しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:四国旅行LIVE > LIVE・2023秋

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数年前までは,高知県というのは,遠い遠いところでした。それでも,何らかの縁があって,何度か来たことがあるのですが,それらは,車で淡路島を渡ってきたり,あるいは,深夜バスを利用したりと,結構苦労しました。それが,このごろは,FDAで県営名古屋空港から高知龍馬空港まで1時間足らずという時代になり,とても身近なところとなりました。
今回は,高知県だけでなく,愛媛県まで足を延ばすことができたし,これまで何となく行ってみたいと思っていたところも訪れることができました。
こうして,すっかり堪能した私は,夜6時ころに高知龍馬空港に戻ってきました。
高知龍馬空港へのアクセス道路は,右側の車線が高速道路に入る右折車が右折帯からはみ出していて,直進ができないので要注意です。これは欠陥だ,といつも思います。

空港のターミナルビルで夕食を取りました。せっかく高知県へ来たのだから,地のモノを食べました。旅の楽しみのひとつは食事ですが,食事に関しては日本が一番です。
食事を終えて,時間までラウンジで過ごし,予定の飛行機で高知龍馬空港を出発して県営名古屋空港に戻りました。帰りの機内も一杯でしたが,私の横の座席は空いていて,とても快適でした。
帰宅して,これで,高知県はほどんどの場所に行きつくしたなあ,と思っていたら,来年のNHK 朝のテレビ小説の主人公がやなせたかし,ということを知って「香美市立やなせたかし記念館」に行っていないじゃないか! と,驚きました。どうしていつもこうなのだろう? これで,また,行く口実ができたというものです。
いずれにしても,高知県はいいところです。なぜか落ち着きます。

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やなせたかしさんは,1919年(大正8年)現在の東京都北区に生まれ,高知県香美市香北町で育った漫画家です。2013年(平成25年)に亡くなりました。
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「香美市立やなせたかし記念館」愛称「高知アンパンマンミュージアム」は,やなせたかしさんのゆかりの地である高知県香美市に1996年(平成8年)に開館しました。施設は,「アンパンマンミュージアム」「詩とメルヘン絵本館」「やなせたかし記念館別館」及び「やなせたかし記念館公園」で構成されています。ここもまた,高知県に行ったときにはいつでも訪れる機会があったのに,なぜかパスしていたところなのです。

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大洲城でチケットを買ったとき,大洲城のほかに「盤泉荘」と「臥龍山荘」のついたセット券があると薦められたので,どういうところか知らなかったのですが,せっかく来たのだからと,それを購入しました。
ということで,昼食をとる場所を探しながら「盤泉荘」と「臥龍山荘」を見てくることにしました。
大洲市の歴史地区,ヨーロッパでいうなら旧市街,といったところですが,そこから東に歩いて行って,歴史地区の外れまで歩いて行くと,それらはありました。多くの観光客は,大洲城には行っても,このふたつの施設を訪れる人はほとんどいないようでした。
こういう知らなかったところを訪れることこそが旅の醍醐味というものです。しかし,ほとんどの観光客は,有名なところしか行きません。そこで,道後温泉は人がうじゃうじゃいたし,東京に行っても,浅草とか原宿とか渋谷駅前だけが異常な混雑をしているから,私は,行きたいとは思いませんが,そこからわずか数百メートルも離れてしまうと,観光客なんてまったくいなくなってしまうのです。多くの人は群れる磁気みたいなものがあるようです。というか,主体性がないのでしょう。私は抗力しか感じませんが…。

はじめに訪れたのが「盤泉荘」でした。私以外に訪れていた人がいなかったので,とてもていねいにひとつひとつていねいに説明を受けながら案内をしてもらえました。
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裏山の岩盤からしみ出す水を利用していたことから「盤泉荘」ともよばれた旧松井家住宅は,マニラで貿易会社を経営するなど,多角的な事業拡大を行い,大きな富を成した松井國五郎氏によって,1926年(大正15年)に建設された,高台の急斜面にせり出すように建つ木造3階の別荘です。
良質な栂(つが)や黒檀(こくたん)が贅沢に使われていたり,南洋材が廊下に20枚連続して使用されていたり,鬼瓦にはイニシャルの「K・M 」を用いられていたりと,近代和風の貴重な別荘建築として評価されています。
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私がおもしろいと思ったのは横井戸でした。裏山の岩盤からしみ出す水を得るために,奥に向けて50メートル以上も井戸が掘られていて,この井戸に奥から流れ込んできた水が台所に設けられた貯水槽に送られる仕組みになっていました。

次に訪れたのが「臥龍山荘」でした。こちらは「盤泉荘」とは違って,何組かの観光客が来ていましたが,そのなかで,とりわけうざったかったのは中国人の家族連れでした。子供は大声で叫ぶわ,年寄りは山荘に座り込んで動かないわ,場違いな人たちでした。ああいう人たちが日本の観光地の雰囲気のすべてを台なしにしているのです。私は不快になりました。インバウンド御免です。
こちらは,録音を聴いての案内で,私は興味深くすべて聞きましたが,案内を聞いている人はほとんどいませんでした。
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「臥龍山荘」は肱川流域随一の景勝地「臥龍淵」に臨む3,000坪の山荘です。
文禄年間,この地は藤堂高虎の重臣であった渡辺勘兵衛が広大な屋敷を構えていたところで「勘兵衛屋敷」の名でよばれていましたが,その後,大洲藩3代藩主・加藤泰恒が吉野の桜・龍田の楓を移植し,庭園に一層の風情を加えました。そして,「蓬莢山(ほうらいさん)が龍の臥す姿に似ている」ことから「臥龍」と命名したといわれています。
臥龍院,不老庵,知止庵の3つの建築は,それぞれ数寄をこらした逸品揃いで,山々と肱川,如法寺河原の自然をとりいれた借景庭園は,自然と人工の典雅な調和をみせ,四季折々に違った顔を見せてくれます。
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その後は,手を入れられることもなく荒廃していましたが,明治の貿易商・河内寅次郎氏が10年余りの歳月をかけ,再興したものだそうです。
こうした建築物が大洲市のすばらしさを一段と深めていた場所となっていました。

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大洲城の窓口で,大洲市の観光案内を聞いたら,地図をもらえて,とても親切に教えてもらうことができました。大洲市の古い町並みが大洲城から少し離れたところで,その中心に「大洲まちの駅・あさもや」という無料の観光用の駐車場があるから,そこに車を停めて,町歩きを楽しんでくださいと言われました。
「大洲まちの駅・あさもや」の北側に「おはなはん通り」がありました。
NHK朝の連続テレビ小説「おはなはん」の放送は1966年(昭和41年)の4月から翌年の3月で,今から57年も前のことです。それが今でもこうして残っているのが驚きでしたが,それほど,当時評判のドラマだったわけです。「おはなはん」は,私が知っている,そして,テレビで見たことがあるはじめてのNHK朝の連続テレビ小説でした。
それにしても,「らんまん」にちなんだ地を訪ねて高知県に来て,まさか「おはなはん」ゆかりの地にも来るとは思いませんでした。
「大洲まちの駅・あさもや」に観光案内所があったので,中に入って食事処などを聞いたのですが,そのときに,係の若い女性に「「おはなはん」なんて見たことないでしょう?」と言った会話をしました。

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「おはなはん」は,明治中期,大洲市出身の,愛称をおはなはんという,底抜けの明るさとユーモアを持った女性・浅尾はなの一代記です。
女学校卒業を機に軍人と結婚し,子どもも生まれましたが,夫が病死したことで,おはなはんは医学を志し,助産師となります。2人の子どもを育てながら,明治,大正,昭和の時代を,たくましく,周囲に笑いと力と幸福を与えながら生き抜きます。
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という内容のドラマでした。
随筆家の林謙一さんが母・はなの半生を綴った「おはなはん一代記」が原作です。実際のおはなはんは徳島市の生まれでしたが,「戦災で徳島の古い街並みがほとんど失われたため,古い街並みの残る大洲が選ばれた」というのが表向きの理由だそうです。本当は,徳島市がドラマの舞台になることに難色を示したから,とかいわれていて,このドラマの人気が出てからくやしがった,という話です。
最終回は「おはなはん」自身が自分を主人公とするドラマの第1回放送を見るシーンで終わっているのですが,私は今でも,このときの番組をとても鮮明に記憶しています。

また,大洲市は,サラリーマンの永尾完治(=カンチ)と同僚の赤名リカ(=リカ)の関係を中心に東京に生きる若者たちの姿を描いた「東京ラブストーリー」でもロケ地となりました。大洲の町は主人公カンチの故郷という設定でした。
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「東京ラブストーリー」は,柴門ふみさんによる日本の漫画作品で,フジテレビの「月9ドラマ」として1991年に放映されました。
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リカがロサンゼルスへの転勤を断って,誰にも行き先を伝えずにどこかへ行ってしまいます。カンチはリカが「カンチの故郷を見たい」と言っていたのを思い出し,カンチのふるさと愛媛に探しに行きます。ふたりは再会し,大洲の町を巡ります。
おはなはん通りは,そのとき,リカとカンチが子供時代を思い出しながら歩いていた通りです。そして,カンチと一緒にいたリカが,カンチに気づかれないように,こっそりと別れの手紙を投函した郵便ポストが残っています。

