しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:日本国内 > 名古屋

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【Summary】
Feeling cooped up after a cold winter and too many autumn travels, I decided to step outside for a change. Since many places close on Mondays and the weather was gloomy, I visited the SCMAGLEV and Railway Park at Kinjo-Futo, expecting it to be quiet. The visit brought back memories of the 100 Series Shinkansen dining car, evoking the joy of leisurely train journeys, now a rarity in an age of speed-focused travel.

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 2025年1月6日。正月明け,雨の月曜日です。
 この冬は寒すぎ,また,秋に旅行をし過ぎたためか,気力が失せてしまい,すっかりお籠り状態で数週間を過ごしてしまいました。しかし,いつまでもこれではいかん,ということで,外出することにしました。とりあえず,今日はリハビリ?です。
 とはいえ,月曜日がお休み,というところも多く,また,この天候では,屋内でなければ,どうにもなりません。そこで思いついたのが,名古屋港の金城ふ頭にあるリニア・鉄道館〜夢と想い出のミュージアム〜でした。ここは,月曜日も開館しているのです。おまけに,この悪条件なら,きっと空いているだろうと期待しました。
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 リニア・鉄道館〜夢と想い出のミュージアム〜(SCMAGLEV and Railway Park)は,JR東海が2011年(平成23年)に名古屋市港区金城ふ頭に開館した鉄道に関する事物を展示する鉄道保存展示施設です。
 高速鉄道技術の進歩などを広く紹介することを目的とし、以下の3点をコンセプトとしている[4]。 ①高速鉄道技術の進歩の紹介 ②鉄道が社会に与えた影響について学習する場を提供 ②楽しく遊べるよう模型などを活用しバリアフリーを徹底した設備 をコンセプトとしています。
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 開館したころに,1度行ったことがあるのですが,それからずいぶんと時が経ち,私の記憶では,以前は駐車場があったように思うのですが,今回行ってみて,周りの様子がずいぶんと変わっていました。駐車場はなく,少し離れた名古屋市営の駐車場に車を停める必要がありましたが,ずっと通路には屋根があって,傘は必要がありませんでした。

 到着したのが午前12時ころだったので,まず,食事をとることにしました。
 2階に売店があって,駅弁を売っていたので,東海道新幹線弁当というものを買いました。おいしい弁当でした。
 それから館内をまわったのですが,私がもっとも懐かしかったのが,100系系新幹線の食堂車でした。今から30年以上前の東海道新幹線は,2階が食堂車,1階がビュフェという車両がありました。名古屋駅で乗車して,座席には向かわず,いきなり食堂車に行って,朝食を食べ,コーヒーを飲み終わるころに京都駅に到着するのです。これが,旅の中で一番楽しかったような…。
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 100系の最大の特徴は中間に2階建て車両が連結されていることでした。2階部分は,車両によってグリーン車もしくは食堂車でした。
 東海道新幹線は,食堂車ではなくビュフェではじまりましたが,山陽新幹線が全通したとき,食堂車が連結されるようになりました。2階のない0系では食堂車の端に通路があったので狭かったのですが,100系では2階建て車両の利点を活かして車両間を行き来するための通路を階下にすることで食堂車が広く,利用者は通路を歩く乗客と目が合うことがなくなりました。食堂車へ行く階段を上るとき,踊り場には、国鉄歴代の車両側面をデザインした壁があって,それも魅力的でした。
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 今は,車内販売すらなくなってしまって,列車での旅を楽しむことはできなくなってしまいました。
 仕事でとにかく早く現地に到着する必要があるのならともかく,旅の楽しみは,こうした列車での往復にもあるのです。と考えると,この先,リニア新幹線ができると,さらに,列車での旅を楽しむなとどいうことは夢物語になってしまうことでしょう。まあ,私には,そんな未来のことは関係ないのですが…。
 リニア・鉄道館,昔の旅を思い出す楽しい時間でした。

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 私は鉄道マニアではないけれど,鉄道を使って旅行をしようとすればある程度の知識が要るので,自然に鉄道に詳しくなってしまいます。また,飛行機マニアでもないけれど,やはり,飛行機を使って旅行をすると,それなりに関心ができて,飛行機に詳しくなってしまいます。いずれにしても,マニアの人たちからみれば,単なるアマチュアにすぎませんけれど…。
 それと同じように,旅先でどこにいくかとなると,動物園や美術館になってしまいます。ということで,それほど興味があるわけではなかったけれど,国内外問わず,これまで私はずいぶん各地の動物園や美術館にいきました。また,この春は,散歩ついでに,毎週のように名古屋市の東山動植物園に行っていました。しかし,7月中旬以降は,猛暑のために,まったく行くこともなくなっていまい,一体,この暑い日々,愛すべき動物たちがどのように過ごしているのか気になります。

 そんな東山動植物園ですが,一時,私は,動物園よりも植物園のほうに興味がわいて,植物園を中心に散策をしていました。そのうち,童心に帰って動物園を見てみようと行ってみたら,それがまあ,興味深いこと。すると,自然と動物の名前を憶えてしまったり,動物の消息が気になって,元気かな? などと思い煩うようにもなってしまいました。
 動物園は,かつて,三省堂の新明解国語辞典の第4版に
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 (動物園は)捕えてきた動物を,人工的環境と規則的な給餌とにより野生から遊離し,動く標本として都会人に見せる,啓蒙を兼ねた娯楽施設。
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とあって,物議をかもしました。
 しかし,現在は,多くの動物が絶滅危惧種となっていることもあり,動物園は,繁殖活動にも取り組んでいます。動物園にいる動物も,動物園生まれがほとんどになっています。東山動物園の春は,コアラ,アジアゾウ,オットセイ,カンガルーと,ベビーブームでした。

