しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:「知る」 > 歴史を知る

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【Summary】
The 2024 NHK Taiga Drama Hikaru Kimi e far exceeded my initial low expectations. Initially skeptical about its historical accuracy and polished portrayal of the Heian era, I was soon captivated by its profound script, depicting courtly power struggles, poetry, and culture. It revealed the depth of Heian politics and art, akin to modern human nature. The drama, with its rich themes and messages, became an unparalleled masterpiece, demonstrating that greatness lies in depth, not mere appearance. I now eagerly await its final two episodes.

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 2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」。
 放送される前は,まったく興味がありませんでした。一体全体,平和ボケしていた平安時代を舞台として,「源氏物語」を書いただけのような紫式部の人生をドラマにして,1年間何をやるのだろうか? と思いました。そして第1回で母親が殺されてしまうといった,そんな史実とは違うらしいことからはじまるのでは,先が思いやられるなあ,と思いました。いつギブアップするか,だけが私の関心でした。
 さらに,同じく平安時代を取り扱った大河ドラマ「平清盛」が画面がきたないという評判であったのとは正反対に,「光る君へ」は雅で,この時代がこんなに美しいばかりではなかったはずなのに映像がきれいすぎるなあ,とも思いました。
 私ははじめそんな印象だったのですが,それがそれが…。自分の愚かさを悟ることになりました。
 結局,ドラマは脚本に尽きるのです。このドラマはすばらしいです。最高の大河ドラマです。見なかった人かわいそう。

 ともかく,高等学校の日本史の教科書にわずか10ページほど書かれた摂関政治と国風文化がこれほど奥の深いものであったか! と思いました。これまでのほとんどの大河ドラマが「戦」を取り扱ったのとは違い,貴族の権力争い,いわば,歴史的に見ればどうでもいいようなことですが,これは,現代の政党内の権力争いと同じで,人はまったく変わっていない。それが私には興味深いものでした。
 また,ドラマのいたるところにちりばめられた和歌や漢詩。こちらは高等学校の古典の教科書で習うよりはるかにさまざまなことを学ぶことができました。そして,興味をもちました。

 私は,以前,すばらしい芸術というのは何か? ということを考えたことがあるのですが,それは,どれだけ奥が深いか,だということがわかりました。それは人も同じで,どれだけ見かけがよくても,その人深い教養や知識がなければ,魅力的とはいえないということと同じです。このドラマにはそれがありました。
 また,大河ドラマに関しては,史実と異なる云々といわれ批判されることがあるのですが,大河ドラマは史実をその通りに演じるものではないので,そうした批判はあたりません。それよりも,歴史を媒体として,どれだけ奥が深いドラマになるか,だと私は思います。そのためには,ドラマに主張があるかどうか,なので,「光る君へ」は,その点でも,すばらしいドラマだと私は思います。
 毎週,日曜日の夜が楽しみでした。それも,あと2回。

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【Summary】
In 1018, Fujiwara no Michinaga recited the famous poem about the "moon at its fullest" during a banquet celebrating his daughters as empresses. While interpretations vary, from expressing transient glory to referencing the completeness of the moment, some argue Michinaga’s intent was simple: admiring the beauty of the moon, akin to his joyous mood, without deeper meaning.

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 今日2024年11月17日に放送されるNHK大河ドラマ「光る君へ」の第44回「望月の夜」。
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 此世乎は我世と所思望月乃虧たる事も無と思ヘハ
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 この世をばわが世とぞ思ふ 望月のかけたることも無しと思へば
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 1018年(寛仁2年)10月16日,藤原道長の娘の威子が後一条天皇の中宮になりました。
 宴席では,彰子が太皇太后,妍子(きよこ)が皇太后と,后の席がすべて娘で満たされた藤原道長が詠ったのち,公卿たちが数度この歌を唱和したと藤原実資の「小右記」に記録されています。
 1018年10月16日は,新暦に換算すると11月26日です。その日の月齢は16。今年2024年では11月17日の月が月齢16となります。 写真は月齢16の月です。世間では,11月16日がまさにその日と同じ月だと騒いでいるようですが,実際は11月17日,ちょうど「光る君へ」が放送されるその日です。

 この歌の意味として,従来は「おのが望みの皆かなひたるを十五夜の満月にひき比べて此の世はおのれひとりのものぞ」とされてきました。
 また,このときの月が満月でなく少し欠けたものであることを指摘して,この歌自体は「栄華のはかなさ」を示したもので,藤原道長自身はそのはかなさを知っていることを示したものであるとか,「月は少し欠けているが后となった娘は満月のように欠けていない」という意味だという解釈もあります。
 さらに,京都先端科学大学教授山本淳子によると,この歌は「今夜のこの世を私(藤原道長)は心ゆくものと思う。目前の月は欠けているが、私の月 -后となった娘たち,宴席の皆と交わした杯- は欠けていない」という意味だといいます。
 それは,まず,「わが世」の解釈では,「世」は「夜」と掛けられていて,藤原道長が,「私の世界」と言ったわけではなく,ただ「今夜の状況」という解釈が自然だというのです。
 また,「望月」では,「月」は「后」だけでなく「杯」という意味も含んでいて,「小右記」には,宴では,藤原道長は,藤原実資に,藤原頼通に酒を注ぐように頼み,次に藤原頼通頼通は左大臣の藤原顕光に,そして藤原道長,さらに,藤原公季に酒を注いだとあることから,このように,「望月」というのは「だれひとり欠けることなく酒を交わし合った杯」と詠ったという意味も重ねられているというのです。
 さらに,1008年(寛弘5年)に彰子が敦成親王を生んだ際「誕生を寿ぐ歌を」と急に指名された際,困らないように紫式部が準備した
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 めずらしき光さしそう盃は もちながらこそ千代もめぐらむ
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という歌がありました。この歌では,「さかづき」に「月」,「持ち」に「望月」が掛けられていて,藤原道長の望月の歌にとても近いものだったといいます。

 このように,さまざまな解釈ができるわけですが,私がひとつ感じるのは,藤原道長が詠った月が満月ではなく少し欠けた月だと解釈している人に感じる言葉に酔っている危うさです。
 以前「有明の月」について
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 多くの歌で詠まれる「有明の月」がどういう月か,実際に体験したことがあるのでしょうか。見たこともないのに,単にイメージに,あるいは,言葉に酔っているとしか思えない解釈をする人を言葉に酔っている危うさと同じだと私は思うのです。
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と書きました。
 それと同じように,写真を見ればわかっても,実際,肉眼で月齢16のまぶしいほど明るい月を見たとき,その月が満月に比べて少し右上が欠けている,などと気づくのでしょうか? ということです。だから,少し欠けた月を見て詠んだ,など言う解釈は言葉に酔っているだけだと私は思うのです。
 そうしたことから,この歌は,単に,満月を見て,きれいな月だなあ,この宴の状況と同じだ,と,ほろ酔い加減に詠んだだけで,あまり深読みするようなものではないのではないか,と私は感じます。

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●1018年11月26日の空
1018-10-16●2024年11月17日の空
2024-11-17


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 2024年8月8日。連日の猛暑で旅行に出る気も起きずその気もなく,かといって暇なので,映画を見てくることにしました。
 上映中のもので1番おもしろそうだった「もしも徳川家康が総理大臣になったら」を選びましたが,とはいえ,どういう内容なのかまったく知らず,単に題名で決めただけです。
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 こんな内閣待っていた - 歴史上の偉人オールスターズが現代に大復活!
 物語の舞台は2020年。コロナ禍真っ只中の日本で,未曾有の危機に直面する政府が実行した最後の手段は「歴史上の偉人たちをAIで復活させ最強内閣を作る」ことだった。
 総理大臣を託されたのは徳川家康。そして,官房長官を坂本龍馬,経済産業大臣を織田信長,財務大臣を豊臣秀吉,ほかにも,紫式部,聖徳太子,北条政子,徳川吉宗,徳川綱吉,足利義満などのドリームチーム内閣が誕生する。
 そんな中,テレビ局の新人記者・西村理沙はスクープを取ろうと,政府のスポークスマンである坂本龍馬に近づくのだが,ひょんなことから裏に渦巻く黒い思惑に気付いてしまう。はたして陰謀の正体とは? そして,日本史に新たに刻まれる「事件」の真相とは?!
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というあらすじでした。
 眞邊明人さんの小説を映画化したものだそうです。

