しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:東北旅行LIVE > LIVE・2023春

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今回の旅の最後に訪れたのが青森市文化観光交流施設・ねぶたの家「ワ・ラッセ」でした。
「ワ・ラッセ」は,2011年(平成23年)に青森駅ホーム東側に広がる青森ウォーターフロントエリアに開業したもので,青森ねぶたの保存伝承のほかに,青森の観光の拠点となっています。
名称は公募により,最優秀作品である「ワ・ラッセ」と優秀作品である「ねぶたの家」を組み合わせたものだそうです。
ねぶたに関する観光施設は,以前は,民間の「青森自然公園ねぶたの里」というものがあったということです。「青森自然公園ねぶたの里」があった一帯は,古代,女王・阿弥須(おやす)とその弟・頓慶(とんけい)率いる蝦夷の集落であったとされ,坂上田村麻呂がこれを攻める際に巨大な人形を用いたというのがねぶたの起源であると伝えられていたそうですが,坂上田村麻呂は現在の盛岡市までしか達していないことが史実として青森市民に知られるようになったことで白けてしまったようです。それが原因かどうかは知りませんが,2013年(平成25年)に入場客の減少によって事業を停止してしまい,現在,ねぶたに関する施設はここだけ,ということです。
館内には巨大なねぶたが多く展示されていて,興味深いものではありましたが,「青森市=ねぶた」と思っていた私には,弘前市で見たねぷたの博物館に比べたら,所員の説明があるわけでもないし,これでねぶたの何がわかるか? という感じで,少し物足りな感がありました。

「ワ・ラッセ」を出て,これで,青森市の観光はおわりです。そしてまた,今回の旅の旅程もおわりです。
JR青森駅を通り抜けて,車を停めた場所に戻り,車で空港へ行くことにしました。
JR青森駅は現在リニューアル工事中でした。コンコースに,青森にあるリンゴジュースだけを置く自動販売機がありました。これは「青森の心意気を示した自販機」とネットで話題をよんだものだそうです。調べてみると
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この自動販売機は「JR東日本ウォータービジネス」が青森駅と新青森駅に設置している「acure」(アキュア)で,販売している商品はオリジナル飲料ブランド「acure made」(アキュアメイド)の「青森りんごシリーズ」です。
2017年(平成29年)から設置されていて,ツイッターアカウント「ぐるぐる@guruguruuzumaki」さんが「リンゴジュースしか売らないという青森の心意気を示した自販機」とSNSに投稿したところ,多くの反響があったということです。
「青森りんごシリーズ」は「ふじ」「つがる」「王林」「トキ」「ジョナゴールド」「きおう」があり,また,「ふじ」を主体に「王林」などをブレンドした「青森りんご」もあります。
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とありましたが,現在,この自動販売機は東京にもあって,私も目撃しました。そんなことをしたら,レア感がなくなるのに…。

さて,青森空港は空港の建物のとなりにレンタカーオフィスがあります。青森空港へ車でアクセスるるには有料道路を通る以外に選択肢がなく,したがって,レンタカーオフィスに入るには,必ずこの有料道路を通る必要がある,というだけで,青森県に対するイメージがかなりダウンします。
とはいえ,考えてみれば,これは,セントレア・中部国際空港も同じです。
午後6時過ぎレンタカーを返却して,空港ビルに入りました。飛行機の出発は午後7時35分だったので,それまで,まず,空港内のレストランで夕食をとることにしました。青森空港にはレストランが数軒あったのですが,せっかく来たのだから青森グルメ,ということで,探し出したのが「かわら」という名前のお店の「味噌カレー牛乳ラーメン」なるものでした。
「味噌カレー牛乳ラーメン」が誕生したのは1970年代中頃だそうです。
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札幌市のラーメン横丁でラーメン店を経営していた佐藤清さんが,東北地方にも札幌ラーメンを広めたいと,1968年(昭和43年)に青森市に「味の札幌」を開店しました。
1970年代,青森市の松竹会館の映画館に支店を出した「味の札幌」で,ラーメンにケチャップやマヨネーズ,コーラなどさまざまなものを入れて食する遊びが中高生の間で流行しました。「味噌ラーメンにカレーとミルクを入れて食べるとなぜかおいしい」といううわさが流れはじめて,その要望によって,1978年(昭和53年)に正式なメニューとして「味噌カレー牛乳ラーメン」を発売したのです。それは知る人ぞ知るソウルフードという存在でしたが,世に台頭したのはカップラーメンとして発売された2008年頃のことでした。
現在は,店主の弟子達が「味噌カレー牛乳ラーメン」を受け継いでいます。
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とありました。「味噌カレー牛乳ラーメン」は,味噌ラーメンのスープにカレー粉と牛乳を入れたもので,具はチャーシュー,モヤシ,バター,ワカメとメンマを使用します。なかなかの味でした。昔,
お味噌汁にバターを入れて食べていたことを思い出しました。
「味噌カレー牛乳ラーメン」を食べてから,青森空港のラウンジで一休みして,空路,帰宅しました。帰りの飛行機にはなぜか松本アルプちゃんの絵が描かれてありました。
青森県の奥深さを知ったいい旅になりました。また,ぜひ,リピートします。

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今回の青森旅行の最終地は青森市です。
三内丸山遺跡から北に走って,青森市街地に着きました。まず,ひときわ高く目につくのがJR青森駅近くの青森県観光物産館「アスパム」という三角形の建物でした。「アスパム」は青森港の再開発事業に基づいて1986年(昭和61年)に建設されたもので,外観の三角形は青森の頭文字である「A」をかたどったもの,名前は,青森県(Aomori)観光(Sightseeing)物産(Products)館(Mansion)の頭文字だそうです。車を近くの駐車場に停めて,まず,そこに行きました。
青森市街地はJR青森駅近くでも駐車料金が安いことにまず驚きました。次に驚いたのは,ものすごい強風でした。
「アスパム」には展望室があるということだったので,登ってみました。展望台からは青森市の街並みが一望できました。この日は霧っていたので無理だったのですが,条件がよければ北海道の陸地も見えるということでした。

私が青森市で行きたかったのは,かつて青函連絡船として運用され,現在は博物館となっている八甲田丸とねぶたの展示館でした。
そこで,「アスパム」を降りて,まず,八甲田丸に行くことにしました。
以前書いたように,私は今から40年以上前に,一度青函連絡船に乗りました。私が乗ったのは,北海道でスキーを楽しんだ帰り,つまり,真冬のことだったのですが,そんな時期に津軽海峡を海路渡るものではありませんでした。
函館港から乗り込んだときは,さあ,3時間以上の船旅を楽しむぞ! と食べ物,飲み物を買い込んで,意気揚々と座席に着いたまではよかったのですが,出航してまもなく,船酔いになりました。こうなるといけません。当然,降りることもできないから,どうにもならないのです。
今も変わらず,というか,当時の私は今以上によほどのバカで,酔い止め薬を飲むことも知らず,それは,船もバスも車もそれまで酔ったことなどなかったからですが,そこで,ない知恵を絞って考え出したのが,とにかく寝る,ということでした。
そんなこんなで,せっかくの青函連絡船の旅は,まさに悪夢と化して,酔ったこと以外に何も記憶がありません。それ以来,私には,「船旅=船酔い」というトラウマができ上りました。
しかし,いい経験をしました。今は青函連絡船もなくなりましたが,私には,青函連絡船に乗ったことが懐かしい記憶としてきざみこまれたからです。

青函連絡船は,私が利用したのち,10年も経たずして,1988年(昭和63年)に通常運航が終了しました。八甲田丸はその後,さまざまな経緯をたどり,今は,青森港で余生を送っているのです。私が当時乗ったのが八甲田丸だったのかどうかはわかりませんんが,当時を懐かしむには十分でした。
船内はもっと往年のままなのかと期待したのですが,残念ながら,そうではありませんでした。
今は,北海道は飛行機であっという間ですが,もし,今,青函連絡船が運行されていたら載ってみたいものだと思ったことでした。
当時の私は,やっとの思いで到着した青森駅から上野駅まで,これもまた,念願だった寝台特急「ゆうづる」に乗ったのですが,この日,青森駅には,寝台特急「カシオペア」が停まっていました。

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私が小学校のころに習った歴史では,縄文時代は,稲作が普及する以前の狩りをしていた時代で,定住することなく,生活は不安定。やがて,静岡県の登呂遺跡に代表される弥生時代になると,稲作が普及して,人は定住するようになった,というものでした。しかし,その後,多くの遺跡が見つかることで,そうした定説は覆ることとなりました。
学校の教科ではその時代に正しいとされていることを学ぶのですが,今から考えると,正しいとされていたことの多くは正しくなかったし,わからないことはわからないと教えるべきだと今では思うようになりました。
やがて,弥生時代の遺跡として,佐賀県の吉野ケ里遺跡が見つかり,私もそこに行ったことがあります。また,縄文時代の遺跡も,全国各地に見つかるようになりました。その代表的な存在が,三内丸山遺跡ということだけは知っていたのですが,まさか,行くことができるとは思いませんでしたが,今回,青森県を旅することになって,ぜひ,行ってみたいと期待しました。

実際行ってみると,三内丸山遺跡が青森市街にとても近いことに私は驚きました。また,思った以上に多くの人が訪れていました。
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三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期末葉,今から約5,900年前から4,200年前の大規模集落跡です。
この地に遺跡が存在することは江戸時代から知られていて,1623年(元和9年)に多量の土偶が出土したこと,1796年(寛政8年),瓦や甕,土偶のような破片が見つかったことが記録されていました。 新しい県営野球場を建設するために,1992年(平成4年)から事前調査が行われると,この遺跡が大規模な集落跡とみられることがわかり,1994年(平成6年)には直径約1メートルの栗の柱が6本見つかり,大型建物の跡とも考えられたので,県は野球場建設を中止し,遺跡の保存を決定しました。
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ということです。
吉野ケ里遺跡は国の施設です。以前行ったときに,県の施設から国の施設になってずいぶんと予算がついたと聞いたので,三内丸山遺跡についても聞いてみると,ここは県の施設,ということだったのですが,それにしては豪華なことに私は驚きました。
縄文時代は,私が学校で習ったころに覚えたよりもずっと昔の1万年前までさかのぼり,そんなころから人がこうした営みを紀元後以上の長い間続けていたことを知りました。また,エジプト文明よりもずっと昔の話です。
縄文時代は身分の差もなく,争いもなく,おそらく,人類が幸せだったのはこの時代だったのかな,と思いました。