 東山動植物園には,まるで,自分が飼っているペットのように,始終動物園通いをしている人たちも少なくなく,その人たちはとても詳しいので,なかなか動物の区別もわからない私にいろいろと教えてくれたりもします。
 問題は,気候のよいときは,ものすごく人が多いことです。平日だからと行ってみても,遠足などで子供たちが一杯です。また,小さな子供を連れたおばあちゃんと母親,というグループもよく見ます。こうなると,レストランで食事をとることもままなりません。そういうときは,お弁当を買って行くとストレスなく過ごすことができます。
 また,秋になって涼しくなったら,行ってみようと,今から楽しみにしています。

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 ことしもまた,夏はあまりに暑いので,遠出はさけているのですが,近場もまた,どこへも行く気が起きません。そこで考えたのが名古屋港水族館へ行くことでした。ここなら室内だからいいだろうと…。
 ということで,とりあえず,下見を兼ねて,2024年7月17日に行ってみました。広い駐車場があったので車を停めてそこから歩いて向かいました。これだけでも汗がでます。
 名古屋の東山動植物園は,名古屋市民だけは65歳以上は無料ですが,私は名古屋市内に住んでいないので適応されません。しかし,名古屋港水族館は,名古屋市民だけを優遇するような陰険な名古屋市立ではないので,65歳以上は名古屋市民でなくともシニア割があって好感がもてます。
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 1992年(平成4年)に開館した名古屋港水族館は,名古屋港管理組合が設置し,名古屋みなと振興財団が管理・運営を行っています。
 日本最大の水量と延床面積を誇る水族館で,イルカをはじめ,シロイルカ,ペンギン,ウミガメなどが飼育・繁殖・研究されています。また,屋外には,世界最大級の野外水槽を保持していて,イルカやシャチのトレーニングを見ることができます。
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 私は,開館した当時に行ったことがあるのですが,それ以来,遠ざかっていました。
 館内に入ると,いきなり大きな水槽があって,ほとんどの人はそこに立ち止まってしまうので混雑していて,すでにいやになりましたが,それを過ぎるとそうでもなく,多くの水槽があって,たくさんの魚を見ることができて,なかなか楽しめました。
 シャチのトレーニングというものがあって,これを見ました。以前なら,シャチショー,と銘打つのでしょうが,このごろの動物虐待世論で,名称が変わったのかもしれません。名古屋港水族館には観覧席を備えた大きなプールがあるのですが,シャチのトレーニングが行わるのはそれではなく,大きなプールの後方にある小さなほうのプールなので,客席の上のほうで見る必要があります。
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 名古屋港水族館のシャチの飼育は2003年(平成15年)より開始されました。
 飼育は「クー」にはじまり,「ナミ」「ステラ」「ビンゴ」「ラン」と続き,2012年(平成24年)に「ステラ」の仔「リン」が産まれました。 現在は「リン」「アース」の2頭が飼育されているそうです。なお,「アース」は15歳で,国内で飼育されている唯一の雄のシャチです。
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 観覧席周りには,売店があって,私はかき氷を食べました。シロップは自分でかけるということですが,単に店員の手間を省くためのように思えました。ここのウリは7色のシロップで,お好きなものをどうぞ,ということだったので,いろいろなものをかけて虹のようにしようと思ったのですが,かけていくにつれて黒くなってしまいました。色の3原色というのを忘れていました。アホです。

 名古屋港水族館で,私がストレスを感じたものは,レストランでした。レストランは数か所あるのですが,メニューが少なく値段が高く,しかも混んでいるのです。これでは楽しくありません。
 そこで裏技を見つけました。
 名古屋港水族館は再入場ができるので,一旦外に出ます。近くには,JETTYというショッピングモールがあります。ここは以前,2階にレッドロブスターがあったのですが,閉店して今は単なるゲームセンターとなりました。これだけでもさびれ感があります。しかし,1階はフードコートになっていて,安価に食事ができるのです。チープ感は否めませんが。
 私が子供のころ,名古屋港はレジャー施設がなく,むしろ,不気味なところでした。これはいけないと,それまでは本当に何もなかった名古屋港を観光地にしようと,一時,再開発ブームが起きて,イタリア村などもできたのですが,諸事情でわずか3年余りのちに倒産してしまいました。また,南極観測船が引退したのを機に誘致して,こちらは現在も見学することができますが,おそらく維持費がたいへんでしょう。このように,名古屋港はあか抜けず,横浜の赤レンガ倉庫のようにならないのが,頭の痛いところですが,愛知県の観光施設は,どこもそんなものです。
 ということで,暑い夏に出かける場所を見つけたのですが,一度行って十分だったのでリピートする気も起きず,結局,暑い夏に行くこともなくなってしまいました。

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 私は,ジブリ作品は「となりのトトロ」と「魔女の宅急便」しか知らず,ほどんど興味もないのですが,地元でもあり,一度くらいはどういうところか知りたいという好奇心だけで,2か月前にはじまる事前予約でチケットを手に入れ,2024年1月22日に行ってきました。
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 それにしても,有料施設は高すぎます。「ジブリの大倉庫」と「もののけの里」で2,500円,そして,「どんどこ森」と「青春の丘」がそれぞれ1,000円で,合計4,500円也。食事と交通費を合わせれば,約10,000円となります。そもそも,新しく造った施設というもはほとんどなく,これまでに何らかの形であったものを改装したり移築しただけの,いかにも金のかけかたを知らない愛知県らしい娯楽施設でした。現在,東京ディズニーランドのチケットが値上がりして約10,000円だそうですが,これはアトラクションなども含まれているので,それに比べたら,かなり割高です。
 私は,どういうところなのかという謎が解けたので,1回で十分だと思いました。リピートすることはありますまい。
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と書いたのが,2か月近く前のことでした。
 それにしても,あのころのほうが暖かかったというのも皮肉なもので,すでに3月も半ばというのに風が強く寒いこと。外を散歩する気にもなりません。