 私は,映画は小難しいものでなくておもしろければいいや,ということで見にいったので,十分に満足できましたが,この映画は,さまざまな歴史上の逸話や現代のパロディがちりばめられているので,歴史や政治がわからない人には退屈だったかもしれません。近くに2人の子供を連れた家族がいたのですが,子供たちははうんざりしていました。この映画を家族で見にくるほうが悪いのでしょう。これは,日常にうんざりしている,あるいは私のように暇を持て余している老人の見る映画です。
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 特におもしろかったのは前半の30分。現在の政治家に見せてやりたいです。
 しかし,こんな大ぶろしきを広げちゃって,その後,どういう展開にするのかな? と心配になったのですが,それは杞憂に終わらず,散らかしたおもちゃを片づけようにも片づけるおもちゃ箱がない,という感じになってしまいました。
 こんな展開にするのなら,いっそのこと,もっと無茶苦茶にダイナミックにすればいいのに…。例えば,AIを駆使して,歴史上の人物をたくさん出してしまうとか。どうせ,今や,コンピュータグラフィックでどんな画像でも作れるのだから。
 後半は,説教くさい,という批評があるのですが,実際,徳川家康校長先生の講話を聞いているようなものでした。徳川家康さんは太平の世を作った,のかもしれませんが,それよりも,徳川家を滅ぼさないように,川には橋を架けず,大名の妻子を人質にとって,庶民から税金を取り立てて物言わぬようにした徳川独裁王朝の基礎を作っただけ,かもしれませんよ。
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 映画やテレビドラマを見るといつも思うのですが,アメリカの作品では大統領や警察官,消防士は英雄であり,憧れとして描いているものが多いのですが,日本の作品では,政治家や官僚,地位の高い人たちは,裏金をせしめたり,部下をいじめたりする悪徳な輩ばかりなのです。そして,それに対して,歴史上の偉人は史実以上に英雄になり賛美されます。また,「ドクターX」の大門未知子や「ラジエーターハウスの五十嵐唯織,「七人の秘書」の〈名乗るほどのものではありません〉のように,名もない庶民のように思える人が実はすごい実力者だったりする…,といった描きかたがされるのです。
 この国人たちは,日ごろ,よほど不満を抱えていて,しかし,言いたいことも言えず抑圧されて生きているのでしょう。
 この映画では徳川家康を賛美しすぎているのと,歴史ドラマの常として,ヒーローはいつも坂本龍馬になってしまうのも同じで,これでは単純というか,代わり映えがしないというか。私は,物語の展開から深みをなくしていると思いました。むしろ,影のワルが坂本龍馬だったりするほうがよかったかも。
 まあ,いずれにしても,日本は,世界で最も古い国だとか自画自賛していても,長~い歴史があっても,この映画で内閣を組織した人たち程度しかリーダーがいなかった,というのが,人材不足の日本を象徴していますな。
 ともかくも,退屈しない2時間の暇つぶしでした。シニア割引1,200円也なら,十分に元が取れました。

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 2024年3月26日から5月19日まで,東京藝術大学大学美術館で「大吉原展 江戸アメイヂング」が開催されていて,見にいきたいと思いながらその機会もなく,あと1週間で終わってしまうという5月12日にその機会ができたので,ようやく行くことができました。
 展示内容は
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●第一部
 入門編として,吉原の文化,しきたり,生活などを,厳選した浮世絵作品や映像を交えてわかりやすく解説します。
●第二部
 風俗画や美人画を中心に,吉原約250 年の歴史をたどります。
●第三部
 展示室全体で吉原の五丁町を演出します。浮世絵を中心に工芸品や模型も交えてテーマごとに作品を展示,吉原独自の年中行事をめぐりながら,遊女のファッション,芸者たちの芸能活動などを知ることができます。
●江戸風俗人形
 辻村寿三郎の人形が並ぶ吉原の妓楼の立体模型で遊女の生活を紹介します。
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というものです。
 人の営みは,それを「文化」というならば,そこには,美しい服を作りたい,着てみたい,人気者になりたい,といった欲求から,さまざまな「芸術」が生まれることになります。そこで,それがどのような動機で作られたものであるにせよ,そこで生まれた「芸術」は人類の財産として残るわけだから,それを展示しよう,というのが,この展覧会の目的だったのでしょう。そして,人は,自分の知らないことを知りたい,という好奇心があるので,このような展覧会に多くの人が訪れるのでしょう。
 私は,この展覧会に限らず,これまで訪れたことがなかった東京芸術大学大学美術館に行くことができたこともあって,その好奇心が満たされたことに満足しました。展覧会を見終えてから,館内のレストランで,おいしく昼食をとりました。

 「大吉原展 江戸アメイヂング」は,開催前から,大いに議論をよんだそうです。曰く
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 公式サイトに書かれたステートメント「-江戸吉原の約250年にわたる文化・芸術を美術を通して検証-仕掛けられた虚構の世界を約250件の作品で紹介する」に対して,「ここで女性たちが何をさせられていたかがこれでもかとぼやかされた序文と概要。遊園地みたい。性的搾取の負を歴史を無視・軽視し,売買春の舞台となった吉原をはじめとする遊廓を美化するものだ」。
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 要するに,展覧会から。吉原という地のもつ「歴史の影の部分」を切り離してしまったことが問題だったようです。「江戸アメイヂング」というサブタイトルもよくない,と。しかし,この展覧会は,吉原をテーマとして残された「芸術の展示」を目的とするものなので,「歴史の影の部分」を取り上げることとは,また,別である,という意見もあり,難しい問題です。

 当時吉原遊廓があった場所,現在の千束四丁目に吉原弁財天があって,その案内板「花吉原名残碑」(はなのよしわらなごりのひ)には,吉原の「歴史の影の部分」についてはまったく触れられずに「新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め,華麗な江戸文化の一翼をにない,幾多の歴史を刻んだが」と書かれてありますし,また,日本各地にあった遊廓に関連した遺構が観光と結びつくことで,「歴史の影の部分」と向き合うことよりも美化や不可視化が加速されている,といった指摘もされています。また,遊郭に限らず,佐渡金山,石見銀山などでも,過酷な鉱山労働や,見せしめのための処刑があったというような「歴史の影の部分」が存在したのにも関わらず,現在は,観光資源としての娯楽に重点が置かれていると指摘する人もいます。
 その一方で,戦争が科学を進歩させたように,こうした「歴史の影の部分」を利用することで,商業活動が成り立っていた,金儲けをして生きてきた,という人の営みも少なくないわけです。遊郭の周囲のさまざまな職業は遊郭があったがゆえに成り立っていたのだし,戦争のための武器を売って成り立っている会社も少なくありません。直接的にせよ,間接的にせよ,そのような「歴史の影の部分」から恩恵を被っている人が,このような展覧会で「歴史の影の部分」を語っていない,と批判することができるのでしょうか。
 歴史は,人間が行ってきたことをありのままに受け止めることをせず,都合のよいことだけを語り残すものです。そして,「歴史の影の部分」が葬り去られてしまうのです。そこで,そうした現実に真摯に向き合っていないといって,つねに,このような議論が起きるのでしょう。
 このことは,遊郭が存在しなければ生きていけない人がいた,という社会の仕組みのほうがむしろ問題でしょう。これは,人間社会のもつ,根源的な課題です。

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  「花吉原名残碑」
 吉原は,江戸における唯一の幕府公許の遊郭で,元和3年(1617年)葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は,植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより,はじめ葭原と称したのを,のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。
 明暦3年(1657年)の大火を契機に,幕府により吉原遊郭の郊外移転が実行され,同明暦3年(1657年)8月浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び移転前の遊郭を「元吉原」という。
 新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め,華麗な江戸文化の一翼をにない,幾多の歴史を刻んだが,昭和33年(1958年)「売春防止法」の成立によって廃止された。
 その名残を記す当碑は,昭和35年(1960年)地域有志によって建てられたもので,碑文は共立女子大学教授で俳人,古川柳研究家の山路閑古による。
 昭和41年(1966年)の住居標示の変更まで新吉原江戸町,京町,角町,揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。
  平成17年(2005年)3月 台東区教育委員会
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 上野寛永寺で徳川将軍の墓を見て,上野の森美術館で「モネ 連作の情景」展に行って人の頭を見て,さらに,上野公園を散策した私は,NHK交響楽団の第2001回定期公演がはじまるまで,どこに行こうかと考えて,まず,日本橋の三越で開催されている藤井聡太王将写真展に行くことにしました。
 ちょうど今王将戦が行われているので,おそらく,それに合わせたPRの一環でしょう。これまで新聞紙上に掲載された多くの写真や王将位のトロフィーなどを見ることができました。
 以前書いたことがありますが,王将戦は異端の棋戦で,勝者の罰ゲームなど,主催がスポーツ紙ということもあって,娯楽が前面に出ています。元来,毎日新聞が将棋名人戦を朝日新聞に横取りされたことで,それに並ぶ棋戦として創設された経緯もあって,現在も,挑戦者を決めるためのリーグ戦が行われていたり,タイトル戦が2日制だったりするのですが,それにしては獲得賞金が安かったり,解説つきのライブ放送が有料だったりと,他の棋戦とは違う位置にいます。

 藤井聡太王将写真展を見て,三越の外に出たとき,江戸情緒の音が聞こえてきました。そちらの方を見ると,大相撲の触れ太鼓でした。そういえば,翌日1月14日が大相撲初場所の初日です。
 触れ太鼓とは,本場所初日の前日に呼び出しさんたちが太鼓をたたきながら相撲部屋や商店街を練り歩き,本場所の訪れを告げる伝統行事です。
 現在,日本相撲協会の呼び出しは45人。4班にわかれて,初日の訪れを知らせていきます。
 私が遭遇したのは,日本橋千疋屋総本店を皮切りに,日本橋,人形町,京橋,銀座の老舗22店舗と2町会を回るもので,高砂部屋,九重部屋,陸奥部屋,千賀ノ浦部屋,高砂部屋,九重部屋,陸奥部屋,千賀ノ浦部屋の呼び出しさんの担当でした。
 店の前で,「相撲は明日(みょうにち)から初日じゃぞ~い」と切り出して,代わる代わる初日の取組を呼び上げていきます。そして,最後に「ご油断で~は~,詰まりますぞ~」と早くしないとチケットなくなるよということを伝統的な言葉使いで告げていくものです。そして,最後にご祝儀をもらって,写真撮影をしたあと,見ている私たちに,明日からはじまるのでご贔屓に,という挨拶がありました。
 
