乗車できるようになりました。私は,あらかじめネットで予約した立山黒部アルペンルート通しチケットとして,長野県側の扇平駅から電鉄富山駅までの通し切符をもっていたので,それだけですべての交通機関に乗ることができたので,とても便利でした。すでに書きましたが,事前にネットで予約してあったので,扇平駅で切符を購入するためにで長い列に並ぶ必要もありませんでした。

富山電気鉄道は大井川鐡道とよく似ていました。多くの種類の車両が運用されていて,中には,京阪電鉄や西武鉄道から払い下げもあるようでした。鉄道好きにはたまらないことでしょう。また,車窓からの風景も大井川鐡道のそれと似ていました。
途中の寺田駅で,宇奈月温泉駅へ向かうダブルデッカーエキスプレスとすれ違いました。この日は土曜日,ということもあってか,車内は満員でした。おそらく,乗客のほとんどは,宇奈月温泉駅からトロッコ列車に乗る観光客なのでしょう。私は,黒部渓谷のトロッコ列車には乗ったことはないのですが,黒部の様子はよくわかったので,来年には空いている時期を選んで乗ってみようと思いました。
やがて,電車は富山市内に入り,乗客も増えてきました。そして,電鉄富山駅に到着しました。

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【Summary】
After exploring Bijodaira and enjoying the rooftop view at the station, I took a crowded cable car down. The Tateyama Kurobe Alpine Route, developed over 20 years from 1952, offers various transport modes like electric buses and cable cars. After arriving at Tateyama Station, I checked into Senjusou Inn, where the onsen and meals were exceptional, making me want to stay even without visiting the Alpine Route.

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美女平の散策コースを楽しんで,美女平駅に戻ってきました。駅の屋上に展望台があったので,そこでしばらく景色を楽しみました。眼下に立山の町が見えました。
あとはケーブルカーに乗るだけでしたが,このケーブルカーが混雑していましたが,わずか7分で標高475メートルまで下ります。それにしても,立山黒部アルペンルートは,電気バス,ケーブルカー,ロープウェイ,トロリーバス,高原バス,ケーブルカーという様々な乗り物で横断するわけですが,これらがどういった経緯でできてきたのかが私には興味がありました。
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●立山駅-美女平
1952年12月にケーブルカーの建設がはじまり,1954年8月に開通しました。同時に,富山市内から立山駅まで電車の延伸工事が行われました。
●美女平-室堂
山岳道路の建設は,1953年に着工し,まず,弘法まで。そして,弥陀ヶ原,天狗平と伸び,1964年6月に室堂まで開通しました。
●扇沢-黒部湖
黒部ダムを建設するため1958年2月に完成した関電トンネルを利用して,1964年にトロリーバスが営業を開始しました。
●黒部湖-室堂
当初,全線自動車道路とする計画でしたが,不可能とされ,最終的に,現在の形となりました。
〇黒部湖-黒部平
1966年3月にケーブルカーの建設が開始され,1969年7月に開通しました。
〇黒部平-大観峰
1970年7月にロープウェイの営業が開始されました。
〇大観峰-室堂
1966年にはじまった立山トンネルの掘削工事は1969年12月に貫通,1971年4月に立山トンネルバスが営業を開始しました。
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こうして,1971年6月に立山高原バス道路の除雪完了で,1952年に立山ケーブルカーの工事開始から20年,立山黒部アルペンルートが全線開通しました。
立山黒部アルペンルートは4月15日から11月30日までの間,運行されます。最も空いているのは,紅葉シーズンの終わった11月の下旬だそうですが,それにしても,現在は混雑しすぎ。将来は入山制限が行われるように感じます。

午後5時前,立山駅に着きました。ほとんどの人は,ここから富山地方鉄道に乗り継ぐか,観光バス,あるいは,マイカーで,家路を急ぎます。私は,立山駅前の旅館「千寿荘」に泊まるので,チェックインをしました。
迷走台風のおかげで,予約を変更したりキャンセルしたりを繰り返しましたが,ついにやってくることができました。温泉も気持ちがよく,食事もすばらしく,立山黒部アルペンルートぬきに,この旅館でゆっくりしたいものだと思ったほどでした。

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【Summary】
I expected it to be cool in the Tateyama mountain area, but despite it being September, it was very hot when I explored Murodo and the Midagahara wetlands. After a sweaty hike, I rested at the Midagahara Hotel before boarding a bus to Bijodaira, where I explored a scenic trail filled with ancient Tateyama cedars. I walked along muddy paths due to the recent rain, and the forest offered beautiful and unique cedar trees.

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2024年,私が経験した最も暑い夏もすでに9月。さすがに立山なら涼しいだろうと期待したのですが,弥陀ヶ原湿原はとても暑く,1時間程度の散策で汗をかきました。バスが来る時間まで弥陀ヶ原ホテルのロビーでシュークリームを食べながら休憩しました。午前中あれだけ天気がよかったのに,曇ってきました。これは当然のことで,山の天気は午前中はよくても午後は曇ります。
バスがやってきました。直接美女平(びじょだいら)駅に行く人はノンストップで行くから,弥陀ヶ原駅では結構な人が降りました。私はここでバスに乗り込みました。

立山黒部アルペンルートの最高地点である室堂の標高は2,450メートル,弥陀ヶ原の標高は1,930メートルですが,この先の美女平は977メートルです。弥陀ヶ原駅から美女平駅までは30分程度の乗車でした。
途中,車窓から称名滝を見ることができて,バスも見やすいようにと一旦停車しました。
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称名滝は,落差は350メートルと日本一の規模を誇る4段構成の滝で,1段目が70メートル,2段目が58メートル,3段目が96メートル,4段目が126メートル,滝つぼの直径は60メートル,深さは約6メートルあります。
称名滝の名前は,法然が滝の轟音を「南無阿弥陀仏」という称名念仏の声と聞いたことに由来すると伝えられています。
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美女平という名前は,女人禁制の立山へ登ろうとした女が神の怒りに触れて1本の杉に化したという伝説によるそうです。美女平駅はケーブルカーのターミナル駅ですが,その杉がターミナルの端にありました。
ここでケーブルカーの乗り込んで立山駅まで行くので,バスを降りたほとんどの人は,次から次へとケーブルカーに乗るために列に並んでいきます。大量な団体ツアー客もいました。ツアーの多くは外国人対象のもので,立山黒部アルペンルートを歩いていたときには目にしなかったのですが,こんなに多くの外国人がいるとは思いませんでした。
時間はまだ午後3時過ぎで,帰宅ラッシュの時間だったのです。この時間であれば,今日中にツアーを終えることができるからでしょう。
私は,立山駅近くの旅館泊まることになっているので,夕食に間に合えばいいから,ずいぶん時間がありました。そこで,美女平の散策路を歩いてみることにしました。

美女平には樹齢1,000年以上のタテヤマスギや樹齢数百年のブナの原生林が広がる散策路があるのです。
コースは、美女平駅から不老樹やおんば杉などのタテヤマスギの巨木に出会える所要時間1時間の2キロメートルコース,火炎杉と根曲がり杉を巡る所要時間2時間の3キロメートルコース,そして,ブナの原生林も散策できる所要時間2時間30分,4キロメートルのコースがありました。私は3キロメートルのコースを歩くことにしました。
美女平駅から車道を少し上ると,森に入るところがありました。こんなところがコースの入口か,と思ったほど急坂の狭い道でした。
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森の中は,歩きやすく散策道が整備されており,気軽に森林浴や野鳥観察,自然観察などを楽しむことができます。
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とあったのですが,さにあらず,数日前の大雨で散策路にはぬかるみがあり,コースがわかりにくい場所もあって,けっこう大変でした。しかし,多くの変わった杉の木を見ることができました。

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【Summary】
This passage describes a journey along the Tateyama Kurobe Alpine Route from Murodo Station to Bijodaira, with a stop at Midagahara, a high-altitude wetland known for its natural beauty and tranquility. Despite the many tourists at Murodo, Midagahara is quiet, allowing for a peaceful experience amidst diverse flora and stunning landscapes.

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室堂駅からは立山高原バスで美女平駅まで行き,美女平駅から立山ケーブルカーで立山駅まで,これで,立山黒部アルペンルートが終わりとなります。また,美女平駅から立山駅までは,遠回りになりますが,道路もあって,マイカーは乗り入れ禁止ですが,富山駅から室堂駅まで直行するバスがあるということなので,ハイシーズンでもそのバスを利用すれば室堂まで容易に行くことができるようです。

室堂駅から美女平駅までの途中に,弥陀ヶ原(みだがはら)というところがあります。弥陀ヶ原には湿原があって,せっかく来たので,私は弥陀ヶ原にも寄ることにしました。
室堂駅のバスターミナルでは,直接ノンストップで美女平駅まで行くバスと,天狗平駅,弥陀ヶ原駅に停車するバスのふたつがありました。ほとんどの観光客は,ノンストップで美女平駅に向かうようでした。このころ,私はやっとわかってきたのですが,立山黒部アルペンルートというのは,ほとんどの人が室堂へ行くのが目的であるようでした。それなら,私とは目的が異なりました。
ノンストップで美女平駅に行くバスが出発したのち,私の乗った弥陀ヶ原駅に停まるバスが出発しました。ここからの道路は,立山有料道路ですが,乗り物自体は,電気バスなどではなく,単なる観光バスでした。すばらしい景色が続いていました。
室堂から弥陀ヶ原に至る道路が,有名な,春先に雪の大谷となる場所ということでした。あとで弥陀ヶ原にいたガイドさんに聞いてみると,その時期の観光客は中国人ばかり,なのだそうです。

やがて,弥陀ヶ原駅に着いて,下車しました。下車したのは7,8人程度でした。次に,弥陀ヶ原駅から美女平駅に行くバスは予約制ということで,下車した時点で予約する必要がありました。弥陀ヶ原湿原は1時間程度で散策できるということだったので,それを考慮して,次に乗るバスを予約しました。
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2012年(平成24年)に弥陀ヶ原の北にある大日平と共にラムサール条約に登録された弥陀ヶ原は,標高1,600メートルから2,000メートル。立山の麓から常願寺川の支流である称名川(しょうみょうがわ)の左岸にかけて,東西4キロメートル,南北2キロメートルに広がる高原で,立山火山の活動で形成された火砕流台地です。

  ・・・・・・
弥陀ヶ原は,11月から7月まで雪に覆われるということですが,この時期に来た私には想像ができませんでした。また,秋には周辺の山々とも合わさった紅葉の風景が見られるということなので,さぞかし美しいのでしょう。

私が歩いたこの季節は,川が流れ,池塘(ちとう)が数多く存在する高原湿地となる場所でした。
  ・・・・・・
湿原が形成される過程で堆積した泥炭層の隙間が水で涵養された部分ができます。これが池塘です。塘は池沼の堤という意味です。要するに,水たまりです。弥陀ヶ原では,池塘を,餓鬼が飢えをしのぐために作られた田に見立てて,餓鬼田(がきだ)とよばれます。
  ・・・・・・
弥陀ヶ原湿原には,多種の高山植物や多くの昆虫を見ることができました。詳しい人には興味深いとろこでしょう。
私は,つい先日,尾瀬ヶ原に行ってきたばかりなので,弥陀ヶ原湿原にはほとんど興味を抱かなかなったのですが,あれだけ多くの観光客のいた室堂とは全く異なり,ほとんど人がいないことには感動しました。人のいない自然はこころ和みます。次のバスの時間さえ決まっていなければ,もっとゆっくりしたいものでした。

弥陀ヶ原には弥陀ヶ原ホテルと,国民宿舎展望立山荘という宿泊施設もあって,ここに宿泊してゆったりするのも悪くないと思いました。また,さぞかし,こうしたところな夜になると真っ暗で,満天の星が見られるだろう,とも思いました。
しかし,私の持っているガイドブック「るるぶ情報版・立山黒部アルペンルート」には,国民宿舎展望立山荘からの富山の夜景の写真が載っていて,それがあまりに輝いていました。多くの人には百万ドルの夜景なのかもしれませんが,私にはがっかりでした。

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【Summary】
I visited the Tateyama Kurobe Alpine Route with the primary goal of seeing the Kurobe Dam but was surprised by the number of hikers. They strolled around Mikurigaike from Murodo and visited the old Oyama Shrine. While not deeply moved by the scenic views, they were blessed with great weather. For lunch, they leisurely enjoyed a katsu curry at "Restaurant Tateyama."

