しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:東北旅行LIVE > LIVE・2024秋

DSC_7899DSC_7902DSC_7903

【Summary】
I planned to return to Tokyo from Akita by the Akita Shinkansen to attend an NHK Symphony Orchestra concert. Due to heavy rain and strong winds, I changed my plan, leaving Akita earlier than expected. While waiting at Akita Station, I saw the departure of the "Resort Shirakami" train, a favorite from a past trip. On the way back, I rode the "Komachi" Shinkansen, which connects with the high-speed "Hayabusa" train at Morioka. Unexpectedly, fans were photographing the train, as it featured a special "Magical Journey Shinkansen" with Disney characters to celebrate the opening of "Fantasy Springs" at Tokyo DisneySea.

2024年10月19日土曜日。
すでに書いたように,この日の夜,東京のNHKホールでNHK交響楽団の定期公演を聴くために,秋田駅から秋田新幹線に乗って,夕方までに東京駅に戻ることにしていたので,午前中秋田市内を観光して,午前12時13分発の「こまち」の座席指定券を持っていました。秋田駅から東京駅までは約4時間です。
しかし,あいにく朝から雨。しかも強風だったことと,秋田市内には特に何もないことが昨日わかったので観光する気もなくなり,さらに,秋田新幹線が遅れたり,最悪止まったりしたら今回の最大の目的であるNHK交響楽団の定期公演を聴くことができなくなってしまえば何をしているのかわからないから,秋田新幹線の時間を変更して,早々に東京駅に行くことにして,秋田駅発午前9時12分の「こまち」に座席指定券を変更しました。

秋田駅もまた,秋田新幹線の開通によって駅舎がリニューアルされたようでした。
今回,秋田県を旅行したのは,これまでほとんど行ったことがなかったからです。では,秋田県に何があるのか? といえは,田沢湖,角館,なまはげ,秋田犬,秋田竿燈まつり,きりたんぽ,… などだと思うのですが,それらのモニュメントが駅のコンコースにありました。私は,秋田県に来てみて,むしろ,素朴で人が少ない温泉がたくさんあることを知って,好感をもちました。インバウンドも角館以外は無縁でした。次回があれば,そんな温泉でゆっくりしたいものだと思いました。
  ・・
私が「こまち」に乗るまで1時間程度待ち時間がありました。時刻表を見ると,午前8時19分発の「リゾートしらかみ」が出発するところだと知ったので,ホームで見送ることにしました。2023年の春,はじめて青森県を旅するまで,私は「リゾートしらかみ」を知りませんでした。そのときの旅で泊まった民宿でその名を知り,「リゾートしらかみ」に乗りたくなって,2024年3月,なんとかチケットを取ってウィスパ椿山駅から弘前駅まで「リゾートしらかみ」に乗りました。その「リゾートしらかみ」は秋田駅が始発なのです。機会があれば,また,乗ってみたいと思いました。

さて,「こまち」に乗る時間になりました。
これも以前書いたのですが,秋田新幹線というのは通称であって,実際は,秋田駅から盛岡駅までは在来線のレール幅を広げただけのものです。つまり
  ・・・・・・
大曲駅-秋田駅間は単線の1,067ミリメートルと単線の1,435ミリメートルの並列区間となり,1,067ミリメートルの軌道は奥羽本線の新庄駅と秋田駅を結ぶ在来線が走り,1,435ミリメートルの軌道は「こまち」が走ります(現在,新庄駅-院内駅間は2024年7月25日の大雨で不通になっています)。
ただし,奥羽本線の大曲駅-秋田駅の間にある神宮寺駅-峰吉川駅間は,並列区間のうちの一方の1,067ミリメートルの単線軌道にも1,435ミリメートルがくっついた3線軌道になっているので,秋田新幹線からみれば複線軌道となり,「こまち」のすれ違いができます。
  ・・・・・・
ということで,レールが3線軌道になっているのを見ることができたことだけが興味深いものでした。
秋田駅から盛岡駅までは,単にレール幅が広いだけなので,「こまち」は時速130キロメートルほどしか出せません。「こまち」は,盛岡駅で新青森駅からやって来た「はやぶさ」と接続した時点から時速320キロメートルに変身するのです。また,秋田新幹線は,秋田駅を出発して大曲駅までの奥羽本線区間は後ろ向きに走り,大曲駅で田沢湖線に入るので,大曲駅で線路がV字となり,進行方向を変えるのです。変な新幹線です。
要するに,秋田新幹線は,秋田駅から盛岡駅までは単にレール幅が広いだけの在来線特急で,在来線特急と同じで狭く,単に盛岡駅で乗り換えの手間がないというだけのものです。また,新幹線仕様の東北新幹線の駅では小さな「こまち」は,車体とホームの間に隙間ができるので,ステップが降ります。実際乗ってみて,秋田新幹線は何か意味ないなあ,と思いました。
  ・・
歴史的にみれば,秋田駅から大曲駅を経由して新庄駅,山形駅,福島駅と進むのが奥羽本線だから,この路線を秋田新幹線が走るほうが自然で,大曲駅で田沢湖線に入るのは奇手ですが,これは,現在,新庄駅-院内駅間が不通になっているように,この区間のインフラが貧弱で,トンネルも古く,線路も脆弱で,秋田新幹線を走らせる強度がないことから来ているのだそうです。そして,これを改善するには巨額な費用が必要であり,それに見合うだけの採算がとれないのです。
また,新幹線仕様の奥羽新幹線を走らせたい,という人もいるそうですが,これもまた,採算が取れず,さらに,現在の秋田新幹線と山形新幹線の存在もネックとなっているそうです。
いずれにしても,この区間にある横手市や湯沢市が気の毒です。走らないからさらに衰退する,ということになるからです。