 まだ時間があったので,思いついて,靖国神社に行ってみました。ニュースなどでよく耳にする靖国神社なのですが,私はどこにあるのかさえ知りませんでした。
 ということでどこにあるのかな? という興味だけで行ってみたのですが,鳥居の大きさに驚きました。私が見たかったのは,ここにある,と聞いていた,以前,大河ドラマ「花神」で主人公だった大村益次郎の銅像でした。
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 大村益次郎は,1825年(文政8)長州,現在の山口県の村医者の家に生まれました。1846年(弘化3年)大坂に出て緒方洪庵の適塾で学び,塾頭まで進みました。時代が彼の才能をほっておかず,戊辰戦争で東征大総督府補佐となり勝利の立役者となりました。太政官制において兵部省初代大輔を務め,日本陸軍の創始者,陸軍建設の祖とされます。
 1869年(明治2年)大阪で軍事施設視察後,京都三条木屋町上ルの旅館で,元長州藩士の団伸二郎,神代直人ら8人の刺客に襲われ,それが原因で死去しました。
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 ちょうどおやつの時間だったので,カフェを見つけて中に入って,大きなスポンジケーキと,この日は冬なのに暑かったので,アイスコーヒーを注文して一服してから,靖国神社に併設された「遊就館」(ゆうしゅうかん)を見学しました。
 遊就館は祭神ゆかりの資料を集めた宝物館で,幕末維新期の動乱から太平洋戦争に至る戦没者,国事殉難者を祭神とする靖国神社の施設として,戦没者や軍事関係の資料を収蔵・展示していて,1882年(明治15年)に開館した日本における「最初で最古の軍事博物館」だそうです。
 「遊就館」という名称は,中国戦国時代末の思想家・儒学者「荀子」(じゅんし)勧学篇の
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 故君子居必擇鄕,遊必就士,所以防邪僻而近中正也
 故に君子は居るに必ず郷をえらび,遊ぶに必ず士に就くは,邪僻を防ぎ中正に近づく所以なり
 君子がきまって環境の良い村里を選んで住み、すぐれた知識人についてきまって学ぶのは,よこしまで偏ることのない礼義にかなって,正しくなるためなのである。
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に拠るそうです。

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 上野寛永寺を見学し,上野公園にある寛永寺ゆかりの各所を散策したのち,最後に行ったのが上野東照宮でした。
 東照宮といえば,日光東照宮を思い浮かべますが,東照宮というのは徳川家康を「東照大権現」として,つまり神として祀る神社です。1616年(元和2年)に徳川家康が薨去したとき,柩は久能山に運ばれ,遺言に従って久能山に東照社が創建されました。朝廷は翌年,東照社に「東照大権現」の神号を宣下しました。また,幕府は日光にも東照社を建設し,遷座祭を挙行しました。その後,全国に東照社が造られ,宮号の宣下によって,「東照大権現」は東照宮と号するようになりました。
 危篤の徳川家康が,自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと藤堂高虎と南光坊天海に遺言したことから,1627年(寛永4年)に藤堂高虎が創建した上野東照宮は,日光東照宮,久能山東照宮に加え,三大東照宮のひとつに数えられ,徳川家康,徳川吉宗,徳川慶喜を祀っています。現在の社殿は1651年(慶安4年)に徳川家光が改築したものです。

 境内には社殿のほか,狸の木像をご神体とした栄誉権現社や,ぼたん苑があります。
 一見,拝殿の門が閉じられていて,社殿まで行くことができないように思えますが,有料ですが,門から中に入って,社殿まで行くことができて,社殿の立派な装飾を鑑賞できます。社殿内には「唐獅子の壁画」があるそうですが,これは非公開です。
 栄誉権現は,四国八百八狸の総師で,栄誉権現として狸の木像が社殿の左側の小社祠に祀られていて,「お狸さま」とよばれています。法衣を着て座わり,顔を真上に向け,鼻を突き上げて天井を仰ぎ見ている姿を垣間見ることができます。この狸の木像は,江戸時代は大奥に奉納されたものでしたが,そこで大暴れしたり災いをもたらしたので,大奥を追放されていくつかの大名や旗本の家に渡り,追放先でも,大名,旗本の諸家をお家断絶にまで追い込むなど数々の災いをなしたのですが,大正年間に上野東照宮に納められて,ようやく災いをもたらさなくなったといわれています。
 ぼたん苑では,元日から2月下旬に特別に冬に開花するよう促成栽培した冬牡丹を展示する「上野東照宮・冬ぼたん」が開催されていました。ぼたんには早春と初冬,二季咲きの性質をもつ寒ぼたんという品種があるのですが,着花率が低いので,これを正月の縁起花として抑制栽培の技術を駆使して開花させたものが冬ぼたんで,ぼたん苑には160株の冬ぼたんがあって,美しく咲き誇っていました。 
 また,遠くに見える五重塔は,もともとは上野東照宮のものでしたが,明治の神仏分離令で寛永寺の所属となりましたが,幕末の上野戦争で焼失しました。その後現在地に再建され,東京都に譲渡されたものです。

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 南光坊天海は,1643年(寛永20年)に亡くなった天台宗の大僧正ですが,徳川家康の側近として,江戸幕府初期の政策に深く関与しました。生まれは,将軍足利義澄落胤説やら,姿を変えて生き残った明智光秀やらという説があり,また,生年もはっきりしていませんが,100歳以上の長命であったそうです。
 前半生についてはわからず,福島県会津美里町の龍興寺にて出家した後,天台宗を学び,比叡山延暦寺や園城寺,興福寺などで学を深めたといいます。1588年(天正16年)に現在の川越市にあった無量寿寺北院に移り,天海を名乗ったあたりから,足跡が明瞭となっています。
 北条攻めの際,南光坊天海は徳川家康の陣幕にいたとし,その後,家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担いました。1616年(元和2年),危篤となった家康は遺言を天海託し,2代将軍・徳川秀忠の諮問によって,徳川家康の神号を「東照大権現」と決定し遺体を久能山から日光山に改葬,3代将軍・徳川家光に仕え,1624年(寛永元年)に寛永寺を創建しました。
 前回書いたように,寛永寺は,比叡山延暦寺が京都御所の鬼門に位置し,朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならい,山号を東の比叡山という意味で東叡山とし,清水寺に習った清水観音堂,琵琶湖を模した不忍池辯天堂, 五重塔,開山堂,大仏殿などの伽藍を作りました。
 と聞いたので,寛永寺の見学を終えたあと,私は,それらの史跡を訪ねました。

 まず,ほとんどの人は,この存在を意識していませんが,上野の森美術館の前に,天海僧正毛髪があります。南光坊天海が亡くなったのち,諡号(しごう)を慈眼大師とし,墓所は日光山輪王寺に造られ,1643年(寛永20年)に弟子の晃海(こうかい)によって本覚院伝来の毛髪を納めた塔が建てられ,毛髪塔とよばれるようになりました。お坊さんの毛髪…?
 次に,清水観音堂にのぼり,不忍の池を見下ろしました。清水観音堂は京都の清水寺を模した舞台造りのお堂で,1631年(寛永8年)に南光坊天海により建立されました。また,本尊も清水寺より恵心僧都(えしんそうず)作の千手観音像を迎えて秘仏としてお祀りしました。はじめは上野公園内の擂鉢山に建てられ,元禄初期,今の噴水広場の地に寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると,その工事に伴って1694年(元禄7年に現在地に移築されたもので,上野に現存する創建年時の明確な最古の建造物です。
 最後に上野大仏に行きました。1631年(寛永8年)に初建された上野大仏は,度々罹災し,その都度復興されましたが,関東大震災で首が落ち,第2次大戦で軍の供出令によって胴体が徴用され,顔のみが残されました。現在,大仏殿の跡地にはパゴダが建立され,本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られています。
  ・・・・・・
 大仏を埋めて白し花の雲
    子規
  ・・・・・・
  胴体を失った顔面は「これ以上落ちない」という意味に変化し,2000年代前半ごろから受験生が祈願するようになり「合格大仏」とよばれています。


 上野はよく行くのですが,これまで,こうした場所を歩いたことはなかったので,とても興味深く感じました。

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 2024年1月13日,JR東海ツアーズ主催の特別公開に参加して,上野の東叡山寛永寺に行って,徳川将軍の墓を見てきました。
 2023年10月14日に芝の増上寺と谷中霊園に行ったとき,次のように書きました。
  ・・・・・・
 徳川将軍の墓所は1か所にあるのではなく,日光東照宮,上野の寛永寺,芝の増上寺,そして,谷中霊園の4か所にわかれています。
 初代将軍・徳川家康と三代将軍・徳川家光の墓は日光東照宮にあります。
 そして,芝の増上寺に墓があるのが,2代将軍・徳川秀忠,6代将軍・ 徳川家宣,7代将軍・徳川家継,9代将軍・徳川家重,12代将軍・徳川家慶,14代将軍・徳川家茂であり,上野の寛永寺に墓があるのが,4代将軍・徳川家綱,5代将軍・徳川綱吉,8代将軍・ 徳川吉宗,10代将軍・徳川家治,11代将軍・徳川家斉,13代将軍・徳川家定。そして,谷中霊園に墓があるのが15代将軍・徳川慶喜です。
  ・・・・・・
 芝の増上寺にある徳川将軍の墓は公開されているので見学できますが,今回行くことができた寛永寺にある徳川将軍の墓は普段は未公開なので,やっと念願がかないました。