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立山黒部アルペンルートというところがどういうところなのか,そして,黒部ダムが見たい,というだけの動機でやって来た私は,多くの人が登山の恰好をしていたのに驚きました。かくいう私は,どこに行くにも同じ格好でした。
室堂まで来ました。ここが標高2,450メートルの立山黒部アルペンルートの最高地点ということでした。来るまでそんなことさえ知りませんでした。登山姿の人たちは,ここから標高3,003メートル立山連峰の名峰であり,山岳信仰の聖地である雄山(おやま)への登頂をめざしているということでした。
私は,だれでも行くことができるみくりが池のまわりをまわることにしました。
散策道は,ほぼ4キロメートルで,少しだけ上りがあるのですが,ほとんどは平坦でした。何度も書きますが,すばらしい天気で,しかも風もなく,最高でした。もっと寒いと思って,防寒着を持ってきたのですが,まったく必要がなく,半そでで十分でした。

  ・・・・・・
みくりが池は,国土地理院の地形図にはは片仮名でミクリガ池と表記されています。
室堂で最大・最深の池で,面積は約30,000平方メートル,深さは15メートル,池の周囲の長さは631メートルです。近くには,日本最高所の温泉宿であるみくりが池温泉があります。
火口湖で,周辺にはミドリガ池やリンドウ池,血の池などの火口湖群が点在します。
ミクリという名は御厨と書き,神の厨房という意です。
  ・・・・・・
こんなことを書くと顰蹙を買いますが,私は,こうした風景は,アメリカの国立公園やニュージーランドのマウントクックでたくさん見てきたし,歳をとって感動がうすれてきたので,極上の風景に出会っても,さほど感動することもなく,ああ,こういうところなのか,と思ったくらいでした。ぜいたくな話です。
2022年5月18日に,蔵王のお釜へ行きました。このときも快晴でしたが,後で知ったことには,蔵王のお釜もまた,なかなか見ることができないそうです。私はいつも運に恵まれています。

散策道を歩いて,室堂ターミナルに戻ってきました。
雄山頂上には雄山神社がありますが,そこまで行かずとも,雄山神社の旧社殿が室堂ターミナルの屋上階に復元されているので,雄山に登らずとも,社を参拝することができるのです。
  ・・・・・・
旧社殿は総欅造りで重量は約7トン。1860年(万延元年)に加賀藩によって造られ,その後135年間厳しい自然環境の中に存在していました。現在,山頂にあるのは,1996年(平成8年)に再建されたものです。旧社殿は解体されて立山町の岩峅寺(いわくらじ=地名)にある雄山神社前立社壇(まえだてしゃだん)に保管されていたのですが,(平成24年)に室堂ターミナルに復元しました。
  ・・・・・・
不思議なことに,あれだけ登山者がいても,こういうところは,ほとんどの人が来ないのです。不思議な話です。

旧社殿のある屋上階にのぼる階段の中ごろに,立山開山伝説に関する資料と白鷹を左手に持ち立山を指さす痩せ気味の佐伯有頼(ありより)少年像のレプリカがありました。
佐伯有頼少年像の本物は富山市の南北500メートル,東西1キロメートルの呉羽山公園のほぼ中央に立山が見える展望台にあります。佐伯有頼は,676年(天武天皇5年)から759年(天平宝字3年)にかけての伝説上の人物です。
  ・・・・・・
佐伯有頼が父の大切な白鷹を無断で持ち出し狩りにでかけたところ,白鷹に導かれて美しい高原にたどり着きました。そのとき出会った阿弥陀如来に立山の開山を告げられ,文武天皇に報告すると,深く感激し勅命により立山を霊域として開山したということです。
  ・・・・・・
さて,午前11時を過ぎました。こんなに人がいては,昼食を食べることができるか心配だったので,早めに食事をとることにしました。室堂ターミナルに「レストラン立山」がありました。ほとんど人がおらず,驚きました。アルペンカツカレーなるものをのんびりと食べました。
食べおわるころに,ここでもまた,旅物語,クラブツーリズムといった団体ツアー客の御一行様がやってきて,混雑がはじまりました。

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【Summary】
The trolleybus from Daikanbo to Murodo passes through the Tateyama Tunnel and was converted from diesel buses in 1996 for environmental protection. It is scheduled to be discontinued in 2024 and replaced by electric buses, making it the last trolleybus in Japan. I was able to ride it in its final year.

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大観峰テラスで絶景を楽しんで,さあ,次が黒部アルペンルートの最高地点室堂になります。
大観峰駅から室堂駅までは天井にある架線から電力を供給されて走っているトロリーバス(無軌条電車線)となり,標高3,003メートルの雄山直下を貫通する長さ3.7キロメートルの立山トンネルを10分で通過します。大観峰駅の標高は2,316メートル,室堂駅の標高は2,450メートルなので,ほぼ同じ高さです。
なお,立山という山はなく,標高3,003メートルの雄山(おやま),標高3,015メートルの大汝山(おおなんじやま),標高2,999メートルの富士ノ折立(ふじのおりたて)の3つの山を合わせて立山といいます。あるいは,雄山のみを立山とすることもあります。

1971年の開業当初はディーゼルバスにより運行されていましたが,観光客の増加による増便に伴ってトンネル内に排気ガスが滞留するようになり,環境保護のため1996年にトロリーバスへ転換しました。また,2018年12月に扇沢駅と黒部ダム駅間のトロリーバスが電気バスへ転換されたことにより,現存する日本で唯一のトロリーバス路線でした。
しかし,修理用部品の調達が難しくなり,立山トンネルトロリーバスも,2024年12月1日を以って廃止され,翌2025年4月に電気バスへ転換される予定ということです。これにより,日本におけるトロリーバスは全廃される見通しとなりました。
私はそんなことも知らず立山黒部アルペンルートに来たのですが,これは幸運なことだったのか。最後の年にトロリーバスに乗ることができました。
とはいえ,アメリカではけっこうトロリーバスというのは走っていて,私には珍しいものでもなかったのですが…。

さて,けっこう込み合っていたトロリーバスですが,いよいよ室堂駅に到着しました。
室堂駅は一大ターミナルで,人がごった返していました。ターミナルから外に出ると,それは雄大な景色が飛び込んできました。何度も来ている人でも,こんなすばらしい景色ははじめてと言っていました。

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【Summary】
I traveled from Kurobedaira to Daikanbo Station via the Tateyama Ropeway and enjoyed the beautiful scenery. On clear days, breathtaking views of the Oku-Tateyama mountain range and Kurobe Lake unfold. The ropeway's one-span system is a rarity in Japan.

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黒部平は標高1,828メートル,次の大観峰は標高2,316メートルで,この間は谷なので,黒部平駅から大観峰駅までは立山ロープウェイで結ばれています。
立山ロープウェイは,全長1,638メートル。途中に支柱が1本も設けられていないワンスパン方式を採用しているというのがウリだそうです。ワンスパン方式を採用しているのは、日本では立山ロープウェイとガーラ湯沢スキー場にある「ランドー」だけということです。立山ロープウェイの着工は1968年(昭和43年),営業開始は1970年(昭和45年)ということだけはわかったのですが,それ以外の情報がありません。いろいろ調べても,ワンスパン方式ということだけが書かれていて,どういう経緯で作られたとか,作られたときの様子が書かれたものがないのです。

さて,黒部平での展望を楽しんだあと,立山ロープウエイに乗り込みました。
私ははじめて来たので,それぞれの場所でそのよさを楽しみながら進んでいるのですが,何度も来ている人は,あるいは,団体ツアー客は,こうした場所は単なる通過点のようで,先へ先へと行ってしまうので,黒部平あたりは,人もほとんどおらず,扇平駅の混雑は何だったんだ,みんなどこへ行ってしまったんだ,と思いました。
さすがに動く展望台といわれるだけあって,立山ロープウェイからの展望はすばらしいものでした。おそらく紅葉の時期は絶品なのでしょう。
わずか7分で,標高差500メートルを登り,大観峰駅に到着しました。

大観峰駅から次の室堂駅までトロリーバスに乗り継ぎますが,私は,ここでもまた,しばらく展望を楽しむことにしました。
大観峰駅の屋上にあるのが大観峰雲上テラスです。黒部平パノラマテラス同様,テーブルと椅子が置かれていました。眼下に見えるのがタンボ平や黒部湖,その反対側にそびえるのが奥立山連峰です。何といっても,この日は快晴なのです。こんなすばらしい景色が見られたのは幸運なことだったのでしょう。

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【Summary】
After walking along the Kurobe Dam embankment, I arrived at the quiet Kurobe Lake Station. Taking the Kurobe Cable Car, I reached Kurobe-Daira Station at an elevation of 1,828 meters, where I found a restaurant that was not yet open. While many people hurried to Daikanbo Station, I enjoyed the beautiful scenery of the Northern Alps on the "Panorama Terrace" under clear skies. I appreciated the grandeur of the mountains and could see the ropeway heading toward Daikanbo.

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次の黒部湖駅まで黒部ダム堰堤を歩きました。混雑していた扇沢駅にいた人たちはどこに行ってしまったのか,というほど,誰もいなくなりました。黒部ダム堰堤を越えるとトンネルになっていて,そこが黒部湖駅でした。ここもまた列ができていましたが,ここから乗る黒部ケーブルカーはどんどんと並んでいた人を載せて出発していくので,ストレスはありませんでした。
標高差約400メートル,最大勾配31度の急斜面を走る黒部ケーブルカーは,雪害を防止するため全区間が地下トンネルを通っています。トンネルの中間地点で2台のケーブルカーがすれ違うようになっています。

5分ほどで黒部平駅に到着しました。標高1,828メートルまで来ました。
黒部平駅の白い建物の中にはレストランなどもあって雪の大谷をイメージした黒部平オリジナルメニューの「雪の大谷カレー」や「立山ブラックソフト」などが食べられるということですが,まだ早いので営業していませんでした。多くの人は,というより,ほとんどの人は,ここでとどまることなく,次の大観峰駅まで行く立山ローブ-ウェイの乗り場に急ぎました。
黒部ダムも黒部平も人の流れについていくと,どこも見ないで室堂まで行ってしまいます。そうなのです,ほとんどの人がめざしているのは,立山黒部アルペンルート最高地点の室堂だったのです。私はここでそれを知りました。私は,立山黒部アルペンルート全体を知りたくてやって来たので,どの地点も観光したいのです。そこで,黒部平駅でも踏みとどまり,景観が楽しめる「パノラマテラス」に登りました。

「パノラマテラス」から眺める景色は,それはそれはすばらしいものでした。何といっても,この日は快晴なのです。
遠くに見える北アルプスの山々は,左から,標高2,814メートルの五竜岳,標高2,539メートルの牛首山,標高2,889メートルの鹿島槍ヶ岳,標高2,688メートルの布引山,標高2,841メートルの鳴沢岳,標高2,678メートルの赤沢岳,標高2,762メートルのスバリ岳,標高2,821メートルの鉢ノ木岳でした,どれも2,500メートルを超える堂々としたもので,きっと山好きな人にはたまらなく魅力的な風景でしょう。

晴天に感謝でした。
また,反対方向に目をやれば,これから目指す立山連峰の大観峰にむかう立山ロープウェイが見えました。

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扇沢駅から黒部ダム駅までを結ぶ電気バスは,黒部ダムが建設されるときに資材運搬用に造られたトンネルを利用して運用しているということです。電気バスを降りると,その先は,右手と左手に長い階段がありました。どちらに行くかという情報は,電気バスの中にあったモニターで紹介されていたのですが,行ってみないことには実感がわきませんでした。
左手は立山方向,右手は黒部ダム展望台方向という案内標示がありました。要するに,黒部ダムは,一望できる展望台があって,その後,展望台から降りて,ダム堤防に沿って対岸の黒部湖駅に行くと,次の黒部平駅までのケーブルカーに乗ることができるわけで,左手に進むと,展望台はスキップして,すぐに黒部ダム堰堤に出ることができるようになっていました。

私は,立山黒部アルペンルートで,まず見たかったのが黒部ダムだったので,ここを見逃してはいけません。そこで,右手に進みました。黒部ダム駅から展望台までは220段の地中階段を登る必要がありました。登り終えると,標高1,508メートルの展望台から,黒部ダムの観光放水はもちろん,立山連峰をはじめとする、北アルプスの大パノラマも楽しめました。
私は,2018年にアメリカのグレンキャニオンダムに行ったことがあります。そのときのブログに
  ・・・・・・
グレンキャニオンダムは想像を絶する巨大なダムでした。堤高216メートル,堤幅475メートルで,黒部ダムがそれぞれ186メートル,492メートルなので同程度です。しかし,山の中にある黒部ダムとちがって,大平原にこんなものが忽然とそびえてしまっていると,恐ろしさとスケール観に圧倒されます。
  ・・・・・・
と書いたように,すでに,このスケールのダムは見たことがあるので,特にすごい! というような感動はもちませんでした。ただ,行ってみたい,と思っていたその達成感はありました。