 さて,そんな3月10日。来る3月16日にジブリパークに新たに「魔女の谷」が開園するということで,その内覧会があって,申し込んでおいたら当たってしまったので,「リピートすることはありますまい」と書いたのに,行ってきました。到着したのが午前9時30分ごろだったのに,すでに車が一杯でした。前回と違うのは,この日が日曜日だということでした。「毎日が日曜日」の私には曜日の感覚がないのです。
 内覧会というからには,抽選に当たった選ばれし者だけが入ることができると思っていたから,悠々と出かけたのですが,これが大いなる誤解でした。これは決して内覧会などではない。東京駅並みのものすごい人混みでした。そもそも私は勘違いをしていました。私が当たった無料の招待券というのは,「魔女の谷」だけでなく,ジブリパークの他のすべての施設にも入ることができたのです。そんなことなら,前回,高いお金を出して,施設を巡った意味がありません。調べてこないお前が悪いといわれればそれだけのことですが,これにも落胆しました。
 まあ,せっかく来たのだから「魔女の谷」だけ入ることにしたのですが,すごい行列でした。中にあったのは,一般のものより長いとかいうソーセージの入ったホットドッグを売る「グーチョキパン屋」で,これは100メートルくらいの行列ができていたし,「空飛ぶオーブン」とかいう名前のレストラン,これは午前11時開店だというのに,2時間も前から並んでいる人がいたし,それ以外には,メリーゴーラウンドとかがあっただけでした。

 このところ,青森県に行って大自然に浸ったり,東京ですばらしいコンサートを聴いてきたりと,連日日本各地を移動し,精神的にも満足に浸っていた私は,それと比べてしまうから,このような作り物の張りぼてには何の感動もなく,かなりちんけなものとしか思えませんでした。せめて,ディズニーランドのようなショーや最新技術を駆使したアトラクションでもあれは,それなりの哲学というものも感じられるけれど,それすらないし,スタッフは単なるバイトの域を出ず,来た人を楽しませようという意欲も感じられませんでした。
 そんなわけで,前回入ることができなかった「魔女の谷」だけを適当に見て,早々に引き上げることにしました。並んでまでして昼食をとる気もなかったのですが,入口近くにおにぎりを食べることができるという,客のほとんどいなかったレストランがあったので,そこで昼食をとりました。これが一番落ち着きました。
 この日やったことはそれだけでした。しかし,こんな無意味な日も悪くない。

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 私の「ジブリの大倉庫」での滞在時間は1時間程度でしたが,これで十分でした。次に予約したのは午後1時30分からの「どんどこ森」だったので,その間,「もののけの里」へ行きながら,愛・地球博記念公園を散策することにしました。いったい「もののけの里」には何があるのだろう?
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 「もののけの里」は「もののけ姫」に登場する和風の里山的風景をイメージしたエリア。
 作品内の建物をモチーフにした体験学習施設「タタラ場」や「乙事主」の滑り台「タタリ神」のオブジェがあります。
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 「タタラ場」では「五平餅」の炭火焼体験ができるということですが,別途1,200円が必要でした。また,「タタリ神」というオブジェと「物見やぐら」はあるだけで登ることはできませんでした。「休憩処」というのは単なる土産物店でした。「愛・地球博」のときに「サツキとメイの家」の隣に建てられた管理棟を移築したものだそうです。
 ということで,「もののけの里」には特に何も見るべきものはありませんでした。

 愛・地球博記念公園の南半分のエリアは,「愛・地球博」のときに作られたままの自然豊かな森が存在しています。その入口に立つのが「稲楼門」でした。
 かつて,名古屋市中村区にあった「中村遊郭」。遊郭時代にあった「稲本楼」は,1923年建築の木造2階建てで,べんがら塗りの赤い塀と中国風の門が特徴で,ロの字やコの字形の建物の中央に日本庭園を配置したものでした。赤線廃止後は「料亭稲本」として営業していて,私も忘年会で行ったことがありましたが,2009年に閉店し,その後は,高齢者向けデイサービス施設として使われてきました。「稲楼門」は「稲本楼」が2018年に老朽化が目立ち解体されたのを機に,この地に移築されたものです。
 「どんどこ森」はこの門をくぐり,はるか先,15分程度歩いたところにありました。
 わかりにくいのですが,有料施設の「どんどこ森」というのは,「どんどこ森」全体のことではなく,このエリアの中にある「サツキとメイの家」の建物の中を見ることができるところだけです。
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 「となりのトトロ」で,サツキとメイが引っ越してきた和洋折衷の家は移築されたものではなく,アニメを元に作られたものです。 炊事場,風呂場,茶の間,和室,洋間など,耳をすますとサツキとメイの笑い声やススワタリの音が聞こえてくるようです。
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 私は,すでに,ジブリパークができる以前からあった「サツキとメイの家」はすでに来たことがあったから,またお金を出して入る必要はなかったのです。また,「サツキとメイの家」の外観を見るだけなら,無料エリアである「サツキとメイの家の見える展望台」に登れば,それで十分でした。
 「サツキとメイの家」の外には,どんぐりが目印の山道があって。山道を登った先にあるのは,中に入って遊ぶことのできる高さ5メートルの木製遊具「どんどこ堂」と 「どんどこ売店」,そして, 飲み物や土産物、季節に合わせた商品を販売している「どんどこ処」でした。また,山頂と麓をつなぐ,かつて名古屋市内を走っていた路面電車をモチーフにしたスロープカー「どんどこ号」に乗ることもできます。 
 私には,こうした作り物よりも,自然の中を散歩するほうがずっとこころ休まり楽しいので,このあたりをゆっくりと散策しました。日本庭園もあって,なかなか落ち着けるところでした。

