しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ: 九州旅行LIVE

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福岡で博多ラーメンを食べ損ねた私は,何とかしてもつ鍋を食べようと思っていたのですが,福岡市内ではあまりの混雑と暑さに参ってしまい,食べられそうな店が見つからず,こうなれば,福岡空港だ,ということで,早めに空港へ行くことにしました。そして,ついに,念願がかない,「博多もつ鍋・おおやま」というお店で食べることができました。
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もつ鍋は,牛または豚のもつを主材料とする鍋料理です。
博多のもつ鍋は,第2次世界大戦後にもつ肉とニラをアルミ鍋で醤油味に炊いたものがルーツとなっています。
近年のスタイルは,鰹や昆布,鶏ガラなどでとったダシに醤油や味噌で味つけし,その中に下処理したもつと大量のニラ・キャベツともつの臭みを消すためのニンニクのほか,好みで唐辛子を入れ,これを火にかけて煮込んで食べます。
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味噌味としょうゆ味があるということで迷いました。「味噌,しょうゆ」問題といわれるものでした。
迷ったので,店員さんに「どちらが定番ですか」と聞くと「好き好き」という答えが返ってきました。結局,味噌味を注文したのですが,私が抱いていた味噌というのは,愛知県では当然,赤味噌なので,赤味噌ではなあ,というのが迷っていた理由でした。しかし,予想に反して,もつ鍋の味噌は白味噌だったので,これが正解でした。
確かにおいしかったし,私は,もつ鍋自体が好きなのですが,とはいえ,あえて,福岡でもつ鍋を食べる必要があるほどのものか,というのが率直な感想でした。
今回の旅では,かなり贅沢に地元のグルメを味わったのですが,壱岐島の海鮮丼以外は,すべて思ったほどのものではなく,やはり,名古屋グルメには勝てない,というのが率直なところでした。これもまた,食べたからこそわかったことですが。

食事を終えて,出発の時間までラウンジで過ごしましたが,福岡空港のラウンジは混雑していました。
帰りの便は名古屋への最終便で,満席でした。私の乗った便は,名古屋からの到着便の折り返しでなかったので大丈夫でしたが,折り返し便は,豪雨で到着が遅れたので,福岡空港の出発が2時間遅れということでした。
こうして,今回の旅も終わったのですが,晴れ男というべきなのか,どうなのか,ともかく,連日豪雨の予報をかいくぐり,ほとんど雨を蹴散らして,行く先々で奇跡的に雨が止み,たのしい旅になりました。とはいえ,いずれにしても,むし暑く,また,人が多く,こんな時期に日本は旅をするものではないなあ,と思いました。

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私は,東京については,山手線の内側はずいぶん歩いたことがあるので,距離感があるのですが,今回行った福岡市は,蒸し暑かったり,雨が降りそうだったりしたことで,ほとんど歩くこともなかったし,車も借りなかったので,距離感がつかめませんでした。
バスで移動した福岡駅から博多港までと天神から福岡タワーまでは,どちらもすごく遠いなあと感じたのですが,家に帰ってから地図を見ると,大した距離でないのが不思議でした。
今度は,もっと涼しいころに福岡に行って,歩き回って距離感をつかんでみたいものだと思いました。

福岡タワーに行く途中,バスの車内から福岡ドームが見えました。福岡ドームは福岡タワーから近いんだ,と思ったので,福岡タワーを出てから,福岡ドームまで歩いてみることにしました。
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福岡ドームは「シーサイドももち」にある開閉式屋根を持つ多目的ドーム球場です。プロ野球の福岡ソフトバンクホークスの専用球場で,ドーム球場の建築面積では日本一です。なお,2020年よりPayPayが命名権を取得して「福岡PayPayドーム」という名称になっています。
1993年の建設当初は,高層リゾートホテル(現在の「ヒルトン福岡シーホーク」)を間に挟み,福岡ドームと同じスペック・形状のアミューズメントドームを併設するツインドーム構想が計画されましたが,見送りとなり,代わりに総合商業施設が完成しました。
現在は,福岡ドームと隣接してホテル「ヒルトン福岡シーホーク」と総合商業施設に加えて,2020年に完成したエンターテイメントビル「BOSS E・ZO FUKUOKA」があって,福岡ドーム一帯は,一大レジャータウンとなっています。
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ということで,その豪華さに,アメリカのボールパークへ行ったみたいで驚きました。こんなものを見てしまうと,名古屋ドームなんて,まったく大したことないなあ,と情けなく思いました。
私は現在の日本のプロ野球にはまったく興味がないのですが,聞こえてくるところでは,今はセントラルリーグもパシフィックリーグも人気や観客の数は変わらないそうです。私の若いころはセントラルリーグ1強で,パシフィックリーグは,それはそれは哀れなものでした。それが,パシフィックリーグの方が魅力的な野球場ができて,アメリカのようなボールパーク化したことでよみがえったということです。私は,対読売巨人戦の野球中継しかなかった昔のテレビ放送が変貌したことも大きな要因だと思います。

この日,福岡ドームではゲームをやっておらず,中に入れなかったのですが,以前,福岡ドームにあった「王貞治ベースボールミュージアム」が「BOSS E・ZO FUKUOKA」の4階に移転し「王貞治ベースボールミュージアム Supported by リポビタンD」として再オープンしているというので,行ってみました。私は以前,ボルチモアの「ベーブルース博物館」にも行ったことがあります。
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私が子供のころ,はじめてプロ野球の中日ドラゴンズ対読売巨人戦を当時の中日球場で見たとき,テレビで見慣れていた「1塁・王,3塁・長嶋」の実物を目の前で見て,巨人ファンではなかったのですが,感動したことがありました。また,はじめて東京へ行ったとき,大都会東京のど真ん中水道橋の後楽園球場の豪華さに,風紀が悪い場所に位置したぼろい中日球場とは何と違うのかと驚いたことがありました。それがまあ,今となっては,自前の野球場も持たない読売巨人であり,古びた時代遅れの屋根も開かない東京ドームです。
今は,まったく日本のプロ野球には興味がないのですが,福岡ドームを見て,日本の野球場も,少しはアメリカのボール―パークに近づいたものだと思いました。これまで,アメリカではどのボールパークに行くと,どこもそのチームの歴史がわかる博物館などがあるのに対して,過去をリスペクトしない日本には,こうしたものがあまりに少ないのはどうしてなのかな? といつも思っていたのですが,ここにはそれがありました。ちなみに,「王貞治ベースボールミュージアム」はあるのに,長嶋茂雄記念館とか博物館って,あるのかな? 星野仙一も松井秀喜も落合博満もイチローもあるのに。

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天神は地上も地下街も,人だらけでごったがえしていたので辟易しました。どこか人の少ないところに行こうと思ったのですが,この日は異常に蒸し暑く,かつ,いつ雨が降ってくるかもわからなかったので,博物館とか美術館とか,そういう場所しか選択肢がありませんでした。
以前来たときに「漢委奴国王」の金印が見たくて福岡市博物館には行ったことがあるので,博物館は選択肢から除外しました。また,日曜日の美術館は混雑しているとネットにあったのでこれも除外して,何とか見つけたのが福岡タワーでした。日本でも海外でも,都会というのは,美術館へ行くか博物館へ行くか,城郭や神社仏閣や教会へ行くか,展望台に上るかくらいのものです。
大都会福岡だから,福岡タワーへは地下鉄で簡単に行くことができると思ったのですが,福岡タワーの最寄りの西新駅から徒歩20分とあったのであきらめて,西鉄バスに乗ることにしました。西鉄バスは,天神のバスターミナルIAのりばから福岡タワー行きに乗るとあったので,バス乗り場へ行って,すぐに来たバスに乗り込みました。
バスは高速道路に入って,眼下に博多湾を見下ろしながら高架橋を通っていきました。ちょっとうれしくなりました。
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福岡タワーは,福岡市の「シーサイドももち」地区にあるランドマークタワーで,高さ234メートルと,日本で1番高い海浜タワーです。1989年のアジア太平洋博覧会にあわせて建設されましたが,博覧会終了後も営業を続けていて,現在は観光施設として親しまれています。
また,地上デジタルテレビやラジオ局の電波送信も行っています。
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私は,福岡タワーなんて,全く知らず,期待もしていなかったのですが,なかなかのところでした。
なお,「シーサイドももち」というのは福岡市早良区に位置する博多湾に面した,海岸の埋め立てによるウォーターフロント開発地区で,地区に含まれる百道浜(ももちはま)から名づけられたもののようです。

バスを降りて少し歩くと,入口がありました。
チケットを購入して,エレベーターに乗りました。最上階の展望室までは,エレベーターで約70秒,高さ123メートルで,展望室からは福岡市の市街地を一望することができました。
エレベーター内で福岡タワーの説明があり,外観は8,000枚のハーフミラーで覆われた正三角柱の形状となっていて,また,外観の全体像は母里太兵衛の槍「日本号」の切っ先のイメージも含まれているとのことでした。
展望室は3階層からなっていて,展望3階がメインの展望台で,ここまでエレベータが行きます。また,帰りは階段を降りて,展望1階から降ります。
展望を楽しんだあと,展望2階にカフェ「カフェ&ダイニングRefuge(ルフージュ)」があるというので寄ってみました。そこで,カラフルクリームソーダが提供されていたので,新色のホワイトを注文して一服しましたが,こんなレストランがあるのなら,天神でロッテリアのハンバーガーなど食べずにここで昼食をとればよかったと後悔しました。

福岡タワーに,日本全国のタワー一覧表というものがあったので,興味をもちました。そこで,帰宅してから改めて調べてみると,全日本タワー協議会加盟全国20タワーというものがあって,それらは
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 さっぽろテレビ塔 【北海道】 147.2メートル
 五稜郭タワー 【北海道】 107メートル
 銚子ポートタワー 【千葉県】 57.7メートル
 千葉ポートタワー 【千葉県】 125メートル
 東京タワー 【東京都】 333メートル
 横浜マリンタワー 【神奈川県】 106メートル
 名古屋テレビ塔 【愛知県】 180メートル
 東山スカイタワー 【愛知県】 134メートル
 ツインアーチ138 【愛知県】 138メートル
 クロスランドタワー 【富山県】 118メートル
 東尋坊タワー 【福井県】 55メートル
 京都タワー 【京都府】 131メートル
 通天閣 【大阪府】 108メートル
 新梅田シティ 空中庭園展望台 【大阪府】 173メートル
 神戸ポートタワー 【兵庫県】 108メートル
 夢みなとタワー 【鳥取県】 43メートル
 海峡ゆめタワー 【山口県】 153メートル
 プレイパークゴールドタワー 【香川県】 158メートル
 福岡タワー 【福岡県】 234メートル
 別府タワー 【大分県】 90メートル
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だそうです。
ここにスカイツリーがないのが不思議でしたが,その理由は,スカイツリーには加盟するメリットがない,という大人の事情というか,今どき,集客力で実力があるのに弱小集団? と群れる必要がない,ということが憶測されているかららしいです。まあ,昭和の時代ではあるまいし,未だに群れるのが好きなのは,政治家の派閥ぐらいのものでしょう。
ところで,私は,これまでに,スカイツリーには2度上ったことがあるのですが,標高が高すぎて,あまり魅力を感じませんでした。東京タワーのほうがずっといい。私はこの中で,これまでいくつ上ったことがあるのだろう? と思いました。半数ほどかなあ?

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2023年7月9日,4日目,この旅の最終日です。
来る前は,柳川市がどういうところなのかわからなかったので,1泊して,2日間にわたって柳川観光をしようかな,と思っていたのですが,この日の天気予報は雨,というか,豪雨でした。そこで,再びわざわざ川下り船に乗る気もしないし,歩いて行くのも不可能だし,観光地はほぼ見たので,博多に戻ることにしました。では,戻って何をするか,いろいろ調べても結論が出ませんでした。
宿泊したホテルで朝食をとる気がなかったのですが,チェックインしたときに,ホテルの近くに朝食をとるところもないことがわかったので,ホテルで朝食を予約しましたが,これが正解でした。
ホテルで朝食をとっていたのは,時間が早いこともあり,私くらいのものだったので,混み合うこともなく,最高でした。

朝食後,ホテルをチェックアウトして,早々に西鉄に乗りましたが,急ぐ理由もないので,特急ではなく普通に乗って,時間をかけて戻ることにしました。西鉄の不思議だったのは,特急車両の座席がロングシートで,普通車両の方が最新式の縦並びというように,私の思っていることとは反対だったことです。普通車両のほうが乗る人が少なく,また,長時間乗るから,というのが理由なのでしょうか?
ということで,ずいぶんと時間がかかりましたが,空いた快適な車内で景色を楽しみながら過ごすことができました。
この日は豪雨の天気予報と書きましたが,家に帰ってから,天気のことをずいぶんと多くの人に聞かれました。九州北部の豪雨がかなり話題になっていたからです。しかし,実際は,結果的に,晴れ男の私は,雨を巧みに潜り抜け,蹴散らしたことになります。というのは,雨の降っている場所を避けるように,壱岐島,柳川市,福岡市と移動していたからです。
西鉄柳川駅から西鉄福岡(天神)駅に向かう車中,外はずっと豪雨でした。そのために,多くの列車に遅れが生じていたようでした。しかし,私が西鉄福岡(天神)駅に着いたとき,雨はすっかり上がっていました。

私は,天神という場所について,ほとんど知りませんでした。行ってみると,地下街がずっと続いていて,西鉄と地下鉄はすべて地下街で結ばれていたので,雨が降ろうが関係がないことがわかりました。天神で地下鉄に乗れば,外に出ずとも,福岡空港にも行くことができました。
まず,私は,西鉄福岡(天神)駅の構内にコインロッカーを探して,キャリーバッグを預けました。こんなものをもっていては自由に動けません。次に,昼食をとろうと思って,店を探しました。探していたのは,博多ラーメンでした。しかし,東京駅の地下街にはずらりとラーメン屋さんが並んでいたりするのに,不思議なことに,天神の地下街は,ブティクはたくさんあれど,レストランがほとんどありませんでした。また,あったとしてもどこもすごく混んでいました。
ということで,あきらめて,ロッテリアでハンバーガーを食べて,腹ごしらえをしました。旅先でこれでは意味がありません。ご当地グルメを堪能するという目的がここで破綻しました。天神の地下街はものすごい人混みでした。人混みの大嫌いな私は,そもそも,都会の繁華街に行く理由がわかりません。日本中,というか,近ごろは海外でも,同じ店があるだけです。
まあ,この日は天神の繁華街で飾り山笠が見られたから,吉とすることにしましょう。