  ・・・・・・
黒部ダムは黒四ダムともよばれる関西電力の水力発電専用のダムです。1956年(昭和31年)に着工し,171人の殉職者を出し7年の歳月をかけて,1961年(昭和36年)に送電を開始し,1963年(昭和38年)に完成しました。
標高は1,454メートルで,ダム右岸の取水口から山中に掘られた導水路を通って,約10キロメートル下流の地下に建設された黒部川第四発電所に送られて,ダムとの545.5メートルの落差で発電します。
  ・・・・・・
私は,発電のために,これだけ多くの犠牲者と困難な工事をしてまでダムを作った意味がよくわかりませんでした。調べてみると
  ・・・・・・
第2次世界大戦後の復興期,関西地方は深刻な電力不足により,復興の遅れと慢性的な計画停電が続き,停電による多数の死亡事故などが深刻な社会問題となっていました。決定的な打開策として,大正時代から過酷な自然に阻まれ何度も失敗を繰り返した黒部峡谷での水力発電以外に選択肢を見出せず,その秘境の地でのダム建設案に,当時の太田垣社長は「黒部しかない」「関西の消費電力を一気に賄える」「工期7年,遅れれば関西の電力は破綻する」と決断したものです。
完成当時,電力需要における京都府の80パーセントと大阪府の20パーセントを賄うことができました。
  ・・・・・・
とありました。
黒部ダムによって,総貯水量2億トンの北陸地方屈指の人造湖「黒部湖」が形成されました。

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2日目。2024年9月6日金曜日。
午後7時に寝たので,午前3時過ぎに起きました。絶対に快晴という確信がありました。七倉荘は自由に屋上に上がることができるので,屋上に出てみました。やはり満天の星空でした。
部屋に戻って,二度寝をしたあと簡単な朝食をとって,チェックアウトをしました。
この日は,午前7時30分に扇沢駅から電気バスに乗ることになっていました。立山黒部アルペンルートのWebチケットでは,最初に乗る扇沢駅出発の電気バスだけは時間を決めて予約することになっているのです。その後の交通機関は,時間を決めず,自由に乘ることができます。こうして,はじめに乗る人数を決めることで,一度に多くの観光客でごった返すのを制御しているのでしょう。

午前7時30分に間に合うためには,信濃大町午前6時15分発の始発のバスに乗る必要があります。
旅館を出て,バス停に向かったのですが,晴れているとばかり思っていたのに,霧でほとんど何も見えず,びっくりしました。とはいえ,朝霧は晴れる,といいます。この日の天気がいいとさらに確信しました。
  ・・
バスは,思ったより多くの人が乗り込みましたが,混雑しているというほどではありませんでした。
バスははじめのうちは大町の住宅街を走っていったのですが,やがて,結構険しい山の中を上っていき,40分ほどで扇沢駅へ到着しました。
扇沢駅は大きなターミナルになっていて,周辺には広い駐車場がありましたが,すでに満車状態で,停めることができなかった多くの車が道路に沿って,ちょっとした空きスペースを見つけては駐車をしようと苦労していました。私のように,扇沢駅から立山駅まで,立山黒部アルペンルートを縦断する人は車で来ることはできないから,扇沢駅まで車で途中で引き返すのでしょう。
ちなみに,扇沢駅から立山駅まで車を回送してもらうことはできますが,3万円程度必要ということです。
  ・・
平日にもかかわらず,こんなに早い時間に,すでに,黒部アルペンルートの乗車券を買うための長い列ができていて,思った以上の混雑に,私はこの時点でいやになりました。想像していた以上に立山黒部アルペンルートはとんでもないところだと思いました。
しかし,私は,すでにWebチケットが予約してあったので,だれも並んでいなかった発券機にQRコードをかざすだけで簡単にチケットを手に入れることができました。そこで,並んでいる人たちが哀れに思えました。立山黒部アルペンルートは,Webチケットを手に入れてから行くべきところです。

こうして簡単にチケットを手に入れることができました。そのままターミナルビルに入って,電気バスに乗るための列に並びました。列は6列あって,まだ電気バスの出発には30分以上もあったのですが,すでに,列ができていました。しかし,この時間は,さすがに団体ツアー客はいませんでした。
列に並んでいると,弁当売りがやってきて,盛んに冗談を言いながら弁当を販売していたので,それを聞いているだけで退屈しませんでした。とはいえ,ここで弁当を買ったらさらに荷物が増えます。また,食べ終わった後のゴミも持ち帰らなければならないので,私は買うのをためらいました。しかし,こんなに多くの人が行くのでは,昼食は大丈夫なのかな? と心配になりました。
なお,弁当は即刻売り切れました。
やがて,時間になって,電気バスに乗り込みました。バスは何台も連なっていて,車内はそれほど混雑もせず,思ったほど大変でもなく,わずか15分程度で,はじめの目的地である黒部ダム駅に到着しました。
さあ,いよいよ旅のはじまりです。

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今回の旅で,信濃大町駅は通過点に過ぎませんでした。しかし,翌日2024年9月6日の早朝6時15分発のバスで信濃大町駅前から扇沢駅まで行くために,この町に宿泊することになりました。
寝られればいいや,ということで,駅に近い七倉荘という旅館を見つけて予約を入れました。ここは素泊まりで,風呂もトイレも共同といいうところでした。別段,特筆すべきものはないのですが,部屋がタバコ臭いのにはまいりました。信濃大町駅前にルートインがあったので,そちらにすべきでした。

さて,食事がついていないので,どこかで夕食を取らなければなりません。そこで,チェックインを済ませて,さっそく,町に出ました。近くにスーパーマーケットはあったのですが,大型ショッピングモールがないためか,駅前のアーケード街は未だ健在で,シャッタ街ではありませんでした。
暇に任せて歩いていたら,古民家を見つけました。「塩の道ちょうじや」という公開施設でした。
  ・・・・・・
「塩の道ちょうじや」では,日本海側の糸魚川から松本方面へ塩を運んだ千国街道,通称「塩の道」とよばれるこの街道の歴史と人々の暮らしを紹介しています。江戸時代の庄屋で塩問屋を営んだ平林家の建物を利用した館内に,当時の牛方や歩荷の運搬道具,旅装や弁当箱,沿線住民の生活道具,古文書などを展示しています。
  ・・・・・・
ということで,私にはとても興味深いところでした。
また,「塩の道ちょうじや」には,流鏑馬会館が併設されていました。流鏑馬会館では,大町市の夏の風物詩である若一王子神社例祭や流鏑馬について紹介していました。大町の流鏑馬というのは射手が少年という全国的にも珍しく貴重な行事ということです。

特に何もない町でしたが,私は好感をもちました。
さて,夕食です。しかし,なかなか店が見つかりません。ここなら,という店はこの日がお休みだったし,それ以外には飲み屋さんがほとんどでした。めんどうになったことと,翌日の朝食を買う必要があったので,スーパーマーケットに行きました。
ここで思い出したのが,コロナ禍以前,よく海外に行っていたころ,レストランで食事をするのがめんどうになると,その町にあるスーパーマーケットに行って弁当,といっても海外ではパック寿司くらいしかないのですが,を買っていたのと同じだな,ということでした。
スーパーマーケットにフードコートでもあるかな,と淡い期待もあったのですが,まったくそれらしきところが存在せず,夕食のお弁当と,翌日の朝食を買って,早々に旅館に戻りました。食事をして,そのあとは特にすることもなかったので,午後7時に寝てしまいました。

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松本城を出るとちょうどお昼だったので,近くのおそば屋さんで昼食をとりました。
次に向かったのが旧開智学校でした。
私は,松本城以外は行ったことがなかったけれど,ガイドブックなどで旧開智学校の建物がよく紹介されているので,どこなのかな,きれいな建物だな,行ってみたいな,と思っていました。
場所は,松本城から北に15分くらい歩いたところだったのですが,この日はとても蒸し暑く,それだけ歩くものけっこう大変でした。
  ・・・・・・
1876年(明治9年)に完成した旧開智学校は,地元の大工棟梁・立石清重が設計した学校建築で,擬洋風建築の代表です。文明開化の時代を象徴する洋風とも和風ともいえない不思議な建築は「擬洋風建築」とよばれています。
注目すべきは正面の車寄せで,この1点に擬洋風が凝縮されています。八角の太鼓楼と寺っぽいアーチの窓,青竜の上に雲がわきその上にふたりのエンジェルが「開智学校」の旗を掲げています。
  ・・・・・・
ところが,校舎は耐震工事のため休館中で,2024年秋以降の開館の予定,ということだったので,がっかりしました。縁がなかったのです。しかし,すでに外観の足場は撤去されていて外観を見ることはできたので,満足しました。思っていたより大きな建物でした。

松本市の見どころは,松本城と旧開智学校くらいのものだったので,これで松本駅まで戻ろうと思ったのですが,途中に,松本市立博物館があったので,寄ってみました。
  ・・・・・・
松本市立博物館は1906年(明治39年)に開館しました。その後,名称や所在地の変更を繰り返し,2023年(令和5年)10月に現在地に移転新築し開館しました。
  ・・・・・・
ということだったので,出来立てのすばらしい博物館でした。
約11万点を超える貴重な資料を収蔵しています,ということなのですが,特にすばらしかったのは,江戸時代後期の松本の城下町を再現したジオラマでした。これほど大きなジオラマはほかにありませんでした。

松本市は,こうした博物館や音楽祭など,文化に力をいれている都会だなあと感じました。
松本駅に戻るために街中を歩いていると,バックミュージックでブラームスの交響曲が流れているではないですか! そんな街,ほかに知りません。すてきでした。
駅に戻って,信濃大町へ行く列車が来るまで,しばしの間,氷を食べながら涼をとりました。
今回の旅の目的は立山黒部アルペンルートなのに,その前にすでにずいぶんと満足することができました。

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1日目。2024年9月5日木曜日。
台風10号の接近で日程が決まらないなど,さまざまなことがありましたが,ともかく,出発することができました。
台風が熱帯低気圧に変わり,通り過ぎたので,まさに台風一過。天気はまったく心配なく,晴れることは確実でした。それにしても,直前に日程の変更ができたということは,この時期に立山黒部アルペンルートを旅するならば,旅館の予約や交通チケットの購入は,慌てなくても1週間前に天気予報を知ってからでも大丈夫,ということになるわけでした。

午前8時名古屋駅発の「しなの」3号に乗り込みました。
このごろ,架線事故や地震や台風で東海道新幹線が不通になることがたびたびあり,中央線まわりのルートが見直されています。数日前にも,台風の接近で東海道新幹線が不通になったので,中央線の特急「しなの」も満員だったそうで,名古屋駅のホームがごった返していたそうですが,この日は東海道新幹線は平常運転をしていたので,中央線は閑散としているだろうと思っていたとおり,乗客も少なく,とても快適でした。
午前10時46分,松本駅に到着しました。
  ・・
今日の宿泊先は信濃大町駅に近い旅館なので,そのまま大糸線に乗り継いで信濃大町駅へ向かってもいいのですが,到着しても特にすることもないので,松本駅で途中下車して,夕方まで松本市の観光をすることにしました。
私が松本市に行ったのは今から50年以上も前のことですが,中学校の野外活動で八ヶ岳に行った折りに松本城に寄っただけで,それ以外の場所はまったく知りませんでした。そこで,今年2024年3月31日から4月2日まで,飯田線の「秘境駅」を巡り,そのあとで,木曽駒高原に旅をしたとき,木曽駒高原に行く途中で松本城を見ようと車で立ち寄ってみたのですが,あまりの混雑で,車を停める場所もなく,あきらめて素通りしました。そのとき,現在,松本市内はものすごい人だという印象が深く刻み込まれったので,もしこの日もそうだったらと心配だったのですが,松本駅前はがらがらで驚きました。

まず,駅にあった観光案内所へ行って,地図をもらいました。調べてみると,松本駅から松本城までは徒歩で15分程度だったので,歩くことにしました。
その間,道のいたるところで出迎えてくれたのが,小澤征爾さんの幟でした。
今年2024年2月6日に88歳で亡くなった指揮者の小澤征爾さんは,1992年から毎年夏に松本で「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」(Saito Kinen Festival=SKF),のち,2015年からは「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」(Seiji Ozawa Matsumoto Festival=, OMF)を行なっていました。それに感謝するものでした。幟には「ありがとう」と書かれてありました。ちょっと感動しました。泣けました。
  ・・
やがて,松本城に到着しました。私は,ボランティアガイドさんの説明があるといつも利用しているのですが,今回もそうしました。ガイドさんからは知らないことをたくさん教えてもらえます。
その一例として…。
松本城天守の屋根上には,数か所平たい瓦が敷かれています。「捨て瓦」といって,上の階の屋根から雪が凍ってすべり落ち,平瓦や丸瓦を痛めるのを防いでいるものですが,これは,昭和の大修理の時に採用されたものだそうです。

