しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:北陸旅行LIVE > LIVE・2024秋

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【Summary】
I visited Fugan Canal Kansui Park in Toyama. A famous "world's most beautiful Starbucks" for its beautiful scenery in it. I took a cruise on the Fugan Suijo Line, passing through Nakajima Lock, a historical structure. After reflecting on past memories near Toyama Station, they boarded the limited express "Hida", a train popular among foreign tourists, and enjoyed the ride back to Gifu, concluding their trip along the Tateyama Kurobe Alpine Route.

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富岩(ふがん)運河環水公園は「とやま都市MIRAI計画」のシンボルゾーンとして富岩運河の牛島町(うしじまちょう)側の船溜まりを整備した公園で,面積は9.7ヘクタール(約5ヘクタールがプロ野球のグランド程度)あります。
1988年に工事がはじまり,1997年に船溜まり最上部のフロントデッキやプロムナードなどが完成しました。また,1999年には天門橋(てんもんきょう)が完成し,2007年には富岩運河環水公園内に小運河と人工島「あいの島」が完成しました。また,富岩運河環水公園から中島閘門間の両岸には遊歩道や休憩所が整備され,かつてのゴミ捨て場から市民の憩いの場所へと変わりました。
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公園内には「スターバックス富山環水公園店」がありました。かつて,スターバックスの社内コンテスト「ストアデザインアワード」で最優秀賞を受賞したことから「世界一美しいスタバ」といわれるほどの店ということでした。満員でした。
家の近くにこんな公園があったら最高だと思いました。

私の目的は,富岩水上ラインでした。
富岩運河を船で遊覧する富岩水上ラインは,3月下旬から11月下旬に定期運行されています。使用される船は,環境に考慮し太陽光を利用する定員55人のソーラー船「sora」(そら),「fugan」(ふがん),「kansui」(かんすい),それに,バッテリーとモーターで動く定員11人の電気ボート「もみじ」2019年3月23日に就航したソーラー船(定員55人)の4隻です。

また,運行コースも何種類かあり,閘門操作室の見学と乗船したまま水位2.5メートルの水上エレベーターといわれる高低差を実際に体験できる中島閘門を通過するコース,片道に富山ライトレールを併用し還水公園と岩瀬地区を往復するコースなどがありました。
私は,中島閘門を通過するコースに乗船しました。
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中島閘門は,総延長約5.1キロメートルの富岩運河河口側より約3.1キロメートル上流にあり,上流側標高が約2.7メートル,下流側標高約0.2メートルで,その水位差が約2.5メートルあるので,長さ86メートルのパナマ運河方式の複扉室(ふくひしつ)閘門をつくって,それを調節するために,1934年(昭和9年)に,富岩運河の掘削と同時に竣工しました。

建設後は,運河上流部沿岸の工場などへ原材料や資材・製品の運搬をする船を通すことで富山の工業発展に寄与しましたが,輸送手段が陸上運輸に変わり,近燐に住宅地が増え環境への配慮が必要になったり,水質の悪化などにより周辺の工場の縮小や撤退が進み運河交通自体が衰退したため,使われなくなりました。
1979年(昭和54年)に,富岩運河を埋め立て道路を建設する計画がありましたが,1984年(昭和59年)に方向転換し,水辺を生かした街づくりを目指し整備することになりました。
老朽化した中島閘門は,1997年(平成9年)より扉体等の原形復元修理を行い,1998年(平成10年)に復元修理工事が完了し,「富岩運河水閘施設」として国の重要文化財に指定されました。
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このように,現在,中島閘門は富岩水上ラインによる観光用のものとなっています。そこで,私の乗ったコースは,風景を堪能するというより,中島閘門を体験するというものでした。
私は25年ほど前,シカゴのミシガン湖クルーズで同じような,しかも,ずっと規模が大きいものを体験したことがあるので,珍しいものではありませんでしたが,これはこれでおもしろかったです。

JR富山駅に戻ってきました。駅の近くに「インテック」という会社がありました。ここは,私が大学4年生のときに内定をもらったことがある会社です。結局縁はなかったのですが,懐かしさを感じました。ひょっとしたら,私は富山市に住むことになっていたのかもしれないなあ,と思うと,不思議が気がしました。これもまた,私の伏線回収でした。
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私がJR富山駅から乗るのは午後5時17分発の特急「ひだ」20号でした。
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特急「ひだ」は,名古屋駅 - 高山駅,あるいは,富山駅間,および,大阪駅 - 高山駅間を運行します。
1958年に名古屋駅 - 富山駅間を運転する準急列車として運転を開始し,高岡駅まで運転区間が延長され,1966年には急行列車に格上げされました。さらに,1968年から特急列車に変更され金沢駅まで運転区間を延長しましたが,1985年3月14日に飛騨古川駅 - 金沢駅が廃止されました。そして,JR発足後は,一部列車が富山駅まで運転されるようになりました。
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特急「ひだ」なんて誰が乗るのだろう,がらがらだろうと思っていたのですが,実際は,2010年代以降,インバウンドの急増で利用客も増えているということでした。今回も,乗客のほとんどは外国人でした。聞いてみると,イタリアから来た,とか,スペインから来た,とかで,ヨーロッパ人ばかりでした。彼らは,特急「ひだ」に乗って,高山をめざしているということでした。つまり,東京から北陸新幹線で金沢に行き,金沢から高山,そして,京都,広島に行くらしいのです。
列車は先日私が紀伊半島1周したときに乗ったのとおなじハイブリッド式の新型車HC85系でした。
私の座席は7号車の指定席でした。編成が7両もないのにどうして7号車かと乗務員の人に聞くと,高山で1号車から4号車までを接続するということでした。そんなに乗るか,と思ったのですが,実際,高山駅で多くの人が乗車してきました。
私はいつもの楽しみで車内で駅弁を食べようと思っていたのですが,JR富山駅には駅弁というものがなく,というか,駅弁という概念がないらしく,みやげ物売り場にあったお持ち帰り弁当を買いました。値段は,東京で駅弁を買うよりもずっと安くてびっくりしました。
特急「ひだ」で楽しく列車に揺られるうちに,岐阜駅に到着して,私は下車しました。
はじめての立山黒部アルペンルートの旅も,こうして終えることができました。

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【Summary】
I was recommended several tourist spots in Toyama, and for lunch, I found a sushi restaurant called "Naniwa Sushi" on the 7th floor of the Daiwa Department Store. Afterward, I walked to Fugan Canal Kansui Park to take a sightseeing boat but took a break due to the heat, discovering the Taki Rentarō Memorial. After cooling off, I continued walking and arrived at the park.