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ものすごく蒸し暑い日でした。しかも,私は幸いにして,偶然,建物の中にいる時だったので大丈夫だったのですが,時折,すごい雨が降ったりしました。
「御花」をもって柳川観光のめぼしい場所はほぼ見終えました。
私はこの日は西鉄柳川駅近くのホテルに泊まります。沖端地区に来たときは川下り船でしたが,近鉄柳川駅への帰りは無料シャトルバスがあるということでした。歩くと1時間ほどなので,もっと涼しくて天気がよければ歩いてもいいなあと思ったのですが,この日はムリでした。
無料のバスの出発時間が決まっていたので,それまでの時間,どこかカフェに入ろうと考えたのですが,見つけたのが「みつばち工房花の道」という店でした。この店で販売していたのが「蜂蜜ソフト」でした。ソフトクリームの上に蜂蜜がかかっている,のではなく,ソフトクリーム自体に蜂蜜が塗り込んである濃厚ソフトクリームでした。せっかくなので,巣蜜が入ったものを注文しました。
これで暑さが吹っ飛びました。
食べ終えて,無料バスが出るという,お昼にうなぎを食べた若松屋さんの店の前に行くと,すでにバスが待っていたので乗り込みました。

ホテルに戻りました。今度は,夕食を,と思って再び出かけました。
柳川といえば柳川鍋でしょう。ということで,夜は柳川鍋と決めていました。昼食はうなぎで夕食は柳川鍋,かなりの贅沢でした。柳川鍋は,開いたどじょうと笹掻きにしたごぼうを味醂と醤油の割下で煮て鶏卵で綴じたものです。
通商産業省のホームページに「うちの郷土料理」というものがあるのですが,その中に
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●福岡県/柳川鍋
柳川市の名物料理のひとつにどじゅうを使った「柳川鍋」がある。
古くからこの地域ではうなぎ,どじょうが食べられていた。どじょうはうなぎに劣らない滋養があり、しかも値段も手頃である事から庶民に好まれていた。春から初夏がどじょうの旬になる。暑い夏を元気にすごすための料理だったともいう。
●東京都/柳川鍋
「柳川鍋」は開いたどじょうを割り下で煮込み、ささがきにしたごぼうとともに卵とじにした料理。「柳川」の由来については,柳川鍋を作る際に使う平鍋に九州・柳川で焼かれた土鍋を使っていたという説,江戸日本橋もしくは浅草千束村の小料理屋の屋号とする説がある。
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とあるので,私はてっきり柳川鍋というからには柳川の名物なのかと思っていたのですが,どうやら東京が発信地のようです。しかし,名前にちなんだのかどうか,柳川には柳川鍋を供する店がたくさんありました。元祖と本家でしょうか?
私が入ったのは,駅前にあった「しげちゃん」という名前の食堂でした。
どじょうが入っているかどうかはともかく,玉子とごぼうと豆腐の入った同じような料理は,結構いつも食べているなあ,と思いました。
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 あゆのおらぬ 下総の国や どじょう汁
   正岡子規
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地元の人には当たり前のようなところでも,よそ者には何かわからない,と思うところが少なくありません。
柳川では「御花」というところがどうやら観光地の中心らしく,それが地元の人には当たり前のことらしいのですが,旅人の私には,一体,それが何なのかがわかりませんでした。岡山の後楽園のようなお城の庭園なのか? 地名なのか? はたまた,建物の名前なのか?
どうやら,「御花」というのは,宿泊施設のようなのですが,ならば,どうして宿泊施設が観光の名所で,一体何が見学できるのか?
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たとえば,駅に「Suicaは使えません」という表示があったとします。こういうとき,知っている人には当たり前のことであっても,知らない人には「Suicaって何?」ということになるのです。このように,観光施設に限ることではなく,何事も,固有名詞というものは,それが何なのかという説明がないと,何のことなのか,さっぱりわかりません。
さて,この「御花」ですが,ここは,現在は宿泊施設の名前ですが,「御花」の建物には,大広間,西洋館,立花家史料館という付属施設があって,さらに,同じ敷地内に「松濤園」という名前の庭園があって,そこへは宿泊客でなくとも,入園料を払うと見学ができるようでした。
ということで,入ってみました。
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「御花」は,江戸時代,柳河藩主の立花家の別邸でした。
5代藩主・立花貞俶は,側室や子息たちの住まいを柳河城南西部の土地に移しました。この場所は「御花畠」とよばれて親しまれるようになり,それが現在の「御花」へとつながっています。
明治時代になると,立花家は伯爵家となり,14代当主・立花寛治が「松濤園」とともに,西洋館,大広間,御居間,家政局,門番詰め所など,現在も残る「御花」の姿の基礎を築きました。
1950年に,16代当主・立花和雄が「柳川御花」として,料亭と旅館の営業を開始しました。
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まず,立花家史料館に行きました。
立花家史料館は,戦国武将・立花宗茂を藩祖とする柳河藩立花家伝来の美術工芸品である大名道具の展示を通じて,立花家の歴史文化を紹介していました。こうした美術工芸品の多くは,明治維新や第2次世界大戦後の混乱期に流失し,今日までまとまった形でコレクションが維持されている例はそれほど多くないそうですが,ここでは,柳河藩主家時代や近代伯爵家時代にわたる立花家の美術工芸品を収蔵しているとのことです。
2020年の朝日新聞に,コロナ禍で入場者が減って閉館の危機という記事があったのですが,その後,クラウドファンディングによって多額の寄付が集まり,どうやら危機は脱したようです。

次に,西洋館に入りました。明治の面影を今に伝える柳川情緒のシンボル・白亜の西洋館は,1910年(明治43年)に迎賓館として建てられたものです。そのまま館内を見学していたら大広間にたどり着きました。庭園の眺望を楽しむことができる100畳の大広間は,「西洋館の正面玄関に続く日本建築の大広間」という形式を残していて, 能舞台としても使えるようになっているということです。
観賞式の庭園「松濤園」も,1910年に整えられました。クロマツに囲まれた池庭で,座敷からの眺望を楽しむことができるということで,庭石,石灯籠があり,旧天守閣の台石を移したといわれる沓脱石の巨石は見事でした。
また,大広間の中庭にはソテツがありました。ソテツは江戸時代に武家の間で流行した植物だそうで,年間4センチメートルしか伸びないソテツも,樹齢が400年ともなると,実に見事な姿を見せていました。

なお,館内にひな人形とともに「さげもん」がありました。ここ柳川では,土産物店にもよく「さげもん」があるのですが,よそ者の私には,「さげもん」というものが何かわかりませんでした。
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「さげもん」は,柳川市に伝わる風習で,吊るし飾りのひとつです。
女児の生まれた家庭では,その一生の幸せを願い,雛壇は父方の実家から,さげもんは母方の親戚,母,祖母が用意します。
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北原白秋生家へ行って,入館料を払ったとき,こちらのチケットで旧戸島家住宅も入れますと言われたので,やながわ有明海水族館の次に行ってみました。場所は,北原白秋生家から北に少し行ったところでした。
日本各地の城下町を訪れると,江戸時代に武家屋敷のあった地域が保存されているところも多くあって,その中には,住宅が解体修理されて公開されていることがあります。この旧戸島家住宅もそのひとつでした。
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旧戸島家住宅は,柳河城の北西端にある鬼童町の一角に,旧柳河藩士の隠宅として建てられた数寄屋風の意匠を持つ葦葺屋根の建物です。堀割から水を引き入れた立派な池をもっています。また,内部には,江戸後期の流行を反映して随所に文人趣味の意匠がみられます。
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戸島家の伝承や福岡県が実施した調査によると,旧戸島家住宅が建てられたのは,1789年から1800年の寛政年間と伝えられています。また,庭園に残る石碑や建造物,古文書の調査などからは,1828年(文政11年)の建築と考えられるそうです。
この住宅は,柳河藩で中老職の要職に就いていた吉田兼儔が隠居後の住処として庭園と共に建築したもので,後に,藩主の立花家に献上されたといわれています。のち,明治維新のころに藩兵の調練所として徴発された宅地の代償として,立花家から由布氏に下賜され,1882年(明治15年)に由布氏の転居にともなって,戸島氏の所有となりました。
2001年(平成13年)に柳川市に建物が寄贈されたのを機に,3年をかけて解体修理を行ったのち,2004年(平成16年)に一般公開がはじまりました。

私以外に訪れていた人はいませんでした。これも幸いして,静かな室内で落ち着いた時間を過ごすことができました。
私がいつも感心するのは,蒸し暑い日本では,こうした日本式の住宅はとても理屈にかなっているということです。現代の日本では,アメリカの住宅のように庭に芝を植えたり,鉄筋コンクリート造りだったりする住居も多いのですが,これらは,日本の風土を考えていないと思います。
この住宅で最も美しいと思ったのは茶室でした。茶室東面には,竹柱,竹の落し掛,それに,三日月の竹下地窓などがあって,これらは,中国の竹林七賢人への憧れだろうという説明がありました。また,仏間の扉には漢詩があって,これは張謂の「湖中對酒作」ということです。
座敷南東面の入側は,茶会の待合いでもあって,中秋の名月には,縁側は月見席にもなるといいます。ここからは南東隈の柱が除かれていて,美しい庭園が座観できるようになっています。池泉鑑賞式の庭園は,柳河城の堀の水を引き入れて,その流れがL字型にカーブを描いて,再び柳河城の堀へと排水されてゆくようになっています。また,庭園に向かって左手奥には小さな赤い鳥居があって,いいバランスを保っていました。

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柳川の沖端にある「やながわ有明海水族館」は,マニアックな水族館として知られています。
「子ども達が生き物に興味を持つきっかけになってほしい」という願いのもと,2016年10月にリニューアルオープンしたもので,学生で構成された環境団体「有明海塾」が運営しています。2019年から2代目館長になったのが宮崎優作さんで,当時は高校生館長として知られていましたが,現在は西南学院大学の学生さんだそうです。魚のことにものすごく詳しいそうで,まるで,現代版牧野富太郎だなあ,と思いました。
水族館自体は,かなり手作り感のある小さなものですが,世にも珍しい白いスッポン,タナゴ類,オヤニラミ,ゼゼラ,ウナギなどの淡水魚の他,有明海に棲むワラスボ,トビハゼ,ムツゴロウ,外来種のソウギョ,アオウオ,リゲーターガー,沖縄産の巨大オオウナギなど,全70種の珍しい生き物が飼育,展示されていて,なかなか見ごたえがありました。

私がこの水族館に行ってみたかったのは,すでに書いたように,2022年12月2日,NHKBSPで放送された「にっぽん縦断こころ旅」で紹介されたからでした。そもそも,柳川というというところに行ってみようと思ったのも,それがきっかけでした。
水族館の中に入って「にっぽん縦断こころ旅」で紹介されたウナギはまだいますか?」と聞くと,ちょうど,家族連れでやってきた子供がそのウナギにエサをやっているところでした。
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佐賀市の52歳女性のこころの風景。
唯一の楽しみが酒と魚釣りで,休みの前日は徹夜でうなぎ釣りをしていた56歳の6歳年上の兄が突然逝きましたが,亡くなってしばらくして,酸素の電源が落とされた水槽を泳いでいるウナギに気づきます。「やながわ有明海水族館」にウナギがいたことを思い出し,水族館に相談すると,受け入れてもらえました。
そこで,火野正平さんに,元気に泳いでいるウナギを激励に行って欲しい。
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という内容の手紙でした。
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火野正平さんは,「居酒屋さんみたいだぞ」と表現したこの水族館でウナギと対面することができました。 火野正平さんが「こいつだ!」と水槽にいたウナギに指をさすと,水族館の女性も「この子かと思います」と返しました。さらに,ワラスボを見つけてエイリアンみたいな顔か確認した火野正平さんでした。
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私は,この水族館で,一瞬でしたが,ムツゴロウも見ることができました。
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ムツゴロウは有明海の干潟に生息するハゼの仲間です。
成魚は約15センチメートルと,トビハゼの倍程度まで成長します。飛び出た両目は愛嬌があり,干潟ではカエルのようにジャンプして移動したり,ヒレを上手に使って歩くので人気です。
ムツゴロウは,火山灰に由来する細かい泥質干潟にしか生息することができません。
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「やながわ有明海水族館」の近くに「魚屋食堂」という店があって,そこでムツゴロウを食することができるそうです。私は食べませんでしたが。
ムツゴロウは,有明海近辺の地域では伝統的な釣り方である「むつかけ」で釣られ,食用としても親しまれています。ムツゴロウは素焼きや甘辛煮で食べるのが定番だそうです。
また,新鮮なムツゴロウなら活造りで食べることも可能で,刺身で食べるムツゴロウはタンパクでコリコリした食感が非常においしいらしいです。
もっと涼しいときに来ていたら,有明海の見えるところまで歩いていけたのに,それだけがこころの残りでした。

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北原白秋が柳川にゆかりがあるということを,私は来るまで知りませんでした。
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北原白秋は,1885年(明治18年)柳河藩御用達の海産物問屋や酒造業を営み九州一円に知られた旧家に生まれ,1904年(明治37年)に早稲田大学に入学しました。
学業の傍ら詩作に励み,1909年(明治42年)に処女詩集「邪宗門」を発表。2年後に詩集「思ひ出」を発表し,詩壇の第一人者となりました。その後も,多くの詩歌集,童謡集などを発表し,1942年(昭和17年)に享年57歳で死去しました。
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北原白秋の生家は,1901年(明治34年)の大火で焼失し,母屋だけが残りましたが,1969年(昭和44年)に復元しました。柳川の観光の中心地・沖端にその生家があって公開されているというので,行ってみました。

中に入ったとき,青森県に行ったときに訪れた太宰治の生家「斜陽館」に似ているなあ,と思いましたが,北原白秋の生涯をみると,生家が酒造業を営む旧家ということで,今度は,現在,NHKで放送している「らんまん」の主人公である牧野富太郎に似ているなあ,と思いました。
そんな北原白秋の人生の中で私が興味をもったのは,北原白秋が三浦半島の城ヶ島に一時住んだことがあるという話でした。それは,このごろ,横須賀市や浦賀といった三浦半島に行く機会があって,秋になったら城ヶ島に行ってみようと思っていた矢先だったからです。
こういう話を知ると,今,私はどこにいるのだろう,と一瞬わからなくなります。日本は広いのか狭いのか。いろいろなところで,さまざなま糸が絡み合っています。
  ・・・・・・
 「この道」
この道は いつか来た道
ああ そうだよ あかしやの花が咲いてる
あの丘は いつか見た丘
ああ そうだよ ほら 白い時計台だよ
この道は いつか来た道
ああ そうだよ お母さまと馬車で行ったよ
あの雲も いつか見た雲
ああ そうだよ 山査子の枝も垂れてる
  ・・
 「城ヶ島の雨」
雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の 雨がふる
雨は真珠か 夜明けの霧か それともわたしの 忍び泣き
舟はゆくゆく 通り矢のはなを 濡れて帆上げた ぬしの舟
ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの 心意気
雨はふるふる 日はうす曇る 舟はゆくゆく 帆がかすむ
  ・・・・・・