大洲市を訪れたのは大当たりでした。ここはすばらしいところでした。日本にはこのようなすてきな小さな町があるのです。住んでみたいとさえ思いました。
ゆっくりお昼を,と思って入ったのが,あとで行くことになる臥龍山荘の,脇にあった「臥龍茶屋」というカフェでした。食事といっても,ここはカフェで,チャーハンとカレーライスくらいしかなかったのですが,ほかに人もおらず,窓から見える庭がきれいで,落ち着いた時間を過ごすことができました。

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今回行くとも思っていなかったのに,突然思い出して,佐田岬へ行くことができたのですが,その帰り,高知龍馬空港に行く途中で,どこに寄って行こうか,と考えて選んだのが,大洲市でした。
佐田岬半島を貫く国道197号線は,前回書いたように,西には,海を越えて九州までつながっているのですが,反対に,四国では,東に,八幡浜市から大洲市,そして,四国カルストの山麓を通って梼原町(ゆすはら)を経由して,太平洋岸の須崎市までつながっています。今回,私は,このルートを通って高知龍馬空港まで帰ったのですが,今年の1月に高知県に来たときにも,その時点ではまったく意識していなかったのですが,四国カルストへ行くために国道197号線を走ったことになります。すてきな町だった梼原町に「龍馬脱藩への道」という案内がありましたが,それこそが国道197号線の元の姿だったのです。今は「龍馬脱藩への道」に沿ってバイパス化され快適な自動車道となっているのですが,バイパスが整備されたのはわずか2年前のことでした。

さて,大洲市に到着しました。
大洲市といっても,私は大洲城の存在だけ知っていたので,目当ては大洲城だけでした。
四国には城がたくさんあります。今回の旅では,すでに,今治城,松山城と行ったので,これで3つ目の城ということになります。今治城は鉄筋コンクリート造りでがっかりし,松山城は予想以上のすばらしさでした。そして,大洲城。この城は,木造による再建天守でした。そして,予想を超える豪華さでした。
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大洲は,歴史的には交通の要衝といえる場所でした。
鎌倉時代末期1331年(元弘元年),守護として国入りした宇都宮豊房が,肱川(ひじがわ)と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したのがはじまりです。
宇都宮氏は,その後,200年以上にわたってこの地を支配しましたが,毛利氏の伊予出兵で降伏し,土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之によって大洲城を追われました。しかし,1585年(天正13年)大野直之も小早川隆景によって攻め滅ぼされ,小早川隆景が入封しました。その後,戸田勝隆が城主として入りました。1595年(文禄4年)には,藤堂高虎が入城すると大規模に修築がされ,伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄しました。
江戸時代になり,1609年(慶長14年)に淡路の洲本から脇坂安治が転封され,次に,1617年(元和3年)に伯耆米子から加藤貞泰が入り,以後は加藤氏が12代にわたり大洲藩主として治め,明治維新を迎えました。
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明治維新後,本丸の天守や櫓は一部保存されましたが,老朽化と構造上の欠陥のために,1888年(明治21年)に解体されてしまいました。そして,2004年(平成16年)大洲市市制施行50周年記念事業として,木造で復元されました。
大洲城は,正確な資料が多く残っていたことと,市民の情熱があったことで,こんなに立派な木造の城を再建することができたようです。ここは一見の価値があります。これまでにも,高橋英樹さんをはじめてして,多くの歴史好き,城好きのタレントさんが訪れているようです。

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朝の国道378号線を海岸線に沿って走っていきました。すばらしい景色でした。日本も知らないところがあるものだと思いました。それとともに,これまで車で走ったことがあるアメリカやオーストラリア,ニュージーランド,アイスランドでは,まったく人の住んでいない雄大なところがいくらでもあるのに,日本は,どんなところに行っても人が住んでいるということにも驚きました。そろそろ海外旅行に出かけて,人がまったく住んでいないところをドライブしてみたいという欲望が再び起きてきました。
そうこうしているうちに,昨日行った下灘駅のあたりも過ぎ,佐田岬半島が近づいてきました。
私は車のディスプレイに連動した私のiPhoneのGoogleMapsの指示に従って走っていたので,帰ってから地図を見ても,どこを走ったのか定かでないのですが,「佐田岬メロディーライン」を走った記憶があるので,おそらく,国道378号線から八幡浜市で国道197号線に乗り換えて走っていったのでしょう。「佐田岬メロディーライン」というのは国道197号線の愛称で,走っているとスピーカーから音楽が流れている近所迷惑な仕組みだと思ったのですが,そうではなく,車が通るとき道路に刻まれた溝をタイヤが拾って車内で音楽が聞こえるという凝ったものでした。だれがこんなことを考えるのやら…。
そのうち,伊方町に着きました。

伊方町というと,名前だけは聞いたことがありました。そうです。伊方原発です。
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伊方発電所は,四国電力および四国地方唯一の原子力発電所です。国内の原子力発電所で唯一内海に面しています。
1977年に運転を開始した1号機は,新規制基準適合の対策を一度は検討しましたが,2016年に廃炉を発表しました。2号機は運転再開を前提としていましたが,こちらも,やむなく2018年に廃止しました。そこで,現在は3号機だけが稼働しています。
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奇しくも,10月21日のこの日,地震が発生し原発から放射性物質が放出されたという想定で防災訓練が実施されていて,住民や関係機関の約1,500人が参加したそうです。そんなことはまったく知らず,突然,私のiPhoneに緊急速報が入ってびっくりしました。しかし,私は旅人,訓練とは関係がないのですが,これが実際の事故だったとき,旅人はどうするのだろう,と思いました。つまり,この訓練は片手落ちなのです。これもまた,日本らしい「責任逃れのやったふり」です。

伊方町を過ぎて,さらに延々と国道197号線を走っていくと,三崎町まで来ました。国道197号線は佐田岬半島の中央部を走っているのですが,時折,海が見えました。道路は整備されていて,なかなか走り甲斐がありました。
国道197号線がこのように整備されたのは1987年(昭和62年)のことで,それまでは「197(=行くな)酷道」といわれれるほどの険しい道路だったそうです。
国道197号線は,三崎町から先は海を通ります。つまり,約15キロメートルの三崎港と大分市の佐賀関港の間は国道はフェリーの航路となります。これを「海上国道」とよびます。
三崎町はけっこう大きな町で,民宿などもありました。三崎町を過ぎ,国道197号線が終わると,道は狭くなりました。この先行くのは,佐田岬灯台に観光で行く人くらいのものでしょう。

9月に行った隠岐諸島の知夫里島を思い出すような狭い道路をそれからまた,かなり走っていくと,広い駐車場に着きました。やっと佐田岬の先端に到着,かと思ったら,佐田岬の先端はそこからさらに約1,500メートル,25分も遊歩道を上り下りしながら歩く必要があるのでした。とはいえ,ここまで来て行かないという選択肢はないから,しかたなく歩きました。
かなりばてました。もう,2度といくことはないでしょう。とはいえ,結構すばらしい景色が広がっていました。友人が「よくなかった」と言ったような,つまらない場所ではありませんでした。
佐田岬の先端には佐田岬灯台がありました。
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佐田岬灯台は,四国最西端に突き出た佐田岬半島の先端に建つ灯台で,四国八十八景の52番に選定されています。
灯台の光達距離は約35キロメールで,光力は対岸の佐賀関まで十分達します。また,1966年にレーマーク・ビーコンが併置され,豊後水道と伊予灘の間を往来する船舶の安全に寄与しています。
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灯台敷地の西側には,四国最西端の碑が設置されていました。

確かに,この場所が佐田岬半島の最西端でした。しかし,まだその100メートル先に最高点の標高36メートル,面積5,300平方メートルの御籠島(みかごじま)があったのです。
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御籠島は,江戸時代に野坂権現が祭られ,神聖な島とされていました。
1945年(昭和20年)芸予要塞の一部として,島の内部をくり抜いて佐田岬第4砲台の工事が開始されましたが,程なく終戦となり,砲台は廃止され,設置されていた三八式十二糎榴弾砲は解体されました。
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1967年(1992年)に,三崎漁協が佐田岬と御籠島の間の狭い海峡に畜養池を作ったことで,佐田岬と陸続きとなりましたが,一般人の立ち入りは禁止されていました。
その後,蓄養池は使用されなくなり,2017年(平成29年)に「佐田岬灯台点灯100年記念」として周辺の整備が行われ,遊歩道が新たに造成されたことで,御籠島に一般者が渡れるようになりました。
そして,四国最西端の御籠島展望所と灯台点灯100年記念のモニュメントが作られ,佐田岬第4砲台が再整備され,榴弾砲のレプリカも配置され,内部が見学できるようになりました。
こうして,私は,ついに,四国最西端の地にヘロヘロになりながらもたどり着くことができました。