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私が富山市街の見どころとして観光案内所で紹介されたところはこれですべてでした。
ちょうどお昼になったので,富山といえばお寿司でしょう,ということで,どこかないかと探していたのですが,あいにくの土曜日,どこも混雑しているようで,なかなか見つかりませんでした。やっと見つけたのが富山市ガラス美術館の近くにあった大和百貨店7階の飲食店フロアにあるお寿司屋さんでした。名前を「浪花鮨」といいました。開放的な店舗内の中の真ん中にカウンター,そしてテーブル席が沢山囲んでいました。職人さんが寿司を握っていました。握りのコースをいただきました。

私は午後5時14分発の特急「ひだ」で帰るので,まだ時間がありました。
さて,この後どうしよう? と地図を見ると,JR富山駅の反対側(北側)に富岩(ふがん)運河環水公園があって,そこで,富岩水ラインという遊覧船に乗ることができることがわかりました。松川遊覧船に乗れなかったこともあって,ここで遊覧船に乗ることにしました。
ということだったのですが,富岩運河環水公園へ行く交通機関がありません。仕方がなく歩くことにしたのですが,あまりの暑さに,小休止することにしました。歩いていると,富山城の東端,松川遊覧船乗り場に喫茶のできる店を見つけたので,中に入って,かき氷を食べました。
このお店の中に滝廉太郎記念館がありました。
旅をしていると,意外なものに遭遇します。ここでもまた,なぜここに滝廉太郎? と思いました。
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23歳10か月という短い人生だった滝廉太郎は,小学校1年生の途中から3年生の途中までの約2年間を富山で過ごしたのです。
富山県尋常師範学校附属小学校は,富山城内の富山藩の藩校・広徳館の跡にあり,滝廉太郎の父・滝吉弘が富山県の書記官(今の副知事)に任ぜられ,非職になって富山の地を離れるまで,滝廉太郎は、この学校に通っていました。
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ということでした。

さて,少しだけ体が涼しくなって,気力が回復したので,私は歩きはじめました。
歩くこと約30分,鉄道の高架を越えました。JR富山駅の北側は再開発中のようで,広い道路や新しいビルが立ち並んでいました。さらに歩いていくと,スポーツ施設のあるコンプレックスがあり,それを過ぎると,やっと,富岩運河環水公園が見えてきました。

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【Summary】
I visited Toyama, starting at JR Toyama Station and touring the city. They explored Toyama Castle, learning its history as the residence of the Maeda family. Afterward, I visited a city observation tower and the Toyama Glass Art Museum, which showcases the city's glassmaking heritage. Lastly, I visited Ikedaya Yasubei Shoten, a traditional medicine shop, and saw a demonstration of Toyama’s famous medicine-peddling business, which started in the Edo period.

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富山地方鉄道の電鉄富山駅とJR富山駅は隣接していました。
JR富山駅もまた,それ以前の姿は知りませんが,北陸新幹線の開通に従ってリニューアルしたようで,立派な駅でした。
まず,コインロッカーに荷物を預けてから,いつものように観光案内所に行って,夕方までの見学コースを聞いて,地図をもらいました。私はまず富山城に行くことにしました。歩いても行くことができる距離でしたが,この日も暑かったので,観光案内所でのアルバイスによって,路面電車に乗りました。
おもしろかったのは,路面電車の乗り場が富山駅から吹き抜けでつながっていたことでした。つまり,電車が駅に突入するような感じです。
電車はアメリカの地方都市の路面電車のようでした。現在,再び,こうした路面電車が見直されているようで,階段で地下に降りたり地上にのぼったりする労力を考えると,地下鉄よりも路面電車のほうがずっと楽です。景色を楽しむこともできますし。
路面電車はけっこう混雑していました。国際会議場前駅が富山城の最寄りの駅ということだったので,そこで下車しました。

私は,富山藩のことも富山城のことも全く知りませんでした。富山城は単なる鉄筋コンクリートの建物で,実際は,郷土博物館でした。
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富山城は,神通川(現在の松川)の流れを城の防御に利用し,水に浮いたように見えたことから浮城といわれました。江戸時代は加賀前田家の分家であった越中前田家の居城でした。
時代をさかのぼって,戦国時代,富山城に拠点を構えた佐々成政は,本能寺の変ののち,羽柴秀吉と敵対し,1585年(天正13年)大軍に城を囲まれ降伏し,恩賞で越中三郡を得た前田家は,前田利長にこの地を任せました。関ケ原で東軍についた前田利長は,関ヶ原の戦い以後,富山城を再建し隠居城としました。
1639年(寛永16年)加賀藩の3代藩主・前田利常が次男の前田利次に10万石を与えて分家させ,富山藩が成立しました。そして,1661年(万治4年)に富山城を本格的に修復し,城下町を整え,それ以後,富山前田家13代の居城として明治維新まで続きましたが,1858年(安政5年)の飛越地震で富山城は被災しました。
明治維新後,富山城のあった場所は,様々に活用されていましたが,1933年(昭和8年)に富山城址が都市計画風致地区に指定され,1940年に富山公園として開園しました。そして,1954年(昭和29年)に富山城跡の敷地一帯で富山産業大博覧会が開催されたのに際して,鉄筋コンクリート構造による模擬天守が記念に建てられることとなり,1953年(昭和28年)に着工,翌1954年(昭和29年)に完成し,富山市郷土博物館として運営がはじまりました。
また,1961年(昭和36年)に城跡敷地内に佐藤美術館(のちの佐藤記念美術館)が開館しました。
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ということで,富山藩の歴史がよくわかりました。また,佐藤記念美術館にも行きました。
富山城の外堀に松川遊覧船があるとガイドブックにはあったので,楽しみにしていたのですが,堀の石垣が崩れていて,遊覧船は運休していました。

次に行ったのが富山市役所の展望塔でした。地上70メートルで,ここから富山市が一望できました。
確か,奈良県庁や静岡市役所,豊橋市役所にも展望台があって,上ったことがあります。アメリカでも,こうした展望台はいろいろなところにあって,街全体が見渡せるので,なかなかいいものです。
ただし,富山市街には特に見るべきものはありませんでした。おそらく,立山が雪を被った時期であれば,美しい景色をみることができたことでしょう。
富山市街で,このほかに人気の観光施設として,富山市ガラス美術館を勧められたので,興味がなかったのですが,とにかく行って見ることにしました。
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富山の売薬で知られる富山市は,明治以降,薬のガラス瓶工場が相次ぎ操業しました。
太平洋戦争後に廃れたガラス産業を再興しようと,富山市民大学ガラス工芸コースや富山市立富山ガラス造形研究所を開設したり,富山ガラス工房を整備したりしました。
2001年(平成13年)に策定したガラス美術館基本構想によって,2005年(平成17年)3月に富山市民プラザにトヤマグラスアートギャラリーを開設,さらに,松川べりや市内中心部の道路脇などに県内外のガラス作家の作品を展示してきました。
そして,「ガラスの街とやま」を目指したまちづくりの集大成として,2015年(平成27年)にTOYAMAキラリ内に富山市ガラス美術館が開館しました。
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TOYAMAキラリにはすばらしい図書館もありました。

最後に,これもまた,観光案内所で勧められた池田屋安兵衛商店に行きました。池田屋安兵衛商店は,昔ながらの座売りを行っている薬種問屋で,2階は薬膳料理を出す食堂もありました。
薬を丸める実演をしてもらいました。
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富山の売薬は,富山藩2代藩主・前田正甫が江戸城で急病になった大名を薬で救ったことをきっかけにはじまり,江戸時代中期以降に全国的に広まった商法です。
まず薬を消費者の家庭に預け置き,次回の訪問時に使われた分の薬代を集金し,さらに薬を補充するという「先用後利」(せんようこうり)という販売システムです。
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私の子供のころ,母親の実家には,富山の薬売りがやってきました。おまけに紙のふうせんをもらいました。こうした薬売りは今もほそぼそと存在しているようです。

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【Summary】
On September 7, 2024, I traveled the Tateyama Kurobe Alpine Route, a trip I had long been curious about. Despite concerns over typhoon-related delays, I was able to secure a reservation, discovering that early September is a good time to go if weather forecasts are favorable. Although it wasn't peak season, it was still unexpectedly crowded. I traveled from Tateyama Station to Toyama and planned to return via the express train "Hida." The Toyama Chihou Railway, while quiet early in the morning, became busy as the day progressed.

