しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:山陰旅行LIVE > LIVE・2023夏

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私が今回の旅で隠岐諸島に来る前,松江市の観光をしたことはすでに書きましたが,松江市にゆかりのあるラフカディオ・ハーンは,1892年(明治25年),島前・中ノ島の菱浦湾の畔にあった岡崎旅館に滞在し,菱浦湾に「鏡浦」と名づけたといわれています。現在,岡崎旅館の跡地は「佐渡公園」(八雲広場)となっていて,ここに,ラフカディオ・ハーンと妻セツの銅像があります。
隠岐諸島を文明から隔絶された秘境だと考えていたラフカディオ・ハーンは,「知られぬ日本の面影」で「風景は島々に分け入るにしたがってますます美しくなった」と描写しています。
前回書いたように,中ノ島・海士町は都市部から出身地と異なる地方部に移住する「Iターン」の人口が多いのですが,ラフカディオ・ハーンもまた,先駆的な志願者だったのかもしれません。

さて,2023年8月27日。旅の6日目,隠岐諸島での最終日です。
この暑さ,さすがに疲れました。もはや,私には1週間の長旅はむりだなあ,と思い知らされました。この日は,予定では中ノ島にフェリーで渡り,午前中観光をすることにしていたのですが,その気がまったく失せてしまい,当初は,午後3時45分に西ノ島の別府港を出港して,本土の七類港に戻るするフェリー「おき」に乗る予定だったのを変更して,午前10時20分に西ノ島の別府港から出航する「しらしま」で,本土の境港に戻ることにしました。
今にして思えば,半日,再び中ノ島へ行って観光ができたのでもったいないことをしたようにも思うのですが,このときは,全くそんな気力がなくなっていました。それに,境港がどうなっているかを知りたくなったこともありました。
おき得のキャンペーンで,帰りのフェリーは無料でした。

フェリーに乗船して,何となく過ごしているうちに,境港に着きました。
境港はとても立派で,これなら,隠岐諸島に行くフェリーはすべて境港から出航すればいいのに,と思いました。隠岐諸島というのは,さまざまな歴史による事情からなのか,もう少し工夫すれば便利になるのに,今は,いろいろと不便なことが多いです。行けるものなら行ってみろ,みたいな感じです。
  ・・
境港といえば,ゲゲゲの鬼太郎で有名な水木しげるの出身地ですが,そこがどうなっているのか知らなかったので,興味がありました。しかし,残念なことに,境港にある水木しげる記念館は来年の4月まで休館なのでした。
境港の駅から松江駅までフェリーのシャトルバスがあるのですが,私は,JRに乗ってのんびりだらだら松江駅まで戻ることにして,まず,近くにあった回転寿司でお昼を食べました。高いだけでおいしくない寿司でした。
その後,観光案内所で地図をもらって,列車の発車時刻まで,境港駅前の水木しげるロードを歩こうと考えました。しかし,異常な猛暑で,まったくその気もなくなり,境港の駅ビルにあった鬼太郎妖怪倉庫とやらで過ごしたのち,境港駅から米子駅を経由して松江駅に戻りました。
その次の日,出雲の観光をしたことはすでに書きました。

これで,2023年夏の山陰地方への旅は終わりです。
それにしても,暑い夏でした。例年なら,とてもすごしやすい隠岐諸島での旅を満喫できたはずだったのに,これだけが残念でした。
「隠岐みやげ」と周りの人は揶揄するのですが,私は,この旅の疲れなのか,この夏の猛暑のせいなのか,はたまた,後鳥羽上皇と御醍醐天皇と文覚上人の祟りなのか,帰宅後,体調を崩してしまい,悲惨な9月を過ごすことになってしまいました。

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お祭りだということで,予定を変えて知夫里島からやってきた中ノ島でした。
偶然,年に1度のお祭りに遭遇したことは奇跡的なこととはいえ,とても暑く,しかも,菱浦港のあたりは人だらけだったので,これでは,人の少ないからこそ,と離島をめざしてやって来たのに,まるで原宿だ,と思いました。それにしても,なんと若い人が多い島でしょう。
さて,そんな雑踏をさけて,電動自転車を借りて中里地区までやってきた私でしたが,次に行ったのは明屋海岸,そして,三郎岩,さらに,金光寺山でした。
明屋海岸は珍しい地質が見られるジオサイトのひとつで縁結びのパワースポット,三郎岩は菱浦港の北東海岸に浮かぶ太郎,次郎,三郎とよばれる兄弟島,そして,金光寺山は標高164メートルの山頂からの眺めがきれい,ということでしたが,さすがに電動自転車では疲れました。いくら電動とはいえ,坂を登るのは大変でした。
それでも,車がなくても,電動自転車でこれだけ中ノ島をめぐることができたので満足して,これで,西ノ島に戻ることにしました。この日の夜は中ノ島ではパレード,そして,それに続いて花火が上がるということでした。内航船は臨時便が出るということだったので,西ノ島に帰るには問題はなかったので,お祭りを見届けてもいいのですが,パレードといったところで大したものであるまい,と思ったことと,花火は西ノ島の対岸から見ることができる,ということでした。それに,私は,西ノ島の旅館で夕食をとることになっているのです。

内航船を待つ間,海上保安庁の船が特別公開されていたので,わずかの時間見学することができました。やがて,内航船が来たので,乗り込み,西ノ島に戻りました。旅館に戻って,花火を見る絶景ポイントを聞いて,夕食前に花火を見ようと,車で海岸線沿いを走りました。
私が到着したときは他に誰もいなかったのですが,花火が上がるころには多くの人が車でやってきて,道路は車で溢れました。
きれいな花火でした。三脚を持ってきた甲斐がありました。
旅館に戻って,夕食を取りました。

ところで,私が奇しくも遭遇したのは,中ノ島・海士町の「キンニャモニャ祭り」というものでした。「キンニャモニャ祭り」はこの海士町に古くから伝わる民謡「キンニャモニャ」を踊る夏の風物詩ということで,1996年にはじまりました。「キンニャモニャ」というのは,中ノ島で歌い継がれてきた民謡のひとつで,由来は,江戸末期に島内の菱浦地区で生まれた人物・杉山松太郎が西南戦争に従軍した熊本から同地方の民謡「キンニョムニョ」を持ち帰り,自己流にアレンジして広めたのがはじまりとする説や,江戸時代に日本海を行き来した回船・北前船が伝えたとする説があるそうです。
メインステージでは伝統の「餅投げ」や抽選会,地域芸能交流会などのイベントが行われ,駐車場には屋台が並んでいました。私は,それらを見ることはできました。
最後に行われたのが,2,400人弱の人口の島で1,000人が参加するという「キンニャモニャ」パレードと打ち上げ&水中花火の競演でした。
私は見なかったのですが,両手にしゃもじを持って愉快に楽しく踊る「キンニャモニャ」とは,「キン」が金,「ニャ」が女,「モ」が物で,「ニャ」がない。 つまり「金も女も何もない」という意味だとか。

ところで,島前,特に中ノ島に若い人がたくさんいた理由は,島前が「大人の島留学」という事業を実施していて,それが軌道に乗っているからでした。
私は,これまで,石垣島,佐渡島,壱岐島といった日本の離島を旅していて,どの島も,高齢者ばかりとなっている問題があることを知りました。それとともに,都会生活に疲れ移住してきた人たちの存在も知りました。隠岐諸島の島前では,こうした取り組みをはじめたことで,そうした都会の人たちがやってきていて,今や,人口の2割を占めているということでした。

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午前12時過ぎに知夫里島の来居港に戻ってきました。レンタカーを返して,知夫里島から離れます。
知夫里島は,島前3島の中でも,特に何もない島,というか,人口も少なく,八重山諸島の黒島のような人より牛の方が多いというところでした。ただし,黒島は平地でしたが,知里島は山地でした。
まだ昼食もとっていなかったけれど,食べるところも限られていたので,そのまま内航船に乗って,中ノ島に向かいました。中ノ島は次の日に行くことにしていたのですが,この日がお祭りということだったので,ともかく一度行ってみようと思ったのでした。

中ノ島は思った以上に近代的な島でした。というか,この島だけ隠岐諸島の中でも別格のようなところでした。
船のターミナルは菱浦港で,港のあたりは近代的でとても立派だったし,ターミナルの中にはレストランもありました。しかし,それよりなにより私が驚いたのは,この島には異常に多くの若者がいたということでした。どうしてだろう? その疑問はのちに明らかになります。
中ノ島もまた,観光をするには車がないとどうにもならないのですが,「地球の歩き方JAPAN・島旅」には,中ノ島にはレンタカー会社がないので,この島では,西ノ島からフェリーでレンタカーを運ぶ必要があるということでした。しかし,これは間違いでした。中ノ島にも,ちゃんとレンタカー会社はありました。ただし,この日はお祭りということで,観光客が多く,レンタカーは予約でいっぱいでしたけれど。

中ノ島は,西ノ島より若干狭い程度の島ですが,観光地というより,隠岐諸島の中では平地が多く,人が農業などで生計を立てるための島という位置づけのようでした。そこで,観光の見どころは限られていて,菱浦港周辺と,もう一か所,中里というところくらいでした。そこで,この二か所に行くことができれば,車は必要がないと思ったので,別の手段を考えることにしました。さすがに,中里まで歩いて行くにはこの暑さで大変だったのですが,電動自転車という手がありました。そこで,フェリーターミナルにあった観光案内所で聞いてみると,30分後くらいすれば,2時間借りられる電動自転車があるということだったので,早速予約をしました。
そして,時間になるまで,ターミナルの2階にあったレストランで昼食をとりました。昼食はこの島のソウルフード「寒シマメ漬け丼」にしました。シマメとは「スルメイカ」のことで,「寒シマメ漬け丼」は島でとれたての新鮮なシマメを肝醤油に漬け込んだ特製の漬け丼です。

時間になったので,電動自転車を借りて,中里地区に向かいました。中里地区まではのどかな田舎道を走って約20分程度でした。
中里地区は,後鳥羽上皇ゆかりの地です。
  ・・
2022年に放送されたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のクライマックスは「承久の変」でした。
3代将軍・源実朝の死を契機に対立が決定的となった朝廷と幕府。後鳥羽上皇は全国に向けて「北条義時を討て」という勅令を出しました。これが,武家と朝廷が武力衝突する「承久の乱」です。
これに対して,幕府軍は尼将軍・北条政子の次の名演説を受けて京に攻め上がる決断をしました。
  ・・・・・・
故右大将軍(=源頼朝)が朝敵を征伐し,関東を草創して以後,官位といい俸禄といい,その恩は既に山よりも高く海よりも深い。その恩に報いる思いが浅いはずはなかろう。そこに今,逆臣の讒言(ざんげん)によって道理に背いた綸旨(りんじ)が下された。名を惜しむ者は藤原秀康らを討ち取り,三代にわたる将軍の遺跡を守るように。ただし院(=後鳥羽院)に参りたければ今すぐに申し出よ。
  ・・・・・・
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では小池栄子さんの演技が光りました。
北条義時の長男・北条泰時が率いる先発隊が鎌倉を出発。当初わずか18騎だった軍勢は最終的に19万騎に膨らみました。
宇治川に架かる宇治橋の周辺が幕府軍が朝廷軍と激突した最後の関門でした。宇治川を突破した幕府軍は,勢いのままに入京すると京方の武士や僧侶,公家を容赦なく討伐していき,幕府軍の勝利となりました。
北条義時追討の院宣を出した後鳥羽上皇は「この合戦は自らの意思ではなく謀臣のせいで起きた」と申し開きをしましたが,聞き入られず,隠岐への配流(はいる)が決まりました。子の土御門上皇は土佐,順徳上皇は佐渡と,計3人の上皇が流罪となりました。
後鳥羽上皇は,出雲国大浜湊(現在の美保関町)から船に乗り,日本海を渡り,沖合60キロメートル余りの隠岐国阿摩郡(現在の島前・中ノ島の海士町)に向かいました。わずか7人とみられる一行は荒波にもまれながら,中ノ島の南部の「崎」(さき)という小さな港にたどり着きました。
地元の有力豪族の村上氏が上皇の身の回りの世話をすることになりました。村上氏は当時,海上交易を通じて富を蓄えていた実力者でした。
後鳥羽上皇の行在所(あんざいしょ)は,村上家に近い源福寺でした。中ノ島は,海の幸,山の幸にあふれ,稲作も盛んだったので,結構な馳走がふるまわれたようです。さらに。島人は牛同士が角突き合わせて戦う「牛突き」で上皇をもてなしたり,将棋を楽しんだりした生活をおくっていたようです。
しかし,心は満たされず,境遇は受け入れ難く,苦悩や望郷の念が消えることはありませんでした。
  ・・・・・・
 とはるるもうれしくもなしこの海をわたらぬ人のなみのなさけは
  ・・
 手紙で安否を問われても何もうれしいことはない。海を渡って隠岐の島に訪れて来ない人の通り一遍の情けなんて
  ・・・・・・
後鳥羽上皇は18年間を配流先で過ごし,1239年(延応元年)に60歳で生涯を閉じました。

中里地区には,隠岐神社,後鳥羽上皇の行在所跡と火葬塚,後鳥羽院資料館,そして,村上家資料館がありました。

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知夫赤壁を見終えて,下っていきます。やっと牛さんとの遭遇も終わりです。
下る途中で見ることができたのが白海士海岸でした。白海士海岸は赤壁とならぶ,知夫里島の断崖です。
やがて,仁夫の集落が見えてきました。ここには島で唯一のホテルである「ホテル知夫の里」があります。港周辺は仁夫里浜公園となっていますし,港の先端は長尾鼻という岬で,海水浴場となっているそうですが,だれも泳いでいませんでした。寂れた島です。この岬には,9月になるとトウテイランという紫色の花が咲いてきれいだということです。
また,この港には,御醍醐天皇上陸地の碑がありましたが,隠岐諸島では,御醍醐天皇というのがブランドみたいな感じで,いろんな場所にゆかりの地やら石やらがあります。どれが真実なのだろう? 言ったもの勝ちみたいな感じでした。
さらに港に沿って集落を進むと,知夫漁港がありました。知夫漁港は,昔は本土からの入口だったところで,最近まで本土からの定期便が入航していたそうです。ここの集落の中に,天佐志比古命神社(あまさしひこのみことじんじゃ)があります。結構な階段を上った先が神殿でした。天佐志比古命神社は式内社で,祭神は天佐志比古命です。通称一宮神社(いっくじんじゃ)といい,知夫里島の一宮ということらしいです。

最後に私が気になっていた文覚上人の墓へ行きました。
文覚上人は,大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で市川猿之助さんが演じた怪しげな人物です。
最終回で隠岐に流される後鳥羽上皇に,幽霊のように現れて,「隠岐はいいところだ」と語るシーンがあります。
  ・・・・・・
-逆輿とは罪人が運ばれる時のしきたりである-
後鳥羽上皇「文覚,とっくに死んだのではなかったか」
文覚「隠岐はいい所だぞ」
後鳥羽上皇「お,おまえも隠岐へ流された?」
文覚「隠岐はいい所だ!」
後鳥羽上皇「あ~っ,あ~っ」
文覚「何もないぞ。一緒に暮らそう!」(後鳥羽上皇の頭をかじる)
後鳥羽上皇「あ~っ!嫌じゃ~!ああっ,待て。文覚,文覚」
-後鳥羽上皇は死ぬまで隠岐を離れることはない-
後鳥羽上皇「頭まで噛んだではないか,おい」
  ・・・・・・