 そして,最後に行ったのが午後3時からの「青春の丘」でした。
 「青春の丘」は「耳をすませば」の物語の舞台のひとつである「地球屋」と「ロータリー広場」,「猫の恩返し」に登場した「猫の事務所」, そして誰でも利用できる「エレベーター塔」から構成されるエリアでした。
 「エレベーター塔」は, 19世紀末の空想科学的な世界観をもとにしたもので,ホンモノのエレベータを兼ねています。
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 地球屋は「耳をすませば」で主人公・月島雫が偶然たどりついたアンティーク家具や時計の修理・販売を行う店で,2階には,家具のほか,からくり時計,人形,木馬などが部屋の隅々まで置かれていて,機械仕掛けのからくり時計は,10分遅れているので,時間指定のチケットで入場した後に10分待つとからくり時計が動くのを鑑賞することができます。1階に降りると,天沢聖司が見習いとしてバイオリン制作を学んでいた工房がありました。
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 私が興味をもったのは,そこにあった数々の本物のヴァイオリンとヴィオラ・ダ・ガンバでした。
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 ヴィオラ・ダ・ガンバ(viola da gamba)は,16世紀から18世紀にヨーロッパで用いられた擦弦楽器で,「脚のヴィオラ」を意味してて,これは,楽器を脚で支えることに由来すします。これに対して,ヴィオラ・ダ・ブラッチョ(viola da braccio)は「腕のヴィオラ」の意味で,これがヴァイオリン,チヴィオラ,チェロなどのヴァイロン属です。
 ヴァイオリン属に比べ音量が小さいヴィオラ・ダ・ガンバは,劇場や野外での演奏には適さず,宮廷や上流市民の家庭における室内楽,および教会音楽で用いられます。
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 また,「猫の恩返し」に登場する「猫の事務所」は猫サイズで建てた木造平屋の建物ということで,外にあった電話ボックスは,受話器を取ると勝手にどこかへ電話がかかり「 ニャーオ,ニャーオ」という猫の鳴き声が聞こえてきますが,たまに違うパターンがあるそうです。

 この日,「青春の丘」に入るのを待っていたとき,ヘリコブターが2機,空を飛んだので見上げると,奇妙な虹が見えました。
 家に帰って調べてみると,それはレア度★★★の「環天頂アーク」というものでした。私ははじめて見ました。頭上高く,下側にへこんだ弓形に見える虹色現象で,その形から「逆さ虹」ともよばれるそうです。太陽光が上層の巻雲や巻層雲などの氷の粒によって屈折することで出現するということです。また,太陽高度が高すぎると見えなくなって,日の出後か,日の入り前に見られるものだそうです。
 結局,これが,この日,1番の見ものでした。
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 そんなこんなで,天気がよかったこともあり,時間十分あったこともあり,有料施設の内容はともかく,なかなか楽しい時間を過ごすことができました。有料施設以外はあまり人がおらず,これもまた,ゆったりくつろげた理由でした。近くに住んでいるのなら,毎日でも散歩に来たい場所でした。
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 それにしても,有料施設は高すぎます。「ジブリの大倉庫」と「もののけの里」で2,500円,そして,「どんどこ森」と「青春の丘」がそれぞれ1,000円で,合計4,500円也。食事と交通費を合わせれば,約10,000円となります。そもそも,新しく造った施設というもはほとんどなく,これまでに何らかの形であったものを改装したり移築しただけの,いかにも金のかけかたを知らない愛知県らしい娯楽施設でした。現在,東京ディズニーランドのチケットが値上がりして約10,000円だそうですが,これはアトラクションなども含まれているので,それに比べたら,かなり割高です。
 私は,どういうところなのかという謎が解けたので,1回で十分だと思いました。リピートすることはありますまい。

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 昨日のことのように思うのですが,もう19年も昔の2005年に「愛・地球博」が行われました。
 1964年に行われた東京オリンピック,1970年に行われた大阪万博,そして,1972年に開催された札幌冬季オリンピックで,日本は飛躍的に進歩しました。夢多き時代でした。当時はそれでよかったのですが,いつまでもそれが忘れられず,夢よ再びということで,今もなお,一部の実力者たちは同じようなことを企画しているようです。しかし,もはや,世界も,この国も,当時とは状況が違います。
 ということで,私は開催に反対だった「愛・地球博」だったので,チケットを購入することもなく,浮かれることもなく,静観を決め込んでいたのですが,その実,内覧会とオーストラリア館のシンポジウムに招かれて,2度も行きました。
 しかし,私が思っていた通り,開催したことで何かが残ったということもほとんどなく,「愛・地球博」以前は,青少年公園として県民の憩いの場であったところは,「愛・地球博」によって無残にも壊され,有効な活用方法が見つからず,広い土地を持て余し,負の遺産だけが残りました。
 それが,ようやく貰い手が見つかったように,この地にできたのがジブリパークでした。