三内丸山遺跡にはレストランや土産物屋さんもありました。遺跡を見学したあと,私はレストランで「五千年の星」なるデザートを食べました。時刻はお昼だったので,ここでお昼を食べてもよかったのですが,朝,民宿でもらったおにぎりがことのほか大きくて,これを遺跡に入る前に駐車場に停めた車の中で食べて,それがおいしくて,お腹が一杯だったのです。

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昨日来た道を戻って,私は,五所川原市を目指しています。
青森県の西海岸に沿ってあるのが深浦町(ふかうらまち)です。多くの人にとって,こんな場所はあえて行こうと思わなけれ無縁のところでしょう。私もそうでした。しかし,それは認識不足で,このあたり風光明媚なすばらしいところでした。
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深浦町は江戸時代,北前船の風待ち湊として栄え,大阪や京都などからの文化導入の表玄関として発展し,神社仏閣や信仰の対象として大切にされてきた数多くの巨木など,多くの文化財が散在しています。 また,白神山地や,西に広がる夕陽が美しい海岸線,十二湖など、豊かな自然が魅力的です。
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と,深浦町の観光案内にありました。

ところで,私の大好物はリンゴです。
途中で,「日本最古のりんごの木」という道路標示があったので,寄ってみることにしました。というか,日ごろお世話になっているリンゴだから,私は寄ってみなければならないと思いました。
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「日本最古のりんごの木」は,1878年(明治11年)に栽植された柏桑野木田のリンゴ畑に生育している,セイヨウリンゴの「紅絞」(べにしぼり)2本と「祝」(いわい)1本です。当時この畑を所有していた古坂乙吉が弘前の菊池三郎から苗木を譲り受けたものです。それぞれの主幹は,幹囲1.88メートル,樹高は「紅絞」が約6メートルと約5メートル,「祝」は約4メートル。
1867年(慶応3年),蕃書調所にアメリカからいろいろな果物が送られてきました。当時,博物学や農学、園芸学などの多方面において活躍した田中芳男がそれらの果物を試食したところ「アップル」が見た目も味もよかったので,この果物を日本に移植することを発案,セイヨウリンゴとよばれるようになりました。
それまでの在来種のワリンゴは,平安時代末期から室町時代に中国から移入されたものでしたが,小さくて酸味が強い上に硬くて渋みもあったので,セイヨウリンゴに駆逐されてしまいました。
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1871年(明治4年),内務省勧業寮からセイヨウリンゴの苗木30本が青森県に配布され,セイヨウリンゴの栽培がはじまりました。りんごの病害虫が大発生したりしましたが,試行錯誤を重ねた上,青森県の気候風土に合う優良品種7種を推奨し、「紅絞」と「祝」もその中に入っていました。
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「日本最古のりんごの木」は今も立派な実をつけます。収穫したリンゴは一般向けに販売され,一部は「長寿りんご」としてつがる市内の老人福祉施設に毎年寄贈され続けているそうです。私もいつか食べてみたいものです。
青森県を走っていると,まわりはリンゴ畑ばかりで,リンゴ好きの私にはうらやましい限りでした。

そうこうするうちに五所川原市に到着し,市街地を抜け,さらに行ったところに,太宰治記念館「斜陽館」がありました。
今のことはわかりませんが,私が若いころは,太宰治の熱烈なファンは少なくありませんでした。しかし,私は特に太宰治に想い入れがあるわけではありませんし,ファンでもありません。読んだことがある小説といっても,「走れメロス」とか「人間失格」といった学校で習うものくらいです。しかし,なぜか気になるのです。というか,意識しちゃうのです。そうだ,以前,「富獄百景」にちなんだ天下茶屋にもわざわざ足を運んだことがあるのでした。
私は,太宰治に限らず,小説というもの自体があまりよくわからないのですが,なぜか,日本各地を旅したとき,その土地にゆかりのある作家の記念館などを訪ねることがよくあって,そしてまた,そういう場所の雰囲気が好きです。自分が賢くなったような気がするのです。
で,キチンと読んだこともないのに,「太宰治=津軽=さびしいところ」というイメージが私には出来上がっていたのですが,まさか,「斜陽館」に行くことがあるとは思ってもいませんでした。このごろは,そんな場所ばかりです。ここは,もっと寂れた場所だと思っていたので,街中の豪邸であるのに驚きました。きっと,雪の深い冬に来ればイメージも異なったことでしょう。
館内でいろいろな説明を聞き,くまなく見学をして,最後に,太宰治愛用のマントを着て写真を写し,すっかり太宰治きどりになった私は,まさに「人間失格」なのでした。
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金木は,私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し,人口五,六千の,これといふ特徴もないが,どこやら都会ふうにちよつと気取つた町である。善く言へば,水のやうに淡泊であり,悪く言へば,底の浅い見栄坊の町といふ事になつてゐるやうである。
  太宰治「津軽」
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この旅の3日目,2023年5月20日です。
青森県は東側は太平洋に面し,西側は日本海に面しているので,かどうかは知りませんが,東側と西側では天気がずいぶんと違うようです。この旅では1日目は晴天,2日目は午前中は曇り,その後,少し天気が崩れましたが,天気は東に行くほど悪かったらしく,私は西に向かって行ったので,深浦町に着くころは雲が切れて,太陽も見えました。
そして,3日目は,東側は回復が遅れるけれど,西側の深浦町は朝から快晴,ということでした。
朝早く民宿をチェックアウトして,まず,十二湖に向かいました。
その途中,昨日案内してもらった森山海岸を美しく見ることができました。

青森県で有名なのは十三湖です。私も,帰ってから,十二湖に行ってきた,というと,十三湖ではないの? と聞かれました。
十三湖,または十三湊の名称の由来は,日本海と湖の間にある砂州に13の集落があった,とか,13の川が流入している,とか,アイヌ語で「湖の傍ら」を意味する「トー・サㇺ」に由来する,とかで,13の湖があるということではありません。
十二湖は十三湖とはまったくの無縁ですが,十二湖のほうは,たくさんの湖があることからその名があるようです。
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十二湖は深浦町にある複数の湖の総称で,白神山地の一角,津軽国定公園内にあります。
十二湖を構成する湖は,1704年の能代地震による標高940メートルの崩山(くずれやま)の崩壊で塞き止められた川から形成されたのではないかと推定されています。
十二湖という名称は,広大なブナの森に点在する33の湖沼が標高694メートルの大崩から見ると12個に見えるということに由来するといわれているようですが,実際は,湖の総数は33あり,1922年(大正11年)にこの地を訪れた十和田湖と奥入瀬を愛した高知県出身の詩人・大町桂月は,「日暮し山の眺望,湖畔群の幽闇,紅葉の残照など,十二湖は天下の奇観である。他日,必ず天下にその名を知られるであろう」といい,「山の中 三十三湖 紅葉かな」という句を詠んだそうです。
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十二湖の登リ口に日本キャニオンがあります。これは,浸食崩壊によって凝灰岩の白い岩肌がむき出しになったU字谷大断崖で,アメリカのグランドキャニオンにヒントを得て命名されたものだそうです。
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1953年(昭和28年),十二湖が県立自然公園に指定された際に訪れた国立公園審議委員の探検家・岸衛がグランドキャニオンと対比し「な~んだ,ベビーキャニオンじゃないか」と言ったことから岩崎村役場で「日本キャニオン」と命名したのが由来です。それまで,地元では「日暮山」とよばれていました。また,大町桂月も日暮山の眺望と詠んでいます。「日暮らし」とは,眺望が優れた場所を意味します。
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下からと上からと見ることができると,昨日,民宿の親父さんから聞いたのですが,下からみようと入って行った道なき道で私は道に迷い,見ることができませんでした。
上からは駐車場に車をとめて500メートルほど登ったところに展望台があって,そこから眺めることができました。
私は,当然,アメリカのグランドキャニオンに行ったことがあるのですが,それと比べちゃいけねえよ,というのが感想でした。

十二湖は周回道路があって,そのいくつかの湖を車の中から見ることができました。散策できる遊歩道もあるのですが,それらの多くは,昨年の豪雨の影響で通行禁止となっていました。
アメリカの国立公園にあるようなビジターセンターや白神十二湖エコ・ミュージアムがあったり,また,訪れている人も少なく,観光地化されておらず,静寂に包まれているところなので,ゆっくり風景を楽しむにはいいところかもしれません。
十二湖で,もっと時間をとってみたかったのですが,私は,この日は五所川原市にある太宰治記念館「斜陽館」や青森市の三内丸山遺跡に行こうと思っていたので,それほどの余裕はなく,早々に引き上げました。

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民宿の周辺を案内してもらって帰ってくると夕食の準備ができていました。この民宿は2階に5部屋くらいあって,したがって,食堂もかなり広かったのですが,今晩宿泊するのは幸い私ひとりでした。
この日もまた,地酒を注文しました。
日本の旅は,温泉と食事と地酒に限ります。これだけは,いかなる海外旅行よりも楽しいものだと,私は,このごろやっと知りました。
地酒は鰺ヶ沢町にある尾崎酒造の「ブナの白神」でした。
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蔵の目の前には日本海を臨み,後ろには荘厳な岩木山。そして,神々しい白神山地。
そのような自然豊かな地で,1860年(万延元年)より地域に根差した酒造り生業とし, 現在に至ります。 酒造りとしては「華想い」や「華さやか」といった県産米を多く使用し,酵母も同 じく青森県で造られた酵母を多く使用し,特に仕込み水に至っては「世界自然遺産  白神山地」の伏流水をふんだんに使い仕込を行っています。しっかりとした味わ いが特徴的な辛口タイプのお酒を製造しています。
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ということでした。
私はまだまだ修行が足らないので,お酒の味についてコメントができないのが残念です。