文覚上人は摂津国を本拠地とした渡辺党の者で,出家する前の名を遠藤盛遠(えんどうもりとお)といいました。若かりしころ,従兄弟で親友である渡辺渡(わたなべわたる)の妻・袈裟(けさ)御前に横恋慕し,ついに渡辺渡を殺して袈裟御前を我が物にしようと企てました。深夜に渡辺渡の寝所に忍び込んだものの,誤って袈裟御前の首をはねてしまい,それを悔やみ出家し,文覚と名乗ったといいます。
伊豆に配流された源頼朝のもとを訪れて,懐から頭蓋骨を取り出し「これはお前の父のしゃれこうべだ。苔まみれになっていたのを獄舎の番人から貰い受けた」と源義朝の無念を語ったともあります。この話,大河ドラマでみたような…。
文覚上人は神護寺を復興させようとし,その費用を後白河法皇に強要し,それを拒否されると暴言を吐いて伊豆へ流罪になりました。以後、頼朝が権力を掌握していく過程で返り咲き,文覚上人は源頼朝や後白河法皇の庇護を受け,神護寺,東寺,高野山大塔,東大寺など,各地寺院の所領回復などに貢献し,源頼朝存命中は幕府に大きな影響力を持っていました。
しかし,1199年(正治元年)の源頼朝死去と同時に文覚上人は政争に巻き込まれて,佐渡国へ再度配流の身となりましたが,政敵が亡くなったことでその3年後に京に戻りました。
1205年(元久2年)後鳥羽上皇は,謀反の疑いありとして,突然,文覚を隠岐国への流罪としますが,文覚はいつか後鳥羽上皇を隠岐に迎え取ってやると言い残しながら配流先に向かったと「平家物語」にあります。
  ・・・・・・
高倉天皇の第二皇子・守貞親王は,その性聡明な方で人望も厚く,頼もしい方であったから,文覚は,何とかこの皇子を御位に即けたいと前々から思っていた。しかし,さすがに頼朝の在世中は手出しもできなかったのだが,建久十年,頼朝が死ぬと,文覚の謀叛気は,のこのこと首をもたげた。
しかし,たちまち役人の耳に入って,文覚は,八十歳に余る身を隠岐島に配流の身となった。文覚は京を出るとき 「今日,明日とも知らぬ老残の身を,都の片ほとりへ置くならばともかく,隠岐へ流すとは余りにも情を知らぬ。毬杖冠者ぎっちょうかんじゃ(=毬杖の好きな天皇)よ,そのうち,そなたをわしのところにきっと迎え取るぞよ」
この言葉どおり,後鳥羽院は,承久の乱には隠岐に流されたのであった。
  「平家物語」第十二巻・六代被斬
  ・・・・・・

隠岐・知夫里島には,次の話が伝わっています。
  ・・・・・・
文覚上人は自分を島流しにした後鳥羽上皇を呪いながら暮らしていましたが,あるとき,知夫里島の友人の武士安藤帯刀にこう言いました。
「今から西ノ島の洞窟(「文覚の岩屋」)で修行をしてくる。が,知夫里に帰って来ることはないだろう。毎日、狼煙を上げるようにするから見守っていてほしい。もしも狼煙が上がらない日があったら、それは、私が死んだときだと思ってくれ」
託された安藤帯刀は,知夫里の丘から狼煙を見ては文覚上人の無事に安堵しました。ある日,ついに狼煙が上がらない日がやってきました。急いで西ノ島に駆けつけてみると,文覚上人は正座で合掌したままの姿で亡くなっていました。安藤帯刀は遺体を背負って知夫里島に戻り,文覚上人が修行していた西ノ島の洞窟が見えるこの場所にお墓を建てました。
それからまもなくのこと。
文覚上人の呪いが通じたのかはわかりませんが,奇しくも,文覚上人を島流しにした後鳥羽上皇もまた隠岐に流されることになりました。そして,その子孫である後醍醐天皇も…。
  ・・・・・・
文覚上人は強力な念力の持ち主だったことから,ここは,島民にとっては大願成就のお参りの場所でもあります。

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赤はげ山展望台を経て,知夫赤壁に向かっています。
赤はげ山に向かうあたり,付近は放牧場となっていて,たくさんの牛さんが放牧されています。かつてここでは牧畑農法が行われていて,現在でも「名垣」と呼ばれる石垣で当時の名残を垣間見ることができました。展望台に向けて牧草地の中の狭い道路を走って行くのですが,道路というより,これは牧場の中を走っていくようなものでした。 
牛さんがじゃましてなかなか進めません。それでも大人の牛は車のボディを叩くと道から避けてくれるのですが,子牛たちがいけません。道路を避けるどころか,車に寄ってきてボディをなめはじめる始末でした。やっと牛が少し移動して車が通れるぐらいの隙間ができると,牛たちをやり過ごして進みます。
赤はげ山は,知夫里島の西部に位置していて,標高325メートルの山頂に展望台があるのですが,残念ながら工事中で,展望台の上までは行くことができませんでした。それでも,駐車場からは,世界でも珍しいというカルデラ湾に浮かぶ島前の島々や遠く島根半島や大山を望むことができました。
それはともかく,驚いたのは,赤はげ山山頂に,八王子ナンバーのワゴン車が停まっていて,展望台から電源を引っ張って高らかにアンテナを立ててアマチュア無線をやっていたモノ好きがいたことです。何でも,ここなら余分な電波が来ないからいいのだとか。何というモノ好きな,とあっけにとられました。冬に行った高知県の四国カルデラでも,馬鹿でかい天体望遠鏡をおっぴろげたおじさんがいたし,男というのは,こうした熱病に侵されると,手に負えません。

ところで,知夫里島は牛さんとともに,ものすごい数のタヌキがいます。これは,島民が飼っていたものが野生化したそうで,なにせ,天敵がいないものだから,増え続けているそうです。ニュージーランドのウサギと同じです。
赤はげ山展望台の次が知夫赤壁ですが,そこに向かう途中,とうとう,私は,道路に何十頭もの牛さんに進路を阻まれました。こうなるとどうにもならず,困っていたら,地元の人が軽トラでやってきて,牛さんたちをけちらかしてくれました。
知夫赤壁は,知夫里島の西海岸に,1キロメートルも続く大断崖です。約1キロに渡って広がっており、その高さは50メートルから200メートルです。この崖は約600万年前に噴火した火山の火口が浸食されてできた断面です。赤い色は、噴火で飛び出した溶岩のしぶきの鉄成分が酸化して生じたもので、繰り返し噴き上がったしぶきによって縞模様ができました。ドラマチックな赤壁は隠岐諸島で最も印象深い景観の一つで、知夫里島を象徴する風景の一つです。日本海の波でざっくりとえぐられた赤褐色の岩肌が,時刻とともに様々な表情を見せてくれるという絶景した。
駐車場に車を停めて,100メートルほど歩いたのですが,その途中で,ヌーッと牛さんが出てきたのには驚きました。

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2023年8月26日。旅の5日目,隠岐諸島の4日目です。
前回書いたように,車を運ぶという予定を変えて,車は西ノ島の旅館の駐車場に停めたまま,身ひとつで知夫里島へ内航船「いそがぜ」で出かけることになりました。出航は午前7時47分で,知夫里島の来居港(くりいこう)着が午前8時4分,レンタカーは午前8時30分の貸し出しでした。
内航船は隠岐観光が運航していて,本土と隠岐諸島をむすぶフェリーと高速船レインボージェットの運行は隠岐汽船という別会社が運航していて,同じ港でも船が停泊する場所が異なっています。また,これらの間にはほとんど何の表示もないので,観光客はとまどいます。もっとわかりやすくしてほしいものです。いろいろと聞いて,やっとわかった内航船の待合所でしたが,ここは単に待合所になっているだけで,内航船は,改札もなければ係員もいません。外に出たところに時間になると船が来るので,乗り込んで,そのときに料金を払うだけです。全く放送もないので,見逃すと終わりです。
少し早く着いたので,待合所で船を待っていると,地元の人がいたので,少し雑談をしました。すると,今日は知夫里島に行くのではなく,中ノ島に行くべきだ,というではないですか。それは,この日は,中ノ島では年に1度のお祭りをやっているから,ということでした。私はびっくりしました。以前,サンフランシスコに行ったとき,偶然,プライドパレードに出会ったことがあるのですが,今回もまた,偶然,そんなお祭りに出会うことになるなんて! という感じでした。
いずれにしても,私は,お昼には知夫里島から戻るので,それから中ノ島に行けばいいや,と思いました。

やがて内航船「いそかぜ」が来たので,乗り込みました。船は,島前の内海を進み,予定通り知夫里島の来居港に到着しました。思った以上にのどか,というか何もない島で,港にあったのは,観光案内所と土産物店のある建物だけでした。
まだ早く,観光案内所も開いていなかったので,しばらく待って,やがて係の人がやってきたので,予約してあった軽自動車を借りました。普段軽自動車なんて乗ったことがないのですが,こうも馬力がないものかと驚きました。何せ,西ノ島も知夫里島も坂ばかりなのですが,上るのが大変なのです。
車をかりるときに,牛が道にいるから,脅かさないで,牛にどいてもらうには車の窓を開けて,ボディを手で叩いてください,と言われました。
私は,この島での牛さんの大変さにまだ気づいていません。

知夫里島の見どころといっても,赤壁と牛さんくらいのものです。
私は,赤壁に向かう途中で,まず,姫宮神社に寄りました。姫宮神社は小さな集落の中にあって,車が近づけなかったので,付近に停めて歩いて行きました。
  ・・・・・・
知夫里島・古海地区の氏神として崇敬されている姫宮神社は,創立年代は不詳ですが,元禄年間には姫宮大明神・倭姫命とあります。豊玉毘売(山幸彦の妻)と玉依比売(豊玉毘売の子・鵜葺草葺不合の妻,神武天皇の母)の姉妹の女神様が祭神で,お産や母乳にご利益があるといわれています。
境内には古い神楽殿があり,約40年前までは夏に島前神楽が奉納されていたそうです。入口の下方には6世紀後半の庶民のお墓である宮の影横穴墓群があって,家族ごとに横穴墓を持ち,その中でお葬式もしていたということです。
  ・・・・・・
と,この辺りまではよかったのです。
やがて,車が1台やっと通れるほどの道路が続くようになって,しかも,道路には牛さんのフンが目立つようになると,本当に,道には牛さんやら馬さんやらが出現するようになってきて,走ること自体が大変になってきました。

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島前で2泊するのは,別府港まで徒歩圏内の「みつけ島荘」でした。
予定通り,この日1日で西ノ島のほとんどの見どころをまわり,さらに,中途半端に終わりましたが,国賀めぐり定期観光船に乗ることもできて,別府港に戻ってきました。別府港には,西ノ島ふるさと館という郷土博物館があったので,そこに寄ってから,旅館に行くことにしました。
西ノ島ふるさと館は,まあ,どこにでもある博物館でしたが,ここではじめて知ったことがひとつありました。それは,「シャーラ船送り」というものでした。
  ・・・・・・
「シャーラ船送り」は,お盆に迎えた先祖の霊を精霊船(しょうりょうせん)に乗せて海(=西方浄土)に向けて送る送り盆の行事です。
西ノ島町では,美田地区の5つの集落と浦郷地区の4つの集落で,集落ごとに大きなシャーラ船を作り,各家や墓から集めた旗(=盆旗)や供物を船に乗せ精霊を送るものです。
全長10メートルを超える大きなシャーラ船が美田湾をえい航する姿は夏の風物詩となっています。
  ・・・・・・
長崎市の精霊流しや,松江市のホーランエンヤなど,日本各地にはさまざなこういた行事があるものだなあと,改めて思いました。

さて,旅館に到着しました。脇に駐車場があったので,車を停めて,中に入りました。女将さんに,島前は,特に知夫里島は行くのが大変,という話をすると,車を運ばなければ,内航船「いそかぜ」で,もっと簡単に往復できる,と言われました。そりゃそうだ,と思って,せっかく借りたレンタカーは旅館の駐車場に置き去りにすることにして,改めて,知夫里島でレンタカーを借りればいい,とこのとき,気づきました。ならば,もっと早いうちにそうすべきだったのですが…。
部屋で,知夫里島の観光案内所に電話をして,ダメもとで,たった5台しかないレンタカーに空きがないかを聞くことにしました。すると,午前8時30分から午前12時30分までなら,1台空きがあるというではないですか。狭い知夫里島は4時間もあれば十分だとも言われたので,予約をしました。これで,明日まる1日知夫里島でどうしよう? という不安は払しょくされました。
この,とても評判のよい旅館には,これまで,多くの芸能人が宿泊していました。また,青森県深浦と同じように,ここでも,「にっぽん縦断こころ旅」の火野正平さんが来ていました。
この晩もまた,気持ちのよいお風呂に豪華な食事,隠岐諸島は,なんとすばらしい場所でしょうか!
「みつけ島荘」のウリは岩牡蠣です。こんな巨大な牡蠣,はじめて食べました。

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西ノ島は真ん中の部分が窪んでいて,ふたつの島のように西側と東側にわかれています。
窪んでいる部分には船引運河(ふなびきうんが)が作られていて,日本海の外海と島前の内海を結んでいます。つまり,西ノ島はふたつの陸地から成っていて,つながっていないのです。

隠岐諸島の西ノ島には河川がなく平地が少ないので農業はほとんどできませんが,外海は優れた漁場なので漁業が盛んで,浦郷港は島前随一の漁業基地です。しかし,かつては,浦郷港から出港した船は大きく迂回しないと外海にたどり着けませんでした。
そこで,1913年(大正2年)に西ノ島中央部の船引にある地峡部に運河を開削する計画が発案され,翌年に着工,人力によって1915年(大正4年)に,全長340メートル,幅5.5メートル,水深1.65メートルの船引運河が完成しました。
1963年(昭和38年)に隠岐諸島が大山隠岐国立公園に指定されて観光客が増加し,船引運河が国賀海岸をめぐる観光遊覧船のコースに組み込まれたこともあって,1964年(昭和39年)に運河の改修工事が実施され,10年後の1974年(昭和49年)に現在の全長340メートル,幅12メートル,水深3メートルに拡張されました。
また,船引運河にかかる橋は国道485号1本しかなかったのですが,2005年に西ノ島大橋を含む国道485号西ノ島バイパスが完成しました。 西ノ島の西側にある浦郷港は,かつては西ノ島の東側にある別府港と共に定期船が就航していましたが,西ノ島大橋が開通したことで,別府港から自動車による移動が容易になったことから,フェリーは2007年に寄港を終了し,現在は隠岐観光の国賀めぐり定期観光船の発着場や漁港として利用されています。

予想以上に早く西ノ島の見どころを訪れることができたので,午後3時10分出航の国賀めぐり定期観光船に乗ることにしました。
ということで,浦郷港に着きました。そして,まず,遅い昼食をとることにして,ラーメンを食べました。何せ,ほとんど食堂のないこの島で,外食ができるのは,ここくらいでした。それに,毎日おいしいものを食べ過ぎていたので,軽い食事がしたかったのです。
以前はフェリーが寄港していた面影が残る大きなターミナルビルはさびれていたのですが,入口を入ったところに国賀めぐり定期観光船のチケット売り場がありました。
天気もよく,欠航など全く頭になかったのですが…。窓口で曰く,お昼ごろから外海の波が高くなったので(船引運河を出たあと)外海に出ると危険です。そこで,予定のコースが運航できないので,船長判断で途中で引き返すことになりますが,それでもよろしいですか?
隠岐諸島の外海の厳しさがわかりました。よほどの凪でなければ,この定期観光船の目玉である「明暗の岩屋」には入れないのですが,それどころか,この日は近づくこともできないわけでした。それでも,せっかくなので,乗船することにしました。乗客は,私のほかには,ポーランドから来たという数人の人だけでした。
定期観光船「くにが」は,船引運河を出て,外海に出ると,揺れが激しくなりましたが,何とか摩天崖までは行くことができました。通常のコースだと,このあと,3つの洞窟をくぐることになるのですが,これはかないませんでした。

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隠岐諸島・島前・西ノ島の西海岸は,国賀海岸という名勝です。まず行ったのが,前回書いた摩天崖ですが,次に行くのが,通天橋でした。とはいえ,海岸沿いに道路が続いているわけでないから大変なのです。少し引き返し,再び海岸線に向かって進むと,国賀海岸駐車場という広いところに出ました。
驚いたのは,駐車場から通天橋ははるかかなたの海岸だったことで,そこに行くには,どんどんと坂道を下る必要があったことです。坂を下る,ということは,帰りはその道を上るということになります。例年だと,この時期の壱岐諸島はもっと涼しいのですが,この年は例外で,酷暑だったので,いやになりました。とはいえ,行かなければどうにもなりません。
意を決して降りて行きました。
すると,すばらしい絶景が広がってきました。これこそが,隠岐最大の景勝地・国賀海岸にある代表的な奇岩,通天橋でした。「国賀海岸の天上界」といわれます。

  ・・・・・・
通天橋は,海に大きくせり出した巨大な岩の架け橋です。岩石の中央部が海蝕作用によってえぐりあけられたもので,大自然が創り出した造形の妙です。
約7キロメートルにわたって粗面玄武岩の海蝕崖や海蝕洞が続きます。
  ・・・・・・
ここからさらに,前回書いた摩天崖まで遊歩道が続いてます。この遊歩道は,「一生に一度は訪れたい遊歩百選」で,遊歩道の真ん中からすばらしい摩天崖の姿を見ることができるそうです。また,海食崖や海蝕洞,離れ岩,波食台といったダイナミックな海岸風景は,島前カルデラ外輪山の外壁が冬場の季節風と荒波を受けて浸食されてできたものです。
通天橋は,自然が造り出した天然のアーチ橋ですが,これがさらに浸食が進んでアーチ部分が落ちると離れ岩となっていきます。
遊歩道は,すべて歩き通すと70分ほどかかります。先に来ていた人に歩くことを勧められたのですが,この暑さ,また,70分かけて摩天崖までいったところで,車は国賀海岸駐車場にあるのだから,また戻ってこなくはなりません。ということで,残念でしたが断念しました。
下りてきた坂を上がっていくと,駐車場でどうしようか迷っている人を見かけましたが,絶対下りるべきだと薦めました。この風景を見ずして,隠岐は語れません。