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3日目。2024年9月7日土曜日。
今日は,立山駅から富山地方鉄道で電鉄富山駅に行き,富山で観光して,夕方の特急「ひだ」に乗って帰ります。2日目に帰宅することもできたのでしょうが,ゆとりがあったほうがいいし,富山に行ったこともなかったし,特急「ひだ」に乗ってみたかったので,こうした日程にしました。
今回は,ずっと気になっていた立山黒部アルペンルートが,どこにあって,どのようにしてまわるのか,そして,どのくらい混雑しているのか,といったことを知りたくて,試行錯誤をしながら旅に出ました。台風が来たので直前まで日程の調整がたいへんでしたが,とてもよい旅をすることができました。台風のおかげで日程を変更したりといった結果,9月のはじめのころなら,天気予報で晴れということが予想されるときになって,直前に旅館を予約しても空きがある,ということもわかったので,次に来るときは,慌てず,まず,天気予報から晴れる可能性の高い日に行くことを決めればいいということを知りました。ただし,9月のはじめであっても,立山黒部アルペンルートは,ハイシーズンのように,予想以上に混雑していました。


私の宿泊した旅館「千寿荘」にはおいしい朝食がついていました。立山駅から電鉄富山駅まで行く富山地方鉄道は,1時間に1本程度,ということだったので,午前7時21分発に乗ることにして,朝食後,早々にチェックアウトしました。
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富山電気鉄道は,富山県東部を基盤とする中規模私鉄で,1943年に,富山県内のすべての私営,公営の鉄軌道,バス会社を合併して発足しました。富山市内を走る電車やバスも含まれますが,巨額の赤字をかかえているようです。
なお,立山黒部アルペンルートは,立山黒部貫光という会社が行っています。
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こんな早い時間に立山駅から電鉄富山駅に行く人はほとんどいないと思いましたが,私が思った通りでした。電車を待っていたのはわずか3人でした。

立山駅に電車がやってきました。
電車は,この日に立山黒部アルペンルートを縦断する人で満員でした。そうした人たちが東京のラッシュアワーのように,続々と電車から降りてホームを出て行ったのですが,駅には駅員のひとりもおらず,電車の運転手さんひとりで,すべてをさばいていました。切符を買わずに途中の無人駅から乗った人たちは降りる時点で運賃を払うのですが,お釣りの必要な人がけっこういて,運転手さんは大忙しでした。私は,事前に運賃がいくらかははわかるから,手間のかからないように,どうしてお釣りのないように準備しておかないのかな,と思いました。
やっとすべての乗客が降りると,運転手さんは,今度は,出発の準備に大忙しでした。
やっと乗車できるようになりました。私は,あらかじめネットで予約した立山黒部アルペンルート通しチケットとして,長野県側の扇平駅から電鉄富山駅までの通し切符をもっていたので,それだけですべての交通機関に乗ることができたので,とても便利でした。すでに書きましたが,事前にネットで予約してあったので,扇平駅で切符を購入するためにで長い列に並ぶ必要もありませんでした。

富山電気鉄道は大井川鐡道とよく似ていました。多くの種類の車両が運用されていて,中には,京阪電鉄や西武鉄道から払い下げもあるようでした。鉄道好きにはたまらないことでしょう。また,車窓からの風景も大井川鐡道のそれと似ていました。
途中の寺田駅で,宇奈月温泉駅へ向かうダブルデッカーエキスプレスとすれ違いました。この日は土曜日,ということもあってか,車内は満員でした。おそらく,乗客のほとんどは,宇奈月温泉駅からトロッコ列車に乗る観光客なのでしょう。私は,黒部渓谷のトロッコ列車には乗ったことはないのですが,黒部の様子はよくわかったので,来年には空いている時期を選んで乗ってみようと思いました。
やがて,電車は富山市内に入り,乗客も増えてきました。そして,電鉄富山駅に到着しました。

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【Summary】
After exploring Bijodaira and enjoying the rooftop view at the station, I took a crowded cable car down. The Tateyama Kurobe Alpine Route, developed over 20 years from 1952, offers various transport modes like electric buses and cable cars. After arriving at Tateyama Station, I checked into Senjusou Inn, where the onsen and meals were exceptional, making me want to stay even without visiting the Alpine Route.

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美女平の散策コースを楽しんで,美女平駅に戻ってきました。駅の屋上に展望台があったので,そこでしばらく景色を楽しみました。眼下に立山の町が見えました。
あとはケーブルカーに乗るだけでしたが,このケーブルカーが混雑していましたが,わずか7分で標高475メートルまで下ります。それにしても,立山黒部アルペンルートは,電気バス,ケーブルカー,ロープウェイ,トロリーバス,高原バス,ケーブルカーという様々な乗り物で横断するわけですが,これらがどういった経緯でできてきたのかが私には興味がありました。
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●立山駅-美女平
1952年12月にケーブルカーの建設がはじまり,1954年8月に開通しました。同時に,富山市内から立山駅まで電車の延伸工事が行われました。
●美女平-室堂
山岳道路の建設は,1953年に着工し,まず,弘法まで。そして,弥陀ヶ原,天狗平と伸び,1964年6月に室堂まで開通しました。
●扇沢-黒部湖
黒部ダムを建設するため1958年2月に完成した関電トンネルを利用して,1964年にトロリーバスが営業を開始しました。
●黒部湖-室堂
当初,全線自動車道路とする計画でしたが,不可能とされ,最終的に,現在の形となりました。
〇黒部湖-黒部平
1966年3月にケーブルカーの建設が開始され,1969年7月に開通しました。
〇黒部平-大観峰
1970年7月にロープウェイの営業が開始されました。
〇大観峰-室堂
1966年にはじまった立山トンネルの掘削工事は1969年12月に貫通,1971年4月に立山トンネルバスが営業を開始しました。
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こうして,1971年6月に立山高原バス道路の除雪完了で,1952年に立山ケーブルカーの工事開始から20年,立山黒部アルペンルートが全線開通しました。
立山黒部アルペンルートは4月15日から11月30日までの間,運行されます。最も空いているのは,紅葉シーズンの終わった11月の下旬だそうですが,それにしても,現在は混雑しすぎ。将来は入山制限が行われるように感じます。

午後5時前,立山駅に着きました。ほとんどの人は,ここから富山地方鉄道に乗り継ぐか,観光バス,あるいは,マイカーで,家路を急ぎます。私は,立山駅前の旅館「千寿荘」に泊まるので,チェックインをしました。
迷走台風のおかげで,予約を変更したりキャンセルしたりを繰り返しましたが,ついにやってくることができました。温泉も気持ちがよく,食事もすばらしく,立山黒部アルペンルートぬきに,この旅館でゆっくりしたいものだと思ったほどでした。

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【Summary】
I expected it to be cool in the Tateyama mountain area, but despite it being September, it was very hot when I explored Murodo and the Midagahara wetlands. After a sweaty hike, I rested at the Midagahara Hotel before boarding a bus to Bijodaira, where I explored a scenic trail filled with ancient Tateyama cedars. I walked along muddy paths due to the recent rain, and the forest offered beautiful and unique cedar trees.

