私が昨日知ってぜひ行ってみたいと思った,太宰治が弘前高校(現在の弘前大学)時代に下宿をしていたという家に,やっと来ることができました。
保存公開に際して,当時の家が,元の立地から約100メートル南東に向きを変えずに移築され,「太宰治まなびの家」として公開されていて,場所は,弘前大学にほど近いところでした。
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「太宰治まなびの家」は,太宰治が1927年(昭和2年)から1930年(昭和5年),旧制弘前高校在学時の3年間を過ごした藤田家住宅です。藤田家は太宰治の実家である津島家の親戚筋にあたりました。
この家の2階奧の,押入,縁側,出窓がついた6畳間が太宰治の部屋でした。
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太宰治は,1929年(昭和4年)12月10日の深夜,この部屋で,常用していた多量の睡眠剤カルモチンを飲み,最初の自殺未遂を敢行しました。当時つき合っていた,小山初代との関係が真因ではないかと推測されている一方,偽装自殺説もあるそうです。
「太宰治まなびの家」を出てから,弘前大学に向かいました。
弘前大学では,2009年(平成 21 年)太宰治生誕 100 年の節目の年に,太宰治と弘前大学との縁を恒久的に伝えるため,太宰治文学碑が建立されました。碑面には,「津軽」の一節が刻ま
れていますが,この碑文は,太宰治の長女・津島園子さんが最も好きだというものだそうです。
なお,弘前大学資料館にも太宰治の資料が展示されていると「太宰治学びの家」で聞いたのですが,今回は時間がなく,そこまでは行くことができませんでした。
どうやら,私は,もういちど,弘前市に足を運ぶ必要があるようです。
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私には,また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでゐる。人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて,主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても,結局は,津軽の現在生きてゐる姿を,そのまま読者に伝へる事が出来たならば,昭和の津軽風土記として,まづまあ,及第ではなからうかと私は思つてゐるのだが,ああ,それが,うまくゆくといいけれど。
太宰治「津軽」序編
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これで,今回の3泊4日の旅が終わりました。
ゆっくりと昼食をとる時間がなかったので,コンビニで買ったサンドウィッチを弘前駅のベンチで座って食べてから,午前12時15分のバスで青森空港へ向かいました。青森空港着午後1時10分。青森空港のラウンジで一服して,午後2時15分のFDAに乗って帰宅しました。
この日は曇りがちの天気で,一面雲がありましたが,ほどなくして,御嶽山のあたりだけ雲が切れて,1か月前よりずっと雪を被った山頂が見えました。
今回も天気に恵まれ,というか,恵まれすぎて暑かったのですが,念願だった天童市の人間将棋と弘前市の弘前城の満開の桜を堪能することができました。
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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは
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