しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:東北旅行LIVE > LIVE・2024春

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私が昨日知ってぜひ行ってみたいと思った,太宰治が弘前高校(現在の弘前大学)時代に下宿をしていたという家に,やっと来ることができました。
保存公開に際して,当時の家が,元の立地から約100メートル南東に向きを変えずに移築され,「太宰治まなびの家」として公開されていて,場所は,弘前大学にほど近いところでした。
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「太宰治まなびの家」は,太宰治が1927年(昭和2年)から1930年(昭和5年),旧制弘前高校在学時の3年間を過ごした藤田家住宅です。藤田家は太宰治の実家である津島家の親戚筋にあたりました。
この家の2階奧の,押入,縁側,出窓がついた6畳間が太宰治の部屋でした。
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太宰治は,1929年(昭和4年)12月10日の深夜,この部屋で,常用していた多量の睡眠剤カルモチンを飲み,最初の自殺未遂を敢行しました。当時つき合っていた,小山初代との関係が真因ではないかと推測されている一方,偽装自殺説もあるそうです。

「太宰治まなびの家」を出てから,弘前大学に向かいました。
弘前大学では,2009年(平成 21 年)太宰治生誕 100 年の節目の年に,太宰治と弘前大学との縁を恒久的に伝えるため,太宰治文学碑が建立されました。碑面には,「津軽」の一節が刻ま れていますが,この碑文は,太宰治の長女・津島園子さんが最も好きだというものだそうです。
なお,弘前大学資料館にも太宰治の資料が展示されていると「太宰治学びの家」で聞いたのですが,今回は時間がなく,そこまでは行くことができませんでした。
どうやら,私は,もういちど,弘前市に足を運ぶ必要があるようです。
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私には,また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでゐる。人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて,主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても,結局は,津軽の現在生きてゐる姿を,そのまま読者に伝へる事が出来たならば,昭和の津軽風土記として,まづまあ,及第ではなからうかと私は思つてゐるのだが,ああ,それが,うまくゆくといいけれど。
  太宰治「津軽」序編
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これで,今回の3泊4日の旅が終わりました。
ゆっくりと昼食をとる時間がなかったので,コンビニで買ったサンドウィッチを弘前駅のベンチで座って食べてから,午前12時15分のバスで青森空港へ向かいました。青森空港着午後1時10分。青森空港のラウンジで一服して,午後2時15分のFDAに乗って帰宅しました。
この日は曇りがちの天気で,一面雲がありましたが,ほどなくして,御嶽山のあたりだけ雲が切れて,1か月前よりずっと雪を被った山頂が見えました。
今回も天気に恵まれ,というか,恵まれすぎて暑かったのですが,念願だった天童市の人間将棋と弘前市の弘前城の満開の桜を堪能することができました。

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2024年4月16日。今回の旅も最終日となりました。
せっかく青森駅前の東横インに宿泊したのに,結局,青森市周辺には行きたいところもなく,最終日もまた,弘前市に行くことにしました。というのも,前日,りんごを食べながら話をしている途中で,弘前市に太宰治が下宿していた家が保存され公開されているという話を聞いて,ぜひ行ってみたいと思ったからでした。
ということで,東横インで朝食を済ませ,チェックアウトをして,青森駅に向かいました。私が乗ったのは,午前7時4分秋田駅行きで,弘前駅到着は午前7時50分でした。
この日の予定は,弘前駅から徒歩で,弘前東照宮,熊野奥照神社,弘前八幡宮と北上して,そこで引き返し,最勝院(さいしょういん),そして最後に,太宰治が下宿をしていたという旧藤田家住宅に行くことでした。これまで2度弘前市に来たのですが,すべて,行ったことがないところでした。

弘前駅から西に歩いていくと,まず,目についたのが旧青森銀行津軽支店の建物でした。
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1880年(明治13年)の弘前大火を教訓に1883年(明治16年)宮本甚兵衛が防火建築として設計した角三呉服店は,当時の洋風建築の要素を取り入れたものでした。
1917年(大正6年)に津軽銀行に譲渡されたとき,玄関前には洋風柱と印象的な棟飾りのポーチ,内部にはカウンターなどが設けられ,近代銀行建築に改装されました。1943年(昭和18年)からは青森銀行津軽支店として,1998年(平成10年)まで活用されてきました。
弘前市で現存する近代洋風建築の中では最古の建物とされていて,現在は「弘前市立百石町展示館」として一般公開されています。
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まだ朝早く,中に入ることはできませんでしたが,外観を見ることができました。

そこから北に向かって,弘前東照宮を目指して歩きました。
GoogleMapsが示す場所に到着したのですが,そこには薬王院という立派な寺があるだけで,それらしきものがありませんでした。歩きまわっていると,薬王院の裏手に空き地があって,そこに本殿だけが存在していました。
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弘前天満宮は,弘前藩2代藩主・津軽信枚が南光坊天海を通じて幕府に日光東照宮から東照大権現の神霊を迎えることを願い出て,1617年(元和3年)に,弘前城天守の傍らに東照大権現を勧請したのがはじまりです。
1624年(寛永元年)に現在地に遷座し,社殿を造営,薬王院が管掌することとなりました。
明治期に住民の希望で神仏判然令により薬王院と分離しつつ復興されました。
平成に,境内で運営していた結婚式場への過大投資が原因で経営難に陥り,宗教活動を停止し,本殿も売却されることになりましたが,2015年(平成27年)弘前市が収得し,祭神は黒石市にある黒石神社へ移されました。
本殿は創祀当時の建物で,素木造である上に彫刻や金具をほとんど用いない簡素な造りとなっています。
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といった経緯があって,現在は,本殿であった建物だけが囲いに覆われて存在していました。

北に歩いていって,熊野奥照神社に到着しました。
地図ではかなり遠そうだったので,行くことができるか不安だったのですが,それほどの距離ではありませんでした。
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熊野奥照神社は,紀元前85年,阿部比羅夫が秋田・能代の蝦夷を討ち津軽に所領を定めた際に,熊野三所大権現を奉ったのが最初といわれます。
津軽藩祖津軽為信が社殿を修復し,現在の本殿は2代目藩主津軽信牧の再建による,弘前最古の建造物です。
1880年(明治13年)に阿部比羅夫,坂上田村麻呂を合祀したことで,熊野奥照神社となりました。
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一見,単なる神社ですが,こんな歴史があるのだと思いました。

熊野奥照神社からさらに北に進むと,大きな鳥居があって,その向こうに社殿が見えたのが弘前八幡宮でした。
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弘前八幡宮は,津軽総鎮守,弘前総鎮守,弘前城鬼門守護の社です。
古来「弓矢八幡」武神として武家信仰の中核で,津軽地域の「一代様信仰」として,戌(いぬ)年,亥(いのしし)年生まれの守護神と崇敬されています。
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ということでした。
従来の本殿は裏手にあって,見るには許可が必要とありました。許可を取るのは簡単そうでしたが,それほど興味があったわけでもなし,面倒になってやめました。

そこで引き返し,ずいぶん南まで歩いていって,最勝院に着きました。
遠くからでも目につく五重塔が満開の桜と調和してきれいでした。弘前市の見どころは弘前城だけではありません。
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市民から「五重塔の寺」として親しまれている最勝院は,真言宗智山派の寺院で,山号は金剛山,寺号は光明寺。
1532年(天文元年年)常陸出身の弘信が現在の弘前市堀越に堂宇を建立したことにはじまります。
2代藩主津軽信枚が弘前城を築城したことにともない,城の鬼門に寺院を移転し,弘前八幡宮の別当寺(寺社をかんりするための寺)とされました。
明治時代の神仏分離令で,最勝院以外は廃寺となり,最勝院は廃寺となった寺院の檀家を引き受けて現在地に寺籍を移転しました。
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最勝院は大きな寺で,伽藍は,本堂,仁王門,五重塔,如意輪観音堂,五智如来堂,護摩堂,聖徳太子堂,薬師堂,庚申堂,鐘楼がありました。本堂は1970年の再建で,本尊は大日如来です。
五重塔は,1667年(寛文7年)に完成した日本最北端のものということです。
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弘前市にこれほど立派な寺があるのに驚きました。
まだ梅が咲いていて,梅と桜のそろい踏みが見られました。

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1か月ほど前に弘前市に来たときに見つけたのが,弘前城の近くにあった旧第五十九銀行本店本館でした。美しい木造2階建ての建築で興味をもったのですが,開館時間が午後4時30分だったので、入ることができませんでした。そこで、今回は行ってみようと思っていたので,弘前城の帰りに寄ってみました。
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旧第五十九銀行本店本館は,1904年(明治37年)現在の青森銀行の前身・第五十九国立銀行の本店として建設されたものです。
外観はルネサンス風の意匠を基本としていますが,外壁は板の上から瓦を張りその上は漆喰で塗りつぶされ,窓も外側は漆喰塗としており防火構造が取り入れられています。また,塔屋と屋根は和小屋組とトラスの折衷構造となっています。
1943年(昭和18年)に青森銀行が創立されてからは弘前支店として使用されていました。1965年(昭和40年)に建て替えのため,一度は取り壊されることとなりましたが,1967年(昭和42年)に青森銀行記念館として保存が決まり,現在は,弘前市が所有しています。
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こうした明治時代の建物は,現在,各地で公開されていますが,どれも威厳があり,堂々としていて,当時の人たちの矜持を感じます。

そのあと,昭和のようなノスタルジーあふれる弘前市内をのんびりと散策しながら,弘前駅に向かいました。
途中,「りんごを食べませんか?」と声がかかったので,りんごをいただくことにしました。声をかけたのは,りんご歴史研究所というものをやっている女性でした。
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今でこそ青森といえば「りんご」ですが,「りんご」がはじめて持ち込まれ栽培を開始した当初は苦難の連続だったと伝えられています。りんご歴史研究所はそんな先人たちの挑戦を後世に伝えると共に,青森で未来に向けて挑戦する方々を応援していくために設立されました。
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ということで,私は大のリンゴ好きであり,青森県のりんご栽培の歴史も興味があったので,りんごを食べながら,いろいろとお話をすることができて,楽しい時間になりました。

午後5時ころに弘前駅に着きました。
弘前駅午後5時41分発の快速があったのでその列車に乗ることにして,それまでの時間,弘前駅のビルにあったおそば屋さんに入って,夕食代わりのきつねそばを食べました。軽食のつもりだったのですが,おなかがいっぱいになりました。
やがて,目的の列車が来たので乗り込んで,午後6時23分に青森駅に着きました。
昨年来たときはまだ完成していなかった立派な青森駅がそびえていました。
今回青森駅前の東横インに宿泊したのは,弘前市内のホテルが見つからかなったこともありますが,青森市内に何かおもしろい見どころがあるのでは? という期待からでした。
東横インにチェックインを済ませ,再び外に出ました。

青森駅前はアーケード街となっていて,ねぶたが通るために電線がなく,極めてきれいな街でしたが,午後7時前だというのに閑散としていて,ほとんど人通りもなく,仙台駅前とは雲泥の差でした。
すでに夕食は済ませてあったので,少しお酒でも飲もうと思って歩いていたのですが,適当な店がまったくありませんでした。思っていた以上に,青森市は何もないところでした。
仕方なく,東横イン近くの居酒屋に入りましたが,外の静寂とは違って,店内は客でごった返していてものすごくうるさいし,注文してもなかなか料理は来ないし,やっと料理が来ても,高いだけで量はなく,また,会計を頼んでも何分もまったく反応がないしと,ゆったりと旅のお酒を味わおうという期待とははまったく違ったところで,印象最悪でした。こうしたちょっとしたことで,その街のイメージが台なしになります。
こんな店,入らなければよかったと後悔しました。これもまた,今回の旅の反省点でした。

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前日に弘前城に訪れた人が,まだ桜は咲いていなかったと言っていたのですが,この日はすでに桜が咲いていて,やったぜ,と思いました。まさに今日開花したばかりなので,観光客もかなり少なくて,これもまた幸いしました。私のきらいなインバウンドの団体もいませんでした。
これが私が一度は見たかった弘前城の桜なんだなあ,と思いました。
私は,旧東奥義塾外人教師館にあるカフェ「Salon de café Ange」で昼食をとってから,南の追手門から弘前城に入りました。北に向かって進んでいくと,左手にボランティアガイドの受付がありました。会津若松城に行ったときボランティアガイドさんをお願いしたのですが,弘前城でもお願いをして,ボランティアガイドさんについて弘前城をまわりました。

頼りなさそうな年配の女性のガイドさんでしたが,知らないことを多く教えてもらえて,ずいぶんとためになりました。私が印象に残ったのは,次のようなものです。
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【その1】
弘前城の最初の天守は,1609年(慶長14年)津軽藩2代藩主の津軽信枚(のぶひら)により本丸南西隅に建てられた5重の建物でした。しかし,1627年(寛永4年)の落雷で出火し焼失しました。
現在の天守は,ロシア船の津軽海峡往来などの事態により幕府の許しを得て,本丸南東隅の辰巳櫓の改修を名目として,9代藩主津軽寧親(やすちか)のときに建てられたもので,1810年(文化7年)に着工し,1811年(文化8年)に竣工しました。
天守は,外側に面する東面と南面は1層目と2層目に大きな切妻出窓を設けて堂々としていますが,内側である西面と北面には破風がなく連子窓を単調に並べただけという「二方正面」になっています。これは,幕府から役人が来たとき,西面と北面だけを見せることで,武家諸法度で禁じた天守の再建と見なされないようにした工夫だそうです。
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【その2】
現在,1915年(大正4年)以来100年ぶりの平成の天守石垣の修理が行われているので,天守は,2015年に,約70日かけて,元の位置から北西へ約78メートル離れた本丸中央部に移動させました。
当初の予定では2021年に石垣の修理が完了する予定でしたが,地質調査の結果,天守が載っていた土台部分の石垣と天守の基礎に耐震補強が必要となり,天守が元の位置に戻るのは早くて2025年度の予定となりました。

現在も,天守の内部に入ることができますが,天守を外からみることができる特設の展望デッキもあります。展望デッキからは,天守と岩木山と桜を同時に見ることができるのですが,これは,天守が移動している今だけの特権だそうです。
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【その3】
石垣の修理で天守台石垣の四隅からイカの形をした石垣が発掘され「いかすみ石」と名づけられました。それぞれの石の大きさは,大きさ約3メートル,幅約1メートル,重さ約3トンで,「いかすみ石」は,両側の石をつなぐチキリと呼ばれる鉄や鉛製の金具により固定されていました。
約100年前の大規模な石垣修理が行われた際に組み込まれた可能性が高いといいます。
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【その4】
「弘前の桜は凄い」といいます。
その理由のひとつは,ひとつの房につく花の数が違うということです。通常,桜木の房には3,4個の花がつきますが,弘前公園の桜には5個から7個もの花がつきます。そこで,弘前公園の桜は密度が高く,これが,観る人に圧倒的な迫力を与える要因となります。
もうひとつは,枝の形にあります。弘前城の桜の樹は横一杯に枝を広げ,そこに通常より多い花をつけているので,雄大で煌びやかな佇まいを有し,目の高さで桜を愛でることができます。これは,津軽地域の名産である「りんご」に深く関りがあって,弘前公園の桜は,りんご栽培を応用した剪定技術を使って,桜の樹の管理をしているからだといいます。
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「桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿」のことわざどおり,元来,桜は切り口から病気にかかりやすいため剪定はタブーと考えられてきました。ところが,55年前に樹勢が弱っていたシダレザクラに枝を深く切る強剪定を施したところ樹勢が回復。これを機に,弘前公園の桜は剪定されるようになりました。これが,リンゴの栽培技術を参考にした「弘前方式」とよばれる管理方法です。
この弘前方式により、これまで多くの桜が守られてきました。
りんご栽培は実の収穫をしやすくするため,また,日光が均等にあたるように枝が横に張るように剪定します。この技術を応用して桜の房に栄養を与えることで,花の数を増やし,濃密な桜の枝ぶりが誕生したのです。
また,4年前の大雪で根元から倒れてしまった樹齢100年を超えるオオシダレは,別の桜の苗木から根っこをもらってつなぐ「根接ぎ」という方法で,何度か苦境を乗り越え,支柱に支えられながらも,今年も元気に花を咲かせています。
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ガイドさんと別れ,次に,私が目指したのが,弘前公園中濠観光舟でした。
弘前公園中濠観光舟は,弘前さくらまつりの期間中,弘前城のお濠を舟で遊覧するものです。なお,弘前さくらまつりは,当初は4月19日からでしたが,1週間前倒しとなって,4月12日から行われていました。
弘前公園中濠観光舟の乗り場に行くと,黒山の人だかり…。ではなく,空いていて,すぐに乗ることができました。おそらく,満開直後で,観光客が少なかったからでしょう。
濠まで枝を伸ばす満開の桜の景色は格別でしたが,桜の花びらが水面に浮かんだお堀を船で進みながら見上げるというのもまた雅なので,桜が散ってくるころにも,楽しむことができそうです。
弘前公園中濠観光舟は,東内門前の石橋前乗船桟橋から辰巳櫓を曲がり,杉の大橋付近で折り返し来たコースを約20分でまわります。杉の大橋をくぐったときの景色が最高,ということですが,橋の上からもたくさんの方が手を振ってくれます。そうした人たちの中に若い女性のグループがいて,船頭さんが「どこの学生?」と声をかけると「弘大」という返事。おそらく,この春,弘前大学に合格した学生さんたちなのでしょう。
どこからともなく津軽三味線の音が聞こえてきたりして,最高の舟旅となりました。