私は,駐車場に戻って,今度は,その少し南にある赤尾展望所に向かうことにしました。その途中,道の真ん中に馬がいたり牛がいたりして,大変でした。何とか迂回して赤尾展望所にたどり着きました。
その先,さらに進むと,鬼舞展望所がありました。
そのどちらからも,360度の絶景を見ることができました。

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隠岐,といって連想する風景は,おそらく,この摩天崖でしょう。日本海の荒波にもまれた岸壁は,側面の縞模様をさらしてそびえ立っていますが,崖の上は,一転して,穏やかな牧草地が広がりっているという,美しくなだらかな緑の平原とナイフで切り落としたかのような断崖絶壁が生み出すダイナミックな景色がここにはありました。
  ・・・・・・
摩天崖は,海抜257メートルの大絶壁で, 海蝕作用によって出来た崖では日本有数の高さを誇ります。
周辺一帯は放牧地で,牛馬がのんびり草を食む姿が見られます。
約7キロメートルにわたって粗面玄武岩の海蝕崖や海蝕洞が続き,大山隠岐国立公園に指定されている隠岐最大の景勝地です。 季節問わず絶景です。
  ・・・・・・

西ノ島の西海岸に面した摩天崖は,山に向かう狭い道路をくねくと上って行った先にありました。何だこれは! と思いました。日本では,こうした風景を日本離れした,という表現を使ったりしますが,まさに,ここは日本でないような感じさえしました。
車を駐車場に停めて,柵を越えて歩いて進みます。これだけの絶景なのに,ほとんど観光客がいないのが,また,いいです。というか,この島を観光するのに,1日に2便ほどのバスがあるとかいう話ですが,実際,車がないとどうにもなりません。
先端まで行ったら,大学生がふたりいました。電動自転車で登って来たという話でした。元気というか,何というか…。私には考えられませんでした。

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前回書いたように,島前1日目,この日に西ノ島の見どころをすべてまわることになった私は,フェリーを降りて,港の真ん前にあったレンタカー会社の窓口でさっそく車を借りて,さあ,出発です。
レンタカーにはカーナビがついていたのですが,親切なことに,島前の観光地のすべてにコードがふられていて,そのコードを入力するだけで案内してもらえるようになっていました。
レンタカーは軽自動車ですが,それがまあ,走らないこと。坂ばかりの西ノ島では,ウーウーうなりながら,いくら加速をしても,時速30キロメートルしか出ないのには閉口しました。

まず私が行きたかったのは,黒木御所阯で,別府港にのぞむ天皇山という小高い山の頂にあったので,すぐに着きました。
黒木御所阯は,隠岐へ配流された後醍醐天皇が脱出までの1年余りを過ごした場所と伝えられています。しかし,すでに書いたように,この伝承に対して,島後の国分寺を行在所とする説があります。
まず,入口にあった碧風館(へきふうかん)という資料館に入って,天皇に関する資料,黒木御所跡の伝承にまつわる文書,絵画などを見てから,奥に進みました。階段を上ると黒木神社がありました。

次に行ったのが,焼火神社(たくひじんじゃ)でした。海抜452メートルの焼火山の中腹にある焼火神社は,日本海の船人に海上安全の神と崇められています。旧暦12月30日の夜,海上から火が3つ浮かび上がり,その火が巌に入ったのが焼火権現の縁起とされています。
ここに行くには,別府港から,けっこう険しい山道を馬力のない軽自動車でつらそうに登ったところに駐車場があって,そこからさらに,この暑い中,15分も歩く必要がありました。
やっと見えた社殿は1732年(享保17年)に改築されたもので,隠岐諸島の社殿で最も古いものとされています。

その次に目指したのが,西ノ島最大の見どころである摩天崖でしたが,行く途中にあったのが由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)でした。由良比女神社は,創建は不詳ですが,842年(承和9年)に,島前・中ノ島の宇受加神社,島後の水若酢神社とともに,官社に預かりました。また,平安末期には隠岐国の一ノ宮と定められていました。
由良比女神社に面した浜辺は「イカ寄せの浜」といい,現在,イカ漁を再現する看板があります。
この社は,元は知夫里島の鳥賊浜にありましたが,由良比女命が苧桶に乗り海を渡って西ノ島に来たとき,海に手を浸したところ美しき姿を見たイカが噛みつきました。その非礼をわび,イカが寄るようになったと伝えられています。実際,明治,大正から昭和20年代にかけて,この地の浜にイカが押し寄せたので,浜辺に30軒くらいの番小屋が建ち並んでいました。

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◇◇◇
Lycoris radiata.

秋の気配。
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この旅を計画したときにやっておいたことは,西ノ島の別府港の近くに旅館を2泊予約したことと,レンタカーの予約をしたことでした。
島前には,午前10時5分に着いて,それから2泊して,最終日は午後3時45分別府港発の「おき」で本土に帰ることにしてあったから,2泊3日,たっぷり時間があるとばかり思っていました。
いつもの旅ならこれだけの準備で旅に出るのですが,私の考えは甘かったのです。

島前は,事前にきちんと計画をしておかないと3つの島をめぐることが難しいことにやっと気づき,出発する少し前,細かい予定を立てようと思った私は,フェリー「どうぜん」の時刻表をみながら,絶望的になっていました。
その理由は,フェリー「どうぜん」で西ノ島の別府港からレンタカーを知夫里島の来居港(きいるこう)に運んで観光するには,行きは午前9時20分別府港発,帰りは午後3時57分来居港発の一択しかない,ということでした。これには愕然としました。
つまり,私は,2泊3日のうちで,2日目に知夫里島に行くしか選択肢がないのです。かといって,車がなければ,知夫里島の観光なんて不可能です。しかし,こんな狭い島,6時間以上も滞在してどうするのだろう? と思いました。
また,西ノ島の別府港から中ノ島の菱浦港へは,3日目の最終日だと,行きは午前7時50分,午前8時40分のいずれかのフェリー「どうぜん」があるけれど,帰りは,別府港から本土の七類に戻るフエリー「おき」が午後3時30分の出航なので,さすがに午後3時に中ノ島の菱浦港発で午後3時15分に西ノ島の別府港に戻っていてはむりだから,午後2時に中ノ島の菱浦港発に乗る必要があるのです。
あるいは,島前1日目に中ノ島へ渡って観光し,最終日の3日目に西ノ島を観光するという方法もあるのですが,私が,フェリー「しらしま」で西ノ島の別府港へ着くのが午前10時5分で,西ノ島の別府港から中ノ島の勝浦港へ行くフェリー「どうぜん」は,最も早くても午前12時35分の出航だから,待ち時間が長すぎて,これも現実的でないのです。
そんな事情で,結局,別府港に着いた日,つまり,島前1日目は西ノ島を観光して,2日目は知夫里島を観光し,最終日3日目に中ノ島へ行くしか選択肢がないということでした。

いずれにしても,フェリーに車を乗せて運んだのはいいけれど,帰りのフェリーが満員で車を乗せられなかったらどうなるのだろう? という心配もありました。住んでいる人にいろいろと聞いてみたら,満員なんてありえない,と言われました。また,万一満員だったら,車だけ置いてきて人だけ戻ればいいと,レンタカーを借りるときに言われました。こうしたこともまた,「地球の歩きからJAPAN・島旅」には書いてありません。
このように,2泊3日もの日程で,島前を観光するだから,余裕余裕,と思っていたのに,こんな唯一の方法しかない,また,不確定要素ばかり,なんて,まさに,来れるものなら来てみろ,という感じでした。
難解なパズルを解くような島前ですが,果たして,どうなったのか? 私はどんな島めぐりをしたのか? 意外な展開をするこれからの旅をお楽しみに。

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ローソク島遊覧船で美しいローソク島の岩を見ることができて満足した私は,旅館に戻ってきました。この日の夕食もまた,格別でした。スペシャルメニューはサザエでした。また,昨晩は地元の冷酒を呑んたので,今日はビールにしました。

さて,2023年8月25日。旅の4日目,隠岐諸島の3日目です。
朝,窓から美しい朝日を見ることができました。朝食を終えて,チェックアウト。これから島前に向かいます。
島前は,西ノ島,中ノ島,知夫里島の3つの島からなり,私が島前で予約した旅館は西ノ島にあります。島後から島前の各島への移動は,本土と隠岐諸島をつなぐ3隻のフェリー「おき」「くにが」「しらはま」のいずれかを使います。
  ・・
●フェリー「おき」
私が島後に来るときに乗ってきたフェリーが「おき」です。「おき」は,午前9時本土の七類港を出発して,島後の西郷港に午前11時25分に着きます。そして,午前12時5分に西郷港を出発して,島前では,まず,中ノ島の菱浦港に午後1時15分着するので,中ノ島に行くには,このフェリーが利用できます。しかし,西ノ島に行くには,なんとその2時間後の午後3時15分に中ノ島を出発して,西ノ島の別府港には午後3時30分着というスケジュールなので,このフェリーに乗ると,島後から島前・西ノ島までは3時間25分もかかってしまうのです。
また,中ノ島の菱浦港で降りて,そこから島前3島を結ぶ内航船「しまかぜ」に乗り換えることもできるのですが,「しまかぜ」は,午後1時21分に菱浦港を出発して別府港に午後1時28分に着くものしかなく,この便は,中ノ島の菱浦港での乗り換え時間がわずか6分しかないので間に合いません。また,その次の内航船は午後4時47分までありません。ということで,現実的ではないのです。
●フェリー「くにが」
「くにが」は,午後3時10分に島後の西郷港を出発するのですが,そのまま本土の七類港へ行ってしまうので,別府港には行きません。
●フェリー「しらしま」
「しらしま」だけが現実的で,午前8時30分に島後の西郷港を出発して,島前・中ノ島の菱浦港に午前9時40分着,そして,わずか10分後の午前9時50分に菱浦港を出発して,午前10時5分に西ノ島の別府港に着きます。これなら,島後から島前・西ノ島まで1時間35分ですが,これしか選択肢がないのです。
このように,隠岐諸島を旅するのは,難解なパズルを解くようなものです。
結局,私のように,先に島後に行って次に島前の観光をしようとすれば,島前では,西ノ島ではなく,中ノ島に旅館をとったほうが,船便だけをみれば便利だったのです。こんなことわかるか! という感じです。しかし,私が,西ノ島に旅館を予約した最大の理由は,中ノ島にはレンタカーがない,という情報が元となっていました。だから,いずれにしても,西ノ島でレンタカーを借りなければはじまらないから,西ノ島に行くしかなかったのです。
このような事情で,もともとは,午前中は島後を観光して,午後,島前に行こうと思っていたけれど,朝早く島後を後にして島前に向かうことになったのです。午前8時30分の「しらしま」に乗船し,時間通り,午前10時5分に島前・西ノ島の地を踏みました。

もう少し続けます。
島前の中ノ島,西ノ島,知夫里島の3島を足した面積は,島後の4分の1程度です。地図を見るとわかるのですが,もともと島後のような丸い島の真ん中が浸水して海になって離れたような感じですが,いずれにしても,島前の3つの島を観光するには,海を越えなければなりません。
また,狭いといってもどの島も徒歩で観光できるわけがなく,車が絶対必要ですが,「地球の歩き方JAPAN・島旅」によると,西の島には軽自動車のレンタカーが15台ほど,知夫里島には5台ほど,そして,中ノ島にはレンタカーはない,とありました。いったいどうやって観光するの? という感じでした。
3つの島の間は,内航船「しまかぜ」とともに,10台ほどの車を運ぶことができるフェリー「どうぜん」があるから,島前・西ノ島で借りたレンタカーをこれで別の島に運ぶと書かれてありました。「どうぜん」は便数も少ない上,予約不可だったので,車を乗せるのは早い者勝ちということになり,乗れなかったどうするの? あるいは,帰ってくることができなくなったらどうするの? と思いました。現実問題,満員になることはまずないらしいのですが,そんな情報もまた,「地球の歩き方JAPAN・島旅」には書いていないし,ネットで調べても出てきません。
そんな多くのことを心配しながら,ともかく,西ノ島でレンタカーを借りなければ何もできないので,わずか15台が満員にならないように,早めに予約して,確保してありました。実際,このレンタカーは満車になることがよくあるそうです。ここでもまた,隠岐諸島を旅するのは,難解なパズルを解くようなものでした。
隠岐諸島の観光協会さま。観光客を誘致したいのなら,もう少し船の便のダイヤを考えてください! 船舶業者の縄張争いをしている場合じゃありません。

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◇◇◇
Harvest Moon 2023.

中秋の名月です。
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  ・・・・・・
ローソク島は,島後北西部の海面上に高さ20メートルほどの,約500万年前の鮮新世前期に噴出して出来た火山岩で形成されている,面積はわずか0.0033平方キロメートルの,島というより,単なる岩です。ローソクのような細長い形状で,特に夕日が先端に重なったときに灯がともっているように見えるさまことで,島後最大の観光地となっています。
地元では古くからその存在が知られていたのですが,広く知られるようになったのは第2次世界大戦後に観光地化が進んで以降ということです。
  ・・・・・・
隠岐諸島のどこなのかは知らねど,ローソク上の岩のてっぺんに沈む太陽が重なっている写真を見たことがある人は多いことでしょう。
しかし,これもまた,天気次第です。
私は,これまでに,オーロラ,皆既日食,南半球の星空など,天気次第,というものをずいぶんと見てきました。このように,旅というのは,特別なものを見てみたいと思うと,その多くは天気次第なのです。高いお金をかけてわざわざ行って,それがかなわないときのトラウマもまた,かなりのものとなります。幸い,強運の持ち主の私は,それらすべてがかないましたが,それを再びはじめからやってみろといわれても,到底かなうとも思えません。悔しい思いをしている人も少なくないでしょう。そうして意味でも,旅は,楽しい反面,かなりのリスク? を伴うものです。
ローソク島遊覧船でもまた,目的がかなうかどうかはわかりませんでした。このところの天候を考えると,むしろ,絶望的でもありました。

ローソク島遊覧船の予約は一括して隠岐の島観光協会が行っていて,隠岐諸島のアプリからできたのですが,それがまあ,出来が悪いというか,要領を得ないというか,不親切というか,予約ができても反応がなく,1週間前に返事が来るとあったので,わざわざアプリの通知機能をONにして待ちました。この通知機能もまた,私には必要のない通知が毎日のように入ってくるし,それでも,1週間前にやっと届いた通知には,氏名や住所などを入力することになっていたのにもかかわらず,バグがあって,返信ができず,結局,隠岐の島観光協会まで電話をしました。
また,出航するかどうかも当日の天候次第ということで,その可否は直前に電話で知らせるということでした。さらに,ローソク島遊覧船が出航するのは,五箇の福岸壁,または,赤崎岸壁のどちらかということで,そのときに,そのどこに集合するかも同時にわかるということでした。こんなのどかなシステムは改善の余地があります。

この日は,幸い快晴で,もちろんローソク島遊覧船は出航が決まり,私の乗るのは赤崎岸壁からということでした。集合時間より早く着いたので,もうひとつの出航場所である五箇の福岸壁にも行ってみました。五箇の福岸壁のほうは,観光船のターミナルらしく,きれいな建物があり,そこには,土産物も売っていたし,カフェもトイレもありました。時間つぶしに,私は,そこでソフトクリームとたこ焼きを食べました。帰ってから知ったのですが,これは,地元で校長を定年退職した人がはじめたと新聞記事にありました。しかし,赤崎岸壁にはトイレすらなく,単なる雑草が繁る広場でした。
以前は個人観光客の依頼に基づいてボランティアがローソク島を案内する形態だったのが,2002年(平成14年)から,予約制の有料遊覧船が就航しているということですが,おそらく,地元の船持ちがそれぞれ隠岐の島観光協会に登録して,お客さんを手配してもらっている,というものらしく,ひとつの大きな会社があるわけでもなさそうです。そこで,その船持ちが所属する岸壁から船が出る,ということみたいです。だから,料金は,乗船するときに船乗りにお金を直接渡します。

