しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:北陸旅行LIVE > LIVE・2023春

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3泊4日の佐渡島旅行もこれで終わり。
昨年2022年秋に行った石垣島は,まるで幼稚園バスのようなおもてなしごころのかけらもなかったピーチが憂鬱だったけれど,今回はお気に入りのFDAなので,帰るまでも楽しいわけで,旅というのは,交通機関も含めて,そのすべてが快適なものでなければ行く意味がない,とこのごろ思うようになりました。
新潟空港の出発が午後7時55分とおそくても,名古屋には午後8時45分には着くので,名古屋から京都へ行くよりも新潟は近いのです。また,新潟空港も広々としていて気持ちがよく,と,思った以上だった佐渡島と往復の快適さで,充実した4日間を過ごすことができました。
それにしても,格安航空を使えば,日本国内はこんなに安く早く旅をすることができるとは,海外旅行に夢中になっていたころは思いもつかないことでした。こんな快適な旅をしていると,ますます海外が遠ざかっていってしまいます。喜ぶべきか,悲しむべきか。

以前にも書いたように,FDAは行きは最後列,帰りは最前列に座るのが,さらに快適な旅をするコツなのです。ANAなどの従来の飛行機会社は,悪しきアメリカの制度をまねして,やたらと〇〇ステイタスだのというように客をランクづけしているのですが,国が広いアメリカならともかく,たかが1時間ほどの国内線の旅にビジネスクラスなど必要なく,しかも,客のランクによって搭乗順序があれこれと決められていて煩わしく,何をもったいぶっているのやらと思います。
乗っている時間が10時間ほどの国際線なら,私はゴールドステイタスだから,それで悠々とはじめに洋々と搭乗して優越感に浸るのですが,わずかな時間の国内線では,乗るまでの時間のほうが長いくらいです。空港だって,何十機の飛行機が滑走路で離陸順を待って列をなしているアメリカの空港ならともかく,ほかに飛ぶ飛行機もない小さな日本の地方空港です。何を大国アメリカのマネをしているのか…。そんなことより,FDAのように,お年寄りや子供連れなどの優先者の搭乗が終わったら,さっさとすべての乗客を案内して,全員が揃ったら早々に離陸すればいいのです。
飛行中,いつもように,座席に座って,お茶とお菓子のサービスを待っていたら,客室乗務員の女性に「前にもお会いしましたね」と話しかけられました。佐渡島に行ってトキの写真を撮ってきたと話したら,見せてほしいとのこと。こういうのは誠にこころが休まるのであって,こんなプチ特別感が,プレミアムシートやら,ゴールドステイタスといった,バカげた,いかにも金がすべてのアメリカ的差別感よりも,ずっと乗客を満足させるのです。
おまけに,飛行機から降りるとき,自筆でお礼の書かれたキャンデーの入ったコップをくれました。
最高でした。

そんなわけで,旅に出るまではまるでテンションが低かった今回の旅は,思った以上のすばらしいものとなりました。また次回,FDAでどこかへ出かけよう!

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来たときとは反対に,両津港からジェットホイルで新潟港に戻ります。帰りはフェリーにしようと思っていたのですが,フェリーに乗ると,帰りの飛行機の時間に間に合うかどうか微妙だったので,迷った末,行きと同じようにジェットホイルにしました。
ビギナーズラックというか,何も知らなかった私は,行きは何も言わず単にチケットを購入したのに窓際席だったのですが,帰りは窓際席をと言ったら売り切れということで,内側の席になりました。ただし,行きは1階,帰りは2階だったので,それはそれでよしとしましょう。
乗船まで時間があったので,まず,ターミナルの1階にあったカフェでトキフロートを飲みました。要するに,これは,トキの形をしたクッキーのついた単なるフロートでした。その後,ターミナルの屋上に展望台があるというので行ってみることにしました。ここから佐渡島が一望できました。来たときは感激した大佐渡の雪を被った山並みも見慣れてきましたが,いつ見ても美しいものです。おそらくこのの1か月あとにはじまるハイシーズンに佐渡島に来る人は,こんな雪を被った金北山を見ることはできないでしょう。

港には,私が乗ろうかやめようか迷っていたフェリーが本土からやってきました。フェリーはジェットホイルより早く出航するのですが,途中で追い越されるのです。
待合室に戻ると,フェリーに乗る乗客が長い列を作っていました。ジェットホイルの運賃は高く,両津港と新潟港を往復する料金が名古屋から東京までを往復する料金と変わらないから,頻繁に利用する人はフェリーの利用となるのでしょう。ただし,島民は割安になるようですが。
私は,前回の石垣島,そして,今回の佐渡島,さらに,今後行こうと思っている隠岐島などを調べていって,離島に住むというのは,船の利用をしなくてはいけないから,ずいぶんとお金がかかるものだとはじめて知りました。
長年住んでいても,来てみなければわからないことは多いものです。たとえば,高校3年生が受験をしたり,あるいは,近年廃止になった教員免許更新制度の講座の受講などで,本土に行く必要があるときなどの経費がバカにならないそうです。国民のことなど考えていないこの国の政治は,そんな島民のことなど,全く考慮していないということに気づかされます。

さて,フェリーが出航した後,私の乗るジェットホイルの乗船時間となったので乗り込みました。
ジェットホイルは快調に運行して,1時間7分後,新潟港に到着しました。船内で下船後の新潟港から新潟駅までのバスの時間などの案内放送がかかるのですが,新潟空港までの案内はまったくありませんでした。
帰りもまた,新潟港から新潟空港までタクシーを利用しましたが,帰りの方が運賃が1割程度安かったのはどうしてだろう?
美しく広い新潟空港で夕食を取りました。2階にレストラン街があったのですが,レストラン街といっても店は3軒程度でした。選んだおそば屋さんの天ぷらがとても美味でした。その後は,ラウンジでくつろぎました。高知空港もそうだったけれど,地方空港にはゴールドカードだけで入れるラウンジがあって,また,とても利用者が少なくて,くつろげます。

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根本寺,清水寺と国中平野にある行きたかった寺を見た私は,これで主な見どころをすべて見終えたので,旅の最後に,両津港あたりを散策することにしました。まずは加茂湖の周辺をドライブです。
  ・・・・・
加茂湖は,佐渡島というより新潟県最大の湖で,周囲約17キロメートルにおよびます。もともとは淡水湖でしたが,明治期に湖水の氾濫を防ぐために開削し海とつながったために汽水湖となりました。
湖岸は遊歩道やサイクリングロードが整備され,紀貫之の歌にも越の湖として加茂湖が詠まれたように,湖面に映る大佐渡の四季の景色は絶景です。
  汐のぼる越の湖近ければ蛤もまたゆられ来にけり 
また,1932年(昭和7年)からはじまったカキの養殖が盛んに行われています。
  ・・
カキにはマガキとイワガキの2種類があって,佐渡島では,加茂湖と真野湾でマガキを養殖しています。養殖方法は垂下式養殖で,種カキをつけたホタテの貝殻を縄に取りつけ,その縄を海中にぶら下げて育てます。カキは1年から2年かけて食卓にあがる大きさに成長します。
約1,000台のいかだがあって,年間約300トンのカキが水揚げされていますが,加茂湖で取れるカキは若牡蠣でくさみが少なく食べやすいと評判です。
  ・・・・・・
ということですが,確かに,加茂湖には多くのカキの養殖場がありました。また,加茂湖の借景としてこの季節は,大佐渡の雪を被った山並みが実に見事でした。

昼食を,と思いながら走っていたのですが,もともと店が少ない上,シーズンオフでもあり,休みのところばかりでした。
加茂湖を過ぎて,両津港の東,県道45号線に差しかかる手前に「よろこんで」という食堂を見つけました。こうしたときは,ためらわず,とにかく見つけたところに入るのが鉄則です。駐車場には多くの車が停まっていました。なにせ,ほとんど食堂がないことに加えて,ちょうどお昼時でした。
運がよかったのは,偶然,私ひとりが座る場所が空いていたことです。私の後もずいぶんとお客さんが来たのですが,満員ということで断られていました。
目の前にあったメニューからカキフライ定食を注文しました。これが大当たりでした。なにせ,先に書いたように,佐渡島のカキ。しかも,いまがシーズンだったのです。出てきたカキフライは飛び上がらんばかりの大きさでした。お店といい,メニューといい,最高の選択でした。

おいしく食事をいただいて,最後に,両津の町を少しばかり散策することにしました。
両津港の東側に広い運動公園がありました。何か,ハワイ島の東海岸ヒロの町を思い出しました。ヒロの町もまた,遠くに雪を被ったマウナケアを望むことができました。
決して広くない両津の町は寂れていました。潰れたホテルやら,シャッターを閉じた商店ばかりでした。日本はどこに行っても,東京以外はこんな感じです。旧道を歩いていて偶然見つけたのが,3泊目に私が泊まろうと思っていた金沢旅館でした。ここなのか,と思いました。思った以上に古ぼけていました。
金沢旅館は「明治時代へタイムスリップする加茂湖畔の宿」ということなのですが,この旅館は明治に建てられた元遊郭なのです。外観だけでも遊郭時代の面影を残しているのですが,館内は遊郭のままで見学がきると,多くのブログにありました。
ということで予約をしようと思っていたのですが,満室だったのか,やっていなかったのか,定かでないのですが,予約ができなかったのです。実際に電話でもすれば真相がわかったのでしょうが,そこまでする気もなく,その代わりに宿泊した旅館「いさりびの宿・道遊」が最高だったので,それはそれで満足しています。
また,遊郭跡といえば,私の地元名古屋にもかつては中村遊郭があって,そのひとつだった松岡旅館が今から40年くらい前に料亭として営業していました。私がそのころ勤めていたところの忘年会で利用したことがあって,そのときに内装を見た経験もあったし,また,京都・島原の輪違屋も内部を見学したことがあるので,元遊郭にそれほど興味があったわけでもありませんでした。

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私が行きたかった国中平野での見どころは,根本寺と清水寺(せいすいじ)でした。
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根本寺は,鎌倉時代の1271年(文永8年)に佐渡島に流された日蓮が塚原の地に三味堂を開いたのがはじまりとされます。当時,塚原は死人の捨て場とされていたそうですが,日蓮は約2年半佐渡に滞在したうちの最初の6が月をここで過ごしたそうです。三味堂は畳2枚ほどの狭いあばら家で,冬には深い雪にも覆われましたが,阿仏房の夫妻から食料などの世話を受けました。
佐渡島に集まった他宗の僧侶ら数百人と日蓮が問答を戦わせて日蓮宗の根本教典「開目抄」を著したのがこの三味堂と伝わります。
戦国時代の1587年(天正15年)三味堂があった付近に京都・妙覚寺の日典上人が根本寺を開基しました。江戸時代に入ると,佐渡金山の山師たちの寄進で本堂などが建てられました。
  ・・・・・・

という説明を読んで,私はあることを思い出して,頭がごちゃごちゃになりました。
帰ってから調べてみると,それは安土宗論(あづちしゅうろん)でした。
  ・・・・・・
安土宗論は,1579年(天正7年)安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の宗論で,安土問答とも称されます。織田信長の斡旋により,浄土宗の僧・玉念,貞安,洞庫と法華僧・日珖,日諦,日淵の間で行われたもので,敗れたとされた法華宗は処罰者を出した上,以後,他宗への法論を行わないことを誓わされる結果となったそうですが, 法華宗は信長の意図的な弾圧によるものとしました。
  ・・・・・・
この安土宗論はいろいろなことが出てくるのですが,佐渡の問答については,詳細がわかりません。
日蓮宗というのは過激な宗教だと聞いたことがあるのですが,私はそれ以上のことはまったく知らないので,これ以上のことは書くのをやめます。
いずれにしても,この寺は,佐渡島にあった多くの寺の中でもかなり立派なものでした。また,私が最も印象に残るのは,寺の庭に咲いていた水芭蕉の花でした。

次に行ったのが清水寺でした。 
  ・・・・・
清水寺は,桓武天皇の勅により京都から布教に来た賢応法師によって808年(大同3年)開基しました。京都の清水寺を模した救世殿があって,本尊も京都清水寺同様に千手観世音菩薩。また,千手観音に従う役割を担う二十八部衆仏像は,平安時代後期に造られた歴史ある作品として,佐渡市による保存活動が行われています。
  ・・・・・・
佐渡に清水寺を建てた理由は,当時の佐渡で暮らす人々が京都の清水寺にある千手観音菩薩をお参りできるようにするためだということでした。
仁王門の左右には,金剛力士像が仁王立ちをして構えています。また,門の間から,石造りの階段の先から奥へと進む参道が垣間見えます。また,仁王門の周辺には佐渡市指定の天然記念物として有名な,樹齢約1,000年と推定される新穂大野の大イチョウを見ることができます。
参道には一面に広がる壮大な杉の木がありました。
最後の石階段を上りつめると,本堂へ通ずる中門があって,その奥に京都の清水寺を模して造られたといわれる清水の舞台があります。

