しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:東北旅行LIVE > LIVE・2024夏

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これまで,今回の青森旅行について書いてきました。
津軽半島と下北半島,行く前は,この旅で行きたいところへすべて行くことができるかなあ,と思っていたのですが,やはり,いくつかの場所は見落とすことになりました。そして,さらに行きたいところができてしまいました。

「青森県,何があるの?」と多くの人は言います。北海道には憧れても青森県に関心のある人は多くありません。私も行く前はそうでした。
2020年の春にはじまったコロナ禍で,突如行くことができなくなった海外。その4年後,再び行くこと可能になったら,今度は異常な円安に物価高が輪をかけて,それまでとは状況が変わってしまいました。さらに,ロシアのウクライナ侵攻で,ヨーロッパに行くのがとても遠くなってしまいました。
しかし,幸いなことに,私は海外で行きたいと思っていたところはそのほとんどすべてに行っていたので,今,行きたいところはどこか? と何度自問自答しても,思い浮かばないのです。また,歳をとったら,ヨーロッパを鉄道で旅したいという夢があったのですが,この状況では難しいです。そして,日本国内のほうが,むしろ,行きたいと思うところが出てくるようになりました。

そんなこともあって,数年前から,元気なうちに,日本国内のこれまで行ったことがないところへすべて行ってみよう,という気になって,旅しているのですが,はじめは青森県もそのなかのひとつに過ぎませんでした。
はじめに,そのころを振り返ってみます。
  ・・
●第1段階
2023年5月18日から5月20日。
まずは2泊3日で行くことにして,航空券をとり,レンタカーを借りました。そして,宿泊先を探しました。
このときに,何も知らずに行ったのが,奥入瀬渓谷,十和田湖,弘前城,酸ヶ湯温泉,黄金海岸,三内丸山遺跡でした。これですっかり青森の魅力にはまってしまいました。
  ・・
●第2段階
2024年3月6日から3月8日。4月15日。
次にやってみたかったのは,津軽鉄道のストーブ列車と五能線の「リゾートしらかみ」に乗ること,そして,弘前の桜を見ることでした。これは,今年の3月と4月に,それぞれ達成できました。
これらは,青森観光の定番なので,どこもすごく人が多いのではないか? といった心配が先に立ったのですが,そのすべてが運よくうまくいって,楽しい旅をすることができました。
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●第3段階
2024年7月4日から7月7日。
そして残ったのが,津軽半島と下北半島をまわることでした。
それが今回の旅でした。

こうして,第1段階から第3段階の旅で,多くの場所に行ったのですが,まだまだ行ってみたいところが残っています。それが今日載せた地図に示した場所です。
地図を見てみると,場所が散らかっていて,「次回」ですべてがまわれるとは思えません。これらの場所の中には,これまでに行こうと思えば行くことができたのに… というところも少なくないのですが,それはそれで,行ってみたからこそわかったことです。
こうした場所があるというのはすてきなことで,だからこそ,また行ってみようという意欲にもつながるのです。
  ・・
●これから… の先には…
冬の津軽鉄道,ストーブ列車と春の弘前の桜,これは人混みの嫌いな私でも行ってみたいという気持ちが強かったので,すでに制覇しました。
しかし,青森県の魅力には,さらに,夏の青森ねぶた,弘前ねぷた,五所川原の立佞武多。そして,秋の奥入瀬渓谷の紅葉,それに加えて冬の八甲田山の樹氷もあります。これらは,その時期にしか見ることができないものです。それらは,観光シーズンでもあり,人も多く,人混みの嫌いな私にはそうした要因が足を遠ざけているのです。つまり,行ってみたいという魅力の強さよりも人混みを避けたいという気持ちのほうが,今はまだ勝っているのです。果たして,この先,その気持ちが変わるときは来るのでしょうか?


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いよいよこの旅も終わりです。
青森空港へ戻る途中で,来たときに通った浪岡町の城跡へ行ってみることにしました。案内所があったので,駐車場に車を停めて,建物の中に入りました。係員の女性がいたのですが,読書に夢中で,私の存在に気づきません。また,案内所はまったく整備されているとも言えませんでした。これでは仕事放棄,怠慢です。声をかけようと思ったのですが,ばからしくなって外に出ました。調べてみると,この施設は,特定非営利活動法人NPO婆娑羅凡人舎というところがやっているようです。
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浪岡城は,1373年(文中2年)に平安京を模して,敷地の四隅に祇園,八幡,加茂,春日神社が配置されていたものを,北畠家の支族である浪岡北畠氏の居城として,1460年代に築城されたものですが,1578年(天正6年)に津軽為信によって攻められ落城しました。
現在は,跡地は公園として整備されています。
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ということなのですが,むしろ,そのとなりに新しくつくられた「中世の館」に出土した遺物などが展示されているということなので行ってみました。
「中世の館」は,浪岡町の歴史博物館で,なかなか見ごたえがありましたが,私以外に見学者はいませんでした。先ほどの浪岡城跡案内所とは雲泥の差で,親切は係員がいて,私に声をかけて資料をくれました。

「中世の館」を出て,まだ時間がありました。
青森空港で車を借りるとき,係の人に,青森県にはたくさんいい温泉があるというような雑談をすると,おすすめはランプの宿ですよ,と言われてメモをくれました。ずっと気になっていたので,行ってみることにしました。それは「ランプの宿青荷温泉」といいました。調べてみると,まだ日帰り温泉をやっている時間だったし,往復しても,帰りの飛行機には十分に間に合いそうだったので,足をのばすことにしました。
ランプの宿というからには電気が通じていない辺鄙なところにあって,ネットも通じないということでした。カーナビに従って走っていても,はじめのうちは普通の道路で,こんなところに電気が通じていないところなんてあるのかな,と思っていたのですが,浅瀬石川ダムを過ぎたあたりから道路は山深くなってきました。
延々と走っていくと,山の中に広い駐車場がありました。車を停め,そこから温泉までさらに歩く必要がありました。
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「ランプの宿青荷温泉」は,電気は通っているのですが,客室や風呂場などは灯油ランプだけで照らし,ランプの宿として知られます。
1929年(昭和4年)板留温泉の旅館を実家とする歌人の丹羽洋岳(ようがく)が小屋を建てて暮らすようになったことにはじまります。
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さすがに,今は電気は通じているので,ランプの宿というのは,それをウリにしているからでした。
思ったより大きな建物で,温泉は,内湯が3つと混浴の外湯がひとつありました。私はタオルを持っていたので,とりあえず,入浴料を払って,お試しで入ることにしました。こんな時間に入浴している人はほとんどおらず,それはそれでよかったのですが,ランプの宿というからには,夜に来なくてはそのよさがわからないわけで,単なる山奥の温泉,ということになりました。
次回はぜひ宿泊して…,となるわけですが,旅館の中は結構人が多くて,地元のお年寄りが話に花をさかせていたりして,ひなびた感もなく,ちょっと残念でした。有名になりすぎた弊害でしょう。

さて,これで今回の旅はおわりです。
青森空港へ戻る途中にダム湖である虹の湖のほとりに虹の湖公園があって,そこに道の駅があったので,車を停めてソフトクリームを食べました。そして,青森空港に戻りました。
レンタカーを返して,青森空港のフードコートで夕食のりんごカレーライスを食べてから,ラウンジで出発時間まで過ごしました。

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2024年7月7日,「東北温泉」で1泊して,この日は旅の4日目,最終日です。
午後7時35分の飛行機で帰宅するので,1日たっぷり時間がありました。まさかこんなに時間ができるとは思っていなかったので,どこへ行くかというプランがなく,青森空港に向って,どこかおもしろそうなところを見つけながら行くことにしました。こういうのも悪くないものですが,帰宅してから考えるともったいないことをしました。また,昨晩は雨が降っていましたが,早朝に上がり,この日はいい天気になりそうでした。

まず,昨年「酸ヶ湯温泉」に行ったときは運休で行くことができなかった八甲田山ロープ-ウェイに乗ることにしました。山の中を延々と走っていって,やっとロープ-ウェイ乗り場に着いたのですが,この日も運休でした。まったくツイていません。八甲田山ロープ-ウェイはずっと運行しているのではないかと思ったのですが,私に縁がないだけのようでした。また来いよ,と言っているのでしょう。
こうなったら,八甲田山ロープ-ウェイに乗ることができるまで,何度でも青森に行ってみよう! と決心するのでした。

気を取り直して,次に行ったのが黒石市でした。八甲田山から城ケ倉大橋を渡ると,道なりに黒石市に着きます。
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黒石市は,青森県の中央部にある人口約3万人の町です。
黒石市の前身である黒石藩は,弘前藩4代藩主・津軽信政が藩主就任時幼少だったため,幕府の指示により3代藩主・津軽信義の弟である津軽信英を後見人とすべく,1656年(明暦2年)に弘前藩より5,000石を分知され立藩したのにはじまります。8代藩主・津軽親足の代に至り,弘前藩よりさらに6,000石の分与があり,1万石となりました。居城は黒石陣屋でした。
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とはいえ,黒石市のどこに行けばいいのかわからないので,とりあえず黒石市の駅前にあった観光案内所で聞いてみることにしました。黒石駅は弘南鉄道弘南線の終着駅で,ここから弘前駅まで直接行くことができます。
観光案内所で知ったのは,黒石市の見どころは,町の中心部にある中町こみせ通り,そして,ご当地グルメは黒石つゆやきそば・黒石やきそばということでした。
さっそく中町こみせ通りへ行ってみました。観光客用の駐車場もありました。中町こみせ通りは,何となく,昨年の秋に行った四国の小京都である大洲の町に似ていましたが,それよりはずっと小さな町でした。
この日,名古屋は摂氏35度あったそうですが,青森は25度くらいでした。のんびりと歩いていると,アイスコーヒーが飲みたくなったので,松の湯交流館の裏手にあったコーヒーショップに入りました。若い女性がひとりでやっていたので,雑談をしながらコーヒーを飲んでいるとお昼になりました。
中町こみせ通りの真ん中にあったのが津軽こみせ駅というみやげ物店で,店内の奥に食事ができるようになっていたので,黒石つゆやきそばを注文しました。できるのを待っていると,その奥にあったステージで津軽三味線の生演奏がはじまりました。津軽三味はいいものです。三味線の生演奏は週末に行われるということですが,この日はちょうど日曜日でした。
三味線の演奏はスピーカーを通して外まで聞こえているそうですが,店内で聞いていたのは私ひとりでした。

ここで余談です。
黒石市の市街地から走っていると,津軽こけし館という案内標示がありました。興味がなく行かなかったのですが,どうして黒石にこけし? と思ったので,帰ってから調べてみました。
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津軽こけし館は1988年にオープンした施設で,日本一の大きさを誇る197センチメートルのこけし,棟方志功が絵付けをしたこけしをはじめ,全国のこけしが展示されています。また, 隣接して,津軽伝承工芸館があります。
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この施設が有名にったのは,純金・純銀製のこけしの展示だったそうです。黒石市民が応募したアイデアに基づき,「ふるさと創生事業」の資金により1億円で製作され,直接触ることができましたが,2007年10月21日,黒石市の財政難のため入札によって1億9000万円相当で落札され,実物の展示が終了されました。それによって,観光客が激減したそうです。
ここでもまた,おいらせ町の自由の女神同様,「ふるさと創生事業」が後を引いていますよ,竹下さん。

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弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は,関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し,慶長八年,徳川家康将軍宣下と共に,徳川幕下の四万七千石の一侯伯となり,ただちに弘前高岡に城池の区劃をはじめて,二代藩主津軽信牧の時に到り,やうやく完成を見たのが,この弘前城であるといふ。それより代々の藩主この弘前城に拠り,四代信政の時,一族の信英を黒石に分家させて,弘前,黒石の二藩にわかれて津軽を支配し,元禄七名君の中の巨擘とまでうたはれた信政の善政は大いに津軽の面目をあらたにしたけれども,七代信寧の宝暦ならびに天明の大飢饉は津軽一円を凄惨な地獄と化せしめ,藩の財政もまた窮乏の極度に達し,前途暗澹たるうちにも,八代信明,九代寧親は必死に藩勢の回復をはかり,十一代順承の時代に到つてからくも危機を脱し,つづいて十二代承昭の時代に,めでたく藩籍を奉還し,ここに現在の青森県が誕生したといふ経緯は,弘前城の歴史であると共にまた,津軽の歴史の大略でもある。津軽の歴史に就いては,また後のペエジに於いて詳述するつもりであるが,いまは,弘前に就いての私の昔の思ひ出を少し書いて,この津軽の序編を結ぶ事にする。
  太宰治「津軽」
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金のこけし銀のこけし