さて,夕食ですが,何というボリュームなのでしょう。これがまた,この民宿の評価を高める理由なのですが,それにしても,正直,気が遠くなりました。ご飯も食べ放題だったのですが,私は,極力ご飯を食べずに,完食を目指すことにしました。
しかも,これで終わりではなく,さらに,魚が2匹,次々に出てきました。
とてもおいしかったのですが,食べ終えるのがたいへんでした。しかし,完食しました!
宿の感想の書き込み帳ががあったのですが,食べきれずにごめんなさい,朝食は少なめにお願いします,というものが多かったので,宿泊者はみな,悪戦苦闘しているようでした。

さて,翌朝です。
朝食は,覚悟を決めていたのですが,思ったほどのボリュームでなく安心しました。
さて,この日はこの旅の最終日。早々にチェックアウトをしたのですが,お昼にと,おにぎりを持たせてくれました。まさに,至れり尽くせりでした。

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私が想像していたこの民宿は,海岸に接していて,窓から夕日がきれいに見られるだろうということでした。しかし,実際は全く違いました。部屋も狭く布団も堅く,窓からは古い部落の建物が見られるだけで,一体,どうしてここが評判がいいのか,まったくの謎になってしまいました。この時点では。
昨年行った四国の祖谷観光旅館も同じようなものでしたが,そこは,かずら橋に最も近いところで,ライトアップなどを歩いて見にいくことができたという地の利がありました。

私の評価が急転したのはここからです。
お風呂から出て,夕食までのんびりしていると,声がかかりました。
夕食前に,宿の親父さんが付近を案内します,と言って,車に乗るように薦めました。一見とっつきにくそうな親父さんだったのですが,実際は親切心に溢れ,また,郷土愛いっぱいの人で,この地を知ってほしいという気持ちが体中にみなぎっていました。
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車で少し行ったところに,森山海岸という夕日の美しい場所がありました。この日はあいにく晴天ではなかったのですが,雲の合間から幻想的な夕日を見ることができました。また,海岸に沿ってJR五能線が走っているのですが,そこに見えたJR五能線のトンネルが,何でも,日本一短いトンネル,という話でした。家に帰って調べたら,正しく,日本一ではなく,JR東日本一だそうですが。
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青森県深浦町のJR五能線,全長9.5メートルの仙北岩トンネルは,JR東日本で一番短いトンネルで,日本海に面する美しい景色を売りに脚光を浴びつつあります。
JR五能線を管轄するJR東日本秋田支社によると,仙北岩トンネルは,陸奥岩崎と十二湖間で1931年(昭和6年)に海に突き出た岩壁を掘って造られました。2両編成だと通り抜けるまでわずか5秒足らずです。同じ車両の前後がトンネル両端から顔を出し,白い岩肌を「串刺し」にする光景を近くの海岸から楽しめるとあって,しばしば鉄道ファンが撮影に訪れます。
日本海沿岸を走るJR五能線は,ローカル線の風情が色濃く残り,ファンの多い路線です。秋田支社は新たなスポットの登場に「地元と一緒に情報発信をしながら観光振興につなげたい」と意気込んでいます。
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と新聞記事にありました。

また,ここは,2008年に放送されたNHKテレビドラマ「感染爆発〜パンデミック・フルー」のロケ地だったそうです。
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「感染爆発〜パンデミック・フルー」は,2008年1月12日に,NHK総合テレビのドキュメンタリー番組「NHKスペシャル~最強ウイルス」シリーズの第1夜として制作・放送されたテレビドラマです。
日本海に面する与田村(架空の村)で「H5NI型」とよばれる新型インフルエンザが相次いで確認されました。政府は村を徹底的に封じ込めて根絶を図ろうするのですが。信じられないスピードでウイルスが東京中に蔓延し,感染者・死者は数万人に上る勢いとなってしまいました。
このような状態の中,あるひとりの医師が自分の病院でウイルスに感染した患者達を受け入れることを決めます。
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という内容だったそうですが,これが現実となってしまったのは,その12年後のことでした。
与田村という架空の設定だったのですが,ロケをしたのが私が泊まった民宿のある村で,当時,民宿にはNHKのスタッフが宿泊したそうです。
この話が12年後に現実となってしまったと,新聞に取り上げられたそうです。

さらに,ドラマ「砂の器」でも,この地がロケ地となったということです。
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深浦町の森山海岸の小さな岬の上に「賽の河原」があります。
JR五能線の十二湖駅から車で2分から3分,国道101号線を北に走り、国道からそれてJR五能線を超えて岬の根元に駐車して、山道を5分ほど歩くと「賽の河原」に到達します。
岬の先端に位置する「賽の河原」は,慈覚大師が開いたとの伝承や言い伝えが残る民間信仰の地で,現在でも数多くの小石を積んだ供養塔が建立され信仰の篤さが感じられます。
 珍しい,海を見下ろす「賽の河原」は,TBSのドラマで放映された「砂の器」のロケ地にもなったそうで,冬場なら実に荒涼とした風景になるところです。
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これらに加えて,森山海岸にある象岩は,NHKBSPで放送している「にっぽん縦断こころ旅」で火野正平さんが手紙を読んだ場所です。私もその番組は見ました。
このように,以前行った佐渡島もそうだったし,ずっと前に行ったアイダホ州の村井牧場もそうだったけれど,私が旅に行って宿泊するところは,映画やㇻドラマのロケ地だった,みたいな話ばかりです。私がそうした場所ばかりを旅しているからなのかもしれませんが,何か不思議な気がします。

このあと,さらに,明日行ってくるといいよ,と言って,十二湖の観光の仕方までレクチャーしてもらいました。
JR五能線の十二湖駅の近くに祠があって,何でも,その祠は,近くに住んでいた夫婦の旦那さんの浮気がばれて,奥さんが旦那さんの首を切り,その首が飛んだ場所だとかいう話でしたが,そんな話,家に帰ってから調べても,ネット上のどこにも載っていませんでした。
私は,この場所のことは何も調べず,森山海岸も十二湖も,その存在さえ知らずに予約したのですが,こんなおもしろいところだと,行ってはじめて知りました。
民宿の親父さん,こんなに親切だったのですが,ただひとつ問題がありました。それは,私に,親父さんの話す津軽弁が英語以上に難解だったことです。通訳がほしい,と思いました。

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この日の宿泊先は,深浦町森山海岸にある「民宿 汐ケ島」でした。もともとは,青森県2泊3日の旅というサイトに書かれてあった不老ふ死温泉に泊ろうと思って,楽天トラベルで探したのですが,見つからなかったので,その近くのどこか,という程度のいい加減な気持ちで予約したものでした。私は,森山海岸へ行く途中で不老ふ死温泉を通ったとき,ここだったのか,と思いました。帰宅してから調べてみると,不老ふ死温泉はすばらしいところに感じたので,惜しいことをしたと思いました。
しかし,私が泊まった民宿もまた,なかなかのものだったし,何といっても,森山海岸はとても不思議なところだったし,また,十二湖という,それまでまったく知らなかった観光地を知ることができたから,それはそれでよかったのです。
今回の旅で,青森県は思っていた以上にすばらしいところだったから,私はリピートする気満々なので,次回は,ぜひ,不老ふ死温泉に宿泊しようと,今から狙っています。

さて,今回,私が向かっている民宿へ行く途中で,千畳敷海岸なる場所を通りました。千畳敷海岸は,1792年(寛政4年)の地震で隆起したと伝えられる海岸段丘面で,物珍しがった津軽藩の殿様がそこに千畳畳を敷かせ大宴会を開いたとされることからこの名がついたものということで,藩政時代は殿様専用の避暑地で庶民は近づけなかったといいます。
駐車場に車を停めて,少しだけ散策して見ました。
まず,おかしな形をしたカブト岩が目につきました。今日の1番目の写真がそれですが,このときは写真を撮らなかったので,この写真は,翌日,再びここに来たときに写したものです。カブト岩は,地元では,昔,あるサムライが刀で切り落としたものという伝説が伝わっているそうです。
また,私がそっくりだと思ったのは,ライオン岩でした。よくもまあ,こんなに似ている姿になったものです。

千畳敷海岸を出て,さらに南下をしていきました。
深浦町は,青森県の西海岸ですが,すばらしい景色がずっと続いていたところです。とはいえ,あまり知られていることもなく,おそらく,団体旅行ツアーもほとんど存在しないと思うので,かなりの穴場に違いありません。私はとても気に入りました。
そうこうしているうちに,秋田県の白神山地が見られるようになってきたころ,私が予約した民宿に到着しました。
ふつうの一軒家でした。こんなところに泊る人がいるのだろうか,とはじめは思ったほどだったのですが,昨日までは,付近の道路工事をしていた人たちが大勢泊まっていたとか。このあたり,昨年の夏の豪雨で,道路の多くの場所が今も復旧工事中でした。その工事も昨日で終わり,運よく,私が泊まった日は他に宿泊客がいませんでした。
とにもかくにも,夕食の前にひと風呂浴びることにしました。温泉でなかったことだけが残念でしたが,温泉は,昨日,酸ヶ湯温泉で,飽きるほど味わったので,吉とすることにします。
この民宿,ネットの口コミではえらく評判がよかったのですが,その理由が,このあと明らかになります。

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長勝寺から観光案内所まで戻ってきました。私が車を停めたのは,弘前市観光案内所の駐車場でした。
これで弘前市の観光を終えて,この日の宿泊先まで行くことにしたのです。しかし,観光案内所のあたりに気になる建物がいくつかあったので,弘前市を出発する前に入ってみることにしました。