午後5時を過ぎると,赤崎岸壁に,2台の観光バスと何十組かの個人旅行の車がやってきました。こんなに大勢が乗れるのかな? と心配になるほどでしたが,なんとかなりました。
船に乗り組んで,私は,一目散に,最前列右側の座席に陣取りました。こういうとき,要領がいいのです。
やがて出航しました。港を出ると,もう1隻の船が並走してきました。おそらくこれは,五箇の福岸壁からのもので,この日は,合計2隻がローソク島をめざすことになりました。
私の乗った船は室内から窓越しにしか見ることができず,もう1隻の船は甲板上に座席があったので,損した気分になりました。これもまた,それぞれ,別の船持ちが独自に営業しているからなのでしょう。
それにしてもローソク島にある岩の先端と太陽が重なる地点なんて限られているから,多くの船が出ることもできず,かなり無理な企画です。これは。
ちなみに,陸地はどこも断崖だから,小さなローソク岩を見上げることができる場所はなく,ローソク状の岩の先端と太陽が重なるというのは船からだけ見ることできるのです。

ずっと雲ひとつなかったので,私は楽観していたのですが,なぜか,ローソク島に近づいたら,雲が出てきました。それでも,なんとか,絶景を見ることができました。むしろ,雲ひとつないときよりも,雲で太陽が揺らいでいるほうが炎らしくていいとも思えました。また,船を回転する余裕がなく,まともに窓から見ることができたのは,私の座っていた右側の座席からだったので,これもまたツイていました。
船は,行ったり来たり,島に近づいたり遠ざかったりと,アクロバティックな操縦をしました。私は,カメラのシャッターを連射して,何とか写真をものにしました。
結局,こうして,なんとか天気も味方してくれたのですが,旅に出る前に予約しようとして満員だった前日は,天気も悪く,これもまた,私の強運のなせる業でした。

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 せっかく隠岐にきたので,牛突きとかいう牛さんのお相撲が見たかったのですが,それが,観光牛突きという形で実現しました。時間は午後2時30分からで,予約は不要ということでした。つまり,満員にならない,ということです。
 会場は,隠岐モーモードームというところで,時間前に到着したので,時間つぶしにとなりの隠岐国分寺に再び行ってみました。昨日とは違い,係の人がいたので,入場料を払って中に入り,博物館を見学することができました。
 博物館で,ちょうど,私のように牛突きを見にきていた子供つれた若い夫婦と会いました。彼らは私と同郷で,今は島前に移住しているということでした。壱岐島,小浜島,黒島など,離島に来ると,こうした都会を脱出したという人にけっこう出会います。

 隠岐の牛突きは,承久の乱で隠岐に配流になった鳥羽上皇を慰めるためにはじまったと伝えられています。隠岐の牛突きは手綱を使って行い,1トンクラス のオス牛が土俵狭しと激突します。本場所では,勝負は時間制限なしにどちらかが逃げ出すまで行われ,長い取組では1時間以上続くといいます。勝ち抜いた牛は横綱として敬意が払われ,負けた牛はお肉になります。
 9月1日に佐山牛突場で開催される「八朔の牛突き」は,昔から壇鏡神社八朔祭の余興として行われ,古式ゆかしい文化財として,また,民俗娯楽として引き継がれています。また,10月13日に一夜嶽神社の祭礼として行われる「一夜嶽(いちやがだけ)牛突き大会」は,一夜嶽神社の拝殿の向かいにある牛突き場で行われています。それ以外にも,隠岐モーモードームで,1月の第2日曜日に初場所,8月15日に夏場所,11月上旬に上西神社で奉納牛突きが行われます。「地球の歩き方JAPAN・島旅」には年3回の大会とありますが,間違いです。
 こうした本場所は,観光客にはなかな見ることができないので,隠岐モーモードームで,団体ツアーなどの予約がある日のみ,伝統文化として観光牛突きを実施しているということですが,私は,運よく,この日実施されていたので,見ることができました。
 広いドーム型の会場には,まばらな観客がいました。
 開始時間になると,2匹の牛が現れて土俵入りをしたのち,牛突きがはじまりました。取組はおよそ10分程度でしたが,観光牛突きでは勝敗をつけず,引き分けにするということで,時間になったときに終了し,そのあと,牛さんと写真を撮ることができました。

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かっぱ遊覧船を降りて,この後は,午後2時30分からはじまるモーモードームの観光牛突きまでの時間,まだ行っていない島後の見どころをまわることにしました。そのはじめは檀鏡の滝(だんきょうのたたき)でした。
  ・・
その前に私は,寄りたい場所がありました。それはかっぱ遊覧船に乗ったときに紹介された八尾川かっぱ公園でした。ここには,水木しげる作ものもはじめとして,多くのかっぱの像があるのです。
それにしても,どうして隠岐でかっぱなのか?
  ・・・・・・
八尾川は,古くから,増水による氾濫や渇水による水不足,水難事故に人びとは悩まされてきたので,水にまつわる伝承として,河童伝説がうまれました。また,西郷の町には「福河童大明神」という祠がありますが,この祠は,松岡家に代々伝わる河童伝説の河童を神格化させたもので,1962(昭和37)年に作られました。また,「福河童大明神」の入魂式のときに誕生したのが「河童踊り」で,踊りによって「河童祭り」が誕生することになりましたが,徐々に衰退していきました。
こうした経緯から,1999年(平成11年)に生まれたのが「八尾川かっぱ公園」でした。そして,観光事業として,2010年(平成22年)には「かっぱ遊覧船」の運行がはじまりました。
  ・・・・・・

ということで,かっぱ公園に寄ったのち,檀鏡の滝をめざしました。
私は,この滝にずいぶん期待しました。檀鏡の滝は,「古くから「勝ち水」といわれた特別な水」としてこの滝の水を飲むと勝負ごとに勝つといわれているということでした。前日に岩倉の乳房杉に行ったときのように,山の中を進み,やっと着いたと思ったのが駐車場で,滝はそこから30分も歩く必要がありました。いっそやめようかとも思いました。なにせ,ものすごく暑い日でした。それでも,なんとか登り切りましたが,そこで見たのは,古びた社だけで,一体どこに滝があるの? という状況でした。よく見ると,確かに高くそびえた崖の上からちょろちょろと水が流れています。これが滝か?
これこそ,隠岐の三大がっかりの筆頭でした。

かなり落胆しましたが,引き返すことにしました。その道すがら,一応,この島の観光名所らしきところにいくつか寄りました。
まず,島の西側の海岸の那久岬までいきました。そこにも灯台があって,美しい海と海岸線を見ることができました。そこから海岸にそって北に行くと油井前の州があるといことだったのですが,行ってみても単なる漁港でした。
引き返し,亀の原水鳥公園,佐山牛突き場と行きましたが,どこも,何がある,というものでもありませんでした。
いずれにしても,これで,私がレンタカーを借りたときにもらった「隠岐島後ドライビングMAP」にかかれれあったあった見どころのほぼすべては見終えました。
そこで,モーモードームへ行くことにしたのですが,この日は,まだ,昼食をとっていなかったのです。とはいえ,この島で昼食がとれる食堂をさがすのは困難なのです。また,贅沢な話ですが,これまで,連日おいしいもを食べ過ぎていて,何を食べたいということもなくなっていました。そこで,何とか見つけたコンビニで,パンを買いました。この旅で痛感したのは,ご馳走はたまに食べるからこそ,ということでした。

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かっぱ伝説と北前船で栄えた漁師町をまったりと舟遊び。
隠岐の島町では,北前船で栄えた西郷港周辺を遊覧船に乗ってお楽しみいただける八尾川かっぱ遊覧船を運航しております。
  ・・・・・・
ということで,「地球の歩き方JAPAN・島旅」に大きく紹介されていたかっぱ遊覧船を予約したのですが,私以外に参加者いるのかな? と思いました。実際は,私のほかに,家族連れが1組乗りました。また,予約した時点では,一体,どこを遊覧するのかな,と思いました。もちろん,それは,実際に乗ってみれば判明するのですが…。

ところで,話は少し逸れますが…。
今回旅をした隠岐諸島は,とてもいいところでした。食事も宿泊も最高で,私は好印象をもちました。また,観光案内所もとても親切でした。ただし,はじめて旅をするには,よくわからないことが多々あるので,自分で工夫する余地が多々あることを知りました。
本土から乗ってきたフェリーもそのひとつでした。フェリーは予約不要で乗ることができるのですが,雑魚寝の2等客席は早い者勝ちだから,乗船名簿を早く記入して,それを窓口に出してチケットを手に入れることがポイントでした。ぐずぐずしていた私は,フェリーに乗ったとき,すでに2等客席は人が一杯で,居場所を確保するのに苦労しました。
このかっぱ遊覧船については,集合場所である西郷港のポートプラザというものがどこなのながよくわかりませんでした。これは,隠岐ビューポートホテルというちょっと古びたビルの1階に隠岐旅工舎という観光会社のカウンタがあって,そこが集合場所だったのですが,このビル,どこにもポートプラザという表記がなかったのです。どうやら以前は,このビルが隠岐諸島の観光のポータルサイトだったらしいのですが,2階にあった観光案内所が新たにできた隠岐港のフェリーターミナルに移ってしまったことで,わけがわからなくなってしまったようです。
次に,かっぱ遊覧船に乗るためには車をどこに駐車すればいいのかがわからなかったということがありました。かっぱ遊覧船のパンフレットには「駐車場はない」と書かれてあるのですが,これはあまりに不親切です。この島を観光するにはレンタカーが必要なのに,車を停める場所が示されていないなんて! 実際は,西郷港の前に広い駐車場があって,一見有料ですが,1時間以内なら無料だし,それを越えると,はじめの時間から遡って1時間わずか100円で,しかも,1日停めても600円でした。だから,「西郷港の駐車場に停めてください」と書いてあればいいのです。
駐車場には駐車券とかいうものはなく,自由に出入りすることができるようになっていました。駐車場の入口に小屋があって,そこに係の人いて,いちいち車の出入りをチェックしてノートにナンバーを手書きで書き込んでいて,出るときに,無料時間を越えていたら,その係の人にお金を払うという,きわめてのどかなシステムでした。
私は,駐車場の件は,不安だったので,事前に観光案内所で聞いていたから,なんとかなりました。

話をかっぱ遊覧船に戻しまして…。
島後でもっとも古い西郷の町はハ尾川(やびがわ)の中州のようなところにあります。また,西郷の町にある西郷港は東西約5キロメートルに広がっていて,水深も深く,江戸から明治初期にかけて北前船の風待ち港として栄えていたといいます。
かっぱ遊覧船は,西郷港から西郷湾を外洋に向かて進み,少しだけ防波堤を出て,外側から島の側壁を眺めてから,引き返し,八尾川をかっぱの淵の水神様まで上っていってそこで引き返す,というルートでした。
船は外洋に出ると,最後に赤のコントラストが美しい西郷大橋をくぐります。私の宿泊している「隠岐シーサイド岬」や隠岐世界ジオパーク空港は,この西郷港から西郷大橋を渡ったところにあります。再び西郷大橋をくぐり,今度は,八尾川を遡っていきました。
八尾川には用水路があります。これは八尾川の氾濫を防ぐために昭和初期に作られたものです。八尾川では,漁師街の日常風景を見ることができたし,西郷の町並み,島の山々などの光景を眺めながらの楽しい船旅でした。
かっぱの住処があったと伝えられているのがかっぱ淵で,そこには船でしか参ることのできない水神様が祀られています。船はかっぱ渕を通り過ぎると,港町ならではの風情が漂う八尾川に架かっている博愛の精神から私財で建てられた橋である「愛の橋」をくぐり,さらに,遊覧船の乗り場の近くにある1,500年以上前に建てられた由緒正しい水祖神社(みおやじんじゃ)を右手に見て,西郷港に戻ってきました。現在の水祖神社は,以前の水祖神社と天満宮が一緒になったものなので,鳥居がふたつある神社ということでした。

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2023年8月24日。旅の3日目,隠岐諸島の2日目です。
朝,窓を開けると,ちょうど東側に面していて,山の間から,美しい日の出を見ることができました。この静けさがたまらくいいです。そして,朝食。朝食もまた,私の嫌いなバイキングでないところがいいです。旅の食事はこれでなきゃ,という感じです。
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それにしても,私は,バイキングとかいう名前にも抵抗があります。アメリカンコーヒー,ナポリタンスパゲティなどと同じように,だれが名づけたのやら。アイスランドに行ってから増々そう思うようになりました。
バイキングは和製英語。棚に並んだ料理の中から好きなものを自由に選ぶ食べ放題の形式を日本のホテルがはじめたときにこう名づけたことによって,それが転嫁して,食べ放題のことをバイキングというようになったそうです。
英語では,ビュッフェ形式(Buffet)ですが,「取り分けた分の料金を支払うので食べ放題とは異なる」という説明が書かれたブログがあったのですが,アメリカやヨーロッパのホテルの朝食でも日本のバイキング形式のところが結構あって,それらはbreakfast buffetというから,その説明は正しくありません。
海外のホテルのように,広々としたところでゆったりと朝食がとれるのならともかく,狭い場所で,我勝ちに食材に群がって,トレーをもって席を確保して,なんて,旅先でやることではありません。

さて,すでに書いたように,この日は,午前10時からかっぱ遊覧船,午後2時30分から観光牛突きアトラクション,そして,午後5時からロウソク岩遊覧船という予定だったので,自由な時間があまりなさそうなきがしていました。しかし,かっぱ遊覧船は1時間程度,観光牛突きアトラクションは20分程度なので,けっこう時間があることがわかりました。
そこで,この時間を利用して,島後でまだ行っていないところをめぐることにしました。
まず,かっぱ遊覧船の時間まで,旅館の近くを見てまわることにしました。
  ・・
私の宿泊する「隠岐シーサイド岬」のある高台から西郷港の反対に,西郷岬に向かって海岸を時計まわりに走っていくと,隠岐世界ジオパーク空港がありました。
  ・・・・・・
1965年(昭和40年)に開港し,2006年(平成18年)に現在の位置に移転した2,000メートルの滑走路を持つ隠岐世界ジオパーク空港は,隠岐の島町の中心地から南に約3キロメートルほど離れた西郷岬半島の先端部に位置します。年間利用者数は約国内3万人です。
  ・・・・・・
この空港,こじんまりとしていたのですが,アメリカの地方の小さな町の空港のような感じでした。離島に行くには空路が便利だと思うのですが,佐渡島など,なかなか定着しません。それに比べて,壱岐諸島は,それなりの需要があるようで,空港も活気がありました。直接大阪の伊丹空港に行くことができるというのがメリットとして大きいのかもしれません。
隠岐世界ジオパーク空港の先が西郷岬で,そこには1921年(大正10年)に建てられた西郷岬灯台がありました。また,ここは「夕日の見える丘公園」と名づけれらていて,確かに,夕方には美しい夕日が眺められる場所です。また,ここから,かすかにトカゲ岩を見ることもできます。

西郷岬をぐるりと回って,国道485号線まで戻ってきました。
昨日行ってみたけれど閉まっていた玉若酢命神社に隣接する億岐家住宅に行ってみました。社司を代々勤める神主家の億岐家が古代の国造を称し,玉若酢命の末裔とされていて,ここには宝物殿があるのです。
呼び鈴を鳴らすと,家の人が出てきて,宝物殿の中に入れてくれました。そして,ていねいな説明がありました。
宝物殿には,国の重要文化財に指定されたここにしか現存していない隠岐国驛鈴(えきれい)が2個,唐櫃(からびつ),億伎倉印(おきそういん)が展示されていました。
  ・・・・・・
646年(大化2年)の大化の改新の詔に「はじめて京師を修め,畿内の国司,郡司,関塞,斥候,防人,駅馬,伝馬を置く」とあり,駅馬伝馬の制度ができて,5里,約20キロメートルごとに駅が築かれました。驛鈴は,律令時代,駅使が乗用を許された駅馬の匹数を刻んだ鈴で,通行手形として,官吏が公用で中央に行く際に帯同し、身分証明になるものでしたが,億岐家住宅の宝物殿にしか現存していません。現代の駅伝という名称も、駅から駅を移動する際に、駅鈴を人・馬調達のために鳴らした「駅伝制」にちなんで命名されたものです。
唐櫃という大きな箱は,1786年(天明6年)に光格天皇がここの驛鈴を実見した際に,律令制度と天皇制の証に感服し,驛鈴を入れて光格天皇が下賜したもので,御所が焼失して新御所への遷行行列にもこれを加え,朝廷の存在と権威を世に知らしめました。
億伎倉印は,奈良時代,租庸調で徴収した税収品の出納に使用されたもので, 国司が所持し出納の事務処理に関して捺印しました。現存するのは隠岐,駿河,但馬のみということです。
  ・・・・・
隠岐諸島にはすごいものが残っているのだなあと思いました。

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今回の旅で,島後に2泊,島前に2泊したのですが,どちらも,泊った宿も食事も最高で,私が理想としているものでした。今回は,はじめて隠岐諸島へ行ったこともあり,さまざまな見どころをもれなく見ようと思ってあわただしかったこともあり,また,例年とは異なってとても暑かったこともあったので,それが残念でしたが,もっとのんびりとすれば,隠岐諸島には,さらにいい印象をもつことになるでしょう。
これまで行った離島,まず,石垣島は,飲み屋で騒ぐにはいいところなのかもしれませんが,私の好みではありませんでした。佐渡島は宿も食事もよく,とてもいい島でした。でも,思った以上にさびれていました。壱岐島はちょっとがっかりでした。そして,今回の隠岐諸島は,いろいろな意味で最高でした。