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 天台宗の別格大本山東叡山寛永寺は,1625年(寛永2年)に,徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため,江戸城の鬼門にあたる上野の台地に,南光坊天海によって建立されたものです。比叡山延暦寺が京都御所の鬼門に位置し,朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならい,山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となり,現在の上野公園の中央部分,噴水広場にあたる竹の台に,間口45メートル,奥行42メートル,高さ32メートルという壮大な根本中堂が建立され,現在東京国立博物館に当たる場所には本堂があって,小堀遠州による名園が作庭されました。また,清水寺に習った清水観音堂,琵琶湖を模した不忍池辯天堂, 五重塔,開山堂,大仏殿などの伽藍が競い立ち,子院も各大名の寄進により三十六坊を数えました。
  ・・
  幕末の戊辰戦争で,境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し,全山の伽藍の大部分が灰燼に帰してしまい,1885年(明治18年)に,輪王寺門跡の門室号が下賜され,天台宗の高僧を輪王寺門跡門主として再出発しました。
 根本中堂は,1879年(明治12年)に,川越喜多院より本地堂を移築し,再建されたもので,伝教大師作の本尊薬師如来や東山天皇御宸筆「瑠璃殿」の勅額は,戦争の中運び出され現在の根本中堂に安置されています。また,根本中堂正面側にある銅燈籠と銅鐘は,徳川家光(大猷院)霊廟に奉納されたものということです。
  ・・・・・・

 今回案内していただいたのは,5代将軍・徳川綱吉と8代将軍・徳川吉宗,13代将軍・徳川家定とその正室である天璋院篤姫の墓でしたが,これらの霊廟は,立派な勅額門の奥に広がっていました。建立当時は敷地内に拝殿や鐘楼,回廊などさまざまな建造物があったそうですが,現存するのは,宝塔を除いて,勅額門と水盤舎のみです。徳川綱吉の墓はとても立派ですが,徳川吉宗以降は,豪華な霊廟を新たに造ることが禁じられ,宝塔だけを造り合祀するようになったということです。生類憐みの令で有名な徳川綱吉は,巨大な犬小屋を建てるなどして,贅沢に徳川家の財産を食いつぶしてしまったのです。徳川将軍は,御宝塔の真下に江戸城を向いて公家装束をまとって座るように土葬されているそうです。
 今回案内していただいたのは,寛永寺の石田亮岳執事でしたが,奇しくも,この日の夜9時から放送された「世界ふしぎ発見」という番組に出演されていました。
  ・・
 特別公開で案内されて見ることができたのはこれだけでしたが,そこで,残りの4代将軍・徳川家綱,10代将軍・徳川家治,11代将軍・徳川家斉の墓はどこなのか疑問が残りました。そこで調べてみました。
 寛永寺には,4代将軍・徳川家綱の厳有院と5代将軍・徳川綱吉の常憲院の霊廟があります。以前は,現在のものよりも立派なものだったそうですが,1945年(昭和20年)の空襲で焼失し,現存するのは,その一部ということです。
 今回見ることができたのは,そのうちで,5代将軍・徳川綱吉の常憲院の霊廟で,その入口にあったのが勅額門,そしてそれをくぐると,水盤舎,奥院唐門がありました。さらに,霊廟の中には,併せて,奥院宝塔として,8代将軍・徳川吉宗の有徳院宝塔,13代将軍・徳川家定の温恭院宝塔、徳川家定夫人の天璋院宝塔,そして,明治以降,16代徳川家基の孝恭院宝塔と17代徳川家正の宝塔が建っていました。なお,18代徳川恒孝さんは御存命です。
 4代将軍・徳川家綱の厳有院霊廟は,道路を越えた寛永寺第二霊園にあって,道路に面して,勅額門だけは見ることができて,その奥に,水盤舎,奥院唐門があり,併せて奥院宝塔として,10代将軍・徳川家治の浚明院宝塔,11代将軍・徳川家斉の文恭院宝塔があるそうですが,厳有院霊廟は非公開です。

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 これまで,浜松市を観光したことはありませんでした。
 私には,浜松といえば,ヤマハとか浜松ホトニクスとかいった先端企業があるハイテク都市という印象がありました。また,浜松餃子のような地元グルメも有名なので,今回,浜松城に行くのを楽しみにしていました。
 掛川城を見たあと,掛川駅から浜松駅に戻って,途中下車をした私は,浜松駅にあった観光案内所で「浜松城と浜松餃子を目的に来たのですが」と言って,浜松の観光について聞きました。そして,浜松餃子の店の載ったパンフレットをもらい,ついでに,浜松城と,現在,浜松城内で開催されているNHK大河ドラマ「どうする家康大河ドラマ館」の入場券を購入しました。浜松では浜松城のシニア割は70歳からということで,私は対象外でした。この時点でいやな予感がしました。
 ちょうどお昼前だったので,まずは浜松餃子を,と思ったのですが,観光案内所で勧められた店は,日曜日でもあり,大変な行列でした。私は,グルメでないから,そこまでして食べる気持ちもなく,見送りました。そして,昼食はあとにして,浜松城に行くことにしました。来る前は浜松城まで歩いて行くことにしていたのですが,あまりに暑かったことと,思ったより遠かったので,浜松駅前のバスターミナルからバスに乗りました。ところが,浜松市営バスはSuicaが使えないのです。これには驚いたとともに,私が勝手に思っていたハイテク都市・浜松への印象が,先ほどのシニア割とともに,急激に悪くなりました。

 市役所南のバス停で降り,地下道を歩いて,浜松城に着きました。
 まずは「どうする家康」大河ドラマ館に向かいました。先日,岡崎城へ行ったときに岡崎城で開催されていた「どうする家康」大河ドラマ館へ行ったのですが,あれからドラマもずいぶんと進んだので,展示されているものが異なっていて,なかなか楽しいものでした。
 それにしても,大河ドラマ館というのは,要するに,テレビドラマで使用済みとなった衣装や小道具を展示してお金をとるという商法です。うまいこと考えたものです。しかし,番組のPRに800円という結構な入場料だということに,NHKの浅ましさを感じます。バカ高い受信料を払っている人には無料であってもいいと私は思います。
 次に,浜松城に行きました。天守は結構な高台にあって,へばりました。
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 浜松城の前身は,15世紀頃に築城された曳馬城(ひくまじょう)で,今川氏支配下の飯尾氏が城主でした。徳川家康が1570年(元亀元年)に曳馬城に入城し,浜松城へと改称,城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進めました。このころは,土造りの粗末な城だったようです。
 関ヶ原の戦い以後は,譜代大名の居城となり,城主は9家22代に引き継がれていきましたが,藩主の中で老中になっただけでも,松平乗寿,松平信祝,井上正経,水野忠邦,井上正直,と5人もいるというように,歴代城主の多くが江戸幕府の重鎮に出世したことから「出世城」といわれました。
 17世紀のうちに初期の建物は姿を消し,天守台のみが現在に伝わります。明治の廃城令で建物や土地が払い下げられ宅地化が進行しましたが,天守曲輪と本丸の一部は浜松城公園になり,1958年(昭和33年)鉄筋コンクリート製の復興天守が再建されました。
  ・・・・・・

 私は,浜松城にはがっかりしました。単なる,多くの場所にある外見だけ城の鉄筋コンクリートの建物であったこともそうですが,それよりも,よく見ると,この城,石垣と城の大きさが違い,広い石垣の上に,サイズが不足したアンバランスな城が建っているのです。
 城の外にボランティアの人がいたので,いろいろとお話を聞きました。
 石垣と城の大きさが違うのは,復元したときにお金がなく,小さいサイズでしか作れなかったから,という話でした。次に,私がいつも気になるその地の殿様について聞きました。先に書いたように,浜松城は「出世城」といって,江戸幕府のお偉いさんになった大名だらけなのですが,そこには,当然,ワイロあり,袖の下あり,というわけで,地元民には,藩主様にいい印象がないようです。裏返せば,地元に目が向いていなかったということにもなります。また,今では武家屋敷跡も全く残っておらず,この地に住んでいる人は,歴史を全くリスペクトしていないそうです。井伊直虎なんて大河ドラマではじめて知ったということらしいです。浜松というところは,そんなところだったのです。だから,史跡といっても,大した見どころはありません。
 文系の学問にからっきしり興味のない技術おたくの理系が合理性だけで作った都市ではないかと,だれかが言っていました。
 浜松餃子を食べ損ねた私は,帰りに,途中で見つけたお店で昼食をとることにして,のんびりと駅まで歩くことにしました。それにしても,この町,官庁街にはレストランすらありません。交差点はすべて地下道になっていて,階段の上り下りもたいへんでした。これでは弱者は浮かばれません。
 浜松城のシニア割の対象年齢が70歳から,ICカードの使えない公共交通,歴史に対するリスペクトの欠如,弱者への配慮のない交差点など,こうした理由から,私の抱いていたハイテク都市・浜松の印象は完全に消え失せ,失望感だけが残りました。
 そういえば,同じような感じを味わった都市があったなあ,と思いました。そうだ,つくば市だ。