弘前市の市街地には多くの洋館があるのですが,ひときわ変わった形をした洋館は,旧弘前市立図書館でした。これは,1906年(明治39年)に建てられ,1931年(昭和6年)まで市立図書館として利用されたものです。設計・施工は堀江佐吉で,木造洋風3階建て。八角形の双塔をもつルネッサンス様式を基調としながら,随所に和風様式が取り入れられているということでした。現在,一般に無料で公開されていて,1階は旧市立図書館の形態を復元し,当時の関係資料が展示してありました。また,2階には地方出版物や同人誌の紹介,ビデオによる文学碑めぐりのコーナーなどがありました。
その隣にあった洋館が旧東奥義塾(とうおうぎじゅく)外人教師館でした。旧東奥義塾外人教師館は,1903年(明治36年)弘前市立東奥義塾に招かれていた英語教師の宿舎として建設されたもので,木造2階建て。設計は,本間俊平とも堀江佐吉ともいわれています。キャンパスの移転に伴って,1987年(昭和62年)に市に寄贈され,ここもまた,一般公開されています。また,当時の街並みを再現したミニチュアが庭にありました。
最後に,観光案内所の隣にあった山車展示館に入りました。山車展示館は,1994年(平成6年)に建設されたもので,藩政時代から伝わる弘前市内各町会の山車を一堂に展示してありました。また,弘前ねぷたまつりの時に出陣する直径4メートルの「津軽剛情張大太鼓」も収納されていました。

さて,これで弘前市の観光を終えて,青森県の西海岸に向かいます。私がこの日宿泊するのは深浦町というところなのですが,そこがどういうところなのかはまったく知りませんでした。つまり,私は自分が宿泊する場所について知識もなく予約をしたのです。
先日,NHKBSPで「神様の木に会う~にっぽん巨樹の旅~」という番組が放送されていて,何となく見ていたのですが,その番組で日本一の大イチョウというものが紹介されていました。何でも,その大イチョウは青森県深浦町の「北金ケ沢の大イチョウ」だということを聞いて,私が泊まるところの近くだ,と驚きました。この番組は,2021年12月30日に初回放送された「神様の木に会う~にっぽん巨樹の旅~」の第4話の再放送だったのですが,それで,今回,ぜひ見たいと思っていました。
  ・・
「北金ケ沢の大銀杏」に行く途中で目についたのが「関の甕杉」という案内標示でした。
「関の甕杉」は深浦町関に位置する大杉で,推定樹齢1,000年以上,樹高30メートル,幹周り8.2メートル,という巨木でした。中世にこの一帯を支配した安東氏の内紛で戦死した霊を弔うために植樹されたと伝えられているもので,杉自体が神格化され「神杉」から「甕杉」,または,遠くから眺めると水甕の形に似ていることなどが名前の由来になったといいます。
また,そのとなりには「関の古碑群」がありました。これは,1340年(暦応3年)から1401年(応永8年)までに時宗の信徒が建立した関集落周辺の石碑を「関の甕杉」の下に集めたもので,42基あります。この地は中世「阿曽米関」(あつまえせき)とよばれる関所があったと推定される地域で,鎌倉末期に津軽大乱の戦場になったとの伝承もあります。
このあたりには,大イチョウのほかにも不思議なものが存在するものだと思いました。

「関の甕杉」を見てから,「北金ヶ沢の大イチョウ」を目指しました。迷うこともなく,案内標示を見つけました。目的地に着きました。少し離れたところに広い駐車場があったのですが,停まっていた車は私の車以外には1台だけでした。
  ・・・・・・
「北金ヶ沢の大イチョウ」は深浦町北金ケ沢塩見形に位置する大木で,推定樹齢1,000年以上,樹高31メートル,幹周りは22メートルもあります。
伝説によると,この地は,飛鳥時代の7世紀中ごろに,越国守・後将軍・大宰帥を歴任した武将で,658年(斉明天皇4年)に蝦夷に侵攻し比羅夫に従った蝦夷の首領のひとりだった安倍比羅夫が勧請した神社の境内で,創建した際にイチョウの苗が植えられたと伝えられています。
「北金ヶ沢の大イチョウ」には数多くの気根・乳垂があることから、赤子をもった母親の母乳の出がよくなると信仰され,「垂乳根の公孫樹」(たらちねのいちょう)とよばれるようになりました。周囲には多くの小祠や石仏が建立され,気根に御神酒と御米を奉納し祈願する風習は昭和50年代まで見かけたとされます。
  ・・・・・・
あまりに大きくて,全体を写真に入れるのに苦労しました。
大イチョウのとなりにJR五能線の線路があったので,列車と一緒に写真に収められたらいいなあ,と思ったのですが,2時間に1本程度しか走っていないので,それはムリな話でした。

その翌日。
私は,深浦町の民宿に泊まって,再びここまで戻ってきました。その途中で,何とJR五能線を走る列車を見ました。JR五能線の線路は国道101号線に沿っているのですが,列車は駅に停まるから車の方が若干早く,「北金ヶ沢の大イチョウ」のあたりで待っていれば,列車と大イチョウを一緒に写真に収められるのでは,と思いました。
それが,今日の1番目の写真です。

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弘前城から南西の場所に,多くの寺が集まった場所,禅林街がありました。
ここは寺町。2代藩主津軽信枚が弘前城の南西,風水でいう裏鬼門の方角の砦として,1610年に津軽一円の曹洞宗三十三か寺を集めたものです。
私は,弘前城から歩いて行ってのですが,けっこうな距離がありました。
寺町の入口には黒門と称する門がありました。
行ってみて驚いたのは,江戸時代に植えられたという杉並木が奥までずっと続いていた不思議な光景でした。観光案内所で,長勝寺だけは公開されているといわれたので,そこまで行ってみようと思いましたが,長勝寺は杉並木の一番奥にありました。
行ってみてはじめて知ったのですが,長勝寺は曹洞宗で津軽家の菩提寺で,1528年(大永8年)に鰺ヶ沢町に建立されたものを,1610年(慶長15年)に弘前城築城とともに現在地に移したのです。三門が境内を見守り,境内には鎌倉時代の梵鐘,歴代藩主や奥方の霊廟,本堂,庫裡などが並んでいました。
しかし,何か寂しげ。しかも,寂れた感がありました。ここでもまた,津軽家は尊敬されていないような感じがしました。

  ・・・・・・
南部家家臣の大浦為信(おおうらためのぶ)が戦国時代後期に南部家の内紛に乗じて津軽地方を統一し, 豊臣秀吉の小田原攻めに参陣,本領安堵のお墨つきを貰って独立して津軽為信と改名し弘前藩の初代藩主となりました。
津軽為信はしたたかで,関ヶ原の戦いでは,自身は東軍につき,息子は西軍に属させて,どちらか一方が生き残って家名を絶やさないということをしました。
その一方で,家臣に裏切られた南部氏は津軽氏のことを快くは思っていませんでした。
津軽氏の独立から200年以上が過ぎた1821年(文政4年),南部盛岡藩士の下斗米秀之進(しもどまいひでのしん=相馬大作)らが,江戸から帰国途中の9代藩主津軽寧親(やすちか)を狙撃する事件を起こしたのです(相馬大作事件)。
  ・・・・・・
現在でも,青森県の南部地方と津軽地方の人間はソリが合わないのは,このような歴史の因縁が原因です。
津軽藩の石高は4万6千石。4代藩主津軽信政(のぶまさ)による新田開発で実質の石高は30万石近くあったといわれていますが,凶作が続き,藩士1,000人の大リストラを断行するなど,弘前藩は江戸時代を通してたびたび冷害・地震・津波・洪水といった天災に見舞われ、経済的に追いつめられることも多かったのです。
北辺の地は,ひとたび飢饉に見舞われると,藩の財政は奈落の底に突き落とされます。
コメは上方で現金化されていたから,いわば「コメ=現金」であり,コメが採れないとお金だけを借りることになるから,借金だけが増えて,財政が破綻してしまうのです。
そのようなわけで,天明の大飢饉では,飢饉にもかかわらず領民に米を回すことができず,領内で8万人の死者を出しました。津軽家の殿様は,石高を優先した政治を行ったために,相次ぐ飢饉によって,領民が不幸になっていったのです。
また,江戸時代末期には,異国船の来航などで蝦夷地の警備を任され,さらなる経済負担を生みました。
このような状況で,津軽藩は幕末を迎えましたが,戊辰戦争では,一度は奥羽越列藩同盟に属したもののすぐに脱退し,新政府軍側につきました。その結果,戦後に1万石が加増されたのですが,庄内藩や盛岡藩を敵にしたので,遺恨を残すことになりました。

司馬遼太郎さんが「街道をゆく」で次のように書いています。
  ・・・・・・
コメが,この藩の気候の上から危険な作物であるにもかかわらず ―西方の諸藩でさえ江戸中期以後,換金性の高い物産に力を入れはじめたというのに― コメに偏執し,相次ぐ新田の開発によって江戸中期には実高30万石をあげるにいたった。無理に無理をかさねた。
格式が高くなったぶんだけ江戸での経費がかさみ,農民の負担も重くなる。
コメ一辺倒政策の悲劇といっていい。
  ・・・・・・

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私が購入した弘前城,弘前城植物園,藤田記念庭園の3施設共通券,弘前城の次に行ったのが,弘前城植物園でしたが,行く途中で見つけたのが日本一太いソメイヨシノ。これは環境省が実施している全国巨樹巨木林調査で日本最大幹周のソメイヨシノとされたものです。幹周は537センチメートル,樹高は10メートルです。少なくとも1901年(明治34年)には植栽されていたものと思われるので,推定樹齢は100年以上です。