「こまち」が「はやぶさ」と接続したのち,突然変身して,それまではチンタラチンタラと大曲駅,角館駅,田沢湖駅,雫石駅と停車していたのに,盛岡駅以降は,停車するのは仙台駅,大宮駅,上野駅,東京駅だけです。
これらの駅に停車すると,なぜか,ホームにカメラをもった鉄道ファンがたくさんいて,私の乗る列車を追いかけていて,大騒動でした。新幹線など珍しくもないのに,どうしてかな? と思ったのですが,東京駅で下車して,その理由がわかりました。それは,盛岡駅で「こまち」と接続した「はやぶさ」は
  ・・・・・・
-Magical Journey Shinkansenのご紹介-
東京ディズニーシーの新テーマポート「ファンタジースプリングス」を構成する3つのディズニー映画「アナと雪の女王」「塔の上のラプンツェル」「ピーター・パン」のキャラクターが描かれた「ファンタジースプリングス」のグランドオープンをお祝いする特別な車両。
魔法の泉が導くディズニーファンタジーの世界をテーマにした「ファンタジースプリングス」の雰囲気を感じてみよう!
  ・・・・・・
だったからです。

DSC_7895IMG_4660IMG_4656DSC_7915DSC_7912DSC_7918DSC_7927DSC_7939DSC_7941DSC_7942DSC_7944DSC_7963DSC_7967


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_7847DSC_7851

【Summary】
During the Sengoku period, the Akita region was governed by the Akita family, but after supporting the Western forces at the Battle of Sekigahara, they were relocated. The Satake family, including Satake Yoshinobu, moved to Akita in 1602 after being removed from Hitachi Province. They built Kubota Castle, establishing the Kubota Domain. Although reforms were attempted, debt issues persisted, reaching a peak in the late Edo period. By the end of the Edo period, Kubota Domain supported the new government, and the domain was later renamed Akita Prefecture after the abolition of feudal domains. The current governor, Norihisa Satake, is a descendant of the Satake family.

男鹿半島の中央部にあったなまはげの里を出て,秋田市に向かいました。
その途中,男鹿半島の南海岸を西に行くとゴジラ岩という奇妙な岩があるというので寄ってみました。2,3台停車していた道路脇に私も車を停めて,海岸の岩を見たのですが,どれがゴジラ岩なのかさっぱりわかりません。すでに来ていた人に聞いて,なんとかそれらしいものを見つけました。
ゴジラ岩といわれればそうかもしれませんが,以前行った壱岐島にあった猿岩のほうがずっと迫力があったなあ,と思いました。

そんなゴジラ岩を見てから,進路を東に変え,海岸に沿って走って,秋田市に向かいました。
次第に秋田市の市街地になってきました。私がこの日宿泊するのは秋田駅前の東横インでした。秋田市の見どころといっても特になく,久保田城くらいのものでしたが,ともかく,これまで来たことがなかったから,少しは期待しました。。
やがて,秋田駅に近づくと,東横インの手前に,私が今回借りたTimesレンタカーの営業所がありました。予定では,この日は東横インの有料の駐車場に車を停めて,明日の午前中秋田市内を観光してからレンタカーを返却することにしていたのですが,明日車でどこかに行くこともないようだったので,予定を変更して,このままレンタカーを返却することにしました。
ガソリンスタンドで給油をしてレンタカーを返却し,歩いて東横インに向かってチェックインをしたのち,再び,夕食をとるためにホテルを出ました。
その前に,久保田城跡に行きました。久保田城跡は,現在,千秋公園として整備され,市民の憩いの場となっています。また、この場所には,久保田城御隅櫓、御物頭御番所、如斯亭庭園、旧黒澤家住宅などの関連施設もありますが,ここには天守もなく,単なる公園となっていて,夜も自由に入ることができました。これで秋田市の観光は終了してしまいました。要するに,秋田市は何もないところでした。
久保田城跡からホテルに帰る途中,おそば屋さんを見つけたので入りました。「創業文政元年の弥助そば秋田総本店」でした。
  ・・・・・・
西馬音内(にしもない)そばは,弥助そば屋・初代当主である「弥助」によって秋田県西馬音内の2万石橋のたもとから地域へ広められました。名物冷がけそばは細いのにコシがあって歯切れがよく,そばがふわりと甘く香ります。
これまでは西馬音内へ行かなければ食すことが出来なかった元祖冷がけそばをご堪能いただけます。
  ・・・・・・
というのが紹介です。羽後町の西馬音内地区では古くから多くのそば屋が軒を連ね,町内外から「西馬音内そば」として広く親しまれていて,つなぎに布海苔を使ったコシの強い麺が主流で,冬でも冷たいつゆをかけて食べる「冷やがけ」が特徴。ということで,私も「冷やがけ」とてんぷらを注文しました。おいしいおそばでした。この夕食が秋田市内の最高の思い出となりました。