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あれは春の夕暮だつたと記憶してゐるが,弘前高等学校の文科生だつた私は,ひとりで弘前城を訪れ,お城の広場の一隅に立つて,岩木山を眺望したとき,ふと脚下に,夢の町がひつそりと展開してゐるのに気がつき,ぞつとした事がある。私はそれまで,この弘前城を,弘前のまちのはづれに孤立してゐるものだとばかり思つてゐたのだ。けれども,見よ,お城のすぐ下に,私のいままで見た事もない古雅な町が,何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ,息をひそめてひつそりうずくまつてゐたのだ。ああ,こんなところにも町があつた。年少の私は夢を見るやうな気持で思はず深い溜息をもらしたのである。万葉集などによく出て来る「隠沼こもりぬ」といふやうな感じである。私は,なぜだか,その時,弘前を,津軽を,理解したやうな気がした。
  太宰治「津軽」序編
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2024年4月15日。旅の3日目。
今日の行程は,仙台駅午前8時5分発の東北新幹線「はやぶさ」1号に乗って,新青森駅午前9時49分着。午前9時58分発の奥羽本線に乗り換えて,弘前駅午前10時37分着でした。弘前駅に着くこれより早い列車はありません。この日は弘前市内を観光して,夜は青森市まで行って青森駅前の東横インに泊まります。最終日4日目の日程はこの時点では未定でした。

この旅の目的は,天童市で人間将棋を観ることと,弘前市で弘前城の桜を見ることだけの3泊4日という贅沢なものでした。しかし,いろいろと反省点が多く,日程も宿泊先も少し工夫すれば,もっと快適なものになったのですが,何せ,どのくらい混雑しているのかわからず,適当に決めたので,まあ,こんなものでしょう。
もし,次回があるとすれば
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1日目は今回と同じように,県営名古屋空港からおいしい山形空港まで行きますが,おいしい山形空港から天童駅までは事前に空港ライナーを予約をします。名古屋駅から東海道新幹線,東北新幹線,山形新幹線と乗り継いで天童市まで行くと,最も早くても,天童駅到着は午前11時58分になります。そして,少し贅沢しても天童温泉に宿泊します。2日目の夜,天童駅から山形新幹線,東北新幹線,奥羽本線と乗り継いで,弘前駅まで行きます。午後5時49分に天童駅を出発しても,弘前駅には午後11時17分に着くことができます。そして,早めに予約をして,弘前市内に宿泊します。3日目は弘前城などを見て,その日の夜,青森空港から県営名古屋空港へ帰ります。
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といった日程にすると思います。

今回は,1日目に山形駅前,2日目の仙台駅前,3日目に青森駅前の東横インに宿泊しました。
いつも書いているように,東横インの3大欠点は,部屋の壁が薄いこと,エレベータが1基しかなくなかなか乗れないこと,そして,バイキング形式の朝食が混み合うことです。しかし,駅前にあり,安く宿泊できるし,チェックインとチェックアウトが楽なので,一夜を過ごすだけだと考えれば,それでも便利なので,よく利用しています。
仙台駅前の東横インは大きかったので,エレベータは2基あったものの,朝食はかなり混み合うことが予想されたから,私は,外に出て,吉野屋などで済ますことにしました。ところが,仙台市というところは,意外に,吉野家,すき家,松屋といった店が少ないのです。また,24時間営業というのもなくて,午前6時営業開始とかでした。仙台市は,都会なのか田舎なのか,中途半端なところでした。

東北新幹線は,仙台以北は空いていると聞いていたのですが,それでも,月曜日ということもあり,仕事で利用する人が多く,思ったより混雑していました。「はやぶさ」では,未だ車内販売があるのにも驚きました。
私は,これまで,東海道沿線については何となくわかるのですが,東北地方のことはこれまでまったく知りませんでした。このごろこの地方を旅行をするようになって何となくわかってきたというか,それとともに,疑問に思うことが多くなってきました。それは,この国の鉄道網は,すべて首都東京中心の発想で考えられていて,東京に住む人だけが便利であるようにできているということです。
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仙台駅を出発した「はやぶさ」1号の行先は北海道の新函館北斗駅です。
新函館北斗駅というから,函館駅の近くだと思っていたのですが,調べてみると,何ともはやどうにもならないほど不便で中途半端な場所でした。
私は,新幹線で北海道まで行ったことはこれまでありませんが,新函館北斗駅で降りるなら,今でも,飛行機で新千歳空港へ行くほうが便利です。ただし,飛行機でも,名古屋からだと,FDAが季節限定で県営名古屋空港から丘珠空港まで運行していますが,通常は,セントレア・中部国際空港まで行かないと札幌空港まで行く便がないから,飛行機を利用しても北海道は不便で,気合を入れて旅に出る必要があります。
私の乗った「はやぶさ」1号は,はじめのうちは結構乗客が乗っていましたが,次第に少なくなり,七戸十和田駅でほとんどの人が降りてしまいました。

今回,新青森駅を利用するまで,新青森駅がどこにあるのか知りませんでした。青森市内からずっと遠いところかと思っていましたが,青森駅から奥羽本線をひと駅南に行ったところでした。
青森県はおもしろく魅力に富んだところですが,すべての都市がばらばらなのが欠点です。
特に,青森市は,県庁所在地としては,魅力のない都会です。もともと,青函連絡船があったからこそこの位置に町ができたのであって,青函連絡船なき今では,この位置に町がある理由がありません。青森駅は,青函連絡線との接続のために埠頭に作られたから,今では,とどのつまりで,盲腸のような感じになってしまっています。だから,この場所に新幹線の駅を造ることができません。観光資源も,ねぶたしかありません。もともと,津軽藩の藩庁は現在の弘前市の場所であり,青森市にはそうした歴史もないので,城郭や由緒ある神社仏閣もありません。
とはいえ,弘前市もまた,現在は,交通の中心でなく,奥羽本線の単なる途中駅になっているから,行くのに便利とはいえません。せめて,東北新幹線が弘前駅を経由していれば,というか,盛岡駅からそのまま北に,東北自動車道のルートを走っていたらよかったのに,と思いますが。
このように,青森県は,さまざまな中小都市が散在していて,列車で旅をするには苦労します。ただし,今回は新青森駅での接続がよく,さほど待つこともなく乗り換えすることができて,弘前駅に着きました。

私の心配は,果たして,この時期に弘前城の桜が咲いているか,ということでした。1か月まえに弘前市に来たときは,まだ,雪が降っていたのです。東北新幹線の窓から見た景色では,仙台あたりは桜が満開でしたが,次第にそうした景色もなくなっていました。
何せ,弘前のさくらまつりは,当初は4月19日からだったとのこと。弘前市の桜は,昨日は3分咲きという情報で,少々がっかりしていました。しかし,ここ数日,ものすごく天気がよく,しかも暑く,一気に咲くのでは,という淡い期待もありました。
この日は,弘前城に行く以外に予定もなかったので,のんびりムード。桜が咲いていなければ,もはや,何もすることがありません。ともかく,弘前駅で降りらた,コインロッカーに荷物を預けて,弘前城まで歩いていって,途中でどこか見つけて昼食をとるつもりでした。
しかし,知ってはいたものの,昼食をとるいい店がなかなか見つかりません。そのうち,弘前城の周辺まで来てしまいましたが,弘前城内には食事をする店がないことも知っていました。そこで私が思い出したのは,藤田記念庭園にある「クラフト&和カフェ匠館」と旧東奥義塾外人教師館(とうおうぎじゅく)にある「Salon de café Ange」(サロン・ド・カフェ・アンジュ)でした。このふたつなら,満足できる昼食がとれます。私は,「Salon de café Ange」のほうが近いので,そこに決めて,中に入りました。落ち着いた店内で,リンゴカレーライスセットを食べることができました。

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いつたいこの城下まちは,だらしないのだ。旧藩主の代々のお城がありながら,県庁を他の新興のまちに奪はれてゐる。日本全国,たいていの県庁所在地は,旧藩の城下まちである。青森県の県庁を,弘前市でなく,青森市に持つて行かざるを得なかつたところに,青森県の不幸があつたとさへ私は思つてゐる。
  太宰治「津軽」序編
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この日はシャトルバスに乗らず,歩いて天童駅まで行くことにしていました。
私は今回,車ではありませんが,舞鶴山山頂から麓にある駐車場まで階段状の散策道があって,麓の駐車場に車を停めた人は,この険しい散策道を歩いて登り降りする必要があるのですが,私は,降るほうなので,さほど問題はありませんでした。しかも,歩きながら,桜が満開の美しい景色を堪能することもできました。
下界に降りました。
昨日,シャトルバスの車内から見た1軒の氷屋さんが気になっていて,この日は,そこで涼をとることを楽しみにしていました。その氷屋さんには「天童将棋愛す」(てんどうこまあいす)というのぼりが立っていましたが,注文したのは「ふんわり5代目かき氷」の「とちおとめ-極-」でした。
私は常に,人混みが嫌いなので,計算づくで人の動きとは逆を行くことにしています。ということで,時間が早かったので,私が店に入ったときは空いていました。しかし,私が氷を食べ終わるころには,長い列ができていました。

すでに書いたように,この旅は,天童市の人間将棋を観ることと弘前市の弘前城の桜を見ること,このふたつが目的でした。しかし,天童市から弘前市は遠く,この日は途中の仙台市で1泊することになりました。実際は,この日に仙台市に宿泊しなくても,山形新幹線で福島駅まで行って,そこで東北新幹線に乗り換えれば青森市まで行くことはできたのですが,仙山線に乗ってみたかったことと,せっかく来たので,仙台市を散策するのも悪くない,と思ったので,そうしました。
ただし,天童市から仙台市までが大変でした。天童駅からまず,奥羽本線で羽前千歳駅(うぜんちとせ)まで行き,そこで仙山線に乗り換えて,仙台駅までいくのですが,列車の接続が悪いのです。
このところ,列車で旅をするようになったのですが,JRは何を考えているのやら,ということがすごく多くあります。とにかく,新幹線ファーストで,地元の人が乗る在来線はものすごく不便です。こんなことなら,民営化する以前の非効率の国鉄のほうがずっとよかったとさえ思えます。リニア新幹線の建設で莫大なお金を使う反面,在来線の多くの駅は駅員すらおらず,列車もまた,ワンマンカーばかりとなり,お年寄りがJRを利用するのはとても大変です。地元民は不便を強いられているようです。

天童駅から仙台駅までの列車の時刻は次のようでした。
  ・・・・・・
①天童駅発午後1時56分・羽前千歳駅着午後2時12分
 羽前千歳駅発午後3時16分・仙台駅着午後4時33分
②天童駅発午後3時12分・羽前千歳駅着午後3時26分
 羽前千歳駅発午後4時21分・仙台駅着午後5時49分
③天童駅発午後4時7分・羽前千歳駅着午後4時21分
 羽前千歳駅発午後4時21分・仙台駅着午後5時49分
④天童駅発午後5時3分・羽前千歳駅着午後5時17分
 羽前千歳駅発午後5時18分・仙台駅着午後6時37分
➄天童駅発午後6時17分・羽前千歳駅着午後6時31分
 羽前千歳駅発午後7時3分・仙台駅着午後8時20分
  ・・・・・・
つまり,羽前千歳駅で1時間ほど待つか,それとも,まったく待ち時間がないか,この選択肢しかないのです。しかし,この日,奥羽本線は2分ほど遅れていて,しかも,羽前千歳駅で遅れた列車を待っていてくれないのでした。③では,仙山線に乗り遅れる心配があります。実際そうでした。
私はそれを危惧して②に乗りました。そして,駅周辺には何もない羽前千歳駅で1時間ほどを過ごしました。

ともあれ,私は,こうして,仙台駅に到着しました。仙台駅は,うって変わって東京並みのものすごい人でした。私が仙台に来たのは45年ぶりのことでした。駅前の雰囲気はあまり変わっていないように思えましたが,45年前はこんなに人がいたのかな,と思いました。
さっそく,この日宿泊する東横インまで歩いていってチェックインを済ませ,夕食を食べに再び外に出ました。
街の雰囲気は博多のような感じがしました。しかし,アーケード街を歩いていると,やたらとタバコを吸っている若者がいて驚きました。このごろ,そんなことを感じたのは仙台市だけでした。そしてまた,食事をする店も「喫煙可」をウリにしている店が目につきました。昭和のころにもどったような不思議な気がしました。
仙台市は牛タンが名物らしかったので,牛タンが食べられるてごろな店を見つけて入りました。

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Pink Moon 2024.