想像以上にものすごく寂れた寺で,草やコケが一面に生えていて,本堂へのぼる左右の「石段」はある部分が崩れていて足元が安定しないほどであり,清水寺の本堂の中には壁に大きな絵が数枚飾られているらしいのですが,劣化で姿形を把握することすらできませんでした。
清水の舞台を支える土台の部分だけは修復されているようで,そうでなければ,舞台に乗っただけで崩れてしまうでしょう。
また,鐘楼や経蔵もあることにはあるのですが,人の気配すらありませんでした。
  ・・・・・
清水寺を出て,車に乗った瞬間に,空に2羽のトキが飛ぶのを見ました。
このトキが私が今回の佐渡島の旅で見た最後のトキになりました。少し走ったところに日吉神社があって,この日吉神社にもトキの巣があるということなので,このあたりをトキが飛んでいるのももっともだったと後で知りました。

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史跡佐渡金山に通じる車道を少し下ったところに,無宿人の墓という案内標示がありました。車を駐車できるほどのスペースがあったのでそこに車を停めて行ってみることにしました。結構遠く,途中でどうしようか迷ったのですが,せっかく来たので,折れるこころを激励してたどり着くことにしました。
大きな墓碑が並んでいました。無宿人の墓は,1853年(嘉永6年)に水替人足として働き,坑内で亡くなった無宿人28人の出身地,戒名,名前,年齢が刻まれたものでした。水替というのは,地底の坑道にたまる湧水を汲み出す坑内作業で,この作業は低賃金で,しかも,過酷な長時間労働でした。はじめのうちは,水替人足は募集で行われていましたが,重労働であったので常に人不足の状態でした。1778年(安永7年)に,江戸府内の無宿者を佐渡金山に送るという触書が出され,江戸から56人の無宿人が囚人のように目駕籠に入れられて送られてきました。政情不安で発生した無宿者が大量に江戸周辺に流入し,凶悪な罪を犯すようになったので,その予防対策として彼らを人足として使役しようとしたのです。やがて,大坂や長崎からも送り込まれるようになって,その数は1861年(文久元年)までに1,876人に達しました。彼らは竹矢来で囲んだ建坪136坪ほどの水替小屋に監禁され,一昼夜交代で地底で酷使されたということです。
当然のごとく,無宿人の墓の隣には,この地におくられた遊女の墓もありました。
私は,こうした史跡を訪ねるたびに,もし自分がその身だったらと思い,いたたまれない気持ちになります。

さて,無宿人の墓を出て,次に向かったのが,佐渡島で多くの史跡が残る真野町でした。ただし,真野町は今はなく,現在は佐渡市の一部となっています。町の中心部だったところは,真野新町という名前になっています。
真野町にある史跡,まずは,順徳上皇の火葬塚です。佐渡配流となった順徳上皇は,1242年に46歳で崩御し,翌日火葬されましたが,その跡に松と桜を植え目印としたのがこの火葬塚です。遺骨は帰京し,後鳥羽上皇墓所のかたわらに安置されました。奈良などにある天皇陵よりも大きなものだったので,驚きました。
そして,その次に行ったのが,佐渡歴史伝説館でした。
佐渡歴史伝説館は,道路沿いに多くの広告看板があったので,何だかマガイモノの施設のような気がしたのですが,せっかくだからと行くことにしました。入場料を払って中に入ると,佐渡島にゆかりのある,というか,流刑された歴史上人物や伝説を等身大ロボットなどで紹介する私設の体感型ミュージアムでした。
帰ってから知ったことには,北朝鮮拉致被害者の,現在も真野町に在住の曽我ひとみさんの夫であったチャールズ・ジェンキンスさんが,生存中,ここで,オリジナル商品「太鼓番せんべい」の販売を行っていたということです。

奈良時代には,すでに流刑地に定められた佐渡は,722年(養老6年)に皇室批判を行った万葉歌人の穂積老をはじめめとして,1221年(承久3年)に承久の乱で敗れた順徳上皇,1271年(文永8年)に鎌倉幕府や他教を批判した日蓮聖人,1434年(永享6年)に将軍の怒りを買った能楽の大成者である世阿弥などが流されてきました。
●穂積老
穂積老(ほづみのおゆ)は,飛鳥時代後期から奈良時代中期に生きた貴族です。
元正天皇を非難し佐渡島への流罪となり失脚しましたが,740年(天平12年)に聖武天皇が発した大赦により赦免されました。
  ・・・・・・ 
 吾命之 真幸有者 亦毛将見 志賀乃大津尓 縁流白波
 我が命の ま幸くあらば またも見む 志賀の大津に 寄する白波
 わが命が無事であったなら 再び見たい 志賀の大津に寄せる白波を
   「万葉集」巻3・288
  ・・・・・・
●順徳上皇 
順徳上皇は後鳥羽上皇による鎌倉幕府の打倒計画に参画し,承久の乱を引き起こしたものの鎌倉幕府の執権であった北条義時を中心とする幕府軍によって鎮圧され,乱の首謀者として佐渡に流されました。在島22年,都へ帰ることは許されず,46歳で崩御されました。辞世の句は
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 思いきや 雲の上をば 余所に見て 真野の入り江にて 朽ち果てむとは
 雲の上を人ごとのように見て思った 真野の入り江に朽ち果ててしまうと
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 「平戸記」の仁治3年(1242年)10月10日条に「御帰京事思食絶之故云々」とあり,都に戻れないことに絶望した果ての絶食自殺だった事を思わせる記述があります。
●日蓮上人
日蓮宗の宗祖である日蓮聖人は,地震や飢饉,疫病などの災害が相次いだことから鎌倉幕府の最高権力者であった北条時頼に「立正安国論」を提出します。この書で,相次ぐ災害の原因は幕府や民衆が邪教を信仰することにあるとし,法華経を信じなければ災いが起こると説き,鎌倉幕府や他の宗教を批判したとして,佐渡に流されました。
日蓮上人は塚原の三昧堂という荒れ果てた墓地の小堂に配所されました。この地で他宗の僧たちと「塚原問答」を戦わせました。
在島3年の後,赦免となり鎌倉へ帰りましたが,佐渡島には日蓮聖人が他宗の僧と問答を戦わせたという根本寺があって,この後,私は訪れることになります。
●世阿弥
室町幕府の3代将軍足利義満の寵愛を受け,能楽を大成させた世阿弥は,6代将軍足利義教の怒りにふれ,佐渡に流されました。
佐渡の多田に着いた世阿弥は,長谷寺を経て新保の万福寺に配所されました。
1436年(永享8年)までは佐渡に滞在していたことがわかっていますが,その後の消息については不明です。
なお,井沢元彦さんの書いた「天皇になろうとした将軍」には,足利義満の皇位簒奪説を紹介して,足利義満の急死は世阿弥による毒殺だったという説が書かれていて,私は興味深く読んだことがあります。

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2023年3月25日。佐渡島旅行最終日は国中平野にある見どころを巡る予定でしたが,その前に,再び史跡佐渡金山に行くことにしました。その理由は,2日目の夕刻に行ったとき,明治以降の採掘跡である道遊抗を出たところで雨が降ってきて,傘を持っていなかったのが災いして,最大の見どころだった「道遊の割戸」に行くことができなかったからです。そんなわけで,今回は道遊抗の見学だけをするつもりでチケットを購入して,中に入りました。
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「道遊の割戸」は,壮大な採掘跡を残す佐渡金山のシンボルで, 佐渡金山の中でも初期の採掘地とされる江戸時代の露天掘りの跡です。巨大な金脈を掘り進むうちに山がV字に割れたような姿になりました。
山頂部の割れ目は幅約30メートル,深さ約74メートルにも達します。
道遊脈とよばれる脈幅約10メートルの優良鉱脈を有していて,明治以降も割戸の下部で大規模な開発が行われていました。
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1899年(明治32年)にはじまった道遊坑での採掘場にはトロッコと線路があって,電線や水処理と空気を送るパイプが設置されていました。削岩のときも,ダイナマイトを使用し,機械で運び出していました。 道遊坑を出たところにあるのが機械工場で,削岩機などのさまざまな工作機械が掘削を停止したときのまま保存されていました。
ここから,「道遊の割戸」に向かう坂道があります。
「道遊の割戸」までは約10分の登りで,実際に目にした割れ目の底に大きな穴ぼこがあって,現在は途中で埋まっているのですが,本来は道遊坑につながっていました。江戸時代に掘ったのは山頂近くだけだったのですが,明治になってから穴を開けて,鉱石を落としながらどんどん掘り下げていったのです。それは,山頂のところにタテに鉱脈があったからで,露頭掘りで垂直に切り出された採掘跡は他にないといいます。
また,ふもとにあるのが北沢浮遊選鉱場で,世界ではじめて浮遊法という選鉱法を金で行った施設でした。
やがて,昭和になって鉱脈が枯れはじめると,浜石から金を取りだすことになりました。浜石というのは海岸に転がる石のことで,何百万年という間に川によって山から削られて海に流れ出た金鉱石です。浜石は約200万トンも存在しました。
第2次世界大戦が拡大すると,銅や鉄,亜鉛,鉛などの生産に力が向けられることになって,佐渡金山は閉山を迎えることになってしまいました。浜石は今もあって,100億円以上の金が存在するということですが,それは民家の下,なのだそうです。

実は,佐渡金山は,金ではなく銀の産出量が日本一でした。
それは,金鉱脈からは銀や銅も産出することが多かったからですが,佐渡金山では,金の総産出量が約78トンで銀はその30倍の2,300トンもあったのです。日本では,全盛期は,佐渡金山のほかに,石見銀山や生野銀山などがあって,銀の産出量は世界の約3分の1を占めていました。
佐渡金山は生産を停めましたが,今の日本でも金は産出しています。1985年から採掘をはじめた鹿児島県の菱刈鉱山は,わずか12年で佐渡389年分を追い抜きました。これは,最新の技術の成果です。こういう話を知ると,江戸時代,人力で鉱山を掘っていたことの大変さがわかるというものです。

この日は,売店で金粉入りソフトクリームを食べました。

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小佐渡を1周して,真野湾を越え,七浦海岸に戻ってきました。
途中,小佐渡の西端が沢崎海岸で,そこには沢崎鼻灯台があったのですが,遠くからしか見ることはできませんでした。また,沢崎海岸あたりの道路が入り組んでいて,道に迷いました。それまで走っていた佐渡島の外周を1周しているはずの県道45号線が突然なくなってしまったからです。佐渡一周線とは名ばかりで,突然その表示はなくなるし,いい加減な話です。
観光名所である小木町と宿根木は,真野町から内陸部を国道360号線が貫いていて,海岸線を走らなくてもショートカットできます。だから,目的地が小木町と宿根木であるならばアクセスするには便利なのですが,私のように,佐渡島の海岸線をくまなく走っていこうというモノ好きには過酷でした。海岸線を走っていたら,突然道路がなくなってしまったり,ものすごく狭い民家の間を走ることになってしまったりと,悪戦苦闘の連続だったのです。そんなわけで,この間しばらくは余裕がなかったので,1枚の写真もありません。
なんだかんだで,何度も引き返したりしながら,どうにかして,再び国道360号線が海岸線に沿って走るようになった河ケ崎にたどり着いたので,国道360号線に合流しました。その後は快調に走っていたら,ほどなくして真野町に着いてしまいましたが,ここは明日観光することにして通過して,今日宿泊する七浦海岸の「いさりびの宿・道遊」に急ぎました。
宿に着くのを急いでいた理由は,せっかく西海岸の沿った宿に泊まるからには,午後6時過ぎに沈む夕日を見たいと思ったことと,この日の午後8時過ぎに,金星と月が大接近するということで,その前に入浴を済ませて,夕食をとり,食後に写真を写そうと思ったからなのです。

「いさりびの宿・道遊」は3泊目の宿を探していて適当に選んだところだったのですが,まさに私の理想の宿でした。以前,「ある思惑があって3泊目の宿泊先を変えた」と書きましたが,「ある思惑」とは,両津港の近くにある「金沢旅館」に泊まろうと思っていたことです。しかし,どういうわけか,予約ができず,見つけたのが「いさりびの宿・道遊」でした。しかし,期待以上,ここは最高でした。
こうして,これまで2泊した民宿「桃華園」もよかったし,3泊目の宿もまたよかったから,私の佐渡島に対する印象は五つ星なのです。旅はこうでなければなりません。
「いさりびの宿・道遊」は,まず,場所がよかったです。西側が海に面していて,夕日が最高に美しいのです。また,夕日は部屋の窓からも一望できるのです。しかも,雨という天気予報は今回もまた覆り,この日は昨晩降った雨も上がり,青空になりました。次に,この宿のさまざまな「こだわり」が私の考えと一致していたことです。宿の女将とも話をしたのですが,とても気が合いました。
このきれいな宿に到着して,はじめに,ゆっくりとお風呂に漬かりました。ここは温泉で,くつろげました。お風呂から上がって,次にしたのは夕日を見ることでした。宿の前の海岸でもよかったのですが,2日目にも行った夫婦岩が近かったので,夫婦岩を入れた夕日の写真を写すことにして,車で出かけましたが,わずか5分程度で到着しました。
夕日を写真に収めてすっかり満足して宿に帰り,そのあと,いよいよ夕食でした。
佐渡島に来てすっかり日本酒が好きになってしまった私は,飲み比べセットなるものがあったので,それを注文して,地酒を堪能しました。そのあと,ビールも飲みました。ふだんはアルコールを飲まないのですが,こんな調子で,すっかり呑み助になりました。食事もまた最高でした。
夕食を終えて,宿の前の海岸で,金星と月の大接近をカメラに収めました。旅に出るまではすっかり忘れていたこの天体現象でしたが,この晩,日本で晴れていたのは佐渡島くらいのものだったので,自宅にいたら曇っていて写せなかったことでしょう。しかも,ここは金星と月が見える西側が海岸なので,まさに理想的な場所でした。