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 ジブリパークは,スタジオジブリ作品の世界観を表現した公園施設として,同園内の未利用地や既存施設を再整備し,「青春の丘」「ジブリの大倉庫」「どんどこ森」「もののけの里」「魔女の谷」の5つのエリアを設けるというもので,まず,2022年に開園したのが「青春の丘」「ジブリの大倉庫」「どんどこ森」,そして,2023年に「もののけの里」,そして,まもなく「魔女の谷」がオープンします。
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 私は,ジブリ作品は「となりのトトロ」と「魔女の宅急便」しか知らず,ほどんど興味もないのですが,地元でもあり,一度くらいはどういうところか知りたいという好奇心だけで,2か月前にはじまる事前予約でチケットを手に入れ,2024年1月22日に行ってきました。
 冬の平日,雪やら強風だったらどうしようと,これもまた天気次第でしたが,当日は晴天でポカポカ陽気でした。1日違えば寒波到来,特に1月24日は大雪だったので,大変なことになっていましたが,私はいつもながら強運です。

 何の予備知識もなかったので,適当に見繕って,午前10時に「ジブリの大倉庫」,午後1時30分に「どんどこ森」,午後3時に「青春の丘」を予約しました。もうひとつ「もののけの里」というのは入場時間指定はなく,当日の午後4時までに入場すればいいということでした。そもそも,予約をしておきながら,それらが何なのかさえ知らないありさまでした。
 当日,はじめは公共交通機関でいくつもりでしたが,乗り換えなどが面倒になって,車で行きました。しかし,ちょうど通勤時間と重なって,道路は渋滞気味。やっと到着したのが午前9時ころでしたが,駐車場はがらがらでした。
 ジブリパークは愛・地球博記念公園の中に4か所点在していて,それぞれのエリアに入るときだけ有料で,愛・地球博記念公園自体は無料です。まず,案内所に行って,どのように回ればいいのか聞くと親切に教えてもらえました。午前10時までにはまだ時間があったので,時間つぶしに「愛・地球博」のときに使用したものが展示されてある「愛・地球博記念館」へ寄って見学しました。そこには残されて始末に困るものが展示されていましたが,私以外には訪れる人もおらず,閑散としていました。
 午前9時45分になったので「ジブリの大倉庫」に行ったのですが,すでに午前10時からの人たちが大勢並んでいました。

 愛・地球博記念公園には「愛・地球博」のときの跡地の一角に,スケート場とプールの入った巨大な建物ができました。「ジブリの大倉庫」は,プールを壊して,そこを改装して作られました。スケートリンクは今も存在していて,フィギアスケートショーなども行われています。
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 「ジブリの大倉庫」は,まさにジブリの大博覧会。
 ひとつの巨大な施設の中に,映像展示室をはじめ,3つの企画展示,ショップやカフェなど「ジブリ」がぎゅっとつめこまれています。
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 というのがウリですが,中に入ると,まず,1階と2階を結ぶ色鮮やかなキャラクターのタイル装飾の階段と,天窓の下には「空飛ぶ巨大な船」がプロペラを回しながらゆっくりと飛んでいました。それぞれの階には様々な展示室がありました。
 「公開倉庫」と名づけられたコーナーには,三鷹の森ジブリ美術館で開催された企画展示「食べるを描く」が展示されていました。また,「ジブリがいっぱい展」には,世界中から集めたジブリ作品のポスター,映像・音楽パッケージ,書籍などが展示されていました。
 三鷹の森ジブリ美術館で上映されてきた短編アニメを上映する「映像展示室オリヲン座」という劇場では「ちゅうずもう」というネズミが相撲大会をやるという内容のアニメをやっていて,これはけっこう楽しく見ることができました。
 「子どもの街」と「ネコバスルーム」は単なる子どもの遊び場でした。
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 「南街」という商店街では,書籍を取り扱う「熱風書店」,模型を販売する「大空模型」,駄菓子を並べた「猫かぶり姫」が並び,実際に商品を売っていました。また,「冒険飛行団」という名のメインショップは,ジブリ長編作品に関連するグッズや,ジブリパークのオリジナル商品が売られていました。
 また,その入口にあったミルクスタンド「シベリ❆あん」では,オリジナルデザインの瓶で牛乳が売られていたり,「風立ちぬ」とかいう作品に登場したお菓子「シベリア」が食べられるということですが,「シベリア」は私の家の近くのスーパーにも売っているので,珍しくありませんでした。

 このように,「ジブリの大倉庫」にあったのは,ジブリ作品にでてくるさまざまなセットがこしらえてあったり,土産物店があったりする場所でした。「ジブリの大倉庫」は人気で,ここで何時間も過ごす人が多いということでしたが,何せ,私は,ジブリ作品は「となりのトトロ」と「魔女の宅急便」しか知らないから,見るべきものがありません。所詮,単なる作り物だという感想しか抱きませんでしたが,ふらふらしていたら,何となく時間が過ぎました。
 平日にだれが来るのだろう? と思っていたのですが,幼稚園や小学校の遠足の子供たちがたくさんいました。遠足には絶好の場所のようでした。その一方で,東京からわざわざ来たという人も結構いました。名古屋(愛知)はどこも空いているからいい,と言っていました。
 午前11時になったので,「カフェ大陸横断飛行」という名前のレストランで昼食をとりました。開店早々だったので簡単に席が確保できましたが,食べ終えたころには多くの人が並んでいました。