帰る途中,佐田岬半島は,ノーベル物理学賞を受賞した中村修二博士の出身地ということで,それを記念した碑と展望台があったので,寄ってみました。
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中村修二博士は1954年(昭和29年)生まれで,日亜化学時代の1993年(平成5年)に世界に先駆けて実用的な高輝度青色発光ダイオードを開発し,その発明により赤﨑勇博士,天野浩博士とともに2014年(平成26年)のノーベル物理学賞を受賞しました。
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なお,蛇足ですが,鹿児島県には本州最南端の佐多岬があります。名前が似ていますが,佐田岬は「さだ」みさきで佐多岬は「さた」みさきと読みます。私は,佐多岬には,まだ,行ったことがありません。

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IMG_0866下灘駅で念願だった瀬戸内海に沈む夕日を見ることができてすっかり満足した私ですが,下灘駅のあたりには,まったく夕食をとるところがありませんでした。下灘駅前のカフェ「SHIMONADA COFFEE」で聞いてみても「松山市まで戻らないと何もないんじゃないの?」と言われました。
下灘駅から松山市とは反対の西の方向に町があるように見えたので,そこに食堂の1軒くらいはあるかも? ということで,国道378号線を走ってはみたものの,やはり何もなかったので,結局,東に向かって,つまり,松山市に向かって国道378号線を走ることになってしまいました。
途中に道の駅があったのですが,すでに店はすべて閉じられていました。その先も,ファミリーレストランどころかファーストフード店もなく,かといって,コンビニエンスストアではわびしいので,どうしようか? と思っていたら,「がんば亭・松前店」というセルフのうどん屋さんを見つけたので,中に入りました。

私はセルフのうどん屋さんはほとんど経験がなく,これまで行ったことがあるのは,NHK交響楽団の定期公演を聴くためにNHKホールに行くとき,渋谷公園通りの「はなまるうどん」に寄ることがあるくらいなので,何をどう注文するのかよくわかません。メニューを見ても,「ぶっかけ」と「かけ」と「かやく」はどう違うのか? などということすらわからないのだからどうしようもありません。これでは,私がアメリカのサブウェイが苦手だというのと変わりはないわけです。
家に帰ってから調べてみると,同じように疑問に思っている人が少なからずいるから,私だけが無知,ということでないので安心したのですが。
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「ぶっかけ」うどんは,ざるうどんや釜揚げうどんに一緒に出すつけ汁を直接うどんにかけて提供します。 濃いめのつゆなので,つゆを飲むタイプのうどんではありません。
「かけ」うどんは,混合節と昆布でとっただし汁をベースに調味したつゆをだしサーバーからたっぷりかけて食べる温かいうどんです。こちらは,つゆもスープのようにたべることができます。
「「かやく」うどんは,うどんの上に炊き込みご飯などに入れる肉や野菜などの具(=加薬)をのせたものです。
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ということで,私が今回注文したのは,かけうどんに大きな油揚げをのせたきつねうどんといなり寿司とかき揚げという散々なものとなりました。いなり寿司があればきつねうどんにする必要もなかったわけです。
これからは,セルフうどん店に行くことがあれば,「かけうどん小といなり寿司とかき揚げ」と決めておこうと固く決意しました。
こうして,何とか夕食を終えて,旅館に戻りました。
旅館は,伊予市にあった「いよプリンスホテル」というところでした。下灘駅の近くには旅館もないので,なるべく遠くなくて泊れればいいや,ということで選んだのですが,名前から想像するのとはまったく違う,単なるビジネスホテルでした。ただし,隣で温泉を営業していて,これに自由に入れたのは助かりましたが,問題は駐車場でした。この駐車場,接続する道路がえらく狭いので,よほどの技術がないと,車を停めることができないのでした。

2023年10月21日。3日目。
最終日は,午後7時40分高知龍馬空港発のFDAに乗るので,それまで十分に時間がありましたが,どこへ行くか,何の予定もありませんでした。
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人の少ないところに出かけて,何も憂えず,おいしいものを食べ,できれば温泉宿にひとり,という旅がしたい私ですが,少し前,その候補地として地図で佐田岬を見つけて,ここなら行ってみたいと思いました。そのことを友人に話すと,偶然「以前佐田岬に行ったことがある」というではないですか。で,感想は「よくなかったよ」のひとことでした。私はそれ以来,佐田岬には興味を失くしていました。
そのことを思い出して,佐田岬が近いなら,どんなところなのか行ってみよう,と思ったわけです。また,佐田岬半島の根元には,大洲市とか八幡浜市とか,名前だけ知っているところがあるので,時間があればそこへも寄ってみようと思ったのです。
そんなわけで,早朝,旅館をチェックアウトして,佐田岬半島に向かうことにしました。
朝食が食べられるようなファーストフード店もなさそうだったので,まず,コンビニエンスストアでパンとコーヒーを買いました。

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このごろよく目にするので気になっていたのが,瀬戸内海に面した小さな駅と夕日の写真でした。どこにあるのだろうと調べてみると,それは,JR伊予線の下灘という駅でした。
それまでは訪れる人もない田舎の駅だったのに,1977年に公開された映画「男はつらいよ」シリーズの19作目「寅次郎と殿様」で知れ渡るようになり,「青春18切符」のポスターで有名になったということでした。
  ・・・・・
旅先の寅さんは伊予の国大洲でわけありの若い女性・鞠子を親切にする。その後,大洲の城跡で浮世離れした老人と知り合うが,その老人こそ,世が世なら伊予の殿様・藤堂久宗であった。
饗応を受けた寅さんは,殿様の「次男の未亡人に一目会いたい」という願いを安請け合い。しばらくして殿様は,とらやに「寅次郎君はおりますか」とやってくるが…
  ・・・・・・
地図で確認するとかなり不便なところにあるので,こんなところにどうやって行くのだろう,私には縁のないところだと思っていました。
ところが…。

今回,2泊3日で四国へ旅をすることになったので,この駅まで足をのばしてみようと思いたちました。しかし,天気がよくないとせっかく行っても瀬戸内海に沈む夕日が見られないので意味がありません。ということで,期待半分あきらめ半分,見られたらもっけもの,というくらいの期待値でした。
とはいえ,駅のあるあたりは旅館もありそうになかったし,夕食時に下灘駅に行くことができるようにと考えて,この日の宿は,下灘駅に近そうな松山市の郊外で夕食別のところを探し出しました。
さて,日が沈んでしまっては意味がないので,早々に松山城を出て,ともかく予約してある旅館に急いで行って,チェックインしてから下灘駅に向かうことにしました。
予約した旅館の近くに伊予鉄道の群中駅がありました。伊予鉄道とJR伊予線は別物ですが,群中駅で伊予鉄道に乗ると次が終点の群中港駅で,群中港駅からはJR伊予線の伊予駅が近いので,伊予駅でJR伊予線に乗れば,下灘駅まで列車で行くことができるのでした。
しかし,列車の本数が極端に少ないことと,夕日が見えるかどうかは天気次第ということだったので,下灘駅まで車でいくことにしたのですが,心配は,下灘駅に果たして駐車スペースがあるか,ということでした。

旅館から下灘駅までは,瀬戸内海に沿って走る国道378号線「夕やけこやけライン」を通っていくだけでした。国道378号線はすばらしい景色を堪能できる道路でした。
実は,この日,午前中は雨が降るような天気だったのですが,午後には回復し,午後5時過ぎには晴れる,という予報でした。いつものことながら,これは幸運でした。今回も晴れ男パワー炸裂です。これなら,夕日を見ることも可能だし,観光客も少ないに違いない,と思いました。
この日の日没は午後5時30分ころで,私が下灘駅に着いたのは,それよりずっと早い午後4時過ぎでした。すでに観光客がいましたが,幸い,駅前にわずか4台から5台あった駐車スペースのうちの1台分が空いていました。ただし,駅前の駐車スペースが満車でも,少し離れたところに別の駐車スペースがあるようなので,車で行っても問題がなさそうでした。
何もないところですが,駅前に「SHIMONADA COFFEE」というキッチンカーらなぬカフェカーがいたので,コーヒーを飲みながら時間を潰すことにしました。店の人が,今日は観光客が少ない,と言っていました。

そうこうしているうちに,1時間に1両しか来ない列車がホームに停まり,下灘駅目当てでその列車から観光客が降りてきたり,車が続々とやってきたりして,観光客が続々と増えてきました。それとともに,雲がすっかり切れて,太陽が顔を出しました。
「伊予灘ものがたり」とかいう特別列車が下灘駅に到着するころがクライマックスでした。この駅で夕景を見るためにしばらくの時間停車するのです。多くの乗客がホームに降りてきて写真を撮ったり景色を眺めたりしていました。私は,頼まれて旗を振りました。
「伊予灘ものがたり」のチケットは入手が困難だそうですが,せっかく入手できても,夕景がみられないなら意味がありません。この日の乗客は夕日が見られたから幸運でした。
10月になると,太陽は南西に沈むようになるから,下灘駅のホームから夕日が見られるのは左手ギリギリとなります。これからさらに太陽は南に向かって沈むようになるから,冬になると,瀬戸内海に沈む姿を見ることはできなくなってしまうことでしょう。また,真正面の瀬戸内海に沈むのを見たいのなら6月ごろとなりますが,そのころは,なかなか晴れることもないので,理想の夕景を写真に収めるのも容易なことではありません。