きれいな部屋,おいしい食事,そして温泉。
佐渡島の3泊目もまた,快適に過ごすことができました。
さて,最終日。朝食をとってチェックアウト。この日は国中平野巡りです。

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民宿の女将が「小木に火星のような風景があるから探しておいで」と言ったので,小木町の観光案内所で聞いてみたら教えてくれましたが,それは小木町ではなく宿根木の海岸でした。ということで,小木町でそばを食べた私は宿根木に向かいました。
宿根木に着く手前に博物館と広い駐車場があったので,車を停めて入りました。そこは佐渡国小木民俗博物館で,隣接して千石船「白山丸」の展示館がありました。
中に入って,まず,千石船の博物館を見ました。当時の図面を参考に実物大に復原された千石船「白山丸」が展示されていて,内部も公開されていました。訪れていたのは私だけでした。
  ・・・・・・
江戸時代に日本海の海運で活躍した「北前船」。
白山丸は全長約24メートル,船幅約7メートルの木造船で,約160年前に地元で建造された「幸栄丸」の図面を基にして,1998年に宿根木集落の住民でつくる「白山丸友の会」が町おこしを目的に,総工費1億4,000万円で原寸大に復元したものです。
宿根木集落にある白山神社が名前の由来といいます。
  ・・・・・・
これほど大きな木造船が江戸時代に海上交通を担っていたことに驚きましたが,船員の部屋とかはとても居心地がわるそうだったのも,また,日本的な話だなあと思いました。
博物館は1920年(大正9年)に建てられた宿根木小学校の木造校舎をそのまま利用したものです。館内には,数多くの小木地域の民俗や海運に関する資料などがありました。私は,博物館というのは,昔使われて今はガラクタとなったものの置き場だと,いつも思います。とはいえ,これは否定的な意味ではなく,こうして保存しなければ捨てられてしまい,後世に残りません。

博物館の駐車場に止めて宿根木の集落まで歩こうと考えていたのですが,思った以上に遠かったので,再び車に乗って行くことにしました。しばらく走ると道は下り坂になって,坂の下に宿根木の集落がありました。途中の郵便局の駐車場が観光用に開放されていたので,そこに車を停めて歩いて坂を降りました。
宿根木は小さな入江に隠れた船大工と船主の集落で,小木半島の入り組んだリアス式の海岸の中の小さな入江のひとつにひっそりと存在します。集落の前に広がる宿根木港は天然の岩礁そのままの入江に防波堤と駐車場と化している小さな岸壁があるだけのものでしたが,ここは中世には南佐渡における中心的な商港でした。
宿根木は,舟持ち,水主,舟大工などが居住する特異な集落として全盛期を過ぎても存続し,江戸時代は千石船を8隻所有し,水主の数は100人を超えていました。
宿根木の民家は,役目を終えた船舶の部材が再利用されているということです。
ここの海岸が「火星のような風景」でした。とはいえ,以前行ったことがあるアメリカ・アイダホ州のクレーター・オブ・ザ・ムーン国定公園のほうがずっとすごかったなあ,と私は思いました。また,この入り江にも,観光用のたらい舟があって,私が乗った小木港のたらい舟より沖合に出るからこのほうがよかったなあ,と思いました。ただし,船頭さんは小木港のほうは女性で,こちらは男性でしたけれど。

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岩首昇竜棚田と養老の滝を見た私は,再び県道45号線に戻って,この日の目的地である小木町(おぎまち)と宿根木を目指して,さらに海沿いを南下して走っていきました。その途中に松ヶ崎という集落がありました。
おそらく,これまで走ってきた県道45号線は旧来の道路を避けて,新しく海岸線沿いにバイパスとして作られたのでしょう。そこで,県道45号線のひとつ山側に旧来の道路が走っていて,その周りに集落があるのですが,それが「昔の町並み」として表示されていました。
  ・・・・・・
松ヶ崎は宿場町を思わせる半農半漁と商業の集落です。
佐渡海峡に突き出した鴻ノ瀬鼻には,1952年(昭和27年)に設置された白い鴻ノ瀬鼻灯台があって,県道45号線(通称佐渡一周線)はこの鴻ノ瀬鼻で直角に折れます。この曲がりの西側に,遠くに連なる小佐渡の山塊を借景にしたまるで中山道の木曽路の宿場町を思わせる家並みが残されています。
  ・・・・・・
というのが松ヶ崎の説明ですが,現在は,砂浜のある海岸線には松ヶ崎海水浴場とキャンプ場があってレクリエーション地区として整備されています。私が行ったのはシーズンオフなので,全く人がいなかったのですが,夏になれば,それなりの観光地となるのでしょう。
かつて古代律令時代には,松ヶ崎は越後と佐度島を最短で結ぶ場所だったので,佐渡国の津として松ケ崎駅が定められていて,国府の出先機関が置かれていました。江戸時代には,北前船の中継港として栄え,廻船を10隻も所有した菊池喜兵衛などの在郷富商がいました。しかし,船舶の大型化によって,天保年間には廻船の寄港地が多田港に,そして,小木港へと南下していって,松ヶ崎は漁村となってしまいましたが,今は,何か昔懐かしい雰囲気がある場所でした。

松ヶ崎を過ぎ,再び県道45号線に合流して走っていくと,ようやく小木町に到着しました。小木町のあたりはこのあたりではめずらしく平地が広く,よって,大きな町並みと港がありました。この小木町とその次の宿根木は,小佐渡の代表的な観光地です。昔懐かしい集落と,だれもが知る佐渡島名物のたらい舟に乗ることができるところです。
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小木半島のつけ根に位置する小木港は,南北朝期からすでにその名が知られた古い港町で,江戸時代には佐渡金山の外港として,また,北前船の寄港地として栄えました。江戸時代のはじめに佐渡代官の大久保長安によって,小木は運上金銀渡海場に指定されたので,港の整備と共に佐渡金山のある相川と小木を結ぶ小木街道が整備されました。金の輸送は,相川から陸上交通とともに海上輸送によって小木港に着き,小木港で大型船に積み替えらて本土へと運ばれました。
小木港には南向きの港「内の澗」(うちのかん)と東向きの港「外の澗」(そとのかん)があって,弁天崎と城山で区切られていましたが,佐渡の金山にかげりが見えはじめたころから堀が掘られ,小木港は船の風待港として越後近海で最も安全な港となり,北前船の西廻り航路の拠点となって栄えました。
越後の各港から50石積の船で小木港に集められた米は,小木港から千石船に積み替えられて大阪に向いました。しかし,明治になると大型の蒸気船が主流となっていくと港の限界が訪れ,さらに新潟港が県内交通の要衝となり,さらに,鉄道時代の幕開けで,両津港が佐渡の玄関港として整備されると,小木港は急速に衰退してしまいました。現在は,直江津からの定期便が運行されているだけです。
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小木港の一角でたらい舟に乗ることができました。
せっかく来たのだからと,たらい舟に乗ることにしました。私が乗る前に1組の観光客がいたので,たらい舟は運航していたのですが,私が乗るときにはほかにはだれも観光客がおらず,シーズンオフでもあり,まったく活気がありませんでした。
ともかく,たらい舟に乗って,港の湾を1周,途中で少し漕ぐことができたのですが,結構大変でした。

私は,この小木町で昼食をとることにしていて,何か地元のおいしい魚でも食べられないものかと期待して,観光案内所に入って訪ねてみたのですが,すすめられたのはおそば屋さんでした。
ということで,すすめられたおそば屋さんに行くことになったのですが,小さな1軒屋で,戸を開けると,だれもお客さんはおらず,一見,やる気のなさそうな不愛想な主がいました。「ざるそばしかないけれど」と言われて,選択の余地もなく,それを注文しました。
であったのですが,このお店,所狭しとプロ野球のグッズやら写真やらが飾られていて,しかも,それらの多くが,かつて大阪にあって,今ダイエーホークスとなった,南海ホークスのものだったのです。私は,亡くなった父がなぜか南海ホークスの大ファンだったので,その知識は豊富です。そんな次第で,話しかけてみると,店の空気は一転して,プロ野球談議に話が弾みはじめました。
人はわからないものです。共通する話題さえあれば打ち解けるものだと,しみじみ感じました。
それにしても,この佐渡島に南海ホークスファンがいることも,不思議な話でした。
このこともまた,佐渡島は不思議なところです。

小木町から少し行った海岸線が小木半島で,ここは散策コースとなっていて,広い駐車場がありました。ガイドブックに載っているたらい舟はこの小木半島の散策コースにある元小木の入江なのですが,3月はシーズンオフで営業をしていなかったし,だれも人がいませんでした。駐車場には結構車が停まっていたのに,どうしたことでしょう。

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佐渡島の南半分である小佐渡を時計回りに1周をはじめました。まず,昨日と同じように国中平野を東に進んで,両津港まで出て,この日は右折して小佐渡の外周をまわる県道45号線を走っていきました。まずは,最東端の姫崎灯台を目指します。小佐渡最東端というのは,佐渡島最東端でもあります。
その手前,大川漁港が眼下に見られる峠から,大川漁港が美しく見えました。ここは「大川やすらぎの里」と書かれてありました。
それを過ぎると,まもなく姫崎灯台に着きますが,灯台は県道45号線からはずれ,ものすごく狭い私道を走ることになりましたが,ここは私道でしたが好意の駐車場がありました。そこに停めると,向こうに灯台が見られました。ここに「ここにもトキが来ます」という立て札がありました。
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姫崎灯台は,佐渡ではじめての灯台として,1895年に点灯しました。
現存する日本最古の鉄造りの灯台で,その歴史的・文化的価値を認められ「世界灯台100選」にも選ばれています。
 青空に映えるエレガントな白い姿も必見。近くの「姫崎灯台館」は貴重な資料の展示館になっています。
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と帰ってからわかりました。展示館がありそうな雰囲気でなかったのでパスしてしまったのがくやまれるところです。

姫崎灯台から戻り,再び県道45号線を,今度は南西に向かって走ります。
なにせ,情報が少なく,走っていて偶然見つけるようなところばかりです。そこで,先の姫崎灯台にあった展示館のように見損ねてしまうのです。
次の見どころは赤亀岩でした。
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「赤亀・風島なぎさ公園」の海水浴場から望む鉄石英の赤い大きな岩。中央部に空洞のある奇岩で,亀の親子が寄り添っているようにも見えます。
「昔,水津の漁師が大時化に遭った際,大きな亀が現れ,船はその背に乗って港に戻った。亀は岩となり村人たちは“赤亀”と名づけた」。そんな言い伝えが残る奇岩で,赤亀明神を祭る祠があります。
  ・・・・・・
とありました。

さて,この先,私が目指していたのはガイドブックにあった岩首昇竜棚田でした。
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岩首地区の標高350メートルを超える山間に広がる棚田。
江戸時代ごろから受け継がれたもので,現在残る田んぼは460枚ほど。急峻な地形を活かしきる大小の変形田が天空に昇る龍のようにつながっています。
春先,水を張った棚田に朝日が差す光景は人々を魅了します。展望小屋からの眺望も見事。
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とあるのですが,養老の滝という道路標示は見たのですが岩首昇竜棚田という道路標示はなかったので,私は棚田に入っていく道を通過してしまいました。そのまましばらく県道45号線を走っていったのですが,どうも通り過ぎてしまったと気づいたので,戻ることにしました。
岩首昇竜棚田は養老の滝に行く途中からわかれて行ったところにあるのでした。そこで,改めて出直しです。すれ違うこともできそうにない狭い道を登っていきます。そして,右手に養老の滝,左手に岩首昇竜棚田とかかれた道路標示を見つけたので,まずは棚田へ向かいました。さらにどんどんと山を登り,車が1台かろうじて通れるような道路を想像以上に登っていくと,ものすごく高い場所にたどり着きました。そこから見下ろすと,確かに棚田でした。
雨が上がったばかりで霧っていたので,少し残念でした。もし晴れていたら,日本海の青とすばらしいコントラストだったことでしょう。

この狭い道路を降り,今度は養老の滝を目指します。
養老の滝といえば,岐阜県にもあって,岐阜県の養老の滝は,滝の水がお酒になったという親孝行な「源丞内」という「きこり」の話です。これを聞いた時の天皇が養老に行幸して自らこの不思議な滝の水を飲んだところ,膚は滑らかになり痛むところまで直ったということで,西暦717年に年号を「霊亀」から「養老」に改元したという話が「続日本紀」にありますが,佐渡島の養老の滝はそれと関係ないのかな?
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県道45号線から山道に入り,岩首川沿いに約1キロメートル。赤い鳥居の先を5分ほど歩くと高さ29メートルの滝が流れています。その昔,この滝付近に住み着いた者がほしいものを願いながら床につくと,翌朝には届けられていたという不思議な言い伝えから、不動明王が住む滝として名が広がりました。
また,滝の水は,飲むと子宝に恵まれると言われています。
手前には朱塗りの太鼓橋「滝見橋」が掛かり,木々の緑と美しいコントラストを見せています。
  ・・・・・・
とあるのですが,私はこの太鼓橋が記憶にありません。