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山形駅に戻ってきたのが午前10時少し前でした。
午前10時20分発の列車で天童駅に向かおうと思っていたのですが,山形駅前に午前10時2分天童温泉行というバスがあったので,それに乗ることにしました。このバスは途中で天童駅に停まります。バスから風景を見るのも悪くないと思いました。
結局,午前10時20分の列車に乗っても,到着はほぼ同じ時刻でした。
昨日,天童駅のコインロッカーに荷物を預けたとき,ほとんどのロッカーは開いていたので,そのつもりでいたら,この日は,ひとつも空きがありませんでした。駅の観光案内所で聞いても,これ以上のコインロッカーはないということでした。これでは,人間将棋を見に,地方から来た人は困ります。こうした配慮がまったくなされていないのだなあ,と痛感しました。要するに,そういうことに思考を巡らせる人材がいない,ということなのでしょう。
仕方がないので,カバンを持ったまま,人間将棋の会場に向かうことになりました。会場では重たいキャリーバッグを引いている人もいました。

さて,この日もまたいい天気で,申し分なかったのですが,昨日とは違い,すごく混雑していました。人が多いと,変な人もいます。そして,不快になります。そこで,よほどお目当ての棋士がいるのでなければ,人間将棋を観るなら1日目の土曜日のほうがおすすめです。
私は,この日,特に想い入れもなかったので,雰囲気だけを味わって,途中で帰ることにしていました。念願だった人間将棋というものもよくわかって気が済んだし,何より,人混みが嫌いだし,将棋の内容といっても,大相撲の巡業と同じです。
昨日は昼食として焼きそばを食べましたが,この日は,米沢牛の牛串にしました。これは,山形のソウルフードだそうです。
やがて,プログラムに沿って,プロ棋士トークショー,日本将棋連盟創立100周年記念の挨拶,そして,人間将棋というように,イベントが進行しはじめました。
観覧席はぎっしり詰まっていて暑く,とはいえ,こんな中で人の迷惑も考えず傘をさす人の気持ちが理解できません。
人間将棋がはじまってしばらくして,帰路につきました。

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前回山形市に来たときに山形城も訪れたので,今回は満開の桜を見ることだけが目的でした。しかし,山形城内で,はじめて見る建物に遭遇しました。それは旧済生館本館でした。普段なら閉館時間を過ぎていたのですが,この時期は特別に公開をしていたので,中に入ることができました。
  ・・・・・・ 
【昭和の宮大工職人達の手でよみがえった明治の最高傑作】
済生館は,1878年(明治11年)に山形県立病院として建設されたもので,当時の山形県令三島通庸の「山形の近代化を図る」という構想のもとに竣工されました。東北地方で最も早く西洋医学を取り入れ,診療の他に医学校が併設され,オーストリア人医師ローレツを金沢医学校から招聘しました。
経営の問題から,1888年(明治21年)に民営となり,1904年(明治37年)には山形市立病院済生館となりました。
昭和30年代後半,老朽化が進み解体することが決まりましたが,霞城公園内に復原保存されることになったもので,現在は「山形市郷土館」として当時の姿を伝える歴史資料館となっています。
  ・・・・・・
ユニークな三層楼の 建物は,当時横浜にあったイギリス海軍病院を参考にしたといわれていて,中庭を囲んで病室を円形に配置し,正面の塔屋は三層構造の独特の形態になっていました。
明治時代の建築物は,どれも,当時の人たちの西洋文明への憧れと向上心と矜持が感じれます。

さて,山形城です。桜が満開で,週末でもあり,多くの人が訪れていました。
山形城内にある巨大な銅像,前回来たときは,あれは誰だ? と思ったくらい何も知らなかった私ですが,馬にまたがった武将の名は最上義光です。
このように,前回来たときには,山形藩の歴史も,最上義光も知らなかった私ですが,その後興味が湧いて,いろいろと調べました。
  ・・・・・・
南北朝時代,清和源氏の流れをくむ斯波兼頼(しばかねより)は,356年(延文元年)羽州探題としてこの地に入り,政治の拠点と定め,山形城の築城を開始。そして,最上姓を名乗るようになりました。約170年後の1546年(天文15年)に最上家11代当主となる最上義光(もがみよしあき)が誕生し,さまざまな困難を乗り越えて,16世紀の末には村山・最上地域を治めるに至りました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで最上義光は東軍へ加担。また「北の関ヶ原」とよばれた慶長出羽合戦では,西軍の上杉景勝(かげかつ)の重臣・直江兼続(かねつぐ)との戦いが半月にも及びましたが,関ヶ原で東軍が勝利したことで直江兼続は退却。最上義光は,徳川家康から57万石の領地を認められ,山形藩初代藩主となり,商業を振興し,商業都市としての発展に寄与しました。
  ・・
1622年(元和8年)最上義光の死後に起きた最上騒動で最上家は改易となり,山形藩は出羽新庄藩,上山藩,本荘藩,鶴岡藩などに分割されたことで,石高は半減しました。
その後、鳥居忠政が移封されましたが,2代のち,世継ぎに恵まれなかったため,保科正之が山形に入封。保科正之は名君とうたわれましたが,7年後に陸奥会津藩へ移封となりました。
その後,山形藩は,松平直基,松平忠弘と短期間で藩主となる大名家が交代したのち,奥平昌能が「宇都宮興禅寺刃傷事件」により実質左遷されて山形藩にやってきました。この奥平昌能から,山形藩は騒動を起こした譜代大名の左遷の地となる慣習ができたといわれています。
奥平昌能の死後,奥平昌章がわずか5歳で後を継ぎましたが,家臣団にも優秀な人材がおらず,藩は大いに荒廃し,奥平家は移封。 その後,山形藩は堀田家,越前松平家,奥田松平家の3つの家から7人の藩主が出ましたが,どの藩主も短期間で交代し,藩は困窮する一方でした。そして,9代将軍・徳川家重よりもその弟・徳川宗武を将軍に推したため,山形藩に左遷された松平乗佑のときには,石高はわずか6万石になってしまいました。
その後,山形藩は3年間の天領をへて,秋元家が藩主となりました。秋元家は最も山形藩を長く統治した家で,4代の藩主を輩出し78年の長きにわたって山形藩を治めました。
最後の藩主となった水野忠精(ただきよ),水野忠弘(ただひろ)は,天保の改革に失敗し失脚した水野忠邦の長男と孫が左遷されてきたものです。
  ・・・・・・
東北地方最大の山形城は,2.83ヘクタールの本丸,27.99ヘクタールの二の丸,234.86ヘクタールの三の丸を三重の堀と土塁で囲まれた輪郭式の平城で,三ノ丸は,姫路城より広く,慶長出羽合戦においては,城郭が霞で隠れて見えなかったことから「霞ヶ城」とよばれました(約5ヘクタールがプロ野球のグランド程度)。
本丸には当初から御殿のみで天守はありませんでしたが,二ノ丸には江戸時代前期まで三階櫓がありました。今も残る二ノ丸の堀や土塁,石垣は,最上氏改易後の1622年(元和8年)に城主となった鳥居忠政やその後の保科正之により改修されたと伝えられています。
しかし,山形藩は度重なる石高減少で家臣を抱えきれず,山形城の維持で財政はひっ迫し,散々な有様でした。江戸中期以降は城の維持すら困難になり,幕末には御殿は二の丸に置かれ,本丸は更地で三の丸の西半分は田畑になっていました。
このように,江戸時代は悲惨な歴史が続きましたが,幕末の戊辰戦争では,水野三郎右衛門元宣の功績で山形藩は守られました。現在は,城の遺構の調査が進み,観光地として整備が進んでいます。

山形城を出て,夕食をとることにしましたが,土曜日でもあり,どこも混雑していたのですが,空いていたおそば屋さんに入りました。
翌4月14日。再び山形駅から天童駅に行くのですが,山形駅から天童駅に行く列車は山形新幹線を除くと午前8時42分の次が午前10時20分しかなく,人間将棋の開始が遅いので慌てて行くこともなかったので,それまで山形城の付近を散策することにして,昨日遅くて行くことができなかった最上義光歴史館にも寄ることができました。
  ・・・・・・
最上家の中でも特に多くの偉功を残した11代当主最上義光。最上義光が居城とした山形城の二の丸東大手門前にあるのが最上義光歴史館です。
ここには,最上義光所用三十八間金覆輪筋兜をはじめとする遺品が展示されています。
  ・・・・・・
ということで,最上義光歴史館では,最上家の歴史を中心として,山形藩についてさまざまな展示があり,興味深く見ることができました。また,ボランティアガイドさんがいて,くわしく話を聞くこともできました。
山県市民の誇りは,最上義光だ,と再認識しました。

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人間将棋が終わって,シャトルバスで天童駅まで戻ってきました。今日の宿泊先は山形駅近くの東横インだったので,そのまま山形駅に行くか,それとも天童市内を散策して,夕食をとってから天童市内を流れる倉津川沿いのしだれ桜のライトアップを見て,夜遅く山形駅に行こうか迷っていました。
ともあれ,まず,ライトアップをする前の倉津川沿いのしだれ桜を見にいくことにしました。
しだれ桜は満開だったのですが,それほど見事,というわけでもなく,また,前回来たときに天童市内の散策はしたので,新鮮なものもなく,それより,山形城の桜を見たいという気持ちの方が強くなってきたので,夕方,天童駅から在来線に乗って,山形駅まで行くことにしました。

天童駅から山形駅までは奥羽本線の列車が1時間に1本程度あります。私の乗る列車が来るのが30分ほど先だったのでホームで待っていたら,反対側のホームに山形新幹線の「つばさ」がやってきました。
私は鉄道マニアでもなく,これまで関心もありませんでしたが,山形新幹線と秋田新幹線は在来線を走るんだなあ,ということくらいは知っていました。しかし,在来線と新幹線ではレール幅が違うので,両方の列車が走れるように,レールが3線軌道になっているとばかり思っていました。であるのに,天童駅のホームから見ると,レールは2線しかありません。
疑問に思ったので,近くにいた駅員さんに聞いてみました。すると,在来線が新幹線のレール幅で走ることができるように代えてある,という返事でした。それは初耳でした。であれば,この区間を走る在来線の車輪幅は新幹線仕様であって,山形新幹線が走る区間しか運行できない,ということになります。

帰宅したのち,調べてみました。
  ・・・・・・
●山形新幹線「つばさ」:主な駅は,福島駅-米沢駅-山形駅-天童駅-新庄駅
福島駅で東北新幹線と別れた「つばさ」は,新庄駅まで奥羽本線を走るのですが,福島駅-新庄駅間は,レール幅を1,067ミリメートルから1,435ミリメートルに変えただけなので,最高速度時速130キロメートルで走行します。
奥羽本線の福島駅-新庄駅間は車輪幅1,435ミリメートルの在来線も走っています。
  ・
*仙山線
途中の羽前千歳駅で別れ仙台駅までレール幅1,067ミリメートルの仙山線があるのですが,仙山線は羽前千歳駅から山形駅まで乗り入れているので,羽前千歳駅-山形駅間は,1,067ミリメートルの軌道と1,435ミリメートル軌道が並列してあります。
1,067ミリメートルの軌道を仙山線の列車が走り,1,435ミリメートル軌道を「つばさ」と車輪幅1,435ミリメートルの在来線が走ります。
  ・・
●秋田新幹線「こまち」:主な駅は,盛岡駅-雫石駅-田沢湖駅-角館駅-大曲駅-秋田駅
盛岡駅で東北新幹線と別れた「こまち」は,大曲駅までを田沢湖線,大曲駅から秋田駅まで奥羽本線を走るのですが,盛岡駅-秋田駅間はレール幅を1,067ミリメートルから1,435ミリメートル変えただけなので,最高時速130キロメートルで走行します。
田沢湖線の盛岡駅-大曲駅間は車輪幅1,435ミリメートルの在来線も走っています。
  ・
*山形新幹線と秋田新幹線を結ぶ新庄駅-大曲駅間
奥羽本線の新庄駅-大曲駅間は新幹線が走っていないので,レール幅は従来の1,067ミリメートルのままですが,奥羽本線の在来線は,新庄駅から大曲駅を越えて秋田駅まで走っているので,「こまち」の走る大曲駅-秋田駅間は単線の1,067ミリメートルと単線の1,435ミリメートルの並列区間となり,1,067ミリメートルの軌道は新庄駅からの在来線が走り,1,435ミリメートルの軌道は「こまち」が走ります。
ただし,奥羽本線の神宮寺駅-峰吉川駅間は,並列区間のうちの一方の単線である1,067ミリメートルの軌道にも1,435ミリメートルがくっついた3線軌道になっているので,秋田新幹線からみれば複線軌道となり,「こまち」のすれ違いができます。
私が,レールが3線軌道になっていると思っていたのは,この部分のことでした。
  ・・
●山形新幹線と秋田新幹線の車両の大きさ
山形新幹線と秋田新幹線の車両の大きさは在来線の車両と同じで,全長20メートル,全幅2.9メートル。東北新幹線の車両の大きさは 全長25メートル,全幅3.8メートルなので,それよりも小さく,東北新幹線の駅に停車するときはホームと車両の間に隙間ができるので,扉の下にステップが出ます。
  ・・・・・・
このように,奥羽本線は,福島駅-新庄駅間はレール幅1,435ミリメートル,新庄駅-大曲駅間はレール幅1,067ミリメートル,大曲駅-秋田駅間はレール幅1,067ミリメートルとレール幅1,435ミリメートルの並列区間です。
調べれば調べるほど,こんな複雑なことをしてまで走らせているミニ新幹線とよばれる山形新幹線と秋田新幹線など必要がなく,従来のレール幅のまま,時速110キロメートルくらいの走行ができるように峠越え区間などの改良工事をして,①福島駅-新庄駅-大曲駅-秋田駅,②盛岡駅-大曲駅という,福島駅と盛岡駅で東北新幹線と接続をするふたつの在来線特急があればそれで十分のような気が,私はします。

さて,天童駅で,ようやくやってきた列車に乗って,山形駅に到着しました。
山形市内も,前回来たときにおよその場所は行ったので,今回の目的地は,桜満開の山形城でした。
まず,宿泊先である東横インにチェックインをして,部屋に荷物を置いて,再び外に出ました。20分ほど歩いて,満開の桜咲く山形城に到着しました。すでに太陽は沈みかかっていて,いい雰囲気でした。

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人間将棋が行われたのは満開の桜が咲く舞鶴山山頂広場でした。展望台からは,天童市の街並みと,遠くに美しい山々を見渡すことができます。
ここには,昔,天童城がありました.。天童城は,別名舞鶴城,天童古城といい,東西1,000メートル,南北1,200メートルの範囲におよぶ村山地方最大の山城で,標高231.8メートルの山頂部に主郭が置かれていました。主郭は,現在,愛宕神社が建っています。
天童城は,江戸時代後期に天童藩を立藩した織田家の居城ではなく,その昔,南北朝時代に北畠天童丸が居を構えた場所とされます。北畠家は,1372年から1374年の文中年間に,最上氏の圧力により天童城を去り,1375年(天授元年/永和元年)に最上直家の子・最上頼直が養子として天童城に移り天童姓を名乗りました。天童家は村山郡に大きな勢力を築き,次第に最上家と対立するようになりました。1577年(天正5年)に最上義光が天童城を攻めましたが,撤退させました。しかし,1584年(天正12年)最上義光がまたも攻めると落城し,廃城となってしまいました。
なお,1830年(天保元年)に天童藩を起こした織田家の陣屋は,この天童城ではなく,田鶴町に置かれましたが,戊辰戦争で,はじめは新政府軍だった天童藩は奥羽列藩同盟で幕府軍に寝返ったために攻められて焼失してしまいました。

山形県は,律令制度で,米沢盆地には置賜郡,山形盆地には村山郡,最上盆地(新庄盆地)には最上郡,庄内平野には出羽郡が置かれました。 14世紀から江戸時代初期まで,山形藩を治めたのは最上家で,山形盆地,最上盆地,庄内平野は,最上家の支配下にありましたが,1612年(元和8年)に御家騒動で改易となると,最上盆地には新庄藩戸沢家,庄内平野には鶴岡藩酒井家が幕末まで領しました。また,米沢盆地は,米沢藩上杉家が幕末まで領主となっていました。
しかし,山形盆地は,最上家改易の後は,国替えによって,頻繁に藩主が後退し,その都度,山形藩は縮小していき,幕府領や上山藩などの諸藩にわかれ,幕末には16あまりにも細分化されてしまい,郡中心部は領地錯綜の状態にありました。天童はその渦に飲み込まれてていたのです。
ただし,羽州街道の整備によって,天童は宿場町として,交通の要衝であり,商業的には発展していきました。

明和事件は,江戸時代中期におこった幕府による尊王論者弾圧事件です。 甲斐出身の山県大弐(だいに)は江戸で尊王思想を鼓吹し,藤井右門は江戸で山県大弐の家に寄宿し江戸攻略の軍法を説きました。1767年(明和4年),幕府は,小幡藩の内紛にかこつけて両名を逮捕し,山県大弐を死罪に,藤井右門を獄門に処しましましたが,この際,小幡藩主だった織田信邦は蟄居となり,織田信浮(のぶちか)が家督相続を許されるとともに,米沢藩が預かる幕府領だった高畠への移封の上,織田信長の子孫ということで認められていた国主格の待遇も廃されてしまいました。
国替えとなった織田家の所領は,置賜郡,村上郡,信夫郡とひどく距離が離れ散在してまとまりがないもので,藩財政はすでに極限状態でした。幕府も織田家の所領分散を問題に思い,信夫郡の所領を村山郡に移すことになり,その結果,領地の4分の3以上が村山郡天童に集まることとなりました。そこで, 1818年(文政元年)に亡くなった織田信浮に次いで家督を相続した織田信美は,1830年(天保元年)ついに,藩庁を天童に移す決断をし,翌年,天童藩が誕生しました。

1836年(天保7年)織田信美から家督を相続した織田信学のころは,藩の財政はさらに困窮を極めていました。ここにひとりの逸材が登場します。
1831年(天保2年)に生まれた吉田大八は15歳で家督を継ぎます。そして,1864年(元治元年)米沢から将棋駒製造職人の大岡力次郎と河野道介を招いて指導をさせ,下級家臣の手内職として将棋の駒製作を奨励したのです。その背景には,江戸後期における将棋の流行がありました。将棋の駒は,生産をはじめるのに必要な資本は少なくてすみ,大都市から離れている天童でも運搬コストが低かったのです。
手内職をすること自体に家臣たちの反対がありましたが,吉田大八は「将棋は兵法戦術に通じ,武士の面目を気づつけるものではない」といって奨励し,織田信長が「将棋は作戦の秘訣なり」といった故事を引用して藩主・信学や藩重役を説得して奨励してもらったりしました。
それ以来,木地屋と書き屋に専業化した家内手工業になって,地元周辺地域向けに将棋駒生産が確立し,藩の財政も救われました。

江戸時代から天童駒は漆で駒木地に文字を書く「番太郎駒」とよばれる安価なもので,関西の高級な彫り駒からみると大衆駒でした。しかし,天童の職人たちによる駒生産の効率化と生産技術向上への血のにじむような努力が積み重ねられ,天童駒を安価な番太郎駒からより高級なものにしようと試みられるようになりました。
こうして,天童は生産量全国一の座を占めるようになり,昭和の終わりごろからは高級駒の生産地としての評価が高まるようになっていき, 現在では,天童駒は全国の95パーセントを独占するまでになり,特色ある伝統産業として天童の名を知らしめることに成功しました。
1992年(平成4年)には,将棋の駒をイメージした外観の観光情報センタービルを建設,天童市将棋資料館が併設され,「将棋の町天童」の名はさらに高まりました。また,春の桜祭りには将棋供養祭や人間将棋が行われ,天童の観光に一役買って,貴重な観光資源となっています。

1886年(明治19年)に旧山元村地内の鎌田原で用水井戸掘りの際に微温泉が出ました。あらためて47度の温泉を掘りだして湯屋を開業したのが1911年(明治44年)のことです。 当初は田んぼの中に小屋掛けがある程度の湯屋でしたが,ついには温泉町ができ上がるまでになりました。さらなる集客を目指して、当時ようやくその名が知られはじめていた隣町の天童の名を拝借し,1924年(大正13年)天童温泉と名づけられました。
こうして,天童温泉は天童を代表する観光保養地となり,現在の天童は「いでゆと将棋の町」として知られているのです。

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4,000 times Anniversary of uploaded this blog today.