そんなわけで,私は,期待していた以上に,下灘駅から,瀬戸内海に沈むきれいな夕日を見ることができました。なお,下灘駅のホームからは「ダッシュ島」(=由利島)も見ることができました。

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観光案内所で教えてもらったように,松山城へ上るロープウェイの乗り場近くには多くのコイン駐車場があったので,そのひとつに車を停めました。
公営の駐車場には大型バスが停まっていたので嫌な予感がしましたが,もう見学を終えた学生さんたちが乗り込むところだったので助かりました。先日行った山形県の立石寺もそうでしたが,観光地は団体ツアー客のいなくなる午後に行くに限ります。
さっそくロープウエイの乗り場に行ってチケットを購入しました。ロープウェイはかなり頻繁に出るのでホトンと待ち時間がありませんでした。
ロープウエイを降りると,そこには,予想以上にすばらしい景色が広がっていました。予備知識のまったくなかった私は松山城のすばらしさに驚きました。この日の私の目的は,次回書くことになりますが,伊予下灘駅で夕日を見ることだったので,ここで多くの時間を費やすことができず,急いで松山城に行って帰らなければならなかったのが残念でした。

現存12天守というのがあって,それらは,弘前城(青森県),松本城(長野県),丸岡城(福井県),犬山城(愛知県),彦根城(滋賀県),姫路城(兵庫県),松江城(島根県),備中松山城(岡山県),丸亀城(香川県),伊予松山城(愛媛県),宇和島城(愛媛県),高知城(高知県)ですが,その中で4つも四国にあります。また,私は,今回の松山城をもって,それらすべてに行くことができたことになります。
  ・・・・・・
松山城を築いたのは「賤ケ岳の七本槍」に数えられる加藤嘉明でした。
20万石の大名となって,1601年(慶長6年)年に松山平野内の独立丘陵に城の築城をし,一帯を松山と名づけました。1627年(寛永4年)会津藩主の蒲生忠郷が早生し,無嗣断絶となるところを,母親が徳川家康の娘・振姫であったため,幕府の差配で,蒲生忠郷の実弟・蒲生忠知が減封の上,松山藩を与えられ,その代わり,加藤嘉明は会津藩に国替えとなりました。
しかし,1634年(寛永11年)蒲生忠知が急死したことで,結局蒲生家は無嗣断絶となり,翌年,松平定勝の次男・松平定行が桑名藩から15万石で入り,以降幕末まで続きました。
  ・・・・・・
そんなわけで,松山藩は松平家。親藩大名で,将軍家の親戚筋ということになります。
親藩大名とは徳川家の男系の一族をいい,女系は譜代大名です。しかし,松山藩と桑名藩は特別に親藩扱いだったということです。なお,前々回書いた今治藩は,松平定勝の5男・松平定房が入りましたが,譜代大名扱いでした。

1784年(天明4年),落雷を原因とする火事で天守をはじめとする天守曲輪の建物の多くが焼失してしまいました。松山藩は幕府に再建を働きかけ,ペリー来航の翌年である1854年(安政元年),焼失前の建物をできるだけ再現し,天守曲輪が再建されました。
したがって,松山城は現存12天守の中で最も新しいものです。私はそうした説明を聞いて,江戸幕府の武家諸法度は,将軍家の居城であった江戸城や大坂城の天守ですら再建されることがなかったように,天守の新築はもとより増改築も厳しく取り締まっていたのに,松山城が,落雷で焼失した天守を幕末に再建できたのがとても不思議に思えました。しかも,松山藩の財政は火の車だったというではないですか。
質問してみると「徳川の親戚筋だったから」という回答だったのですが,私はそれだけでは納得ができませんでした。

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今治市で昼食を,と思っていたのですが,適当な店がなく,そのままだらだらと国道317号線を松山市に向かって走っていくことになりました。
これを書きながら改めて地図を見ると,国道196号線を走ったほうが海岸線沿いで景色がよかったのですが,このときは,深く考えず,単にGoogleMapsのナビゲーションで走っていただけでした。次第に松山市に近づいているようでしたが,まだまだ山の中でした。すると,奥道後という道路標示がありました。どうして「奥」道後なのか? と思ったのですが,松山市からみれば山の中なのです。私は,反対側から走ってきたから実感がわかなかったわけです。
すると,「田舎家」というおそば屋さんがありました。この先走っていっても人と車が増えていくだけなので,ここで昼食をとることにして,駐車場に車を停めました。無知な私は,四国はうどんだと思っていたのですが,うどんは讃岐,つまり,香川県の名物であって愛媛県とは関係がないのです。実際,うどんとそばどっち? というアンケートに,うどんと答える割合は香川県には多くても,愛媛県ではそば,という割合の方が多いようです。そこで,この店もそばが標準だったのですが,では,愛媛県の名物を,ということで,「じゃこ天」つきにしました。
  ・・・・・・
八幡浜市や宇和島市などでは魚の加工品づくりが盛んで,その代表的なものに「じゃこ天」があります。
底引き網でとれたいろいろな種類の雑魚でつくられていたことから「ざこ天」と名づけられ,それが変化して「じゃこ天」になったという説や,原料のほたるじゃこに由来して「じゃこ天」とよばれるようになったという説があります。
  ・・・・・・

食事を終えてしばらく行くと,松山市内に到着しました。
せっかく来たのだから,とりあえず,道後温泉あたりを歩いてみようと,適当な駐車場を見つけて車を停めて,外に出ました。そこには,よくテレビなどで見る松山市内の様子が目の前にありましたが,それにしても人が多い。この国の観光客は,有名どころだけに人が群れるのです。そして,1本道路を隔てれば閑散としてしまいます。私は,閑散どころを探して旅をしています。そもそも,松山市に行こうと思っていたわけでもないから,これですっかり嫌になりました。
私が車を停めたのは,道後公園というところでした。私が松山市に来たのは,松山城に行きたいなあ,と思っていただけだったのですが,道後公園に湯築城(ゆづきじょう)というのがあって,これが松山城なのか? と誤解をしてしまいました。
  ・・・・・・
湯築城は道後公園にある城跡で,堀や土塁が現存します。
1335年(建武2年)ごろ,伊予国の守護であった河野通盛の代に築城されました。1581年(天正9年)以後,土佐の長宗我部元親が伊予に侵入したり,1585年(天正13年)豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が侵攻するなど,戦いの場になったのですが,1587年(天正15年)城主となった福島正則が国分山城に居城を移したため廃城となり,1602年(慶長7年)には松山城の築城が開始されました。
  ・・・・・・

道後温泉アーケード通りの入口に観光案内所があったので,中に入っていろいろと聞いてみました。
道後温泉といって有名な「道後温泉本館」は現在改修中ということで,外観が見られず,せめて写真くらい撮ろうと思っていたのですが,落胆しました。また,松山城は湯築城のことではなく,別の場所にあるということでした。そこで,さっさとこの場所を離れて松山城に行くことにしました。こんなうじゃうじゃと観光客のいるところに長居をしたくありませんでした。松山市は歴史的にもおもしろそうなところだったのですが,これだけ人が多くては,私にはだめでした。
ところで,松山市といえば,だれしもが思い浮かべるのが「坊ちゃん」ですが,私には,正岡子規です。1867年(慶応3年)現在の松山市花園町で生まれた正岡子規は,日本の近代文学に多大な影響を及ぼした明治を代表する文学者のひとりです。正岡子規は,ベースボールを野球と名づけた人でもありますが,日本の野球ファンでも,そんなことすら知らない人がほとんどでしょう。それにちなんだ像が伊予鉄道の道後温泉駅前広場の片隅に建てられていました。坊っちゃんのからくり時計は注目を浴びているのに,こちらの像は気にしてもらえないというのが,まあ,日本の観光客らしいというかなんというか…。
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 春風や まりを投げたき 草の原
 まり投げて 見たき広場や 春の草
 球うける極秘は風の柳かな
 恋知らぬ 猫のふりなり 球遊び
 若草や 子供集まりて 毬を打つ
 草茂みベースボールの道白し
 夏草や ベースボールの 人通し
 生垣の 外は枯野や 球遊び
 蒲公英や ボールコロゲテ 通リケリ
   正岡子規
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旅行をすると,なぜか,その土地にある美術館や動物園に行くことになるのですが,それと同じように,私は決して城マニアではないのですが,城に行くことも少なくありません。それは,その土地の名所や旧跡が城だからなのでしょう。
四国地方には,多くの城があります。とはいえ,何をもって城と定義するのかよくわかりません。石垣しか残っていない山城やら,戦国時代以前の城跡まで含めたら相当な数になるでしょうし,現在城郭らしき建物があっても,それが江戸時代からのものもあれば,近ごろの町おこしで作られた城まがいの博物館であったりします。
そこで,ここでは厳密には考えず,適当な話にしておくことにすると,私が調べたところでは,四国で天守のような建物が存在するのは,愛媛県では松山城,宇和島城,大洲城,今治城,高知県では高知城,香川県では高松城,丸亀城,徳島県では徳島城といったところでしょうか。
それらの多くはすでに行っているのですが,松山城,大洲城,今治城には行ったことがありません。というか,四国地方の中で,私は,松山市以外には北西部のあたりへ行ったことがないのです。また,松山市には行きましたが,なぜか,松山城は行った記憶がありません。
そこで,この旅では,2日目の午後と3日目,四国地方の北西部に行こうと思っていたので,このあたりにある今治城,松山城,大洲城へ行ってみようと,今日はまず,宿泊先である松山市に向かう途中にある今治城に寄ることにしました。