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民宿に戻ってきました。今日もまた,食事が楽しみでした。お供は,昨晩覚えた冷酒です。この晩は佐渡ヶ島の「至」(いたる)でした。
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純米発泡濁りのお酒人気のお酒です! 瓶内二次発酵で自然な発泡。純米らしく米の旨味,爽やかさ。食事にも合います。
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というのがウリでした。
どうやら私は,この旅で日本酒の楽しさを知ってしまったようで,それはそれでいいのですが,またまた興味が増えてしまいました。この先,旅をするたびに地元のお酒を嗜みそうですが,何事も本当に奥が深いものです。私は知らなかったのですが,お酒は種類が多いから,旅で訪れたところの地酒を味わうことが楽しみとなるわけです。
この晩は天気が悪く,夕食の後はお風呂に入って,早々に床につきました。

さて,3日目の朝です。
朝食をとったあとで,近くの「小岩井」という牧場で昨日仔馬が生まれたから,ということで,誘われて,民宿の子供たちが保育園に行く前に一緒に見にいきました。生まれたばかりだというのに,ずいぶんとしっかりしているものだなあ,と思いました。佐渡島ではお祭りのときなどに馬が活躍するということで,そのために馬を飼っているのだそうです。
この民宿に宿泊したことで,いろいろな経験ができました。
民宿の女将は,数多くある宿泊施設からここを見つけ出したあなたがエライ,と言っていましたが,本当にそう思います。旅が楽しくなるかどうかは宿選びにかかっているのですが,さすが旅慣れていることもあって,今回も正解でした。

2泊お世話になった民宿ともこれでお別れです。
旅の3日目は佐渡島の南半分,いわゆる小佐渡を今度は時計回りに1周することにしました。

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佐渡島旅行の2日目は佐渡島の北側半分・大佐渡を1周してきたわけですが,民宿に戻るにはまだ早かったので史跡佐渡金山に寄ったのですが,それでもまだ時間があったので,民宿に戻る途中で目についた場所に寄ることにしました。
佐渡島の西側,佐渡湾に面して真野町があります。佐渡町はその昔国分寺があったように,佐渡島でも史跡が多いところです。まず,佐渡博物館に寄ってみました。
佐渡博物館は,佐渡出身の日本画家・土田麦僊の素描展示室など見どころの多い美術博物館ということでした。1階は金銀山に関する展示室,2階には自然・考古・歴史・民俗展示室と美術・工芸展示室がありました。また,庭園には岩石園や古民家などがあって,それなりに楽しめました。ただし,思ったほどの規模でもなく,また,博物館自体,あまり,やる気を感じませんでした。
佐渡に限ることではなく,どこに行ってもこうした公営の施設の多くは商売っ気がないというか,おそらくその理由は,職員が単に人事異動で配属になっただけで思入れないような人が多いということでしょう。それは雰囲気でわかります。ときどき,その道に情熱をもった人が配属されてきて,そのときは活発に活動をしても,その人が転勤した途端に低調になるということをこれまで多く見てきました。これもまた,きわめて日本らしい話ですが,そんなときは来館者も減り,次第に寂れていくのです。

佐渡博物館を出て走っていると,そこで見つけたのが国分寺跡でした。
佐渡島の国分寺は,聖武天皇の詔により諸国に1か寺ずつ建立されたもののひとつで,764年に佐渡国分寺として落成したと伝わります。すでにこの時代から佐渡島にこのような施設が作られていたというのが驚きです。伝わるところでは,北陸地方では珍しい瓦屋根の佐渡最古の寺院だったということですが,大火・落雷などによって幾度となく焼失し,再建したという経緯をもちます。今は何も残っていません。広い敷地には,金堂・廻廊・中門・南大門・塔跡・新堂跡などの礎石だけが並んでいました。なお,国分寺と対に国分尼寺も作られたのですが,佐渡島ではそれがどこだったのかは不明だそうです。
また,国分寺跡の隣には現在の国分寺があります。この寺は,1679年(延宝7年)に賢教によって真言宗の寺として再建されたもので,平安時代に造られた薬師如来像が今もあるということです。 
この時代,地方には国分寺,国分尼寺のほかに,国府,総社が置かれていたわけですが,国府は雑太郡(さわたぐん)にあったといわれ,これは国中平野の南辺にあったと推測されていて,国府遺跡が官人の住居と推定されていますが,政庁は見つかっていないそうです。さらに,総社は,現在,総社神社が佐渡市吉岡にありますが,これは,国府の近くにあったものを1307年(徳治2年)に現在地に遷座したと伝わります。

さらに進むと,妙宣寺がありました。これは日蓮上人ゆかりの名刹で,立派な寺でした。
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佐渡配流の日蓮に仕え,熱心な法華経信者となった遠藤為盛(=阿佛房日得上人)が,1278年(弘安元年)妻の千日尼と共に自宅を寺として開いたのがはじまりと伝わります。かつては佐渡守護代竹田本間氏の居城だったので,今も城跡の雰囲気を残しています。
境内には,県内唯一の五重塔や「正中の変」で佐渡配流となった日野資朝の墓などがあります。
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正中の変というのは,1324年(元亨4年)に,後醍醐天皇とその腹心の日野資朝・日野俊基が鎌倉幕府に対して討幕を計画した事件です。幕府の調査の結果,後醍醐天皇と日野俊基は冤罪とされ,無罪となりましたが,日野資朝は疑惑が晴れないということで,佐渡へ遠流となりました。歴史はいつもこうしてだれかが犠牲となるのです。権力者に肩入れしてもロクなことはありません。

佐渡島の中央部はどこからも金北山や大佐渡の雪を被った山並みが美しく見られるのですが,そのなかでも特に景勝の地に,亀井勝一郎の碑がありました。亀井勝一郎といえば「大和古寺風物誌」は私も知っています。
1950年(昭和25年)文人・亀井勝一郎はこの史跡の里を訪ね,豊かな佐渡の国原を望んでいたく感動して紀行「佐渡ケ島」に「飛鳥の風光を愛した人が 佐渡に渡って ここに望郷の思ひを託したのかもしれない」と記し,大和の飛鳥路に実によく似た景勝を絶賛し,この周辺を「佐渡飛鳥」とよんだのです。
古来から,佐渡の地は物書きのこころを引きつけてやまない所でした。太宰治は「佐渡」で「死ぬほど寂しい所だと聞いている」と書いていますし,この亀井勝一郎は「佐渡ヶ島」で,柱の跡しか残っていないのに国分寺跡を訪れて絶賛しています。さらに,柳田国男は,佐渡には2度ほど来ていても一度も北小浦の土を踏んでいないのにもかかわらず,「北小浦民俗誌」を書き上げました。

こうして,順々に興味深そうなところを訪ねながら走っていたら,そろそろ民宿が近づいてきました。
現在,佐渡島には空路がないのですが,空港はあるというので,民宿に戻る前に寄ってみました。
佐渡空港は国中平野に位置し,佐渡市の中心部からは南西約4キロメートルの地点にあります。佐渡空港は1958年(昭和33年)に陸上自衛隊の協力によって建設されました。定期便があれば,新潟空港から約25分です。空路があった1970年代には利用者が年間3万人いたのですが,1977年に佐渡汽船のジェットフォイルが就航したことで空路の利用客が減少し,廃止になったといいます。
滑走路の長さが890メートルと短かく離着陸できる機材が限られていたので,今回,2,000メートル滑走路を備えた拡張整備事業が行われ,羽田への直航便の運航も可能となりました。近くトキエアが新潟空港との間で路線を開設する予定だそうですが,運行が続くかどうかは料金次第でしょう。

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史跡佐渡金山を出て,次に行ったのが,佐渡奉行所跡でした。
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金脈の発見により,佐渡は幕府の直轄地(=天領)となり,1603年(慶長8年)相川に佐渡奉行所が置かれました。奉行所の建物は現存していなかったのですが,奉行の住居もあった広い施設のうち,2000年(平成12年)に御役所の部分である役所や白洲など,司法・行政の場とともに,金銀を精製する寄勝場(よせせりば)が復元されて,今は,佐渡特有の奉行所の形態を見ることができるようになりました。
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ということですが,この建物は,私にはとても興味深いものでした。
はじめに係の人の説明があって,そのあと,自由に建物内を見学できました。私以外に見学者はいませんでした。私が最もおもしろいと思ったのは寄勝場です。ここには,江戸時代にどうやって鉱石から金を選りわけていたかが再現されていました。おそらく地元の小中学生の社会見学の場として活用されているのでしょう。

相川の町は堪能したので,次に向かったのが七浦海岸でした。
七浦海岸は相川地区の鹿伏から二見まで7つの集落をまたぐ10キロメートルの起伏に富む海岸線で,とても美しいところです。典型的な隆起海岸で,夕日が美しいポイント,ということですが,実は,私は,期せずして,あすの3泊目,ここに泊まることになるのです。予約をしておきながら,3泊目の旅館がこの場所にあるということを,この時点ではまだ知らないのだから,恐れ入ります。
七浦海岸で代表的な景勝地は高瀬の夫婦岩です。仲むつまじい夫婦が語り合っているかのようにふたつの岩が並んでいることから、この名がつけられたということですが,これらの岩はイザナギノミコト(伊邪那岐命)とイザナミノミコト(伊邪那美命)ともいわれているそうです。
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高天原にいる天つ神に島々と神々を生むよう指示を受けた夫イザナギノミコトと妻イザナミノミコトは,7番目の佐渡島を産み終えたころ,疲れ果てた妻の姿を夫はかわいそうに思い,自分らの分身を創り、高天原から目の届きにくい佐渡島の西側に隠して,残りの島々と神々を分身より誕生させ,佐渡で妻をいたわりました。
ある日,分身がヒノヤギハヤヲノカミ(火之夜芸速男神)を誕生させようとしたとき,天つ神に見つかってしまいました。それを知り,恐れおののいたヒノヤギハヤヲノカミは,脱兎のごとく光熱を発してイザナミノミコトの女陰に戻りますが,その光熱によりイザナミノミコトの女陰は赤茶色にただれ,黄泉の国へと退きました。
こうして,夫婦岩も女岩の割れ目の周りだけが赤茶色くなっているのです。
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なお,岸辺の岩の大きな洞窟は縄文時代の住居跡です。

このころ,私はちょっとおやつでも,と思いながらカフェを探して走っていたのですが,ずっと気にいった場所がなく,夫婦岩の見える広い海岸に,やっと「めおと岩ドライブイン」を見つけました。しかし,塗装も剥げていてかなり寂れたところで,ホテルも併設されていたのですが,このホテル,本当にやっているのかしら,と思いました。帰ってから調べると,営業してるようでしたが,私が知る限りにおいて,宿泊客はいませんでした。
ドライブインで売られていたのが塩を使ったソフトクリームでした。それを注文して店内で食べていると,まったくお客さんがおらず,暇を持て余していた店の主がいろんな話をしてくれました。この店で売られていたのは佐渡島名物の赤玉石で,それらがたくさん並んでいましたが,目玉が飛び出るほどの値段でした。
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やや紅がかった赤い色合いが特徴的な佐渡赤玉石は,鑑賞石・銘石の世界で珍重されている石のひとつです。佐渡赤玉石は,鉱物学的には石英の一種で,本来なら無色透明に近いのですが,その成立過程で赤みを帯びた酸化鉄が入り込むことによって,赤い色になります。
独特の色合いがあるので,鑑賞石の世界では古くから珍重されてきて,独特の光沢が出てつやつやした質感は高い人気を誇ります。また,赤い色は古くから魔を払う効果があると考えられてきて,パワーストーンのひとつとしても人気があります。
状態が良ければ数万単位の値がつくことも珍しくありません。
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ということだそうですが,まったく興味のない私は,何の魅力も感じませんでした。
また,このソフトクリームに使われている塩は道路の反対側にある塩工房「佐渡風塩釜」で作られたものということで,見学してくるといいといわれました。そこで,ソフトクリームを食べた後で訪ねることになります。
入りにくそうな小屋の中は蒸気で充満していました。愛想の悪そうな,そして,怖そうな主がいて,作業場を覗くと「何をしに来た」というので「紹介されて見学に」と答えると,なぜか機嫌がよくなって,説明をしてくれました。
ここの塩は海水100パーセントを薪でじっくりと焚き上げた昔ながらの塩で,花の様に美しい結晶をしていて,ミネラルが沢山含まれているということで,「おいしい塩を探して日本中を歩き回ったあげく,ここの塩がもっともおいしい」という評判だそうです。見る限り,かなり非生産的で,こんなもの商売になるのかしら,と思ったのですが,後で調べてみると,何でも,全国の高級デパートで販売されていたり,高級ホテルのVIP料理に使われているということで,驚きでした。
見学料350円,お土産つき,と作業場の入口に書いてあったのですが,お金はいらないよ,といわれました。ただし,当然,お土産はありませんでした。
佐渡島は,いろいろと不思議な島です。