 途中でやっとおもしろい店をみつけたので,中に入って,昼食をとりました。なかなかのお店でした。さらに歩いて行くと,JR浜松駅の近くにあった商業ビルの中のモールにあった店のひとつで,浜松餃子が提供されていたので,昼食をとったばかりだったけれど,せっかくだからと,浜松餃子にありつくことができました。
 こうして,とにもかくにも,浜松城へ行く,浜松餃子を食べるという目的は達成しました。

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 2023年9月10日。
 今年は,NHK大河ドラマ「どうする家康」を口実に,家から近いこともあって,時間があるときにゆかりの地をめぐっています。静岡市の駿府城は,すでに6年前に行きました。しかし,何度もJRの在来線や東海道新幹線で通るのに,浜松城や掛川城には行ったことがありませんでした。そこで,今回,NHK交響楽団の9月定期演奏会を聴きに東京へ行ったあと,そのまま東京で1泊して,翌日,帰りに途中下車して行ってみることにしました。
 今回の旅では,浜松駅と東京駅間をひかりで往復するチケットを購入して,これとは別に,名古屋駅から掛川駅までの往復乗車券を購入しました。こうすれば,往路は浜松駅で降りて,そこからひかりに乗り換えて東京駅まで行き,帰りは,ひかりで東京駅から浜松駅まで来て,昨日の往路が途中下車扱いとなっている浜松駅から掛川駅に行き,復路は,掛川駅から再び浜松駅で途中下車して浜松城へ行き,浜松駅から再びJRの在来線に乗って帰宅することができるからです。
 先に掛川城へ行ったのは,荷物を浜松駅のコインロッカーに預けることにしたためです。
 浜松駅で荷物を預けて先に浜松城へ行き,次に掛川城へ行っても,結局,預けた荷物を取りに浜松駅で途下車しなければならないので,掛川駅からそのまま帰ることはできないので,結局同じなのす。

 私は,掛川という町ははじめて行ったとばかり思っていたのですが,2017年にJR在来線に乗って金屋駅で降り,旧東海道を西に,掛川駅まで歩いたことがあることを思い出しました。しかし,そのときは,時間がなく,掛川市内の観光はしませんでした。
 掛川といって私が連想するのは,中日ドラゴンズの春季キャンプ地だったことがある,ということです。浜松で行ったこともありますが,こんな場所でやったところで,名古屋に比べてどれだけ暖かいの? と当時思いました。きっと,大人の事情だったのでしょう。昔は,九州とか四国で行われていた日本のプロ野球の春季キャンプも,今は沖縄ばかりのようです。しかし,春の沖縄には天候が悪いという欠点が存在します。
 掛川駅は新幹線も停車するから掛川は大きな町のように思うのですが,掛川駅の北口から掛川城へ行くために北に15分ほど歩いていたときに感じたのは,活気がないところだ,ということでした。掛川駅の北口のまわりにも,気の利いたレストランすらないのです。その一方,新幹線の駅がある南口は,一応は,ホテルがあったりもしましたが,それ以外は同じようなものでした。
 日本は,大都市以外は,どこもこんな感じです。老人の旅にはこのほうがいいのですけれど,日本の斜陽を感じます。

 さて,掛川城に着きました。NHK大河ドラマ「どうする家康」の影響か,結構な,というかほどほどの人が来ていました。掛川城はこじんまりとした城でした。
  ・・・・・・
 掛川城は,戦国時代に今川義忠が重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられています。現在の掛川城の姿は山内一豊によるものです。
 明治以降、廃城令によって廃城処分とされ撤去されましたが,1994年(平成6年)に,1854年(安政元年)の地震で倒壊した天守や大手門などの一部の建物,塀が復元され,今も,堀や土塁,石塁の復元が行われています。
 再建された天守は日本初の木造復元天守で,いい感じを出していました。
  ・・
 掛川城は,戦国時代,武田信玄と徳川家康との間で,幾度も戦乱に巻き込まれましたが,1582年(天正10年)の武田氏の滅亡まで徳川氏の領有であり続けました。1590年(天正18年)に家康が関東に移封されると山内一豊が入りましたが,山内一豊は土佐を与えられて移転したので,その後は多くの譜代大名が入り安定しませんでした。最終的に,1746年(延享3年)太田道灌一族の系統である太田氏が入り,幕末を迎えました。
  ・・・・・

 掛川城もまた,次に行く浜松城と同じく再建されたものではあったのですが,浜松城の鉄筋コンクリートそのものとは異なって情緒がありました。しかし,それよりも,私には,御殿が,二条城,川越城,高知城とともに,当時のまま現存していたのがよかったです。よくも残ったものです。また,御殿の奥の二の丸茶室では,今年2023年1月に,藤井聡太王将に羽生善治九段が挑んだ第72期ALSOK杯王将戦七番勝負第1局が開催された場所ということでした。
 こんなさびれた感満載の掛川でしたが,人混み嫌いな私は,意外といいかも,と思いました。
 それにしても,今年はいつまでも暑い夏が続きます。もっと涼しいと思っていた私は,期待が外れました。この先過ごしやすくなったら,再び訪れて,今度は,1日,この辺りを散策してみたくなりました。

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 「西洋絵画の見方がわかる世界史入門」という本を読みました。
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 絵画は歴史の中で描かれます。つまり絵画作品は,様式や傾向も含めて,歴史の動きや流れとなんらかの関係があると言ってよいでしょう。
 本書では,作品が生まれた背景や歴史的位置づけ,そして絵画の見方について,世界史の流れや変化とともに解説していきます。近世から現代まで,どんな絵画や芸術運動が生まれ,それらにはどのような特徴があるのかを世界史の中で理解することができます。その過程で絵画の存在意義が問われ,「わかりにくい」と言われる「現代アート」が生まれていった理由も見えてくるでしょう。
  ・・・・・・
というのがAmazonにあったこの本の紹介です。

 私は,クラシック音楽は好きですが,絵画はわかりません。
 旅に出ると,よくその土地にある美術館に行くので,多くの有名な作品は見たことがあるのですが,これでは「猫に小判」。もったいない話です。
 中学校の芸術の授業で,音楽は音楽史から詳しく学ぶことができたのに,美術では作品を作るだけで,美術史どころか,絵画の見方すら習わなかったことも影響しているのでしょうが -と人のせいにしてもしかたないのですが- 日ごろ,残念な気持ちになっていて,よくわかる本がないかなあ,と思っていたときに出会いました。およそ私の知っている作品を中心に歴史の流れとともに説明がしてあって,読みごたえがありました。
 しかし,絵画を見る,というのはどういうことなのかな? という本質的なことに混乱をしています。要するに,絵画のはじめは宗教画,なのでしょうか。それは,クラシック音楽でも同様なのですが,それが発展して今につながっているのでしょう。私は,キリスト教がわからないから,そもそも,その時点で理解ができないのです。
 クラシック音楽もそうですが,私は,もし,この絵画が部屋の壁にかけてあったら気持ちが落ち着くかな? といったような感じで鑑賞することが多いです。だから,見ていて,思わず別の世界に引き込まれるような絵画が好きです。
 宗教的な難しいことはわかりません。

 美術の世界についてはこれ以上は語れないので,ここで音楽の話に振ります。
 現在,チャイコフスキー国際コンクールが行われています。
  ・・・・・・
 チャイコフスキー国際コンクール(International Tchaikovsky Competition)は,ロシア連邦政府とロシア連邦文化省の主催で4年ごとに首都モスクワとサンクトペテルブルクで開催されるクラシック音楽のコンクールで,ソビエト連邦時代の1958年にはじまりました。ベルギーのエリザベート王妃国際音楽コンクール,ポーランドのショパン国際ピアノコンクールとともに世界3大音楽コンクールのひとつとされています。
  ・・・・・・
 しかし,2022年,国際音楽コンクール世界連盟はロシアのウクライナ侵攻を受けて,チャイコフスキー国際コンクールの排除を決定しました。
 今年もまた,日本からも参加者がいるのですが,このことに関しては賛否両論があるようです。
 芸術は政治とは関係がないという人もいるのですが,今回取り上げた「西洋絵画の見方がわかる世界史入門」でもわかるように,芸術ほど政治とかかわりのあるものもないわけです。そこで,芸術家はこんなときにどう対応するかが問われるのです。これもまた難しいものです。

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 まだ梅が満開だった佐渡島から帰ってきたら,桜が満開でした。天気もいいし,暇だったので,近場の桜の名所をすべて見てしまおうと思いました。平常なら京都へ行っていたかもしれませんが,おそらくすごい人でしょうから,この春に京都へ行くということ自体が悪手です。
 何度も書いていたように,私は,人々は何を恐れているのやら,家に閉じこもって外出しなかった2020年の春と秋に,毎週のように車で京都に出かけて,桜と紅葉を独り占めしてすっかり満足したので,今年はパスです。今になって,人混みの中を花見だなんて,人と同じことをしては失敗する投資と同じ行動です。2020年の春は,私以外に観光客がいなかったのだから,これほど安全なことはなく,だれも歩いていない京都の高台寺あたりの満開の桜や円山公園の枝垂れ桜,そして,醍醐寺の花見を,心置きなくすることができて最高でした。コロナ禍様様でした。こんなことは二度とないと思いました。