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2024年,私が経験した最も暑い夏もすでに9月。さすがに立山なら涼しいだろうと期待したのですが,弥陀ヶ原湿原はとても暑く,1時間程度の散策で汗をかきました。バスが来る時間まで弥陀ヶ原ホテルのロビーでシュークリームを食べながら休憩しました。午前中あれだけ天気がよかったのに,曇ってきました。これは当然のことで,山の天気は午前中はよくても午後は曇ります。
バスがやってきました。直接美女平(びじょだいら)駅に行く人はノンストップで行くから,弥陀ヶ原駅では結構な人が降りました。私はここでバスに乗り込みました。

立山黒部アルペンルートの最高地点である室堂の標高は2,450メートル,弥陀ヶ原の標高は1,930メートルですが,この先の美女平は977メートルです。弥陀ヶ原駅から美女平駅までは30分程度の乗車でした。
途中,車窓から称名滝を見ることができて,バスも見やすいようにと一旦停車しました。
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称名滝は,落差は350メートルと日本一の規模を誇る4段構成の滝で,1段目が70メートル,2段目が58メートル,3段目が96メートル,4段目が126メートル,滝つぼの直径は60メートル,深さは約6メートルあります。
称名滝の名前は,法然が滝の轟音を「南無阿弥陀仏」という称名念仏の声と聞いたことに由来すると伝えられています。
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美女平という名前は,女人禁制の立山へ登ろうとした女が神の怒りに触れて1本の杉に化したという伝説によるそうです。美女平駅はケーブルカーのターミナル駅ですが,その杉がターミナルの端にありました。
ここでケーブルカーの乗り込んで立山駅まで行くので,バスを降りたほとんどの人は,次から次へとケーブルカーに乗るために列に並んでいきます。大量な団体ツアー客もいました。ツアーの多くは外国人対象のもので,立山黒部アルペンルートを歩いていたときには目にしなかったのですが,こんなに多くの外国人がいるとは思いませんでした。
時間はまだ午後3時過ぎで,帰宅ラッシュの時間だったのです。この時間であれば,今日中にツアーを終えることができるからでしょう。
私は,立山駅近くの旅館泊まることになっているので,夕食に間に合えばいいから,ずいぶん時間がありました。そこで,美女平の散策路を歩いてみることにしました。

美女平には樹齢1,000年以上のタテヤマスギや樹齢数百年のブナの原生林が広がる散策路があるのです。
コースは、美女平駅から不老樹やおんば杉などのタテヤマスギの巨木に出会える所要時間1時間の2キロメートルコース,火炎杉と根曲がり杉を巡る所要時間2時間の3キロメートルコース,そして,ブナの原生林も散策できる所要時間2時間30分,4キロメートルのコースがありました。私は3キロメートルのコースを歩くことにしました。
美女平駅から車道を少し上ると,森に入るところがありました。こんなところがコースの入口か,と思ったほど急坂の狭い道でした。
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森の中は,歩きやすく散策道が整備されており,気軽に森林浴や野鳥観察,自然観察などを楽しむことができます。
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とあったのですが,さにあらず,数日前の大雨で散策路にはぬかるみがあり,コースがわかりにくい場所もあって,けっこう大変でした。しかし,多くの変わった杉の木を見ることができました。

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【Summary】
This passage describes a journey along the Tateyama Kurobe Alpine Route from Murodo Station to Bijodaira, with a stop at Midagahara, a high-altitude wetland known for its natural beauty and tranquility. Despite the many tourists at Murodo, Midagahara is quiet, allowing for a peaceful experience amidst diverse flora and stunning landscapes.

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室堂駅からは立山高原バスで美女平駅まで行き,美女平駅から立山ケーブルカーで立山駅まで,これで,立山黒部アルペンルートが終わりとなります。また,美女平駅から立山駅までは,遠回りになりますが,道路もあって,マイカーは乗り入れ禁止ですが,富山駅から室堂駅まで直行するバスがあるということなので,ハイシーズンでもそのバスを利用すれば室堂まで容易に行くことができるようです。

室堂駅から美女平駅までの途中に,弥陀ヶ原(みだがはら)というところがあります。弥陀ヶ原には湿原があって,せっかく来たので,私は弥陀ヶ原にも寄ることにしました。
室堂駅のバスターミナルでは,直接ノンストップで美女平駅まで行くバスと,天狗平駅,弥陀ヶ原駅に停車するバスのふたつがありました。ほとんどの観光客は,ノンストップで美女平駅に向かうようでした。このころ,私はやっとわかってきたのですが,立山黒部アルペンルートというのは,ほとんどの人が室堂へ行くのが目的であるようでした。それなら,私とは目的が異なりました。
ノンストップで美女平駅に行くバスが出発したのち,私の乗った弥陀ヶ原駅に停まるバスが出発しました。ここからの道路は,立山有料道路ですが,乗り物自体は,電気バスなどではなく,単なる観光バスでした。すばらしい景色が続いていました。
室堂から弥陀ヶ原に至る道路が,有名な,春先に雪の大谷となる場所ということでした。あとで弥陀ヶ原にいたガイドさんに聞いてみると,その時期の観光客は中国人ばかり,なのだそうです。

やがて,弥陀ヶ原駅に着いて,下車しました。下車したのは7,8人程度でした。次に,弥陀ヶ原駅から美女平駅に行くバスは予約制ということで,下車した時点で予約する必要がありました。弥陀ヶ原湿原は1時間程度で散策できるということだったので,それを考慮して,次に乗るバスを予約しました。
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2012年(平成24年)に弥陀ヶ原の北にある大日平と共にラムサール条約に登録された弥陀ヶ原は,標高1,600メートルから2,000メートル。立山の麓から常願寺川の支流である称名川(しょうみょうがわ)の左岸にかけて,東西4キロメートル,南北2キロメートルに広がる高原で,立山火山の活動で形成された火砕流台地です。

  ・・・・・・
弥陀ヶ原は,11月から7月まで雪に覆われるということですが,この時期に来た私には想像ができませんでした。また,秋には周辺の山々とも合わさった紅葉の風景が見られるということなので,さぞかし美しいのでしょう。

私が歩いたこの季節は,川が流れ,池塘(ちとう)が数多く存在する高原湿地となる場所でした。
  ・・・・・・
湿原が形成される過程で堆積した泥炭層の隙間が水で涵養された部分ができます。これが池塘です。塘は池沼の堤という意味です。要するに,水たまりです。弥陀ヶ原では,池塘を,餓鬼が飢えをしのぐために作られた田に見立てて,餓鬼田(がきだ)とよばれます。
  ・・・・・・
弥陀ヶ原湿原には,多種の高山植物や多くの昆虫を見ることができました。詳しい人には興味深いとろこでしょう。
私は,つい先日,尾瀬ヶ原に行ってきたばかりなので,弥陀ヶ原湿原にはほとんど興味を抱かなかなったのですが,あれだけ多くの観光客のいた室堂とは全く異なり,ほとんど人がいないことには感動しました。人のいない自然はこころ和みます。次のバスの時間さえ決まっていなければ,もっとゆっくりしたいものでした。

弥陀ヶ原には弥陀ヶ原ホテルと,国民宿舎展望立山荘という宿泊施設もあって,ここに宿泊してゆったりするのも悪くないと思いました。また,さぞかし,こうしたところな夜になると真っ暗で,満天の星が見られるだろう,とも思いました。
しかし,私の持っているガイドブック「るるぶ情報版・立山黒部アルペンルート」には,国民宿舎展望立山荘からの富山の夜景の写真が載っていて,それがあまりに輝いていました。多くの人には百万ドルの夜景なのかもしれませんが,私にはがっかりでした。

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【Summary】
I visited the Tateyama Kurobe Alpine Route with the primary goal of seeing the Kurobe Dam but was surprised by the number of hikers. They strolled around Mikurigaike from Murodo and visited the old Oyama Shrine. While not deeply moved by the scenic views, they were blessed with great weather. For lunch, they leisurely enjoyed a katsu curry at "Restaurant Tateyama."