ブログをはじめて132か月。
今日4,000回目の更新を迎えました。
いつも読んでいただいて,どうもありがとうございます。


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いよいよ1日目の人間対局がはじまりました。
はじめに登場するのは役者のむとう寛さん扮する織田信長です。
2022年,藤井聡太八冠が登場した人間将棋の観戦希望に外れたことはすでに書きましたが,そのときの人間将棋はニコニコ動画でライブ配信されたので,それを見ました。そこで,人間将棋がどのように行われたのかはすでに知っていて,今回も同じように進行しました。
ニコニコ動画で見たとき,私は,どうして天童市に織田信長? と思ったので,調べてみたら,天童藩の藩主が織田信長の末裔だと知りました。
さて,織田信長が進行役を務めて,まず,武士に扮したふたりが戦い,その結果,将棋で勝負をつけようということになって,駒に扮する人たちが登場するわけです。駒役は,1日目は,地元の高校生,そして,2日目が応募者から選ばれた人たちです。
そして,いよいよ,対局をする棋士が登場し,高台に乗って,勝負がはじまるのです。
勝負をしながら,武者言葉を話すという約束で,それがまあ,たどたどしいのがおもしろく,退屈しません。左わきには,大盤解説が行われています。

対局は90分ということでした。
途中で小休憩があり,再び織田信長が登場しました。この日は暑くて,駒役の人たちにもペットボトルが配られました。
再び,対局が再開されました。
すべての駒を動かす,ということがなかりのネックとなり,特に,端の香車を動かすタイミングがむずかしいのです。
「これでは香車が動けないではないか」
「香車が(退屈して)水を飲んでおるぞ」
この対局では,優勢だった武富礼衣女流初段が気をつかって,相手方の最後まで動けなかった香車が動けるような(ムダな)手を指しました。しかし,貞升南女流二段は,相手方の心配りを無にするような手を指して,局面が逆転してしまいました。心配りが悪手となってしまったのです。
なかなか勝負が終わらなくなって,大盤解説をしていた和田あき女流二段がいきなり
「20秒」
とか言うような適当な秒読みをはじめて… というような泥仕合となり,最後は,貞升南女流二段側が入玉を果たして,勝利しました。
対局がはじまったら,ショーであることはどこへやら…。勝負優先となって,負けられない意識が強くて,それがいかにもプロというか,女流棋士の勝気な性根を知った感じでおもしろかったです。

雲ひとつなく,風もなく,しかも,満開の桜の下,という最高の状態だったのですが,問題は,めちゃくちゃ暑かったことでした。まさか真夏のような天気になるとは思っていなかったから,私は帽子すら持っておらず,しかも,観覧席は日差しを遮るものがないから,観戦するのが苦行となってしまったのが少し残念でしたが,念願だった人間将棋を目の前で体験できて満足できました。

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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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タクシーで天童駅に到着しました。コインロッカーにカバンを預けて,貴重品とカメラだけをもって,人間将棋の会場に向かうことにしました。
会場は舞鶴山山頂広場ですが,雨天の場合は天童市市民文化会館ということでした。せっかく来たのに,雨天では話になりません。しかし,いつも書いているように,私は晴れ男。人間将棋の行われる4月13日と4月14日は晴れの予報でしたが,実際,両日とも雲ひとつなく,風もないという最高の天気となりました。
天童駅前から会場の舞鶴山山頂広場までシャトルバスが頻繁に出ます。私もバス乗り場に並んで,すぐに乗ることができました。シャトルバスは無料ですが,100円ほどの寄付金が必要でした。

人間将棋の日程は次のようでした。
  ・・・・・・
●1日目4月13日
午前10時20分 開会式
午前10時40分 ニャー将棋音頭(天童幼稚園)
午前10時50分 維新軍楽隊(天童市立天童南部小学校)
午前11時10分 デンソーFA山形「電王手桜将」(でんおうておうしょう)と天童代表の対局
午後0時30分 【人間将棋】貞升南女流二段と武富礼衣女流初段
●2日目4月14日
午前10時30分 開会式
午前10時40分 花駒踊りパレード,天童神輿會天聲會(てんせいかい)による木遣り唄
午前11時10分 プロ棋士トークショー
午後0時10分 日本将棋連盟創立100周年記念挨拶
午後0時30分 【人間将棋】広瀬章人九段と戸辺誠七段
  ・・・・・・
つまり,1日目は女流棋士,2日目はプロ棋士の人間将棋がメインイベントということです。

私が乗ったシャトルバスが会場に到着したのは,午前11時ころでした。一昨年,人間将棋が行われていない時期に同じ場所に来たときは,だれもいないただの広場でしたが,そのときとはまったく違って,お祭りムード一杯でした。そしてまた,桜が満開でした。
ひな壇状の観覧席があって,空いているところはどこにでも座れます。ちょうど維新軍楽隊の演奏が終わって,デンソーFA山形「電王手桜将」と天童代表の対局がはじまったところでした。これは,コンピュータと将棋の強いアマチュアとのコマ落ち対局で,コンピュータが勝利しました。
そのあとが,待望の女流棋士の人間将棋対局ですが,ここで,昼食をとることにしました。
一応,屋台があったのですが,売っているのは焼きそばくらいのものでした。私は,空腹が満たされればそれでよかったので,焼きそばを食べて,自動販売機で冷たい飲み物を買い,準備万端で,観覧席に座り,人間将棋がはじまるのを待ちました。

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私が思ったとおり,天童市の人間将棋は2024年4月13日と4月14日の開催に決まりましたが,私が今回の旅の予定を立て,予約を済ませたのは,それ以前のことでした。
はじめは,東海道新幹線から山形新幹線に乗り継いで天童駅まで行くつもりでしたが,県営名古屋空港からおいしい山形空港へFDA便で行くほうが安くて早く着くことがわかったので,今回も空路で行くことにしました。
宿泊する場所は,天童温泉などを探してみたのですが,高価だったことや,なかなかホテルの空室がなかったことであきらめて,山形市まで行けばいいやと,山形駅前の東横インの予約をしました。そんなことなら,もっと早く天童市の東横インを予約しておけばよかったのが「反省点その1」です。
私の旅は,温泉に泊っておいしいものを食べ贅沢をするか,あるいは,都会のビジネスホテルに安価で泊まるかの2者択一なのですが,今回は天童の人間将棋を見るということだけが目的だったので,後者を選びました。
ということで,はじめは,天童市だけに行く1泊2日の旅にするつもりでした。

ところが,閃いちゃったのです。
それは,せっかく山形県まで行くのだから,そのついでに,青森県の弘前市まで足をのばして,有名な弘前城の桜を見ようということでした。今もって,どうしてそんなことをふと閃いてしまったのか,覚えていないのですが,きっと,ずっと以前から,有名な弘前城の桜が見たかったことと,この機会を逃すと,また来年以降になり,はたして行ける日がくるのかな,と思ったからでしょう。
しかし,それは甘い考えでした。
その理由のひとつは,弘前市は,天童市よりもずっと北にあるから,この時期,天童市の桜が満開でも弘前市の桜が満開にはなっていないということでした。実は,私は,2023年5月にはじめて弘前に行ったのですが,そのとき,弘前市ではいつ桜が満開なのかを観光案内所で聞いたら,通常はゴールデンウィークなのですが,異常に暖かった2023年に限って,4月の上旬に満開になったという回答でした。それを聞いたとき,そうか,では,おそらく今年も4月の中旬だろうと思い込んでいたのです。しかし,2024年の春は,1月と2月は暖かかったのに,3月が寒く,桜の開花が平年よりも遅れていたのです。私は,桜前線の情報を見て,気が気でなくなっていました。
理由のふたつめは,同じ東北地方だから,と軽く考えていた私が愚かで,実際は,天童駅から弘前駅というのは,東京駅から天童駅に行くよりも時間もかかり,距離も遠いということでした。山形新幹線は福島駅で東北新幹線と分岐しているので,東京駅から山形駅に行くには便利でも,山形駅から弘前駅に山形新幹線を利用して行くにはずっと遠回りになってしまうのです。
結局,天童駅から弘前駅に行くには,まず,仙山線で仙台駅まで行き,仙台駅で東北新幹線に乗って新青森駅まで行き,新青森駅から弘前駅に行くというコースになります。しかも,列車の本数が少なく,途中の仙台市で1泊する必要がありました。
理由の3番目は,弘前市もまた,この時期にホテルを探すのが大変だったということでした。そこで,青森駅前の東横インに泊まることにしましたが,よくよく考えると,何も青森駅まで行かずとも,その途中にホテルがいくらでもあるのでした。これもまた,かなりムダな行程になってしまって「反省点その2」となりました。
という次第で,結局,2024年4月13日から4月16日までの3泊4日の旅となりました。

出発当日になりました。この日もまた,いい天気でした。
朝,午前9時15分に私の乗った飛行機は県営名古屋空港を離陸して,45分ほどで,おいしい山形空港に到着しました。
おいしい山形空港の観光案内所で天童駅までの行き方を聞いてみると,公共交通はない,という話でした。そういえば,そんなことが書かれたブログを読んだことがあったような…。で「タクシーを使ってください」と言われました。おいしい山形空港から天童駅まで料金が何と3,800円もしましたが,ともあれ,午前10時30分ごろには,天童駅に到着しました。
  ・・
事前に空港へのアクセス方法について調べてこなかったことが私の「反省点その3」です。
帰ってからわかったおいしい山形空港の交通アクセスは次のようでした。
●電車
地図で見ると,おいしい山形空港に隣接して,JR奥羽本線のさくらんぼ東根駅があります。そこまで歩けば,と思うのですが,徒歩だと40分ほどかかるようです。そこで,おいしい山形空港からさくらんぼ東根駅まで山形空港ライナーという乗合タクシーがあって,これを利用すると,所要時間は約10分で,料金は500円となります。しかし,これは1時間前までの予約制です。とはいえ,さくらんぼ東根駅に着いたとしても,そこから天童駅に行く列車は1時間に1本ほどしかありません。
●空港シャトル
おいしい山形空港から山形市内に行くには,予約不要の空港シャトルがあります。この空港シャトルは,おいしい山形空港と山形駅までを約35分で結び, 飛行機に合わせたダイヤで運行しています。料金は1,300円です。これを利用するなら,山形駅からJR奥羽本線に乗って天童駅に行くことになりますが,さくらんぼ東根駅と同じく,列車は1時間に1本ほどしかありません。
この空港シャトル,おいしい山形空港と山形市の途中に天童市があるのに,天童市で下車できないというのが私には解せません。
●空港ライナー
空港ライナーを使えば,おいしい山形空港から,東根市,天童市,村山市,寒河江市(さがえし),河北町(かほくちょう)へ,それぞれ行くことができますが,1日前,もしくは2日前までの完全予約制で,料金は800円です。
ということで,出発2日前に空港ライナーを予約しておけば,これを利用して天童市に行くことができたというわけです。

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現在,将棋の駒の95パーセントを生産するという山形県天童市は将棋の町として有名で,毎年春「天童桜まつり」で人間将棋が催されます。小学生のころに読んだ子供向けの将棋の入門書に人間将棋のグラビア写真があったので,私はその存在は知っていましたが,これまで行ってみたいと思ったことはありませんでした。
2022年4月17日に行われた人間将棋で,その年以降は名人になるだろうからこの時期は将棋名人戦と重なり人間将棋に出演することはかなわなくなるであろう,ということで,藤井聡太八冠(当時五冠)を対局者として依頼し,それが実現しました。そして,その年に限り,藤井聡太人気で,通常は予約など不要なのに,観覧者が抽選となりました。
 -実際,2023年に藤井聡太新名人が誕生し,それは現実となりました。-

私も,ダメ元で観覧希望を出してみたのですが,何と,600人の応募枠に1万人超の応募が殺到したということで,当然,落選しました。ただし,そのころの私は,天童市どころか,山形県にも行ったことがなく,もし当選したとしても,どうやって行くのさえわからないありさまでしたけれど…。
そんなこともあって,その年2022年5月17日,人間将棋が行われた1か月後,私は,はじめて山形県を旅行し,そのときに天童市にも行って,将棋まつりが行われる会場だけは見ることができました。
  ・・・・・・
人間将棋は,人間が将棋の駒となって行われる将棋のイベントです。現在は日本各地で行われていますが,1956年に山形県天童市で行ったのがはじめです。人間将棋は,将棋を戦国時代の戦にみたて,戦国時代の兵士や腰元に扮した人間が巨大な将棋の駒となり,将棋盤を模した「戦場」で相手の軍と戦うものです。
山形県天童市の人間将棋の指揮は,1992年以降は,ゲストとして招待されたプロ棋士と女流棋士が務めるようになりました。ルールは通常の将棋と同じですが,駒として参加する人のために,すべての駒を1度は動かそう,というきまりができているようです。
なお,駒となる人は一般から公募され,先手・後手で衣装が色分けされ,歩兵は女性が務めることになっています。
  ・・・・・・

そのようなわけで,それ以降,一度は人間将棋を見たいものだと思うようになって,その想いが年々強くなり,今回,行ってみることにしたのです。
私が行ってみようと計画したときは,まだ,今年2024年の「天童桜まつり」で人間将棋が開催される日にちは決まっていませんでした。しかし,ホテルや飛行機の予約を考えると,早く決める必要がありました。4月中旬の開催ということだったので,それがはたして4月13日と14日なのか,はたまた4月20日と21日なのかわからねど,運を天に任せて,4月13日と14日だと信じることにして,計画を立てました。