1988年(昭和63年)に弘前公園三の丸の一角に開園した,面積7.65ヘクタール,1,500種124,000本の草木がある弘前城植物園は,弘前城内南東を囲う形となっていて,出入口は南案内所(追手門側)と北案内所(東門側)のふたつがあります。私は北案内所(東門側)に着きました。
入口からまっすぐに歩いて行くと,右手にボタン園がありました。さらに進むと年内中央に花時計がありました。1975年(昭和50年)製作のものです。そこを右手に折れると南案内所があって,その右手側白神山地生態園がありました。気軽に白神山地を観光できるようにと整備されたもので,156本のブナがあります。白神山地生態園を抜けて,植物園の端を回り込むと,大石武学流庭園が園内の南東にありました。
植物園は私以外にほとんど人がおらず,静寂が保たれていました。この時期は花も少なく,観光客は素通りするようでした。

弘前城植物園をでて,藤田記念庭園に向かいました。
藤田記念公園は弘前公園に隣接し,弘前市出身の藤田謙一氏が1921年(大正10年)に別邸を構える際に東京から庭師を招いてつくらせた江戸風な景趣の庭園で,その後弘前市が市政施行百周年記念事業として整備し,平成3年に開園しました。総面積は約21,800平方メートルあって,東北地方では平泉毛越寺庭園に次ぐ大規模な庭園ということです。
ちょうどお昼だったので,きっとレストランがあるだろうと期待したのですが,ありました。それが「クラフト&和カフェ匠館」でした。建物は藤田謙一氏が建てた岩木山麓開発事業の事務所の倉庫で,これまで弘前市内から出土した遺物を中心に展示していた考古館でしたが,新たな観光拠点としてリニューアルオープンしたのものだそうですます。和をテーマにした喫茶スペースで,おばんざい定食を食べることができました。

昼食を終えて,園内を歩きました。
高さ13メートルの崖地をはさんで高台部と低地部にわかれていて,高台部は岩木山を眺望する借景式庭園で,洋館・和館・匠館が建ちならんでいました。また,低地部は池泉廻遊式庭園で,散策しながらハナショウブ,ツツジの群落,滝などの景趣の変化を楽しむことができるということですが,この時期は花がほとんど咲いていなかったのが残念でした。
ほとんど観光客もおらず,静かで豊かな時間が流れていきました。

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藤井聡太新名人誕生。
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弘前城を出て,そのあとは,観光案内所でもらった地図に従って,弘前城下を歩くことにしました。曇っていても,雨は降っておらず助かりました。
弘前城の北門(亀甲門)を出たところにあるのが石場家住宅でした。ここは江戸時代中期の建物で津軽地方の数少ない商家の遺構です。
さらに進むと弘前市仲町(なかちょう)伝統的建造物群保存地区となります。かつて武家屋敷が並んでいたところで,武家住宅や表門が点在し,サワラ生垣や板塀などがつくる江戸時代の敷地割りを今に伝えています。西側を閉鎖的に東側を開放的に作られているのは,岩木山からの西風や西日を避ける工夫です。4軒の住居が公開されていて,その中で,私は旧岩田家住宅を見学しました。

弘前城の東の端まで戻ってくると,そこにあったのが「津軽藩ねぷた村」でした。この観光施設では,弘前の夏の夜を彩る弘前ねぷたまつりや,津軽の民芸品,津軽三味線の生演奏,庭園などを見学することができます。私が入った時間は,ちょうど津軽三味線の生演奏がはじまった時間で,その迫力に感動しました。何事も生演奏はすごいものです。
建物を出たところにある広い庭は「揚亀園」といいます。明治時代の後期に小幡亭樹によって作庭された「大石武学流」の庭園だそうです。
  ・・・・・・
「大石武学流」と称される作庭流派の発祥は全く不明で,この地方の伝統的作庭の唯一の古典的手法となるものだそうです。 津軽地方における作庭の遺構で最も古いものは弘前城の三之丸のものとされています。この庭は,藩の「庭園守護職」であった山鹿八郎左衛門が関与したものと考えられていて,山鹿家が兵学の家でもあったことから「武学」の名がついたのでは,といわれています。ただし,大石武学という人物が実在したかどうは根拠が薄弱だそうです。
また,弘前市の瑞楽園に大石武学流と作庭者が明記したものが残されているということです。
  ・・・・・・
小堀遠州作の庭がブランド化されているのとおなじようなものでしょう。

私は,弘前城に入ったときに3施設共通券というものを購入しました。3施設というのは,弘前城,弘前城植物園,藤田記念庭園です。そこで,「津軽藩ねぷた村」を見た次に,私は,これらの施設で,すでに弘前城は見学したので,それ以外の2つの施設を見にいくことにしました。
弘前城植物園は弘前城の中にあるので,再び弘前城に向かって堀に沿って歩いていくと,サギの置物が松の枝に停まっているのが見えました。人の気配を感じると飛び立つのに,びくともしないから,置物かと思ったのです。しかし,観察していると,首が動くので,どうやら生きているようでした。
これほど警戒心のないサギ,私の家の近くにはいません。何かとても愉快になりました。

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私は,日本各地を訪れたときに,まず興味があるのが,江戸時代にその地を支配した殿様です。それは,現在の日本の姿は江戸時代に形作られたと思うからで,薩摩藩の島津家,長州藩の毛利家はいうに及ばず,加賀藩の前田家,水戸藩の徳川家,米沢藩の上杉家など,江戸時代に同じ家の殿様が続いていて安定した藩政を行っていたところは現在文化水準が高いのです。
まず,先に訪れた弘前市の観光案内所で,江戸時代の殿様はだれだったのか聞いてみたら,知らない,と言われて驚きました。弘前城に入ったところにあった博物館で再び聞いてみたら,弘前藩の殿様は津軽家だとわかりました。しかも,津軽家は国替えされることもなく,江戸時代ずっと続いていたのです。であるのに,この地方には,津軽家をリスペクトする雰囲気がないし,ほどんど知られていないのです。
私にはこれがとても意外でしたが,このことは,また,後で書きます。

幕末期,新政府と戦った東北地方の諸藩には天守が残っていません。これがほとんど天守が残っている四国地方との違いですが,弘前城は,東北地方で唯一天守が現存しています。これにも理由がありますが,このこともまた後で書きます。
弘前城は,初代弘前藩主の津軽為信(ためのぶ)によって計画され,2代藩主の津軽信枚(のぶひら)が完成させたものです。初代の天守は五層の壮大なものでしたが,落雷で焼失しました。現存の三層の天守は2代目ですが,天守は基本的に再建の許可は下りないので,1808年(文化5年)に幕府の許可を得てその2年後に櫓という名目で再建されたものです。
弘前城本丸東面の石垣は,1983年(昭和58年)に起きた日本海中部地震の際,石垣の膨らみである「はらみ」が明らかとなり,このまま放置すると天守が崩落してしまう可能性が指摘されたので,2008年(平成20年)から修理事業が進んでいます。まず,高さ2.5メートル,総重量約400トンの3階建て天守を本丸の内部へ約70メートル移動させて,天守北側平場の発掘調査,水濠の水抜きなどがからはじまり,石垣の修復が行われています。
工事の様子は木造の展望台が設置されていて眺めることができます。
また,移動した天守は中に入ることもできますが,展望デッキからは,曳屋で移動した天守と岩木山の見事な景観を望むことができます。
  ・・
天守が移動してしまっているので残念,と思うか,もともとの天守台の場所では絶対に見ることができない天守と岩木山の絶景や石垣修理の現場が見られる百年に一度の絶景! と考えるかは人それぞれでしょうが,天守が元の場所に戻ったらまた来てみたいものだと,私は思いました。

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この旅の2日目,2023年5月19日です。
朝は午前5時に千人風呂に行きました。こんな早くても,すでに5,6人の人が入浴していました。私も含めてお年寄りは朝は早起きなのです。私も,常日ごろから午前4時過ぎの起床です。
朝食が午前7時からだったのですが,それ以前にすでに並んでいました。日本いうバイキング,つまり,ビュッフェ形式で,私はこれが嫌いなのですが,致し方ありません。それでも早めに行ったので,座席を確保して,ゆったりと食事をすることができました。
食事を終えて,酸ヶ湯温泉をチェックアウトしました。
この日の目的地は,まずは弘前市,そして,青森県の西の海岸線に沿って,この日に予約した深浦の民宿まで行きます。天気予報は午前中なんとか雨が降らず,午後は天気が悪くなって雨,ということでした。前日はとても天気がよくて,奥入瀬渓谷も十和田湖も美しく見ることができたし,この日は弘前という都会の観光なので,まあ,よしとしますか。明日は天気も回復するということでした。

国道394号線は,むつ市から下北半島の東側を海岸線に沿って進み,小川原湖の北側を西に向かい,さらに青森県の中央部を進み,途中,八甲田山の北側を国道103号線と併用しながら黒石市へ行き,そこから国道102号線と併用しながら弘前市に至る国道です。
私は,この日の朝,酸ヶ湯温泉からこの国道394号を走っていました。その途中で渡ったのが城ヶ倉大橋でした。
このあたり,かつて城ヶ倉と沖揚平間は,城ヶ倉峡谷の急峻な地形を幅員狭く急勾配の九十九折りで越す難所でした。1974年,この部分をつけ替えて長大な城ヶ倉大橋を作ることになりました。そこで1995年にできたのがこの城ヶ倉大橋という,城ヶ倉峡谷を眼下に見下ろす長大なアーチ橋で,作られた当時は,上路式アーチ橋として,アーチ支間長が255メートルで日本一でした。
私は,当然,いつもの通り,そんなことはまったく知らず走っていたのですが,こりゃすごい,と橋のたもとにあった展望台に車を停めてしばし見入りました。
帰宅してから調べてみると,この場所は県内有数の景勝地で,城ヶ倉渓流の美しい景色をを見下ろすことができ,特に紅葉の時期になると真っ赤に染まり非常にきれいな場所なのだそうです。