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大佐渡を1周して相川まで来ました。まだ時間があったので,最終日に行こうと思っていた史跡佐渡金山へ行ってみることにしました。佐渡島の金山は有名ですが,私は興味があったわけではありません。しかし,せっかく佐渡島に来たからには行ってみようと思っていました。
佐渡金山といえば,そのシンボル的存在は今日の1番目の写真「道遊の割戸」だそうですが,それすら知りませんでした。無知というのは酷なもので,「この場所で「道遊の割戸」がきれいに見えますよ」と言われても感動もしないのだから,もし案内する人がいても張り合いがありません。また,2番目の写真は,これもまた,北沢浮遊選鉱場跡という佐渡金山のシンボル的存在なのですが,この奇妙な遺跡? がどうして佐渡金山と関係があるのかも知りませんでした。
旅というのはいつもそういうもので,景色がきれいに見えるもそう見えないも,感動するもしないも,その人のこころな次第なのです。しかし,実際に見て,そのいわれを知ると,景色が違ってみえます。私も,佐渡島旅行の最後には,道遊の割戸に対しても北沢浮遊選鉱場跡に対しても,特別な感情をもつまでになりました。

相川の町は,江戸時代,佐渡金山に働く人のために発展したところで,佐渡産の銅で作られた「時鐘楼」のある下京町から中京町,そして,上京町と続く坂道があって,そこが佐渡金山が栄えたころのメインストリートでした。
金山で繁栄した時代,島外から多くの商人が佐渡島に渡りこの場所で商売をしていたのですが,特に京都や大阪の絹問屋が多く店を構えていたので「京町通り」という名がついています。また,京町通りの周りには碁盤の目のようにあちらこちらに小道が張り巡らされていて、その周辺には「大工町」「八百屋町」など,職人のエリア別に名前がついていると,昨晩,民宿の女将が教えてくれました。曰く,佐渡金山に来て,この相川の町を見なくては意味がないと。
以前行った,ハワイ・マウイ島の古都ラハイナ(Lahaina)を訪ねたときもそうだったのですが,かつて栄えたところで,確かにその時代生きていた人たちのことに想いを巡らすことこそ,その地を訪ねた意義だと思うわけです。
次回来ることがあれば,この町をもっとゆっくり見たいものだと思いました。

さて,相川の町から史跡佐渡金山へ行くのですが,結構山の中であるのに驚きました。
広い駐車場があったのですが,停まっていたのは2,3台でした。予想以上に観光客がいませんでした。また,観光バスがいなかったのが私には幸いでした。団体さんが来るだけで,雰囲気が一変してしまいます。
金山の入口はふたつあって,右手が江戸時代に採掘された跡である宗太夫抗を巡るもので,左手が明治以降に採掘された跡である道遊抗を巡るものでした。私は,共に見学しました。
まず,宗太夫坑に入りました。宗太夫坑は江戸時代の初期に開削された手掘り坑道で,佐渡金山最大の鉱脈「青盤脈」の西端に当り,坑道は大型で江戸時代の採掘の特徴である「将棋の駒形」の坑道,斜坑,小型の探索坑道,空気を入れる為の煙穴などが数多く残されていました。最後に博物館があって,ここでやっと私は,江戸時代の金の採掘がどういうものか納得できました。
宗太夫坑を出ると,日本の観光地の定番である土産物屋を抜けて,再び入口まで戻ります。次に道遊抗に向かいました。道遊坑は1899年(明治32年)に開削され,佐渡金山の近代化に大きく貢献した機械掘り坑道で, 坑道を含め,トロッコ,機械工場,粗砕場など多くの設備が操業当時の姿のままで残されていました。このコースでは,「道遊の割戸」直下の採掘跡,「道遊の割戸」を間近に見るポイント,高任公園からの「道遊の割戸」の絶景ポイントや佐渡金山のシンボルである「道遊の割戸」そのものを見ることができるハイキングコースが最後にあるのですが,途中で雨が降ってきて,傘を車に置いてきたので,ハイキングコースは断念して,再び先の土産物屋に戻りました。

アメリカによくある,この種の観光施設では,まず,学芸員のレクチャーがあって,そのあとでコースを巡りながら詳しい説明があり,わからないことは質問できたりするのですが,日本では,寺社仏閣を含め,どこもそのほとんどは,入場料さえ払ってくれれば,あとは自分で巡ってね,最後にお土産忘れずにね,ということなので,団体ツアー客や修学旅行でやってきても,結局何も残らず,物見遊山に終わるという,お勉強は学校で順位を上げるためだけにするもの,という,知的好奇心欠乏症の日本の典型的な施設そのものだったりします。意味もわからず,というか,何度もつけたりはずしたりすることで手やあごの細菌をいっぱいつけたようなマスクを再び口に加えるというような,あえて危険を冒してまでしてマスクを手放せないのも同類です。
佐渡金山は,最後に充実した博物館があって,そこで詳しい説明があったので,救われました。
私はこれまで,ゴールドラッシュで賑わったアラスカのフェアバンクス郊外や,ニュージーランドのクイーンズタウン郊外のアロータウンに行ったことがあるのですが,どこも,金が採取できるとなるとこんなにも人が群がることに驚きを隠せませんでした。

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2023年3月22日から3月25日まで,3泊4日で佐渡島を旅しています。
もし,2020年の春からのコロナ禍がなければ,この時期は海外のどこかでさまよっていたと思うので,日本国内に目を向けることができたのも,コロナ禍様様なのかもしれません。佐渡島自体は,結構不便なのでなかなか来ることができませんでしたが,私は,どこへ行くにも,まあ,適当で,予習もしないから,出たとこ勝負,というか,来たとこ勝負というか,その場所に着いてから,興味があればどこにでも寄るし,食べ物も,好き嫌いがなく何でも食べられるので,その土地のものを食べるし,何かも知らずに行ってみたり食べてみたあとで,帰ってから調べてみたときに,へ~っ,これはそんなにすばらしいものだったんだ,と思うことも少なくないし,その反対に,え~っ,これ見逃した,ということもまた,少なくありません。いずれにしても,見逃してそれほど後悔するものなら,また行けばいいし,そうでなければ,縁がなかったとあきらめるだけの話です。
人生,何事も暇つぶしです。
また,旅というのは,時期というものがあって,桜の季節ならすごい人であっても,桜の季節でなければだれもいない,そういうことも多々あるのですが,そうしたベストシーズンでなくても,それなりにいいことがあったりもするのです。
今回の佐渡島旅行もまた,時季外れだったために,やっていなかったお店もあったのですが,人も少なく,大変楽しめました。

今回は,飛ぶトキを見たい,というだけが目的だったので,それが果たせたあとは,たっぷりある時間を使って,適当に車で島をまわっています。旅の2日目の今日は,佐渡島の北側,大佐渡といわれる場所を反時計回りに1周しているのですが,その最北端を過ぎて,これからは,南西に下っていくわけです。
書き忘れていましたが,大佐渡には,金北山という佐渡島最高峰とドンデン山があって,金北山の登山や,ドンデン高原で縦走を楽しんだり,また,天然杉を見ながらウォーキングをするという楽しみがあるらしいのですが,この時期は雪に閉ざされていて,それはできませんでした。ということで,大佐渡は海岸線にそって巡るだけになるのです。大佐渡は海岸線まで山がせまっていて,特に見どころというものもないのですが,とはいえ,海岸線はずっと美しく,ドライブするだけで楽しいものでした。
もうひとつ書き忘れていたのですが,この旅に来る前日まではずっと晴天が続いていたのに,予報では,私が旅に出た日から連日雨という予報でした。常に,どこに行っても晴れる,自他ともに認める晴れ男の私としては面目がないわけで,来る前からテンション下がり気味だったわけですが,結局,1日目は快晴で,夜には星空も見え,2日目も午前中は晴れたので,夜明けに飛ぶトキを見ることができ,午後遅くに雨が降り出したのですが,3日目の朝には雨が上がっていました。そして,お昼過ぎには青空がのぞきはじめたので,たらい舟にも乗れたし,海に沈むきれいな夕日を見ることができ,また,金星と月の大接近も写真に撮ることができました。さらに,最終日の4日目は晴れました。名古屋に戻ったとき,名古屋は雨が降っていたというのが,御愛嬌というか。そんなわけで,今回もまた,晴れ男の神通力は残っていました。
私の力で,佐渡島は必死に雨と抵抗し,帰宅したら力が尽きたような感じでした。

さて,佐渡には車田植(くるまだうえ)という習慣があって,それは佐渡島でも北鵜島の習俗ということですが,それが行われる田んぼが,今,私が走っている場所の近くにありました。
  ・・・・・・
佐渡の車田植は,北鵜島の北村家に残る習俗です。車田植の習俗は,ほかには高山市松之木町しか残っておらず,北鵜島の車田植は奈良時代の田植え神事を残す日本唯一の農耕行事で,神に豊作を祈るためにはじまったものとされます。
北村家の田植えは,田の水口にある神さん田(かみさんだ)からはじまり,末広がりで縁起のよい鐘形の車田での車田植でしまいとなります。田植えをする早朝に,苗代田から苗3束を迎え,握り飯を供えて田の神を祀ったのち,その苗を田主が車田へ運び,田面へ御神酒を注いで田植えが行われます。
田主から3人の早乙女に各1束ずつの苗が手渡され,畦の三方から田の中央へ進んだ3人の早乙女が,半束を田の中心に寄せ合わせるように植えたのち,車状に外側へと後ずさりしながら順次植えつけていくもので,田植えに際して,畦では田植歌が歌われます。
北村家の当主は北村佐市さんですが,後継者がいないので,今後どうなるかはわからないそうです。
  ・・・・・・
ということなのですが,これが行われるのは5月下旬なので,今は何も見るものはありません。ですが,せっかく通りかかったので,車田植をするという田んぼだけ見てきました。
 
さらに走っていくと,大佐渡のつけ根までやってきました。ここにあったのが尖閣湾でした。
尖閣,という名前で私が知っているのは,沖縄の尖閣諸島です。先日行った石垣島の近くにあります。
  ・・・・・・
19世紀後半までどの国にも属さない琉球周辺の無人島だった島々は,明治維新後の1872年(明治5年)琉球国が琉球藩に改められて日本へ帰属し1879年(明治12年)には沖縄県を設置したのち,1895年(明治28年)に日本の領土に編入しました。魚釣島を含むこれらの島々は,1900年(明治33年)に古賀辰四郎が永康丸を魚釣島に派遣した際,同行した黒岩恒が尖閣諸島と名づけました。
  ・・・・・・
という尖閣諸島と,佐渡島にある尖閣湾は,名前が同じであるだけでまったく関係がありません。
  ・・・・・・
尖閣湾は,佐渡島姫津から北狄まで約3キロメートルの海岸に広がる5つの小湾の総称です。
ノルウェーの「ハルダンゲルフィヨルド」(Hardangerfjorden)の峡尖美に似ていることから尖閣湾と名づけられました。30メートル級の尖塔状の断崖が連なる景観が人々を圧倒します。一帯は海中公園となっていて,揚島遊園の展望台からは全景が一望でき,遊覧船からは違った景色を楽しめます。
  ・・・・・・
ここは,佐渡島観光の王座を占めていて,佐渡島を訪れる人々は必ずこの景観を遊覧船から観賞する,ということですが,不勉強な私は,当然,そんなことは知りませんでした。
通り過ぎようと思ったのですが,お腹も減ったので,このあたりで昼食でもと,ちょうどドライブインがあったので,駐車場に車を停め中に入ると,遊覧船があるというので,乗ってみることにしました。船が出る時刻が20分後ということだったので,チケットを購入したのち,ドライブインで,20分で食べ終われるものといって,おそばを注文しました。磯のりののったとてもおいしいおそばだったのに,慌てて食べたのでしっかり味わえず,もったいないことをしました。
そもそも,この日は,ドライブインにいた観光客は私ひとりだったので,遊覧船もまた,わたしひとりでした。ここもまた,さびれた感一杯で,あとで,ここが有数の観光地だと知って驚きました。
確かに,すばらしい景色だったのですが,世界中のこのような景色を見慣れてしまっている私には,ニュージーランドのミルフォードサウンドの方がすごいし,石垣島の川平湾のほうが海が澄んでいたし,こりゃ福井県の東尋坊と同じだなあ,とさして感動することもありませんでした。これではネコに小判,豚に真珠です。

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佐渡の最北端・鷲崎から二ツ亀を通り尖閣湾までの約50キロメートルの地域を外海府といいます。佐渡島で最もダイナミックな景観と透明度の高い海など,手つかずの大自然が残っている地域です。
二つ亀というのは,沖の島と磯の島のふたつの島がくっついていて二匹の亀がうずくまっているように見えることからくるよび名だそうです。どちらが沖の島でどちらが磯の島なのかは私が調べた限りわかりませんでしたが,名前から判断すると手前が磯の島で奥が沖の島でしょう。
佐渡島は沖縄などの南の島とは違って,海で泳ぐために遠いところからやってくる,というイメージはないかもしれませんが,二ツ亀には海水浴場があって,屈指の透明度を誇り,日本の快適水浴場100選にも選ばれています。私が行ったときはシーズオフだったので,ほかにだれもおらず,寂れた感満載でしたが,果たして,ハイシーズンだとどうでしょうか。 
ここにはSADO二ツ亀ビューホテルがあって,広い駐車場に車を停めることができました。私の車以外に車はありませんでした。
  ・・・・・・
景勝地を望む佐渡最北端のリゾートホテル・SADO二ツ亀ビューホテルは二ツ亀を眼下に見下ろす全室オーシャンビューで,ラウンジや大浴場からの眺望も見事です。ダイビング,釣りなどさまざまなアクティビティの拠点として最適です。
鷲崎漁港で揚がる魚介をはじめ,佐渡食材を使った料理には定評があり,レストラン「 サンセット」でも新鮮な海鮮料理をいただけます。
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というのがウリですが,宿泊代金は結構な金額でした。
昨年行った八重山諸島の小浜島にあったリゾートホテルもそうでしたが,こうした場所はどこもさびれ感満載なのです。これは,コロナ禍の影響なのか,それとも私が行く時期がオフシーズンだからなのか?