松本城は,昨年の大河ドラマ「どうする家康」で松重豊さんが演じた石川数正ゆかりの城です。
  ・・・・・・
松本城は戦国時代,武田家の支配下に置かれていましたが,のち,空白地帯になったのち,1590年(天正18年)に石川数正の領国となり,築城を開始,現在も存在する松本城ができたのは,子の石川康長の時代です。
江戸の初期,松本藩主は目まぐるしく入れ替わり,ようやく落ち着いたのは1642年(寛永19年),大坂冬の陣・夏の陣で戦功を上げた水野忠清が藩主となってからで,6代83年にわたって治政が続きました。しかし,6代藩主・水野忠恒(ただつね)が遊び好きの放蕩者で,さらには江戸城中で刃傷沙汰まで起こしたことにより,改易となってしまいました。
そのあとは戸田家が9代にわたり明治時代になるまで治めました。
1871年(明治4年)の廃藩置県で,松本藩は松本県になり,松本城の二の丸は県庁となりました。また,城郭の門が取り壊され,松本城の天守は当時の兵部省によって管理され,武器の接収などが行なわれました。その後,松本中学校が松本城の敷地内にあり,本丸庭園を学校の校庭として使用していた時期もあったそうですが,1930年(昭和5年)に国の史跡に指定され,これを契機に松本城を国が管理するようになりました。
1945年(昭和20年)太平洋戦争が終結したあとに松本城は公園化が進められ,現在の姿になりました。
  ・・・・・・

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昨年2023年8月26日に「今後どこへ行きたいのか?」と題して「知らなかった黒部渓谷」を書きましたが,あれからもう1年過ぎたことが夢のようです。
私が黒部渓谷と思っていたのは,①立山黒部アルペンルートと②黒部渓谷のふたつの別の場所だったわけですが,②黒部渓谷はトロッコ列車を予約すればいつでも行けるだろうからと,まずは,難物のほうの①立山黒部アルペンルートに行ってみようと思いました。
  ・・
半年くらい前,なんとなく,立山駅のロープウエイ乗り場周辺に旅館を見つけたので,ここに宿泊すれば立山黒部アルペンルートは朝から行くことができるに違いないと,予約することにしました。しかし,8月終わりまではひとり客を受けつけておらず,9月1日以降なら大丈夫だったので,9月1日,2日の両日で予約を入れました。
しばらくはそれ以外のことはしないで,というか,調べもしないでいました。

1か月ほど前,行く日が近づいてきたので,そろそろ予定を立てようと行動を開始しました。ガイドブックを購入して調べてみると,私が行こうと思っていた立山黒部アルペンルートは,西の立山駅から東の扇沢駅までを1日がかりで横断するものだから,立山駅付近に2泊したところで意味がないことがわかりました。それよりも,扇沢駅付近に1泊して,早朝に出発し,立山駅に向かって行かなくてはならなかったのです。この期に及んでそんなことを知るとは愚かな話でした。
  ・・
そこで,慌てて9月1日の前日8月31日に扇沢駅の付近に宿泊しようと旅館を探しました。しかし,扇沢駅の付近には旅館がありません。結局,信濃大町駅近くに旅館があって予約できました。早朝,信濃大町駅前から扇沢駅までのバスがあって,扇沢駅から出発する電気バスの始発に間に合うのです。
そして,せっかく立山駅付近に2泊するのだから,9月2日はおまけと考えて,立山駅から立山黒部アルペンルートの途中の室堂まで行って戻ることにしました。
  ・・
次に,立山黒部アルペンルートを縦走するWebチケットがあることがわかったので,これを予約しました。このチケットは,扇沢駅から立山駅までをつなぐ,電気バス,ケーブルカー,ロープウェイ,トロリーバス,高原バス,ケーブルカーと,立山駅から富山駅までの富山地方鉄道のすべてが含まれています。
さらに,行き8月31日のJR中央線で名古屋駅から松本駅までの特急「しなの」と,帰り9月3日のJR高山線で富山駅から名古屋駅までの特急「ひだ」の指定席券も入手しました。
こうして準備も終わり,あとは出かけるだけとなりました。

ところが…。
8月下旬,台風10号が日本列島に近づいてきました。
はじめは,この調子なら私が旅行に出かけるときは,台風が過ぎ去った後の台風一過,ちょうどいい時期だなあ,と楽観していたのですが,何と,台風10号は太平洋上で停滞し,迷走をはじめました。そして,私が旅行に出かけるときになっても,過ぎ去るどころか,台風直撃に近い状態となってしまいました。
これには困りました。
  ・・
まず,予定を1日遅らせて日程を1日減らし,9月1日から9月3日までの2泊3日にしようと考えました。これなら簡単に予約の変更ができそうでした。ところが,日程を短縮しても,事態はかわらず,雨の中を旅するか,最悪の場合は,行くことができないか,あるいは,帰ってくることができないか,という心配が出てきました。
さんざん迷った挙句,旅館のキャンセル料が発生しない2日前の段階で,こうなったら日程をすべて変更し新たに9月5日から9月7日までにしようと思い立ちました。さっそく,旅館の予約ができるかどうかを調べてみたところ大丈夫だったので,急いで変更をしました。そして,JRの切符も立山黒部アルペンルートのWebチケットもすべて変更することができました。

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3泊4日の佐渡島旅行もこれで終わり。
昨年2022年秋に行った石垣島は,まるで幼稚園バスのようなおもてなしごころのかけらもなかったピーチが憂鬱だったけれど,今回はお気に入りのFDAなので,帰るまでも楽しいわけで,旅というのは,交通機関も含めて,そのすべてが快適なものでなければ行く意味がない,とこのごろ思うようになりました。
新潟空港の出発が午後7時55分とおそくても,名古屋には午後8時45分には着くので,名古屋から京都へ行くよりも新潟は近いのです。また,新潟空港も広々としていて気持ちがよく,と,思った以上だった佐渡島と往復の快適さで,充実した4日間を過ごすことができました。
それにしても,格安航空を使えば,日本国内はこんなに安く早く旅をすることができるとは,海外旅行に夢中になっていたころは思いもつかないことでした。こんな快適な旅をしていると,ますます海外が遠ざかっていってしまいます。喜ぶべきか,悲しむべきか。

以前にも書いたように,FDAは行きは最後列,帰りは最前列に座るのが,さらに快適な旅をするコツなのです。ANAなどの従来の飛行機会社は,悪しきアメリカの制度をまねして,やたらと〇〇ステイタスだのというように客をランクづけしているのですが,国が広いアメリカならともかく,たかが1時間ほどの国内線の旅にビジネスクラスなど必要なく,しかも,客のランクによって搭乗順序があれこれと決められていて煩わしく,何をもったいぶっているのやらと思います。
乗っている時間が10時間ほどの国際線なら,私はゴールドステイタスだから,それで悠々とはじめに洋々と搭乗して優越感に浸るのですが,わずかな時間の国内線では,乗るまでの時間のほうが長いくらいです。空港だって,何十機の飛行機が滑走路で離陸順を待って列をなしているアメリカの空港ならともかく,ほかに飛ぶ飛行機もない小さな日本の地方空港です。何を大国アメリカのマネをしているのか…。そんなことより,FDAのように,お年寄りや子供連れなどの優先者の搭乗が終わったら,さっさとすべての乗客を案内して,全員が揃ったら早々に離陸すればいいのです。
飛行中,いつもように,座席に座って,お茶とお菓子のサービスを待っていたら,客室乗務員の女性に「前にもお会いしましたね」と話しかけられました。佐渡島に行ってトキの写真を撮ってきたと話したら,見せてほしいとのこと。こういうのは誠にこころが休まるのであって,こんなプチ特別感が,プレミアムシートやら,ゴールドステイタスといった,バカげた,いかにも金がすべてのアメリカ的差別感よりも,ずっと乗客を満足させるのです。
おまけに,飛行機から降りるとき,自筆でお礼の書かれたキャンデーの入ったコップをくれました。
最高でした。

そんなわけで,旅に出るまではまるでテンションが低かった今回の旅は,思った以上のすばらしいものとなりました。また次回,FDAでどこかへ出かけよう!

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来たときとは反対に,両津港からジェットホイルで新潟港に戻ります。帰りはフェリーにしようと思っていたのですが,フェリーに乗ると,帰りの飛行機の時間に間に合うかどうか微妙だったので,迷った末,行きと同じようにジェットホイルにしました。
ビギナーズラックというか,何も知らなかった私は,行きは何も言わず単にチケットを購入したのに窓際席だったのですが,帰りは窓際席をと言ったら売り切れということで,内側の席になりました。ただし,行きは1階,帰りは2階だったので,それはそれでよしとしましょう。
乗船まで時間があったので,まず,ターミナルの1階にあったカフェでトキフロートを飲みました。要するに,これは,トキの形をしたクッキーのついた単なるフロートでした。その後,ターミナルの屋上に展望台があるというので行ってみることにしました。ここから佐渡島が一望できました。来たときは感激した大佐渡の雪を被った山並みも見慣れてきましたが,いつ見ても美しいものです。おそらくこのの1か月あとにはじまるハイシーズンに佐渡島に来る人は,こんな雪を被った金北山を見ることはできないでしょう。

港には,私が乗ろうかやめようか迷っていたフェリーが本土からやってきました。フェリーはジェットホイルより早く出航するのですが,途中で追い越されるのです。
待合室に戻ると,フェリーに乗る乗客が長い列を作っていました。ジェットホイルの運賃は高く,両津港と新潟港を往復する料金が名古屋から東京までを往復する料金と変わらないから,頻繁に利用する人はフェリーの利用となるのでしょう。ただし,島民は割安になるようですが。
私は,前回の石垣島,そして,今回の佐渡島,さらに,今後行こうと思っている隠岐島などを調べていって,離島に住むというのは,船の利用をしなくてはいけないから,ずいぶんとお金がかかるものだとはじめて知りました。
長年住んでいても,来てみなければわからないことは多いものです。たとえば,高校3年生が受験をしたり,あるいは,近年廃止になった教員免許更新制度の講座の受講などで,本土に行く必要があるときなどの経費がバカにならないそうです。国民のことなど考えていないこの国の政治は,そんな島民のことなど,全く考慮していないということに気づかされます。

さて,フェリーが出航した後,私の乗るジェットホイルの乗船時間となったので乗り込みました。
ジェットホイルは快調に運行して,1時間7分後,新潟港に到着しました。船内で下船後の新潟港から新潟駅までのバスの時間などの案内放送がかかるのですが,新潟空港までの案内はまったくありませんでした。
帰りもまた,新潟港から新潟空港までタクシーを利用しましたが,帰りの方が運賃が1割程度安かったのはどうしてだろう?
美しく広い新潟空港で夕食を取りました。2階にレストラン街があったのですが,レストラン街といっても店は3軒程度でした。選んだおそば屋さんの天ぷらがとても美味でした。その後は,ラウンジでくつろぎました。高知空港もそうだったけれど,地方空港にはゴールドカードだけで入れるラウンジがあって,また,とても利用者が少なくて,くつろげます。

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根本寺,清水寺と国中平野にある行きたかった寺を見た私は,これで主な見どころをすべて見終えたので,旅の最後に,両津港あたりを散策することにしました。まずは加茂湖の周辺をドライブです。
  ・・・・・
加茂湖は,佐渡島というより新潟県最大の湖で,周囲約17キロメートルにおよびます。もともとは淡水湖でしたが,明治期に湖水の氾濫を防ぐために開削し海とつながったために汽水湖となりました。
湖岸は遊歩道やサイクリングロードが整備され,紀貫之の歌にも越の湖として加茂湖が詠まれたように,湖面に映る大佐渡の四季の景色は絶景です。
  汐のぼる越の湖近ければ蛤もまたゆられ来にけり 
また,1932年(昭和7年)からはじまったカキの養殖が盛んに行われています。
  ・・
カキにはマガキとイワガキの2種類があって,佐渡島では,加茂湖と真野湾でマガキを養殖しています。養殖方法は垂下式養殖で,種カキをつけたホタテの貝殻を縄に取りつけ,その縄を海中にぶら下げて育てます。カキは1年から2年かけて食卓にあがる大きさに成長します。
約1,000台のいかだがあって,年間約300トンのカキが水揚げされていますが,加茂湖で取れるカキは若牡蠣でくさみが少なく食べやすいと評判です。
  ・・・・・・
ということですが,確かに,加茂湖には多くのカキの養殖場がありました。また,加茂湖の借景としてこの季節は,大佐渡の雪を被った山並みが実に見事でした。