このごろ,四国地方や紀伊半島などを走るようになって,日本にいかに山が多く,そこに道路を通すためにこうしたとんでもない橋やトンネルが無数にあることを知りました。また,今でも車がやっとすれちがえるようないわゆる「酷道」が山のようにあり,走っていると何とかならないものかと思ってしまうのですが,それを解消するためにこんな難工事ばかりを行っていれば,技術は進むことでしょうが,いくらお金があっても足らないだろうとも思います。また,今後の日本を考えたとき,維持できるかしら,と心配にもなります。
こうした絶景があると,オカルト好きのお人たちは,心霊スポットと騒ぎ立てます。この場所も, 飛び降りの名所で,青森県ではじめて新型コロナウィルスに感染した人が飛び降りただとか,そういう噂があるらしいです。私はまったく興味がないのですが,いやはや,という感じです。
私が通ったときはせっかくの絶景も霧っていたのが少し残念ではありました。

黒石市に入ると道路が広くなりました。このあたりは田んぼアートで有名なのだそうですが,今は時期でないので,何もありませんでした。さらに進むと,弘前市に到着しました。
弘前市は長年ずっと行きたかったところだったのですが,なかかな機会がありませんでした。
2020年の春に有名な弘前城の桜を見ようと名古屋・青森間の航空券を買ってあったのですが,直前になってコロナ禍が襲い,私はむしろ空いているから行く気満々だったのですが,飛行機が飛ばず,行くことができませんでした。今は桜の季節ではないのですが,ともかく,その3年後に弘前市に行くという念願はかないました。
弘前城のあたりは官庁街でした。どこかに車を停めて,半日観光をしようと思った矢先,西に美しく見えたのが岩木山でした。そこで,天気が崩れて見えなくなる前に岩木山の写真を写そうという気になって市街地を越えて岩木山が一望できる場所を探しに行くことにしました。そしてなんと見つけた場所で幻想的な写真を撮ることができました。

市街地に戻り,車を駐車場に停めて,まずは観光案内所に行きました。
事前に何も調べない私は,ともかく,その場所の観光案内所に行って情報を聞き,地図をもらうのです。観光案内所には弘前ねぷたが飾ってありました。
弘前の桜,例年はゴールデンウィーク直前のころが満開ということでしたが,今年は異常に早く,開花が4月8日だったそうです。
いろいろな情報を聞いて,そのあとは,徒歩で弘前市内を歩き回ることにしました。まずは弘前城。思った以上に広いお城の敷地でした。

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ともかく,午後6時に夕食をとるために2階の大広間に行きました。まだ,ほとんどのお客さんは来ておらず,1番先に食事となりました。舞台には大きなねぶたがありました。
この広さで,混雑していなければ,部屋で食べるのと大差ないから,私は満足でした。
前回行った佐渡島以来,私は,旅先で地酒を呑むことに目覚めてしまったので,今回もまた,地酒を所望することにしました。夕食はかなり豪華でした。ご飯とみそ汁はセルフサービスで,好きなだけ食べることができたのもよかったです。

食事を終えて,一度部屋に戻り,いよいよ温泉に行くことにしました。
中に入って,ああ,ここは写真で見たことがある,と思いました。私が写真で見たときのイメージでは,東北の人里離れた田舎にある寂れた湯治温泉,だったのですが,まったくそうではなく,というか,だれもが一度は行ってみたいと思うからかなりの集客があるので,どんどんと拡大して,今の姿になったような感じでした。この温泉は,今は大きな旅館になっていますが,もともとは湯治客用のものだから,そのころの何でも自分でやる,というものが時折残っていたりして,その妙なバランスが心地いいです。また,旅行社で予約した〇〇パックのようなものはあっても団体ツアー客は受けつけていないようです。
それにしても,まさか,こうした場所に来ることがあるとは思いもしませんでした。しかも,行きたいと切望して行ったわけでもなく,単に予約をしたらここだった,ということだから,行きたくても行けない人がいるのに,これはまた,かなり運がいいわけでした。
ゴールデンウィークはものすごい人混みなのだそうです。また,冬は雪があっても,除雪してあるから来ることは可能だということですが,はやり,ここまでたどりつくのは大変に思います。この時期が一番いいという話でした。
  ・・・・・
酸ヶ湯温泉の名物は総ヒバ造りの「ヒバ千人風呂」で,体育館のような巨大な建物に「熱の湯」「四分六分の湯」と打たせ湯があります。
「熱の湯」と「四分六分の湯」は泉源が異なり,「熱の湯」は源泉の湯がそのままでややぬるめ,「四分六分の湯」は源泉の湯に水を混ぜていて,もともとの源泉が高温なので,熱の湯より高温です。
混浴ですが,脱衣所は男女別で,大浴槽は中央半分に目印があってそこで男女が区切られています。また,現在は,女性専用となる時間帯がもうけれらています。
千人風呂に洗い場はなく,別にある男女別の小さな玉の湯で体を洗うことができます。
  ・・・・・・
ということでした。

私の目論見どおり,巨大なお風呂はガラガラでした。湯煙の中,遠くに女性がひとりお湯につかっているのが見えましたが,まもなく出て行きました。
その後はずっと私ひとりでした。こりゃ,最高でした。こんな有名な温泉に私ひとりなんて,これほどの贅沢がほかにあろうか,と思いました。
結構長くお湯につかって,一度出て部屋に戻ったのですが,30分後に再び温泉に行きました。
今度は,2,3人の人がいましたが,この広さだから,いないのも同然,ふたたび,温泉を独り占めすることができました。幸せな時間でした。

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来たときは反対に,休屋から十和田湖畔を北に走り,子ノ口から奥入瀬渓谷沿いを進んでいくと,川は奥入瀬川と蔦川(つたがわ)にわかれます。蔦川もまた,奥入瀬川と同じように,美しい渓谷だったのですが,観光地化していなかったし,車を停める場所もほとんどありませんでした。かろうじて車が1台ほど停まれる場所があったので,そこに車を停めて写真を撮りました。
蔦川に沿って走っていくと,八甲田山に向かって進むことになるので,どんどんと標高が高くなり,周りは雪景色になってしまい,驚きました。
  ・・・・・・
八甲田山は,標高1,625メートルの岩木山に次ぐ,標高1,585メートルの大岳を主峰とする18の山々からなる複数火山の総称で「八甲田山」という単独峰が存在するわけではありません。
周辺は世界でも有数の豪雪地帯で,1902年(明治35年)に青森の歩兵第五連隊が雪中行軍の演習中に記録的な寒波に由来する吹雪に遭遇して,210人中199人が遭難死した八甲田雪中行軍遭難事件が発生しました。それを基にした新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」とその映画があって,私は見ていないけれど,そんな過酷な事件があった,ということだけは知っていたので,「八甲田山=雪が多く危険」というイメージだけをもっていました。
その麓に,私がこの日に宿泊する酸ヶ湯(すかゆ)温泉がありましたが,私は,酸ヶ湯温泉がこれほど標高が高い場所にあることすら知りませんでした。

  ・・・・・・
酸ヶ湯(すかゆ)は,八甲田山系の火山起源の温泉です。湯はその名の通り強い酸性を示し,pHは2.0を切ります。pHは2.0というのは,胃酸並みです。温泉の名は鹿湯(しかゆ)ですが,「しかゆ」が「すかゆ」に変化しました。
江戸時代前期の1684年(貞享元年)の開湯と伝承され,古くから湯治場として有名でした。
1954年(昭和29年)に群馬県の四万(しま)温泉,日光の湯元温泉とともに国民保養温泉地第1号に指定されました。
  ・・・・・・
ここは一軒宿で,混浴風呂として有名だそうですが,私はそのことも知りませんでした。ここに予約したのは,以前書いたように,青森県2泊3日の旅のモデルコースが書かれてあったウェブページに載っていたので予約しただけのことでした。

チェックインをして案内された部屋は奥まったところにあった湯治客用のもので,なかなか快適でした。
到着した午後5時ころは,夕食前でもあり,ずいぶんと多くのお客さんが風呂に行くところだったので,人混みの嫌いな私はげんなりしました。私が理想とするのは,家族経営の小さな温泉宿で,ほかには宿泊客がおらず,食事も部屋でひとりで取ることができるところなので,あまりにそれとは違う巨大さにあっけにとられました。私が望んだところとはかけはなれていたからです。
そんな時間に温泉に入る気にもならないので,一計を案じました。それは,夕食をできるだけ早く食べて,他のお客さんが食事をとっている時間に入浴しようということでした。

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生まれてはじめてひとり旅をしたのが20代のときで,山陰地方を1周しました。このときのことは,今でもずいぶんよく覚えているのに,その次にひとり旅をした東北地方のことはほとんど何も覚えていないのはずいぶんと奇妙なことです。そのとき,おそらく私は,角館と田沢湖に行ったと思うのですが,十和田湖には行っていないような気がしています。というか,田沢湖と十和田湖がごっちゃになってしまっています。 いずれにしても,十和田湖については何も印象がないのだから,今回,ぜひ,行ってみたいと思っていました。
奥入瀬渓谷に沿ってずっと走ってきたのですが,私は,奥入瀬渓谷というのはもっと山深いところだと思っていたので,車ならこんなに簡単にアクセスできることが驚きでした。
この時期は新緑が美しかったのですが,さほど混雑しておらず,快調に走ることができました。しかし,秋の紅葉のとき,この道路がまともに走れるのかどうかはわかりません。

やがて,眼下に十和田湖が見えてきました。十和田湖の湖水が奥入瀬川に注ぐ子ノ口というところで十和田湖畔に出ました。ここには観光地らしいドライブインがあって,駐車場に多くの車も停まっていました。ここから十和田湖の遊覧船が出ているらしいので,それに乗ろうと思ったのですが,チケット売り場で聞いてみるとどうやらそれは間違いで,十和田湖に沿ってさらに南に走っていったところにある休屋(やすみや)という場所が遊覧船の乗り場のようでした。いや,子ノ口からも遊覧船はあるのですが,子ノ口で乗船できる遊覧船は周遊するのではなくて,休屋に行ってしまい,周遊できるのが休屋という場所から出航する遊覧船でした。
そこで,子ノ口から休屋に車を走らせることになりました。
途中の景色を見ると,休業している店や,だれも宿泊していないような民宿,すでに退役したような観光船などが見られ,十和田湖は思っていたほどにぎわっておらず,というか,活気がなく,というか,寂れ感さえあって,私には意外でした。