 ということで,今年は京都は避けて,3月29日,桑名で桜を愛でた私は,次に大垣に行くことにしました。桑名から大垣は遠そうに思えますが,信号のほとんどない木曽川の堤防道路を快適に走るとあっという間に到着します。
 大垣も人でいっぱいではあるのですが,私の目的はそれではなく,お堀端のきれいな桜と舟下りをやっている姿を写真に撮ろうと以前から思ってはいても,これまではなかなか実現できまなかったことをしようというのでした。また,「どうする家康」にちなんだ大垣城の桜も写すつもりでした。
 大垣市は観光の宣伝が上手なようで,思ったとおり,群れるのがお好きなお人たちが団体ツアー旅行で殺到しごった返していました。舟下りは団体ツアー客の予約で満席で,個人では乗ることできないということでしたが,そうしたお人たちが行く場所はいつも限られているのです。
 私はそんな人の流れとは無縁の世界です。大垣市は,市役所あたりに多くの無料駐車場があるので,そこに車を停めるのがコツです。駐車場までも,桑名のように長い車の列ができてはいませんでした。
 大垣市は住んでもいいなあと私が思う,数少ない町のひとつでもあります。
 今日は,そんな観光ではなく,大垣城について書きます。

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 大垣城は麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)ともよばれます。
 その起こりは,1500年(明応9年)竹腰尚綱によって揖斐川東河岸にあった牛屋に築かれたとも,1535年(天文4年) に宮川安定が大尻に築いたともいわれますが,そのころは,牛屋川を外堀の代わりに利用し,本丸と二ノ丸のみでした。
 戦国時代,大垣の地は戦略上重要な地点であったため,以下に書くように,めまぐるしく争奪戦が繰り返されました。
 まず,1544年(天文13年)に織田信秀の攻撃により落城し,織田播磨守が5年間城主を務めましたが,1549年(天文18年)に斎藤氏に攻め落とされて配下の竹越尚光が城主となりました。
 次に,1559年(永禄2年)には,桑名について書いたときにも登場した氏家直元が城主となり,1563年(永禄6年)に大規模な改修をして本格的な城郭として整備しました。
 賤ヶ岳の戦いの後,豊臣秀吉により,1583年(天正11年)に池田恒興が城主とされ,以後,大垣城は近世城郭としての整備が進みました。1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで池田恒興が戦死すると,息子の池田輝政が継ぎましたが,1585年(天正13年)に池田輝政は岐阜城主に転じ,代わって,1585年(天正13年)に豊臣秀吉の甥・豊臣秀次の家老のひとりに任命された一柳直末が,大垣城に配されました。1586年(天正13年)の天正地震で全壊焼失してしまいましたが,1588年(天正16年)に一柳直末によって,また,1590年(天正18年)の小田原の役で一柳直末が戦死したため,功を挙げた伊藤盛景が城主となり,1596年(慶長元年)ごろまでには4重4階の天守閣が作られました。
 1599年(慶長4年)に伊藤盛景が死ぬと,子の伊藤盛宗が跡を継ぎますが,関ヶ原の戦いで西軍に属したため,西軍の根拠地となりました。しかし,関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され落城しました。
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 江戸時代に入っても,はじめのころは城主がめまぐるしく変わりました。
 まず,徳川家康は譜代大名として,徳川家康の従兄弟にあたる重臣・伊勢亀山藩石川家初代の石川家成の長男である石川康通を城主にしました。石川康通は,す。大河ドラマ「どうする家康」に登場する石川数正は従兄に当たります。
 石川康通は,1573年(天正元年)武田軍と戦って武名を挙げ,1580年(天正8年)家督を継ぎました。さらに,関ヶ原の戦いで戦功をあげ,1601年(慶長6年)大垣藩に加増移封されましたが,1607年(慶長12年)父・石川家成に先立って病死してしまいました。子の石川忠義は幼少のため,家督は父・石川家成が再び継ぎますが,石川家成も2年後に死去し,甥の石川忠総が継承しました。
 石川忠総が藩主の時代に,大垣城に総堀が開鑿されましたが,大坂の陣で戦功を挙げたことで1616年(元和2年)豊後国日田藩に移封され,今度は下総国関宿藩より松平忠良入りましたが,1624年(寛永元年)に没すると,丹波国福知山藩より岡部長盛が入りますが,1632年(寛永9年)に没し,その後は,山城国淀藩より松平定綱が入りますが,1635年(寛永12年)桑名藩へ移封されます。
 最後に,摂津国尼崎藩より戸田氏鉄が10万石で入って,以後,明治まで戸田家が支配することになりました。
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 大垣城は,1873年(明治6年)の廃城令で廃城となりますが,天守など一部の建物は破却を免れましたが,第2次世界大戦の空襲によって焼失してしまいました。
 現在の天守閣は,1959年(昭和34年)に郡上八幡城を参考に復元されたものですが,それは,郡上八幡城が戦前の大垣城をモデルに復元されたものだったといういわれからです。
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 ここで,大河ドラマ「どうする家康」で出てくる石川数正の名前が登場したので,以下,石川数正について書きます。
 石川数正は,徳川家康が今川義元の人質になっていた時代から近侍として仕え,1560年(永禄3年)に今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗死し,徳川家康が独立すると,その後,今川氏真と交渉し,徳川家康の嫡男・徳川信康と正室・築山殿を取り戻したり,織田信長と交渉を行い清洲同盟成立に貢献したり,三河一向一揆では,徳川家康に尽くしたりと貢献しました。
 また,そののち,姉川の戦い,三方ヶ原の戦い,長篠の戦いなどの多くの合戦に出陣して武功を挙げました。1582年(天正10年)の本能寺の変で織田信長が死去し,豊臣秀吉が台頭すると,豊臣秀吉との交渉を担当し,小牧・長久手の戦いで和睦を提言しました。
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 ところが,1585年(天正13年),徳川家康から豊臣秀吉へ出奔してしまったのです。また,その理由が定かではないのです。
 石川数正は,三河勢の軍事的機密を知り尽くしていたので,以後,三河勢は三河以来の軍制を武田流に改めることになってしまいました。以後,豊臣秀吉の家臣として仕え,豊臣秀吉より松本藩に加増移封されました。石川数正は,松本に権威と実戦に備えた雄大な松本城の築城と街道につないで流通機構の経路を掌握するための城下町の建設,天守閣の造営など政治基盤の整備に尽力しました。

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 NHK大河ドラマ「どうする家康」にちなんで,桑名藩の殿様だった本多忠勝に関連した桑名城跡と九華公園を訪れた折に,お隣の六華苑にも行きました。そこで,今回は「どうする家康」とは関連はありませんが,六華苑について書きます。
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 今回,やっと六華苑に行くことができました。はじめて桑名に行ったとき,こんな豪邸があったことに驚きましたが,そのときは,コロナ禍で公開中止でした。
 公開されている内部は,先日行った名古屋市白壁の豊田佐助邸に似ているなあと思いました。それは,ともに,同じ時代の邸宅だからでしょう。とはいえ,いくら豪華でも,今のわれわれが住んでいるような住居のほうが,狭くても機能的であり,住み心地もよいので,私は,このような豪邸を見ても,住みたいとは思わないのが,皮肉というか何というか。
 時代はさかのぼりますが,江戸時代の上級武士の邸宅が各地で公開されていて,これまでいくつかを見ることができました。これもまた同じようなもので,現在の住居から見たとき,まったくもって,居心地がいいとは思えません。とはいえ,その時代は,ほとんどの庶民は,こうした住居とはかけ離れた小さく不便な家に住んでいたわけだから,それと比べたら,あまりに豪華なので,私は,その格差を考えると,複雑な気持ちになります。

 六華苑は「二代」諸戸清六の旧邸宅ということなので,「初代」がいるはずだからと,初代諸戸清六について調べてみました。
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 諸戸清六は世襲名です。初代諸戸清六はもとの名を諸戸民治郎といって,1846年(弘化3年)に生まれ,1906年(明治39年)に亡くなった米穀商,林業家,実業家,富豪でした。諸戸家は農業を営み,以前から大地主でしたが,父・諸戸清九郎が商売に失敗し身代を潰したので,一家は住み慣れた地を離れ,米・塩・肥料の採取業をしながら各地を転々としたのち,桑名の町に来て船馬町に小さな借家住まいをし,米搗き業の傍ら船宿を営みました。1860年(安政7年)に父が亡くなり家督を継いだときの諸戸清六が受け継いだものは1,000両を越える莫大な借金でした。
 諸戸清六は,父が残した負債を一身に担い,舟人となり貨物を運漕,また,米穀仲買人になり,父の残した借金返済に奮闘の末,僅か3年で借金を完済しました。さらに,明治維新を商機として事業を拡大し,西南戦争における軍用御用での仕事ぶりで多くの政府要人や三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎などの信頼を得て,1878年(明治11年)には大蔵省御用の米買付方となりました。1884年(明治17年)に山田家屋敷跡を購入。居を移した後は商売だけでなく水道敷設など公共の事業も行いました。1904年(明治37年)水に恵まれていなかった桑名市内に独力で諸戸水道完成し,水道の水は無償で提供されました。
 1906年(明治39年)に亡くなりました。享年61歳でした。
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 二代目諸戸清六は初代諸戸清六の四男・諸戸清吾です。
 早稲田中学校に進学しましたが,18歳のときに父の死去で諸戸家はふたつにわけられ,家屋敷は次男の諸戸清太が相続し,四男諸戸清吾が諸戸清六の名を襲名し,1906年(明治39年)に家督を相続しました。長男と三男は早逝しています。
 結婚し、1911年(明治44 年)に23 歳になった二代諸戸清六が住んだ住居が,現在,六華苑として公開されている旧諸戸清六邸で,1911年(明治44年)に着工し,1913年(大正2年)に竣工したものです。