何度行っても,四国の高速道路がどうなっているのか,把握できません。
調べる気のない私が悪いのでしょうが,そもそも,四国に限らず,この国の高速道路は,どこが無料区間でどこが有料区間なのか不明なのです。調べても,なかなかわかりやすい情報が得られません。アメリカのように,地図で,有料区間と無料区間が色分けしてあればことが済むと思うのですが,何事も「日本人の知恵と発想の限界」がそうさせているのでしょう。
また,道路の名前のつけ方やナンバーリングひとつとっても,直感ではそれが何なのかわからないのです。これもまた,アメリカのインタ―ステイツのナンバーリングのような明確さがありません。
そんな次第なのですが,調べるのも面倒だったので,伊尾木洞から今治城まで,iPhoneのGoogleMapsが言うとおりに走ることにしました。今回私が借りた日産のNOTEという車は優秀で,車についていたワイヤレス充電器にiPhoeを置くだけでCarPlayが起動して,車のディスプレイに私のGoogleMapsが表示されました。

そうして,高知道を北に走っていくと,やがて,瀬戸内海が見えてきました。太平洋岸とはちがって,瀬戸内海側は家が多いです。川之江ジャンクションで松山道に乗り換えて,西に行くと,ほどなくして今治市が見えてきました。今治城に着いたので,駐車場に車を停めて,外に出ました。
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1604年(慶長9年)築城名人の藤堂高虎によって造られた今治城は別称「吹揚城(=吹上城)」といいます。それは「砂が吹き上げられる浜」に建てられたことに由来します。三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で,香川県の高松城,大分県の中津城日本と並んで,3大水城のひとつです。
1609年(慶長14年)に藤堂高虎は伊勢国津城藩に移封となり,その後は,藤堂高吉を経て,1635年(寛永12年)に伊勢国長島藩より松平定勝の5男松平定房が入り,明治維新まで今治藩・松平氏の居城となりました。
1869年(明治2年)に廃城となり,ほとんどの建築物が破却されたことや,その後に火災が発生したこともあって,城は破壊されましたが,石垣と内堀は江戸時代の姿を残しました。そして,1980年(昭和55年)に現在の天守が鉄筋コンクリートで建てられましたが,今治城の再建天守は,明確な資料が少ないため,史実に基づかない模擬天守です。
  ・・・・・・

まず,天守に登りました。昭和のころは木造での再建が認められていなかったので,鉄筋コンクリートで,今となっては魅力がありません。最上階からは,しまなみ海道の来島海峡大橋が見えるなど,瀬戸内海を眺望することができました。
その後,天守に連なる多聞櫓,御金櫓,そして,山里櫓,武具櫓とまわりました。
多聞櫓は自然科学館となっていて,魚貝類標本や鳥類の剥製などがありました。おそらく,ここが今治市の科学館なのでしょう。
御金櫓(おかねやぐら)は1985年(昭和60年)に再建された二の丸跡の東隅に立つ二重櫓で,内部は郷土出身作家による現代美術館になっていました。私が訪れたときは「水墨画風景今治の港・海・来島海峡大橋 松本奉山の世界」というものが開催されていました。松本奉山は,1925年に生まれ2010年に亡くなった今治市出身の女流水墨画家ということした。展示されていた水墨画は,私には興味深く思えましたが,ときどきやってくる観光客の人たちはまったく興味がなさそうでした。
山里櫓(やまざとやぐら)は1990年(平成2年)に再建された二の丸北西隅に立つ二重櫓で,内部は武具や古美術品が展示されていました。
また,鉄御門・武具櫓(くろがねごもん・ぶぐやぐら)は二の丸の表門で,2007年(平成19年))に再現復元され,内部が公開されていました。

今治城は,外観から見た景色はなかなかのものでしたが,内部は観光地としては古臭く感じました。
私は,今治というと,上質のタオル,というイメージが強く,愛用していますけれど,今治市自体は,瀬戸大橋で本州からつながっている交通の拠点としての位置づけで,観光地としての魅力はないようです。
私には期待外れでした。

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今回の2泊3日の旅は,NHK朝の連続テレビ小説「らんまん」に出てきた牧野富太郎博士ゆかりの地を訪ねる,というのが目的で,高知県立牧野植物園,佐川町と横倉山,そして,伊尾木洞,これだけは行ってみたいと思っていました。そして,せっかく行くのだから,と,それ以外に,美しい夕景で知られる下灘駅に足をのばしてみたい,とも考えていました。しかし,下灘駅で夕日が見られるかどうかは天気次第だし,期待半分,そして,そのほかの予定は,まったくの未定でした。
来る前は,1日目に伊尾木洞までいくことができるかな? あるいは,1日目には,まず,伊尾木洞へ行ってから,そのあと佐川町と横倉山へ行こうかな,などと巡る順番に迷ったあげく,旅は行きたいところから先に行く,という私のポリシーを貫いて,はじめに高知県立牧野植物園,次に,佐川町と横倉山へ行き,そこで時間切れになりました。そこで,2日目の朝に伊尾木洞へ行って,その後,下灘駅に向かうことにしました。
結果論ですが,実際は,まず,伊尾木洞へ行って,次に高知県立牧野植物園へ行ったあと,佐川町へ行き,佐川町で1泊して,2日目に横倉山へ,というのが最善でした。そうすれば,距離的にも不自然でなかったし,佐川町に宿泊してゆったりすることもできたのです。

2023年10月20日。2日目。
2日目は,1日目に行くことができなかった伊尾木洞(いおきどう)へ行ってから,松山市に向かい,夕方に松山市から下灘駅に行くことになりました。
宿泊先の高知会館では朝食が食べられないので,途中のすき家あたりで朝食をとることにして,早々にチェックアウトしました。伊尾木洞は,昨日とは反対に,高知市から東に国道55号線を芸西村,安芸市と過ぎたところにあります。この道はこれまで幾度となく走ったことがあるのですが,これまでその途中に伊尾木洞があることは知りませんでした。
この日は平日だったので,早朝,思った以上に道路が渋滞していました。このあたりの渋滞は,国道55号線1本しか道路がないことが問題らしいのです。現在は,渋滞の緩和のために国道55号線に平行した山間に高速速道路を作りはじめたのですが,それがまだ芸西村あたりまでしか作られておらず,その先は建設中なので,高速道路から国道55号線になだれ込む車で,より混乱していました。
それにしても,市外から市内に入るときに渋滞するのはどこも同じですが,高知県の場合,高知市内から出て行く車で朝混雑しているというのが私には理解不能でした。
それでも,何とか,朝食もとり,伊尾木洞に到着することができました。

私が伊尾木洞の存在を知ったのは,2022年10月14日にNHKBSPで放送された「にっぽん縦断こころ旅」でした。今から約30年前に安芸市東部の地層を卒論にまとめた人からの手紙に
  ・・・・・・・
安芸市伊尾木の洞窟が気になって教授に話し調べてもらうと,約310万年くらい前,土佐湾の海の底に流れていた泥や砂が洞窟を形成していることがわかりました。洞窟に入り,北側より雨風にふれ,岩盤の割れた洞窟を眺めると,こころが岩盤の石と同化し,石と一体になって自然な心が生まれ,これまでたくさんの社会の人々に支えられてきた人間賛歌の気持ちを強くし,不思議な気持ちになりました。
  ・・・・・・
とあって,こんな場所があるんだ,行ってみたいものだ,と思ったことがはじめです。
その翌年,期せずして「らんまん」のロケ地となり,第1回の放送でもこの場所が出てきました。
ロケでは,「人の存在を感じさせない,カメラの存在を感じさせたくない」制作スタッフの熱い思いで,2台のドローンを使い,まるで自分が伊尾木洞を吹く風か鳥になったような感覚を味わえるような映像を撮影したといいます。
こうなったら,行くしかありません。

駐車場があるかどうか不安だったのですが,近くのコンビニエンスストアの駐車場が開放されていました。伊尾木洞は天気が悪いと入ることができません。連日の晴天で,これもまた,幸運でした。
街中に忽然と現れた洞窟でした。結構長い洞窟を過ぎると,あたり一面シダに覆われたすごい風景が目の前に広がりました。
  ・・・・・・
伊尾木洞は,安芸市伊尾木にある洞窟です。約300万年前に海の中で堆積した地層が隆起して,水成岩が渓谷からの水で浸食されてできた天然の洞窟です。 年間を通して約20度の温度に保たれていて,長さ約40メートル,幅約3メートル,高さ約5メートルあります。
洞窟を通り抜けると崖に囲まれ,約40種類ものシダ群落による神秘的な光景が見られます。
  ・・・・・・
伊尾木洞は,その先延々と続いていて,3つの滝があるということだったのですが,そんなに長いものだと思っていなかった私は,ここで時間をとるわけにもいまず,また,見たところ,かなり険しく,行くのが大変そうだったので,この風景を見ただけで一応満足して引き上げました。