北原白秋の生家の奥にあったのが「北原白秋記念館」でした。この建物は新しく作られたものです。
ここでは,北原白秋の遺品などとあわせて,柳河藩の歴史についても展示がありました。
私は,旅先で,いつも,その場所が江戸時代どんな藩主がいたのかが気になります。というのも,今もその地は江戸時代に根づいた文化が反映されていると思っているからです。
先日,NHKで放送されている「ブラタモリ」で,私の好きな山形が取り上げられていて,江戸時代,山形藩は次々と藩主が代わった藩だということが話題となっていましたが,このように,藩主がめまぐるしく代わった藩と,ずっとおなじだった藩では,それぞれ,まったく異なる性格があるように感じます。
柳河藩は次のような少し変わった歴史をもっていて,興味がわきました。
  ・・・・・・
もともと,柳河藩は筑後一国を支配する大藩でした。豊臣時代,立花宗茂が柳川城主として13万2千石を領していましたが,関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易除封となりました。そして,三河国岡崎城主田中吉政が筑後一国32万5千石を与えられ,柳河城に入ったのですが,2代藩主田中忠政が病没すると無嗣断絶により改易となり,分割されて,立花宗茂が10万9千石で柳河城に返り咲き,久留米城に有馬豊氏が21万石で入部し,久留米藩を立藩しました。
このように,一旦改易された殿様が返り咲く,ということが珍しいのですが,それ以後,柳河藩はずっと立花家が続きました。
4代立花鑑任は,柳河城の西方に別邸「集景亭」を造営し,それが現在の料亭旅館「御花」です。
柳河藩は,1871年(明治4年)に,廃藩置県により柳川県となったのち,三潴県を経て,福岡県に編入されました。
  ・・・・・・

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冬にはまったく食べたいと思わないうなぎ料理ですが,暑い季節になるとなぜか無性に食べたくなります。
私の地元名古屋では,うなぎ料理といえば「ひつまぶし」ですが,私は,「うな重」もしくは「うな丼」と「ひつまぶし」,どちらを食べるか結構迷います。ちなみに,「うな重」と「うな丼」は入れ物が違うだけです。
「ひつまぶし」は,おひつのなかに白米をよそい,うなぎの蒲焼をいくつかに切って乗せた料理で,薬味やお出汁などセットして,3つの異なる食べ方ができるというものです。なお,「ひつまぶし」そのものは,ご飯の入ったおひつに具をまぶした食べ物という意味なので,うなぎとは限らず,牛肉やエビなどのひつまぶしもありますが,一般に「ひつまぶし」といえば,うなぎをのせたものを想像します。
「ひつまぶし」はうなぎのかば焼きを丸まんまのせる「うな重」や「うな丼」とは違って,提供するほうは,うなぎの量を自由に調整できるというメリットがあるようです。私は,うなぎはうなぎとして味わうもので,「ひつまぶし」のように,さらに薬味やらお出汁をつけるなんて,ごまかしのような気がしたりすることもあります。また,その反対に,うなぎだけを食べるよりは変化があっていい,と思うこともあります。
いずれにしても,白いご飯にうなぎがのっていて,そこにおいしいたれ,というのが美味で,食欲をそそります。

それに対して,柳川では,うなぎ料理というのは「せいろ蒸し」だそうです。たれを絡めて味つけしたご飯の上に蒲焼きにしたうなぎと錦糸玉子を乗せ,せいろで蒸したものです。せいろで蒸すのは,最後までアツアツのまま食べられるように,また,うなぎの旨味を蒸すことによりご飯に染み込ませるためともいわれているそうです。
柳川は柳河藩の時代からうなぎの産地として有名で,藩の財源ともなっていました。有明海の漁師町でもあった柳川では,蒸すことで冷めにくくなったとして漁師に好まれました。また,武士の町でもあった柳川では江戸と同じく背開きで調理し,うなぎの焼き方は,関東風ではなく,蒸さずにたれをつけ,串は打たずに鉄の格子の上に乗せて焼く関西風だそうです。
ところによってさまざまな料理法があるものです。

午前11時より少し前に川下り船を沖端地区で降りました。時刻はちょうどお昼どき。暑い夏とはいえ,地元の有名料理をということで,まずは柳川名物のうなぎを食べに行くことにしました。いくつかのお店があったのですが,「若松屋」というところが有名らしいので,そこに行くことにしました。午前11時開店ということでしたが,開店前だというのに,すでに10組ほどのお客さんが並んでいました。客席はそれ以上にあったので,開店と同時に案内されました。
  ・・・・・・
創業以来、店舗の移転は一切なく、目の前に美しいお堀が広がる柳川市沖ノ端町で営業を続けている若松屋。
「若松屋」の創業は安政年間の1860年。創業160年を超える老舗です。
若松屋のせいろ蒸しはうなぎの味わいもさることながら白米に特徴が。限界まで水を減らして炊き上げた白米に,創業以来,毎日少しずつ継ぎ足されたたれをまぶし,味が染み込みやすいように数十分寝かせています。たれと一体化したふわふわ食感のうなぎと,一粒一粒にうなぎの旨味が染み込んだ白米の美味しさを楽しめます。
  ・・・・・・
というのがお店の紹介でした。

定番の「鰻せいろ蒸し」を注文しました。
他の店に行ったこともないのでこのお店と比較することもできないのですが,正直なところ,愛知県人の私には,柳川の「せいろ蒸し」より名古屋の「ひつまぶし」のほうがおいしいや,と思いました。そもそも,うなぎの上に錦糸玉子なんていらないし,蒸すことでご飯にたれがしみ込んじゃっているのはなあ? 帰宅してから,やはり柳川に行ってうなぎを食べたことがあるという友人にその話をしたら,同じことを言っていました。では,柳川の人が名古屋の「ひつまぶし」を食べたらどう思うのだろう?

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川下りがはじまる午前9時30分が近づいたので,川下り船のチケットを購入しました。
帰ってから調べると,現在,川下りは7つの会社が運行していて,うち3社がショートコースのみの運行なので,私のように,西鉄柳川駅近くから沖端地区という柳川観光の中心部まで乗ることができるのは4社とのことでした。私が利用したのは,はじめに乗り場が目についた柳川観光開発というところのものでしたが,三柱神社の参道の手前に乗り場があったことと,会社の人がとても親切だったというのが理由でした。
  ・・・・・・
柳川の川下り観光は柳川観光開発が1961年(昭和36年)に創業しました。現在の乗船場がある「松月文人館」は明治中期の建物で,北原白秋の詩集「思ひ出」にも「懷月樓」として詠われた白秋ゆかりの場所です。 ここから「どんこ船」がゆっくりと漕ぎ出し,柳川観光の第1章がはじまります。
  ・・・・・・
とホームページにありました。

  ・・・・・・
 立秋
柳河のたつたひとつの公園に秋が來た。
古い懷月樓の三階へ きりきりと繰くり上ぐる氷水の硝子杯コツプ,薄茶うすちやに,雪に,しらたま, 紅あかい雪洞ぼんぼりも消えさうに。
柳河のたつたひとつの遊女屋に薊あざみが生え,住む人もないがらんどうの三階からきりきりと繰り下ぐる氷水の硝子杯コツプ,お代りに,ラムネに,サイホン,こほろぎも欄干らんかんに。
柳河のたつたひとりのNOSKAIはしよんぼりと,月の出の橋の擬寶珠ぎぼしゆに手を凭もたせ,きりきりと音おとのかなしい薄あかり,けふもなほ水のながれに身を映うつす。
「氷、氷、氷、氷…………」
  「思ひ出」北原白秋
  ・・・・・・
私は来るまで知らなかったのですが,柳川は,北原白秋ゆかりの地でした。

柳川の川下りもまた,ここ2,3年は大変だったようですが,今後は,おそらく,ハイシーズンだと乗船するのも大変でしょうし,桜の時期には,大垣城の堀の川下りのように,予約がないと乗れないのかもしれません。この日は土曜日ではありましたが,天気も悪く,また,早朝だったために,空いていました。乗り合わせた中に,台湾から来たという人たちもいました。
雨が降るという予報だったので,乗るときに雨除けの透明なレインコートを貸してくれましたが,結局,雨には降られませんでした。
川下りは,思った以上に乗り甲斐がありました。船頭さんは自力で竿で堀の下の押しながら船を進めていくので,風が強かったこの日は大変そうでした。途中でさまざまな説明があったり,歌を歌ったり。インバウンドのころは英語で説明もしていたようで,今回も,台湾から来た人たちのために時折混じる英語の説明が,また,一興でした。これまで,さまざまな観光地で水の上の乗り物に乗りましたが,これはなかなかのものでした。
  ・・・・・・
柳川は,2キロメートル四方,延長60キロメートルにわたって網目状の堀割が巡らされた水郷の町です。この堀割を,「どんこ舟」で回る川下りが柳川観光の目玉です。
船頭のガイドや舟歌を聞きながら,およそ4キロメートルの堀割を約1時間10分かけて巡ります。
江戸時代に柳河城を築城するために整備された堀割は,生活用水や水上道路として利用されていて,明治以降は「どんこ舟」を使った川遊びがさかんに行われるようになりました。
1954年(昭和29年),北原白秋の少年時代を描いた長谷健の小説「からたちの花」が映画化され,柳川で撮影が行われました。映画に登場した川遊びが注目を浴びたことを機に,2艘の「どんこ舟」で観光客向けに川下りがはじまりました。
  ・・・・・・
「どんこ舟」というのは,ハゼの仲間ドンコに姿が似ていることからつけられたようです。
「どんこ舟」から柳川の町並みを眺め,頭をかすめるほどの橋の下を何度もくぐりながら,やがて,沖端地区に到着しました。

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Sturgeon Moon 2023.

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2023年7月8日,3日目。博多駅前のビジネスホテルに1泊して,次の日は柳川市に行くことにしていました。
柳川市に行きたいと思って福岡市まで来たのですが,福岡市から柳川市に行く方法を知らなかったというのがいい加減なところです。どうにでもなるわさ,と思っていた,というか,JR博多駅から列車に乗れば行くことができるものだと思いこんでいました。
直前になって調べてみると,柳川市に行くには,西鉄に乗るということがわかりました。私が宿泊しているJR博多駅近くのビジネスホテルからは,まずバスに乗って薬院というところまで行って,そこで西鉄に乗るとGoogleMaps がいうので,それを信じることにしました。西鉄の始発は西鉄福岡(天神)という名前の駅,この駅は天神とよばれる福岡市の繁華街にあるそうで,その次の駅が薬院でした。

なお,西鉄福岡(天神)駅は,もともとは福岡駅,そして,西鉄福岡駅といっていたらしいのですが,まぎらわしいということで改称されたもので,天神がカッコづけされているのは,単に天神という名前にすると,大宰府天満宮とまちがえやすいから,また,福岡ではどこか漠然としていてわからないから,というような憶測があるようです。
また,天神という場所に行くにも,福岡地下鉄には空港線の天神駅と七隈線の天神南駅,そして,西鉄の西鉄福岡(天神)駅があって,それらは離れているのですが,すべて地下街でつながっていました。しかし,そのことは,行ってみるまで,よそ者の私にはわからないのでした。
それにしても,どうして西鉄は天神が始発でJR博多駅とは接続していないか? それでは不便ではないか? と私には疑問でした。それは,たとえば,名古屋市で,JR名古屋駅から近鉄が接続しておらず,近鉄の始発はJR名古屋駅から地下鉄で2つめの栄にある,というようなものです。
そこで調べてみると,次のようにありました。
  ・・・・・・
【問】
西鉄福岡(天神)駅とJR博多駅はどうして離れているのでしょうか。地下駅を作って博多駅まで延ばせば博多の人達は便利になると思うのですが。
【回答】
博多駅は確かに九州の交通の中心ですが,行政・ビジネスの中心は昔から西鉄福岡駅のある天神です〈よ〉。(中略)つまり,博多駅(から新幹線)を利用する人は最初からJRを使うし,天神・中洲に用がある人は西鉄を使う。〈それだけの話です。〉
  ・・・・・
この回答で私が強調して記号をつけた〈よ〉と〈それだけの話です。〉という言葉に,よそ者はだまっていろ,的な傲慢さを感じるのは私だけでしょうか? こういうのは,地元の人には当たり前のことでも,よそ者には不便だし,わかりにくいのです。
実際は,福岡市が発展する以前の段階で,西鉄を博多駅まで延長する計画を立てなかった,その才覚がなかったというだけのことでしょう。それだけの話です。また,もし東京なら,西鉄を地下鉄に乗り入れすることでしょう。

後で調べてみたら,博多駅から天神に行くには地下鉄が通っていて,バスで薬院に行かずとも地下鉄に乗れば西鉄福岡(天神)駅に行くことはできたのです。また,薬院駅にも,以前は天神南駅が終点だった地下鉄七隈線がこの3月から博多駅まで延長になっていました。確かに,福岡市内は西鉄バスが頻繁に走っているからバスでも便利だったのですが,よそ者にとっては,一般に,どの町でも,バスというのはよくわからないので,できれば地下鉄を利用したくなるのです。
ともかく,私はバスで薬院に着いて,そこで西鉄の特急に乗り換えて柳川市に行くことができました。
とはいえ,この時点でもうひとつ疑問だったのは,西鉄における特急というものの存在でした。というのも,私鉄によって特急の意味が異なっていて,私は,特急といえば,JRや近鉄のように,特急は特急券がいる特別豪華な車両といったような印象をもつのです。
西鉄における特急は,東京の京王も京急も同様ですが,全席自由で特急料金も必要がないということでした。そのことさえ,よそ者にはわかりません。近鉄に限らず,小田急ロマンスカー,京成スカイライナーのように,別料金の発生しない特急なんて超レアだと思っている人種も大勢いるのです。
ともあれ,今回の旅で,福岡市の公共交通について,私はずいぶん詳しくなりました。