昼食を,と思いながら走っていたのですが,もともと店が少ない上,シーズンオフでもあり,休みのところばかりでした。
加茂湖を過ぎて,両津港の東,県道45号線に差しかかる手前に「よろこんで」という食堂を見つけました。こうしたときは,ためらわず,とにかく見つけたところに入るのが鉄則です。駐車場には多くの車が停まっていました。なにせ,ほとんど食堂がないことに加えて,ちょうどお昼時でした。
運がよかったのは,偶然,私ひとりが座る場所が空いていたことです。私の後もずいぶんとお客さんが来たのですが,満員ということで断られていました。
目の前にあったメニューからカキフライ定食を注文しました。これが大当たりでした。なにせ,先に書いたように,佐渡島のカキ。しかも,いまがシーズンだったのです。出てきたカキフライは飛び上がらんばかりの大きさでした。お店といい,メニューといい,最高の選択でした。

おいしく食事をいただいて,最後に,両津の町を少しばかり散策することにしました。
両津港の東側に広い運動公園がありました。何か,ハワイ島の東海岸ヒロの町を思い出しました。ヒロの町もまた,遠くに雪を被ったマウナケアを望むことができました。
決して広くない両津の町は寂れていました。潰れたホテルやら,シャッターを閉じた商店ばかりでした。日本はどこに行っても,東京以外はこんな感じです。旧道を歩いていて偶然見つけたのが,3泊目に私が泊まろうと思っていた金沢旅館でした。ここなのか,と思いました。思った以上に古ぼけていました。
金沢旅館は「明治時代へタイムスリップする加茂湖畔の宿」ということなのですが,この旅館は明治に建てられた元遊郭なのです。外観だけでも遊郭時代の面影を残しているのですが,館内は遊郭のままで見学がきると,多くのブログにありました。
ということで予約をしようと思っていたのですが,満室だったのか,やっていなかったのか,定かでないのですが,予約ができなかったのです。実際に電話でもすれば真相がわかったのでしょうが,そこまでする気もなく,その代わりに宿泊した旅館「いさりびの宿・道遊」が最高だったので,それはそれで満足しています。
また,遊郭跡といえば,私の地元名古屋にもかつては中村遊郭があって,そのひとつだった松岡旅館が今から40年くらい前に料亭として営業していました。私がそのころ勤めていたところの忘年会で利用したことがあって,そのときに内装を見た経験もあったし,また,京都・島原の輪違屋も内部を見学したことがあるので,元遊郭にそれほど興味があったわけでもありませんでした。

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私が行きたかった国中平野での見どころは,根本寺と清水寺(せいすいじ)でした。
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根本寺は,鎌倉時代の1271年(文永8年)に佐渡島に流された日蓮が塚原の地に三味堂を開いたのがはじまりとされます。当時,塚原は死人の捨て場とされていたそうですが,日蓮は約2年半佐渡に滞在したうちの最初の6が月をここで過ごしたそうです。三味堂は畳2枚ほどの狭いあばら家で,冬には深い雪にも覆われましたが,阿仏房の夫妻から食料などの世話を受けました。
佐渡島に集まった他宗の僧侶ら数百人と日蓮が問答を戦わせて日蓮宗の根本教典「開目抄」を著したのがこの三味堂と伝わります。
戦国時代の1587年(天正15年)三味堂があった付近に京都・妙覚寺の日典上人が根本寺を開基しました。江戸時代に入ると,佐渡金山の山師たちの寄進で本堂などが建てられました。
  ・・・・・・

という説明を読んで,私はあることを思い出して,頭がごちゃごちゃになりました。
帰ってから調べてみると,それは安土宗論(あづちしゅうろん)でした。
  ・・・・・・
安土宗論は,1579年(天正7年)安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の宗論で,安土問答とも称されます。織田信長の斡旋により,浄土宗の僧・玉念,貞安,洞庫と法華僧・日珖,日諦,日淵の間で行われたもので,敗れたとされた法華宗は処罰者を出した上,以後,他宗への法論を行わないことを誓わされる結果となったそうですが, 法華宗は信長の意図的な弾圧によるものとしました。
  ・・・・・・
この安土宗論はいろいろなことが出てくるのですが,佐渡の問答については,詳細がわかりません。
日蓮宗というのは過激な宗教だと聞いたことがあるのですが,私はそれ以上のことはまったく知らないので,これ以上のことは書くのをやめます。
いずれにしても,この寺は,佐渡島にあった多くの寺の中でもかなり立派なものでした。また,私が最も印象に残るのは,寺の庭に咲いていた水芭蕉の花でした。

次に行ったのが清水寺でした。 
  ・・・・・
清水寺は,桓武天皇の勅により京都から布教に来た賢応法師によって808年(大同3年)開基しました。京都の清水寺を模した救世殿があって,本尊も京都清水寺同様に千手観世音菩薩。また,千手観音に従う役割を担う二十八部衆仏像は,平安時代後期に造られた歴史ある作品として,佐渡市による保存活動が行われています。
  ・・・・・・
佐渡に清水寺を建てた理由は,当時の佐渡で暮らす人々が京都の清水寺にある千手観音菩薩をお参りできるようにするためだということでした。
仁王門の左右には,金剛力士像が仁王立ちをして構えています。また,門の間から,石造りの階段の先から奥へと進む参道が垣間見えます。また,仁王門の周辺には佐渡市指定の天然記念物として有名な,樹齢約1,000年と推定される新穂大野の大イチョウを見ることができます。
参道には一面に広がる壮大な杉の木がありました。
最後の石階段を上りつめると,本堂へ通ずる中門があって,その奥に京都の清水寺を模して造られたといわれる清水の舞台があります。

想像以上にものすごく寂れた寺で,草やコケが一面に生えていて,本堂へのぼる左右の「石段」はある部分が崩れていて足元が安定しないほどであり,清水寺の本堂の中には壁に大きな絵が数枚飾られているらしいのですが,劣化で姿形を把握することすらできませんでした。
清水の舞台を支える土台の部分だけは修復されているようで,そうでなければ,舞台に乗っただけで崩れてしまうでしょう。
また,鐘楼や経蔵もあることにはあるのですが,人の気配すらありませんでした。
  ・・・・・
清水寺を出て,車に乗った瞬間に,空に2羽のトキが飛ぶのを見ました。
このトキが私が今回の佐渡島の旅で見た最後のトキになりました。少し走ったところに日吉神社があって,この日吉神社にもトキの巣があるということなので,このあたりをトキが飛んでいるのももっともだったと後で知りました。

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史跡佐渡金山に通じる車道を少し下ったところに,無宿人の墓という案内標示がありました。車を駐車できるほどのスペースがあったのでそこに車を停めて行ってみることにしました。結構遠く,途中でどうしようか迷ったのですが,せっかく来たので,折れるこころを激励してたどり着くことにしました。
大きな墓碑が並んでいました。無宿人の墓は,1853年(嘉永6年)に水替人足として働き,坑内で亡くなった無宿人28人の出身地,戒名,名前,年齢が刻まれたものでした。水替というのは,地底の坑道にたまる湧水を汲み出す坑内作業で,この作業は低賃金で,しかも,過酷な長時間労働でした。はじめのうちは,水替人足は募集で行われていましたが,重労働であったので常に人不足の状態でした。1778年(安永7年)に,江戸府内の無宿者を佐渡金山に送るという触書が出され,江戸から56人の無宿人が囚人のように目駕籠に入れられて送られてきました。政情不安で発生した無宿者が大量に江戸周辺に流入し,凶悪な罪を犯すようになったので,その予防対策として彼らを人足として使役しようとしたのです。やがて,大坂や長崎からも送り込まれるようになって,その数は1861年(文久元年)までに1,876人に達しました。彼らは竹矢来で囲んだ建坪136坪ほどの水替小屋に監禁され,一昼夜交代で地底で酷使されたということです。
当然のごとく,無宿人の墓の隣には,この地におくられた遊女の墓もありました。
私は,こうした史跡を訪ねるたびに,もし自分がその身だったらと思い,いたたまれない気持ちになります。

さて,無宿人の墓を出て,次に向かったのが,佐渡島で多くの史跡が残る真野町でした。ただし,真野町は今はなく,現在は佐渡市の一部となっています。町の中心部だったところは,真野新町という名前になっています。
真野町にある史跡,まずは,順徳上皇の火葬塚です。佐渡配流となった順徳上皇は,1242年に46歳で崩御し,翌日火葬されましたが,その跡に松と桜を植え目印としたのがこの火葬塚です。遺骨は帰京し,後鳥羽上皇墓所のかたわらに安置されました。奈良などにある天皇陵よりも大きなものだったので,驚きました。
そして,その次に行ったのが,佐渡歴史伝説館でした。
佐渡歴史伝説館は,道路沿いに多くの広告看板があったので,何だかマガイモノの施設のような気がしたのですが,せっかくだからと行くことにしました。入場料を払って中に入ると,佐渡島にゆかりのある,というか,流刑された歴史上人物や伝説を等身大ロボットなどで紹介する私設の体感型ミュージアムでした。
帰ってから知ったことには,北朝鮮拉致被害者の,現在も真野町に在住の曽我ひとみさんの夫であったチャールズ・ジェンキンスさんが,生存中,ここで,オリジナル商品「太鼓番せんべい」の販売を行っていたということです。

奈良時代には,すでに流刑地に定められた佐渡は,722年(養老6年)に皇室批判を行った万葉歌人の穂積老をはじめめとして,1221年(承久3年)に承久の乱で敗れた順徳上皇,1271年(文永8年)に鎌倉幕府や他教を批判した日蓮聖人,1434年(永享6年)に将軍の怒りを買った能楽の大成者である世阿弥などが流されてきました。
●穂積老
穂積老(ほづみのおゆ)は,飛鳥時代後期から奈良時代中期に生きた貴族です。
元正天皇を非難し佐渡島への流罪となり失脚しましたが,740年(天平12年)に聖武天皇が発した大赦により赦免されました。
  ・・・・・・ 
 吾命之 真幸有者 亦毛将見 志賀乃大津尓 縁流白波
 我が命の ま幸くあらば またも見む 志賀の大津に 寄する白波
 わが命が無事であったなら 再び見たい 志賀の大津に寄せる白波を
   「万葉集」巻3・288
  ・・・・・・
●順徳上皇 
順徳上皇は後鳥羽上皇による鎌倉幕府の打倒計画に参画し,承久の乱を引き起こしたものの鎌倉幕府の執権であった北条義時を中心とする幕府軍によって鎮圧され,乱の首謀者として佐渡に流されました。在島22年,都へ帰ることは許されず,46歳で崩御されました。辞世の句は
  ・・・・・・
 思いきや 雲の上をば 余所に見て 真野の入り江にて 朽ち果てむとは
 雲の上を人ごとのように見て思った 真野の入り江に朽ち果ててしまうと
  ・・・・・・
 「平戸記」の仁治3年(1242年)10月10日条に「御帰京事思食絶之故云々」とあり,都に戻れないことに絶望した果ての絶食自殺だった事を思わせる記述があります。
●日蓮上人
日蓮宗の宗祖である日蓮聖人は,地震や飢饉,疫病などの災害が相次いだことから鎌倉幕府の最高権力者であった北条時頼に「立正安国論」を提出します。この書で,相次ぐ災害の原因は幕府や民衆が邪教を信仰することにあるとし,法華経を信じなければ災いが起こると説き,鎌倉幕府や他の宗教を批判したとして,佐渡に流されました。
日蓮上人は塚原の三昧堂という荒れ果てた墓地の小堂に配所されました。この地で他宗の僧たちと「塚原問答」を戦わせました。
在島3年の後,赦免となり鎌倉へ帰りましたが,佐渡島には日蓮聖人が他宗の僧と問答を戦わせたという根本寺があって,この後,私は訪れることになります。
●世阿弥
室町幕府の3代将軍足利義満の寵愛を受け,能楽を大成させた世阿弥は,6代将軍足利義教の怒りにふれ,佐渡に流されました。
佐渡の多田に着いた世阿弥は,長谷寺を経て新保の万福寺に配所されました。
1436年(永享8年)までは佐渡に滞在していたことがわかっていますが,その後の消息については不明です。
なお,井沢元彦さんの書いた「天皇になろうとした将軍」には,足利義満の皇位簒奪説を紹介して,足利義満の急死は世阿弥による毒殺だったという説が書かれていて,私は興味深く読んだことがあります。