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立山黒部アルペンルートというところがどういうところなのか,そして,黒部ダムが見たい,というだけの動機でやって来た私は,多くの人が登山の恰好をしていたのに驚きました。かくいう私は,どこに行くにも同じ格好でした。
室堂まで来ました。ここが標高2,450メートルの立山黒部アルペンルートの最高地点ということでした。来るまでそんなことさえ知りませんでした。登山姿の人たちは,ここから標高3,003メートル立山連峰の名峰であり,山岳信仰の聖地である雄山(おやま)への登頂をめざしているということでした。
私は,だれでも行くことができるみくりが池のまわりをまわることにしました。
散策道は,ほぼ4キロメートルで,少しだけ上りがあるのですが,ほとんどは平坦でした。何度も書きますが,すばらしい天気で,しかも風もなく,最高でした。もっと寒いと思って,防寒着を持ってきたのですが,まったく必要がなく,半そでで十分でした。

  ・・・・・・
みくりが池は,国土地理院の地形図にはは片仮名でミクリガ池と表記されています。
室堂で最大・最深の池で,面積は約30,000平方メートル,深さは15メートル,池の周囲の長さは631メートルです。近くには,日本最高所の温泉宿であるみくりが池温泉があります。
火口湖で,周辺にはミドリガ池やリンドウ池,血の池などの火口湖群が点在します。
ミクリという名は御厨と書き,神の厨房という意です。
  ・・・・・・
こんなことを書くと顰蹙を買いますが,私は,こうした風景は,アメリカの国立公園やニュージーランドのマウントクックでたくさん見てきたし,歳をとって感動がうすれてきたので,極上の風景に出会っても,さほど感動することもなく,ああ,こういうところなのか,と思ったくらいでした。ぜいたくな話です。
2022年5月18日に,蔵王のお釜へ行きました。このときも快晴でしたが,後で知ったことには,蔵王のお釜もまた,なかなか見ることができないそうです。私はいつも運に恵まれています。

散策道を歩いて,室堂ターミナルに戻ってきました。
雄山頂上には雄山神社がありますが,そこまで行かずとも,雄山神社の旧社殿が室堂ターミナルの屋上階に復元されているので,雄山に登らずとも,社を参拝することができるのです。
  ・・・・・・
旧社殿は総欅造りで重量は約7トン。1860年(万延元年)に加賀藩によって造られ,その後135年間厳しい自然環境の中に存在していました。現在,山頂にあるのは,1996年(平成8年)に再建されたものです。旧社殿は解体されて立山町の岩峅寺(いわくらじ=地名)にある雄山神社前立社壇(まえだてしゃだん)に保管されていたのですが,(平成24年)に室堂ターミナルに復元しました。
  ・・・・・・
不思議なことに,あれだけ登山者がいても,こういうところは,ほとんどの人が来ないのです。不思議な話です。

旧社殿のある屋上階にのぼる階段の中ごろに,立山開山伝説に関する資料と白鷹を左手に持ち立山を指さす痩せ気味の佐伯有頼(ありより)少年像のレプリカがありました。
佐伯有頼少年像の本物は富山市の南北500メートル,東西1キロメートルの呉羽山公園のほぼ中央に立山が見える展望台にあります。佐伯有頼は,676年(天武天皇5年)から759年(天平宝字3年)にかけての伝説上の人物です。
  ・・・・・・
佐伯有頼が父の大切な白鷹を無断で持ち出し狩りにでかけたところ,白鷹に導かれて美しい高原にたどり着きました。そのとき出会った阿弥陀如来に立山の開山を告げられ,文武天皇に報告すると,深く感激し勅命により立山を霊域として開山したということです。
  ・・・・・・
さて,午前11時を過ぎました。こんなに人がいては,昼食を食べることができるか心配だったので,早めに食事をとることにしました。室堂ターミナルに「レストラン立山」がありました。ほとんど人がおらず,驚きました。アルペンカツカレーなるものをのんびりと食べました。
食べおわるころに,ここでもまた,旅物語,クラブツーリズムといった団体ツアー客の御一行様がやってきて,混雑がはじまりました。

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【Summary】
The trolleybus from Daikanbo to Murodo passes through the Tateyama Tunnel and was converted from diesel buses in 1996 for environmental protection. It is scheduled to be discontinued in 2024 and replaced by electric buses, making it the last trolleybus in Japan. I was able to ride it in its final year.

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大観峰テラスで絶景を楽しんで,さあ,次が黒部アルペンルートの最高地点室堂になります。
大観峰駅から室堂駅までは天井にある架線から電力を供給されて走っているトロリーバス(無軌条電車線)となり,標高3,003メートルの雄山直下を貫通する長さ3.7キロメートルの立山トンネルを10分で通過します。大観峰駅の標高は2,316メートル,室堂駅の標高は2,450メートルなので,ほぼ同じ高さです。
なお,立山という山はなく,標高3,003メートルの雄山(おやま),標高3,015メートルの大汝山(おおなんじやま),標高2,999メートルの富士ノ折立(ふじのおりたて)の3つの山を合わせて立山といいます。あるいは,雄山のみを立山とすることもあります。

1971年の開業当初はディーゼルバスにより運行されていましたが,観光客の増加による増便に伴ってトンネル内に排気ガスが滞留するようになり,環境保護のため1996年にトロリーバスへ転換しました。また,2018年12月に扇沢駅と黒部ダム駅間のトロリーバスが電気バスへ転換されたことにより,現存する日本で唯一のトロリーバス路線でした。
しかし,修理用部品の調達が難しくなり,立山トンネルトロリーバスも,2024年12月1日を以って廃止され,翌2025年4月に電気バスへ転換される予定ということです。これにより,日本におけるトロリーバスは全廃される見通しとなりました。
私はそんなことも知らず立山黒部アルペンルートに来たのですが,これは幸運なことだったのか。最後の年にトロリーバスに乗ることができました。
とはいえ,アメリカではけっこうトロリーバスというのは走っていて,私には珍しいものでもなかったのですが…。

さて,けっこう込み合っていたトロリーバスですが,いよいよ室堂駅に到着しました。
室堂駅は一大ターミナルで,人がごった返していました。ターミナルから外に出ると,それは雄大な景色が飛び込んできました。何度も来ている人でも,こんなすばらしい景色ははじめてと言っていました。

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【Summary】
I traveled from Kurobedaira to Daikanbo Station via the Tateyama Ropeway and enjoyed the beautiful scenery. On clear days, breathtaking views of the Oku-Tateyama mountain range and Kurobe Lake unfold. The ropeway's one-span system is a rarity in Japan.

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黒部平は標高1,828メートル,次の大観峰は標高2,316メートルで,この間は谷なので,黒部平駅から大観峰駅までは立山ロープウェイで結ばれています。
立山ロープウェイは,全長1,638メートル。途中に支柱が1本も設けられていないワンスパン方式を採用しているというのがウリだそうです。ワンスパン方式を採用しているのは、日本では立山ロープウェイとガーラ湯沢スキー場にある「ランドー」だけということです。立山ロープウェイの着工は1968年(昭和43年),営業開始は1970年(昭和45年)ということだけはわかったのですが,それ以外の情報がありません。いろいろ調べても,ワンスパン方式ということだけが書かれていて,どういう経緯で作られたとか,作られたときの様子が書かれたものがないのです。

さて,黒部平での展望を楽しんだあと,立山ロープウエイに乗り込みました。
私ははじめて来たので,それぞれの場所でそのよさを楽しみながら進んでいるのですが,何度も来ている人は,あるいは,団体ツアー客は,こうした場所は単なる通過点のようで,先へ先へと行ってしまうので,黒部平あたりは,人もほとんどおらず,扇平駅の混雑は何だったんだ,みんなどこへ行ってしまったんだ,と思いました。
さすがに動く展望台といわれるだけあって,立山ロープウェイからの展望はすばらしいものでした。おそらく紅葉の時期は絶品なのでしょう。
わずか7分で,標高差500メートルを登り,大観峰駅に到着しました。

大観峰駅から次の室堂駅までトロリーバスに乗り継ぎますが,私は,ここでもまた,しばらく展望を楽しむことにしました。
大観峰駅の屋上にあるのが大観峰雲上テラスです。黒部平パノラマテラス同様,テーブルと椅子が置かれていました。眼下に見えるのがタンボ平や黒部湖,その反対側にそびえるのが奥立山連峰です。何といっても,この日は快晴なのです。こんなすばらしい景色が見られたのは幸運なことだったのでしょう。

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【Summary】
After walking along the Kurobe Dam embankment, I arrived at the quiet Kurobe Lake Station. Taking the Kurobe Cable Car, I reached Kurobe-Daira Station at an elevation of 1,828 meters, where I found a restaurant that was not yet open. While many people hurried to Daikanbo Station, I enjoyed the beautiful scenery of the Northern Alps on the "Panorama Terrace" under clear skies. I appreciated the grandeur of the mountains and could see the ropeway heading toward Daikanbo.