柳川市にある西鉄の駅は西鉄柳川駅といいます。薬院駅から西鉄に乗って,約1時間で西鉄柳川駅に着きました。
この日の宿泊するホテルが西鉄柳川駅の近くなので,まず,ホテルに行ってキャリーバッグを預けました。適当に旅をしていても,こういうことだけは抜かりがないのです。とはいえ,柳川市の観光の中心地がどこかすら知らなかったのです。
聞いてみると,西鉄柳川駅からはけっこう離れていて,そこまでは川下りの船に乗って行くのだとか。柳川市を観光するには川下り船が必須だなんて,うまいことできているなあ,と思いました。
私が柳川市に着いたときは雨は降っていなかったのですが,この日の天気予報では豪雨でした。聞いてみると,豪雨だろうと川下り船は運行するとかいう話だったので,一応,安心しました。
しかし,まだ到着したのが早すぎて,川下りの船は運航してなかったので,とりあえず,川下り船の運行がはじまるまで,近鉄柳川駅近くにあった三柱神社(みはしらじんじゃ)に行くことにしました。
  ・・・・・・
三柱神社は,「西国一の強者」と称された百戦錬磨の武将・初代柳河藩主であった立花宗茂,岳父の戸次道雪,そして,立花宗茂の室であった誾千代(ぎんちょ)の三神を祀ったことからこう称する神社です。雄大荘厳な風格の社殿と緑陰広がる三柱神社の境内は,水郷柳川の名所のひとつで,参道は直線300メートルもあり,春の大祭に流鏑馬が奉納されます。
1783年(天明3年),七代藩主の立花鑑通が柳河城内三の丸の長久寺境内に社を建立したのを起源とし,武神軍神,水利,干拓,開田,郷土繁栄の守護神でした。また,近年では,必勝,就職,再就職,復活の社として崇敬されています。
  ・・・・・・

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壱岐島から博多港に帰ってきました。
すでに書いたように,もともとは柳川市に行こうと思っていて,そのついでに博多の観光もしようと,3泊4日の予定で県営名古屋空港から福岡空港へ往復する航空券を買ったわけですが,そこにあとから,壱岐島を観光することを思い立って,ねじ込んだわけです。
しかし,もう少しきちんと予定を立てるべきでした。
まず問題だったのは,旅行をしたのが7月6日木曜日から7月9日日曜日だったのですが,こんな時期に旅行をするべきではなかったということでした。梅雨末期で,大雨が降る可能性が高く,さらに,蒸し暑かったからです。計画したときは結構忙しく,かつ,すずしい時期だったので,思いもよりませんでした。
ふたつ目は,週末に福岡市を観光するなんて,無謀な話でした。

私は,これまで数回福岡市に行ったことがあります。
はじめに行ったときは,これもまた今以上に何も知らず,偶然,博多どんたくのときで,予約もせずに行って,宿泊する場所がなくて困りました。
2度目は大相撲の九州場所のときだったのですが,このときもまた,千秋楽を見にいったので,その前日に福岡市の観光をしようと土曜日にホテルを探したのですが,まったく見つからず,しかたなく鳥栖市に泊りました。
ということで,私の頭には,「福岡市=ホテルがない」という図式ができ上っていたのですが,実際は,平日はそうでもないようです。
今回,福岡市に1泊したかったのは,中洲の屋台を見たかった,できれば,屋台で飲みたかったというのが理由でしたが,「福岡市=ホテルがない」ということだけは頭にあったので,早めに博多駅の近くにホテルは予約したからホテルを探すという点は大丈夫だったのですが,福岡市なんて名古屋市と同じくらいの規模だから東京とは違う,と思っていたのが,大いなる勘違いでした。
金曜日夜の中州は,渋谷のようなものすごい人出で最悪でした。ただし,私はまったく知らなかったのですが,もう数日遅かったら,今度は,それに加えて,博多祇園山笠の山舁きがはじまるし,世界水泳も開催されたから,それなら,もっと大変でした。
もし,また福岡市に行く機会があるのなら,今度は,しっかりと計画して,すずしいころの平日に行ってみたいと思います。

ところで,ここまで書いていて思い出したのですが,よそ者の私は,福岡というのか博多というのか,その違いがわかりません。空港は福岡空港だったし,港は博多港でした。また,JRは博多駅だし,西鉄は西鉄福岡(天神)駅です。福岡市はありますが博多市はありません。福岡県人は,福岡のことをさすとき博多とよぶことが多いそうです。
どうして福岡といったり博多といったりするのかという,福岡市に住んでいる人には当たり前のことであっても答えられません。大阪と梅田の違いと同じなのか?
そこで調べてみました。
  ・・・・・
「続日本紀」の中に博多大津という名称があるように,この地は,もともとは「博多」でした。
1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦で,黒田長政が東軍の勝利に貢献したとして,筑前国を与えられ入国しました。当初は,以前からあった名島城を居城としましたが,手狭なことから新たな地に城を築き,黒田家ゆかりの地である備前国邑久郡福岡の名前を取って福岡城と名づけたことで「福岡藩」が立藩しました。これが「福岡」の起こりです。
それ以降,中洲を流れる那珂川を挟んで,東は「博多」西は「福岡」にわかれてよばれるようになりました。「川向こうの福岡城のあるところ」という感じでしょうか。
明治になって,「福岡藩」が福岡県となりましたが,県庁所在地の市名のほうは,博多市にするか福岡市にするか紛糾し,1票差で福岡市に決まりました。そして,博多市派の人々をなだめるために? 鉄道の駅は「博多」になりました。
  ・・・・・・
なお,「大阪」は,古くは浪速とよばれていた地に,蓮如が大坂御坊(=石山本願寺)を建立したことで大坂(オオザカ)という呼称ができたのですが,「坂」の字が「土に反る」ことから死を連想させるとして,江戸時代のころから「大阪」とも書くようになり,明治時代に定着したものです。
「梅田」は,JR大阪駅のある場所の地名のことなので,「博多」と「福岡」の違いとは少し意味が異なり,大阪の人が駅のある場所を「梅田にある駅」から梅田といっているわけなので,少し違います。

さて,博多港でジェットフォイルを降りてから,第1ターミナル前のバス停でずいぶんと待ちました。壱岐島からのジェットフォイルの到着時間とバスの時刻がまったく連動していないのが不思議でした。このくらいの利便性をはかってもいいのに,と思いました。
博多駅から博多港に来たときにも思ったのですが,博多港から船に乗るという観光客のことを,この町はまったく考えていないと感じました。
やっと来たバスに乗って,博多駅に戻り,博多駅近くに予約してあったビジネスホテルにチェックインしました。
私は,中洲の屋台で夕食を,と思っていたので,ホテルの部屋に荷物を置いて,再び出かけたのですが,思惑が外れました。とにかく,人多すぎで,屋台なんて入れたものではありませんでした。ならばと,屋台を断念して中洲の繁華街にある食堂で,と思ったのですが,中洲にあったのは,ものすごい数の風俗店と飲み屋ばかりでした。また,食事をしようと思っても,どこも満員だと断られました。
ものすごく暑かったので,仕方なく,少しだけ席があった,今どき,タバコの煙モウモウの飲み屋に入って1杯だけビールを飲み,その次に,なぜかお客さんのいなかったチェーン店のラーメン屋でなんとかおなかを満たして,早々にホテルに戻ることにしました。
私は人混みとタバコが嫌いです。また,せっかくラーメン屋に入ったので,博多ラーメンを注文するべきだったけれど,暑すぎてその気になりませんでした。
いったい,中洲まで何をしに来たのやら,と思いました。

ただし,博多祇園山笠は7月1日から開幕していて,合計14の飾り山が市内のさまざまなところで公開されていたから,絢爛豪華な「飾り山笠」をいくつか見物することができたのが幸いでした。
  ・・・・・・
山笠には「飾り山笠」と「舁き山笠」の2種類があります。
「飾り山笠」は,高さ約15メートルある鑑賞専用の山笠で,動くことはなく,期間中,決められた場所で毎日見ることができます。また,実際に担がれる「舁き山笠」は高さ3メートルほどです。
以前は「飾り山笠」と同じ高さでしたが,明治時代になって電線を切ってしまう問題が出てきたために,高さの低い山笠を「舁き山笠」として別につくるようになったということです。
  ・・・・・・

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これで1泊2日の壱岐島観光は終わりです。
帰りのジェットフォイルの出航時間は午後5時10分でした。1時間ほど早く郷ノ浦港について,かろうじて1台スペースがあった一般駐車場に車を停めました。壱岐島のレンタカーは,港には特に営業所もなく,返却するときには電話をするとかかれてあったので,決められた電話番号に電話をしたら,ガソリンスタンドで書いてもらった満タン証明書と車のキーをダッシュボードに入れておけばいい,と言われました。
のどかな島です。これで大丈夫かな,と思いましたが,島から逃げ出すこともできないから,それでいいのでしょう。
  ・・
ということで,こんな具合に車を返却? して,ターミナルに入ったのですが,すでに,ジェットフォイルを待っている人たちが結構いて混雑していました。そこで,ターミナルの2階にカフェがあるということだったので,カフェに入り,ケーキセットを注文して,時間を潰しました。
やがて,乗船の時間になったので,ジェットフォイルに乗り込み,1時間ほどで博多港に戻りました。

これが,今回の壱岐島旅行でした。
わざわざ行かないと絶対に行くことがないだろうと,勢いではじめた離島めぐりですが,これまで,石垣島,佐渡島,そして,今回の壱岐島と行きました。
飛行機で直接アクセスできた石垣島は,そこからさらに,小浜島や黒島,さらに,竹富島に行くのに船に乗ったし,佐渡島と壱岐島にはそれぞれ新潟港と博多港からジェットフォイルに乗ったりして,なんとなく離島というところへどうやって行くのか,離島はどういうようすか,ということがわかってきました。どこも似ているところもあり,また,違うところも大いにあるのですが,それにしても,離島へ行くには交通費がかかりすぎるのが難点です。たとえば,佐渡島の場合,県営名古屋空港からから新潟空港に行く費用と新潟港から佐渡島に行く費用がほとんど同じだし,今回も,福岡空港へ行く費用と博多港から壱岐島に行く費用があまり変わりませんでした。
それでも,私は観光だからいいとしても,島に住んでいたら,本土に行くのが大変です。これでは若い人は島から出て行ってしまうのも無理ありません。だから,どんどん過疎化してしまっています。
以前,アメリカ人の友人が,ハワイは観光旅行で行くにはいいところだけれど,住むのは島から出るのがたいへんだからいやだ,と言っていたのですが,日本の離島はハワイよりも狭いから,その比ではないです。
私はまだまだ行ったことがない離島がたくさんあります。来月,隠岐島に行くことだけは決まっていますが,果たして,この先も別の離島に行く気になるのかどうか? 今はまだ,種子島,五島列島など,気になっている離島はあるのですが…。

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おいしい昼食をとってから,私が壱岐島で最後に行ったのが渡良半島の「鬼の足跡」でした。
渡良半島の周辺は大草原になっていて驚きました。入口にゴルフ禁止という看板があって驚きましたが,まさに,ここはゴルフ場のようなところでした。
この大草原には遊歩道が整備されていて,ここを歩いて行くと海岸に出ます。そして,断崖絶壁で,まったく柵もありません。すぐに柵を作ったり,注意書きを書いた看板を設置して,景観を台なしにすることには懸命な日本にも,こんな無防備な場所があるなんて,信じられませんでした。ここは,まるで,以前に行ったアイスランドの海岸のようでした。

半島の先端に「鬼の足跡」とよばれている大穴がありました。穴の大きさは,直径53メートル,周囲110メートル,深さ13メートルで,玄武岩でできているそうです。「鬼の足跡」は洞窟から海水が侵食して天上が陥没したものだと思われます。
  ・・・・・・
昔々,デイという名前の鬼が朝鮮から対馬,壱岐と飛び石伝いにやって来ました。鯨がたくさん泳いでいるのを見て,デイは鯨をすくい捕るために,片足を辰の島に,もう片足をこの渡良の牧崎にまたがり,3頭の鯨をすくい捕りました。そのときできた穴が「鬼の足跡」です。
  ・・・・・・
また,海岸の右方に見えている台形の岩が「ゴリラ岩」です。右を向いて,とがった頭,くぼんだ目,笑っているようにも見える愛きょうのある口元。歯もあります。「ゴリラ岩」は黒崎半島「猿岩」と向かいあっているといわれています。「ゴリラ岩」,果たしてゴリラの横顔に見えるでしょうか? 
これだけ広く美しいところなのに,私以外に来ていたのはひとりの観光客だけでした。私が「ゴリラ岩」のある海の方をじっと見ているのをその人が不思議そうにしていたので,「ゴリラ岩」のことを話すと,その人は「ゴリラ岩」を知らなかったらしく,「確かに見える!」と感謝してくれました。

渡良半島には展望台もありました。展望台からは海の向こうに,大島、原島、長島が見渡せました。この3つの島を渡良三島(わたらみしま)といいます。長島と大島の間には珊瑚大橋が架けられています。
説明書きがあって,渡良三島は有人の島で,人口は,原島が130人程度,長島が160人程度,大島が190人程度。漁業がおもな産業で,郷ノ浦から1日に4便ほどの船が出ていると書かれてありました。
私は,有人の島だということに驚きました。
壱岐島は古くから流人の島で,江戸時代には,京都以西で罪を犯した者は,五島列島,壱岐島,天草諸島などに島流しにされたので,壱岐島には,毎年20人ほどが流され,200人から300人くらいの流人がいました。では,壱岐島で犯罪を犯した人はどうなるのでしょう? 今度は渡良三島に流されたのだそうです。
渡良三島は,私が沖縄の石垣島に行ったとき,そこから,小浜島や黒島に出かけたのですが,ちょうどそんな感じなのでしょうか。しかし,小浜島や黒島とは違って,渡良三島は観光の島ではないようです。到着しても,レンタサイクルもなければ,道路案内すらないそうです。でも,なぜか行ってみたい気がしました。かなりディープな話です。

また,渡良半島にはツインズビーチという,塩樽海水浴場と小水浜海水浴場があって,ふたつの海水浴場は遊歩道で結ばれています。壱岐島は東側は砂浜があり穏やか,西側は岩浜で波が荒い,と聞いていのですが,ここは西側にあるのにも関わらず,入り江となっていたので美しい砂浜があって,けっこうしゃれた海水浴場でした。しかし,ここもまた,だれもいませんでした。