ところで,東北地方は,これまで私にはなじみがなかったのですが,このごろ旅をするようになって,これらの地の歴史に興味がわいてきました。そこで,今回は,秋田県の歴史です。
  ・・・・・・
戦国時代,秋田の地は秋田家が治めていましたが,関ヶ原の戦いで石田三成が率いる西軍に味方したことにより,常陸宍戸(ひたちししど=現在の茨城県笠間市平町)へ転封となりました。
常陸54万石の佐竹義宣(さたけよしのぶ)は豊臣秀吉や石田三成へ恩義を感じていたこともあり,関ヶ原の戦いでは中立の姿勢を取り,それが原因で家康に睨まれることとなり,1602年(慶長7年)に秋田の地へ減封のうえ国替えとなりました。それ以来,秋田の地は佐竹家がずっと治めることととなりました。
佐竹義宣は,窪田神明山(くぼたしんめいやま)に新しい城郭と城下町を建設することを決定し,久保田城を完成させて居城としました。久保田藩の名称の由来は、居城の地名にあると考えられています。
2代藩主・佐竹義隆の後期になると,藩財政の雲行きが怪しくなり,3代藩主・佐竹義処(さたけよしずみ)が家督を継ぐころには,それまでの貯蓄を食いつぶすようになり,藩政改革を実行するものの,1690年(元禄3年)には16万両という巨額の借金を抱えることになってしまいました。
その後も秋田藩では抜本的な改革が行なわれないまま時が過ぎ,9代藩主・佐竹義和(さたけよしまさ)の代でようやく大規模な改革が実施されたことで一時は好転したものの,幕府による普請役や出兵の要請で出費がかさんだことに加えて,大飢饉が起こったことで再び暗転し,財政難に苦しめられたまま幕末期になりました。
江戸時代が終焉を迎えると,平田篤胤(ひらたあつたね)の出身地でもあることから尊王攘夷思想が拡大し,久保田藩最後の藩主である12代藩主・佐竹義堯(さたけよしたか)は藩論を尊王派に統一して新政府側に与する方向へと舵を切りました。
こうして明治まで久保田藩を護り抜いた佐竹義堯は久保田藩知事となり,久保田藩は秋田藩へと改称したのち,廃藩置県によって秋田県となりました。なお,現在の知事も,佐竹家の分家の出である佐竹敬久さんです。
  ・・・・・・

DSC_7845DSC_7857DSC_7860 DSC_7881 DSC_7868DSC_7871DSC_7875DSC_7880 IMG_4633 DSC_7892 IMG_4632 IMG_4629 DSC_7864 IMG_4634


◇◇◇


◇◇◇
The Dodgers are WorldSeries champions. 🎉

IMG_5500GbMoUJdWsAA6uPe


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_7837DSC_7839

【Summary】
The Namahage Museum and the Oga Shinzan Folklore Museum on the Oga Peninsula in Akita Prefecture introduce the 200-year-old tradition of Namahage to visitors. Namahage is a visiting deity that admonishes laziness and wards off misfortune. Inside the museum, masks from various villages are on display, and the folklore museum offers live performances, providing an engaging way to experience this unique culture and history.

男鹿半島の中央部に,なまはげ館とそれに併設された男鹿真山伝承館がありました。私は秋田といえばなまはげ,ということは知っていましたが,なまはげが男鹿半島の行事だということまでは知りませんでした。
せっかく来たからということで,行ってみました。ほとんど観光客を見なかった男鹿半島でしたが,着いてみると,ここには多くの観光客が来ていて,これまでほとんど人を見なかったから,彼らはどこから湧き出たのだろう? と不思議でした。

  ・・・・・・
なまはげは,200年以上の歴史を有する男鹿半島周辺で行われてきた年中行事です。
冬に囲炉裏にあたっていると,手足にナモミ,アマとよばれる低温火傷ができることがあります。それを剥いで怠け者を懲らしめ,災いをはらい祝福を与えるという意味でのナモミ剥ぎからなまはげ,アマハゲ,アマメハギ,ナモミハギなどとよばれるようになったといいます。
なまはげというのは,怠惰や不和などの悪事を諌め,災いを祓いにやってくる来訪神で,丹色に塗った木の皮や木製の面をつけ,ケデ(またはケンデ,ケダシ)と称する藁衣装を着ます。
かつては小正月の行事でしたが,現在は大晦日の晩に,大きな出刃包丁(あるいは鉈)を持ったたなまはげに扮した村人が家々を訪れ,「泣ぐ子(ゴ)は居ねがー」「悪い子(ゴ)は居ねがー」と奇声を発しながら練り歩き,家に入って怠け者や子供,初嫁を探して暴れます。家人は正装をして丁重にこれを出迎え,主人が1年の家族のしでかした日常の悪事を釈明するなどしたのちに酒などをふるまって送り帰します。
  ・・・・・・
かつては男鹿半島のほとんどの集落でなまはげが行われていましたが,少子高齢化の影響で現在はほぼ半減しているといいます。