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八戸市はよくわからないままあとにしました。人と車が多すぎて,青森らしくなかったので,テンションが下がりました。
そして,再び国道45号線を北上して,この日の宿泊先である「東北温泉」にやってきました。
この旅は,津軽半島と下北半島を巡るのが目的だったので,この1泊はおまけでした。結果的に2泊3日でもよかったのですが,旅に出る前はよくわからず,時間的に無理かもしれないと思って保険をかけたのです。
ネットでたまたま見つけた「東北温泉」は,温泉と2食付きで宿泊代がとても安かったということで予約したのですが,これまでに泊まった「龍飛崎温泉ホテル竜飛」と「むつグランドホテル」は豪華だったけれど,私の望む〈小さくて団体ツアー客がいない旅館〉とは違っていたから,これはこれで楽しみにしていました。
田舎の小さな宿だと思っていたのですが,実際は町の日帰り温泉に宿泊施設が付録でついているというものでした。昨年の秋にJR伊予線の下灘駅で夕景を見ようと泊まった「伊予プリンスホテル」や,この春にJR飯田線の秘境駅巡りをしようと泊まった「龍泉閣」と同じような感じでした。それはそれでよかったのですが,温泉が町の人たちで混んでいたのが欠点でした。いつものように,最も空いていると思われる夕食後すぐに行ったのですが,それでも数人の人がいました。

私は知らなかったのですが,「東北温泉」はお湯が黒いことでかなり有名なところでした。
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樹木や植物が地中に堆積し,約4,000万年前に亜炭の層になり,そこを通過して湧出したモール温泉は,天然保湿成分メタケイ酸を多く含んでいるため,美肌効果大! まろやかで肌触りがよく,入浴するだけで泥パックエステと同じ効果があります。
  ・・・・・・
ということです。
モール(Moor)は,ドイツ語で腐植質を意味し,モール温泉は火山活動由来の温泉と異なり,地下深く地熱で温められた湯を樹木や植物で抽出したものです。要するに,お茶や紅茶のような感じです。メタケイ酸(H2SiO3)は,ケイ素と酸素,水素の化合物で,コラーゲンの生成を助けて肌をみずみずしくしてくれる効果があるそうです。
「東北温泉」は,日本のモール温泉の中でも最も色が黒い温泉ということでした。それでも,東北地方太平洋沖地震の後は,以前よりも薄くなったと言っていました。
ちなみに,青森県では「お湯リンピック」と名づけられた5色の温泉があって,それらは「東北温泉」の黒,「不老ふ死温泉」の金,下風呂(しもふろ)温泉「まるほん旅館」の白,「古遠部(ふるとおべ)温泉」の茶,「新屋温泉」の緑だそうです。そんなことを知ると,今度はそれを制覇したくなります。
今回もまた,期せずして,こんなすてきな体験をすることができました。
温泉は賑わっていましたが,宿泊客は私だけでした。黒尽くしの夕食と翌朝の朝食をほかにだれもいない食堂で満喫しました。

そういえば,昨年の春,青森県を旅行したとき,野辺地から十和田市から奥入瀬渓谷を目指して走っていたときに見つけたのが「日本中央の碑」でした。そこは広い公園になっていて,保存館もあったのですが,帰宅後に地図を見ると,その場所もまた東北町だったので,「東北温泉」の近くだったのです。何か不思議な気がしました。

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「日本一」の大好きなわたらせ町を楽しんでから,さらに南に行くと八戸市に入りました。八戸市に行ってみたいということで来てみたものの,どこへ行ったらいいのかわかりませんでした。見どころ,というのがどこなのかわからないのです。しかも,八戸市は,予想に反してものすごく車が多い大都会で,落ち着いた観光地であった弘前市とは大違いでした。
さらに私が混乱したのは,八戸市は,どこが街の中心なのかわからないことでした。地図で見ると,八戸駅と本八戸(ほんはちのへ)駅があり,新幹線の駅は八戸駅だし,市役所があるのは本八戸駅の近くでした。こういう名前のつけ方はよそ者には混乱します。
帰ってから調べてみました。
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1894年(明治27年)にこの地に鉄道がひかれたときは,現在の本八戸駅は,八ノ戸駅,さらに,1907年(明治40年)に八戸駅となりました。要するに,この駅のあたりが本来の市街地でした。
1971年(昭和46年)に東北本線との接続駅である尻内駅に八戸駅の名を譲り,本八戸駅に改称しました。
今は,八戸駅には東北新幹線の駅があり,新幹線ができたおかげで,本来,青森駅までだった東北本線は盛岡駅までとなり,その先,盛岡駅から八戸駅まではいわて銀河鉄道,八戸駅から青森駅までは青い森鉄道となりました。そして,八戸駅から本八戸駅を通り久慈駅までがJR八戸線となっています。
  ・・・・・・
つまり,このあたりも,新幹線ができたおかげで,JRは廃止されて第三セクターばかりとなり,観光客にとってはくっちゃくちゃでよくわからないことになっています。その結果,私は利用しないのですが,青春18切符で安価な旅を楽しんでいる人は困ることでしょう。また,現在,私がよく利用するジパング倶楽部でも,JR在来線がないから,地方へ行くときは,新幹線利用が前提となっているかのようです。

八戸市には城跡があるだろうと調べてみると,八戸城跡と八戸根城(ねじょう)がありました。しかし,どちらが江戸時代の城郭なのかよくわかりませんでした。事前に調べてこなかった私が悪いのですが…。
ともかく,市役所に近いからこちらだろうと八戸城跡へ行くことにしたのですが,城跡は見つかれど GoogleMaps の指示通りに進むと,本八戸駅前は再開発中で,道路が遮断されれていたりして,行き止まりとなりました。結局,駐車場がどこかもわからず困ってしまいました。何とか市役所の駐車場を見つけたのでそこに停めて歩いていくと,そこはあまり整備されているとも思えない単なる公園でした。
私は,これだけで,八戸市に対する印象が最悪となりました。
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八戸城跡の場所は,南北朝時代,南部師行が八戸根城を築くのとほぼ同時に,4男・南部政長の3男・南部信助が八戸根城の支城として三八城として築いたのがはじまりです。その後,さまざまな経緯を経て,八戸は南部藩の直轄地として代官支配となりました。
一方,南部藩は1632年(寛永9年)に27代藩主・南部利直が死去し,3男・南部重直が継ぎましたが1664年(寛文4年)に男子なくして没したため,遺領10万石のうち8万石を南部利直の5男・南部重信が継ぎ,2万石を南部利直の7男・南部直房で分割され,このときに八戸藩が創立されました。
初代八戸藩主となった南部直房は,すでにあった三八城山を引き継いで修築し,八戸城としました。
現在は,八戸城の跡地に,三八城神社と三八城公園があるのみで,遺構は開発により一部の建物を除き,土塁や堀跡が部分的に残されているのみとなっています。
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あとで知ったことに,むしろ,南北朝時代に造られた八戸根城のほうが,主殿や工房,納屋,馬屋などの建物が忠実に復原されているということで,こちらに行くべきでした。

ところで,八戸市のように,青森県や岩手県には〇戸の地名があります。
この「戸」の由来は厩(うまや)の戸という意味で,一戸町,二戸市,三戸町,五戸町,六戸町,七戸町,八戸市,九戸村が現存しています。四戸がない理由は諸説あるようです。
また,青森県を走っていると,西側と東側でずいぶんと雰囲気が違うと実感します。これは,もともと西側と東側は別の藩であったからです。
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戦国時代,現在の青森県と岩手県の北部は南部家が支配し,南部家の家臣として津軽地方の統治を任されていたのが津軽家でした。南部家で起きた相続争いに巻き込まれ謀反の疑いをかけられたのを利用し,津軽家は南部家に反旗を翻し,独立を果たしました。
それ以来,400年にわたる津軽と南部の確執がつづきました。
1871年(明治4年)7月の廃藩置県で,弘前県(⇐弘前藩),黒石県(⇐黒石藩),斗南県(⇐斗南藩),七戸県(⇐七戸藩),八戸県(⇐八戸藩)が成立しましたが,9月,これらに加えて,北海道渡島半島に成立していた館県(⇐館藩(松前藩))が合併し弘前県となり,県庁を弘前におきました。
弘前県と黒石県は旧津軽藩領,七戸県と八戸県は南部藩領だったのですが,怨恨を無視した合併の背景は,両県とも穀倉地帯になりうる平野部が少ない上にやませの常襲地帯で冷害が頻発していて,過去の因縁に囚われている余裕がなかったというのが実情でした。
弘前県は他の4県の石高合計の3倍以上の財政力を有していて,しかも,弘前藩は戊辰戦争で明治政府軍に与していたこともあるので,弘前県と合併することで明治政府からの覚えも高くなり有利と考えたのではないかといわれています。
その後,県庁を弘前から青森に移転し県名を青森県に変更しました。
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下北半島は思ったよりも狭い,というか,距離はあっても移動するのに時間がかからず,あっという間に小川原湖の北端まで南下してきました。
この日私が宿泊するのは「東北温泉」という旅館でした。青森県の東北町というところにあるそうで,ここから国道394号線を南西に走れば到着します。しかし,この時間に旅館に着いても,まだ早かったことと,青森県で八戸市だけ縁がなく,行った記憶がなかったので,八戸市まで遠回りしてみようと,さらに南下することにして進路を変え,国道338号線を走りました。
国道338号線は,地図では太平洋の海岸沿いを走っているようにみえますが,実際に走ってみると,住居がずっと続いていて海が見えませんでした。三沢市あたりまで来ました。三沢市はアメリカ軍の基地があるということで名前だけは知っていましたが,国道338号線沿いには,特にそのような施設は見あたりませんでした。また,三沢市は私の推しである2019年第56回ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝した沖澤のどかさんの出身地でもあります。
案内標示に三沢航空科学館というのがあったので行ってみようと思ったのですが,八戸市へ行くことを優先して,今回はやめました。
さらに走っていくと,大山康晴記念館という案内標示がありました。いきなり大山康晴という名前が出てきてびっくりしました。将棋の大山康晴十五世名人は倉敷市に生まれたので,倉敷市には倉敷市大山名人記念館があって,私も行ったことがあります。しかし,この場所とどういう縁があるのかな? どうしてここに? と思ったのですが,そういえば「青森県百万町(ももいしまち)の大山康晴記念館で…」みたいな記事を将棋の雑誌で読んだことを思い出しました。興味をもったので,ともかく行ってみることにしました。
航空科学館には行く気にならず,将棋の記念館なら行ってみようと思うのが私らしいのですかね。自分でもよくわかりません。

大山康晴記念館があったのはおいらせ町というところでした。
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おいらせ町は,2006年(平成18年)に上北郡下田町と百石町が合併して発足しました。
八戸市とこの町の境に奥入瀬川が流れていることから,おいらせ町と名づけられました。
  ・・・・・・
市町村合併でできた市町の多くは,知名度を上げるために,多くの人が知っている名前をつけようと四苦八苦しているようです。その結果,名前は聞いたことががっても,それがどこにあるのか,よそ者にはよくわからないものが少なくありません。
水沢市は奥州市になったし,武生市は越前市。中村市は四万十市になりましたがそのおとなりには四万十町があります。南アルプス市などというものもあります。また,清洲町は清須市となりました。
私は,子供のころに地図を眺めるのが好きで,多くの地名を覚えたのですが,それらの地名が,現在はどうなってしまったのか,よくわからないことが多々あります。

やがて,大山康晴記念館に着きました。地元の人が将棋を楽しみに来ていました。
  ・・・・・
おいらせ町は「将棋の町」として将棋の普及奨励と芸術文化の充実及び観光振興を目指し,個性豊かな地域社会の実現と特色あるまちづくりを推進するため,各種活性化事業を実施しています。
その取り組みの中で,大山康晴十五世名人は当初より将棋の普及奨励を通じ地域づくり事業に積極的に関わり数々の功績を残してきました。
その功績をたたえ,また将棋の普及奨励を図るために将棋記念館を設立しました。
  ・・・・・・
ということだそうですが,館内にはさまざまな資料が展示されてて,そのまま東京や大阪の将棋会館に資料館として展示されてもよいような貴重なものでした。
現在,将棋会館には博物館がありません。以前は,大阪の関西将棋会館の地下にあったのですが,いつの間にかなくなりました。東京の将棋会館も大阪の関西将棋会館も新しくなるのですが,博物館はできるのかしら? 歴代名人の肖像画を並べたり,将棋の歴史を展示したりしてもいいように思うのですが。将棋メシの食べ比べコーナーとかも…。
係の人はもとても親切でした。もともとは観光施設として,入場料をとっていたようですが,今は無料です。いくら将棋好きであっても,わざわざ観光で来る人もいなさそうです。
それにしても,こんな地方の町でどうして将棋?