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横倉山自然の森博物館の見学を終えてから受付で聞いてみると,私のめざす杉原神社は,横倉山自然の森博物館の横の道路をどんどんと上っていくと駐車場があって,その一番上の第3駐車場に車を停めて,そこから20分程度歩くということでした。私は,駐車場に車を停めたらすぐと思っていたので,それを聞いただけでめげましたが,ここまで来た以上,行くしかありません。
第3駐車場までもまた,かなりの距離と標高があって驚きました。とても歩いて登れるものではありません。やがて,広い駐車場に着いたのですが,ほかに車は見当たりませんでした。そこから杉原神社へ行く道があるということなのですが,それが見当たりません。掲示されていた地図と見比べると,「安徳天皇陵墓参考地」と書かれた鳥居の先だと気づきました。それにしても,杉原神社という案内があってもいいのに,と思いました。

山の中の道をずいぶんと歩いて行くと,やがて,杉原神社が見えてきました。そこは「らんまん」で見たものと同じでした。それにしても,テレビのロケでも,ここまで来るには山道を歩くしか方法はないわけで,役者さんは大変だなあ,と思いました。
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標高800メートルの横倉山は800年以上の昔から土佐の国唯一の修験道の霊場として神聖な地とされてきました。樹齢約500年から600年の巨杉が多いことからその名になった杉原神社は平家の守護神である熊野権現を祀っていて,1897年(明治30年)ごろに改築された本殿周囲の彫刻は精巧でみどころのひとつとなっています。
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平家の守護神というのは,前回書いたように,この地に,81代安徳天皇が難を逃れ,横倉山に落ち延び,病によってこの地で1200年(正治2年)に23歳で亡くなったという伝説から来るものです。
そこで,かつて,臣下の者と共に鞠を興じた土地に「安徳天皇陵墓参考地」があるということですし,また,随伴した88名の将を祀る祠や墓がひとつにまとめられて杉原神社のわきに祀られた平家之宮がありました。
「安徳天皇陵墓参考地」は杉原神社からさらに20分ほど行った先,すでにめげていたことと,私は,このような迷信話には興味がない,という言い訳をして,「安徳天皇陵墓参考地」には足を延ばしませんでした。

さて,2泊3日の今回の旅の1泊目は高知市内にしてありました。宿泊先は,教職員共済組合の高知会館。温泉地にしようかとも思いましたが,8月に行った隠岐諸島で,ご馳走を食べすぎて少々食傷気味だったこともあって,安価に泊れればいいや,として選んだものでした。この商売っ気のない宿泊先は,宿泊者もほとんどおらず,それはそれで気楽で悪くないものでした。
夜は,高知市内の繁華街に出かけようと思っていたのですが,めんどうになって,高知会館にあったレストランにしました。広いレストランだったのに,客は私ひとり。こういうの,とてもいいです。

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「らんまん」で主人公の万太郎が天狗に出会った場所が横倉山の杉原神社です。
かなり山奥なので,行くのが大変だと思っていたのですが,地図で見ると,佐川の町から近く,また,杉原神社の近くまで車で行くことができるようでした。ところが,国道33号線を走っていっても,意外に遠いのです。それでも,なんとか横倉山自然の森博物館という道路標示を見つけたので,標示に従って,国道33号線からはずれて走っていくと,次第に山の中に入っていきました。そこに横倉山自然の森博物館が忽然と現れました。
ずいぶんと手前に駐車場があったのですがやり過ごし,さらに行くと,博物館横に再び駐車場があったので,車を停めることにしました。駐車場にあったのは1台のバスだけでした。どうやら,中学生の団体さんのようで,嫌な予感がしましたが,ちょうど帰るところでした。
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横倉山自然の森博物館は,県内唯一の安藤忠雄氏の建築。
日本植物学の父,牧野富太郎博士の重要な研究フィールドでもあり,博士の書いた植物画や,横倉山で発見された化石などを見て学ぶことができる。
3階では,アニメ映画「竜とそばかすの姫」の巨大フィギアと,映画の舞台のモデルとなった越知町や仁淀川流域のパネルも展示中。
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という味もそっけもない案内がウェブサイトにありました。
私は,「らんまん」で出てきた杉原神社あたりに行きたかっただけだったのですが,せっかく来たのだからと横倉山自然の森博物館に入りました。横倉山自然の森博物館は結構見ごたえがありました。また,牧野富太郎博士にちなんだ企画展をやっていたので,十分堪能できました。牧野富太郎博士にちなんだ企画展では,牧野富太郎博士と妻・寿衛さんの写真があって,ドラマとダブって,ちょっと感動しました。

横倉山自然の森博物館にあった横倉山についての展示によると
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横倉山は赤道近くのサンゴ礁を伴う小さな大陸だったところで,4億5,000万年前の「コノドント」(Conodont)とよばれる化石や,クサリサンゴ,三葉虫といった多くの化石が発見されています。
「コノドント」は、カンブリア紀初めから三畳紀の終わりごろ,つまり,6億年前から1億8,000万年前の岩石に含まれている化石で、19世紀にロシアで発見されました。 大きさは1ミリメートルにも満たない小ささで、クシの歯やヤギの角に似た形をしていたため、発見者は魚の歯が化石になったものだろうと考えました。また,横倉山には樹齢数百年のアカガシの原生林や世界的にも珍しい「コオロギラン」(Stigmatodactylus sikokianus)など,さまざまな植物が自生しているので,牧野富太郎博士の研究のフィールドでした。
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ということでした。

史実では,1185年(文治元年)に壇ノ浦の戦いで入水した81代安徳天皇ですが,実は,難を逃れ,横倉山に落ち延び,病によってこの地で1200年(正治2年)に23歳で亡くなったという伝説があって,それに触れられた展示もありました。
そういえば,先日行った徳島県の祖谷(いや)にも,壇ノ浦で亡くなった安徳天皇や平国盛,時子たちは実は影武者で,祖谷の地に逃げ延びたという,「もうひとつの平家物語」とよばれる逸話が伝わっていると知りました。このように,四国では安徳天皇がお好きなようなのですが,こうもあちらこちらに安徳天皇が出没していては,本人の身がもちませんし,成仏もできないことだなあ,と私は思いました。

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佐川町の街中から少し歩いて行ったところに,牧野富太郎博士の墓があるということなので,行ってみたいと思いました。歩いて行くと牧野公園がありました。どうやら,お墓は公園の中にあるようでした。さすがに,団体ツアー客は,ここまではやってきません。静寂の中,すてきな時間を過ごすことができました。
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牧野公園は,日本の桜名所100選,高知を代表する花見どころということですが,それは,1902年(明治35年)に牧野富太郎博士が東京からソメイヨシノの苗を送って,それを地元の有志が青源寺の土手などに植えたことにはじまりました。そして,1958年(昭和33年)といいますから,牧野富太郎博士が亡くなってすぐ,公園内に町道が完成したときに牧野公園と称することになったそうです。
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牧野公園に差しかかる坂道を上りはじめると,まず,保育園があって,その先に青源寺がありました。
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清源寺は,1603年(慶長8年)にこの地を治めていた筆頭家老・深尾家の菩提寺として創建された,臨済宗妙心寺派の寺院で,春は桜,秋は紅葉の彩りが非常に美しい庭園は,同じく,佐川町にある乗台寺と共に,土佐三大名園のひとつで県指定文化財となっています。
枯淡の味わい深い庭園で,禅林の風格を持った簡素さが特徴といいます。先に書いたように,「らんまん」では「名教館」として登場しました。
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牧野公園は,結構歩き甲斐のあるところでした。坂を随分と上っていったその中腹に、牧野富太郎博士の墓がありました。
そういえば,私は,先日,東京の谷中霊園の牧野富太郎博士の墓に行ったばかりです。牧野富太郎博士の墓がどうして2か所にあるかというと,生前「佐川に帰りたい」と言っていたことから,亡くなった翌年に分骨が埋葬されたということです。墓の裏には「バイカオウレン」の群生が広がっていました。
帰り道,「うさぎ堂」という休憩所があったので,そこで少し休憩することにしました。ここの名物はわらび餅ということで,所望しました。とてもおいしかったのですが,お腹がふくれてしまいました。

佐川町はとてもすてきな町でした。泊まるところもあるようなので,今度は,この町で1泊してみたいと思いました。

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次に行ったのが,白亜の洋風建築「佐川文庫庫舎」(旧青山文庫)でした。レトロな洋風建築が少ない高知県で,県内最古の木造洋風建築ということです。
「佐川文庫庫舎」(旧青山文庫)は, 鹿鳴館時代の面影を残した県下最古の木造洋館です。1886年(明治19年)須崎警察署佐川分署として管内各村からの寄付により建築されたのがはじまりで,1922年(大正11年)に佐川警察署として独立,1930年(昭和5年)に新警察署が完成し移転したことによって,青山会に払い下げられました。
当時,佐川郵便局長であった川田氏は,私費を投じて,高知県初の私設図書館・川田文庫を創設しました。それに共感した田中光顕伯爵が基金と蔵書を寄贈,町民有志によって結成されたのが青山会です。名称も,川田文庫から田中光顕伯爵の雅名であった青山文庫へ変更されました。
1963年(昭和38年)に高知県立郷土文化会館が新設されると一時期休館となりましたが,1968年(昭和43年)に,佐川文庫と名称を変え再び図書館として開館しましたが,1978年(昭和53年)に閉鎖され,所蔵物は佐川町総合文化センターへ移されました。 建物自体も再度移築され,今度は民具の展示館として使用されました。そして,2009年(平成21年)に現在の場所へ移築されました。
 1階には「らんまん」の写真展示がありました。また,2階には,この建物に関する説明パネルがありました。