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2023年3月25日。佐渡島旅行最終日は国中平野にある見どころを巡る予定でしたが,その前に,再び史跡佐渡金山に行くことにしました。その理由は,2日目の夕刻に行ったとき,明治以降の採掘跡である道遊抗を出たところで雨が降ってきて,傘を持っていなかったのが災いして,最大の見どころだった「道遊の割戸」に行くことができなかったからです。そんなわけで,今回は道遊抗の見学だけをするつもりでチケットを購入して,中に入りました。
  ・・・・・・
「道遊の割戸」は,壮大な採掘跡を残す佐渡金山のシンボルで, 佐渡金山の中でも初期の採掘地とされる江戸時代の露天掘りの跡です。巨大な金脈を掘り進むうちに山がV字に割れたような姿になりました。
山頂部の割れ目は幅約30メートル,深さ約74メートルにも達します。
道遊脈とよばれる脈幅約10メートルの優良鉱脈を有していて,明治以降も割戸の下部で大規模な開発が行われていました。
  ・・・・・・

1899年(明治32年)にはじまった道遊坑での採掘場にはトロッコと線路があって,電線や水処理と空気を送るパイプが設置されていました。削岩のときも,ダイナマイトを使用し,機械で運び出していました。 道遊坑を出たところにあるのが機械工場で,削岩機などのさまざまな工作機械が掘削を停止したときのまま保存されていました。
ここから,「道遊の割戸」に向かう坂道があります。
「道遊の割戸」までは約10分の登りで,実際に目にした割れ目の底に大きな穴ぼこがあって,現在は途中で埋まっているのですが,本来は道遊坑につながっていました。江戸時代に掘ったのは山頂近くだけだったのですが,明治になってから穴を開けて,鉱石を落としながらどんどん掘り下げていったのです。それは,山頂のところにタテに鉱脈があったからで,露頭掘りで垂直に切り出された採掘跡は他にないといいます。
また,ふもとにあるのが北沢浮遊選鉱場で,世界ではじめて浮遊法という選鉱法を金で行った施設でした。
やがて,昭和になって鉱脈が枯れはじめると,浜石から金を取りだすことになりました。浜石というのは海岸に転がる石のことで,何百万年という間に川によって山から削られて海に流れ出た金鉱石です。浜石は約200万トンも存在しました。
第2次世界大戦が拡大すると,銅や鉄,亜鉛,鉛などの生産に力が向けられることになって,佐渡金山は閉山を迎えることになってしまいました。浜石は今もあって,100億円以上の金が存在するということですが,それは民家の下,なのだそうです。

実は,佐渡金山は,金ではなく銀の産出量が日本一でした。
それは,金鉱脈からは銀や銅も産出することが多かったからですが,佐渡金山では,金の総産出量が約78トンで銀はその30倍の2,300トンもあったのです。日本では,全盛期は,佐渡金山のほかに,石見銀山や生野銀山などがあって,銀の産出量は世界の約3分の1を占めていました。
佐渡金山は生産を停めましたが,今の日本でも金は産出しています。1985年から採掘をはじめた鹿児島県の菱刈鉱山は,わずか12年で佐渡389年分を追い抜きました。これは,最新の技術の成果です。こういう話を知ると,江戸時代,人力で鉱山を掘っていたことの大変さがわかるというものです。

この日は,売店で金粉入りソフトクリームを食べました。

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小佐渡を1周して,真野湾を越え,七浦海岸に戻ってきました。
途中,小佐渡の西端が沢崎海岸で,そこには沢崎鼻灯台があったのですが,遠くからしか見ることはできませんでした。また,沢崎海岸あたりの道路が入り組んでいて,道に迷いました。それまで走っていた佐渡島の外周を1周しているはずの県道45号線が突然なくなってしまったからです。佐渡一周線とは名ばかりで,突然その表示はなくなるし,いい加減な話です。
観光名所である小木町と宿根木は,真野町から内陸部を国道360号線が貫いていて,海岸線を走らなくてもショートカットできます。だから,目的地が小木町と宿根木であるならばアクセスするには便利なのですが,私のように,佐渡島の海岸線をくまなく走っていこうというモノ好きには過酷でした。海岸線を走っていたら,突然道路がなくなってしまったり,ものすごく狭い民家の間を走ることになってしまったりと,悪戦苦闘の連続だったのです。そんなわけで,この間しばらくは余裕がなかったので,1枚の写真もありません。
なんだかんだで,何度も引き返したりしながら,どうにかして,再び国道360号線が海岸線に沿って走るようになった河ケ崎にたどり着いたので,国道360号線に合流しました。その後は快調に走っていたら,ほどなくして真野町に着いてしまいましたが,ここは明日観光することにして通過して,今日宿泊する七浦海岸の「いさりびの宿・道遊」に急ぎました。
宿に着くのを急いでいた理由は,せっかく西海岸の沿った宿に泊まるからには,午後6時過ぎに沈む夕日を見たいと思ったことと,この日の午後8時過ぎに,金星と月が大接近するということで,その前に入浴を済ませて,夕食をとり,食後に写真を写そうと思ったからなのです。

「いさりびの宿・道遊」は3泊目の宿を探していて適当に選んだところだったのですが,まさに私の理想の宿でした。以前,「ある思惑があって3泊目の宿泊先を変えた」と書きましたが,「ある思惑」とは,両津港の近くにある「金沢旅館」に泊まろうと思っていたことです。しかし,どういうわけか,予約ができず,見つけたのが「いさりびの宿・道遊」でした。しかし,期待以上,ここは最高でした。
こうして,これまで2泊した民宿「桃華園」もよかったし,3泊目の宿もまたよかったから,私の佐渡島に対する印象は五つ星なのです。旅はこうでなければなりません。
「いさりびの宿・道遊」は,まず,場所がよかったです。西側が海に面していて,夕日が最高に美しいのです。また,夕日は部屋の窓からも一望できるのです。しかも,雨という天気予報は今回もまた覆り,この日は昨晩降った雨も上がり,青空になりました。次に,この宿のさまざまな「こだわり」が私の考えと一致していたことです。宿の女将とも話をしたのですが,とても気が合いました。
このきれいな宿に到着して,はじめに,ゆっくりとお風呂に漬かりました。ここは温泉で,くつろげました。お風呂から上がって,次にしたのは夕日を見ることでした。宿の前の海岸でもよかったのですが,2日目にも行った夫婦岩が近かったので,夫婦岩を入れた夕日の写真を写すことにして,車で出かけましたが,わずか5分程度で到着しました。
夕日を写真に収めてすっかり満足して宿に帰り,そのあと,いよいよ夕食でした。
佐渡島に来てすっかり日本酒が好きになってしまった私は,飲み比べセットなるものがあったので,それを注文して,地酒を堪能しました。そのあと,ビールも飲みました。ふだんはアルコールを飲まないのですが,こんな調子で,すっかり呑み助になりました。食事もまた最高でした。
夕食を終えて,宿の前の海岸で,金星と月の大接近をカメラに収めました。旅に出るまではすっかり忘れていたこの天体現象でしたが,この晩,日本で晴れていたのは佐渡島くらいのものだったので,自宅にいたら曇っていて写せなかったことでしょう。しかも,ここは金星と月が見える西側が海岸なので,まさに理想的な場所でした。

きれいな部屋,おいしい食事,そして温泉。
佐渡島の3泊目もまた,快適に過ごすことができました。
さて,最終日。朝食をとってチェックアウト。この日は国中平野巡りです。

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民宿の女将が「小木に火星のような風景があるから探しておいで」と言ったので,小木町の観光案内所で聞いてみたら教えてくれましたが,それは小木町ではなく宿根木の海岸でした。ということで,小木町でそばを食べた私は宿根木に向かいました。
宿根木に着く手前に博物館と広い駐車場があったので,車を停めて入りました。そこは佐渡国小木民俗博物館で,隣接して千石船「白山丸」の展示館がありました。
中に入って,まず,千石船の博物館を見ました。当時の図面を参考に実物大に復原された千石船「白山丸」が展示されていて,内部も公開されていました。訪れていたのは私だけでした。
  ・・・・・・
江戸時代に日本海の海運で活躍した「北前船」。
白山丸は全長約24メートル,船幅約7メートルの木造船で,約160年前に地元で建造された「幸栄丸」の図面を基にして,1998年に宿根木集落の住民でつくる「白山丸友の会」が町おこしを目的に,総工費1億4,000万円で原寸大に復元したものです。
宿根木集落にある白山神社が名前の由来といいます。
  ・・・・・・
これほど大きな木造船が江戸時代に海上交通を担っていたことに驚きましたが,船員の部屋とかはとても居心地がわるそうだったのも,また,日本的な話だなあと思いました。
博物館は1920年(大正9年)に建てられた宿根木小学校の木造校舎をそのまま利用したものです。館内には,数多くの小木地域の民俗や海運に関する資料などがありました。私は,博物館というのは,昔使われて今はガラクタとなったものの置き場だと,いつも思います。とはいえ,これは否定的な意味ではなく,こうして保存しなければ捨てられてしまい,後世に残りません。

博物館の駐車場に止めて宿根木の集落まで歩こうと考えていたのですが,思った以上に遠かったので,再び車に乗って行くことにしました。しばらく走ると道は下り坂になって,坂の下に宿根木の集落がありました。途中の郵便局の駐車場が観光用に開放されていたので,そこに車を停めて歩いて坂を降りました。
宿根木は小さな入江に隠れた船大工と船主の集落で,小木半島の入り組んだリアス式の海岸の中の小さな入江のひとつにひっそりと存在します。集落の前に広がる宿根木港は天然の岩礁そのままの入江に防波堤と駐車場と化している小さな岸壁があるだけのものでしたが,ここは中世には南佐渡における中心的な商港でした。
宿根木は,舟持ち,水主,舟大工などが居住する特異な集落として全盛期を過ぎても存続し,江戸時代は千石船を8隻所有し,水主の数は100人を超えていました。
宿根木の民家は,役目を終えた船舶の部材が再利用されているということです。
ここの海岸が「火星のような風景」でした。とはいえ,以前行ったことがあるアメリカ・アイダホ州のクレーター・オブ・ザ・ムーン国定公園のほうがずっとすごかったなあ,と私は思いました。また,この入り江にも,観光用のたらい舟があって,私が乗った小木港のたらい舟より沖合に出るからこのほうがよかったなあ,と思いました。ただし,船頭さんは小木港のほうは女性で,こちらは男性でしたけれど。

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岩首昇竜棚田と養老の滝を見た私は,再び県道45号線に戻って,この日の目的地である小木町(おぎまち)と宿根木を目指して,さらに海沿いを南下して走っていきました。その途中に松ヶ崎という集落がありました。
おそらく,これまで走ってきた県道45号線は旧来の道路を避けて,新しく海岸線沿いにバイパスとして作られたのでしょう。そこで,県道45号線のひとつ山側に旧来の道路が走っていて,その周りに集落があるのですが,それが「昔の町並み」として表示されていました。
  ・・・・・・
松ヶ崎は宿場町を思わせる半農半漁と商業の集落です。
佐渡海峡に突き出した鴻ノ瀬鼻には,1952年(昭和27年)に設置された白い鴻ノ瀬鼻灯台があって,県道45号線(通称佐渡一周線)はこの鴻ノ瀬鼻で直角に折れます。この曲がりの西側に,遠くに連なる小佐渡の山塊を借景にしたまるで中山道の木曽路の宿場町を思わせる家並みが残されています。
  ・・・・・・
というのが松ヶ崎の説明ですが,現在は,砂浜のある海岸線には松ヶ崎海水浴場とキャンプ場があってレクリエーション地区として整備されています。私が行ったのはシーズンオフなので,全く人がいなかったのですが,夏になれば,それなりの観光地となるのでしょう。
かつて古代律令時代には,松ヶ崎は越後と佐度島を最短で結ぶ場所だったので,佐渡国の津として松ケ崎駅が定められていて,国府の出先機関が置かれていました。江戸時代には,北前船の中継港として栄え,廻船を10隻も所有した菊池喜兵衛などの在郷富商がいました。しかし,船舶の大型化によって,天保年間には廻船の寄港地が多田港に,そして,小木港へと南下していって,松ヶ崎は漁村となってしまいましたが,今は,何か昔懐かしい雰囲気がある場所でした。