さらにおいらせ町の不思議なところは,この町に本物そっくりの自由の女神像があったことです。
  ・・・・・・
自由の女神像は,おいらせ町いちょう公園内にある繊維強化プラスチック(FRP)製です。
1990年,ニューヨークと百石町が北緯40度40分にあることに因み,また「4」にこだわり,本家自由の女神像の4分の1の大きさで製作されたものです。制作費は竹下登内閣時代の「ふるさと創生事業」の資金によるものです。
東京台場の自由の女神像の約1.7倍あることで,おいらせ町ホームページには「日本一の自由の女神像」と謳っています。
  ・・・・・・
中には入ることができないようです。
また,大山康晴記念館の近くには「日本一の大いちょう」というものもありました。
どうやら,この町は日本一というのがお好きなようです。

お金のない今では考えられないことですが,日本中にお金があふれていたバブル期末期の1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)に,国は「ふるさと創生事業」と題して,各市区町村に地域振興のためと称して1億円をばらまき? ました。このばらまかれたお金をどう使うか,もらったほうは頭を悩ませました。それは,個人が突然宝くじで1億円当てて,使い道にこまるのと同じでしょう。
そこで,温泉を掘り当てたり,金の延べ棒を買ったり,日本一のすべり台を作成したり,世界一大きな狛犬を作成したり,このようなモニュメントを造ったり,天文台を建設したりしました。要するに,その地方自治体に住む人の文化的水準が試されたわけです。
もっともやっていけないのは,大した長期的な展望もないのに,そして,維持費のあてもないのに「箱モノ」を作ることでした。よって,それらの多くは,老朽化によって,今ではその維持に四苦八苦していたり,閉鎖されていたりします。要するに,1億円を溶かしちゃったわけです。
中には,福井県立恐竜博物館のように,その企画によって町おこしが成功したものもありますが,それは例外で,「箱モノ」には巨額の維持費がかかるということを考えていないのです。
その反対に,そのまま預金して,その後の15年間で6,000万円の利子所得を得た,というのもあります。また,金を買って,何かを造り,盗まれた,というアホな例もあります。
マスコミは,この事業について,その当時はさまざまな批判をしましたが,それっきりで,現在は話題にもしません。机上の空論だけで批判するのでのではなく,今,「「ふるさと創生事業」35年後の総括」と題して,足で歩いて取材をしてきちんとその結果を報道する,ということこそがマスコミの仕事だと思うのですが…。

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35 年ほど前に国道394号線を下北半島の東海岸に沿って走ったとき,周囲が木々に囲まれ,まったく海が見えす,しかも,砂利を積んだダンプカーが多く走っていました。北海道の松前半島の海岸線に沿って走ったときはずっと雄大な海が見えたので,この違いに失望しました。しかも,この地にある六ケ所村は,当時,核燃料の再処理工場が計画されており,ダンプカーによる砂利の投棄とともに,本州の北の果てはゴミ捨て場だと思いました。
それから私も歳をとり,いろいろなことがわかってきたので,今回は,冷静にこの地を走って,公開されている施設があれば見学し,下北半島の現在の姿を確認することにしました。

まず見つけたのが東通(ひがしどおり)原子力発電所のPR施設「トントゥビレッジ」でした。
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美しい自然に囲まれた青森県下北郡東通村の豊かな緑の森にあるのがトントゥビレッジです。
この森の中には様々な動植物のほかに豊かな自然の中にしか住まないといわれている妖精たちが暮らしています。
小さな妖精の名前は「トントゥ」。森に住む動植物を観察したりエネルギーのしくみを知ることができる妖精が仲良く暮らす村へようこそ!
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ということで,子供むけの施設でしたが,原子力発電のしくみについてわかりやすい展示と説明がありました。つまり,ここは原子力発電所のPR施設でした。展望台から原子力発電所は見えるけれど写してはいけないとか,かなり神経質でしたが,パンフレットには写真が載っているので,意味ないじゃん,と思いました。
私は,まったくの勉強不足で,東通原子力発電所は稼働しているものとばかり思っていたので,聞いてみると「???」という返事。つまり返事を濁していて,こりゃわけありだな,と思いました。
帰ってから調べてみると
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東通原子力発電所は東北電力と東京電力ホールディングスが敷地を保有しています。
1号機は2005年12月に営業運転を開始しましたが,2011年3月1日に起きた東北地方太平洋沖地震に伴う福島第一原子力発電所の事故の際は定期検査中でした。しかし,それ以降,再稼働することなく,今も停止した状態が続いてます。
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ということで,現在は稼働していません。

次が六ケ所原燃PRセンターでした。
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日本原燃株式会社の六ケ所原燃PRセンターでは,日本原燃株式会社が事業を行う原子燃料サイクル施設を中心に原子力や放射線について大きな模型やパネル,映像を使用してわかりやすくご案内しています。売店やレストランもあります。
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ということで,こちらは展望台から自由に写真を写してもよかったし,かなり大らかな施設でした。逆にいうと,稼働中の施設を維持するためには一般の人たちの理解が必要なので,かなり気を使っているわけです。
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核燃料の再処理,つまり「原子燃料サイクル」というのは,原子力発電所から運ばれてきた使用済の燃料を燃料貯蔵プールで冷却貯蔵し,3センチメートルから4センチメートルの小片に切断したのち溶解槽で硝酸により溶かし,リサイクルできるウランとプルトニウム,廃棄する核分裂生成物質(=廃棄物)に分離し,廃棄物をガラス固化し保管するというサイクルを行うことです。
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原子力発電で使われるウラン燃料は,97パーセントの核分裂しにくいウラン238と,3パーセントの核分裂しやすいウラン235からなります。
原子力発電の軽水炉で,3パーセントのウラン235は,1パーセントのウラン235と2パーセントの核分裂生成物質になります。また,97パーセントのウラン238からは,中性子を吸収することで1パーセントのプルトニウムと1パーセントの核分裂生成物質が出ます。
つまり,原子力発電によって,ウラン燃料は,95パーセントのウラン238,1パーセントのウラン235,1パーセントのプルトニウム,3パーセントの核分裂生成物質になるのです。これが使用済の燃料で,ここから,3パーセントの核分裂生成物質を取り除き,残りの97パーセントを再利用できるようにするのが原子燃料サイクル施設というわけです。
なお,1パーセントのプルトニウムは,新たなウランと混ぜ合わせて,MOX(=Mixed Oxide Fuel)燃料として利用します。これをプルサーマルといい,MOX燃料が使用できる軽水炉(=プルサーマル基)で利用します。現在,日本にはプルサーマル基は4基あります。
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問題はその3パーセントの核分裂生成物質で,これらは高レベル放射性廃棄物(ネプツニウム,アメリシウム,キュリウム,ストロンチウム,セシウム,テクネチウム,ルテニウム,ロジウム,パラジウム等)として残されています。日本では,その量は、最終処分する際の「ガラス固化体」に換算すると,既に約2万6,000本にも及びます。
高レベル放射性廃棄物は,当然,ゴミ捨て場に捨てるわけにもいきません。現在は,六ケ所村にある日本原燃株式会社の高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターと,東海村にある日本原子力研究開発機構の東海研究開発センターにあって,これらは,30年から50年間にわたり貯蔵・冷却したのち,最終的には300メートルより深い地下に「地層処分」し,「天然バリア」である地層と「人工バリア」である金属や粘土を組み合わせた「多重バリアシステム」によって,放射能の減衰する数万年以上をかけて放射性物質を人の生活環境から隔離することになります。つまり,地下深くに埋めるわけです。
しかし,高レベル放射性廃棄物を地下深くに埋める場所(=最終処分場)がすでに作られているのはフィンランドのみ,計画中なのがスウェーデン,フランス,アメリカで,日本では現在,北海道寿都(すっつ)町,神恵内(かもえない)村が候補となっていますが,最終処分場の場所すら決まっていないのです。

ちょうどお昼になったので,別棟にあったレストランで昼食をとりました。
なお,六ケ所村は,この施設のおかげで,ひとり当たりの村民所得が全国平均の5倍にも相当する,日本でも有数の豊かな自治体となっています。

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尻屋崎から下北半島の東岸を南下しようと思っていたのですが,道路がありませんでした。それは,海岸線まで高い山が続いているためのようでした。仕方がないので,来た道を戻り,途中で東岸にアクセスする道路を見つけたので,そこで左折しました。
下北半島を横断していると,道路が二股にわかれます。左に行くと県道172号線,これは尻労漁港で行きどまりとなりますが,GoogleMaps のストリートビューで見ると,尻労漁港にはけっこう大きな集落があります。この地に住むのも,いろいろ不便だろうと思うのですが,日本では,どんなところに行っても人が住んでいます。右手に行くと県道248号線で,私は,この道路に進路をとりました。この道路は下北半島の東岸に沿って南下します。

県道248号線はめったに車も通っておらず,快適でした。以前,ボストン郊外の道路を走ったときのことを思い出しました。県道248号線は海岸に沿ってはいるものの,防風林がつながっていて視界が効かず,まったく海が見れらませんでした。
実は,この一帯の海岸は猿ケ森砂丘なのです。
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幅東西約2キロメートル,長さ南北約17キロメートルの猿ヶ森砂丘は,約6,000年前の縄文海進期以降に太平洋からの砂が堆積して形成されたものです。「猿ヶ森」はアイヌ語の「サル・カ・モライ」(=湿地の上流にある流れの遅い川)に由来するといわれます。
猿ヶ森砂丘は,鳥取砂丘より広く日本最大,とされますが,実際は,猿ヶ森砂丘の広さは約3,000ヘクタール程度で鳥取砂丘とは同程度。ほぼ全域が防衛装備庁の下北試験場なので,一般人の立ち入りはできません。
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ということですが,さらに調べてみると,先に書いた尻労漁港の南のあたりの小径から坂の下という場所までは行くことができて,そこで砂丘の北の端を見ることができるそうです。

猿ケ森砂丘が過ぎたあたりに猿ケ森ヒバ埋没林があるという案内標示があったので,行ってみました。小さな集落があって,それを過ぎると駐車場がありました。そこに車を停めて,森の中に入っていくのですが,クマがでるということなので,iPhone で音楽をかけながら歩きました。
しかし,森に中をどこまで歩いて行っても,どこがヒバの埋没林なのかわかりません。背後から,クマではなく人がひとり,同じように音楽をかけながら歩いてきました。「どこが埋没林なのでしょうねえ?」と声をかけると「たぶんここじゃないのかなあ?」という返事。お互い,よくわからないのでした。以前行ったことがある北海道野付半島のトドワラのようなところを期待していただけに,がっかりしました。
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目的の場所は駐車場から約300メートルで,沢沿い埋没樹がぽつりぽつりとあり,埋没「林」とは思えません。枯れ木と埋没樹がゴッチャになっているため,どれが埋没樹なのか判別が難しくよくわからないのです。
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という口コミを見つけました。来た人はみな,同じように??? となる場所のようでした。
ということで,こうした森を見たことがない人には,ヒバ埋没林が何かわからずとも,森を歩くだけで感動している人もいるようですが,私はアメリカの国立公園で,もっとすごい森を数多く体験しているので,それに比べたら…,とがっかりした場所でした。

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県道6号線は尻屋崎に近づくにつれて最果て感満載になってきました。しかし,そこに飛び込んできたのは巨大な工場群でした。それは,いくつかの会社のセメント工場でした。私のイメージしていた最果て感とはまるで違うその景観に驚きました。
そのうちのひとつであるUBE三菱セメントは,セメント需要の減少と燃料価格の上昇で2023年3月末をめどに閉鎖されたということで,現在は,その後処理の最中だそうですが,このような巨大な工場は,すべて片づけられるのでしょうか? それとも廃墟となるのでしょうか? もし廃墟となるのなら,それは環境破壊だな,と悲しくなりました。