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今日は,せっかく「リンゴ王国」である青森県に行ってきたので,私の大好きなリンゴのお話です。
青森県に行くと,どこもかしこもリンゴです。私は夕食にデザートとしてリンゴを食べないと終われないほどなので,これだけでも,青森に住みたい! となるわけですが,とはいえ,リンゴについて詳しいわけではありません。スーパーマーケットに行って,買ってくるだけです。種類もほとんど知らず,しいていえば,ふじという名前のリンゴがおいしい,と比べもせずに思っているだけです。
そこで,これを機会に,リンゴについて詳しくなろうと調べはじめてみたのですが,途中で断念しました。というのも,リンゴは,想像していた以上に奥が深く,種類も多く,ここで簡単にまとめることができなかったからです。

リンゴ(Malus domestica, Malus pumila)は,バラ科リンゴ属の落葉高木の果実です。
リンゴの原産地はアジア西部で,人との関わりは古く紀元前から栽培されていたといわれ,16世紀以降に欧米での生産が盛んになりました。現在は,亜寒帯、亜熱帯および温帯で,7,500以上の品種が栽培されています。4月から5月に白い5弁花が開花し,8月から11月にかけて果実が実り収穫されます。
日本においては,平安時代にすでに,書物に記述がみられるということですが,これはワリンゴ(Malus asiatica)で,平安時代から明治時代にかけて栽培され,食用や供え物として珍重されました。
日本語では,漢字で「林檎」と書くのですが,これは,ワリンゴの漢名であって,現在食べているセイヨウリンゴのことではありません。
日本ではじめてセイヨウリンゴが栽培されたのは,1862年(文久2年)に越前福井藩主・松平春嶽がアメリカ産のリンゴの苗木を入手し福井藩下屋敷で栽培されたという記録が有名ですが,それより先,1854年(安政元年)に,これもまた,アメリカ産のリンゴが加賀藩下屋敷で栽培され,食用とされたことがありました。
1871年(明治4年)に,明治政府の命を受けた北海道開拓使の次官黒田清隆と民部省の細川潤次郎が,アメリカから国光など75品種の苗木を持ち帰り,北海道七飯町の七重官園で植栽,それが広がり出したのは1871年(明治7年)からのことになります。そして,生産がようやく軌道に乗ったのは明治20年代とされます。

ということで,今回,大好きなリンゴなのにあまりに知らないことを反省して,これからは,少しはリンゴを買うときや食べるときに,その種類や味について考えてみようと思いました。とはいえ,現在,出回っているリンゴの半数はふじだから,まあ,それほど考えなくてもいいのかな,と思い直したりもします。
それよりも,私には,リンゴのシーズンが終わり,市場にリンゴを見かけなくなる夏の時期が辛いのです。そんなときに愛好しているのが,このごろよく見かけるようになったニュージーランドリンゴで,ニュージーランドからのリンゴの輸入量が年々増えているようです。出回るのが日本と反対の季節であることが幸いしているようです。小ぶりですが,これを1個まるかじりするのも,また,うれしいものです。

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弘前駅に到着して,「リゾートしらかみ」を下車しました。このあと,午後7時15分発の飛行機で青森空港から帰路に着きます。県営名古屋空港到着は午後8時45分です。弘前駅から青森空港へは約1時間なので,午後4時21分発のバスに乗ることにして,それまで弘前の観光をすることにしました。とはいえ,前回来たときに弘前の観光はしたので,特に行きたいというところもなく,弘前駅から,街中を散策しながら弘前城へ行くことにしました。

弘前城は雪景色で,なかなかのものでした。そして,ここからも美しい岩木山が見えました。岩木山は山頂がみっつのこぶに見えて,まさに「山」という漢字に似ていて好きだ,と火野正平さんが言っていたのを思い出します。
岩木山を見ていたら,若い女性がひとりベンチでお弁当を食べていました。彼女は,弘前大学の4年生で,卒業を控えて,美しい岩木山を見にきたと言っていました。一応人生の先輩である私は,彼女はこの先,どれだけのことがあるのだろう,とけなげに思えました。
弘前城から,のんびり歩いて,弘前駅に戻ってきました。そして,予定通り,弘前駅からバスで青森空港へ行きました。

前回は,青森空港のフードコートで,青森のソウルフードである「味噌カレー牛乳ラーメン」を食べました。このころは,青森についてほとんど知らなかったから,どこへ行っても何をやってもどんなものを食べてもときめきと感動がありましたが,それからわずか1年なのに,珍しくもなくなってしまい,それが寂しくもありました。リピートというのはそういうものです。
今回は,いろいろおいしいものを食べ過ぎたこともあり,カレーライスにしましたが,それでも,あおもりリンゴカレーということで,それなりに地元感がありました。

こうして,今回の旅が終わりました。
ストーブ列車に乗って,不老ふ死温泉に入って,「リゾートしらかみ」に乗る,という目的は,すべて達成できました。期待以上の旅でした。昨年は単なる好奇心で出かけた青森でしたが,すっかりはまってしまい,これが2度目の旅でした。そして,今年は,さらに2回青森に行く計画があるのです。自然あり,温泉あり,そして,人の温かさあり,意外性あり,というように,青森はとてもおもしろいところです。

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Worm Moon 2024.

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2024年3月8日。
何とか指定席券を手に入れた「リゾートしらかみ」に乗る日がやってきました。
不老ふ死温泉からは,「リゾートしらかみ」の出発時刻である午前10時38分に合わせて,午前10時20分に旅館を出発する五能線のウィスパ椿山駅まで送迎バスがあるので,これに乗り込みました。結構多くの宿泊客が乗るようでした。みんな指定席券を手に入れるのに苦労したと言っていました。
この時点では,まだ,私は,「リゾートしらかみ」にはどんな人が乗っているのだろう,と心配でした。

五能線の駅名にもなっている「ウィスパ椿山」というのは,1995年4月に深浦町が開業したリゾート施設です。「ウィスパ椿山」には,土産物屋,観光案内所,ガラス館,昆虫館,スロープカーと展望台,そして,宿泊関連施設はコテージ,レストラン,展望露天風呂などがあって,ウィスパ椿山駅から行くことができるようになっていました。
昨年,私は,この近くを走る国道101号線から「ウィスバ椿山」の外観を見て,異様な感じをもちました。これはバブル期のレジャー施設で,地中海の住居を模した異様な外観をしていて,この自然豊かな地を求めてやってくる観光客のニーズとは違うなあ,何か勘違いをしているなあと思いました。やはり,私の思った通り,業績不振やコロナ禍による休業で売り上げが大幅減少し,2020年11月に閉鎖してしまっていたそうです。
「ウェスパ椿山」に限らず,こういう施設を考えた人に見地やセンスがないとこういうことになります。こんな事例は日本各地いたるところにあって,その多くが今は廃墟となっています。こうしてまた,日本の自然が破壊され,日本国中,自然がゴミ屋敷となっていくのです。
「ウェスト椿山」は閉鎖されましたが土産物屋「コロボックル」だけは今も営業していて,これは,不老ふ死温泉から「リゾートしらかみ」に乗るためにやってくる宿泊客をターゲットにしているものと思われます。もし,不老ふ死温泉が「ウェスト椿山」の土産物屋「コロボックル」と結託して,送迎バスの時間を少し早めこの駅で待合時間を長くすれば,もっと売り上げが伸びることでしょう。そうなっていないのが,良心的というか商売気がないというか…。

やがて,定刻に「リゾートしらかみ」がやってきました。不老ふ死温泉に行くと思われる乗客が数人降りました。
私が「リゾートしらかみ」に乗り込んでみると,意外や意外,団体客もいなければ,インバウンドの客もおらず,乗っていたのは,大学生のような個人旅行客がほとんどでした。「リゾートしらかみ」は秋田駅を出発して,弘前駅,あるいは,新青森駅を経由して青森駅まで行くので,東京に住む人がこれに乗るのを目的とするのならば,秋田新幹線で秋田駅まで来て,「リゾートしらかみ」に乗って新青森駅で降りて,東北新幹線で帰れば,日帰りコースにできます。そこで,JR東日本の10,000円の平日限定1日乗車券「旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス」を利用して乗ってきたようです。だから,平日のほうが座席指定券が取りにくく,週末が空いていたのです。
さらに聞いてみると,この入手困難な座席指定券を手に入れる最も確実な方法は,駅の自動券売機で1か月前の午前10時に購入することだそうで,私のように,「えきねっと」で1か月以上前に予約を入れても,JR東日本のコンピュータプログラムはそれが優先的に購入できるシステムになっているわけでないから意味がなく,売り切れてしまうらしいです。これが今回「リゾートしらかみ」指定券即時完売,入手不可能の真相でした。
腹立たしいのは,こうして全席指定券が売り切れであるにもかかわらず,実際は,ずいぶん多くの座席が空いていたことです。要するに,予定も立っていないのに切符を手に入れて,行くことができなくなっても,あるいは,乗らなくてもキャンセルしないからです。その理由は,座席指定券が840円と安くキャンセル代金が320円と高いということもあるのですが,それよりも「旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス」を使えば,座席指定券がその料金に含まれているので,乗る乗らないにかかわらず,座席指定券を手に入れてしまうからです。さらに腹立たしかったのは,乗っている人の多くが,景色も見ず,列車の旅を楽しんでいるわけでもなく,寝ていたりしたことでした。
「リゾートしらかみ」は,能代駅と川部駅で進路方向を変換しますが,もっとも景観のよい能代駅と川部駅の間はA席が海側となります。そこで,特に,A席の争奪戦になります。私は,A席が取れず,通路側のB席を,それもキャンセルがあったから何とか手に入れたのですが,実は,私の隣のA席には私の下車した弘前駅までだれも座らなかったので,幸運にも海側のA席に座ることができてしまったのです。

さて,それはともかく,私は,せっかく座席指定券を手に入れたのだから精一杯贅沢をしてやろうと,ネットの「うけとりっぷ」で豪華弁当を購入しておきました。この弁当は「セイリングの海彦山彦弁当」お値段2,000円というもので,深浦駅での停車時間が6分ほどあって,その時間にホームに降りて,弁当を受けとるというシステムでした。同じように注文をしていた人が5,6人いて,列車がホームに着いて扉が開くと同時に降りて弁当屋さんを目指しました。
弁当が欲しくても予約がしていないということでうらやましがっていたり,どうやって買ったのか聞いてくる人もいました。しかし,「旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス」でやってきた若者にはこの弁当は高価すぎるから,お昼時に乗っているのに食べるものすらない人がほどんどでした。「リゾートしらかみ」には,ビュッフェ車両はあるのですが営業しておらず,車内販売も自動販売機もないのです。ただし,セルフレジの売店はあるので,私はお茶をそこで購入しました。

そんなこんなで,紆余曲折がありましたが,私は,結局,「リゾートしらかみ」の海側のA席に座って,おいしいお弁当を食べながら,晴れ渡った美しい景色を見るという最高の旅をすることができました。
列車は,鰺ヶ沢駅を過ぎると,内陸部に入ります。今度は,私の座っている席の反対側右手に岩木山が美しく見えるようになってきたので,席を立って展望室に行って写真を撮っていると,同じようにして写真を撮っていた女性がいて,何となく仲良くなりました。お話をしていたらあっという間に時間が過ぎるようになり,午前12時35分,五能線の終点駅・川部に到着。そして,その13分後,弘前駅に到着したので,手を振ってお別れしました。
最高の「リゾートしらかみ」の旅になりました。

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午後1時30分に五所川原駅に不老ふ死温泉の送迎バスが来ました。五所川原駅に行くとだけ聞いていたので,五所川原駅のどこに? と思ったのですが,五所川原駅は出口が1か所で,しかも駅前は狭いから,それだけでわかりました。
送迎バスは,私の予想に反して多くの人が乗っていて,五所川原駅で乗せてもらったときは,譲ってもらわないと座る場所がないほどでした。これでは不老ふ死温泉もすごく混んでいるのでは,と嫌な予感がしたのですが,考えてみれば,新青森駅からの送迎バスはこの1台のみであり,この日は五能線が不通で,しかも,それに代わる交通手段もなく,冬場では地元の人以外はレンタカーを利用する人もいないから,宿泊客というのはほぼこのバスの利用者に限られるわけで,だから,わずかこれだけともいえるのでした。
回復基調の天気で,次第に岩木山がうっすらと見えてきた天気の中,バスは途中で休憩を挟みながら,青森県の西海岸沿いに国道101号線を走っていって,深浦町の街中を過ぎ,約1時間で不老ふ死温泉に到着しました。

私は,日本各地にある,名前が知られた,ずらりと大きなホテルの立ち並ぶ温泉街よりも,一軒宿のほうが好感がもてます。昨年泊まった酸ヶ湯温泉も,今回の不老ふ死温泉も,今は有名になりすぎて建物は建て増しをしつつ大きくなっていますが,もとはともに一軒宿です。
  ・・・・・・
酸ヶ湯温泉は300年の歴史があるのですが,それに対して,不老ふ死温泉は,津軽西海岸の日本海に突き出た艫作崎(へなしざき)に湧出する歴史の浅い温泉です。
艫作崎は黄金崎ともよばれ,日本海に沈む夕陽が見られる場所として有名でした。もともと,海岸に少量ながらも温泉が湧き出ていたのですが,1970年にその地点を地下200メートルほどボーリングしたら大量の温泉が湧出するようになったのがはじまりです。 泉温は摂氏49度,毎分400リットルの湧出量があり,鉄分を多く含む濁った赤褐色の湯が湧き出ています。
「この温泉で養生すれば老いる事も弱る事もない」「1日1年,3日3年命が延び,一生浸かると不老不死」になるとの意味から不老ふ死温泉と名づけられました。温泉宿には波打ち際に造られた瓢箪型の名物混浴の露天風呂があり,瓢箪型の露天風呂の隣には女性専用の楕円形の露天風呂もあります。
日本海の水平線に沈む夕陽を眺めながら露天風呂に浸かるのが醍醐味で,マスコミに取り上げられることが多く,人気になりました。
なお,不老ふ死温泉のふたつめの「不」が平仮名なのは,書家の先生が漢字の「不」がふたつ重なるのはよろしくないと言ったというのが理由だそうです。
  ・・・・・・

私は,昨年,青森県をはじめて旅行したときまで,不老ふ死温泉を全く知らなかったのですが,そのときに意識して以来,この名を目にすることが多く,食事もおいしそうだったので,泊ってみたいと思うようになりました。
送迎バスで一度にチェックインしたので,そのときだけはフロントが混雑しましたが,手際よく対処して,というか,いつもこんな感じなのでしょう。部屋は広く,廊下でも人と対面することがほどんどなく快適で,どれだけの人が宿泊しているのかわからなかったのですが,結構閑散としていて,最高でした。
本館の内風呂「黄金の湯」とそれに続く浜辺の露天風呂,そして,新館の内風呂「不老ふ死の湯」には併設された露天風呂がありました。宿泊客のお目当ては浜辺の露天風呂で,本館の内風呂「黄金の湯」に入ってから行くようになっていました。
日が沈むころの浜辺の露天風呂は混雑するということで,私は,それよりも2時間ほど前に行きました。そのときはガラガラでしたが,次第に人が増えてきました。すでに,日没を見ようと,湯船の特等席に陣取って日没まで粘っていた人がふたりほどいて,いやな感じがしました。しかし,この日は水平線近くには雲があるので,彼らの目論見は外れ,気の毒にも海に沈む夕日は見られない,と思ったので,私は,浜辺の露天風呂に入ることができたことに満足して,30分ほどで部屋に引きあげて,部屋から沈んでいく夕日を眺めることにしました。それがまあ,美しかったこと! 実際,私の思ったとおり,海に沈むころの夕日は見られませんでした。
なお,浜辺の露天風呂は日没後から日の出までは暗いので入ることはできません。また,西側が海で東側は山なので,浜辺の露天風呂から日の出を見ることはできないから,早朝に入ってもあまり意味がありません。
しかし,午前4時から内風呂には入ることができるということだったので,その時間に新館の内風呂「不老ふ死の湯」と併設された露天風呂に行ったのですが,私以外にだれも入っている人がおらず,ここの露天風呂が最高でした。夕方には,この露天風呂からも夕日を見ることができます。ただし,この露天風呂は外から丸見えです。