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 「文化のみち」の散策で,最後に紹介するのは,旧豊田佐助邸と旧井元為三郎邸です。

 豊田佐助は,発明王とよばれ,現在に至るトヨタグループの礎を築き上げた創始者・豊田佐吉の弟でした。当時,長塀町に豊田佐吉邸,白壁町に豊田喜一郎邸と豊田利三郎邸もありましたが,現存するのはこの豊田佐助邸のみで,豊田利三郎邸は門と塀だけが残っています。
 太平洋戦争後に米軍に接収され将校の住宅となっていた時期もありますが,その後アイシン精機の所有となり,現在は名古屋市が借用し一般公開しています。
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 旧豊田佐助邸は,1923年(大正12年)に建てられた白いタイル張りの木造の洋館と広い間取りの和館で構成されています。洋館と和館が併設する大正時代に流行した建築様式で,1階には,蓮の蕾の形の照明と吊元の装飾,鶴にトヨダの文字をデザインした換気口が見られます。
 関東大震災以前の時代でありながら耐震構造を取り入れているなど,豊田佐助がいかに先進的な考えの持ち主であったかがわかります。
 2階に上がると非常に広い面積の和室が広がっています。 この大広間の風通しをよくするためにさまざまな工夫がなされています。 欄間の上下に隙があったり左右に開ける雪見障子なども見られます。
 また,和室の周りを洋風建築の廊下が取り囲んでいるという非常に特殊な構造で,敷居ひとつ挟んで和洋の全く異なる様式が隣り合わせになってるのに,違和感なくまとまっています。

 次に,旧井元為三郎邸です。ここは「文化のみち橦木館」(しゅもくかん)といいます。
 この地域は,江戸時代,約600坪に区画割りされた武家屋敷町がありました。この広い敷地と陶磁器の生産地で有名な瀬戸・多治見の両街道や堀川にも近く,船積みにも便利だったことから,明治半ばには陶磁器の絵付け・加工業者などが集まるようになりました。
 昭和初期には,この界隈に600をこえる上絵付け工場があり,最盛期には,日本で作られた輸出用の陶磁器の7割以上がこの地域で生産されていたといいます。
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 井元為三郎は,1874年(明治7年)に生まれた,明治から昭和時代前期の実業家です。
 16歳で有田系の商店に入り,1897年(明治30年),24歳で独立。橦木町に隣接する飯田町に井元商店をかまえました。明治40年代にはサンフランシスコに貿易会社を設立し,大正に入ると、シンガポールやビルマにも進出して,陶磁器以外に医薬品や雑貨も扱うようになりました。1924年(大正13年),名古屋陶磁器貿易商工同業組合の組合長に就任しました。加工問屋「五人衆」のひとりに数えられるなど,陶磁器業界の重鎮として活躍しました。
  ・・・・・・
 建物は,2階建てのステンドグラスの色鮮やかな光に満たされた洋館,懐かしい薫りにあふれる平屋の和館と東西2棟の蔵,さらに京都から移築された茶席,四季折々の趣が時を忘れさせる庭園で構成されています。洋館にはステンドグラスが贅沢に使われていて,井元為三郎は輸出陶磁器の商談を行うため、多くのバイヤーを招待していたそうです。

 私がこの建物でいたく気に入ったのは,2階の窓の大正ガラスでした。
 大正時代,ガラスは高価なもので,財力のある家でないと購入することができませんでした。一般の家庭でもガラスが入るようになるのは昭和になってからのことです。
 当時はイギリスで確立された「手吹円筒法」とよばれるガラスの製造方法が主流で,1枚1枚が手作りがゆえの不規則な歪みがあり同じ形はふたつとありませんでした。そこで,ガラス越しに見る庭は,ゆらりと歪んでとても味わい深く,またレトロな雰囲気があり,やさしい気持ちにさせてくれるのです。
 旧井元為三郎邸は,かつて住む者が居なくなってからは荒れ放題だったそうですが,1996年(平成8年)から2002年(平成14年)にかけて市民グループが借り上げて「橦木館」という名前をつけ,演劇やコンサート,ファッションショーなど各種イベントが行われる文化サロンとして使用されてきました。
 2004年(平成16年)頃からは毎週土曜日のみの公開していましたが,2006年度末に名古屋市が土地・建物を取得し,2009年(平成21年)7月17日から再び公開されたものです。


◇◇◇
桜と金星と木星。

咲き誇る桜の花の後ろに美しく輝くふたつの惑星。
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◇◇◇
藤井聡太「五冠」終わる。

「史上最年少六冠」
(竜王,王位,叡王,棋王,王将,棋聖)
に加えて,
「史上初一般棋戦グランドスラム」
(NHK杯,朝日杯,JT杯,銀河戦)
達成。
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 「文化のみち」でシンボル的存在なのが「文化のみち二葉館」です。かつて,名古屋市東区東二葉町にあったこの邸宅は「日本初の女優」とうたわれた川上貞奴と「日本の電力王」といわれた福沢桃介が大正から昭和にかけて暮らしていたものです。東二葉町という地名は今はありませんが,「文化のみち二葉館」の場所から北西へ出来町通りを越えたところで,清水口の交差点の北東の場所です。
 二葉館は,ひときわ目を惹くオレンジ色の洋風屋根をもつ大正ロマンの香り高い館で,5年の歳月をかけて,2005年(平成17年)に現在の地に移築し復元されました。移築したころ,突然,こんな派手な建物ができたので,私は驚いたことがありますが,中に入れることはずっと知りませんでした。