 六華苑は,揖斐・長良川を望む約18,000平方メートルの広大な敷地に,洋館と和館,蔵などの建造物群と「池泉回遊式」庭園で構成されています。一部の改修と戦災を受けたものの,創建時の姿をほぼそのままにとどめています。鹿鳴館の設計で有名なイギリス人建築家ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)設計による,和洋の様式が調和した明治・大正期を代表する貴重な文化財です。ジョサイア・コンドルは25 歳で来日して以来,67 歳で没するまで70近くの建築作品を世に送りましたが,そのほとんどは東京と神奈川県内に集中していたため,関東大震災や戦災等により崩壊し,現存する作品は非常に少ないといいます。六華苑は、地方に唯一現存するコンドルの住宅作品として、注目されています。
 なお,現在,諸戸宗家は,諸戸林業,諸戸商会,諸戸タオル,諸戸土地,日本みどり開発,諸戸本家は諸戸林産,諸戸緑化産業,諸戸産業,諸戸造林などの各事業を中心に「諸戸グループ」を形成しているということです。
 桑名市は平成3年に土地を取得し,建物は諸戸家からの寄贈を受け,整備工事の後,1993年(平成5年)に「六華苑」という名称で一般公開しました。そのうち,洋館および和館は1997年(平成9年)に国の重要文化財に指定され,他の6棟が三重県の有形文化財に指定されています。また庭園は2001年(平成13年)に国の名勝に指定されました。

 この日,六華苑には,多くの観光客が来ていました。
 受付で聞いてみると,ここは,現在公開されている映画「わたしの幸せな結婚」のロケ地だったから,ということでした。
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 2019年に小説とコミックが刊行されるやいなや,瞬く間にシリーズ累計発行部数が650万部を突破,2022年春にはテレビアニメ化も発表されたのが「わたしの幸せな結婚」です。
 明治・大正期を彷彿とさせる架空の世界を舞台に,心を閉ざしたエリート軍人と家族に虐げられて育った少女の政略結婚から始まる異色のラブストーリーで,孤独なふたりが少しずつ互いの大切な人になっていく姿が多くの共感をよびました。
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だそうです。コミックも読まず,テレビもほとんど見ない私は,全く無知でしたが。

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 桑名市は私の自宅からさほど遠くないのに,通り過ぎるだけで,行ったことがありませんでした。私の印象は,江戸時代に東海道が宮宿から七里の渡しで着くのが桑名宿であることと,桑名といえば焼き蛤,ということくらいでした。
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宮重大根のふとしくたてし宮柱は,ふろふきの熱田の神の慈眼す。七里のわたし浪ゆたかにして,来往の渡船難なく,桑名につきたる悦びのあまり,めいぶつの焼蛤に酒くみかはして,かの弥次郎兵衛喜多八なるもの,やがて爰を立出たどり行ほどに,此頃旅人のうたふをきけば
はやりうた「しぐれはまぐりみやげにさんせ,宮のお亀が情所ヤレコリヤ,よヲしよヲしよし
  十返舎一九「東海道中膝栗毛」五編上
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熱々の風呂吹き大根じゃないけれど,宮島大根のように立派に建てられた柱を有する熱田神宮の神に守られた七里の海路は波静かで,往来の船は難なく桑名の湊に着いた喜びのあまり,名物の焼蛤に酒を酌み交わして,かの弥次郎兵衛北八なるもの,やがてここを出立し,辿って行くと,此の頃,旅人の唄う声が聞える。
流行唄「しぐれははまぐりみやげにさんせ,宮のお亀が情所やれこりゃ,ようし,ようし,よし」
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 こんなことではいけないと,数年前に七里の渡し跡に行ってみたことがあって,そのときの様子はすでにブログに書きましたが,七里の渡し跡の周辺は,旧東海道に沿って,桜の名所である九華公園(きゅうかこうえん)と,六華苑という明治時代,この地に住んでいた山林王・諸戸清六の旧邸が公開されているということで,いろいろ見どころが多彩なのに驚きました。
  九華公園は桑名城跡を公園として整備したもので,桜やつつじ,花菖蒲の名所として知られていますが,以前行ったときは春でなかったので桜も見られず,また,コロナ禍で六華苑も閉館していたので,2023年3月29日,天気がよかったこともあって,また,桜が満開だろうと,再び行ってみることにしました。
 しかし,平日とはいえ,すごい人混みで,駐車場もほぼいっぱいだったのには参りました。なんとか車を停め,駐車場からお目当てだった九華公園へ歩いていきました。九華公園で桜を愛で,お堀で船に乗り,春のきもちのよい時間を過ごしました。現在,桑名城はほとんど何も残っておらず,九華公園に一か所だけ,江戸時代のお城の石垣が残っていました。何でも,それ以外の場所の石垣は,四日市市が海を埋め立てるときに持っていってしまったという話です。桑名市の怨念がこもっています。

 私は,日本各地,どこも,行ってみたときに最も興味をもつのが,江戸時代,そこがどのような藩だったのか,また,治めていた殿様がだれだったのか,ということです。そこで,桑名藩についても調べてみると,何と本多忠勝という名前が出てきました。こりゃ「どうする家康」ではないか,ということで,興味をもちました。実際,九華公園の入口に本多忠勝の大きな銅像がありました。
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 「徳川家康」を支え,生涯に57度も戦場へ赴いてもかすり傷ひとつ負ったことがないといわれるほど勇猛な武将として有名な本多忠勝は,本多忠高と小夜の長男として,1548年(天文17年)現在の岡崎市にあった西蔵前城で誕生しました。父の本多忠高は,本多忠勝2歳のときに今川氏との間で勃発した「安城合戦」で戦死したので,幼少期は叔父の本多忠真を頼り,母と共に現在の岐阜県加茂郡にあった洞城に移り住みます。
 本多忠勝の初陣は1560年(永禄3年)の「大高城兵糧入れ」で,13歳だった本多忠勝は危険な任務を見事にやり遂げました。1563年(永禄6年)の「三河一向一揆」の際には,一揆衆に味方する本多一族の中でも数少ない徳川方として大活躍し,その働きぶりが徳川家康の目に留まり,愛用していた「蜻蛉切」とよばれる槍とともに,一躍その名を馳せました。この「蜻蛉切」とともに本多忠勝の武具として有名なのが「鹿角脇立兜」で,鹿の角をモチーフにした脇立は,和紙を貼り合わせて黒漆で塗り固められたものです。
  1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」で奮闘した本多忠勝は,その功績によって桑名に転封され,桑名藩を創設し,初代桑名藩主となりました。
 本多忠勝は,1604年頃(慶長9年)から病気がちとなり,1609年(慶長14年)には嫡男・本多忠政に家督を譲って隠居し,翌年病死しました。享年63歳でした。 
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 本多忠勝が桑名城下で行った整備として最も有名なのが「慶長の町割り」です。これは,三重県の北東を流れる現在の員弁川,当時の町屋川と大山田川の流れを途中でせき止め,そこを外堀として利用することで現在の街並みの大部分を完成させたもので,今日でいう都市計画事業です。今でも桑名市の中心部は慶長の町割りの名残をとどめています。
 本多忠勝は,徳川家康のみならず織田信長や豊臣秀吉からも愛された武将でした。
 辞世の句は
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 死にともな 嗚呼死にともな 死にともな
 深きご恩の君を思えば
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 主君の深い恩に報いることができなくなると思うと
 死にたくはない
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で,晩年は幕府の中枢からは距離を置いていた本多忠勝ですが,最後まで主君・徳川家康への忠誠心が変わることはありませんでした。

 本多忠勝が桑名藩を創設する以前の桑名は,伊勢国の一部として,はじめは滝川一益が治め,没落後は,織田信長の次男・織田信雄が支配し,次に,豊臣秀吉の家臣・一柳直盛が入封。さらに,織田信長の下で勇名を轟かせた氏家直元の次男・氏家行広が入りましたが,関ヶ原の戦いで西軍に与したので壊滅し,本多忠勝が入ることになったのです。
 本多忠勝の嫡男・本多忠政は大坂の陣に参戦し活躍し,また,豊臣秀頼の正室であった千姫と本多忠政の嫡男・本多忠刻が婚姻したこともあって,1617年(元和3年)に武功により西国の押さえとして播磨姫路藩に加増移封されました。
 そして,本多家に代わって家康の異父弟である松平定勝が入りました。
 それ以後の桑名藩は,歴史の荒波に翻弄され,さまざまま事件が起き,とても興味深い歴史があります。ここではそれを書くことが本意でないので省略しますが,幕末に桑名藩は朝敵となってしまい,いわれなき差別を受けて肩身の狭い思いをしたり,西南戦争では怨みを晴らすために400名もが出征したという悲劇がありました。