このホテルでも,また,火野正平さんの色紙を見つけました。私がこれまでに行った日本各地の辺境であるJR野辺地駅,深浦町森山海岸の象岩,佐渡島の民宿「桃華園」,隠岐諸島島前の旅館「みつけ島荘」,壱岐島の猿岩など,どこに行っても,火野正平さんの足跡があります。これだけ津々浦々日本中を巡ることができるのなら,いつまでも自転車旅を続けたいわなあ,とうらやましく思うことでした。
不老ふ死温泉の宿泊コースは,夕食にバイキングと特選和膳を選ぶことができるのはすでに書きましたが,安価なバイキングを選んだ人たちは大広間でした。私は,特選和膳を選んだので,落ち着いた広間で,人も少なくそれぞれが離れたテーブルに座って,ゆっくりと地酒を味わいながら食事をすることができました。朝食は,私の嫌いなバイキング形式だったのですが,それほど混み合っていなかったので,それなりに許せました。
こうして,念願だった不老ふ死温泉での宿泊をすることができたのですが,温泉はもちろんのこと,食事もおいしく,幸い,インバウンドもおらず,団体ツアー客はいたようですが,少人数だったので気にならず,予想以上でした。私は,また来たいと思いました。

不老ふ死温泉は,現在は名も知られて,マスコミにも取り上げられて,いい循環で客足も伸びて,それに従って,旅館も大きくなっているのですが,何せ,交通の便が悪い(悪すぎる)ので,「リゾートしらかみ」頼みで,この先も順風満帆といけるかどうか? リピータが来るかどうか,「リゾートしらかみ」が存続するかどうかが今後を決めることでしょう。
多くの有名な温泉地には,1990年代のバブル経済がはじけて会社の団体客が減り廃墟化した大型リゾートホテルが乱立しています。現在は順調でも,ルールをわきまえないインバウンドの団体客が押しかけるようになって,日本人客が減っているところも少なくありません。また,不老ふ死温泉の近くには「ウェスパ椿山」という,コロナ禍で客足が減り,昨年閉鎖されたリゾート施設もあります。不老ふ死温泉がそうならないように祈っています。

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◇◇◇


◇◇◇
おめでとう優勝,尊富士。
五所川原の誇り。


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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午前11時11分金木駅発のストーブ列車が来る時間が近づいてきたので,金木駅に行きました。
津軽鉄道には,現役の腕木式信号機が,津軽五所川原駅と金木駅に合計3個存在しています。昔は多く見られた腕木式信号機ですが,JR線では2005年6月28日にすべて撤去されて消滅し,現在では津軽鉄道が日本唯一,現役として使用されています,
私の子供のころは蒸気機関車も現役だったように,このような信号機や,タブレット閉塞・スタフ閉塞の交換など,今の若い鉄道ファンが追いかけている多くのものは珍しくもないので,関心はないのですが,こうしたものを目当てに津軽鉄道に憧れている人も少なくありません。

さて,今回の旅は,ここまでは完璧でした。
昨日乗ったストーブ列車はすごく楽しかったから,その思い出だけを残して,この日は空いている一般車両に乗ればよかったのに,せっかくだからと,この日もストーブ列車の車両の乗ったのが間違いでした。まだ朝だから空いているだろうと思ったのですが,さにあらず。車両の半分は,うるさい限りの中国人団体客が大騒ぎをしていたし,残りの半分は日本人観光客でいっぱいでした。ひとり旅らしき女性がストーブ列車だというのに,車両の端に座って,冷めた目で窓から雪景色を見ていました。
津軽中里には私以外に観光客は宿泊していなかったし,金木駅から乗り込んだのも私くらいのものだったから,おそらく,彼らは観光バスでやってきて津軽中里駅で乗り込んだか,あるいは,朝,津軽五所川原駅から津軽中里駅まで津軽鉄道で来て,折り返しているものと思われました。
これにはがっかりしました。旅の思い出は,ちょっとしたことですばらしくもなり,失望にも変わります。

そんなわけで,この日はまったくさえなかったストーブ列車なので,何も書きません。
そんなストーブ列車でしたが,午前11時37分に津軽五所川原駅に到着しました。午後1時30分に,今日の宿泊先である不老ふ死温泉の送迎バスが五所川原駅に来ることになっているので,それまで約2時間,五所川原の町を観光し,昼食もとることにしました。
五所川原の町の見どころは,「まちなか「思ひ出」パーク」にある「太宰治「想ひ出」の蔵」という太宰治の祖母キヱゆかりの蔵,立佞武多が展示されている「立佞武多の館」,そして,五所川原出身の「吉幾三コレクションミュージアム」の3か所だと以前書きましたが,すべて徒歩圏内で行くことができます。
昨日訪れた「太宰治「想ひ出」の蔵」は,太宰治の養母の家があったところで,叔母であるキヱに太宰治が送った直筆の手紙などが展示されていて,太宰治に浸るにはいいところでした。そこで,この日は,それ以外の2か所に行きました。
「吉幾三コレクションミュージアム」は,カフェが併設された洒落た建物でした。館内は,吉幾三さんが使用した楽器,ステージ衣装,出演した映画のポスターなどが展示されていて,中央にはホールがあって,紅白歌合戦やレコード大賞等に出演時の映像を上映していました。ステージ衣装のひとつを着ることができたので,試してみました。ちょうどよいサイズでした。着ていると,スタッフが記念撮影をしてくれました。私は,吉幾三さんのファンということもないのですが,一応「こんな村いやだ」とかいう歌は知っています。しかし,この歌のイメージとは異なり,五所川原の町は都会です。聞いてみると,吉幾三さんの生家は,五所川原の街中からもっと東に行ったところだったそうです。しかし現在は地元では「ホワイトウス」とよばれている600坪の豪邸です。
そういえは,現在売り出し中の大相撲の力士・尊富士も五所川原の出身です。

最後に行ったのが「立佞武多の館」でした。昨年行った弘前の「津軽藩ねぷた村」で,道の狭い五所川原の町では,青森市のねぶたや弘前市のねぷたのような幅の広いものでは作れないので,上に伸び,背の高いものだと聞いていたので,興味がありました。青森市ではねぶた,弘前市ではねぷたといいます。ねぶたもねぷたも睡魔を追い払う「眠り流し」という行事が起源になっていて,「眠り」のなまり方が地域によって異なり,ねぶたとねぷたによび名がわかれたのではないかといわれています。
そして,五所川原ではねぷたを立佞武多(たちねぷた)というのですが,これは平成のころにつけられた新しいネーミングです。
  ・・・・・・
もともと,ねぷたは旧暦の七夕に行われた夏祭りで,江戸時代中期までは小さな灯篭が使われていたのですが,次第に巨大化し,高さを競うようになりました。しかし,大正時代になると,電線が張り巡らされたことで,高い山車は運行が困難になったので衰退し,忘れ去られてしまいました。
その後,平成に入り,五所川原のねぷたを復興させようという動きが起きました。しかし,電線があるので,町中を運行させるわけにはいかず,1996年,1度きりということで作られて,河川敷へ運び,その場で火にかけてしまいました。
しかし,市民の熱意もあって,これをきっかけに,五所川原市は,ねぷたを恒久的に復活させるために,電線を地中に埋めるという手段をとりました。その結果,1998年,「五所川原立佞武多」が開催され,今では100万人超が訪れる祭りへと成長したのです。
  ・・・・・
立佞武多は,高さ約23メートル,重さ約19トンにもなります。青森市のねぶたや弘前市のねぷたとは違って,毎年1体の大型立佞武多が制作され,3年間使用されます。そこで,毎年3体の立佞武多が披露されることになります。その立佞武多の実物が保存・展示されているのが「立佞武多の館」です。
夏のまつり本番では,忠孝太鼓を先頭に,市内の有志団体・高校・町内会・企業などの中型立佞武多,小型ねぷたとともに,この3体の大型立佞武多が「ヤッテマレ!ヤッテマレ!」の掛け声と囃子,踊り手などが華を添えながら五所川原市街を練り歩くということです。
このように,五所川原の立佞武多は,実は平成になって80年ぶりに復活した,新しいものです。
  ・・・・・・
私は,3体の巨大な立佞武多を見て,五所川原の矜持を感じました。

そのあと,どこかで五所川原らしい昼食を,と思いながら歩いていたのですが,適当なところもなく,結局,五所川原駅にもどってしまいました。そして,駅前で,食事ができるお土産屋さん「コミュニティカフェ でる・そーれ」を見つけ,津軽鉄道社長シリーズと銘打った「社長のタンメン」を食べました。

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津軽半島に桜で有名な公園があることすら私は知らなかったので,驚きました。
帰ってから調べてみると,ネットに桜が満開の美しい芦野公園の写真がたくさん載っていて,今回,私が経験した芦野公園のイメージとはまるで違いました。私が行ったときは,ちょうど雪が降り積もったばかりで,さびれ感満載の白銀の姿。このような写真は1枚もありませんでした。しかし,これがまた,いいものでした。
芦野公園に太宰治の銅像があるというので津軽鉄道を降りて行ってみることにして,雪降る芦野公園駅で降りたわけですが,踏切を渡って北に約400メートルほど歩いていくと,桜松橋という藤枝ため池にかかる吊橋があって,そのたもとにめざす目的地が見つかりました。

そこには,太宰治の銅像だけでなく,「津軽三味線発祥之地」と書かれた石碑がありました。
津軽三味線は,津軽地方で発達した三味線です。明治時代に「坊様ボサマ」とよばれた盲目の旅芸人・仁太坊(にたぼう)が,家毎の軒先で三味線を弾き金や食料をもらって歩く「門付」(かどづけ)の芸としてはじまったものということです。
  ・・・・・・
仁太坊は金木の生まれで,幼くして天然痘にかかり失明,さらに両親を失って天涯孤独となり,生きるために門付けを行い三味線を弾き歩きました。やがて「叩き奏法」を編み出して自分の三味線芸を創り上げていったのです。そして,弟子のひとり・白川軍八郎が三味線の独奏で曲芸のような弾き方である「曲弾き」を編み出しました。
  ・・・・・・

さらに,吉幾三さんが歌った「津軽平野」の歌碑もありました。
  ・・・・・・
山の雪どけ 花咲く頃はよ かあちゃんやけによ そわそわするね
いつもじょんがら 大きな声で 親父うたって 汽車から降りる
お岩木山よ 見えたか親父
    吉幾三「津軽平野」
  ・・・・・・
この歌碑の裏には「風を截る音色・津軽の魂が宿る 儀一」の文字が刻まれていました。これは,作家の藤本義一本人が記した文字でした。どうして藤本義一さんが? と思ったのですが,それは,1976年,帝劇で上演された舞台「津軽三味線・ながれぶし」の作者が藤本義一さんなので,これと関わるのでしょう。

太宰治の銅像は,鹿児島市在住の彫刻家・中村晋也さんが作成した,高さ約2メートルの全身像です。
2009年6月19日の太宰治生誕百年記念日に除幕式が行われました。
これもまた,どうしてここに? と思ったのですが,芦野公園は金木町なのだから,当然なのです。津軽鉄道の線路は「つ」の字に回っているので,遠そうなのですが,芦野公園と太宰治の生家「斜陽館」は目と鼻の先の距離なのです。
「斜陽館」は午前9時に開館で,太宰治の銅像から歩くとちょうどその時間になるので,金木町を歩いて,「斜陽館」まで行きました。今回も「斜陽館」の中に入ってみましたが,「斜陽館」のことは以前書いたので,ここでは省略します。
はじめは閑散としていい雰囲気だったので30分ほど滞在していたのですが,やがて,インバウンドの人たちがバスでやってきて,雰囲気が一変したので,退散することにしました。
金木駅に向かって歩いていると,前回訪れたときは知らなかったのですが,途中に「太宰治疎開の家」があったので,寄ってみました。
  ・・・・・・
「太宰治疎開の家」は太宰治の長兄・津島文治が,1922年(大正11年)の結婚を機に新築したのもで,津島家では新座敷とよばれていました。1945年(昭和20年)の7月末から1946年(昭和21年)11月12日まで,太宰治が戦禍から逃れ,妻子を連れ故郷に身を寄せた場所とされています。
  ・・・・・・
太宰治は,新座敷に暮らしていた間に「パンドラの匣」「苦悩の年鑑」「親友交歡」「冬の花火」「トカトントン」など23の作品を書き上げていて,文豪デビュー後に居宅としていた建物では唯一現存するものということです。
そんなこんなで,この日は朝から金木の町ですっかり太宰治に浸りました。

  ・・・・・・
金木は,私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し,人口五,六千の,これといふ特徴もないが,どこやら都会ふうにちよつと気取つた町である。善く言へば,水のやうに淡泊であり,悪く言へば,底の浅い見栄坊の町といふ事になつてゐるやうである。
    太宰治「津軽」
  ・・・・・・

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冬の津軽中里に来たのだから,雪景色が見られるのは,むしろ幸運なことです。
お世話になった「福助旅館」をチェックアウトして,雪の中を歩いて津軽鉄道の津軽中里駅に着きましたが,私の他に誰もいませんでした。駅員さんもおらず,列車だけがホームに停まっていて,入口のボタンを押すと扉が開いて,すでに乗れるようになっていました。
この列車は「走れメロス」号と名がつけられた津軽21形気動車です。
  ・・・・・・・
津軽鉄道の津軽21形気動車は,1996年(平成8年)11月に2両,2000年(平成12年)2月に3両の計5両が製造された津軽鉄道の気動車です。太宰治の作品にちなみ「走れメロス」の愛称がつけられています。朝夕のラッシュ時を除く時間帯の列車をワンマン運転とすること,冷房化による快適性の向上をねらって,国と青森県からの補助金と津軽鉄道活性化協議会からの助成を受けて導入されました。
車体外装は津軽平野の実りの秋を連想させるオレンジ色を基調としていて,窓下にはレトロ感を演出する輪郭帯の入ったモスグリーンの帯が配されるとともに,連続窓風に見えるように,窓周りは黒く塗装されています。
  ・・・・・・

定刻に運転手さんがやってきて,私ひとりの乗客を乗せて列車が出発しました。
来るときはストーブ列車だったので停車しなかった深郷田駅にも停車しました。この駅で,ひとり女性が乗ってきました。そして,大沢内駅,川倉駅と続いて,私が降りる芦野公園駅に着きました。
あたりは一面の銀世界でした。
この駅に降りると,若い女性がひとり,待合室で津軽中里駅に向かう列車を待っていました。私の乗ってきた列車は五所川原行き。複線になる次の金木駅で津軽中里行きの列車とすれ違うことができるのです。
列車を降りてみたものの,道はすべて雪に覆われていて,視界も効かず,方向感覚がありません。どちらに行けば,目的の太宰治の銅像があるか,皆目見当がつかないのです。iPhoneのGoogleMapsも要領を得ません。そこで,この女性に聞いてみました。すると,どうやら,私の思っていたのとまるで逆の方向でした。降りたホームの反対側だったので,レールを横切る必要がありました。少し歩いて踏切を見つけて横断しました。
  ・・・・・・
太宰治がよく遊んだ場所として知られている芦野公園は,「日本のさくら名所100選」にも選ばれていて,約80万平方メートルの広大な園地は,春になると約1,500本の桜が咲き誇ります。一番の見どころは,桜のトンネルをローカル鉄道が走るところで,昔ながらの小さな駅舎やのどかな風景が訪れる人々を一段と楽しませてくれます。
園内には,太宰治文学碑や太宰治像,津軽三味線発祥の地碑などがあります。
  ・・・・・・

駅の周辺には,津軽鉄道・芦野公園旧駅舎を活用した赤い屋根の喫茶店「駅舎」があるのですが,さすがにまだ朝早く,開いていなかったのが残念でした。
  ・・・・・・
ぼんやり窓外の津軽平野を眺め,やがて金木を過ぎ,芦野公園といふ踏切番の小屋くらゐの小さい駅に着いて,金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め,そんな駅は無いと言はれ憤然として,津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言ひ,駅員に三十分も調べさせ,たうとう芦野公園の切符をせしめたといふ昔の逸事を思ひ出し,窓から首を出してその小さい駅を見ると,いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが,大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥へたまま改札口に走つて来て,眼を軽くつぶつて改札の美少年の駅員に顔をそつと差し出し,美少年も心得て,その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に,まるで熟練の歯科医が前歯を抜くやうな手つきで,器用にぱちんと鋏を入れた。
少女も美少年も,ちつとも笑はぬ。当り前の事のやうに平然としてゐる。少女が汽車に乗つたとたんに,ごとんと発車だ。まるで,機関手がその娘さんの乗るのを待つてゐたやうに思はれた。こんなのどかな駅は,全国にもあまり類例が無いに違ひない。
    太宰治「津軽」
  ・・・・・・