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帰りのジェットフォイルは壱岐島の西側にある郷ノ浦港から出航します。出航時間は夕方なので,まだ時間が十分にあったのですが,郷ノ浦がどんなところかと,一度行ってみることにしました。
郷ノ浦は結構大きな港町でした。そこで,ここで昼食をとることにしました。どこかよい店がないかと町の中を走ってみましたが,なかなか駐車場が見つかりません。どこでも停められるような気もするのですが,そうもいきません。そのうちに,隣に駐車場をもった「三益寿司」というお寿司屋さんを見つけたので,そこに決めて,車を停めて,中に入りました。
昨日宿泊した民宿の食事が大したことなかったこともあり,贅沢をすることにしました。そこで,注文したのは海鮮丼でした。今,壱岐島では「赤ウニ」が旬,ということで,「赤ウニ」も目当てでした。
非常においしくいただきました。
  ・・・・・・
おいしい生ウニ! ですが,ウニは世界中に生息していて,900種類もあります。しかし,その中で食用とされているのは10種類程度だそうです。
北海道から東北で食べられているのは,「バフンウニ」「ムラサキウニ」の2種類です。
「バフンウニ」は 北海道や東北が産地で,トゲが短く,殻に入った見た目が馬糞に似ていることからこのように名づけられました。オレンジ色に近い濃い黄色です。濃厚で甘味が強いのが特徴です。
「ムラサキウニ」は利尻産・礼文島産が有名で,トゲは長く,殻に入った見た目が黒に近い紫色をしていることからこのように名づけられました。白色に近い淡い黄色で「白ウニ」ともよばれます。淡泊で上品な甘みが特徴です。
一方,壱岐島では,主に「ムラサキウニ」と幻のウニと呼ばれる「赤ウニ」が水揚げされます。4月中旬から10月中旬がウニの漁期で,島内に約300人いる海女・海士がウニを獲っています。芦辺町八幡地区では,約60人の海女が乱獲防止のためレオタードを着用したユニークな漁を行います。4月中旬から6月20日ごろが「ムラサキウニ」の旬の時期。7月から10月中が「赤ウニ」の時期とされています。
「赤ウニ」は特に九州沿岸,しかも西側に生息する温帯性のウニですが,水揚高は年々減少していて,九州外にはめったに出回ることがないことから、壱岐島では幻のウニとよばれています。
  ・・・・・・

食事の後,郷ノ浦の高台にある「春一番の塔」を見にいきました。
立春から春分の日にかけて、はじめて吹く風速8メートル以上の南風を春一番とよびますが,この春一番という気象用語は,壱岐島が発祥の地です。
  ・・・・・・
江戸時代,郷ノ浦の漁師達が月に1,2回,五島沖にある喜三郎曽根というところにタイの延縄漁に出かけていました。港を出るときは快晴でした。漁場に着いて延縄漁をはじめましたが,しばらくして南風が吹きはじめ,黒雲が南の水平線上に湧き上がってきました。それを見て,漁師のひとりが「春一だ」と叫びました。
漁師達は帰る用意をはじめましたが間に合わず,強烈な南風が海上を吹き荒れ,周りはおおしけになり,荒波が漁船におおいかぶさってきました。漁師達はなすすべもなく,船もろとも海中に沈んでいきました。遭難者の数は53人でした。
  ・・・・・・
壱岐島では,1987年(昭和62年),郷ノ浦港入り口のある元居公園内に記念碑の「春一番の塔」を建てました。塔の形は,江戸時代,壱岐島で利用されていた船をモデルにしたものです。
この遭難事故以後,船の形を萩の鶴江の型にしたり,広島の船の型にしたりと変えていったので,もともとあった壱岐島の漁船の型は残っていないといわれています。

郷ノ浦町に半城湾という大きな湾があり,その小さな入江の奥に長崎県内では分布の北限とされているアコウ樹があるというので,広い道を右折して,道なりに急な坂道を下り,見にいきました。アコウはクワ科イチジク属の亜熱帯高木で,幹周り4メートル,樹高13メートルありました。中国南部,台湾,琉球を通って,種が流れ着いてここで自生したものか,それとも誰かが植えたものかはわからないということです。 
幹の周囲から伸びた無数の気根は幹を伝い,幹と一体化しながら地面に届き,斜面の土をがっしりと掴んで立っていました。古い葉は,春になると落葉し、新しい葉が出てきます。 また,枝や幹に直径1センチメートルほどの大きさのイチジクに似た小さな実がなるということです。

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次に目指したのが,壱岐島の最南端でした。私が参考にしていた地図には,地名は初瀬とありました。
島の西海岸に沿って道路があったので,そこを走っていったのですが,ほとんど民家もなく,道路が続いてはいても,この先に何があるのだろう? と感じました。思ったよりも岬の先端は遠いなあ,と思いながら走っていると,以前行った,ハワイのモロカイ島やマウイ島の海岸沿いを走っていたころを思い出しました。ちょっと似ていました。
道の向こうから定期バスが来たのに驚きました。エッ! この先に人が住んでいるんだ,とびっくりしました。途中にバス停もあったのですが,こんなところでだれが乗るのだろうと思いました。バス停にあった時刻表を見てみたら,バスは1日に4便ほどだったから,バスに出会ったのも,かなりの偶然だったわけです。
驚いたことに,岬の先端に着いたら,かなり多くの民家がある漁港に突き当たりました。本当に,日本では,どんなところに行っても人が住んでいるんだなあ,と思いました。
壱岐島の最南端は,地図で見ると海豚の鼻に似ていることからイルカ鼻という名があるということです。集落の横壁には,高さ50メートルほどの鏡岳があって,その山頂に鏡岳神社あるそうです。祭神は,伊邪那美命(イザナミノミコト),速玉男命(ハヤタマオノミコト),事解男命(コトサカオノミコト)です。神社に行くには階段が320段もあるということだったので,私は行くのをやめました。なにせ,ものすごく蒸し暑かったし,いつ雨が降ってくるかわからない天気だったし。また,山頂に登っても,木々が茂っていて見晴らしはよくない,と聞きましたし…。と,これは登らなかったかった私の強がり,かな。

  ・・・・・・
昔,壱岐の柳田という村に,彦兵衛という信心深い農夫が住んでいました。 日ごろから豊前にある彦山大権現を信じていて,夫婦でお参りをしていました。
60歳に夫婦が彦山にお参りしたとき,夢の中でお告げがありました。
「自分は彦山権現である。お前たちは私を信じて何回もお参りしたので,私もその間ずっとお前たちを守ってきた。しかし,お前たちももう年だし,はるばる海を渡ってくるのも大変だろう。「初瀬の岩脈」の崖の途中に生えている松の木の枝に私と同体の鏡をかけておくので,その鏡をとって神殿を建て,鏡を奉納しそこにお参りすれば,彦山に参拝するのと同じである。よって,これからはいつでもお参りしたいときにそこにお参りするように」
彦兵衛夫婦は「初瀬の岩脈」の断崖に行ってみると,お告げのとおり,断崖の途中の松の木の小枝に鏡が輝いてかかっていました。そこで,その鏡をとり鏡岳に神殿を建て奉納しました。それ以来,この神社を鏡岳権現と呼ぶようになったということです。
  ・・・・・・
ということで,この集落の海岸沿いにあったのが「初瀬の岩脈」でした。高さが約41メートルもある「初瀬の岩脈」は,その対岸に,全体がよく見える展望台がありました。壱岐島のこんな場所に隠れた名所があったのです。
壱岐島は,火山活動が多い島だったことが最近の研究でわかってきました。古代には,壱岐島のあちらこちらで火山活動が盛んだったようです。「初瀬の岩脈」は,まず,1回目の火山によって,白っぽい流紋岩が噴き出しました。その後,2回目の火山活動で,地下から上がってきた玄武岩が最初にあった流紋岩の断崖を突き破り,ふたつに割いてしまいました。大きな玄武岩が大きな流紋岩を突き破ってこのような断崖になったということです。黒っぽく見える玄武岩の幅は20メートルから28メートルもあって壮観でした。

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2023年7月7日,壱岐島の2日目になりました。
1日目はとてもよい天気でしたが,2日目の天気予報は雨でした。しかし,思ったほどは降らず,まあまあの天気でした。
2日目は1日目に行くことができなかったところを回ろうと思って,気が向くままにあれこれと訪れたのですが,帰ってから地図を見ながら写してきた写真を調べてみると,何度も同じ道を北に南に東に西にと,文字通り右往左往していたので,場所の特定に困りました。
私らしくないです。要するに,計画不足だったのです。

この日はじめに行ったのは,勝本港で,今日こそ島めぐりをしようと思ったのですが,チケット売り場で雨模様で霧が出ていて何も見えないからやめたほうがいいよ,と言われて断念しました。本当に,昨日乗ればよかったのに,と後悔しました。
そこで,壱岐島の東側,1日目にジェットフォイルで到着した芦辺港の北の高台にある少弐公園に行きました。
竜神崎の一帯は元寇で激しい戦いがあった古戦場で,現在は少弐公園となっていて,とても見晴らしのよいところでした。また,少弐資時の石積みの墓がありました。
また,近くには壱岐護國神社があって,少弐資時が祭神として祀られています。少弐資時は,1274年(文永11年)の文永の役で12歳で初陣を果たし,1281年(弘安4年)の弘安の役で日本軍を率いて壱岐島を占領する東路軍との奮闘の末戦死しました。享年19歳でした。

次に,芦辺から,壱岐島の南東の海岸に行こうと走っていたら見つけたのが,安国寺でした。臨済宗の安国寺は,臨済宗で1番古い寺です。
元寇で壱岐島は壊滅的な被害を受けましたが,それに対して,鎌倉幕府は事後処理に追われ,何の援助もできませんでした。その後,足利尊氏,足利直義の兄弟は,足利氏の天下統一の威信を示すために,臨済宗の夢窓礎石の勧めによって,北海道と沖縄を除く全国66か国と壱岐,対馬の2島に利生塔と安国寺建立を命じました。しかし,壱岐島では財政的に苦しく,寺を建てる余裕がなかったので,すでにあった老松山安国海印寺を拡張,修理して安国寺にしました。
二重の瓦葺きの屋根のある仏殿はこれまで何回か火災で焼失し,現在あるのは江戸時代に再建されたものです。また,本尊は延命地蔵菩薩(えんめいじぞうぼさつ)で,室町時代の作だそうです。
境内には大きな杉の木がありました。杉の木は壱岐で一番の大木で,樹齢約1,000年,直径6メートル,樹高30メートルもあるということです。

安国寺を過ぎると,石田町というところに着きます。さらに東に行くと,壱岐空港があって,少しわかりにくいのですが,滑走路の下を,かろうじて車が通れるほどの幅の地下道がくりぬかれていて,それを抜けると海岸に着きました。この海岸は砂浜で,南から順に,錦浜,大浜,筒城浜とあり,日本の快水浴場百選に選ばれたところだそうです。
確かに,広い渚がずっと続いていましたが,私が行ったときは人ひとりいませんでした。壱岐島は先日行った佐渡島以上に寂れた感が半端ないですが,シーズンになれば,多くの人が訪れるのでしょうか。

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壱岐島で宿泊したのは「明るい農村」という名前の民宿でした。
私は,旅先では,豪華なホテルとか団体ツアー客御用達の温泉旅館とかに宿泊する気がなく,素泊まりのビジネスホテル,もしくは,老夫婦が営んでいるような小さな温泉宿,というものを探して予約をします。
素泊まりのビジネスホテルはどこにでもあって,そのほとんどは大差ないのですが,以前,「ローカル路線バス乗り継ぎの旅!」で蛭子能収さんが言っていたように,小さな温泉宿,というのが難しいのです。また,温泉がないところでは,民宿というものが結構多く,大概の場合,バストイレは共同となっています。また,食事の提供があったりなかったり,部屋も広かったり狭かったりと,ともかく千差万別で運次第,くじを引くようなものです。私は,最悪の場合1晩泊ることさえできればいいと思っているので,それほどこだわっていないのですが,それでも,先日行った佐渡島で泊った「いさりびの宿・道遊」のように,満足なところに出会うと,楽しい旅になります。

今回,どうしてここにしたのか,まったく記憶にないのですが,おそらく,安かったから,でしょう。バストイレも共同で,単に寝るだけの部屋でしたが,部屋は和室ではなくベッドでした。
問題だったのはベッドが固くて腰が痛くなったことと,それ以上に,部屋に空いたコンセントがまったくなかったことでした。冷蔵庫とテレビのためのコンセントがあったのみで,冷蔵庫のほうは奥まっていて外すことすらできませんでした。
私は,夜,カメラのバッテリーの充電とiPhoneの充電ができないと困るのです。テレビは見ないので,そちらのコンセントを使って,途中で交換をして,なんとか事なきを得ましたが,連泊だったら大変だったことでしょう。
食事は,夕食も朝食も別棟の広間でした。壱岐島なので,海のものを期待していたのですが,夕食は牛丼で量も少なく,朝食はほとんどセルフサービスでした。まあ,吉野屋で夕食と朝食を食べたようなものでした。つまり,ここは合宿所みたいなところで,残念ながら,いささか期待外れでした。
旅慣れてきてわかったことは,こうした宿のお客さんの多くは,道路工事をしている人のようで,私の目的とは少し違うなあ,ということでした。

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この日私が予約したのは「明るい農村」という名前の民宿でした。1晩寝られればいいや,という程度で選んだのですが,場所は壱岐島の芦辺港近くの高台で,とても見晴らしのよいところでした。
そこで,「神宿る島」壱岐にちなんだいくつかの観光名所に寄りながら,原の辻遺跡から民宿に行くことにしました。

先日行った佐渡島もそうでしたが,壱岐島にも国分寺跡がありました。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立されたのが国分寺と国分尼寺ですが,当時の壱岐島では飢饉や伝染病,さらに台風などの天災による不作が続き,国分寺を建てる余裕がありませんでした。そこで,壱岐島を支配していた豪族の壱岐直が,自分が個人用にもっていた氏寺を嶋分寺(とうぶんじ)という名称にして国分寺に代用することにしたのだといいます。
現在は,草が茂るだけの荒れ地でした。
また,国分尼寺の場所は不明です。