さて,県道6号線は,このような多くのセメント工場の間を過ぎると,次にそこにあったのが閉じられたゲートでした。尻屋崎はゲートで閉じられてていて,行くことができないのかな? と思いましたが,この時期,午前7時から午後4時45分までは車が近づくと自動で開くことがわかりました。ここにゲートが設置されている理由はわかりません。
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尻屋崎の北側は津軽海峡,東側は太平洋で潮の変わり目で,また,濃い霧がよく発生するため,海上交通の難所として古くから恐れられていました。これが北前船がこの場所をさけて,日本海経由で運ばれた理由でした。
1876年(明治9年)に尻屋埼灯台ができました。尻屋埼灯台は国内最大級の光度53万カンデラを誇ります。
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ゲートをすぎると,やっと,私が描いていた雄大な景色が広がっていました。朝早く,私以外にはだれも来ていなかったので,これがまた最果て感を増長しました。
ドライブウエイは海岸線に沿ってずっと続いていたので,それを走っていくと別のゲートに着いたのですが,そのゲートは午前9時に開くということで,そこから出ることはできませんでした。Uターンして今走ってきた道路を逆に進むことになりました。
尻屋崎灯台は中に入ることができるということですが,私の行った時間が早すぎてまだ閉まっていたたので,灯台に入ることができなかったのは残念でした。

再び,入ったときと同じゲートから出ました。
ゲートの際に放牧場があって,多くの寒立馬(かんだちめ)の姿がありました。ここにやって来たという内容の多くのブログがあります。ブログのほとんどが寒立馬を見ることができなかった,とあるのですが,私はこういうとき,当たり前のようにうまくいくのです。
ただし,それはそれで,大変なこともままあって,昨年の8月下旬に隠岐諸島に行ったときは,放牧された牛の大群に車を囲まれて動けなくなったし,アメリカのノースダコタ州では道路の真ん中にバッファロー2頭現れて進むことができなくなったこともありました。そこで,私はそうしたことがトラウマになっているので,放牧された動物は好きではありません。

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旅の3日目は,下北半島の北東端の尻屋崎へ行って,そこからずっと下北半島の東岸を南下して八戸市まで行くことにしました。広範囲な地図では尻屋崎へ行く道路がないように見えますが,むつ市から尻屋崎までは県道6号線がつながっています。
ホテルをチェックアウトして少し行くと斗南ケ丘市街地跡がありました。車を停めて降りて,説明書きを読んでみると
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戊辰戦争に敗れた会津藩が,1869年(明治2年),藩主・松平容保(たかもり)の嫡男・松平容大(たかはる)による家名存続が許され,新領地として斗南の地(現在の三戸、上北、下北の 3 郡と岩手県の一部)に斗南藩が成立しました。この地は,移住してきた藩士達の屋敷が造られた跡です。
  ・・・・・・
ということでした。
そういえば,今年の1月,会津若松市へ行ったとき,会津藩の歴史について興味をもったので,帰宅後調べていて,斗南なる名前を見た記憶があるのですが,それがむつ市であったとは…。また,昨晩泊った「むつグランドホテル」に保科正之(ほしなまさゆき)の資料や会津松平家の系図が展示してあったのですが,どうしてここに? と思ったのでした。
私がこれまでに旅で行ったところは,いつも何かしら不思議な縁で結ばれています。

保科正之は,2代将軍徳川秀忠と下級女中との子です。母親の身分が低かったのでその存在が隠され,旧武田家臣の高遠藩主・保科正光が預かりました。のち,保科正光の後を継いで藩主となり,山形藩藩主を経て,会津藩初代藩主となりました。
家老・友松氏興が建言し,保科正之と朱子学者・山崎闇斎が共同で作成したといわれる「会津藩家訓15ヶ条」は,200年にわたり会津藩の精神的支柱として存在しました。これが幕末,会津藩の悲劇につながってしまうのです。
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第1条
大君の儀,一心大切に忠勤を存すべく,列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば, 則ち我が子孫に非ず,面々決して従うべからず。
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2代藩主・保科正経(ほしな まさつね)には男子がなく,保科正之の子・正容(まさたか)が3代藩主となると,幕府から松平姓と葵の紋を与えられ,会津藩は徳川親藩になりました。
9代藩主・松平容保(たかもり)は,越前の松平春嶽や一橋慶喜らに京都守護職への就任を要請されます。この「会津藩家訓15ヶ条」第1条の内容を引き出された松平容保は要請を承諾するしかなく,これが戊辰戦争での悲惨な白虎隊の最期を引き起こす要因となりました。

斗南の名の由来は,中国の詩文の中にある「北斗以南皆帝州」(=北のこの地も天皇の国と変わりはなく,ともに北斗七星を仰ぐ民である)から来たもので,望郷への想いとともに,いつかは南に帰りたいという願いが込められているといわれます。また,憎むべき南(=長州・薩摩)と斗(=戦)うという解釈もあります。
しかし,ここは最北の僻地でした。入植した藩士たちの生活は困窮を極め,開墾に夢を託した藩士たちは,志半ばにして命を失い,あるいは,この地を去るものが続出しました。そのわずか1年後,政府は廃藩置県を断行し,斗南藩は消滅しました。
しばらく進んでいくと,旧斗南藩士の墓がありました。 当時,入植者が亡くなっても生活が苦しかったことから墓石が置くことができませんでした。そこで,これらは,1976年に斗南会津会が整備したものだそうです。

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おいしいマグロ丼に満足して,「むつグランドホテル」を目指して国道279号を走ります。
大間崎から下北半島の北岸を東に走っていると「布海苔(ふのり)発祥の地」という碑を見つけました。布海苔って何? と思ったのですが,刺身のつまでついている紅色の海藻だと思い当たりました。
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布海苔養殖法は1868年(明治初年)佐賀平之丞により考案され,その後,祖父の意志を継承し,佐賀清太郎が完成させました。これ以後,布海苔養殖法は村内はもちろん,県内および全国で採用されるようになりました。
  ・・・・・・
ということでした。
国道279号線は通称「むつはまなすライン」といい,道路沿いは点々と住宅が立ち並んでいて,最果て感はありませんでした。まもなく,むつ市街に入りました。

下北半島では,霊場恐山,仏ケ浦海岸,大間崎と,行きたかったところにすべて行くことができました。この日宿泊する「むつグランドホテル」はむつ市街の高台にありました。
それにしても返す返す私がいい加減なのは,予約をしておきながら「むつグランドホテル」がどんなものか把握していなかったということです。泊まることさえできればいいや,と思っていたので,「むつグランドホテル」はビジネスホテルに毛が生えたようなところだと思っていました。到着して驚きました。そこは,ものすごく豪華なホテルだったのです。
団体ツアー客がたくさんいました。下北半島を団体観光ツアーでまわろうとなると,宿泊先は「むつグランドホテル」一択となるようでした。帰ってから調べてみると…,ありましたありました。「仏ケ浦上陸とJR五能線 下北・津軽2大半島3日間」というツアーが。宿泊先は1泊目が鯵ヶ沢の「ロックウッドホテル」で,2泊目が「むつグランドホテル」でした。
ここは斗南温泉という場所なので,外来の日帰り温泉もありましたが,宿泊者だけの温泉も併設されていて,宿泊者は宿泊者専用の温泉と日帰り温泉の両方に入ることができました。部屋も立派で申し分なかったのですが,私は団体ツアー客が多いというだけでうんざりしました。
素泊まりだったので,夕食はすでに食べてきたのですが,朝食は近くに食べられるようなところもなかったので,ホテルで食べることにして,チェックインするときにフロントで予約しました。
温泉は団体ツアー客がいるから混雑するので,彼らが食事をしている時間に行ってみました。やはり空いていてなかなかいい湯でした。

2024年7月6日。旅の3日目です。この旅は,結果的には2泊3日でもよかったのですが,私が行きたかった場所が何日でまわれるのか見当がつかなかったので,おまけの1日,つまり,予備日を設けてありました。この日の宿泊先は「東北温泉」。これもまた,どういうところなのかはよくわかっていませんでした。
早朝,午前5時から温泉に入れるというので行ってみましたが,すでにけっこう人がいました。年寄りはみな早起きであり,時間なんて無視なのです。旅館によってはその時間以前に行っても入浴できないところもあるのですが,ここはそうではありませんでした。
朝食は午前7時からで,バイキング形式でしたが,これが問題でした。団体ツアー客の食事時間が午前7時30分からだと見込んだのが大間違いでした。彼らは私が思ったよりも出発が早かったのです。こんなことなら,私は,午前7時に温泉に入り,午前8時から朝食をとるべきだったのです。
ホテルや旅館によっては,団体ツアー客がいる場合,個人客とは部屋を別にしていることもあり,これが好ましいのですが,「むつグランドホテル」では,同じ大広間でした。こうなるといけません。ずらっとならんだ団体ツアー客は,まるで修学旅行生で,こんなところの端に個人客が押しやられてはたまったものではありません。これだけで,私には,このホテルはリピートの候補から外れます。
今改めて調べてみると,「むつグランドホテル」に泊まらずとも,下北半島には,大間崎を含め,団体ツアー客が泊まることのない小さな旅館がたくさんあったのです。そして,その多くはおいしそうな食事つきで,評価も高いのです。私としてはうかつでした。

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朝,津軽半島の先端龍飛崎の「龍飛崎温泉ホテル竜飛」を出発して,一路,下北半島を目指したのですが,思ったよりも早く下北半島までたどり着いて,霊場恐山にも行き,さらに仏ケ浦海岸まで足を延ばすことができました。
この日予約してあったのは,むつ市の「むつグランドホテル」,素泊まりでした。
地図を見ると,仏ケ浦海岸からは,下北半島を南の海岸線に沿って反時計回りに来た道を戻るのも,時北の海岸線に沿って時計回りに大間崎を経由して戻るのも,ともに同じような距離だったので,大間崎に行って,そこで夕食をとることにしました。きっとおいしいマグロが食べられることでしょう,という期待を込めて…。

仏ケ浦海岸から下北半島の西岸に沿って国道338号線を走るのですが,海岸線はずっとすばらしい景色が続いていました。下北半島に限らず,日本海側の風景は変化に富んでおもしろいものです。
しばらく走っていくと集落が見えてきました。国道338号線はここで終点で,引き続き国道279号線になるのですが,国道を走っていくと大間崎を通り越してしまいます。国道338号線の終点で,道路標示に従って,大間の市街地を北上していくと,大間崎に着きました。
広い駐車場があったのですが,車は全く停まっていませんでした。車を停めて,まず,大間崎の日本最北端の地碑まで行きました。すごい風でした。
大間崎は,35年ほど前に一度来たことがあるのですが,そのときのうっすらとした記憶では,もっと閑散とした漁港だったように思います。現在は,立派な観光地に変貌を遂げていましたが,観光客は皆無でした。聞くところによると,北海道の宗谷岬や美瑛の青い池はインバウンドであふれかえっているとか…。それだけで,私は行く気がなくなるのですが,それに比べて,ここは最高でした。

時刻はまだ午後5時前でしたが,夕食をとることにしました。
何軒か,食事のできる店があったのですが,車を停めたとき声をかけてくれた人の店に行くことにしました。注文したはもちろん極上のマグロ丼です。マグロを釣ったという人の息子さんがやっている店ということでした。出来上がったマグロ丼を食べていると,私の食べているマグロを釣りあげたという人が入ってきました。小柄な初老の人で,この人が一本釣りしたとは信じられませんでした。
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マグロといえば「大間の一本釣り!」と答える人も多いくらい有名な,大間のマグロです。小型船に乗ってマグロが回遊する沖まで出て,釣竿で1本のマグロを釣り上げるのです。
一本釣りは,傷が少なく状態もいいため単価がよくなりますが,1本ずつ釣り上げるので手間のかかる作業になるし,漁に出ても全く釣れないこともあるといいます。
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何事もすごいものだと感動しました。

マグロは日本海を回遊して,津軽海峡に入り,太平洋へ向かうのですが,津軽海峡は海流が早く,身が引き締まっておいしいマグロになるということです。ちょうどこの時期から漁がはじまりますが,この季節のマグロは赤身ばかりだそうで,油ののったおいしいマグロは冬に捕れたものだそうです。
釣ったマグロは,マイナス60度にして都会に送るそうです。
といった話を聞いていたときはそんなものか,と思ったのですが,後で考えてみると,冬の漁は,ものすごく寒い時期ではないですか。過酷です。
店で出されたものは,冬に捕れたものということで,私が生涯食べたものの中でも最高の味のひとつでした。上質のトロと上質の牛肉を足したような味。こんなおいしいものを食べてしまうと,帰宅してから,トロにぎりは食べられないなあ,と思いました。
さすが大間のマグロでした。