「隠岐シーサイド岬」に戻ってきました。食事の前にお風呂に入りました。温泉ではありませんでしたが,こじんまりとしてきれいなお風呂でした。
そして,いよいよ食事です。
この宿は,先代が料理旅館だったところを買ったものということで,料理をウリにしているだけのことがありました。予約をしたとき,わざわざ電話がかかってきて,2泊で異なるメニューを用意します,と女将が言っていたので,楽しみにしていたのですが,この日は隠岐牛が提供されただけでなく,食べきれないほどの新鮮な魚が出ました。

普段お酒を飲まない私ですが,このごろは旅先ではご当地の地酒を冷酒でいただくことにしていて,ここでは隠岐誉を1合呑むことができました。隠岐誉を提供するのは,1972年(昭和47年),菊水,高正宗,沖鶴,初桜,御所の5つの酒造所が合併して設立された島唯一の酒造所である隠岐酒造です。
  ・・・・・・
隠岐の島には,環境省選定「名水百選」に選ばれた湧水が2か所あり,清らかな仕込み水に恵まれています。
冬の日本海を吹き渡るシベリア颪を味方に,最新設備の特定名称酒蔵での徹底した品質管理の中,隠岐酒造は和衷共同を社是として,日本酒と焼酎とリキュールを製造しております。
  ・・・・・・
という酒蔵です。
歳をとってきて,こういう旅の楽しみを知ってしまうと,海外旅行なんてくそくらえ。もう,これ以外のことは考えれられません。すばらしい夕食になりました。食事を終えて,部屋に戻ると,窓からは西郷港の美しい夕景にこころが癒されました。

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午後5時近くになって来たので,ひとまず,今日と明日,2泊する西郷港に近くの「隠岐シーサイド岬」にチェックインすることにしました。ここは,すばらしい食事がウリということで,とても楽しみしていました。思ったより立派な旅館でした。
夕食は午後6時だったので,それまで,再び,近場の観光に出かけることにしました。
西郷港のあたりには,玉若酢命神社,八百杉,億岐家住宅,そして,少し離れて,隠岐国分寺,隠岐モーモードームなどがあって,明日行くことにしていたのですが,とりあえず,様子を見にいくことにしたのです。

玉若酢命神社(たまわかすみこと)は隠岐の総社で「玉若酢命神社の社司を国造と云ふ。渠(かれ)が言に曰く。天武天皇の勅命ありて之を奉ず。」とあります。12代景行天皇が隠岐国に遣した大酢別命の子である玉若酢命を主祭神とし,大己貴命,須佐之男命,稲田姫命,事代主命,須世理姫命を配祀します。玉若酢命は隠岐諸島の開拓にかかわる神と考えられていて,社司を代々勤める神主家の億岐家が古代の国造を称し,玉若酢命の末裔とされます。
入口に大鳥居がありました。進んでいくと,1852年(嘉永5年)に作られた入母屋造茅葺の随神門があって, その向こうに1793年(寛政5年)に建立された切妻造茅葺の本殿があります。
この神社で有名なのは八百杉(やおすぎ)です。八百杉は,樹齢1,000年とも2,000年以上ともいわれ,若狭国からきた八百比丘尼が参拝の記念に植え,800年後の再訪を約束したことから八百杉とよばれるようになったといいます。根元に棲んでいた大蛇が、寝ている間に生きたまま木の中に閉じ込められ、今でも幹に耳をあてると大蛇のいびきが聞こえるという伝承があります。
道路を隔てて,億岐家住宅がありました。億岐家住宅は1801年(享和元年)建立の隠岐地方の代表的な大型民家です。隣に宝物殿が隣接していますが,この日は遅く,閉まっていました。私は,ここに明日,来ることになります。

さらに国道485号線を北に行くと,隠岐の島町役場があり,また,そのあたりには,ヤマダ電機などの家電量販店やスーパーマーケットがあったりして,驚きました。離島とはいえ,石垣島や壱岐島にも,役場の近くには,本土と変わらない大型店があります。
もう少し行くと,隠岐モーモードームがありました。明日,ここで牛突きを見ることにしているので,どんなところかと思ってやってきました。その隣に国分寺がありました。ここは有料の施設なのですが,もう時間が遅かったので,資料館などには入れませんでしたが,境内は自由に見ていいとあったので,中に入りました。
隠岐国分寺東寺真言宗の寺院で,山号は禅尾山,本尊は釈迦如来です。
奈良時代,聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺の後継寺院です。現在の境内と重複して旧国分僧寺があったとされ,また,南東方約500メートルに旧国分尼寺跡がありました。
1332年(元弘2年/正慶元年)の元弘の変に敗れた後醍醐天皇が隠岐に配流されたとき,「増鏡」によると「海づらよりは少し入りたる国分寺といふ寺を,よろしくさまにとりしひておはしまさむ所にさたむ」とあり,この国分寺が行在所といわれます。また,このあと私が行くことになる島前の西ノ島町に黒木御所があり,実際の行在所の所在がどちらだったのか,そのどちらもだったのかは,わからないそうです。おそらく,後世,箔つけのために,「ここにいたんだよ」とでも伝承してきたのでしょう。

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島後1日目に,できるだけ多くの見どころをまわろうと思っていたのですが,来る前は,どのくらいの距離と時間がかかるのか見当がつかなかったので,どれだけ行くことができるのかな,と思っていました。事前に私が思っていためぼしいところを訪れても,まだ,時間に余裕があったので,白島海岸を出たあとは,まず,ローソク島を見にいってから,島の中央を走る唯一の国道485号線を南下して,今日の宿泊先のある西郷港の近くまで戻ることにしました。このルートは,島を北から南まで縦断することになるのですが,島を横断するには40分くらいということもわかってきました。

私は,大した計画も立てずに,単に島後で2泊,島前で2泊することにして,宿泊先を予約したのですが,その後で,島後から島前に渡るフェリーが1日に3便しかないことを知って,そのうちの一番早い朝の便で島後を出発して,島前に到着後,すぐにレンタカーを借りるということにして予約をしました。そこで,実質,島後の観光ができるのは1日目と2日目しかなくなってしまいました。
また,2日目は,午前中にかっぱ遊覧船,午後に,この日しか実施されない隠岐モーモードームでの牛突き,夕方に,この日の予約しかできなかったローソク島遊覧船といった予定ができたことで,島後を自由に観光ができるのが1日目しかなくなってしまいました。これには少し後悔ましたが,実際は,2日目のそれぞれのツアーはさほどの時間がかからなかったので,2日目もけっこうな自由時間ができたのですが,そんなことはこの時点はわかりません。
そこで,当初,島後の一番の見どころであるローソク島の岩は,2日目の遊覧船で見ることができるから1日目は行かなくてもいいか,と思っていたのですが,時間があったので,陸地からどのように見えるのか好奇心が湧いて,行ってみることにしたのです。
しかし,私は島前・西ノ島の摩天崖と島後のローソク島あたりの風景を混同していて,だだっ広く青々と続く大地を歩いて行くと,遠くにローソク島が見えるというイメージだったのです。それが大きな間違いでした。実際は,ローソク島の岩は,木々の間にかろうじて見ることができた展望台と,それよりも東側の久見という漁港の高台から,遠く,単に島から突き出た小さなローソク島の岩を見ることができるだけでした。
そんなローソク島だったのですが,思った以上に小さくて,こりゃ,三大がっかりだ,と思いました。私は次の日にローソク島遊覧船に乗ることになるのですが,その時点でこの認識が一変しました。それもまた,この時点はわからないことでした。

ローソク島に落胆した私は,島後の中央を縦断しながら,島の中央部あたりにある神社をめぐることになります。
927年(延長5年)にまとめられた日本の神社のリストを延喜式神名帳といいます。ここに記載された神社は式内社といって格式が高いとされているのですが,その中でも特別な神社を大社と記載しました。神社が16ある隠岐諸島には,島後の伊勢命神社(いせみこと),水若酢神社(みずわかす),島前・中ノ島にある宇受賀命神社(うつかみこと),島前・西ノ島にある由良比女神社(ゆらひめ)の4つの大社があります。それに比べて,島根県の本土にある大社は出雲大社と松江市にある熊野大社だけなのです。
まず,伊勢命神社に行きました。延喜式神名帳に名神大社と記されるこの神社は伊勢命を主祭神としていて,本殿は隠岐造りです。伊勢命というのは,他にはない隠岐国独自の神だそうです。
伊勢命神社を過ぎたあたりは,山ばかりの島後には珍しく平地が広がっていて,田園があったり牛の放牧を見ることができたりしました。ああ,やっと隠岐らしい景色! とその時は思いました。おそらく多くの人にとっても,私と同じように,隠岐諸島といえば牛の放牧のイメージでしょう。しかし,隠岐らしいそのような景色を多く見ることができるのは,島前の知夫里島なのです。
それを過ぎると,水若酢神社に着きました。水若酢神社は隠岐国の一宮神社で,主祭神は水若酢命で,隠岐国の国土開発と日本海鎮護の任務にあたった神といい伝えられています。この神社の本殿はとりわけ立派でした。何でも隠岐特有の建築様式「隠岐造り」だそうです。
また,西暦偶数年の5月3日には,隠岐三大祭りである「水若酢神社祭礼風流」が行われるほか,毎年11月3日には奉納大会として五箇地区の人々で開催される相撲大会があるということで,境内には立派な土俵がありました。
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隠岐では、神社の屋根の葺き替えや町の記念事業,大型公共事業の竣工を記念して,夜を徹しての「古典相撲」が行われます。もともとは,神への奉納相撲「宮相撲」として行われていました。
大きな大会では,力士が200人以上参加し,割り相撲や5人抜きなど,300番近くの取組が行われ, 最高位が大関です。
役力士のうち,大関,関脇には,栄誉の品として土俵の柱が贈られ,小結には,柱を繋ぐ貫ぬきが贈られるます。
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こうして,国道485号線を下って行ったのですが,まだ時間があったので,島の中央部にある原田という集落で左折して,県道316号線を北上し,かぶら杉を見にいくことにしました。かぶら杉は,先に書いた,岩倉の乳房杉,玉若酢命神社の八百杉と並ぶ「隠岐の三大杉」のひとつです。しかし,岩倉の乳房杉とは異なって,山の中を狭い道を延々と走る必要もなく,県道316号線の際にありました。駐車できるスペースを見つけて車を停めて,しばし,かぶら杉を見ました。
かぶら杉の由来は,その樹形が鏑矢の先に似ているから,とか,大きな株が目立つからといった説があるそうです。1本の株が根元から複数の幹に分かれていて,幹は現在では6本が残っていますが,かつては12本あったということです。樹齢は600年,幹囲は約9.3メートルあります。

これだけまわっても,まだ時間があったので,隠岐島の西海岸にある屋那の松原と舟小屋群まで遠まわりして行ってくることにしました。
屋那の松原は,若狭国から隠岐に来た八百比丘尼(やおびくに)が一晩で植えたと伝えられているもの,その近くに20棟ほど残された舟小屋は,杉皮葺きの屋根に浜辺の石が乗せられた舟を格納する建物で,木造平屋で杉皮葺きの舟小屋が20棟,100メートルにわたって連なっていて,なかなか風情がありました。
なお,八百比丘尼というのは,不老不死になれるという人魚の肉を食した若狭の漁師の娘が,不老不死ゆえに家族友人に先立たれ,永遠にその最期を見なければならない運命を背負うという,日本の伝説上の比丘尼(尼僧)とされます。

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島後は丸いので,海岸線の風景とともに,島の内部にも見どころがいくつかあるのですが,どこもけっこうな山の中だから,狭い道を5キロメートルほど走っていったり,2キロメートルくらい歩いて行かないと着かないところなので,たいへんでした。また,豪雨でもあると,道路が不通になってしまい,情報がないと,とても危険です。私は,レンタカーを借りたときに,どの道路は走っていけないかということを聞いていたので助かりました。

浄土ヶ浜の次に向かったのが,岩倉の乳房杉でした。
  ・・・・・・
「隠岐の島町三大杉」とは,岩倉の乳房杉,かぶら杉,玉若酢命神社の八百杉ですが,岩倉の乳房杉がその中で,最も奥地,隠岐諸島最高峰・標高608メートルの大満寺山の麓にひっそり立つ奇杉で,幹囲11メートル,主幹は15本に分かれていて,大小24個の乳房状の根が垂れ下がっている,樹齢約800年,樹高約30メートルの巨木で,地元ではこの乳房杉を御神木とし,母乳の神として崇拝して,毎年4月23日に供え物を運んで祭礼を行っているそうです。
  ・・・・・・
ネット上には,2020年8月7日の大雨で土砂崩が発生し,アクセスする道路が車両通行止めになってしまいましたが,北側の山道より歩いて見にいくことは可能で,徒歩だと1時間弱で到達できるとありましたが,私の行ったときは,幸い,道路も開通していました。人影もなく,歩ていくことができる距離とも思えませんでした。

次に行ったのがトカゲ岩でしたが,ここに行くには,再び浄土ヶ浜まで戻って,岩倉の乳房杉とは1本北の道を,これもまた,同じ程度の距離を山の中に進む必要がありました。なんともはや,大変な島です。
  ・・・・・・
トカゲ岩は崖を垂直に登るトカゲのような見た目をした奇岩で,およそ26メートルの高さがあります。トカゲ岩を構成する岩石は、約550万年前の火砕岩に割り込んで固結した粗面岩マグマで,この部分は周りの火砕岩よりも硬く風化されにくかったため,トカゲのような形として取り残されたと考えられています。
  ・・・・・・
駐車場があったので,車を停めて,そこから結構登ると,トカゲ岩展望台がありました。展望台からずいぶん遠いところにトカゲ岩がありました。何だこれだけのことか! と思うか,すごい! と思うかは人次第です。
トカゲ岩,もっと近づくには,ここからさらに40分程度の登山が必要で,これを登ってきたという人のブログがありました。私は当然そんなことはしないので,これで引き上げることにしました。

さて,再び浄土ヶ浜に戻って,今度は海岸線にそって,反時計回りに北上しました。島後の最北端にあるのが白島海岸で,そこを目指します。
駐車場に車を停めて少し歩くと白島展望台に着きました。
  ・・・・・・
島後の北側に突き出た白島崎と,沖ノ島,白島,松島,小白島などの周辺の島々を総称して白島海岸といいます。白島崎は高さ50メートルから200メートルの断崖が続くダイナミックな海岸美が美しい場所です。一帯の海岸の岩肌はアルカリ流紋岩といって,ナトリウムやカリウムなどのアルカリ元素を多く含む流紋岩がが風化し白みを帯びているので,これが白島崎の名の由来です。
白島海岸は,アルカリ流紋岩のほかに,沖ノ島,白島を形成する粗面岩,帆掛島,雷島を生んだ玄武岩と3種の火山岩で成り立っています。
また,沖に浮かぶ沖ノ島は天然記念物オオミズナギドリの貴重な繁殖地となっています。
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散策路を歩いていると,アジサイが咲いていました。なぜ今? と思ったら,ちゃんと理由がありました。本来は7月には枯れるアジサイの花が11月ごろまで咲いているのは,対馬暖流の影響を受けるからだそうです。

ところで,帰ってから知ったのですが,白島海岸にも遊覧船があるらしいのです。しかし,そんなことが書かれたものを見ませんでした。何でも,島後は私も翌日乗ることになるローソク島遊覧船に客が取られてしまっているから,という話なのですが,私が思うに,宣伝不足です。
島前に比べて,島後は,自然の雄大さを知ることができる場所が少なく,島後のみを観光する人には隠岐らしさがわからないのです。また,団体ツアーでは訪れる場所があまりないのです。
ローソク島遊覧船は夕方だけなので,これと併せて,お昼間の白島海岸遊覧船をセットにすればいいのに,と思いますが,どうも,隠岐は,観光資源がたくさんあるのに,それらを,力を合わせて2のものを3や4にすることができていないと感じます。