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☆☆☆
金星と天王星の大接近。

4月1日に写しました。
薄雲があります。
3月31日の方が接近したのですが,曇りでした。
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 早朝,本證寺へ行った帰り,どこに寄ろうかと考えていて思い当たったのが,長久手古戦場でした。
 愛知県道6号力石名古屋線を走っていると「古戦場南」という交差点があります。私は,この交差点を通り過ぎることはあっても,この交差点の北西にある,長久手古戦場(古戦場公園・色金山歴史公園)には行ったことがありませんでした。
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 1584年(天正12年)に豊臣秀吉と徳川家康が激烈な戦いを繰り広げた主戦場跡地で,国の史跡に指定されている。現在,この場所は「古戦場公園」として整備され,園内には武将の塚や郷土資料室がある。また,ここから約2キロメートル北にある「色金山歴史公園」には,家康が合戦時に腰掛けて軍議を開いたとされる石が残されている。
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 よく通るのにこれまで行ったことがないのはそれほど興味がそそられるわけでもなかったことが理由ですが,近くにある史跡というのはどこもそんなものです。しかし,おそらく,NHK大河ドラマ「どうする家康」でもそのうちとりあげられることでしょうし,わざわざ行かないことには,この先も決して行くことがないのではと思ったので,今回行ってみることにしたのです。

 長久手古戦場は,小牧・長久手の戦いのあったところです。
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 1582年(天正10年)織田信長が本能寺の変で最後をとげ,天下統一の事業を受け継いだのが豊臣秀吉でした。豊臣秀吉は,山崎の戦いで明智光秀を討ち,織田家の跡目相続を決める清須会議で,織田信長の二男織田信雄,三男織田信孝を跡継ぎと認めず,織田信長の孫の三法師を跡継ぎとしました。そして,三男織田信孝と結んで対抗する柴田勝家を賤ヶ岳の戦いに破り,織田信孝を知多郡野間で自害させ,織田信長の後継者としての位置を固めました。
 そこで,二男織田信雄は,豊臣秀吉と戦うために三河の徳川家康に援助を求めました。1584年(天正12年),徳川家康は主家織田氏を助けるという大義名分で,1万5千の兵を率いて清須城へ入り,織田信雄軍と合流します。
 豊臣秀吉軍の森長可は羽黒の八幡林で徳川家康勢と戦って敗れ,それを聞いた豊臣秀吉は直ちに三万の兵を率いて大垣から犬山へ着き,小牧山を北東から包囲するよう布陣し,楽田に本陣をかまえました。一方,織田信雄・徳川家康連合軍は小牧山に本陣をかまえて東へ連砦を築き,豊臣秀吉軍に対しました。しばらくは,小競り合いがあっただけで,両軍に大きな動きは見られませんでした。
 がっぷり四つに組んだ横綱相撲です。
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 やがて,豊臣秀吉が,池田恒興の,徳川家康の本拠地岡崎を奇襲しようという進言を聞き入れ,作戦がはじまりました。
 豊臣秀吉軍は,2万の大軍を4隊にわけ,楽田から物狂峠を越え山裾にそって,大草,関田を経て上条に野営し,庄内川を渡って長久手方面へ向かいました。しかし,この動きが徳川家康側に通報されていて,徳川家康は,ただちに水野忠重を小幡城に向かわせ,自らは9,300の兵を率いて,如意,勝川を経て庄内川を渡り,小幡城へ入りました。
 徳川家康軍の先遣隊が白山林で豊臣秀吉軍の豊臣秀次隊を打ち破ります。そして,徳川家康軍の本隊が長久手に進み,豊臣秀吉軍の池田恒興・森長可両軍を迎えたので,ついに一大決戦がはじまりました。
 激戦ののち,徳川家康軍の優勢が目立ちはじめ,池田恒興,森長可の両大将が戦死し,豊臣秀軍は崩れました。この敗報を聞いた豊臣秀吉は,2万の兵を率いて長久手へ向かうのですが,徳川家康はいち早く兵をまとめ,遠回りして小牧山へ帰ってしまったので,豊臣秀吉は兵を率いて楽田に帰りました。
  ・・
 その後,両軍のにらみあいが続きましたが大きな合戦をすることもなく,結局,豊臣秀吉軍の主力は小牧地区から退き,また,徳川家康軍も兵を引きました。そして,桑名で豊臣秀吉と織田信雄が和議を結び,次いで,徳川家康も豊臣秀吉と和解し,8月にわたる小牧・長久手の戦いが終わりました。
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という流れなのですが,戦いが尾張地方全体に及んでいたので,この地だけが戦場ということでもなく,ここは,いわば,長久手という名前を冠にしたシンボル的存在で,公園となっています。
 また,小さな博物館もありました。

 私は,これまで,長久手古戦場だけでなく,自宅からそれほど遠くもない史跡には,通り過ぎることは多くとも,ほとんど行ったことがありません。おそらく,行ってみてもどこも大したことはないだろうけれど,これでは,この先も行かずに終わるように思うようになったので,これからはわざわざ行ってみようと考えているこのごろです。

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 NHK大河ドラマ「どうする家康」は,昨年の「鎌倉殿の13人」とは奥行きが違い過ぎる駄作で,比べるべくもないのですが,そんなドラマの内容とは関係なく,「鎌倉殿の13人」の主な舞台は鎌倉で遠かったのですが,今年の「どうする家康」の舞台は地元なので,私は,これを機会に,暇つぶしに,このドラマで紹介された地元の史跡を巡ろうと思っていて,先日2023年3月16日の早朝,安城市の本證寺へ行ってきました。
 ちなみに,来年の大河ドラマ「光る君へ」の舞台はおそらく京都なので,また,そのときはそれを口実に,足繁く京都へ通おうと思っています。
 朝早く行ったのは,人がいない時刻を狙ったからです。私は団体さんが嫌いです。到着したときは私以外にだれもいなくてよかったのですが,午前6時前だというのに,すでに道路は渋滞していたので,到着するまでがたいへんでした。愛知県は道路が広いと誤解されがちですが,名古屋の南部から岡崎,知立,安城,そして,知多半島あたりは,もともと大型トラックが多く走り,また,橋が少なく道路も限られているから慢性的に渋滞していて,朝6時前でもすでにすごい交通量なので,近ごろ値上がりした高速道路を利用しない限り,どこも非常に走りにくいのです。

 では,話題を本證寺に戻します。
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 若いころの徳川家康と戦った寺・本證寺は,鎌倉時代に慶円上人によって開かれた真宗寺院です。「徳川家康三大危機」のひとつに挙げられる三河一向一揆では,本證寺は一揆勢の中心拠点のひとつとして徳川家康と戦いました。二重の堀をもつことから,城郭寺院ともよばれています。
 当時,東西320メートル,南北310メートルの外堀に囲まれた寺内町は,守護不入(治外法権と租税免除)となっていました。一揆後は徳川家康により破却されましたが,約20年後に赦免され,江戸時代後期には200余の末寺を持つ大寺となっていました。
 本證寺の中庭には,徳川家康の無二の参謀として知られる本多正信の供養塔と伝わる碑が残っています。
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と,地元安城市のホームページにあります。

 三河一向一揆は,戦国時代,西三河全域で1563年(永禄6年)から1564年(永禄7年)までの半年間にわたって,蓮如の曾孫である本證寺10代空誓が中心となって浄土真宗の本願寺門徒が,領主の徳川家康と戦ったものです。
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 本證寺,上宮寺,勝鬘寺は三河における本願寺教団の拠点で,徳川家康の父・松平広忠の代に守護使不入の特権を与えられていました。
 三河一向一揆は,1562年(永禄5年)に,本證寺に侵入した無法者を西尾城主・酒井正親が捕縛したことが,守護使不入の特権を侵害されたとして起きたのが発端とか,あるいは,1563年(永禄6年)に,松平氏家臣の菅沼定顕に命じて上宮寺の付近に砦を築かせ,上宮寺から兵糧とする穀物を奪ったことに端を発したとかいわれます。
 1564年(永禄7年),馬頭原合戦の勝利で徳川家康は優位に立ち,和議に持ち込みました。
 徳川家康は和議を結ぶことで一揆衆を完全に解体させたのち,本願寺の寺院に他派・他宗への改宗を迫るなど,本願寺教団には厳格な処分を下す一方で,離反した家臣には寛大な処置で臨み,家中の結束を高める事に成功しました。
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 「徳川家康三大危機」は,三河一向一揆のほかには,三方ヶ原の戦い,伊賀越えですが,私は,三方ヶ原の戦い,伊賀越えについては,これまでの大河ドラマでも大きく取り上げられていたし,よく知っているのですが,三河一向一揆は知りませんでした。高等学校の教科書にもまったく記載がありません。「どうする家康」では,あまりに描き方が雑だったのが残念でした。

 車で行ったので,駐車場が心配でしたが,広い臨時の駐車場ができていたので,停める場所はたくさんありました。日本の多くの観光地のいつもの常というか,どこも同じというか,それほど見どころがある場所でもなかったのですが,それよりも,こうしたところに行くのは,歴史が作られた場所だということに想いを馳せることに意義があるのでしょう。

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◇◇◇
月齢27.6の月。

日の出前20分。東の空に月がきれいでした。
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◇◇◇
ソメイヨシノ開花。

暖かな日差しに桜の花も誘われました。
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