松ヶ崎を過ぎ,再び県道45号線に合流して走っていくと,ようやく小木町に到着しました。小木町のあたりはこのあたりではめずらしく平地が広く,よって,大きな町並みと港がありました。この小木町とその次の宿根木は,小佐渡の代表的な観光地です。昔懐かしい集落と,だれもが知る佐渡島名物のたらい舟に乗ることができるところです。
  ・・・・・・
小木半島のつけ根に位置する小木港は,南北朝期からすでにその名が知られた古い港町で,江戸時代には佐渡金山の外港として,また,北前船の寄港地として栄えました。江戸時代のはじめに佐渡代官の大久保長安によって,小木は運上金銀渡海場に指定されたので,港の整備と共に佐渡金山のある相川と小木を結ぶ小木街道が整備されました。金の輸送は,相川から陸上交通とともに海上輸送によって小木港に着き,小木港で大型船に積み替えらて本土へと運ばれました。
小木港には南向きの港「内の澗」(うちのかん)と東向きの港「外の澗」(そとのかん)があって,弁天崎と城山で区切られていましたが,佐渡の金山にかげりが見えはじめたころから堀が掘られ,小木港は船の風待港として越後近海で最も安全な港となり,北前船の西廻り航路の拠点となって栄えました。
越後の各港から50石積の船で小木港に集められた米は,小木港から千石船に積み替えられて大阪に向いました。しかし,明治になると大型の蒸気船が主流となっていくと港の限界が訪れ,さらに新潟港が県内交通の要衝となり,さらに,鉄道時代の幕開けで,両津港が佐渡の玄関港として整備されると,小木港は急速に衰退してしまいました。現在は,直江津からの定期便が運行されているだけです。
  ・・・・・・
小木港の一角でたらい舟に乗ることができました。
せっかく来たのだからと,たらい舟に乗ることにしました。私が乗る前に1組の観光客がいたので,たらい舟は運航していたのですが,私が乗るときにはほかにはだれも観光客がおらず,シーズンオフでもあり,まったく活気がありませんでした。
ともかく,たらい舟に乗って,港の湾を1周,途中で少し漕ぐことができたのですが,結構大変でした。

私は,この小木町で昼食をとることにしていて,何か地元のおいしい魚でも食べられないものかと期待して,観光案内所に入って訪ねてみたのですが,すすめられたのはおそば屋さんでした。
ということで,すすめられたおそば屋さんに行くことになったのですが,小さな1軒屋で,戸を開けると,だれもお客さんはおらず,一見,やる気のなさそうな不愛想な主がいました。「ざるそばしかないけれど」と言われて,選択の余地もなく,それを注文しました。
であったのですが,このお店,所狭しとプロ野球のグッズやら写真やらが飾られていて,しかも,それらの多くが,かつて大阪にあって,今ダイエーホークスとなった,南海ホークスのものだったのです。私は,亡くなった父がなぜか南海ホークスの大ファンだったので,その知識は豊富です。そんな次第で,話しかけてみると,店の空気は一転して,プロ野球談議に話が弾みはじめました。
人はわからないものです。共通する話題さえあれば打ち解けるものだと,しみじみ感じました。
それにしても,この佐渡島に南海ホークスファンがいることも,不思議な話でした。
このこともまた,佐渡島は不思議なところです。

小木町から少し行った海岸線が小木半島で,ここは散策コースとなっていて,広い駐車場がありました。ガイドブックに載っているたらい舟はこの小木半島の散策コースにある元小木の入江なのですが,3月はシーズンオフで営業をしていなかったし,だれも人がいませんでした。駐車場には結構車が停まっていたのに,どうしたことでしょう。

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佐渡島の南半分である小佐渡を時計回りに1周をはじめました。まず,昨日と同じように国中平野を東に進んで,両津港まで出て,この日は右折して小佐渡の外周をまわる県道45号線を走っていきました。まずは,最東端の姫崎灯台を目指します。小佐渡最東端というのは,佐渡島最東端でもあります。
その手前,大川漁港が眼下に見られる峠から,大川漁港が美しく見えました。ここは「大川やすらぎの里」と書かれてありました。
それを過ぎると,まもなく姫崎灯台に着きますが,灯台は県道45号線からはずれ,ものすごく狭い私道を走ることになりましたが,ここは私道でしたが好意の駐車場がありました。そこに停めると,向こうに灯台が見られました。ここに「ここにもトキが来ます」という立て札がありました。
  ・・・・・・
姫崎灯台は,佐渡ではじめての灯台として,1895年に点灯しました。
現存する日本最古の鉄造りの灯台で,その歴史的・文化的価値を認められ「世界灯台100選」にも選ばれています。
 青空に映えるエレガントな白い姿も必見。近くの「姫崎灯台館」は貴重な資料の展示館になっています。
  ・・・・・・
と帰ってからわかりました。展示館がありそうな雰囲気でなかったのでパスしてしまったのがくやまれるところです。

姫崎灯台から戻り,再び県道45号線を,今度は南西に向かって走ります。
なにせ,情報が少なく,走っていて偶然見つけるようなところばかりです。そこで,先の姫崎灯台にあった展示館のように見損ねてしまうのです。
次の見どころは赤亀岩でした。
  ・・・・・・
「赤亀・風島なぎさ公園」の海水浴場から望む鉄石英の赤い大きな岩。中央部に空洞のある奇岩で,亀の親子が寄り添っているようにも見えます。
「昔,水津の漁師が大時化に遭った際,大きな亀が現れ,船はその背に乗って港に戻った。亀は岩となり村人たちは“赤亀”と名づけた」。そんな言い伝えが残る奇岩で,赤亀明神を祭る祠があります。
  ・・・・・・
とありました。

さて,この先,私が目指していたのはガイドブックにあった岩首昇竜棚田でした。
  ・・・・・・
岩首地区の標高350メートルを超える山間に広がる棚田。
江戸時代ごろから受け継がれたもので,現在残る田んぼは460枚ほど。急峻な地形を活かしきる大小の変形田が天空に昇る龍のようにつながっています。
春先,水を張った棚田に朝日が差す光景は人々を魅了します。展望小屋からの眺望も見事。
  ・・・・・・
とあるのですが,養老の滝という道路標示は見たのですが岩首昇竜棚田という道路標示はなかったので,私は棚田に入っていく道を通過してしまいました。そのまましばらく県道45号線を走っていったのですが,どうも通り過ぎてしまったと気づいたので,戻ることにしました。
岩首昇竜棚田は養老の滝に行く途中からわかれて行ったところにあるのでした。そこで,改めて出直しです。すれ違うこともできそうにない狭い道を登っていきます。そして,右手に養老の滝,左手に岩首昇竜棚田とかかれた道路標示を見つけたので,まずは棚田へ向かいました。さらにどんどんと山を登り,車が1台かろうじて通れるような道路を想像以上に登っていくと,ものすごく高い場所にたどり着きました。そこから見下ろすと,確かに棚田でした。
雨が上がったばかりで霧っていたので,少し残念でした。もし晴れていたら,日本海の青とすばらしいコントラストだったことでしょう。

この狭い道路を降り,今度は養老の滝を目指します。
養老の滝といえば,岐阜県にもあって,岐阜県の養老の滝は,滝の水がお酒になったという親孝行な「源丞内」という「きこり」の話です。これを聞いた時の天皇が養老に行幸して自らこの不思議な滝の水を飲んだところ,膚は滑らかになり痛むところまで直ったということで,西暦717年に年号を「霊亀」から「養老」に改元したという話が「続日本紀」にありますが,佐渡島の養老の滝はそれと関係ないのかな?
  ・・・・・
県道45号線から山道に入り,岩首川沿いに約1キロメートル。赤い鳥居の先を5分ほど歩くと高さ29メートルの滝が流れています。その昔,この滝付近に住み着いた者がほしいものを願いながら床につくと,翌朝には届けられていたという不思議な言い伝えから、不動明王が住む滝として名が広がりました。
また,滝の水は,飲むと子宝に恵まれると言われています。
手前には朱塗りの太鼓橋「滝見橋」が掛かり,木々の緑と美しいコントラストを見せています。
  ・・・・・・
とあるのですが,私はこの太鼓橋が記憶にありません。

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民宿に戻ってきました。今日もまた,食事が楽しみでした。お供は,昨晩覚えた冷酒です。この晩は佐渡ヶ島の「至」(いたる)でした。
  ・・・・・・
純米発泡濁りのお酒人気のお酒です! 瓶内二次発酵で自然な発泡。純米らしく米の旨味,爽やかさ。食事にも合います。
  ・・・・・・
というのがウリでした。
どうやら私は,この旅で日本酒の楽しさを知ってしまったようで,それはそれでいいのですが,またまた興味が増えてしまいました。この先,旅をするたびに地元のお酒を嗜みそうですが,何事も本当に奥が深いものです。私は知らなかったのですが,お酒は種類が多いから,旅で訪れたところの地酒を味わうことが楽しみとなるわけです。
この晩は天気が悪く,夕食の後はお風呂に入って,早々に床につきました。

さて,3日目の朝です。
朝食をとったあとで,近くの「小岩井」という牧場で昨日仔馬が生まれたから,ということで,誘われて,民宿の子供たちが保育園に行く前に一緒に見にいきました。生まれたばかりだというのに,ずいぶんとしっかりしているものだなあ,と思いました。佐渡島ではお祭りのときなどに馬が活躍するということで,そのために馬を飼っているのだそうです。
この民宿に宿泊したことで,いろいろな経験ができました。
民宿の女将は,数多くある宿泊施設からここを見つけ出したあなたがエライ,と言っていましたが,本当にそう思います。旅が楽しくなるかどうかは宿選びにかかっているのですが,さすが旅慣れていることもあって,今回も正解でした。

2泊お世話になった民宿ともこれでお別れです。
旅の3日目は佐渡島の南半分,いわゆる小佐渡を今度は時計回りに1周することにしました。

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佐渡島旅行の2日目は佐渡島の北側半分・大佐渡を1周してきたわけですが,民宿に戻るにはまだ早かったので史跡佐渡金山に寄ったのですが,それでもまだ時間があったので,民宿に戻る途中で目についた場所に寄ることにしました。
佐渡島の西側,佐渡湾に面して真野町があります。佐渡町はその昔国分寺があったように,佐渡島でも史跡が多いところです。まず,佐渡博物館に寄ってみました。
佐渡博物館は,佐渡出身の日本画家・土田麦僊の素描展示室など見どころの多い美術博物館ということでした。1階は金銀山に関する展示室,2階には自然・考古・歴史・民俗展示室と美術・工芸展示室がありました。また,庭園には岩石園や古民家などがあって,それなりに楽しめました。ただし,思ったほどの規模でもなく,また,博物館自体,あまり,やる気を感じませんでした。
佐渡に限ることではなく,どこに行ってもこうした公営の施設の多くは商売っ気がないというか,おそらくその理由は,職員が単に人事異動で配属になっただけで思入れないような人が多いということでしょう。それは雰囲気でわかります。ときどき,その道に情熱をもった人が配属されてきて,そのときは活発に活動をしても,その人が転勤した途端に低調になるということをこれまで多く見てきました。これもまた,きわめて日本らしい話ですが,そんなときは来館者も減り,次第に寂れていくのです。

佐渡博物館を出て走っていると,そこで見つけたのが国分寺跡でした。
佐渡島の国分寺は,聖武天皇の詔により諸国に1か寺ずつ建立されたもののひとつで,764年に佐渡国分寺として落成したと伝わります。すでにこの時代から佐渡島にこのような施設が作られていたというのが驚きです。伝わるところでは,北陸地方では珍しい瓦屋根の佐渡最古の寺院だったということですが,大火・落雷などによって幾度となく焼失し,再建したという経緯をもちます。今は何も残っていません。広い敷地には,金堂・廻廊・中門・南大門・塔跡・新堂跡などの礎石だけが並んでいました。なお,国分寺と対に国分尼寺も作られたのですが,佐渡島ではそれがどこだったのかは不明だそうです。
また,国分寺跡の隣には現在の国分寺があります。この寺は,1679年(延宝7年)に賢教によって真言宗の寺として再建されたもので,平安時代に造られた薬師如来像が今もあるということです。 
この時代,地方には国分寺,国分尼寺のほかに,国府,総社が置かれていたわけですが,国府は雑太郡(さわたぐん)にあったといわれ,これは国中平野の南辺にあったと推測されていて,国府遺跡が官人の住居と推定されていますが,政庁は見つかっていないそうです。さらに,総社は,現在,総社神社が佐渡市吉岡にありますが,これは,国府の近くにあったものを1307年(徳治2年)に現在地に遷座したと伝わります。

さらに進むと,妙宣寺がありました。これは日蓮上人ゆかりの名刹で,立派な寺でした。
  ・・・・・・
佐渡配流の日蓮に仕え,熱心な法華経信者となった遠藤為盛(=阿佛房日得上人)が,1278年(弘安元年)妻の千日尼と共に自宅を寺として開いたのがはじまりと伝わります。かつては佐渡守護代竹田本間氏の居城だったので,今も城跡の雰囲気を残しています。
境内には,県内唯一の五重塔や「正中の変」で佐渡配流となった日野資朝の墓などがあります。
  ・・・・・
正中の変というのは,1324年(元亨4年)に,後醍醐天皇とその腹心の日野資朝・日野俊基が鎌倉幕府に対して討幕を計画した事件です。幕府の調査の結果,後醍醐天皇と日野俊基は冤罪とされ,無罪となりましたが,日野資朝は疑惑が晴れないということで,佐渡へ遠流となりました。歴史はいつもこうしてだれかが犠牲となるのです。権力者に肩入れしてもロクなことはありません。