その隣にあったのが牧野富太郎博士も学んだ「名教館」でした。
佐川町は,江戸時代,土佐藩の山内家の筆頭家老・深尾氏が城下町として築き上げた町で,深尾氏は代々,教育に力を入れ,文武両道を推奨し,6代・深尾茂澄が「家塾」を開き,1772年(安永元年),7代・深尾繁公が郷校「名教館」を創設しました。1830年(天保元年)に東元町に広大な校舎を建設し,幕末まで数多くの人材を育成しました。
 明治に入り,廃藩置県・学制の発令により「佐川小学校」と改名し,中本町に佐川尋常小学校としての校舎の建築,玄関を移設しました。当時の門下生は武士の子どもがほとんどで、町人は牧野富太郎博士ともうひとりだけで,身分による差別があったそうです。明治時代に入っても身分制度の風習が残っていて,士族や武士の子供は上段に,一般の農家や商家の子供は下の段に座って勉強したということです。
「名教館」の建物は,2013年(平成25年)現在の場所に移築されました。
「らんまん」では,佐川町の牧野公園にある「青源寺」(せいげんじ)という寺の裏門とそこに続く石段が「名教館」という設定で撮影されました。

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今回の旅で絶対行きたかったのが高知県立牧野植物園と佐川町でした。
高知県立牧野植物園を出て,国道33号線を西に約1時間,佐川町に着きました。高知県のさまざまな町は,どこもこじんまりとしていて,私は好きですが,佐川町もそうでした。市街地は歩いてまわれるほどで,無料の広い駐車場があったので,車を停めました。私が停めたときは,ほとんど車がなかったのですが,やはり,心配していたとおり,「らんまん」の影響で,時折,観光バスがやってきては,私の嫌いな団体ツアー客が小さな町に溢れました。とはいえ,こんなに小さな町,彼らが行く場所は限られているので,わずかな時間で去っていきました。

駐車場から,まず,司牡丹酒造のある「酒蔵の道」を歩きました。風情ある酒蔵が東西に延びる「酒蔵の道」には,江戸時代に建てられたものから最近のものまで,蔵がたくさん並んでいました。大きな煙突の下にある蔵は延長85メートルもあって,そこには,出荷前の酒が眠っているそうです。
1600年(慶長5年),山内一豊に伴い土佐に入国し,佐川1万石を与えられた深尾氏は,お抱えの酒造り職人を伴い,遠来の醸造技術と良質の天然水を融合し,数々の銘酒が作られました。
また,「酒蔵の道」を東へ歩いていくと「竹村家住宅」がありました。竹村家は 江戸時代より造り酒屋として栄えた商家でした。

さらに歩いていくと,町の外れに牧野富太郎博士の生家だったところがありました。現在は「牧野富太郎ふるさと館」となっています。牧野富太郎ふるさと館の展示室では,牧野富太郎博士の遺品や直筆の手紙,原稿等が展示されていて,とても興味深く見学することができました。
  ・・・・・・
佐川町で生まれた牧野富太郎博士の実家は,「岸家」という屋号で酒造りをしていました。植物研究に没頭して,酒屋を潰してしまったのですが,「岸家」の酒蔵は,のちに,創業が1603年(慶長8年)という司牡丹酒造に譲られました。司牡丹酒造の蒸留器がある場所は「岸家」の酒蔵跡地ということです。
司牡丹酒造の酒は,広く出回っています。また,20年熟成の焼酎をベースとした牧野富太郎博士の名前をとった「マキノジン」(GIN MAKINO)というクラフトジンを販売しています。
  ・・
「マキノジン」は,キーボタニカルに牧野富太郎博士が妻の名前から命名した「スエコザサ」を使用し,高知県産のグアバ,ブシュカンやショウガ,ハーブなど全12種類を司牡丹の焼酎に漬け込んで蒸溜しています。
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お昼近くになったので,園内で昼食を,と考えました。
こうした施設に,気が利いたレストランがあれば助かりますが,それがなかなか難しく,とても混雑していたり,中には,全くないようなところもあります。
案内図を見ると,高知県立牧野植物園には,正門から入った本館にカフェがあるようだったので,行ってみたのですが,そこでは食事はできませんでした。聞いてみると,中門から入ったところに植物研究交流センターという建物があって,そこに,お土産屋さんとレストランがあるということだったので,行ってみました。そして,そこにあったのが「C.L.GARDEN」というレストランでした。
  ・・・・・・
子どものころに憧れた木の上の小屋のようなレストラン。
シェフ自慢,ココット(鋳物ホーロー鍋)のハンバーグランチや,ふもとの市場で仕入れたお魚ランチなど旬の野菜をふんだんに使った地産地消の洋食メニューをご提供します。
  ・・・・・・
というのが,ネットでの紹介ですが,幸運なことに座席が空いていたので,中に入りました。
注文したのは「ふもとの市場で仕入れたお魚ランチ-アクアパッツァ」というのもでした。
「アクアパッツァ」(acqua pazza)というのは,魚介類をトマトとオリーブオイルなどとともに煮込んだナポリ料理です。アクアパッツァは,ナポリ地方の漁師達が魚介類を海水を加えた上でトマトオリーブオイルと共にソテーして作っていた料理が起源だといわれています。

昼食を終え,満足して,高知県立牧野植物園を後にすることにして,お名残惜しく,最後に,牧野富太郎記念館の前にあった「スエコザサ」を見にいきました。
先日行った東京の牧野記念庭園では,牧野富太郎博士の像がスエコザサに囲まれていたのですが,ここでは,これもまた,先日行った谷中霊園の牧野富太郎博士のお墓のとなりにあった妻・壽衛さんの墓に刻まれていた
  ・・・・・・
 家守りし妻の恵みやわが学び
 世の中のあらん限りやすゑ子笹
  ・・・・・・ 
と同じ句のかかれたプレートとともに「スエコザサ」がありました。
なお,「らんまん」では,最終回に「スエコザサ」が記載された「牧野植物図鑑」が出てきますが,実際の「牧野植物図鑑」には「スエコザサ」はありません。それは,「スエコザサ」は新種ではなく「アズマザサ」(Sasaella ramosa Makino)の変種とわかったからですが,それでも,現在,学名は「Sasaella ramosa(Makino) Makino var.suwekoana (Makino)Sad.Suzuki」となっていて,壽衛さんの名前は残っています。

これで,高知県立牧野植物園の見学を終えました。
高知県立牧野植物園は期待以上のところでした。また,今のようなブームが去って,もっと人が少なくなったら来てみたいと思いました。

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高知県立牧野植物園には,牧野富太郎記念館がありました。
立派な業績を残した学者さんでも,記念館がある人は多くはありません。牧野富太郎博士は,なんと幸せな人なのだろうと思いました。それとともに,高知県がいかに牧野富太郎博士を大切にしているのかがよくわかるというものでした。

  ・・・・・・・
牧野富太郎博士は幕末の1862年(文久2年)に現在の高知県高岡郡佐川町に生まれ,1957年(昭和32年)に94歳で亡くなった植物学者です。私が生まれたときは,まだ,御存命だったわけです。
豊かな自然のなかで育ち,幼少から植物に興味をもち,独学で植物の知識を身につけていきました。2度目の上京のとき,現在の東京大学理学部植物学教室への出入りを許され,植物分類学の研究に打ち込むようになり,自ら創刊に携わった「植物学雑誌」に,新種ヤマトグサを発表し,日本人として国内ではじめて新種に学名をつけました。また,「牧野日本植物図鑑」を刊行しました。
生涯で収集した標本は約40万枚,蔵書は4万冊を越えます。また,新種や新品種など1,500種類以上の植物を命名しました。
  ・・・・・・
2023年前期のNHK連続テレビ小説「らんまん」の主人公は牧野富太郎博士をモデルにしているのですが,史実とは異なっていることも多々あるそうです。
ドラマはドラマ,フィクションなので,それはそれで問題はないのですが,「らんまん」は元気が出るすばらしいドラマだったと思うし,牧野富太郎博士の生涯を,あく抜きして,なぞっていたように私は思います。

牧野富太郎博士に限らず,明治生まれの人には,今の時代には決して現れないであろう,こうした,ある意味,仙人のような人がいます。私は,そうした人の生き方に憧れます。
以前,ブログに「私は「高等遊民」になりたい」と書いたのですが,果たして,牧野富太郎博士は「高等遊民」だったのでしょうか? いや,「高等遊民」にしては,天賦の才能が有りすぎます。私は,「高等遊民」に憧れていても,決して,牧野富太郎博士ようにはなれません。それは,私には,天賦の才能がないからです。
将棋の藤井聡太竜王名人やMLBの大谷翔平選手のように,天賦の才能をもって生まれた人は,選ばれた,それを生かすことができる人だけに宿るように,創造主は授けるのでしょう。