  ・・・・・・
青森県と秋田県にまたがる十和田湖は,水深が326.8メートルで田沢湖,支笏湖に次いで日本3位,面積では日本で12番目の湖です。ちなみに面積の大きい順に,琵琶湖,霞ヶ浦,サロマ湖,猪苗代湖,中海(島根県),屈斜路湖,宍道湖,支笏湖,洞爺湖,浜名湖,小川原湖(青森県)と続きますが,風光明媚な湖となると,十和田湖はもっと上位になると思われます。
十和田湖を擁する山地は,カルデラを有する火山群で,約20万年前から約15万年前の十和田火山の噴火活動で中央部が陥没した地形となり,3万5,000年から1万5,000年ごろの巨大噴火で水が流入してカルデラ湖が形成されたものです。
中世は山伏が修行し,江戸時代には南部藩の霊場となっていましたが,1872年(明治5年)に廃仏毀釈運動により,霊山としての十和田湖は大打撃を受けました。
1905年(明治38年)に和井内貞行が十和田湖でヒメマスの養魚事業を成功させました。また,1908年(明治41年)に文人の大町桂月が十和田湖を訪れ,その後,1921年から1923年にかけて周辺を探勝してその素晴らしさを紹介して以降,風光明媚な観光地として知られるようになりました。
湖畔には1953年(昭和28年)に建てられた高村光太郎作のブロンズ像「乙女の像」があって,その台座には国立公園化の実現に寄与した大町桂月,武田千代三郎,小笠原新一の功績が刻まれています。
  ・・
2003年ごろには300万人の観光客がやってきたのですが,その後は減少を続けています。
その影響で,宿泊施設や土産物屋の休廃業が相次いで「廃屋通り」とさえよばれるほどの惨状を呈しているのです。それは,もともと団体旅行客が主力だった十和田湖は,観光が個人客に中心にシフトするにつれて施設が対応できないまま陳腐化したものです。
また,湖上には観光用の遊覧船が2航路運航していましたが,2013年に十和田湖観光汽船が経営破綻し,十和田湖遊覧船企業組合を設立しましたが,この航路も2016年に廃止となりました。このときの遊覧船が撤去されず放置されたままになっています。現在は,十和田観光電鉄が定期航路を開設しています。
  ・・・・・・

休屋に着いたのですが,どこの駐車場があるのかわかりません。みやげ物店で遊覧船のチケット乗り場があったので,店先に車を停めて中に入ってチケットを購入しました。車はそこに停めていいと言われました。あとで知ったのは,少しはなれたところに1日500円の有料駐車場があったのですが,私は得をしたことになります。
遊覧船の出発まで40分程度あったので,「乙女の像」まで歩いて行くことにしました。結構時間がかかったので,これだけ時間があったことで行くことができたのです。
戻ってきたら,乗船時間でした。遊覧船には,団体ツアー客が大勢乗ってきました。さらに,出航直前に修学旅行生が大量に乗船してきて,ちょっとうんざりしたのですが,特に問題はありませんでした。遊覧船が大きかったからです。
天気がよかったので,快適な船旅でしたが,案内はテープが流れるだけでした。海外でこうしたクルーズをすると,肉声で,しかも,アドリブあり,何らかのサプライズありというようにまことに楽しいのですが,日本の観光地には,そうした工夫が不足しているといつも思います。
50分程度の遊覧でした。

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☆☆☆
火星,月,金星。

5月24日。
澄んだ夕方の西の空。
ふたご座に火星,月,金星が揃いました。
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野辺地から南に進路をとります。はじめは八戸市へ行こうと思っていたのですが,時間的にムリそうだったので変更して,十和田市から奥入瀬渓谷を目指すことにしました。せっかく天気がよいので,奥入瀬渓谷と十和田湖で十分時間をとることにしたのです。
遠くに見えた雪の被った山々は八甲田でした。十和田市に行く途中で,妙な看板を見つけました。はじめは通り過ぎたのですが,気になったので引き返してみました。それは「日本中央の碑」でした。
広い公園になっていて,駐車場があり,その向こうに保存館があったので,中に入ってみました。誰もおらず,私が入ったら係の人が電気をつけてくれました。ここは日本中央の碑歴史公園で,長らく簡素な祠だけの雨晒しになっていたところ,1995年(平成7年)に発見地近くに公園施設を作ってそこに保存館を設けて保存しているというものでした。
いったいこれが何かと係の人に聞いても,明確な説明もなく,する気もなさそうでした。これだけでもかなりの眉唾ものだと私は感じましたが,帰ってから調べてみると
  ・・・・・・
日本古代史の中でも屈指の謎をもつ「日本中央の碑」。歌学者の藤原顕昭が出した「袖中抄」に〈陸奥には「つぼのいしぶみ」という石碑があり,蝦夷征討の際に坂上田村麻呂が矢筈を使って「日本中央」という文字を刻んだものである〉という一説があって,それ以降,東北の歌枕として和歌の中に使われ,また幻の遺跡として考えられてきたのです。かつては宮城県の多賀城の碑が「つぼのいしぶみ」と目されていたのですが,1949年(昭和24年)に青森県東北町石文という所から突如として「日本中央」と刻まれた石碑が出土したのです。
刻まれた「日本中央」について,この伝承は「日本」という国号が使われていなかった時代のものであり,また,この碑を刻んだとされる坂上田村麻呂はこの地まで遠征していないから,すべては謎。実際は,「日本」という文字は「ひのもと」と読ませ,平安初期の文献では「東北地方一帯」を指す言葉として使われていたらしいとか。つまり,「日本中央」というのは,坂上田村麻呂以下の蝦夷征討軍が敵地の中央部分に当たる場所としてマークしたポイントという意味ではないか,といわれています。
  ・・・・・・
なんとまあ,おもしろい話ではないですか。
なお,東北の歌枕とは,次のような和歌です。
  ・・・・・・
みちのくの いはでしのぶは えぞ知らぬ かきつくしてよ つぼのいしぶみ
  源頼朝「新古今集」
みちのくの 奥ゆかしくぞ おもほゆる つぼのいしぶみ 外の浜風
  西行法師「山家集」
請いかば 遠からめやは 陸奥の 心つくしの つぼのいしぶみ
  和泉式部「和泉式部日記」
  ・・・・・・

さて,その後,順調に走って,午前11時ころに奥入瀬渓谷の入口に着きました。そこにドライブインがあったので,車を停めて中に入り,昼食をとることにしました。
何が名物かと聞くと「バラ焼き定食」だと言われたので,それを注文しました。
  ・・・・・・
十和田市で昨今俄然脚光を浴びているソウルフード「十和田バラ焼き」は,牛のバラとたっぷりの玉葱を鉄板の上で焼いただけのもの。家でもすぐにできそうなこの食べ物は,十和田市で食べるとその味が大いなる魅力に溢れるのです。「十和田バラ焼き」は,戦後の青森県三沢市の屋台で生まれたといわれているものです。米軍基地のあった三沢士では,戦後まだまだ高価で一般の人々の手には入りにくかった牛肉がアメリカ軍の払い下げ品として比較的安く手に入ったので,それをいかにおいしく食べようかと工夫し生まれたものです。三沢市で生まれたバラ焼きが十和田市に伝わることで市民権を得ました。今や十和田市内でバラ焼きを提供する店は60軒以上あって,いつしか十和田市民のソウルフードとなったのです。
  ・・・・・・
くせになるおいしさでした。

昼食を終えて,さて,奥入瀬渓谷です。歩くと14キロメートル以上あるということで,川に沿って車道が続ているので,見どころで車を停めては観光することにしました。
  ・・・・・・
約20万年前から始まった火山活動が,約5万5千年前から1万5千年前ごろに大規模な噴火を繰り返したことで,大量の火砕流を噴出し,火山体の中心部の陥没が進み,約1万5千年前には十和田湖の原型となるカルデラが形成され,十和田湖ができたと考えられています。
カルデラから噴出した膨大な火砕流堆積物の軽石や火山灰などが堆積して圧縮・固結した溶結凝灰岩で構成された火砕流台地は,「子ノ口」部分が決壊し大洪水が発生して侵食されたことによって深い谷ができました。こうして形成されたのがU字型の奥入瀬渓谷です。
  ・・・・・・
渓流沿いに国道102号線が走っていて,また,それに沿って自然遊歩道も整備されているので,渓谷沿いを歩いて散策することができます。
●三乱の流れ
まず,車を停めたのが三乱の流れでした。
ここはおだやかな流れのなかにほどよく配置された岩の上にさまざまな植物が生えていて,すばらしい景観でした。最適の時期はムラサキヤシオが岩の上に咲き乱れるちょうど私が訪れた今でした。
●石ヶ戸の瀬
ここに広い駐車場があって,まず,売店でこの店限定のソフトクリームを食べて,そのあと,周りを散策しました。
激しい流れでもなくゆるすぎることもないという石ケ戸の瀬。このあたりはテレビのCMで見かける場所なのです。
「ケ戸」というのは方言で「小屋」の意なので,「石ケ戸」とは石でできた小屋(=岩屋)を意味します。大きな岩の一方がカツラの巨木によって支えられて岩小屋のように見えます。この自然の岩屋〈昔,鬼神のお松という美女の盗賊がここをすみかとし,旅人から金品を奪っていました。手口は,旅の男が現れると先回りして行き倒れを装い,介抱してくれた男の隙をみて短刀で刺し殺す,あるいは,男の背を借りて川を渡り流れの中ほどにさしかかるといきなり短刀で刺し殺したといわれています。
●阿修羅の流れ
「奥入瀬を代表する」阿修羅の流れです。うっそうと茂った木立のあいだを激しく流れる水がつくりだす景観は男性的です。
●雲井の滝
うっそうとした森林にかこまれた断崖から3段になって落下するこの雲井の滝は高さ20メートル。滝は岩を少しずつ浸食しながら上流に向かって後退していきます。雲井の滝は水量が豊富なことから岩が削りとられるのが速く,ほかの滝にくらべると、ずいぶん奥まったところまで後退しています。
ほとんどの人は道路際で滝をみていましたが,私は滝つぼの近くまで歩いて行きました。すごい迫力でした。
●銚子大滝
奥入瀬渓流本流にかかる随一の滝が銚子大滝です。高さ7メートル,幅20メートルある堂々たる滝です。流れ落ちる水は多量の水霧を生み,木漏れ日がそこに幾本もの光の筋を作っていました。滝の右手に伸びる断層や左から流れ込む寒沢の影響でできたこの滝は,十和田湖への魚の遡上を妨ぐので,魚止の滝ともよばれ,長い間,十和田湖には魚が住めないといわれてきました。