 そもそも,私は川上貞奴という女性もまったく知りませんでした。
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 1871年(明治4年)に東京日本橋の両替商の家に生まれた川上貞奴は,生家の没落により7歳で日本橋芳町の芸者置屋・浜田屋の亀吉の養女となりました。才色兼備で,伊藤博文らにひいきにされました。
 のち,自由民権運動の活動家で書生芝居で人気を博していた川上音二郎と結婚し芸妓から引退します。川上音二郎の影響で演劇へ転向,持ち前の芸の力と人柄とで日本初の女優として活躍し「マダム貞奴」とよばれ,ロダン,ピカソ,ジイド,プッチーニなど芸術家らをも魅了することになりました。
 川上音二郎が亡くなると,7年にわたる追悼興行を行ったのち芸能界を引退し,第3のステージとして,旧知の間柄であった福澤桃介の木曽川の水力発電事業を支えました。
 川上貞奴は,人生の前半を川上音二郎,後半を福澤桃介というふたりの男性のパートナーとして,そばに寄り添いながら社会を変えていったのです。1946年(昭和21年)に亡くなりました。
  ・・・・・・

 これもまた,私は知らなかったのですが,というのは,このころ,私の家にはテレビがなかったからですが,1985年(昭和60年)のNHK大河ドラマ「春の波涛」の主人公は川上貞奴でした。
  ・・
 国道19号線を北に木曽川に沿って走って長野県南木曽町に着くと,大きな古い吊り橋が目につきます。この吊り橋は「桃介橋」といって,福沢桃介が大正時代に架けた木製の吊り橋で,日本最大級といわれ,独特の外観は異国情緒にあふれています。
 吊り橋を渡ると福沢桃介記念館があります。福沢桃介が木曽川水系の発電所建設の監督のために建てたモルタル造りの旧別荘を記念館として公開しているもので,福沢桃介のパートナーであった川上貞奴も滞在したため,福沢桃介と川上貞奴のロマンの館としても知られているということでした。ここには行ったことががありますが,この地がどうして有名なのか,訪ねたころの私はわかりませんでした。それは,要するに,大河ドラマの影響なのでした。
 そしてまた,その川上貞奴が南木曽町とは遠く離れた名古屋市の「文化のみち」と関係があるのかも,はじめはわかりませんでしたが,調べていくうちに様々な糸が繋がり,興味が湧いてきました。

 和洋折衷の斬新で豪奢な建物は「二葉館御殿」とよばれ,政治家や財界人,文化人が訪れるサロンとでした。当時としては驚くほどの電気装備が施され,また,ほうぼうに川上貞奴の好みを取り入れたしつらいがなされました。
 当時の記録では,玉砂利の道を入っていくと,車寄せの前がロータリー。そこには,松の木などが植えられ,芝生の庭にはしだれ桜やもみの木,電気仕掛けの噴水やサーチライトがあったようです。
 円形に張り出したソファがある大広間では,ステンドグラスが柔らかい光を投げかけていました。 ここで川上貞奴は,毎日やって来る大勢の客への茶菓や晩餐の手配に追われる傍らで,川上絹布の経営者としての仕事もこなしていました。また,電車で3時間かかる木曽のダム建設現場へ出かける福沢桃介に同行することもあるというように,忙しくとも充実した暮らしでした。
 その後,病気がちになった福沢桃介は東京へ戻り,川上貞奴もまた,「川上児童楽劇園」の指導のため,拠点を東京へと移しました。
 建物の2階の展示室には,坪内逍遥,城山三郎をはじめとする名古屋を中心とする郷土ゆかりの文学者や文学作品が資料やパネルで紹介されていて,これもまた,私には,とても興味深いものでした。

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 名古屋市の繁華街・栄の東側である名古屋市東区泉二丁目と三丁目を隔てる南北の道路は,いろいろ調べても名前がわからないのですが,この通りの「桜通泉二」交差点から「芳野二」交差点北まで全長約1. 4キロメートルにわたって「オオカンザクラの並木道」があって,毎年この時期は,名古屋市内でいち早く花見ができる名所となっています。
 私はそのことをまったく知らなかったのですが,昨年のこの時期,偶然,車で通りかかって,桜が満開なのに驚きました。しかし,この通りや付近には,ほとんど駐車場がなく,また,車が頻繁に行き来しているので,車を停めることができないので,桜を愛でることもなく通り過ぎてしまいました。
 そこで,今年は,事前に車を停める場所を調べておいて,そこに駐車して,名古屋市市政資料館を経由して歩いていきました。
 今年もまた,桜は美しく咲き誇っていましたが,天気もよく,暖かで,どうやら私が行った3月15日が最も美しいときだったようです。

 1961年(昭和36年)の春,「名古屋で1番早く咲く桜を植えていただきたい」という地元の希望がかない,16本の苗木が植えられました。今では,当時植えられた木で残っているのはわずか6本ということですが,その後に新たに植えられたものも含めて,現在では約140本の桜が並木道をつくり,今,桜の花が見ごろをむかえているわけです。
 ここに植えられている淡紅色の桜は,オオカンザクラ(大寒桜)です。
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 オオカンザクラは,バラ科サクラ属の落葉高木で,樹高は5メートルから10メートルあって,花は中輪,一重咲きで淡紅色。花は半開状で,下を向いて咲きます。開花時期は,ソメイヨシノ(染井吉野)より1週間ほど早く3月初旬に咲きはじめます。
 オオカンザクラは,カンヒザクラとヤマザクラ(山桜),またはカンヒザクラとオオシマザクラ(大島桜)の雑種といわれています。カンヒザクラは,バラ科サクラ属で,桜の原種のひとつです。樹高は5メートル程度です。花は小輪,一重咲きで濃紅紫色。また,釣り鐘状の花が特徴で,下向きに咲く花や,パッと大きく開かない花が多く見られます。開花時期は3月中旬です。カンヒザクラはヒカンザクラ(緋寒桜)ともいわれますが,ヒガンザクラ(彼岸桜)と区別するために,現在はカンヒザクラとよぶようになりました。
  ・・・・・・