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では,今日からは話を元に戻しまして,旅の2日目です。
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2023年8月23日,2日目。
早朝,松江駅前の東横インを,朝食前にチェックアウトしました。朝食時間の前でもコーピーとパンは食べられます。
以前書いたことがあるのですが,私は東横インの朝食サービスがきらいです。その分,宿泊代を500円でも下げて,朝食は有料にするべきだと思っています。この日も,朝食の時間になると,宿泊客が1階の食堂にずらりと列を作っていました。旅というのは,乗り物も食事も,快適であるべきで,朝から混雑しているのは論外です。
この日は,松江駅前から連絡バスにのって七類港まで行って,午前9時発のフェリー「おき」に乗ります。いよいよ隠岐諸島に向けて出発するのですが,隠岐諸島を旅するのは,パズルのようなものでした。今回の私は「地球の歩き方JAPAN・島旅」というガイドブックを参考にしているのですが,知りたいことが書いてなかったり,間違っていたりしました。そこで,私の経験をもとに,実際はどうすればいいのかを順に書いていきたいと思います。

これも,すでに書いたことですが,隠岐諸島は,これまでに行った離島である佐渡島や壱岐島とは違って,ジェットフォイルの便の時間が悪く,午前9時発のフェリーに乗る必要があるので,松江市内に前泊しました。また,フェリーはジェットフォイルとは違い,事前の予約は必要がなく,いつでも乗れますが,ガイドブックにはこういう情報が欠けているのです。私は乗れなかったらどうしよう,と心配していました。
フェリーには雑魚寝の2等から,特2等,1等,特等,特別室とあるのですが,2等は,混雑する時期は場所を確保することが大変だそうで,こういうときは,お金を奮発して上位の客室をとればいいとガイドブックにはありました。2等では場所取りが早い者勝ちなので,はやく船内に入ることと,壁が背になるところを陣取ることがポイントです。
毛布が有料で借りられます。また,直方体の形をした枕があります。わずが3時間足らずなので,本を読んだり,音楽を聴いたり,仮眠していれば,時間がつぶせます。私は,詰将棋をコピーして持っていたので,4,5問解いていたらあっという間でした。こういうとき,将棋の趣味は助かります。

乗船券の購入は,七類港で連絡バスを降りてターミナルに入ると,乗船名簿(A6判の単なる用紙)を記載する机があるので,そこで乗るフェリーの名前と客室のランク,氏名と住所を記入して窓口で提出します。乗船券の購入はクレジットカードが使えます。ガイドブックには,隠岐諸島では現金しか使えないところが多い,とあったので,ずいぶん多くの現金を持参しましたが,実際は,ほぼカードやプリペイで事足りたので,現金はほとんど必要がありませんでした。また,もし必要なら,島には郵便がたくさんありました。現金など危険なので持っていないにこしたことはありません。
はじめて乗る私は,混雑する船室がいやなので,来る前は,上位の客室にしようと思っていました。実は,事前に,今回の旅では,ウェブで「おき得乗船券」というものを登録してありました。これは,2023年度に実施されているもので,隠岐諸島に泊ることと島でなにがしかの体験をひとつ以上すると,帰りのフェリーが無料になるという企画です。乗船名簿を出す際に「おき得乗船券」に登録してあると言うと,宿泊先と島での体験のときにスタンプを押してくれる用紙をくれました。帰りにこれを出せば,帰りのフェリーは無料になると言われました。しかし,この企画に参加すると,2等しか利用できないといわれたので,しかたなく2等客室にしたのですが,これで十分でした。

フェリーに乗り込むと船員さんがキャリーバッグを置く場所を教えてくれるのでそこにおいて,適当な場所に陣取りました。これで出航です。
ダラダラと過ごすうち,午前11時25分,島後の西郷港に到着しました。
島後でレンタカーの予約がしてありました。フェリーから降りて,ターミナルの階段を降りたところで,レンタカー会社の人が待っていたので,送迎車に乗り込むと,レンタカー会社のオフィスまで5分程度で着きました。そこで手続きをして,いよいよ出発です。島後にはレンタカー会社がいくつかあるのですが,ガイドブックには,車の台数が限られているので事前の予約が必要とありましたが,真偽は不明です。
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私は,島後に2泊します。
隠岐諸島の観光で,予約が必要だったのは,まずはロウソク島遊覧船でした。はじめはこの日8月23日が希望だったのですが,すでに満員だったので,やむを得ず翌日の8月24日にしました。遊覧船は午後5時過ぎの出航です。これは,ロウソクの形をした岩に沈む夕日が重なってロウソクの炎のように見られるというものですが,見られるかどうかは天気次第です。また,隠岐モーモードームというところで観光牛突きのアトラクションがあって,これも見たいと思いました。これは予約不要なのですが,開催日が限られていました。しかし,奇跡的に8月24日の午後2時30分に実施されることがわかりました。いつものように,運がいいです。さらに,かっぱ遊覧船という島後のまわりを遊覧する船があって,これは予約が必要だったので,これも8月24日の午前10時に予約しました。
というように,翌日8月24日の予定が埋まっていったので,この日,8月23日は予定がなく,この日に島の見どころを反時計回りに可能な限り多くまわることしていました。

まず,目指したのが,佐々木家住宅,そして,浄土ケ浦海岸でした。なにせ,土地勘がなく,この時点では,どのくらい時間がかかるか見当がつきません。まあ,いつものこと,30分もすればわかってくることでしょう。
佐々木家住宅はすぐに着きました。
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佐々木家の位置する隠岐島後の東海岸の旧釜村は半農半漁の集落でした。佐々木家は、代々釜村の庄屋をつとめた家です。主屋は1836年(天保7年)の建築で,隠岐地方の民家建築としては規模が大きく,杉皮葺の屋根を残していることも珍しいものです。
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という,古い民家が見学できました。
そこから海岸線に沿って走って,浄土ケ浦海岸へ向かったのですが,途中で昼食でも,という当てがはずれ,食堂の1軒もありません。そのうち,浄土ケ浜に着いてしまいました。
幸いなことに,ここに1軒の食堂「浄土ケ浦お食事処」がありました。大変賑わっていましたが,なんとか座れました。浄土ケ浦海岸を見るまえに,私もここで「浄土ケ浜気まぐれ定食」をいただきました。すごいご馳走で驚きましたが,実は,隠岐諸島では,いつもこんなご馳走が食べられたのです。なんと素敵な島なのでしょう! この日は水曜日。ここは月曜日と火曜日がお休みらしいので,これもまたツイていました。このあたり,ここ以外に食事をとるところはありませんでした。
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侵食された浄土ヶ浦の海岸線では,約2,600万年前に日本海がまだ湖だったころの地層を見ることができます。透き通るような海と大小様々な小島を有する,,,たぐいまれな景観で,民話によると,一休和尚がここを訪れた際に,まるで浄土のようだと狂歌を詠んだと伝わっています。
 釣りに出て 身はさぶ島のやれ衣 布施にきて 見れば浄土なりけり
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「古事記」に描かれた国譲りの舞台である稲佐の浜は,もっと幻想的なところかと思いましたが,単なる砂浜でした。また,稲佐の浜から南へ続く島根半島西部の海岸は薗の長浜とよばれ,「出雲国風土記」に記載された国引き神話においては、島根半島と佐比売山とをつなぐ綱であるとされているところです。
浜辺の奥に,大国主(おおくにぬし)と建御雷(たけみかづち)が国譲りの交渉をしたという屏風岩があり,海岸の南には,国引きのとき島を結ぶ綱になったという薗の長浜が続いています。高天原からの使者として派遣された武甕槌(たけみかづち)は,屏風岩を背にして大国主(おおくにぬし)と国譲りの話し合いをされたと伝えられています。
稲佐の浜に,一際目立つ丸い弁天島があります。かつては沖ノ御前、沖ノ島とよばれ,神仏習合のころには弁財天が祀られていましたが,明治のころから豊玉毘古(とよたまひこ)が祀られています。

ここから1キロメートルほどで出雲大社ですが,その途中に,出雲阿国(いずものおくに)の墓がありました。
出雲大社は有名な観光地なので,この暑さのなかでも,多くの観光客が来ていたのですが,そのだれもが,出雲阿国の墓は素通りしていました。
私は,出雲阿国の名前は学校の日本史で習って知っていたので,興味が湧いて行ってみました。
今回,改めて出雲阿国についてネットで調べてみると,出てくるのは,私の知りたい出雲阿国ではなく,出雲阿国という芸名のお笑いタレントばかりでであるのに驚きました。こんな芸人がいるんだと思いました。これでは織田信長という名前のタレントがいるようなものです。
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出雲阿国は,1572年(元亀3年)の戦国時代に生まれ,没年不明の芸能者です。
ややこ踊り(中世末期から近世初頭に行われた少女による小歌踊り)を基にしてかぶき踊りを創始したことで知られていて,これが,現在の大歌舞伎とチンドン屋の元祖とされます。
出雲阿国が演じていたものは茶屋遊びを描いたエロティックなもので,遊女ではなかったといわれていますが,今でいうストリップのようなものだったのかもしれません。
出雲阿国は,出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘で,出雲大社の神前巫女となり,文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされているそうです。当初は四条河原の仮設小屋で興業を行っていましたが,やがて,北野天満宮に定舞台を張るに至ったそうです。
没年は,1613年(慶長18年),1644年(正保元年),1658年(万治元年)など諸説あり,また,出雲に戻り尼になったという伝承もあるので,出雲大社近くに墓があるのです。
また,京都大徳寺の三玄院にも阿国のものといわれる墓があって,夫であった名古屋山三の墓と共に並んで供養されているそうです。
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出雲大社は大国主(おおくにぬし)を祀る出雲国一宮で,旧社格は官幣大社です。 古代,杵築大社(きずきたいしゃ)とよばれていましたが,1871年(明治4年)に出雲大社と改称しました。
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大国主(おおくにぬし)は国譲りに応じる条件として「我が住処を皇孫の住処の様に太く深い柱で千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければそこに隠れておりましょう」と述べ,これに従って出雲の「多芸志の浜」(たぎしのはま)に「天之御舎」(あめのみあらか)が造られました。
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現在の10月にあたる神無月には全国から八百万の神々が集まり神議が行われることになっていて,そのような神々が集まるという信仰から,江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神として現れるほどに全国的な信仰を集めるようになりました。

本殿から反時計回りに回って行くと,真後ろに須佐之男(すさのお)を祀る素鵞社(そがのやしろ)があります。また,本殿を囲む玉垣の西側に,本殿西遥拝場があります。
実は,本殿の内部は,中央に心御柱(しんのみはしら)という太柱があり,この心御柱を中心に時計回りに回って神座に至る独特な構造になっています。その結果,本殿内の神座は実は正面ではなく西を向いているそうです。つまり,本殿の中で,大国主(おおくにぬし)は西を向いているのです。そこで,大国主(おおくにぬし)の正面に向かってお参りできるのが,本殿西遥拝場なのです。
 また,出雲大社で有名なのは大しめ縄ですが,この大しめ縄は,拝殿と神楽殿の2カ所にあります。
中でも巨大なのは神楽殿のほうです。神楽殿の大しめ縄は長さ約13メートル,重さ5.2トンあります。出雲大社では,古くから向かって左方を上位,右方を下位とする習わしがあるため,しめ縄のかけ方が一般的な神社と逆になっています。現在のしめ縄は2018年に6年ぶりにかけ替えられたものです。

古代には48メートルの高さを誇ったといわれる出雲大社本殿です。このことは,1993年,井沢元彦さんが書いた 「逆説の日本史 1・古代黎明編」にあって,それを読んだ私はびっくりしました。
もし,この高さが本当だったら,本殿を支えるには巨大な柱が必要だったわけですが,それが描かれた鎌倉時代から室町時代につくられた本殿の平面図「金輪御造営差図」(かなわのごぞうえいさしず)は,長らく図面としての信憑性に疑問が持たれてきました。しかし,「逆説の日本史 1・古代黎明編」が出版された7年後の2000年,境内の地下1.3メートルから大型の本殿遺構が見つかり,柱材が出土しました。柱材は杉の大材3本を束ねてひとつの柱としたもので,本殿を構成する9か所のうち3か所で発掘が確認されました。その中心に位置するのが心御柱,正面中央に位置するのが宇豆柱(うずばしら)で,「金輪御造営差図」と類似していました。
この柱は,鎌倉時代前半の1248年(宝治2年)に造営された本殿を支えていた柱である可能性が極めて高くなったのです。ただし,私は,それが古代の出雲大社だと思っていたのですが,出土されたものは,鎌倉時代の出雲大社でした。それ以前にどうなっていたのかはわからないそうです。
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この心御柱の実物が,出雲大社の四の鳥居の先にある宝物館に公開されていました。宝物殿は1階は神殿の造りや歴史などの解説が展示してあり,2階は豊臣秀頼による国宝棟札や三十六歌人の図額などが展示してありました。
また,境内の東側に建つ古代出雲歴史博物館には,心御柱のレプリカと宇豆柱の実物が展示してありました。

この古代出雲歴史博物館は非常に立派なものでしたが,それよりも私が最も興味をもったのは,出雲大社とは直接の関係がないものの,ものすごい数の銅鐸と,「卑弥呼の鏡」ともいわれる「景初三年」の銘のある三角縁神獣鏡の実物でした。「景初三年」は西暦239年のことで,邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に使いを送り、魏の皇帝から銅鏡百枚などを下賜された年です。
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「三角縁」とは,鏡の縁の部分の「断面の形」が三角に尖っていることであり,「神獣」は中国の神仙(しんせん)と獅子(しし)のような霊獣(れいじゅう)とが交互に配置されていることです。鏡は,直径が21センチから23センチほどであり,真ん中にある鈕(ちゅう)が大きく丸く高く,周囲には年号が書かれているものもあります。
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三角縁神獣鏡は,これまでに日本で500面以上が見つかていますが,「景初三年」の銘のある銅鏡は,国内では大阪府の和泉黄金塚古墳と島根県雲南市の神原神社古墳から出土した2面しかなく,出雲歴史博物館に展示されているのは神原神社古墳から出土したものです。
三角縁神獣鏡は中国大陸や朝鮮半島では見つかっていないことから,この鏡は「いったいどこで作られたのか」が謎で,「魏志倭人伝」に記された,邪馬台国の卑弥呼の使者が魏の皇帝から贈られた「銅鏡百枚」,つまり「卑弥呼の鏡」であるとか,中国から倭に渡ってきた鏡作工人たちがどこかで、持ってきた原材料をもとに製作したなどの説があります。

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美保神社を出て,今度は一路西に,宍道湖の北畔を出雲大社をめざして走ることにしました。この日で,宍道湖と中海の外周を1周することになるのです。
46年前,大学生だった私は,山陰地方を公共交通を使って旅しました。松江市に宿泊したとき,翌日は,一畑電鉄で大社駅まで行くことにしていたのですが,松江市のユースホステルで出会ったライダーからオートバイのサイドカーに乗らないかと誘われて,秋晴れの中,さっそうとこの道を走ったのでした。
今回,再び,今度は車でこの道を走っていて,何と偶然,サイドカーをつけたオートバイを見つけて驚きました。今どき,サイドカーをつけたオートバイなんてめったに見ません。運転していたのは初老の人だったので,ひょっとしたら46年前のあの人だったのか? 何だか過去に戻ったかのような,テレビドラマを見ているかのような不思議な気がしました。

さて,天気もよく,快調に走っていくと,1時間ほどで出雲大社に着きましたが,私がまず行きたかったのは,出雲大社を越えたさらに向こう,日御崎(ひのみさき)と稲佐の浜だったので,出雲大社はそのまま通過しました。
日御崎は出雲大社からは思ったよりも遠かったのですが,走っていくと,やがて,日御崎神社を越え,その向こうに,日御碕灯台が見えてきました。広い駐車場があったので車を停めて,日御碕灯台へ行きました。
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日御碕の突端に立つ日御碕灯台は,石造灯台としては日本一の灯塔の高さを誇り,地上から43.65メートルあります。 世界の灯台100選や日本の灯台50選に選ばれた日本を代表する灯台で,歴史的文化財的価値が高いため,Aランクの保存灯台となっています。また,全国に5箇所しかない最大の第1等レンズを使用した第1等灯台でもあります。
1900年(明治33年)に着工し,1903年(明治36年)に初点灯しました。
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日御碕灯台は現役ですが,最上部まで上ることができました。
150段ほどのらせん状の階段をのぼるのはたいへんで,汗もかきましたが,最上部からは美しい日本海の景色を一望することができました。
日御碕灯台をおりて,昼食をとることにしました。店先でイカを焼いているのに惹かれて,その店に入りました。クーラーがよく効いていてほっと一息つけしました。ここで,焼きイカ丼を食べました。