そうしたなまはげの行事を,観光用に体験できる施設がなまはげ館と男鹿真山伝承館です。
なまはげ館は,なまはげをテーマに地域の歴史や風土を紹介している施設で,なまはげの展示コーナーには各集落で実際に使われていたものなど150枚を超えるの多種多様な面が勢ぞろいし,伝承ホールでは,男鹿の大晦日のナマハゲ習俗を紹介する映画「なまはげの一夜」が上映されています。
男鹿真山伝承館では,なまはげの実演が見られました。これはなかなかおもしろいもので,期待以上でした。

DSC_7775DSC_7779DSC_7780 IMG_4628 DSC_7841 DSC_7834 DSC_7781DSC_7788DSC_7789DSC_7792DSC_7798DSC_7806DSC_7832DSC_7843


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_4621DSC_7744

【Summary】
When I was a child, I found it strange and regrettable that a large lake in Akita Prefecture was being reclaimed. I longed to visit it, and after nearly 60 years, I finally did. Hachirogata Reclamation began in 1952 as a large-scale mechanized farming project. After exploring Ogata Village and the Oga Peninsula, I was intrigued by Sugaya Masumi, a late-Edo period traveler from Aichi Prefecture, who extensively documented Japan's northern regions in his journeys.

子供のころに地図帳を見て,秋田県に大きな湖があるのに,どうしててそれをつぶしてしまうのかが不思議でした。また,残念に思いました。そして,一度行ってみたいと思っていたのですが,60年近くたって,ようやくそれが実現しました。
  ・・・・・・
第2次世界大戦後,西側諸国との講和条約に際して,日本が最も腐心したのはオランダへの対応でした。オランダの日本に対する国民感情は悪く,賠償の代わりに技術援助に応じるなら講和会議に参加するという条件から,それを受けるプロジェクトとして,八郎潟干拓が選ばれたのでした。
1952年(昭和27年)に八郎潟の干拓ははじまりました。1戸数ヘクタール(約5ヘクタールがプロ野球のグランド程度)の大区画農場を造り,アメリカのような,ヘリコプターによる直播や大型コンバインを利用した大規模な機械化農業をしようという計画でした。八郎潟は,東西12キロメートル,南北27キロメートル,水深は3メートルから5メートルですが,湖底のほとんどはヘドロが堆積した超軟弱地盤でした。
難工事のすえ,ついに7年後に干陸式を迎え,新村は大潟村と名づけられました。干拓事業が終了したのは,工事開始から25年後の1977年(昭和52年)でした。
6世帯14人という日本一小さい村からスタートした大潟村は,現在では約1,000世帯,人口約3,300人の村へと成長しました。
  ・・・・・・

風力発電用の風車がならぶ大潟村を越えると男鹿半島に着きました。その先端が入道崎でした。岬は私が想像していた断崖のようなところとは違って,広い平地でした。みやげ物屋や食堂が並んでいて,その1軒で昼食をとりました。そのあと,灯台に上り,雄大な景色を楽しみました。
男鹿半島は思ったよりも広く,美しかったのですが,半島に沿って海岸線を走るだけでは,中央部に行くことができず,どうするものかと思いました。男鹿半島といえばなまはげ,ということで,男鹿半島の中央部になまはげ館というものがあったので,海岸線に沿って走るのはあきらめて,行ってみることにしました。その途中にあったのが八望台という展望台でした。
八望台には,木製の大きな展望デッキが整備されていました。登ってみると,火山活動に伴う水蒸気やガス爆発によってできる爆裂火山湖の一ノ目潟,二ノ目潟を眼下に見下ろすことができるほか,日本海や男鹿半島のシンボルである寒風山まで見渡すことができる場所でした。日本海に沈む夕日を眺めることができるサンセットスポットとしても知られるそうです。

ところで,秋田県に来ると,しばしば,菅江真澄(すがえ ますみ)という名前に出会います。私は,その人をまったく知らず,誰だ,その人? と思いました。調べてみると
  ・・・・・・
菅江真澄は,1754年(宝暦4年)に生まれ,1829年(文政12年)に亡くなった江戸時代後期の旅行家です。本名は白井秀雄。
愛知県の岡崎,あるいは豊橋生まれで,少年期に岡崎城下の成就院の稚児となり,1783年(天明3年)郷里を旅立ち,信濃・越後を経て出羽・陸奥・蝦夷地など日本の北辺を旅しました。
1801年(享和元年)に秋田藩(久保田藩)に移り,角館で客死しました。
  ・・・・・・
ということでした。まさか愛知県の生まれとは…。

DSC_7735IMG_4615DSC_7736DSC_7748IMG_4623DSC_7754DSC_7758DSC_7762DSC_7763IMG_4625


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_7704DSC_7707

【Summary】
In October 2024, during a 4-day trip, I enjoyed favorable weather except for rain in Akita City on October 19. I stayed at the comfortable Hotel Grand Tenku, relaxed in the early morning onsen, and visited Tazawa Lake, Japan's deepest lake, where I saw the famous Tatsuko statue. Legend tells of Tatsuko, who transformed into a dragon and became the lake's guardian. I then visited Hachirogata, once Japan's second-largest lake, now mostly reclaimed land, and continued to the Oga Peninsula, reaching its tip at Cape Nyūdō.