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「福助旅館」に到着しました。気さくな女将さんが迎えてくれました。
この日の宿泊客は3人,ということでしたが,私以外は旅行者というより,仕事か何かの作業で来ているひとのようでした。地方のこうした旅館は,道路工事などで来ている人の宿泊先になっていることも少なくなく,仕事が終わって帰ってきて,外で群れてタバコをくゆらせていたりしていることもあって,観光気分の気ままなひとり旅の期待とは違うことがありますが,今回は大丈夫でした。
部屋に案内されました。和室の中央に大きなベッドがありました。
特にすることもないし,どこかに行くあてもないなあ,と思っていたら,旅館の風呂よりも近くに大きな温泉ができたから行ってみるといいよ,と言われたので,そうすることにしました。シャンプーやタオルを準備してくれました。
四つ角を左へ左へ行くように,と言われたのでそうすると,5分くらいで到着しました。「総合福祉健康センター 湯らぱ~く」という,すごく大きな施設でした。
  ・・・・・・
事業費26億円で,2022年3月に着工し2024年2月6日の「ふろの日」に温泉やトレーニング施設を備えてオープンしたのが,中泊町の「総合福祉健康センター 湯らぱ~く」です。
入浴料400円の大浴場には,内湯(中温・高温),露天風呂,サウナと,家族風呂があります。天然温泉は体の芯からポカポカと温まります。
  ・・・・・・

それほど混雑していませんでした。新しく広く,しかも,天然温泉ということで,どこかの大きな旅館の温泉より,ずっと立派で快適,ここは最高でした。毎日こんな温泉に入れるのなら,この町に住んでもいいと思うほどでした。
風呂につかりながら地元の人と話をしましたが,何せ,津軽言葉があまりわからないから,外国にいるような感じでした。
以前,オーストリアでドイツ語しかわからない初老の女性と,バス停でバスが来るまで話をしたり,フィンランドでフィンランド語しかわからない老人の男性と,地下鉄の駅で列車が来るまで話をしたこともあります。
まあ,そんな経験上,それに比べれば,何を言っているのかおおよそは見当がつくから,何とかなります。そんな地元の人が言うには,やはり,ここもまた,若い人は都会に出てしまい,この町も老人ばかりだそうです。
あまりに快適な温泉だったから,ずいぶんと長い間入っていました。
帰りにお酒でも買ってくるといい,と旅館の女将さんに言われたのですが,その,酒屋さんがないのです。というか,町全体にお店がほとんどないか,あっても,もう閉まっていました。かろうじて見つけて中に入ったのですが,今度は,地酒どころか,売っている品物がほどんどない。かろうじて存在したワンカップ大関を購入しました。せっかく来たのに,この地のお酒が飲めないのだけが残念でした。
旅館に戻って,女将さんと話をしながらのんびりと夕食をとりました。
食事後は,私は,旅先でもテレビを見ないので,特にすることもなく,早々に寝ました。

2024年3月7日。
朝起きて,窓から外を見るとしんしんと雪が降っていて,旅館のまわりは一面の銀世界でした。雪国らしくていいです。この雪はまもなく止んで,この日は快晴となる,という天気予報でした。
朝食をとったあと,出発の準備をしました。
もともとの予定では,午前10時53分津軽中里発のストーブ列車に乗ることにしていましたが,それまでここで何をするの? ということもあったし,金木駅のひとつ手前の芦野公園駅で降りて少し歩くと太宰治の銅像があると女将さんが言うので,予定を変更して,午前8時18分発の列車に乗ることにしました。
午前8時18分発の列車に乗ると,芦野公園駅に着くのが午前8時29分。そこから歩いて,太宰治の銅像を見て,金木の町まで歩けば,午前9時に開館する斜陽館に行くことができます。私が乗ろうと思っていたストーブ列車が金木駅に来るのが午前11時7分なので,金木駅からそれに乗ろうと決めました。斜陽館はすでに昨年行ったのですが,太宰治の銅像は見ていないし,金木の町自体も散策していないので,これがいいな,と思いました。

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昨年は車で金木の斜陽館までしか行くことができなかったので,金木駅を過ぎた北は,私にははじめて見る風景でした。田んぼは雪景色で,ハクチョウやそのほかの鳥がいました。ハクチョウには興奮しました。それ以外の鳥はストーブ列車の中で解説がありましたが,残念ながら名前を忘れました。
金木駅の次が芦野公園駅,その次の川倉駅は通過して,大沢内駅,そして,「不幸だ」と読めるとネタにされた深郷田駅は通過して,午後3時25分終点の津軽中里駅に着きました。
予想をはるかに超えた,すばらしいストーブ列車の旅になりました。
ただし,残念なことに,ストーブ列車の多くの写真を見ると,気動車が接続されていて,写真が様になっていますが,今回,私が乗ったのものは気動車が接続されていませんでした。その理由は調べてもわかりませんでした。

このストーブ列車,コロナ禍のころ,まったく乗る人がいなくなってしまったそうです。
私は,コロナ禍の時期もずっと元気だったし,未だ,新型コロナどころか,風邪すらひいたことが一度もありません。むしろ,そのころは,どこも空いているのを千載一遇のチャンスとして,頻繁に京都や東京へ車で新幹線で旅をしていましたし,飛行機で北海道にも行って,ガラガラの旭山動物園を堪能しました。しかし,青森へ行ってストーブ列車に乗ることは思いつかず,今となっては残念なことをしました。旅と投資は人と反対なことをするといい,というのが私の持論です。
ストーブ列車はコロナ禍を乗り越えて,よくぞ,生き残ったものだと思いました。
今回乗った車両は「オハフ33」と書かれていました。
  ・・・・・・
1948年に新潟鐵工所で製造された元国鉄「オハフ33・520」は,津軽鉄道には1983年に譲渡されました。機関車に暖房用蒸気供給設備がないため,ダルマストーブを設置しています。
  ・・・・・・
若いころは,こんな客車に乗っていたから,私にはなつかしいものでしたが,若い人にはめずらしいものでしょう。

私は,来る前,津軽鉄道の終着駅はどんなところだろう? という好奇心でいっぱいでした。ものすごい最果てのような気がしていたからです。しかし,駅の周辺は思った以上にたくさんの民家があったので意外な気がしました。
乗客の多くは,というより,ほどんどは,前回書いたように,JR東日本の10,000円の平日限定1日乗車券「旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス」で来ているので,津軽中里駅に来たことで満足して,30分ほど滞在して,午後3時54分発のこのストーブ列車に再び乗って,戻っていきます。何せ,彼らは日帰り旅行なのです。朝,弘前駅でわかれた大学生も,彼の予定通り,金木駅でストーブ列車に乗ったようで,再び再会しましたが,ここで折り返して帰っていきます。
今は,このような企画商品があるにせよ,普段でも,旅をしている大学生の多くは,ふたり連れの女性が多く,男の姿は,海外でも日本国内でもあまり見かけません。旅こそ最大の勉強なのに,と私は思いますが,彼らは一体何をしているのでしょう。

私は,長年ストーブ列車に乗りたかったのですが,観光客で混雑しているのも嫌だったし,半ばあきらめていました。しかし,津軽中里駅の近くに旅館を見つけたことで,これなら最終のストーブ列車に乗れば,おそらくそれほど混雑していないだろうし,静かな町で1泊するのは悪くないと思ったので,今回の旅を実行したのですが,ストーブ列車の中で「今日この町に泊まる」と言ったら「この町に何があるの?」と言われました。帰宅した今になってもよくわかりません。車がないと,津軽半島のこの先の十三湖も竜飛岬もどうやって行くのか皆目見当もつきません。バスがあるよ,と聞いたのですが,調べても時刻表すら見つかりませんでした。
もっと寒い時期にフィンランドのロヴァニエミに行ったのですが,ロヴァニエミのほうが交通事情はずっと便利でわかりやすいものでした。JRの車内では「カンペ」にせよ,英語の案内放送があったりと,一見,外国人に親切そうなふりをしていますが,地方の駅には駅員すらいないし,会社が異なれば,地元で聞いても時刻表すら簡単には調べられません。また,現金しか使えないとか,本当に日本はよくわからない国,というか,やったふりばかりで,本当の利便性がまるでわかっていないのです。だからまた,バス旅のようなテレビ番組が作れるのでしょう。
しかし,何もないにせよ,こうした知らない小さな町を歩くのはこころときめきます。これぞ旅です。おそらく,今日宿泊する旅館も,客は私ひとりでしょう。むしろ私はそれを狙って旅をしているわけです。これまで,日本国内に限らず,海外も多く旅をしてきましたが,何もないような,ガイドブックにも情報が載っていないような無名の町の小さな旅館へ泊ることこそが,旅のなかで最大の贅沢だと,つくづく思うようになりました。
後でこの日宿泊する旅館の女将さんと話をしていたとき,みんな津軽中里まで来ても泊まらずに帰っちゃう,とぼやいていました。

私はこの日,津軽中里の「福助旅館」に1泊するので,ストーブ列車の車中で知り合った人たちと別れて,津軽中里駅から「福助旅館」まで歩くことにしました。
10分くらい津軽中里の町を歩いて,「福助旅館」に到着しました。

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五所川原の町は小さくて,見どころは,「まちなか「思ひ出」パーク」にある「太宰治「想ひ出」の蔵」という太宰治の祖母キヱゆかりの蔵,立佞武多が展示されている「立佞武多の館」,そして,五所川原出身の「吉幾三コレクションミュージアム」の3か所で,すべて徒歩圏内でした。この日は時間がなかったので,その中で,「まちなか「思ひ出」パーク」にある「太宰治「想ひ出」の蔵」だけに行って,それ以外のところは,次の日に行くことにしました。五所川原の町のことは後日まとめて書くことにします。
五所川原駅に戻ってきました。いよいよ午後2時40分発のストーブ列車に乗ります。

小さな津軽五所川原駅前には観光バスが2台も停まっていてすごくいやな予感がしました。これだけの人がこれから乗るか! と思いました。しかし,バスの中にも待合室にもひとりの団体ツアー客もいませんでした。
すると,駅の待合室で,青森空港で出会ったツアーコンダクターの女性に再会しました。そこでわかったのは,団体ツアー客は,青森空港からバスに乗って津軽五所川原駅に直接向かって,午前12時発のストーブ列車に乗って,午前12時26分着で金木駅で降りて,斜陽館に行って,再び,午後1時56分金木駅発のストーブ列車で午後2時22分に津軽五所川原駅に戻ってくるという旅程だということでした。つまり,このときの観光バスは,ストーブ列車で戻ってくる団体ツアー客を乗せるために待っていたのです。
やがて,ストーブ列車が戻ってきました。すると,まあ,降りてくるわ降りてくるわ,すごい数の団体ツアー客が改札口から出てきて,バスに乗り込んでいきました。
こんな具合だから,個人旅行客は,午前12時発の時間のストーブ列車に乗るのは最悪の選択です。
津軽五所川原駅の待合室に売店があったので,店員さんに聞いてみると,この1週間ほど前は,暖冬で津軽鉄道の沿線は雪がなく,観光客はがっかりだったようです。そして,この3,4日雪が降ったので雪が積もり,今は絶好の状況だということでした。ストーブ列車は3月31日までの運行で,私は,青森の寒さに恐れをなしていたので,1月,2月に来ることは選択肢にはなく,3月なら多少は暖かだろうと,やってきたわけですが,しかし,雪がないかもしれないなあ,と覚悟していたので,今回もまた,幸運でした。

改札がはじまったので,列車に乗り込みました。ここでもまた,さきほどとは別の大学生と知り合いました。彼は大学4年生で,卒業前に旅行でやってきたと言っていました。旅は道連れ,列車の中はふたりのほうがいろいろと便利なので助かりました。心配していた車内は,団体ツアー客もいなければ,うるさいだけのインバウンドの中国人もおらず,最高の状況でした。ここでもまた,私は幸運でした。
個人旅行客は,津軽五所川原駅午後2時40分発のストーブ列車に乗るべきだと知りました。
ストーブ列車の中で,定番のお酒とスルメを売っていました。スルメを買うと,係の人がストーブの上で焼いてくれるのです。ビニール袋のなかに1匹のスルメが入っているのですが,係の人がこれを手で切ってストーブで焼いて,再びビニール袋に入れてくれるのです。そこで,もうこの時点では,何人かの人のスルメがごちゃごちゃになるわけで,そんなことなら,はじめから焼いたのをくれればいいわけですが,まあ,これが儀式というものでしょう。スルメもお酒もひとりでは多すぎるから,知り合った大学生と分け合うことができました。
私が乗ったストーブ列車,空いていたから,ストーブの近くに陣取ることができたし,若い女性がいっぱいで,とてもたのしい時間となりました。

やがて,列車は嘉瀬駅に着きました。この駅にあったのが,香取慎吾さんが描いた車両でした。
この車両は,香取慎吾さんが,1997年に地元の小学生たちと一緒に絵を描いたもので,2000年に運行を終えてからは,嘉瀬駅で展示されていたのですが,車両に描かれた絵が時間が経って劣化してしまったので,再び香取慎吾さんに依頼して,2017年に塗り替えたものだそうです。
列車は次の金木駅に到着しました。この駅の近くに斜陽館があるのですが,さすがにこの時間だと降りる人はあまりいませんでした。

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午前12時40分発の列車の出発時間が近づいてきたので,弘前駅に戻りました。
この時点では知らなかったのですが,弘前駅は奥羽本線の駅なので,北に行くと青森駅,南に行くと秋田駅です。五能線は弘前駅から奥羽本線を北に青森方面に行く途中の川部駅からはじまるのですが,弘前駅から直通で接続しています。そこで,弘前駅で五能線に直通する列車の表示は間違えないように赤字で表示されています。
五能線は川部駅から南に進むので,弘前駅からの直通列車は,川部駅で進行方向を変え,五能線に入ると右折しながら,西に行くことになります。

2両編成のワンマンカーがやってきたので,乗り込みました。結構混雑していました。
列車が出発すると,車窓から見えるのは雪原,そして,リンゴの農園でした。これぞ私の思っていた青森! でしたが,寒くありませんでした。
弘前駅,撫牛子(ないじょうし)駅,その次が川部駅です。川部駅で進行方向を変えて五能線に入り,次の駅が藤崎。青森県はリンゴ生産日本一ですが,その中でも,このあたりが最も生産量が多い場所だそうです,そして,藤崎は駅に表示があるように,「ふじ」発祥の地です。
  ・・・・・・
1939年(昭和14年)に,この地でりんごの新品種の育種試験が開始されました。「デリシャス」の花の花粉を「国光」の花のめしべに交配したものから274個の果実を収穫し,この果実から得られた2004粒の種子を植えつけ,968本の実生が育ち,その実生がはじめて実をつけたのが1951年(昭和26年)のことでした。その中から「東北7号」として選抜されたものが後の「ふじ」です。
「ふじ」と命名されたのは1962年(昭和37年)3月で,1982年(昭和57年)に生産高日本一となり,「ふじ」は名実ともに日本一のりんごに成長しました。
  ・・・・・・
藤崎駅の次が林崎駅,板柳駅,鶴泊駅,陸奥鶴田駅と続き,列車は午後1時24分に五所川原駅に到着しました。