再び車に乗って少し戻ると,日御碕神社に着きました。
日御碕神社は,出雲大社の「祖神」(おやがみ)として,「出雲国風土記」に「美佐伎社」と記されている,出雲大社に継ぐ大社です。
神社は下の宮「日沉宮」(ひしずみのみや)と上の宮「神の宮」の上下二社からなり,両本社を総称して「日御碕神社」とよばれます。
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楼門をくぐり,右手の小高いところにあるのが「神の宮」で,須佐之男(すさのお)が祀られています。 出雲の国造りをした須佐之男(すさのお)が,根の堅州国(黄泉国)より「吾が神魂はこの柏葉の止まる所に住まん」と柏の葉を投げて占ったところ,柏葉は風に舞いこの神社背後の「隠ヶ丘」に止まったことから,須佐之男(すさのお)の5世の孫であり,出雲大社に祀られる大国主の父・葺根(ふきね)がこの地に須佐之男(すさのお)を奉斎したといわれています。
現在の社殿は徳川家光の命で松江藩主・京極忠高の手によって1634年(寛永11年)に造営がはじまり,その10年後,当時の藩主・松平直政の代で竣工した日光東照宮を模した権現造りです。
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楼門の正面には下の宮「日沉宮」があり,須佐之男(すさのお)の姉・天照(あまてらす)が祀られています。「「日沉宮」は,伊勢大神宮は日の本の昼の守り,出雲の日御碕清江の浜に日沉宮を建て日の本の夜を守らん」との神勅により祀ったのがはじまりといわれています。
当初は「清江の浜」の「経島」で天照(あまてらす)を奉斎していましたが,その後葺根(ふきね)が経島に行った際に天照(あまてらす)が降臨し,「我天下の蒼生(=国民)を恵まむ,汝速かに我を祀れ」との神勅があり,現在の地に祀られたということです。

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出雲縁結び空港から東に,美しい宍道湖の景色を左手に見ながら国道9号線を走っていくと,松江市内に入ります。まず私が目指したのは,美保神社でした。美保神社は,美保関という島根県の東端にあって,ここに行くには,中海にある大根島,その次の江島を通り,ダイハツ・タントカスタムのCMで登場したべた踏み坂とよばれる,江島大橋を渡っていきます。私はこの橋をぜひ渡ってみたかったのです。
コンクリートに鉄筋を入れることで頑丈にしたものがRC(Reinforced Concrete)ですが,大きな力を加えられるとひび割れが生じてしまうので,RCよりもさらに頑強なコンクリートとして考え出されたのがPC(Prestressed Concrete)です。また,橋台と橋桁が一体化して繋がっているのがラーメン橋という種類の橋で,その中でも,橋桁を支える橋台が背面から土圧を受けるようになっている橋をPCラーメン橋といいます。江島大橋は日本一のPCラーメン橋で,全長1,446.2メートル,5千トン級の船が下を通れるように,最上部は高さ約45メートルに達します。
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江島大橋を渡ると鳥取県で,境港市になります。
さらに国道431号線を北上して,今度は,境水道を,長さ709メートル,高さ40 メートルの境水道大橋で渡ると再び島根県で,渡り終えたところから右にまわって「しおかぜライン」という県道2号線を東に行くと,右手に真っ青な海が続き,対岸に大山が眺められます。私は46年前,この大山に登りました。
途中で,注連縄がかかった男女岩がありました。男女岩は,その形から子宝に恵まれるとの俗信が生まれ,今や地元での縁結びの聖地です。また,夜明けのころ,空が徐々に赤く染まり岩の向こう大山の方角から日が昇る様子が幻想的なのだそうです。

やがて,美保神社に到着しました。
美保神社は,平安時代の延喜式の中の神名帳(しんめいちょう)にのっている式内社です。えびす神としての商売繁盛の神徳のほか,漁業,海運の神,田の虫除けの神として信仰を集めています。また,「鳴り物」の神様として楽器の奉納も多いそうです。
社殿の右殿に大国主の子の事代主(ことしろぬし),左殿に大国主(おおくにぬし)の后の三穂津姫命(みほつひめ)を祀ります。事代主(ことしろぬし)は神屋楯比売神(かむやたてひめ)と大国主(おおくにぬし)との間の子供なので,三穂津姫命(みほつひめ)は義理の母にあたります。
創建の由緒は不詳ですが,8世紀に編纂された「出雲国風土記」の神社台帳にすでに記載されているということです。近世になって「出雲大社だけでは片詣り」といわれるようになり,参拝者が増えたそうで,出雲大社とあわせて「出雲のえびす・だいこく」と総称されています。
本殿は,1800年(寛政12年)の火災ののち,1813年(文化10年)に再建されたもので,大社造の左右二殿連棟の特殊な形式で,「美保造」または「比翼大社造」といわれます。

美保神社に祀られているのは,大国主(おおくにぬし)の子・事代主(ことしろぬし)ですが,事代主(ことしろぬし)はえびす様だそうです。どうしてなのだろう?
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えびすの最初の記録は,平安時代末期の「伊呂波字類抄」ということです。
本来,えびすは,海の向こうからやってくるクジラやジンベイザメが神格化されたものだそうです。このような海洋生物が出現すると豊漁をもたらすという考えからえびすとよばれ,漁業神とされました。やがて,中世に商業が発展するにつれて,えびすは商売繁盛の神としての性格が現れ,七福神の1柱とされました。
しかし,えびすはもともとは記紀に出てこない神であるので,古くから,(箔づけの)根拠を与えるために,記紀の中に該当する神を探しだそうと考えられてきました。そこで見つけ出したのが,「古事記」で,生まれつき体が異常に柔らかかったことから蛭のような子「ひるこ」と名づけられた伊邪那岐(いざなき)と伊邪那美(いざなみ)のはじめての子でした。
「ひるこ」は3歳になっても歩けなかったことから、葦の舟で海に流しまいました。流された「ひるこ」がどこかの地に漂着したという信仰が生まれ,ひるこが海からやってくる姿が海の神であるえびすの姿と一致したため,ひるこ,蛭のような子,つまり,蛭子とえびすを同一視するようになったのです。
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これとは別に,えびすを事代主(ことしろぬし)だとする神社の代表格が今宮戎神社でした。
「古事記」の国譲りで,大国主(おおくにぬし)の使者が事代主(ことしろぬし)に天津からの国譲りの要請を受諾するかを尋ねるために訪れたとき,事代主(ことしろぬし)が釣りをしていたとされることと,えびすが海の神であることが結びつき,江戸時代になって両者を同一視するようになりました。
七福神の絵図でえびすが釣竿を持ち鯛を釣り上げた姿で描かれるのは,この事代主(ことしろぬし)の伝承に基づくものです。また,大国主(おおくにぬし)がだいこくで,事代主(ことしろぬし)がえびすなら,えびすとだいこくは親子ともされます。
一方,えびす信仰が生まれる以前から事代主(ことしろぬし)を祀っていた神社が美保神社でした。そして,後世,事代主(ことしろぬし)がえびすと同一視されるようになったために,美保神社ではえびすを祀るようになったのです。

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これまで,2023年8月22日に松江市を観光したことについて書いてきました。翌,8月23日から8月27日まで,4泊5日で隠岐諸島へ行ったのですが,そのことは後回しにして,今日から,8月28日に出雲を観光したことを先に書くことにします。
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2023年8月28日,7日目。
隠岐諸島から8月27日にフェリーで境港に帰ってきた私は,再び,松江駅前の東横インに宿泊し,翌朝,早々にホテルをチェックアウトして,接続バスで松江駅前から出雲縁結び空港に向かいました。
チェックアウトするとき,この日もまた,東横インの1階では朝食をとろうと,宿泊者がずらっと列を作っていました。本当に,これはなんとかならないものでしょうか? 朝からこんなことでは楽しくありません。
私は前日の夜,コンビニで朝食を買っておいたので,すでに部屋で食べてありました。松江駅前には朝から開いているファーストフード店が1軒もないのです。
この日の夜,午後6時20分発のFDA で県営名古屋空港へ帰るので,それまで,出雲大社とその周辺の観光地を巡ることにしました。はじめは列車を使おうと思ったのですが,とても不便そうだったので,レンタカーを借りることにしました。レンタカーは松江市内で借りて出雲縁結び空港で返してもよかったのですが,割増になるし,めんどうなので,出雲縁結び空港で借りて返すことにしたので,まず松江駅から空港連絡バスに乗ったのです。

46年前に来たとき,私は,出雲大社には行きましたが,美保神社,日御崎神社(ひのみさきじんじゃ),稲佐の浜などには行く機会がありませんでした。そこで,いつか行ってみたいとずっと思っていたのが実現しました。
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「古事記」によると,出雲大社は須佐之男(すさのお)の6世孫である大国主(おおくにぬし)が祀られた神社,美保神社は大国主(おおくにぬし)の子である事大主(ことしろぬし)が祀られた神社,日御崎神社は天照(あまてらす)と須佐之男(すさのお)の姉弟が祀られた神社,そして,稲佐の浜は大国主(おおくにぬし)と建御雷(たけみかづち)が国譲りの交渉をした場。
  ・・・・・・
ということだそうですが,所詮は物語。とはいえ,これではわけがわかりません。また,「古事記」や「日本書紀」,さらにはほぼ完本の形で今も残る「出雲風土記」などの記述には,異なるところが多々あるので混乱します。そこで,私がおもしろく観光するために,ここでは「古事記」だけをもとにして,大雑把に物語を要約して,理解することにしました。

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■天地のはじまり
高天原には,まず,高御産巣日(たかみむすび)など5柱の天つ神,次に,2柱の神が単独で出現したあと,男女の4ペアの神が出現し,最後に,伊耶那岐神(いざなき)と伊耶那美神(いざなみ)のペアの神が出現しました。
■国生み
天つ神から沼矛(ぬぼこ)を授かった伊耶那岐(いざなき)と伊耶那美(いざなみ)は,浮き橋に立って掻き回してできた淤能碁呂(おのころ)島に降って伊耶那美(いざなみ)が伊耶那岐(いざなき)に求婚しました。生まれた子は体が異常に柔らかかったので、蛭のような子「ひるこ」と名づけましたが,3歳になっても歩けなかったことから、葦の舟で海に流してしまいました。
改めて,伊耶那岐(いざなき)から求婚すると,今度は,伊耶那美(いざなみ)は,淡路島,四国,隠岐島,九州,壱岐島,対馬,佐渡島,本州を生みました。
さらに,さまざまな神々を生んだのち,火の神である火之夜藝速男(ほのやぎはやを)を生んだことで,死んでしまいました。伊耶那岐(いざなき)は怒って,火之夜藝速男(ほのやぎはやを)の首を尾羽張(おはばり)で切り落とした際,尾羽張の根元についた血が岩に飛び散って,建御雷(たけみかづち)が生まれました。
■黄泉国(よもつくに)
黄泉国に行ってしまった伊耶那美(いざなみ)を連れ戻すため,伊耶那岐(いざなき)は黄泉国へと出向き,伊耶那美(いざなみ)に,戻るように説得しました。
伊耶那美(いざなみ)は,黄泉国の神と相談してくるからその間決して中を覗いてはならないと言って,伊耶那岐(いざなき)を待たせました。しかし, 待ちきれなくなった伊耶那岐(いざなき)が中を覗いてしまうと,蛆がたかり,躰の八箇所に恐ろしい雷神を生じている伊耶那美(いざなみ)の姿があったので,驚き恐れ逃げ出しました。
■須佐之男
黄泉国から逃げ帰った伊耶那岐(いざなき)が禊をすると,左の目から天照(あまてらす)が,右の目から月読(つくよみ)が,鼻から須佐之男(すさのお)が出現しました。
伊耶那岐(いざなき)は,天照(あまてらす)に高天原を,月読(つくよみ)に夜の食国(おすくに)を,須佐之男(すさのお)に海原を統治するように命じましたが,須佐之男(すさのお)は自分は亡き母(伊耶那美(いざなみ)のことだと思われる)のいるもとに行きたいと言って泣いてばかりいたので,伊耶那岐(いざなき)の怒りを買い,追放されてしまいました。
■石屋
追放された須佐之男(すさのお)が姉・天照(あまてらす)のいる高天原にやってきたとき,「弟はこの国を奪いに来たに違いない」と疑ったので,須佐之男(すさのお)は,自らの潔白を証明するために「宇気比」(うけひ=占い)をして子神を生もうと提案しました。
お互いの持ち物である須佐之男(すさのお)の剣と、天照(あまてらす)の玉を交換し,口に含んではき出した息の中から,須佐之男(すさのお)は忍穂耳(おしほみみ)をはじめとして五柱の男神を,天照(あまてらす)は三柱の女神を出現させました。須佐之男(すさのお)は,自分が持っていた剣から女神が生まれたのだから,自分の勝ちであると勝利宣言をしてあばれたので,天照(あまてらす)は,とうとう石屋(いわや)に閉じこもってしまうと,高天原も地上世界も真っ暗闇になってしまいました。
このとき,伊斯許理度売(いしこりどめ)が作った鏡が,天照(あまてらす)が石屋を細く開けたときに天照(あまてらす)自身を映し,興味をもたせて外に引き出したので,再び世は明るくなりました。これが今日伝わる天皇家の3種の神器のひとつである「八咫鏡」(やたのかがみ)です。また,玉造部(たまつくりべ)の祖神玉祖(たまのおや)が作った勾玉が「八咫鏡」とともに高御産巣日(たかみむすび)の子神・布刀玉(ふとだま)が捧げ持つ榊の木に掛けられました。これが今日伝わる天皇家の3種の神器のひとつである「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)です。
■八俣大蛇(やまたのおろち)退治
こうして,高天原も追放された須佐之男(すさのお)は,出雲の鳥髪山の地に降り立つと,少女を置いて泣いている老父と老女に出逢いました。須佐之男(すさのお)が泣いている理由を尋ねたところ「自分たちには8人の娘がいたが,毎年,八俣大蛇が訪れて娘をひとりずつ喰われてきた。最後の娘の櫛名田比売(くしなだひめ)が喰らわれる時期となったので泣いているのだ」と答えたので, 須佐之男(すさのお)は,八俣大蛇を退治する代わり,娘を自分の妻として奉るように要求し,八俣大蛇を退治しました。そのとき,八俣大蛇の尾から出現した1本の剣を,天照(あまてらす)に献上しました。これが今日伝わる天皇家の3種の神器のひとつである「草那藝之大刀」(くさなぎのつるぎ)です。
■大国主神(おおくにぬし)の誕生
櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚した須佐之男(すさのお)は,出雲の須賀に宮を作り,子神を誕生させました。子神はさらに次々に次代の子神を生んでいき,須佐之男(すさのお)の6世孫として誕生したのが大国主(おおくにぬし)でした。
大国主(おおくにぬし)は,兄神たちと一緒に八上比売(やがみひめ)に求婚に出かけ,その途中で素兎(しろうさぎ)を助けました。素兎から「あなたが八上比売(やがみひめ)を得るでしょう」と予言され,そのとおりに八上比売(やがみひめ)から求婚の承諾を得ましたが,兄神たちの恨みを買い,命を狙われてしまいました。このままでは本当に殺されてしまうと危惧した母神は,大国主(おおくにぬし)に,須佐之男(すさのお)のいる根の堅州国(黄泉国)へ行くようにと指示しました。
根の堅州国(黄泉国)に出かけた大国主(おおくにぬし)は,そこで須佐之男(すさのお)の娘,須勢理毘売(すせりびひめ)と出逢って結婚し,地上世界を治めることになりました。八上比売(やがみひめ)は正妻となった須勢理毘売(すせりびひめ)を畏れ,自分の生んだ子を木の俣に挟んで因幡に帰ってしまいました。
■国譲り
天照(あまてらす)は,「大国主(おおくにぬし)が治めているこの地上世界は,私の子である忍穂耳(おしほみみ)が統治する国だ」と宣言をし,須佐之男(すさのお)との「宇気比」で産んだ男神五柱のうちの長男である忍穂耳(おしほみみ)を派遣しました。
忍穂耳(おしほみみ)は,天の浮橋に立ち地上の様子を窺いますが,地上世界はとても騒がしかったと報告を受けた天照(あまてらす)と高御産巣日(たかみむすひ)は,「地上世界は,荒ぶる国つ神どもが跋扈している国だ。誰かを派遣して言向(服従)させよう」と言い,伊耶那岐(いざなき)が,火之夜藝速男(ほのやぎはやを)の首を切り落とした際に生まれた建御雷(たけみかづち)を使者として派遣し,大国主(おおくにぬし)とその子神の事代主(ことしろぬし)・建御名方(たけみなかた)を服従させ,国譲りを成功させました。
大国主(おおくにぬし)は,「壮大な宮殿を自分が鎮まるために建ててもらえるならば,出雲国に鎮まるだろう」と言って国を譲り渡しました。この宮殿が出雲大社です。
■天孫降臨
国譲りの交渉が無事に終わり,天照(あまてらす)は子神を降臨させることができるようになりました。降臨を予定していた忍穂耳(おしほみみ)に,天照(あまてらす)と高御産巣日(たかみむすひ)が改めて降臨を命じたところ,忍穂耳(おしほほみみ)は,自分に子・邇々芸(ににぎ)ができたので,この子神を降臨させようと言いました。邇々芸(ににぎ)は,「八咫鏡」(やたのかがみ),「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま),「草那藝之大刀」(くさなぎのつるぎ)を天照(あまてらす)から授けられ,筑紫・日向(ひゅうが)の高千穂の久士布流岳に降臨し,高千穂宮を立てました。
■日向に降臨
日向に降臨した邇々芸(ににぎ)は,笠沙の御前でひとりの美女・佐久夜毘売(さくやびめ)と出会い,生まれたのが,火照(ほでり=海幸彦),火須勢理(ほすせり),火遠理(ほおり=山幸彦)でした。
火遠理(ほおり=山幸彦)は,火照(ほでり=海幸彦)から借りた釣道具を失くしてしまいました。火遠理(ほおり=山幸彦)が何度謝っても火照(ほでり=海幸彦)は許しませんが,やがて,釣り道具が見つかりました。
次第に不幸になっていった火照(ほでり=海幸彦)が火遠理(ほおり=山幸彦)のもとに乗り込むと、火遠理(ほおり=山幸彦)は,塩満珠と塩乾珠を使って火照(ほでり=海幸彦)を溺れさせ,そして助けてやりました。このことですっかり火遠理(ほおり=山幸彦)に服従した火照(ほでり=海幸彦)は、守護人として火遠理(ほおり=山幸彦)に仕えることを約束します。
■鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)の誕生
火遠理(ほおり)は,海神宮の娘、豊玉毘売(とよたまびめ)を妻とし,子神ができました。
豊玉毘売(とよたまびめ)は,「私たちの国の者は,出産のときには本国の姿になって産むので,その姿を見てはならない」と言い,鵜の羽を茅葺とした産屋に籠もって出産をしようとしました。しかし,火遠理(ほおり)は,見たいという気持ちを抑えることができずについ覗いてしまうと,そこに見えたのは,和邇(わに)の姿となってのたうっている豊玉毘売(とよたまびめ)の姿でした。豊玉毘売(とよたまびめ)は無事に鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)を出産しましたが,見られたことを恥に思い,海神宮の世界に戻ってしまいました。
■神武東征
鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)と豊玉毘売(とよたまびめ)の妹である玉依比売(たまよりひめ)との間には四柱の男子が誕生しました。 次男の稲氷(いなひ)は海原に入り,三男の御毛沼(みけぬ)が常世国(とこよのくに)に渡り, 長男の五瀬(いつせ)と四男の神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ),すなわち神武天皇は,天下を治めるべきよき場所を求めて東へ行こうと相談しました。
高千穂宮を出発し,筑紫,安芸,吉備などを経て大阪湾に入り,大阪方面から大和へ入ろうとしますが,在地勢力の抵抗にあい,五瀬(いつせ)は紀伊国において戦死してしまいました。
神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)の一行は,夢で天照(あまてらす)と高御産巣日(たかみむすひ)の命を受け,高御産巣日(たかみむすひ)が授けた八咫烏(やたがらす)の先導を受けたり,国つ神の服従を受けたりしながら,刃向かう者を征討し,苦労しながらも,ヤマトの畝傍(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)で即位しました。
  ・・・・・・
これが,「古事記」に描かれた,初代・神武天皇が即位するまでのこの国の神話の概要です。