2024年10月18日金曜日。
この日はすばらしい天気でした。2024年,この年は非常に天気がおかしくて,いつまでも暑いし,秋だというのに雨が多く,また,蒸し暑いのです。しかし,北海道ではすでに雪が降るとか降ったとか…。そんななかで,10月17日から10月20日まで3泊4日で旅をしたのですが,結果的に,10月19日に秋田市で雨になった以外は,巧みに天気の悪い場所を避けて旅をしたようです。
私が宿泊した「ホテルグランド天空」は居心地がよく,早朝もまた,だれもいない温泉にのんびりと浸かり,至福の時間を楽しみました。そして,朝食をとりました。また泊まってみたいところでした。
チェックアウトして,乳頭温泉まで行ってみたのですが,駐車場には多くの車が停まっていて,いくら有名な温泉でも,混んでいるのはいやだな,と思いました。

山を下り,田沢湖畔まで来ました。この日は,男鹿半島をまわって,秋田市まで行くことにしていました。田沢湖は遊覧船があるようでしたが,時間がなく,乗るのはあきらめました。
  ・・・・・・
淡水湖である田沢湖は,日本で最も深い湖で,日本で19番目に広い湖沼です。円形で直径は約6キロメートル,最大深度は423.4メートルと日本第1位,世界では17番目に深い湖です。流入河川は小規模な沢しかないので,湖底の湧水が湖を作っていると考えられています。田沢湖は冬も凍りません。
田沢湖の名前の由来は,「田沢村の潟」,アイヌ語で「盛り上がった円頂の丘」を意味するタプコプが変化した説などがあります。
  ・・・・・・

私が見たかったのは,有名な辰子像でした。
  ・・・・・・
田沢湖のほとり神成村に辰子という名の娘が暮らしていました。辰子は類いまれな美しい娘でしたが,その美貌に自ら気づいた日を境に,いつの日か衰えていくであろうその若さと美しさを何とか保ちたいと願うようになり,その願いを胸に,村の背後の院内岳にある大蔵観音に,百夜の願掛けをしました。必死の願いに観音が応え,山深い泉の在処を辰子に示しました。
辰子は,そのお告げの泉の水を飲みましたが,急に激しい喉の渇きを覚え,狂奔する辰子の姿は龍へと変化していきました。自分の身に起こった報いを悟った辰子は田沢湖に身を沈め,そこの主として暮らすようになりました。
  ・・
一方,海沿いに八郎潟という湖がありました。ここには,人間から龍へと姿を変えられた八郎太郎という龍が住んでいました。八郎太郎は,いつしか田沢湖の主・辰子にひかれ,辰子もその想いを受け容れ,八郎太郎は辰子と共に田沢湖に暮らすようになりました。
主のいなくなった八郎潟は年を追うごとに浅くなり,主の増えた田沢湖は逆に冬も凍ることなくますます深くなっていきました。
  ・・・・・・
田沢湖を,そして,辰子像を見た私は,このあと,八郎潟に向かいました。
  ・・・・・・
八郎潟は,かつては面積220平方キロメートルと,日本の湖沼面積では琵琶湖に次ぐ第2位でしたが,大部分の水域が干拓によって陸地化され,陸地部分が大潟村になりました。
その先にあるのが男鹿半島で,その先端が入道崎でした。

IMG_4597DSC_7709DSC_7711DSC_7713DSC_7714DSC_7716DSC_7720DSC_7725DSC_7730DSC_7733


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_4594IMG_4603

【Summary】
I visited Tazawako Kogen Onsen's "Hotel Grand Tenku" instead of Nyuto Onsen, known for its picturesque hot springs. Despite missing the comet photo opportunity, I enjoyed the stunning views, excellent food, and the luxury of a quiet, 24-hour accessible onsen with few guests. It was an ideal and satisfying trip.

角館から北北東に行くと,田沢湖があります。また,田沢湖から北東,岩手県との県境にそびえるのが烏帽子岳ですが,烏帽子岳を通称乳頭山といいます。そして,その麓にあるのが有名な乳頭温泉です。乳頭温泉は,「鶴の湯温泉」から最奥の「黒湯温泉」の6軒の1軒宿と「休暇村乳頭温泉郷」の7つの宿で構成されていて,さらに,山道には「一本松温泉」という,かつての温泉場跡地の野湯も存在します。雑誌「じゃらん」の「あこがれ温泉地ランキング」では,雪景色の中で最高の雰囲気が味わえるということで,2年連続1位に輝いた秘湯ファンの聖地だそうです。その魅力は,ブナの原生林のなかにある風情あるレトロな湯治場。
私は,乳頭温泉という名前は知っていたのですが,それがどこにあるかは知らず,ああ,ここなのか,と思いました。そして,そこに宿泊しようと思ったのですが,今回は様子見だからと妥協して,その手前にある田沢湖高原温泉郷の「ホテルグランド天空」を予約しました。

とはいえ,田沢湖を背後に,車はすごい山の中を登っていきました。
その途中に展望台があったので,田沢湖の景色を見ようと車を停めました。すばらしい景色でした。田沢湖向こうとおくには秋田県と山形県の県境にある鳥海山も見えました。カメラを空に向けている人がいました。聞いてみると,紫金山・アトラス彗星を撮ろうとしているということでした。私は,紫金山・アトラス彗星はちょっと方角が違って,山に隠れてしまうし,そのあたりは雲が出ているからちょっと無理じゃないの? と思ったけれど,楽しんでいる様子だったので,そのまま引き上げました。とはいえ,私も,もし条件がよければ紫金山・アトラス彗星の写真を撮ることができるように,今回は三脚を持参していたのですが,徒労に終わりました。