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この日の行程,最終目的地は予約してあった酸ヶ湯温泉でした。
いつものようにいい加減な私は,酸ヶ湯温泉の具体的な場所すら知らなかったのですが,酸ヶ湯温泉は十和田湖の北らしいので,たどり着く途中で,ぜひ行きたかった奥入瀬渓谷と十和田湖観光をすることにしました。また,奥入瀬渓谷までは,青森空港から,野辺地町を経由して,さらに,できれば八戸市を回っていくことができたらと思っていました。
…なのですが,私が八戸市よりも行きたかったのが野辺地町にある野辺地駅でした。というのも,私はほとんどテレビは見ないのですが,それでも,以前は,テレビ東京系の「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」は楽しみにしていました。この番組に野辺地駅が数回出てきました。また,今もNHKBSPの「日本縦断こころ旅」を見ているのですが,「日本縦断こころ旅」は,毎年,必ずといっていいほど青森県を通り,番組でたびたび登場するのが野辺地駅なのです。
しかし私は,野辺地駅が青森県のどこにあるのかも,知りませんでした。そこで調べてみると,下北半島の玄関口にあたるところに位置していることがわかったので,おそらく「何もない」とは思うけれど,今回の旅では,少し遠回りになっても,ぜひ,野辺地駅へ行ってみようと思ったわけでした。

青森空港はターミナルビルに隣接してレンタカーターミナルビルがあったりして,ちょっぴりアメリカの空港みたいでした。さっそくレンタカーを借りました。
まず,青森駅から北に走って青森市に出て,青森市から東にむかって津軽海峡の海岸線を走っていくと,ほどなく野辺地駅に着きました。予想通り,ほとんど人影のない駅前でした。ロータリーに車を停めました。
まず,右手に見えた常夜燈は「日本縦断こころ旅」の2022年7月1日に放送された第1107回の冒頭で出てきたものです。火野正平さんはもっと大きなものを想像していたようですが,実際は思ったより小さかったと言ったそうです。この常夜灯は,ここが昔,北前船の寄港地だったころのものです。
第1107回では,また,この駅で火野正平さんが自転車につけたお守り「モーリー」を交換しました。
駅で火野正平さんが「ちょっと駅でやることがあるんだ」と言って自転車「チャリオ」を降り,「チャリオ」の後ろにずっとついていた青い森鉄道のキャラクター「モーリー」のぬいぐるみを取り外しました。火野正平さんはモーリーを持って「こいつ。ドロドロになっちゃって。頭も伸びちゃって。俺たちを守ってくれたやつ」と言って,「返したら飾るとおっしゃってたから。これ。よう頑張った。エライエライ」とモーリーを野辺地駅の駅舎に持っていきました。職員の方が新品の「モーリー」を持ってきて交換し,古い「モーリー」は、正平さんが来た記念で野辺地駅に置いてもらえることになりました。
なお,「日本縦断こころ旅」では,2014年7月9日に放送された350日目にもこの場所を訪れています。
  ・・
また,ロータリーから道路を隔ててあったのが松浦食堂でした。現在はやっていないのですが,この松浦食堂は,「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」の2010年2月27日に放送された第6弾で,太川陽介さん,蛭子能収さんとゲストのマドンナ山田まりやさんがバス待ちの間に訪れて,バスの発車まで時間も店で待たせてもらい,蛭子能収さんが座敷で大の字になって寝てしまったところです。また,2013年8月31日に放送された第15弾で再訪し大歓迎を受け,そのときに,太川陽介さんが店の人たちを「すごい優しい家族のような人たち」と話したところです。

駅で客待ちをしていたタクシーの女性の運転手さんがいたので話しかけると「野辺地は何もないところでしょう」と言いましたが,こうした「テレビ番組を見たから来てみた」と話をすると,「「モーリー」が駅の中に飾ってあるから見てくるといいよ」と言いました。それを聞いた私は「モーリー」と対面することができました。
とてもうれしくなる出来事でした。幸先がいいぞ,この旅も。

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私が青森県に行くのはこれが3度目です。
1度目は今から40年以上前の冬に北海道にスキーに行ったときに,一度は青函連絡船に乗ってみたいと,あえて飛行機を利用して帰るのをキャンセルして,函館駅から海路で青森駅に到着,そこから寝台特急「ゆうづる」で上野駅まで戻ったことがあるのですが,このときは青森駅のホームを通っただけでした。
2度目は,これは35年ほど前に岩手県の盛岡市に仕事で行ったときに,仕事が終わって1日自由時間ができたので,レンタカーを借りて下北半島を1周したのです。このときもまた,ほとんど,車に乗っているだけでした。
というわけで,私は,事実上,青森県はほとんど知りませんでした。

青森県は,よくテレビの旅番組で出てくる野辺地,映画で名前だけ知っている八甲田山,縄文時代の遺跡である三内丸山,桜の名所である弘前,太宰治の「津軽」,冬の津軽鉄道ストーブ列車,多くの秘湯など,気になっていたところがたくさんあるのですが,どこも詳しく知らなかったし,位置関係もわかりませんでした。そこで,今回,2泊3日で,それらの場所を巡ってこようと考えたのです。
名古屋と青森の往復は,今回もまたFDAを利用し,空港で借りるレンタカー,そして,ネットで見つけた青森県2泊3日の旅モデルコースなるものでお勧めだった酸ヶ湯温泉と西海岸の深浦に1泊ずつ宿泊先だけを予約しただけで,そのほかは,ほとんど何も調べず出たとこ勝負でした。
日本の旅は天気次第ですが,自他ともに認める晴れ男の私なのに,今回もまた,天気予報では天候が冴えず,前回の佐渡島と同じように,旅に出るまではかなりテンション低めでした。しかし,その結果は,またまた,思いもよらず,すばらしいものになりました。

では,旅をはじめます。2023年5月18日,県営名古屋空港午前7時20分発です。空港に到着したのは午前6時。すでにずいぶんと混んでいました。少し前までは乗客も少なく,コロナさままさで,それはそれでとても快適だったのですが,このごろは団体旅行ツアーが復活したのがその理由でしょうか。行きは最後部席と決めているのにずっと座席が埋まっていたのはそのためで,団体旅行ツアーは条件の悪い席があてがわれていることが多いのです。
ほとんど空席がなかったのですが,ひとり旅の私は今回も隣の席が空いていて快適でした。天気予報に反してこの日は天気がとてもよくて,少し透明度は悪かったのですが,空からは富士山をはじめとして,多くの雪を被った美しい山々を見ることができました。機内サービスはパックのお茶から静岡茶とリンゴジュースの選択ができるように変わっていました。
1時間20分ほどで,飛行機は定刻の午前8時40分に青森空港に到着しました。

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昨年のこの時期,私は山形県へ行きました。
そのころは,日本国内の旅行の仕方すらほとんど知らなかったというのに,それ以来,さまざまなところに出かけたのでもう慣れっこになりました。
1年でずいぶんと変わったものです。時が流れるのは早いようで,1年でずいぶんといろいろなことができるものです。
そこで,今年は,東北地方旅行の第2弾として,青森県へ行くことにしました。

2020年の春に突然コロナ禍が世界を襲い,それまで行っていた海外旅行もすべて行くことができなくなりました。まさか3年間もそれが続くとは思いませんでしたが,もとの世の中に戻ったら,だれよりも早く,また,海外からの観光客がどっと押し寄せるよりも早く,「日本国内をすべて見てまわろう」と考えていました。
しかし,実際は,私が思う以上に世の中はせっかちでした。
もっともせっかちだったのは国でした。〇〇トラベルとやらで,不要不急の外出をするなと言っていた半面で,旅行をすると割引がある,とか,かなりちぐはぐなこともやっていました。
そしてまた,私も含めて,新型コロナウィルスなどまったく気にもしないで,空いている今こそ旅のチャンスとばかりに旅行をしていた人も少なくありませんでした。
今年は,また,以前のように海外からの観光客も来日するようになりましたが,それでも,まだ,遅くはありません。また,私の行きたいと思う場所は,多くの人が思うようなところではないことも,この3年で知りました。

ということで,何となくはじめた日本国内の旅行ですが,結果として,私が思っていたような「日本国内をすべて見てまわろう」をすでにはじめていたことになります。
しかし,実際にはじめてみると,日本国内を「すべて」旅行するのは並大抵なことではありませんでした。日本には,小さな島々,つまり,離島が山のようにあって,そのほとんどが,行くこと自体がたいへんなのでした。
まあ,それでも,旅をしなければならない,などという義務はまったくないし,仕事でもないので,気楽に考えて楽しむことにしましょう。

では,2023年5月18日から5月20日まで2泊3日の青森旅行のLIVEです。
はたして,今回は,どんな思いがけない出来事があることやら…。

◇◇◇


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