JR五所川原駅のホームは津軽鉄道五所川原駅のホームと陸橋でつながっていました。
私が乗ろうと思っていたストーブ列車は午後2時40分発ですが,その前に午後1時30分の普通の列車があって,それに乗り替える乗客は,JR五所川原駅の改札を出なくても,そのまま津軽鉄道のホームへ行くことができて,駅員が誘導していました。この駅の構造は,はじめて来た観光客はかなり戸惑います。日本の鉄道の駅の構造は,五所川原駅に限らず,どこも複雑で,行ってみないとわかりません。
弘前駅から乗った列車の中で,ひとり大学生と知り合いになりました。彼は,鉄道ファンのようで,カメラを2台首から下げていました。五所川原駅に着いたら,午後1時30分発の津軽鉄道に乗り替え,途中の金木駅で降りて,斜陽館へ行き,金木駅から津軽鉄道のストーブ列車に乗るということで,五所川原駅で一旦別れました。
彼は,東京駅から東北新幹線で新青森駅までやって来たそうですが,この日,東北新幹線が郡山駅でオーバーランをしたということで,乗ってきた列車がずいぶん遅れてしまい,予定が狂ったと言っていました。
  ・・・・・・
JR東日本は,平日限定の1日乗車券「旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス」をえきねっとで発売する。価格は1万円で,枚数制限や年齢制限などは設定しない。
2024年2月14日から3月14日の平日限定で,フリーエリア内の普通・快速列車,新幹線,特急列車などの普通車自由席およびBRT(バス高速輸送システム)が1日乗り放題になる。また,事前に座席指定を行なうことで,新幹線・特急列車などの普通車指定席も2回まで乗車できる。
  ・・・・・・
というのがあったそうで,これを利用して旅をしていたお金のない大学生が東北地方に大量に押しかけていたのでした。こんな企画があるので,平日でも混み合っていたのです。
列車の旅はいいものですが,あまりに遅れや運休が多すぎます。

私は,昨年の5月に青森に来たときは青森空港でレンタカーを借りたのですが,時間がなかったので,五所川原の町を素通りして,斜陽館だけ行きました。そこで,五所川原の町はほとんど知らなかったので,今回,五所川原の町を観光するのを楽しみにしていました。五所川原といって私が知っていたのは立佞武多(たちねぶた)だけでした。これは,昨年,弘前市の観光をしたときに,弘前市のねぷた村で,青森市のねぶたと並んで,五所川原の立佞武多として紹介されていて知ったことです。
まず,改札を出て,JR五所川原駅に隣接した津軽鉄道の駅に入り,ストーブ列車の切符を購入しました。満員だったら? という心配があったのですが,大丈夫でした。これで念願のストーブ列車に乗れる,と思いました。次に,これから約1時間あるので,五所川原の町を散策することにしたのですが,何があるかわからなかったので,五所川原駅にあった観光案内所に入って,五所川原の見どころを聞き,地図をもらいました。

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2024年3月6日。
私が県営名古屋空港から旅に出るときは,大概いつも晴れなのに,今回はめずらしく雨でした。しかし,現地の天気予報は晴れということだったので,心配していませんでした。日本の旅は,天候がすべてです。
定刻に飛び立った旅客機の窓から,はじめのうちは雲しか見えませんでしたが,天気予報どおり,新潟県の上空を通るころになると,雲が切れてきました。やがて,眼下に男鹿半島がはっきりと見えてきました。ここが八郎潟なのか,と思いました。私は,まだ,秋田県はほとんど知らないので,次回こそ行ってみようと思いました。
やがて,大地は雪ばかりとなりました。そして,青森空港に着陸しました。このころは,まだ,青森はどれほど寒いのだろうかと,身構えていました。
昨年の5月に来たときは,青森空港でレンタカーを借りたのですが,今回は,鉄道に乗ることと雪道を走るのに躊躇したことで,空港からはバスに乗ることになります。これが,日本国内も海外も,空港からの接続が最も気になるところで,今回も少し不安でした。空港から鉄道路線があるところはまれで,路線バスがあれば上等です。

青森空港からは青森市と弘前市に接続する路線バスがありました。私は,弘前駅前まで行くのですが,飛行機の到着とバスの出発が接続されているわけでないので,ずいぶんと待たされることになりました。その間,空港のロビーで時間を潰していたら,私の乗ってきた飛行機に乗っていたらしい団体ツアー客が出てくるのを現地のツアーコンダクターの女性が待っているのに会いました。私は,3泊までの旅行ではキャリーバッグを持たないので,荷物を預けることはありません。また,コロナ禍以前,頻繁に海外旅行をしていたときも,一応キャリーバッグは持っていましたが,機内持ち込みサイズだったので,多くの場合,機内に持ち込んでいました。乱暴な海外の空港では,キャリーバッグを預けると,どうしてこうなるのかな? と思えるほど傷だらけになってしまったり,私はそんな目に遭ったことは一度もないのですが,最悪の場合,キャリーバッグが行方不明になってしまったりするらしいです。
多くの旅行客は,たった2,3泊の旅なのに,私には信じられないほどの大きなキャリーバッグを引きずっています。そこで,団体ツアー客は荷物を預けるわけで,預けたキャリーバッグが出てくるのを待っているから,遅くなるのです。
ツアーコンダクターの人に聞いてみると,この団体ツアー客の目指す先は,津軽鉄道のストーブ列車ということでした。ああ,やっぱり団体ツアー客と一緒か,と少し憂鬱になりました。

さて,青森空港から,数人の乗客を乗せて,時間通りにバスは出発して,約1時間で弘前市に到着しました。私は,ここから津軽鉄道のストーブ列車に乗るために,JRで五所川原駅まで行きます。弘前駅の改札はSuicaが使えるのですが,五所川原駅は使えないということで,自動販売機で切符を購入する必要があったのですが,自動販売機はカード型Suicaは使えてもモバイルSuicaは使えないということで,驚きました。
弘前駅から五所川原駅までは奥羽本線で川部駅まで行って,そこから五能線に入るのですが,五能線の鰺ヶ沢行きの列車があるので,乗り換えなしで行くことができます。列車の発車時刻までは,まだ1時間以上も時間がありました。とはいえ,私は,昨年来たときに弘前市はほぼ観光をしつくしてしまったので,特に行きたいというところもありませんでした。時刻は午前11時過ぎ。そこで,弘前駅にあった観光案内所で,どこか食事のできるところを聞くことにしました。駅の近くに「虹のマート」という市場があって,その中に昼食のとれる店があるということだったので,行ってみることにしました。旅というのは,こういう地元の人が行くところがいいのです。
まず,弘前駅のコインロッカーに荷物を預けることにしました。コインロッカーは600円で,ここでもSuicaは使用できず,100円玉しか使えないということでした。1,000円札のみの両替機があったのですが,この機械,かなりのポンコツで,1,000円を入れても,戻ってきてしまうのです。違う1,000円札で試しても同じ。これには参りました。何度目かでやっと100円玉がでてきました。

こうして,昭和時代に戻ったような錯覚を感じながら,弘前駅から五所川原駅までの切符を手に入れ,カバンをコインロッカーに預けて,弘前駅から「虹のマート」まで歩いていきました。歩道には雪が残っていましたが,全く寒くなく,風もないので,快適でした。
「虹のマート」は地元の人で賑わう市場でした。この市場で思い出したのが,フィンランド・ヘルシンキや,アメリカ・フィラデルフィアで行ったことがある地元の市場です。こういうところは,その土地の人たちの好きなソウルフードをすごく安く食べることができます。
「虹のマート」にはラーメン屋さんがあったので,「平日限定・具だし牡蠣ラーメン」を注文しました。これぞ旅! という感じで,幸せでした。今回もまた,出だし好調です。

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前回書いたように,県営名古屋空港と青森空港の往復の航空券を手に入れ,さらに,津軽中里の旅館と不老ふ死温泉の予約も済み,あとは,1か月前に「リゾートしらかみ」の座席指定券を手に入れるだけとなりました。不老ふ死温泉は五能線のウェスパ椿山駅まで送迎があります。しかし,ここで問題が発生したのです。


今回の私の旅は,2024年3月6日から3月8日までの2泊3日でした。少しでも空いているほうがいいと,あえて平日にして,次の旅程を考えました。
  ・・・・・・
●3月6日水曜日
3月6日は,県営名古屋空港を午前8時15分に出発するFDAで青森空港に午前9時35分到着後,午前10時発のバスで約1時間かけて弘前まで行きます。
JR弘前駅を午前12時40分に出る五能線で午後1時24分に五所川原駅に到着して,津軽五所川原駅から午後2時40分発の津軽鉄道ストーブ列車で終点の津軽中里駅に午後3時25分に着いて,津軽中里の旅館で1泊します。
●3月7日木曜日
ここで,第1の問題が起きました。翌日の3月7日は何と「リゾートしらかみ」が運行していなかったのです!
しかし,これは,津軽中里駅午前9時49分発の津軽鉄道に乗って,午前10時26分に津軽五所川原駅に到着。五所川原駅を午前11時8分に出発する五能線が午前12時44分深浦駅終着で,そこで約2時間後の午後2時41分の次の列車に乗って,ウェスパ椿山駅午後2時56分着というように,接続が悪く時間がかかるのですが,何とかなります。逆に,この2時間で深浦の町を散策できるから,これでいいや,と思いました。
●3月8日金曜日
最終日の3月8日は「リゾートしらかみ」が運行するので,ウェスパ椿山駅を午前10時38分発の「リゾートしらかみ」に乗って,弘前駅に午前12時48分に到着。
弘前を散策したのち,適当な時間のバスで青森空港に行って,午後7時15分発のFDAで帰宅します。
  ・・・・・・

ところが,3月7日は,「リゾートしらかみ」が運行していないだけでなく,そもそも,架線の工事とかで,五能線自体が運行していないのでした。そして,それに代わる代行バスすらない,という有様でした。つまり,行く方法がないのです。これが第2の問題,これには参りました。
不老ふ死温泉のウェブページを調べ直すと,東北新幹線の新青森駅から送迎バスがあるとありました。こんなに遠い距離でも便宜を図ってもらえるのです。というか,そうしないと,お客さんが来ないのでしょう。しかし,これだと,私は,津軽中里から津軽鉄道で津軽五所川原駅に戻ったあと,五所川原駅から新青森駅まで行かなくてはなりません。これには困りました。ダメ元で不老ふ死温泉に連絡をしてみると,送迎バスが午後1時30分に五所川原駅を通ってもらえることになりました。これは幸いでした。これなら,3月7日は津軽中里駅の出発を後らせて,午前10時53分発の津軽鉄道ストーブ列車に乗っても,津軽五所川原駅の到着が11時37分となり,帰りもまたストーブ列車に乗ることができるのでした。
こうして,何とか問題が解決して,あとは3月8日の「リゾートしらかみ」の座席指定券を手に入れるだけとなったので,1か月以上前に,「えきねっと」で予約を入れました。これで一安心でした。

しかし,何と,1か月前の朝,「リゾートしらかみ」の座席指定券はすでに完売で,入手ができないというメールが入りました。これが第3の問題でした。いったい誰が買うんだろう? と思いました。大口の団体ツアー客でもいるのではないか,と思いました。あるいは,「リゾートしらかみ」の車内はインバウンドのうざったい外国人だらけか?
翌日,別の用事があって,近くのJTB に行く機会があったので調べてもらうと,3月8日はやはり満席,でも翌日の3月9日は大量に空席があると言われました。金曜日が満席で土曜日に空席があるとはどういうことなのでしょう? こうなれば,普通の列車に乗るしかないなあ,と観念しました。しかし,はじめは乗れても乗れなくてもいいと思っていたのに,乗れないとなると意地でも乗ってやろうと思うのが人の常。万が一と思って,毎朝5時に「えきねっと」で調べていたら,5日後,キャンセルが5席も出たのです。早速購入しましたが,そのあと,残り席はあっという間に売り切れました。
こうして,私は,何とか「リゾートしらかみ」の指定席券を手に入れることができたのです。
このように,指定席を手に入れることはできたけれど,いったい,どんな人が乗っているのだろう? そんな不安が残りました。はたしてその真相は?

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昨年2023年5月18日から5月20日まで2泊3日で青森旅行をしました。そのときがはじめての青森旅行でしたが,2泊3日の青森旅行モデルコースというブログをみつけたので,それを参考にしました。そのブログによると,宿泊先は,酸ヶ湯温泉と不老ふ死温泉で決まりとありました。
今の私にはわかりますが,そのとには何も知らず,手探りだったので,酸ヶ湯温泉には宿泊したのですが,不老ふ死温泉には宿泊しませんでした。その代わりに宿泊した深浦町森山海岸の「民宿 汐ケ島」がとてもおもしろいところでした。そして,そのときに知ったのが「リゾートしらかみ」という列車でした。というように,私は,この旅で青森県にめっきり詳しくなり,また,その魅力にとりつかれてしまいました。
その後,2023年12月4日に「今後どこへ行きたいのか? 津軽半島で太宰治に浸る」をブログに書いたのですが,それ以来,このブログのとおり①津軽鉄道のストーブ列車に乗ること②不老ふ死温泉に泊ること③「リゾートしらかみ」に乗ること,これをすべて含めた旅を計画することにしました。
しかし,これを実現するまでが大変でした。今日は,まず,そのいきさつから書きます。

  ・・・・・・
①津軽鉄道のストーブ列車に乗ること
津軽鉄道はの出発は津軽五所川原駅で,JRの五所川原駅の隣にあるということでした。津軽五所川原駅から北に津軽半島の中央部を,途中,太宰治の斜陽館のある金木駅を通り,終着の津軽中里まで,約45分です。時刻表を見ると,津軽鉄道は1時間に1本ほどの割合で運行していて,その中で,津軽五所川原駅発9時35分,12時,14時40分の3本がストーブ列車でした。ストーブ列車は予約ができず,当日空席があれば乗ることができるということが少し心配でした。
ストーブ列車は3月31日まで運行するということだったので,さすがに1月や2月は寒いと思ったので,3月はじめの平日に行くことにしたのですが,私の嫌いな団体ツアー客で満員だったら,ということだけが心配でした。
終着の津軽中里駅からほど近いところに旅館が2軒ありました。こりゃいいや,と思いました。さすがに最終のストーブ列車なら満席ということもなかろう,そして,団体ツアー客もこれには乗らないだろうと思ったので,そのうちの1軒「福助旅館」を予約しました。
②不老ふ死温泉に泊ること
不老ふ死温泉は青森県の西海岸沿い,深浦という町にあります。前回行ったとき,旅館の看板を目撃したので,場所は知ってしました。不老ふ死温泉の最寄りの駅は五能線のウェスパ椿山駅で,そこまで送迎バスがあるということでした。
ネットに不老ふ死温泉のサイトがあって,簡単に予約ができました。食事がとても魅力的でした。夕食は値段の高い特選和膳と値段の安いバイキングから選べるようになっていて,せっかく旅行に行くのだから,特選和膳にしました。朝食はともかくも,夕食までバイキングなんて,絶対にいやです。
③「リゾートしらかみ」に乗ること
五能線を走る臨時快速列車が「リゾートしらかみ」で,JRの秋田駅と青森駅間,または弘前駅間を1日に3往復運行しています。そこで,行きは五所川原駅からウェスパ椿山駅まで,帰りはウェスパ椿山駅から弘前駅まで「リゾートしらかみ」を利用しようと考えました。
私は鉄道マニアでないのですが,列車で旅行をすることが多いこのごろ,詳しくなってきました。列車はすべて指定席で,1か月前の発売ということでした。
前回青森旅行をしたとき,車で五能線沿いの国道101号線をすでに走っているので,風光明媚な海岸線の景色はすでに堪能しているから,特に乗らなければ,というこだわりはなかったので,もし乗れなかったら,普通の列車でもいいや,とも思っていました。でも,時間が倍かかります。
ところが…。
  ・・・・・・

というように,とりあえず,津軽中里の旅館と不老ふ死温泉の予約を済ませて,次に,県営名古屋空港と青森空港の往復のFDAを予約しました。とりあえず,ここまでを済ませたので,あとは,「リゾートしらかみ」の指定席券を手に入れるだけでした。
それよりも心配だったのが天候でした。何せ,3月とはいえ,青森はまだ,最高気温摂氏3度,最低気温摂氏マイナス10度,しかも,吹雪で飛行機が欠航してしまう,などということが起きかねません。

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