「ホテルグランド天空」に着きました。
思っていたよりずっとすばらしいホテルでした。食事も温泉も最高でした。さらによかったのは,宿泊客が少なく,温泉はひとり占め,また,温泉は24時間いつでも入ることができることでした。さらに,窓からの景色もすばらしいものでした。
私には,こうした宿泊先が理想なのです。いい旅になりました。

DSC_7647DSC_7650DSC_7657IMG_4564IMG_4566IMG_4569IMG_4581IMG_4588IMG_4572


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_7609DSC_7637

【Summary】
Kakunodate, now part of Semboku City, retains its Edo-period samurai town atmosphere, with preserved buildings and structures. The Ishiguro and Aoyagi residences are open for public viewing. Aoyagi's estate is notable for its historical exhibits, including illustrations by Odano Naotake. Although preservation began in the 1960s, balancing tourism and maintaining a tranquil atmosphere remains a challenge.I prefer smaller, quieter samurai residences like those in Kaminoyama (Aomori) or Aki (Kochi) over popular tourist destinations.

大曲から北北東に走って,角館に着きました。角館町(かくのだてまち)は,2005年(平成17年)に田沢湖町,西木村と合併したので,現在は仙北市の一部ですが,現在も仙北市角館町として地名はそのまま残っています。
  ・・・・・・
角館は,1620年(元和元年)にこの地を領していた芦名義勝(あしなよしひろ)によって造られた町で,1656年(明暦2年)に芦名家が残絶したのちは佐竹北家に受け継がれ,秋田藩(久保田藩ともよばれる)の所領として城下町が形成されました。
  ・・・・・・
災害がなかったことで,現在も江戸時代末期時の屋敷割や,母屋・門・蔵の屋敷構え,枡形など武家町の特性が残されているので,まるで江戸時代に舞い戻ったかのような雰囲気があります。

町のはずれに広い駐車場があったので,そこに車を停めて,町を散策することにしました。
今から45年ほど前に東北地方を1周したことがあります。そのときに,田沢湖と角館には行ったように記憶していたのですが,今回行ってみて,どうやらそれは私の勘違いのようでした。私は,角館にははじめて来たのでした。
江戸時代のまま残されているとはいえ,町の中の道路は舗装され車も通ることができるし,やはり,こうした観光地は,インバウンドで多くの外国人が来ているので,がっかりしました。とはいえ,広い道路は,拡張したわけではなく,江戸時代のままの広さということでした。町の中は車の通行を禁止すればいいのに,と思いました。

武家屋敷の中に,3か所ほど,内部が公開されているものがあったので,私はそのうちの2つ,石黒家と青柳家を見学しました。
石黒家は,佐竹北家の佐竹義隣に召抱えられた石黒勘左衛門直起を初代としています。家格は家老格の小野崎家(200石)に次ぐ150石取りで,財政を担当する用人として佐竹北家に仕えました。
8代石黒直信は,幕末から明治初めにかけて家塾「紅翠亭」を開き学問の普及に尽力した人物で,9代石黒直幹は晩年には角館町長を務め,10代石黒直豊は角館図書館の初代館長を務めました。
さらに,12代石黒直次は最後の角館町長を務め,合併後は仙北市の初代市長となりました。現在もこの武家屋敷に子孫が暮らしています。
  ・・
格式高い薬医門で知られる青柳家は,角館に現存する武家屋敷のなかで最古の建物で,茅葺きの母屋の座敷に入って建物を主体に内部を見学できました。
 四季折々の草花あふれる3,000坪の敷地内には,母屋,武器庫,解体新書記念館,秋田郷土館,武家道具館,アンティークギャラリー喫茶・ハイカラ館,幕末写真館,時代体験庵などがありました。
私が特に興味をもったのは,青柳家と姻戚関係である小田野直武が描いた「解体新書」の挿絵でしたした。西洋の陰影法を取り入れ,後の洋画界に大きな影響を与えた秋田蘭画は,小田野直武と秋田藩主・佐竹義敦によって完成されたということです。

角館で保存の動きがはじまったのは昭和40年代のことで,重要伝統的建造物群保存地区として選定されたのですが,保存には多くの困難も伴うと想像できます。観光客が来てくれないと維持もできないのですが,観光客多くなると,落ち着いた雰囲気もなくなってしまうので,それはそれで問題です。
こうした観光地もいいですが,私は,これまでに訪れた中で,青森県の上山や高知県の安芸などに残る小規模な武家屋敷のほうが,何もないけれど,落ち着きます。

DSC_7596DSC_7597DSC_7600DSC_7606 DSC_7633 DSC_7634DSC_7611DSC_7613DSC_7618DSC_7616DSC_7615


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_7552DSC_7578DSC_7563

【Summary】
Last year's Ryuo title match was planned at the Former Hongo Residence in Daisen, but after Fujii won 4-0, the event was canceled. The site, which hosted a special Ryuo exhibition, remained open until the end of 2023, showcasing historical architecture and memorabilia.