海岸までかなりの坂を降って行くと展望台があって,二ツ亀がきれいに見えました。砂州が二ツ亀までつながっていたのですが,帰ってから調べてみると,いつもつながっているわけではなく,私が行ったとき,たまたま干潮だったかららしいので,このチャンス,歩いて渡るべきでした。
二ツ亀から西に少し行ったところには大野亀がありました。こちらは標高167メートルの1枚岩が海に突き出しているものです。頂上には善宝寺石塔があり,登ると外海府の全貌を一望できるそうですが,私は行きませんでした。なお,二ツ亀,大野亀の「亀」というのは,亀の形をしているという意味のほかに,亀というのは,アイヌ語のカムイ,つまり,神聖な島を意味することからともいわれているそうです。
  ・・・・・・
二ツ亀から大野亀に至る約4キロメートの海岸線には自然遊歩道があって,海を見ながら散策をすることができ,その途中には,洞窟内に無数のお地蔵様がまつられた「賽の河原」もあります。
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とあって,自然遊歩道を歩いて「賽の河原」へ行くこともできたのですが,また戻ってこなくてはならないので,これもまた,行くのをやめました。
そのようなわけで,徹底的に軟弱な私は,再び来るとは思えないこの場所なのに,そのほとんどを断念してそのまま車に戻り,大野亀まで車で向かいました。この日の私はまったくもって行動的ではありませんでした。

道路を走っていくと,大野亀の手前に「賽の河原」という道路標示がありました。一旦は行くのを断念したのに,その道路標示に沿って行けば,長い距離を歩かなくても車で「賽の河原」に行けるんだ,と勘違いした私は,その道路標示に従って,車を海岸線に向けて右折しました。坂道を下っていくと,そこにあったのが,願(ねがい)という名前の集落で,そこにも駐車場がありました。
ここでやっと悟ったのは,「賽の河原」に行くには,ここに車を停めて,自然遊歩道を歩くのだということでした。何をどう思ったのか,今もってわからないのですが,今度は,私は「賽の河原」を目指して,海岸に沿って,道なき道を歩き出したのです。しかし,よくよく考えるに,先の二ツ亀から自然遊歩道を西に向かって歩くよりも,この願から自然遊歩道を東に向かって歩く方が,「賽の河原」まではずっと遠かったのです。
二ツ亀から大野亀の地域はパワースポットとしても知られているそうです。願の集落から「賽の河原」までは徒歩で15分くらいでしたが,岩場を歩くので疲れました。「賽の河原」は海食洞穴で,そのなかに「地蔵菩薩」を中心に無数の石地蔵が静かに並んでいました。
  ・・・・・・
「賽の河原」というのは,仏教の世界観の「三途」,その川のほとりのことで,親を遺して亡くなった子供たちが集まる場所です。
子供たちは小石を拾ってはひとつずつ積み上げて塔を作ろうとします。これは毎日12時間もかけて行う苦行ですが,その涙ぐましい行為は,塔が完成する前に鬼が出てきて石を崩してしまうので,必ず徒労に終わります。子供はこうして毎日虚しい苦行を繰り返しているというのが仏教の世界観で,亡くなった子供にとっても,子供を亡くした親にとってもあまりにも救いのない伝承です。
しかし,この伝承には続きがあります。
それは,子供たちの前に地蔵菩薩が現れて「私を冥途での親だと思いなさい」と抱きしめてくれるというものです。地蔵菩薩は地獄の入り口で死者を救う神様と考えられています。また,地蔵信仰は子供たちと結びつきが強く,安産や子供の病気の守護神としても敬われています。
昔は,出産で親子共々命を落とすことや,子供が育たずに亡くなることが多くあったので,遺された親を癒す必要があった時代だっだから生まれた伝承でしょう。
法華経には「童子の戯れに沙を聚めて仏塔を作る」とあり,これは,「子供が戯れで作ったとしても,仏塔を作ればそれは功徳を積んだことになる」という意味で、これが「賽の河原」につながったといいう説があるそうです。
  ・・・・・・
「賽の河原」とよばれる場所は,佐渡島のここ以外にも,青森県むつ市の恐山や長野県の木曽町の御嶽山にもあります。

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念願だった,飛んでいるトキを見て写真を写すことができた私は,すっかり満足して,朝食をとろうと民宿に戻るわけですが,まだ朝食の時間には少し早かったので,近くにあった順徳院御配所跡に寄ってみました。
  ・・・・・・
84代順徳天皇は,後鳥羽天皇の第三皇子として1197年(建久8年)に生まれました。1210年(承元4年)後鳥羽上皇の強い意向によって,兄・土御門天皇の譲位を受けて践祚し14歳で即位しました。土御門上皇には権力はなく,後鳥羽上皇による院政が継続されました。
昨年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で出てきたように,父・後鳥羽上皇の討幕計画に参画し,それに備えるため,1221年(承久3年)に順徳天皇の第三皇子・仲恭天皇に譲位して上皇となりました。そして,承久の乱を引き起こしたものの,倒幕は失敗に終わり,後鳥羽上皇は隠岐へ,順徳上皇は佐渡へ配流され,1242年(仁治3年)に亡くなりました。
  ・・・・・・

順徳天皇は,後鳥羽天皇の影響で和歌や詩に熱心で,藤原定家に師事して歌才を磨きました。小倉百人一首に
  ・・・・・・
 ももしきや 古き軒端の しのぶにも
 なほあまりある 昔なりけり
   順徳院
  ・・
 宮中よ古い屋敷の軒端に生えるしのぶ草
 そんなものを見ても古きよき時代を偲んでも
 偲び切れない思いにかられる
  ・・・・・・
があります。
小倉百人一首が成立した1235年当時,順徳上皇は佐渡へ配流されていたので,佐渡院といいました。順徳院と称せられたのは,亡くなった7年後の1249年(建長元年)のことでした。
1156年(保元元年)保元の乱で敗れ,讃岐に配流され,その地で崩御し,のちに怨霊となったのが讃岐院ですが,鎮魂のために名前を讃岐院から崇徳院に改められた話は当時まだ記憶に新しいものだったので,鎌倉幕府は,自らが廃したふたりの院の祟りを恐れ,鎮魂のために, 隠岐院は顕徳院,のち後鳥羽院に,佐渡院は順徳院に名前を変えました。なお,小倉百人一首の選者は藤原定家といわれていますが,藤原定家は1241年に亡くなっていて,そのときはまだ順徳院という名でなかったことから,小倉百人一首が藤原定家の亡くなったのちに手が加えられたことは明白です。
佐渡島には,順徳院御配所跡以外に,順徳上皇のゆかりの場所が数多く残されています。学校で習う歴史ではなく,やはり,行ってみなければわからないことが多くあります。
また,順徳院御配所跡の近くに北條家住宅とありましたが,それが何なのかわからなかったので,ともかく行って見ることにしました。北條家というのは,江戸時代に漢方医を開業し,代々「道益」の名を受け継いだ北條家の邸宅ということでした。茅葺屋根のどっしりとした長屋門をくぐると茅葺屋根や細い木柄が特徴的な主屋がありました。建築年代は18世紀後半ということで,庭木に囲まれた広い敷地には,米蔵、家財蔵、味噌蔵が建ち並んでいました。

民宿に戻って朝食をとり,この日の観光に出発です。
この旅の最大の目的だった,飛ぶトキを見る,が実現したので,残りの3日はこころおきなく佐渡島の観光ができます。
日本の離島で,佐渡島は沖縄本島に次ぐ面積をもっています。思ったより広いのです。
佐渡島は,北側の楕円形の部分を大佐渡,南側の楕円形の部分を小佐渡といって,それぞれ山地となっています。大佐渡の主峰は標高1,172メートルの金北山で,小佐渡の主峰は標高646メートルの大地山です。大佐渡と小佐渡はもともと別の島で,これが中央の砂州によってくっついたもので,砂州は離島には珍しく広い平野となっています
  ・・・・・
今からおよそ3,000万年前,ユーラシア大陸の東側の縁が割れて,火山活動をしながら陸から引き離されていきました。大佐渡,小佐渡の山々は,このときの火山噴出物や溶岩でできています。海岸の岩肌にある赤っぽい岩片は大陸の岩盤をなす花崗岩で,大陸から切り離されはじめるときに大陸の崖が崩れ,そこへ火砕流が流れ込んで固まり片辺礫岩として残ったものであり,当時の激しい噴火の痕跡である球顆流紋岩(=石英の粒が含まれる火山岩)が荒々しい海岸線を形づくっています。
金銀鉱脈がつくられたのは約2,000万年前のことで,大陸から引き離そうと働く力によって岩盤に亀裂が入り,できた断層にマグマで熱された高温・高圧の熱水が地中深くの岩石から溶け出した石英や金,銀などの鉱物を溶かし込んで何度も上昇し,断層の隙間を埋めるように徐々に沈殿していったのです。金銀山最大の鉱脈とされる青盤脈は,長さ2,100メートル,深さ500メートル,幅6メートルにも及びます。
やがて,1,700万年前,日本列島が大陸から完全に切り離されると日本海が誕生し,佐渡島は一旦,日本海の海底に沈んで姿を消してしまいましたが,約300万年前,日本列島全体がプレートに押されて隆起をはじめると,海底にあった佐渡にも力が加わり,大佐渡,小佐渡がふたつの島となって海上に顔を出しました。このとき,約3,000万年前の大地をしっかり抱えたまま隆起したので,佐渡島には豊かな金銀鉱脈が存在するわけです。
大佐渡,小佐渡の山から出る大量の土砂は川で運ばれて海岸線に堆積し,さらに波がその砂を動かして,真野湾(=西側の湾)と両津湾(=東側の湾)のあたりに砂州が形成されました。砂州に挟まれた海が土砂で埋め立てられて,大佐渡,小佐渡ふたつの島をつなぐように平野ができました。
江戸時代になり,金山採掘のため相川集落の人口が増えると,不足した米を補うために国中平野周辺の新田開発が一気に推し進められました。これが今に続く広大な平野です。
  ・・・・・・

私は,2日目の今日3月23日は,両津港から,大佐渡を反時計回りに1周,あすの3日目3月24日は,今度は,両津港から小佐渡を時計回りに1周して,最終日3月25日は,中央の平地を観光することにしました。
まず,民宿から東に両津港まで行き左折して,海岸線に沿って北上していきます。佐渡島のもっとも北にあるのが二ツ亀というところで,そこまでは単調に道路が続いていましたが,北に行くにつれて,トンネルは狭くなり,道幅もすれ違うのがやっとになってきました。
そのうちに,奇妙な形の岩が見えてきました。それが二ツ亀でした。

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トキを見るには早朝,日の出のころに巣から飛び立つから,その時間が最適だということでした。そういえば,私の自宅のあたりは田んぼがいっぱいあるのですが,早朝散歩をしていると,日の出とともに,さすがにトキはいませんが,サギをはじめとして多くの鳥が飛びはじめます。ちょうどそのころ,犬の散歩もはじまるのですが…。私の最も好きな「かたわれどき」です。
この日3月23日の日の出は,春分のころだから,およそ午前6時です。私は朝はめっぽう強いので,この時間はまったく苦になりません。そこで,昨晩,民宿の女将に教えてもらった場所に午前5時30分過ぎに到着しようと,午前4時過ぎに起きて,午前5時に民宿から車で出かけました。
到着したときはまだ早かったので,薄暗かったのですが,次第に空が明るくなってきました。そのころは,空を見上げても何も飛んでいなかったのですが,しばらく待っていると,目の前に向かって小さな鳥が飛んできました。思っていたよりも小さいので,はじめはまさかその鳥がトキだとは思いませんでした。やがて近づくと,確かにトキ色の羽根を羽ばたいて上空を旋回していきます。急いでカメラを向けて写真を撮りました。
ついに,運転している車内からではなく,トキを目の前で目撃したのです。来るまえに自宅でサギの写真を撮って練習してきた甲斐があったというもので,練習してきたのと同じようにして写真をモノにしました。夢がかなった瞬間でした。