 この通りの一部は,前回書いた「文化のみち」になっているので,「文化のみち」を歩いていると出会います。
 かなり知れ渡ったので,こんな春の日は,平日にもかかわらず,私のような老人がほとんどですが,すごい人混みになっていました。誰しも考えることは同じです。また,歩道の端には,絵を描いている人たちがたくさんいました。 
 この通りに沿って北に向かって歩いて行くと「白壁」の交差点があります。交差点の南西一帯は,名古屋で有名な女子校である金城学院高等学校があります。また,交差点の北西に少し行ったところに,金城学院中学校があります。
  ・・・・・・
 金城学院は,1889年(明治227年)にアメリカの長老教会,南長老ミッション宣教師ミセス・ランドルフ(Anne E. Randolph)が開校したもので,1921年(大正10年)に日本ではじめてセーラー服を採用した学校です。高等学校の構内にある栄光館講堂は国の登録有形文化財建造物に指定されています。
  ・・・・・・ 
 この日は,金城学院中学校の卒業式だったようで,卒業式を終えた生徒やその親がたくさん歩いていました。

 名古屋市市政資料館から出発した私は,「文化のみち」を散策する前に,この「オオカンザクラの並木道」まで行って,十分すぎるくらいの桜の景色を堪能したのちに,「文化のみち」を歩こうと思っていました。
 というわけで,「オオカンザクラの並木道」を北に「白壁」の交差点まで歩いて,そこで引き返し,このあとは,二葉館を通って,撞木館,旧豊田佐助邸,そして,旧春田鉄次郎邸へと向かうことになります。「オオカンザクラの並木道」から1筋入ってしまうと,それまでの喧騒はどこへやら,静寂の「町並み保存地区」になります。
 このことは,また,次回。

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 何もない,と揶揄される名古屋市内ですが,それでも,楽しめる一帯があります。というか,近年できました。それは,私が長年住んでいたところからさほど遠くないのに,これまでゆっくり歩いたことがない場所で「文化のみち」と名づけられた一帯です。
  ・・・・・・ 
 名古屋の近代化の歩みを伝える歴史的な遺産の宝庫ともいえる名古屋城から徳川園に至る地区一帯を「文化のみち」として育み,イベントの実施や貴重な建築遺産の保存・活用をすすめています。
  ・・・・・・
とホームページでは紹介しています。

 私が高校生のころは,今のようには整備されていなかったのが,近かったのになじみがない理由ですが,今考えてみると,自宅から私の通った高校までは,名古屋でも最も文化的水準の高いところだったのです。それがまあ,知らないというのは恐ろしいもので,毎日往復していたのにも関わらず,どこにも寄ったこともないわけで,非常にもったいないことをしました。
 近年になって,引っ越ししてしまってまったく縁もゆかりもなくなったのに,この辺りを通ってみたら,名古屋にもこんなところがあるんだと,すばらしく景観がよいのに驚いたのです。
 2021年に行われた第6期将棋叡王戦第3局,豊島将之叡王と藤井聡太当時2冠の対局が行われた料亭「か茂免」(かもめ)があるのも,また,この場所です。2022年の第7期将棋叡王戦第4局もここで行われる予定でしたが,第3局までで藤井聡太叡王が挑戦者の出口若武六段から防衛をしてしまったために行われず,祝賀会に変更になりました。
 そんなわけで,それ以来ずっと「文化のみち」が気になっていたのですが,特に今の時期は,早咲きの桜が満開なので,天気のよい3月15日に行ってみました。

  まず,名古屋市市政資料館から出発です。
 名古屋市市政資料館は名古屋市役所のやや東に位置します。レンガ造りの建物は,1922年(大正11年)に建てられたもので,ネオ・バロック様式,かつ,日本国内ではこの時代以後ほぼ造られなくなった最後の大規模なレンガ造りの建造物です。
 もともとは,名古屋控訴院,地方裁判所,区裁判所庁舎で,およそ60年もの間使用されていましたが,1979年(昭和54年)に移転のため使われなくなったのち,1989年(昭和64年)に名古屋市市政資料館として開館しました。現在は,市政関連資料の閲覧ができるほか,建物・市政・司法に関する展示がされています。私は,現役時代,ここで会議をしたことがあります。
 今回は中には入りませんでしたが,館内に入ると,まず,ゴージャスな大階段があります。2階から3階部分にかけては吹き抜けになって,ところどころ部材が大理石でできていて,その重厚感に圧倒されます。アーチ型の屋根,立ち並ぶツートーンの柱,左右対称の作りなどは,大聖堂のような荘厳さを感じることができます。この建物は「坂の上の雲」「華麗なる一族」「花より男子2」といったテレビドラマや,映画などでロケ地として使用されました。何もロケ地が水戸ばかりではなく,こんな身近なところにもあるのです
 名古屋市市政資料館の庭には,ソメイヨシノより早く咲くオオカンザクラが植わっていて,この時期満開になります。多くの人が散歩をしたり,写真を写していました。大通りからひとつ入っているので,知っている人だけの穴場的存在です。あまり,紹介もされていません。それがまた,いいのです。

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