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次の黒部湖駅まで黒部ダム堰堤を歩きました。混雑していた扇沢駅にいた人たちはどこに行ってしまったのか,というほど,誰もいなくなりました。黒部ダム堰堤を越えるとトンネルになっていて,そこが黒部湖駅でした。ここもまた列ができていましたが,ここから乗る黒部ケーブルカーはどんどんと並んでいた人を載せて出発していくので,ストレスはありませんでした。
標高差約400メートル,最大勾配31度の急斜面を走る黒部ケーブルカーは,雪害を防止するため全区間が地下トンネルを通っています。トンネルの中間地点で2台のケーブルカーがすれ違うようになっています。

5分ほどで黒部平駅に到着しました。標高1,828メートルまで来ました。
黒部平駅の白い建物の中にはレストランなどもあって雪の大谷をイメージした黒部平オリジナルメニューの「雪の大谷カレー」や「立山ブラックソフト」などが食べられるということですが,まだ早いので営業していませんでした。多くの人は,というより,ほとんどの人は,ここでとどまることなく,次の大観峰駅まで行く立山ローブ-ウェイの乗り場に急ぎました。
黒部ダムも黒部平も人の流れについていくと,どこも見ないで室堂まで行ってしまいます。そうなのです,ほとんどの人がめざしているのは,立山黒部アルペンルート最高地点の室堂だったのです。私はここでそれを知りました。私は,立山黒部アルペンルート全体を知りたくてやって来たので,どの地点も観光したいのです。そこで,黒部平駅でも踏みとどまり,景観が楽しめる「パノラマテラス」に登りました。

「パノラマテラス」から眺める景色は,それはそれはすばらしいものでした。何といっても,この日は快晴なのです。
遠くに見える北アルプスの山々は,左から,標高2,814メートルの五竜岳,標高2,539メートルの牛首山,標高2,889メートルの鹿島槍ヶ岳,標高2,688メートルの布引山,標高2,841メートルの鳴沢岳,標高2,678メートルの赤沢岳,標高2,762メートルのスバリ岳,標高2,821メートルの鉢ノ木岳でした,どれも2,500メートルを超える堂々としたもので,きっと山好きな人にはたまらなく魅力的な風景でしょう。

晴天に感謝でした。
また,反対方向に目をやれば,これから目指す立山連峰の大観峰にむかう立山ロープウェイが見えました。

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扇沢駅から黒部ダム駅までを結ぶ電気バスは,黒部ダムが建設されるときに資材運搬用に造られたトンネルを利用して運用しているということです。電気バスを降りると,その先は,右手と左手に長い階段がありました。どちらに行くかという情報は,電気バスの中にあったモニターで紹介されていたのですが,行ってみないことには実感がわきませんでした。
左手は立山方向,右手は黒部ダム展望台方向という案内標示がありました。要するに,黒部ダムは,一望できる展望台があって,その後,展望台から降りて,ダム堤防に沿って対岸の黒部湖駅に行くと,次の黒部平駅までのケーブルカーに乗ることができるわけで,左手に進むと,展望台はスキップして,すぐに黒部ダム堰堤に出ることができるようになっていました。

私は,立山黒部アルペンルートで,まず見たかったのが黒部ダムだったので,ここを見逃してはいけません。そこで,右手に進みました。黒部ダム駅から展望台までは220段の地中階段を登る必要がありました。登り終えると,標高1,508メートルの展望台から,黒部ダムの観光放水はもちろん,立山連峰をはじめとする、北アルプスの大パノラマも楽しめました。
私は,2018年にアメリカのグレンキャニオンダムに行ったことがあります。そのときのブログに
  ・・・・・・
グレンキャニオンダムは想像を絶する巨大なダムでした。堤高216メートル,堤幅475メートルで,黒部ダムがそれぞれ186メートル,492メートルなので同程度です。しかし,山の中にある黒部ダムとちがって,大平原にこんなものが忽然とそびえてしまっていると,恐ろしさとスケール観に圧倒されます。
  ・・・・・・
と書いたように,すでに,このスケールのダムは見たことがあるので,特にすごい! というような感動はもちませんでした。ただ,行ってみたい,と思っていたその達成感はありました。

  ・・・・・・
黒部ダムは黒四ダムともよばれる関西電力の水力発電専用のダムです。1956年(昭和31年)に着工し,171人の殉職者を出し7年の歳月をかけて,1961年(昭和36年)に送電を開始し,1963年(昭和38年)に完成しました。
標高は1,454メートルで,ダム右岸の取水口から山中に掘られた導水路を通って,約10キロメートル下流の地下に建設された黒部川第四発電所に送られて,ダムとの545.5メートルの落差で発電します。
  ・・・・・・
私は,発電のために,これだけ多くの犠牲者と困難な工事をしてまでダムを作った意味がよくわかりませんでした。調べてみると
  ・・・・・・
第2次世界大戦後の復興期,関西地方は深刻な電力不足により,復興の遅れと慢性的な計画停電が続き,停電による多数の死亡事故などが深刻な社会問題となっていました。決定的な打開策として,大正時代から過酷な自然に阻まれ何度も失敗を繰り返した黒部峡谷での水力発電以外に選択肢を見出せず,その秘境の地でのダム建設案に,当時の太田垣社長は「黒部しかない」「関西の消費電力を一気に賄える」「工期7年,遅れれば関西の電力は破綻する」と決断したものです。
完成当時,電力需要における京都府の80パーセントと大阪府の20パーセントを賄うことができました。
  ・・・・・・
とありました。
黒部ダムによって,総貯水量2億トンの北陸地方屈指の人造湖「黒部湖」が形成されました。

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2日目。2024年9月6日金曜日。
午後7時に寝たので,午前3時過ぎに起きました。絶対に快晴という確信がありました。七倉荘は自由に屋上に上がることができるので,屋上に出てみました。やはり満天の星空でした。
部屋に戻って,二度寝をしたあと簡単な朝食をとって,チェックアウトをしました。
この日は,午前7時30分に扇沢駅から電気バスに乗ることになっていました。立山黒部アルペンルートのWebチケットでは,最初に乗る扇沢駅出発の電気バスだけは時間を決めて予約することになっているのです。その後の交通機関は,時間を決めず,自由に乘ることができます。こうして,はじめに乗る人数を決めることで,一度に多くの観光客でごった返すのを制御しているのでしょう。