壱岐直は,この国分寺跡の近くにある,現在は國片主神社が建っている場所に屋敷を構えて住んでいました。
國片主神社は,811年の創建とされる歴史ある神社です。主祭神は少彦(すくなひこ)で,菅原道真も祭っていることから「国分天満宮」の名でも知られています。
唐より石船に乗つて唐田の濱に着津した唐田天神が國片主神社の前身で,その地が,壱岐直氏の居館址だったころから,「国県主」が「國片主」になったのではないか、といわれています。
國片主神社の隣,県道脇に木の柵で囲まれた大小ふたつの丸い石がありました。これは,「壱岐名勝図誌」には「国分石」とあり,壱岐の中心の道標にしていたといわれていることから,「へそ石」の由来となったそうです。「へそ石」の隣に立っている石柱には,上部に六面十二菩薩の仏塔が乗っていて,これが壱岐島の中心に位置することから,「心の御柱」や「支石墓」(ドルメン)の名残りだといわれます。ドルメンとはケルト語で,dolは机,menは石を意味し,大きな天井石とそれを支える数個の石からなります。そのほとんどが墓と考えられています。

その際にあった月讀神社は,壱岐氏が,航海の安全を祈るためにお祀りしたものとされます。
487年(顕宗天皇3年)に阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が加耶に使いで行った際,壱岐の月読神が「私は月神である。私を京都に祀りなさい。そうすれば日本国中が幸せになるだろう」といったので,阿閉臣事代は都に帰り,天皇にそのことを報告しました。
天皇はこれを受け入れて,壱岐県主の先祖・押見宿彌(はじめて相撲をとったという野見宿禰とは別人?)を壱岐島から京都によび,嵐山に壱岐の月神を分霊して月讀神社を祀りました。その後,京都の月讀神社を中心として日本全国に神道が根づくようになったそうですが,壱岐の月讀神社は,全国の月讀神社の「元宮」ということになるということで,このことから,壱岐島の月讀神社は「神道の発祥の地」とされているそうです。
「古事記」には,伊邪那岐(いざなき)と伊邪那美(いざなみ)が天照(あまてらす)の次に産んだのが月読(つくよみ)。更に,鼻を洗ったときに産まれたのが須佐之男(すさのお)とあります。よって,この三柱の神を特に三貴子(みはしらのうずのみこ)とよび,別格と記されています。なお,天照を主神とする代表的な神社が伊勢神宮,須佐之男を主神とする代表的な神社が松江の熊野大社です。

「海女の里」として知られる八幡浦の海中に祀られているのが「はらほげ地蔵」で,満潮になると胸まで海に浸かるお地蔵さんです。
6体ある「はらほげ地蔵」は,六道(地獄,餓鬼,畜生,修羅,人間,天)における苦しみや悩みから救ってくれるといわれ, 地元では遭難した海女さんや鯨の供養のために祀られていると伝わります。
「はらほげ地蔵」の名前の由来は「お地蔵さんの腹が丸くえぐられているため」ですが, 満潮時にお供え物が流されてしまわないように,穴は貫通していません。
穴は見えないように赤い胸当てがしてありました。お腹が痛いときや風邪をひいたとき,また,胸の病,恋の病などのときに,早く治るようにとお願いをして,治ったら,赤い胸当てを作り,お礼をするのだそうです。

「はらほげ地蔵」の近く,八幡半島の先端の岬が「左京鼻」です。「左京鼻」からは,玄界灘を望む水平線の大パノラマと,約1キロメートルもの長さの雄大な海蝕崖が見られるます。
江戸時代のはじめ,壱岐島が大干ばつに襲われたとき,陰陽師の後藤左京和尚と龍蔵寺の日峰和尚が雨乞いをすることになりました。 ふたりは,雨乞いの祈祷を7日7夜行いましたが,それでも雨は降りませんでした。責任を感じた左京和尚は「左京鼻」の崖から飛び込もうと席を立ち上がりました。 また,日峰和尚も千把の麦わらの中で焼身自殺をしようとしました。そのとき,一転にわかにかき曇り,突然車軸を洗うような大雨が降り出し,村中の人々が喜んだということです。このときに,日峰和尚が着ていた焼け焦げた袈裟は龍蔵寺にあり,「左京鼻」は後藤左京和尚の名前からつけられたものです。
「左京鼻」の海上にある岩は「観音岩」とよばれているもので,玄武岩の柱状節理が発達したものです。「猿岩」でも触れましたが,国生みで壱岐島が作られたとき,島が流されてしまわないようにと,壱岐島の周辺に8本の柱(=「壱岐の八本柱」)を立てて縛りつけたといいます。「観音柱」はその中の1本です。
ちなみに,「壱岐の八本柱」は,「猿岩」「観音岩」のほかには,手長(たなが)島の柱,辰の島の「日出柱」,名烏島の柱,塩津浜の柱,渡良大島の柱,半城湾内の柱のことだそうです。

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壱岐島は「魏志倭人伝」に出てくる一大國といわれているところです。
  ・・・・・・
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里 
始度一海千餘里至對海国 其大官日卑狗 副日卑奴母離
所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑
有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴
又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離
方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
  ・・
倭人は帯方東南,大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時,朝見する者有り。今,使訳通ずる所は三十国なり。
郡より倭に至るには,海岸に循ひて水行す。韓国を歴て,乍南乍東し,その北岸,狗邪韓国に到る。七千余里なり。
始めて一海を度ること千余里にして対海国に至る。その大官は卑狗と曰ひ,副は卑奴母離と曰ふ。
居する所は絶島にして,方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。
千余戸有り。良田無く,海物を食らひ自活す。船に乗り,南北に市糴す。
又,南に一海を渡ること千余里,名は瀚海と曰ふ,一大国に至る。官は亦た卑狗と曰ひ,副は卑奴母離と曰ふ。
方三百里ばかり。竹木叢林多し。三千ばかりの家有り。やや田地有り。田を耕すも,なお食らふに足らず。亦、南北に市糴す。
  「魏志倭人伝」
  ・・・・・・
「魏志倭人伝」のはじめに登場するのが對海國。現在の対馬島です。「古事記」には大八洲のひとつとして「津嶋」と記されています。対馬島は,山が険しく,深い森が多く道路は獣道のようで,田んぼはなく海産物を食べて自活し,船に乗って南や北に海を渡って穀物を買い入れている,と記されています。対馬島には,三根遺跡群,山辺遺跡などの遺跡があって,これらは弥生時代の大規模な集落の跡です。
對馬國から瀚海と称する海を渡って千余里で至ると記された一大國は,一支國,現在の壱岐島にあたると推測されています。 一支國は,広さは三百里四方で,竹や木の茂みが多く,三千の家が建っている。田畑は少しあるが,耕作地が不足しているので南北に海を渡って食料を買い入れているとあります。

そのような歴史ロマンに彩られた壱岐島で,一支國の王都と特定されている原の辻遺跡を一望できる小高い丘に,壱岐市立一支国博物館があります。非常に大きな建物でした。常設展示室では,原の辻遺跡をはじめ,島内に点在する遺跡や古墳から出土した貴重な実物資料を約2000点展示し,私の好奇心を満たすものでした。
緩やかな曲線を描いた屋根は全面緑化され,周辺の山並みにも溶け込んでいました。
次に,原の辻遺跡に行くことにしました。壱岐市立一支国博物館を下ったところにガイダンスという建物があって,おそらく,壱岐市立一支国博物館ができる以前の博物館だったところなのでしょうが,そこに車を停めて,そこからしばらく歩きました。
原の辻遺跡は国の特別史跡に指定され,登呂遺跡,吉野ヶ里遺跡と並ぶ,弥生時代の重要遺跡のひとつです。海を介して交流・交易を行い,外交の先進都市であった一支國の拠点として栄えたこの遺跡は,現在は,弥生の原風景を残す公園として整備され,17棟の復元建物を間近に見学することができます。
とはいえ,壱岐市立一支国博物館も原の辻ガイダンスも原の辻遺跡も,訪れていた観光客は私くらいのものでした。

私は学者でないので,学問的な信ぴょう性や意義はよくわかりません。そこで,無責任に,ずっと,邪馬台国は奈良の纏向遺跡で卑弥呼の墓は箸墓だと信じていて,というか,そのほうがロマンがあるじゃないですか。ということで,ときおり,奈良に行っては,卑弥呼の時代に戻って楽しんでいます。
そんな私は,原の辻遺跡で,ほかに人がいなかったことも幸いして,「魏志倭人伝」の記述にある一大國がここだったのだなあ,と,ひとり古代にタイムスリップして感慨にふけっていました。これもまた,いいものでした。

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☆☆☆
7月21日。快晴でした。

月と火星,金星,水星が夕方の西空に見えました。DSC_8744ns


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壱岐島の中央部に「王家の丘古墳群」があります。この場所が気になっていたので,「猿岩」に行った私は,次に行ってみることにしました。
私が習った日本の歴史では
  ・・・・・・
弥生時代の後期に現れた墳丘が,3世紀中ごろになると大規模になり,やがて前方後円墳が出現し,竪穴式石室が横穴室石室に変化し,やがて,6世紀末から7世紀のはじめに終焉を迎えた,というものです。また,早くから,朝鮮半島南部の加耶とよばれる地域に,鉄資源を目的として密接な関係をもっていたヤマト王権でしたが,4世紀後半になると,朝鮮半島北部にあった高句麗の南下策で圧迫を受けた百済や新羅によって加耶が飲み込まれたことで,6世紀にはその勢いを失っていった。
  ・・・・・・
というものでした。
しかし,壱岐島の古墳のことはまったく触れられておらず,壱岐島の歴史については何も知りませんでした。

壱岐島では,横穴式石室墳は知られず、6世紀後半に,突如,横穴式石室をもつ前方後円墳の対馬塚古墳,続く双六古墳が現れ,その後は円墳に変わり,6世紀末まで続いたとみられているということです。
壱岐島には,現在,古墳256基が残存しますが,対馬塚古墳,双六古墳に加えて,笹塚古墳,兵瀬古墳,掛木古墳,鬼の窟古墳の4つの円墳,合計6基が,壱岐島にある他の古墳とは異なる大規模な古墳なので,これらが,当時の首長墓の系譜をなすと見られているということです。
被葬者はよくわかっていないそうですが,壱岐氏と関連づける説,ヤマト王権が朝鮮半島での対新羅交渉に重用した人物とする説,527年に新羅と結んで筑紫国造磐井が大規模な戦乱をおこした磐井の乱の鎮圧で功をなした人物とする説などがあるそうです。また,突如,前方後円墳が現れたことから,福岡平野の古墳を営んだ首長層が,対新羅防衛のために壱岐島に移されたとする説も挙げられています。
  ・・
これらの古墳の中で,鬼の窟古墳という変わった名前に,私は興味を覚えました。
昔々,壱岐島は鬼の住む島だったということで,数々の鬼にちなむ場所があって,鬼の窟古墳もそのひとつです。大きな石を組んだ古墳の石室は人間業ではないということから,鬼が住んでいた窟といわれているということです。鬼の名のついた古墳は,この鬼の窟古墳以外にも,鶴亀鬼屋(つるきおにや)古墳,鬼屋窪(おにやくぼ)古墳,鬼の岩屋古墳があります。

私は古代史に興味があって,これまでに,奈良にある古墳は訪れたこともたびたびあるのですが,ほとんどの古墳は,天皇陵であったりして,なかなか近づけないものでした。それに対して,壱岐島にある古墳は,石室の中にも自由に入ることができたりと,きわめて開放的で,おもしろいものでした。
これまで私は,今でも壱岐島に行くのが大変なのに,昔から大陸と日本が頻繁に行き来をしていたことが,とても不思議なことに思えていました。しかし,考えてみれば,昔だって,壱岐島だけでは何かと不自由なので,生きるために,食料を求め,物資を求め,大陸と交流をする必要があったのでしょう。そうすると,九州に行くにも海を渡らねばならず,ならば,対馬島に行くのも,その先の朝鮮半島に行くのも,要するに海を渡るという意味では同じことだから,今より困難なことであっても,そうした行き来が頻繁に行われていたのも,そして,人が交流すれば文化が生まれたのも,このような古墳を見た私は,不自然なことではなかったのかもしれないなあ,と思うのでした。

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☆☆☆
梅雨明け。久しぶりの星空。

月と火星,金星,水星が夕方の西空に見えました。DSC_1647ns


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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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おそらく,壱岐島最大の名所といえば「猿岩」だと思われます。何も調べて来なかった私でもその存在は知っていたのですが,これもまた,NHKBSPの「にっぽん縦断こころ旅」で見たからにほかなりません。
勝本城に行ったあと,再び勝本港に戻って島めぐりをすればよかったものの,引き返すのがおっくうになって,私は,壱岐島の海岸線に沿って南に走り,湯ノ本温泉を過ぎたところにある黒崎半島の先端に位置する「猿岩」をめざしていました。
途中の湯ノ本温泉は約1,700年前から湧出していたと伝えられていて,神功皇后が応神天皇の産湯をつかわせたなどの伝承が残っているそうです。自然湧出の温泉としては島内唯一の温泉ということなので,こんなところに泊るのも一興だったかもしれません。
この時点でもまだ壱岐島がどういうところなのかもあまりよくわからず,様子見状態で走っていたのですが,思ったよりも広い島だなあ,と感じていました。壱岐島は,あまり海岸線に沿って道路がなく,よって,海が見えず,山また山で,どこをどう走っているのか,見当がつかなかったのも,その理由でした。

やがて,海が見えてきて,「猿岩」が展望できる広い駐車場に着きました。名所とはいえ,私以外には車の1台も停まっていませんでした。
「猿岩」というのは,黒崎半島に分布する玄武岩の海蝕崖の一部がそっぽを向いた猿にそっくりなためにそう称されているものですが,だれが見ても,その姿を見ると納得します。それくらいそっくりで,何かおかしいです。
「壱岐は生きた島なので流されないようにと,8本の柱を立てて繋いだが,その柱は折れ残り,今も岩となって残っている」という神話があって,その8本の柱(=「壱岐の八本柱」)のひとつがこの「猿岩」ということです。
だれが名づけたかこの「猿岩」,しかし,別の場所から見ると,まったく猿の形には見えないから,偶然,この展望台からの角度だけ,この姿に見える,というのも,また,興味深い話です。
猿岩の展望台にあった案内地図にだけ,黒崎半島のひとつ南の渡良半島の先にある「鬼の足跡」とよばれる名所に「ゴリラ岩」というものがあると書かれてあったので,その時は気になったのですが,いい加減な私はそれがどこかがわからなくなってしまいました。次の日,気になって行ってみようと思ったのですが場所がわからず探す羽目になってしまいましたが,そのことはまた後日。

「猿岩」の近くに1933年(昭和8年)に完成した黒崎砲台の廃墟がありました。
入口が洞窟となっていて,中に入ってみたのですが,明かりもなく,また,水が溜まってぬかるんでいて,しかも,その先が通行ができなくなっていたので,概要がわからないまま引き返しました。
この黒崎砲台というのは,案内板には,1928年(昭和3年)から6年の歳月を費やして,対馬海峡を通過する艦船を攻撃するために,戦艦「土佐」または巡洋戦艦「赤城」の主砲が据えられた砲台と書かれてあったのですが,実戦で使用されることなく終戦後に破却されました。今は,跡のみが残る戦争遺産です。