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高知県立牧野植物園には,「こんこん山広場」や「ふむふむ広場」といった場所があって,そこからは,高知市内が一望できるし,牧野富太郎博士ゆかりの草花がいっぱいでした。ほんとうにすばらしい場所です。
「らんまん」が放送されたので,番組で出てきた草花は,みな,印がつけてありましたが,私は,そのなかで「バイカオウレン」(Coptis quinquefolia Miq.)と書かれた小さな葉が気に入りました。もう少しすると,かわいい花が咲きます。
「バイカオウレン」は,連続テレビ小説「らんまん」,その第1週のタイトルとなったものでもあります。
  ・・・・・・
「バイカオウレン」は,「らんまん」の作中で,主人公の万太郎が母ヒサのために取りに行こうとした花です。そして,その週の最後で一面に咲いていた,濃い緑色の葉に白い花です。
「バイカオウレン」は,林の中などに生える常緑の多年草です。花びらのように見える白い部分はガクで,黄色のコップ状の形をしたが花が咲きます。開花期は12月から2月ごろなので,残念ながら見ることはできませんでした。 花の大きさは1センチメートルから2センチメートルととても小さいものです。
「らんまん」の万太郎のモデルとなった牧野富太郎博士は,幼少時代,現在の高知県佐川町の生家の裏山に咲く「バイカオウレン」を特に好み,上京後には郷里土佐を思い起こさせる植物として,特別な存在であり続けたといいうことです。
「らんまん」の中では,ヒサが万太郎に自分が1番好きな花と伝えます。ヒサは,「生まれて来ないほうがよかった」と言う万太郎に対して「この花はたくましい。いのちの力に満ちちゅう。万太郎もね」という言葉をかけ,息を引き取るのです。
その後,一面に「バイカオウレン」が咲きましたが,万太郎はそのころはまだ,その花の名前を知りませんでした。「この花の名前が知りたい!」。 これが万太郎と植物との関わりを生んだのです。
  ・・・・・・
私は,この花が咲くころに,また,高知県立牧野植物園に来てみたいと思いました。

それ以外にも,「ガマズミ」(Coptis quinquefolia Thunb.),「ノジギク」(Chrysanthemum japonense (Makino) Nakai)などが目につきました。
「ガマズミ」は,山地や丘陵地の明るい林や草原に生えるガマズミ科ガマズミ属に属する落葉低木です。別名は「莢蒾子」(きょうめいし)といって,薬用に用いられます。また,そのまま食べることもできるし果実酒にもなります。花言葉は,結合,愛は強し,恋の焦り,私を無視しないで,だそうです。
「ノジギク」はドラマの第105回で,得意客の岩崎が提案した「菊くらべ」に参加した妻の寿恵子が,華やかなキクが並ぶなか,主人公の万太郎が採取してきた地味なキクとして差し出したものです。寿恵子は,菊が唐の国から渡ってきたことや,日本の人々が手をかけてきらびやかな花へと作り上げたことを説明し,白くて小さな原種の菊「ノジギク」の魅力を堂々と語り出すのです。
  ・・・・・・
「ノジギク」は1000年以上前から人の手がまったく入っておりません。
  ・
どちらの菊にも,優劣はございません。ですが,「ノジギク」とこちらの菊たち,ともにそろえば,大陸と海,それから幾星霜にわたる日本の人々の総意と工夫に思いをはせることができましょう。
  ・・・・・・
寿恵子は,万太郎のことばを借りつつ,日本の人々には花を愛するこころがあることや,みんなに花を愛でる思いがあれば,争いも起こらないはずだと訴えるのでした。
私は,この「ノジギク」が大好きです。

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キャプチャ


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レンタカーを借りて,まず向かったのは,高知県立牧野植物園でした。
高知県立牧野植物園は,高知市街から高知龍馬空港に向かう途中にあります。高知南国道路がトンネルに入ったその上にあるのですが,これまで,何度もそのトンネルは通っていたのに,一度も行くことがありませんでした。また,私は場所を勘違いしていて,道路に面したところにあるとばかり思っていて,今回,iPhoneのGoogleMapsを車に表示して走っていたのですが,小高い山の中に入っていくので,戸惑ってしまいました。それでも,なんとか,駐車場に着きました。
やはり,予想通り混んでいましたが,それでも,平日なので,まだマシ,といったところでした。
  ・・・・・・
高知県立牧野植物園は,高知県出身の植物学者牧野富太郎博士の業績を記念して,1958年(昭和33年)に五台山に「県営牧野植物園」として開園しました。1999年(平成11年)には園内に牧野富太郎記念館本館が開館し,リニューアルオープンし,2008年(平成20年)には南園に「50周年記念庭園」が誕生,また,2010年(平成22年)4月24日には新温室がオープンしました。
  ・・・・・・

チケットを購入して,園内に入りました。
今回,私は,ここでたっぷりと時間をとって,見学することにしていました。はじめは不案内だったので,ともかく,園内を1周してみることにしたのですが,それがまあ予想以上に広いこと。また,思っていたよりもずっとすばらしいところでした。
NHK連続テレビ小説「らんまん」が終わったときだったので,番組に出てきた花にはそれがわかるように案内が取り付けられていたり,また,テレビ番組に関する展示があったりしたことと,番組に出てきた植物の名前になじみがあったので,結果的に,この時期に来たのはよかったわけです。ただ,花は開花の時期というものがあるので,そうした花々がすべて咲いているわけではないのが,当たり前のこととはいえ,残念でした。
まず,目についたのが「ヤマトグサ」(Theligonum japonica Okubo et Makino)でした。
  ・・・・・・
「ヤマトグサ」は,アカネ科ヤマトグサ属に分類される多年草で,雄花が雄蘂が垂れ下がる独特の姿をしています。
1884年(明治17年)に牧野富太郎博士が最初に高知県で発見しました。本種は日本固有種で,しかも,日本人の手によって記載され,日本の学術雑誌に発表された最初の植物です。
  ・・・・・・

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今日から,2023年10月19日から10月21日,2泊3日で出かけた四国旅行について書きます。
このブログを見直してみたら,昨年も同じ時期に四国に行っていました。昨年私が四国に行ったのは,かずら橋を渡ろう! というのが動機だったのですが,なかなか楽しい旅になりました。
ところで,今年度の前期NHK朝の連続テレビ小説「らんまん」の主人公は牧野富太郎博士で,高知県がその出身地でした。ドラマはおもしろく,非常に興味をもって見たことで,私は,牧野富太郎博士ゆかりの場所についてずいぶん詳しくなりましたが,昨年の今ごろは,牧野富太郎博士のことなんて,まったく興味がなく,せっかく高知県に行ったのに,高知県立牧野植物園も,牧野富太郎博士の生まれた佐川の町も,行くことがありませんでした。植物園? そんなところに行ってどうするの? と思っていた始末でした。そして,我が身の無知を恥じました。
そんなわけで,今年は,牧野富太郎博士ゆかりの場所を訪ねる旅に出たというわけです。

いつものように,FDAで県営名古屋空港から高知龍馬空港まで行って,そこでレンタカーを借りることにしました。宿泊先は,1日目は高知市内,そして,2日目は松江市の郊外にして,安価なところを見つけて予約をしました。
そして,1日目は高知県立牧野植物園と佐川町に行き,高知市内で泊り,翌日は,四国の瀬戸内海側に足をのばそうと思いました。2日目に松山市の郊外に泊ることにしたのは,前々から気になっていた,JRの下灘駅に行って夕日を見たい,と思ったからです。とはいえ,夕日が見られるかどうかは天気次第なので,期待半分,あきらめ半分でした。
と,いつものように,その程度のいい加減な計画で,あとのことは行ってから考えることにしました。

それにしても,9月までの酷暑とはうって変わって,今年の10月は気持ちのよい毎日が続いています。
特に,9月までがひどすぎたので,その差が大きく,私は,精神的にも肉体的にもバテバテだったのが,完全に復活しました。人が住む環境はこうでなければ…。
であるのですが,このところ,やたらと観光客が増えてしまい,それだけが残念です。私は,コロナ禍のころも変わらず旅をしていたのですが,あのころはどこもガラガラ,しかも,国がいろんな割引をやっていたから安価に旅をすることができたのが懐かしいです。飛行機も半分くらいは空席だったから,とてもサービスがよかったのですが,今は満員です。さらに,私の嫌いな,団体ツアー客と外国人のインバウンド,そして,なぜか群れて行動するオートバイライダーたちが復活してしまい,これからは旅をする場所を考えなければ,と苦慮するこのごろです。
私は,なるべく人の少ない,そして,自然の多い場所に出かかけてのんびりしたいのです。
  ・・
2023年10月19日。
さて,今回も,快晴の県営名古屋空港から飛び立ちました。
座席は,向かって右側の窓側席にしました。名古屋から高知までは,左側だとずっと海。ただし,室戸岬はよく見えます。そして,右側はずっと紀伊半島の景色が見られるのです。
定刻より5分ほど遅れて,高知龍馬空港に到着しました。

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