午前7時30分に間に合うためには,信濃大町午前6時15分発の始発のバスに乗る必要があります。
旅館を出て,バス停に向かったのですが,晴れているとばかり思っていたのに,霧でほとんど何も見えず,びっくりしました。とはいえ,朝霧は晴れる,といいます。この日の天気がいいとさらに確信しました。
  ・・
バスは,思ったより多くの人が乗り込みましたが,混雑しているというほどではありませんでした。
バスははじめのうちは大町の住宅街を走っていったのですが,やがて,結構険しい山の中を上っていき,40分ほどで扇沢駅へ到着しました。
扇沢駅は大きなターミナルになっていて,周辺には広い駐車場がありましたが,すでに満車状態で,停めることができなかった多くの車が道路に沿って,ちょっとした空きスペースを見つけては駐車をしようと苦労していました。私のように,扇沢駅から立山駅まで,立山黒部アルペンルートを縦断する人は車で来ることはできないから,扇沢駅まで車で途中で引き返すのでしょう。
ちなみに,扇沢駅から立山駅まで車を回送してもらうことはできますが,3万円程度必要ということです。
  ・・
平日にもかかわらず,こんなに早い時間に,すでに,黒部アルペンルートの乗車券を買うための長い列ができていて,思った以上の混雑に,私はこの時点でいやになりました。想像していた以上に立山黒部アルペンルートはとんでもないところだと思いました。
しかし,私は,すでにWebチケットが予約してあったので,だれも並んでいなかった発券機にQRコードをかざすだけで簡単にチケットを手に入れることができました。そこで,並んでいる人たちが哀れに思えました。立山黒部アルペンルートは,Webチケットを手に入れてから行くべきところです。

こうして簡単にチケットを手に入れることができました。そのままターミナルビルに入って,電気バスに乗るための列に並びました。列は6列あって,まだ電気バスの出発には30分以上もあったのですが,すでに,列ができていました。しかし,この時間は,さすがに団体ツアー客はいませんでした。
列に並んでいると,弁当売りがやってきて,盛んに冗談を言いながら弁当を販売していたので,それを聞いているだけで退屈しませんでした。とはいえ,ここで弁当を買ったらさらに荷物が増えます。また,食べ終わった後のゴミも持ち帰らなければならないので,私は買うのをためらいました。しかし,こんなに多くの人が行くのでは,昼食は大丈夫なのかな? と心配になりました。
なお,弁当は即刻売り切れました。
やがて,時間になって,電気バスに乗り込みました。バスは何台も連なっていて,車内はそれほど混雑もせず,思ったほど大変でもなく,わずか15分程度で,はじめの目的地である黒部ダム駅に到着しました。
さあ,いよいよ旅のはじまりです。

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今回の旅で,信濃大町駅は通過点に過ぎませんでした。しかし,翌日2024年9月6日の早朝6時15分発のバスで信濃大町駅前から扇沢駅まで行くために,この町に宿泊することになりました。
寝られればいいや,ということで,駅に近い七倉荘という旅館を見つけて予約を入れました。ここは素泊まりで,風呂もトイレも共同といいうところでした。別段,特筆すべきものはないのですが,部屋がタバコ臭いのにはまいりました。信濃大町駅前にルートインがあったので,そちらにすべきでした。

さて,食事がついていないので,どこかで夕食を取らなければなりません。そこで,チェックインを済ませて,さっそく,町に出ました。近くにスーパーマーケットはあったのですが,大型ショッピングモールがないためか,駅前のアーケード街は未だ健在で,シャッタ街ではありませんでした。
暇に任せて歩いていたら,古民家を見つけました。「塩の道ちょうじや」という公開施設でした。
  ・・・・・・
「塩の道ちょうじや」では,日本海側の糸魚川から松本方面へ塩を運んだ千国街道,通称「塩の道」とよばれるこの街道の歴史と人々の暮らしを紹介しています。江戸時代の庄屋で塩問屋を営んだ平林家の建物を利用した館内に,当時の牛方や歩荷の運搬道具,旅装や弁当箱,沿線住民の生活道具,古文書などを展示しています。
  ・・・・・・
ということで,私にはとても興味深いところでした。
また,「塩の道ちょうじや」には,流鏑馬会館が併設されていました。流鏑馬会館では,大町市の夏の風物詩である若一王子神社例祭や流鏑馬について紹介していました。大町の流鏑馬というのは射手が少年という全国的にも珍しく貴重な行事ということです。

特に何もない町でしたが,私は好感をもちました。
さて,夕食です。しかし,なかなか店が見つかりません。ここなら,という店はこの日がお休みだったし,それ以外には飲み屋さんがほとんどでした。めんどうになったことと,翌日の朝食を買う必要があったので,スーパーマーケットに行きました。
ここで思い出したのが,コロナ禍以前,よく海外に行っていたころ,レストランで食事をするのがめんどうになると,その町にあるスーパーマーケットに行って弁当,といっても海外ではパック寿司くらいしかないのですが,を買っていたのと同じだな,ということでした。
スーパーマーケットにフードコートでもあるかな,と淡い期待もあったのですが,まったくそれらしきところが存在せず,夕食のお弁当と,翌日の朝食を買って,早々に旅館に戻りました。食事をして,そのあとは特にすることもなかったので,午後7時に寝てしまいました。

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松本城を出るとちょうどお昼だったので,近くのおそば屋さんで昼食をとりました。
次に向かったのが旧開智学校でした。
私は,松本城以外は行ったことがなかったけれど,ガイドブックなどで旧開智学校の建物がよく紹介されているので,どこなのかな,きれいな建物だな,行ってみたいな,と思っていました。
場所は,松本城から北に15分くらい歩いたところだったのですが,この日はとても蒸し暑く,それだけ歩くものけっこう大変でした。
  ・・・・・・
1876年(明治9年)に完成した旧開智学校は,地元の大工棟梁・立石清重が設計した学校建築で,擬洋風建築の代表です。文明開化の時代を象徴する洋風とも和風ともいえない不思議な建築は「擬洋風建築」とよばれています。
注目すべきは正面の車寄せで,この1点に擬洋風が凝縮されています。八角の太鼓楼と寺っぽいアーチの窓,青竜の上に雲がわきその上にふたりのエンジェルが「開智学校」の旗を掲げています。
  ・・・・・・
ところが,校舎は耐震工事のため休館中で,2024年秋以降の開館の予定,ということだったので,がっかりしました。縁がなかったのです。しかし,すでに外観の足場は撤去されていて外観を見ることはできたので,満足しました。思っていたより大きな建物でした。

松本市の見どころは,松本城と旧開智学校くらいのものだったので,これで松本駅まで戻ろうと思ったのですが,途中に,松本市立博物館があったので,寄ってみました。
  ・・・・・・
松本市立博物館は1906年(明治39年)に開館しました。その後,名称や所在地の変更を繰り返し,2023年(令和5年)10月に現在地に移転新築し開館しました。
  ・・・・・・
ということだったので,出来立てのすばらしい博物館でした。
約11万点を超える貴重な資料を収蔵しています,ということなのですが,特にすばらしかったのは,江戸時代後期の松本の城下町を再現したジオラマでした。これほど大きなジオラマはほかにありませんでした。

松本市は,こうした博物館や音楽祭など,文化に力をいれている都会だなあと感じました。
松本駅に戻るために街中を歩いていると,バックミュージックでブラームスの交響曲が流れているではないですか! そんな街,ほかに知りません。すてきでした。
駅に戻って,信濃大町へ行く列車が来るまで,しばしの間,氷を食べながら涼をとりました。
今回の旅の目的は立山黒部アルペンルートなのに,その前にすでにずいぶんと満足することができました。

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1日目。2024年9月5日木曜日。
台風10号の接近で日程が決まらないなど,さまざまなことがありましたが,ともかく,出発することができました。
台風が熱帯低気圧に変わり,通り過ぎたので,まさに台風一過。天気はまったく心配なく,晴れることは確実でした。それにしても,直前に日程の変更ができたということは,この時期に立山黒部アルペンルートを旅するならば,旅館の予約や交通チケットの購入は,慌てなくても1週間前に天気予報を知ってからでも大丈夫,ということになるわけでした。