ところで,先日,NHKBS「にっぽん縦断こころ旅」で大間崎を取り上げていましたが,晴れた夜には,大間崎から函館の夜景が海の上に浮かび上がって見えるのだそうです。
そんなことを知ると,ぜひ,一度はそれを見てみたいなあ,と思ったことでした。

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霊場恐山がどういうところかわかってすっかり納得しました。
時刻はまだ午後3時前でした。下北半島は思ったよりも広くありませんでした。これは,交通量が少なく信号がないので,移動に時間がかからないからでした。
今日の宿泊先は「むつグランドホテル」で,素泊まりでした。それは,何時に到着できるかわからなかったことと,翌日の予定も未定だったからです。そこで,この時期は日没も遅くまだ十分に時間があったので,下北半島のほかの観光地を巡ることにして,まず見つけたのが仏ヶ浦海岸というところでした。
仏ケ浦海岸は下野半島の西海岸沿いの中央あたりにありますが,霊山恐山から直接行く道路がなく,再びむつ市まで戻って,今度は下北半島の南岸を国道338号線に沿って,下北半島の海岸沿いに時計回りに進みます。
しかし,国道338号線は途中が不通になっているという看板があったので,はたして行くことができるのか心配になりました。不通区間がどこなのかわかりません。まあ,行くことができなければ戻るだけ,と思って進みます。途中の川内町で右折して県道46号線を行けとカーナビが示すので従うことにしました。これは三角形の斜辺,つまり,ショートカットになります。また,国道338号線の不通区間の迂回路なのだろうと勝手に判断しました。県道46号線は反時計回りに大きく曲線を描き,12時のところで県道253号線との分岐になって,県道253号線に進路を変えて進むと,やがて,再び国道338号線と合流して,しばらく進むと,無事,仏ケ浦海岸の駐車場に着きました。やはり,迂回路でした。

ここで問題がおきました。私は,仏ケ浦海岸は道路に面しているとばかり思っていたのですが,それは大きな誤解だったのです。実際は,仏ケ浦海岸は,駐車場から,クマが出ることもあるという100メートル以上の高低差がある急峻な坂道を30分ほど歩かなければならなかったのです。それでもこのような道を作った人に感謝です。そうでなければたどり着けませんでした。
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仏ヶ浦海岸は,古くは仏宇陀(ほとけうた/ほとけうだ)と称しました。陸奥湾口の平舘海峡に面した峻険な海岸沿いに2キロメートル以上にわたって奇異な形態の断崖・巨岩が連なる海蝕崖地形で,1,500万年前に海底火山から噴出した火山灰が押し固められ削り取られて形成されたものです。
陸上から近づくのが困難な土地だったので,長らく地元民のみに知られる奇勝でした。大町桂月が1922年(大正11年)に下北半島を訪れた際,仏ヶ浦海岸を見て強い感興を覚え「神のわざ 鬼の手つくり仏宇陀 人の世ならぬ 処なりけり」の和歌をもってその奇観を賞しました。仏ヶ浦海岸が世に広く知られるようになったのは大町桂月の紹介によるものです。
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海岸沿いに展開する長大な景観なので,海上からでなければその全体像は把握できないということで,佐井村佐井港およびむつ市脇野沢港からの観光船が出ているそうですが,知りませんでした。
幸いクマと遭遇することもなく到着し,絶景を楽しむことができましたが,汗だくになりました。

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霊場恐山に到着しました。一体どんなところやら想像もつかなかったのですが,第一印象は不気味さ漂うところでした。広い駐車場があって,その奥に,荘厳な寺院がありました。
時刻はお昼過ぎでした。それまで適当なところがなかったので,できれば,霊場恐山に着いたら昼食をと思っていましたが,食事をするようなところはないのかしら? あるいは,みやげ物店や食事どころが立ちなぶような門前町があるのかしら? などなど,半信半疑でした。実際は,1軒の食堂とみやげ物店がありました。食堂はふたりの女性が働いていました。
不謹慎な私は,お参りをする前に腹ごしらえをしました。
おいしいおそばでした。それにしても,こんな山奥に毎日通っているのも大変だと思って聞いてみると,慣れているから,ということでした。また,ここは冬は閉鎖していて,5月から10月の間だけ開山しているということでした。

食事を終えて,入山しました。ほとんど人はいませんでした。これはさびれているのか,私が行ったときがたまたまだったのか?
  ・・・・・・
恐山は,下北半島の中央部に位置する活火山群の名称で,古くは宇曽利山(うそりやま)とよばれたものが転訛して恐山となりました。最高峰は標高878メートルの釜臥山で,それに加えて,大尽山,小尽山,北国山,屏風山,剣の山,地蔵山,鶏頭山の八峰からなり,恐山という山はありません。
中央のカルデラ湖である宇曽利湖(うそりこ)の湖畔にあるのが,恐山菩提寺で,これが俗にいう霊場恐山です。なお,恐山山地というのはもっと広範囲の下北半島の上部全体の山岳地を指します。
  ・・
宇曽利という名は1057年(天喜5年)の「扶桑略記」や「今昔物語」に見られます。恐山の噴火記録はなく,最後の噴火は1万年以上前と見られていますが,今でも,水蒸気や火山性ガスの噴出が盛んです。霊場恐山の「地獄」付近には火山性ガス(=亜硫酸ガス)が充満していて硫黄臭を放出しています。このガスによる影響で草木が生えず動物も稀であることから,地獄のような様相を呈し,これが霊場としての雰囲気を醸し出しているのです。
  ・・
恐山菩提寺は9世紀ごろに天台宗の慈覚大師円仁が開基しました。本尊は延命地蔵尊で,曹洞宗の寺院です。
地蔵信仰を背景にした死者への供養の場として知られ,明治・大正期に「恐山に行けば死者に会える」と俗信されるようになりました。
イタコの口寄せが行われるようになったのは戦後になってからで,これは,霊場恐山にやってくる人を目当てにしたエンターテインメント。恐山菩提寺とは関わりがありません。
  ・・・・・・
このように,風景の異様さから,言葉は悪いですが,あの世をテーマとしたアミューズメントパークのような寺院であると私は思いました。

山門をくぐった左手に無料休憩所があったので入ってみたのですが,ほかに人影もなく,奥まったところにイタコの女性が座っていて,びっくりしました。私はご先祖様に詫びることしかしていないので,口寄せはためらいました。帰ってから調べてみると,口寄せは人気で,待ち時間が何時間にもなると書いてあったのですが,私が見たときは閑散としていました。
以前,黄金崎の不老ふ死温泉に行って,浜辺の露天風呂に入ったとき,青森県の温泉めぐりを楽しんでいるという人と話をしたのですが,恐山には自由に入ることができる温泉があると言っていました。そのときはイメージがわかなかったのですが,恐山温泉のことでした。恐山温泉は,明治から昭和初期かけて存在した恐山鉱山の掘削時に噴出したもので,寺院の境内に,男性用の「古滝の湯」(こたきのゆ),女性用の「冷抜の湯」(ひえのゆ),男女交代制の「薬師の湯」,混浴の「花染の湯」の4つの湯小屋がありました。しかし,これに入るには勇気が要りました。亜硫酸ガスが充満するので開けっ放しで,外から丸見えです。
また,霊場恐山には宿坊もあって,宿泊することも可能です。
  ・・
本坊の奥に,白い岩肌の溶岩台地が広がっていて,その奥に宇曽利湖がありました。この気味悪さがあの世をイメージさせるわけです。霊場恐山というのはこういうところでした。

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今日は津軽半島の蟹田から一気に下北半島の恐山までを紹介します。
津軽半島を時計回りに進んで,蟹田の駅前に着きました。ここで少し休憩して先を急ぎます。JR津軽線は青森駅から津軽半島の東岸にそって蟹田駅まで行って,そこから津軽半島の北岸にある今別駅まで内陸部を進むのですが,現在,蟹田駅から先は運休しているので,ここが終着駅となります。
私は,JR津軽線に並行する国道280号線を海岸沿いに南下しましたが,この先は青森市街地に近づいていくので,周りは住居ばかりになって,見どころがなくなりました。最北感あふれる奥津軽は,蟹田や金木以北です。やがて,青森市街地に着きました。国道280号線はここで終了し,片側4車線もある国道4号線に入ります。
早く青森市を抜けて,野辺地へ行き,そこから下北半島を北上したいのですが,青森市に入ると車が増えて,信号も多く,なかなか先に進めません。そんな青森市の市街地は何となく高知市の市街地に似ています。違いは城がないことで,これが,青森市の市街地に魅力を感じない原因となります。要するに,ねぶた以外は何もないのです。青森市の見どころとして三内丸山遺跡や浅虫温泉などが観光案内に書かれてあるのですが,これらはいずれも青森市の郊外です。
  ・・・・・・
この海岸の小都会は,青森市である。津軽第一の海港にしようとして,外ヶ浜奉行がその経営に着手したのは寛永元年である。ざつと三百二十年ほど前である。当時,すでに人家が千軒くらゐあつたといふ。それから近江,越前,越後,加賀,能登,若狭などとさかんに船で交通をはじめて次第に栄え,外ヶ浜に於いて最も殷賑の要港となり,明治四年の廃藩置県に依つて青森県の誕生すると共に,県庁所在地となつていまは本州の北門を守り,北海道函館との間の鉄道連絡船などの事に到つては知らぬ人もあるまい。
現在戸数は二万以上,人口十万を越えてゐる様子であるが,旅人にとつては,あまり感じのいい町では無いやうである。たびたびの大火のために家屋が貧弱になつてしまつたのは致し方が無いとしても,旅人にとつて,市の中心部はどこか,さつぱり見当がつかない様子である。奇妙にすすけた無表情の家々が立ち並び,何事も旅人に呼びかけようとはしないやうである。旅人は,落ちつかぬ気持で,そそくさとこの町を通り抜ける。
  太宰治「津軽」
  ・・・・・・

なんとか市街地を過ぎ,車も車線も減ってくると浅虫温泉です。さらに東に走り,やっと野辺地に着きました。野辺地駅は「にっぽん縦断こころ旅」や「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」でよく出てきた場所,交通の要所です。
野辺地駅前に車を停めて休憩しました。日野正平さんがここで購入したお守り「モーリー」くんを買おうと思って,野辺地駅の売店に入りました。昨年来たときは売っていたのですが,そのときは興味がありませんでした。今回,なぜか欲しくなって探したのですが,売り切れていて,入荷予定もないということでした。人生何事もこんなものです。「その機会」を逃してはいけません。
さて,いよいよ,ここから下北半島を北上していきます。
私は,以前,下北半島の東側を反時計回りに大間崎まで走ったことがあるのですが,その時は大間崎へ行っただけでした。今回の最大の目的は霊場恐山です。下北半は,つけ根は狭いのですが,先端が大きく膨れていて,しかも山岳地帯ということで,果たしていつたどりつけるのやら,と心配していました。

今回は,下北半島の西側を走っていきます。特に何もなく道路がまっすぐに続いているだけでしたが,私は,ボストン郊外のケープコッドを走ったときを思い出しました。過去に様々な場所を訪れた印象がこころの奥に貯金として残っていて,何かのきっかけでそれがすてきな思い出に加工されて出てきます。
そうこうするうちに,予想に反して,あっというまにむつ市に着きました。
基幹産業は林業と漁業だそうですが,むつ市が思った以上の都会だったのにも驚きました。このような最北の地にこれほどの大きな町がある理由というのが私にはわかりませんが,やはり,人口は減少しているようです。むつ市に限らず,東北を旅していると,旅行するにはいいのですが,住むとなると考えてしまいます。ということで,多くの若者が東京を目指して南下していく様が理解できます。

思ったより早くむつ市まで来ることができたので,そのまま霊場恐山をめざして,さらに進むことにしました。
車にはカーナビもついているし,iPhone の GoogleMaps を見ることもできるのですが,道路標示に恐山とあってわかりやすかったので,それを頼りに走りました。霊場恐山までは,むつ市からは思った以上に遠く,山また山の中のくねくね道を走っていくことになりましたが,やがて霊場恐山というゲートがありました。それをくぐってさらに進むと,とんでもない風景が現れました。それが宇曽利湖(うそりこ)でした。こんな場所に湖があるのに驚きました。こりゃ,この世ではないと思いました。