トキは,群れてたくさん飛んでいるのではありません。それほどの数はいません。数十分に1羽から2羽,飛んできては旋回して遠くに餌場を求めて去っていくのです。次第にわかってきたのは,トキは「ガーゥガーゥ」と結構大きな声で鳴くので,その声が聞こえたら飛んでくるのがわかるのです。どうやら,教えてもらったところに確かにトキの巣があるようでした。また,姿が見えなくても,鳴き声はたくさん聞こえてくるのです。
それにしても美しい羽根です。どれだけ見ても見飽きることはないのです。
こうして,この日の朝,午前5時40分ごろから午前6時過ぎまでの30分間に,私は5羽の飛んでいるトキを目撃し,写真に収めることができました。
  ・・・・・・
トキは首のあたりの皮膚が黒く,繁殖期が近づくとこの皮膚が厚くなり粉状になって剥がれ落ちます。それを水浴びの後こすりつけるために,頭から背中にかけて黒くなります。黒くなった羽根はトキが繁殖可能な状態であることを表すとともに,巣で卵を抱く際の保護色の役目を果たすとも考えられています。着色した羽根は「生殖羽」とよばれます。
この様な羽色の変化は鳥の中でトキだけです。羽色が黒くなると繁殖可能を示すとともに,抱卵時の保護色とも考えられています。
  ・・・・・・
私が佐渡島に来たのは,ちょうど繁殖期だったので,羽根を広げて飛んでいるトキもまた,羽根の「トキ色」が実にみごとでした。

今回もまた,オーロラが見たい,皆既日食が見たい,泳いでいる鯨が見たい,日本人メジャーリーガーがアメリカでプレーしている姿が見たい,ウィーンの国立歌劇場でオペラが見たい,などといった私の長年の夢のなかまのひとつだった,飛ぶトキが見たい,が,こうして実現しました。

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佐渡島3泊4日の旅。私がははじめの2泊で選んだのが「桃華園」という民宿でした。最後の1泊を別にしたのは,ある思惑があったからですが,そのことはいずれまた。
旅といっても,私の場合,つねに自由気ままなひとり旅なので,海外も日本国内もさして変わることはなく,まず,往復の交通機関を決め予約し,次に,現地での移動手段を決め,それがレンタカーであれば予約をし,そして,宿泊先を探し出して予約する,というだけのことです。大概はこれで終わりで,後は出たとこ勝負ですが,時にはさらに現地ツアーを探すこともあります。また,宿泊先は現地に着いてから探すときもあって,以前はほとんどそうしていたのですが,現在はネットで簡単に予約ができ,しかも,キャンセルも簡単にできるので,とりあえず,まず,適当なところを確保してしまうことにしています。
今回は,はじめに,県営名古屋空港から新潟空港までのFDAを予約しました。これは,早ければ早いだけ安価です。もし,FDAが就航していなければ,新潟までは東海道新幹線,上越新幹線と乗り継ぐことになるわけで,それではあまりに値段が高く時間もかかるので,そのときは,おそらく佐渡島には行っていなかったと思います。とにかく,いつもFDA様様です。新潟空港から佐渡島までは,これまでにも書いたように,なんとかなるだろうと,無計画でした。次に,佐渡島での移動手段は,もちろん,レンタカーにしたのですが,多くの他のところとは違い,レンタカー会社が限られていたので,その中で,もっともメジャーだと私が思ったタイムズレンタカーにしました。そして,最後に宿泊先を探していったわけですが,日本国内の旅行の場合,私が最も重視するのは,なるべく小さな宿で,ほかに宿泊者がいそうにないところ,そして,夕食と朝食がついていて,理想をいえば温泉であること,です。そのような条件とクチコミなどで見つけ出したのが,この「桃華園」でした。温泉ではありませんでしたが,大きなお風呂がありました。また,場所は特にこだわりませんでした。というより,佐渡島がどうなっているか,皆目見当がつかなかったから,まあ,どこでもいいや,という感じでした。私がこの民宿を選んだ決定打は,この民宿の女将がトキを見ることができる場所を教えてくれる,という口コミを読んだことでした。

ともあれ,私は,カーナビを頼りに民宿に行きました。場所は金北山の登山口にあって,かなりの山の中だったので,これもまた,私には理想的でした。近くにはコンビニの1軒もありません。こういうのがいいのです。午後5時到着という予定だったのですが,ちょうどそのころに到着しました。
大きな民家で,離れに宿泊棟があって,1階に2部屋,2階にも2部屋ありました。私が宿泊した1階の6畳和室の部屋にはバストイレがついていましたが,風呂は,別棟の大きなものを利用しました。食事は母屋で食べます。思った通り,オフシーズンで,宿泊は私だけでした。
夕食は午後7時にしてもらって,一度また外に出ました。
トキがねぐらに帰るのが日が沈むころだとトキの森公園で聞いていたので,もう一度トキのテラスへ行って,運がよければトキが見れらるかも,と思ったからです。しかし,トキのテラスで30分以上を眺めていても,鳥1羽飛んできませんでした。どうやらトキのテラスは飛んでいるトキを見るにはあまり条件のよくない場所だったようです。ただし,美しい夕日を見ることができました。
あきらめて民宿に帰って,いよいよ夕食です。
この家には5歳と2歳のかわいい男の子がいて,食事の前に,歓迎太鼓を披露してくれました。それがまあ上手だったこと。生まれたときからそれを聞いて育って,体が覚えているようでした。その後,地酒「金鶴純米活性にごり酒」を冷で2杯飲んで,おいしい食事をいただきました。普段お酒を飲まない私ですが,この地酒は気に入りました。
夜,お風呂から戻るとき,空に満天の星が見えました。私は,星を見に来たわけではなかったのですが,三脚は持ってきたので,星の写真を撮りました。この時期の天の川は薄くしか見えません。

そういえは,松尾芭蕉に次の句があります。
  ・・・・・・
  荒海や佐渡によこたふ天の河
  ・・・・・・
この句は,夜の日本海に浮かぶ佐渡島の黒々とした島影とうねる日本海の荒波のふたつの対比的な事象を超越するかのように天空をまたいで天の川が横たわっている姿を詠んだという「奥の細道」を代表する句のひとつです。
この句を詠んだとされるのは七夕も近い旧暦の7月4日,新暦の8月18日でしたが,記録によると,新潟を発つときは快晴だったものの,夕刻に出雲崎に着いたあと,夜中には強い雨が降っていたというので,松尾芭蕉が実際に見たものを詠んだのかどうかは意見がわかれるのだそうです。
そもそも,天の川があざやかに見えるのは南の空だから,新潟から日本海を隔てた佐渡島を見るのとは反対の方角です。そこで,この句のイメージどおりの写真を写そうとなれば,佐渡からずっと北に船で行って,島影の上に天の川がある写真を写す必要があるわけです。私は,佐渡島にいるのだから,当然,そんな写真も写せません。で,ちょっとしゃくなんで,以前,木曽駒高原で写した夏の天の川の写真を最後に載せておきます。

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☆☆☆ 木曽4


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「しない・させない・させられない」とは
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私は空を飛ぶトキが見たくて佐渡島に行きましたが,情報は何もありませんでした。
観光用の施設として動物園のようなものがあって,ケージ越しに飼育されているトキを見ることができるのだろう,と思っていただけでした。また,飛ぶトキを見るには,広い佐渡島中を探し回って,運がよければ飛んでいる姿や田んぼでエサをさがしている姿が目撃できるのでは,という淡い期待を描いていたのですが,どこで見ることができるかは知りませんでした。ただ,私が1泊目と2泊目に宿泊を決めた民宿の口コミに,この民宿の女将がどこに行けばトキが見られるかを教えてくれる,書いてあったので,それに惹かれて予約をしただけでした。
これから書くことは,私が佐渡島に行ってから知ったことです。

佐渡島にあった観光用の施設はトキの森公園でした。私がはじめに行ったのはこの施設でした。
トキの森公園は佐渡市が管理・運営していて,園内には資料展示室とトキふれあいプラザがあります。トキの森公園に隣接して環境省が設置し新潟県が管理・運営しているのが,トキの保護と増殖を目的とするトキ保護センターですが,これは非公開です。また,少し山の中に入ったところに,放鳥をする前の訓練をする野生復帰ステーションがあって,これもまた非公開です。
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トキの森公園の資料展示館には,トキの様々な資料や説明があったり,トキのはく製を見ることができます。また,資料展示室から通路を通っていくと,隣接する非公開のトキ保護センターで飼育されているトキを遠くから見ることができる観察回廊があります。資料展示室を出て,少し歩いたところにあるトキふれあいプラザという別棟にも2羽のつがいのトキがいて,ガラス越しにトキを見ることができます。
まず,私は,資料展示室でトキに関する知識を手に入れることにしたのですが,ここの係の人がとても親切で,手作りの地図をくれて,トキがどのあたりを飛んでいるかを教えてくれました。次に,通路を通って観察回廊へ行って,トキ保護センターで飼育されているトキを見にいったのですが,正直いって,これはがっかりしました。遠くのケージ越しにトキが見えるだけだったのです。写真を写しても金網が邪魔をして,大した写真を写すこともできませんでした。私の後に,数人の見学者が来たのですが,すぐに退散していきました。これなら,以前行ったいしかわ動物園のほうが目の前で見ることができたから,ずっとマシだなったなあと思いました。
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金沢市にあるいしかわ動物園には2016年11月にオープンしたトキ里山館という立派な建物があって,エサをついばむトキを間近に観察したり,棚田風の湿地や樹木など,里山を再現した環境の中でトキが暮らす姿をガラス越しに観察することができます。また,トキの展示場に隣接する学習展示コーナーでは,トキの嘴や足などを他の鳥と比べたり,本物の羽を触ったりしながらトキのことを学ぶことができます。
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次に行ったのはトキふれあいプラザでした。ここにはつがいのトキがいて,1羽はかなり近くで見ることができましたが,木に止まっているだけでした。もう1羽は木の上の巣にいて巣の中には卵があって,交代で巣をあたためているということでした。
この建物にいた係の人もとても親切で,というか,本当にトキが好き,という感じの人で,私が「飛んでいるトキが見たいので佐渡島に来た」と話したら「4日いるのなら必ず見ることができるよ」と言って,どこに行けばいいかを教えてくれました。これには勇気づけられました。

トキ保護増殖事業計画に基づいて,鳥インフルエンザ等の感染症による絶滅の危機の回避を主たる目的として,トキは分散飼育がされています。現在,こうした施設で飼育されているトキは,佐渡島では,トキ保護センターに36羽,トキふれあいプラザに2羽,野生復帰ステーションに93羽,また,新潟県外では,東京の多摩動物園,金沢市のいしかわ動物園にそれぞれ10羽,出雲市と長岡市のトキ分散飼育センターにそれぞれ11羽と13羽いますが。この中で,佐渡島以外に,一般にトキを見ることができるのは,いしかわ動物園だけです。
また,2008年に10羽の放鳥からはじまったトキは,野性下で着実に増え,現在は500羽を越えるトキが佐渡島で生息しています。ただし,佐渡島以外の場所でもトキを放鳥するという計画があるのですが,新潟県内ではそれがなかなかうまくいっていません。長岡市や柏崎市,出雲崎町,刈羽村,弥彦村が候補になったものの,農家が反発し断念しました。それは,イネが踏み荒らされたり,餌となる虫などを育むために,農薬,化学肥料の使用が制限されたりする「負担増」を懸念するなど反対があったからといいます。また,新潟県外では,能登半島や出雲市などが候補地にあがっていて,2035年くらいまでには定着させたいという意向が環境庁にあるそうです。

トキの森を出て,先ほど教えてもらったように,次に行ったのが山の中のトキのテラスという展望塔でした。ここにもトキに関する資料の展示室があり,また,屋上には展望台があって町が一望でき,トキが飛んでくれば見ることできるということだったのですが,まったくその気配はありませんでした。また,トキのテラスの眼下には非公開の野生復帰ステーションの大きなケージが見られたのですが,あまりに遠くて,トキは点にしか見えず,これもまた失望しました。
早々に山を下りて,最後に,新潟大学やNPOなどの団体が運営するトキ交流会館に行きました。ここにもトキが飛んでくるということで,玄関付近はトキの観察ができるようになっていたし,いつトキが見られるかというトキ時刻表も掲示してあったのですが,トキは音沙汰もありませんでした。
一旦,あきらめて,今日宿泊する民宿へ行くことにしました。
民宿へ向かう途中,走っている車から,田んぼのあぜ道でエサを探す野性下のトキがいるのを発見しました。ちょっと感動しましたが,写真を撮ることはできませんでした。さらに走って行くと,その途中で,飛ぶトキを,ついに目撃しました。これにはかなり感動しました。念願だった飛ぶトキを見たのです! ただし,写真を撮ることはできませんでした。
ともかく,トキは確実に佐渡の自然の中にいて,運がよければ見ることができるということが確信できました。
さあ,あとは写真を撮ることさえできれば…。