午前8時名古屋駅発の「しなの」3号に乗り込みました。
このごろ,架線事故や地震や台風で東海道新幹線が不通になることがたびたびあり,中央線まわりのルートが見直されています。数日前にも,台風の接近で東海道新幹線が不通になったので,中央線の特急「しなの」も満員だったそうで,名古屋駅のホームがごった返していたそうですが,この日は東海道新幹線は平常運転をしていたので,中央線は閑散としているだろうと思っていたとおり,乗客も少なく,とても快適でした。
午前10時46分,松本駅に到着しました。
  ・・
今日の宿泊先は信濃大町駅に近い旅館なので,そのまま大糸線に乗り継いで信濃大町駅へ向かってもいいのですが,到着しても特にすることもないので,松本駅で途中下車して,夕方まで松本市の観光をすることにしました。
私が松本市に行ったのは今から50年以上も前のことですが,中学校の野外活動で八ヶ岳に行った折りに松本城に寄っただけで,それ以外の場所はまったく知りませんでした。そこで,今年2024年3月31日から4月2日まで,飯田線の「秘境駅」を巡り,そのあとで,木曽駒高原に旅をしたとき,木曽駒高原に行く途中で松本城を見ようと車で立ち寄ってみたのですが,あまりの混雑で,車を停める場所もなく,あきらめて素通りしました。そのとき,現在,松本市内はものすごい人だという印象が深く刻み込まれったので,もしこの日もそうだったらと心配だったのですが,松本駅前はがらがらで驚きました。

まず,駅にあった観光案内所へ行って,地図をもらいました。調べてみると,松本駅から松本城までは徒歩で15分程度だったので,歩くことにしました。
その間,道のいたるところで出迎えてくれたのが,小澤征爾さんの幟でした。
今年2024年2月6日に88歳で亡くなった指揮者の小澤征爾さんは,1992年から毎年夏に松本で「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」(Saito Kinen Festival=SKF),のち,2015年からは「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」(Seiji Ozawa Matsumoto Festival=, OMF)を行なっていました。それに感謝するものでした。幟には「ありがとう」と書かれてありました。ちょっと感動しました。泣けました。
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やがて,松本城に到着しました。私は,ボランティアガイドさんの説明があるといつも利用しているのですが,今回もそうしました。ガイドさんからは知らないことをたくさん教えてもらえます。
その一例として…。
松本城天守の屋根上には,数か所平たい瓦が敷かれています。「捨て瓦」といって,上の階の屋根から雪が凍ってすべり落ち,平瓦や丸瓦を痛めるのを防いでいるものですが,これは,昭和の大修理の時に採用されたものだそうです。

松本城は,昨年の大河ドラマ「どうする家康」で松重豊さんが演じた石川数正ゆかりの城です。
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松本城は戦国時代,武田家の支配下に置かれていましたが,のち,空白地帯になったのち,1590年(天正18年)に石川数正の領国となり,築城を開始,現在も存在する松本城ができたのは,子の石川康長の時代です。
江戸の初期,松本藩主は目まぐるしく入れ替わり,ようやく落ち着いたのは1642年(寛永19年),大坂冬の陣・夏の陣で戦功を上げた水野忠清が藩主となってからで,6代83年にわたって治政が続きました。しかし,6代藩主・水野忠恒(ただつね)が遊び好きの放蕩者で,さらには江戸城中で刃傷沙汰まで起こしたことにより,改易となってしまいました。
そのあとは戸田家が9代にわたり明治時代になるまで治めました。
1871年(明治4年)の廃藩置県で,松本藩は松本県になり,松本城の二の丸は県庁となりました。また,城郭の門が取り壊され,松本城の天守は当時の兵部省によって管理され,武器の接収などが行なわれました。その後,松本中学校が松本城の敷地内にあり,本丸庭園を学校の校庭として使用していた時期もあったそうですが,1930年(昭和5年)に国の史跡に指定され,これを契機に松本城を国が管理するようになりました。
1945年(昭和20年)太平洋戦争が終結したあとに松本城は公園化が進められ,現在の姿になりました。
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昨年2023年8月26日に「今後どこへ行きたいのか?」と題して「知らなかった黒部渓谷」を書きましたが,あれからもう1年過ぎたことが夢のようです。
私が黒部渓谷と思っていたのは,①立山黒部アルペンルートと②黒部渓谷のふたつの別の場所だったわけですが,②黒部渓谷はトロッコ列車を予約すればいつでも行けるだろうからと,まずは,難物のほうの①立山黒部アルペンルートに行ってみようと思いました。
  ・・
半年くらい前,なんとなく,立山駅のロープウエイ乗り場周辺に旅館を見つけたので,ここに宿泊すれば立山黒部アルペンルートは朝から行くことができるに違いないと,予約することにしました。しかし,8月終わりまではひとり客を受けつけておらず,9月1日以降なら大丈夫だったので,9月1日,2日の両日で予約を入れました。
しばらくはそれ以外のことはしないで,というか,調べもしないでいました。

1か月ほど前,行く日が近づいてきたので,そろそろ予定を立てようと行動を開始しました。ガイドブックを購入して調べてみると,私が行こうと思っていた立山黒部アルペンルートは,西の立山駅から東の扇沢駅までを1日がかりで横断するものだから,立山駅付近に2泊したところで意味がないことがわかりました。それよりも,扇沢駅付近に1泊して,早朝に出発し,立山駅に向かって行かなくてはならなかったのです。この期に及んでそんなことを知るとは愚かな話でした。
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そこで,慌てて9月1日の前日8月31日に扇沢駅の付近に宿泊しようと旅館を探しました。しかし,扇沢駅の付近には旅館がありません。結局,信濃大町駅近くに旅館があって予約できました。早朝,信濃大町駅前から扇沢駅までのバスがあって,扇沢駅から出発する電気バスの始発に間に合うのです。
そして,せっかく立山駅付近に2泊するのだから,9月2日はおまけと考えて,立山駅から立山黒部アルペンルートの途中の室堂まで行って戻ることにしました。
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次に,立山黒部アルペンルートを縦走するWebチケットがあることがわかったので,これを予約しました。このチケットは,扇沢駅から立山駅までをつなぐ,電気バス,ケーブルカー,ロープウェイ,トロリーバス,高原バス,ケーブルカーと,立山駅から富山駅までの富山地方鉄道のすべてが含まれています。
さらに,行き8月31日のJR中央線で名古屋駅から松本駅までの特急「しなの」と,帰り9月3日のJR高山線で富山駅から名古屋駅までの特急「ひだ」の指定席券も入手しました。
こうして準備も終わり,あとは出かけるだけとなりました。

ところが…。
8月下旬,台風10号が日本列島に近づいてきました。
はじめは,この調子なら私が旅行に出かけるときは,台風が過ぎ去った後の台風一過,ちょうどいい時期だなあ,と楽観していたのですが,何と,台風10号は太平洋上で停滞し,迷走をはじめました。そして,私が旅行に出かけるときになっても,過ぎ去るどころか,台風直撃に近い状態となってしまいました。
これには困りました。
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まず,予定を1日遅らせて日程を1日減らし,9月1日から9月3日までの2泊3日にしようと考えました。これなら簡単に予約の変更ができそうでした。ところが,日程を短縮しても,事態はかわらず,雨の中を旅するか,最悪の場合は,行くことができないか,あるいは,帰ってくることができないか,という心配が出てきました。
さんざん迷った挙句,旅館のキャンセル料が発生しない2日前の段階で,こうなったら日程をすべて変更し新たに9月5日から9月7日までにしようと思い立ちました。さっそく,旅館の予約ができるかどうかを調べてみたところ大丈夫だったので,急いで変更をしました。そして,JRの切符も立山黒部アルペンルートのWebチケットもすべて変更することができました。

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