佐渡島の中央部はどこからも金北山や大佐渡の雪を被った山並みが美しく見られるのですが,そのなかでも特に景勝の地に,亀井勝一郎の碑がありました。亀井勝一郎といえば「大和古寺風物誌」は私も知っています。
1950年(昭和25年)文人・亀井勝一郎はこの史跡の里を訪ね,豊かな佐渡の国原を望んでいたく感動して紀行「佐渡ケ島」に「飛鳥の風光を愛した人が 佐渡に渡って ここに望郷の思ひを託したのかもしれない」と記し,大和の飛鳥路に実によく似た景勝を絶賛し,この周辺を「佐渡飛鳥」とよんだのです。
古来から,佐渡の地は物書きのこころを引きつけてやまない所でした。太宰治は「佐渡」で「死ぬほど寂しい所だと聞いている」と書いていますし,この亀井勝一郎は「佐渡ヶ島」で,柱の跡しか残っていないのに国分寺跡を訪れて絶賛しています。さらに,柳田国男は,佐渡には2度ほど来ていても一度も北小浦の土を踏んでいないのにもかかわらず,「北小浦民俗誌」を書き上げました。

こうして,順々に興味深そうなところを訪ねながら走っていたら,そろそろ民宿が近づいてきました。
現在,佐渡島には空路がないのですが,空港はあるというので,民宿に戻る前に寄ってみました。
佐渡空港は国中平野に位置し,佐渡市の中心部からは南西約4キロメートルの地点にあります。佐渡空港は1958年(昭和33年)に陸上自衛隊の協力によって建設されました。定期便があれば,新潟空港から約25分です。空路があった1970年代には利用者が年間3万人いたのですが,1977年に佐渡汽船のジェットフォイルが就航したことで空路の利用客が減少し,廃止になったといいます。
滑走路の長さが890メートルと短かく離着陸できる機材が限られていたので,今回,2,000メートル滑走路を備えた拡張整備事業が行われ,羽田への直航便の運航も可能となりました。近くトキエアが新潟空港との間で路線を開設する予定だそうですが,運行が続くかどうかは料金次第でしょう。

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史跡佐渡金山を出て,次に行ったのが,佐渡奉行所跡でした。
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金脈の発見により,佐渡は幕府の直轄地(=天領)となり,1603年(慶長8年)相川に佐渡奉行所が置かれました。奉行所の建物は現存していなかったのですが,奉行の住居もあった広い施設のうち,2000年(平成12年)に御役所の部分である役所や白洲など,司法・行政の場とともに,金銀を精製する寄勝場(よせせりば)が復元されて,今は,佐渡特有の奉行所の形態を見ることができるようになりました。
  ・・・・・・
ということですが,この建物は,私にはとても興味深いものでした。
はじめに係の人の説明があって,そのあと,自由に建物内を見学できました。私以外に見学者はいませんでした。私が最もおもしろいと思ったのは寄勝場です。ここには,江戸時代にどうやって鉱石から金を選りわけていたかが再現されていました。おそらく地元の小中学生の社会見学の場として活用されているのでしょう。

相川の町は堪能したので,次に向かったのが七浦海岸でした。
七浦海岸は相川地区の鹿伏から二見まで7つの集落をまたぐ10キロメートルの起伏に富む海岸線で,とても美しいところです。典型的な隆起海岸で,夕日が美しいポイント,ということですが,実は,私は,期せずして,あすの3泊目,ここに泊まることになるのです。予約をしておきながら,3泊目の旅館がこの場所にあるということを,この時点ではまだ知らないのだから,恐れ入ります。
七浦海岸で代表的な景勝地は高瀬の夫婦岩です。仲むつまじい夫婦が語り合っているかのようにふたつの岩が並んでいることから、この名がつけられたということですが,これらの岩はイザナギノミコト(伊邪那岐命)とイザナミノミコト(伊邪那美命)ともいわれているそうです。
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高天原にいる天つ神に島々と神々を生むよう指示を受けた夫イザナギノミコトと妻イザナミノミコトは,7番目の佐渡島を産み終えたころ,疲れ果てた妻の姿を夫はかわいそうに思い,自分らの分身を創り、高天原から目の届きにくい佐渡島の西側に隠して,残りの島々と神々を分身より誕生させ,佐渡で妻をいたわりました。
ある日,分身がヒノヤギハヤヲノカミ(火之夜芸速男神)を誕生させようとしたとき,天つ神に見つかってしまいました。それを知り,恐れおののいたヒノヤギハヤヲノカミは,脱兎のごとく光熱を発してイザナミノミコトの女陰に戻りますが,その光熱によりイザナミノミコトの女陰は赤茶色にただれ,黄泉の国へと退きました。
こうして,夫婦岩も女岩の割れ目の周りだけが赤茶色くなっているのです。
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なお,岸辺の岩の大きな洞窟は縄文時代の住居跡です。

このころ,私はちょっとおやつでも,と思いながらカフェを探して走っていたのですが,ずっと気にいった場所がなく,夫婦岩の見える広い海岸に,やっと「めおと岩ドライブイン」を見つけました。しかし,塗装も剥げていてかなり寂れたところで,ホテルも併設されていたのですが,このホテル,本当にやっているのかしら,と思いました。帰ってから調べると,営業してるようでしたが,私が知る限りにおいて,宿泊客はいませんでした。
ドライブインで売られていたのが塩を使ったソフトクリームでした。それを注文して店内で食べていると,まったくお客さんがおらず,暇を持て余していた店の主がいろんな話をしてくれました。この店で売られていたのは佐渡島名物の赤玉石で,それらがたくさん並んでいましたが,目玉が飛び出るほどの値段でした。
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やや紅がかった赤い色合いが特徴的な佐渡赤玉石は,鑑賞石・銘石の世界で珍重されている石のひとつです。佐渡赤玉石は,鉱物学的には石英の一種で,本来なら無色透明に近いのですが,その成立過程で赤みを帯びた酸化鉄が入り込むことによって,赤い色になります。
独特の色合いがあるので,鑑賞石の世界では古くから珍重されてきて,独特の光沢が出てつやつやした質感は高い人気を誇ります。また,赤い色は古くから魔を払う効果があると考えられてきて,パワーストーンのひとつとしても人気があります。
状態が良ければ数万単位の値がつくことも珍しくありません。
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ということだそうですが,まったく興味のない私は,何の魅力も感じませんでした。
また,このソフトクリームに使われている塩は道路の反対側にある塩工房「佐渡風塩釜」で作られたものということで,見学してくるといいといわれました。そこで,ソフトクリームを食べた後で訪ねることになります。
入りにくそうな小屋の中は蒸気で充満していました。愛想の悪そうな,そして,怖そうな主がいて,作業場を覗くと「何をしに来た」というので「紹介されて見学に」と答えると,なぜか機嫌がよくなって,説明をしてくれました。
ここの塩は海水100パーセントを薪でじっくりと焚き上げた昔ながらの塩で,花の様に美しい結晶をしていて,ミネラルが沢山含まれているということで,「おいしい塩を探して日本中を歩き回ったあげく,ここの塩がもっともおいしい」という評判だそうです。見る限り,かなり非生産的で,こんなもの商売になるのかしら,と思ったのですが,後で調べてみると,何でも,全国の高級デパートで販売されていたり,高級ホテルのVIP料理に使われているということで,驚きでした。
見学料350円,お土産つき,と作業場の入口に書いてあったのですが,お金はいらないよ,といわれました。ただし,当然,お土産はありませんでした。
佐渡島は,いろいろと不思議な島です。

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大佐渡を1周して相川まで来ました。まだ時間があったので,最終日に行こうと思っていた史跡佐渡金山へ行ってみることにしました。佐渡島の金山は有名ですが,私は興味があったわけではありません。しかし,せっかく佐渡島に来たからには行ってみようと思っていました。
佐渡金山といえば,そのシンボル的存在は今日の1番目の写真「道遊の割戸」だそうですが,それすら知りませんでした。無知というのは酷なもので,「この場所で「道遊の割戸」がきれいに見えますよ」と言われても感動もしないのだから,もし案内する人がいても張り合いがありません。また,2番目の写真は,これもまた,北沢浮遊選鉱場跡という佐渡金山のシンボル的存在なのですが,この奇妙な遺跡? がどうして佐渡金山と関係があるのかも知りませんでした。
旅というのはいつもそういうもので,景色がきれいに見えるもそう見えないも,感動するもしないも,その人のこころな次第なのです。しかし,実際に見て,そのいわれを知ると,景色が違ってみえます。私も,佐渡島旅行の最後には,道遊の割戸に対しても北沢浮遊選鉱場跡に対しても,特別な感情をもつまでになりました。

相川の町は,江戸時代,佐渡金山に働く人のために発展したところで,佐渡産の銅で作られた「時鐘楼」のある下京町から中京町,そして,上京町と続く坂道があって,そこが佐渡金山が栄えたころのメインストリートでした。
金山で繁栄した時代,島外から多くの商人が佐渡島に渡りこの場所で商売をしていたのですが,特に京都や大阪の絹問屋が多く店を構えていたので「京町通り」という名がついています。また,京町通りの周りには碁盤の目のようにあちらこちらに小道が張り巡らされていて、その周辺には「大工町」「八百屋町」など,職人のエリア別に名前がついていると,昨晩,民宿の女将が教えてくれました。曰く,佐渡金山に来て,この相川の町を見なくては意味がないと。
以前行った,ハワイ・マウイ島の古都ラハイナ(Lahaina)を訪ねたときもそうだったのですが,かつて栄えたところで,確かにその時代生きていた人たちのことに想いを巡らすことこそ,その地を訪ねた意義だと思うわけです。
次回来ることがあれば,この町をもっとゆっくり見たいものだと思いました。

さて,相川の町から史跡佐渡金山へ行くのですが,結構山の中であるのに驚きました。
広い駐車場があったのですが,停まっていたのは2,3台でした。予想以上に観光客がいませんでした。また,観光バスがいなかったのが私には幸いでした。団体さんが来るだけで,雰囲気が一変してしまいます。
金山の入口はふたつあって,右手が江戸時代に採掘された跡である宗太夫抗を巡るもので,左手が明治以降に採掘された跡である道遊抗を巡るものでした。私は,共に見学しました。
まず,宗太夫坑に入りました。宗太夫坑は江戸時代の初期に開削された手掘り坑道で,佐渡金山最大の鉱脈「青盤脈」の西端に当り,坑道は大型で江戸時代の採掘の特徴である「将棋の駒形」の坑道,斜坑,小型の探索坑道,空気を入れる為の煙穴などが数多く残されていました。最後に博物館があって,ここでやっと私は,江戸時代の金の採掘がどういうものか納得できました。
宗太夫坑を出ると,日本の観光地の定番である土産物屋を抜けて,再び入口まで戻ります。次に道遊抗に向かいました。道遊坑は1899年(明治32年)に開削され,佐渡金山の近代化に大きく貢献した機械掘り坑道で, 坑道を含め,トロッコ,機械工場,粗砕場など多くの設備が操業当時の姿のままで残されていました。このコースでは,「道遊の割戸」直下の採掘跡,「道遊の割戸」を間近に見るポイント,高任公園からの「道遊の割戸」の絶景ポイントや佐渡金山のシンボルである「道遊の割戸」そのものを見ることができるハイキングコースが最後にあるのですが,途中で雨が降ってきて,傘を車に置いてきたので,ハイキングコースは断念して,再び先の土産物屋に戻りました。

アメリカによくある,この種の観光施設では,まず,学芸員のレクチャーがあって,そのあとでコースを巡りながら詳しい説明があり,わからないことは質問できたりするのですが,日本では,寺社仏閣を含め,どこもそのほとんどは,入場料さえ払ってくれれば,あとは自分で巡ってね,最後にお土産忘れずにね,ということなので,団体ツアー客や修学旅行でやってきても,結局何も残らず,物見遊山に終わるという,お勉強は学校で順位を上げるためだけにするもの,という,知的好奇心欠乏症の日本の典型的な施設そのものだったりします。意味もわからず,というか,何度もつけたりはずしたりすることで手やあごの細菌をいっぱいつけたようなマスクを再び口に加えるというような,あえて危険を冒してまでしてマスクを手放せないのも同類です。
佐渡金山は,最後に充実した博物館があって,そこで詳しい説明があったので,救われました。
私はこれまで,ゴールドラッシュで賑わったアラスカのフェアバンクス郊外や,ニュージーランドのクイーンズタウン郊外のアロータウンに行ったことがあるのですが,どこも,金が採取できるとなるとこんなにも人が群がることに驚きを隠せませんでした。

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