キャプチャ


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夕食を終えて,サンセットクルージングの乗り場に向かいました。
これから,船に乗って,宍道湖の夕日を楽しみます。
  ・・・・・・
宍道湖は,大橋川,中海,境水道を介して日本海と接続しているので,淡水湖ではなく汽水湖で,平均塩分濃度は海水の約10分の1です。面積は日本で7番目に大きく,東西約17キロメートル,南北約6キロメートル,周囲長47キロメートル,平均約5メートルの湖底はほぼ水平となっています。
宍道湖内に浮かぶ唯一の島が嫁ヶ島は,宍道湖南岸から200メートルほど沖にあって,全長150メートル,幅27メートルの小さな島です。姑にいじめられた若嫁が寒さに凍った湖上を実家に帰る途中,氷が割れて水死し,それを哀れんだ湖の神様が一夜にして島を浮かび上がらせたという伝説があります。
  ・・・・・・

サンセットクルージングに使われている「はくちょう号」は,フランスの河川を走る遊覧船をイメージしてつくられたクルーズ船で,大橋川から宍道湖に入り,約1時間の宍道湖周遊を楽しむことができました。この日は,ほどほどに雲があり,雲に光が反射して,美しい風景でした。
「はくちょう号」は,屋根つきの船内と,1階と2階にデッキがあり,当然,最上階の2階に陣取りました。船は旋回して夕日が見られるので,見やすいように自由に動き回れます。
第2乗船場から乗り込むと,まず,大橋川にかかる3つの橋をくぐります。1番目は新大橋で,この橋はかなり高さが低く,迫力があります。次が擬宝珠のある松江大橋,そして,最後が宍道湖大橋です。
この橋を超えると宍道湖に出ます。
宍道湖の北側にある松江しんじ湖温泉を眺めながら,沖に出ていくと,いよいよ夕日が湖に沈んでいきます。ここで遊覧船は一旦停止して,日没までの風景を楽しむ仕掛けです。
やがて,嫁が島も間近に船が再び動き始めます。
島根美術館,松江城,そして,松江大橋界隈は灯りがともりはじめて風情が満載でした。
旅の1日目は,こうして,松江市内を堪能することができました。

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私は「ぐるっと松江レイクライン」の1日乗車券を利用して,松江市内観光をしています。
松江市といえば,宍道湖に沈む夕日です。46年前に来たときにはじめて見て,何と美しい! と思いました。今回も,この夕日が楽しみだったので,松江市の観光案内所で宍道湖観光遊覧船の「サンセットクルージング」を知って,早速予約してありました。
というわけで,あとは,「サンセットクルージング」の出発時刻である午後6時20分までが,この日の持ち時間でした。

月照寺を出て,再び「ぐるっと松江レイクライン」に乗りました。
このまま松江駅に戻ろうかとも思ったのですが,途中,島根県立美術館を通ったので,降りることにしました。この旅に出る前に,NHKEテレで放送している「日曜美術館」のアートシーンで島根県立美術館という名前が出てきたのを覚えていて,機会があれば行ってみようと思っていたからです。
私は,正直,美術はよくわかりません。わからないのだけれど,世界中の多くの美術館に行っていて,ずいぶんと有名な作品を見ています。
それはともかくとして,松江市に来たとき,何度も,多くの人に,島根県立美術館から見る夕日がとりわけきれいだ,と聞きました。しかし,私はすでに「サンセットクルージング」を予約してあったので,残念ながら,この場所から夕日をみることはかなわなかったのですが,ともかく,どんな美術館なのだろうと,興味が湧いたからです。
  ・・・・・・
島根県立美術館は,「日本の夕陽百選」にも指定される宍道湖の畔にある山陰最大規模を誇る美術館です。 常設展示として,特に「水」を画題とする絵画などが数多く展示されることで定評があります。
また,「夕日の見える美術館」として,ロビーの西側をすべてガラス張りにし,夕日観賞のために一般に開放しています。宍道湖を一望できるエントランスロビーから,刻々と移り変わる宍道湖の表情が楽しめ,夕方になると美しい夕陽がロビーを黄金色に染め上げます。
館内には,カジュアルフレンチを楽しめる「湖畔のレストラン RACINE」(ラシヌ)を併設し,宍道湖一望の絵になる風景を眺めながら,ちょっとリッチな時間を過ごすことも可能です。
少し湖畔よりの芝生へと足を運ぶと,縁結びスポッとしても人気の「宍道湖うさぎ」があって,12羽の「宍道湖うさぎ」のうち,湖から2番目のウサギに西を向きながら触ると幸せが訪れるということで,す。
  ・・・・・・
そんなわけで,もし次回があれば,ここで半日すごしてもいいと思いました。

今回,特別展として, テオ・ヤンセン展が開催されていたので,入りました。会期は7月7日から8月28日でした。いったいどんな展示があるのか,私は,全く無知でした。
  ・・・・・・
テオ・ヤンセン(Theo Jansen) は1948年に生まれたオランダの彫刻家です。1968年からデルフト工科大学で物理学を学び1974年に卒業し,画家に転向しました。1990年,風力で動作するストランドビースト(strand=砂浜,beest=生命体)の制作を開始し,以来,アートと科学が融合した多くの芸術作品を生み出しています。
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ストランドビーストというのは,プラスチック・チューブやペットボトル,粘着テープといった身近な材料を組み合わせて,物理学による計算に基づいて作られた,風の力で砂浜の上を歩く生命体だそうです。
レオナルド・ダ・ビンチみたいだ,と思ったら,やはりテオ・ヤンセンは「現代のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と称されているということです。ストランドビーストは,故国オランダの海面上昇間題解決のため,海岸に自生して砂を積み上げる防波堤ができないか,という発想を基点として生まれたものだそうです。
不思議な展覧会でした。島根県立美術館のよいところは,常設展も含めて写真を撮ってもいいところでした。海外の美術館の多くは写真撮影可なのに,なぜ,日本の美術館の多くでそれが不可なのか,私にはわかりません。

さて,島根県立美術館を出て,再び「ぐるっと松江レイクライン」に乗って,松江駅に戻りました。
これから,「サンセットクルージング」の乗船時間までに夕食をとろうと,松江駅の駅前で見つけた「楽楽」という居酒屋さんで,地酒を呑みながら夕食をとりました。

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「ぐるっと松江レイクライン」は,松江市内を反時計回りに1周しています。1日乗車券を購入した私ですが,これまで,松江駅から松江城まで乗車しただけでした。松江城で降りて,遊覧船「ぐるっと松江堀川めぐり」に乗り,その後は,松江城の北側を,小泉八雲記念館や旧居,武家屋敷というように時計回りに歩いて松江歴史館まで来たのですが,その場所は,はじめに乗船した遊覧船「ぐるっと松江堀川めぐり」の大手前堀川遊覧船乗場に近く,再び,その場所に戻ってきました。
そこで,そこから「ぐるっと松江レイクライン」に乗って,残りのコースを1周することにしましたが,途中で何か見どころがあれば,そこで下車しようと思いました。バスの中で観光案内放送があるので,その場所がどういうところかわかるのです。
しばらく乗っていたら,月照寺に差しかかりました。この寺は,松江藩松平家の菩提寺ということだったので,下車することにしました。すでに書いたように,私は,江戸時代にその地を治めた殿様が地元でどのように慕われていたかということに興味があって,その答えが菩提寺を訪ねるとわかるからです。これまで訪れた中で,もっともすばらしいと思ったのは,山形県の米沢市にあった上杉家の廟所でした。その反対に,なんだこれは,と思ったのが,青森県弘前市の津軽家の廟所でした。

月照寺は,かつては,洞雲寺(とううんじ)という禅寺でした。永く荒廃していたのですが,松江藩初代藩主・松平直政が生母の月照院の霊牌安置所として,1664年(寛文4年)に再興し,浄土宗の長誉を開基とし,「蒙光山月照寺」(むこうざんげっしょうじ)と改めました。
松平直政は1666年(寛文6年)に江戸で死去しましたが,臨終の際に「我百年の後命終わらば此所に墳墓を築き,そこの所をば葬送の地となさん」と遺しました。2代藩主・松平綱隆が松平直政の廟所を営んだとき,山号を現在の「歓喜山」と改めました。以後,9代藩主までの墓所となりました。ずらりと並んだ立派な墓所は壮観でした。これほどの藩主の墓をほかに見たことがありません。
なお,松江藩松平家は10代まで続きましたが,最後の10代藩主・松平定安のときに明治維新となったので,この地には墓所がありません。
名君の誉れが高い7代藩主・松平治郷の廟門は松江の名工・小林如泥の作によるとされ,見事な彫刻が見られます。また,松江城が見下ろせる場所に葬ってほしいという遺言にしたがって,遠くに松江城が見られる高台に墓所がありました。
また,6代藩主・松平宗衍の廟所には,大亀が寿蔵碑の土台となっています。
この大亀は,夜な夜な松江の街を徘徊し,下の蓮池にある水を飲み「母岩恋し,久多見恋し…」と町中を暴れ回ったといいますが,この伝説は小泉八雲の随筆「知られざる日本の面影」で紹介されています。「母岩,久多見」というのは大亀の材料となった石材の元岩とその産地のことだそうです。
松平治郷は,30キロメートル西方の出雲市久多見町の山中より堅牢で緑色の美しい久多見石を材料として選びましたが,この石は,かつて,出雲大社に功有りとし,本殿おにわ内にクタミ社として単独社を設けられ祀られる神が逗留したとされる神石だったので,切り出しや運搬には難儀を極めました。
こうした神威を恐れた松平治郷は,お抱えの絵師に延命地蔵像を描かせて,残った岩に線刻し崇めました。この石は「親孝行岩」として現在も信仰されていて,この大亀の頭を撫でると長生きできるといわれています。

境内には松平治郷お抱えの力士であった雷電爲右衞門の碑があり,手形が彫られていたので,私の手を重ねてくらべてみました。
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雷電 爲右エ門は,1767年(明和4年)に生まれ,1825年(文政8年)に亡くなった現在の長野県東御市大石出身の大相撲力士です。現役生活21年,江戸本場所在籍35場所のうち大関在位27場所で,通算黒星がわずか10個,勝率.962の大相撲史上未曾有の最強力士とされています。
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また,境内には宝物殿もあり,歴代藩主の遺品が展示されていました。

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塩見縄手を東に,松江城の北側をさらに歩いて行って,松江歴史館に着きました。
松江歴史館の敷地面積は約5,500平方メートル,延床面積が約4,200平方メートルで,本館と松江藩家老朝日家長屋,館の入口には長屋門があり,屋外には日本庭園も設けられています。松江歴史館では,松江城の国宝指定の決め手となった 「祈祷札」や ,堀尾三代,京極一代,松平十代の松江の系譜,庶民の暮らし,産業,祭事,食文化など城下町松江の歴史や文化をさまざまな資料展示や映像,模型などで見ることができます。
この日は,非常に暑く,こうした涼しい場所がとても助かりました。

松江歴史館は,2015年に行われた第73期名人戦の第3局の対局場となった場所でした。「観る将」ということばもなかった当時は,ほとんど話題にもならなかったから,今とは隔世の感があります。
当時,この対局で,羽生善治名人に挑戦した行方尚史八段も食したという和菓子を,国宝松江城と日本庭園を眺めながら食べられるのが,松江歴史館にある喫茶「きはる」です。
松江市は,京都,金沢と並ぶ日本三大和菓子処です。茶人でもあった松江藩七代目藩主・松平治郷が松江に茶の湯文化を広め,それとともに和菓子処として全国に名を馳せるようになったことではじまりました。そんなわけで,松江城下では,和菓子を食べなければ片手落ちなのです。さらに,喫茶「きはる」では「現代の名工」に選ばれた職人・伊丹 二夫さんがひとつひとつ手作りした和菓子とともに,茶処松江のお茶を味わうことができるというから,最高の場所でした。
なかでも,おすすめの逸品は数量限定のわらび餅。丁寧に炊いた餡をとろけるわらび餅で包み,まわりに抹茶をふったイチオシの逸品で,口に入れると小倉餡の程よい甘さと抹茶の香りがふわっと広がる至極の逸品ということです。私も,文句なく,この逸品を冷たい抹茶とともにいただきました。

松江歴史館の入場券で,近くにあった松江ホーランエンヤ伝承館にも入ることができたので,行ってきました。
松江ホーランエンヤというのは,城山稲荷神社の式年神幸祭の通称で,大阪府の天神祭り,広島県の厳島神社の管弦祭と共に日本三大船神事のひとつとされていて,10年に一度行われます。
祭りの期間は9日間で,城山稲荷神社から御神輿を船団で運ぶ「渡御祭」(とぎょさい)と,阿太加夜神社本殿に迎え,7日間の大祈祷が行われるその中日に櫂伝馬踊りが奉納される「中日祭」(ちゅうにちさい),再び船団によって城山稲荷神社へと御神霊を送る「還御祭」(かんぎょさい)の3つの祭礼が行われるというものです。中でも,渡御祭と還御祭は,五大地とよばれる地域の人々が一同に集まり,色とりどりに装飾された櫂伝馬船の総数は100隻以上にも上り,大船行列を作る壮大な姿が楽しめるそうです。
前回は2019年(令和元年)の5月18日から5月26日に開催され,次回は2029年の予定です。
松江ホーランエンヤ伝承館は,松江ホーランエンヤの起源,歴史を紹介するものでした。
全国各地にいろいろな行事があるものだなあ,と思いましたが,なにせ,10年に1度しか行われないから,見る機会もほとんどなく,徳島の阿波踊りとか,青森のねぶたのようなものとは一線を画しているような気がしました。

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