大曲といえば花火なのですが,私の記憶では,昨年2023年の将棋のタイトル戦が行われた場所でした。大曲駅の観光案内所で聞いてみると,それは,大曲駅から南に位置する旧本郷家住宅ということだったので,行ってみることにしました。しかし,私のおぼろげな記憶では,この場所は,もともとは非公開だったものが,将棋のタイトル戦がおこなわれた(る?)場所だということで有名になり,観光客が押し寄せるようになったことから,当分の間は公開することになったとかいう話でした。
今も公開しているのかな? と思ったのですが,ともかく行ってみました。というか,竜王戦で話題になったときは,まさかここに行くことになるとは夢にも思いませんでした。

私の記憶がいいかげんだったことが行ってみてわかりました。旧本郷家住宅は,実は
  ・・・・・・
-幻となった竜王戦七番勝負第6局-
藤井聡太竜王が見事4連勝で竜王戦3連覇を達成したため,2023年12月6日から7日(木)に開催予定だった第36期竜王戦七番勝負第6局は幻に終わりました。幻となった第36期竜王戦七番勝負第6局の会場・旧本郷家住宅では,(2023年)11月12日(日)までの日程で「竜王戦特別展inだいせん」を開催していましたが,竜王戦がなくなってしまったために年末まで開催を延長しています。
旧本郷家住宅は,秋田県内有数の地主として知られる名家です。敷地内には,江戸末期から昭和初期にかけて建てられた歴史的な建築物を眺めることができます。
建物内に入ってみると,広々とした土間玄関があり,奥にある内蔵や隣接する洋館へと続いています。 歴史と伝統を感じさせる座敷は日本建築の美が色濃く表れています。壁にはいくつもの書が掲げられていて,なかには伊藤博文公の書もあります。
さらに奥に進むと竜王戦の会場があります。将棋盤が用意されていて,実際に座ることができます。しかも駒を動かしても大丈夫なので,ぜひ雰囲気を味わってみてください。
  ・・・・・・
ということで,ここは,実際は竜王戦が行われたわけではなかったのです。藤井聡太竜王は,タイトル防衛後にこの地を訪れて,祝福をうけたことで,ニュースになったのでした。
私も対局場になるはずだった広間に入って,盤の前に座って,写真を撮ってもらいました。なお,盤と駒は,当然,実際に使われるはずのものではありません。
このときは「年内は公開」とあったので,2023年いっぱいは公開していたということになるのですが,今もまだ公開しています。まあ,花火以外に大した見どころもない町なので,これもまたウリのひとつとなるからでしょうか。また,第1局の封じ手の実物が譲り受けられてここに展示されていました。

今年2024年の竜王戦は現在第3局が京都の仁和寺で行われていますが,昨年2023年の竜王戦も第2局が京都の仁和寺で行われ,私は,その前夜祭に参加しました。また,昨年12月には仁和寺にも行って,実際に対局が行われた場所も見ることができました。
これもまた,それを見ようと思って行ったわけでもなかったのですが,なにか不思議な縁を感じました。

DSC_7564 DSC_7575 DSC_7572 DSC_7565DSC_7566DSC_7569DSC_7584DSC_7588

◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_7523IMG_4551DSC_7551

【Summary】
After arriving at Akita Airport, I headed to the rental car counter and was shuttled to a nearby branch. I rented a car from Times and planned to return it at Akita Station on October 19. My first stop was Daisen City, formerly known as Omagari, famous for fireworks. I visited the Fireworks Heritage Museum, where I learned about the history and culture of fireworks, and also saw a photo of Ryuo Fujii Sota's visit.

高知空港に到着して,空港内のレンタカーカウンタに向かいました。秋田空港近くの営業所まで送迎があって,営業所で手続きを済ませました。今回は,Timesレンタカーを借りますが,10月17日に秋田空港で借りて,10月19日の午前秋田駅前で乗り捨てることになります。
来るまで,というよりも,この時点でも,どこを走るか決めかねていました。ただし,宿泊先だけは,1日目が乳頭温泉の麓,2日目が秋田駅前に予約してあったので,制約はありました。距離感がないので,どのくらいのところに行くことができるかわかりませんが,結局,地図で確かめて,反時計回りに1周することにしました。

まず向かうのは,秋田空港から南東へ,花火で有名な大曲と決めました。地図を見ても,大曲という地名がなかなかみつかりませんが,それは,2005年(平成17年)に周辺の町村と合併して,大曲市はなくなり,大仙市となったからです。秋田空港からしばらく走ると,まるでアメリカの田舎道をはしっているようなのどかな感じになりました。天気も幸いして,最高の気分でした。
時刻はちょうどお昼だったので,道の駅をみつけて,昼食をとりました。お昼だというのに,レストランは空いていました。のどかなところです。
c昼食を終えて,まず,大曲駅に着きました。駅前に大きな花火のモニュメントがありました。観光案内所があったので,地図をもらいました。大曲の見どころは,大曲駅から花火通り商店街を南に5分ほど走ったところにある花火伝統文化継承資料館ということでした。実は,私が行きたかったのは,それ以外に,確か,昨年の竜王戦が行われた古民家でした。聞いてみると,それは,旧本郷家住宅という場所で,今でも公開されているということでした。