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結局,私は 勝本港から出航する島めぐりをしないで,高台にある勝本城跡に来ました。島めぐりをしなかったことをあとで後悔するのですが,何も調べずに来ているわけだから,仕方ありません。
勝本城跡は,勝本の対馬を望む絶景の丘にありましたが,遠い昔の戦国時代に,この島にまでこうした城跡があることに驚きました。今でも島に渡るのがたいへんなのに,人間というのは,すごいというか何というか,私は,旅をするたびにわからなくなります。しかし,この後,壱岐島のさまざま史跡を訪れることになるのですが,壱岐島の歴史は,戦国時代,なんて,それほど昔のことではなく,はるかはるか,その何倍も昔に向かうのです。

1591年(天正19年)に豊臣秀吉の命を受け,朝鮮侵略のために,部隊の休息と物資の補給基地を目的に工期わずか4か月で完成させたのがこの勝本城で,築城を指揮したのは,壱岐島を統治していた平戸領の松浦鎮信でした。秀吉は壱岐には渡っていません。
秀吉の死後,兵は朝鮮から撤退しました。江戸時代,朝鮮との関係改善の意思表示として勝本城は崩されました。現在は城跡は城山公園となっていて,大手門の石垣が残っています。
また,勝本城跡には,城山稲荷神社もありました。
朝鮮侵略のとき,壱岐の各地で豊臣秀吉率いる軍の海上安全と戦勝の祈願が行われ,1592年(天正20年)にこの稲荷神社が祀られました。その後,勝本浦の人々のあつい信仰の場となり,現在まで続いています。

また,城山公園の近隣には,河合曽良の墓と,ふたつの句碑がありました。
河合曽良とは,あの,松尾芭蕉とともに「奥の細道」を歩いた曽良のことか? どうしてここに墓が? と私は驚きました。壱岐島には驚かされることばかりです。
河合曽良は1649年(慶安2年)に信州の上諏訪に生まれました。成人して伊勢長島藩に仕官しましたが,長島藩松平家の滅亡後,江戸へのぼり,松尾芭蕉の門下へ入りました。
1689年(元禄2年),松尾芭蕉の「奥の細道」紀行に同道しましたが,河合曽良は体が弱く,旅の終わり近くの北陸路で腹痛に苦しみ,足手まといになることをおそれ,加洲やまなかの涌湯で松尾芭蕉と別れ,伯父の秀精法師を頼ることになりました。
  ・・・・・・
曾良は腹を病て,伊勢の国長島と云所にゆかりあれば,先立て行に
 行行てたふれ伏とも萩の原  曾良
と書置たり。行ものゝ悲しみ,残るものゝうらみ,隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又
 今日よりや書付消さん笠の露  芭蕉
  「奥の細道」
  ・・・・・・
江戸時代,将軍の代替わりに全国津々浦々の治政の実情を見てあるく巡見使という制度がありました。1709年(宝永6年)に徳川家宣が将軍に就任した折の巡見使の家来として,河合曽良は
 春にわれ乞食やめても筑紫かな
の句を残し,江戸をあとにしました。一行は,大坂から海路をとり筑前若松に上陸し,その後,壱岐郷ノ浦に上陸。郷ノ浦に1泊,勝本に1泊し,翌朝,対馬へ向かいましたが,河合曽良だけは病のために勝本に残りました。そして,1710年(宝永7年)死去しました。62歳でした。
そのようなわけで,この地の墓があり,勝本城址に「行行てたふれ伏とも萩の原」と「春にわれ乞食やめても筑紫かな」の句碑が建っているのです。

また,句碑の横には,御柱が立っていました。御柱は諏訪大社の大祭で使われるものです。
  ・・・・・・
曽良翁終焉の地に諏訪の御柱を贈る。この巨木は,2010年(平成22年)の式年造営御柱大祭に,諏訪大社上社本宮に建てられた御神木で,その役目を終えたのを機に,諏訪に生まれ壱岐に客死した蕉門十哲の一人曽良翁の終焉の地である姉妹都市壱岐市に御柱を建立することを企画し,諏訪大社に請うて,諏訪市がこの御柱を譲り受けた。御柱を壱岐市との末永い友好親善を願ってここ勝本町城山の地に贈る。
  ・・・・・・
とありました。
果たして,日本は広いのか狭いのか。日本国内を旅していると,驚かされることばかりです。

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男嶽神社にある「おみやカフェ」で昼食を,と思っていたのに,それがかなわず,私は,ともかく,壱岐島のもっと北にある勝本港へ行って,そこで何か昼食をとり,そのあと,順に南に向かって観光をすることにしました。
すでに書いたように,私は,壱岐島については何も調べずに,また,ガイドブックすら持たずにこの島にやってきて,頼るのは,レンタカーを借りたときにもらった地図だけで,この時点では,まだ,壱岐島がどうなっているか,全く把握できていなかったのですが,これまで様々なところに行ってきた経験から,30分もすれば,おおよそのことが把握できるだろうと思っていました。
やがて,勝本港に着きました。勝本港は離島にあるいい雰囲気の港町で,周辺には,昼食を食べることができる食堂もいくつかありました。また,勝本港には壱岐島の北にある小さな辰の島という観光名所にいく島めぐり遊覧船も出ていました。私は,ここで,大きな間違いをしました。というのも,結果的に,勝本港周辺の食堂で昼食をとり,その後で,島めぐり遊覧船に乗るべきだったのです。
しかし,私は,勝本港あたりにあった「イルカパーク」という看板が気になって,勝本港を通り過ぎて,まず,「イルカパーク」へ向かうことにしました。そもそも「イルカパーク」ってなんだろう? と思いました。名前から想像するに,このあたりには自然のイルカでもやってくるのかと勘違いしました。

  ・・・・・・
「イルカパーク」は,1995年に壱岐市が市営でイルカの保護を目的に創業しましたが,その当時は,廃れた小屋があるのみで,護岸されたとても大きな自然の海の入江があるにも関わらず,中心にある9メートル四方ほどで囲われた小さな生簀に2頭ずつのイルカが飼われているだけというものでした。
2018年からそんなイルカパークの再生が行われ,2019年にリニューアルオープンしました。
現在,「イルカパーク」は「壱岐イルカパーク&リゾート」といって,壱岐島北部にある天然の入り江を仕切ってできた海浜公園で,「イルカに間近でタッチできる!」「イルカにゴハンをあげられる!」「イルカのトレーニング体験ができる!」といった体験プログラムが用意されていて,ファミリー旅行や女子旅に人気のスポットとなっています。
また,敷地内のカフェでは,ふわとろのパンケーキや「壱岐牛」などの地元食材を使ったフードメニューを提供しています。
  ・・・・・・
という場所でした。
後で調べるとそういう施設だったのですが,私が広い駐車場車を停めたときは,観光客は私以外には1組の家族連れがいただけでした。施設に行っても,まるで商売っ気もなく,やっているのやらいないのやら,何ができるのやらできないのやら,さっぱりわかりませんでした。
ともかく,カフェがあるというので入ってみました。食事ができるかと聞くと,ここの名物はパンケーキだということでしたが,昼食にパンケーキでは,と思って,さらに聞いてみると,壱岐牛の入ったパスタができるというので,それを注文しました。
カフェから外を見ると,確かにプールでイルカが泳いでいるのが見えましたが,私はさほど興味もなかったので,昼食をとっただけで,施設をあとにしました。
壱岐島,どこも寂れている,と感じました。よい意味で。

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壱岐島に着きました。
壱岐島めぐりをするには,歩いて周れる大きさではなく,自転車でも広すぎ,かといって,公共交通では不便なので,やはり,レンタカーに限ります。事前にインターネットで予約できたのはパジェットレンタカーだったので,予約がしてあったのですが,どうやら,パジェットレンタカーといっても,実際は,壱岐交通レンタカーの代理店だったようで,壱岐交通レンタカーの人が迎えに来ていました。
ジェットフォイルの到着した埠頭には,いくつかのレンタカー会社の人がそれぞれ予約した人の名前の書かれたプレートを持って立っていました。私も,自分の名前を見つけて,指示に従って,私の借りる車のところで待っていました。やがて,運転免許証を見せて,書類にサインをして,手続きが終わり,車を借りることができました。離島では,レンタカーを借りるだけでも,島によってシステムが違うので,これもまた,興味深いものです。
わかりやすい島の地図がもらえたので助かりました。この時点では,私は,壱岐島についてはまったく知らなかったのです。何せ,何も調べてこなかったからです。
  ・・
何となく,沖縄県だけ行ったことがないから,という理由で行ってみようと思っていたところ,安価な直行便があるということを偶然見つけて,沖縄本島ではなく石垣島に行きました。その次は,飛んでるトキ見たさに,一度は行ってみたいと長年思っていた佐渡島に行きました。
そんなこんなで,離島を旅しはじめて,そのうちに,そうだ! 離島めぐりをしよう,と目覚めてしまったのが発端でした。
そこで,次は,隠岐島だということになって計画をしていたころに,それと時を同じくして,柳川に行こうと福岡空港までの航空券を買ったついでに,壱岐島にも行くことになったことはすでに書きましたが,壱岐島で何がしたい,ということもありませんでした。行ってみたかっただけでした。
ただし,一か所だけ,行ってみたいところがありました。それが,男嶽神社でした。

  ・・・・・・
次生伊伎嶋 亦名謂天比登都柱
  ・・
次に伊岐(イキ)の島を生みたまひき。またの名は天比登都柱(アメノヒトツバシラ)といふ。
  「古事記」国生み
  ・・・・・・
「古事記」によると,伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)の夫婦神によって作られた8つの島のうち,5番目に生まれたのが「伊伎嶋」(=壱岐島)です。また,壱岐は「天比登都柱」(アメノヒトツバシラ)ともよばれ,天地を結ぶ交通路としての役割を担うなど,古来より神々とのゆかりが深い場所として語られてきました。
  ・・・・・・
壱岐島が生れたときの最初の神様である「天比登都柱」(アメノヒトツバシラ)や「月読命」(ツクヨミノミコト)の降臨の地にある男嶽神社は,明治時代までは山全体が御神体とされ,一般の人の入山が制限された神聖な場所でした。男嶽神社には,導きの神様とされる「猿田彦命」(サルタヒコノミコト)が祀られており、敷地内には御祭神にちなんだ200体を超える石猿がずらりと並んで奉納されています。
  ・・・・・・
という男嶽神社ですが,私は,そんなことよりも,この神社にある「おみやカフェ」に行ってみたかったのでした。それは,NHKBSPで放送している「にっぽん縦断こころ旅」で火野正平さんが訪れたところだったからです。ここには「神社エール」とかいう飲み物もあります。
こんな辺鄙な山の中の神社,だれが行くのだろう? と思いながら,やっと到着した男嶽神社でしたが,ひとっこひとりおらず,あいにく「おみやカフェ」も閉まっていました。火野正平さんがひとめぼれした店員のお姉さんに会いたかったな。
幸先悪し。とても残念でした。

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福岡空港から博多港までどのように行くか,事前にネットで調べたときは,どのサイトもごちゃごちゃ書かれているだけで,よくわかりませんでした。安価な公共交通で行くことができるのにもかかわらず,2,000円以上もするタクシーに乗れ,というものもありました。また,公共交通については,肝心なことは適当にリンク先が書かれてあるだけで,乗り場さえわからず,また,博多港がどうなっているかもわからず,無責任。情報をめぐりめぐっているだけで知りたい情報にたどり着けませんでした。これでは情報発信能力の欠如です。どうして,もっと簡便に書かれていないのでしょう。ということで,調べがつかず,わからないまま出かけることになりました。
何事も実践あるのみ。福岡空港から博多港第1ターミナルから出航するジェットフォイルに乗って壱岐島に行くためのわかりやすい方法は,実際に行ってみてから帰宅して改めて調べ直して,やっとよく把握できたので,ここにまとめます。
  ・・・・・・・・
まず,福岡空港から,地下鉄に乗って博多駅に行きます。
博多駅からは西鉄バスに乗ります。名古屋市には名古屋市営バスと名鉄バスが走っていますが,福岡市には福岡市営バスはありません。すべて西鉄バスです。
博多駅でのバス乗り場は,博多バスターミナルと博多駅周辺ののりばAからFまでのふたつがあります。博多港第1ターミナルに行くには,博多バスターミナルではなく,のりばFで乗りますが,博多バスターミナルの案内標示には博多駅周辺ののりばのことは一切かかれれていないので注意が必要です。
のりばFからは,46番,88番,99番,それに,BRTという連結バスが出ていますが,第1ターミナルに行くのは46番と99番です。46番のバスは少し遠回りをします。88番とBRTは第1ターミナルには行かず,国際ターミナルに行きます。私は,そうとも知らず,第1ターミナルではなく国際ターミナルに行く88番に乗ってしまったので,途中で降りる必要があったのです。
蛇足ですが,帰りに博多港から福岡駅に向かうときは,99番というバスはなく,48番なのです。それにしても,どうしてこういうわかりにくいことをするのでしょうか。
  ・・・・・・
このように,他府県から来た人には,乗れるものなら乗って見ろ,行けるものなら行ってみろ,という感じです。
福岡空港から壱岐島に行くジェットフォイルが出航する博多港第1ターミナルに行くには,要するに,「福岡空港で降りて,地下鉄で博多駅へ行って,博多駅前ののりばFのバス停で99番のバスに乗ればいい」ということです。ネットには,ごちゃごちゃ書かず,これだけ書いてあればいいのです。

また,壱岐島に行くには,博多港からジェットフォイルかフェリー,唐津東港からフェリー,長崎空港から飛行機の方法があります。
博多港からは,臨時便が出るハイシーズン以外は,1日にジェットフォイルは4便,フェリーは3便,壱岐島の芦辺港か郷ノ浦港へ行くものがあります。ジェットフォイルは第1ターミナル,フェリーは第2ターミナルから出航しますが,このふたつのターミナルは隣り合っています。
唐津東港からは印通寺行きのフェリーが1日5便あります。また,長崎空港からは壱岐空港まで飛行機が1日2便あります。
ということで,名古屋から博多空港を経由して壱岐島に行くには,午前7時県営名古屋空港発の福岡空港行きの飛行機に乗って,福岡空港で降り,博多港に行ってジェットフォイルの午前10時30分発の壱岐島芦辺港行きに乗るという一択となります。つまり,このジェットフォイルに乗ることができなければ,壱岐島に行くのはあきらめなくてはならないことになるのです。