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2024年7月5日。旅の2日目です。
今日は下北半島まで行って,むつ市に宿泊します。むつ市までとれだけ時間がかかるかわからず,また,広い下北半島でどれだけのところへ行けるかもわからなかったので,急いでいました。とはいえ,せっかく津軽半島へ行ったので,半島の海岸線沿いを国道280号線で走ることにしました。
まず,龍飛崎の先端にある帯島(おびしま)へ行ってみました。島とはいえ,コンクリート橋で結ばれています。帯島は源義経北行伝説の舞台のひとつで,源義経が北へ向かう際に帯を締めなおしたという伝説が残っているそうですが,竜飛弁天宮以外特に何もありませんでした。
龍飛崎に別れを告げて,津軽半島を時計回りに青森市を目指して走ります。津軽半島の北岸は,西に龍飛崎,東に高野崎があり,その間はへこんでいて,そこに今別市があります。また,今別市までの間にある集落が太宰治の「津軽」にも出てくる三厩(みんまや)です。厩はうまやのことです。
高台に義経寺(ぎけいじ)がありました。
  ・・・・・・
奥州平泉で最期を遂げたとされる源義経は,実はその後も存命し,さらに北へと逃避行を続け最後は蝦夷地へと渡ったという伝説があります。蝦夷へ渡ろうとした源義経は,海が荒れていたため船を出すことができませんでした。老人が現れ「三頭の竜馬を与えるのでそれで海を渡るとよい」と告げられます。すると,岩窟にいた3頭の駿馬を得ることができて,て無事に蝦夷へ渡ることができたたという。これが三厩の地名の由来です。
  ・・
源義経の伝説から500年ほど経った1667年(寛文7年)にこの地を訪れた円空は,源義経ゆかりの厩石に上り,そこで小さな観音像を見つけました。それが源義経の守り本尊であることを知り,円空は観音像を彫り上げ,厩石を見下ろす小高い丘の上に庵を結びました。これが義経寺のはじまりとされます。
  ・・・・・・
義経寺へ行ってみようと思ったのですが,かなりの階段を上る必要があったのでやめました。あとで地図を見ると,私は,海岸に沿って走っていたのですが,高台に並行して県道281号線「あじさいロード」が走っていて,この道を走れば,義経寺へは,登らずとも行くことができのでした。

今別の市街地まで来ました。
ここからショートカットして蟹田へ,県道14号線とJR津軽線,地下には北海道新幹線が走っています。JR津軽線は,2022年(令和4年)8月の豪雨で被害を受け,それ以降は運休が続いていて,バスによる代行運転をしているのですが,復旧を断念したらしいです。また,北海道新幹線の利用者がほとんどいないとして有名な奥津軽いまべつ駅があります。
このように,津軽半島の北側は,ツアー旅行か,レンタカーでもなければ,行くことが難しい場所でもあり,また,何もない,と思われているので,観光客が少ないのです。私は,その素朴さがたまらなく好きですが…。
県道14号線を走れば,奥津軽いまべつ駅を見ることもできたのですが,次の機会にして,私は,引き続き国道280号線を海岸沿いに走っていきました。
高野崎まで来ました。高野崎には広い駐車場があったので車を停めて先端近くまで行くと,すばらしい景色が広がっていました。
その先は,右にカーブして,単調な海岸線を走っていくことになりますが,左手には下北半島が眺められ,また,住居が点在していて,それまでのさびれ感から風景が一変しました。そこで見つけたのが高根沢の赤岩という案内板でした。国道沿いに巨大な赤岩があって,狭い道路を登っていくと採掘跡が洞窟として残っていました。このあたりは古くから天然の酸化第二鉄の産地だったところだそうです。

平館(たいらだて)というところで私が走っていた国道280号線が海岸沿いから離れたので,私は進路を変え,引き続き,海岸沿いの道を走ることにしました。そこにあったのが平舘台場跡でした。平舘台場跡というのは,江戸末期に津軽藩によって設置された台場です。1847年(弘化4年)にこの地に外国船が現れ,異国人8人が上陸した事件に大応して,その2年後に築かれたものだそうです。のどかな漁村に過ぎないように思われる地でも,さまざまな事件があったのだなあ,と思いました。
さらに走って,再び国道280号線が再び海岸沿いに現れると合流して,やがて,蟹田の町に着きました。
  ・・・・・・
私は,蟹田は蟹の名産地,さうして私の中学時代の唯一の友人のN君がゐるといふ事だけしか知らなかつたのである。私がこんど津軽を行脚するに当つて,N君のところへも立寄つてごやくかいになりたく,前もつてN君に手紙を差し上げたが,その手紙にも,「なんにも,おかまひ下さるな。あなたは,知らん振りをしてゐて下さい。お出迎へなどは,決して,しないで下さい。でも,リンゴ酒と,それから蟹だけは。」といふやうな事を書いてやつた筈で,食べものには淡泊なれ,といふ私の自戒も,蟹だけには除外例を認めてゐたわけである。
  ・・
蟹田のN君の家では,赤い猫脚の大きいお膳に蟹を小山のやうに積み上げて私を待ち受けてくれてゐた。「リンゴ酒でなくちやいけないかね。日本酒も,ビールも駄目かね。」と,N君は,言ひにくさうにして言ふのである。
  太宰治「津軽」
  ・・・・・・
このあたりに不老ふ死温泉があったはずなのに気づかなかったのは,国道280号線を離れて走っていたからでした。不老ふ死温泉は,同じ名前の私が先日宿泊した黄金崎のほうが有名ですが,この平館の不老ふ死温泉のほうが歴史がずっと古く温泉の質がよいという話なので,いつか宿泊してみたいものです。

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2024年3月7日,津軽鉄道のストーブ列車に乗って終点の津軽中里駅まで行ったとき,中里で宿泊した「福助旅館」で,女将から「こういうの知らないでしょう?」と言って,龍飛崎には地下を北海道新幹線が走っていてその音が聞こえるホテルがあると聞きました。さらに,立派なホテルだけれど辺境の地だから宿泊代が安いとも言われました。家に帰ってから調べてみると,それは「龍飛崎温泉ホテル竜飛」でした。そこで,今回津軽半島を1周するにあたり,私がまず予約したのがこのホテルでした。
龍飛崎の先端,高台の上に,私が思っていた以上の豪華なホテルがありました。龍飛崎にある宿泊施設はこのホテルくらいのものでした。
チェックインしたときにフロントで新幹線の話をすると,得意気に「新幹線が通過するときにホテルのロビーの照明が虹色に光って列車が走る音が聞こえるんですよ」と言われました。しかも,列車がいつ通過するか時刻表まで掲示されていました。どうやら,これがこのホテルのウリのひとつのようでした。私は,来るまで,列車が走る音が聞こえるといったって,ホテルのコンクリートで囲まれた地下室のようなところだけだろうと思っていたから,意外でした。

ホテルには,団体旅行ツアーが1組来ていたのですが,インバウンドはいませんでした。さすがにここまでは来ないのでしょう。青森県というところは,市販されているガイドブックにも,十和田湖と弘前が載っているものがほとんどで,それ以外の場所の情報は非常に少なく,私にはこれがいいのです。
多くの観光客は北海道に行ってしまうので,青森県は,一部の観光地を除けば観光客は少なく,よって宿泊代は安く,インバウンドはほとんどいないのです。私が,全国ほとんど行ってみた結果,日本で残る最高の観光地は青森県と高知県だけだと思っている理由はそこにあります。特に青森県は温泉が多く,人は優しく,自然が多く,すばらしいところです。
チェックインして一旦部屋に入り,荷物を置いたところで,ちょうど列車が来る時間となったので,急いでロビーに戻りました。ソファに座って待っていると,まず照明の色が変わりはじめました。そして,しばらくすると,列車が走る音が聞こえました。こそっとホテルの人に聞いてみると,この音はマイクで拾って拡大しているということでした。
また,このホテルは,1990年(平成2年)7月には平成の天皇と皇后が食事と休憩をしたところということで,そのときに使った備品が展示されていました。

「龍飛崎温泉ホテル竜飛」は,食事も温泉も部屋も最高でした。
私は,温泉が混みあうといやなので,なるべく夕食を早くとって,そのあとで入浴することにしています。この日も,私のほかにだれもおらず,くつろげました。また,この温泉には小さな露天風呂もあって,それがまた快適でした。
食事は夕食も朝食も豪華でした。朝食はすでに用意されていたものに,バイキングでそれ以外の好きなものを選ぶことができるという形式だったので,ストレスがありませんでした。
また宿泊したいと思うホテルでした。
  ・・
ちなみに,私が泊まったホテルは「龍飛崎温泉ホテル竜飛」が正式名称ですが,竜と龍が混在しています。竜と龍,このふたつの漢字は異体字にすぎず,同じもので, 竜が新字体で龍が旧字体ですが,これは,歴史的に龍の方が正字だとされてきたからというのが理由です。ただし,もともとは竜のほうが先に生まれたものです。
異体字のうち,名前などで,斉より齋,辺より邊,浜より濱といったように,難しいほうが威厳がありそうなのでそちらを使いたいと,こだわっている人がいるのと同じく,龍飛崎も,竜より龍を使いたいのでしょう。先日行った天竜峡も,現在は天龍峡で統一しようと決めていると聞きました。

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今日のホテルにチェックインする前に,あたりを散策することにしました。
まず,国道339号線を来た道に戻り,青函トンネル記念館に行きました。
青函トンネル記念館は,道の駅みんまやというところにありました。道の駅みんまやは,もともとは,青函トンネル記念館と風力発電に関する博物館である竜飛ウィンドパーク展示館のふたつの施設から構成されていたのですが,現在,竜飛ウインドパーク展示館は閉館したようで,広い駐車場と青函トンネル記念館のみになっていました。
  ・・・・・・
青函トンネル記念館は,1988年(昭和63年)に青函トンネルの開通とともに開業しました。大きな吹き抜けの壁に青函トンネルの構造を知るパネルなどが展示されていて,ケーブルカーで青函トンネルの体験坑道に行くことができます。
竜飛海底駅は,世界初の「海より深い駅」として誕生しました。見学ツアーの利用者に限定して設置された駅で,青函トンネル竜飛斜坑線の体験坑道駅と青函トンネル内にあった竜飛海底駅との連絡ができたのですが,竜飛海底駅が2013年(平成25年)に北海道新幹線の工事用施設として使うため休止されたことで,竜飛海底駅の見学はできなくなりました。
  ・・・・・・
入館料を払って記念館に入りました。ここから,海面下140メートルの世界を体験できる体験坑道へ 青函トンネル竜飛斜坑線というケーブルカーに乗り込んで,斜度14度の斜坑を下りました。
地下坑道の一角に展示エリアが設けられていて,実際に掘削に使われた機械や器機などを見ることができました。そこが海の底と思うとゾッとしました。

青函トンネルの掘削は,たびたび異常出水に見舞われました。中でも最大だったのは1976年5月6日に起きたもので,毎分数十トンの海水があふれ出し,1日もたたずに888メートルが水没してしまいました。
こうした難工事を乗り越え,21年の歳月と34人の犠牲者を出しながら,1985年(昭和60年)3月10日に貫通し,1988年(昭和63年)3月13日に一番列車「はつかり」が走行しました。そして,2016年(平成28年)3月26日からは,北海道新幹線が運行しています。
青函トンネルの年間の維持費は40億円,湿度が高く塩水にさらされる過酷な環境にあるので,次第に劣化し,近い将来には大規模な修繕が必要といいます。また,せっかく北海道まで行くことができても,現在は函館北斗駅までしか開通しておらず,そこから札幌や函館に行くのに不便な状態では,客足は伸びません,
現在は札幌まで延長するために工事をしていますが,渡島トンネルでは1か月で10メートルほどしか掘削できず,羊蹄トンネルでは巨大な岩が発見され工期が止まり,札樽トンネルでは泥土の漏出事故が多発というように,開業時期が見通せない状況だそうです。そうまでしていつか札幌駅までつながったとしても,時間がかかり運賃が高いから,結局飛行機のほうが便利では,利用者がいるとは思えません。大丈夫かな?