まず,花火伝統文化継承資料館に着きました。建物の3階と4階が展示室でした。
  ・・・・・・
花火伝統文化継承資料館「はなび・アム」は,花火を知り,学び,体験できる施設として,2,018年(平成30年)にオープンしました。
花火の歴史や製造方法,鑑賞の仕方を学ぶことができる常設展示のほか,市民グループ「花火伝統文化継承プロジェクト」と協働で収集・保存している花火に関する資料を企画展示しています。
また,高精細な花火映像を4面マルチスクリーンに映写する「はなびシアター」,自分がデザインした花火をスクリーンで打ち上げ体験できる「はなび創作工房」,影絵作家・藤城清治氏の作品「大曲の花火」(レプリカ)など「花火のまち大仙市」でいつでも花火を体験できる施設です。
  ・・・・・・
ということで,大曲といえば花火だから,こうした施設がなくてはじまりません。
藤井聡太竜王名人が訪れたときの写真がありました。

IMG_4547IMG_4543IMG_4544DSC_7526DSC_7527DSC_7531DSC_7535DSC_7538DSC_7543DSC_7539


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

秋田DSC_7489

【Summary】
As I wrote before, on Saturday, October 19, 2024, I attended an NHK Symphony Orchestra concert in Tokyo. Since October is an ideal time for travel, I decided to visit Akita Prefecture, a place I had never fully explored. I flew from Chubu Centrair Airport to Akita, despite the inconvenience. Upon reflection, I realized it would have been more convenient to fly from Nagoya Airport to Hanamaki Airport via FDA.

すでに書いたように,2024年10月19日土曜日,東京渋谷のNHKホールでNHK交響楽団定期公演を聴きました。10月は1年で最も気候がよく,旅に最適な時期なので,これを利用して旅をすることにしました。このところ,青森県,岩手県,宮城県,山形県,福島県は旅をしたのですが,秋田県だけが抜けていました。これまでも,学生のころ,確か,田沢湖と角館だけは行ったことがあるような記憶なのですが,それ以外の場所は知りません。そこで,今回は,秋田県を旅することにしました。
私が秋田県に縁がなかったのは,行くのが不便だからでした。FDAも秋田空港へはアクセスしていません。調べてみると,県営名古屋空港ではなく,セントレア・中部国際空港からからオリエンタルエアブリッジ(ORIENTAL AIR BRIDGE CO., LTD=ORC)という航空会社が秋田空港へ午前9時25分と午後3時45分の1日2便運航していることがわかったので,これを利用することにしました。海外へ行くわけでもないのに,セントレアは遠く不便ですが仕方がありません。
  ・・・・・・
オリエンタルエアブリッジは長崎の航空会社で,長崎空港,福岡空港,中部国際空港を拠点とします。
全便がANAとのコードシェア便です。
  ・・・・・・

2024年10月17日木曜日。
ひさしぶりにセントレアに来ました。いい天気でした。なのに…
秋田空港が霧で着陸ができないかもしれない,という標示が出ました。どうなるか聞いてみると,そのときは戻ってくる,という話でした。その後は,再び出発するか,羽田空港へ行って,そこから行くか,状況次第と言われました。まあ,急ぐ旅でもないし,それはそれでいいや,と思いました。
私はこれまで,こんなことはいくらでも経験しています。
とはいえ,朝霧で着陸ができないのなら,私が秋田空港に到着するころには霧も晴れるから問題ないだろう,と思いました。朝霧は天気のよくなる証拠です。
また,午前9時25分発だったのですが,機材の到着が遅れたために,出発が10分遅れるということでした。
機材はカナダ製のプロベラ機DHC-8-Q400で,はじめて乗りました。満席でした。これまで,いろいろなプロペラ機に乗ったことがありますが,この機体は狭いなあ,と思いました。機体にはANAとあって,要するに,ANAウイングス機材を使って,ORCの乗務員が運行しているということでした。乗務員の感じはとてもよく,好印象をもちました。五島列島に運行しているということなので,将来乗ることもあるかもしれません。なお,私はこれまで数多くの航空会社の航空便を利用していますが,独断と偏見でいうと,LCCはピーチ航空と JetStar は,いくら安かろうと,たとえお金をもらっても乗りたくありません。

ともあれ,定刻より10分遅れて午前9時35分に離陸しました。飛行時間は1時間20分。プロペラ機だから遅いのです。遠くに富士山が見えました。1時間ほどすぎると,眼下に変わった形の山が見えました。山形県との県境にある鳥海山ということでした。
  ・・・・・・
鳥海山は、標高2,236メートルの活火山です。多くの噴火によって畏れられ,古くから山岳信仰の対象となり,中世後期以来,修験道の修行場となり,鳥海山大権現,本地は薬師如来として崇拝されました。
  ・・・・・・
心配は杞憂に終わり,朝霧も晴れて,無事,秋田空港に着陸。なまはげが迎えてくれました。

以前,おいしい山形空港からレンタカーで秋田県を旅してみたいと書きましたが,今回,セントレアから秋田空港まで利用してわかったことは,秋田県へ行くには,秋田空港へ行かずとも,県営名古屋空港からFDAで花巻空港へ行くほうがずっと便利だということでした。

DSC_7492DSC_7493DSC_7494DSC_7496DSC_7500DSC_7507DSC_7515DSC_7517DSC_7518


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

このページのトップヘ