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◇◇◇
桜満開。

名古屋は桜が満開です。
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「Befcoばかうけ展望室」を出てもまだずいぶんと時間があったので,朱鷺メッセの2階にあったカフェで少し時間をつぶしました。その後,新潟港のターミナルに行って,昼食をとることにして,「佐渡の手前」という名前の食堂に入りました。佐渡うどんというものを注文したのですが,これは佐渡海藻アカモク(通称ナガモ)を練り込んだうどんということで,もとからある佐渡名物だと思ったのですが,実際は,東京にある日本食の「僖成」(きなり)という店が新潟に進出するために新しい名物として作ったうどんということでした。

やがて,ジェットホイルの乗船時間になったので乗り込みました。座席は窓際で,3割から4割程度の乗船率でした。 
時速65キロメートルくらいでジェットホイルは順調に進み,やがて,佐渡島が見えてきました。遠くに雪をかぶった金北山が見えてきて,ほどなくして両津港に到着しました。両側に多くの土産物店が並んでいるターミナルの通路を通り,道路を越えたところの集落に私が借りるタイムズレンタカーの小さな店舗がありました。佐渡島には大きなレンタカーの店舗はなく,どこもそんな感じでした。
車を借りていよいよ出発です。
とにかく私はトキが見たいというのが第一なので,まずは,トキの森公園に向かいました。私が懸念していたのは,ずっと飛んでいるトキを見ることができずに,滞在する4日の間,それだけを探して他に何もせず旅が終わるのではないか,ということでした。
両津港の付近にアーケード街があったのですが,ほとんどの店舗は閉じられていて,シャッター街でした。第一印象はさびれた島だな,ということでした。聞くところによると,佐渡島は高齢化が進んでいて先行き不安ということでした。しかし,というか,だから,というか,佐渡島は人も車も少ないからどの道も走りやすく,旅行者の人混み嫌いな私としては,なかなかいい感じでした。

カーナビに従って走っていくと,トキの森公園に着きました。
トキが飼育されている場所はもっと人里離れたところなのかと想像していたのですが,集落の近くであるのに驚きました。
駐車場にはほかに車はなく,どうやら来ていたのは私くらいでした。入場料を払って,まず,資料展示館の建物の中に入ると,出迎えてくれたのが,日本産トキ最後の1羽だった「キン」のはく製でした。
ちょっと泣けてきました。
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「キン」はメスであることから当初は「トキ子」とよばれていました。
幼鳥だった「トキ子」は真野町でさまよっていたところを宇治金太郎さんにより助けられ,餌付けされていました。トキは非常に警戒心が強くストレスに弱い生物ですが「トキ子」は宇治金太郎さんだけには懐いていました。
1968年3月,環境行政の方針によって,「トキ子」の捕獲が試みられました。しかし、無双網で捕えようと近づいてくる捕獲班を「トキ子」は警戒し逃げてしまいます。捕獲班は真野町に「トキ子」を捕獲するよう指示して引き揚げて行きました。困った真野町は,宇治金太郎さんに「トキ子」の保護を依頼します。宇治金太郎さんも,保護しなければ「トキ子」が生きていけない事を理解していましたが,「俺の事を信頼している「トキ子」を捕まえる事は出来ない」と決心がつきませんでした。
しかし,季節が天敵の鷹やカラス,野犬などが動き出す冬から春に向かい,このまま保護しなければ「トキ子」は夏まで生きてはいられないことが決定的になりました。ある日,「トキ子」がいつも現れる餌場姿を見せなくなりました。ようやく見つけたのは,7キロメートルも離れた場所でした。悩んだ末,宇治金太郎さんはついに「トキ子」の捕獲を決断しました。
いつものように「トキ子」は宇治金太郎さんの元に降り立ち餌をもらった後,宇治金太郎さんに寄り添うように座りました。宇治金太郎さんは「トキ子」を優しく抱きかかえるように捕獲しました。「トキ子」は騒いだり抵抗したりせず,じっと動かないまま,ただ小さな声で「クヮー」っと鳴いたそうです。宇治金太郎さんの目からは大粒の涙がこぼれ落ちていました。
トキ保護センターに移送された「トキ子」は,宇治金太郎さんの名前から1字もらい「キン」と名づけられました。その後,1981年に生存していたすべてのトキが捕獲され「キン」とのペアリングも試みられましたが,「キン」が卵を産むことはありませんでした。
やがて,ただ1羽残された日本産最後のトキとなった「キン」は2003年10月10日の朝,ケージ内で死亡しているのが見つかりました。推定36歳,鳥類としても異例の長寿でした。「キン」が長生きしたゆえに,トキ保護センターが存続し,1999年に中国から譲り受けたつがいのトキから子が生まれ,今日につながったのです。
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私が旅に出た2023年3月22日はとてもいい天気でした。
県営名古屋空港から新潟空港まではわずか45分なので,新幹線で京都へ行くよりもずっと早いのです。離陸体制が終われば着陸態勢,という感じです。
定刻の午前8時5分に離陸した飛行機の窓からは,眼下に雪をかぶった御嶽山,その遠くに富士山がきれいに見えました。そして,しばらくすると立山連峰が美しく見え,すると,まもなく着陸となりました。
話は前後しますが,今回は3泊4日だったこととカメラの三脚を持っていたので,キャリーバックを持っていきました。搭乗するときにキャリーバッグの重さを測って,機内持ち込みは許さん,とか,余分に料金を取る,とか,そういった格安航空会社もあるのですが,FDAはそうした類の嫌がらせ? はまったくなく,おそらくは機内持ち込みもできたのでしょうが,今回は自主的に預けることにしました。とはいえ,乗客がそれほど多いわけでもないので,新潟空港で預けたカバンはすぐに出てきました。
駅も空港も旅客機も,このくらいの規模が旅行をするにはもっとも快適なのです。

午前9時前に到着した新潟空港は,とてもきれいで,大きさの割に人が少なく,気持ちのよいところでした。新しそうだったのですが,調べてみるとリニューアルしたのが1996年でした。1998年には多くの国際線が就航していたようですが,現在は取りやめ,あるいは運休中ということで,国際線はまったくなく,どおりで閑散としていたわけです。
さて,ここからです。私が行く佐渡島は新潟港から船なので,新潟空港から新潟港まで行くことになるのですが,キャリーバッグを持つ身では,さすがに歩くとか公共交通に乗るとかいう気にはなりませんでした。ということで,タクシーに乗ることにしました。
客待ちをしていたタクシーは個人タクシーで,気さくな運転手さんはいろいろな話をしてくれました。新潟空港から新潟港までは約3,000円でした。もし,公共交通機関を使おうとしても,新潟空港から新潟港までのシャトルバスは1日3便ほどしかなく,路線バスもまた,便が少なく,多くの人は,まず,新潟駅に行って,そこから新潟港に向かうという話でした。
約30分くらいで新潟港に着きました。
新潟港からの船は佐渡島の両津というところに着くのですが,船にはフェリーとジェットホイルという高速船があって,値段が倍くらい違いますが,時間は,フェリーが2時間30分,ジェットホイルは1時間7分というように,やはり2倍以上違います。新潟空港から私は,ジェットホイルにしたのですが,出航時間は,何と午前11時30分でした。なお,フェリーだと出航時間は午前9時25分が出たばかりでこれに乗ることは不可能で,次が12時35分というように,県営名古屋空港を朝1番の飛行機に乗ってもずいぶんと接続が悪いのででした。
つまり,私のように,タクシーとジェットホイルを使うと,待ち時間を含めずに,新潟空港から佐渡島の両津港まで1時間30分ほどかかり,そして,料金が1万円以上と,県営名古屋空港から新潟空港まで航空運賃よりもはるかに高額であり,時間がかかるのです。
今回は最速で名古屋から佐渡島に着いたのですが,それでも,待ち時間を入れると,せっかく県営名古屋空港を朝8時5分の飛行機に乗っても,両津港に到着するのは最短で午前12時37分だから,4時間32分もかかってしまいます。
それにしても,セントレア・中部国際空港から石垣島まで飛行機で行くのと,新潟港から佐渡島の両津港までフェリーでいくのと時間が変わらないというのがとても興味深いことです。そう考えると,佐渡島は遠く,お金のかかるところです。

船の出る時間までまだ2時間くらいありました。もし待ち時間があれば,新潟港のとなりにある朱鷺メッセというビルに「Befcoばかうけ展望室」というのがあるから行ってくるといいとタクシーの運転手さんに教えてもらっていたので,そこに行くことにしました。
「Befcoばかうけ展望室」は朱鷺メッセの31階,地上約125メートルに位置する展望室で,日本海側随一の高さということでした。展望台の名前の由来は,命名権を取得した栗山米菓のコーポレートブランドが「Befco=Beika Company」で,「ばかうけ」は新潟県の方言「ばか=とても,すごく」からつけられた商品名です。「Befcoばかうけ展望室」からは,新潟市街地,日本海,佐渡島,五頭連峰などの360度の大パノラマを楽しむことができました。新潟市といって私が知ってるのは新潟地震で有名になった萬代橋だけですが,萬代橋もきれいに見ることができました。
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新潟地震は1964年(昭和39年)に発生した地震で,新潟市を流れる信濃川に架かる橋のうち木製のものはほとんどが倒壊した。
コンクリート橋の萬代橋(当時の表記は万代橋)は取付部の破損・沈下のみで,車両の通行が唯一可能なままであったが,八千代橋は橋脚が倒れるなど深刻な被害を受けた。また,昭和大橋は竣工の1か月後だったにも拘らず橋桁が倒れ,橋脚2本は砂に飲み込まれ行方不明となり,単スパンごとに傾いた。この落橋した昭和大橋の写真は被害の象徴として知られている。
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ということで,教科書などに載っている崩落した橋を私はこの時までずっと萬代橋だとばかり思っていたのですが,それは大間違いでした。知ってよかった。
私が行った時間,この展望台には多くの外国人がいました。このビルにはホテルが併設されていて,どうやらこのホテルに宿泊したようでした。話しかけてみると,イスラエルから来たということで,チャーター船で世界中を回っていて立ち寄ったと言っていました。

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2023年3月22日から3月25日まで3泊4日,ついに念願だった佐渡島に行ってきたので,今日からはその様子を書きます。
佐渡島といえば,金山とたらい舟とトキ。…ですが,私は,それ以外にはほとんど何も知りませんでした。今回行った目的も,私の知る3つのうちのひとつ,飛んでいるトキを見たい,そして,できれば写真に収めたい,という1点集中でした。とはいえ,それが可能なのかどうかさえ,皆目見当もつかず,しかし,いつものように,ほとんど何も調べず,でたとこ勝負,というずさんな計画,というか無計画で旅立ったのです。
行き方はいつものように,県営名古屋空港からお気に入りのFDAで新潟空港まで行って,そこから佐渡島に渡ろうというものでしたが,お恥ずかしい話,新潟空港からどうやって新潟港まで行くのかさえ調べていなかったという有様でした。しかし,これまの数々の経験から,これで何とかなるのです。現地で聞くほうが正確なので,事前に調べていないほうが結構うまく行ったりもするのです。
さて,どんな旅になったか,果たして夢が実現したかは,これからのお楽しみです。

これまでも何度かこのブログに書いてきましたが,私は,飛んでいるトキを見るのが長年の夢でした。子供のころから抱いていたいろいろな夢のほとんどを実現した今でもまだ残っていた夢のひとつが,この,飛んでいるトキを見る,ということだったのです。そしてまた,今やっておかなければもうやれない,という想いにかられ,ついに行くことにしたのです。
佐渡島がこれまで残ってしまったのは,遠い,ということが最大の理由でした。遠いだけでなく,お金がかかる,というのもありました。そこで,一旦は佐渡島へ行くことはあきらめ,トキが分散飼育をされているという金沢市のいしかわ動物園へ行って,ケージの中にいるトキを見て,それで自分を満足させて,また,あきらめていたのですが,どうしても,飛ぶトキをみたいという夢は捨てきれませんでした。
2020年に山形へ行ったときに,上空から佐渡島を見て,絶対に行くんだ,という想いをあらたにしました。さらに,そうした気持ちに拍車をかけたのが,FDAで新潟空港まで簡単に行くことができるということを知ったことでした。

私のまわりに,佐渡島に行ったという人はいません。当然,飛んでいるトキを見たという人もいません。私が佐渡島に行くというと,佐渡島で3泊もして何をするんだ,とか,飛んでいるトキなんて見るのは無理,とか,そんな否定的な声ばかりでした。
しかし,私は,これまでも,夢はすべて実現してきました。それに,持ち前の強運は,偶然も味方につけて,奇跡的にこれまで何もかもを成功させていたのです。しかし,今回だけは,別のような気がしました。それは,自他ともに認める晴れ男の私なのに,行く前日になっても,佐渡市の天気予報はずっと雨だったことが原因でした。さらに,私はすっかり忘れていたのですが,3月24日は月と金星が大接近するというではないですか。こんなイベントがあるのに,旅などしている場合ではないのです。
そんなわけで,ともかくもずいぶん以前に航空券とレンタカーと宿泊先だけを予約してあった佐渡島の旅は,まったくテンションが上がらず,何も準備をする気もなくなり,あとは行ってから考えようという感じで旅に出ました。

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◇◇◇


◇◇◇
月と金星の大接近。

3月24日に佐渡島で写しました。
あいにく日本中曇りだったようですが,
旅先の佐渡島は晴れました。
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