さびれ感満載の青函トンネル記念館を出て国道339号線から別れ,坂道を下ると,再び海岸線を走る国道339号線に出ます。この坂道が「階段国道」の代わりとなる,実質の国道339号線です。海岸線にあるのが太宰治文学碑でした。太宰治は,1944年(昭和19年)5月,津軽半島を蟹田から三厩(みんまや)へと北上して,この地にたどり着き「奥谷旅館」に宿泊しました。
  ・・・・・・
ここは,本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向つて歩いてゐる時,その路をどこまでも,さかのぼり,さかのぼり行けば,必ずこの外ヶ浜街道に到り,路がいよいよ狭くなり,さらにさかのぼれば,すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み,そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。
  太宰治「津軽」
  ・・・・・・
また,太宰治文学碑から国道339号線を少し西に進むと左手に,太宰治が滞在したという「奥谷旅館」がありました。「奥谷旅館」は,現在,龍飛岬観光案内所「龍飛館」となっているのですが,開館時間をすぎていたので,残念ながら館内に入ることはできませんでした。
  ・・・・・・
露路をとほつて私たちは旅館に着いた。お婆さんが出て来て,私たちを部屋に案内した。この旅館の部屋もまた,おや,と眼をみはるほど小綺麗で,さうして普請も決して薄つぺらでない。まづ,どてらに着換へて,私たちは小さい囲炉裏を挟んであぐらをかいて坐り,やつと,どうやら,人心地を取かへした。 「ええと,お酒はありますか。」N君は,思慮分別ありげな落ちついた口調で婆さんに尋ねた。答へは,案外であつた。 「へえ,ございます。」おもながの,上品な婆さんである。さう答へて,平然としてゐる。N君は苦笑して,「いや,おばあさん。僕たちは少し多く飲みたいんだ。」 「どうぞ,ナンボでも。」と言つて微笑んでゐる。
  太宰治「津軽」
  ・・・・・・

さらに国道339号線を西に行くと,左手に「階段国道」の下側がありました。住宅地の一見私有地のようなところに数台の車が停められる駐車場があって,そこに車を停めて,住居の軒下を歩くと,「階段国道」に出ます。先に行った上側に車を停めようと,この下側に車を停めようと,結局,往復するしかないわけです。階段は362段あって,総延長388.2メートル,標高差約70メートル,軟弱な私は階段を上り下りしませんでした。

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北海道新幹線


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私は,これまでに,宗谷岬,野寒布岬,積丹岬,襟裳岬,納沙布岬,大間崎,などなど「尖がったところ」にはずいぶん行ったのですが,龍飛崎には行ったことがなく,憧れでした。
  ・・・・・・
龍飛崎は津軽半島の最北端にあります。西は日本海,北は津軽海峡,東は陸奥湾と,三方を海に囲まれていて強い海風が吹くところから「風の岬」といわます。
  ・・・・・・
多くの岬のように,龍飛崎も海岸ぎりぎりのところが断崖となっていてそこに展望台がある,というイメージだったのですが,そうではなく,先端にあるのが帯島ですが,帯島には道がなく,その手前に漁港があって,そこが岬,とは言い難く,そこで,その奥の高台にところが竜飛崎の展望台となっていました。また,高台の突端には津軽海峡のシンボルとなっている白亜円形の龍飛埼灯台がありました。

私が行った日は,雨は降っていませんでしたが曇っていたので,晴れていれば見ることができるという津軽海峡を挟んだ北海道の松前半島や函館山を見ることはできませんでした。そして,ものすごい風で,まさに「風の岬」でした。
駐車場からさらに上ると「文学碑の丘」で,2頭の龍が鎮座する「龍見橋」がありました。
「龍見橋」は橋の欄干に「太宰の道」と記されているのですが,それが橋の別名であるのか,橋を通る前後の道も指しているのか判然としないそうです。
ともかく,太宰治は「津軽」の執筆でこの地を訪れました。
また,「文学碑の丘」には吉田松陰碑がありました。
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1851年(嘉永4年)12月,吉田松陰は北辺の守りをこの目で実地踏査したいという思いから,熊本藩士の宮部鼎蔵とともに東北地方へ向かいました。水戸,会津,越後,大館を経て,弘前城下に入った3月,ふたりは弘前藩の儒学者であり兵学者の伊藤広之進を訪ね,津軽半島の海防について尋ねました。その後,五所川原,十三湖を見ながら北上し,小泊の港で津軽海峡を望みましたが,龍飛崎までは行っていません。
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龍飛崎といえば,だれもがイメージするのは石川さゆりさんの歌った「津軽海峡・冬景色」で,歌謡碑がありました。ボタンを押したらすごい音量で曲が流れたのですが,風の音に負けてしまいました。
  ・・・・・・
「津軽海峡・冬景色」は,1977年に発売された石川さゆりさんの15枚目のシングルです。
歌詞の内容は,東京を発って本州最北端の青森県にたどり着き,津軽海峡をこえて北海道に渡る人々を描いた叙事詩です。歌の詞は,龍飛崎の回想までで,青函連絡船上の津軽海峡で北海道に帰る女性の心情を吐露させて終わります。
  ・・・・・・
その昔,現在のような新幹線がなかったころ,北海道を目指す人々は,上野駅から夜行列車に乗って,雪が降る青森駅で降り,ボーディング・ブリッジを渡って津軽海峡渡って函館駅に向かう青函連絡船へと乗り継いで行きました。私は,今から45年ほど前の冬に,反対に函館駅から青森駅に青函連絡船に乗って渡り,ボーディング・ブリッジを渡り青森駅のホームに出て,寝台特急「ゆうづる」で上野駅まで帰ったことがあります。青函連絡船はすごく揺れて船酔いを起こして苦しかったことと,寝台列車で夜明け前に目覚めるとやたらおなかが空いたことが記憶にあります。
なお,「津軽海峡・冬景色」では竜飛岬とありますが,この地は,龍飛崎というのが正式な名称です。

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国道339号線は,弘前市から東津軽郡外ヶ浜町に至る延長約129キロメートルの国道です。かつて,小泊と龍飛間は小舟でしか交流できない「まぼろしの道路」でした。1972年(昭和47年)に小泊側から自衛隊により,また,翌年には龍飛側から請負工事により道路改良が行われ,1983年(昭和59年)に全面開通しました。この日はこの部分を走ります。
小泊を過ぎると,道の駅があって,そこからしばらくは海岸沿いを走ることになり,この日の天気も手伝って最果て感満載となりました。小泊と龍飛崎を結ぶ約24キロメートルの区間は「竜泊ライン」(たつどまりライン)とよばれています。
その南半分は,日本海の波に洗われた奇岩が見られる絶景のドライブルートとして知られているのですが,この時期,青森県内ははツキノワグマが出没しているということで,どこを走っていても注意喚起がされていました。とはいえ,車を走らせていて,道路にツキノワグマが出てきたらどうしたらいいのかな? と思いました。
  ・・・・・・
●運転中にクマと遭遇したらなるべく停車せず,熊のスキを見つけてゆっくりとすり抜ける。
●クマに道を塞がれたら,バックをすると余計に追いかけられることもあり,クラクションはクマが興奮する可能性があるので,窓はしっかりと閉めドアをロックしてクマが車内へ侵入するのを防ぎ,クマの様子をうかがい,進路が空いたらゆっくりと加速して脱出する。
  ・・・・・・
ということですが,私は,アメリカで野生のシカやバッファロー,隠岐で牛に囲まれたことがありますが,さすがにクマはありません。

海岸沿いを走っていくと,七ツ滝がありました。七ツ滝は,高さ約21メートルの滝で,7段の段差があることからこの名があります。都城出身の荒川秀山が選んだ,七ツ石,権現崎,経島,羅漢石,姥石,辨天崎,稲荷堂,青巖,七瀧,傾石,竜飛崎という「小泊十二景」のひとつだそうですが,こんなことを知ると,また,行きたいところが増えてしまいます。七ツ滝の沢は滝の下流60メートルほどで日本海に注ぎます。
この先龍飛崎までこのように海岸線を進むのかと思っていると,突然,かなり標高が高い山の中に入っていきました。それとともに霧が濃くなって,一寸先が見えなくなりました。
アメリカでもインターステイツを走っているときにこのような霧の中に入ったことがあるのですが,アメリカの道路は,車のヘッドライトでセンターラインは黄色く浮かび上がり,エンドラインは白色に浮かびあがるので安全でした。それに比べて日本では…。霧に注意という道路標示を作る前にやることがあるだろう,と思いました。
このように,「竜泊ライン」の北半分は海岸線から離れた尾根沿いの峠道で,山の景色へと変化し,つづら折れが連続しますが,その一部区間は11月中旬から4月下旬までは冬季閉鎖されるそうです。
どうやら峠を過ぎて少し高度が低くなり,霧が晴れたと思ったら,そこが龍飛崎で,まず,私がこの日宿泊する「龍飛崎温泉ホテル竜飛」が目の前に飛び込んできました。

そのままさらに進むと「階段国道」の上側がありました。
  ・・・・・・
「階段国道」は,龍飛灯台付近から龍飛漁港付近の間の急峻な崖を結んでいる国道339号のルートとして指定された362段の階段とそれに続く歩道区間の通称です。自動車やバイクなど車両は通行することはできず,歩行者専用の通行路で,階段国道を下がりきると龍飛漁港バス停のすぐ近くに出ます。
龍飛崎の丘の上から龍飛漁港へと下る区間は,かつては村道の階段で,これがのちに県道に昇格し,さらに国道339号が国道指定された際に「役人が現地を見ずに地図上のみで国道に指定した」らしいといわれます。国道指定当初は階段ではなく狭い坂道で,青森県が階段に整備したものです。
現在は,この階段区間の上下を結ぶ迂回可能な自動車交通路があるので,これを国道とすればいいのですが,すでに「全国で唯一の階段国道」が有名になっていて「この方が観光名所になるから」という理由で,そのままになっているということです。
  ・・・・・・
私は,ろくに調べもせず,運がよければ「階段国道」を見られたらいいなあ,と思いながらこの旅をしていたのですが,それは津軽半島の山の中にあるものだと何となく思っていたので,あきらめていました。それがまさかここだったとは,と驚きました。そして,これもまた幸運なことでした。

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十三湖を過ぎて,次に向かったのは,小説「津軽」の像記念館でした。それにしても,私は,鶴の舞橋,十三湖,そして,この小説「津軽」の像記念館,このあとに行くことになる「階段国道」と,そのどれもが,どこにあるのか調べもせず,知りもせずに来たのに,本当に偶然,その順番に津軽半島を北上して訪れることができたのです。自分でも驚きました。
ただし,帰ってから調べてみると,高山稲荷神社という有名な見どころを通り過ぎてしまっていたのです。ということで,私は,もう一度,青森県を旅する必要ができてしまいました。
小説「津軽」の像記念館は,十三湖からさほど遠くない中泊町小泊にありました。

記念館の近くには,ぴかぴかの,こどまり学園という施設がありました。中泊町立こどまり学園は,従来の小泊小学校と小泊中学校を一緒にした小中一貫校で,2022年にできたばかりのようです。この日は,小学校で参観授業が行われていました。
記念館の周りに駐車スペースがあったので,私はそにに車を停め,記念館に向かいました。昨年,青森県を旅したときに,ぜひ行ってみたかったのが金木の「斜陽館」でしたが,「斜陽館」に行って以来,ろくに太宰治の小説を読んだこともないのに,何かにとりつかれたかのように,太宰治に関する史跡を訪ね歩いているのです。
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小説家太宰治の「津軽」のクライマックスは,幼年時代の子守りであったタケと太宰治が30年ぶりに再会する場面であったといえます。ふたりが出会った小泊小学校の運動場を望める場所に記念館があります。
記念館では「津軽」が誕生するまでの経緯やタケと太宰治の出会いの場面について,資料や映像を通して知ることができ,関連する資料が多数収蔵されています。
また,記念館横には,再開の場面を再現した小説「津軽」の像や文学碑が建立されています。
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記念館では,私があまりに熱っぽく太宰治について語るので,私のためにビデオを上映してもらえました。ビデオは,生前のタキさんが太宰治について語ったものを収録したという内容で,私は感動しました。
太宰治とタキが再会した小学校は,この現在のこどまり学園で,運動場の一角に記念碑がありました。また,小泊には,今は残っていない,「津軽」に描かれたさまざまな場所に記念碑がありました。私は,小泊に来てよかったと思いました。