いろいろありましたが,ともかく,私は,予約時点では満席だった午前10時30分発のジェットフォイルの空席を,翌日やっと見つけて予約して,福岡空港から博多港までも,迷いつつも到着して,どうにか,乗り込むことができました。一旦は満席ということでしたが,実際は当日も数席空いていました。
ジェットフォイルは新潟港から佐渡島に行くときも乗りました。速い・揺れるという評判でしたが,思ったほど速いとは思いませんでした。また,揺れもしませんでした。
  ・・・・・・
ジェットフォイルは軍事用船舶として開発されました。1974年に旅客用が開発され,1977年に日本でこの旅客用が初導入されました。「ジェット」は本船がジェットエンジンとウォータージェット推進機によって駆動されることからきており,「フォイル」とは「鋭い薄い翼」を表わします。
もとは「ボーイング929ジェットフォイル」(Boeing 929 Jetfoil)のことで,ボーイング社が設計製造した旅客用の水中翼船の名称ですが,現在はライセンスを引き継いだ川崎重工業の登録商標で,「川崎ジェットフォイル929-117型」として、製造・販売を行なっています。
  ・・・・・・
乗船して1時間と少し,やがて,壱岐島が見えてきて,予定通りの時間に芦辺港へ入港しました。

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福岡空港に着きました。
このごろ,日本国内の様々な空港を利用するようになったのですが,成田国際空港や羽田国際空港,関西国際空港,中部国際空港といった巨大な空港以外に,日本には,青森空港,山形空港,高知空港のような小さな空港と,新潟空港,福岡空港のような国際線も離発着する比較的大きな空港があることを知りました。どちらかといえば,小さな空港のほうが休まりますが,どこも新しくきれいなことにおどろきます。
福岡空港の最大の利点は,市内に近く,とても便利だということです。地下鉄で2駅先が福岡駅です。数年前にはじめて来たときにそのことに驚きました。
また,福岡空港からは羽田国際空港や成田国際空港へ行くよりも,韓国の韓国仁川国際空港へいくほうがずっと近く,そこから世界中に飛び立つことができるわけで,日本でもっとも世界に近い空港といっても過言ではありません。

私は,福岡空港から博多港へ行き,そこから壱岐島までジェットフォイルに乗るわけですが,ジェットフォイルの出航時間が午前10時30分なので,約2時間あります。ここで問題なのは,博多港へ行く方法を知らない,ということでした。私は,何も調べずに旅をしているのです。というか,調べてもよくわからなかたっというべきでしょう。
先日,佐渡島へ行ったときも,新潟空港から新潟港へ行く方法を知らず,また,調べても,直接行く手段が難解で,結局,タクシーに乗りました。実際,新潟空港から新潟港へいくには,福岡市とは異なり,地下鉄などなく,また,バスの便もよくないので,タクシーを利用するのがベストだったのです。もう少し何とかならないものかと思うのですが,おそらく,そうしたアクセスをする客自体が少ないのでしょう。
それに比べたら,福岡空港の場合は,地下鉄を利用すれば簡単に福岡駅に行くことができるし,福岡駅に行けば,そこで博多港へバスで行くことは難しくはなさそうでした。
ということで,地下鉄で福岡駅に着きました。福岡駅の地下街には,バスターミナルという案内標示があったので,それを目指して歩いて行ったのですが,これが大間違いでした。博多港へ行くバスはバスターミナルからは出ていなかったのです。バスターミナルに着いて,私は愕然としました。案内標示を見ても博多港へ行くバスがないのです。何とか係員を見つけたので聞いてみると,のりばFから出ているということでした。バスターミナルからFというバス乗り場なんて,ものすごく遠いのでしたが,仕方がないのでのりばFまで歩いて行くと,ちょうど博多港国際ターミルへ行くというバスが来たので乗り込みました。

私が愚かなのは,この時点でも,博多港がどうなっているのかを知らなかった,ということでした。
実は,博多港には,第1ターミナルと第2ターミナル,そして,国際ターミナルがあるのです。しかし,GoogleMapsを見ても,第2ターミナルと国際ターミナルという表記は見つかっても,第1ターミナルという表記がないのです。おそらく,第2ターミナルの隣だろうと適当に考えて,第2ターミナルをめざすことにしました。
それに,何を見ても,「壱岐島へ行くフェリー乗り場は第2ターミナル」とは書かれてあっても,ジェットフォイルの乗り場と書かれていないのです。佐渡島へ行ったときも同じでしたが,どちらも,不親切極まりないのです。
無知な私が乗ったバスは,博多港をめざして進んでいるように見えたのですが,私は,途中で気づきました。どうも,国際ターミナルは第1ターミナルとは別の埠頭ではないだろうか? このふたつはえらく離れている! だから,博多港とはいえ,国際ターミナルへ行ってしまってはいけないのです。バスの窓から景色を見ていたら,福岡国際センターが見えてきました。ここは,以前,大相撲九州場所を見にきたところでした。これなら私は,よくわかります。いつも,こうして適当に旅をしているので,一度行ったところはしっかりと覚えているのです。
そうなのです。第2ターミナルの隣にあるであろうと私が勝手に思っている第1ターミナルに行くには,福岡国際センターあたりで降りて,歩くべきなのです。でないと,どんどんと離れて行ってしまう!
ということで,福岡国際センターのあった国際会議場サンパレス前というバス停でバスを降りて,キャリーバッグを転がしながら,第1ターミナルらしき場所を目指しました。この先にあった埠頭には,私の乗るジェットフォイルが停泊していたので,その場所だと確信しました。そして,実際,第2ターミナルと書かれたビルの手前にあったのが第1ターミナルでした。

ビルに入って,ジェットフォイルのチケットを購入しました。
私が恐れていた,このジェットフォイルのチケットを大量に買ったと思われるグループは,ここで,ひとつの団体ツアーではないことが判明しました。いくつかの何らかの団体がいたのです。しかし,危惧していたような,うざったい団体ではありませんでした。
私がチケットを購入するために並んでいた前にいたのが,スイスから来たという夫婦連れでした。日本に住む私がよくわからないのに,海外から壱岐島に個人旅行なんて,すごいなあと思いました。いろいろとお話をして,少しは気持ちが晴れました。
チケットを購入して,まだ時間があったので,第1ターミナルの中にあったカフェでアイスコーヒーを飲みました。
そんな感じで,今回もまた,行き当たりばったりでしたが,ともかく,無事に壱岐島へ行くジェットフォイルに乗り込むことができました。

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ジェットフォイルが満席だったときはどうしようかと思いましたが,結局予定通りにすべて予約できました。そして,出発の日が来ました。ここ数日間の天気予報は最悪で,九州地方は豪雨になるとか。さらに悪いことには,この日は,天気はまあ,ましなのですが,なんと黄砂が来るとか。それもしかたがありません。というか,それでも,晴れ男の私は自分の力を信じていました。
2023年7月6日,1日目の天気はなんと快晴でした。
  ・・
朝は予定通り県営名古屋空港にいつものように車で行って,空港の駐車場に車を停めました。
FDAの福岡便は午前7時発,と早い時間なので,空港でチェックインをして,今回はキャリーバッグを持っていたので荷物を預けて,そのまま出発ゲートを抜けて,待合室に行くと,ほどなく搭乗がはじまりました。

福岡までは1時間と20分ほど。ちょうどいい感じです。
今回も,クルーのひとりに声をかけられました。「どちらにお出かけですか?」
もうおなじみです。今回もすてきなお土産をいただきました。FDAはいつも最高です。
このところ,私はすっかり国内の旅が楽しくなってしまいました。それとともに,海外に行く気がどんどんとなくなってきました。
この1年で,青森,山形,佐渡島,高知,福岡というように,日本をもれなく旅してきたことになります。そして,来月は出雲まで行って,そこから隠岐島に渡ります。どこに行くにもFDAはとても便利です。もしこれらの便がなかったら,どこもとても不便なところです。毎回,大した予定も立てずに適当に出かけているのに,いつも思った以上の旅になっています。
この日は,季節外れの黄砂襲来という予報だったのですが,その影響なのかどうなのか,少しばかり空がかすんでいるように感じましたが,それでも,天気がよかったので,さまざまな景色を機内から眺めることができました。実際は,黄砂なんて,まるで影響はなく,ガセネタでした。
定刻通り福岡空港に到着しました。

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前回書いたように,柳川に行くという目的のために,まずは,福岡空港までの航空券を手配したので,次は,柳川市のどこかに宿泊しようと,いつものように小さな温泉宿を探したのですが,手ごろなところがなかったので,ホテルに変えて探していました。
そのころ,私は,すでに書いたように,沖縄県の石垣島,それに続いて,新潟県の佐渡島と旅をしたことから,離島を旅するということに夢中になりはじめていて,この旅とは別の日程で,隠岐島へ行くことにして,平行してその旅の計画も立てているうちに,福岡市なら壱岐島に行けるではないか,と思い立ち,3泊4日の旅は後半で柳川に行き,前半は壱岐島に行こうということになりました。
そんなわけで,隠岐島への旅と壱岐島への旅の計画を同時に立てることになったのですが,自ら招いたこととはいえ,「おき」と「いき」,名前が似ていることもあって,頭の中が大混乱していました。もともと,隠岐島にはぜひ行きたいという想い入れがあったので,ガイドブックも購入して,念入りに計画を立てていたのですが,壱岐島のほうは,柳川に行くついで,という程度だったので,あまりテンションも上がらず,壱岐島内を観光するためのレンタカーと1泊する適当な宿を押さえただけでした。そして,壱岐島までのジェットフォイルは,1か月前からの予約ということだったので後回しにして,2泊目の福岡市内のホテルと3日目に宿泊する柳川のホテルも予約しました。これで、ジェットフォイル以外の予約はすべて完了です。

やがて1か月前になりましたが,ジェットフォイルの予約なんて、どうせガラガラだから急がなくても大丈夫だと高をくくり,1か月前から2,3日経った後でそろそろジェットフォイルの予約でも,と思ってネットにアクセスして愕然としました。
ジェットフォイルはそのほどんどの便が簡単に予約できたのに,たまたま私の予定していた日時の行きの便だけが満席だったのです。これには唖然としました。他のどの日時も空席があるのに,なぜに,私の予定していたものだけが満席なのか! しかも,帰りの便はすべて空席がたくさんありました。
とはいえ,1日に4便しかないジェットフォイルで,しかも,壱岐島の西側の芦辺港着くのは私が予定していた便と夜の便の2便しかないのです。また,壱岐島に行くのにはジェットフォイル以外にはフェリーがあるのですが,フェリーは夕刻しかないのです。夕方到着してもその日1日を無駄にするだけだから意味がありません。つまり,この時点で,壱岐島に行くことが不可能になってしまったのです。
日程を変えれば行くことが可能だったのですが,そうすると,すでに予約の済んだ3泊分のホテルも壱岐島のレンタカーもそのすべてをキャンセルして再び予約し直す必要があったから,どうしようかと悩みました。壱岐島のレンタカーと宿をキャンセルして,壱岐島行きは断念するしかないなあ。と思いはじめました。
  ・・
その次の日。
壱岐島には縁がなかったとあきらめ,壱岐島のレンタカーと宿をキャンセルすることを決心して,再びネットで,念のためとジェットフォイルを運行する九州郵船のサイトにアクセスすると,何と,昨日は満席だったのに,数席だけ,予約ができるようになっていたのです!
何じゃこりゃ,と思いました。キャンセルがでたのだろうか? それにしても,ほぼ満席のジェットフォイルに乗る予定の人たちはどういう人なのだろう? うざったい団体客だったらどうしようか? それが疑問として残ったのですが,ともかく,これで行くことができると,予約をしました。こうして,行きは博多から壱岐島の芦辺,帰りは壱岐島の郷ノ浦から博多のジェットフォイルの予約をすることができました。
それにしても,福岡市からそれほど遠くもない壱岐島に行くことがこれほどの難物だとは思いもよりませんでした。

DSC_7944キャプチャ


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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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福岡県柳川市といって,私が思い出すのは,元大関琴奨菊のふるさと,ということくらいで,特に興味があっわたけではありませんでした。ところが,2022年12月に,NHKBSPで放送されている「にっぽん縦断こころ旅」で火野正平さんがこの柳川市の小さな水族館を訪れたのですが,それを見て,急に行きたくなりました。
ということで,柳川市に行くことを思い立って,県営名古屋空港から福岡空港までFDAを利用すれば簡単だ,と行くことができる日にちを調整して,さっそく,航空券を購入してしまった,というわけでした。
予定を調べたら暇だったのが2023年7月6日から7月9日だったので,この時期にしたのですが,航空券を購入したころは,このころがこれほど蒸し暑く,かつ,梅雨の末期で豪雨になるなどということをすっかり忘れていて,行く直前になって後悔しました。まあしかし,行くしかありません。

今回は3泊4日となりましたが,日程は次のとおりでした。
  ・・・・・・
1日目は福岡空港到着後,博多港からジェットフォイルで壱岐島。壱岐島でレンタカーを借りて観光後,壱岐島泊。
2日目は壱岐島観光後,レンタカーを返却してジェットフォイルで博多港へ。博多駅前のホテル泊。
3日目は博多から柳川市へ西鉄で移動し,柳川市を観光。柳川市泊。
4日目は博多に戻り,福岡空港から帰宅。
  ・・・・・・
柳川市だけに行くつもりだったのが,先に壱岐島に行くことになった経緯は次回書きます。

それにしても,3泊4日というのは,旅支度には,中途半端な日数です。
私は,旅の持ち物はできるだけ少なくするという方針で,2泊までならバックパックだけで事足りるのですが,3泊となると,バックパックだけでは足りず,かといって,キャリーバッグでは大きすぎるのです。
コロナ禍以前,私は頻繁に海外旅行をしていたのですが,結局,海外旅行は4泊6日から5泊7日が最も快適だと知って以来,ずっとそんな旅程で旅をしていました。これなら,私の持っている機内持ち込みサイズのキャリーバッグは必要十分な大きさとなります。
この先の私は,3泊4日で国内旅行,ということが多くなると思うので,どうすれば快適な旅ができるかということを思案をしているところですが,今回は,キャリーバックの中が空き空きなのをいいことに,夏なので,サンダルをもって行ったり,汗をかいたときのための下着を増やしたり,タオルを1枚余分に入れたり,とやっていたら,けっこうキャリーバッグの中がいっぱいになりました。

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