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「久し振りだなあ。はじめは,わからなかつた。金木の津島と,うちの子供は言つたが,まさかと思つた。まさか,来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても,わからなかつた。修治だ,と言はれて,あれ,と思つたら,それから,口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。三十年ちかく,たけはお前に逢ひたくて,逢へるかな,逢へないかな,とそればかり考へて暮してゐたのを,こんなにちやんと大人になつて,たけを見たくて,はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと,ありがたいのだか,うれしいのだか,かなしいのだか,そんな事は,どうでもいいぢや,まあ,よく来たなあ,お前の家に奉公に行つた時には,お前は,ぱたぱた歩いてはころび,ぱたぱた歩いてはころび,まだよく歩けなくて,ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて,庫くらの石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで,たけに昔噺むがしこ語らせて,たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて,手かずもかかつたが,愛めごくてなう,それがこんなにおとなになつて,みな夢のやうだ。金木へも,たまに行つたが,金木のまちを歩きながら,もしやお前がその辺に遊んでゐないかと,お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語,一語,言ふたびごとに,手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で,むしり取つては捨て,むしり取つては捨ててゐる。
  太宰治「津軽」
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地図で見て,私が子供のころからずっと気になっていたのが十三湖でしたが,行く機会がありませんでした。2024年3月に津軽鉄道のストーブ列車で津軽中里駅まで行ってその町で宿泊したとき,津軽中里から十三湖まで行くバスがあるという話だったので,行ってみたいと思ったのですが,断念しました。
それは,雪が積もっていたこともあって,この先に人が住んでいるのだろうか,とさえ思えたし,ネットで調べても,弘南バスのサイトには時刻表があっても地図がなく,地名が書かれてあっても,それがどこのことなのかわからなかったからです。
今ならわかります。
実際は,五所川原営業所発小泊案内所行きの津軽半島の中央を走るバスが1日に6本運行されていて,それに乗ると,十三湖へ行くには,その東岸にある有名な「しじみ亭奈良屋」という食事処の近くの今泉というバス停まで,中里駅前からわずか14分で行くことができるのでした。また,五所川原営業所発市浦庁舎前行きの津軽半島の西岸を走るバスが1日に8本運行されていて,このバスは津軽中里駅は通りませんが,五所川原営業所で乗車すれば,十三湖の北岸の中之島公園というバス停を経由します。
このように,弘南バスを使っても十三湖に行くことは可能だったのです。

今回はレンタカーだったので,弘南バスを利用することもなく,鶴の舞橋を見たあと,カーナビで十三湖を探して,車を北に向けて走りはじめました。あたりは,津軽平野らしい雄大な平原が続いていましたが,冬には一面の銀世界となります。この広々とした感じが津軽半島の魅力です。やがて,十三湖に着いたのですが,道路は十三湖を周遊するようにつながってはいるものの,湖が見えません。
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十三湖は海水と淡水が混合した汽水湖で,南北7キロメートル,東西5キロメートル,周囲31.4キロメートルと,十和田湖,小川原湖に次いで,青森県で3番目に大きな湖です。岩木川をはじめ,13の河川が流れ込むことから十三湖といわれています。
宍道湖と日本一を競う漁獲量を誇る十三湖のシジミは「十三湖産大和しじみ」として有名です。
また,オオハクチョウ,コハクチョウの渡来地として知られているほか,幻の鳥といわれているオオセッカや天然記念物のオオワシなど飛来する鳥や生息している鳥が多く,バードウォッチングも楽しめます。
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ということですが,十三湖のどこに行けば雄大な風景が眺められるのか,皆目見当がつきません。

ともかく道路に沿って走っていたら,十三湖道の駅というものを見つけたので,まず,そこに行くことにして,ちょうどお昼時だったので,昼食として,しじみラーメンセットを食べました。あとで知ったことには,先に書いた「しじみ亭奈良屋」のほうがよかったかも,と思いました。
十三湖道の駅から十三湖が眺められると思ったのですが,それは誤解でした。せっかく十三湖に来たのに,なかなか湖が見えないのです。
さらに走って,十三湖の北側に回り込むと,やっと湖が見えてきました。ここが十三湖観光の中心らしく,みやげ物屋などもありました。十三湖中の島ブリッジというものがあって,渡ると中の島へ行くことができるのですが,さびれ感満載で,ほとんど人はいませんでした。
地図で見ると,ここからさらに西に,海に向かって道路が続いていて,十三湖の湖水が日本海に流れ出るところに十三湖大橋が架かっていて,そこから湖に沿って南へ行くと集落が存在するというので,走ってみることにしました。どうやら,その場所が,中世,十三湊(とさみなと)として栄えた場所だったようです。

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湖が日本海に開いてゐる南口に,十三といふ小さい部落がある。この辺は,いまから七,八百年も前からひらけて,津軽の豪族,安東氏の本拠であつたといふ説もあり,また江戸時代には,その北方の小泊港と共に,津軽の木材,米穀を積出し,殷盛を極めたとかいふ話であるが,いまはその一片の面影も無いやうである。
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中里から以北は,全く私の生れてはじめて見る土地だ。津軽の遠祖と言はれる安東氏一族は,この辺に住んでゐて、十三港の繁栄などに就いては前にも述べたが,津軽平野の歴史の中心は,この中里から小泊までの間に在つたものらしい。
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やがて,十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛つたやうな,気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでゐない。ひつそりしてゐて,さうして,なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も,この湖の面には写らぬといふやうな感じだ。十三湖を過ぎると,まもなく日本海の海岸に出る。
  太宰治「津軽」
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十三湖は最果て感あふれる何か切ないところでした。

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午前9時30分,青森空港に着陸しました。青森空港は,アメリカの地方都市と同じような空港で,隣にレンタカーターミナルがあって,そこまで歩いていくと予約してあった車を借りることができます。 さっそく,車を借りて出発しました。
今回の旅のテーマは,前回書いたように「津軽半島で太宰治に浸る」でしたが,中でも最も行きたかったのは,津軽半島の小泊にある小説「津軽」の像記念館でした。それとともに行きたかったのが,鶴の舞橋,十三湖,「階段国道」,そして,この日の宿泊先である地下に北海道新幹線が通っているという「龍飛崎温泉ホテル竜飛」でした。
しかし,いつものように,私のいい加減なところは,事前にそれらがどこにあるか調べてこなかったということにあります。まず,何となく最も近いと思われた鶴の舞橋から行けばいいのかな,きっと,青森空港から東に向かって走っていけば目的地に着くだろうと思って,東に向かって車を走らせました。
前回の青森旅行から帰ってくるまで,私は,鶴の舞橋というものを知りませんでした。そして,知っていればいくらでも行くことができたのに,と後悔していました。そこで,この旅でまず行ってみたいと思っていたのです。

そして,まず見つけたのが,浪岡城跡でした。浪岡? 聞いたことがある地名だな,と思いました。そうです。ここは,横綱稀勢の里,現在の二所ノ関親方の師匠であった横綱隆の里の故郷でした。それにしては,浪岡町には,横綱隆の里をしのぶものは何もありませんでした。
いい加減に走っていても仕方がないので,浪岡城跡の駐車場に車を停めて鶴の舞橋をカーナビで調べました。私が思っていた(感じていた?)とおり,鶴の舞橋はここから近くでした。浪岡城跡は時間があれば帰りに寄ることにして出発しました。
カーナビに従って走っていくと,まもなく鶴の舞橋に到着しました。
広い駐車場があって,パラパラと観光客が来ていました。車を停めて,さっそく橋を渡りました。
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鶴の舞橋は1994年(平成6年),岩木山の雄大な山影を湖面に美しく映す津軽富士見湖に,日本一長い三連太鼓橋として架けられました。
全長300メートルもの三連太鼓橋はぬくもりを感じさせるような優しいアーチをしていて,鶴と国際交流の里・鶴田町のシンボルとして,多くの人々に愛されています。
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このように,鶴の舞橋は,比較的新しいもので,歴史的な史跡ではないようです。太宰治が「津軽」を書いた当時は存在しませんでした。

津軽富士見湖は,元来は岩木山を水源とする白狐沢からの自然流水によってできたものを,1660年(万治3年)に4代藩主津軽信政が柏村地方の用水補給のための堤防を築き用水池にしたものです。その後,たびたび堤防が決壊しましたが,1960年(昭和35年)に現在の堤防が完成し,水深約7メートル,満水面積281.28ヘクタールとなりました。
そこにかけられた鶴の舞橋は,岩木山を背景にした姿が鶴が空に舞うように見えるとも,橋を渡ると長生きができるともいわれます。また,夜明けとともに浮かび上がる湖面の橋,夕陽に色づく湖と鶴の舞橋,さらには,季節による異なった美しさなど,一年を通してすばらしい姿を見せます。
粋な橋を造ったものですが,なにせ,木造。維持がたいへんそうで,現在も,大改修の最中でした。

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今回から,2024年7月4日から7月7日まで3泊4日で行った,今年3度目の青森旅行について書きます。
まず,この旅に出かけた経緯を説明するために,2023年5月22日のブログから以下に載せます。 
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私が青森県に行くのはこれが3度目です。
1度目は今から40年以上前の冬に北海道にスキーに行ったときに,一度は青函連絡船に乗ってみたいと,あえて飛行機を利用して帰るのをキャンセルして,函館駅から海路で青森駅に到着,そこから寝台特急「ゆうづる」で上野駅まで戻ったことがあるのですが,このときは青森駅のホームを通っただけでした。
2度目は,これは35年ほど前に岩手県の盛岡市に仕事で行ったときに,仕事が終わって1日自由時間ができたので,レンタカーを借りて下北半島を1周したのです。このときもまた,ほとんど,車に乗っているだけでした。
というわけで,私は,事実上,青森県はほとんど知りませんでした。
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青森県は,よくテレビの旅番組で出てくる野辺地,映画で名前だけ知っている八甲田山,縄文時代の遺跡である三内丸山,桜の名所である弘前,太宰治の「津軽」,冬の津軽鉄道ストーブ列車,多くの秘湯など,気になっていたところがたくさんあるのですが,どこも詳しく知らなかったし,位置関係もわかりませんでした。そこで,今回,2泊3日で,それらの場所を巡ってこようと考えたのです。
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これを書いたのが,わずか1年4か月前のこととは思えません。

結局,そのときの旅では,私が「気になっていたところ」のすべてを見ることはできませんでしたが,なぜか,青森県の魅力のとりこになってしまいました。
そこで,その後,今年2024年の3月6日から3月8日までと4月15日から4月16日まで2度も青森県を旅して,私が「気になっていたところ」のそのほどんどに行くことができました。それでも行くことができなかったのが太宰治が1944年(昭和19年)に小説「津軽」であらわした旅でまわった津軽半島でした。
そんなわけで,今回「津軽半島で太宰治に浸る」旅に出ることにしたのです。そして,せっかくなので,津軽半島だけでなく,下北半島も1周することにしました。

いつものように,午前8時10分,県営名古屋空港から青森空港に向けて飛び立ちました。梅雨空で一面の雲でしたが,遠くに雪のない富士山の山頂だけが見えました。
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或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、といふ序編の冒頭の文章に、いよいよこれから引返して行くわけであるが、私はこの旅行に依つて、まつたく生れてはじめて他の津軽の町村を見たのである。それまでは私は、本当に、あの六つの町の他は知らなかつたのである。小学校の頃、遠足に行つたり何かして、金木の近くの幾つかの部落を見た事はあつたが、それは現在の私に、なつかしい思ひ出として色濃く残つてはゐないのである。中学時代の暑中休暇には、金木の生家に帰つても、二階の洋室の長椅子に寝ころび、サイダーをがぶがぶラツパ飲みしながら、兄たちの蔵書を手当り次第に読み散らして暮し、どこへも旅行に出なかつたし、高等学校時代には、休暇になると必ず東京の、すぐ上の兄(この兄は彫刻を学んでゐたが、二十七歳で死んだ)その兄の家へ遊びに行つたし、高等学校を卒業と同時に東京の大学へ来て、それつきり十年も故郷へ帰らなかつたのであるから、このたびの津軽旅行は、私にとつて、なかなか重大の事件であつたと言はざるを得ない。
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私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでゐる。人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても、結局は、津軽の現在生きてゐる姿を、そのまま読者に伝へる事が出来たならば、昭和の津軽風土記として、まづまあ、及第ではなからうかと私は思つてゐるのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。
  太宰治「津軽」
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